山吹 泉鏡花 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)遅桜《おそざくら》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)柳|一本《ひともと》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)﨟 ------------------------------------------------------- [#10字下げ]序[#「序」は中見出し] [#ここから4字下げ] 山吹の花の、わけて白く咲きたる、小雨の葉の色も、ゆあみしたる美しき女の、眉あおき風情に似ずやとて、―― [#ここで字下げ終わり] [#ここから2字下げ] 時  現代。 所  修善寺温泉の裏路。 [#ここから5字下げ] 同、下田街道へ捷径の山中。 [#ここから2字下げ] 人  島津正(四十五六)洋画家。 [#ここから5字下げ] 縫子(二十五)小糸川子爵夫人、もと料理屋「ゆかり」の娘。 辺栗藤次(六十九)門附の人形使。 [#ここから6字下げ] ねりものの稚児。童男、童女二人。よろず屋の亭主。馬士一人。 ほかに村の人々、十四五人。 [#ここから2字下げ] 候  四月下旬のはじめ、午後。―― [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] [#7字下げ]第一場[#「第一場」は中見出し] [#ここから2字下げ] 場面。一方八重の遅桜《おそざくら》、三本《みもと》ばかり咲満ちたる中に、よろず屋の店見ゆ。鎖《とざ》したる硝子戸《がらすど》に、綿、紙、反もの類。生椎茸《なましいたけ》あり。起癈散《きはいさん》、清暑水など、いろいろに認《したた》む。一枚戸を開きたる土間に、卓子《テエブル》椅子《いす》を置く。ビール、サイダアの罎《びん》を並べ、菰《こも》かぶり一樽《ひとたる》、焼酎《しょうちゅう》の瓶《かめ》見ゆ。この店の傍《わき》すぐに田圃《たんぼ》。 一方、杉の生垣を長く、下、石垣にして、その根を小流《こながれ》走る。石垣にサフランの花咲き、雑草生ゆ。垣の内、新緑にして柳|一本《ひともと》、道を覗《のぞ》きて枝垂《しだ》る。背景勝手に、紫の木蓮《もくれん》あるもよし。よろず屋の店と、生垣との間、逕《みち》をあまして、あとすべて未《いま》だ耕さざる水田《みずた》一面、水草を敷く。紫雲英《げんげ》の花あちこち、菜の花こぼれ咲く。逕をめぐり垣に添いて、次第に奥深き処、孟宗《もうそう》の竹藪《たけやぶ》と、槻《けやき》の大樹あり。この蔭より山道をのぼる。 狭き土間、貧しき卓子《テエブル》に向って腰掛けたる人形|使《つかい》――辺栗藤次《へぐりとうじ》、鼻の下を横撫《よこなで》をしながら言う。うしろ向のままなり。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 人形使 お旦那《だんな》――お旦那――もう一杯|注《つ》いで下せえ。 万屋 (店の硝子戸の内より土間に出づ)何もね、旦那に(お)の字には及ばないが、(苦笑して)親仁《おやじ》、先刻《さっき》から大分明けたではないか。……そう飲んじゃあ稼げまいがなあ。 人形使 へ、へ、もう今日は稼いだ後だよ。お旦那の前だが、これから先は山道を塒《ねぐら》へ帰るばかりだでね――ふらりふらりとよ。 万屋 親仁の、そのふらりふらりは、聞くまでもないのだがね、塒にはまだ刻限が早かろうが。――私《わし》も今日は、こうして一人で留守番だが、湯治場《とうじば》の橋一つ越したこっちは、この通り、ひっそり閑《かん》で、人通りのないくらい、修善寺は大した人出だ。親仁はこれからが稼ぎ時ではないのかい。 人形使 されば、この土地の人たちはじめ、諸国から入込《いりこ》んだ講中《こうじゅう》がな、媼《ばば》、媽々《かかあ》、爺《じい》、孫、真黒《まっくろ》で、とんとはや護摩《ごま》の煙が渦を巻いているような騒ぎだ。――この、時々ばらばらと来る梅雨模様の雨にもめげねえ群集《ぐんじゅ》だでね。相当の稼ぎはあっただが、もうやがて、大師様が奥の院から修禅寺へお下《くだ》りだ。――遠くの方で、ドーンドーンと、御輿《みこし》の太鼓の音が聞えては、誰もこちとらに構い手はねえよ。庵《いおり》を上げた見世物の、じゃ、じゃん、じゃんも、音を潜《ひそ》めただからね――橋をこっちへ、はい、あばよと、……ははは、――晩景から、また一稼ぎ、みっちりと稼げるだが、今日の飲代《のみしろ》にさえありつけば、この上の欲はねえ。――罷《まか》り違ったにした処で、往生寂滅をするばかり。(ぐったりと叩頭《おじぎ》して、頭の上へ硝子杯《コップ》を突出す)――お旦那、もう一杯、注いで下せえ。 万屋 船幽霊《ふなゆうれい》が、柄杓《ひしゃく》を貸せといった手つきだな。――底ぬけと云うは、これからはじまった事かも知れない。……商売だからいくらでも売りはするが。(呑口《のみくち》を捻《ひね》る)――親仁、またそこらへ打倒《ぶったお》れては不可《いけな》いよ。 人形使 往生寂滅をするばかり。(がぶりと呑んで掌《てのひら》をチュウと吸う)別して今日は御命日だ――弘法《こうぼう》様が速《すみやか》に金ぴかものの自動車へ、相乗《あいのり》にお引取り下されますてね。 万屋 弘法様がお引取り下さるなら世話はないがね、村役場のお手数になっては大変だ。ほどにしておきなさいよ。(店の内に入《い》らんとす。) 人形使 (大《おおき》な声して)お旦那、もう一杯下せえ。 万屋 弘法様の御祭だ。芋が石になっては困る。……もの惜《おし》みをするようで可厭《いや》だから、ままよ、いくらでも飲みなさい。だが、いまの一合たっぷりを、もう一息にやったのかい。 人形使 これまでは雪見酒だで、五合《ごんべい》一寸たちまちに消えるだよ。……これからがお花見酒だ。……お旦那、軒の八重桜は、三本揃って、……樹は若《わけ》えがよく咲きました。満開だ。――一軒の門《かど》にこのくらい咲いた家は修善寺中に見当らねえだよ。――これを視《なが》めるのは無銭《ただ》だ。酒は高価《たけ》え、いや、しかし、見事だ。ああ、うめえ。 万屋 くだらない事を言いなさるな、酔ったな、親仁。…… 人形使 これというも、酒の一杯や二杯ぐれえ、時たま肥料《こやし》にお施しなされるで、弘法様の御利益だ。 万屋 詰《つま》らない世辞を言いなさんな。