日本文学の発生 ――その基礎論―― 折口信夫 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)厳咒詛《イツノカシリ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)此|土《くに》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)瓫  [#…]:返り点  (例)由[#レ]川為[#レ]名  [#(…)]:訓点送り仮名  (例)天[#(ノ)]平 /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)だん/\ ------------------------------------------------------- [#5字下げ]一 異人の齎した文学[#「一 異人の齎した文学」は中見出し] [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ] (一)河内里[#割り注]土中下。[#割り注終わり]右、由[#レ]川為[#レ]名。此里之田不[#レ]敷[#レ]草下[#二]苗子[#一]。所[#二]以然[#一]者、住吉大神上坐之時、食[#二]於此村[#一]。爾、従神等、人苅置草解散為[#レ]坐。爾[#レ]時草主大患訴[#二]於大神[#一]、判[#「判」に白丸傍点][#二]云[#「云」に白丸傍点]汝田苗者、必雖[#レ]不[#レ]敷[#レ]草、如[#レ]敷[#レ]草生[#一]。故、其村田于[#レ]今不[#レ]敷[#レ]草作[#二]苗代[#一]。(播磨風土記) (二)復有[#二]兄磯城軍[#一]。布[#二]満於磐余邑[#一]。[#割り注]磯。此云[#レ]志。[#割り注終わり]賊虜所[#レ]拠、皆是要害之地。故道路絶塞無[#レ]処[#レ]可[#レ]通。天皇悪之。是夜自祈而寝。夢有[#二]天神訓[#一]之曰、宜取[#二]天香山社中土[#一][#割り注]香山。此云[#二]个遇夜摩[#一]。[#割り注終わり]以造[#二]天[#(ノ)]平瓫八十枚[#一][#割り注]平瓫。此云[#二]毘羅个[#一]。[#割り注終わり]并造[#一]厳瓫[#一]、而敬‐[#二]祭天神地祇[#一]。[#割り注]厳瓫。此云[#二]怡途背[#一]。[#割り注終わり]亦為[#二]厳咒詛《イツノカシリ》[#一]。如[#レ]此則虜自平伏矣。[#割り注]厳咒詛。此云[#二]怡途能伽辞離[#一]。[#割り注終わり]天皇祇‐[#二]承夢訓[#一]、依以将[#レ]行。時弟猾又奏曰、倭国磯城邑有[#二]磯城八十梟帥[#一]。又、高尾張邑[#割り注]或本云、葛城邑。[#割り注終わり]有[#二]赤銅八十梟帥[#一]。此類皆欲[#下]与[#二]天皇[#一]距戦[#上]。臣窃為[#二]天皇[#一]憂之。宜今当取[#二]天[#(ノ)]香山[#(ノ)]埴[#一]、以造[#二]天平瓫[#一]、而祭[#二]天社国社之神[#一]、然後撃[#レ]虜則易[#レ]除也。天皇既以[#二]夢辞[#一]為[#二]吉兆[#一]。及[#レ]聞[#二]弟猾之言[#一]。益喜[#二]於懐[#一]。乃使[#下]椎根津彦著[#二]弊衣服及蓑笠[#「蓑笠」に白丸傍点][#一]、為[#中]老父貌[#「老父貌」に白丸傍点][#上]。又使[#三]弟猾被[#「被」に白丸傍点][#レ]箕[#「箕」に白丸傍点]為[#二]老嫗貌[#「老嫗貌」に白丸傍点][#一]、而勅之曰、宜汝二人到[#二]天香山[#一]、潜取[#二]其巓土[#一]。而可[#二]来旋[#一]矣。基業成否、当以[#「以」に白丸傍点][#レ]汝為[#「汝為」に白丸傍点][#レ]占[#「占」に白丸傍点]。努力慎焉。是時、虜兵満[#レ]路難[#二]以往還[#一]。時椎根津彦乃祈之曰、我皇当[#三]能定[#二]此国[#一]者、行路自通。如不[#レ]能者、賊必防禦。言訖径去。時群虜見[#二]二人[#一]。大咲之曰。大醜乎[#割り注]大醜。此云[#二]鞅奈瀰儞勾[#一]。[#割り注終わり]老父老嫗。則相与闢[#レ]道使[#レ]行。二人得[#レ]至[#二]其山[#一]、取[#レ]土来帰、於[#レ]是天皇甚悦。乃以[#二]此埴[#一]、造[#二]作八十平瓫・天手抉八十枚[#割り注]手抉。此云[#二]多衢餌離[#一]。[#割り注終わり]厳瓫[#一]、而陟[#二]于丹生川上[#一]。用祭[#二]天神地祇[#一]。則於[#二]彼菟田川之朝原[#一]、譬如[#二]水沫[#一]而有[#レ]所[#二]咒著《カシリツクル》[#一]也。(神武紀) (三)故大国主神、坐[#二]出雲之御大之御前[#一]時、自[#二]波穂[#一]、乗[#二]天之羅摩船[#一]而。内[#二]剥鵝皮[#一]剥為[#二]衣服[#一]、有[#二]帰来《ヨリクル》神[#一]。爾雖[#レ]問[#二]其名[#一]、不[#レ]荅。且雖[#レ]問[#二]所[#レ]従之諸神[#一]、皆白[#レ]不[#レ]知。爾多邇具久[#「多邇具久」に傍点]白言、[#割り注]自[#レ]多下四字以[#レ]音[#割り注終わり]此者久延毘古必知之。即召[#二]久延毘古[#一]問時、荅[#二]白、此者神産巣日神之御子、少名毘古那神[#一]。[#割り注]自[#レ]毘下三字以[#レ]音[#割り注終わり]故爾白[#三]上於[#二]神産巣日御祖命[#一]者。荅[#下]告此者実我子也。於[#二]子之中[#一]。自[#二]我手俣[#一]久岐斯子也。[#割り注]自[#レ]久下三字以[#レ]音[#割り注終わり]故与[#二]汝葦原色許男命[#一]、為[#二]兄弟[#一]而、作[#中]堅其国[#上]。故自[#レ]爾、大穴牟遅与[#二]少名毘古那[#一]二柱神、相並、作[#二]堅此国[#一]。然後者、其少名毘古那神者、度[#レ]于[#二]常世国[#一]也。故顕[#二]白其少名毘古那神[#一]、所謂久延毘古者、於[#二]今者[#一]山田之曾富騰者也。此神者、足雖[#二]不行[#一]、尽[#二]知天下之事[#一]神也。於是大国主神愁而、告[#下]吾独何能得[#二]作此国[#一]。孰神与吾能相[#中]作此国[#上]耶。是時有[#二]光[#レ]海、依来之神[#一]。其神言、能[#二]治我前[#一]者、吾能共与相作成。若不[#レ]然者、国難[#レ]成。爾大国主神曰、然者、治奉之状奈何。荅[#三]言吾者|伊《イ》[#二]都岐奉《ツキマツレ》于倭之青垣東山上[#一]。此者坐[#二]御諸山上[#一]神也。(神代記) [#ここで字下げ終わり] 数限りなくある類型のほんの一例として、右の三種の文献を引いて、我々の国の文学の歴史の話の出発点を作つて見ようと思ふ。我々の住む国土に対して、他界が考へられ、其処の生活様式が、すべて、此|土《くに》の事情と正反対の形なるものと考へてゐた。其|最《もつとも》著しいのは、我々の祖先が、起原をつくつたと考へてゐる文学そのものが、その祖先自身の時代には、それが悉く空想の彼岸の所産であると、考へられてゐたことであつた。この彼此両岸国土の消息を通じることを役とする者が考へられ、其|齎《もたら》す詞章が、後々、文学となるべき初めのことばなのであつた。週期的に、この国を訪づれることによつて、この世の春を廻らし、更に天地の元《ハジメ》に還す異人、又は其来ること珍《マレ》なるが故に、まれびと[#「まれびと」に傍線]と言はれたものである。異人の齎す詞章が宣せられると共に、その詞章の威力――それに含まれてゐる発言者の霊力の信仰が変形したところの――に依つて、かうした威力を持つものと信じられた為に、長く保持せられ、次第に分化して、結局文学意識を生じるに至つたのだ。 扨《さて》、その異人の住むとせられた彼岸の国は、我々の民族の古語では、すべてとこよ[#「とこよ」に傍線]――常世又は常夜――と称せられてゐた。その常世なる他界は、完全に此土の生活を了へた人々の魂が集中――所謂つまる[#「つまる」に傍点]――して生きてゐる、と信じられてゐた。さうして、此常世と幾分違つた方向に岐れて行つたと思はれる夜見の国に、黄泉大神《ヨモツオホカミ》を考へた如く、さうした魂のうちに、最威力あるものをも考へてゐた様である。而も、対照的に思惟し、発想する癖からして、二つの対立したものと考へ、それが祖先である為に、考妣一対の霊と思はれる様にもなつた。更に、彼土にある幾多の魂が、その威霊の指導に従つて、此国へ群行し来たるものとも考へてゐた。だから、異人は他界の威霊であると考へたものが、唯《ただ》生活方法が違ふ外に、我々と共通の精神を持つた神聖な生き物としての、ひと[#「ひと」に傍点]とも考へられた。又ある地方、或は或時代には、多く神と信じられ、常世神とも称せられる様になつた。この様に、異人に対する考へは、極めて自由で、邑落に依つて一致しない部分の多かつたことが思はれる。だが、さうした整頓せられない種々な形を恣《ほしいまま》に考へることは、却《かへ》つて正確な知識を捉へることの出来ないことだから、姑《しばら》く、記・紀・風土記の援用文に見えた代表的な姿に括《くる》めて説かねばならぬ。 この三種の様式のまれびと[#「まれびと」に傍線]の信仰は、多くの古典のみか、後代久しく、中には今に至るまで、民間伝承に其姿をとどめてゐる。古事記の例を見ると、霊物と威霊と二通りの形に、一つの影向《ヤウガウ》を伝へわけた跡を見せてゐる。前段後段に、原因関係を示す形をとつてゐるが、実は一つ事の語り分けに過ぎない。而も日本紀では、これを単なる海原を照し来る光り物、即、外来魂として取り扱つてゐる。此点に於いては、極めて都合よく、まれびと[#「まれびと」に傍線]観念の種々な過程を説明したものと言へる。第二の日本紀の例で見ると、異人の旅は、如何なる邑落をも、障碍なしに通過することの出来た事を示してゐる。更に、男性の祖霊の形が椎根津彦であり、弟猾《オトウカシ》は祖霊の女性なるもの――兄猾との対照から男性と見て来てゐるのは誤りで、当然この伝への出来る訣があるのだ――として、一対のまれびと[#「まれびと」に傍線]の形を見せてゐる。