霰ふる 泉鏡花 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)二人《ふたり》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)随分|中絶《なかだ》え [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)烘 ------------------------------------------------------- [#10字下げ]一[#「一」は中見出し]  若いのと、少し年の上なると……  この二人《ふたり》の婦人《おんな》は、民也《たみや》のためには宿世《すぐせ》からの縁《えん》と見える。ふとした時、思いも懸けない処へ、夢のように姿を露《あら》わす――  ここで、夢のように、と云うものの、実際はそれが夢だった事もないではない。けれども、夢の方は、また……と思うだけで、取り留めもなく、すぐに陽炎《かげろう》の乱るる如く、記憶の裡《うち》から乱れて行く。  しかし目前《まのあたり》、歴然《ありあり》とその二人を見たのは、何時《いつ》になっても忘れぬ。峰を視《なが》めて、山の端《は》に彳《たたず》んだ時もあり、岸づたいに川船に乗って船頭もなしに流れて行くのを見たり、揃って、すっと抜けて、二人が床の間の柱から出て来た事もある。  民也は九《ここの》ツ……十歳《とお》ばかりの時に、はじめて知って、三十を越すまでに、四度《よたび》か五度《いつたび》は確《たしか》に逢った。  これだと、随分|中絶《なかだ》えして、久しいようではあるけれども、自分には、さまでたまさかのようには思えぬ。人は我が身体《からだ》の一部分を、何年にも見ないで済ます場合が多いから……姿見に向わなければ、顔にも逢わないと同一《おなじ》かも知れぬ。  で、見なくっても、逢わないでも、忘れもせねば思出《おもいだ》すまでもなく、何時《いつ》も身に着いていると同様に、二個《ふたつ》、二人の姿もまた、十年見なかろうが、逢わなかろうが、そんなに間《あいだ》を隔てたとは考えない。  が、つい近くは、近く、一昔前は矢張《やっぱ》り前、道理に於て年を隔てない筈はないから、十《とお》から三十までとしても、その間《あいだ》は言わずとも二十年経つのに、最初逢った時から幾歳《いくとせ》を経ても、婦人《おんな》二人は何時も違わぬ、顔容《かおかたち》に年を取らず、些《ちっ》とも変らず、同一《おなじ》である。  水になり、空になり、面影は宿っても、虹のように、すっと映って、忽《たちま》ち消えて行く姿であるから、確《しか》と取留《とりと》めた事はないが――何時でも二人|連《づれ》の――その一人は、年紀《とし》の頃、どんな場合にも二十四五の上へは出ない……一人は十八九で、この少《わか》い方は、ふっくりして、引緊《ひきしま》った肉づきの可《い》い、中背《ちゅうぜい》で、……年上の方は、すらりとして、細いほど痩せている。  その背《せい》の高いのは、極めて、品の可《よ》い艶《つや》やかな円髷《まるまげ》で顕《あらわ》れる。少《わか》いのは時々《よりより》に髪が違う、銀杏返《いちょうがえ》しの時もあった、高島田の時もあった、三輪《みつわ》と云うのに結ってもいた。  そのかわり、衣服《きもの》は年上の方が、紋着《もんつき》だったり、お召《めし》だったり、時にはしどけない伊達巻《だてまき》の寝着《ねまき》姿と変るのに、若いのは、屹《きっ》と縞《しま》ものに定《さだま》って、帯をきちんと〆《し》めている。  