――全くこの辺、人通りのないのはひどい。……先刻《さっき》、山越《やまごし》に立野《たつの》から出るお稚児を二人、大勢で守立《もりた》てて通ったきり、馬士《うまかた》も見掛けない。――留守は退屈だ――ああ太鼓が聞える。…… [#ここから2字下げ] この太鼓は、棒にて荷《にな》いつりかけたるを、左右より、二人して両面をかわるがわる打つ音なり、ドーン、ドーンドーン、ドーンと幽《かすか》に響く。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 人形使 笙《しょう》篳篥《ひちりき》が、紋着袴《もんつきばかま》だ。――消防夫《しごとし》が揃って警護で、お稚児がついての。あとさきの坊様は、香《こう》を焚《た》かっしゃる、御経を読まっしゃる。御輿舁《みこしかつ》ぎは奥の院十八軒の若い衆《しゅ》が水干烏帽子《すいかんえぼし》だ。――南無《なむ》大師、遍照金剛《へんじょうこんごう》ッ! 道の左右は人間の黒山だ。お捻《ひねり》の雨が降る。……村の嫁女は振袖で拝みに出る。独鈷《とっこ》の湯からは婆様《ばあさま》が裸体《はだか》で飛出す――あははは、やれさてこれが反対《あべこべ》なら、弘法様は嬉しかんべい。 万屋 勝手にしろ、罰の当った。(店へ入る。) 人形使 南無大師遍照金剛。――(ちびりとのみつつ、ぐたりとなる。) [#ここから2字下げ] 夫人、雨傘をすぼめ、柄を片手に提げ、手提《てさげ》を持添う。櫛巻《くしまき》、引《ひっ》かけ帯、駒下駄《こまげた》にて出づ。その遅桜を視《なが》め、 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 夫人 まあ、綺麗《きれい》だこと――苦労をして、よく、こんなに――(間)……お礼を言いたいようだよ――ああ、ほんとうに綺麗だよ。よく、お咲きだこと。(かくて、小流《こながれ》に添いつつ行《ゆ》く。石がきにサフランの花を見つつ心付く)あら鯉《こい》が、大《おおき》な鯉が、――(小流を覗《のぞ》く)まあ、死んでるんだよ。 [#ここから2字下げ] やや長き間《ま》。――衝《つ》と避けて、立離るる時、その石垣に立掛けたる人形つかいの傀儡《にんぎょう》目に留《とま》る。あやつりの竹の先に、白拍子《しらびょうし》の舞の姿、美しく﨟《ろう》たけたり。夫人|熟《じっ》と視《み》て立停《たちどま》る。無言。雨の音。 [#ここから1字下げ] ああ、降って来た。(井菊と大きくしるしたる番傘を開く)まあ、人形が泣くように、目にも睫毛《まつげ》にも雫《しずく》がかかってさ。……(傘を人形にかざして庇《かば》う。) [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 人形使 (短《みじか》き暖簾《のれん》を頭《ず》にて分け、口|大《おおき》く、皺《しわ》深く、眉迫り、ごま塩髯《しおひげ》硬く、真赤《まっか》に酔《え》いしれたる面《つら》を出し、夫人のその姿をじろりと視《み》る。はじめ投頭巾《なげずきん》を被《かぶ》りたる間、おもて柔和なり。いま頭巾を脱いだる四角な額に、白髪《しらが》長くすくすくとして面《おもて》凄《すさま》じ。) 画家 (薄色の中折帽《なかおれぼう》、うすき外套《がいとう》を着たり。細面《ほそおもて》にして清く痩《や》す。半ば眠れるがごとき目《まな》ざし、通りたる鼻下に白き毛の少し交りたる髭《ひげ》をきれいに揃えて短く摘む。おもての色やや沈み、温和にして、しかも威容あり。旅館の貸下駄にて、雨に懸念せず、ステッキを静《しずか》につき、一度桜を見る。) 人形使 (この時また土間の卓子《テエブル》にむかってうつむく。) 画家 (夫人の身近に、何等の介意なき態度)ははあ、操りですな。 夫人 先生――ですか、あの、これは私のじゃあございませんの。 画家 (はじめて心付きたる状《さま》にて)どうも、これは失礼しました。いや、端《はな》から貴女《あなた》がなさると思った次第でもありません。ちょっと今時珍しかったものですから。――近頃は東京では、場末の縁日にも余り見掛けなくなりました。……これは静《しずか》でしょうな。裏を返すと弁慶が大長刀《おおなぎなた》を持って威張っている。……その弁慶が、もう一つ変ると、赤い顱巻《はちまき》をしめた鮹《たこ》になって、踊《おどり》を踊るのですが、これには別に、そうした仕掛《しかけ》も、からくりもないようです。――(覗き覗き、済《すま》して夫人のさしかざしたる番傘の中へ半身)純、これは舞姫ばかりらしい。ああ、人形は名作だ。――御覧なさい凄《すご》いようです。……誰が持っていますか。……どうして、こんな処へほうり出しておきますかね。 夫人 人形つかいは――あすこで、(軽く指《ゆびさ》し、声を低くす)お酒を飲んでいるようですの。……そうらしいお爺さんが見えました。 画家 うまいでしょうな、きっと……一つ使わせてみとうございますね。 夫人 およしなさいまし、先生。……たいそう酔っているようですから。 画家 いかにも、酔っ払っていては面倒ですね。ああ、しかし、人形は名作です――帰途《かえり》にまた出逢《であ》うかも知れない。(半ば呟《つぶや》く)貴女《あなた》、失礼をいたしました。(冷然として山道の方《かた》へ行《ゆ》く。) 夫人 (二三歩あとに縋《すが》る)先生、あの……先生――どちらへ? 画家 (再びはじめて心付く)いや、(と軽く言う。間)……先生は弱りました。が、町も村も大変な雑鬧《ざっとう》ですから、その山の方へ行ってみます。――貴女は、(おなじく眠れるがごとき目のまま)つい、お見それ申しましたが、おなじ宿にでもおいでなのですか。 夫人 ええ、じき(お傍《そば》にと言う意味|籠《こも》る)……ですが、階下《した》の奥に。あの…… 画家 それはどうも――失礼します。(また行《ゆ》く。) 夫人 (一歩縋る)先生、あのここへいらっしゃりがけに、もしか、井菊の印半纏《しるしばんてん》を着た男衆《おとこしゅ》にお逢いなさりはしませんでしたか。 画家 ああ、逢いました。 夫人 何とも申しはいたしません?…… 画家 (徐《おもむろ》に腕を拱《こまぬ》く)さあ……あの菊屋と野田屋へ向って渡る渡月橋《とげつきょう》とか云うのを渡りますと、欄干に、長い棹《さお》に、蓑《みの》を掛けたのが立ててあります。――この大師の市《いち》には、盛《さかん》に蓑を売るようです。その看板だが、案山子《かかし》の幟《のぼり》に挙げたようでおかしい、と思って、ぼんやり。