国文学の発生(第四稿) 唱導的方面を中心として 折口信夫 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)最《もつとも》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)神|憑《ガヽ》り [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)嬥  [#…]:返り点  (例)若[#二]此言之麗義[#一]  [#(…)]:訓点送り仮名  (例)天[#(ノ)]窟戸 /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)シバ/\ *濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」 ------------------------------------------------------- [#3字下げ]呪言から寿詞へ[#「呪言から寿詞へ」は大見出し] [#5字下げ]一 呪言の神[#「一 呪言の神」は中見出し] たゞ今、文学の信仰起原説を最《もつとも》頑なに把《と》つて居るのは、恐らくは私であらう。性の牽引や、咄嗟の感激から出発したとする学説などゝは、当分折りあへない其等の仮説の欠点を見てゐる。さうした常識の範囲を脱しない合理論は、一等大切な唯の一点をすら考へ洩して居るのである。音声一途に憑《ヨ》る外ない不文の発想が、どう言ふ訣《わけ》で、当座に消滅しないで、永く保存せられ、文学意識を分化するに到つたのであらう。恋愛や、悲喜の激情は、感動詞を構成する事はあつても、文章の定型を形づくる事はない。又第一、伝承記憶の値打ちが、何処から考へられよう。口頭の詞章が、文学意識を発生するまでも保存せられて行くのは、信仰に関聯して居たからである。信仰を外にして、長い不文の古代に、存続の力を持つたものは、一つとして考へられないのである。 信仰に根ざしある事物だけが、長い生命を持つて来た。ゆくりなく発した言語詞章は、即座に影を消したのである。 私は、日本文学の発生点を、神授(と信ぜられた)の呪言《ジユゴン》に据ゑて居る。而《しか》も其《その》古い形は、今日溯れる限りでは、かう言つてよい様である。稍《やや》長篇の叙事脈の詞章で対話よりは拍子が細くて、諷誦の速さが音数よりも先にきまつた傾向の見える物であつた。左右相称・重畳の感を満足させると共に、印象の効果を考へ、文の首尾の照応に力を入れたものである。さうした神|憑《ガヽ》りの精神状態から来る詞章が、度々くり返された結果、きまつた形を採る様になつた。邑落の生活が年代の重なるに従つて、幾種類かの詞章は、村の神人から神人へ伝承せられる様になつて行く。 春の初めに来る神が、自ら其種姓を陳《の》べ、此国土を造り、山川草木を成し、日月闇風を生んで、餓ゑを覚えて始めて食物を化成した(日本紀一書)本縁を語り、更に人間の死の起原から、神に接する資格を得る為の禊《ミソ》ぎの由来を説明して、蘇生の方法を教へる。又、農作物は神物であつて、害《そこな》ふ者の罪の贖《あがな》ひ難い事を言うて、祓《ハラ》への事始めを述べ、其に関聯して、鎮魂法の霊験を説いて居る。 かうした本縁を語る呪言が、最初から全体としてあつたのではあるまい。土地家屋の安泰、家長の健康、家族家財の増殖の呪言としての国生みの詞章、農業に障碍する土地の精霊及び敵人を予め威嚇して置く天つ罪[#「天つ罪」に傍線]の詞章、季節の替り目毎に、青春の水を摂取し、神に接する資格を得る旧事を説く国つ罪[#「国つ罪」に傍線]――色々な罪の種目が、時代々々に加つて来たらしい――の詞章、生人の為には外在の威霊を、死人・惚《ホ》け人の為には游離魂を身中にとり込めて、甦生する鎮魂《タマフリ》の本縁なる天[#(ノ)]窟戸《いはと》の詞章、家屋の精霊なる火の来歴と其弱点とを指摘して、其災ひせぬ事を誓はせる火生みの詞章、――此等が、一つの体系をなさぬまでも、段々結合して行つた事は察せられる。 本縁を説いて、精霊に過去の誓約を思ひ出させる叙事脈の呪言が、国家以前の邑落生活の間にも、自由に発生したものと見てよい。尤《もつとも》、信仰状態の全然別殊な村のあつた事も考へられる。が、後に大和に入つて民族祖先の主流になつた邑落は固より、其外にも、同じ条件を具へた村々があり、後々次第に、此形式を模して行つた処のある事も、疑ふ事は出来ない。私は倭の村の祖先の外にも、多くの邑落が山地定住以前、海に親しい生活をして居た時代を考へて居る。 延喜式祝詞で見ると、宮廷の呪言は、かむろぎ[#「かむろぎ」に傍線]・かむろみ[#「かむろみ」に傍線]の発言、天照大神宣布に由る物だから――呪言、叙事詩以来の古代詞章式の論理によつて――中臣及び、一部分は斎部の祖先以来代宣して、今に到つてゐると言ふ信仰を含めて説き起すのが通有形式である。呪言の神を、高天原の父神・母神として居るのである。而も其呪力の根源力を抽象して、興台産霊《コトヾムスビノ》神――日本紀・姓氏録共にこゝと[#「こゝと」に傍線]と訓註して居るのは、古い誤りであらう――といふ神を考へて居る。さうして同じく、祝詞の神であつた為に、中臣氏の祖先と考へられたらしい天児屋《アメノコヤネ》[#(ノ)]命は、此神の子と言ふ事になつてゐる。むすび[#「むすび」に傍線]と言ふのは、すべて物に化寓《ヤド》らねば、活力を顕す事の出来ぬ外来魂なので、呪言の形式で唱へられる時に、其に憑り来て其力を完うするものであつた。興台《コトヾ》――正式には、興言台と書いたのであらう――産霊《ムスビ》は、後代は所謂|詞霊《コトダマ》と称せられて一般化したが、正しくはある方式即と[#「と」に傍線]を具へて行ふ詞章《コト》の憑霊と言ふことが出来る。 こやね[#「こやね」に傍線]は、興言台《コトヾ》の方式を伝へ、詞章を永遠に維持し、諷唱法を保有する呪言の守護神だつたらしい。此中臣の祖神と一つ神だと証明せられて来た思兼《オモヒカネ》[#(ノ)]神は、たかみむすび[#「たかみむすび」に傍線]の子と伝へるが、ことゞむすび[#「ことゞむすび」に傍線]の人格神化した名である。此神は、呪言の創製者と考へられてゐたものであらう。尤、此神以前にも、呪言の存在した様な形で、記・紀其他に伝承せられてゐるが、かうした矛盾はあるべき筈の事である。恐らく開き直つて呪言の事始めを説くものとしておもひかね[#「おもひかね」に傍線]によつて深く思はれて出来たのが、神の呪言の最初だとしたのであらう。即、天[#(ノ)]窟戸を本縁とした鎮魂の呪言――此詞章は夙《はや》く呪言としては行はれなくなり、叙事詩として専ら物語られる事になつたらしい。さうして其代りに物部氏伝来の方式の用ゐられて来たことは明らかである――を、最尊く最完全な詞章の始まりとしたものらしい。 [#ここから2字下げ] 時に、日神聞きて曰はく「頃者、人雖[#二]多請《シバ/\マヲス》[#一]未[#レ]有[#下]若[#二]此言之麗義[#一]者[#上]也。」(紀、一書) [#ここで字下げ終わり] 請は申請の義で、まをす[#「まをす」に傍線]と訓むのは古くからの事である。申請の呪言に、まをす[#「まをす」に傍線]・まをし[#「まをし」に傍線]と言ふから、其諷誦の動作までも込めて言うたのだ。前々にも呪言を奏上した様に言うてあるが、此は本縁説明神話の常なる手落ちである。 善言・美辞を陳《つら》ねて、荘重な呪言の外形を整へ、遺漏なく言ひ誤りのない物となつたのは、此神の力だとする。此神を一に八意思金《ヤゴヽロオモヒカネ》[#(ノ)]神と言ふのも、さうした行き届いた発想を讃美しての名である。 こやね[#「こやね」に傍線]は、神或は、神子の唱へるはずの呪言を、代理者の資格で宣する風習及び伝統の発端を示す神名であり、諷誦法や、副演せられる呪術・態様の規定者とせられたのであらう。斎部の祖神と謂はれる天[#(ノ)]太玉[#(ノ)]命は、其呪術・態様を精霊に印象させる為に副演する役であつた。さうして、呼び出した正邪の魂の這入る浄化したところを用意して、週期的に来る次の機会まで、其処に封じ籠めて置く。此籠める側の記憶が薄れて、浄化する方面が強く出て、いむ[#「いむ」に傍線]・ゆむ[#「ゆむ」に傍線]・ゆまふ[#「ゆまふ」に傍線]・ゆまはる[#「ゆまはる」に傍線]など言ふ語《ことば》の意義は変つて行つた。斎部氏はふとだま[#「ふとだま」に傍線]以来と言ふ信念の下に、呪言に伴ふ神自身の身ぶりや、呪言の中、とりわけ対話風になつた部分を唱へる様になつたと見ればよい。呪言の一番神秘な部分は、斎部氏が口誦する様になつて行つた。天《アマ》つ祝詞《ノリト》・天つ奇護言《クスシイハヒゴト》と称するもの――かなり変改を経たものがある――で、斎部祝詞に俤《おもかげ》を止めてゐるのは、其為である。 中臣祝詞の中でも、天つ祝詞又は、中臣の太詔戸《フトノリト》と言はれてゐる部分である。此は祓へを課する時の呪言であつて、さうした場合にも古代論理から、呪言の副演を行ふ斎部は、呪言神の群行[#「群行」に傍線]の下員であつて、みこともち[#「みこともち」に傍線](御言持者)であつた、主神役なる中臣が此を口誦し、自ら威《イツ》の手で――これまた、神の代理だが、万葉集巻六の「すめら我がいつのみ手もち……」と言ふ歌の、天子の御手同時に神の威力のある手ともなると言ふ考へと同じく――祓への大事の中心行事を執り行うた――大祓方式の中の、中臣神主自ら行ふ部分――のである。斎部宿禰の為事が、段々卜部其他の手に移つて行つて、その伝承の呪言も軽く視られるやうになつてから、天神授与の由緒は称へながら、斎部祝詞は、神秘を守る事が出来なくなつた。 中臣祝詞の間や末に、斎部の唱へる部分があつた習慣から、斎部祝詞が分離したものか。斎部祝詞が、祝詞の精髄なる天つ祝詞と唱へて、祓除《ハラヘ》・鎮斎《イハヒ》に関した物ばかりである事――此部分だけ独立したのだらう――、辞別《コトワキ》の部分が斎部関係の事項であるものが多い事――幣帛や、大宮売《オホミヤノメ》[#(ノ)]神や斎部関係の事が、其《それ》だ。辞別は、必しも文の末ばかりでない処を見ると、こゝだけ辞の変る処であつたのだ。「又申さく」「殊《コト》更に申さく」などの意に考へられて、宣命にも、祝詞にも、さうした用例が出て来た――などが此を示して居る。延喜式祝詞の前後或は中に介在して、宣命と同じ形式の伝宣者の詞がある様に、今一つ古い形の中臣祝詞にも、中臣の言ふ部分と、斎部の誦する部分とがあつたのであらう。 かう考へて来ると、呪言には古くから「地」の部分と「詞」の部分とが分れる傾向が見えて居たのである。此が祝詞の抜きさし自由な形になつて、一部分を唱へる事も出来、伝来の詞を中に、附加文が添はつて来たりもした理由である。さうして、此呪言の神聖な来歴を語る呪言以外に附加せられた部分が、第一義ののりと[#「のりと」に傍線]であつたらしく、其|心《シン》になつてゐるものが、古くはよごと[#「よごと」に傍線]を以て総称せられて居たのだ。