二人とも色が白い。  が、少い方は、ほんのりして、もう一人のは沈んで見える。  その人柄、風采《とりなり》、姉妹ともつかず、主従でもなし、親しい中の友達とも見えず、従姉妹《いとこ》でもないらしい。  と思うばかりで、何故《なぜ》と云う次第は民也にも説明は出来ぬと云う。――何《な》にしろ、遁《のが》れられない間《あいだ》と見えた。孰方《どっち》か乳母の児《こ》で、乳姉妹《ちきょうだい》。それとも嫂《あによめ》と弟嫁《おとよめ》か、敵《かたき》同士か、いずれ二重《ふたえ》の幻影である。  時に、民也が、はじめてその姿を見たのは、揃って二階からすらすらと降りる所。  で、彼が九ツか十の年、その日は、小学校の友達と二人で見た。  霰《あられ》の降った夜更《よふけ》の事―― [#10字下げ]二[#「二」は中見出し]  山国の山を、町へ掛けて、戸外《おもて》の夜の色は、部屋の裡《うち》からよく知れる。雲は暗かろう……水はもの凄く白かろう……空の所々に颯《さっ》と薬研《やげん》のようなひびが入《い》って、霰はその中から、銀河の珠《たま》を砕くが如く迸《ほとばし》る。  ハタと止《や》めば、その空の破《わ》れた処へ、むらむらとまた一重《ひとえ》冷い雲が累《かさな》りかかって、薄墨色に縫合《ぬいあ》わせる、と風さえ、そよとのもの音も、蜜蝋を以《もっ》て固く封じた如く、乾坤《けんこん》寂《じゃく》となる。……  建着《たてつけ》の悪い戸、障子、雨戸も、カタリとも響かず。鼬《いたち》が覘《のぞ》くような、鼠が匍匐《はらば》ったような、切って填《は》めた菱《ひし》の実が、ト、べっかっこをして、ぺろりと黒い舌を吐くような、いや、念の入《い》った、雑多な隙間、破《や》れ穴が、寒さにきりきりと歯を噛んで、呼吸《いき》を詰めて、うむと堪《こら》えて凍着《こごえつ》くが、古家《ふるいえ》の煤《すす》にむせると、時々|遣切《やりき》れなくなって、潜《ひそ》めた嚔《くしゃめ》、ハッと噴出《ふきだ》しそうで不気味な真夜中。  板戸一つが直《す》ぐ町の、店の八畳、古畳の真中に机を置いて対向《さしむか》いに、洋燈《ランプ》に額を突合《つきあ》わせた、友達と二人で、その国の地誌略《ちしりゃく》と云う、学校の教科書を読んでいた。――その頃、風《ふう》をなして行われた試験間際に徹夜の勉強、終夜と称《とな》えて、気の合った同志が夜あかしに演習《おさらい》をする、なまけものの節季《せっき》仕事と云うのである。  一枚……二枚、と両方で、ペエジを遣《やッ》つ、取《とッ》つして、眠気ざましに声を出して読んでいたが、こう夜が更けて、可恐《おそろ》しく陰気に閉《とざ》されると、低い声さえ、びりびりと氷を削るように唇へきしんで響いた。  常《つね》さんと云うお友達が、読み掛けたのを、フッと留《と》めて、 「民さん。」  と呼ぶ、……本を読んでたとは、からりと調子が変って、引入《ひきい》れられそうに滅入《めい》って聞えた。 「……何《なあに》、」  ト、一つ一つ、自分の睫《まつげ》が、紙の上へばらばらと溢《こぼ》れた、本の、片仮名まじりに落葉《おちば》する、山だの、谷だのをそのままの字を、熟《じっ》と相手に読ませて、傍目《わきめ》も触らず視《み》ていたのが。  呼ばれて目を上げると、笠は破《やぶ》れて、紙を被《かぶ》せた、黄色に燻《くすぶ》ったほやの上へ、眉の優しい額を見せた、頬のあたりが、ぽっと白く、朧夜《おぼろよ》に落ちた目《め》かずらと云う顔色《かおつき》。 「寂《さび》しいねえ。」 「ああ……」 「何時だねえ。」 