そして、考妣二体の神が呪詛にあづかる点をも具へてゐる。播磨風土記を見ると、この例は極めて多いが、其中の一つを引いたので、最適切に、彼岸の国土から農村行事の時を定めて、一体の主神及び其に伴ふ群行神のあつたことを、更に伝説化してゐるのだ。而も、春の訪れから分化した、苗代時の来臨を示してゐる処に注意せねばならぬ。 かうした常世・まれびと及び此土の生活の関聯した例は、数へきれない程だが、その合理化を経た結果、多くは、最重大なまれびとの職分に関する条件を言ひ落してゐるものが多い。異人の齎した詞章が、この民族の文学的発足点をつくつたことを、此から述べようと思ふ。即、常世ものゝ随一たる呪詞唱文に就いての物語である。 第一に明らかにして置かなければならないのは、異人は、果して異人であるか、と云ふ事である。言ふまでもなく、さうした信仰を持つ邑落生活の間に伝統せられた一種の儀礼執行者に過ぎない。この行動伝承を失つたものが、歴史化して行く一方、行動ばかりを伝へたものは、演劇・相撲・射礼《ジヤライ》などを分出して行つた。その行動伝承に関与するものは、即、此土の人間で或期間の神秘生活を積んだ人々であつた。即、主神となる者は、邑落の主長であることもあり、又宗教上の宿老であつた事もある。更に其常世神に伴はれる多くの群行神は、此聖役を勤めることに依つて、成年戒を経る訣であつた。さうして、其行事の中心は、呪詞を伝承し記憶を新にさせることにあつた。而も其詞章は、天地の元《ハジメ》、国の元から伝はつてゐる、と信ぜられた一方、次第に無意識の変化改竄を加へて、幾多の形を分化した。又季節毎に異人の来訪を欲する心が、週期を頻繁にした。その都度、扮装《ヤツ》した神及び伴神が現れて、土地の精霊に降服起請を強ひるのが詞の内容であつた。此が即ことゞひ[#「ことゞひ」に傍線]で、後世の所謂いひかけ[#「いひかけ」に傍線]・唱和及び行動伝承としての歌垣のはじめに当る。このことゞひ[#「ことゞひ」に傍線]に応へない形式からしゞまの遊び[#「しゞまの遊び」に傍線]――後の癋見《ベシミ》芸――が起つて来、更に、口を開いて応へる形――もどき芸――が出来て来る。この両様の呪詞が、一つは所謂祝詞と称せられるものゝ原型であり、応へる側のものが寿詞《ヨゴト》と称する、種族・邑落の威霊の征服者に奉ると云つた意味の寿詞――賀詞――となつて行つたのである。 この呪詞が、常世の国から将来せられ、此土のものとなつたと考へ変へられて行く様になつた。が、その威力の源は、常世にあるといふ記憶を失はなかつた証拠はある。のろふ[#「のろふ」に傍線](呪)が、もと宣言であり、同時に精霊に対する呪詛であつたのが、呪詛の一面に偏して行つたのと同じ動きを見せてゐる語に、とこふ[#「とこふ」に傍線](詛)なる語がある。その語根とこ[#「とこ」に傍線]は、尠《すくな》くともとこよ[#「とこよ」に傍線]の語根と共通するものであり、又さう考へられてゐたことも事実だ。つまり、宣言・呪詛両方面に、常世の威霊が活動したことを示すのだ。更に、祝詞を創始した神として伝はる思兼[#(ノ)]神は、枕詞系統の讃美詞《ホメコトバ》を添へた形で、八意《ヤゴヽロ》思兼[#(ノ)]神、又常世[#(ノ)]思兼[#(ノ)]神と称へられてゐた。八意は呪詞の数の限定せられてゐた時代に、一つのものを以て幾つかに融通した為、一詞章であつて数種の義を持ち具へてゐる事を欲した為の名である。さうした事の行はれるのは、一に常世の威霊によるものとせられた。で、この神の冠詞として、常世なる語をつけたのである。かういふ宣詞とも名づくべきものゝ古い形が、今日では痕跡も残存してゐない。非常な分化を遂げた後のもので、而も其用途さへ著しく変化した祝詞から演繹して来る外に、方法はない。だが其も、宣詞及び呪詞の幾種類かを比較して見ることによつて、或点までは確めることが出来るのである。 [#5字下げ]二 宮廷及び邑落の生活[#「二 宮廷及び邑落の生活」は中見出し] [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ] (一)明神御宇日本《アキツミカミトアメノシタシロスヤマト》[#(ノ)]天皇《スメラガ》詔旨[#(ラマト)]、[#割り注]謂[#下]以[#二]大事[#一]宣[#中]於蕃国使[#上]之辞也。[#割り注終わり]云々咸聞。 [#ここから2字下げ] 明神[#(ト)]御宇[#(ス)]天皇[#(ガ)]詔旨[#(ラマト)][#割り注]謂[#下]以[#二]次事[#一]宣[#中]於蕃国使[#上]之辞也。[#割り注終わり]云々咸聞。 明神[#(ト)]御[#二](宇)大八洲《オホヤシマクニ》[#一]天皇[#(ガ)]詔旨[#(ラマト)]、[#割り注]謂用於朝庭大事之辞。即立[#二]皇后皇太子[#一]、及元日受[#二]朝賀[#一]之類也。[#割り注終わり]云々咸聞。(以上、公式令、詔書式) [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ] (二)八月甲子朔、受[#レ]禅即[#レ]位。庚辰詔曰、現御神[#割り注]止[#割り注終わり]大八島国所知天皇大命《オホヤシマグニシロススメラガオホミコト》[#割り注]良麻止[#割り注終わり]詔大命乎《ノルオホミコトヲ》……(続紀、文武元年) (三)二月甲午朔戊申天皇幸宮東門使蘇我右大臣詔曰|明神御宇日本倭根子《アキツミカミトヤマトシロスヤマトネコ》天皇詔……(大化二年紀) [#ここから2字下げ] 詔曰、明神[#(ト)]大八洲所知倭根子天皇大命[#割り注]良麻止[#割り注終わり]宣大命乎……(宝字元年七月紀) [#ここで字下げ終わり] (四)大日本根子彦国牽天皇、大日本根子彦太瓊天皇太子也。天皇以[#二]大日本根子彦太瓊天皇三十六年春正月[#一]立為[#二]皇太子[#一]……七十六年春二月、大日本根子彦太瓊天皇崩。(孝元紀) [#ここから2字下げ] 日本根子天津豊国成姫天皇、少名阿閇皇女……(元明紀) 日本根子高瑞浄足姫天皇、……日並知皇子尊之皇女也。(元正紀) [#ここで字下げ終わり] 宮廷に於ける呪詞も此径路を踏んで発達してゐるので、令義解の解説――細字の部分[#「細字の部分」は割り注で処理]――は、必しも古い形を説明してはゐない。正確に言へば、此詔詞が最適切に用ゐられる場合は、即位式並びに元旦朝賀の時である。御代の初めの宣言を行はせられた即位式は、古くは大嘗祭と一つ儀礼である。一方、元旦は言ふまでもなく年の初めだ。即、御一代一度の行事が、一年一度の行事と一つだ、と考へられた事を示してゐる。而も、外蕃に対しての関心を持たない時代の詔詞は、大倭根子天皇なる御資格を以て、大儀礼を宣せられたのだ。其で「大倭根子……天皇」と謂つた御諡を持たれた御方々がおありになる訣だ。詔詞の始めに据ゑた御資格が、御生涯を掩ふ御称号となつたのである。 古代日本の生活は、必しもその一番大きな生活様式であるところの、宮廷の様式だけを論じてすますわけにはゆかぬ。各邑落に小さいながらも、同じ様式の生活があつたと見る事が出来る。断つて置かねばならないのは、言ふまでもなく邑落・種族によつては、全く違つた生活様式もあるのだけれども、だん/\上の生活を模倣して来る。此が、われ/\民族の古代生活に於ける、一つの生活原理なのだ。だから、宮廷の生活は、或点まで総ての貴族・邑落の君主と同様だと言ふことが出来る。其立ち場に立つて言うてゆけば、話が非常に簡単に進んでゆく。宮廷生活に依つて、民間の生活が見られると共に、邑落の生活から、逆に、宮廷の生活の古風を考へることが出来る。 邑落の生活、或は後々の貴族の生活で見ると、異人になつて来る者は、多く其家の主人であつた。其を接待する役は、其人に最《もつとも》血族関係深く、呪力を持つ女性が主として勤めてゐた。処が、日本の神道に於いては、女性の奉仕者を原則とするものゝ上に、更に、家長を加へたものが段々ある。其で宮廷に於いては、尠くとも天子は、大祭の際にはまれびと[#「まれびと」に傍線]であり、あるじであると云ふ矛盾した而も重大な立ち場に立たれる。此が宮廷に於ける主上が、祝詞を発せられる根本の理由だ。だから、祭事に参与する宮廷の高級巫女は、主上の御代役をしてゐる方面もある。 其宮廷の祭に於いても、主上が人々の上に臨んで宣布せられる詞章は、元《ハジメ》の代《ヨ》に、一度来臨した尊いまれびと[#「まれびと」に傍線]の発言せられた、と信じられて来たものなのである。其が、世が進み、社会事情が複雑になるにつれて、大同小異の幾種類かの呪詞を分化して来る。併しながら、其一番初めのものに近い形と考へられてゐるのは、詔書式に見えた朝拝の詔詞よりない。而も恐らく、此が主上の御躬づから発せられる詞章として、断篇化して残つたものと思はれる。其他の詞は、宮廷神人で、主上の御代役をした神主が、代宣することになつて行つた。延喜式の祝詞――此が現在残つてゐる最古い祝詞の一群を含んでゐる、といふ点に誤りはないが、其全体並びに、固定した一部分すらも、われ/\にはそんなに古いものだとは思へない。唯、其中には、古い種も存してゐると言へるだけだ。其が、われ/\にとつて、古い呪詞を考へる唯一の手がゝりである――によると、中臣|祝詞《ノリト》と、斎部《イムベ》祝詞の二種類の区分を考へてゐたのは明らかだが、其性質から見ると、平安朝に近づくに従つて、中臣の掌る祝詞は、天子の代宣なる形を見せて来、斎部の祝詞は、天子に奏上する精霊の側の詞章から、だん/\変化して来た跡が見える。而も、例外はあるが、主として伝来の古いといふ条件を示す「天つ祝詞」と言ふ語は、斎部祝詞に属するものに見えてゐる。さすれば、祝詞に関する信仰・知識は、延喜式のものは、非常に変化した形だと云はねばならぬ。だから、われ/\が祝詞を研究するには、現存の材料を考察するだけでは、結局無駄な努力になつてしまふのだ。 [#5字下げ]三 中語者の職分[#「三 中語者の職分」は中見出し] [#ここから2字下げ] 時天照大神誨[#二]倭姫命[#一]曰、是、神風伊勢国則、常世《トコヨ》之|浪《ナミ》[#(ノ)]重浪帰国也《シキナミヨスルクニナリ》。傍国可怜国也《カタクニノウマシクニナリ》。欲[#レ]居[#二]是国[#一]。故随[#二]大神教[#一]其祠立[#二]於伊勢国[#一]。因興[#二]斎宮于五十鈴川上[#一]。是謂[#二]磯宮[#一]。則天照大神始自[#レ]天降之処也。(垂仁紀) [#ここで字下げ終わり] 神と人間との間に立つて物を言ふ、後世の所謂中語に当る職分をしてゐた人たちには、尠くとも二通りの形のあつたことが考へられる。宮廷の尊貴な女性では、中天皇《ナカツスメラミコト》と申してゐる。即、神と神の御子なる主上との間に立つて、語をば持つ[#「持つ」に傍点]御方とするのだ。其から神なる人、主上と人間との間に立つて、同じ為事をするのが、所謂中つ臣、即、中臣である。而も、此中臣も意味広く、一氏族だけの職でなかつたのが、後に藤原氏を分出した中臣一族だけを考へる様になつたらしい。中臣の為事が、昔からそれほど高い地位を占めてゐたか、斎部とは比較にならぬ程重いものだつたかと云ふに、必しもさうは言へないのである。尤、後世の斎部氏の反撥的な主張は、古語拾遺其自身で見ても、歴史に対して無理会な、意味のない運動であつたが、古く溯れば、中臣氏の職分とさう判然たる区別があつたとも思はれない。 神と主上との間に、中介者のあつたことは述べて来た。と同時に、主上が神と人間との間に立つて、中語の御役目をなされた事も考へられる。其は、みこともち[#「みこともち」に傍線]と云ふ語によつて知れる。一体みこともち[#「みこともち」に傍線]は、古い文献には、既に地方官の高等な者、京官の下級の者などを示すことになつて、宰・大夫の字面を用ゐてゐるのが普通だ。が、其はみこともち[#「みこともち」に傍線]の用語例が、低い方に固定した為で、元は上から下まで次第々々に中語の役目を勤めることが、官吏の職であつた為、総べてをみこともち[#「みこともち」に傍線]と称した。其一番適切な証拠を示すものは、日本紀だ。尊・命と二様に書き分けてゐるが、みこと[#「みこと」に傍線]と云ふ語は、みこともち[#「みこともち」に傍線]の慣用から来た略語である。各階級に亘つて言うたからの区別である。だから、みこと[#「みこと」に傍線]なる語は、神から天子及び其以下の貴族にまで附くことになつてゐるのだ。即、其最明らかなのは、皇子《ミコ》の場合に窺はれる。天子の御代役を勤められる、謂はゞ摂政の位置に居られる方には、特別に皇子《ミコ》[#(ノ)]尊《ミコト》と称へてゐた。此は、他のみこと[#「みこと」に傍線]と、稍《やや》、語の内容が違ひ、皇子にして天つ神のみこともち[#「みこともち」に傍線]と云ふことである。 日の皇子《ミコ》の為の皇子尊よりも、更に高く位せられるのが、すめらみこと[#「すめらみこと」に傍線]でおありなされる。すめらみこと[#「すめらみこと」に傍線]が此世に降臨せられると云ふことは、天神の仰せを此土の精霊たちに伝へ、其効果を挙げることを期せられるのだ。だから、正確に信仰上の事実として云へば、春|天降《アモ》られた日の御子が、初《ハツ》春のみこと[#「みこと」に傍線]をみこともつて[#「みこともつて」に傍点]、扨、秋に至つて、みこともつた事の結果の覆奏《カヘリマヲシ》をなされる。其目的が次第に固定して来て、田のなり物の為にせられると云つた形になる。此覆奏が、即、まつる[#「まつる」に傍線]と云ふ語の最古の意義である。みこと[#「みこと」に傍線]に叶つた結果を御示しする事だ。唯、此まつり[#「まつり」に傍線]は、天神と関係を持つてゐる行事で、極めて古い伝来を尊重した結果、其行動と伝承の言語とを別に考へる様になつた。普通献上物をするからの祭りとは別な内容を持つと考へ、区別する為に政《マツリゴト》と称してゐる。覆奏詞《マツリゴト》をまをす儀だから、まつりごと[#「まつりごと」に傍線]と言ひ慣したわけだ。すべて、古い信仰上の語で言へば、食国政《ヲスクニノマツリゴト》の一つに帰する。だから、われ/\の国では、まつり[#「まつり」に傍線]・まつりごと[#「まつりごと」に傍線]と云ふ語は、根本に於いて経済的な意識を離れてはない。 日の御子が代り替りに此土に下られるのも、実は、食国政を行はれる為に過ぎないのであつた。尚《なほ》、日の御子の御職分としては、色々の聖なる行事のあつたことは考へられるが、其すべてをこめて、食国政と云ふ立場から解決してゐたのは、事実だ。此政をせられるのだから、主上、即、天つ神のみこともち[#「みこともち」に傍線]でいらつしやる。主上御自身が宣布せられる食国政に関する詞章は、恐らく極めて数の少いものだつたのが、次第に数を増し、段々対象が精霊・魂から人間に移つて行つた為に、主上の使はれる伝宣者には、宮廷に仕へてゐる神人を用ゐられる様になつた。即、みこともち[#「みこともち」に傍線]の逓下する原因が、こゝに出来たわけだ。其で、後世に於いても尚さうであつた様に、尠くとも、其詞を発してゐる間は、最初の発言者と同格の、尊い伝達者と同じ資格を持つてゐる事になるのだ。だから、詞章によつて、其人の社会的の地位も高まつたのだ。中臣の神主も、主上の伝宣を常にした為に、次第に其位置を高めて来た訣だ。宮廷における神主は、主上御躬らでなくてはならないのに、これを神主と称する様になつた。斎部の場合も、大体おなじ過程が考へられる。其外、中臣・斎部以外にも、天つ神並びに天子のみこと[#「みこと」に傍線]を持つ[#「持つ」に傍点]家々のあつた事は考へられる。即、其家の伝来の職業に関する呪詞で、天子から仰せられなければならぬものを、其団長或は族長から言ふ様になるのだ。其が同時に、それらの所謂|伴《トモ》[#(ノ)]造《ミヤツコ》が、沢山の部民を率ゐる原因になるのだ。其も亦かうした古代から家々に伝承せられた詞によつて生ずるところの力であつたのだ。其一番新しい変化したものを考へて見れば、奈良朝に近づくと、元来呪詞を用ゐる所を、其呪詞の中の要部たる歌を以て代へる風が盛んになつて来た。 かう言ふ古代生活の組織を最後まで持ちこたへてゐたのは、ものゝふ[#「ものゝふ」に傍線]の階級である。而も、われ/\に考へられる、さうした様式の最後の生活者たる大伴家持の作つた物には、宮廷の御趣意を族人或は部下に伝へる積りで作つた長歌がある。その一例は次章に挙げる。繰り返して言ふと、天子がみこともち[#「みこともち」に傍線]でいらせられる事の外に、宮廷の職員として、中臣・斎部が後世まで其俤を残したことは、既に述べたが、その外に更に、部曲々々に就いて、さうした意味のみこともち[#「みこともち」に傍線]たる宰領を奉じてゐたと言ふことが出来る。顕に見えてゐる事実を挙げると、安曇[#(ノ)]連の祖大浜[#(ノ)]宿禰が、諸地方の海部《アマ》の訕※[#「口+尨」、23-9](さはめき?)を平げた本縁によつて、海部を管理する家筋となつた。其で、海部の宰と称へたといふ。 かうして、第一次の発言者を主上とするみこともち[#「みこともち」に傍線]の用語例が、様々に岐れて来る。つまり、其伝来のみこと[#「みこと」に傍線]に依つて、其家の社会的地位は動かないのだ。処が、此呪詞が世を逐うて次第に変化し、独立すると同時に、みこともち[#「みこともち」に傍線]の呪詞としての意義は忘れて、其家独自に発生したものだ、と考へる様になる。其が更に、叙事詩化して、其種族の歴史・職業団体の歴史と云ふ風になつて来る。其一例として次の章を書いて見度い。 [#5字下げ]四 ものゝふの呪術[#「四 ものゝふの呪術」は中見出し] [#ここから2字下げ] 夏四月甲午朔。天皇幸[#二]東大寺[#一]。御[#二]盧舎那仏像前殿[#一]、北面対[#レ]像。皇后太子並侍焉。群臣百寮及士庶分[#レ]頭行‐[#二]列殿後[#一]。勑遣[#二]左大臣橘宿禰諸兄[#一]白[#レ]仏。三宝《サンバウ》[#(乃)]奴[#(止)]仕奉[#(流)]天皇[#割り注]羅我[#割り注終わり]命《ミコト》[#(ラマト)]盧舎那[#(ノ)]像[#(能)]大前[#(仁)]奏賜[#割り注]部止[#割り注終わり]奏[#(久)]。此大倭[#(ノ)]国者天地[#(ノ)]開闢《ハジメ》[#(ヨリ)]以来[#(爾)]黄金[#(波)]人国[#割り注]用理[#割り注終わり]献言[#(波)]有[#割り注]登毛[#割り注終わり]斯地者無物[#(止)]念[#割り注]部流仁[#割り注終わり]聞看食国中[#(能)]東方陸奥国守従五位上百済王敬福[#(伊)]部内少田郡[#(仁)]黄金出[#「出」は罫囲み]在奏[#(弖)]献。此[#(遠)]聞食驚[#(伎)]悦[#(備)]貴[#(備)]念[#割り注]久波[#割り注終わり]盧舎那仏[#(乃)]慈賜[#(比)]福《サキ》[#割り注]波閇[#割り注終わり]賜物[#(爾)]有[#(止)]念[#(閇)]受賜[#(里)]恐[#(理)]戴持、百官[#(乃)]人等率[#(天)]礼拝仕奉事[#(遠)]挂畏《カケマクモ》三宝[#(乃)]大前[#(爾)]恐[#(美)]恐[#割り注]美毛[#割り注終わり]奏賜[#割り注]波久止[#割り注終わり]奏。」従三位中務卿石上朝臣乙麻呂宣。現神御宇倭根子天皇[#「現神御宇倭根子天皇」に白丸傍点]詔|旨宣《ラマト》大命親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞食宣。高天原[#(爾)]天降坐[#(之)]天皇御世[#(乎)]始[#(天)]中今[#(爾)]至[#割り注]麻弖爾[#割り注終わり]天皇御世御世天日嗣高御座[#(爾)]坐[#(弖)]治賜[#(比)]恵賜来[#(流)]食国天下[#(乃)]業[#割り注]止奈母[#割り注終わり]神奈我良[#(母)]所念行[#割り注]久止[#割り注終わり]宣大命衆聞食宣。