よごと[#「よごと」に傍線]が段々一定の目的を持つた物に限られる様になつてから、元の意義の儘のよごと[#「よごと」に傍線]に近い物ばかりを掌《つかさど》り、よごと[#「よごと」に傍線]に関聯した為事を表にする斎部の地位が降つて来る様になつたのも、時勢である。其は一方、呪言の神の原義が忘れられた為である。 かむろぎ[#「かむろぎ」に傍線]・かむろみ[#「かむろみ」に傍線]と言ふ語には、高天原の神のいづれをも、随意に入れ替へて考へる事が出来た。父母であり、又考位・妣位の祖先でもある神なのだ。だから、かむろぎ[#「かむろぎ」に傍線]即たかみむすびの神[#「たかみむすびの神」に傍線]に、天照大神を並べてかむろみ[#「かむろみ」に傍線]と考へてゐた事もある。此両位の神に発生した呪言が、円満具足し、其存続が保障せられ、更に発言者の権威以外に、外在の威霊が飛来すると言ふ様に展開して行つた。私の考へでは、詞霊《コトダマ》信仰の元なることゞむすび[#「ことゞむすび」に傍線]は、外来魂信仰が多くの物の上に推し拡げられる様になつた時代、即わりあひに遅れた頃に出た神名だと思ふ。 [#5字下げ]二 常世国と呪言との関係[#「二 常世国と呪言との関係」は中見出し] おもひかねの命[#「おもひかねの命」に傍線]を古事記には又、常世《トコヨ》[#(ノ)]思金[#(ノ)]神とも伝へてゐる。呪言の創始者は、古代人の信仰では、高天原の父神・母神とするよりも、古い形があつた様である。とこよ[#「とこよ」に傍線]は他界で、飛鳥・藤原の都の頃には、帰化人将来の信仰なる道教の楽土海中の仙山と次第に歩みよつて、夙くから理想化を重ねて居た他界観念が非常に育つて行つた。 とこよ[#「とこよ」に傍線]は元、絶対永久(とこ)の「闇の国」であつた。其にとこ[#「とこ」に傍線]と音通した退《ソ》く・底《ソコ》などの聯想もあつたものらしく、地下或は海底の「死の国」と考へられて居た。「夜見の国」とも称へる。其処に転生して、其土地の人と共食すると、異形身に化して了うて、其国の主の免《ゆる》しが無ければ、人間身に戻る事は出来ない。蓑笠を著た巨人――すさのをの命[#「すさのをの命」に傍線]・隼人(竹笠を作る公役を持つ)・斎明紀の鬼――の姿である。とき/″\人間界と交通があつて、岩窟の中の阪路を上り下りする様な処であつた。其常闇の国が、段々光明化して行つた。海浜邑落にありうちの水葬――出雲人と其分派の間には、中世までも著しく痕跡が残つて居た――の風習が、とこよの国[#「とこよの国」に傍線]は、村の祖先以来の魂の集注《ツマ》つて居る他界と考へさせる様になつた。海岸の洞穴――恐ろしい風の通ひ路――から通ふ海底或は、海上遥かな彼岸に、さうした祖先以来の霊は、死なずに生きて居る。絶対の齢《ヨ》の国の聯想にふり替つて来た。其処に居る人を、常世人[#「常世人」に傍線]とも又単にとこよ[#「とこよ」に傍線]・常世神[#「常世神」に傍線]とも言うた。でも、やはり、常夜・夜見としての怖れは失せなかつた。段々純化しては行つたが、いつまでも畏しい姿の常世人を考へてゐた地方も多い。 冬と春との交替する期間は、生魂・死霊すべて解放せられ、游離する時であつた。其際に常世人は、曾《かつ》て村に生活した人々の魂を引き連れて、群行《グンギヤウ》(斎宮群行は此形式の一つである)の形で帰つて来る。此|訪問《オトヅレ》は年に稀なるが故に、まれびと[#「まれびと」に傍線]と称へて、饗応《アルジ》を尽して、快く海のあなたへ還らせようとする。邑落生活の為に土地や生産、建て物や家長の生命を、祝福する詞を陳べるのが、常例であつた。 尤、此は邑落の神人の仮装して出て来る初春の神事である。常世のまれびと[#「まれびと」に傍線]たちの威力が、土地・庶物の精霊を圧服した次第を語る、其|昔《カミ》の神授の儘と信じられてゐる詞章を唱へ、精霊の記憶を喚び起す為に、常世神と其に対抗する精霊とに扮した神人が出て、呪言の通りを副演する。結局精霊は屈従して、邑落生活を脅かさない事を誓ふ。 呪言と劇的舞踊は段々発達して行つた。常世の神の呪言に対して、精霊が返奏《カヘリマヲ》しの誓詞を述べる様な整うた姿になつて来る。精霊は自身の生命の根源なる土地・山川の威霊を献じて、叛かぬことを誓約《ウケヒ》する。精霊の内の守護霊を常世神の形で受けとつた邑落或は其主長は、精霊の服従と同時に其持つ限りの力と寿と富とを、享ける事になるのである。かうした常世のまれびと[#「まれびと」に傍線]と精霊(代表者として多くは山の神[#「山の神」に傍線])との主従関係の本縁を説くのが古い呪言である。 呪言系統の詞章の宮廷に行はれたものが一転化して、詔旨(宣命《センミヤウ》)を発達させた。庶物の精霊だけでなく、身中に内在する霊魂にまでも、威力は及すものと信ぜられて居た。年頭の朝賀の式は、段々、氏々の代表者の賀正事《ヨゴト》(天子の寿を賀する詞)奏上を重く見る様になつたが、恒例の大事の詔旨は、此受朝の際に行はれた。賀正事《ヨゴト》は、詔旨に対する覆奏《カヘリマヲシ》なのであつた。此詔旨が段々臨時の用を多く生じて宣命が独立する様になつたのだ。延喜式祝詞の多くが、宮廷の人々及び公民を呼びかけて聴かせる形になつてゐるのは、此風から出て、更に他の方便をも含んで来たのである。宮廷の尊崇する神を信じさせ、又呪言の効果に与らせようとする様になつたのだ。だから延喜式祝詞は、大部分宣命だと言うてもよい様な姿を備へてゐる。宣命に属する部分が、旧来の呪言を包みこんで、其境界のはつきりせぬ様になつたものが多いのである。 詔旨は、人を対象とした一つの祝詞であり、やがて祝詞に転化する途中にあるものである上に、神授の呪言を宣り降す形式を保存して居たものである。法令《ノリ》の古い形は、かうした方法で宣《ノ》り施された物なることが知れる。 呪言は一度あつて過ぎたる歴史ではなく、常に現実感を起し易い形を採つて見たので、まれびと神[#「まれびと神」に傍線]の一人称――三人称風の見方だが、形式だけは神の自叙伝体――現在時法(寧、無時法)の詞章であつたものと思はれる。完了や過去の形は、接続辞や、休息辞の慣用から来る語感の強弱が規定したものらしい。神亀元年二月四日(聖武即位の日)の詔を例に見て頂きたい。父帝なる文武天皇は曾祖父、元明帝は祖母、元正帝は母と言ふ形に表され、而も皆一つの天皇《スメラミコト》であつて、天神の顕界《ウツシヨ》に於ける応身《オホミマ》(御憑身)であり、当時の理会では、御孫《ミマ》であつた。日のみ子[#「日のみ子」に傍線]であると共に、みまの命[#「みまの命」に傍線]であると言ふのは、子孫の意ではなく、にゝぎの命[#「にゝぎの命」に傍線]と同体に考へたのだ。おしほみゝの命[#「おしほみゝの命」に傍線]が、大神と皇孫との間に介在せられるのは、みま[#「みま」に傍線]を御孫と感じた時代からの事であらう。聖武帝の御心も、元正帝の御心も、同一人の様な感情や待遇で示されてゐる。長い時間の推移も、助動詞助辞の表しきつて居ない処がある。 さうした呪言の文体が、三人称風になり、時法を表す様になつて来たのは――(宣命の様に固定した方面もあつたが)――可なり古代からの事であつたらしい。此が呪言の叙事詩化し、物語を分化する第一歩であつた。 わたつみの国[#「わたつみの国」に傍線]も常世の国[#「常世の国」に傍線]と考へられて行つた。わたつみの神[#「わたつみの神」に傍線]は富みの神であり、歓楽の主であり、又ほをりの命[#「ほをりの命」に傍線]に、其兄を征服する様々の呪言と呪術とを授けた様に、呪言の神でもあつた。又一方よみの国[#「よみの国」に傍線]は、呪言と其に附随してゐる占ひ[#「占ひ」に傍線]との本貫の様な姿になつて居た。 すさのをの命[#「すさのをの命」に傍線]は、興言《コトアゲ》の神であり、誓約《ウケヒ》の神である。祓除・鎮魂の起原も、此神に絡んでゐるのは、理由がある。鎮火祭の祝詞は、よみの国[#「よみの国」に傍線]のいざなみの命[#「いざなみの命」に傍線]の伝授であつたらしく、いざなぎの命[#「いざなぎの命」に傍線]の檍原《アハギハラ》の禊ぎも呪言から出た行事に相違ないが、此もよみの国[#「よみの国」に傍線]を背景にしてゐる。 ことゞ[#「ことゞ」に傍線]と言ふ語は、よもつひら阪[#「よもつひら阪」に傍線]の条では、絶縁の誓約の様に説かれてゐるが、用例が一つしか残つて居ない為の誤解であらう。興台産霊《コトヾムスビ》の字面がよくことゞ[#「ことゞ」に傍線]の義を示してゐる。ことゞふ[#「ことゞふ」に傍線]は、かけあひ[#「かけあひ」に傍線]の詞を挑みかける義で、嬥歌会《カヾヒ》の場《ニハ》などに言ふのは、覆奏を促す呪言の形式を見せて居る。ことあげ[#「ことあげ」に傍線]はことゞあげ[#「ことゞあげ」に傍線]の音脱らしく、対抗者の種姓を暴露して、屈服させる呪言の発言法であつた。紀に泉津守道《ヨモツチモリ》・菊理《クヽリ》媛など言ふよみ[#「よみ」に傍線]の精霊が現れる処に「言ふことあり」「白す言あり」など書いたのは、呪言となつた詞章のあつた事を示してゐるのであらう。又唾を吐いた時に化成した泉津事解之男《ヨモツコトサカノヲ》は、呪言に関係した運命定めの神である。呪咀をとこふ[#「とこふ」に傍線]と言うた事も、とこよ[#「とこよ」に傍線]と聯想があつたのではないかと思はれる。 年の替り目に来た常世神も、邑落生活上の必要から、望まれる時には来る様になつた。家の新築や、田植ゑ、酒占や、醸酒《サカガミ》、刈り上げの新嘗《ニヒナメ》などの場合である。 [#ここから2字下げ] くしの神 常世にいます いはたゝす 少御神《スクナミカミ》の 神ほぎ 祝ぎ狃《クル》ほし、豊ほぎ、ほぎ廻《モトホ》しまつり来しみ酒《キ》ぞ……(仲哀記) 掌《タナソコ》やらゝに、拍ち上げ給はね。わがとこよ[#「とこよ」に傍線]たち(顕宗紀、室寿詞の末) 妙呪者《クスリシ》は、常のもあれど、まらひと[#「まらひと」に傍線]の新《イマ》のくすりし……(仏足石の歌) [#ここで字下げ終わり] など歌はれた常世神も、全然純化した神とならぬ中に、性格が分化して来た。其善い尊い部分が、高天原の神となり、怖しく醜い方面が、週期的に村を言ほぎ[#「言ほぎ」に傍線]に来る鬼となつた。だから常世《トコヨ》[#(ノ)]思金《オモヒカネ》[#(ノ)]神《カミ》といふ名も、呪言の神が常世から来るとした信仰の痕跡だと言へよう。田植ゑ時に考・妣二体或は群行《グンギヤウ》の神が海から来た話は、播磨風土記に多く見えて居る。椎根津彦《シヒネツヒコ》は蓑笠著て老爺、弟猾《オトウカシ》は箕をかづいて老媼となつて、誓約《ウケヒ》の呪言をして敵地に入り、天[#(ノ)]香山《カグヤマ》の土を持つて帰り、祭器を作つて呪咀をした(神武紀)。此も常世神の俤であつた。 とこよのまれ人[#「とこよのまれ人」に傍線]の行うた呪言が段々向上し、天上将来の呪言即天つ祝詞など言ふ物が行はれて来、呪言の神が四段にも考へられる様になつた事は前に言うた通りである。