「先刻《さっき》二時うったよ。眠くなったの?」  対手《あいて》は忽《たちま》ち元気づいた声を出して、 「何、眠いもんか……だけどもねえ、今時分になると寂しいねえ。」 「其処に皆寝ているもの……」  と云った――大きな戸棚、と云っても先祖代々、刻み着けて何時《いつ》が代《だい》にも動かした事のない、……その横の襖《ふすま》一重《ひとえ》の納戸の内には、民也の父と祖母とが寝ていた。  母は世を早《はよ》うしたのである…… 「常さんの許《とこ》よりか寂《さび》しくはない。」 「どうして?」 「だって、君の内はお邸《やしき》だから、広い座敷を二つも三つも通らないと、母《おっか》さんや何か寝ている部屋へ行けないんだもの。この間、君の許《とこ》で、徹夜をした時は、僕は、そりゃ、寂しかった……」 「でもね、僕ン許《とこ》は二階がないから……」 「二階が寂しい?」  と民也は真黒な天井を。……  常さんの目も、斉《ひと》しく仰いで、冷く光った。 [#10字下げ]三[#「三」は中見出し] 「寂しいって、別に何でもないじゃないの。」  と云ったものの、両方で、机をずって、ごそごそと火鉢に噛着《かじりつ》いて、ひったりと寄合《よりあ》わす。  炭は黒いが、今しがた継いだばかりで、尉《じょう》にもならず、火気の立ちぎわ。それよりも、徹夜の温習《おさらい》に、何よりか書入《かきい》れな夜半《やはん》の茶漬で忘れられぬ、大福めいた餡餅《あんも》を烘《あぶ》ったなごりの、餅網が、佗《わび》しく破蓮《やればす》の形で畳に飛んだ。……御馳走は十二時と云うと早《は》や済んで、――一つは二人ともそれがために勇気がないので。……  常さんは耳の白い頬を傾けて、民也の顔を覘《のぞ》くようにしながら、 「でも、誰も居ないんだもの……君の許《とこ》の二階は、広いのに、がらんとしている。……」 「病気の時はね、お母《っか》さんが寝ていたんだよ。」  コツコツ、炭を火箸で突《つつ》いて見たっけ、はっと止《や》めて、目を一つ瞬《またた》いて、 「え、そして、亡くなった時、矢張《やっぱり》、二階。」 「ううん……違う。」  とかぶりを掉《ふ》って、 「其処のね、奥……」 「小父さんだの、寝ている許かい。……じゃ可《い》いや。」と莞爾《にっこり》した。 「弱虫だなあ……」 「でも、小母さんは病気の時寝ていたかって、今は誰も居ないんじゃないか。」  と観世捩《かんぜより》が挫《ひしゃ》げた体《てい》に、元気なく話は戻る…… 「常さんの許だって、あの、広い座敷が、風はすうすう通って、それで人っ子は居ませんよ。」 「それでも階下《した》ばかりだもの。――二階は天井の上だろう、空に近いんだからね、高い所には何が居るか知れません。……」 「階下だって……君の内《うち》でも、この間、僕が、あの空間《あきま》を通った時、吃驚《びっくり》したものがあったじゃないか。」 「どんなものさ、」 「床の間に鎧《よろい》が飾ってあって、便所へ行く時に晃々《ぴかぴか》光った……わッて、そう云ったのを覚えていないかい。」 「臆病だね、……鎧は君、可恐《おそろし》いものが出たって、あれを着て向って行《ゆ》けるんだぜ、向って、」  と気勢《きお》って肩を突構《つきかま》え。 「こんな、寂《さび》しい時の、可恐《こわ》いものにはね、鎧なんか着たって叶わないや……向って行きゃ、消《きえ》っ了《ちま》うんだもの……これから冬の中頃になると、軒の下へ近く来るってさ、あの雪女郎《ゆきじょろう》見たいなもんだから、」 「そうかなあ、……雪女郎って真個《ほんと》にあるんだってね。」 「勿論だっさ。」 