窓 ライネル・マリア・リルケ Rainer Maria Rilke 堀辰雄訳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)赫《かがや》く |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)或|像《すがた》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)Ⅰ ------------------------------------------------------- [#5字下げ][#中見出し]Ⅰ[#中見出し終わり] バルコンの上だとか、 窓枠のなかに、 一人の女がためらつてさへゐれば好い…… 目のあたりに見ながらそれを失はなければならぬ 失意の人間に私達がさせられるには。 が、その女が髮を結はうとして、その腕を やさしい花瓶のやうに、もち上げでもしたら、 どんなにか、それを目に入れただけでも、 私達の失意は一瞬にして力づけられ、 私達の不幸は赫《かがや》くことだらう! [#5字下げ][#中見出し]Ⅱ[#中見出し終わり] お前は、不思議な窓よ、私に待つてゐてくれと合圖してゐる、 既にもうお前の鼠色の窓掛けは動きかけてゐる。 おお窓よ、私はお前の招待に應じなければならないだらうか? それとも拒絶すべきだらうか、窓よ? 私の待つてゐるのは誰だ? 私はもう無縁ではないのではないか、この耳をそば立ててゐる生命に對して? この戀を失つた女の充溢した心に對して? 私にはなほ行くべき道があるのに、かうして私を此處に引き止めながら、 私に夢みさせてゐる、かの女の心の過剩を、窓よ、お前は私に與へることが出來るのだらうか? [#5字下げ][#中見出し]Ⅲ[#中見出し終わり] お前はわれわれの幾何學ではないのか? 窓よ、われわれの大きな人生を 雜作もなく區限《くぎ》つてゐる いとも簡單な圖形。 お前の額縁のなかに、われわれの戀人が 姿を現はすのを見るときくらゐ、 かの女の美しく思はれることはない。おお窓よ、 お前はかの女の姿を殆ど永遠のものにする。 此處にはどんな偶然も入り込めない。 戀人は自分の戀の眞只中にゐる。 自分のものになり切つた ささやかな空間に取り圍まれながら。 [#5字下げ][#中見出し]Ⅳ[#中見出し終わり] 窓よ、お前は期待の計量器だ。 一つの生命が他の生命の方へ 氣短かに自分を注がうとして 何遍それを一ぱいにさせたことか! まるで移り氣な海のやうに 引き離したり、引き寄せたりするお前、―― かと思ふと、お前はその硝子に映る私達の姿を その向う側に見えるものと混んぐらかせたりする。 運命の存在と妥協する 或種の自由の標本。 お前に調節されて、外部の過剩も、 われわれの内部では平衡する。 [#5字下げ][#中見出し]Ⅴ[#中見出し終わり] 窓よ、お前は、どんなものでも 何んと儀式めかしてしまふのだらう! お前の窓枠の中では、人は直立不動になつて 何かを待つたり、物思ひにふけつたりする。 そんな風に、放心者《うつけもの》だの、怠け者だのを、 お前はよくお小姓のやうに立たせてゐる。 彼はいつも同じやうな姿勢をしてゐる。 彼は自分の肖像畫みたいになつてゐる。 漠とした倦怠にうち沈みながら、 少年が窓に凭《もた》れて、ぼんやりしてゐることがある。 少年は夢みてゐる。さうして彼の上衣を汚してゐるのは、 少年自身ではなくて、それは過ぎゆく時間なのだ。 又、戀する少女たちが、窓に倚つてゐることもある。 身じろがずに、いかにも脆さうに、 あたかもその翅の美しいために、 貼りつけられてゐる蝶のやうに。 [#5字下げ][#中見出し]Ⅵ[#中見出し終わり] 部屋の奧、寢臺のあたりには、そこはかとない薄明しか漂はせてゐなかつた 星形の窓は、いまや貪婪な窓と交代して、 飽くことなく日光を求めてゐる。 ああ、誰れか窓に走り寄り、それに凭れかかつて、ぢつとしてゐる。 夜の去つた跡で、こんどはその神聖なみづみづしい若さの番が來たのだ! その戀する少女の眺めてゐる朝の空には、 青空そのもの――あの大いなる模範、 深さと高さと――それ以外にはなんにもない。 その空の一部を圓舞臺にして、 ゆるやかな曲線を描いて飛び交ひながら 愛の復歸を告げ知らせてゐる鳩たちを除いては。 (朝の空) [#5字下げ][#中見出し]Ⅶ[#中見出し終わり] 私達の區限《くぎ》られた部屋に、 闇が絶えず増大させる 未知の擴がりを與へるやうにと、 屡々工夫せられた窓。 昔、その傍らにいつも坐つて、 一人の婦人が、俯向いたまま、 身じろぎもせず、物靜かな様子で、 縫ひ物をしつづけてゐた窓。 明るい壜の中に嚥みこまれたまま、 そのなかで或|像《すがた》の芽ばえてゐる窓。 われわれの廣漠たる眼界の 帶を結んでゐる環。 [#5字下げ][#中見出し]Ⅷ[#中見出し終わり] かの女は窓に凭《もた》れたまま、 何もかも任せ切つたやうな氣もちで、 うつとりと、心を張りつめて、 夢中で何時間も過すのだ。 獵犬たちが横はるとき その前肢《まへあし》を揃へるやうに、 かの女の夢の本能が 不意と襲つて、そのしなやかな手を、 氣もちのいい具合に竝べてくれる。 その餘のものはそれに準《なら》つて落着くのだ。 さうしてしまふと、その腕も、胸も、肩も、 かの女自身も言はない、「もう飽《あ》いた」と。 [#5字下げ][#中見出し]Ⅸ[#中見出し終わり] 忍び泣いてゐる、ああ、忍び泣いてゐる、 あの誰も凭れてゐない窓! 慰みやうもなく、涙に咽《むせ》んでゐる、 あの被覆《おほひ》をせられたもの! 遲過ぎてからか、それとも早過ぎないと、 お前の姿ははつきりと掴めない。 いまは全くその姿を包んでゐるお前の窓掛け、 おお、空虚の衣! [#5字下げ][#中見出し]Ⅹ[#中見出し終わり] 最後の日の窓に身を傾けてゐた お前の姿を目のあたりに見ながらだつた、 私がわが身の深淵を隈なく知つて、 それをはじめてわが物となしたのは。 お前はその腕を闇の方へ向けて 私にそれを振つて見せながら、 私がお前から切り離して自分と一しよに持つて來たものを 私から更に切り離して、逃げて行つてしまはせた…… お前のその別離の手振りは、 永い別離の印なのではなかつただらうか? 遂には私が風に變身せしめられ、 水となつて川に注がれてしまふ日までの…… 底本:「堀辰雄作品集第五卷」筑摩書房    1982(昭和57)年9月30日初版第1刷発行 初出:「晩夏」甲鳥書林    1941(昭和16)年9月20日 入力:tatsuki 校正:染川隆俊 2010年11月15日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。