――もっとも私も案山子に似てはいますが、(微笑《ほほえ》む)一枚、買いたいけれども、荷になると思って見ていますと、成程、宿の男が通りかかりました。 夫人 ええ、そうして…… 画家 ああそうです。(拱きたる腕を解く)……「そこに奥さまがおいでです。」と言って行き過ぎました。成程……貴女の事でしたか。お連《つれ》になって一所に出掛けたとでも思ったでしょう――失礼します。 夫人 まあ、先生。……唯今《ただいま》は別々でしたけれど、昨夜おそく着きました時は、御一所でございましたわ。 画家 貴女と…… 夫人 ええ。 画家 存じませんな。 夫人 大仁《おおひと》で。……自動車はつい別になりましたんですが、……おなじ時に、―― 画家 私は乗合でしたがな――さよう……お一方《ひとかた》、仕立てた方があったように思いますが、それは、至極当世風の髪も七三で……(と半ば言う。) 夫人 その女が……(やや息忙《いきぜわ》しく)その女が、先生、宿へ着きますと、すぐ、あの、眉毛《まみえ》を落しましたの。(顔を上げつつ、颯《さっ》とはなじろむ)髪もこんなにぐるぐる巻にしたんです。 画家 ははあ。(いぶかしそうに、しかし冷静に聞くのみ。) 夫人 先生。(番傘を横に、うなだれて、さしうつむく。頸脚《えりあし》雪を欺《あざむ》く)宿の男衆が申したのは、余所《よそ》の女房という意味ではないのです。(やや興奮しつつ)貴方《あなた》の奥さまという意味でございました。 [#ここから2字下げ] ――間―― [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 画家 (かくても、もの静《しずか》に)……と仰有《おっしゃ》ると? 夫人 昨晩、同じ宿へ着きますと、直ぐ、宿の人に――私は島津先生の――あの私は……(口籠《くちごも》る。小間《すこしきま》)お写真や、展覧会で、蔭ながらよく貴方を存じております。――「私は島津の家内ですが」と宿の人に――「実は見付からないようにおなじ汽車で、あとをつけて来たんです。」辻棲《つじつま》はちっと合《あわ》ないかも存じませんが、そう云いましたの。……その次第《わけ》は「島津は近頃浮気をして、余所《よそ》の婦《おんな》と、ここで逢曳《あいびき》をするらしい。」…… 画家 私が。 夫人 貴方が、あの、そして、仮に私の旦那様が。 画家 それは少々|怪《け》しかりません。(苦笑する。) 夫人 堪忍《かに》して下さいまし。先生、――「座敷を別に、ここに忍んで、その浮気を見張るんだけれど、廊下などで不意に見附かっては不可《いけな》いから、容子《ようす》を変えるんだ。」とそう言って、……いきなり鏡台で、眉を落して、髪も解いて、羽織を脱いでほうり出して、帯もこんなに(なよやかに、頭《つむり》を振向く)あの、蓮葉《はすは》にしめて、「後生《ごしょう》、内証だよ。」と堅く口止《くちどめ》をしました上で、宿帳のお名のすぐあとへ……あの、申訳はありませんが、おなじくと…… 画家 (微《かすか》に眉を顰《ひそ》む。しかし寛容に)保養に来る場所《ところ》ですから、そんな悪戯《いたずら》もいいでしょうな――失礼します。 夫人 あれ、先生、お怒りも遊ばさないで…… 画家 綺麗な奥さんに悪戯をされて――かえって喜んでいるかも知れません。――しかし失礼します。 夫人 どうしましょう、先生、私……悪戯どころではありません。 画家 悪戯どころでないというは?(この時はじめて確《しか》と言う。) 夫人 (激して、やや震えながら)後生です。見て下さいまし。貴方に見て頂きたいものがあるんです。(外套《がいとう》の袖を引く、籠《こも》れる力に、画家を小流《こながれ》の縁《ふち》に引戻す)ちょっと御覧なさいまし。 [#ここから2字下げ] 鯉《こい》を指《ゆびさ》す、死したる鯉、この時いまだ客者《かくしゃ》の目につかず。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 画家 おお、これは酷《ひど》い。――これは悲惨だ。 夫人 先生、私は、ここに死んで流れています、この鯉の、ほんの死際《しにぎわ》、一息前と同じ身の上でございます。 画家 (無言。……) 夫人 (間)私には厳しく追手《おって》が掛《かか》っております。見附かりますと、いまにも捉《つかま》えられなければなりませんものですから。――途中でお姿をお見上げ申し、お宿まで慕って参って、急の思いつきで、失礼な事をいたしました。一生懸命なのです。そしてちょっとの間《ま》に、覚悟をしますつもりでおります。――眉を落して、形をかえて、貴方の奥さまになって隠れていましても、人出入の激しい旅館《やど》では、ちっとも心が落着きませんから、こうして道に迷っております。どうぞ、御堪忍なすって下さいまし。……夢にも悪戯ではないのですから。 画家 いたし方がありますまいな。 夫人 (もの足りなさに、本意《ほい》なげにて)無理にもお許し下さいましたか。……その上なおお言葉に甘えますようですけれど、お散歩の方へ……たとい後《うしろ》へ離れましても、御一所に願えますと、立派に人目が忍べます。――貴方(弱く媚《こ》びて)どうぞ、お連れ下さいましな。 画家 (きっぱりと)それは迷惑です。 夫人 まあ。――いいえ、お連れ下さいましても、その間に、ただ(更に鯉を指す)この姿になります覚悟を極《き》めますだけなんでございますもの。 画家 それは不可《いけ》ませんな。御事情はどんなであろうと、この形になっては仕方がありません。 人形使 (つんのめりたるが猛然と面《おもて》を擡《もた》げ)お旦那、もう一杯下せえ。お旦那。 画家 (この声を聞く。あえて心に留めず)私|一人《いちにん》としてはこんな姿におなりなさるのだけは堅くお止め申します――失礼をします。(衝《つ》と離れて山手に赴く。) 夫人 (画家の姿、槻《けやき》の樹立《こだち》にかくれたる時、はらはらとあとを追い、また後戻りす。見送りつつ)はかないねえ! [#ここから2字下げ] わが声に、思わず四辺《あたり》を視《み》る。降らぬ雨に傘《からかさ》を開き、身を恥じてかくすがごとくにして、悄然《しょうぜん》と、画家と同じ道、おなじ樹立に姿を消す。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 人形使 お旦那、もう一杯下せえ。 万屋 ちょッ、困らせるじゃあないか。(ついで与う。) 