処が邑落どうしの間に、争ひが起つたり、異族の処女に求婚する様な場合には、呪言が闘はされる。相手の呪言が有勢だつたら、其力に圧へられて呪咀を身に受けねばならぬ。自分の方の呪言に威力ある時は、相手の呪言の威霊を屈服させて、禍事《マガゴト》を与へる事が出来る。此反対に、さうした詞の災ひを却《しりぞ》けて、善い状態に戻す呪力や、我が方へ襲ひかゝつて来た呪咀を撥ね返す能力が考へられて来た。人に「まがれ」と呪ふ側と、善い状態に還す方面とが、一つの呪言にも兼ね備つて居るものと考へ出される。禍津日《マガツヒ》[#(ノ)]神・直日《ナホビ》[#(ノ)]神の対照は、実際は時代的に解釈が変つて来た処から出た呪言の神であつたのだ。「檍原《アハギハラ》の禊《ミソ》ぎ」に、此二位の神が化生したと説くのは、禊ぎ[#「禊ぎ」に傍線]の呪言に、攻守二霊の作用の本縁を物語つてゐたものであらう。 風土記などにも夙く、出雲|意宇《オウ》郡に詔門《ノリト》[#(ノ)]社の名が見えてゐる。其機能は知れぬが、速魂社と並んで居る処を見ると、呪言の闘争判断方面の力を崇めたのではなからうか。其とは別に、延喜式にも既に「左京二条ニ座ス神二座。太詔戸命神櫛真智命神」と載せてゐる。 [#ここから2字下げ] ……自[#(リ)][#二]夕日[#一]至[#(ル)][#二]朝日照[#(ルニ)][#一][#割り注]氐万[#割り注終わり]天都詔戸[#(乃)]太詔刀言[#(遠)]以[#(氐)]告[#(礼)]。如此告[#(波)]麻知[#(波)]弱蒜[#(仁)]由都五百篁生出[#(牟)]。……(中臣寿詞) [#ここで字下げ終わり] とある文によると、太祝詞とまち[#「まち」に傍線]とは一続きの現象なのである。 まち[#「まち」に傍線]は卜象の事である。亀卜・鹿卜では、灼き出されて罅《ひび》入つた町形《マチカタ》の事だ。町形を請ひ出す手順として、中臣太詔詞を唱へて祓へ浄める。其に連れて卜象も正《マサ》しく顕れて来る。卜部等が亀卜を灼くにも、中臣太詔詞を言ひ祓へ反覆して、町形の出現を待つのであつた。其ため祓への太祝詞の詞霊を、卜象の出るのを護る神と見たのであらう。櫛真智は奇兆《クシマチ》で、卜象其物或は、卜象を出す神であらう。「亀卜祭文」と言ふは、亀卜の亀のした覆奏《カヘリマヲシ》の形式の変形と見るべきもので、此に対しての呪言を求めれば、中臣太詔詞の外はない。亀卜の亀の精霊が、太詔戸[#(ノ)]命では訣《わか》らぬ事である。「亀卜祭文」なども、神祇官の卜部等の唱へ出したものであらう。 [#5字下げ]三 奏詞の発達[#「三 奏詞の発達」は中見出し] 呪言は元、神が精霊に命ずる詞として発生した。自分は優れた神だと言ふ事を示して、其権威を感銘させる物であつた。緘黙《シヾマ》を守る岩・木・草などに開口《カイコウ》させようとしても、物言はぬ時期があつた。其間は、其意志の象徴としてほ[#「ほ」に傍線](又はうら[#「うら」に傍線])を出さしめる。呪言に伴うて精霊が表す神秘な標兆として、秀《ホ》即|末端《ウラ》に露《あらは》れるものゝ意である。 [#ここから2字下げ] 答へて曰はく「はたすゝきほ[#「ほ」に傍線]に出しわれや、尾田吾田節《ヲタアタフシ》の淡《アハ》の郡に居る神なり」と。(神功紀) [#ここで字下げ終わり] かうした用語例が転じて、恋ひ心のそぶり顔に露れることを「ほにいでゝ……」と言ふ。うら[#「うら」に傍線]も亦、 [#ここから2字下げ] 武蔵野に 占《ウラ》へ、象灼《カタヤ》き、まさでにも 告らぬ君が名、うら[#「うら」に傍線]に出にけり(万葉集巻十四) [#ここで字下げ終わり] など、恋愛の表情に転じた。うら[#「うら」に傍線]は又「……ほ[#「ほ」に傍線]に出にけり」と言うても同じだ。此等のほ[#「ほ」に傍線]・うら[#「うら」に傍線]の第一義は、精霊の意志標兆であるが、呪言に伴ふ処から、意義は転じ易かつた。うら[#「うら」に傍線]がうらふ[#「うらふ」に傍線](卜)・うらなふ[#「うらなふ」に傍線]の語根になつた理由は、呪言の希望が容れられ、又は容れられない場合のうら[#「うら」に傍線]の出方が違ふ処から出る。 此が一転すると誓約《ウケヒ》と言ふ形になる。呪言を発する者に対して、標兆を示す者は幽界の者であつた。両方で諷誦と副演出とを分担して居る訣である。たつて[#「たつて」に傍点]物言ふまいとする精霊を表したのが「癋《ベシミ》の面」である。此時が過ぎて精霊が開口しかけると、盛んに人の反対に出る。あまのじやく[#「あまのじやく」に傍線]と称する伝説上の怪物が、其から出て居る。気に逆らふ事ばかりする。口返答はする、からかひかける、横着はする。此が田楽以来あつた役目で、今も「里神楽《サトカグラ》」の面にあるもどき[#「もどき」に傍線]――ひよつとこ[#「ひよつとこ」に傍線]の事で、もどく[#「もどく」に傍線]は、まぜかへし邪魔をし、逆に出るを言ふ――に扮する人の滑稽所作を生んだ。 能楽の方では、古くもどき[#「もどき」に傍線]の名もあるが、専ら狂言として飛躍した。事実は脇役なども、もどき[#「もどき」に傍線]の変態なのであつた。狂言方の勤める「間語《アヒカタ》り」なども、もどき[#「もどき」に傍線]の口まね[#「口まね」に傍線]から出て、神などに扮した人の調子の低いはずの詞を、大きな声でとりつぐ様な役が分化してゐた。其が、あひ語り[#「あひ語り」に傍線]まで伸びて行つたのだ。宮廷神楽の「才《サイ》の男《ヲ》」の「人長」との関係も、神と精霊とから転化して来たのだ。此系統が千秋《センズ》万歳を経て、後世の万歳太夫に対する才蔵にまで、大した変化なく続いた。 又もどき[#「もどき」に傍線]は大人を悩す鋭い子役に変化してもゐる。延年舞以後ある大[#「大」に白丸傍点]・少[#「少」に白丸傍点]の対立で、田楽・能楽にも此要素は含まれて居た。殊に幸若舞系統から出た江戸歌舞妓では大[#「大」に白丸傍点]・少[#「少」に白丸傍点]の舞以外にも、とりわけ「少」の勢力が増して来た。猿若の如きは「少」から出たものである。若衆歌舞妓も其変態であつた。日本の演劇史に、もどき役[#「もどき役」に傍線]の考へを落したものがあつたら、無意味な記録になつて了ふであらう。 天狗・山男或は、四国の山中に居るといふさとり[#「さとり」に傍線]など言ふ怪物は、相手の胸に浮ぶ考へは、一々知つて了ふ。思ひがけなくはね返した竹の輪や、炉火の為に敗亡して了うたと言ふ伝説が数へきれぬほどある。精霊に呪言を悟られぬ様にせねばならない。此をあべこべに唱へかけられると、精霊に征服せられるものと考へたらしい。神武天皇が、道臣[#(ノ)]命にこつそり策を授けて、諷歌倒語で、国中の妖気を掃蕩せしめられたと日本紀にある。悪霊・兇賊が如何に速かに呪言を唱へ返しても、詞どほりの効果しか無かつた。意想外に発言者の予期した暗示のまゝに相手に働きかけて、亡ぼして了うたのである。舌綟り、早口文句などが発達したのも、呪言の効果を精霊に奪はれまい為であつた。 山彦即木霊は、人の声をまねる処から、怖ぢられた。山の鳥や狸などにも、根負けしてかけあひ[#「かけあひ」に傍線]を止めると、災ひを受けると言ふ伝へが多い。呪言の効果が相殺してゐる場合、一つ先に止めると、相手の呪言の禍を蒙らねばならないのだ。 精霊と実際呪言争ひをする時はなかつたとしても、此畏れの印象する場合が多かつた。祭りの中心行事は、神・精霊の両方に扮した人々の呪言争ひが繰り返されるのであつた。国家時代に入つて、呪言から分化した叙事詩から、抒情脈の叙事詩なる短詩形の民謡が行はれる様になると、群行の神を迎へる夜遊びが、邑落によつては、斎庭に於て行はれた。神々に扮した村の神人と、村の巫女たる資格を持つた女たちとが相向き立つて、歌垣の唱和を挑んだ。最初はきまつた呪言や、呪言の断篇のかけあひ[#「かけあひ」に傍線]をしたのに過ぎなかつたのであらうが、類型ながら段々創作気分が動いて来た。此場の唱和に特別の才人でなければ、大抵苦い目を見てゐる。此が呪言争ひの体験である。又外の村人どうし数人づゝ草刈り・山猟などで逢へば(播磨風土記などに例がある)呪言のかけあひ[#「かけあひ」に傍線]が始まる。今も地方によつては、節分の夕方・十四日年越しの宵などに、隣村どうし、子どもなどが地境に出て、型どほり悪たいのかけあひ[#「かけあひ」に傍線]をする処もある。民間伝承には、此通り、呪言唱和の注意せられた印象が残つて居る。文学史と民俗学との交渉する処は大きいと言はねばならぬ。 [#5字下げ]四 奉仕の本縁を説く寿詞[#「四 奉仕の本縁を説く寿詞」は中見出し] ほく[#「ほく」に傍線]はほかふ[#「ほかふ」に傍線]とも再活し、語尾が替つてほむ[#「ほむ」に傍線]ともなつて居る。又ほさく[#「ほさく」に傍線]と言ふ形もあつた。うらふ[#「うらふ」に傍線]は、夙く一方に意義が傾き過ぎたが、ほく[#「ほく」に傍線]は長く原義に近く留つて居た様に見える。唯恐らくは、ほ[#「ほ」に傍線]の現出するまで祝言を陳べる事かと思ふのに、記・紀・祝詞などの用例は、象徴となる物を手に持ち、或は机に据ゑて、其物の属性を、対象なる人の性質・外形に準《ヨソ》へて言ふか、全く内的には関係なくとも、声音の聯想で、祝言を結びつけて行くかゞ、普通になつて居た。 其中常例として捧げられた物は御富岐《ミホキ》[#(ノ)]玉である。聖寿を護る誓約《ウケヒ》のほ[#「ほ」に傍線]として、宮殿の精霊が出す――実は、斎部の官人が、天子常在の仁寿殿及び浴殿・厠殿の四方に一つ宛懸けるのである――事になつて居たらしい。大殿|祭《ホカヒ》を行ふ日の夜明けに、中臣・斎部の、官人・御巫《ミカムコ》等行列を作つて常用門と言ふべき延政門におとづれて、其処から入つて斎部が祝詞を唱へて廻る。宮殿の精霊に供物を散供して歩くのが、御巫の役だ。此は、呪言の神が宮殿を祝福し、其と同時に聖寿を賀した古風を残して居るのである。玉は、呪言の神の呪言に対して、宮殿の精霊の示したほ[#「ほ」に傍線]なのである。だから大殿祭祝詞の御吹支乃玉《ミフキノタマ》の説明は、後代の合理と言うてよい。斎部の扮する呪言の神は、元別に時々来臨する者のあつたのが、絶えてからの代役で、其すら長い歴史を持つ様になつたのではないかと思ふ。 中臣氏のは其と違つて、水取りの本縁を述べた「中臣[#(ノ)]天[#(ツ)]神[#(ノ)]寿詞《ヨゴト》」を伝へて居た。此は氏々の寿詞の起原とも称すべきもので、尊者から卑者に誓《ウケ》は――信諾を約せ――しめる為の呪言が、卑位から高位に向けて発する第二義の呪言(寿詞)を分化し、――今一つ別の考へも立つ――繁栄させる風を導いた。極めて古い時代には、朝賀の賀正事《ヨゴト》には専ら此を奏上して、神界に君臣の分限が明らかだつた事始めを説いて、其時の如く今も忠勤を抽んでゝ天子に仕へ、其健康を保障しようとする事を誓うた。だから、氏々の人々も、此を各の家の聖職の本縁を代表する物と信じ、等しく拝跪して、其誓約の今も、家々にも現実の効果あるべきを示した。 中臣寿詞以外、氏々の賀正事《ヨゴト》――誄詞《シヌビゴト》も同じ物で、其用途によつて別名をつけたまでゞある。