「雨のびしょびしょ降る時には、油舐坊主《あぶらなめぼうず》だの、とうふ買《かい》小僧《こぞう》だのって……あるだろう。」 「ある……」 「可厭《いや》だなあ。こんな、霰《あられ》の降る晩には何にも別にないだろうか。」 「町の中には何にもないとさ。それでも、人の行かない山寺だの、峰の堂だのの、額《がく》の絵がね、霰がぱらぱらと降る時、ぱちくり瞬《まばた》きをするんだって……」 「嘘を吐《つ》く……」  とそれでも常さんは瞬きした。からりと廂《ひさし》を鳴らしたのは、樋竹《といだけ》を辷《すべ》る、落《おち》たまりの霰らしい。 「うそなもんか、それは真暗な時……ちょうど今夜見たような時なんだね。それから……雲の底にお月様が真蒼《まっさお》に出ていて、そして、降る事があるだろう……そう云う時は、八田潟《はったがた》の鮒《ふな》が皆首を出して打たれるって云うんです。」 「痛かろうなあ。」 「其処が化けるんだから、……皆、兜を着ているそうだよ。」 「じゃ、僕ン許《とこ》の蓮池の緋鯉なんかどうするだろうね?」  其処には小船も浮べられる。が、穴のような真暗な場末の裏町を抜けて、大川に架けた、近道の、ぐらぐらと揺れる一銭橋《いちもんばし》と云うのを渡って、土塀ばかりで家《うち》の疎《まばら》な、畠も池も所々《ところどころ》、侍町《さむらいまち》を幾曲《いくまが》り、で、突当《つきあた》りの松の樹の中のその邸《やしき》に行く、……常さんの家《うち》を思うにも、恰《あたか》もこの時、二更《にこう》の鐘の音《おと》、幽《かすか》。 [#10字下げ]四[#「四」は中見出し]  町なかの此処も同じ、一軒家の思《おもい》がある。  民也は心もその池へ、目も遥々《はるばる》となって恍惚《うっとり》しながら、 「蒼い鎧を着るだろうと思う。」 「真赤な鰭《ひれ》へ。凄い月で、紫色に透通《すきとお》ろうね。」 「其処へ玉のような霰《あられ》が飛ぶんだ……」 「そして、八田潟の鮒と戦《いくさ》をしたら、何方《どっち》が勝つ?……」 「そうだね、」  と真顔に引込《ひきこ》まれて、 「緋鯉は立派だから大将だろうが、鮒は雑兵《ぞうひょう》でも数が多いよ……潟《かた》一杯《いっぱい》なんだもの。」 「蛙《かわず》は何方《どっち》の味方をする。」 「君の池の?」 「ああ、」 「そりゃ同じ所に住んでるから、緋鯉に属《つ》くが当前《あたりまえ》だけれどもね、君が、よくお飯粒《まんまつぶ》で、糸で釣上《つりあ》げちゃ投げるだろう。ブッと咽喉《のど》を膨らまして、ぐるりと目を円くして腹を立つもの……鮒の味方になろうも知れない。」 「あ、また降るよ……」  凄まじい霰の音、八方から乱打《みだれう》つや、大屋根の石もからからと転げそうで、雲の渦《うずま》く影が入って、洋燈《ランプ》の笠が暗くなった。 「按摩《あんま》の笛が聞えなくなってから、三度目だねえ。」 「矢が飛ぶ。」 「弾《たま》が走るんだね。」 「緋鯉と鮒とが戦うんだよ。」 「紫の池と、黒い潟で……」 「蔀《しとみ》を一寸《ちょっと》開けてみようか、」  と魅せられた体《てい》で、ト立とうとした。  民也は急に慌しく、 「お止《よ》し?……」 「でも、何だか暗い中で、ひらひら真黒なのに交って、緋だか、紫だか、飛んでいそうで、面白いもの、」 「面白くはないよ……可恐《こわ》いよ。」 「何故?」 「だって、緋だの、紫だの、暗い中《うち》に、霰《あられ》に交って――それだと電《いなびかり》がしているようだもの……その蔀《しとみ》をこんな時に開けると、そりゃ可恐《こわ》いぜ。  