人形使 そのかわり、へ、へ、今度はまた月見酒だよ。雲がかかると満月がたちまちかくれる。(一息に煽切《あおっき》る)ああッ、う――い。……御勘定……(首にかけた汚《きたな》き大蝦蟇口《おおがまぐち》より、だらしなく紐《ひも》を引いてぶら下りたる財布を絞り突銭《つきせん》する)弘法様も月もだがよ。銭も遍《あまね》く金剛を照すだね。えい。(と立つ。脊高き痩脛《やせずね》、破股引《やれももひき》にて、よたよた。酒屋は委細構わず、さっさと片づけて店へ引込《ひっこ》む。)えい。(よたよた。やがて人形の前までよたよたよた)はッ、静御前様。(急に恐入ったる体《てい》にて、ほとんど土下座をするばかり。間。酔眼を鯉に見向く)やあ、兄弟、浮かばずにまだ居たな。獺《かわうそ》が銜《くわ》えたか、鼬《いたち》が噛《かじ》ったか知らねえが、わんぐりと歯形が残って、蛆《うじ》がついては堪《たま》らねえ。先刻《さっき》も見ていりゃ、野良犬が嗅《か》いで嗅放《かぎっぱな》しで失《う》せおった。犬も食わねえとはこの事だ。おのれ竜にもなる奴《やつ》が、前世の業《ごう》か、死恥を曝《さら》すは不便《ふびん》だ。――俺《おら》が葬ってやるべえ。だが、蛇塚、猫塚、狐塚よ。塚といえば、これ突流すではあんめえ。土に埋《うず》めるだな、土葬にしべえ。(半ばくされたる鯉の、肥えて大なるを水より引上ぐ。客者《かくしゃ》に見ゆ)引導の文句は知らねえ。怨恨《うらみ》あるものには祟《たた》れ、化けて出て、木戸銭を、うんと取れ、喝!(財布と一所に懐中《ふところ》に捻《ね》じ込みたる頭巾《ずきん》に包み、腰に下げ、改って蹲《うずくま》る)はッ、静御前様。(咽喉《のど》に巻いたる古手拭《ふるてぬぐい》を伸《のば》して、覆面す――さながら猿轡《さるぐつわ》のごとくおのが口をば結《ゆわ》う。この心は、美女に対して、熟柿《じゅくし》臭きを憚《はばか》るなり。人形の竹を高く引《ひっ》かつぐ。山手の方へ)えい。(よたよた。よたよたよた。) [#ここから2字下げ] 夫人、樹立の蔭より、半ば出でてこの体《てい》を窺《うかが》いつつあり。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 人形使 えい。(よたよた)えい。(よたよたよた。) 夫人 (次第に立出で、あとへ引《ひっ》かえしざまにすれ違う。なおその人形使を凝視しつつ)爺《おじ》さん、爺さん。 人形使 (丈高く、赤き面《つら》にて、じろりと不気味に見向く。魔のごとし。) 夫人 (大胆に、身近く寄る)私は何にも世の中に願《ねがい》はなし、何の望みも叶《かな》わなかったから、お前さんの望《のぞみ》を叶えて上げよう。宝石も沢山ある。お金も持っています――失礼だけれど、お前さんの望むこと一つだけなら、きっと叶えて上げようと思うんだよ。望んでおくれな。爺《おじ》さん、叶えさしておくんなさいな。 人形使 (無言のまま睨《にら》むがごとく見詰めつつ、しばらくして、路傍《みちばた》に朽ちし稲塚《いなづか》の下の古縄を拾い、ぶらりと提げ、じりじりと寄る。その縄、ぶるぶると動く。) 夫人 ああれ。(と退《すさ》る。) 人形使 (ニヤリと笑う。) 夫人 ああ蛇かと思った。――もう蛇でも構わない。どうするの――どうするのよ。 人形使 (ものいわず、皺手《しわで》をさしのべて、ただ招く。招きつつ、あとじさりに次第に樹立に入《い》る。) 夫人 どうするのさ。どうするのよ。(おなじく次第に、かくて樹立に隠る。) [#ここから2字下げ] 舞台しばらく空し。白き家鴨《あひる》、五羽ばかり、一列に出でて田の草の間を漁《あさ》る。行春《ゆくはる》の景《かげ》を象徴するもののごとし。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 馬士 (樹立より、馬を曳《ひ》いて、あとを振向きつつ出づ。馬の背に米俵《こめだわら》二俵。奉納。白米。南無大師遍照金剛の札を立つ)ああ気味の悪い。真昼間《まっぴるま》何事だんべい。いや、はあ、こげえな時、米が砂利になるではねえか。(眉毛に唾《つば》しつつ俵を探りて米を噛《か》む)まず無事だ。(太鼓の音近く聞ゆ)――弘法様のお庇《かげ》だんべい。ああ気味の悪い――いずれ魔ものだ、ああ恐怖《おっかね》え。 [#ここで字下げ終わり] [#地から3字上げ]――廻る―― [#7字下げ]第二場[#「第二場」は中見出し] [#ここから2字下げ] 場面。――一方やや高き丘、花菜の畑と、二三尺なる青麦畠《あおむぎばたけ》と相連《あいつらな》る。丘のへりに山吹の花咲揃えり。下は一面、山懐《やまふところ》に深く崩れ込みたる窪地《くぼち》にて、草原《くさはら》。苗樹ばかりの桑の、薄く芽ぐみたるが篠《しの》に似て参差《しんし》たり。 一方は雑木山、とりわけ、かしの大樹、高きと低き二幹《ふたみき》、葉は黒きまで枝とともに茂りて、黒雲の渦のごとく、かくて花菜の空の明るきに対す。 花道をかけて一条《ひとすじ》、皆、丘と丘との間の細道の趣なり。遠景一帯、伊豆の連山。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 画家 (一人、丘の上なる崕《がけ》に咲ける山吹と、畠の菜の花の間高き処に、静《しずか》にポケット・ウイスキーを傾けつつあり。――鶯《うぐいす》遠く音《ね》を入《い》る。二三度鶏の声。遠音《とおね》に河鹿《かじか》鳴く。しばらくして、立ちて、いささかものに驚ける状《さま》す。なお窺《うかが》うよしして、花と葉の茂《しげり》に隠る。) 夫人 (傘を片手に、片手に縄尻を控えて――登場。) 人形使 (猿轡《さるぐつわ》のまま蝙蝠傘《こうもりがさ》を横に、縦に十文字に人形を背負い、うしろ手に人形の竹を持ちたる手を、その縄にて縛《いまし》められつつ出づ。肩を落し、首を垂れ、屠所《としょ》に赴くもののごとし。しかも酔える足どり、よたよたとして先に立ち、山懐の深く窪み入《い》りたる小暗《おぐら》き方《かた》に入《い》り来《きた》り、さて両腕を解けば縄落つ。実《まこと》はいましめたるにあらず、手にてしかく装いたるなり。人形を桑の一木《ひとき》に立掛け、跪《ひざまず》いて拝む。かくてやや離れたる処にて、口の手拭《てぬぐい》を解く)御新造様。そりゃ、約束の通り遣《や》って下せえ。(足手を硬直《かたく》し、突伸べ、ぐにゃぐにゃと真俯向《まうつむ》けに草に俯《ふ》す。) 夫人 ほんとうなの、爺《おじ》さん。 