氏々の誄《シヌビゴト》・百官の誄など奏したのも、或期間、魂の生死に弁別がなかつた為だ――にも共通の慣用句であつたらしい「現御神[#(止)]大八洲国所知食[#(須)]大倭根子天皇云々」と言ふ讃詞は、天子の神聖な資格を示す語として、賀正事から、此に対して発達したと思はれる詔旨(公式令)の上にも、転用せられて行つた。氏々の聖職の起原――転じては、臣従の由来――を説く寿詞(賀正事としてが、最初の用途)が、朝賀の折に、数氏の長上者《カミ》等によつて奏上せられる様になつてからは、其根元たる中臣寿詞は、即位式――古くは二回、大嘗祭にも――に奏上せられることに定まつて来たのである。 中臣氏の神のほ[#「ほ」に傍線]は、水であつた。初春の聖水は、復活の威霊の寓りとして、変若水《ヲチミヅ》信仰の起因となつたものである。天子のみ代《ヨ》替りを以て、日《ヒ》の御子《ミコ》の断えざる復活の現象と考へ、其を促す力を水にあるものと見たのである。ほ[#「ほ」に傍線]の原始に近い意義として、古典から推定出来るものは、邑落時代に持つて居た、邑落々々の守護霊――外来威力――の寓りと看做された形ある物及び現象であつた。ほ[#「ほ」に傍線]を提出する事が、守護の威霊を護り渡して、相手の威力・生活力を増させる訣である。ほ[#「ほ」に傍線]を示す即ほく[#「ほく」に傍線]動作が臣従を誓ふ形式になる所以である。 ほく[#「ほく」に傍線]が元、尊者から卑者にする事であつたのは、一方親近者の為に、威霊を分つ義のあつた事からも知れる。天照大神が、おしほみゝの命[#「おしほみゝの命」に傍線]――み子であるが、すめみまの命[#「すめみまの命」に傍線]と言ふ事は、語原及び其起原なる古信仰から見てさしつかへはない――の為に、手に宝鏡を持つて授けて、祝之《ホキテ》曰く、 [#ここから2字下げ] 此宝鏡を視ること我を視るごとくなるべし。床を同《トモ》にし、殿を共にして斎鏡《イハヒノカヾミ》とすべし。(紀一書) [#ここで字下げ終わり] と言はれたとも、「鏡劔を捧げ持ち賜ひて、言寿宣《コトホキノリ》たまひしく」(大殿祭祝詞)と言ふ様な伝へもある。此は、「己《オノ》が命《ミコト》の和魂《ニギタマ》を八咫鏡に取り託《ツ》けて」(国造神賀詞)など言ふ信仰に近づいてゐるのだ。威霊を与へると云ふ点では一つである。身替りの者の為に威霊の寓りを授ける呪言を唱へる事も、ほく[#「ほく」に傍線]と言ふやうになつた事を示してゐる。古代から近代に伝承せられた「衣配《キヌクバ》り」の風習も此である。外来魂を内在魂と同視した処から「とりつける」と言ふ様な考へ方になつて来る。 とにかく、ほく[#「ほく」に傍線]は外来魂の寓りなるほ[#「ほ」に傍線]を呼び出す動作で、呪言神が精霊の誓約の象徴を徴発する詞及び副演の義であつた。其が転じてほ[#「ほ」に傍線]を出す側から――精霊の開口《カイコウ》を考へ出した時代に――ほ[#「ほ」に傍線]に附随した説明の詞を陳べる義になつて、ほ[#「ほ」に傍線]を受ける者の生命・威力を祝福する事と考へられ、更に転じてほ[#「ほ」に傍線]が献上の方物となり、其に辞託《コトヨ》せて祝福を言ひ立てる――或は、場合や地方によつて、副演も保存せられた――事を示すやうになつた(イ)。 この以前からほき[#「ほき」に傍線]詞《コト》は、生活力増進の祝福詞である為に、齢詞《ヨゴト》の名を持つて居たらしく、よごと[#「よごと」に傍線]必しも奏詞にも限らなかつた様である。其が段々のりと[#「のりと」に傍線]の宣下せられるのに対して、奏上するものと考へられる様になつて来たのは、宮廷の大事なる受朝朝賀の初春の宣命《ノリト》と奏寿《ヨゴト》――元日受朝の最大行事であつた事は後の令の規定にまで現れてゐる――の印象が、此を区別する習慣を作つて行つたものと思はれる。尚よごと[#「よごと」に傍線]は縁起のよい詞を物によそへて言ふ処から、善言・美詞・吉事などの聯想が、奈良の都以前からもあつた。其前から、霊代《たましろ》としてのほ[#「ほ」に傍線]の思想もあつた処から転じて、兆象となる物を進めて、かくの如くあらしめ給へと、呪言者の意思を代表する意義のほ[#「ほ」に傍線]と、其に関聯したほく[#「ほく」に傍線]動作も出て来た(ロ)。 (イ)[#「(イ)」は縦中横]のほく[#「ほく」に傍線]は寿詞《ヨゴト》であり、(ロ)[#「(ロ)」は縦中横]のほく[#「ほく」に傍線]は、宮廷では、のりと[#「のりと」に傍線]――斎部祝詞の類――に含めてよごと[#「よごと」に傍線]と区別して居た。詔旨《ノリト》と寿詞《ヨゴト》との間に、天神に仮託した他の神――とこよ神[#「とこよ神」に傍線]の変形。呪言神の資格が低下した時代の信仰――の、精霊を鎮める為に寄せた護詞《イハヒゴト》が考へられてゐた。此は、家屋の精霊のほ[#「ほ」に傍線]を、建築の各部に見立てゝ言ふ形式の詞章で、此を「言ひ立て」又「読《ヨ》み詞《ゴト》」と言ひ、さうした諷誦法をほむ[#「ほむ」に傍線]と言うて、ほく[#「ほく」に傍線]から分化させて来た。「言ひ立て」は、方式の由来を説くよりも、詞章の魅力を発揮させる為の手段が尽されてゐたので、特別に「言寿《コトホギ》」とも称してゐた。 さうして、他の寿詞《ヨゴト》に比べて、神の動作や、稍複雑な副演を伴ふ事が特徴になつてゐた。此言寿[#「言寿」に傍線]に伴ふ副演の所作が発達して来た為、ほく[#「ほく」に傍線]事をすると言ふ意の再活用ほかふ[#「ほかふ」に傍線]と言ふ語が出来た。ほかひ[#「ほかひ」に傍線]は、ことほき[#「ことほき」に傍線]の副演なる身ぶりを含むのが用語例である。斎部祝詞の中心なる大殿祭をおほとのほかひ[#「おほとのほかひ」に傍線]と言ひ馴れたのも此為である。さうした異神群行し来つて、鎮祭を司る遺風を伝へたものは、大殿祭や室寿《ムロホギ》ばかりではなかつた。宮廷の大祓へに伴ふ主上の御贖《オンアガナ》ひの節折《ヨヲ》りの式にも、此があつた。上元の行事たる踏歌節会《タウカノセチヱ》の夜に、ことほきびと[#「ことほきびと」に傍線]の高巾子《カウコンジ》などにやつした異風行列の練り歩くのも、此群行のなごりである。 [#3字下げ]叙事詩の成立と其展開と[#「叙事詩の成立と其展開と」は大見出し] [#5字下げ]一 呪言から叙事詩・宮廷詩へ[#「一 呪言から叙事詩・宮廷詩へ」は中見出し] 祭文《サイモン》・歌祭文などの出発点たる唱門師《シヨモジン》祭文・山伏祭文などは、明らかに、卜部や陰陽師の祭文から出て居る。祝詞・寿詞に対する護詞《イハヒゴト》の出で、寺の講式の祭文とは別であつたやうだ。だが此には、練道《レンダウ》・群行《グンギヤウ》の守護神に扮装した来臨者の諷誦するものと言ふ条件がついて居た様である。 詔旨《ノリト》と奏詞《ヨゴト》との間に「護詞《イハヒゴト》」と言ふものがあつて、古詞章の一つとして行はれて居た。奈良以前からの用例に拠れば、此はよごと[#「よごと」に傍線]と言ふ方が適当らしいのに、其中の一部、伝承の古い物には、のりと[#「のりと」に傍線]とも称したのが、平安朝の用語例である。斎部祝詞は多く其だ。此三種類の詞章の所属を弁別するには、大体、其慣用動詞をめど[#「めど」に傍線]にして見るとよい。のりと[#「のりと」に傍線]はのる[#「のる」に傍線]、よごと[#「よごと」に傍線]にはたゝふ[#「たゝふ」に傍線]、氏々の寿詞ではまをす[#「まをす」に傍線]、ことほぎのよごと[#「ことほぎのよごと」に傍線]にはほく[#「ほく」に傍線]・ほむ[#「ほむ」に傍線]、いはひ詞[#「いはひ詞」に傍線]にはいはふ[#「いはふ」に傍線]・しづむ[#「しづむ」に傍線]・さだむ[#「さだむ」に傍線]・ことほぐ[#「ことほぐ」に傍線]など、用語例が定まつて居たことは察せられる。其正しい使用と、実感とが失はれた時代の、合理観から来る混乱が、全体の上に改造の力を振うた後の整頓した形が、平安初期以後の祝詞の詞章である。 かうした事実の根柢には、古代信仰の推移して来た種々相が横たはつて居る。代宣者の感情や、呪言伝承・製作者らの理会や、向上しまた沈淪した神々に対する社会的見解――呪言神の零落・国社神の昇格から来る――や、天子現神思想の退転に伴ふ諸神礼遇の加重などが、其である。延喜式祝詞は、さうした紛糾から解いてかゝらねば、実は隈ない理会は出来ないのである。 と[#「と」に傍線]と言ふ語《ことば》が、神事の座或は、神事執行の中心様式を示すものであつたらうと言ふことは、既に述べた。恐らくは神座・机・発言者などの位置のとり方について言ふものらしいのである。ことゞ[#「ことゞ」に傍線]・とこひど[#「とこひど」に傍線](咀戸)・千座置戸《チクラオキド》(くら[#「くら」に傍線]とと[#「と」に傍線]とは同義語)・祓戸《ハラヘド》・くみど[#「くみど」に傍線]などのと[#「と」に傍線]は、同時に亦のりと[#「のりと」に傍線]のと[#「と」に傍線]でもあつた。宣る時の神事様式を示す語で、詔旨を宣べる人の座を斥《サ》して言つたものらしい。即、平安朝以後|始中終《しよつちゆう》見えた祝詞座・祝詞屋の原始的なものであらう。其のりと[#「のりと」に傍線]に於て発する詞章である処からのりと[#「のりと」に傍線]詞《ゴト》なのであつた。天《アマ》つのりと[#「つのりと」に傍線]とは天上の――或は其式を伝へた神秘の――祝詞座即、高御座《タカミクラ》である。其処で始めて発せられ、其様式を襲《つ》いでくり返す処の伝来の古詞が「天つのりと[#「天つのりと」に傍線]の太のりと詞[#「太のりと詞」に傍線]」なのである。のりとごと[#「のりとごと」に傍線]のこと[#「こと」に傍線]を修飾上の重言のやうに解して来た此までの考へは、逆に略語としての発生に思ひ直さねばならぬのである。 前に述べたとほり、よごと[#「よごと」に傍線]の意義が低くなつて行くのはやむを得なかつた。其と共に、上から下へ向けての詞章は別の名を得る様になつた。其がのりと詞[#「のりと詞」に傍線]である。卑者が尊者に奏する詞がよごと[#「よごと」に傍線]と呼ばれるものと言ふ受け持ちが定まつて来ると、人以外の精霊を対象とする詞章も亦、よごと[#「よごと」に傍線]の外にいはひ詞[#「いはひ詞」に傍線]と言ふ名に分類せられる様になつた。此類までものりと[#「のりと」に傍線]にこめた延喜式祝詞の部類分けは、甚《はなはだ》、杜撰なものであつた。 いはひ詞[#「いはひ詞」に傍線]を諷誦し、其に伴ふ副演を行ふ事が、ほかふ[#「ほかふ」に傍線]の用語例である事は、前章に述べた。宮廷祝詞の中では、斎部氏が担当してゐた方面の為事が、呪言の古意を存して居た。民間の呪言に於ても、いはひ詞[#「いはひ詞」に傍線]及び其ほかひ[#「ほかひ」に傍線]が、全体として原始的な呪言に最近いものであつたのである。呪言の中に既に、地《ヂ》と詞《コトバ》との区別が出来て来て、其詞の部分が最神秘的に考へられる様になつて行つた。すべては、神が発言したと考へられた呪言の中に、副演者の身ぶりが更に、科白《セリフ》を発生させたのである。