加久治賜[#(比)]恵賜来[#(流)]天日嗣[#(乃)]業[#(止)]、今皇朕御世[#(爾)]当[#(弖)]坐者、天地[#(乃)]心[#(遠)]労[#(弥)]重[#(弥)]辱[#(美)]恐[#(美)]坐[#(爾)]聞食食国[#(乃)]東方陸奥国[#(乃)]小田郡[#(爾)]金出在[#(止)]奏[#(弖)]進[#割り注]礼利[#割り注終わり]……中略……又大伴佐伯宿禰[#(波)]常[#(母)]云如[#「如」は罫囲み][#(久)]天皇朝守仕奉事顧[#割り注]奈伎[#割り注終わり]人等[#(爾)]阿礼[#(波)]汝[#「汝」に白丸傍点][#割り注]多知乃[#「多知乃」に白丸傍点][#割り注終わり]祖《オヤ》[#割り注]止母乃[#「止母乃」に白丸傍点][#割り注終わり]元来[#「元来」に白丸傍点][#白丸傍点][#(久)][#白丸傍点終わり]海行[#「海行」に傍点][#傍点][#(波)][#傍点終わり]美豆[#「美豆」に傍点][#傍点][#(久)][#傍点終わり]屍[#「屍」に傍点]。山行[#「山行」に傍点][#傍点][#(波)][#傍点終わり]草牟[#「草牟」に傍点][#傍点][#(須)][#傍点終わり]屍[#「屍」に傍点]。王[#「王」に傍点][#傍点][#(乃)][#傍点終わり]幣[#「幣」に傍点][#割り注]爾去曾[#「爾去曾」に傍点][#割り注終わり]死[#「死」に傍点][#傍点][#(米)][#傍点終わり]。能杼[#「能杼」に傍点][#割り注]爾波[#「爾波」に傍点][#割り注終わり]不死[#「不死」に傍点][#傍点][#(止)][#傍点終わり]云来[#「云来」に傍点][#傍点][#(流)][#傍点終わり]人等[#割り注]止奈母[#割り注終わり]聞召[#(須)]。是以遠天皇御世始[#(氐)]、今朕御世[#(爾)]当[#割り注]氐母[#割り注終わり]、内兵[#(止)]心中《オモホシメス》[#割り注]古止波奈母[#割り注終わり]遣[#(須)]。故是以子[#(波)]祖[#(乃)]心成[#割り注]伊自[#割り注終わり]子[#割り注]爾波[#割り注終わり]可在此心不失[#割り注]自氐[#割り注終わり]明浄心以[#(弖)]仕奉[#割り注]止自氐奈母[#割り注終わり]男女并[#(氐)]一二《ヒトリフタリ》治賜[#(夫)]……下略……(続日本紀、聖武紀)     賀[#二]陸奥国出[#レ]金詔書[#一]哥一首[#(并)]短歌 葦原能美豆保国乎 安麻久太利之良志売之家流 敝売呂伎能神乃美許等能、御代可佐禰、天乃日嗣等之良志久流、伎美能御代御代 之伎麻世流四方国爾波、山河乎比呂美、安都美等、多弖麻豆流御調宝波、可蘇倍衣受、都久之毛可禰都。之加礼騰母、吾大王能毛呂比登乎伊射奈比多麻比、善事乎波自米多麻比弖、久我禰可毛 多能之気久安良牟登 於母保之弖、之多奈夜麻須爾、鶏鳴 東国能美知能久乃小田在山爾、金有等麻宇之多麻敝礼、御心乎安吉良米多麻比、天地乃神安比宇豆柰比、皇御祖乃御霊多須気弖、遠代爾可可里之許登乎。朕御代爾安良波之弖安礼婆、御食国波左可延牟物能等、可牟柰我良於毛保之売之弖、毛能乃布能八十伴雄乎、麻都呂倍乃牟気乃麻爾麻爾、老人毛女童児毛、之我《シガ》願心太良比爾、撫賜治賜婆、許己乎之母安夜爾多敷刀美、宇礼之家久伊余与於母比弖、大伴能遠都神祖乃其名乎婆[#「大伴能遠都神祖乃其名乎婆」に白丸傍点]、大来目主登於比母知弖[#「大来目主登於比母知弖」に傍点]、都加倍之官[#「都加倍之官」に傍点]。海行者美都久屍[#「海行者美都久屍」に傍点]。山行者草牟須屍[#「山行者草牟須屍」に傍点]。大皇乃敝爾許曾死米[#「大皇乃敝爾許曾死米」に傍点]。可弊里見波勢自[#「可弊里見波勢自」に白丸傍点]等許等太弖、大夫乃伎欲吉彼名乎、伊爾之敝欲伊麻乃乎追通爾、柰我佐敝流於夜能子等毛曾[#「曾」に白丸傍点]。大伴[#「大伴」に白丸傍点]等佐伯氏[#「佐伯氏」に白丸傍点]者、人祖乃立流辞立 人子者祖名不絶[#「祖名不絶」に傍点]、大君爾麻都呂布物能等 伊比都雅流許等能都可佐曾。梓弓手爾等里母知弖、劔大刀許之爾等里波伎、安佐麻毛利[#「安佐麻毛利」に白丸傍点] 由布能麻毛利爾[#「由布能麻毛利爾」に白丸傍点]大王能三門乃麻毛利[#「三門乃麻毛利」に白丸傍点] 和礼乎於吉弖且比等波安良自等、伊夜多弖於毛比之麻左流。大皇乃御言能左吉乃聞者貴美 (反歌)大夫能、許己呂於毛保由。於保伎美能美許登能佐吉乎聞者多布刀美  大伴能等保追可牟於夜能於久都奇波、之流久之米多底。比等能之流倍久  須売呂伎能御代佐可延牟等 阿頭麻奈流 美知能久夜麻爾、金花佐久   天平感宝元年五月十二日。於[#二]越中国守館[#「越中国守館」に傍点][#一]大伴宿禰家持作之。(万葉集、巻十八) 朝[#(波)]開[#レ]門夕[#(波)]閉[#レ]門[#(弖)]、参入罷出人名[#(乎)]問所知[#(志)]、咎過在[#割り注]乎波[#割り注終わり]……(御門祭。祝詞式) [#ここで字下げ終わり] ものゝふ[#「ものゝふ」に傍線]の用語例には、大和宮廷の溯れる限り古い時代から、近代までの所謂武家なるものを、完全に含んでゐると考へられてゐる。処が、ものゝふ[#「ものゝふ」に傍線]なる語がある時代に飛躍して、内容が変化をして了つてゐる事に、注意しないで居るのである。即、平安朝中期以後階級的に認められて来たものゝふ[#「ものゝふ」に傍線]は、実は語自身既に擬古的で、内容は変化して了つてゐる。其で、其以後の武家に関した知識を以てしては、最近い平安の宮廷武官の生活に対してすら、理会の出来ないところが多い。 虚心平気な、文献による研究は、平安朝の生活に思ひがけない古代が保存せられ、印象せられてゐる事に心付く筈である。家常茶飯として、特に伝へる必要を感じなかつた古代生活が、奈良朝以前の記録に漏れて来た理由は、考へ難くない。唯、其が、たま/\平安朝に引継がれて、固定して存してゐた部分の、特殊な取り扱ひを受けねばならぬ程、変つた様式と考へ出されるのだ。其が却つて、近代からは、其時代に始まつた為に、文献に見え出したと考へられてゐる様だ。だが、さうした考へこそ、すべての歴史観に立つ学問から、取り除けられねばならぬものだ。こゝには其一つとして、ものゝふ[#「ものゝふ」に傍線]並びにかんだちめ[#「かんだちめ」に傍線]について説かうと思ふ。 ものゝふ[#「ものゝふ」に傍線]は宮廷並びに公式の祭時に当つて、音楽・舞踊、即、古代の語で云へば、神遊びに属するものに深い関係を持つてゐる。原則として、宮廷武官・六衛府の官人其他が関係する訣である。而も、それらの中の指導者と言ふべきものを、ものゝふし[#「ものゝふし」に傍点]と称へてゐる。同時に此語が、曲節など云ふ意義をもつてゐなかつた事は明らかだ。必、ものゝふ[#「ものゝふ」に傍線]を根幹としてゐる語だと云ふ見当に、誤りがあるまい。王朝中期以後次第に京都に勢力を得た武士は、もと大番として、或は貴族の随身として、召されたものなのである。この様に宮廷や公家《クゲ》の附属であつたものが、武官の所属として、其主人が随勢を得るに従つて、位置を高めて来たわけだ。其主君と言ふべきものは、王氏で、古代以来のものゝふ[#「ものゝふ」に傍線]の形式を襲いだのが多かつた。此等の古代のものゝふ[#「ものゝふ」に傍線]の職分には、深く呪術に亘る所があつた。譬へば、ものゝべ[#「ものゝべ」に傍線]は汎称で、其中最有力なものゝべ[#「ものゝべ」に傍線]が、固有名詞化する程認められて、所謂|物部連《モノヽベムラジ》を形づくつた訣だ。従つて、其他にも、骨《カバネ》を異にする物部が非常に多かつた。其為に自然の差別が行はれて、物部氏に対して、ものゝふ[#「ものゝふ」に傍線]と云ふ音韵の分化した語が行はれる様になつたのだ。ものゝふ[#「ものゝふ」に傍線]の義を含んだ物部には、時代々々の隆替があつて、その第一等に位する物部は、必しも同一氏を意味してゐなかつた。最古い物部は、所謂久米氏を指してゐた様だ。其が文献時代に栄えて来た所謂物部氏の専有に帰して後、更に数次の変化を重ねて、大伴氏が、物部の最上の様な形をとる事になつたのだ。 宮廷に於けるものゝふ[#「ものゝふ」に傍線]には、尚、後世王氏の配下となつた武家の源流と見るべきものがある。必しもものゝふ[#「ものゝふ」に傍線]の家々に附属するものでなく、個々別々に発生したものと見る事が出来る。即、神話を基礎とする伝統から離れた、別様のものゝふ[#「ものゝふ」に傍線]である。所謂|舎人《トネリ》が此だ。国家の旧伝から見ても、すべてのものゝふ[#「ものゝふ」に傍線]は、実は高天原以来の聖職ではなく、神及び神なる人が、此土に於いて征服なされた部族の、呪術及び其威力の根元たる威霊を以て、奉仕せしめられた事から始まつてゐるのは、事実だ。歴史から見れば、物部氏の祖神を饒速日《ニギハヤヒ》[#(ノ)]命だと説いて、もと天つ神の御子だと説明してゐるが、物部氏の被征服者である事は事実だ。更に久米氏の祖先にしても、亦此と混乱重複して説かれてゐる大伴氏の祖先にしても、古代に於ける合理化の部分を取り除けば、帰服した部族だ、と言ふ事が出来る。さういふ従属を誓つて、宮廷を護衛し、主上の健康を保持しようとする呪術をもつてゐるものがものゝべ[#「ものゝべ」に傍線]なのである。 ものゝべ[#「ものゝべ」に傍線]のもの[#「もの」に傍線]が、霊魂であることには疑問はない。更にわれ/\が云はうとする物語――叙事詩――なる語が、やはり霊魂の感染であるらしい。祝詞や宣命に現れる物知《モノシリ》なる語も、精霊の意志を判断する人と云ふ事である。其もの[#「もの」に傍線]の利用のうち、強い霊魂を所持する部族が其威力を持つて、来り襲ふ他の種族の守護霊を駆逐する職が、ものゝべ[#「ものゝべ」に傍線]と言ふ事になるのだ。さうしたものゝ信仰が最大切に考へられて、専、其に関した聖職を物部が奉仕する、と考へられる様になつたと見ねばならぬ。 ものゝべ[#「ものゝべ」に傍線]の文学に関与してゐる側から云ふと、物部氏の複姓なる石《イソ》[#(ノ)]上《カミ》に附属した呪術は、古代に於ける各種の鎮魂法のうち、最重く見られる筈の長い伝統と、名高い本縁とを持つてゐたのだ。