人形使 やあ、嘘にこんな真似が出来るもので。それ、遣附《やッつ》けて下せえまし。 夫人 ほんとうに打《ぶ》つの? 人形使 血の出るまで打って下せえ。息の止《とま》るまでもお願《ねげ》えだよ。 夫人 ほんとうかい、ほんとうに打つのかね。 人形使 何とももう堪《たま》らねえ、待兼ねますだ。 夫人 ……あとで強情《ねだ》られたって、それまでの事だわね。――では、約束をしたものだから、ほんとうに打ってよ。我慢をおし。(雨傘にて三つ四つ。と続けさまに五つ六つ。) 人形使 堪《こた》えねえ、ちっとも堪えねえ。 夫人 (鞭《むち》打ちつつ)これでは――これでは―― 人形使 駄目だねえ。(寝ながら捻向《ねじむ》く)これでもか、これでもか、と遣って下せえ。 夫人 これでも、あの、これでも。 人形使 そんな事では、から駄目だ。待たっせえまし。(布子《ぬのこ》の袖なし、よごれくさりし印半纏《しるしばんてん》とともに脱ぎ、痩《や》せたる皺膚《しわはだ》を露出す。よろりと立って樹にその身をうしろむきに張りつく。振向きて眼《まなこ》を睜《みは》りながら)傘を引破いて、骨と柄になせえまし。それでは、婆娑々々《ばさばさ》するばかりで、ちっとも肉へ応《こた》えねえだ。 夫人 (ため息とともに)ああ。 人形使 それでだの、打《ぶ》つものを、この酔払いの乞食爺《こじきじじい》だと思っては、ちっとも力が入らねえだ。――御新造様が、おのれと思う、憎いものが世にあるべい。姑《しゅうとめ》か、舅《しゅうと》か、小姑《こじゅうと》か、他人か、縁者、友だちか。何でも構う事はねえだの。 夫人 ああ。 人形使 その憎い奴《やつ》を打つと思って、思うさま引払《ひっぱた》くだ。可《い》いか、可いかの。 夫人 ああ。 人形使 それ、確《しっか》りさっせえ。 夫人 ああ。あいよ。(興奮しつつ、びりびりと傘を破く。ために、疵《きず》つき、指さき腕など血汐《ちしお》浸《にじ》む――取直す)――畜生――畜生――畜生――畜生―― 人形使 ううむ、(幽《かすか》に呻《うめ》く)ううむ、そうだ、そこだ。ちっと、へい、応えるぞ。ううむ、そうだ。まだだまだだ。 夫人 これでもかい。これでもかい、畜生。 人形使 そ、そんな、尻べたや、土性骨《どしょうぼね》ばかりでは埒《らち》明《あ》かねえ、頭も耳も構わずと打叩《ぶったた》くんだ。 夫人 畜生、畜生、畜生。(自分《われ》を制せず、魔に魅入られたるもののごとく、踊りかかり、飛び上り、髪乱れ、色あおざむ。打《う》って打って打ちのめしつつ、息を切る)ああ、切ない、苦しい。苦しい、切ない。 人形使 ううむ堪らねえ、苦しいが、可《い》い塩梅《あんばい》だ。堪らねえ、いい気味だ。 画家 (土手を伝わって窪地に下りる。騒がず、しかし急ぎ寄り、遮り止《とど》む)貴女《あなた》、――奥さん。 夫人 あら、先生。(瞳を睜《みひら》くとともに、小腕《こがいな》しびれ、足なえて、崩るるごとく腰を落し、半ば失心す。) 画家 (肩を抱く)ウイスキーです――清涼剤《きつけ》に――一体、これはどうした事です。 人形使 (びくりびくりと蠢《うごめ》く。) 画家 (且つこれを見つつ)どうした事情だか知りません。けれども、余り極端な事をしては不可《いけな》い。 夫人 (吻《ほっ》と息して)私、どうしたんでございましょう、人間界にあるまじき、浅ましい事をお目に掛けて、私どうしたら可《い》いでしょうねえ。(ヒステリックに泣く。) 画家 (止《や》むことを得ず、手をさすり脊筋を撫《な》づ)気をお鎮めなさい。 人形使 (血だらけの膚《はだ》を、半纏にて巻き、喘《あえ》ぎつつ草に手をつく)はい、……これは、えええ旦那様でござりますか、はい。 画家 この奥さんの……別に、何と言うではないが、ちょっと知合だ。 人形使 はい、そのお知合の旦那様に、爺《じい》から申上げます。はい、ええ、くどい事は、お聞きづろうござりますで。……早い処が、はい、この八ツ目|鰻《うなぎ》の生干《なまぼし》を見たような、ぬらりと黒い、乾《ひ》からびた老耄《おいぼれ》も、若い時が一度ござりまして、その頃に、はい、大《えか》い罪障を造ったでござります。女子《おなご》の事でござりましての。はい、ものに譬《たと》えようもござりませぬ。欄間にござる天女《てんにん》を、蛇が捲《ま》いたような、いや、奥庭の池の鯉を、蠑螈《いもり》が食い破りましたそうな儀で。……生命《いのち》も血も吸いました。――一旦夢がさめますると、その罪の可恐《おそろし》さ。身の置所もござりませぬで。……消えるまで、失《う》せるまでと、雨露に命を打たせておりますうちに――四国遍路で逢いました廻国の御出家――弘法様かと存ぜられます――御坊様《ごぼうさま》から、不思議に譲られたでござります。竹操りのこの人形も、美しい御婦人でござりますで、爺が、この酒を喰《くら》います節も、さぞはや可厭《いや》であろうと思いますで、遠くへお離し申しておきます。担いで帰ります節も、酒臭い息が掛《かか》ろうかと、口に手拭《てぬぐい》を噛《か》みます仕誼《しぎ》で。……美しいお女中様は、爺の目に、神も同然におがまれます。それにつけても、はい、昔の罪が思われます。せめて、朝に晩に、この身体《からだ》を折檻《せっかん》されて、拷問《ごうもん》苛責《かしゃく》の苦《くるしみ》を受けましたら、何ほどかの罪滅しになりましょうと、それも、はい、後の世の地獄は恐れませぬ。現世の心の苦しみが堪えられませぬで、不断常住、その事ばかり望んではおりますだが、木賃宿の同宿や、堂宮《どうみや》の縁下《えんのした》に共臥《ともぶせ》りをします、婆々《ばば》媽々《かか》ならいつでも打ちも蹴りもしてくれましょうが、それでは、念が届きませぬ。はて乞食が不心得したために、お生命までも、おうしないにならっせえましたのは、美しいお方でござりましたもの。やっぱり、美しいお方の苛責《かしゃく》でのうては、血にも肉にも、ちっとも響かぬでござります。――またこの希望《のぞみ》が、幽霊や怨念《おんねん》の、念願と同じ事でござりましての、この面《つら》一つを出したばかりで大概の方は遁《に》げますで。……よくよくの名僧智識か、豪傑な御仁《ごじん》でないと、聞いてさえ下さりませぬ。――この老耄《おいぼれ》が生れまして、六十九年、この願望《がんもう》を起しましてから、四十一年目の今月今日。――たった今、その美しい奥方様が、通りがかりの乞食を呼んで、願掛《がんかけ》は一つ、一ヶ条何なりとも叶えてやろうとおっしゃります。