さうすると、呪言の中、真に重要な部分として、劇的舞踊者の発する此短い詞が考へられる様になる。此部分は抒情的の色彩が濃くなつて行く。其につれて呪言の本来の部分は、次第に「地《ヂ》の文」化して、叙事気分は愈《いよいよ》深くなり、三人称発想は益《ますます》加つて行く。かうして出来たことば[#「ことば」に傍線]の部分は、多く神の真言と信じられる処から、呪言中の重要個処・秘密文句と考へられる。だから、呪言が記録せられる様になつても、此部分は殆どすべて、口伝として省略せられたのである。延喜式祝詞に、天つのりと[#「天つのりと」に傍線]の部分が、抜きとられてゐるのは、此為である。 呪言の中、宗教儀礼・行事の本縁を語ると共に、其詞章どほりの作法を伴ふものと、既に作法・行事を失うて、唯呪言のみを伝へるものとが出来て来た。鎮魂法の起原を説く天窟戸の詞章は、物部氏伝来の鎮魂法を行ふやうになつては、儀礼と無関係な神聖な本縁詞に過ぎなくなつて居た。大祓詞を以て祓へを修する時代になつては、すさのをの命[#「すさのをの命」に傍線]を始めと説く天つ罪の祓への呪言――天上悪行から追放に到る物語を含む――も、国つ罪の起原・禊《ミソ》ぎの事始めを説明した呪言――いざなぎの命[#「いざなぎの命」に傍線]の黄泉《よみ》訪問から「檍原《アハギハラ》の禊ぎ」までをこめた――も、単なる説明詞章に過ぎなくなつて了うた。 神事の背景たる歴史を説く物と、神事の都度現実の事件としてくり返す劇詩的効果を持つ物との間には、どうしても意義分化が起らないではすまなくなる。此が呪言から叙事詩の発生する主要な原因である。だから、呪言は、過去を説くものでなく、過去を常に現実化して説くものであつた。其が後に、過去と現在との関係を説くものばかりになつたのは、大きな変化である。叙事詩の本義は現実の歴史的基礎を説く点にある。而も尚全くは、呪言以来の呪力を失うた、単なる説話詩とは見られては居なかつた。やはり神秘の力は、此を唱へると目醒めて来るものとせられて居たのである。叙事詩に於て、ことば[#「ことば」に傍線]の部分が、威力の源と考へられたのは、呪言以来とは言へ、地の文の宗教的価値減退に対して、其短い抒情部分に、精粋の集まるものと見られたのは、尤《もつとも》なことである。 呪言の中のことば[#「ことば」に傍線]は叙事詩の抒情部分を発生させたが、其自身は後に固定して短い呪文或は諺《コトワザ》となつたものが多かつた様である。叙事詩の中の抒情部分は、其威力の信仰から、其成立事情の似た事件に対して呪力を発揮するものとして、地の文から分離して謳《うた》はれる様になつて行つた。此が、物語から歌の独立する経路であると共に、遥かに創作詩の時代を促す原動力となつたのである。此を宮廷生活で言へば、何|振《ブリ》・何|歌《ウタ》など言ふ大歌《オホウタ》(宮廷詩)を游離する様になつたのである。宮廷詩の起原が、呪文式効果を願ふ処にあつて、其舞踊を伴うた理由も知れるであらう。 呪言の総名が古くは、よごと[#「よごと」に傍線]であつたのに対して、ものがたり[#「ものがたり」に傍線]と言ふのが叙事詩の古名であつた。さうして、其から脱落した抒情部分がうた[#「うた」に傍線]と言はれた事を、此章の終りに書き添へて置かねばならぬ。 [#5字下げ]二 物語と祝言と[#「二 物語と祝言と」は中見出し] 日本の歌謡史に一貫して、其声楽方面の二つの術語が、久しく大体同じ用語例を保ちながら行はれて居る。かたる[#「かたる」に傍線]とうたふ[#「うたふ」に傍線]とが、其だ。旋律の乏しくて、中身から言へば叙事風な、比較的に言へば長篇の詞章を謡ふのをかたる[#「かたる」に傍線]と言ふ。其反対に、心理律動の激しさから来る旋律豊かな抒情傾向の、大体に短篇な謡ひ物を唱へる事をうたふ[#「うたふ」に傍線]と称して来た。此二つの術語は、どちらが先に出来たかは知れぬが、詞章としてはかたり物[#「かたり物」に傍線]の方が前に生れて居る。其うちから段々うたひ物[#「うたひ物」に傍線]の要素が意識せられる様になつて来て、游離の出来る様な形になり、果ては対立の地位を占める様になつて行つた。 うたふ[#「うたふ」に傍線]はうつたふ[#「うつたふ」に傍線]と同根の語である。訴ふに、訴訟の義よりも、稍広い哀願・愁訴など言ふ用語例がある。始め終りを縷述して、其に伴ふ感情を加へて、理会を求める事に使ふ。此義の分化する前には、神意に依つて判断した古代の裁判に、附随して行はれる行事を示して居た。勿論うたふ[#「うたふ」に傍線]と言ふ形で其を示した。神の了解と同情とに縋る方法で、うけひ[#「うけひ」に傍線](誓約)と言ふ方式の一部分であつたらしい。うたふ[#「うたふ」に傍線]と云ふ語の第一義と、うたふ[#「うたふ」に傍線]行為の意識とが明らかになつたのは、神判制度から発生したのである。うけひ[#「うけひ」に傍線]の形から男女の誓約法が分化して、ちかひ[#「ちかひ」に傍線]と称せられた。 此ちかひ[#「ちかひ」に傍線]の歌が、うけひ[#「うけひ」に傍線]の際のうたへ[#「うたへ」に傍線]の形式を襲いで、抒情詩発生の一つの動機を作り、うたへ[#「うたへ」に傍線]の声楽的な方面を多くとりこんだ為に、うたふ[#「うたふ」に傍線]が声楽の抒情的表出全部を言ふ語となつたものと思ふ。段々うたふ[#「うたふ」に傍線]の語尾変化によつて、うたへ[#「うたへ」に傍線]とうたひ[#「うたひ」に傍線]とを区別する様になつた。従つてうけひ[#「うけひ」に傍線]の場《ニハ》で当人の誦する詞が、うた[#「うた」に傍線]と言ふ語の出発点といふ事になる。尤、うたふ[#「うたふ」に傍線]ことの行為は前からあつたもので、其がうけひ[#「うけひ」に傍線]にうた[#「うた」に傍線]をうたふ[#「うたふ」に傍線]のが、其代表的に発達した形だつたからであらう。全体うた[#「うた」に傍線]と語根を一つにしてゐるらしい語には、悲愁・寃屈《ゑんくつ》・纏綿などの義を含んでゐるのが多い。 後世のくどき[#「くどき」に傍線]と言ふ曲節は此に当るもので、曲舞・謡曲時代から、抒情脈で縷述する部分の術語になつて居た。其が、近世では固定して、抒情的叙事詩の名称になつて、くどき[#「くどき」に傍線]と言へば、愁訴を含んだ卑俗な叙事的恋愛詞曲と言ふ風になつた。発生的には逆行してゐる次第である。一人称で発想せられてゐるが、態度は、三人称に傾いた地の文に対して、やはり叙事式の発想をしながら、くどき[#「くどき」に傍線]式に抒情気分を豊かに持つたものがうた[#「うた」に傍線]と見ればよからう。さうした古代の歌には、聴きてを予想してゐたらうと思はれる様な、対話式の態度が濃く現れて居る。 私は、叙事詩よりも呪言系統の物から、歌の発生の経路を見た方が、本義を捉へ易いと考へるから、一例として、万葉巻十六の「乞食者詠」について説明を試みたい。乞食者は祝言職人である。土地を生業の基礎とせぬすぎはひ人[#「すぎはひ人」に傍線]の中、諸国を流離して、行く先々でくちもらふ[#「くちもらふ」に傍線]生活を続けて居た者は、唯此一種類あつたばかりである。行基門流の乞食者が認められたのは、奈良の盛時に入つてのことである。だから、乞食者とは言ひでふ、仏門の乞士以後の者とは内容が違つてゐる。ほかひ[#「ほかひ」に傍線]によつて口すぎをして、旅行して歩く団体の民を称したのである。 詠は、うた[#「うた」に傍線]と訓みなれて来たけれど、正確な用字例は、舞人の自ら諷誦する詞章である。だから、いはひ[#「いはひ」に傍線]詞《ゴト》を以てほかひ[#「ほかひ」に傍線]して歩いた祝言職人の芸能に、地に謳ふ部分と、科白として謳ふ歌の部分とのあつた事が推定出来る。言ひ換へれば、此歌は劇的舞踊の詞章であつて、別に地謡とも言ふべき呪言のあつた事が、表題の四字から察せられる。 更に本文に入つて説いて行くと、呪言とほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]と、叙事詩と歌との関係が明らかになる。「いとこ汝兄《ナセ》の君《キミ》」と言ふ歌ひ出しは「ものゝふの我がせこが。……」(清寧記)と言つた新室の宴《ウタゲ》の「詠」と一つ様である。又二首共結句に [#ここから2字下げ] ……我が身一つに、七重花さく 八重花|栄《ハ》ゆ(?)と、白賞尼《マヲシタヽヘネ》。白賞尼《マヲシタヽヘネ》 ……我が目らに、塩塗り給《タ》ぶと、|時(?)賞毛《マヲシタヽヘモ》。時賞毛《マヲシタヽヘモ》 [#ここで字下げ終わり] とあるのは、寿詞の口癖の文句らしい。「鹿」の方の歌の「耆矣奴吾身一爾……」を橋本進吉氏の訓の様に、おいやつこ[#「おいやつこ」に傍線]と訓むのが正しいとすれば、顕宗帝の歌の結句の [#ここから2字下げ] おしはのみこのやつこ[#「やつこ」に傍線]みすゑ(記) おとひやつこ[#「やつこ」に傍線]らまぞ。これ(紀) [#ここで字下げ終わり] と言ふのに当るもの、此亦《これまた》呪言の型の一つと言はれ、寿詞系統の、忠勤を誓ふ固定した言ひ方と見る事も出来る。 対句の極めて多いのも、調度・食物類の名の畳みかけて述べられてゐる事も、地名の多く出て来るのも、新室の寿詞[#「寿詞」に傍線]系統の常用手法である。建築物の内部に満ちた富みを数へ立て、其出処・産地を述べ、又其一つ一つに寄せて祝言を述べる方法は、後の千秋万歳に到るまでも続いた言ひ立て[#「言ひ立て」に傍線]である。而も二首ながら「あしびきの此|傍《カタ》山の……」と言つて木の事を言ふのは、大殿祭《オホトノホカヒ》や山口祭《ヤマクチマツリ》の祝詞と一筋で、新室祝言の型なる事を明らかに見せて居る。 室寿詞は、いはひ詞[#「いはひ詞」に傍線]の代表形式で、すべての呪言が其型に這入つて発想せられた事実は証明する事が出来る。此二首なども元、農業の害物駆除の呪言から出たのであるが、やはり、室寿詞の定型を履《ふ》んでは居る。農村の煩ひとなる生き物の中、夜な/\里に出て成熟した田畑を根こそげ荒して行く鹿、年によつてはむやみに孵《かへ》つて、苗代田を螫み尽す蟹、かうした苦い経験が、此ほかひ歌[#「ほかひ歌」に傍線]を生み出したのである。元は、鹿や蟹(其効果は他の物にも及ぶ)に誓はす形であつた呪言が、早く芸能化して、鹿・蟹の述懐歌らしい物に変化して行つたのである。即《すなはち》鹿・蟹に対する呪言及び其副演の間に、当の田畑を荒す精霊(鹿・蟹を代表に)に扮した者の誓ふ身ぶりや、覆奏詞《カヘリマヲシ》があつたに違ひない。其部分が発達して、滑稽な詠、をこ[#「をこ」に傍点]な身ぶりに人を絶倒させる様な演芸が成立して居たものと思ふ。二首ながら、夫々《それぞれ》の生き物のからだ[#「からだ」に傍線]の癖を述べたり、愁訴する様を謳うたりして居る。又道行きぶりの所作――王朝末から明らかに見えて、江戸まで続いた劇的舞踊の一要素たる海道下り・景事《ケイゴト》の類の古い型――にかゝりさうな箇所もある。 古代の舞踊に多かつた禽獣の物まねや、人間の醜態を誇張した身ぶり狂言は、大凡《おほよそ》精霊の呪言神に反抗して、屈服に到るまでの動作である。