さうして、其鎮魂に伴ふ歌が、叙事詩に対する呪詞と同じ意味の新しい形であつた。世に伝るところの鎮魂歌は、大体に於いて、石[#(ノ)]上系統のものと見てよからうが、尚若干の疑問がある。古い鎮魂歌の替へ歌とも称すべきものが処々に散見してゐる。 [#ここから2字下げ] 虎にのり 古家《フルヤ》を越えて、青淵に鮫龍《ミヅチ》とり来む 劔大刀もが「境部王詠数首物歌」(万葉) [#ここで字下げ終わり] かうした一種の創作も、平安朝まで残つて鎮魂歌――即、神楽歌の替へ歌――として用ゐられた、 [#ここから2字下げ] 石[#(ノ)]上ふるやをとこの大刀もがな。くみのを垂《シ》でゝ、宮路《ミヤヂ》通はむ(拾遺) [#ここで字下げ終わり] の歌を参照すると、時代は前後してゐるに拘らず、一方には遥かに古い形が残り、他方には其非常に変化した姿を出すと云つた、民間伝承の特異性を示してゐる。其と共に、万葉の歌が拾遺の歌によつて、稍《やや》原意を辿る事が出来さうだ。 [#ここから2字下げ] 是に二嬪恒に歎きて曰く、悲しきかも、吾が兄の王、いづくに行きけむと。天皇、其歎きを聞きて、問ひて曰く、汝、何ぞ歎けると。対へて曰く、妾が兄・鷲住王、為人、強力軽捷なり。是によりて、独り八尋屋を馳せ越えて遊行《ユギヤウ》し、既に多日を経て面言することを得ず。故に歎くのみ……(履仲紀) [#ここで字下げ終わり] 同時に、ふる[#「ふる」に傍線]の呪術から導かれたふるや[#「ふるや」に傍線]なる語が、更に一方には、八尋屋といふ風に誇張せられてゐた事が察せられる。前に挙げた三つの例は、密接に続いてゐるのでないが、此等によつて見ても、鎮魂の歌や其章曲が、いろ/\に岐れて行く筋道は考へられる。而も物部の表面に現はれた一番大切な為事は、宮門を守ることであつた。其が推し拡げられて宮垣・宮苑を守ることになる。其に対して、新しく宮中に入つた舎人系統のものゝふ[#「ものゝふ」に傍線]は、――其組織から見れば、さう言へないだらうが――宮殿の上に侍した、と言ふ差別があるのだ。此が平安の宮廷其他の御所に、種々な名目の武官が居ることになつた理由だ。大体に於いて、此二種類のものが、衛府の人々になるのである。 舎人のことは姑《しばら》くおいて、ものゝふ[#「ものゝふ」に傍線]の最後に深い印象を留めた大伴氏は、其名称自身が、宮門を意味してゐた。従つて其守護の記念として残つたものが、平安京の応天門である。此が、普通正門と考へられてゐる朱雀門と同じ意義の重複したものだ。 [#ここから2字下げ] ゆぎかくる伴緒ひろき おほともに、国栄えむと、月は照るらし(詠月。万葉集) [#ここで字下げ終わり] 所謂大伴門(朱雀門)に月のさしてゐる有様を、讃美詞《ホメコトバ》に移したものであると共に、大伴氏自身に関係の深い歌だと言ふことは明らかである。 万葉集巻五にある憶良の「令[#レ]反[#二]惑情[#一]歌」(神亀五年作か)の如きも、聖武天皇の詔詞を飜訳したものなることは明らかだ。其と同じ系統で、更にそのなり立ちを明らかにしてゐるものは、大伴家持の「賀[#二]陸奥国出[#レ]金詔書[#一]歌」である。即、同年の宣命と割り符を合せる様になつてゐる。恐らく此時代には、詔詞が発せられると、族長・国宰の人々は、かうした形式で、己が部下に伝達したものと思はれる。其と同時に、その氏・国の特殊な歴史と結びつけて表す風があつたのである。かう云ふ考へ方から、万葉の長歌を見てゆくと、其本来の意味のはつきりして来る物が、もつとあるかと思ふ。古いところで云つても、藤原奠都の時の役民歌・御井歌などは、呪詞の飜訳と言ふことの出来るものである。或は既に、呪詞なくして、長歌ばかりがその用に製作されてゐたかも知れない。殊に「藤原[#(ノ)]御井[#(ノ)]歌」に至つては、宮地讃美の歌ではあるが、根本に於いて東西南北の門讃美の形をとつてゐる点に、注意を要する。 ものゝふ[#「ものゝふ」に傍線]の普通の用語例には入つて来ない部族に於いても、場合によつて、ものゝふ[#「ものゝふ」に傍線]の職に当ることがあつたらしい。猿女氏の男が宮廷の守衛に当つたりする場合がそれである。 所謂斎部祝詞の中、御門祭の祝詞の如きは、かなり後世風な発想法を交じへてゐるが、此から推して窺へるのは、必、古く、物部によつて同じ系統の呪詞が用ゐられてゐた事だ。この稍古式を残してゐる詞に於いてすら、「相ひ口|会《アヘ》たまふことなく……」とあるのを見れば、相手の口誦する呪詞にうち負け、うち勝つことを問題にしてゐた事が訣る。後々までも、「物|諍《アラソ》ひ」なる語が、さうした言語詞章の上に輸贏を争うたあとを示してゐる。宮門に於いて人を改める時に、かうした呪詞のかけあひのあつたことが思はれる。又、神武天皇・饒速日[#(ノ)]命の神宝比べの物語は、其に先行してゐる呪詞の存在を思はせる。単に天神から双方に授与せられた弓矢の符合したと云ふだけではなく、宮廷を守る霊音を寓《ヤド》す弓矢の大きさ・質の同じものであつたことを主題とした、叙事的な呪詞があつたのだらう。だから、ものゝふ[#「ものゝふ」に傍線]の中心勢力が変り、弓矢の用材が変つても、依然として同じ部族・同じ兵器の名を伝へる習慣が出来て来たのだ。即、饒速日[#(ノ)]命の物語は、物部の宮廷を守る聖職の本縁を説いたもの、即、其霊力を説き示すものなのである。だから、妻えらびの場合にも、ものゝふ[#「ものゝふ」に傍線]が其主君の為に、中介の詞を発した様だ。此名告りの物諍ひに言ひ勝つ事が、其主の妻を定めることになる。一方物諍ひは、戦争をも意味してゐる。単なる口諍ひ以外に、相手の女性――各邑落の高級巫女――の奉仕する威霊との争闘を行ふ訣だ。其為に譬へば、播磨風土記に殊に多い男神・女神の結婚に関する伝説が残つた訣だ。求婚に随伴する名告りの式が、戦争開始の必須条件として後世まで残つた。此威霊同士の名告りに勝つか負けるかゞ、戦争全体の運命に関はるものと信じてゐたのだ。物部の為事を遂行するには、条件として呪詞が必要であつた。だから、当然八十氏と汎称せられた物部たちは、呪詞並びに其分化した叙事詩を伝承することが、各氏の威力を保持する所以でもあつたのだ。 扨《さて》、一方舎人に就いて言へば、此は臨時奉仕の意味をもつた召人《メシウド》である。原則的には、任期満了後其本貫に帰り、或は宮廷の指令によつて、他郷に赴くこともあつた。さうして、大舎人部なる部曲を各地に残した。概して云へば、大舎人部は日祀部《ヒマツリベ》或は日置部と相関聯して居り、暦日・天候・祈年の事を司ると共に、其に絡んだ呪詞を宣布した迹が見える。すさのをの命[#「すさのをの命」に傍線]の天つ罪を中心としての神話は、殊に、此等の部曲人の称へた天つ祝詞の、叙事詩化したものだ、と見られる。舎人の意義は平安朝に至つて変化はして来てゐるが、其でも舎人特有の文学が附随してゐたことは明らかだ。即、風俗歌を奉る形式となつて残つたのから見ると、其本貫に於ける呪詞・叙事詩の類を宮廷の儀礼に称へて、主上を祝福した事が窺はれる。平安宮廷の歌合せの原《もと》となり、而も形式化して残つた歌会始の式を見ても、舎人と共に、女の召人なる采女が中心となつてゐた事が思はれる。 采女に就いては、巫女の生活の条にも詳しく述べることは出来まいから、簡単に要点を云ふ。職分及び其由来不明な釆部《ウネメベ》と称するものも、亦解任後の采女を中心とした団体で、同時に宮廷から伝へた呪詞・叙事詩によつて、其呪力を以て地方の邑落を化導して行つたものだ。譬へば、雄略紀の三重[#(ノ)]采女・万葉集の安積山[#(ノ)]采女の物語の如きは、怒り易き威力あるまれびと[#「まれびと」に傍線]を慰撫する意味の言語伝承を持つてゐたと思はれる。 [#5字下げ]五 侏儒の芸能[#「五 侏儒の芸能」は中見出し] [#ここから2字下げ] おほみやのちひさことねり。玉ならば、昼は手にすゑ、夜は纏《マ》きねむ(神楽歌譜) [#ここで字下げ終わり] 舎人に対して、やはり早くから侏儒が召されてゐる。必しも世界宮廷共通の弄臣としての意味許りでなく、尚幾分の特殊性が見られる様だ。其が後に先進国の宮廷の風に合理化したに過ぎないのだらう。所謂小舎人、或は小舎人童と称せられる者の古い形がそれだ。普通侏儒をひきひと[#「ひきひと」に傍線]或はひきうど[#「ひきうど」に傍線]と云ふ様だが、此は宮廷に仕へた場合の称号なのだ。小舎人に当るものが、高低二種類に岐れて、其貴族の子弟の殊に、臨時に召されることを童殿上と云つた。小さ子の侏儒であることを早く忘れて、伝承の形の変化したのが、小子部[#(ノ)]連蜾※[#「羸」の「羊」に代えて「果」、33-10]に関した侏儒の本縁だ。国内の蚕を聚めゝされたのを聴き誤つて、嬰児を聚めて、天皇に奉つた為に、「汝自ら養ふべし」と仰せられたので、宮墻の下に養ふことになつた。それで小子部[#(ノ)]連の姓を賜つた、と伝へられてゐる。此文の嬰児が、単なる小児でなく、侏儒であつた事は蜾※[#「羸」の「羊」に代えて「果」、33-12]に関する他の伝説からも説明が出来る。舎人に対して、小舎人であり、其が小さ児なることを明らかに示す為に、小さ子舎人と云つた風があつたらしい。 先の神楽歌は、其以前の生活を印象してゐる他に、別様の意義に考へられてゐたものだらう。恐らく五節・淵酔の様な場合の即興歌として歌はれたものと思はれる。此殿上童或は小舎人の起原は、もと家屋の精霊として考へられてゐたのだ。殿舎を祓へ、祝福する場合に、最重要な位置を占めるものと思はれる。此信仰の古いものは、縮見《シヾミ》[#(ノ)]細目の家の新室《ニヒムロ》[#(ノ)]宴《ウタゲ》にまれびと[#「まれびと」に傍線]久米部[#(ノ)]小楯の為に遊び歌はれた二皇子の伝説の如きものが、其適例を示してゐる。殊に其末に、殊舞をなすとあるのは、侏舞の通用或は誤字である。此につけたたづゝまひ[#「たづゝまひ」に傍線]なる訓註を「立ちつ居つの舞」の義に説いてゐるのは誤解であらう。日本紀では、二小皇子の歌舞を複雑に伝へてゐる。此点に於いて、小舎人・侏儒の芸能の様々な種目のあつたことが考へられる。 