湯島詣 泉鏡花 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)御馳走《ごちそう》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)篠塚|某《なにがし》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)睜 /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)しっかりやれ/\ ------------------------------------------------------- [#ページの左右中央] [#ここから3字下げ] 紅茶会  三両二分  通う神  紀の国屋 段階子  手鞠の友  湯帰り  描ける幻 朝参詣  言語道断  下かた  狂犬源兵衛 半札の円輔  犬張子  胸騒  鶯 白木の箱  灰神楽  星 [#ここで字下げ終わり] [#改丁] [#5字下げ]紅茶会[#「紅茶会」は大見出し] [#7字下げ]一[#「一」は中見出し] 「紅茶の御馳走《ごちそう》だ、君、寄宿舎の中だから何にもない、砂糖は各々《めいめい》適宜に入れることにしよう。さあ、神月《こうづき》。」  三人の紅茶を一個々々《ひとつひとつ》硝子杯《コップ》に煎《せん》じ出した時、柳沢時一郎はそのすっきりと脊《せい》の高い、緊《しま》った制服の姿を籐《とう》の椅子《いす》の大きなのに、無造作に落していった。  渠《かれ》は腕袋《カウス》の美しい片肱《かたひじ》を椅子の縁に掛けて、悠然とぶら下げながら、 「篠塚《しのづか》、その砂糖をお客様に出して上げろ。」 「おい、」と心安げに答えたのは和尚天窓《おしょうあたま》で、背広を着た柔和な仁体《じんてい》、篠塚|某《なにがし》という哲学家。一脚の卓子《テイブル》を囲んで、柳沢と差向いに同じ椅子に掛けていたが、体《たい》を捻《ひね》って、背後《うしろ》へ手を伸《のば》すと雑書を納《い》れた本箱の上から、一瓶の角砂糖を取って、これを二人の間に居る一|人《にん》の美少年の前に置いた。 「取って頂くよ。」と優《おとな》しく会釈する、これが神月と呼ばれた客で、名を梓《あずさ》という同窓の文学士、いずれも歴々の人物である。  梓は柳沢が煎じてくれた紅茶の、薄紅色《うすべにいろ》の透取《すきとお》る硝子杯《コップ》の小さいのを取って前に引いたが、いま一人哲学者と肩を竝《なら》べて、手織の綿入に小倉《こくら》の袴《はかま》、紬《つむぎ》の羽織を脱いだのを、紐《ひも》長く椅子の背後《うしろ》に、裏を翻《かえ》して引懸《ひっか》けて、片手を袴に入れて、粛然として読書する薄髯《うすひげ》のあるのを見て、 「何を読んでるんです、」と少しく腰を浮かして、差覗《さしのぞ》いて聞いた。 「僕、」と応じはしたけれども、急に顔を上げたので誰に返事をするのであるか、自分にも分らないで迂路々々《うろうろ》するのを柳沢は気軽に引取って、 「若狭《わかさ》が読んでるのは歴史だよ、国史専修の先生だもの、しばらくの間も研究を怠らない。」 「御勉強です、」といって神月が点首《うなず》くと、和尚は、にやにやと笑いながら、その読んでる書を横目で見た。柳沢は吹出して、 「真面目な挨拶《あいさつ》をする奴《やつ》があるものか、歴史は歴史だが大変なもんです。無名氏著、岩見武勇伝だから可《い》いじゃあないか。」 「酷《ひど》く研究をしております、」と哲学者は仰いで飲む。これが聞えたものらしい。若狭は読みながら莞爾《かんじ》とした。 「また何ぞの材料にならないとも限らないだろう。」と梓はその硝子杯を手にした。  柳沢は斜《ななめ》に卓子《テイブル》に凭《もた》れて、小刀《ナイフ》の柄で紅茶に和した角砂糖を突《つつ》きながら、 「そりゃある、その材料のあることはちょうど何だ、篠塚が小まさの浄瑠璃の中から哲理を発見するようなもんだ。」 「馬鹿をいえ。」  梓は傍《かたわら》より、 「しかし君も鳥屋の女《むすめ》の言は、時に詩調を帯びると、そういった事があるよ。」  底意なき人達は三人一堂に笑った。 「賑《にぎや》かだね、柳沢、」と窓の下の園生《そのう》から声を懸けたものがある。 [#7字下げ]二[#「二」は中見出し]  一番窓に近い柳沢は、乱暴に胸を反《そら》して振向いたが、硝子越《がらすごし》に下を覗《のぞ》いて見て、 「竜田《たつた》か。」 「誰か来ているかい。」 「根岸の新華族だ、入れ。」と云って座に直る。  同時に、ひよいと[#「ひよいと」はママ]窓の縁に手が懸《かか》った、飛附いて、その以前、器械体操で馴《な》らしたか、身の軽さ、肩を揺り上げて室の中に、まずその瀟洒《しょうしゃ》なる顔を出したのは、竜田、名を若吉というのである。  梓を見て笑《えみ》を含み、 「堪忍してやれ、神月はもう子爵じゃあない。」といいながら腕組をして外壁に附着《くッつ》いたままで居る。柳沢は椅子をずらして、 「まあ入れ、ちょうど可《い》い。今その事に就いて、神月問題というのをはじめた処だ。ちょっとその休憩時間よ。神月が酷《ひど》く弁論に窮して、き様の来るのを待っていたんだぜ、竜田が居たらばッてそういってな。」  聞きも果てず、満面に活気を帯び来《きた》った竜田は、飜然《ひらり》と躍込み、二人の間《なか》へ衝《つ》と立って、卓子《テイブル》に手を支《つ》いたが、解けかかる毛糸の襟巻の端を背後《うしろ》へ撥《は》ねて、 「可《よ》し、また例の筆法で苦しめたか、神月君、」  親しげに、 「よく、僕を待っててくれました、もう大丈夫だ、心配をしたもうな。僕何のために学生となって、法律を研究してると思う、皆親友神月の弁護をするためだね、どうです。」 「どうぞ宜《よろ》しく、」といって梓は戯《たわむ》れに頭《つむり》を下げた。  竜田はその薩摩飛白《さつまがすり》の羽織の胸紐《むなひも》をぐッと〆《し》め、 「さあ、来い。」 「またやんちゃんが始まるな、」と哲学者は両手で頤《おとがい》を支えて、柔和な顔を仰向《あおむ》けながら、若吉を瞶《みつ》めて剃立《そりたて》の髯《ひげ》の痕《あと》を撫《な》で廻す。 「大概分ってるさ、問題というのは神月が子爵家を去って、かの夫人に別れて、谷中《やなか》の寺に籠城《ろうじょう》して、そして情婦《いろ》の処へ通うのを攻撃するんだろう。」 「勿論、」と簡単、がちゃりと雑具《ぞうぐ》の中へ小刀《ナイフ》を投出して、柳沢は大跨《おおまた》に開き直り、 「最初、神月がその夫人との中に感情を害したのは、不幸にも結婚の第一|日《じつ》、すなわち式を挙げた日だ。」 「さよう、」と突込《つッこ》んで応ずる竜田の声は明快である。 「き様も知ってるな、僕も聞いた。そうして成程と思ったが、考えて見ると蓋《けだ》し神月の方が非なんじゃあないか。」 「何、そんなことがあるものか、新婚旅行に出掛けようとして、上野から汽車に乗込むと、まだ赤羽の声も掛《かか》らぬうち、山下の森の中で、光りものがした。神月は――おや、人魂《ひとだま》が飛ぶ、――と何心なくいったんだ。谷中は近し、こりゃ感情だね。そうすると、あの嚊々《かかあ》め。」 「竜田|窘《たしな》め、旦那様《だんなさま》の前じゃ、」と哲学者が戯れる。  顧みて、 「失敬。」 「結構、」といったのは、そのいわゆる旦那様梓であった。竜田は勢《いきおい》よく、 「どうだ、小生意気ではないか、――いいえ、星が流れたんです、隕石《いんせき》でございます、――と云った、そればかりならばまだしも恕《じょ》すね。」 [#7字下げ]三[#「三」は中見出し] 「神月が人魂だといったのを聞いた時、あいつ愛嬌《あいきょう》のない、鼻の隆《たか》い、目の強《きつ》い、源氏物語の精霊《しょうりょう》のような、玉司《たまつかさ》子爵夫人|竜《りゅう》子、語を換えて云えば神月の嚊々《かかあ》だ。君、そいつがねその権式高な、寂しい顔に冷《ひやや》かな笑《えみ》を帯びてさ、文学士を軽蔑したもんだぜ、神月なるもの癪《しゃく》に障らざるを得んじゃあないか。」 「可《よ》し、婿さんは癪に障ったろう。癪に障ったろうが、また夫人その人の身になって、その時には限らぬが、すべて神月の性質と、行《おこない》を見た時の夫人の失望を察せんけりゃ不可《いかん》。もっとも余り物質的の名誉を重んずる夫人の性質も極端だが、それだけにまた儕輩《せいはい》に群を抜いて、上流の貴婦人に、師のごとく、姉のごとく、敬い尊《たっと》ばれている名誉を思え、七歳《ななつ》の年紀《とし》から仏蘭西《フランス》へ行って先方《むこう》の学校で育ったんだ。」 「待て、待て、少し待て。」と竜田は掌《てのひら》で卓子《テイブル》を押え、語《ことば》を遮り、 「まあ待て、先方《さき》が七歳《ななつ》の時から仏蘭西で育ったんなら、手前どものは六歳《むッつ》の年紀《とし》から仲之町《なかのちょう》で育ったんです、もっとも唯今《ただいま》は数寄屋町《すきやちょう》に居《お》りますがね。」 「竜田、」と留めた、梓は恥ずる色があった。 「可《い》いよ、君、可いから言わしておけ、どうせ皆《みんな》御存じなんだ。どうです、彼が仏蘭西で、学び、日本で得た、すべての学識と、その子爵たる財産と、家屋と、庭園と、十幾人の奴隷《どれい》とだ。その言一句といえども忽《ゆるがせ》にせず、一挙手一投足といえども謹んで、二十七歳の今日まで、旭《あさひ》の昇るがごとくに博し得た名誉とを、悉皆《しっかい》神月に捧げて、その妻となったのを、恩だというんなら、こっちにだってその一切に価《あたい》するものがあるんだよ。」  哲学者は言《ことば》を挟み、 「見たまえ、また竜田が例の笛と鼓を持出すからな、はははははは。」 「何を失敬な、」と哲学者をちょっと睨《にら》んで、 「そうさ、持出すが悪いか。先方《むこう》じゃあ巴里《パリイ》で、麺麭《パン》を食ってバイブルを読んでいた時に、こっちじゃあ、雪の朝、顫《ふる》えてるのを戸外《おもて》へ突出されて、横笛の稽古《けいこ》をさせられたんだ。吹込む呼吸《いき》が強くなるためだといって抱主《かかえぬし》が、君、朝御飯も食べさせない、耐《たま》るもんか、寒い処を、笛を習ってる中《うち》に呼吸《いき》が続かぬから気絶するのが、毎朝のようだ、水を吹《ふき》かけて生返らして、それから握飯の針のようなのを二ツずつ貰って食べる、帰ると三味線のお温習《さらい》をして、そのまま下方《したかた》の稽古に遣《や》られる。直ぐに踊の師匠に打《ぶ》ちのめされるんだ。生疵《なまきず》の絶間もない位、夜はというと座敷を廻り歩いちゃあ、年上の奴に突飛ばされて、仰向けに倒れると見っともないといって頬板《ほっぺた》を打《ぶ》たれたもんだ、何のためだ、同じ我々|同胞《どうぼう》の中へ生れて来て、一方は髯《ひげ》を生《はや》して馬車に乗った奴に尊敬される、一方は客とさえいやあ馬の骨にまで、その笛をもって、その踊をもって、勤めるんです、この間《かん》に処して板挟《いたばさみ》となった、神月たるもの、宜《よろ》しく彼を棄ててこれを救うべしじゃないか。どうだね、殊に親も兄弟も叔父叔母もない。ただ手足と、顔と、綾羅錦繍《りょうらきんしゅう》と、三味線と冷酒《ひやざけ》と踊とのみあって存する、あわれな孤児《みなしご》をどうするんです、ねえ君、そこは男子《おとこ》の意地だ。」と若い人は意気|頗《すこぶ》る昂《あが》った。  柳沢は冷然として、 「あらず、そういう意地は、鳶《とび》の者も持ってるじゃあないか。」 [#7字下げ]四[#「四」は中見出し]  この折から譬《たと》えば荒滝をずたずたに切って落すような、がッがッという響《ひびき》がした。この音は校舎の奥の方《かた》より遥《はるか》に轟《とどろ》き来《きた》って、床下を決して戸外《おもて》へ抜けたのである。  先刻《さっき》からわざと笑顔を装いながら、何か澄まないらしい色が見えて、ほとんど茫然《ぼんやり》したかのごとく、柳沢と竜田の論ずる処を聴いていた文学士は、太《いた》くこれを感じた様子で、 「何だね、今の音は、」と安からぬ状《さま》して尋ねた。  柳沢、そのあらぬ方《かた》を瞶《みつ》めていて落着かない梓の面《おもて》を瞻《みまも》って、 「忘れたか、神月。」 「何を。」 「今の音を。室を煖《あたた》める蒸気じゃあないか。」  言う時、煉瓦造《れんがづくり》の高い寄宿舎の二階から一文字に懸けてある鉄《くろがね》の樋《とい》が鳴って、深い溝を一団の湯気が白々と渦《うずま》き上《あが》った。硝子窓《がらすまど》は朦朧《もうろう》として、夕暮の寒さが身に染みるほど室の煖まるのが感じらるる。  柳沢は片手を握って、長くこれを神月に差向けて卓子《テイブル》の上に置き、 「それだからもう寄宿舎に居た頃の事を君は忘れてしまったのだ。既に幾たびも君が学資に窮して、休学の已《や》むを得ざらんとするごとに、常に仏《フランス》文の手紙が添《そっ》て、行届《ゆきとど》いた仕送《しおくり》があったではないか。神月、君が俊才有為の士である事は皆《みんな》が認めていた、けれども、いざとなって金貨を積んでその業を助けたものは、天下に今の夫人を措《お》いて他《ほか》にゃなかろう。  そうすりゃ恩人でまた唯一の知己といわなければならない。夫人の名誉のため、幸福のため、子爵のためというよりも、ただその知己であるというばかりに対しても、君の行《おこない》はちと間違っているじゃあないか。」  梓は聞いて物をもいわず差俯向《さしうつむ》いたにも係《かかわ》らないで、竜田は凜《りん》として姿を調え、 「柳沢、そんなことをいって僕の居ない時に梓君を苛《いじ》めるのか、止《よ》せ。可《い》いよ、待て、まあ、僕のいうことを、今君のいうごとくんばだ。嚊々《かかあ》殿は仏文の手紙と、若干金の学資とをもって神月を買ったものだと言わなけりゃなりません、そいつあ御免を蒙《こうむ》りたいな、仕送をしたっていくらがもんです。金子《かね》なら千か二千じゃあないか。利をつけて返すくらいさほど困難なことでもなし、またそのくらいな価《あたい》で婿に買占められるような、僕の梓君じゃあない。それをともかくも言《ことば》に応じて玉司家を嗣《つ》いだのは、すなわち君のいう、その知遇に感じたからだ。  しかるに、のっけから人魂と流星の事で早くも神月の感情を害《そこ》ねたのはどういう訳だい。  すべて女学校の教科書が貴婦人に化けたような訳で、まず情話《のろけ》を聞かされると頭痛がして来るといやあ、生理上そういうことのあろう筈《はず》はない、といった調子だから耐《たま》った訳のもんじゃあない。  鰹《かつお》は中落《なかおち》が旨《うま》くッて、比良目《ひらめ》は縁側に限るといやあ、何ですか、そこに一番滋養分がありますか、と仰有《おっしゃ》るだろう。衛生ずくめだから耐らない。やれ教育だ、それ睡眠時間だ、もう一分で午砲《どん》だ、お昼飯《ひる》だ。お飯《まんま》だ。亭主が流行感冒《はやりかぜ》一つ引いても、まっさきに伝染性なりや否やを医師に質《ただ》すような婦《おんな》を、貴婦人だって、学者だって、美人だって、年増《としま》だって、女房にしていらるるもんか。」 [#7字下げ]五[#「五」は中見出し] 「考えて見たまえな、名誉だの、品性だの、上流の婦人の亀鑑《きかん》だのと、体《てい》の可《よ》い名は附けるものの、何がなし見得坊なんじゃあないか。  御覧なさい、だから神月と結婚をした当座に、はじめからの関係を知ってる新聞が報道をすると、その記事の中《うち》に、何か夫人がかねて神月に恋《ラブ》をしていたというような意味が書いてあったといって、嚊々《かかあ》め恐しく憤《いきどお》って、名誉を蹂躪《じゅうりん》された、世の中へ顔出しも出来ないてッたようなことを云って、あたかも神月君が社をして書かしめたように当り散らしたというんだ。夫に愛《ラブ》しとるということをもって、大なる恥辱と心得るような見得坊がまたあるかい、怪《け》しからんじゃあないか。」と声を鋭くしていう、竜田はその白面に紅《くれない》を漲《みなぎ》らしたのである。  これを聞いて聞き惚《と》れて、 「しっかりやれ/\。」と哲学者も嬉しそうに応援した。 「それのみならず、数寄屋町と神月君とは神の引合せだと云っても可《い》いな。……  第一それからして夫人と衝突する基《もとい》じゃあったろうけれども、神月は先天的、むしろ家庭的か、そうだ、家庭的信心者で、寄宿舎に居る時分から、湯島の天神へ参詣《さんけい》をするのが例で、子爵家に行ってからも毎月《まいげつ》欠かさなかった。去年の夏だ、まだ朝早いのに湯島に参って、これから鰐口《わにぐち》を鳴らそうと思うので、御手洗《みたらし》で清めようとすると、番の小児《こども》が水銭をくれろと云った。懐を探すと神月が懐中物を忘れたね、後に届けるといっても小児だから訳が分らぬ。内気な殿様だから顔を赧《あか》くしてまごまごしたッさ。そこへ来合せて水銭を達引《たてひ》いて、それが御縁となりましたのが、唯今《ただいま》の美人です。蝶さんなんだ。」 「解《わか》りましたよ。」といって柳沢は詮方《せんかた》なげに苦笑した。  神月は極《きまり》悪げに、 「もう可いじゃないか、皆《みんな》僕が悪いんだから、まあ、柳沢、竜田。」 「いいえ悪かないよ。僕は大賛成、一体婦人が男子に対して貢献するのに、自分の名誉だの、財産だの、芸術だのをもってして、それで、算盤玉《そろばんだま》に当って、差引こうというほど生意気なことは無い、いわんや、それに恩を被《き》せるに到っては、不届《ふとどき》といわざるを得ないな。  しかるに蝶さんに至っては、その今まで為《な》し来《きた》ったすべての、可いかい。平ッたくこれをいえば苦労だ。その苦労はほとんど天下に大名《たいめい》をなしたものの、堅忍苦耐したくらいなもんだよ、その閲歴《えつれき》に対する報酬として、ただ、ひたすら、簡単に神月に見捨てられまいということを願ってまた他意なきを如何《いかん》よ。その上に一意専念、神月のために形造るに到っては、男子すべからくこれがために名と体とを与うべしさ、下らない名誉だの、財産だの、徳義だのに、毛一筋も払うもんか。」 「しかし竜田、アダムとイヴあって以来、世界に男女《なんにょ》ただ二人ばかりではない。譬《たと》えば、神月とその美人と、」 「勿論、僕も居る、」 「それから俺《おれ》よ、」 「私《わし》も居《お》るわい。」と哲学者は前に屈《かが》んで、顔を差向けていった。 「加うるに君が居ても差支えない。諸君のような人ばかりなら、幾人《いくたり》居たって私は心配も何《なんに》もしないが。」と梓は愁然《しゅうぜん》として差俯向《さしうつむ》く。 [#7字下げ]六[#「六」は中見出し] 「だから神月、君自ら感情を制して、その美人と別れたら可《よ》かろう、」と柳沢は慎重に諭した。 「何、もう子爵家を去って、寺に下宿したら可《い》いじゃあないか。僕はね、爵位と、君があの高慢な嚊々《かかあ》とを棄てたというので、すべての罪を償うて余《あまり》あるもんだと思う。借金でも何でも遣《や》ッつけッちまえ。癪《しゃく》に障ったら片端《かたっぱし》から弾飛《はねとば》せ。一般の風潮で、日本に容《い》れられなかったら、二人で海外に旅行するさ。それでも可《い》けなけりゃ、天に登るこッた。美しい星が二つ出来るんです。天文学者には分らなくッても、情を解するものには、紫か、緑か、燦然《さんぜん》として衆星の中に異彩を放つのが明かに見出される。」といい放って、竜田はその若々しい、美しい顔を仰向《あおむ》けて、腕組をした、毛糸の茶色の襟巻は端がほろほろと解けた。  その背を叩いて、 「江戸ッ児《こ》! 相変らず暢気《のんき》なものだな、本人の神月は、君よりよっぽど訳が分ってるよ。だから心配をするんじゃあないか。」と穏《おだやか》に云いながら柳沢は老実々々《まめまめ》しく、卓子《テイブル》の上に両方からつないで下げた電燈の火屋《ほや》の結目《むすびめ》を解いたが、堆《うずたか》い書籍《しょじゃく》を片手で掻退《かいの》けると、水指《みずさし》を取って、ひらりとその脊の高い体で、靴のまま卓子の上に上《あが》って銅像のごとく突立《つッた》った。天井はそれよりも遥《はるか》に高いが、室は狭く、五人を入れて、卓子を真中《まんなか》に、本箱を四壁に塞《ふさ》いだ上に、戸の入口には下駄箱が竝《なら》んで、これに、穿物《はきもの》が脱いであるなり、衣服《きもの》は掛けてあり、外套《がいとう》は下《さが》ってる。避《よけ》て通らなければ出られないので、学士はその卓子越の間道を選んだので、余り臨機《さそく》な働《はたらき》であったから、その心を解せず、三人は驚いて四方を囲んで、斉《ひと》しく高く仰ぎ見た。ために国史専修の学士も、しばらく岩見重太郎に別れなければならず余儀なくされた。  柳沢は突立《つッた》ったまま、 「おい、ちょっと退《ど》かないか。」 「何をする、」と哲学者は呆《あき》れ顔をしてほとんど問題を研究する時のように難しく眉を顰《ひそ》めた。  事も無げに、 「紅茶を入替えよう、湯を取りに行《ゆ》くんだから、」 「こっちへ寄越《よこ》せ、僕が行《ゆ》こう、」と哲学者も衝《つ》と立上る。 「そうか。」といいさま、柳沢はひらりと下りて、身軽に立直った、ぱたりと靴の音。  電燈の球は卓子《テイブル》の上を這《は》ったまま、朱を灌《そそ》いだように颯《さっ》と赫《あか》くなって、ふッと消えたが、白く明《あかる》くなったと思うと、蒼《あお》い光を放つ! 「星を仰ぐこと、正に、」と竜田若吉は腰を落して頭《つむり》を卓子の下に入れ、顔を上げて、清《すず》しい目を睜《みは》って、 「こういう風。」  梓はその面羞気《おもはゆげ》な顔を照らされるのを厭《いと》うがごとく、椅子を放れて疾《と》く背後《うしろ》に退《の》いた。柳沢は長い足を素直に伸ばして、膝を膝に乗せて組違えると同時に仰向けに寝て一杯に肱《ひじ》を張って、両手で項《うなじ》を抱《いだ》きながら、じッと件《くだん》の電燈を瞶《みつ》めた。  その時、国史専修の学士は、静《しずか》に糸を取って、無心に繋合《つなぎあわ》せて、灯《あかり》を宙に釣《つる》したと思うと、袴《はかま》の下へ手を入れて、片手で赤本をおさえてみたが、そのまま腰を掛けて、また読みはじめる、岩見重太郎武勇伝。 [#5字下げ]三両二分[#「三両二分」は大見出し] [#7字下げ]七[#「七」は中見出し] 「歇《や》んだ、歇んだ、可《い》い塩梅《あんばい》だ。」  空を仰いで立停《たちどま》ったのは、町屋風の壮佼《わかもの》で、雨の歇んだのを見ると、畳んで袂《たもと》の下に抱え込んでいた羽織を一揺《ひとゆり》、はらりと襟を扱《しご》いて手を通した。この男が雨に当てまいと大切がるのは、単にこの羽織ばかりではなく、一品《ひとしな》懐に入れているものがある。大きな紙入ではない。乳貰《ちちもらい》の嬰児《あかんぼ》でもない。すなわち一足|表打《おもてうち》の駒下駄《こまげた》であるが、尾上《おのえ》の使《つかい》に駈出《かけだ》して来た訳ではない。これはさる筋の芸妓《げいしゃ》から年玉に買って頂いたので、すべて、お守《まもり》扱いにしているから、途中で雨を啖《くら》ったために、汚すまいと懐中した。本人は生白い跣足《はだし》である。  かかる人は、下町にまず松の鮓《すし》の忰《せがれ》源次郎を措《お》いて外にはない。  それ世に、鳶《とび》の者の半纏《はんてん》は侠《いなせ》にして旦那の紋着《もんつき》は高等である。しかるに源ちゃんは両天秤《りょうてんびん》、女を張る時は半纏で、顱巻《はちまき》。宗匠を張る時は紋着で巻莨《シガレット》、色と点取発句が一斉に出来るのであるから、ついこう下駄を懐に入れるような事にもなる。  かえって説く源ちゃんは町中《まちなか》の暗がりに羽織を着込んだが、足が汚れていたから下駄は穿《は》かないで、そのまま懐を揺り固めた。 「可い塩梅だ、畜生。」と、これも何か両面に意味の通ずるような独言《ひとりごと》をして、また足早に歩き出した。  その面形《めんがた》のごとく凹《しゃく》んだ面《つら》の、眉毛の薄い、低い鼻に世の中を何と睨《にら》んだ、ちょっと度のかかった目金《めがね》を懸けている名代《なだい》の顔が、辻を曲って、三軒目の焼芋屋の灯《あかり》に照《てら》された時、背後《うしろ》から、錆《さ》びたずんぐりした声で、 「源じゃあねえか、おい、源坊。」 「誰だい、」と思入《おもいいれ》のある身振《みぶり》で、源次郎は振返る。 「俺だ。」 「や、」 「待ちねえ。」  つかつかと近《ちかづ》いた、三尺帯を尻下りに結んで、両提《りょうさげ》の莨入《たばこいれ》をぶらりと、坊主|天窓《あたま》の親仁《おやじ》が一名。 「頭《かしら》。」 「おい、」と重く落着いて一ツ頷《うなず》いた。