もどき[#「もどき」に傍線]の劇的舞踊なのである。後世ひよ/\舞[#「ひよ/\舞」に傍線]と言はれる鳥名子《トナゴ》舞・侏儒《ヒキウド》の物まね(殊舞と書くのは誤り)なるたつゝまひ[#「たつゝまひ」に傍線]、水に溺れる様を演じる隼人のわざをぎ[#「わざをぎ」に傍線]――海から来る水を司る神、作物を荒す精霊との争ひの記憶が大部分に這入つてゐる――さうしたふりごと[#「ふりごと」に傍線]としての効果は、此二首にも、十分に現れて居る。 鹿・蟹が甘んじて奉仕しようとすると言つた表現は、実は臣従を誓ふ形式から発して来たものと解するがよい。私は此二首を以て、飛鳥朝の末或は藤原朝――飛鳥の地名を広くとつて――の頃に、ほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]の祝言が既に、演劇化してゐた証拠の貴重な例と見る。尚此に関聯して言ひたい事は、呪言の副演の本体は人間であるが、もどき役[#「もどき役」に傍線]に廻る者は、地方によつて違つて居たことを言ひたい。其が人間であつたことも勿論あるが、ある国・ある家の神事に出る精霊役は、人形である事もあり、又鏡・瓢などを顔とした仮りの偶人であつたことも考へてよい根拠が十分にある。 此ほかひ[#「ほかひ」に傍線]の歌の如きは、時代の古いに係らず、其先に尚古い形のあつて、現存の呪言に絶対の古さを持つものゝない事を示して居る。だが同時に、此詠から呪言の中に科白が生じ、其が転じて叙事詩中の抒情部分が成立し、又其独立游離する様になる事の論理を、心に得る事は出来るのである。 私はことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]を行ふ者と、物語を伝誦する語部との間に、必しも絶対的な区劃があつたものとは考へない。けれども大体に於て、此だけは言つてもよい様である。叙事詩及び若干のまだ呪力の信ぜられた呪言を綜合して、可なりの体系をなした物の伝承諷誦を主とする職業団体を語部と呼んでよい事、特殊な呪言と呪力とを相承し、其に関聯した副演出を次第に劇化して行つた団体で、さうした動作が清浄な結果を作るものと信頼せられてゐたのが、宮廷では斎部――及び後々の卜部《ウラベ》――国々村々では、ほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]・ことほき[#「ことほき」に傍線](ことほきびと[#「ことほきびと」に傍線]の略語)或は亦斎部とも卜部とも言つた事である。倭宮廷及び社会状態の其と似通うた国々村々の多くでは、此語部・ほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]の職掌範囲が分れてゐた事は実際である。 [#5字下げ]三 語部とほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]と[#「三 語部とほかひゞとと」は中見出し] 私の考へ得た処では、語部の伝統や職掌は、宮廷のものすら一定不変ではなかつた。時代によつて、目的・伝統が変化して居る。家筋の側から言へば、更に幾筋の系統を考へる事も出来さうだが、大凡三つの部曲は明らかに認めてもよい。第一|猿女《サルメ》・第二|中臣女《ナカトミメ》・第三|天語部《アマカタリベ》、此三つの系統の語部である。猿女・中臣女の如きは、恐らくは時を同じくして併立して居たものであらうが、勢力にはそれ/″\交替があつた。天語部は後のわり込みで、猿女・中臣女に替つたものと見る事が出来る。 猿女の統率階級は猿女《サルメ》[#(ノ)]君《キミ》で、伝説の祖先うずめの命[#「うずめの命」に傍線]以来、女戸主を原則とした氏族である。此系統の語部は、まだ呪言と甚しく岐れない時代の叙事詩を諷誦したらしく、主として鎮魂法の為に、鎮魂の来歴を説くを職としたやうである。而も此|天《アマ》[#(ノ)]窟戸《イハト》の物語を中心にした鎮魂の呪言に、其誘因として語られた天つ罪[#「天つ罪」に傍線]及び祓《ハラ》へ・贖《アガナ》ひの起原を説く物語、更に魂戦《モノアラソヒ》の女軍《メイクサ》の由来に関聯した天孫降臨の大事などが、一つの体系に組織だてられて来た。 さうした結果、うずめ[#「うずめ」に傍線]中心の猿女叙事詩が、宮廷が国家意識の根柢となつた時代には纏《まとま》つて居た。開闢の叙事詩よりも、天孫降臨を主題とする呪言の、栄えて行くのは当然である。聖職を以て宮廷に仕へる人々或は家々では、其専門に関した宮廷呪言に対しては、其反覆讃歎をせねばならなかつた。此が肝腎の天子ののりと[#「のりと」に傍線]を陰にして、伝宣者が奉行するやうな傾きを作り出したのである。 此伝宣の詔旨――より寧《むしろ》、覆奏――は、分化して宣命に進むものと、ある呪言の本縁を詳しく人に聴かせる叙事詩(物語)に向ふものとが出来て来た。中臣女《ナカトミメ》と汎称した下級巫女の上に、発達して来たものと推定の出来る中臣[#(ノ)]志斐《シヒ》[#(ノ)]連《ムラジ》の職業は茲《ここ》に出自があるものと思ふ。平安宮廷の女房の前身は、釆女其他の巫女である。其女房から「女房宣」の降つた様式は、由来が古いのであつた。宮廷内院の巫女の関係したまつりごと[#「まつりごと」に傍線]ののりと[#「のりと」に傍線]詞《ゴト》は、其々の巫女が伝宣した習慣を思はせる。 国魂の神の巫女なる御巫《ミカムコ》や釆女等の勢力が殖えるまでは、猿女が鎮魂呪法奉仕を中心に、中臣・斎部と対照せられてゐた。だから古代宮廷に於て、猿女が宮廷呪言を、中臣・斎部と分担して伝承して居た分量の多さは察せられる。祭祀・儀礼に発せられたのりと詞[#「のりと詞」に傍線]の叙事詩化して、猿女伝承に蓄へられた物が多かつたであらう。其鎮魂呪言が自然に体系をなして、更に種々の呪言を組織だてゝ行つた事は考へてよい。さうして、其が呪言以外の目的で、奏[#「奏」に白丸傍点]と宣[#「宣」に白丸傍点]との二方便に亘つて物語られるやうになつたのである。かうした方面から見れば「中臣寿詞」もやはりまだ、分化しきらない物語だつたのである。天孫降臨を主題にした叙事詩は猿女系統の口頭伝承に根ざしてゐるのである。 古事記の基礎となつた、天武天皇の永遠作業の一つだと伝へられて居る、習合せられた宮廷叙事詩を、諳誦して居たと言ふ阿礼舎人《アレトネリ》も、猿女[#(ノ)]君の支族なる稗田氏であつた。 [#5字下げ]四 いはひ詞[#「いはひ詞」に傍線]の勢力[#「四 いはひ詞の勢力」は中見出し] 宮廷の語部が「のりと[#「のりと」に傍線]伝承家職」から分化したことは、既に述べた。其に、自家のよごと[#「よごと」に傍線]を含めて組織したものが、語部の語り物|即《すなはち》「物語」である。宮廷以外の豪族の家々にも、規模の大小こそあれ、氏の長上と氏人或は部民との間に、のりと[#「のりと」に傍線]・よごと[#「よごと」に傍線]の宣[#「宣」に白丸傍点]・奏[#「奏」に白丸傍点]が行はれ、同じく語部の叙事詩の物語られた事は、邑落単位だつた当時の社会事情から、正しく察せられる。奈良の末に近い頃の大伴[#(ノ)]家持の「喩族歌」は、大伴氏としてののりと[#「のりと」に傍線]の創作化したものであり、「戒尾張少咋歌」の如きは、のりと[#「のりと」に傍線]の分化して、宣命系統の長歌発想を採つたものである。山[#(ノ)]上[#(ノ)]憶良の大伴[#(ノ)]旅人に餞《はなむけ》した「書殿餞酒歌」の如きものは、よごと[#「よごと」に傍線]の変形「魂乞ひ」ののみ[#「のみ」に傍線]詞《ゴト》の流れである。殊に其中の「あが主《ヌシ》の御魂《ミタマ》たまひて、春さらば、奈良の都に喚上《メサ》げたまはね」とある一首は、よごと[#「よごと」に傍線]としての特色を見せてゐる。 家々伝来の外来魂を、天子或は長上者に捧げると共に、其尊者の内在魂《タマ》の分割《フユ》を授かつた(毎年末の「衣配《キヌクバ》り」の儀の如き)申請《ノミマヲシ》の信仰のなごりが含まれて居る。又遥かに遅れて、興福寺僧の上つた歌(続日本後紀)の如きも、よごと[#「よごと」に傍線]を新形式に創作したと言ふだけのものであつた。 長歌について見ると、のりと[#「のりと」に傍線]・よごと[#「よごと」に傍線]系統のものが著しく多い。藤原[#(ノ)]宮[#(ノ)]御井[#(ノ)]歌の如きは、陰陽道様式を採り容れた創作の大殿祭祝詞(実はいはひ[#「いはひ」に傍線]詞《ゴト》)であり、藤原[#(ノ)]宮|役民《エノタミ》[#(ノ)]歌は、山口祭か斎柱祭《イムハシラマツリ》の類の護詞《イハヒゴト》の変態である。短歌の方でも、病者・死人の為の祈願の歌や、挽歌の中に、屋根の頂上《ソラ》や、蔦根《ツナネ》(つな[#「つな」に傍線]・かげ[#「かげ」に傍線])・柱などを詠んでゐるのは、大殿祭・新室寿の詞章の系統の末である。挽歌に巌門《イハト》・巌《イハ》ねを言ひ、水鳥・大君のおもふ鳥[#「おもふ鳥」に傍線]を出し、杖《ツヱ》策《ツ》いてのさまよひ[#「さまよひ」に傍線]を述べ、紐を云々する事の多いのは、皆、鎮魂式の祭儀から出て居る。極秘となつたまゝで失せた古代詞章から、其文句や発想法が分化して来たものと考へるのが、適当なのである。死後一年位は、生死を判定することの出来なかつたのが、古代の生命観であつた。さうした期間に亘つて、生魂《イキミタマ》を身に固著《フラ》しめようと、試みをくり返した。此期間が、漢風習合以前の日本式の喪《モ》であつたのである。 こふ[#「こふ」に傍線](恋ふ)と云ふ語の第一義は、実は、しぬぶ[#「しぬぶ」に傍線]とは遠いものであつた。魂を欲す[#「魂を欲す」に傍線]ると言へば、はまりさうな内容を持つて居たらしい。魂の還るを乞ふにも、魂の我が身に来りつく事を願ふ義にも用ゐられて居る。たまふ[#「たまふ」に傍線](目上から)に対するこふ[#「こふ」に傍線]・いはふ[#「いはふ」に傍線]に近いこむ[#「こむ」に傍線](籠む)などは、其原義の、生きみ[#「生きみ」に傍線]魂《タマ》の分裂《フユ》の信仰に関係ある事を見せてゐる。 だから恋歌は、後に発達した唱和・相聞の態を本式とすべきではない。生者の魂を身にこひ[#「こひ」に傍線]とる事は、恋愛・結婚の成立である。古代伝承には、女性と男性との争闘を、結婚の必須条件にして居た多くの事実を見せてゐる。死者の霊を呼び還すにも、同じ方法の儀式・同じ発想の詞章が用ゐられた。其為、万葉の如き後の物にすら、多くの挽歌が恋愛要素を含み、相聞に挽歌発想をとつたものを交へてゐるのである。恋歌分化後にも、類型をなぞる事は絶えなかつたからである。 氏々伝承の詞章から展開した歌詞の系統は、右の通り、随分後まで見える。其等の詞章は、大体におふせ[#「おふせ」に傍線]とまをし[#「まをし」に傍線]との二つの形に分れる。寿詞が勢力を持つ時代になると、おふせ[#「おふせ」に傍線]の影は薄くなり、大体まをし[#「まをし」に傍線]に近づく。