――未熟なれども、家業がら、仏も出せば鬼も出す、魔ものを使う顔色《がんしょく》で、威《おど》してはみましたが、この幽霊にも怨念にも、恐れなされませぬお覚悟を見抜きまして、さらば、お叶え下されまし、とかねての念願を申出でまして、磔柱《はりつけばしら》の罪人が引廻しの状《さま》をさせて頂き、路傍《みちばた》ながら隠場所《かくればしょ》の、この山崩れの窪溜《くぼたまり》へ参りまして、お難有《ありがた》い責折檻《せめせっかん》、苛責《かしゃく》を頂いた儀でござります。……旦那様。 [#ここから1字下げ] ――もし、お美しい奥方様、おありがとうござります。おありがとうござります。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 夫人 (はじめて平静に)お前さん、痛みはしないかい。 人形使 何の貴女様、この疼痛《いたみ》は、酔った顔をそよりそよりと春風に吹かれますも、観音様に柳の枝から甘露を含めて頂きますも、同じ嬉しさでござります。……はたで見ます唯今の、美女でもって夜叉《やしゃ》羅刹《らせつ》のような奥方様のお姿は、老耄《おいぼれ》の目には天人、女神をそのままに、尊く美しく拝まれました。はい、この疼痛のござりますうちだけは、骨も筋も柔かに、血も二十《はたち》代に若返って、楽しく、嬉しく、日を送るでござりましょう。 画家 (且つ傾き、且つ聞きつつ、冷静に金口煙草《きんぐちたばこ》を燻《くゆ》らす)お爺さん、煙草を飲むかね。 人形使 いやもう、酒が、あか桶《おけ》の水なれば、煙草は、亡者の線香でござります。 画家 喫《の》みたまえ。(真珠の飾《かざり》のついたる小箱のまま、衝《つ》と出《いだ》す。) 人形使 はッこれは――弘法様の独鈷《とっこ》のように輝きます。勿体《もったい》ない。(這出《はいだ》して、画家の金口から吸いつける)罰の当った――勿体ない。この紫の雲に乗りまして、ふわふわと……極楽の空へ舞いましょう。 夫人 爺《おじ》さん、もう行《ゆ》くの。……打《ぶ》たれたばかりで、ほんとに可《い》いのかい。 人形使 たとい桂川《かつらがわ》が逆《さかさ》に流れましても、これに嘘はござりませぬ。 夫人 何か私に望んでおくれ。どうも私は気が済まない。 人形使 この上の望《のぞみ》と申せば、まだ一度も、もう三度も、御折檻、御打擲《ごちょうちゃく》を願いたいばかりでござります。 夫人 そして、それから。 人形使 はあ、その上の願《ねがい》と申せば、この身体《からだ》が粉々になりますまで、朝に晩に、毎日毎夜、お美しい奥方様の折檻を受けたいばかりでござります。――はや酔も覚めました。もう世迷言《よまいごと》も申しますまい。――昼は遠慮がござりますが、真夜中は、狸、獺《かわうそ》、化ものも同然に、とがめ人《て》のござりませぬ、独鈷の湯へ浸ります嬉しさに、たつ野の木賃に巣をくって、しばらくこの山道を修善寺へ通いましたが――今日かぎり下田街道をどこへなと流れます。雲と水と申したけれど、天の川と溝《どぶ》の流れと分れましては、もはやお姿は影も映りますまい。お二方様とも、万代お栄えなされまし。――静御前様、へいへいお供をいたします。 夫人 お待ちなさい、爺《おじ》さん。(決意を示し、衣紋《えもん》を正す)私がお前と、その溝川《みぞがわ》へ流れ込んで、十年も百年も、お前のその朝晩の望みを叶えて上げましょう。 人形使 ややや。(声に出さず、顔色のみ。) 夫人 先生、――私は家出をいたしました。余所《よそ》の家内でございます。連戻されるほどでしたら、どこの隅にも入れましょうが、このままでは身の置処《おきどころ》がありません。――溝川に死《お》ちた鯉の、あの浅ましさを見ますにつけ、死んだ身体《からだ》の醜《みにく》さは、こうなるものと存じましても、やっぱり毒を飲むか、身を投げるか、自殺を覚悟していました。ただお煩《うるさ》さの余りでも、「こんな姿になるだけは、堅く止める。」と、おっしゃいました。……あの先刻《さっき》のお一言《ひとこと》で、私は死ぬのだけは止《や》めましてございます。 [#ここから1字下げ] 先生、――私は、唯今では、名ばかりの貧乏華族、小糸川の家内でございますが。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 画家 ああ子爵でおいでなさる。 夫人 何ですか、もう……――あの、貴方、……前《ぜん》は、貴方が、西洋からお帰り時分、よく、お夥間《なかま》と御贔屓《ごひいき》を遊ばして、いらしって下さいました、日本橋の……(うっとりと更に画家の顔を見る)――お忘れでございますか、お料理の、ゆかりの娘の、縫《ぬい》ですわ。 画家 ああ、そうですか。お縫さん……お妹さんの方ですね。綺麗なお嬢さんがおいでなさるという事を、時々|風説《うわさ》に聞きました。 夫人 (はかなそうに)ええ、先生は、寒い時寒い、と言うほど以上には、お耳には留まらなかったでございましょう。私は貴方に見られますのが恥かしくッて、貴方のお座敷ばっかりは、お敷居越にも伺った事はありませんが、蔭ではお座敷においで遊ばす時の、先生のお言葉は、一つとして聞き洩《も》らした事はないくらいでございます。奥座敷にお見えの時は、天井の上に俯向《うつむ》けになって聞きます。裏座敷においでの時は、小庭を中に、湯どのに入って、衣服《きもの》を着てばかりはいられませんから、裸体《はだか》で壁に附着《くッつ》きました。そのほか、小座敷でも広室《ひろま》でも、我家の暗《やみ》をかくれしのぶ身体《からだ》はまるで鼠のようで、心は貴方の光のまわりに蛾《ひとりむし》のようでした。ですが、苦労人の女中にも、わけ知《しり》の姉たちにも、気《け》ぶりにも悟られた事はありません。身ぶり素ぶりに出さないのが、ほんとの我が身体で、口へ出して言えないのが、真実の心ですわ。ただ恥かしいのが恋ですよ。――ですがもうその時分から、ヒステリーではないのかしら、少し気が変だと言われました。……貴方、お察し下さいまし。……私は全く気が変になりました。貴方が御結婚を遊ばして、あとまる一年、ただ湧《わ》くものは涙ばかり、うるさく伸びるものは髪ばかり。座敷|牢《ろう》ではありませんが、附添たちの看護の中に、藻抜《もぬけ》のように寝ていました。死にもしないで、じれったい。……消えもしないで、浅ましい、死なずに生きていたんですよ。 [#ここから1字下げ] ――我が身に返りました時、年紀《とし》も二十《はたち》を三つ越す。