これは下谷《したや》西黒門町に住んで、頭《かしら》、頭と立てらるる、辰《たつ》何とか言うのであろう。本名は誰も知らない、何をして暮すのか、ただ遊んで、どことも謂《い》わず一群《ひとむれ》一群入り込む侠《きおい》な壮佼《わかもの》に、時々|木遣《きやり》を教えている。  頭《かしら》は膨らんだ源のその懐をじろりと見て、 「何だ、それは、」 「ええ、」 「下駄じゃあねえか、下駄じゃあねえか、串戯《じょうだん》じゃあねえ、何を面啖《めんくら》ったか知らねえが、そいつを懐に入れるだけの隙《ひま》が有りゃ、敵《あいて》の向脛《むこうずね》をかッぱらって遁《に》げるゆとりはありそうなもんだぜ。何だい、出会《でっくわ》したなあ、犬か、人間か。」 「喧嘩《けんか》じゃあないんです。」 「辻斬《つじぎり》か。」 「冗談をいっちゃあ可《い》けません。」  頭《かしら》はわざとらしく呵々《からから》と笑って、 「じゃあ、どうしたんだ。」といったが、思う処あるらしく、房《ふっさ》りしたその眉を顰《ひそ》めた。 [#7字下げ]八[#「八」は中見出し]  源次は何の気も付かない様子で、 「仔細《しさい》はないんです、喧嘩なんて何も決してそんな訳じゃあないんだけれどね、」 「ふむ、」と心ある頭《かしら》は返事まで物々しい。ちと応答《うけこたえ》を仰山にされたので、源次は急に極《きまり》が悪そう。 「降って来たもんですから、その何なんですよ、泥でも刎上《はねあ》げちゃあ、そのね、」と今更のように懐を眗《みまわ》して、 「へへへへ、なに詰《つま》んねえ事なんで、」 「それが、」とその時、頭《かしら》はずッと合点《のみこ》んだ顔をして、 「あれだな、評判の。ついまだ掛違いまして手前お目通《めどおり》は仕《つかまつ》らねえが、源坊が下駄と来ちゃあ当時|名高《なだけ》えもんだ。むむ、名高えもんだよ。」 「なに詰らない。」 「馬鹿あ言え。畳算《たたみざん》より目の子算用を先に覚えようという今時の芸妓《げいしゃ》に、若干《なにがし》か自腹を切らせたなあ、大したもんだ、どれちょっと見せねえ、よ、ちょっと拝ませねえかよ。」  思わず上から手で押えて、 「頭《かしら》、これですか。」 「その芸妓《げいしゃ》の達引《たてひ》いたやつよ。」 「へ、何、下らないことを、」と内々恐悦で、少し含羞《はにか》む。 「可《い》いやな、見せねえ、見せねえ、一番御灯明を奉ることにしようぜ、待ちねえよ。」  と言い懸けて向直り、左側の焼芋屋の店へ、正面を切って揺《ゆる》いで入る。この店は古いもので、取《とッ》つきの行燈《あんどう》に、――おいしくば買いに来て見よ川越《かわごえ》の、と仮名書《かながき》して、本場○焼|俵藤助《たわらとうすけ》――となん。 「父爺《とっ》さんや、」で頭《かしら》は無造作に言《ことば》を懸ける。  ぶつぶつ、……ものを読んでいた声がはたと止《や》んで、破行燈《やれあんどう》の灯の射《さ》す土間の上の一枚の古障子を明けて、 「誰だい。」といった藤兵衛《とうべえ》は、匍匐《はらんばい》になって、胸の下に京伝の読本《よみほん》が一冊、悠々と真鍮環《しんちゅうわ》の目金を取って、読み懸けた本の上に置きながら、頬杖《ほおづえ》を突いたままで、皺面《しわづら》をぬっ! 「俺だよ、へんちっとも珍しくねえ。」 「おお、頭。」 「用じゃあねえんだ。とっさん少しばかり店を貸してくんねえ、灯《あかり》が欲しいでの。」 「何か、灯ッて、その燻《くす》ぶり返った釣洋燈《つりランプ》のことかい。」 「そうよ。まあ、」 「御念にゃあ及ばねえこッた、内証《ないしょ》の文《ふみ》でも読むか、」 「いんや、質札だ、構わっしゃるな。寒いから閉めてくんな。」  戸外《おもて》に向って、 「源坊、こっちへ入らっし。おい、何を茫然《ぼんやり》石地蔵を抱いた風で突立《つッた》ってるんだ、いじけるない。」 「頭、煖《あた》んなさい、」と竈《へッつい》の後《うしろ》から皺嗄《しわが》れた声を懸ける。 「おお、入れ黒子《ぼくろ》のしなびたの、この節あどんな寸法、いや、寸伯《すんぱく》か寸伯《すばく》か、ははは。」 「串戯《じょうだん》じゃあない、ちょうど一くべ燻《く》べた処だ、暖《あった》けえよ。」 「豪儀だな、そいつあ、」とくるりと廻った、頭《かしら》の法然天窓《ほうねんあたま》は竈の陰に赫々《てかてか》して、 「よ、まあこっちへ来ねえ、松の鮨《すし》の兄哥《あにい》、入れッてことよ。」  強いられて、源さん止《や》むことを得ず。 「御免なさい。」 「さあさあ、」と婆さんも七十ばかりだが如才ない。 [#7字下げ]九[#「九」は中見出し] 「聞きねえ、婆さん、御前《おまえ》なんざあ上草履で廊下をばたばたの方だったから、情人《いろ》を達引《たてひ》くのに、どうだ、こういうものは気が付くめえ。豪儀なもんだぜ、こら、どうだ素晴しいもんじゃあねえか。」  頭《かしら》は籐表《とうおもて》を打った、繻珍《しゅちん》の鼻緒で、桐の柾《まさ》という、源次が私生児を引放《ひっぱな》して、片足打返して差出した。 「ねえ、こら。」と引《ひっ》くり返して鼻緒を掴《つか》んでちょっと捻《ひね》る。 「どうしたんだね、」と婆さんは膝に手を乗せて蹲《うずく》まったまま呆れて見ている。  頭《かしら》は大袈裟《おおげさ》に、 「どうしたどころかい、近頃評判なもんだ。これで五丁町を踏鳴《ふみなら》すんだぜ、お前も知ってるだろう、一昨年《おとどし》の仁和加《にわか》に狒々《ひひ》退治の武者修行をした大坂家の抱妓《かかえ》な。」 「蝶吉さんかね。」 「うむ、この節あ数寄屋町に居らあ、あの跳《はね》ッ返りめ、お先走りで、何でも来いだから、仁和加の時も、一本引ッこ抜いて使うんだからッて、それ痛い目に逢わないだけにして、本式に習いたいというので、お前ンとこの藤さんに仕込んでもらったな。  面小手で竹刀《しない》を引担《ひっかつ》いでお前、稽古着に、小倉の襠高《まちだか》か何かで、朴《ほお》の木歯を引摺《ひきず》って、ここの内へ通っちゃ、引けると仲之町を縦横十文字に鳴《なら》して歩いた。ここにおわします色男も鳴すことその通り。  それがだな。あのお茶《ちゃっ》ぴいめ、ついこないだまで竹馬に乗ったり、学校の生徒に引張《ひっぱ》り出されちゃあ田圃《たんぼ》でぶらんこをしていたっけが、どうだい、一番この男とおっこちゃあがって、それ、お歳玉《としだま》に内証《ないしょ》だよ、と遣《や》りゃあがったんだとよ。驚くじゃあねえか、この下駄だ。」といって、また引《ひっ》くり返した。頭《かしら》は竈《へッつい》の前に両足を拡げながら、片手で抜取って銀煙管《ぎんぎせる》を銜《くわ》え、腰なる両提《りょうさげ》ふらふらと莨《たばこ》を捻る。 「おや、」といったきり、婆さんはかねてその蝶吉というのを知ってるほど、おっこちたと謂《い》わるる男、すなわちこれなる源次郎のせめてそれだけでも止《よ》して頂きたい、目金を乗せた鼻の形と、件《くだん》の下駄と交《かわ》る交《がわ》る見競《みくら》べて解《げ》せない顔附。  頭《かしら》は悠然と煙を吹《ふか》して、 「何しろ素晴しいもんじゃあねえか、可恐《おそろ》しい。幾らだとか言ったっけな、んんどうだろう、うむ、豪儀な。」  言いようが余り業々《ぎょうぎょう》しいので、取合う気もなかった婆さんも近々と目を寄せて、 「頭、こりゃ今の流行《はやり》かい。」と老いたる事をまじまじと言う。  これを聞くと叱るがごとく、 「これ庫《くら》の七戸前《ななとまえ》も嘗《な》めた口で、何だい、その言い種《ぐさ》は、こう源坊、若い中《うち》だぜ、年紀《とし》は取るもんじゃあねえの。ここに居る婆さんは、これでも仲じゃあ葛《くず》の葉といってその昔は売ったもんだ、ずうっとそれ、」 「止《よ》しねえな、見っともない、」と穏《おだやか》に微笑《ほほえ》んで目を外《そら》した、もう仏に近いのである。 「旧《もと》の直《ね》で二朱ぐらいか、源坊、幾らだとかいったっけな、二両二分。」 「頭、三円、」といって件《くだん》の鼻を仰向《あおむけ》にして澄《すま》す。 「ああ、三両二分か、何でも二分という端《はした》だけは付いてると聞いたよ。そうか、三両二分か。ふ、豪儀なもんだ、ちょっとした碁盤より直《ね》が張ってら。格子戸で、二間なら一月分の店賃《たなちん》だ、可恐《おそろ》しい、豪傑な。」と熟々《つくづく》見ながら、うっかりしたか、下駄の肚《はら》で吸殻をとん。  源次|慌《あわただ》しく、 「頭、」 「ほい、これは。」 [#7字下げ]十[#「十」は中見出し] 「しかしどうも可恐《おそろ》しい気前だぜ。もっともあの蝶吉といやあ、いつかも客に連れられて中の植半《うえはん》へ行った時、お前、旦那がずッしり重量《おもみ》のある紙入をこれ見よがしに預けるとな、肯《き》かない気だから、こんな面倒臭いものは打棄《うっちゃ》っちまうよ。まさかと思うから、うむ、可《い》いとも大川へ流しッちまえ、といったが災難、仲店《なかみせ》で買物をして、お前紙入は、というと、橋の上から打棄ったと言わあ。本当か、とばかりで真蒼《まっさお》になったとよ。そうだろう、二百円足らず入ッてたんだそうだ。  それだものこのくらいな達引《たてひき》はしかねめえ。」という、高がこんな下駄を(しかねめえ。)というほどの事はあるまいと思うほど、頭《かしら》が為振《しぶり》を見て、婆さんはこの年紀《とし》になってもその瞼《まぶた》の黒い目に、逸疾《いちはや》く仔細《しさい》があろうと見て取った。  源次も何となく気がさして、少し不安心になった、引構《ひきがまえ》で、 「頭《かしら》、もう沢山だ。」  気可愧《きはずか》しそうに装って、もじつきながら、出して取ろうとした手を、外して持更《もちか》え、 「遠慮をするなッて事よ、何もはにかもうッて年紀《とし》じゃあねえ。落語家《はなしか》の言種《いいぐさ》じゃあねえが、なぜ帰宅《かえり》が遅いんだッて言われりゃあ、奴が留めますもんですから、なんてッたような度胸があるんじゃあねえか。」 「なにまた詰《つま》らないことを、」 「それでなくッて、どうしてお前、これが長火鉢の上へ持出されるもんか、この間もお前、脱いだやつを持って上《あが》って、伝が家《とこ》の帳場格子の中へ突込《つッこ》んで見せたというぜ。」と風見《かざみ》の鴉《からす》がくるりと廻って、少し北風《ならい》が吹いて来る。 「え。」 「その時ぶん撲《なぐ》られなかったのが目っけもんだ。」とずッきり言って、したたかに気を替える。  ひやりと応《こた》えて、 「何だってね、」 「婆さん、もう一燻《ひとくべ》␼《ぱっ》とやりゃどうだ。」  といいながら突込《つッこ》むように煙管《きせる》を納《い》れた、仕事に懸《かか》る身構《みがまえ》で、頭《かしら》は素知らぬ顔をして嘯《うそぶ》きながら、揃えて下駄を掻掴《かいつか》めり。  形勢|穏《おだやか》ならず、源次は遁足《にげあし》を踏み、這身《はいみ》になって、掻裂《かきさ》くような手つきで、ちょいと出し、ちょいと引き、取戻そうとしては遣損《やりそこな》い、目色を変えて、 「頭《かしら》、何ですから、急ぎますから、」 「跣足《はだし》で駈出《かけだ》しねえ、跣足で。それが可《い》いや、可恐《おそろ》しく路が悪いぜ。」  また一当《ひとあて》当てられて揉手《もみで》をして、 「穿《は》いて行《ゆ》きますよ、よ、穿くんだから、頭失礼ですが、その。」 「穿かねえでさ、下駄は穿くに極《きま》ったもんだ。誰がまあ頂く奴があるもんか。だが、それ懐へ入れる奴は無《ね》えとも限らねえ、なあ、源坊。」 「私《わっし》ゃちっと何だから、これから少し急ぐんですから、」 「どこへ急ぐんだ。どこへ、」 「ええ、ちっとその、何で。これから発句の会があるんです。」と捨鞭《すてむち》で歌を読むような見得をいった。 「発句の会、ああ、そうか。源、何、何とか云ったな、その戒名《かいみょう》、いや俳名よ。待ちねえ、お前なんざあ俳名よりその戒名の方をつけるが可いぜ、おいらが一番下駄の火葬というのを遣《や》って、先きへ引導を渡してやろう。」 「ひゃあ、」 「馬鹿め、跣足で失《う》せやあがれ。」 [#5字下げ]通う神[#「通う神」は大見出し] [#7字下げ]十一[#「十一」は中見出し] 「おやおや、酷《ひど》く曇ってるなあ、何だかこれじゃあ君を送って来たようだが、神月君。」  竜田は校内の園《その》を抜けて、弥生町《やよいちょう》の門を出ようとして空を見たのである。 「一所に散歩をしようと思ったけれど、降りそうだから僕はもう失敬するよ、それじゃあ君、議論は議論だが実際は実際だ、よく考えて軽忽《かるはずみ》なことをしたもうな。」と年下の友に熟々《つくづく》言われて、ただ打頷《うちうなず》くのは神月であった。 「それでは。」 「失敬。」と言い棄てて、竜田は門から引返した。暗がりの中を詩を唱ったが、低唱してやがて聞えなくなった。  梓は彽徊《ていかい》して歩を転ずる、向《むこう》から来て、ぱッたり。 「えッ。」といって何物か身を開いて退《しさ》って神月の姿を透《すか》し、 「よ、先生か。」と冷評《ひやか》すような調子で言った。  これは松の鮨《すし》の源次郎で、蝶吉から頂いた、土付かずといって可《い》い大事の駒下駄を、芋を焼く竈《へッつい》に焚《くべ》られた上に、けんつくを啖《くら》って面目を失ったが、本人に聞くより一段情無い愛想尽《あいそづか》しを、頭《かしら》の口から、しかも意見するごとく言い聞かされ、お穿物《はきもの》という謎まで聞いて、色男堪忍ならず。胸はひッくり返るようだが、むずと胸倉《むなぐら》を取られると、目の玉が出そうな豪傑の頭《かしら》を対手《あいて》には文句も言われず、居耐《いたたま》らなくなった処を、煙《けぶり》に燻《いぶ》されて泥に酔ったように駈出《かけだ》して来たのである、が、自分から顛倒《てんとう》していて突当った人を見ると、蛇《じゃ》の道は蛇《へび》で、追廻す蝶吉がまた追廻す探索は届いて、顔まで見知越《みしりごし》の恋の仇《あだ》。恋に上下の差別がないから仇に上下の差別はない、学士神月梓である。むかッ腹《ぱら》立《たち》の八ツ当りで、 「ふん、色男も凄《すさま》じいや、汝《うぬ》が孕《はら》ませた児《こ》を堕《おろ》されりゃ沢山じゃあないか、お政府《かみ》へ知れて見ろ、二人とも、泥を噛《かじ》るんだい。知ってていわないのはお慈悲だと思うが可い。こっちから突当ったらな、そっちからあやまって、通るこッた。人をつけ、学者もそれで沢山だい、色男万歳だな。」  と影の添うがごとく七八歩、学士に添って逆戻《ぎゃくもどり》をして歩いたが、 「ざまあ見ろ色男、面《つら》が見てえや、青いのか、赤いのか、やい、七面鳥の文学士。」と悪たれ口を吐《つ》き棄てて擦違って駈出した。学士は歩み悩んだ様子で、ふと足を留めたがさすがに後を見も返らず、取るにも足りない下司《げす》の雑言と思ったから。 「雨か。」  空を見ると雲低く、ひやりとして頬に雫《しずく》、またばらばらと二ツ三ツ。 「ああ、」と呟《つぶや》いて、あたかもこの雫に懸《かか》るまいとするごとく、かなたこなた身を交《かわ》して歩いた。  最初はただ、廂溝《ひさしみぞ》などを幽《かすか》に打つ音のみであったが、やがて、瓦屋根《かわらやね》に当ってまたばらばら。 「厭《いや》だな。」  見る見る繁《はげ》しくなって、颯《さっ》と鳴り、また途絶え、颯と鳴り、また途絶え途絶えしている内に、一斉に木《こ》の葉に灌《そそ》ぐと見えて静《しずか》な空は一面に雨の音。  神月は見えなくなった。 [#5字下げ]紀の国屋[#「紀の国屋」は大見出し] [#7字下げ]十二[#「十二」は中見出し]  御待合歌枕《おんまちあいうたまくら》。磨硝子《すりがらす》の瓦斯燈《がすとう》で朧《おぼろ》の半身、背《せなか》に御神燈の明《あかり》を受けて、道行合羽《みちゆきがっぱ》の色くッきりと鮮明《あざやか》に、格子戸の外へずッと出ると突然《いきなり》柳の樹の下で、新しい紺蛇の目の傘を、肩を窄《すぼ》めて両手で開く。顔はその中に隠れて見えず、丈《たけ》の好《い》いすらりとした痩《やせ》ぎすな立姿。桃色|縮緬《ちりめん》の扱帯《しごきおび》で、弱腰を固くしめている。白足袋で、黒の爪皮《つまかわ》を深く掛けた小さく高い足駄穿《あしだばき》で、花崗石《みかげいし》の上を小刻《こきざみ》の音、からからと二足三足。頭《つむり》が軒の下を放れたと思うと、腰を伸《の》して、打仰いで空を見た。  ここに引着けた腕車《くるま》が一台。蹴込《けこみ》に腰を掛けて待っていた車夫、我が主《あるじ》来《きた》れりと見て、立直り、急いで美しい母衣《ほろ》を刎《は》ねる。楫棒《かじぼう》に掛けて地に置いた巳之屋《みのや》と書いた看板は、新しい光を立てて、蝋紙《ろうがみ》を透《すか》す骨も一ツ一ツ綺麗《きれい》である。 「おや、降っちゃあいないんだね。」静《しずか》に蛇の目を窄めて片手に提げた。鼻筋の通った細面《ほそおもて》の凜《りん》とした、品の良《い》い横顔がちらりと見えたが、浮上るように身も軽く、引緊《ひきしま》った裙捌《すそさばき》で楫棒を越そうとする。 「こちらへ、」といった車夫は小腰を屈《かが》めて、紺蛇の目を手早く受取る。その腕車《くるま》に乗ろうとする時、かちかちかちと木を拍《う》って、柳の彼方《かなた》の黒塀の前に、頬冠《ほっかむり》をした二人が在った。 「へい、御贔屓《ごひいき》を一両名、尾上菊五郎、沢村源之助。」ト声を懸けたので、腕車の蔭に立停《たちどま》る。  その時、板塀の上なる二階の障子へ、明るく影が映ったが、端を開けて、廊下へ出た。植込の梢《こずえ》がくれに、 「あいよ、」という声、捻《ひね》った紙包が宙を切って、忍返《しのびがえし》の釘を掠《かす》めてはたと二人の前に落ちる。 「ええ、鼠小紋春着新形《ねずみこもんはるぎのしんがた》。神田の与吉《よきち》実は鼠小僧|次郎吉《じろきち》、傾城《けいせい》松山、」ちょっと句切って、 「鎌倉山の大小名、和田|北条《ほうじょう》をはじめとして、佐々木、梶原《かじわら》、千葉、三浦、当時|一﨟《いちろう》別当の工藤などへは二三度|入《へえ》り、まぶな時にゃあ千と二千、少ねえ時でも百や二百、仕事をしねえ事あなかった。その替りにゃあ貧乏と、その名の高え曾我などじゃあ、盗んだ金を置いて来た、悪事はするが義理堅え、いわば野暮な盗人《ぬすっと》だが、知らねえ先あともかくも、こういう身性《みじょう》と聞いたらば、お主《ぬし》ゃあ厭《いや》になりやしねえか。」 「何で厭になるものかね、これもみんなその身の好々《すきずき》、お嬢さんといわれるのが、ちいさい時から私ゃ嫌い、油で固めた高髷《たかまげ》より、つぶし島田に結いたい願い、御殿模様の文字|入《いり》より、二の字|繋《つな》ぎのどてらが着たく、御新造《ごしんぞ》さんや奥さんと、いわれるよりも内の奴《やつ》、内の人かといいたさに、親をば捨てて勘当うけ、お前の女房《にょうぼ》になった私、どんな事があろうとも、何で愛想《あいそ》が尽きようぞいな。」 菊「そんならおぬしゃあ盗人と、知ってもやっぱり愛想も尽《つか》さず、」源「お前と一所に居たいのは、譬《たとえ》にもいう似た者夫婦、」菊「夜盗を働く鬼の女房《にょうぼ》に、」源「枕探しの鬼神《きじん》とやら、」菊「そういうお主が度胸なら、明日《あす》が日ばれて縄目にあい、」源「お上のお仕置受ければとて、」菊「隙《ひま》行《ゆく》駒の二人|連《づれ》、」源「二本の槍《やり》の二世《にせ》かけて、」菊「離れぬ中の紙幟《かみのぼり》、」源「果《はて》は野末に、」菊「身は捨札、」源「思えば果敢《はか》ない、」 「紀之国屋[#(引)]」と思いがけず、暗がりの露地の後《うしろ》の方で、うら若い清《すず》しい声。 [#7字下げ]十三[#「十三」は中見出し] 「ほほほほほほ、」と蓮葉《はすは》に仇気《あどけ》なく笑ったが、再び、 「紀之国屋!」とあてもなく漫《そぞ》ろに気の冴えた高調子。酔ったと見えて、ふらふらして仮色使《こわいろづかい》の背後《うしろ》に立って、 「嬉しいねえ、」  といいながら、無遠慮に一ツその一人の肩を叩く。吃驚《びっくり》して黙って呆れる、女は罪もなくまた笑った。 「ほほほほほ。」 「おや! お蝶さんだ。」と二階の欄干《てすり》に凭懸《よりかか》ったのが、思わず威勢よく声を立てた。  振仰いで、 「今晩は。」 「神月さん参りました、来たんですよ。」と言ったが障子の中に姿が消えた。 「へい難有《ありがと》う様でございます。」  度胆《どぎも》を抜かれて、茫然《ぼんやり》した仮色使は、慌てて見当を失ったか、かえって背後《うしろ》に立ったのに礼をいって、 「さあ、」 「おい。」  踵《くびす》を廻《めぐ》らすのを見も返らず、女は身を斜《ななめ》にまた蹌踉《よろ》けて、柳の下を抜けようとした。  門口《かどぐち》で、 「蝶ちゃん、[#「、」は底本では無し。以下の本では「、」有り。『鏡花全集 卷五』(岩波書店、昭和49年3月4日 第2刷發行)、『鏡花全集 巻四』(春陽堂、大正15年9月25日發行)、『湯島詣』(春陽堂、明治32年11月23日發行)、『湯島詣』(春陽堂文庫、春陽堂、昭和22年10月20日復刊第一版發行)]」 「はい、」 「お気を付けなさいよ。」 「才ちゃんかい。」 「お楽《たのし》みだね。」  とひらりと乗る途端に楫棒《かじぼう》を取った、腕車《くるま》の上から、 「さようなら。」 「チャチャチャッチキチッチドンドン。」軽く柳の枝の垂れた尖《さき》を細く指で叩いて見せる。 「ふん、」とばかり腕車の上で。見ぬようにしてちょっと見ながら面《おもて》を背ける、途端に車夫は曳《ひ》き廻《めぐ》らした。暗夜の小路を看板は、これ流星のごとくに去んぬ。 「チャチャチャッチキチッチ、」と低く口吟《くちずさ》みながら、格子戸をがらりと開けると、同時に框《かまち》の障子を開いて、 「よくねえ、」と声を懸けて、逸早《いちはや》く今欄干に立顕《たちあらわ》れたその女中が出迎えた。帳場の灯《あかり》と御神燈の影で、ここに美しく照らし出されたのは、下谷《したや》数寄屋町|大和屋《やまとや》が分《わけ》の蝶吉である。  着つけは濃いお納戸地に、金で乱菊を織出した繻珍《しゅちん》と黒繻子《くろじゅす》の打合せの帯、滝縞《たきじま》のお召《めし》縮緬に勝色《かちいろ》のかわり裏、同じ裾《すそ》を二枚|襲《かさ》ねて、もみじに御所車の模様ある友染《ゆうぜん》に、緋裏《ひうら》を取った対丈襦袢《ついたけじゅばん》、これに、黒地に桔梗《ききょう》の花を、白で抜いた半襟なり。  洗髪《あらいがみ》の潰島田《つぶししまだ》、ばっさりしてややほつれたのに横櫛《よこぐし》で、金脚《きんあし》五分珠《ごぶだま》の簪《かんざし》をわずかに見ゆるまで挿込んだ、目の涼しい、眉の間に雲《くもり》のない、年紀《とし》はまだ若いのに、白粉気《おしろいけ》なしの口紅ばかり、小肥《こぶとり》して痩《や》せてはおらぬが、幼い時から、踊が自慢の姿である。  出迎えた女中は前へ転《のめ》ったと思って慌《あわただ》しく身を開いて、 「あれ危いじゃありませんか、」  蝶吉は躓《つまず》くように駒下駄を脱いで、俯向《うつむ》けに蹌踉《よろ》け込んで、障子に打撞《ぶつ》かろうとして、肩を交《かわ》し、退《すさ》って、電燈を仰いで、踏《ふみ》しめて立った。ほッという酒の息、威勢よく笑って、 「今晩は。」 [#5字下げ]段階子[#「段階子」は大見出し] [#7字下げ]十四[#「十四」は中見出し] 「蝶さん、奢《おご》らせますよ。」と帳場から呼んだのは女房である。この待合はその座敷、その器物、その取扱《とりあつかい》、何につけても結構なものではない。五人一座の二人までは敷かせる座蒲団《ざぶとん》の模様が違って、違った小紋《こもん》も、唐草も、いずれ勧工場《かんこうば》ものにあらざるなく、杯洗《はいせん》と海苔《のり》とお銚子《ちょうし》が乗って出るのも、牛屋《ぎゅうや》のちゃぶ台の真中《まんなか》へ丸く木を填《う》めてあろうという組織であるのに、お座料がまた必ずしもお安くない。これでは何の取得《とりえ》もないが、ここに注意すべきは女房たるもの、兄とその情人《いろ》のごときもの、且つ女中に至るまで、よく注意して秘密を守り遂げる信用があるので、知れては身分に係わるといった側が、ちょいちょい懐手で出入《ではいり》する。  あえてものの三角形が秘密を守るものだという数学の原理はないけれども、歌枕の女房は目の形が三角である。鼻が三角で、口が三角、眉を払った痕《あと》がまた三角なりで、頤《おとがい》の細った頬骨の出た三角を逆《さかさま》にして顔の輪廓《りんかく》の中に度を揃えて竝《なら》んでいる。白ッぽい糸織の羽織の裙《すそ》を払って、金の平打《ひらうち》の指環《ゆびわ》を嵌《は》めた手を長火鉢の縁から放し、座蒲団を外してふわりと立つと、むッくりと起きた飼犬が一頭。  