奈良の宣命や、孝謙・称徳天皇の遣唐使に仰せられた歌(万葉)などを見ると、まをし[#「まをし」に傍線]の形が交つて来てゐる。此は神に対してとるべきおふせ[#「おふせ」に傍線]の様式が、神の向上によつて、まをし[#「まをし」に傍線]に近づいて来た事の影響である。平安の祝詞の悉《ことごと》くが、まをし[#「まをし」に傍線]式になつて了うた原因も、こゝにある。 だから、寿詞が多く行はれ、本義どほりののりと[#「のりと」に傍線]は、宮廷で稀に発せられるだけで、宮廷から下つたものを伝奏・宣下する以外には、のりと[#「のりと」に傍線]と言ふ事が許されなくなつた痕が見える。貴族・神人の伝承詞章は、のりと[#「のりと」に傍線]に這入るべきものでも、よごと[#「よごと」に傍線]と呼ぶ様になつて行つたらしい。かうしたよごと[#「よごと」に傍線]の分化に伴うて、のりと[#「のりと」に傍線]から分化して来たのが、いはひごと[#「いはひごと」に傍線](鎮護詞)であつた。だから、よごと[#「よごと」に傍線]であるべきものが鎮護詞《イハヒゴト》と呼ばれたり、又祝詞と呼ばれる物の中にも、斎部《イムベ》などのいはひ詞[#「いはひ詞」に傍線]を多く交へてゐる訣である。宮廷のものは何でものりと[#「のりと」に傍線]であり、民間のものはすべてよごと[#「よごと」に傍線]と称へ、よごと[#「よごと」に傍線]の中にいはひ詞[#「いはひ詞」に傍線]の分子が殖えて行つて、よごと[#「よごと」に傍線]と言ふ観念が失はれる様になり、そして、のりと[#「のりと」に傍線]に対するものとして、いはひ詞[#「いはひ詞」に傍線]が考へられる様になつた。一般に言ふ平安朝以後の祭文である。だから神託とも言ふべき伝来のものはせみやう[#「せみやう」に傍線]・せんみやう[#「せんみやう」に傍線]など、宣命[#「宣命」に傍線]系統の名を伝へてゐるのだ。 かうして、伝統的によごと[#「よごと」に傍線]と呼ぶものゝ外は、此名目が忘れられて、よごと[#「よごと」に傍線]は、のりと[#「のりと」に傍線]の古い様式の如くにさへ思はれてゐる。此が寿詞をなのる祝詞にすら、いはひ詞[#「いはひ詞」に傍線]と自称してゐるものゝある訣である。一つは、宮廷其他官辺に、陰陽道の方式が盛んになつて、在来の祭儀を習合(合理化)する事になつた為でもある。神祇官にすら、陰陽道系の卜部を交へて来たのは、奈良朝以前からの事である。其陰陽道の方式は鎮護詞《イハヒゴト》と同じ様な形式を採つた。固有様式で説明すると、主長・精霊の間に山人[#「山人」に傍線]の介在する姿をとるのである。祭儀も詞章も、勢ひかうした方面へ進んで行つた為に、文学・演芸の萌芽も、鎮護詞及び其演出の影響ばかりを自然に、深く受けなければならない様になつた。 広い用法で言へば、日本古代詞章の中、わりに短い形の物は、鎮護詞章と其舞踊者の転詠――物語の歌から出た物の外は――から出て居ると謂うてよい程である。鎮護詞章は寿詞であるが、同時に、いはひ詞[#「いはひ詞」に傍線]の発生を導いた内的動機の大きなものになつてゐる。中臣の職掌が益向上し、斎部がいはひ[#「いはひ」に傍線]・きよめ[#「きよめ」に傍線]の中心になる様になると、其わき[#「わき」に傍線]に廻るのは、卜部及び其配下であつた。さうして、広成《ヒロナリ》[#(ノ)]宿禰《スクネ》は、斎部の敵を中臣であると考へてゐた様に称せられるけれども、実は下僚の卜部を目ざしたのであつた。斎部の宮廷に力を失うた真の導きは、卜部の祭儀・祭文や、演出をもてはやした時代の好みにある。 斎部・卜部の勢力交迭は、平安朝前期百年の間に在る様だが、さうなつて行つた由来は久しいのである。陰陽道に早く合体して、日漢の呪法を兼ねた卜部は、寺家の方術までも併せて居た。かうして、長い間に、宮廷から民間まで、祭式・唱文・演出の普遍方式としての公認を得る様になつて来た。卜部は、実に斎部と文部との日漢両方式を奪うた姿である。 さて、唱導の語は、教義・経典の、解説・俗讃を意味するのが本義であるから、此文学史が宣命・祝詞の信仰起原から始めた事にも、名目上適当してゐる。が併し、其宣布・伝道を言ふ普通の用語例からすれば、卜部其他の団体詞章・演芸・遊行を説く「海部芸術の風化」以下を本論の初めと見て、此迄の説明を序説と考へてもよい。同時に其は、日本文学史並びに芸術史の為の長い引を作つたことになるのである。併し、私の海部芸術を説く為に発足点になるほかひ[#「ほかひ」に傍線]とくゞつ[#「くゞつ」に傍線]との歴史を説くのには、尚|聊《いささ》かの用意がいる。 [#5字下げ]五 物語と歌との関係並びに詞章の新作[#「五 物語と歌との関係並びに詞章の新作」は中見出し] 先づ呪言及び叙事詩の中に、焦点が考へられ出した事である。のりと[#「のりと」に傍線]で言へば地《ヂ》の文――第二義の祝詞に於て――即、神の動作に伴うて発せられる所謂天つのりと[#「天つのりと」に傍線]の類である。其信仰が伝つて、叙事詩になつても、ことば[#「ことば」に傍線]の文に当る抒情部分を重く見た。其がとりも直さず、うた[#「うた」に傍線]であり、其諷誦法うたふ[#「うたふ」に傍線]からうたひ[#「うたひ」に傍線]と訴へ[#「訴へ」に傍線](うたへ)とが分化して来たのである。 呪言・叙事詩の詞の部分の独立したものがうた[#「うた」に傍線]であると共に、ことわざ[#「ことわざ」に傍線]でもあつた。さうした傾向を作つたのは、呪言・叙事詩の詞が、詞章全体の精粋であり、代表的に効果を現すものと信じて、抜き出して唱へるやうになつた信仰の変化である。だから、うた[#「うた」に傍線]の最初の姿は、神の真言(呪)として信仰せられた事である。此が次第に約《つづま》つて行つて、神人問答の唱和相聞《カケアヒ》の短詩形を固定させて来た。久しい年月は、歌垣の場《ニハ》を中心にして、さうした短いうた[#「うた」に傍線]を育てた。旋頭歌を意識に上らせ、更に新しくは、長歌の末段の五句の、独立傾向のあつたのを併せて、短歌を成立させた。そこに、整頓した短詩形は、遅れて新しく語部の物語に這入つて来る様にもなつた。だが、様式が意識せられるまでは、長歌・片哥・旋頭歌などゝ「組み歌」の姿を持つて居たものと見るべき色々の理由があるのである。奈良朝になつても、うた[#「うた」に傍線]が呪文(大歌などの用途から見て)としての方面を見せてゐるのは、実は呪言が歌謡化したのではなかつた。呪言中の真言なるうた[#「うた」に傍線]の、呪力の信仰が残つてゐたのである。 くり返す様だが、ことわざ[#「ことわざ」に傍線]は、神業(わざ)出の慣例執行語《イヒナラハシ》であり、又物の考慮を促す事情説明の文章なるわざこと[#「わざこと」に傍線]と言ふ処を、古格でことわざ[#「ことわざ」に傍線]と言うたのである。ことわざ[#「ことわざ」に傍線]の用語例転化して後、ふり[#「ふり」に傍線]と言ふ語を以て、うた[#「うた」に傍線]に対せしめた。古代の大歌に、何振(何曲)・何歌の名目が対立して居た理由でもある。此を括めて、歌《ウタ》と言ふ。其旧詞章の固定から、旧来の曲節を失ひさへせずば、替へ文句や、成立の事情の違ふうた[#「うた」に傍線]までも、効果を現すとの信仰が出来る様になつた。追つては古い詞章に、時・処の妥当性を持たせる為の改作を加へる様にもなる。歌垣其他の唱和神事が、次第に、文学動機に接近させ、生活を洗煉させて行つてゐた。創作力の高まつた時代になつて、拗曲・変形から模写・改作と進んで来たうた[#「うた」に傍線]が、自由な創作に移つて行く様になつたのは、尤である。 此種のうた[#「うた」に傍線]は、鎮護詞《イハヒゴト》系統から出たものばかりであつたと言うてよい。殿祭《トノホカヒ》・室寿《ムロホギ》のうた[#「うた」に傍線]は、家讃め・人讃め・覉旅・宴遊のうた[#「うた」に傍線]を分化し、鎮魂の側からは、国讃め、妻|覓《マ》ぎ・嬬《つま》偲び・賀寿・挽歌・祈願・起請などに展開した。挽歌の如きも、しぬびごと[#「しぬびごと」に傍線]系統の物ではなく、思慕の意を陳べて、魂を迎寄《コヒヨ》せて、肉身に固著《フラ》しめるふり[#「ふり」に傍線]の変態なのであつた。 歌の中、鎮魂の古式に関係の遠いものは、叙事詩及び其系統に新しく出来た、壬生部《ミブベ》・名代部《ナシロベ》・子代部《コシロベ》の伝へた物語から脱落したものである。又或ものは系譜《ヨツギ》――口立《クチダ》ての――の挿入句などからも出てゐる事が考へられる。 記・紀に見えた大歌は、やはり真言として、のりと[#「のりと」に傍線]に於ける天つのりと[#「天つのりと」に傍線]同様、各種の鎮魂行儀に、威力ある呪文として用ゐられたのがはじまりで、後までも、此意義は薄々ながら失せなかつた。大歌は次第に、声楽としての用途を展開して行つて、尚神事呪法と関係あるものもあり、其根本義から遠のいたものも出来た。記・紀にすら、詞章は伝りながら、既に用ゐられなくなつたもの、わざ[#「わざ」に傍線]・ふり[#「ふり」に傍線]の条件なる動作の忘れられたもの、後代附加のものも含めて居る様だ。だから替へ歌は文言や由来の記憶が錯乱したのや、詞章伝つて所縁不明になつたものも、勿論沢山にある道理だ。鎮魂祭・節折《ヨヲ》り・御神楽共に、元は、鎮魂の目的から出た、呪式の重複した神事である。うた[#「うた」に傍線]に近づいて行つたのは、信仰の変改である。 鎮魂と神楽とは、段々うた[#「うた」に傍線]を主にして行つた上、平安中期以前既に、短歌の形を本意にする様になつて居た。さうした大歌も、必しもすべて宮廷出自の物に限つて居なかつた。他氏のうた[#「うた」に傍線]或は、民間流伝の物までも、其に伴ふ物語又は説話から威力を信じて、採用したのも交つてゐる。 大歌には既に其所属の叙事詩の亡びて、説話によつて其由来の伝へられたものも多かつたらしい。併し、其母体なる物語の尚《なほ》存してゐて、其内から抜き出したものも多い事は、証明出来る。由来の忘られたものは、民間理会によつて適当らしい人・時・境遇を推し宛てゝ、作者や時代を極めてゐる。其為、根本一つに違ひない大歌に、人物や事情の全く違うた両様の説明が起つた。更に其うた[#「うた」に傍線]を二様に包みこんだ別殊の叙事詩があつたりもした。 氏々の呪言・叙事詩の類から游離したうた[#「うた」に傍線]・ことわざ[#「ことわざ」に傍線]のあつた事、並びに、其が大歌や呪文に採用せられたことは明らかである。大抵冒頭の語句を以て名としたふり[#「ふり」に傍線]と称するものは、他氏・他領出自の歌であつた。さうして、其には必、魂ふり[#「魂ふり」に傍線]の舞ぶり[#「舞ぶり」に傍線]を伴ふ。此が「風俗《フゾク》」である。中には、うた[#「うた」に傍線]の形を採りながら、まだ「物語」から独立しきつて居ないばかりか、其曲節すら、物語に近いものがあつたらしい。天語歌《アマガタリウタ》・読歌《ヨミウタ》などが、其である。 [#5字下げ]六 天語と卜部祭文との繋り[#「六 天語と卜部祭文との繋り」は中見出し] 名は神語《カムガタリ》・天語歌《アマガタリウタ》と区別してゐるが、此二つは、出自は一つで、様式も相通じたものである。