さあ……これから海が荒れるぞ、と云う前触れに、廂《ひさし》よりか背の高い、大《おおき》な海坊主が、海から出て来て、町の中を歩行《ある》いていてね……人が覘《のぞ》くと、蛇のように腰を曲げて、その窓から睨返《にらみかえ》して、よくも見たな、よくも見たな、と云うそうだから。」 「嘘だ! 嘘ばっかり。」 「真個《ほんと》だよ、霰《あられ》だって、半分は、その海坊主が蹴上《けあ》げて来る、波の潵《しぶき》が交ってるんだとさ。」 「へえ?」  と常さんは未《ま》だ腑に落ちないか、立掛《たちか》けた膝を落《おと》さなかった……  霰は屋根を駈廻《かけまわ》る。  民也は心に恐怖のある時、その蔀を開けさしたくなかった。  母がまだ存生《ぞんじょう》の時だった。……一夏《あるなつ》、日の暮方から凄じい雷雨があった……電光《いなびかり》絶間《たえま》なく、雨は車軸を流して、荒金《あらがね》の地《つち》の車は、轟《とどろ》きながら奈落の底に沈むと思う。――雨宿りに駈込《かけこ》んだ知合の男が一人と、内中《うちじゅう》、この店に居すくまった。十時を過ぎた頃、一呼吸《ひといき》吐《つ》かせて、もの音は静まったが、裾を捲いて、雷神《はたたがみ》を乗せながら、赤黒《あかぐろ》に黄を交えた雲が虚空《そら》へ、舞い舞い上《あが》って、昇る気勢《けはい》に、雨が、さあと小止《おや》みになる。  その喜びを告《もう》さんため、神棚に燈火《みあかし》を点じようとして立った父が、そのまま色をかえて立窘《たちすく》んだ。  ひい、と泣いて雲に透《とお》る、……あわれに、悲しげな、何とも異様な声が、人々の耳をも胸をも突貫《つきつらぬ》いて響いたのである。 [#10字下げ]五[#「五」は中見出し]  笛を吹く……と皆思った。笛もある限り悲哀を籠めて、呼吸《いき》の続くだけ長く、かつ細く叫ぶらしい。  雷鳴に、殆《ほとん》ど聾《し》いなんとした人々の耳に、驚破《すわ》や、天地一つの声。  誰《たれ》もその声の長さだけ、気を閉じて呼吸を詰めたが、引く呼吸はその声の一度止むまでは続かなかった。  皆|戦《おのの》いた。  ヒイと尾を微《かす》かに、その声が切れた、と思うと、雨がひたりと止んで、また二度めの声が聞えた。 「鳥か。」 「否《いいや》。」 「何だろうの。」  祖母と、父と、その客と言《ことば》を交わしたが、その言葉も、晃々《きらきら》と、震えて動いて、目を遮る電光《いなびかり》は隙間を射た。 「近い。」 「直《じ》き其処だ。」  と云う。叫ぶ声は、確かに筋向いの二階家の、軒下のあたりと覚えた。  それが三声《みこえ》めになると、泣くような、怨むような、呻吟《うめ》くような、苦《くるし》み踠《もが》くかと思う意味が明《あきら》かに籠《こも》って来て、新《あた》らしくまた耳を劈《つんざ》く…… 「見よう、」  年|少《わか》くて屈竟《くっきょう》なその客は、身震いして、すっくと立って、内中《うちじゅう》で止めるのも肯《き》かないで、タン、ド、ドン! とその、其処の蔀《しとみ》を開けた。―― 「何、」  と此処まで話した時、常さんは堅くなって火鉢を掴んだ。 「その時の事を思出《おもいだ》すもの、外《ほか》に何が居ようも知れない時、その蔀を開けるのは。」  と民也は言う。  却説《さて》、大雷《たいらい》の後の稀有なる悲鳴を聞いた夜、客が蔀を開けようとした時の人々の顔は……年月《としつき》を長く経ても眼前《まのあたり》見るような、いずれも石を以て刻みなした如きものであった。  