真鍮《しんちゅう》の首環をがちゃがちゃと鳴らして、さらさらと畳を渡り、蝶吉の裾《すそ》を掠《かす》めて、取着《とッつき》の階子段《はしごだん》へ、矢のごとく駈《か》け上《あが》った。  この犬、一挙一動よく主婦の意《こころ》を知る、今その座を立ったのを見ててっきり二階へ上《あが》るのだと目敏《めざと》く先へ立って飛出したのであるが、段を六ツばかり駈上ると、振返って猶予《ためら》って待っている風情。  三角の主婦は悠々として、 「さあ、お二階へ。」 「お早くいらっしゃいな、」と傍《そば》からまた女中が促した。  蝶吉は雨の朝桜《あさざくら》の色しっとりとして、瞼《まぶた》に色を染めながら、 「厭《いや》ですよ、」とすねるように言って肩を振った。 「可《い》いのかい、ちょいとそんなことを言って、」 「どうせね、」と主従が澄《すま》して莞爾《にっこり》して左右から顔を覗《のぞ》くと、 「犬が恐《こわ》いのよ。」と段階子を見込んで笑う。  主婦はつかつかと前に出て、目をきょろつかして伺ってる飼犬を見上げながら、左の手を袖の中へ引込ませて、ちょいと出して、指をさすと電気《エレキ》を感じたようにくるりと廻って、小犬はちょろちょろと駈け上る。 「可《い》けない!」  というが疾《はや》いか、段に片足を上げて両手を支《つ》く、裾を引いて、ばったり俯向《うつむけ》に転《のめ》った綺麗な体は、結《ゆわ》えつけられたように階子に寝た。 「危い。」 「あれ、」とけたたましく諸声《もろごえ》に叫ぶのを耳にも入れず、蝶吉はそのまま腕《かいな》を伸《のば》して、 「不可《いけ》ません、不可《いけな》い、不可いよ、」と蹌踉《よろ》ける足を引摺《ひきず》って、 「畜生、私《わたい》より先へ行くッて法があるかい。」 「おいで。」  と膝を軽く拍《う》って、振返ったのは梓である。  上口《あがりぐち》の処で、くるくる廻っていた飼犬は、呼ばれて猶予《ためら》わず衝《つ》と飛込み、いきなり梓の袂《たもと》に前足を掛けて、ひょいとその膝に乗って畏《かしこま》った。 「不可いッたら! あれ。」 [#7字下げ]十五[#「十五」は中見出し] 「失敬な奴ぢゃ、てッたような訳だわね、不都合だよ、いけすかない、何だ手前は、」ふらふらするのを踏《ふみ》こたえて、 「誰に断ったの、畜生、こっちへ来ないかい、打《ぶ》ってやるから、」と袖を飜して、手を挙げたが、そのまま立ってるさえ物憂げであった。 「誰が打たれに、……」  梓は俯向《うつむ》いて、犬の天窓《あたま》をこれ見よがし。 「厭《いや》よ、厭よ、私は厭ですよ。そんなもの、打っちゃらかしておしまいなさいなねえ。」 「恐《こわ》いな、どこかの姐《ねえ》さんが、打っちゃらかしておしまいなさいなねえッて言ってるよ。」 「焦《じ》れッたいねえ。」  梓は笑いながら犬の前足を取って伸《のば》すと、飼犬は口を開けて、目を光らして、わッ! 「悔しがってるじゃあないか、」と横顔を見せて振向いた。 「なぜそうですよ、言うことをお聞きなさいなね、ええ焦れったい、」  地蹈韛《じだんだ》を踏んでも澄《すま》して取合ないので、 「悔しい。」  と横を向いて上口の壁を、構いつけず平手でどんどんどんと撲《なぐ》り付けて体を揉《も》む。酔ってる処へ激しく動いたので、がっくり膝が抜けて崩折《くずお》れようとして、わずかにこらへ、掻挘《かいむし》るように壁に手を縋《すが》って、顔を隠して吻《ほっ》という息を吐《つ》いた。 「どうしたんですよ、」  階子段を上《あが》り上り、主婦《おかみ》は物音を怪《あやし》んで来たのである。 「おや、おや、」 「言句《もんく》ばかり言ってるさ、構わないでおくが可《い》い。なあに汝《おまえ》が先へ来たって何も仔細《しさい》はなかろうじゃないか。」 「そのことなんですか、まあ、飛んだ難かしいこと、トン!」  わッと吠《ほ》えて前足を立てた、トンは飼犬の名であろう。 「おいで、おいで。さあ、」 「可いよ、おかみさんこっちへ。」 「でもまた奥様がその何ですから、おほほほほ、」と主婦《おかみ》は三角の口を丸うして笑って控える。 「何を、詰《つま》らない。」 「はい、はい。」  膝に手を垂れ、腰を屈《かが》めて、戯《たわむれ》に会釈すると、トンはよくその心を得て、前足を下して尻尾を落した。扁《ひらた》い犬の鼻と、主婦《おかみ》の低い鼻は、畳を隔てて真直《まっすぐ》に向い合った。 「おお、可《よ》し、可し。」二ツばかり頷《うなず》いて、「それではお邪魔を致しましょうか。」  同時に、ど、ど、ど、ど、どんと床板を踏鳴《ふみなら》して、 「厭! 厭よ、」と壁の中から唐突《だしぬけ》に声を出した。  主婦《おかみ》は驚いて退《すさ》って、 「まあ、済みません、どうも。」  蝶吉は振乱すように壁に押着《おッつ》けた島田髷《しまだ》を揺《ゆす》ぶって、 「私《わたい》、厭、厭よ。」 「泣いてるんだよ、おや、ま、どうしたッてこッたろう。驚きますねえ、」  と平手を二ツ乳《ち》の上へあて、目を睜《みは》って、 「しようのない嬰児《あか》ちゃんだよ。」 [#7字下げ]十六[#「十六」は中見出し] 「どうにかしてやっておくれ、面倒だから。」  梓は膝からトンを掻退《かいの》けて、座も言葉も更《あらた》めて言った。 「さあ、あなた、」とこれもちゃんと極《きま》って背《せな》に手を掛けると、訳もなく振払って、 「厭です。」 「拗《すね》るもんじゃあありません、あの方が来ていらっしゃるのに、何が気に入らないで、じれてるんですよ、母様《おっかあ》は知らないよ。」  といって一つ打《ぶ》つ。 「痛いよ、」 「嘘ばッかり、」 「厭よ。」 「何が厭なんですッてば、よ、焦《じ》れッたい人だ。ええ、」  蝶吉は[#「は」は底本では「が」。以下の本では「は」。『鏡花全集 卷五』(岩波書店、昭和49年3月4日 第2刷發行)、『鏡花全集 巻四』(春陽堂、大正15年9月25日發行)、『湯島詣』(春陽堂、明治32年11月23日發行)、『湯島詣』(春陽堂文庫、春陽堂、昭和22年10月20日復刊第一版發行)]身顫《みぶるい》して、 「姐《ねえ》さん、」 「才ちゃんは疾《とっく》に帰りました、居やあしませんよ。さあ、さあ、もう聞かなきゃこうして、」 「あれ。」  蝶吉が身悶《みもだえ》するのを、主婦《おかみ》は構わず擽《くすぐ》ったが、吃驚《びっくり》して肩を抱いた。 「おや、本当に旦那、本当に泣いてるんでございますよ。堪忍して下さい、堪忍して下さい、悪かったよ、どうもお前さんただもう嬉しがってるんだろうと思うもんだから、つい知らないで、飛んだことをしたよ。済まなかった、」  極めて後悔し、そのまま首を伸《のば》して、肩に搦《から》んで顔を覗《のぞ》くと、真赤《まっか》になり、可愛《かわゆ》い目を細くして、およそ耐《たま》らないといった様子で、麗艶《あでやか》[#「麗艶」は底本では「艶麗」。以下の本では「麗艶」。『鏡花全集 卷五』(岩波書店、昭和49年3月4日 第2刷發行)、『鏡花全集 巻四』(春陽堂、大正15年9月25日發行)、『湯島詣』(春陽堂、明治32年11月23日發行)、『湯島詣』(春陽堂文庫、春陽堂、昭和22年10月20日復刊第一版發行)]に微笑《ほほえ》んで、 「嬉しい!」とばかりで斜《ななめ》に顔を向けて、主婦《おかみ》の面《おもて》と、神月の横顔を流眄《ながしめ》に見ながら蝶吉は莞爾《にっこり》する。 「畜生。」  小さくなって、 「擽りッこなしよ、私《わたい》はもう擽られると死ぬんですから、酷《ひど》いわ、一番恐いことよ。」といいながら澄《すま》して壁を離れ、裾《すそ》を払って立直る処を、両手で背後《うしろ》から突飛ばした。 「可憎《にくら》しいッたらないんだもの。」  壁には薄《うっす》り、呼吸《いき》の痕《あと》と、濡れた唇が幻にそのまま残って、蝶吉の体は源之助《きのくにや》の肖顔画《にがおえ》が抜出したようになって、主婦《おかみ》の手で座敷の真中《まんなか》へ突入れられて、足も溜《たま》らず、横僵《よこだお》れになったが、男の傍《そば》。  あたかも好《よ》し、梓の膝を枕にして、片手を逆《さかさ》に支《つ》いて起上ろうとしたが、支えかねて半面を隠して倒れた。件《くだん》の御所車を染めた友染の長襦袢《ながじゅばん》は、かわり裏のしどけない、裳《もすそ》をこぼれて媚《なま》めかしい。  男は懐にした手を出しもやらず、眉を顰《ひそ》めて、 「何だね、その形《なり》は。」 「可《よ》くッてよ。」 「可かあない、かみさんが見ているよ。」 「可《い》いのよ、ねえ、おかみさん、」 「どうですか。」と極めて慎重に答えた。主婦《おかみ》は心なく飛込むも異なものなり、そのまま階子段へ引退《ひっさが》るも業腹《ごうはら》なりで、おめおめと見せられる。 「不可《いけな》いッたッてしかたがない。」  とその玉のごとき手を畳に、はったり。 「私《わたい》はもう草臥《くたび》れたんです。」 「重い、しようがないな、おい、ちゃんとおしよ、」と揺り落す勢《いきおい》で、梓は邪険に肩を振った。 [#7字下げ]十七[#「十七」は中見出し] 「あら、髪がこわれてよ、」と少し横になって、蝶吉は片手を上げて仰向《あおむ》けに梓の胸を押えて、恍惚《うっとり》して嬉しそうに、 「鬢《びん》のほつれは枕の咎《とが》よ――あれさ、じっとしていらっしゃい。[#「。」は底本では「、」。以下の本では「。」。『鏡花全集 卷五』(岩波書店、昭和49年3月4日 第2刷發行)、『鏡花全集 巻四』(春陽堂、大正15年9月25日發行)、『湯島詣』(春陽堂、明治32年11月23日發行)、『湯島詣』(春陽堂文庫、春陽堂、昭和22年10月20日復刊第一版發行)]後生だから、」 「構うもんか、怪《け》しからん。」と男はわざと叱るように言って、振落そうとする。  蝶吉は目を瞑《ねむ》って、口をしめ、眉を顰《ひそ》めて、さも切なげに装った、 「頭痛がしてよ、頭痛が、天窓《あたま》が痛いのに、酷《ひど》いことねえ。」 「嘘を吐《つ》け、」 「あなた擽《くすぐ》っておやんなさいまし、」と主婦《おかみ》は焦《じ》れったそうに足踏《あしぶみ》をした。  黙って主婦《おかみ》を見たが、神月は下を向いて、 「止《よ》そう、見ッともないから、[#「、」は以下の本では「。」。『鏡花全集 卷五』(岩波書店、昭和49年3月4日 第2刷發行)、『鏡花全集 巻四』(春陽堂、大正15年9月25日發行)、『湯島詣』(春陽堂文庫、春陽堂、昭和22年10月20日復刊第一版發行)。『湯島詣』(春陽堂、明治32年11月23日發行)では「、」]擽ると最後、きゃっきゃっいってその騒々しいといったらないもの。」 「おや、いつも擽るんだと見えますね、あなたは。」 「え、何、下らない、何を言ってるんだ。まあ、おかみさん、飲むさ、こっちへ来て。」神月はこれをキッカケに片肱《かたひじ》をちゃぶ台に支《つ》いて、やや所在を得たのである、しかたのなかった懐中の手は、猪口《ちょく》を取って、ちょっと上げて、 「飲むさ。」 「いえ、頂きますまい、そんなことでごまかそうたって駄目ですよ。まあ、串戯《じょうだん》は止して早く拵《こしら》えさせますから、寝かしてお上げなさい、本当に酔ってるんですよ、全く苦しそうだわ。」  主婦《おかみ》は一切呑み込んだ顔附であった。神月はそれとはなげに、 「直ぐ帰るんだから、何だよ。」 「ですから誰もあなたにお休みなさいとは申しません。」  と悪く切口上で、別にお燗《かん》を見ようともせず、上口《あがりぐち》に先刻《さっき》から立っていたままで、二階を下りようとする、途端にちゃぶ台の片隅に蹲《つくば》って、洋燈《ランプ》の影で見えなかったトンは、むッくりと跳起《はねお》きて首輪の音をさして座敷からつッと出た。 「どこでそんなに酔わされたんだ、よ。」  神月は期せずして主婦《おかみ》を下に去らしめた件《くだん》の猪口を棄てて、手をその小さな女の胸に置いたのである。  熟《じっ》として、 「存じません。」 「存じないことがあるものか。」 「解《わか》らなくッてよ。」  といって清《すず》しい目をぱっちりと開いた。蝶吉は、男の、凜《りん》とした品の可《い》い、取って二十五の少《わか》い顔を、しげしげと嬉しそうに瞶《みつ》めている。 「それじゃあ、酔わされたんだとはいうまいから、どこで飲んで来た、それなら知ってるだろう。」 「あなた、また叱ろうと思って、厭《いや》よ。そんな真面目《まじめ》な顔をしていらしちゃあ……。だって少しばかりなんですもの、」といい懸けて目を外《そら》し、枕にしている神月の膝を着物の上から撮《つま》んだが、固くちゃんとしているので、指尖《ゆびさき》にかからない、絹布に皺《しわ》を拵えようと、抓《つね》るでもなく、撫《な》でるでもなく、爪《つま》さぐって莞爾《にっこり》して、 「可いじゃあありませんかねえ[#「可いじゃあありませんかねえ」は底本では「可いじゃありませんかねえ」。以下の本では「可いぢやあありませんかねえ」。『鏡花全集 卷五』(岩波書店、昭和49年3月4日 第2刷發行)、『湯島詣』(春陽堂、明治32年11月23日發行)。以下の本では「可いぢやあゝりませんかねえ」。『鏡花全集 巻四』(春陽堂、大正15年9月25日發行)、『湯島詣』(春陽堂文庫、春陽堂、昭和22年10月20日復刊第一版發行)]、少しばかり、偶《たま》なんですもの、大丈夫さ。」 [#7字下げ]十八[#「十八」は中見出し] 「大丈夫? そうさ、また大丈夫でなくったって誰が何というものか、酒はお前さんが飲むんじゃあないか、そしてお前さんが酔ったんだろう、芸者の蝶吉が酒に酔ったって、私にゃあ甘くも辛くもない、何も難しいことはありません。」と向《むこう》へ押遣《おしや》ると、銚子《ちょうし》が袴《はかま》を着けたままで、盤の上をするすると歩いた。杯は一個《ひとつ》横になって、飲みさしが流れていた。あえてこれを細《こまか》く断る必要はないけれども、ちょうどその銚子が歩いた時、蝶吉が起きたからのことである。  梓の羽織の袖に、髷《まげ》の摺合《すれあ》うばかり附着《くッつ》いて横坐《よこずわり》になったが、鹿爪《しかつめ》らしく膝に手を置き、近々と顔を差寄せて、 「おや、異《おつ》う仰有《おっしゃ》いますね、異《おつ》なことを。何ですッて、」  蝶吉は詰め寄りそうにしていった、梓は今|辷《すべ》らした銚子を更に手許《てもと》へ引いて、 「まずお酌でもして頂こうかね、お燗《かん》ざましじゃあありますけれども、」 「ふん、」と言ったばかりで澄《すま》して見ている。 「いかがでございましょう、頂く訳には参りませんか、どうです、蝶さん、ここに是非|一番《ひとつ》君のお酌をという、厄介な、心懸《こころがけ》の悪いのが出来上ったんですが、悪うございますか。」 「はあ、随分|宜《よろ》しゅうございましょう。」  梓は猪口《ちょく》を拾って、杯洗の水を切り、 「結構な訳ね、宜しければ、どうぞこれへ、」 「おやおや唯今《ただいま》内の人におことづけをなさいました、蝶吉|姐《ねえ》さんに酌をして欲しいと仰有いますのは、ちょいとお前さんかい。」 「私《わたくし》でございます。」 「おお、心懸の可《い》い奴《やつ》じゃ、宜しい。さあぐッとお飲み。余り酔わないように致せ、これ、女房《かみさん》がまた心配をするそうじゃからな。」 「畏《かしこま》りましたが、一向さようなものはございませぬ。」 「なくても今に出来ます。その心懸なればきっと出来るから、さよう心得るじゃぞ。」 「はい。」 「一体、容子《ようす》が可《よ》くッて、優しくッて、それで悪くまた学問とかがお出来遊ばしゃあがって、知った顔をしないでな、若殿様のようで、世話に砕けていて、仇気《あどけ》なくって可愛らしくッて、気が置けなくッて、その癖|頼母《たのも》しい、き様は女殺《おんなころし》じゃ。よくない奴じゃぞ。方々の女の子が皆《みんな》で騒ぎゃあがるで、可哀《かわい》そうに蝶吉が気ばかり揉《も》んでいるわえ、なぜそうじゃろかな。不心得な奴じゃ、その分には差置かれぬぞ。」と覚束《おぼつか》なげに巡査の声色《こわいろ》を佳《い》い声で使いながら、打合せの帯の乳の下の膨らんだ中から、一面の懐中鏡を取出して、顔を見て、ほつれ毛を掻上《かきあ》げた。その櫛《くし》を取直して、鉛筆に擬《なぞら》えて、 「コヤコヤ、いつかも蝶吉がお花札《はな》を引いた時のように警察の帳面につけておく。住所、姓名をちゃんと申せ、偽るとためにならぬぞ。コヤ、」と一生懸命に笑《わらい》を忍んで、細《ほっそ》りした頬を膨らしながら、唇を結んで真面目である。最初《はじめ》は何か取合って遊ぶ意《つもり》だった梓もあんまりだから、 「何だ、馬鹿々々しい。」 「コヤ、巡査に向って何だ、馬鹿々々しい、き様は失敬な奴じゃな。」 「可加減《いいかげん》にしておけよ、面倒臭い。」  蝶吉はちょっと膝を突《つッ》ついて、 「よう、巡査《おまわり》ごとをしようよ、よう、可笑《おかし》くッてよ。」  梓は叱る訳にもゆかず、苦笑一番して、 「暢気《のんき》なもんです。」 [#5字下げ]手鞠の友[#「手鞠の友」は大見出し] [#7字下げ]十九[#「十九」は中見出し]  神月梓は学士である。同窓の朋友の間にも、その温雅なる風采《ふうさい》と、秀麗なる容貌《ようぼう》と、学識の豊富なるをもって聞えた、俊才で、且つ人魂《ひとだま》と、流星と、意見の衝突以来、不快の念を抱《いだ》いて、頃日《ちかごろ》夫人の許《もと》を辞して、谷中の寺に隠れたけれども、梓は子爵家の婿君である。すなわち華族の殿様であって見れば、世に処してかかる待合などには出入《ではいり》すべき身分ではない。  もっとも地位あり、名声ある人の芸妓遊《げいしゃあそび》をせぬという限《かぎり》はない、立派に客たる品位を保って、内に疾《や》ましい処がなければ、まだしも世間は大目に見ようが、梓はさる身分でありながら、一待合の女房を見て、これを(おかみさん)といって自ら謙《へりくだ》り、相手の芸妓《げいしゃ》を捕《つかま》えて、おい[#「おい」に傍点]とも、こら[#「こら」に傍点]ともいうのではない、お蝶さん、おまえさんは、という調子たるや、蓋《けだ》し自ら卑《いやしゅ》うしたるものだと謂《い》わざるを得ぬ。  少くとも青年の佳士《かし》、衣冠正しい文学士が、譬《たと》えば二人|対向《さしむか》いの時、人知れずであろうとも独《ひとり》省みて恥辱でないことはない。  しかるに、梓は旧《もと》仙台の生《うまれ》で、土地の塗物師《ぬりものし》の子であったが、豊《ゆたか》なる家計の下《もと》に育ったものではなかった。使《つかい》に行《ゆ》く問屋の旦那にも、内へ注文に来る余所《よそ》の小父さんにも、隣家《となり》の士官の奥方にも、向《むこう》の質屋の番頭にも、いつも、可愛がられてはいたけれども、未《いま》だ敬礼された覚《おぼえ》がないので、人に逢えばまず此方《こなた》から挨拶をするもののように、余儀なくされて育ったのである。  加うるに、その母親というのは、その始《はじめ》江戸から住替えて来た有名な芸妓《げいしゃ》だった、のみならず、これを便《たよ》って同じ仙台の土地へ後から出て来た母の妹夫婦も、また甚だ不遇で、年も措《お》かず夫が亡《なく》なったので活計《たつき》を失うと、女の子が二人あったのが、姉妹《きょうだい》揃って苦界に身を沈《しずめ》た。前世の因縁とでもいうのか、父の姉の子が一人、梓より年上であったのが、それもまた同じ勤《つとめ》の止《や》むを得ぬ境遇であったから、中の好《い》い従姉妹《いとこ》が三人、年紀《とし》の姉なると、妹なると、皆《みんな》お嬢様ではおらず、女房にもならず、奥様にはもとよりなり、揃って世の中から畜生|呼《よば》わりをされる身《からだ》で。  母親は若死《わかじに》した、やがて父親も亡《なくな》った。その遺言に因れば、梓の実の姉が一人ある。内の都合で、生れると直ぐ音信《いんしん》不通の約束で他へ養女に遣わしたのが、年を経て風の便《たより》に聞くと、それも一家《いっけ》流転して、同じく、左褄《ひだりづま》を取る身になったという。野辺の送《おくり》が済んで、七々四十九日というのに、自ら恥じて、それと知りつつ今まで遂《つい》に音信《おとずれ》なかった姉者人《あねじゃひと》、その頃|一《ある》豪商の愛妾になっていたのが尋ねて来て、その小使《こづかい》と、従姉妹三人が竜の腮《あぎと》を探るような思《おもい》をして工面をしてくれた若干金とで、ようよう後弔《あととむらい》も出来たくらい、梓の家《うち》は窮していた。  もっとも小学を卒《お》え、中学に入《い》って、ちょうど高等学校に入っていたその学資は、父が膏血《こうけつ》を絞ったものであることはいうまでもないが、従姉妹達が銘々、自分の境遇を悲しむ余りに、一門の中からせめて一人、梓さんが男だからと、石筆を持って来る、算盤《そろばん》を買って来る。本の栞《しおり》に美しいといって、花簪《はなかんざし》の房を仕送れば、小《ちいさ》な洋服が似合うから一所に写真を取ろうといって、姉に叱られる可愛《かわゆ》いのがあり。 [#7字下げ]二十[#「二十」は中見出し]  学校の帰途《かえるさ》、驟雨《にわかあめ》に逢えば、四辻から、紺蛇の目で左褄《ひだりづま》というのが出て来て、相合《あいあい》で手を曳《ひ》いて帰るので、八ツ九ツ時分、梓は酷《ひど》く男の友人に疎《うとん》じられた。人は皆竹馬の友を持ってるけれども、梓はかえって手鞠、追羽子《おいはご》の友を持っていたのである。  父親《てておや》が亡《なくな》って、姉が初めて訪寄《といよ》ったのが機会で、梓は高等学校の業を卒《お》えて上京した、学資は姉の手から――その旦那の懐中から――出たのであるが、学年中途にして志|未《いま》だ成らず、年紀《とし》はようよう梓より二ツ上の姉が、両親の後を追って、清く且つ美しい一輪の椿、床の花瓶《はないけ》をほつりと落ちた。  最後にその三人《みたり》の従姉妹《いとこ》が、頭のもの、帯一本、指環《ゆびわ》を一ツ売ったという、二十円|余《あまり》二月足らずの学資を達引《たてひ》いてくれたまでで、あわれ一|人《にん》は目を煩い、一人は気が狂ったようになり、いま一人は人に連れられて北海道に渡ったという、音信《おとずれ》があって、それなりけり。  という境遇であったので、幼少の折から、紅《くれない》の曙《あけぼの》、緑の暮、花の楼《たかどの》、柳の小家《こいえ》に出入《ではいり》して、遊里に馴《な》れていたのであるが、可懐《なつか》しく尋ね寄り、用あって音信《おとず》れた、往《ゆ》くさきざきは、残らず抱《かかえ》であり、分《わけ》であり、いずれも主人持のことであるから、勢《いきおい》已《や》むことを得ず、帳場に片膝立てている女房に挨拶をせねばならず、奥に掻巻《かいまき》を懸けて昼寝をしている、亭主に天窓《あたま》を下げねばならない。  単にそう云えば梓が酷《ひど》く意気地《いくじ》のないように聞えるけれども、人の召使は我が召使ではない、玄関番の書生が、来客の履《くつ》を取って送迎するのを見て、来客たるもの、自家を尊大にして己《おのれ》に従うものだと思うのは失敬であろう。履を取るはすなわち主公に使うるの道で、あえて来客に対する礼ではないから。  芸妓《げいしゃ》も自家これに客となって、祝儀を発奮《はず》み、玉《ぎょく》を附けて、弾け、飲め、唄え、酌をせよ、と命令を奉ぜしめた時ばかり、世の賤業を営むものとおとしめて宜《よろ》しいけれども、臂鉄砲《ひじでっぽう》に癇癪玉《かんしゃくだま》を込めた、ドンを啖《くら》い、鳩玉《はとまめ》で引退《ひきさが》るに当ってや、客たるものは商となく、工となく、武となく、文となく、戦《たたかい》に敗《ま》けたものと謂《い》わなければならない、いわんや、さッさと貰われてのッけから、対手《あいて》にされざるものにおいてをや。  忘八《ぼうはち》の亭主、待合の女房《おかみ》といえども、己《おのれ》遊客となってこれが敬礼を受ける場合でなく、一個人としてここに訪《と》い寄れば会釈をしなければならない数《すう》で。  たとい、売淫婦といえどもその妹《いもと》たるものは、淑女であっても渠《かれ》は姉さんである。たとい山賊といえども、山路におのれ蹈迷《ふみまよ》った時|寸毫《すんごう》の害も加えられずして、かえって此方《こなた》より道を聞いて、麓《ふもと》に下りることを得たりとせんか、渠は恩人である。世を害するものなりといって訴人に及ぶは情において忍ばるる処ではあるまい。しかるにこれを訴人して、後にざまあ見ろをくらって、のり血《べに》になって悶《もが》くのは、芝居でも名題の買って出ぬ役廻《やくまわり》であろう。  母をはじめ、姉、従姉妹、幼時における梓が七情を支配したものは、皆苦労人であった。