侏儒の起原を説くものらしい少彦名[#(ノ)]命に就いても、其常世の国に対する事と共に説かねばならぬ部分が多い。 [#5字下げ]六 巫女から女房へ[#「六 巫女から女房へ」は中見出し] [#ここから7字下げ] 天皇賜[#二]志斐嫗[#一]御歌一首 [#ここから2字下げ] 不聴跡雖云、強流志斐能我強語 比者不聴而、朕恋爾家里 [#ここから7字下げ] 志斐嫗奉[#レ]和歌一首 [#ここから2字下げ] 不聴雖謂、話礼話礼常詔許曾、志斐伊波奏。強話登言(万葉集) [#ここで字下げ終わり] 実の処、私の古い考へでは、日本文学の源を、専、巫女の託宣に置いてゐた。又、其程、重要な位置を信仰上に占めてゐたのだ。けれども、託宣は遅れて発達してゐるもので、文学の発生時代に置く事は出来ない。巫女の職分であつた事の、男覡の為事となり代つて行つたのもあるだらう。或は、巫女自身が神の妻であるとする信仰から、神と巫女とを混同した多くの例があるから、巫女の仕へる神の業《ワザ》事が巫女の為事となり、同時に神になる事の出来た男性の業も、これに並行して来た迹は十分見られる。 日本に於いては、巫女の勢力の盛んであつた時代が古く且つ長い。宮廷・貴族・国主の家々には、階級的に多数の巫女がゐる。国主・貴族の最上級の巫女が、宮廷に召されて、更に其上に、幾段かの巫女を戴いて、宮廷の神に仕へる。宮廷に於いては、原則として、王氏の巫女と、他氏の巫女とが対立してゐた。後次第に、他氏の巫女が栄えて、王氏の方は衰へて来る。それは、神なる人の主上に仕へる意味に於いて、人間生活の上にも勢力を得たので、宮廷の神に、専仕へるのが、王氏の巫女の為事であつた。とりわけ、当|今《ギン》の皇女は、平安朝に至るまでも、結婚の形式を以て嫁することが出来なかつたのは、総て巫女の資格を持つて、生れて来られるものと考へたからだ。かうした高級巫女に入らせられる方々が、伊勢・加茂の斎宮・斎院以外には、著しくはなくなつて来た。宮廷の神に奉仕するものは、多く国々から召された者の為事となつた。此さへも、時代によつて其階級観に移動があつた。もと汎称的に、而も高い意味に用ゐた諸国の大巫女なる采女が、後には低く考へられた。併し、もと、宮廷には、最高の巫女の外に、家々から奉られた巫女、国々から奉られた巫女が多かつた。其中、神事にたづさはつてゐる者よりも、神なる人に接近してゐる者の方が、位置を高めて来た。即、此意味において、王氏の女よりも、他氏の女の方が、後宮に高い位置を獲るに到つたのだ。更に低いもので見れば、采女であつた女官の中から、女房なる神事以外の奉仕者が現れて来、聖職に与る者は、其下に置かれる様になつた。此は、略《ほぼ》、平安朝初期に起つた信仰の変化である。 王氏の高級巫女に就いては、種々な伝承はあるが、其中斎宮に関するものは、倭媛[#(ノ)]皇女が、宮地を覓めて歩かれた物語が、同時に歴代斎宮の群行の形式を規定してゐる。かうした色々の過去の事実と信ぜられたものが、高級巫女の掟となつた。さうした掟を感得せしめ、聖なる人格を作らせる者があつたのである。其最著しく職業意識を生じたものが、一つの部曲を形づくつた。其存在した処もあり、又其様式を完成せずに了つた処もあるらしいが、所謂語部の実際存在した事は疑はれぬ。巫女と男覡の職分が、交錯してゐる場合が多いのだから、処によれば、男を語部の主体と認めた処もある様だが、概して女性が語部の本職を保ち、戸主でもあつた。此が宮廷式なのである。 呪詞を伝承して暗記させてゐる間に、其主君の皇女・皇子たちに呪詞の含むところの言霊《コトダマ》が作用して、呪詞の儘の力を持つ人とならしめるものと考へた。高級巫女或は、神人を作る為の伝承の為事を、下級の巫女がもつ訣である。 巫女・男覡に限らず、目上の人を教育する力は、信仰上ないものと考へ、唯《ただ》其伝承詞章の威力をうつさうとしたのだ。意識なしにした言語教育であつた。第一には、呪詞に籠る神の魂を受け取り、第二には、叙事詩として、其詞の中に潜んでゐる男性・女性の優れた人の生活が、自分の身にのり移つて来るものと考へ、第三には、自ら知識が其によつて生ずる。かういふ風に、次第に教育的意義を持つて来る訣である。其と共に宮廷に仕へる諸家・諸国出の巫女が、其家・国に伝へた呪法と呪詞・叙事詩を奏する。此が宮廷の文学を発達させる原因になつた。即、諸氏の伝へる所と、宮廷の伝へとがすべて関聯して来る訣だ。采女以外にも、臨時に召された巫女は、平安朝までも残つてゐた。中臣女・物部女などが、其だ。更に宮廷の所在地である大和から出る巫女は、大巫《オホミカムコ》と言はれてゐる。此等もやはり、宮廷の伝承を育てる為事をした、と思はれる。専門的な名称としての語部ではないが、此等の巫女の職分が同様の事であつたのは察せられる。其うち最、語部としての為事に与つたのは、猿女氏である。猿女氏の祖神と信じられてゐる天[#(ノ)]鈿女[#(ノ)]命に関聯した物語は、即、猿女が伝へたものと言ふことが出来る。神代巻に於ける事件のうち、毫も、鈿女命に関係のないところを除いても、尚、宮廷伝承の大部分は猿女氏の伝への与つて居る事が考へられる。猿女氏の伝承がどうして保存せられたかと言ふに、其鎮魂――鈿女[#(ノ)]命以来といふ――並びに鎮魂歌に関聯して、物語が伝承せられて居たためである。唯、猿女氏に限らず語部の後の姿は、威力ある鎮魂歌に就いて、其本縁を語るところの叙事詩を諷誦した事である。だが、此は逆に考へて、語部其物及び宮廷其他の儀礼が衰へた為に、かうした事になつたので、もとは、語部が叙事詩を語り、其一部分として歌が生じたものと思ふ方が順道らしい。 高級巫女であると同時に、姫神となる資格を齎《もたら》しめる様な教育の役をするのが、後代の女房となつたのだ。だから、語部には、男と女と両方あつたらしい。先輩も、亦私も、語部は女ばかりだと考へてゐたのは、多少の訂正を要する。古代の邑落生活様式の、宮廷に帰一せられて来るのは、普通だが、必しもすべてが同じだとは言へない。やはり、別々の姿を保存してゐた。だが、大体に於いて、さうした為事が、女のものであつたことは争へない。 語部の語原に関聯して、かたる[#「かたる」に傍線]とうたふ[#「うたふ」に傍線]との区別を唯一口申したい。うたふ[#「うたふ」に傍線]は抒情詩、かたる[#「かたる」に傍線]は叙事詩を諷誦することであつた。かたる[#「かたる」に傍線]の再活用かたらふ[#「かたらふ」に傍線]の用語例が、その暗示を与へて居ると思ふ。かたらふ[#「かたらふ」に傍線]は言語によつて、感染させて、同一の感情を抱かせると云ふことである。で、私はかたる[#「かたる」に傍線]・かたり[#「かたり」に傍線]が、古代人の信仰に於いて、魂の風化を意味してゐるのだと思ふ。 簡単にまう一度、前に述べた事をくり返すが、言霊は、一語々々に精霊が潜んでゐることだとする人が多い。だが、此は誤解だ。ことば[#「ことば」に傍線]とことのは[#「ことのは」に傍線]とが対立してゐる如く、やはり、こと[#「こと」に傍線]とことば[#「ことば」に傍線]とでは違ふ。こと[#「こと」に傍線]と云ふことは、一つのある連続した唱へ言・呪詞並びに呪詞系統の叙事詩と云ふことだ。かたる[#「かたる」に傍線]と対照的になつてゐる方面のあるとなふ[#「となふ」に傍線]といふ呪詞に関した用語も、実は徇《シタガ》へる義だ。言霊は呪詞の中に潜んでゐる精霊の、呪詞の唱へられる事によつて、目を覚まして活動するものである。呪詞が断片化した諺にも、又叙事詩の一部分なる「歌」にも、言霊がは入つてゐると信じたのである。つまり、完結した意味をもつた文章でなければ、言霊はないことになる。 尠くとも日本人と一つ系統から分岐した沖縄人は、国王に物を教へなかつた。此が、日本と沖縄と運命の岐れて来た理由だ。従つて、沖縄には、優れて立派な国王も居り、また暗愚な国王も出た訣だ。此は、日本紀の記述などにも、怖しい暗示がある。日本では、主上に教育申し上げる事は出来ないが、主上は詞を覚え、或は、聴かなければならなかつた。其によつて教育されると同じく、主上に他の魂、教育的なまなあ[#「まなあ」に傍線](外来魂)が憑いた。飛鳥朝の末頃から、儒学による帝王・王氏の教育は始まつたと言うてよい。其国語の詞章について行はれたのは、平安朝にはじまると言つてよい。此二つの教育法が、源[#(ノ)]順の倭名抄、源[#(ノ)]為憲の口遊《クイウ》と云ふ様な種類のものを生じたわけだ。同時に女の方を見ても、清少納言の枕草子などは、偶然一つだけ出来たのではなく、同種のものが沢山あつたのだ。覚えなければならない語を――此頃になると、歌・諺以外にも、単語などを含む様になつた――授ける事に努めた。物語を読んで聴かせることも、手習ひさせる事も、皆さうした教育法なのだ。詞を書いて其を読ませ、絵解きをすることも、同じ理由から出て拡つて来たもの、と考へてよい。此処では便宜上、平安朝から溯つて云うて見たい。 一番気をひく事は、難波津・安積山の歌などが、手習ひに使はれた上に、現に曾根好忠などの集には、其が更に展開してゐる。一体手習ひといふと、左右の手を考へるが、此「て」には、一種の意味があるのだらう。われ/\は書法の手を考へるが、音楽・舞踊の方でも手と云ふ語を盛んに用ゐてゐる。つまり、一種の魂に関係のある語で、魂が身に寓ると、其によつて身体の一部分の働き出すことが、「て」であり、其現れる部分を手と考へたらしい。さうして、其を完成する為に、習熟することが、ならふ[#「ならふ」に傍線]なのだ。手を習ふと同時に、読むのを聴き、自分も読む。此三方面から自分の魂を風化する事に勉めた。宮廷の女房たちは、采女の中実際の神事から遠のいて、神人に入らせられる主上並びに其外の方々の後見をした者が多いのだ。此等の人々の為事が、平安朝の文学を育てる原動力となつたのだ。所謂王氏・貴族の人として、知らなければならない事柄を教へるところに目的がある。これを昔風に云へば、さう云ふ知識を持つ事によつて、其人の位置を保ち、実力を発揮すると考へてゐたのだ。