蔀を上げると、格子戸を上へ切った……それも鳴るか、簫《しょう》の笛の如き形した窓のような隙間があって、衝《つ》と電光に照される。  と思うと、引緊《ひきし》めるような、柔かな母の両の手が強く民也の背に掛《かか》った。既に膝に乗って、噛り着いていた小児《こども》は、それなり、薄青い襟を分けて、真白な胸の中へ、頬も口も揉込《もみこ》むと、恍惚《うっとり》となって、もう一度、ひょいと母親の腹の内へ安置され終《おわ》んぬで、トもんどりを打って手足を一つに縮めた処は、滝を分けて、すとんと別の国へ出た趣《おもむき》がある、……そして、透通《すきとお》る胸の、暖かな、鮮血《からくれない》の美しさ。真紅の花の咲満《さきみ》ちた、雲の白い花園に、朗《ほが》らかな月の映るよ、とその浴衣の色を見たのであった。  が、その時までの可恐《おそろ》しさ。―― 「常さん、今君が蔀を開けて、何かが覗いたって、僕は潜込《もぐりこ》む懐中《ふところ》がないんだもの……」  簫《しょう》の窓から覗いた客は、何も見えなかった、と云いながら、真蒼《まっさお》になっていた。  その夜から、筋向うのその土蔵|附《つき》の二階家に、一人気が違った婦《おんな》があったのである。  寂寞《ひっそり》と霰《あられ》が止む。  民也は、ふと我に返ったようになって、 「去年、母《おっか》さんがなくなったからね……」  火桶《ひおけ》の面《おもて》を背《そむ》けると、机に降込《ふりこ》んだ霞があった。  じゅうと火の中にも溶けた音。 「勉強しようね、僕は父《おとっ》さんがないんだよ。さあ、」  鮒が兜を着ると云う。…… 「八田潟の処を読もう。」  と常さんは机の向うに居直った。  洋燈《ランプ》が、じいじいと鳴る。  その時であった。 [#10字下げ]六[#「六」は中見出し]  二階の階子壇《はしごだん》の一番上《いっちうえ》の一壇目……と思う処へ、欄間《らんま》の柱を真黒に、くッきりと空《そら》にして、袖を欄干《てすり》摺《ず》れに……その時は、濃いお納戸と、薄い茶と、左右に両方、褄前《つまさき》を揃えて裾を踏みくぐむようにして、円髷《まげ》と島田の対丈《ついたけ》に、面影白く、ふッと立った、両個《ふたり》の見も知らぬ婦人《おんな》がある。  トその色も……薄いながら、判然《はっきり》と煤《すす》の中に、塵を払ってくっきりと鮮麗《あざやか》な姿が、二人が机に向った横手、畳数《たたみかず》二畳ばかり隔《へだ》てた処に、寒き夜なれば、ぴったり閉めた襖一枚……台所へ続くだだっ広い板敷との隔《へだて》になる……出入口《ではいりぐち》の扉《ひらき》があって、むしゃむしゃと巌《いわ》の根に蘭を描いたが、年数|算《さん》するに堪《た》えず、で深山《みやま》の色に燻《くす》ぼった、引手《ひきて》の傍《わき》に、嬰児《あかんぼ》の掌《てのひら》の形して、ふちのめくれた穴が開いた――その穴から、件の板敷を、向うの反古張《ほごばり》の古壁へ突当《つきあた》って、ぎりりと曲って、直角に菎蒻色《こんにゃくいろ》の干乾《ひから》びた階子壇……十《とお》ばかり、遥かに穴の如くに高いその真上。  即ち襖の破目《やれめ》を透《とお》して、一つ突当って、折屈《おりまが》った上に、たとえば月の影に、一刷《ひとはけ》彩《いろど》った如く見えたのである。  トンと云う。  と思うと、トントントンと軽い柔かな音に連れて、褄《つま》が揺れ揺れ、揃った裳《もすそ》が、柳の二枝《ふたえだ》靡《なび》くよう……すらすらと段を下りた。  肩を揃えて、雛の絵に見る……袖を左右から重ねた中に、どちらの手だろう、手燭か、台か、裸火《はだかび》の蝋燭を捧げていた。  