あえてこれ天下に憚《はばか》る処なしといえども、しかれども、数《すう》の奇なるもの、顧《かえりみ》れば無慙《むざん》な境遇。 [#5字下げ]湯帰り[#「湯帰り」は大見出し] [#7字下げ]二十一[#「二十一」は中見出し]  梓が上京して後東京の地において可懐《なつかし》いのは湯島であった。湯島もその見晴《みはらし》の鉄の欄干に凭《よ》って、升形の家が取囲んでいる天神下の一|廓《かく》を詠《なが》めるのが最も多く可懐しかった。  可懐しさもまるで過世《すぐせ》の夢をここに繰返すようなもので、あえて、ここで何等のことを仕出《しいだ》したことはないが、天神下はその母親の生れた処だということについてである。  されば故郷を去って独り寄宿舎に居る、内気な、世|馴《な》れない、心弱い、美少年は、その界隈《かいわい》に古びた廂《ひさし》を見ては、母親の住んだ家ではあるまいかと思い、宮の鰐口《わにぐち》に縋《すが》っては、十七八であった時の母の手が、これに触れたのであろうと思い、左側に竝《なら》んだ意気な二階家の欄干、紅裏《もみうら》の着物が干してある時、夜《よ》は殊に障子に鏡立《かがみたて》の影の映る時、いつもいつも心嬉しく姿寂しく、哀れさ、床しさが身に染みて、立去りあえず彳《たたず》むのが習《ならい》であったが、恋しさも慕《したわ》しさも、ただ青海《あおうみ》の空の雲の形を見るように漠然とした、幻に過ぎなかった。しかるにある時、それを形に現《あらわ》して、梓の感情を支配する、すなわち、床しい、懐しい念のすべてをもって注ぐべき本尊、譬《たと》えば婦人が信仰の目じるしに、優しい、尊い、気高い、端厳微妙《たんげんびみょう》なる大悲観世音の御姿《みすがた》を持ってるようなものが出来たのである。  ちょうど玉司子爵の令嬢いまは梓の夫人たる竜子から、まだ仏文の手紙の来ない先、姉が死んで、従姉妹《いとこ》が離散して、学資が途切れたので、休学して、しばらく寄宿舎を退《しりぞ》いた間、夫婦で長屋を借りて世帯を持っていたいささかの知己《しるべ》の処に世話になったが、その主人《あるじ》また大の貧窮で店立《たなだて》を命ぜられて、一日《あるひ》九尺二間の城を明渡すの止《や》むを得ざることに立至った。その日も梓は例のごとく、不遇の身を湯島の境内に彷徨《さまよ》わせて、鉄欄干に遣瀬《やるせ》のう時を消して暮方に家に帰ろうとする、途中で会った友達夫婦が、一台の荷車の両脇に附添って、妻恋《つまごい》の下通《したどおり》を向うから曳《ひ》かせて来て、 (天神下の××番地へ引越す、後から来たまえ。) (神月さん、その時この車に附けあまったがらくたを隣家《となり》へ預けて来たんですから、車を雇って持って来て下さいな。)  と暢気《のんき》なもので別れて行った。意を了して、その頃|同朋町《どうぼうちょう》に店借《たながり》をしていた長屋に引返《ひっかえ》して、残りの荷物を纏《まと》めたが、自分の本箱やら、机やら、二人|乗《のり》には積み切れないで、引越車をまた一輛。  天神下までは路《みち》も近し、洋燈《ランプ》を手にして宰領して、男坂の裏を抜けて、目的《めあて》の処へ行《ゆ》くと、さあ知れない。  向うが言い違えたか、こっちで聞違えたか、覚えた番地を差配にまでかかって尋ねたが、皆《かい》くれ分らず、荷車について、ぐるぐる廻ってる、日は暮れる、暗くなる、二三|時《とき》もかかったので、間が抜けてるじゃありませんか、と曳子《ひきこ》はぶつぶつ叱言《こごと》をいう。引返《ひっかえ》した処で寝る家もない場合。梓一人が迷惑して困《こう》じ切っている処を、灯《あかり》がないと、交番で咎《とが》められたが、提灯《ちょうちん》の用意はなし、お前さん。その手に持ってる洋燈をお点《つ》けなさい、と曳子は中《ちゅう》ッ肚《ぱら》だから口の裡《うち》で、幾たびも、ヘン間抜《まぬけ》だな。 [#7字下げ]二十二[#「二十二」は中見出し]  さるほどに神月梓は、暗夜、町中《まちなか》に灯《ひとも》した洋燈《ランプ》を持って、荷車の前に立たせられて、天神下をかしこここ、角の酒屋では伺います、莨屋《たばこや》の店でも少々、米屋の窓でもちょいとものを。いずれも知らない、存じませんな、を言わるるたび、背後《うしろ》から、噛着《かみつ》くように叱言《こごと》をくッて、ほとんど耐《こら》え切れなくなると、雨が降出した。  梓は蒼《あお》くなるまでに、果《はて》は気を苛《いら》って、額がつッぱると思うほどな癇癪筋《かんしゃくすじ》、一体大人しく、人に逆らわず、争わないだけ、いつもは殺しておく虫があるのでむらむらと、来た。それに気が小さいから、取詰めて、持ってる洋燈をこの荷車に叩きつけよう、そして粉微塵《こなみじん》に砕けたら、石油に火が移ってめらめらと燃えて無くなるであろうとまで思った。これはしかねない少年であった。  その時、黒縮緬《くろちりめん》の一ツ紋。お召《めし》の平生着《ふだんぎ》に桃色の巻《まき》つけ帯、衣紋《えもん》ゆるやかにぞろりとして、中ぐりの駒下駄、高いので丈《せい》もすらりと見え、洗髪《あらいがみ》で、濡手拭《ぬれてぬぐい》、紅絹《もみ》の糠袋《ぬかぶくろ》を口に銜《くわ》えて、鬢《びん》の毛を掻上《かきあ》げながら、滝の湯とある、女の戸を、からりと出たのは、蝶吉で、仲之町からどこにか住替えようとして、しばらくこの近所にある知己《ちかづき》の口入宿《くちいれやど》に遊んでいた。年紀《とし》十七の夏のはじめ、春の名残《なごり》に降ろうとする大雨の前で、戸外《おもて》は真暗《まっくら》な出会頭《であいがしら》。蝙蝠《こうもり》が一羽ひらひらと地を低《ひ》くう飛んだと見た、早や戸を閉めた縄暖簾《なわのれん》を洩《も》れて二筋三筋|戸外《おもて》にさす灯の色も沈んだ米屋を背後《うしろ》に、此方《こなた》を向いて悄然《しょんぼり》洋燈を手にして彳《たたず》んでる一個白面の少年を見たのである。梓その時はその美しい眉も逆釣《さかづ》ッていたであろう。まさに洋燈を取って車の台に抛《なげうた》むとする、眦《めじり》の下《さが》ったのは蝮《まむし》より嫌《きらい》な江戸ッ児《こ》肌。人見知《ひとみしり》をせず、年は若し、かけかまいのない女であるから、癇癪が高ぶって血も逆《さかのぼ》らんとする、若い品の良《い》いのを見て嬉しくッて耐《たま》らず、様子を悟って声を懸けた。 (ちょいとどこへいらっしゃるの、)  一幅《ひとはば》の赤い灯《ともし》が、暗夜を劃《かく》して閃《ひらめ》くなかに、がらくたの堆《うずたか》い荷車と、曳子《ひきこ》の黒い姿を従えて立っていたのが、洋燈を持ったまま前へ出て、 (家《うち》を探してるんです。)と内心に激したれば声も鋭く答えたのである。  蝶吉は莞爾々々《にこにこ》しながら、愛想よく仔細《しさい》を尋ねて、 (そう、今日お引越《ひっこし》なすったの、何でしょう、兵児帯《へこおび》をして、前垂《まえだれ》を懸けた、肥《ふと》った旦那と、襟のかかった素袷《すあわせ》で、器量の可《い》いかみさんとが居る内でしょう。そうなの、それじゃあついそこなんだわ。)といって、濡手拭で指《ゆびさし》をしてくれた。蝶吉はその長屋の表通《おもてどおり》の口入宿に居たのであった。  この口入宿の隣家《となり》は、小さな塩煎餅屋《しおせんべいや》で、合角《あいかど》の花簪《はなかんざし》を内職にする表長屋との間に露地がある。そこを入ると突当《つきあたり》が黒板塀。ついて右へ廻ると粋《いき》な格子戸の内に御神燈を釣《つる》したのがあるが、あらず、左へ向うと、いきなり縁側になって、奥の石垣が見透《みとお》される板屋根の小家《こいえ》がある、そこが引越先であった。  この一廓は、柳にかくれ、松が枝《え》に隔てられ、大屋根の陰になり、建連《たてつらな》る二階家に遮られて、男坂の上からも見えず、矢場が取払われて後、鉄欄干から瞰下《みおろ》しても、直ぐ目の下であるのに、一棟の屋根も見えない、天神下のかくれ里。 [#5字下げ]描ける幻[#「描ける幻」は大見出し] [#7字下げ]二十三[#「二十三」は中見出し]  さて件《くだん》の花簪屋と煎餅屋との間の露地口の木戸は、おしめ、古下駄等、汚物《よごれもの》洗うべからずの総井戸と一般、差配様《おおやさん》お取極《とりきめ》で、紙屑拾不可入《かみくずひろいいるべからず》、午後十時堅く〆切《しめきり》。  梓が引越してから五日目の夜、十時を過ぎて帰ることがあった。木戸へ来ると、鍵がかかっていた。向うの湯屋では板の間を磨《こす》る音、男坂下なる心城院の門も閉《しま》って、柳の影も暗く、あたりは寝て、切通《きりどおし》の方《かた》には矢声高く、腕車《くるま》の疾《と》く軋《きし》るのが聞えたが、重宝なもので、煎餅屋の店から裏長屋へ抜けられるのだから、木戸を閉切ったあとはこれが例、女房が見つけて、ちゃんと心得、 (書生さんの旦那、お穿物《はきもの》をお提げなすって、こちらから。)と言ってくれた。  極《きまり》も悪し、面《おもて》を背けて店口から奥へ抜けようとすると、同《おなじ》く駒下駄を手に提げて裏口からはらりと入って来た、前日の美人とぱったり逢った。袖も摺合《すれあ》うばかり敷居で行違《ゆきちが》う。振《ふり》の明《あき》から溢《こぼ》れる緋《ひ》の長襦袢《ながじゅばん》が梓の手にちらちらと搦《から》むばかり、颯《さっ》とする留南木《とめき》の薫《かおり》。顔を見合せて、 (失礼、) (……………) (ちとお遊《あそび》にいらっしゃいな。)と言い棄てて、それでもまだ答をしない中《うち》に、早やばたばたと戸外《おもて》へ出たが、 (おばさん、お邪魔様、)と言いさまに口入宿の表の戸がらがら、鈴を鳴らして入った。蝶吉は今夜裏なる常盤津《ときわず》の師匠の許《もと》に遊びに行った帰《かえり》であった。  梓は幾ほどもなく仏文の手紙を得て、この隠家《かくれが》を出て、再び寄宿舎の卓子《テイブル》にバイロンの詩集を繙《ひもど》いて粛然とする身になったが、もとより可懐《なつか》しい天神下はますます床しいものと成り増《まさ》ったのである。  今こそあれ、件《くだん》の美人を梓は誰なりと知る由なく、ただかの時と、その時と再度のみ。それもつくづく見たのではないから、年紀《とし》のほども顔立《かおだて》もよくは分らなかったけれども、ただ彼が風俗は一目見て素人でないことを知った。宛《えん》たるこの大都の芸妓《げいしゃ》の風俗、梓はぞっとしたのである。  しかも窮苦|極《きわま》りなきに際して家を教えられたのであるから、事は小なりといえども梓は大《おおい》なる恩人のごとくに感じた。感ずるあまり、梓は亡《なき》母が仮に姿を現《あらわ》して自分を救ったのであろうと思った。あえてここに更《あらた》めていう、梓の母は芸妓《げいしゃ》であった。そして天神下はその生れた処である。  幾多の星霜を経てはいるけれども、かしこの柳、ここの松、湯屋も古くからあるというし、寺の門前のは今もあたりの女の子が、打集うては遊んでいる、鞠唄《まりうた》も唄うている、廂《ひさし》、軒、土の色も有の儘《まま》。これがむかし母親の住んだ家《うち》ではないかと心の迷うのも慕わしさの余《あまり》、しばらく住んでいた、破屋《あばらや》の太《いた》く古いのにつけても、もしやそれかと、梓はあたかも幻というものを画《え》に描《か》いて、目にこれを見るような思《おもい》がした。それこれの聯想《れんそう》から、誰とも知らず、その頃の蝶吉を、母の俤《おもかげ》に肖《に》たように思ってた折から、煎餅屋の店で行違った時も、母があたかもその年紀《とし》で、その頃、同じことを、ここでして、こうして育ったのであろうと、あたかも前世紀の活《い》きた映画《うつしえ》に接するがごとく感じたのである。 [#5字下げ]朝参詣[#「朝参詣」は大見出し] [#7字下げ]二十四[#「二十四」は中見出し]  梓が大学の業を卒《お》えて、仏文の手紙の姫、年紀《とし》は二ツ上の竜子に迎えられて、子爵の家を嗣《つ》ぐ頃には、地主の交替か、家主の都合か、かの隠家の木戸は釘附《くぎづけ》の〆切《しめきり》となって、古家の俤《おもかげ》も偲《しのば》れなくなった。構外《かまえそと》を廻って見ると、今までとは方面の違った町の側、酒屋の蔵の廂合《ひあわい》に一条《ひとすじ》仄《ほの》暗い露地が開かれた。大方そこから旧《もと》の借家へ通ずることが出来るのであろうと思うばかり、いうまでもなく、先に世話になった友人夫婦は、疾《と》くに引越して行方《ゆきがた》知れず、用もない処、殊に、向合って御膳《ごぜん》を食べる、窓から手を出して、醤油《おしたじ》を借りようという狭い露地内へ、紋着《もんつき》の羽織でうそうそ入られたものではない。入って見られず、伺うて分らなくなると、ますます可懐《なつか》しさは増《まさ》ったけれども、これまでと違って玉司子爵梓氏となってからは、邸《やしき》を出入の送迎も仰々しく、往来《ゆきき》の人の目にも着く、湯島のそぞろ歩行《あるき》は次第に日を措《お》き、週を隔つる[#「隔つる」は底本では「隔てる」。以下の本では「隔つる」。『鏡花全集 卷五』(岩波書店、昭和49年3月4日 第2刷發行)、『鏡花全集 巻四』(春陽堂、大正15年9月25日發行)、『湯島詣』(春陽堂、明治32年11月23日發行)、『湯島詣』(春陽堂文庫、春陽堂、昭和22年10月20日復刊第一版發行)]ようになったが、遠いが花の香で、床しさはまた一入《ひとしお》。  梓はその感情をもって、その土地で、しかも湯島|詣《もうで》の朝《あした》、御手洗《みたらし》の前で、桔梗連《ききょうれん》の、若葉と、幟《のぼり》と、杜鵑《ほととぎす》の句合《くあわせ》の掛行燈《かけあんどう》。雲が切れて、梢《こずえ》に残月の墨絵の新しい、曙《あけぼの》に、蝶吉に再会したのである。  今日しも寄宿舎の紅茶会で、竜田若吉が言ったごとく、梓はその時もある意味をもって、蝶吉に助けられた。  些細《ささい》なことだけれども、一体貧窮刻苦の中に育った人の、文学士で玉司子爵夫人の恋婿でありながら、ちっとも小遣《こづかい》などは気にしないので、持って来たとも覚えず、忘れて来たとも知らず、落したのか、紙入というものを持合さず、水を注《すす》ごうとして干杓《ひしゃく》を取ると、 (水銭をおくんな。)と豆を装《も》ってならべてある土器《かわらけ》の蔭から、丸々ッちい、幼い顔を出されて、懐を探るとない。袂《たもと》に手を入れるとない。左にもない、帯の間にはもとよりない。  思わず、どぎまぎして呟《つぶや》いた。 (どうした知らん。) (水銭をおくんな。)  梓は極《きまり》が悪いので、 (おや、おや。)と疑わしそうに言ったけれども、一種の見得で、自分には掏《す》られたあてもないのである。  子供は同じことを、 (水銭をおくんな。) (まあ、懐中を忘れたそうだよ。)  目をぱちくりして、委細構わず、 (水銭をおくんな。)  ただ六ツばかりの小児《こども》に対しても、梓は性《さが》としてこれには顔を赧《あか》くして、立場なく後へ退《さが》ろうとする。背後《うしろ》に立ったのが、朝参《あさまいり》の婀娜《あだ》たる美人で、罪もなく莞爾々々《にこにこ》しながら、繻子《しゅす》の不断帯の間から、膨《ふっく》りと懐紙に包んだ紙入を抜いて取り、掌《てのひら》に拡げて緋地《ひじ》の襤褸錦《つづれにしき》の紙入を開いた中から、指で環《わ》を拵《こしら》えたような、小さな玩弄《おもちゃ》の緑の天鵝絨《びろうど》の蟇口《がまぐち》を引出して、パチンとあけて、幼児《おさなご》が袂の中を覗《のぞ》くように、あどけなく、嬉しそうに、ぱっちりした目を細めて見ながら、一片《ひとひら》の、銀の小粒を、キラリと撮《つま》んで、向うへ投げた。 (小僧さん、旦那様の分もあるんだよ。)  梓は屹《きっ》となった。  美人は顧みて嫣然《えんぜん》として、 (あなたや、さあ、手をお出しなさいな。)  梓はここに到って、胸中まず後の謝恩を決しながら、衝《つ》と差出した、医師のごとく、爾《しか》く綺麗な手に、一杯の清水《せいすい》、あたかも珠《たま》のごときを灌《そそ》いで、颯《さっ》と砕けると更に灌いだ、雫《しずく》も切らせず、 (私《わたい》のを使って下さらなくッて。)と落着いて、静《しずか》に秋波《ながしめ》に視《み》ていいながら、ちょいと、仰向《あおむ》いて  端を引いた、奉納の手拭《てぬぐい》、いまだ手摺《てずれ》もなく新しい。  茶色の地に、白で抜いて、数寄屋町、大和屋内――ちょう吉――とある。 (姐《ねえ》さん、きっとお礼をする、)と梓は心を籠《こ》めてはじめていった。 (あら、何ですよ、) (いいえ、)と押えて、そのまま別れて敷石の上を渡った。額堂の軒、宮の廂《ひさし》、鳥居の下《もと》、御手洗《みたらし》の屋根に留まった鳩が、あちらこちらしばしば鳴いて、二三羽、二人が間をはらはらと飛交わした。納豆々々の声|遥《はるか》に、人はあたりになかったのである。――この間二年|余《あまり》相たち申候《もうしそうろう》。歌枕の今夜の逢曳《あいびき》。 [#5字下げ]言語道断[#「言語道断」は大見出し] [#7字下げ]二十五[#「二十五」は中見出し] 「ちょいと今夜は私《わたい》嬉しいわねえ、こないだから塩梅《あんばい》が悪くッて、それにお前さんは久しくおいでなさらないし、鬱《ふさ》いでばかりいたんですよ。」と急にまたしめやかになった。気の変ることの極めて早い、むしろ鋭いといっても可《い》い。この女の心は美しく、磨いた鏡のようなものであろう、月、花、鶯《うぐいす》、蜀魂《ほととぎす》、来《きた》って姿を宿すものが、ありのまま色に出るのである。  梓も可懐《なつかし》げに頷《うなず》いて、 「ついちっとばかり忙しかったもんだから、病気とは聞いていたけれど。」 「精出して勉強をしていたんですか。」 「ああ、」と何気なく答えたがふと気に懸《かか》った様子で浮かぬ顔をした。  蝶吉はもとより何の気もつかないので、 「そう、生意気だねえ。」 「失礼な、人が勉強してるというのに、生意気だということがあるものか。」 「あなたや、馬車に乗ろうと、いうんじゃあなし、詰《つま》らなくッてよ。また煩いでもすると悪いもの。」 「だって怠けてちゃあ食べられませんから、」 「私《わたい》が達引《たてひ》くから可《い》いわ、」といって蝶吉は仇気《あどけ》ない顔に極めて老実な色を装った。梓はこれを聞いて、何か気がさしたような様子であったが、笑《わらい》に紛らして、 「どうぞ宜《よろ》しく、」 「ええ、それはもうね。」 「しかし、私は駒下駄じゃあ厭《いや》なんだ。」と思い切ったという語気で冷《ひやや》かにいって、屹《きっ》と蝶吉を見た、目の中には一種の思《おもい》を籠めたのである。  蝶吉はさも思い懸けなかったらしかった。 「おや、おや、異《おつ》なことを、」といって、澄《すま》したもの。  梓はここに至って居住《いずまい》を直した。 「いいえ、異なことをいうんじゃあない、隠し立《だて》をされてはおかしくないよ、お前、松の鮓《すし》は一体どうしたんだえ、」とさすがに問い兼ねて当らず障らず。 「厭よ、やくのかい、貴方《あなた》気に懸けるような対手《あいて》じゃあなくッてよう、初心らしいことをいって、可笑《おか》しいわねえ。」 「何しろ、全くか。」 「はあ、」と極《きま》り悪げに男と見合ってた顔の筋を動《うごか》して、 「それはあの、何なの、だって私《わたい》は何にも知らないんですもの、」と俯向《うつむ》いて膝の上を、煙管《きせる》で無意識に敲《たた》きながら、 「だってもうそれっきり何だってあんな奴《やつ》は何だろう、それを気に懸けて下さるのは、あんまり可哀《かわい》そうよ、蝶吉じゃあありませんか。」といって自らたゆげに見えて微笑《ほほえ》んだ。 「その事じゃあないよ、お腹《なか》の……」といいかけて、梓は我ながら面《おもて》を背けた。 「まあ、」  黙って、俯向いてしばらくして、蝶吉は顔を赧《あか》らめ、 「貴方、誰に聞いて来て、ようどこから知れたのよ。」 「なに少しばかり気になることを途《みち》で聞いたもんだから、つい、」 「もっとまだその上に知ってるんですか、」  蝶吉は驚いたような声。 [#7字下げ]二十六[#「二十六」は中見出し] 「悪く思ってくれちゃあ困るよ、僕はね、知ってる通《とおり》、遊ぶのはお前がはじめてだ。商売だから嘘を吐《つ》くもんだと思っていたんだけれども、お前が見ッともない、たというそにでも好いたとか、何とかいって、そうして好いた真似《まね》をして見せる分には、好かれた者に違いはないのだから、好かれたんだと思っておいでなされば可《い》い。いやに疑るのは見っともない、男らしくもない、とそういうから、成程そうだと、自分|極《ぎめ》で、好かれてると思ってる。ああ、ずっと惚《ほ》れられたんだと思って、これでも色男に成済《なりすま》しているんだ。だから、何も洗い立《だて》をして、どうの、こうのと、詮議立《せんぎだて》をするんじゃあないけれども、今来る途中で、松の鮨《すし》が、妙なことをいって当《あて》っ擦《こす》ったよ。」 「厭《いや》だ!」  蝶吉は閨《ねや》を透見《すきみ》したものを、辱《はずか》しめ、且つ自分のしどけなかったのを愧《は》ずるごとき、荒ッぽい調子であったが、また自ら危《あやぶ》んで、罪の宣告を促して弱々しく、 「何か言っていましたか。」 「残らず、」と神月はきっぱり言った。 「へい、」と真面目に、蝶吉はたちまち三ツばかりものの言いざまに年紀《とし》を取ったが、急に気を換えて、 「だって、すっかり快《よ》くなってよ。西洋じゃあ皆《みんな》平気ですって。また田舎なんぞには当前《あたりまえ》だと思ってますとさ、私《わたい》もうさっぱりしたんです。  体にも障らなかったといって、今夜ねえ、床上げやら、何やらで、内の姐《ねえ》さんが赤飯を炊いてくれました。そして一杯飲んだんですもの、祝ったくらいじゃあありませんか、不可《いけな》くッて、え、え?」  蝶吉は梓が何か易からぬ面色《おももち》があるのを見て、怪しむ様子。  梓は急に語《ことば》も出でず腕を拱《こまぬ》いて黙然としていた。 「よう、何を鬱《ふさ》ぐのよ、私《わたい》のことなんですか、不可くッて、」 「可いも悪いもお前、」  言語道断だ。 「だってしかたがないじゃあありませんか、」と詮方《せんかた》なげに蝶吉はぱっちりした目を細うして、下目使いで莞爾《にっこり》したが、顔を上げてまじくりして、 「もっとも何なのよ。一度そんなことをしたものは、もうもう一生子供は出来ないッていうのよ。ですけれども、貴方|嬰児《あかんぼ》はいらないんでしょう、ぎゃあぎゃあ泣いて可煩《うるさ》いから大|嫌《きらい》だって言ったじゃあありませんか。ですもの、三ツばかりの児《こ》が、父さん、母さんッて、生意気な口を利くのが可愛いんですから、余所《よそ》から貰うことにでもしましょうッていったら、それさえ面倒だ、可愛い口を利かせるなら鸚鵡《おうむ》を飼えば沢山だッて言ったんですもの。」  梓呆れ果てて言葉なし。  蝶吉はしたり顔で、 「ほら、御覧なさいな、可いじゃあありませんか、私《わたい》も嬰児なんか欲しくないんですから、」  と言い懸けて少し体を斜《ななめ》にして、秋波《ながしめ》で男を見ながら指示《さししめ》すがごとく、その胸に手を当てた。 「こっちのお乳をお菜《かず》にして、こっちの大《おおき》い方をお飯《まんま》にして食べるんだって、」とぐッと緊《し》め附けて肩を窄《すぼ》め、笑顔で身顫《みぶるい》をして、 「厭、痛いわ!」 [#7字下げ]二十七[#「二十七」は中見出し]  梓は耐《たま》りかねて、 「お蝶、」とちと鋭くいうと、いつも叱るのを外《はぐ》らかす伝で、蝶吉は三指を支《つ》いて的面《まとも》に潰《つぶ》し島田に奴元結《やっこもとゆい》を懸けた洗髪《あらいがみ》の艶《つやや》かなのを見せて、俯向《うつむ》けに畏《かしこま》り、 「召しましたは何御用にござりまするな。」と男の仮声《こわいろ》を造って、笑いたさを切なく耐《こら》える風情。余りのことに気の弱い梓は胸が充満《いっぱい》、女が見ないので心の張《はり》が弛《ゆる》んだか、瞶《みつ》めている目にほろりとした。が、思切って、衝《つ》と寄った、膝を膝に突掛《つッか》けて、肩に手を懸けるとうっかりした処を不意に抱起されて、呆れるのを、熟《じっ》と瞶め、 「可哀《かわい》そうだな、お前は不幸《ふしあわせ》に生れて来て、何にも世の中の事というものが分らないんだから、私は何にも咎《とが》めやしない。たといここで、目の前で、やあい、欺《だま》してやった、二本棒め、殺《ころし》を言やあ嬉しがって、色男が聞いて呆れる、ざまあ見やがれと、愛想尽《あいそづかし》を言って舌を出した処で、ちっとも肚《はら》を立てはしない。  いいえ、たとい悔しくッて、肚は立っても、お前を不人情だとも何ともいわないよ。  