広い家を一杯に我儘《わがまま》をさして可愛がってくれました母親《おふくろ》が亡くなりました。盲目《めくら》の愛がなくなりますと、明《あかる》い世間が暗くなります。いままで我ままが過ぎましたので、その上の我がままは出来ない義理になりました。それでも、まだ我がままで――兄姉たちや、親類が、確《たしか》な商人《あきんど》、もの堅い勤人《つとめにん》と、見立ててくれました縁談を断って、唯今の家へ参りました。  姑《しゅうとめ》が一人、小姑《こじゅうと》が、出戻《でもどり》と二人、女です――夫に事《つか》うる道も、第一、家風だ、と言って、水も私が、郊外の住居《すまい》ですから、釣瓶《つるべ》から汲《く》まされます。野菜も切ります。……夜はお姑のおともをして、風呂敷でお惣菜《そうざい》の買ものにも出ますんです。――それを厭《いと》うものですか。――日本橋の実家からは毎日のおやつと晩だけの御馳走《ごちそう》は、重箱と盤台《はんだい》で、その日その日に、男衆が遠くを自転車で運ぶんです。が、さし身の角が寝たと言っては、料理番をけなしつけ、玉子焼の形が崩れたと言っては、客の食べ余《あまり》を無礼だと、お姑に、重箱を足蹴《あしげ》にされた事もあります。はじめは、我身の不束《ふつつか》ばかりと、怨《うら》めしいも、口惜《くちおし》いも、ただ謹《つつしん》でいましたが、一年二年と経ちますうちに、よくその心が解りました。――夫をはじめ、――私の身につきました、……実家《さと》で預ります財産に、目をつけているのです。いまは月々のその利分で、……そう申してはいかがですが、内中の台所だけは持っておるのでございますけれど、その位では不足なのです。――それ姪《めい》が見合をする、従妹《いとこ》が嫁に行《ゆ》くと言って、私の曠着《すれぎ》、櫛《くし》笄《こうがい》は、そのたびに無くなります。盆くれのつかいもの、お交際《つきあい》の義理ごとに、友禅も白地も、羽二重、縮緬《ちりめん》、反ものは残らず払われます。実家《さと》へは黙っておりますけれど、箪笥《たんす》も大抵|空《から》なんです。――…………………それで主人は、詩をつくり、歌を読み、脚本などを書いて投書をするのが仕事です。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 画家 それは弱りましたな。けれど、末のお見込はありましょう。 夫人 いいえ、その末の見込が、私が財産を持込みませんと、いびり出されるばかりなんです。咳《せき》をしたと言《いっ》てはひそひそ、頭を痛がると言っては、ひそひそ。姑たちが額を集め、芝居や、活動によくある筋の、あの肺病だから家のためにはかえられない、という相談をするのです。――夫はただ「辛抱を、辛抱を。」と言うんですが、その辛抱をしきれないうち、私は死《しん》でしまいましょう。ついこの間もかぜを引いて三日寝ました。水をのみに行《ゆ》きます廊下で、「今度などが汐時《しおどき》じゃ。……養生と言って実家《うち》へ帰したら。」姑たちが話すのを、ふいに痛い胸に聞いたのです。 画家 それは薄情だ。 夫人 薄情ぐらいで済むものですか。――私は口惜《くやし》さにかぜが抜けて、あらためて夫に言ったんです。「喧嘩をしても実家《さと》から財産を持って来ます。そのかわりただ一度で可《よ》うござんす。お姑さんを貴方の手で、せめて部屋の外へ突出して、一人の小姑の髻《たぶさ》を掴《つか》んで、一人の小姑の横ぞっぽうを、ぴしゃりと一つお打ちなさい。」と…… 人形使 (じりじり乗出す)そこだそこだ、その事だ。 画家 ははは、痛快ですな。しかし穏《おだやか》でない。 夫人 (激怒したるが、忘れたように微笑《ほほえ》む)穏でありませんか。 画家 まず。……そこで。 夫人 きさまは鬼だ、と夫が申すと、いきなり私が、座敷の外へ突飛ばされ、倒れる処を髻をつかまれ、横ぞっぽうを打たれました。――その晩――昨晩――その晩の、夜はかえって目につきますから、昨日家出をしたんです。先生……金魚か、植木鉢の草になって、おとなしくしていれば、実家《さと》でも、親類でも、身一つは引取ってくれましょう。私は意地です、それは厭《いや》です。……この上は死ぬほかには、行き処のない身体《からだ》を、その行きどころを見着けました。(決然として向直る)このおじさんと一所に行きます。――この人は、婦人《おんな》を虐《しいた》げた罪を知って、朝に晩に笞《しもと》の折檻《せっかん》を受けたいのです。一つは世界の女にかわって、私がその怨《うらみ》を晴らしましょう。――この人は、静御前の人形を、うつくしい人を礼拝します。私は女に生れました、ほこりと果報を、この人によって享《う》けましょう。――この人は、死んだ鯉の醜い死骸《しがい》を拾いました。……私は弱い身体《からだ》の行倒れになった肉を、この人に拾われたいと存じます。 画家 (あるいは頷《うなず》き、また打傾き、やや沈思す)奥さん、更《あらた》めて、お縫さん。 夫人 (うれしそうに、あどけなく笑う)はアい。 画家 貴女のそのお覚悟は、他にかえようはないのですか。 夫人 はい、このまま、貴方、先生が手をひいて、旅館へお帰り下さる外には―― 人形使 そうだ、そうだ、その事だ。 画家 (再び沈黙す。) 夫人 (すり寄る)先生。 画家 貴女、それは御病気だ。病気です。けれども私は医師《いしゃ》でない、断言は出来ません。――貴女のお覚悟はよくありません。しかし、私は人間の道について、よく解《わか》っておりません。何ともお教えは申されない。それから私が手を取る事です。是非善悪は、さて置いて、それは今、私に決心が着きかねます。卑怯《ひきょう》に回避するのではありません。私は自分の仕事が忙しい。いま分別をしている余裕が、――人間の小さいために、お恥かしいが出来ないのです。しかし一月、半月、しばらくお待ち下さるなら、その間に、また、覚悟をしてみましょう。 夫人 先生、私は一晩かくれますにさえ、顔も形も変えています。運命は迫っています。 画家 ごもっともです。――(顔を凝視さるるに堪えざるもののごとく、目を人形使に返す)爺《じい》さん、きっとお供をするかね。 人形使 犬になって―― [#ここから2字下げ] 凝《じっ》と夫人を抱き起し、その腰の下へ四這《よつば》いに入る背に、夫人おのずから腰を掛けつ、なお倒れんとする手を、画家たすけ支う。 [#ここから1字下げ] 馬になってお供をするだよ。