蝋の火は白く燃えた。  胸のあたりに蒼味が射す。  頬のかかり白々《しろじろ》と、中にも、円髷《まるまげ》に結《ゆ》ったその細面《ほそおもて》の気高《けだか》く品の可《い》い女性《にょしょう》の、縺《もつ》れた鬢《びん》の露ばかり、面婁《おもやつ》れした横顔を、瞬《またた》きもしない双《そう》の瞳に宿した途端に、スーと下りて、板の間で、もの優しく肩が動くと、その蝋の火が、件の絵襖の穴を覘《のぞ》く……その火が、洋燈《ランプ》の心《しん》の中へ、␼《ぱっ》と入って、一つになったようだった。  やあ! 開けると思う。 「きゃッ、」  と叫んで、友達が、前《さき》へ、背後《うしろ》の納戸へ刎込《はねこ》んだ。  口も利けず……民也もその身体《からだ》へ重なり合って、父の寝た枕頭《まくらもと》へ突伏《つっぷ》した。  ここの障子は、幼いものの夜更《よふか》しを守って、寒いに一枚開けたまま、霰《あられ》の中にも、父と祖母の情《なさけ》の夢は、紙|一重《ひとえ》の遮るさえなく、机のあたりに通《かよ》ったのであった。  父は夢だ、と云って笑った、……祖母もともに起きて出《い》で、火鉢の上には、再び芳《かんば》しい香《かおり》が満つる、餅網がかかったのである。  茶の煮えた時、真夜中にまた霰が来た。  後で、常さんと語合《かたりあ》うと……二人の見たのは、しかもそれが、錦絵を板《はん》に合わせたように同一《おなじ》かったのである。  これが、民也の、ともすれば、フト出逢う、二人の姿の最初《はじめ》であった。  常さんの、三日ばかり学校を休んだのはさる事ながら、民也は、それが夢でなくとも、さまで可恐《おそろし》いとも可怪《あやし》いとも思わぬ。  敢《あえ》て思わぬ、と云うではないが、こうしたあやしみには、その時分馴れていた。  毎夜の如く、内井戸の釣瓶《つるべ》の、人手を借らず鳴ったのも聞く……  轆轤《ろくろ》が軋《きし》んで、ギイと云うと、キリキリと二つばかり井戸縄の擦合《すれあ》う音して、少須《しばらく》して、トンと幽《かす》かに水に響く。  極《きま》ったように、そのあとを、ちょきちょきと細《こま》かに俎《まないた》を刻む音。時雨《しぐれ》の頃から尚《な》お冴えて、ひとり寝の燈火《ともしび》を消した枕に通《かよ》う。 [#10字下げ]七[#「七」は中見出し]  続いて、台所を、ことことと云う跫音《あしおと》がして、板の間へ掛《かか》る。――この板の間へ、その時の二人の姿は来たのであるが――また……実際より、寝ていて思う板の間の広い事。  民也は心に、これを板の間ヶ原だ、と称《とな》えた。  伝え言う……孫右衛門《まごえもん》と名づけた気の可《い》い小父さんが、独酌《どくしゃく》の酔醒《よいざめ》に、我がねたを首あげて見る寒さかな、と来山張《らいざんばり》の屏風越しに、魂消《たまげ》た首を出して覘《のぞ》いたと聞く。  台所の豪傑儕《ごうけつばら》、座敷方《ざしきがた》の僭上《せんじょう》、栄耀栄華《えようえいが》に憤《いきどおり》を発し、しゃ討て、緋縮緬《ひぢりめん》小褄《こづま》の前を奪取《ばいと》れとて、竈《かまど》将軍が押取《おっと》った柄杓《ひしゃく》の采配、火吹竹の貝を吹いて、鍋釜の鎧武者が、のんのんのんのんと押出《おしだ》したとある……板の間ヶ原や、古戦場。  襖一重は一騎打《いっきうち》で、座敷方では切所《せっしょ》を防いだ、其処の一段低いのも面白い。  トその気で、頬杖をつく民也に取っては、寝床から見るその板の間は、遥々《はるばる》としたものであった。  