こうすりゃ薄情だ、不人情だと思ってされてこそ、癪《しゃく》だけれども、ちっとも知らないで言うことなり、することなら、不都合でも何でもなかろう。  だから、何にも言わないが、その何だよ。お前は僕のことを初心だ、坊ちゃんだ、何にも知らないというそうだ。勿論三が下《さが》るものやら二が上《あが》るものやら、節は伸《のば》すもんだか縮めるもんだか、少しも知らない。通だとか粋だとかいうことは、からももんじい[#「ももんじい」に傍点]で分らないけれども、意気だといって、この寒中、綿の入らない着物を着ていりゃ、体に毒だということは知ってるんだ。そしてまたここらの芸妓《げいしゃ》は綿のはいったものを引摺《ひきず》ってるといって、お前の豪《えら》がることも知っている。  成程薄着ですらりとして、そりゃ姿は可《い》いだろう。ものが間違って、馬鹿げていて、仇気《あどけ》ないのが可いとして、わざとさえ他愛ないことをいうようにしこまれるくらいだそうだッてな、字引と首ッ引で、四角い字、難かしい理窟ばかり聞いてた耳に、お前が、訳の分らない、他愛のない、仇気ない、罪のないことを言ってくれるのが嬉しかった。なに面白かったんだ、面白いといやあ慰《なぐさみ》だ。それが段々嬉しくなって、可愛らしくもなり、ついこういうことにもなったんだが、他愛なさも、仇気なさも、お肚《なか》を……可いかい、政府《おかみ》へ知れりゃ罪人だぜ。人にゃあ交際《つきあい》も出来ないようなことをしながら、赤飯を食べさせられて、酔って来るようになりゃ沢山だ。」とひそひそながら声と共に手に力が入ったので、蝶吉は赧《あか》らむ顔を外《そら》しもならず、呼吸《いき》を引くように唇を動かしている。  様子を見守り、 「可哀そうに、決して、それを責めるのじゃあない。さっきも言う通《とおり》、お前がお前だから何とも思いはしないけれど、お前は十九で、私は二十五。七ツ違いの兄さんだ。まあ、妹だと思っていうから聞きな。」 [#5字下げ]下かた[#「下かた」は大見出し] [#7字下げ]二十八[#「二十八」は中見出し]  さればぞ思い当る。一月ばかり前の夜《よ》、同じこの歌枕で会った時、蝶吉はそれとはなく、頻《しきり》に子が一人欲しくはないかといったのを、気にも留めないで聞棄《ききずて》にしたが、松の鮨《すし》の毒口を、ここで聞正せば実際で、梓は思い懸けず、且つ驚き且つ呆れ、あわれにも情《なさけ》なくも思ったのである。  梓はかつて、蝶吉の仇気《あどけ》ない口から、汐干《しおひ》に行って、騒ぎ歩いて、水を飲んだ、海水は塩《しょ》ッぱいということを、さも大《おおい》なる学理を発見したごとくにいうのを聞かせられた。  子供の中《うち》悪戯《いたずら》をして叱られると、内を駈出《かけだ》して、近所の馬鹿|囃子《ばやし》の中へ紛込んで、チャチャチャッチキチッチッと躍っていると、追駈《おっか》けて来た者が分らないで黙って見遁《みのが》しては帰ったが、私《わたい》の顔は今でもおかめの面に肖《に》ているかといって、尋ねられたこともある。  その気であるから、蝶吉がおもてを歩いて、生意気だと思う奴《やつ》には突当ってやるというから、何を弱虫、先方《さき》が怒ったらどうするといって窘《たしな》めれば、打《ぶ》たれそうになったら二十五座へ紛込んで、馬鹿囃子を躍ってよ、と真面目でいうのだから耐《たまら》ない。まさかに今十九にもなって、そうとは信じもすまいけれども、口でいうような幼心《おさなごころ》は、今もなお残っている。堕胎《だたい》をしたものは刑法の罪人だといえば、何の事かもとより分らず、お前巡査に捕《つかま》って牢《ろう》へ入れられなけりゃならないといえば、また二十五座へ遁込《にげこ》んで躍るというであろう、手のつけられたものではない。  さまでに世の中の事というものが分らない生立《おいたち》が、馴染《なじ》むに従って知れれば知れるほど、梓は愛憐《あいれん》の情の深きを加えた。  さらぬだに蝶吉は恩人である。殊に懐旧の情に堪えざる湯島の記念がある上に、今はある者は死し、ある者は行方の知れない、もの心を覚えてから、可懐《なつか》しい、恋しい、いとおしい、嬉しい情を支配された、従姉妹《いとこ》や姉に対するすべての思《おもい》を、境遇の斉《ひと》しい一個蝶吉の上に綜合して、その情の焦点を聚《あつ》めているのであるから身にかえても不便《ふびん》でならぬ。  まして打明けた蝶吉の身の上を悉《くわ》しく知ってからは、謂《い》うべからざる同情の感に打たれたのである。  梓は何となくよく似た身の上だと思った。  蝶吉の母親は旧《もと》京都のしかるべき商賈《しょうこ》の娘であったが、よくある、浄瑠璃《じょうるり》の文句にある、親々の思いも寄らぬ夫《つま》定めで、言い交《かわ》した土佐の浪人とまだ江戸である頃遁げて来た。二人で根岸に隠れている中《うち》、時世《ときよ》といい、活計を失って、仲之町の歌妓《うたひめ》となった、且つ勤め、且つ夫に情を立てて、根岸に通っている内に、蝶吉は出来たので。  子持の母も芸で通り、馴染《なじみ》の座敷では小女《こおんな》が連れて来ると、背後《うしろ》を向いて、三味線を下に置いて、懐を開けて乳房を含ませるという境遇であったが、誕生を済《すま》して、蝶吉がようやく立って歩くようになると、根岸では、父が病《やまい》の床に倒れたがまた起《た》たなくなった。  越えて三歳《みッつ》になる時、母親は蠣殻町《かきがらちょう》の贔屓客《ひいききゃく》に、連児《つれこ》は承知の上|落籍《ひか》されて、浜町に妾宅を構えると、二年が間、蝶吉は、乳母《おんば》日傘で、かあちゃん、かあちゃんと言えるようになった。 [#7字下げ]二十九[#「二十九」は中見出し]  それもしばらく、米屋町は米の上り下りで人間の相場が狂い、妾宅の主人は大失敗で、落魄《らくはく》して、最後に一旗という資本がないので、心まで淋しくなり、蝶吉の母に迫って、その落籍《ひか》しただけの金員耳を揃えて返せという。  蝶吉の母は根岸の情人《いいひと》が亡《なく》なってから、世を味気なく、身をただ運命に任せていたので、いうことに逆らわず、芳町から再勤したが、足りない金子《かね》は、家財を売って、それでもまだ償われなかったので、蝶吉を仲之町の大坂屋というのに預けた、年期が十三年。  廓《くるわ》の抱妓《かかえ》の慣例として、色はきっと売らさぬ代り、芸事にかけてはいかなる手段をもって仕込んでも差し支えはない、少々痛いおもいをさせてもという口約束をしたのであるから、そのせたげようと云ったら方外な。  座敷は三人が一組、姉株の芸妓《げいしゃ》が二人、これに蝶吉が、下方《したかた》を持って跟《つ》いて行《ゆ》くのであった、といって、いつか雪の降る夜《よ》、身の毛を悚立《よだ》てて梓にその頃の難苦を語ったことがある。  座敷がある、客はというと、あの土地では夜が更けてからのが多い。それという声が懸《かか》ると、手取早《てっとりばや》く二人の姉分の座敷着を、背負揚《しょいあげ》、扱帯《しごき》、帯留《おびどめ》から長襦袢《ながじゅばん》の紐《ひも》まで順序よく揃《そろえ》てちゃんと出して、自分が着換えるとその手で二人分の穿物《はきもの》を揃えて、三味線を――その頃腕達者な烈《はげ》しい姉《あねえ》は、客の前で弾切《ひきき》ると糸を掛けてる中《うち》も間が抜けるといって、伊達《だて》に換え三味線を持ったので――四張。呼ばれた青楼《うち》の帳場まで運んでおいて、息を切って引返す、両手に下方を持って駈着《かけつ》ける。  それから四張の三味線を座敷に運んで、調子を合せて、差置くや否や、取って返して、自分が持《もち》の下方の調《しらべ》の緒を〆《し》める時分には、二人悠々と入って来る。穿物の雪を落して、片附ける間も心が急《せ》かれ、座敷へ上《あが》るとお座附の済む頃で、膝に手を置く猶予もなく、それ下方といって責められるが、指の皮が破れてる上に冷たくッて手がかじかむ。息が切れて、もう小鼓を肩に振懸ける力もない。  これを梓に言った時、蝶吉は床から出て、友染の夜具の袖を敷いたと見ると、長襦袢のまま片膝を立てた。その上に手を翳《かざ》して、 (私《わたい》小さくッてこれんばかりだったんですもの、鼓ばかりで体がどこにあるか分らなかったの。)と、いいつつ片手を肩に懸けて、小鼓を構える姿で屹《きっ》と直った。鬢《びん》の毛ははらりはらりとその雪のような素顔に乱れたが、往時を追懐する目も据《すわ》って、いうべからざる悲哀の色を浮《うか》べたので、梓は思わず寝衣《ねまき》の襟を正して起きた。  とんと打入れる発奮《はずみ》をくッて、腰も据らず、仰向《あおむけ》に引《ひっ》くりかえることがある、ええだらしがない、尻から焼火箸《やけひばし》を刺通して、畳の縁《へり》に突立《つッた》ててやろう、転ばない呪禁《まじない》にと、陰では口汚く詈《ののし》られて、帰ると耳を引張《ひっぱ》って掌《てのひら》で横すっぽう。襟首を取って伏せて、長煙管《ながぎせる》で背《せなか》を擲《くら》わすという仕置。ただその粗忽《そこつ》があった時ばかりではなく、着物を畳んで背筋を曲げたと言っては折檻《せっかん》、踊がまずいといっては打《ぶ》たれて、体に生疵《なまきず》の絶間もないのに、寒さは骨を通すようなあけ方までも追廻されて、二人が帰ると、着物から三味線、下駄のあと始末、夜が明けると帳面をさげて、青楼《ちゃや》を廻らせられるので、寝る間といってもおちおちない。 [#7字下げ]三十[#「三十」は中見出し]  昼は昼で、笛やら、太鼓やら、踊の稽古《けいこ》、手習《てならい》も一日|置《おき》で、ほっという間もなかったのである。  うろ覚えに実の母親は知っていたけれども、年紀《とし》も分らねば所も知らず、泣けば舌の尖《さき》を捻《ね》じられるから、ほろほろ、涙を流しては、といった、蝶吉はその時、崩折《くずお》れて涙を払った。  土手など通ると、余所《よそ》の児《こ》が母親に手を曳《ひ》かれて行《ゆ》くのを見たり、面白そうに遊んでいるのを見るたびに、同《おんな》じ人間がなぜだろうと、思わぬ時といってはない。ある時も、田圃《たんぼ》のちょろちょろ水で、五六人、目高を掬《すく》っているのを見ると、可羨《うらやま》しさが耐えられないから、前後《あとさき》も弁《わきま》えず、裾《すそ》を引上げて、袂《たもと》を結《ゆわ》えて、私《わたい》も遊ばして下さいな、といって流《ながれ》に入った。やい、売婦《ばいた》め、お玉杓子《たまじゃくし》め、汚らわしい! と二三人、手と足を取って仰向けに引《ひっ》くりかえしたので、泥水を飲んで真蒼《まっさお》になって帰ると、何条これを許すべき、突然《いきなり》細紐でぐるぐる巻《まき》、濡《ぬれ》しょびれたまま高い押入の中に突込《つッこ》まれた。半日とその夜《よ》の夜中二時頃まで、死んだもののようになってる中《うち》に、私《わたい》ばかり、情《なさけ》ないものを、辛いものを、慰めてこそくれずとも、売婦だといって突転《つッころ》がした町の奴等。  内で芸事をせたげるのも、皆《みんな》手前達が甘やかされて、可愛がられて、風にもあてず育てられた、それほどの果報にも飽き足らず、にきびの出る時分にはその親に泣《なき》を見せて、金を掴《つか》んで、女をもてあそびに来《う》せるためだ。蹴飛ばしてやろう、おのれ、見返してやろう、おのれ誑《だま》してやろう、嬲《なぶ》ってやろう、死ぬような目にあわしてやろう。泡を吹かせずにおくものかと、それからは気に張《はり》が出て、稽古事も自分で進み、人には負けぬ気で苦労も気にせず、十七の年紀《とし》まで遣《や》り通したが、堅い莟《つぼみ》も花になって、もうあとへ、自分を姉さんといって冊《かしず》くのが出来て、秋の仁和賀《にわか》にも引《ひけ》を取らず、座敷へ出ても押されぬ一本、地《じ》は清元で、振《ふり》は花柳《はなやぎ》の免許を取り、生疵《なまきず》で鍛え上げて、芸にかけたら何でもよし、客を殺す言句《もんく》まで習い上げた蝶吉だ、さあ来い!  花も見、月も見る癖に、活《い》きた女を慰もうとする畜生等、目にものを見せてやろう、簪《かんざし》の先が尖《とが》ってるから、憎まれて怨《うら》まれて、殺されそうになったらば、対手《あいて》の目球《めだま》を突潰《つきつぶ》して、体だけ逃げれば可《い》いと、柳眉《りゅうび》星眼|火燄《かえん》の唇。満腔《まんこう》の不平を湛《たた》えて、かえって嫣然《えんぜん》として天の一方を睨《にら》むようになり得ると、こはいかに、薄汚い、耳の遠い、目の赤い、繿縷《ぼろ》を纏《まと》った婆さんが杖《つえ》に縋《すが》って、よぼよぼと尋ねて来て、生《うみ》の母親が大病である、今生でたった一目、名残《なごり》が惜《おし》みたいという口上。  夢にも逢いたい母様《おっかさん》と、取詰めて手も足も震う身を、その婆さんと別仕立の乗合腕車《のりあいぐるま》。小石川|指《さし》ヶ|谷《や》町《ちょう》の貧乏長屋へ駈着《かけつ》けて、我にもあらず縋りついた。母様《おっかさん》、峰(幼名)か、と嬉しさのあまり、呼吸《いき》の下で声も出た。母親はその日絶えなむとする玉の緒を蝶吉の手に繋《つな》ぎ留められて、一たびは目を開いたが。  一目見廻した様子でも、医師はいうまでもないこと、風薬《かざぐすり》の手当も出来ないと見て取って、何は措《お》いて、蝶吉は一先《ひとま》ず大坂家に帰って、後の年期も少いので、上借《うわがり》をして貢いだけれども、半日もままならぬ抱妓《かかえ》の身。看病人を頼むのも、医者を心付けるのも、北里《きた》と、小石川の及腰《およびごし》、瘠細《やせほそ》るばかり塩気を断《た》って、生命《いのち》を縮めてもと念じ明《あか》した。 [#5字下げ]狂犬源兵衛[#「狂犬源兵衛」は大見出し] [#7字下げ]三十一[#「三十一」は中見出し]  七日《なぬか》目の朝、ようようのことで抱主《かかえぬし》から半日の暇《いとま》を許され、再び母親を小石川の荒屋《あばらや》に見舞うと、三日が間、夜も昼も差込み通し、鳩尾《みずおち》の処へぐッと上げた握掌《にぎりこぶし》ほどのものが、上へも下へも通らぬので、唇の色も紫になっていたのが、蝶吉の手で擦《さす》られると、恩愛の情に和げられて、すやすやと寝ることが出来た。三時間ばかり経《た》つと、病苦も忘れたようになり括枕《くくりまくら》に胸を圧《おさ》えて起上った時、蝶吉は生れて以来、しみじみ顔を見たのである。 (よく紀の国屋に肖《に》ていてよ。)  と蝶吉がそう云う顔立《かおだち》、母親は名を絹といった。  娘を大坂屋に預けて、その身|葭町《よしちょう》で弘めをしてから、じみちに稼ぎ稼ぎ借金をなし崩し、およそ五年ばかりで身脱《みぬけ》をした、その間に世話をするものがあって、自前になって御神燈を出したが、可《よ》い抱妓《かかえ》の一人も置いてやろう、と言うものがあったけれども、母親はこれを己《おのれ》に鑑《かんが》み、たといそうして所得が有って身代が出来た処で、汚《けが》れた金で蝶吉を救出《すくいだ》しては、きっと末がよくあるまい。また二度の勤《つとめ》をしてますます深みへ落ちようも知れず、もとより抱妓を置く金で仲之町から引取って手許《てもと》で稼がせる数《すう》ではなし。さればといって人の深切も、さすがに娘を落籍《ひか》してくれるまでには到らなかったが、女腕で一人を過す片遑《かたひま》に端金《はしたがね》を積立てても、なかなか蝶吉の体は買取られぬ。たとえばそれが出来るにせよ、母はもとより天道の大御心《おおみこころ》には協《かな》わぬ生立《おいたち》、自分の体を牲《にえ》にして、そして神仏《かみほとけ》の手で、つまり幽冥《ゆうめい》の間に蝶吉の身を救ってやろう、いずれ母娘《おやこ》が、揃って泥水稼業というは、免《のが》れぬ前《さき》の世の因縁づく。罪滅《つみほろぼし》のためだと思って母親の持った亭主は――間黒源兵衛――渾名《あだな》を狂犬《やまいぬ》という、花川戸町の裏長屋に住む人入稼業、主に米屋の日傭取《ひようとり》を世話する親仁《おやじ》。  渡者《わたりもの》を振廻して処々の米屋に稼がしておく、お絹はその賃銭を集めに廻った。橋場今戸の居まわりは云うに及ばず、本所、下谷、飛離れて遠くは日本橋あたりまでも、草履|穿《ばき》で駈《かけ》ずり歩かねばならないのみならず、煮るも、炊くも、水を汲《く》むのも、雑巾がけも、かよわい人の一人|手業《てわざ》で、朝は暗い内に起きねばならず、夜になるまで、足を曳摺《ひきず》って、日雇《ひやとい》の賃銭を集めて、家《うち》に帰ると親仁の酒の酌をして、灸《きゅう》の蓋《ふた》を取換えて、肩腰を擦《さす》って、枕に就かせて、それから、歩《ぶ》を取って、各々《めいめい》、二階に三人、店に五人、入交《いれかわ》りに泊《とまり》に来る渡者の稼ぎ高に割当てて、小遣《こづかい》を遣《や》って、屋根代を入れさせる。この算用を算盤《そろばん》ぱちぱち、五を引いて二が残り、たった三厘の相違があっても髻《たぶさ》を掴《つか》んで引摺倒《ひきずりたお》そうという因業《いんごう》な旦那を持ってるから、夜の更けるまで帳場に坐って、その疲れ果てて吻《ほっ》と一息|吐《つ》くと綿のようになる体で、お絹は添臥《そいぶし》をしたのである。  何の! 踊の稽古をしても、三味線の弟子を取っても、我身一ツは安々と世間を清く過さるるを、獄に投ぜられて苦役に就いても、さばかりにはあらずと思う、ほとんど生身を削り落すような難行をしたのは、あえて堕地獄《だじごく》の我身の苦患《くげん》を扶《たす》かろうというのではない、ただ単《ひとえ》に蝶吉のためにしたのであったと、母親がその時の物語。 [#7字下げ]三十二[#「三十二」は中見出し]  もとより自ら進んでも、かくはなるべき運命であったろうけれども、さまでとはさすがに思い懸けなかった、[#「、」は底本では「。」。以下の本では「、」。『鏡花全集 卷五』(岩波書店、昭和49年3月4日 第2刷發行)、『鏡花全集 巻四』(春陽堂、大正15年9月25日發行)、『湯島詣』(春陽堂、明治32年11月23日發行)、『湯島詣』(春陽堂文庫、春陽堂、昭和22年10月20日復刊第一版發行)]積年の憂苦辛酸、一|日《じつ》の安き暇《いとま》もないので、お絹は身も心も疲れ果てて、その一月ばかり前から煩い出し、床に就いて足腰の自由が利かなくなると、夫|狂犬《やまいぬ》源兵衛は屋外にこれを追出した。それを争う力もなくて、指す方《かた》もなく便《たよ》ったのが、この耳の疎《うと》い目腐れの婆《ばば》の家《うち》、この年寄《としより》の児《こ》は、かつて米搗《こめつき》となって源兵衛が手に懸《かか》って、自然お絹の世話にもなったが、不心得な、明巣覗《あきすねらい》で上げられて、今苦役中なので、その以前から忰《せがれ》の縁で、お絹にも厚意《なさけ》を受けた。年寄は恩を忘れず家《うち》へ引取って介抱をしてはいるけれども、活計《たつき》に窮するのはいうまでもない上に、耳が遠くッて用が足りず、水一杯といっても聞えない看護《みとり》を請《う》けるお絹の身になったらどうであったろう、またこれを知りつつも、一晩と附切って介抱することのならなかった蝶吉の気はどんなであった? 人が神仏《かみほとけ》を怨《うら》むのは正にそういう時である。  そちこちする中《うち》、昼も過ぎたので、年寄はまめまめしく形《かた》ばかりの膳立《ぜんだて》をした、お菜《かず》がその時目刺に油揚《あぶらげ》。 (母《おっか》さんが烘《あぶ》って上げよう、)と、お絹は一世の思出《おもいで》。知死期《ちしご》は不思議のいい目を見せて、たよたよとして火鉢に凭《よ》った。夏近いが、寒いからと、年寄は危《あやぶ》んで、背後《うしろ》から昆布のような蒲団《ふとん》を被《き》せようとすると、これじゃあ汚《きたな》らしくッて折角の馳走《ちそう》も旨《おい》しゅうないと、取って撥退《はねの》けたので、蝶吉が心得て、被ていた羽織を脱いで着せた。 (じみなんですから母《おっか》さん似合いますよ、)と嬉しそうにいう顔を視《なが》めながら、お絹は手を通しつつ振《ふり》沢山な裏と表を熟《じっ》と見て、 (峰ちゃん、生意気なものを着てるね、)といった。故郷《ふるさと》の京の色香に江戸の意気張《いきばり》を持って、仲之町でも、葭町でも、小さんといって、立てられた蝶吉の母は年紀《とし》わずかに三十三、最後の大厄で、その日の晩方、男は自分で見立てろと言って遺言して、日本の男と女の中に、しかも、廓《くるわ》の中に、蝶吉ばかりを残したのである。あと十日とは措《お》かないで、小石川柳町から丸山の窪地《くぼち》へ水が出た時、荷車が流れたのが、根太《ねだ》へ打《ぶ》つかって、床を壊すと、件《くだん》の婆は溺れて死んだ。これも葬る者がないので、蝶吉は母が臨終に世話になったのを恩として、同じ寺に葬ったのである。  印の墓石はいまだ立てることは出来ないけれども、出来る時だけは欠かさないで参詣《さんけい》する、梓がなかった以前《さき》は、ただその墓に取縋《とりすが》ることばかりがこの上もない楽《たのし》みであった。  蝶吉はその亡きお絹の引合せだと信じている梓に、いつの晩か手を開いて見せた。指の先が色に染まって、赤くなって血が浸《にじ》んだようなのを怪《あやし》んで聞くと、今日お墓参りをした時濡れ手で線香を持ったといって、 (私《わたい》母《おっか》さんと御膳を食べたのは生れてからたった一度なんですもの、)と縋り着いて泣いた。その手が冷たかったから、梓は思わず、しっかと胸に抱いたのである。 (お宗旨は何だ。) (知りません。) (問えば可《い》いじゃあないか。) (だって可笑《おか》しいわ。) (じゃあ何てッて拝むんだな。) (一生懸命に南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》。)  この女が、この体で、この姿で、ただ一人墓の前に泣くのだと思って、梓は抱いたまま放さなかった。 [#7字下げ]三十三[#「三十三」は中見出し] 「よ、どうしてそれが見棄てられるものか、まだその上に蝶吉は子供の時から、怨《うらみ》と、僻《ひがみ》と憤《いきどおり》とをもって見た世に対して、謂《い》わば復讎《ふくしゅう》的に己《おのれ》が腕で幾多|遊冶郎《ゆうやろう》を活殺して、その肉《み》を啖《くら》い、その血を嘗《な》むることをもって、精魂の痛苦を癒《いや》そうとしたが、あたかも母の死に逢って志を果さず、まだ一たびも男に向って、誑《だま》すの嬲《なぶ》るのというはもとより、お世辞一ツ言わずにいた身をもって、これを梓に献じたのである。譬《たと》えば、その家は壊《こぼ》たれ、その樹は伐《き》られ、その海は干され、その山は崩され、その民は屠《ほふ》られ、その女《じょ》は姦《かん》せられた亡国の公主にして、復讎の企図を懐《いだ》いて、薪胆《しんたん》の苦を嘗め尽したのが、張《はり》も忘れ、意気地も棄ててかえって我に哀《あい》を請い、一片の同情を求むるのである。天下またかくのごとく憐《あわれ》むべく悼むべきものはあるまい。何としてそれが見棄てられよう。蝶吉は残《のこり》少《すくな》になった年期に借り足して、母親を見送ってからは、世に便《たより》なく、心細さの余《あまり》、ちと棄身《すてみ》になって、日頃から少しは飲《い》けた口のますます酒量を増して、ある時も青楼《ちゃや》の座敷で酔った帰りに、夜更けて京町の夜露の上に寝倒れた。月が射《さ》して、その肉は蒼《あお》く、その骨は白く見ゆるまで、冷えて霜を浴びたようになったのを、往来《ゆきき》の仕事師が見附けて、大坂屋へ抱え込むと、気が付いたが、急に胸前《むなさき》へ差込《さしこみ》が来てから、持病になって、三日置ぐらいには苦悶《くるしみもだ》える、最後にはあまり苦痛が烈《はげ》しいので、くいしばっても悲鳴が洩《も》れて、畳を掻《かい》むしって転げ廻るのを、可煩《うるさ》いと、抱主《かかえぬし》が手足を縛って、口に手拭《てぬぐい》を捻込《ねじこ》んだ上、気つけだと言って、足袋を脱がせて、足の拇指《おやゆび》の間へ続け様に灸を据えた。妙齢《としごろ》になってから、火ぶくれの痕《あと》は、今も鮮明《あざやか》に残ってると、蝶吉は口惜しそうに、母親に甘えるごとく、肩を振って、浴衣に搦《から》んで足を揃えて、小《ちいさ》い爪尖《つまさき》を見せながら、目に涙を浮《うか》べたその目で、待合の襖《ふすま》の紙が蟹《かに》のような形に破れているのを見付けると延《のば》した足の拇指を曲げて、件《くだん》の破目《やぶれめ》を、 (繕ったら可《よ》さそうなものね、何だい、何だい、)と叱るようにいって抉《えぐ》るのを、 (馬鹿な、)と叱りつける梓の顔、鼻を詰《つま》らせながら、涙の目で、蝶吉は嬉しそうに瞶《みつ》めていた。それをも梓は忘れはせぬ。