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 画家 奥さん、――何事も御随意に。 夫人 貴方、そのお持ち遊ばすお酒を下さい。――そして媒妁人《なこうど》をして下さい。 画家 (無言にて、罎《びん》を授け、且つ酌する。) 夫人 (ウイスキーを一煽《ひとあお》りに、吻《ほっ》と息す)爺《おじ》さん、肴《さかな》をなさいよ。 人形使 口上|擬《まがい》に、はい小謡《こうたい》の真似でもやりますか。 夫人 いいえ、その腐った鯉を、ここへお出しな。 人形使 や。 夫人 お出しなね。刃ものはないの。 人形使 野道、山道、野宿だで、犬おどしは持っとりますだ。(腹がけのどんぶりより、錆《さ》びたるナイフを抽出《ぬきだ》す。) 画家 ああ、奥さん。 夫人 この人と一所に行くのです。――このくらいなものを食べられなくては。…… 人形使 やあ、面白い。俺も食うべい。 画家 (衝《つ》と立ちて面《おもて》を背く。) [#ここから2字下げ] ――南無大師遍照金剛。――南無大師遍照金剛――遠くに多人数の人声。童男|童女《どうにょ》の稚児二人のみまず練りつつ出づ―― [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 稚児一 (いたいけに)南無大師遍照金剛。…… 稚児二 (なおいたいけに)南無大師遍照金剛。…… [#ここから2字下げ] はじめ二人。紫の切《きれ》のさげ髪と、白丈長《しろたけなが》の稚髷《ちごまげ》とにて、静《しずか》にねりいで、やがて人形使、夫人、画家たちを怪《あやし》むがごとく、ばたばたと駈《か》け抜けて、花道の中ばに急ぐ。画家と夫人と二人、言い合せたるごとく、ひとしくおなじ向きに立つ。人形使もまた真似るがごとく、ひとしくともに手まねき、ひとしくともにさしまねく、この光景怪しく凄《すご》し。妖気《ようき》おのずから場《じょう》に充《み》つ。稚児二人引戻さる。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 画家 いい児《こ》だ。ちょっと頼まれておくれ。 夫人 可愛い、お稚児さんね。 画家 (外套を脱ぎ、草に敷く)奥さん、爺さんと並んでお敷きなさい。 夫人 まあ、勿体ない。 画家 いや、その位な事は何でもありません。が貴女の病気で、私も病気になったかも知れません。――さあ、二人でお酌をしてあげておくれ。 [#ここから2字下げ] 夫人、人形使と並び坐す。稚児二人あたかも鬼に役《えき》せらるるもののごとく、かわるがわる酌をす。静寂、雲くらし。鶯《うぐいす》はせわしく鳴く。笙《しょう》篳篥《ひちりき》幽《かすか》に聞ゆ。――南無大師遍照金剛――次第に声近づき、やがて村の老若男女十四五人、くりかえし唱えつつ来《きた》る。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 村の人一 ええ、まあ、御身《おみ》たちゃあ何をしとるだ。 村の人二 大師様のおつかい姫だ思うで、わざと遠く離れてるだに。 村の人三 うしろから拝んで歩行《ある》くだに――いたずらをしてはなんねえ。 村の人四五六 (口々に)来《こ》うよ来うよ。(こんどは稚児を真中《まんなか》に)南無大師遍照金剛、……(かくて、幕に入《い》る。) 夫人 (外套をとり、塵《ちり》を払い、画家にきせかく)ただ一度ありましたわね――お覚《おぼえ》はありますまい。酔っていらしって、手をお添えになりました。この手に――もう一度、今生《こんじょう》の思出に、もう一度。本望です。(草に手をつく)貴方、おなごり惜しゅう存じます。 画家 私こそ。(喟然《きぜん》とする。) 夫人 爺《おじ》さん、さあ、行《ゆ》こう。 人形使 ええ、ええ。さようなら旦那様。 夫人 行こうよ。 [#ここから2字下げ] 二人行きかかる。本雨。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 画家 (つかつかと出で、雨傘を開き、二人にさしかく)お持ちなさい。 夫人 貴方は。 画家 雨ぐらいは何の障《さわり》もありません。 夫人 お志頂戴します。(傘を取る時)ええ、こんなじゃ。 [#ここから2字下げ] 激しく跣足《はだし》になり、片褄《かたづま》を引上ぐ、緋《ひ》の紋縮緬《もんちりめん》の長襦袢《ながじゅばん》艶絶《えんぜつ》なり。爺《おやじ》の手をぐいと曳《ひ》く。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 人形使 (よたよたとなって続きつつ)南無大師遍照金剛。 夫人 (花道の半ばにして振かえる)先生。 画家 (やや、あとに続き見送る。) 夫人 世間へ、よろしく。……さようなら、…… 画家 御機嫌よう。 夫人 (人形使の皺手《しわで》を、脇に掻込《かいこ》むばかりにして、先に、番傘をかざして、揚幕へ。――) 画家 (佇《たたず》み立つ。――間。――人形使の声揚幕の内より響く。) [#ここから1字下げ] ――南無大師遍照金剛―― [#ここから2字下げ] 夫人の声も、またきこゆ。 [#ここから1字下げ] ――南無大師遍照金剛―― [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 画家 うむ、魔界かな、これは、はてな、夢か、いや現実だ。――(夫人の駒下駄を視《み》る)ええ、おれの身も、おれの名も棄てようか。(夫人の駒下駄を手にす。苦悶《くもん》の色を顕《あらわ》しつつ)いや、仕事がある。(その駒下駄を投棄つ。) [#ここから2字下げ] 雨の音|留《や》む。 福地山修禅寺の暮六ツの鐘、鳴る。[#地から2字上げ]――幕―― [#ここで字下げ終わり] [#地から1字上げ]大正十二(一九二三)年六月 底本:「泉鏡花集成7」ちくま文庫、筑摩書房    1995(平成7)年12月4日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第二十六卷」岩波書店    1942(昭和17)年10月15日発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:門田裕志 校正:仙酔ゑびす 2011年3月28日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。