跫音《あしおと》は其処を通って、一寸《ちょっと》止んで、やがて、トントンと壇を上《あが》る、と高い空で、すらりと響く襖の開く音。 「ああ、二階のお婆さんだ。」  と、熟《じっ》と耳を澄ますと、少時《しばらく》して、 「ええん。」  と云う咳《せきばらい》。 「今度は二階のお爺さん。」  この二人は、母の父母で、同家《ひとついえ》に二階|住居《ずまい》で、睦《むつま》じく暮したが、民也のもの心を覚えて後、母に先だって、前後して亡くなられた……  その人たちを、ここにあるもののように、あらぬ跫音を考えて、咳《しわぶき》を聞く耳には、人気勢《ひとけはい》のない二階から、手燭して、するすると壇を下りた二人の姿を、さまで可恐《おそろし》いとは思わなかった。  却《かえ》って、日を経《ふ》るに従って、物語を聞きさした如く、床《ゆか》しく、可懐《なつか》しく、身に染みるようになったのである。……  霰《あられ》が降れば思《おもい》が凝《こ》る。……  そうした折よ、もう時雨の頃から、その一二年は約束のように、井戸の響、板の間の跫音、人なき二階の襖の開くのを聞馴《ききな》れたが、婦《おんな》の姿は、当時また多日《しばらく》の間《あいだ》見えなかった。  白菊の咲く頃、大屋根へ出て、棟瓦《むねがわら》をひらりと跨《また》いで、高く、高く、雲の白きが、微《かすか》に動いて、瑠璃色《るりいろ》に澄渡《すみわた》った空を仰ぐ時は、あの、夕立の夜を思出《おもいだ》す……そして、美しく清らかな母の懐にある幼児《おさなご》の身にあこがれた。  この屋根と相向《あいむか》って、真蒼《まっさお》な流《ながれ》を隔てた薄紫の山がある。  医王山《いおうぜん》。  頂《いただき》を虚空に連ねて、雪の白銀《しろがね》の光を放って、遮る樹立《こだち》の影もないのは、名にし負《お》う白山《はくさん》である。  やや低く、山の腰にその流を繞《めぐ》らして、萌黄《もえぎ》まじりの朱の袖を、俤《おもかげ》の如く宿したのは、つい、まのあたり近い峰、向山《むかいやま》と人は呼ぶ。  その裾を長く曳《ひ》いた蔭に、円い姿見の如く、八田潟の波、一所《ひとところ》の水が澄む。  島かと思う白帆に離れて、山の端《は》の岬の形、にっと出た端《はし》に、鶴の背に、緑の被衣《かつぎ》させた風情の松がある。  遥かに望んでも、その枝の下は、一筵《ひとむしろ》、掃清《はききよ》めたか、と塵《ちり》も留《とど》めぬ。  ああ山の中に葬った、母のおくつきは彼処《かしこ》に近い。  その松の蔭に、その後《のち》、時々二人して佇《たたず》むように、民也は思った、が、母にはそうした女のつれはなかったのである。  月の冴ゆる夜は、峰に向った二階の縁《えん》の四枚《よまい》の障子に、それか、あらぬか、松影射しぬ……戸袋かけて床の間へ。……  また前に言った、もの凄い暗い夜も、年経て、なつかしい人を思えば、降積《ふりつも》る霰《あられ》も、白菊。 底本:「文豪怪談傑作選 泉鏡花集 黒壁」ちくま文庫、筑摩書房    2006(平成18)年10月10日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第十四卷」岩波書店    1942(昭和17)年3月10日第1刷発行 初出:「太陽」    1912(大正元)年11月号 ※表題は底本では、「霰《あられ》ふる」となっています。 入力:門田裕志 校正:坂本真一 2015年10月17日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。