そんな他愛のない、取留《とりとめ》のない、しかも便《たよ》りのない孤《みなしご》に、ただ一筋に便らるる、梓はどうして棄てられよう。  蝶吉はかの時|無慙《むざん》なる介抱をした抱主の処置に平《たいらか》なることあたわず、圧《おさ》え切れない虫は突走《つッぱし》って、さてこそ天神下の口入宿へ来たのであった。柳橋か、葭町《よしちょう》かと行先を選んでいる中《うち》に、内々勧めるものがあった。これは天下の秘密だけれども、髪結《かみゆい》が一人、お針が二人、料理人が一人、医師が一人、女を十二人選んで、世話役が三人これを頭取が率いてパリイとかシカゴとかいう処の、博覧会へ日本の女を見せに行《ゆ》く。場所も薔薇《ばら》の花の盛《さかん》な中へ取って、朱塗《しゅぬり》の埒《らち》も結ってある、日給は一日三円、十月《とつき》の約束でどうだという。どの道東京で死んだ処で、誰一人そうかとも言ってくれない体だからと、既に観世物《みせもの》になる処、湯屋の前でふっと見た梓に未練が残ったので、ようよう獣《けだもの》に楽《たのし》まれるだけ助かったのである。その話をする時も、蝶吉は坐ったまま、大手を振って、 (こうやって威張って見せてやろうと思ったのよ。)  梓は余りのことに吹出して、 (シャモの牝《めす》はこれでございと言やあしないか、) (まずね、)と莞爾《にっこり》した暢気《のんき》さ加減、浅はかさも程があった。 「僕が附いていない日には、お蝶、お前どんな目に逢おうも知れぬ、」と梓は息を吐《つ》きもあえず、 「それさえ見棄てて、別れなければならないような、児《こ》を堕《おろ》すなどという、飛んだことをしてくれた。」と蝶吉の項《うなじ》を抱いて口移しに噛《か》んで含めるように、自分の赤心《まごころ》を語るため、今まで久しい間、時に触れ、折に当って、動かされた、至憐至愛の情の切なるを、ここに打明けて語ったのである。  蝶吉は聞くこと半ばにして、色を変えて、心、その心を貫くごとに、ほとんど顔を見らるるに耐えざるごとく、摺抜《すりぬ》けて駈出《かけだ》しもしかねない様子に見え、左に、右に、その面《おもて》を背けたが、梓の手と、声と、語《ことば》と、真心は、ますます力が籠《こも》ったから、身も世もあらず、動きもならずいうこと、ここに到る頃《ころお》いの、果《はて》は、悄然《しょうぜん》と頭《かしら》を低《た》れて、腕《かいな》に落した前髪がひやりとしたので、手折《たお》った女郎花《おみなえし》の儚《はかな》い露を、憂き世の風が心なく、吹散《ふきちら》すかと、胸に応《こた》える。 [#7字下げ]三十四[#「三十四」は中見出し] 「僕だって最初《はじめ》からこういう間の中といっちゃあ、末始終《すえしじゅう》はきっと泣《なき》を見なければならないと思うから、今度こそ別れるような話にしようか、今度こそと、その度に悄《しお》れちゃあここへ来ると、何かしらお前に言われること、されることが、一々思いの増すようなことばかり。私はもう一服ずつ痺薬《しびれぐすり》を飲まされるようだった。  今じゃ家《うち》にも居られなくッて、谷中に引込《ひっこ》むようになった上は、どうせ破れかぶれだから、人が何といったって、世間も義理も構うことはない、お前とどうぞしてという覚悟を極《き》めた処へ飛んだことを聞いてしまった。  お蝶さん、お前は訳が分らないから、何にも世の中のことは知るまいがね、およそ堕胎《だたい》ということをした者は、これが罪とも恥とも知らないでした事にしろ、心は腐っても、人間という目鼻だけの、せめて皮でも被《かぶ》ってる中《うち》は、二人|竝《なら》んじゃあ居られやしない。こう言えば水臭いと、きっと私を怨《うら》むだろうが、いつも言う通り、お前のような稼業をしている者とは、兄弟であったり従姉妹《いとこ》であったりした上に、皆《みんな》にたんと世話にもなった。どういう因縁だか、お前にも恩を被《き》た私だから、訳は分ってる、こう見えても可愧《はずか》しいが、馬車に乗ったこともあるし、御前様《ごぜんさま》々々と畏《かしこま》られたこともあるが、大《おおき》な声一つ出してお前にゃあ、用を言い付けたこともない。あんまり大人しくッて、頼りがないから、私は何だか物足りない、きりッとして叱ってくれ、癇癪《かんしゃく》を起して横顔の一ツも撲《なぐ》られたいと、芸妓《げいしゃ》のお前にいつも言われた、男が一人そのくらいに惚《ほ》れたら可《よ》かろう。故郷とは始終|便《たより》をして、人のおもちゃになってる女に、姉上々々と書いたから、ああこんなことをするような身分ではないと知りながら、お前の手紙が来れば、様づけにして返事を出した、何も機嫌を取った訳でもなし、取入って色男になろうと思ったのでもない。  うわべはどうでも、理窟は知ってても、小児《こども》の内からの為来《しきた》りで、本当《ほんと》に友達のようにも思い、世話になったとも思う上に、可愛い、不便《ふびん》だと思うから、前後《あとさき》も考えなかった。  お前を立派な女だ、姫様《ひいさま》だ、女房《おかみ》さんだと心《しん》から思ってしたことだよ。僕はお世辞も何にも言わない。女は氏なくして玉の輿《こし》だから、どんな身分の人に姉さんといわれないとも限らぬが、そりゃ男の方から心を取って惚れさせようとか、気に入られようとかして、後じゃあ玩弄《おもちゃ》にするためだ。  可《い》い餌《えさ》をかって肥えさしてしめて食べようという、鴨《かも》と同《おんな》じ訳じゃあないか。これが遊人《あそびにん》とか、町内の若い衆とかいうなら知らず、ちったあ身分もあるものに本当に惚れられた芸妓《げいしゃ》といっちゃあ、まあ、お前一人だろうよ。  それを思出《おもいで》にして、後生だから断念《あきら》めておくれ。神月は私の良人《ていしゅ》だったと、人にいっても差支えはない。そして謂《い》うに謂われない仔細《しさい》があって別れたといって御覧、お前の恥にゃあならないから、よ、解《わか》ったかい。  いまにもう少し年紀《とし》でも取って、ちったあ分別がついて来ると、成程無理はなかったと、自分のしたことに気が付いて私の心も知れるから、体だけ大事にして軽忽《かるはずみ》をしないで辛抱しな。別れるといって見棄てやしない、蔭じゃあどこまでも思っている、」と神月もほろりとした。蝶吉は死んだ者のようである。 [#7字下げ]三十五[#「三十五」は中見出し] 「悪いことはいわないから、その綿の入らないものを威張って着るのと、いつもいうことだけれど、これから暑くなって、氷の打欠《ぶっかき》をお飯《まんま》にかけて食べるのと、それから無理酒を飲むのは止《よ》せ、よ、気を付けなけりゃ、お前今年は大厄だ。」  としめやかに言ったがふと心付いて、手を弛《ゆる》めた、 「酔醒《えいざめ》か。寒くはないか。」 「いいえ、」と内端《うちわ》に小さな声で、ものを考えるがごとく蝶吉はいった。 「そうか、また冷えると悪いぜ。」 「ええ。」と仇気《あどけ》なく秘《かく》さず、打明けて縋《すが》り着くような返事をする。梓はこの声を聞くと一入《ひとしお》思入って、あわれにいとおしくなるのが例で。 「体はもうすっかり良《い》いのかい、」 「ええ、」 「お前は駄々ッ子で、鼻ッ端が強くって、威勢よく暴《あば》れるけれど、その実大の弱虫なんだから心配だよ、この頃は内で姐《ねえ》さんと喧嘩《けんか》はしないか。」 「ふふ、」と泣出しそうにしながら、蝶吉は無理に片頬で微笑《ほほえ》む。 「やっぱり母様《おっかさん》の夢ばかり見てるのか。」 「ええ、」ともいわず蝶吉は面《おもて》を背けると、御所車の簾《すだれ》の青い裏に、燃立つような緋縮緬《ひぢりめん》を、手に搦《から》んで、引出して、目を拭《ぬぐ》って、 「何にも言わないで下さいな、胸が一杯になって来てよ、可笑《おか》しいねえ、」といって袖口を除《の》けたが、ぱっちりと目を睜《みひら》いて、梓を見まいとするかのごとく、あらぬ方《かた》を瞶《みつ》めたけれども、 「おやおや、可《い》けないねえ。」  また俯向《うつむ》いて目を塞《ふさ》いで、 「貴方《あなた》、手を放して下さいな、」  声も消入るようであった。  梓はともかくも蝶吉の心の落着いているのが知れて、いうままに手を放したが、ほとんど失心しているような女の体は、そのまま背後《うしろ》へ倒れるだろうと思った。  蝶吉は、かえって、ちゃんとして、膝に両手を組みながら、恍惚《うっとり》して梓の顔を見ていたが、細い声で、 「あなた、」 「どうしたの、」 「後生だから顔を見ないで下さいな。」  梓は思わず面《おもて》を背けた、[#「、」は底本では「。」。以下の本では「、」。『鏡花全集 卷五』(岩波書店、昭和49年3月4日 第2刷發行)、『鏡花全集 巻四』(春陽堂、大正15年9月25日發行)、『湯島詣』(春陽堂、明治32年11月23日發行)、『湯島詣』(春陽堂文庫、春陽堂、昭和22年10月20日復刊第一版發行)]火鉢の火は消えかかって籠洋燈《かごランプ》の光も暗い、と見ると痩《や》せた薄《すすき》と、悄《しお》れた女郎花《おみなえし》と、桔梗《ききょう》とが咲乱れて、黒雲空に、月は傾いて照らさんとも見えず、あわれに描いた秋草の二枚折の屏風《びょうぶ》が立っているのが、薄暗い灯《あかり》で、幻のようで、もの寂しい。 「私《わたい》泣くんだから、あっちを向いても可《よ》くッて?」  梓は頭《つむり》から寒くなったが、俯向いて頷《うなず》くと、蝶吉は向《むこう》むきになって屏風に影が映った、その胸をしっかり抱いた。  着物の振《ふり》が両方から、はらりと迫って、身も痩せた。細々とした指の尖《さき》が、肩から見えて、潰《つぶ》し島田の乱れかかったのを、ふらふらとさして熟《じっ》としていたが、折れたように身を倒す、姿はしぼんだごとくになり、声を殺してわっと泣いた。梓も耐《たま》らず、背向《そがい》になった。二人の茫然《ぼんやり》した薄い姿は、件《くだん》の秋草の中へ入って、風もないのに動いたと見ると、一人は畳へ、一人は壁へ、座敷の影が別れたのである。 [#5字下げ]半札の円輔[#「半札の円輔」は大見出し] [#7字下げ]三十六[#「三十六」は中見出し] 「さて早や、」と云う懸声《かけごえ》で大和家の格子戸を開けて入る、三遊派の落語家《はなしか》に円輔《えんすけ》とて、都合に依れば座敷で真を切り、都合に依れば寄席《よせ》で真を打つ好男子。但しこの男が真の時は必ず御定連へ半札《はんふだ》を出す例であるから、通称は半札の円公。鈴本が刎《は》ねてあいにく繰込のお供も仕《つかまつ》らず、御酒|頂戴《ちょうだい》も致されず、家《うち》へ帰って妹《いもと》じゃ間に合ずというので、近所だから大和家へ寄ることちょいちょい。さてはや半札の円公は、御神燈の下から、まず御馴染《おなじみ》の顔色《がんしょく》を御覧に入れますると、 「よう!」と長火鉢の前から奇な声を発して応じたものあり。内の姐《ねえ》さんか、あらず、傭《やとい》の婆さんか、あらず、お茶を碾《ひ》いてる抱妓《かかえ》か、あらず、猫か、あらず。あらず。あらず。湯島天神|中坂下《なかざかした》の松の鮨《すし》の忰《せがれ》源ちゃんである。この男銭を遣わずに女の子と遊ぶのをもって、通と悟ったから耐《たま》らない。数寄屋町の御神燈の下を潜《くぐ》る事、毎夜あたかも燕《つばめ》のごとしで、殊にこの大和家には、蝶吉という、野郎首ッたけの女が居るから、その取入ること一通《ひととおり》ではなく、余所《よそ》の障子を張ってやりの筆法で芸妓《げいしゃ》の用達《ようたし》から傭婆《やといばば》の手助《てだすけ》までする上に、隙《ひま》な時は長火鉢の前で飼猫の毛を梳《す》いている。運が好《よ》いと、雛妓《おしゃく》の袖を引張《ひっぱ》ることも出来るし、女中の臀《しり》を叩くことも出来るのが役得。蝶吉に肱鉄砲《ひじ》を食ッて、鳶頭《かしら》に懐中の駒下駄を焼かれた上、人の妓《こども》を食おうとする、獅子身中の虫だとあって、内の姉御《あねご》に御勘気を蒙《こうむ》ったのを、平蜘蛛《ひらぐも》で詑《わび》を入れて、以来きっと[#「きっと」は底本では「きつと」。以下の本では「屹度」。『鏡花全集 卷五』(岩波書店、昭和49年3月4日 第2刷發行)、『鏡花全集 巻四』(春陽堂、大正15年9月25日發行)、『湯島詣』(春陽堂、明治32年11月23日發行)、『湯島詣』(春陽堂文庫、春陽堂、昭和22年10月20日復刊第一版發行)]心得まするで、何卒《なにとぞ》相変りませず、今夜も来ている。  あいにく抱妓《かかえ》どもは皆出を勤めて居《お》らず、女中は忙《せわ》しいし、姉御は用達にお出懸けなり、火鉢の灰は綺麗だし、注《さ》す後から鉄瓶の湯は煮立つので、色男|余《あまり》の所作なさに、猫を撫《な》でたり、擦《さす》ったり、どうしたなどと、言って見たり、耳を引張《ひっぱ》ったり、髯《ひげ》の数を数えたり、様々に扱うと、畜生とて黙っておらず、ニャアと一声|身顫《みぶるい》をして駈出《かけだ》そうとするのを、逃がしてなろか、と引抱《ひっかかえ》て、首環《くびだま》に噛《かじ》り着いて、頬杖して、ふと思い着いて、「恩愛雪の乳貰《ちもらい》」という気取《きどり》、わざと浮かぬ面《つら》をしている処へ、件《くだん》の半札がさて早であった。 「師匠上りたまえ。ようこそ、」と諸事内の人で挨拶する。  ぐッと呑込《のみこ》んで、円輔はあたりを眗《みまわ》し、 「へへえ、成程《なる》、あいにく出懸けまして御愛想もございませんがね、どこへ、姐さんは。」 「また、これだそうさ、」といって窪《くぼ》んだ顔の真中《まんなか》へ指《ゆびさし》をした、近眼鏡の輪を真直《まっすぐ》に切って、指が一本。何と気を変えたか、宗匠、今夜は大いに侠《いな》って、印半纏《しるしばんてん》に三尺帯、但し繻珍《しゅちん》の莨入《たばこいれ》に象牙《ぞうげ》の筒で、内々そのお人品《ひとがら》な処を見せてござる。  円輔は細長い膝を小紋縮緬《こもんちりめん》の薄《うすっ》ぺらな二枚襲《にまいがさね》の上から、掌《てのひら》でずらりと膝頭《ひざがしら》へ擦《さす》り落すこと三度にして、がッくりと俯向《うつむ》き、 「さてはや。」 [#7字下げ]三十七[#「三十七」は中見出し] 「どうしました、大分落胆の気味だね、新情婦《しんいろ》も出来ませんか。」と源次郎は三味線の挂《かか》った柱に凭《もた》れて澄ましている。  円輔はまた耳朶《みみたぶ》へ掛けて頬辺《ほっぺた》を扱《こ》き上げて、 「いや、まず、はははは、時に何は、君の落ッこちはどうしたんでげす、お座敷かね。」 「何ちっと、遠方だそうです。」 「ははあ、遠出でげすかい、なにかに就けてさぞ気が揉《も》めるこってえしょう、よ、色男。」と浮《うわ》ッ調子で臀《しり》をぐいと突くと、尋常に股を窄《すぼ》めて、 「止《よ》せッてえに、これ、詰《つま》らないことを、何だ。こう見えても苦労があるんだから、ねえ、おい。」と甘ッたるい。 「よ、苦労!」  と仰々しく手を支《つ》いて、ぐッと反って、 「来ましたね、隊長、恐入《おそれい》ったね、どうも。苦労と来たね、畜生、奢《おご》りたまえ、奢りたまえ。」 「いずれ帰ったら奢らせることに致しましょうよ。」と北叟笑《ほくそえみ》をする。 「これは!」 「いや、師匠、串戯《じょうだん》は止してさ、蝶吉が帰りさえすりゃ、是非その御一統が一杯ありつこうという寸法があるんでさ。ごくごく吝嗇《けち》に行った処で、鰻《うなぎ》か鳥ね、中な処が岡政で小ざっぱり、但しぐっと発奮《はず》んで伊予紋となろうも知れず、私《わっし》ゃ鮨屋だ! 甘いものは本人が行けず、いずれそこいらだ、まあ、待っていたまえ。」 「確《たしか》に、」 「ええ、確《しっか》りだ。」 「豪《えら》い!」と大声を張上げて、ぴたりと、天窓《あたま》を下げたが、ちゃんと極《きま》って、 「さてどっちです、こうなると待遠しい。」 「八丁堀だそうだ。」 「成程御遠方だ。幾時頃から、」 「一昨日《おととい》の晩から行《ゆ》きッ切り、おなじく、」と鼻を指して、「ね、さっき使《つかい》が来て、今夜は遅くとも帰るッていうんだ、ねえ、升《ます》どん。」  勝手から女中の声で、 「はあ、」 「ねえ、おい、富《ふう》ちゃん。」  次の部屋の真中《まんなか》で、盆に向って、飯鉢《おはち》と茶の土瓶を引寄せて、此方《こなた》の灯《あかり》を頼りにして、幼子《おさなご》が独り飯食う秋の暮、という形で、掻《か》っ込んでいた、哀《あわれ》な雛妓《おしゃく》が、 「ええ、」と答えてがッくりと飲む。 「確《たしか》かい。」 「きっとでございますって。」 「占めた!」という時からからと戸が開《あ》いた。  円輔は振返って、 「や、御帰館!」と喚《わめ》いて、座を開いて、くるりと向く。  源次はぬうと首を伸ばして、 「誰だい、」 「蝶吉姐さんだよ、誰だたあ何のこッた。」 「そう、」といって源次は猫を落して坐り直った。  蝶吉は何か悄然《しょんぼり》として帰って来たが、髪も乱れて、顔の色も茫然《ぼんやり》している。前垂懸《まえだれがけ》で繻子《しゅす》の帯、唐桟《とうざん》の半纏《はんてん》を着た平生《ふだん》の服装《なり》で、引詰《ひッつ》めた銀杏返《いちょうがえし》、年紀《とし》も老けて見え、頬も痩《や》せて見えたが、もの淋しそうに入って脇目も触《ふ》らず、あたりの人には目も懸けないで、二階へ澄《すま》して上《あが》ろうとするのを、円輔が瞶《みつ》めて、ちっと当ての違ったという形で、変に生真面目《きまじめ》に、 「お帰んなさい。」 「唯今《ただいま》、」と言ったばかり、つんとしてトン、トン、トン。 [#7字下げ]三十八[#「三十八」は中見出し] 「御機嫌麗わしからずじゃあないか。顔色が可恐《おそろ》しく悪いぜ、花札《ふだ》が走ったと見える、御馳走《ごちそう》はお流れか、」と円輔はてかてかした額を撫でた。 「いえ、師匠、御馳走はその勝負にゃあ寄らないんだ。但し御機嫌の悪いのはこの節しょっちゅうさ、心太《ところてん》[#ルビの「ところてん」は底本では「とろろてん」。以下の本では「ところてん」。『鏡花全集 卷五』(岩波書店、昭和49年3月4日 第2刷發行)、『鏡花全集 巻四』(春陽堂、大正15年9月25日發行)、『湯島詣』(春陽堂文庫、春陽堂、昭和22年10月20日復刊第一版發行)]の拍子木じゃあないが、からぶりぶりしてらあな。」 「やっぱり……。」と押えて、それか、と呑み込んだようにいうと、源次は黙って頷《うなず》く。  声を低うして、 「何でげすかい、あの神月とやらいう先生に一件が知れて、先方《むこう》から突出したというのは本当なんで?」 「ああ、」と何だか聴きたくもなさそうに、源次郎は乗らない返事。 「成程|竝《なら》べて置けば雛《ひな》一対というのだが、身分には段があるね。学士と謂《い》やあお前さん、大したもんでげしょう。その上に華族の婿様だというじゃあありませんか、幾ら若い同志で惚《ほ》れ合ったって、お前さん、その身分で芸妓《げいしゃ》に懸《かか》り合って屋敷も出たッてえから、世の中にゃべら棒もあったもんだ。それだから円輔も大学へ入る処をさらりと止《よ》して、落語家《はなしか》となったような訳だと、思ったんでげすが、いや、世の中へ顔出しも出来なくなった処で、子を堕《おろ》したと聞いて、すっぱり縁を切ったなあさすがに豪《えら》いや、へん、猪口《ちょこ》の受取りようを知らねえような二才でも、学問をした奴《やつ》あ要《かなめ》が利かあ、大したもんだね、して見ると蝶さんが惚れたのも男振《おとこぶり》ばかりじゃあないと見える、縒《より》が戻りそうでもありませんかい。」 「どうして、ちっとでも脈がある内に鬱《ふさ》ぐような女じゃあないんだ、きゃッきゃッて騒があね。」 「成程、して見るとこちとら一味徒党。色情事《いろごと》に孕《はら》むなあ野暮の骨頂だ、ぽてと来るとお座がさめる、蟇《ひきがえる》の食傷じゃあねえが、お産の時は腸《はらわた》がぶら下《さが》りまさ、口でいってさえ粋《いき》でねえね、芸妓《げいしゃ》が孕んで可《い》いものか悪いものか、まず音羽屋《おとわや》に聞いてもらいたいなんてッて、あの女《こ》が、他愛のない処へ付け込んで、おひゃり上げて、一服承知させた連中、残らず、こりゃ怨《うら》まれそうなこッてげす。何を目当《あて》に、御馳走なんぞ、へん下らない。」  と円輔はまた落胆《がっかり》、源次は落着き澄《すま》して、 「師匠心配したもうなッてえのに、疑り深いな。」 「だってあの御気色《みけしき》を御覧《ごろう》じろ、きっとあれだ、違《ちげ》えねえね、八丁堀で花札《ふだ》が走った上に、怨み重なる支那《チャンチャン》と来ちゃあ、こりゃ奢《おご》られッこなし。」 「勿論僕の、その御相伴なんだよ。」 「へ、君だってあんまり、奢られる風じゃありますまいぜ。」 「ずッと有る、有るね、そこあ憚《はばか》りながら源ちゃん方寸にありさ。」 「じゃあ一番《ひとつ》お手形を頂きたいね。」と円輔は詰寄った。 「手形|宜《よろ》しい。当てが違えば、師匠、どうだ、これを献上は。へへ、詰《つま》らねえもんだけれど。」  と少し見せたくもあって件《くだん》の莨入《たばこいれ》を抜く。円輔は打返して捻《ひねく》ッて、 「罷《まか》り間違えば、手前にこのお腰のもの、ちょいと武士に二言はなしかね。」 「いや、江戸ッ児《こ》だ。」と誰かの声色《こわいろ》で、判然《きっぱり》となる。 「豪い?」と大声で、ぴたりとお辞儀をした、円輔は驚いて顔を上げる。  二階から蝶吉の声で、 「富《ふう》ちゃん! 富ちゃん。」 [#5字下げ]犬張子[#「犬張子」は大見出し] [#7字下げ]三十九[#「三十九」は中見出し] 「はァい。」と引張《ひっぱ》って返事をして、雛妓《おしゃく》は膳《ぜん》を摺《ず》らして立ち、段階子《だんばしご》の下で顔を傾けて、可愛らしく、 「何、姐《ねえ》さん。」 「あのね、私《わたい》は今夜|塩梅《あんばい》が悪いから、どこから懸《かか》って来てもお座敷は皆《みんな》断って下さいな、そして姐さんがお帰りだったら済みませんがお先へ臥《ふせ》りましたッてね。」 「はい。」 「可《い》いかい。」  蝶吉は、帰るとその時まで何をするともなく可厭《いや》な心持で、箪笥《たんす》の前にぼんやり立っていたのであった。  雛妓に言付けて、座敷を斜《ななめ》に切って、上口《あがりくち》から箪笥の前へ引返《ひっかえ》すと、一番目の抽斗《ひきだし》が半ば開《あ》いていた。蝶吉は衝《つッ》と立って、 「おやおや、私《わたい》が開けたのか知ら、」  と思い寄らず呟《つぶや》いた。抽斗には、神月の写真をいつも立て掛けておくのである。  ふッつり切られてしまってからは、人は見なくッても、神月は知らないことでも、蝶吉は何となく、その写真を見ることさえ、我身で儘《まま》ならぬようで儚《はかな》いので、あえて、今は仇《あだ》なれと、偲《しの》ぶ思《おもい》の増すのが辛さに、俤《おもかげ》を見まいとするのでない、身に過失《あやまち》があって、縁切ったと言われた人の、たといその姿でも、見てはならないようにされたごとく感じている。  抽斗の縁に手を掛けて、猶予《ためら》いながら、伸上るようにして恐《こわ》いもののように差覗《さしのぞ》こうとして目を塞《ふさ》いだ。がッくり支えるように抽斗を差し懸けて、ああこの写真から下げて来ちゃ旨《おい》しいものを食べたっけと、耐《たま》らなくなって、此方《こなた》を向くと、背中でとんと閉《しま》ッた途端に、魂を抜去られたか、我にもあらず、両手で顔を隠して、俯向《うつむ》いて、そのまま泣いていた。  しばらくして、蘇生《よみがえ》ったもののように、顔を上げる。  向《むこう》の隅に、雛《ひな》の屏風《びょうぶ》の、小さな二枚折の蔭から、友染の掻巻《かいまき》の裾《すそ》が洩《も》れて、灯《ともしび》に風も当たらず寂莫《せきばく》としてもの寂しく華美《はで》な死体が臥《ね》ているのは、蝶吉が冊《かしず》く人形である。掻巻はいつも神月と添寝した五所車《ごしょぐるま》を染めた長襦袢《ながじゅばん》を裁《た》ったのに、紅絹《もみ》の裏を附けて、藤色|縮緬《ちりめん》の裾廻《すそまわし》、綿も新しいのをふッかりと入れて、天鵝絨《びろうど》の襟を掛けて、黄八丈の蒲団《ふとん》を二枚。畳を六ツに仕切ったほどの処へ、その屏風、その枕、小さく揃えて寝かした上の、天井には犬張子《いぬはりこ》の、見事大きなのが四足《よつあし》をぶら下げて動きもせず、一体|遣《や》りッ放しのお侠《きゃん》で、自転車に乗りたがっても、人形などは持ってもみようと思わない質《たち》であったのが、児《こ》を堕《おろ》したために神月との縁が切れて、因果を含められた時始めて罪を知って、言われたことを得心してから、縁なればこそ折角腹に宿ったものを、闇《やみ》から闇へ遣った児に、やがて追い着いて手を引くまで、詑《わび》をする気でこうしている。