だから、平安朝になつても、国々に伝つてゐた風俗歌《クニブリ》・諺或は、其系統の成句を教育の主題にしてゐた。此等の女性は、外にまだいろ/\な為事をしてゐる。後世まで関係のある事で云へば、日記を書き、其中に歌・物語をも記しつけた。尚古くから引き継いだ為事で、此期に残つたものは、其等の女性は主上の御詞を其儘記録して、半公式に発布してゐる事だ。此は、古代に於ける宮廷の女官の職分を明らかに示してゐることである。此点から見れば、主上並びに大貴族には、その成長後も尚、巫女の資格から出て、後世の所謂女房になつて行くものが附いてゐて、詞を伝達即、みこともち[#「みこともち」に傍線]したのだ。女性の口及び手を経て宮廷の宣命の類が発布せられたのが、古風に違ひない。其が段々変化して、太政官其他の手を経るのが公式だ、と考へられて来た。而も其上に、一番簡単な古い形までが、後まで残つてゐたのである。 一体、呪詞の数は元極めて少なかつたと云ふ事は述べたが、世の進むにつれ、特殊な事情が恒例の儀式の上にも起つて来るし、まして臨時には、いろんな事が起つて来る。かうして、呪詞が次第に増して行く。其を主上が御出しになる場合に、みこともつ[#「みこともつ」に傍線]役は、第一義としては女であつた。後には様式変化して、文字で筆記する事になつて来、更に主上の旨を受けて、文章までも女房が作る様になつて来る。かうなつて来る径路には、常におなじ詞のくり返しをしてゐた時代の連続を考へねばならない。唯、外に対しての大きなみこと[#「みこと」に傍点]を持つ[#「持つ」に傍点]者は、男でなければならなかつたのだ。だが、其外に神代以来の儀式だと云ふ考へから、どうしても主上御躬ら仰せられねばならぬ詞がある。此方は、簡単になつて来る。此点から見ると、此章の初めに援用した女帝と志斐嫗とのかけあひの歌も、さうした女の、幼少から御成人後までおつきしてゐた事を示す様である。語部自身の詞章のうちに、呪詞も歌も諺も籠つてゐた事が考へられる。譬へば、出雲風土記にある語[#(ノ)]臣猪麻呂が、自分の娘を鰐に獲られた事に就いて、天神に祈つた事件を見れば、疑ひもなく、此は、出雲の語[#(ノ)]臣の間に伝つてゐた一種の呪詞が、段々叙事詩化して来る径路に出来たものだ、と見ることが出来る。唯、言ひ添へて置かねばならぬ事は、宮廷の組織は、旧日本の多くの邑落の儀礼と大分特殊な処がある。宮廷の習俗を以て、旧日本全体と考へるといふのは、無理である。一例を挙げれば、宮廷以外では、才の男は、多く人形であるのに、宮廷では、人間を用ゐてゐる。と同時に、語部の如きも、前に述べた様に女性を主とするのは、宮廷が最甚しいものと見えるのである。 語部の伝へてゐた呪詞系統の文学は、主上其他に段々伝へられて来る。其間に次第に歴史的内容を持つて来、過去の事実だと云ふ反省を交へて来る。すると其処に、時間的の錯誤が起つて来る。過去の事だと知り乍ら、現在の事だと感じる矛盾が、日本文学に沢山ある。其ほど時代錯誤を平然と認容してゐるのが、日本文学だ。それと同時に、日本の文学の特徴――誇るべき特徴ではないが――歴史的に意義あるものは、地理錯誤である。此亦、盛んに行はれてゐる。宮廷で唱へられた呪詞を、みこともち[#「みこともち」に傍線]が地方へみこともつ[#「みこともつ」に傍線]て行つても、同じ効果が生ずる故に、其土地が初めて宣下せられた地と感じられる。さうした錯誤の第一義的なのは、日の御子のみこともたれた[#「みこともたれた」に傍点]詞章に依つて、天上・地上一つと信仰した所から起る。地上の事物に、天《アマ》・天《アマ》つ・天《アメ》のなど言ふ修飾を加へたのが、其だ。日本古代の文学を見るには、みこともち[#「みこともち」に傍線]の思想及び時代並びに地理の超越、この三つの点を考へる事が、大切である。 扨、古代に溯るほど、主上は呪詞其他の伝承古辞を暗誦して居なければならなかつた。主上が神人であると共に、神である為だ。此主上の仰せられること並びに、其をみこともつ[#「みこともつ」に傍点]伝宣者の詞の長かつたのが、逆になつて、其を受ける側、即、奏上者或は服従者の詞の方が延長せられて来る。其理由は、服従者の詞の中に、主上の詞章を含んで繰り返す形になるからだ。其と同時に、服従者自身の祖先、更に近代的に言ひ換へれば、自分達の職業の祖先が、宮廷に奉仕し始めた歴史を長々と語る様になるのである。此が、家々に次第に発達して来る。さうして、儀礼の度毎に、特に輪番で其を繰り返すことになる。此点から見ても、呪詞の歴史が考へられる。主上の宣下せられる詞よりは、臣下が奏上する詞の方が、量に於いて有勢になつて来る。我々の知る事の出来る限りに於いて、延喜式祝詞などは、形は宣下式をもつてゐるものがあるにも拘らず、全体として奏上式な要素を含んでゐるのは、此結果だ。尚此等の事に就いては、最後の章に述べることにするが、此処では巫女の事に就いて簡単に結末をつけて置く。 巫女は、謂はゞみこともち[#「みこともち」に傍線]であるよりも、先に、みこと[#「みこと」に傍線]を絶さない役をしてゐた者だ、と言ふことが出来る。つまり、宮廷以外の邑落に於いては、男の場合に刀禰《トネ》と言つてゐる。其に対して、宮廷ではひめとね[#「ひめとね」に傍線]と称してゐた。命婦に当るものであらう。其が後世になるほど、おとな[#「おとな」に傍線]と云ふ語で表されて来る様になる。 [#5字下げ]七 上達部の意義[#「七 上達部の意義」は中見出し] [#ここから2字下げ] 故殿のおほん服の頃、六月三十日の御祓へといふ事に、いでさせ給ふべきを、職《シキ》の御曹司は、方《カタ》あしとて、官のつかさの[#「官のつかさの」に白丸傍点]朝所《アイタンドコロ》に渡らせ給へり[#「に渡らせ給へり」に白丸傍点]。……日くれて[#「日くれて」に傍点]、暗まぎれにぞ[#「暗まぎれにぞ」に傍点]、すごしたる人々皆立ちまじりて、右近の陣へ物見に出で来て、たはぶれさわぎ笑ふもあめりしを、かうはせぬことなり。上達部のつき[#「上達部のつき」に白丸傍点](着座)給ひしなどに[#「給ひしなどに」に白丸傍点]、女房どものぼり[#「女房どものぼり」に傍点]、じやう官などのゐる障子を皆うちとほし[#「じやう官などのゐる障子を皆うちとほし」に傍点]そこなひたりなど、苦しがるもあれど、きゝもいれず(枕草子) [#ここで字下げ終わり] 前に述べた通り、上達部なる語も亦、平安朝に残留してゐたもので、これを以て、奈良朝以前の様子を窺ふことが出来る語なのだ。「かむだち」は言ふまでもなく、神館で、字に書けば、※[#「广+寺」、43-8]が当つてゐる。普通の用例を以て見れば、※[#「广+寺」、43-9]は祭りに与る人の籠る処で、民間で云へば、頭屋《トウヤ》に当る。神となる人達の籠つて、精進すべき処を云ふのだ。平安朝に於いて、かんだちめ[#「かんだちめ」に傍線]と云ふ語は、上達部と云つた字に宛てたゞけの聯想は持つてゐたに違ひないが、古代に於いては、祭時の宮廷を※[#「广+寺」、43-11]と見て、其処に詰めて居る人々だから、上達部と云つたのである。其程宮廷は、年中儀礼が多かつたのだ。後には、上達部の内容が変つて来るが、まづわれ/\の考へでは、上達部が三位以上の公卿を指す、と云ふ様な制限があつたのではなく、もつと広い範囲をさしたもので、其上に、更に、所謂おみ[#「おみ」に傍線]と称するものがあつた。此に対照的なものに、をみ[#「をみ」に傍線]があつた。おみ[#「おみ」に傍線]は大忌(人)で、主上が神となられ、同時に饗応《アルジ》役となられるのに対して、其為事を補佐する位置に立つ為に、禁欲生活をして、宮廷に籠つてゐる。小忌《ヲミ》(人)の方は、ぢかに神事の細部に与る人々で、最物忌みの厳重なものであつた。おみ[#「おみ」に傍線]は所謂臣であるが、此は宮廷に於かせられても、或る点まで其権威を認められた人々である。古代の文学・歴史を考へるのに、唯今の様な状態に臣を考へてゐたのではいけない。此臣は、天子を補佐すると共に、若い日の御子の育ての親となる資格を持つてゐる。其為に、臣たちの間に、勢力争ひが起るので、其汎称としては、臣であるが、骨《カバネ》としては、連であり、宿禰・朝臣でもあるのだ。 此「おみ」たちの家に伝はる古伝の文学がある。其が即、寿詞《ヨゴト》と称するものだ。後世まで考へられた意味では、主上に対して、服従を新に誓ひ、其生命並びに富を寿するものと考へられてゐた。唯、語原に就いては多少不審はあるが、さうしたものを伝へて、家々では天つ祝詞と称した。斎部が、無反省ながら、天つ祝詞と度々称へたのは、さう言ふ処から出たのだ。天つ祝詞は、主上を自家の養ひ君として仕へ奉る時に称へるのが第一義で、其が変化して、食物を献り、酒を薦めて、健康を増進させる為に云ふ古伝の語と云つた意味を第二義としてゐる。即共に、天つ神の寿詞と称してゐる。其外に、幾種類かの寿詞を持つてゐて、此と区別を立てゝ居たに違ひない。唯、学者によつては、対照的に、国つ神の寿詞の存在を説いてゐるけれども、其を信ずべき根拠を見ない。 時にさうした寿詞が、主上の系譜を表す事があつたらしい。つまり、特殊な関係のある臣の家柄と、王氏との系図の交錯を述べた一種の語りごとである。即、此が呪詞類の中の一つの分科をなすものだ。勿論、宮廷にも、かうした口頭伝承の系図のあつた事は信ぜられるが、記・紀・続紀から推測すると、臣下の系譜が宮廷の系譜を整頓する基礎になつた傾きがある様に思はれる。譬へば、出雲人の系譜、又御大葬の際に称へた臣たちの誄詞《シヌビゴト》――これは系譜及び寿詞の様である――から推しても、さうした事が考へられる。つまり、宮廷自身にあつた事が、臣下に移り、臣下に於いて栄えて、更に宮廷に戻ると云ふ、古代信仰の常式をとつたのである。われ/\の国の古伝承によつて、編纂された歴史・記録の類は、主として此寿詞並びに寿詞によつて組織せられた纂記《ツギブミ》から出来てゐると思はれる。