あたかも活《い》きたるものを愛するごとく、起きると着物を着更《きか》えさせる。抱いて風車《かざぐるま》を見せるやら、懐中《ふところ》へ入れて小さな乳を押付《おッつ》けるやら、枕を竝《なら》べて寝てみるやら、余所目《よそめ》にはまるで狂気《きちがい》。 [#7字下げ]四十[#「四十」は中見出し] 「ああ、天窓《あたま》が重い、胸が痛い、体中がふらふらする、もう寝ようや、」  蝶吉は枕を竝《なら》べて、着たまま横になって裾《すそ》を伸ばして、爪先《つまさき》を包《くる》んだが、玉のような腕《かいな》を人形の掻巻《かいまき》の上へ投げ掛けて、ぴったり寄って頬を差寄せ、 「坊や、ちょいと、どうしたの、お母《っか》ちゃんは可《い》けなくッてよ、すっかりお花を引いて負けて来たわ。二晩ちっとも寝ないんだもの、天窓が割れるようなの、悪いわねえ、穴蔵ン中でお前、六人一座でさ、灯《あかり》は点《つ》け通しだし、息が苦しくなると、そこらへ酢を打つのよ。私《わたい》はもう死ぬようだ。お前のお父《とっ》ちゃんに叱られてから、お花なんざ引くまいと思って、水も沸《わか》したんでなくッちゃ飲まないでいたけれども、お母《っか》ちゃんはお暇《いとま》が出たんですもの、体を大事にしたって詰《つま》らなくなってよ。だから、最初《はじめ》ッから、お前さんに棄てられると、私《わたい》はどうなるか知れないッて、始終いっていたのにさ、打遣《うちや》ってしまってさ、そして軽忽《かるはずみ》なことをするなッて言ってくれたって私《わたい》は知りません。天窓へぴんと来るような五円花でも引かなくッちゃあ、自分で生きてるのか何だか分らないもの。  だけどもねえ、身でも投げて死んじまうと、さも面当《つらあて》にしたようで、どんなに心配を懸けるか知れないし、愛想を尽かされると、死んでからも添われないと悪いから。何も私《わたい》を厭《いや》なんじゃない、世間の義理だからって言うんだけれども、何だか自分勝手のようだわねえ。  どうせ早く死にたいんだから、何だって、構やしない。坊や、お前でも生きてるなら可《い》いけれど、目ばッかりぱちぱちしていて、何にも言わないんだもの、張合《はりあい》も何にもありやしない。私《わたい》も死んじまったら、死んだものと、死んだものとだから、お前も口を利くだろう。少しも分らないでした事だから、堪忍することはするッて、お父《とっ》ちゃんもそうお言いだから、坊や、お前も酷《ひど》いことをされて、鬼とも蛇《じゃ》とも思ってようけれど、堪忍して、母《かあ》ちゃんと言って頂戴な。」  と摺着《すりつ》いたが、がッくり仰向《あおむ》き、薄い燈火《ともしび》に手を翳《かざ》して見た。 「おやおや、痩《や》せたわねえ。徹夜《よどおし》をして、湯にも何にも入らないから、黒くなったよ、段々痩せて消えれば可いな。」  と袖口を掴《つか》んで肩の辺《あたり》まで、撫《な》で下げると、上へ伸ばしていた着物は飜って、二の腕もあらわになった。柔肌《やわはだ》に食い入るばかり、金|金具《かなぐ》で留めた天鵝絨《びろうど》の腕守《うでまもり》、内証で神月の頭字《かしらじ》一字、神というのが彫ってある。  蝶吉は清《すず》しい目をぱっちりと睜《みは》って、恍惚《うっとり》となったが、枕を上げると突然《いきなり》忘れたように食い付いた。腕守を噛《か》んで、頭《かしら》を振って、髪を揺《ゆす》ぶり、 「厭よ、私《わたい》厭よ、別れるのは厭、厭! 厭だ、厭だ、別れるのは厭。」と、泣吃逆《ないじゃくり》をして、身を顫《ふる》わし、 「写真くらい見たって、可いじゃないかね、可《い》けないかい、ええ、構うもんか。私《わたい》はもう、」  むッくり起上ろうとすると、茫然《ぼんやり》犬張子が目に着いた。 「はッ、」という溜息《ためいき》で、またばったり枕に就いたが、舌打をして、 「寝ッちまえ!」  と縋《すが》り寄り、 「私《わたい》も端の方へ入ってよ、坊や、さあ、お乳。」  といって、見得もなく、懐を掻開《かいあ》けて、ふッくり白いのを持ち添えて、と見ると、人形の顔はふッと消えて無かったのである。 [#5字下げ]胸騒[#「胸騒」は大見出し] [#7字下げ]四十一[#「四十一」は中見出し] 「おや、おかしいねえ、」と吃驚《びっくり》して屹《きっ》となったが、蝶吉は出がけに人形の顔を掻巻《かいまき》の襟で隠しておいたのに気が付いた。 「まあ、さっきから顔が見えたようだっけ、それじゃあ、俤《おもかげ》だったかしら。」  思わず悚然《ぞっ》として、あたりを見たが、莞爾《にっこり》して、 「ちょいと、肖《に》ていると思うもんだから、お前は生意気だね。」といって掻巻の上を軽く叩くと、ふわりと手が沈んで応《こたえ》がない。 「あれ、」とばかりで、考えたが、そッと襟を取って、恐々《こわごわ》掻巻を上げて見ると、牡丹《ぼたん》のように裏が返った、敷蒲団《しきぶとん》との間には、紙一枚も無いのである。  蝶吉は我知らず、 「富《ふう》ちゃん、」と声を立てて、真直《まっすぐ》に跳起きた。 「はてな、」机に凭《よ》りかかった胸を正しく、読んでた雨月物語から目を放して、座の一方を見たのは、谷中|瑞林寺《ずいりんじ》の一間に寓《ぐう》する、学士神月梓である。  衣帯正しく端然として膝に手を支《つ》いて熟《じっ》ともの思いに沈んだが、借《かり》ものの経机を傍《そば》に引着けてある上から、そのむかしなにがし殿《でん》の庭にあった梅の古木で刻んだという、渠《かれ》が愛玩《あいがん》の香合《こうごう》を取って、一捻《いちねん》して、 「こんなこッちゃあ可《い》かん。」と自から窘《たしな》めるがごとく呟《つぶや》いて、洋燈《ランプ》を見て、再び机に向った時、室《ま》が広いので灯も届かず、薄暗い古襖《ふるぶすま》の外に咳《しわぶ》く声して、 「先生、御勉強じゃな、」と[#「と」は底本では「と、」。以下の本では「と」。『鏡花全集 卷五』(岩波書店、昭和49年3月4日 第2刷發行)、『鏡花全集 巻四』(春陽堂、大正15年9月25日發行)、『湯島詣』(春陽堂、明治32年11月23日發行)、『湯島詣』(春陽堂文庫、春陽堂、昭和22年10月20日復刊第一版發行)]いいながら静かに入ったのは、院の住職律師|雲岳《うんがく》である。  学士の前に一揖《いちゆう》して、 「お邪魔を。実はまた一石願おうかと思って、参ったがな、御音読中でござったで、暫時《ざんじ》あれへ控えておりました。何を御覧なさるか、結構なことじゃ。襖越ではござるし、途切れ途切れで文章はよく聞取りませぬが、不思議に先生、今夜の貴方《あなた》の御声というものは、実に白蓮《びゃくれん》の花に露が転《まろ》ぶというのか、こうその渓川《たにがわ》の水へ月が、映ると申そうか、いかにも譬《たと》えようのない、清い、澄んだ、冴々《さえざえ》した、そういたして何か聞いている者までが、引入れられますような、心細い情《なさけ》ないといったように、自然とうら悲しくなりましたが、一体お読みなされたのは。」と思入った風情である。  梓はト胸を突いた様子で、 「希代なことがあるんですよ、お上人《しょうにん》、読んでいましたのは御存じの雨月なんですが、私もなぜか自分の声に聞き惚《と》れるほど、時々ぞッぞッとしちゃあその度に美しい冷い水を一雫《ひとしずく》ずつ飲むようで、唾《つ》が涼しいんです。近頃はどういうものか、ものを言うにさえ、唾がねばって、舌がぬめぬめして心地の悪さといったらなかったんですが、まあ、体が半分水になって、それが解けて行《ゆ》くようで、月の雫で洗ったようです。それでいて爽《さわや》かな可《い》い心持かと思うと、そうじゃない、ここン処が。」といいかけて、梓はうら寒げに、冷たい衣《きぬ》の上から胸を圧《おさ》えた、人にも逢わず引籠《ひきこも》って、二月|余《あまり》、色はますます白く、目はますます涼しく、唇の色はいやが上に赤く、髪はやや延びたが、艶《つや》を増して、品|好《よ》く痩《やせ》ぎすな俤は、見るともの凄《すご》いほどである。 「胸騒《むなさわぎ》ッていうんでしょう。」 [#5字下げ]鶯[#「鶯」は大見出し] [#7字下げ]四十二[#「四十二」は中見出し] 「痛いのかと思うとそうでもなしに、むず痒《がゆ》い、頼《たより》ない、もので圧《おさ》えつけると動気《どうき》が跳《おど》る様《よう》で切なくッて可《い》けません。熟《じっ》としていれば倒れそうになるんですもの、それを紛らそうといつになく、声を出して読み出したんですが、自分で凄《すご》くなるように、仰有《おっしゃ》れば成程|良《い》い声というんでしょうか。」 「なかなか、幽冥《ゆうめい》に通じて、餓鬼畜生まで耳を傾けて微妙の音楽を聞くという音調だ、妙なことがあるものでございますな、そして、やはりお心持は。」 「憑物《つきもの》でも放れて行ったように思うんですが、こりゃ何なんでしょう、いずれその事に就いてでしょうよ、」と微《かす》かに笑《えみ》を含んで、神月は可愧《はずか》しげに上人が白き鬚《ひげ》ある棗《なつめ》のごとき面《おもて》を見た。 「どうしても思い切れなかったんです、実は……。」  ここに梓が待人《まちびと》、辻占《つじうら》、畳算、夢の占《うらない》などいう迷信の盛《さかん》な人の中に生れもし育ちもし、且つ教えられもしたことを予《あらかじ》め断っておかねばならぬ。  はじめ蝶吉と歌枕で逢曳《あいびき》の重なる時分、神月は玉司子爵の婿君であったから、一擲《いってき》千金はその難《かた》しとせざる処、蝶吉が身を苦界から救うのはあえて困難な事ではなかった。  もっとも他《ひと》と違い、神月は、己《おのれ》が既往の経歴に徴して、花街にあるものの、かえって、実があって、深切で、情を解して、殊に一種|任侠《にんきょう》の気を帯びていることを知ってはいたが、さすがに清い、美しい体のものだとは思わない。そのほとんど、掌《たなそこ》にも、額にも、悪汗《わるあせ》一ツ掻《か》いたことのない、黒子《ほくろ》も擦傷の痕《あと》もない、玉のごとき身を投じて、これが歌枕の一室に、蝶吉と衾《ふすま》を同じゅうする時は、さばかり愛憐の情は燃えながら、火中一条の冷竜あって身を守り、婀娜窈窕《あだようちょう》たる佳人にも梓の肌を汚《けが》さしめず、幾分の間隙を枕の間《なか》に置いたのであるが、一朝《あるあさ》、蝶吉はふッと目を覚して、現《うつつ》の梓を揺起して、吃驚《びっくり》したようにあたりを見ながら、夢に、菖蒲《あやめ》の花を三本、莟《つぼみ》なるを手に提げて、暗い処に立ってると、明《あかる》くなって、太陽《ひ》が射《さ》した。黄金のようなその光線《ひかり》を浴びると、見る見る三輪ともぱっと咲いた、なぜでしょう、といって、仇気《あどけ》なく聞かれた。梓はあたかも悪夢に襲われて、幻の苦患《くげん》を嘗《な》めていた、冷汗もまだ止《とま》らなかったくらいの処へ、この夢を話されて、面《おもて》を赤うするまで心に恥じた、あわれ泥中のこの白き蓮《はちす》に比して、我が心かえって汚《けが》れたりと、学士はしみじみ蝶吉の清い心を知った。  その時と、いま一度は、蝶吉がしかるべき軍人の一座の客に呼ばれたが、言うことが癪《しゃく》に障った上に、酔って懐の玉を探ろうとしたので、癇癪《かんしゃく》を起してその横顔《よこッつら》を平手で撲《なぐ》ると、虎髯《とらひげ》を逆《さかさ》にして張飛《ちょうひ》のように腹を立て、ひいひい泣入る横腹を蹴《け》つけたばかりでは合点せず、その日の主人役が客に済《すま》ずとあって、死《しん》だもののようになってるのを引起し、二人両手を取って、小刀《ナイフ》で前髪を切って、座敷をつッ立った。居合した朋輩も、女中も、駈上《かけあが》った若い者も、顫《ふる》えるばかりで、取《とり》おさえ手もなかったといって、梓に顫着《ふるいつ》いて口惜《くやし》がった時には、耐《たま》らずその場から車に乗せて、これをわが園《その》へ移し植えようと思ったのである。 [#7字下げ]四十三[#「四十三」は中見出し]  もとよりその時には限らない、[#「、」は底本では「。」。以下の本では「、」。『鏡花全集 卷五』(岩波書店、昭和49年3月4日 第2刷發行)、『鏡花全集 巻四』(春陽堂、大正15年9月25日發行)、『湯島詣』(春陽堂、明治32年11月23日發行)、『湯島詣』(春陽堂文庫、春陽堂、昭和22年10月20日復刊第一版發行)]女は迷惑を懸けようとはしないで、一生|芸妓《げいしゃ》をしているから、変らず見棄てないでさえくれれば可《い》いというのだけれども、いうがごとく、聞くがごとく、はたそれ見るがごとき気性の女、梓は心の動くごとに勤《つとめ》を落籍《ひか》そうと思わぬことはなかったが、渠《かれ》が感情の上に、先天的一種の迷信を持ってるというはここのこと。  一体、天神様の境内で、恩を謝す心を決して以来、その機会がなかった処、翌年一月、伊予紋で、大学出の人の新年会があった。一座の中《うち》に蝶吉が居た。また一座の中《うち》に、下宿の二階に住んで六畳の半ばを蔽《おお》う白熊の毛皮を敷いて、ぞろりと着流して坐りながら、下谷の地を操縦する、神機軍師|朱武《しゅぶ》あって、疾《とく》より秘計を囲《めぐ》らし、兵を伏せて置いたれば、酒半ばにして哄《どっ》と矢叫《やさけび》の声を立てて、突然《いきなり》梓の黒斜子《くろななこ》に五ツ紋の羽織を奪って、これを蝶吉の肩に被《き》せた。嬉しい! と手を通して出《で》の三枚襲《さんまいがさね》の上へ羽織ると斉《ひと》しく引緊《ひきし》めて、裾《すそ》を引いたまますッと出て座敷を消えると、色男梓君のために、健康を祝してビールの満を引くもの数《すう》をしらず。梓は丸腰の着流し、あたかもお館《やかた》の法度《はっと》を犯して裏庭から御台《みだい》のお情《なさけ》で落ちて行《ゆ》くように、腕車《くるま》で歌枕に送られたが、後を知らず、顔色も悪く未明に起きると、帯を取って、小取廻《ことりまわし》に尖《さき》を渡して、本式に畳んで置いた袴《はかま》の腰板を取ってあてがい、着たまま枕頭《まくらもと》に坐って介抱していた蝶吉が件《くだん》の羽織を惜《おし》そうに脱いで被せた。人肌のぬくみも去らず、身に染みた移香《うつりが》をそのまま、梓は邸《やしき》に帰って、ずッと通ると、居間の中には女|交《まじ》りにわやわや人声。明けて入るのを、小間使《こまづかい》が、あれといって、手を突く間もなく、一人が背後《うしろ》からぴッたり閉めた。雨戸は半開《はんびらき》のまま、朝がけの軍《いくさ》に狼狽《うろた》えたような形。払《はたき》を持つやら、箒《ほうき》やら、団扇《うちわ》を翳《かざ》しているものやら、どこに透《すき》があって立ち込んだか、鶯《うぐいす》がお居間の中に、あれあれという。鴨居《かもい》から飛んで、到来ものを飾った雪の積ったような満開の梅の盆栽の枝に留《とま》ったのを、逃がすなと箒を突出すから、梓は引留めながら件の羽織を脱いで、はらりと投げたのが、中に鶯を包んで落ちた。  手を入れて労り取って、二十四の梓は嬉しそうに、縁側を伝って夫人竜子の寝室《ねや》に入《い》って、寝台《ねだい》の枕頭に押着《おッつ》けて、呼起して、黄鳥《うぐいす》を手柄そうに見せると、冷やかに一目見たばかり。 (私はまだ起きる時間ではございません。)と背後《うしろ》も向かず自若として目を瞑《ねむ》った。その時も梓は顔の色を変えたのであるが、争うこともせず。 (失礼、)といってずッと出て、廊下に立ちながら籠《かご》を命じ、持って来る間《ま》を、手では、と懐に入れながら、見霽《みはらし》の湯島の空を眺めている内、いかなる名鳥か嚶々《おうおう》として、三|度《たび》、梓の胸に鳴いたのである。  が、籠が来て懐から出そうとすると、羽ばたきもしないので、早や馴《な》れたかと思うと、あわれ、翼をちぢめて目を落していたのである。蒔絵《まきえ》の鳥籠に、件《くだん》の盆栽の梅を添えて、わざわざ葬らせに使《つかい》を出した。以来心に懸《かか》って、蝶吉を落籍《ひか》そうと思うたびに、さることはあらじと知りながら、幼い時からの感情で、羽織の同一《おんなじ》のが兆をなして、恐らく、我が手に彼を救うてこれを掌中の玉とせんか、時を措《お》かず砕けるのである。日もあらず煩いでもするのであろう、むしろ、生命《いのち》が長くあるまい、と思う念に制せられて、その寿《ことぶき》を欲するために、常に躊躇《ちゅうちょ》していたのであったが。 [#7字下げ]四十四[#「四十四」は中見出し] 「……一旦《いったん》縁を切ってしまった上では、私が心持にも、また世間の義理にも、疚《やま》しいことはないんですから、それが未練というんでしょう。そのうち玉司へ行って、表向《おもてむき》縁を切りかたがた、あの男は手切《てぎれ》を取ると言われても構わない。芸妓《げいしゃ》を落籍《ひか》せると隠さずにいって、金子《かね》を取って、それで、勿論二度とかかりあいはしない意《つもり》じゃありますがね、苦界だけは救って素人にしてやろうと、お上人、可愧《はずかし》いんですが言います。実はそれを心|楽《たのし》みにして、幾分かまだまるッきり離れてしまわないような気で、当分逢わないだけだというような心持でおったんです。  先刻《さっき》私を尋ねて来た、品の可《い》い老女があったでしょう。彼は玉司に昔から勤めている取《とり》しまりで、何十年にも奥からは出た事がない、まだ鉄道はどんなものだか知らない女で、竜子の乳母なんですが、実はその用で参ったんで、私にまた帰れっていいます。それとはあんな御気性だから、怪我《けが》にも仰有《おっしゃ》りはしないけれども、何をいったって、初めて男を知ったお姫様だ。貴方《あなた》が内を出てからは、鬱々《うつうつ》として人にもお逢いなさらない。  医者は神経衰弱だというそうですが、不眠性に罹《かか》って、三日も四日も、七日《なぬか》ばかり一目もお寝《やす》みなさらない事がある。悩みが一通《ひととおり》じゃない。この間もうとうとしかけた処へ、縁側を通った腰元が跫音《あしおと》を立《たて》て、それがために目が覚めたといって腹を立って、小刀《ナイフ》を投付けて、もうちっとで腰元の胸を突こうとしました。  この頃じゃ、まるで一室《ひとま》の外へも出て来ないような始末。見かけはどんなでもよくよく心を知ってるのは、乳母だから、私に帰れ。  承れば大分御謹慎で、すっかりお品行《みもち》も治ったそうだって、そういうことでございました。  随分片意地な老女が、我《が》を折っていましたから嘘じゃあありますまい。  成程それではあんな夫人《ひと》でも私をそれまでに思ってくれるのが解《わか》りましたが、こうなった上のこと。  謹慎をしているのは、あえて辛抱を見せて、玉司の家に帰りたいためではないから、断然、これッきりだと思ってくれ、私の引籠《ひきこも》って身を責めているのは、ただ先祖に対して済まないと思うからだ。  ときっぱりいって帰しましたよ。」 「ふう、」と上人は頷《うなず》いて、じっと考え、 「いや、段々お心が静まって来て、好《よ》い御返事をなされた、結構じゃ。」といいかけて、梓のもの寂しげなる顔を見て、 「それでさっぱりとなされたかな。」 「ええ、さっぱりしたそのせいだろうと思うんです。まだ、金の蔓《つる》があって、一式のことに落籍《ひか》して素人にしてやろうと、内々思ってました内は、何かしら心の底に温《あったまり》があったのを、断然、使《つかい》を帰した上、夫人の心も知れて見れば、いかに棄身《すてみ》になった処で、無心などいえたものじゃあない。そうすりゃお蝶の方も、もうあれッきり、ふッつり切れた、私はこう孤島《はなれじま》に独り残されたようで心細い、胸騒《むなさわぎ》のするのはそのために違いないんです、[#「、」は底本では「。」。以下の本では「、」。『鏡花全集 卷五』(岩波書店、昭和49年3月4日 第2刷發行)、『鏡花全集 巻四』(春陽堂、大正15年9月25日發行)、『湯島詣』(春陽堂、明治32年11月23日發行)、『湯島詣』(春陽堂文庫、春陽堂、昭和22年10月20日復刊第一版發行)]お可愧《はずかし》いね、」といった清らかなる学士の笑顔はうら寂しい。 「ははあ、いや、お若い中《うち》また余り悟り澄《すま》さないのも宜《よろ》しかろう。たんと迷わっしゃるも面白い。」とこの人こそ悟り切ったらしいことをいって、呵々《からから》と笑って、行《ゆ》きがけに大音で、「誰ぞ先生に茶を上げい。」  梓はまた机に向ったが、木の角では、心の跳《おど》るのが押え切れず、胸騒がする、気が鬱《ふさ》ぐ、もう引入れられそうで耐《こた》えられなくなって、香《こう》の薫《かおり》に染みた不断着をそのまま、かかる時、梓が行《ゆ》くのは必ず湯島。 [#5字下げ]白木の箱[#「白木の箱」は大見出し] [#7字下げ]四十五[#「四十五」は中見出し] 「富《ふう》ちゃん、ちょいと、富ちゃん、私《わたい》の人形を知らなくッて、」  あたふた狼狽《うろた》えたようなものの気勢《けはい》、癇癪交《かんしゃくまじ》りに呼んだのは蝶吉である。 「一件だ、」と、これを聞いてかねて心得たもののごとく、源次は傍《かたわら》に目配せした。 「来ましたね。」と低声《こごえ》でいって、訳もなく天窓《あたま》を叩いて竦《すく》んだが、円輔は、えへん! 声繕《こわづくろい》をして二階に向い、 「お蝶さん、何ですか、人形。人形どころかい、そこどころじゃあない、大変なことがありますぜ、ちょいと大したこッた、豪《えら》いこッたよ。」 「何、」と切って棄てたような、つッけんどんなもの言いである。 「まあさ、ちょいとおいでなさいていこッた、こッたの性《しょう》なら下まで来いだよ。」 「富ちゃん、富ちゃんてば。」  蝶吉は取合ずに、雛妓《おしゃく》ばかり呼立てる。 「まあおいでなさいっていうのに、何ですぜ、ちょいと、大変なこった、お蝶さん、神月の旦那から、」 「ええ、」 「それ見ねえ、」と源次がちょいと突いて、にやりと笑うと、円輔は大乗地《おおのりじ》で、 「旦那から、もし小包郵便が来たんですぜ。」 「ええ。」 「神月さんからお届けものだ。」と源次も傍《そば》から口を添える。 「知りませんよ。」と邪険には言ったけれども、そのうち自《おのずか》ら和《やわらぎ》のある、音色《ねいろ》を下で聞澄《ききすま》して、 「御存じの筈《はず》ですが、神月さんといやあお前さん、」 「可《い》いよ。」 「宜《よろ》しくばお止《や》めになさいまし。」と大いに澄し、顔を見合せて黙《だんま》りとなった。 「富ちゃん、」 「そら、また富ちゃんだ。」といって円輔は、敷居の処まで来て立っている雛妓を見て屹《きっ》と目で知らせた。 「私《わたい》は知らないの。」  しばらくして、声も優しく、 「いいえ、小包さあ、」 「本当だってば、何を疑るんだな。」と源次は大真面目でいる。 「嘘ばッかり、」といいながら、ちょいとためらった様子であったが、階子段《はしごだん》がトンと鳴った。  下から仰山に遮って、 「ちょいとお待ちなさい、お蝶さん、請取《うけとり》がいりますぜ、いらっしゃるなら、どうぞ、御懐中物を御持参で、」 「宜しい、」と男らしく派手に爽《さわやか》にいった。これを機掛《きっかけ》に、蝶吉は人形と添寝をして少し取乱したまま、しどけなく、乱調子に三階から下りて来て、突然《いきなり》、 「どこにさ、」と嬰児《あかんぼ》の強請《ねだ》るようにいいながら、人前を澄した顔。 「気が疾《はや》いな、どうも、師匠出してやりたまえ。」 「まずお受取を頂戴いたしたいような訳で。」 「すッかり負けて来たんですからたんとはなくッてよ。」 「豪い!」といいさま、小紋縮緬《こもんちりめん》で裏が緞子《どんす》、同《おなじ》く薄ッぺらな羽織を飜《ひら》りと撥《は》ねて、お納戸地の帯にぐいとさした扇子を抜いて、とんと置くと、ずっと寄って、紙幣を請取り、 「何にいたしましょうな。」  源次は取片附けて、 「まあ、師匠。」 「じゃあちょいと升どん。」  勝手から、 「御馳走様《ごちそうさま》ですね。」 [#7字下げ]四十六[#「四十六」は中見出し] 「さてはや、何でげすえ御到来物は。」と円輔は洋燈《ランプ》の方へ顔を突出し、源次は柱に天窓《あたま》を着けて片陰で仰向《あおむ》いた、この両人、胴中《どうなか》を入違いに、長火鉢の前で形がX《エッキス》。 「どうもお相伴を難有《ありがと》うございますよ。」と向《むこう》へ坐ったのは、遣手《やりて》が老いたりという面構《つらがまえ》、目肉《めじし》が落ちたのに美しく歯を染めている、胡麻塩天窓《ごましおあたま》、これが秘薬の服方《のみかた》、煎法《せんぽう》、堕胎《おろ》した後始末、体の養生まで一切|取計《とりはから》った、口の臭い、お倉という婆《ばば》である。  蝶吉は、確《たしか》に小包を請取ったので、かくとは思い懸けず、慎みながら、若いから、今も今で、かねていいつけられて窘《たしな》んだ、花札《はな》を引いて、気の衰えるまで負けて帰ったので、済まなさも済まないし、嬉しさも嬉しければ、包んでも色に出る極《きまり》の悪さ。震える手で明《あかる》い処へ持出して、顔を見られまいと、傍目《わきめ》も触《ふ》らず、血の上った耳朶《みみたぶ》を赧《あこ》うして、可愛らしく畏《かしこま》って、右見左見《とみこうみ》、 「おやおや、大倭《やまとや》家内松山峰子様行と書いてあるねえ。」 「峰子様、よッ。」と懸声《かけごえ》をするは円輔なり。 「可《よ》くッてよ、」と可愧《はずか》しそうに、打返してまた裏を見た。 「神月より、……おや、平時《いつも》の字と違ってやしなくッて?……何だか手が違ってるようだねえ。」  あえて疑うというではないが、まさかと思う心から人にも、確めてもらいたいので、わざと不審《いぶかし》げに呟《つぶや》いた。 「わざッと手を替えてお書きなさいましたあね、そりゃ、お前さん。」と[#「と」は以下の本では「と、」。『鏡花全集 卷五』(岩波書店、昭和49年3月4日 第2刷發行)、『鏡花全集 巻四』(春陽堂、大正15年9月25日發行)、『湯島詣』(春陽堂文庫、春陽堂、昭和22年10月20日復刊第一版發行)。『湯島詣』(春陽堂、明治32年11月23日發行)では「と」]婆々は極めて鹿爪《しかつめ》らしい。 「そうねえ、何だか包が大きいわねえ、何だしら。」  玉手箱[#「玉手箱」は底本では「王手箱」。以下の本では「玉手箱」。『鏡花全集 卷五』(岩波書店、昭和49年3月4日 第2刷發行)『湯島詣』(春陽堂、明治32年11月23日發行)、『鏡花全集 巻四』(春陽堂、大正15年9月25日發行)、『湯島詣』(春陽堂文庫、春陽堂、昭和22年10月20日復刊第一版發行)]という形で両手に据えながら目を瞑《ねむ》る。 「何でげしょう。」 「何だか、」 「そうさね。」 「一番あてッこで、丁《ちょう》と出たらまた頂戴は、どうでげすえ。」  源次は鷹揚《おうよう》に、 「下司張《げすば》るな下司張るな。」 「どうせ詰《つま》らないものよ。」と蝶吉は笑いたそうにして押耐《おしこら》える。  円輔は例に因って、 「よッ!」 「沢山おひゃらかして下さいな。」と怒ったのでも何でもない、いそいそ膝の上へ抱下《だきおろ》して斜《ななめ》にした。  蝶吉は簪《かんざし》を抜いて、そっと持って、 「邪険に封をしてさ。」といいいい、名工が苦心の眼《まなこ》で、瞶《みつ》めて、簪の尖《さき》で、封じ目を切って解《ほど》く。  上包はくるくると開《あ》いて、やまと新聞の一の面が颯《さっ》と膝の上に広がった。中は、中は、手文庫ばかりの白木の箱。 「さあさあ御覧《ごろう》じろ、封が解《とけ》るに従うて、お蝶さんの、あの顔が段々|弛《ゆる》んで来る処を、」 「どういう訳だか、不思議なもんさね、」と源次郎は憎体《にくてい》な。 「私《わたい》沢山だ。」 「何もお前さんそんなにつんとすることはないじゃありませんか、頬を膨らしてさ。」 「一生懸命でおいで遊ばす、さあ、耐《たま》らない。ほれ、」 「それ笑った。」  蝶吉は莞爾《にっこり》して、 「御免なさい、」というかと思うと、引攫《ひっさら》うように小包を取って、裳《もすそ》を蹴返すと二階へ、ふい。  驚いたのは円輔である。ぐんにゃりとなって、 「豪《えら》い!」 [#7字下げ]四十七[#「四十七」は中見出し] 「堪忍なさいな、私《わたい》は見向いても下さらないんだと思って、自暴《やけ》よ、お花札《はな》なんか引いてさ、堪忍して下さいな、可《よ》くッて。おまえ様《さん》の深切を無にしたようだけれど、だってしようがないんだもの。これからきっと大人しくしますから。いいつけた通《とおり》にしていると思っていらっしゃるんだよ。悪かったわねえ。それでも開けても可くッて。嬉しいなあ、」と胸を抱《だき》しめて身を顫《ふる》わした。この音信《たより》があったので、許されたもののように思われて、蝶吉は二階に上《あが》ると、まずその神月の写真を懐に抱いたのであった。  それでも箱の中が気に懸《かか》って、そわそわして手も震い、動悸《どうき》の躍るのを忘れるばかり、写真で圧《おさ》えて、一生懸命になって蓋《ふた》を開けた。  箱の中には紙にも包まず裸の人形が入っている。  ふっと見て少し色を変えて、 「おやおや、おかしいねえ、あてッこすりに寄越《よこ》したのかしら、私《わたい》をこんなにしておいて、まだそんなことをする方じゃあない、」とこの時気が付いたのは、自分の人形のことである。  蝶吉は夢のような心持がして、気味悪そうに、灯《ともしび》の暗い、森《しん》として、片附いた美しい二階の座敷を眗《みまわ》したが、そうだ、小包が神月からというのに顛倒《てんどう》して忘れていた、先刻《さっき》を思出すと、悚《ぞっ》として、ばたりと箱を落して立ち、何を憚《はばか》るともなく、浮足《うきあし》で、密《そっ》と寄って、蒲団《ふとん》を上げて見ると何にもない。思切って、白い手を冷い小さな閨《ねや》の中《うち》に差入れると、丹精をして着せておく、筒袖の着物に襦袢《じゅばん》、縮緬《ちりめん》の書生帯まで引《ひっ》くるめて、円《まる》げてあった。蝶吉は、呼吸《いき》を詰めて、唾《つば》を呑み、座に直って、引寄せて、熟《じっ》と見て蒼《あお》くなった。涙をはらはらと落して、震い着いて、 「坊や、」とばかり、あわれな裸身《はだかみ》を抱え上げようとして、その乳のあたりを手に取ると、首が抜けて、手足がばらばら。胴中《どうなか》の丸いものばかり蝶吉の手に残ったので、 「厭《いや》!」と声を上げざまに、蛇を掴《つか》んだと思って、どんと投げると、空を切って、姿見に映って落ちた。 「あれえ。」  下階《した》では哄《どっ》と笑う声、円輔は屹《きっ》と見得をして、 「今のは確《たしか》に、」 「叱《しっ》!」と押えて源次はしてやったという顔色《かおつき》。 「雲井の印紙を引剥《ひっぺ》がして、張り付けて、筆で消印を押したお手際なんざあ、」 「どんなもんだい。」 「いや、御馳走様でございますよ。」 「口惜《くや》しい!」と泣く声が細く耳を貫いて響いたが。  下じめの端を両手できりきりと〆《し》めながら、蹌踉《よろめ》いて二階を下りて来た、蝶吉の血相は変っている。  顔も蒼白く、目が逆釣《さかづ》り、口許《くちもと》も上に反ったように歯を噛《か》んで、驚いて見る下地ッ子の小さな手を砕けよと掴んでぐッと引着けた。 「あれ、姐《ねえ》さん。」 「さあ、言っとくれ、言っとくれ、承知しなくッてよ、私《わたい》の、私の人形をあんなにしたなあ誰だ。いいえ、知らないッたって不可《いけな》いの、あんなにお前さんにも頼んでおくものを、……」と力を籠《こ》めておさえるようにいったが、ぶるぶる震える、額には筋が通った。 「手も足もばらばらよ、酷《ひど》いッたら、酷いことよ。さあ、誰だか、いっておしまい、いえ、聞かしておくれ。蔭になり日向《ひなた》になり、しょっちゅう庇《かば》ってやる姐さんだ、お聞かせなね、ええ! 畜生言わないかい。」 「痛い、痛い、姐さん。」とべそを掻《か》いてたのがわっと泣出した。 [#5字下げ]灰神楽[#「灰神楽」は大見出し] [#7字下げ]四十八[#「四十八」は中見出し] 「ま、ま、お前さん何でございます、手荒なことを。」と婆《ばば》は居合腰に伸上って、袂《たもと》を取って分けようとするのを、身悶《みもだえ》して振払い、振向いて屹《きっ》と見て、 「お婆《ばあ》さん、お前にも私《わたい》は怨《うらみ》があってよ、可《い》い加減なことをいって誑《だま》してさ、お肚《なか》が痛むか擦《さす》ろうなんぞッて言っておくれだから、深切な人だと思ったわ、悔しいじゃあないかね。畜生、放せ、何をするのよう。」 「おや、恐《こわ》い、恐いこッた。へん、」と太々《ふてぶて》しい。血眼《ちまなこ》でもう武者振附《むしゃぶりつき》そうだから、飽気《あっけ》に取られていた円輔が割って入った。 「さてはや、」 「ええ、手前達の手を触る体じゃあないんだい、御亭主が着いてるよ、野幇間《のだいこ》め、」と平手で横顔をぴたりと当てる。  天窓《あたま》を抱えて、 「豪《えら》い、」と吃驚《びっくり》。 「亭主持が凄《すさま》じいや、向《むこう》から切られた癖に、何だ、取揚婆のさかさまめ、」まさかにこうとは思い懸けず、いやがらせをやって、嬲《なぶ》って奢《おご》らせた上、笑い着けて、下駄の肚癒《はらいせ》をして、それから、仲直りをして、ちょいと悪党な処を見せて、そこらで思い着かれようという際限のない大慾張《おおよくばり》、源次は源次だけの考《かんがえ》で、既に今夜|印半纏《しるしばんてん》で、いなって反身《そりみ》の始末であったが、悪戯《わるさ》も、人形の手足を掙《も》いでおいたのに極《きわま》って、蝶吉の血相の容易でなく、尋常《ただ》では納《おさま》りそうもない光景を見て、居合すは恐《おそれ》と、立際《たちぎわ》の悪体口《にくていぐち》、 「ざまあ見やがれ、」とふて[#「ふて」に傍点]を吐《つ》いて、忘れずに莨入《たばこいれ》を取って差し、生白《なまっちろ》い足を大跨《おおまた》にふいと立って出ようとする。 「待ちゃあがれ。」 「ええ、」 「悪戯《いたずら》をしたなあ、源の野郎、手前《てめえ》だな。」 「いいえ、私だ。」とすっきりいって、ずッと入ったのは大和屋の姐《ねえ》さんで、蔦吉《つたきち》という中年増《ちゅうどしま》。腕も器量も凄《すご》いのが、唐桟《とうざん》ずくめのいなせな形《なり》で、暴風雨《あらし》に屋根を取られたような人立《ひとだち》のする我家の帳場を、一渡《ひとわたり》眗《みまわ》しながら、悠々として、長火鉢の向側、これがその座に敷いてある、黒天鵝絨《くろびろうど》の大座蒲団にきちんと坐って、「寒い。」と肩を一つ揺《ゆす》っておいて、 「皆《みんな》静《しずか》にしておくれ、お蝶さんお前もおすわり。」 「何ですッて、」と蝶吉は目を据えて立ったまま、主婦《あるじ》が方《かた》に向直って、 「悪戯をしたなあ、お前さん、」と屹《きっ》という。 「あい、私さ、」 「何、」 「突立《つッた》って、何だ。」 「坐ったらどうおしだい。」 「おやおや、この女《こ》は、目が上《あが》ってるよ、水でもぶッかけておやんなね。」 「まあ、姐さん、」とばかりで[#「で」は底本では無し。以下の本では「で」有り。『鏡花全集 卷五』(岩波書店、昭和49年3月4日 第2刷發行)、『鏡花全集 巻四』(春陽堂、大正15年9月25日發行)、『湯島詣』(春陽堂、明治32年11月23日發行)、『湯島詣』(春陽堂文庫、春陽堂、昭和22年10月20日復刊第一版發行)]円輔は遣瀬《やるせ》がない。 「お蝶私は主人だよ。」 「は、私《わたい》お前さんの抱妓《かかえ》じゃありません、誰が、そんな水臭い、分らない奴《やつ》に抱えられるもんか。人が知らないと思ってさ、薬を飲ませてさ、そのせいで、私《わたい》逢えないんじゃありませんか、命もいらない人よ。あんまり思遣《おもいやり》がない、何が気に入らないで、人形を壊したのよ、よ。お前さんは悪いことを、ようく知ってて私《わたい》に教えてさ、無理にあんなことをさせておいて、まだ足りなくッて。畜生! 義理知らず、お前さんの出《で》は田舎じゃあないか、私《わたい》はね、仲之町で育ったんです。」と蝶吉は急《せ》き上げて言うこともしどろである。 [#7字下げ]四十九[#「四十九」は中見出し] 「黙れ、黙れ、黙れ、ええ黙らないかい。」といいさま持ってた長煙管《ながぎせる》で蝶吉の肩をぴしと打った。 「畜生!」 「生意気な、文句をいうなら借金を突いて懸《かか》るこッた、分《わけ》が何だい、憚《はばか》ンながら大金が懸《かか》ってますよ。そうさ、また仲之町でお育ち遊ばしたあなただから、分外なお金子《かね》を貸した訳さ。しッ越《こし》もない癖に、情人《いろ》なんぞ拵《こしら》えて、何だい、孕《はら》むなんて不景気な、そんな体は難産と極《きま》ってるから、血だらけになって死なないようにとお慈悲で堕《おろ》してやったんだ。商売にも障ります、こっちゃ何も慰《なぐさみ》に置くお前じゃあない、お姫様も可《い》い加減にしておくが可いや、狂気《きちがい》。朝《あさっ》から晩まで人形いじくりをし通されて耐《たま》るもんか、外《ほか》の妓《こ》にも障るんです、五人六人と雑魚寝《ざこね》をする二階にあんなもの出放《だしはな》しにしておかれちゃあ邪魔にもなるね。面《つら》も生ッ白《ちろ》いし、芸も出来て、ちったあ売れるからと大目に見て、我ままをさしておきゃあ附け上って、何だと、畜生。もう一度いって見ろ、言わなきゃあ言わしてやろうか、」  と乗上って火鉢越に、またその頸《えり》のあたりを強く打《ぶ》ったのである。 「神月さん!」と蝶吉は半狂乱で悲鳴を上げる。 「まあさ、まあさ、姉さん。」と円輔は手持不沙汰《てもちぶさた》なのを頻《しきり》に揉《も》む。 「一体口が過ぎるんですよ。」と婆はねッつり。 「いいえ、たまにゃこんな目に逢わせておかないとね、いい気になってつけ上りまさあね。神月さんがどうした、向うから突出された癖に何だい、器量の悪さッたらありやしない、呼べるなら呼んで見るが可いや。」 「ええ、呼べなくッて、」と泣々《なきなき》いいながら、立とうとするのを、婆がむずと掴《つか》まえた。 「お前さんは。」  蝶吉は弱々となって崩折《くずお》れて、 「悔しい、悔しい、悔しい、悔しい、皆《みんな》で私《わたい》を、私をどうするのよ。どうせ死ぬんだから、さあ、殺しておしまいなさいなね、さあ、さあ、」と小供が捏々《だだ》をいうごとく、横坐《よこずわり》になって、顔も体も水から上ったようにびッしょり汗になりながら、投遣《なげや》りに突《つッ》かかる。 「殺して耐《たま》るもんか、大枚《たいまい》のお金子《かね》だあね、なあお婆さん。おほほほほほ。」 「さようでございますとも、ははははは、」と笑いつけてあえて不関焉《かんせず》。  真蒼《まっさお》になり、髪も乱れて、泣吃逆《なきじゃくり》をしいしい、 「殺さなくッたって可《い》いのよ、可いのよ、厭《いや》なら止《よ》せ、私《わたい》どうせ死ぬんだから。そして、あの皆《みんな》神月さんに言付《いッつ》けてやるから覚えているが可い。私《わたい》誰も構っちゃあくれないんだもの、世間にゃあ、鬼ばッかり。」とはや血が狂ったか舌も縺《もつ》れて他愛がない。 「ええ、性根をつけないかい!」と、力なく己《おのれ》を捕えた敵の腕《かいな》、婆の膝によりかかって肩で息を吐《つ》いている、胸の処を、また一つ煙管で撲《なぐ》った。  途端に糸切歯をきりりと鳴《なら》して、脱兎《だっと》のごとく、火鉢の鉄瓶を突覆《つッかえ》すと、凄《すさま》じい音がして␼《ぱッ》と立った灰神楽、灯も暗く、あッという間に、蝶吉の姿はひらひらとして見えなくなる。 「待て、」と縋《すが》って戸口で押えたのは源次であった。  物をも言わず、据《すわ》った瞳で、じっと見るや、両手に持った駒下駄を襷《たすき》がけに振ったので、片手は源次が横顔を打って退《のぞ》け、片手は磨硝子《すりがらす》の戸を一枚|微塵《みじん》に砕いた、蝶吉は飜って出たと思うと、糸を曳《ひ》くように颯《さっ》と駈《か》ける。 [#7字下げ]五十[#「五十」は中見出し] 「こりゃ、待て。」  学士は胸騒《むなさわぎ》がして、瑞林寺のその寓居《ぐうきょ》に胸を圧《おさ》えて坐するに忍びず、常にさる時は行《ゆ》いて時を消すのが例であった湯島から、谷中に帰る途《みち》の暗がりで、唐突《だしぬけ》に手を捕えたのは一名の年若き警官である。  梓は気も心も沈んでいたから少しも騒がず、もとより驚く仔細《しさい》はない。静《しずか》に顧みて、 「私、」 「どこへ行くか、あッ貴様は。」  言葉も荒く、ものに激しているようである。 「谷中の方へ行《ゆ》くんですが、」 「うむ、墓原へでも寝に行《ゆ》くか、嘘を吐《つ》け! き様|掬摸《すり》じゃろう、」とほとんど狂人《きちがい》に斉《ひと》しい譫言《うわごと》を言ったけれども、梓はよく人を見て、この年少巡査があえて我を誣《し》いんとする念慮のあるのでもなく、また罪人を悪《にく》む情が烈《はげ》しいのでもなく、単に職務に熱誠であるため、自ら抑うることの出来ない血気に逸《はや》るのであることを知った。 「貴方《あなた》御心配には及びません。」と微笑《ほほえ》むばかりに涼しく答える。清らかなその面《おもて》を見ても、可懐《なつか》しい香《こう》の薫《かおり》の身に染みたのに聞いても、品位ある青年であることが分るであろうに、警官は余り職務に熱心であった。 「名を言え、番地はどこか。」 「…………」 「こら!」と驚くべき声で詈《ののし》り喚《わめ》く。  あえて憚《はばか》る処はないけれども、名告《なの》るは惜しい名であった。神月はいい淀《よど》み、 「玉……月、」とばかり言葉が濁る、と聞免《ききのが》さず、 「玉……玉……玉何だ、」と畳みかけて尋問する。 「玉月、あ、秋太郎です。」といったが我にもあらず狼狽《あわて》たのである。 「家《うち》は、」 「下宿して、」 「どこだ、何というか、うむ、疾《はや》く言わんか。」と急《せ》き立てられて、トむねをついて猶予《ためら》って、悪いことをしたと思った。  横顔を一拳《ひとこぶし》、拉《ひし》げよと撲《は》りつけて、威丈高になって、 「来い、」  蒲柳《ほりゅう》の公子は生れて以来、かばかりの恥辱を与えられたことをかつて覚えぬ。夜目にこそ見えね色を作《な》して、 「君!」 「馬鹿いえ、君たあ何か、」といいざまに横撲《よこなぐり》に払《はた》く手を、しっかと取ったが声も震えて、 「名を言おう。」 「何い。」 「神月梓というんだよ。」といいながら手を向うへ押遣《おしや》ったが、吻《ほっ》と息を吐《つ》いて俯向《うつむ》いた。学士はここで名乗った名が太《いた》くも汚《けが》れたように感じたのである。  警官はこれを聞くと、その偽名を語ったゆえんを詰《なじ》ろうともせず、たちまち声を和《やわら》げて、 「神月かね、」 「用があるんですか。」と、憤《いきどおり》はまだ消えず冷《ひやや》かに答えた。 「さようか、何にしても交番まで、」といって、巡査はその仔細を語った。  ちょうど今しがた、根津の交番で、太《いた》く取乱した女が一人|掴《つかま》ったが、神月という人を尋ねるのだとばかりで、取留《とりとめ》のないことを言っている。最初《はじめ》その女が路を歩いている時|背後《うしろ》から一人|跟《つ》けて来た男があった、ということを通行人が告げたので、女は身装《みなり》の可《い》い上に、容色が抜群であるから、掬摸か、何ぞ悪意あって尾行したものであろうという鑑定で、女を取調べる旁《かたがた》その悪漢の手当に巡行を命ぜられたものである。  語りかけて巡査は嘲《あざ》けるがごとく梓を見て、 「ふむ、色狂気《いろきちがい》の亭主だな。」 [#5字下げ]星[#「星」は大見出し] [#7字下げ]五十一[#「五十一」は中見出し]  しかり、==色狂気の亭主[#「亭主」は底本では「亨主」。以下の本では「亭主」。『鏡花全集 卷五』(岩波書店、昭和49年3月4日 第2刷發行)、『鏡花全集 巻四』(春陽堂、大正15年9月25日發行)、『湯島詣』(春陽堂、明治32年11月23日發行)、『湯島詣』(春陽堂文庫、春陽堂、昭和22年10月20日復刊第一版發行)]==これを警官の口から聞くに至って梓は絶望したのである。  されば冥土《よみじ》を辿《たど》るような思いで、弥生町《やよいちょう》を過ぎて根津まで行《ゆ》くと、夜更《よふけ》で人立《ひとだち》はなかったが、交番の中に、蝶吉は、腕《かいな》を背《そびら》へ捻《ねじ》られたまま、水を張った手桶《ておけ》にその横顔を押着けられて、ひいひい泣いていた。  帯を解いて下じめと共に卓子《テイブル》の上に綰《わが》ねてあった。この時まで嗜《たしな》んで持っていたか、懐中鏡やら鼈甲《べっこう》に透彫《すかしぼり》の金|蒔絵《まきえ》の挿櫛《さしぐし》やら、辺《あたり》に散《ちら》ばった懐紙の中には、見覚《みおぼえ》のある繿縷錦《つづれにしき》の紙入も、落交《おちまじ》って狼藉《ろうぜき》極まる、蝶吉はあたかも手籠《てごめ》にされたもののごとく、三人|懸《がか》りで身動きもさせない様子で、一|人《にん》は柄杓《ひしゃく》を取って天窓《あたま》から水を浴びせておった。黒髪も海松《みる》となり、胸も裾《すそ》も取乱して乳も露《あらわ》になって震えている。  梓は歯切《はがみ》をして、衝《つ》と寄って、その行為《おこない》を詰《なじ》ったが、これに答えた警官の語《ことば》は、極めて明瞭に、且つ極めて正当なものであった。  狂人力《きちがいぢから》で手に合わず、取静めようとして引留めれば、主《ぬし》のある身体《からだ》だ、指を指すなと、あばれ廻って、簪《かんざし》を抜いて突こうとする。突かれて手の甲に傷《きずつ》けられたものも一名ある、ようよう掴《つか》まえてからも危険だから、腕は捻《ね》じ上げておかねばならぬ。且つその住所、姓名、身分の手懸《てがかり》を知るために、懐中物も検《しら》べねばならず、或《あるい》はいかなる迫害を途上受けたかも計られないから、身内を検するには、着物も脱がさなければならぬ、もちろん帯も解かんけりゃ不可《いけな》い。逆上《のぼせ》て夥多《おびただ》しく鼻血を出すから、手当をして、今|冷《ひや》している処だといった。学士がここに来た時には、既にその道を行《ゆ》く女に尾行した男というのが明かに分っていた。  交番の窓に頬杖を支《つ》いて、様子を見ている一名|紋着《もんつき》を着た目の鋭いのがすなわちそれで、渠《かれ》は学士に怨《うらみ》のある書生の身の果《はて》で、今は府下のある小新聞《こしんぶん》に探訪員たる紳士であった。 「やあ、神月。」  これにも答えず、もとより警官には返すべき言《ことば》もなく、学士は見る目も可憐《いとおし》さに死んだもののようになっている蝶吉を横ざまに膝に抱上げた。 「神月だ。」  思わず骨も砕くるばかり、しっかと縋《すが》って離れぬのを、賺《す》かして、帯をしめさせて、胸を掻合《かきあわ》せてやって、落散った駒下駄を穿《は》かせて、手を引いて交番を出ようとする時、 「そら忘物だ、」といって投出《ほうりだ》して呉れたのは、年紀《とし》二十《はたち》の自分の写真、大学の制服で、折革鞄《おりかばん》を脇挟んだのを受取って、角燈の灯の達《とど》かぬ、暗がりの中に消えてしまった。が、深更の大路に車の轆《きし》る音が起って、都《みやこ》の一端をりんりんとして馳《は》せ行《ゆ》く響《ひびき》、山下を抜けて広徳寺前へかかる時、合乗《あいのり》の泥除《どろよけ》にその黒髪を敷くばかり、蝶吉は身を横に、顔を仰《あおむ》けにした上へ、梓は頬を重ねていた。その時は二人抱合っていたが、死骸《しがい》は大川で別々《わかれわかれ》。  男は顔を両手で隠して固く放さず、女は両手を下〆《したじめ》で鳩尾《みずおち》に巻きしめていた。  この死骸を葬る時、疾風一陣土砂を捲《ま》いて、天暗く、都の半面が暗くなって、矢のごとき驟雨《しゅうう》が注いだ。柩《ひつぎ》は白日暗中を通ったが、寺に着く頃《ころお》いには、拭《ぬぐ》うがごとき蒼空《あおぞら》となった。  墓は、神月梓、松山峰子、と二ツならべて谷中の瑞林寺にある。  弔うものは、梓が生前の三個の信友と、いま一|人《にん》、忍々《しのびしのび》に音信《おとず》るる玉司子爵夫人竜子であるが、姫は一夜、墓前において、ゆくりなく三人の学士にあった時、哀《あい》を請うもののごとく、その自分がここに詣《もう》ずることは、固く秘密を守って世にあらわれぬよう、名にかけて誓われたいといって跪《ひざまず》いたのである。哲学者は直ちに霊前に合掌してこれを誓い、柳沢は卵塔の背後《うしろ》に粛然として頷《うなず》いたが、一人竜田は、柳沢の胸にその紅顔を押当てて落涙しつつ頭《かぶり》を掉《ふ》った。星はその時|煌《きらめ》いたであろう。いかに、紫か、緑か、燦然《さんぜん》として。 [#地から1字上げ]明治三十二(一八九九)年十一月 底本:「泉鏡花集成3」ちくま文庫、筑摩書房    1996(平成8)年1月24日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第五卷」岩波書店    1940(昭和15)年3月30日 初出:「湯島詣」春陽堂    1899(明治32)年11月23日 ※「鮓《すし》」と「鮨《すし》」、「飜」と「翻」の混在は、底本通りです。 ※底本の編者による脚注は省略しました。 入力:門田裕志 校正:砂場清隆 2018年10月24日作成 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