尚平たく言へば、寿詞は宮廷に対する奉仕の本縁を説くもの、即、天つ神の寿詞・口誦系図から成つてゐると云ふ事が出来る。 尚一つ閑却出来ないのは、此臣たちは同時に部曲の頭で、伴部の宰《ミコトモチ》であることだ。さすれば、部下に対しては宣詞――宮廷に対しての寿詞なる――を宣する権能を持つてゐた。さうした部分が、一等早く亡びて残らなくなつたものと思ふ。唯、所謂系図に於いて、其が仄かに認められるだけである。と共に、宮廷のみこと[#「みこと」に傍線]を部下に持つ[#「持つ」に傍点]場合を考へると、勿論寿詞ではない。と云つて唯の詔詞でもない。宮廷からは自らお受けして、其を部下に伝へるのだから、特別な形を採らなければならない。此が所謂|鎮護詞《イハヒゴト》である。其意味に於いて、延喜式の祝詞は誤解を重ねて、寿詞《ヨゴト》と称しながら、鎮護詞の形をとり、更に祝詞の中にこめられてゐる。結局古代から近代への過渡時代に、祝詞を錯乱せしめたものは、此鎮護詞であり、此部分が益栄えて行つたものと言へる。 [#5字下げ]八 宮廷祝詞の概念[#「八 宮廷祝詞の概念」は中見出し] [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ] (一)……伊波比《イハヒ》[#(乃)]返事《カヘリゴト》[#(能)]神賀《カムホキ》[#(ノ)]吉詞《ヨゴト》……次《ツギテ》のまゝに、供斎《イハヒゴト》つかへまつりて……天つつぎての神賀《カムホキ》[#(ノ)]吉詞《ヨゴト》まをしたまはくとまをす。(出雲国造神賀詞) (二)……夕日より朝日照るまで、天都詔刀之太詔刀言《アマツノリトノフトノリトゴト》をもちて宣《ノ》れ。……皇神たちも、千秋五百秋の相嘗に、相うづのひまつり、かきはに、ときはに、斎奉[#(利氐)]……(中臣寿詞) (三)皇御孫の命の天の御翳・日の御翳とつくりつかへまつれる瑞《ミヅ》のみあらかを、汝屋船《ミマシヤフネ》[#(ノ)]命に天津奇護言《アマツクスシイハヒゴト》[#割り注]古語云、久須志伊波比許登[#割り注終わり]をもちて、言寿《コトホギ》鎮《シヅ》め申さく……(大殿祭祝詞) [#ここで字下げ終わり] 祝詞の語原は、半ば知れて、半ば訣らないでゐる。其為に、と[#「と」に傍線]に就いては、種々の説がある。けれども、すべて近代の言語情調によつた合理解に過ぎない。所謂「天つ祝詞の太のりと言《ゴト》」と云ふ語を、最本格式な語として追窮して行き度い。と[#「と」に傍線]は、古代信仰に於ける儀礼の様式或は、其設備を意味する語で、結局は座と云ふ事になるらしい。即、天つ祝詞は、神聖な天上界と同じ詔詞を発する聖座の義だ。其場所を更に讃美した語が、太のりと[#「太のりと」に傍線]だ。其処に於いて宣下せられる主上の御言葉が、太のりと言[#「太のりと言」に傍線]である。だから、のりとごと[#「のりとごと」に傍線]はのりと[#「のりと」に傍線]なる語の原形で、と[#「と」に傍線]に言《コト》の聯想が加はつた為に、のりと[#「のりと」に傍線]言《ゴト》の言を略するに至つたものと思ふ。だから、祝詞自身、天子及び天つ神の所属であることは明らかだ。所謂のりと言[#「のりと言」に傍線]を略した祝詞が宣せられる場合は、天下初春となり、同時に天地の太初《ハジメ》に還るのだ。而も、此祝詞の数が次第に殖えて来るにつれて、寿詞・鎮護詞の混乱が盛んになる。だから、延喜式に於いて、かうした所属の別々なものを、一様に祝詞としてゐるのも無理はないが、同時に祝詞其物の歴史から言へば、非常に新しいものと云はねばならない。 扨、かうした祝詞が、次第に其一部を唱へることになり、其が、全体を唱へるのと同一の効果を持つもの、と見做され出して来た。中臣祓の、長くも短くも用ゐられる様なものだ。其は寿詞に於いては諺を生じ、叙事詩に於いては歌を生じて来たのと、同じ理由である。 [#5字下げ]九 諺及び歌[#「九 諺及び歌」は中見出し] (一)俗諺曰、筑波峰之会[#(ニ)]、不[#レ]得[#二]娉財[#一]者、児女不[#レ]為矣。(常陸風土記) (二)風俗諺曰、筑波岳[#(ニ)]黒雲|挂衣袖漬国《カキテコロモデヒヅチノクニ》是矣。(同じく) 斎部祝詞並びに、稀に、中臣祝詞に於いて、天つ祝詞と称するものは、祝詞を口誦する間に、挿入せられて来たものである。其部分にかゝる時には、一種の呪術を行ふことになつてゐたものらしい。だから、非常に神秘な結果を齎す詞として、人に洩らすことが禁じられて居た。本道の意味に於いては、天つ祝詞ではなく、所謂諺と称すべきものであらうと思ふ。其が後には、祝詞を称へなくても、其部分を口誦する事によつて、祝詞全体の効果を持ち来すもの、と考へられる様になつた。此諺が、次第に意味の全く不明な呪術的なものと、社会知識的なものとに岐れて来る。そして、後者は、教訓的な意義を持つて来るが、此は必しも新しい事ではない。而も、さうした諺自身が既に、叙事詩の影響を受けてゐる。言ひ換へれば、其発生した呪詞時代を過ぎて、叙事詩時代に入つても、尚新しく出来るものがあつて、叙事詩の影響を受けたからだと云つてよい程、歴史的の内容を伴うてゐる。或は、更に古く脱落してゐたものに、叙事詩的な背景を附加して来た部分もある様だ。最異風な諺を挙げて見れば、地名・人名に絡んだ枕詞の古形をなすものが其で、昔は国讃美《クニボメ》・人讃美が、呪詞の精髄であつた事を示してゐる。一方、さうした諺から、所謂|謎《ナゾ》が生れて来る。日本文学に於いて、割合にかへりみられてゐないのは、古代に於ける謎の類だ。此は、大方の為に、問題を提供して置きたい。 諺の様式は、大体に偶数句を以て出来たもので、此から言はうとする歌と、大体に違ふ点は、問答唱和風でないことである。さうして、歌は主として、奇数句に傾くことだ。 此小さな論文を以て、私の師匠柳田国男先生の同時に、同じ叢刊の中に発表せられる論文に接続させようと試みたのであるが、其結び玉になるべき歌の事をお話する前に、もう余白が無くなつた。其で、此処には極めて概念的に書き添へておくことに止めたい。 諺の場合と同じく、歌は、呪詞から変化した叙事詩の、最緊密な部分と目せられる部分で、恐らく、古い叙事詩に含まれて居なかつたものが、次第に挿入せられて来たのだらうと思ふ。伝承の都合からして、問答唱和の形を残して居らないものも多いが、実は、さうした形を採らねばならなかつたのである。併し、根本的には、諺の形式の叙事詩の中で発達したものが、歌である。而もさうした要素は、既に呪詞の中にも見えてゐた。所謂天つ祝詞の部分に於いて、発唱者と被唱者との間に問答が行はれた事は、祝詞に於ける所謂、返し祝詞或は覆奏《カヘリマヲシ》の存在によつて知る事が出来る。延喜式の祝詞で見ても、所謂称唯(ヲヽトトナフ)の部分は、やはり此形である。かうして発生したものが、呪詞の叙事詩化して行く道筋に、次第に勢を得、分化して来る。だから、歌をうたふ事に、叙事詩及び呪詞を唱へるのと、同じ効果を予期する事が出来たのだ。其に不安を感じる場合には、其歌の属してゐた叙事詩を口誦すれば、的確に効果の挙るものと思うたこと、早く説いたとほりである。かうしたかけ合ひを以て出発した歌が、かけ合ひに進むと同時に、一人の層畳的発想、即、組歌形式をも採つて行く様になる。併し、歌の独立する径路に就いて、一面の原因ではあるが、最適切なものを挙げる事が出来る。巫覡の神懸りによつてする舞踊は、呪詞或は叙事詩を唱へてゐる間に、舞人自ら其主たる神或は人となつて歌ひ出す。即、一種の詠《エイ》の形をとる事によつて、発達して来る。此は、歌の発生の一部の原因であるが、主としては、歌が出来て後、独立した歌の製作に向ふ動機を、促す理由になつてゐる様である。          ◇ 日本文学は、少なくとも私の申してゐる時代には、文学ではなかつた。例外なく宗教上の儀礼であつた。異人の詞を伝承すると云ふ意義に於いて、或期間持続せられ、其間に固定し脱落し、変化改造が加つて来た。其上に、歴史意識が加つて、叙事詩が出来、其断片化したものが諺及び歌になり、更に歌の方面に、非常な発達を遂げることになつた。結局最初の文学は、律文であつた。けれども今日の感覚を通して感じる時は、最初は、寧、散文に近いと思はれる呪詞があつた。其が、叙事詩になつて、純粋な律文と称すべきものになつた。呪詞の中に祝詞・寿詞・鎮護詞の区別があり、更に祝詞に対しては、原形に近い宣命が、対立する様になつた。今謂ふ所の祝詞よりは、寧、祝詞らしい要素は、宣命に多く含まれてゐる。 歌に於いては、掛け合ひの形から出発して小長歌になり、其は二部に岐れるところの小長歌の形から、全然変化を重ねて行く。我々が、最初の観察の対象に置くのに便宜な形は、片哥及び旋頭歌であるが、此が直《ただち》に日本の歌の原形だ、と云ふ事は出来ない。 われ/\の文学は、此国土以前からあつたのだから、原始と云ふ語を用ゐるのは、絶対に避けなければならない。長歌が次第に長くなり、これに創作意識が加つて来ると共に、一方声楽上の欲求から、長歌の中に短歌が胚胎せられて来る。其短歌成立の動機は、同時に片哥の中にも、催されてゐた事だ。此最新しく、而も近代に至るまで、わが民族の生活に最叶つてゐる様に見えた短歌が、明らかに形式を意識せられて来たのは、飛鳥末から、藤原へかけてのことらしい。 私の論文に於いて、いま少し力を入れたかつた部分は、文学と、其を伝承し、製作する階級との問題、文学意識並びに鑑賞力の啓発せられて行く過程であつた。だが、今は其だけのゆとりがないのです。 底本:「折口信夫全集 4」中央公論社    1995(平成7)年5月10日初版発行 初出:「岩波講座「日本文学」 第十一輯」    1932(昭和7)年4月 ※底本の題名の下に書かれている「昭和七年四月、岩波講座「日本文学」」はファイル末の「初出」欄に移しました 入力:門田裕志 校正:仙酔ゑびす 2009年8月13日作成 2011年1月3日修正 青空文庫作成ファイル: 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