唯天語歌の方が、幾分壊れた姿でないかと思はれる。而も却つて、神語の方に天語らしい痕跡が多い。 [#ここから2字下げ] いしたふや あまはせつかひ ことの語り詞《ゴト》も。此者《コヲバ》 [#ここで字下げ終わり] と言ふ形と、其拗曲した、 [#ここから2字下げ] ことの語り詞も。こをば [#ここで字下げ終わり] と言ふのと、 [#ここから2字下げ] 豊《トヨ》み酒《キ》たてまつらせ [#ここで字下げ終わり] と乱《ヲサ》めるものと二つある。又此二つが重《かさな》つて、 [#ここから2字下げ] 豊み酒たてまつらせ。ことの語り詞も。こをば [#ここで字下げ終わり] となつたのなどがある。此から見ると、酒ほかひ[#「酒ほかひ」に傍線]の真言と、憤怨を鎮める呪文とには、共通の詞章や、曲節の用ゐられた事が考へられる。結婚の遂行は条件として、戦争とおなじく「霊争《モノアラソ》ひ」を要した古代には、名のり[#「名のり」に傍線]・喚《ヨ》ばひ[#「ばひ」に傍線]にすら、憤りを鎮めるうた[#「うた」に傍線]が行はれたのである。 あまはせつかひ[#「あまはせつかひ」に傍線]とは、海部駈使丁《アマハセツカヒ》の義である。神祇官の配下の駈使丁《ハセツカヒ》として召された海部《アマベ》の民を言うたらしい。此等の海部の内、亀卜に達したものが、陰陽寮にも兼務する事になつたものと見える事は、後代の事実から推論せられる。此等の海部駈使丁《アマハセツカヒ》や、其固定した卜部が行うたことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]の護詞や、占ひ・祓への詞章などの次第に物語化し――と言ふより一方に傾いたと言ふ方がよい――たものが「海部物語《アマガタリ》」であり、其うた[#「うた」に傍線]の部分が「天語歌」であつたと言へよう。海部駈使丁の聖職が分化して、卜部と天語部とを生じた。天語部を宰領する家族なる故の天語連《アマガタリノムラジ》のかばね[#「かばね」に傍線]まで出来た。 其伝へた詞章の中のある一類は、神語とも伝へたのであらう。神語は天語の中の秘曲を意味するらしく、天語なる事に替りはない。古くすでに「海部物語《アマガタリ》」を「天つ物語」と感じて、神聖観をあま[#「あま」に傍線]の音に感じ、天語と解したのである。其|囃《はや》しとも乱辞《ヲサメ》とも見える文句は、天語連の配下なる海部駈使丁の口誦する天語の中の歌だと言ふ事を保証するものであつた。其が替へ歌の出来るに連れて、必然性を失うて、囃し詞に退化して行つたのである。 天語[#(ノ)]連(或は海語[#(ノ)]連)は斎部氏の支族だとせられてゐる。其から見ても、神祇官の奉仕を経て、独立を認められて来た、卜部関係の語部なる事が知れる。 記・紀・万葉に、安曇《アヅミ》氏や、各種の海部《アマベ》の伝承らしい伝説や歌謡の多いばかりか、其が古代歴史の基礎中に組み込まれてゐるのは、此天語部が、宮廷の語部として採用せられたからである。 [#3字下げ]語部の歴史[#「語部の歴史」は大見出し] [#5字下げ]一 中臣女の伝承[#「一 中臣女の伝承」は中見出し] 宮廷の語部が、護詞を唱へる聖職から分化したものなのは、猿女[#(ノ)]君の場合に、殊に明らかであつた。其に次いで行はれたらしいのは、中臣系統の物語である。禊ぎ祓へに奉仕した中臣女が「中臣物語」の伝承をも併せ行うたらしい。 男性の中臣の聖職は次第に昇進したが、女性の分担は軽く許りなつて行つた。嬪・夫人にも進むことの出来た御禊奉仕の地位も、其由来は早く忘れられて了うた。加ふるに御禊の間、傍に居て、呪詞を唱へる中臣の職は、さほど重視せられなくなり、「撰善言司」設置以後、宣命化したのりと[#「のりと」に傍線]を宣する様になつた。だから大抵の寿詞・護詞系統の物語は、中臣女の口に移つて行つたものと見てよいことは、傍証もある。 中臣女から出た一派の語部は、中臣[#(ノ)]志斐《シヒ》[#(ノ)]連などであらう。志斐《シヒ》[#(ノ)]連には、男で国史の表面に出てゐるものもある。持統天皇と問答した志斐《シヒ》[#(ノ)]嫗(万葉集巻三)は(しひ[#「しひ」に傍線]に二流あるが)中臣の複姓《コウヂ》の人に違ひはない。此は、男女とも奉仕した家の例に当るのであつて、物部・大伴其他の氏々にもある例である。後に其風を変へたのは猿女で、古くは、男で仕へるものは宇治[#(ノ)]土公《ツチギミ》を名のり、女で勤めるのが、猿女であつたと見る方がよい。男女共同で家をなしたものが、後に女主に圧されて、男も仕へる時は、猿女[#(ノ)]君の資格でする様になつたものである。「猿淡海《サルアフミ》」など言ふのも宇治土公の一族で、九州にゐた者であらう。女でないから、猿だけを称したのである。 其、族人の遊行するものが、すべて族長即、氏の神主の資格(こともち[#「こともち」に傍線]の信仰から)を持ち得た為に、猿丸太夫の名が広く、行はれたものと考へてよい。其諷誦宣布した詞章が行はれ、時代々々の改作を経て、短歌の形に定まつたのは、奈良・平安の間の事であつたらう。さうして其詞章の作者を抽き出して、一人の猿丸太夫と定めたのであらう。柿[#(ノ)]本[#(ノ)]人麻呂なども、さうした方面から作物及びひとまろ[#「ひとまろ」に傍線]の名を見ねばならぬ処がある様に思ふ。 とにかく、伝統古い猿女の男が、最新しい短歌の遊行伶人となつた事を仮説して見るのは、意義がありさうである。鎮魂祭の真言なる短章(ふり)が、或は、かうした方面から、短詩形の普及を早めたことを思ひ浮べさせる。 語部の職掌は、一方かういふ分科もあつた。語部が鎮魂の「歌《ウタ》[#(ノ)]本《モト》」を語る事が見え、又「事[#(ノ)]本」を告《ノ》るなど言ふ事も見えてゐる。うた[#「うた」に傍線]やことわざ[#「ことわざ」に傍線]・神事の本縁なる叙事詩を物語つた様子が思はれる。 大祓詞の中、天つ祝詞が秘伝になつて離れてゐるのも其で、元はまづ、天つ祝詞を唱へて演技をなし、その後物語に近い曲節で、大祓の本文を読み、又天つ祝詞に入ると言ふ風になつて居たからで、此祓詞には、天つ祝詞が数个所で唱へられたらしい。其が、前後に宣命風の文句をつけて、宮廷祝詞の形を整へたので、後の陰陽師等の唱へた中臣祓は、此祝詞を長くも短くも誦する様だ。併し、天つ祝詞は伝授せなかつたのである。護詞《イハヒゴト》の中のことわざ[#「ことわざ」に傍線]に近い詞章の本義を忘れて、祝詞の中の真言と感じたのだ。地上の祓への護詞と、真言なる章句とを区別したのである。 呪詞に絡んだ伝来の信仰から、此祓詞を唱へる陰陽師・唱門師の輩は、皆中臣の資格を持つ事になつたらしい。後に此等の大部分と修験の一部に、中臣を避けて、藤原を名のつてゐたものが多い。此は自ら称したと言ふより、世間からさう呼んだのが始まりであらう。呪詞を諷誦する人は、元の発想者或は其伝統者と同一人となると言ふ論理が、敷衍せられて残つたのである。 宮廷の語部は女を本態としてゐるが、他の氏々・国々では、男を語部としてゐるのも多かつた。宮廷でも、物部・葛城・大伴等の族長が、語部類似の事を行ふ事が屡《しばしば》あつた。 [#5字下げ]二 祝言団の歴史[#「二 祝言団の歴史」は中見出し] 語部の能力が、古詞を伝承すると共に、現状や未来をも、透視する方面が考へられて来たらしい。即、語部と其詞章の原発想者との間に、ある区別を考へない為に語部の物語る間に、さうした能力が発揮せられて(神がゝりの原形)新しい物語を更に語り出すものとした。顕宗紀に見えた近江の置目《オキメ》などが、此である。父皇子の墓を告げて以来、大和に居て、神意を物語つて、おきつ[#「おきつ」に傍点]べき事を教へたのであらう。おきめ[#「おきめ」に傍線]はおき女[#「おき女」に傍線]である。予め定めおきつる[#「おきつる」に傍線]のが、おく[#「おく」に傍線]の原義である。日置部《ヒオキベ》のおき[#「おき」に傍線]なども、近い将来の天象、殊に気節交替に就てのおき[#「おき」に傍線]をなし得たからである。後に残すおく[#「おく」に傍線]、残されたおくる[#「おくる」に傍線]も、此展開である。 かうして、呪言・叙事詩系統の詞章の、伝来の正しさを重んずる事の外に、其語り人の神格化を信じて、新しい詞章を請ふ様にもなつたのだ。此が又、宣命・よごと[#「よごと」に傍線]・のりと[#「のりと」に傍線]・いはひごと[#「いはひごと」に傍線]などの新作を、神聖を犯すものとせず、障りなく発達させる内的の第一の動機となつた。 語部は、神がゝりすると言ふより、寧、神自身になつて、古詞章を伝へる内に、段々新聖曲を語り出す様にもなつた。此点にも、呪言と叙事詩との岐れ目がある。呪言では、新詞章の出来たのは、叙事詩よりも遅れてゐる。此には、宣命の新作が、大きな動力になつた。だが、其以前から、発生的に叙事詩と通用して、殆ど同体異貌のものであつたから、変り始めては居た事であらう。 語部の新詞章の語り始められたのは、恐らく、長い飛鳥の都以前からもあつたであらう。尚一面、壬生部の叙事詩が此と絡みあうて、名代部・子代部の新叙事詩を興した事も考へねばならぬ。其は、古い叙事詩を自然に改作し、而も新しい感触を含んだ物語や、歌を数多く入れた身につまされる様なのが出て来た。此名代部・子代部の伝承をある点まで集成したらしいのが、既述の海語部《アマガタリベ》である。 其は宮廷の語部としての、男性本位の団体で、芸術的意味をも含んで、採用せられたものらしい。彼等は民間より出て、宮廷に入つたが、大部分は尚民間を遊行して居た。さうして、生活の間に演奏種目を交換し、数を殖して行つた。都鄙・異族の叙事詩はかうして融通伝播したのである。 彼等は海村の神人として、農村の為に水を給する神に扮し、呪詞・物語・神わざを演出する資格があつた。かうして、ほかひ[#「ほかひ」に傍線]して廻つた結果、ほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]の階級を形づくつた。海語部の外にも、社々・国々の神人の、布教・祝福の旅を続けたらしい者も、挙げることは出来るが、団体運動の歴史や、伝承系統の明らかなのは、此種族である。安曇と言ひ、天・尼・海を冠し、或は海部《カイフ》と言ふ地名の多いのが、現実の証拠である。漁り・潜《カヅ》きの地を尋ねて、住ひを移すと共に、かうしたほかひ[#「ほかひ」に傍線]をして廻つたのであつた。此にも男女の生業の違ひが認められた。此が山の神人としての山人の信仰が現れるまで、又其以後も、海の神人として尊まれ、畏れられ、忌まれもした水上・海道の巡游巫祝の成立であつた。 ほかひ[#「ほかひ」に傍線]・語り・芸能・占ひを兼ねた海の神人たる旅行団が、山神信仰時代に入ると、転じて、山人になつたのも多い。信州の安曇氏は固より、大和の穴師《アナシ》神人などが其だ。伊予の大三島の神人の如きは、海の神人の姿を保ちながら、山の神人の姿に変つて行つたもので、伊豆の三島神人は、其が更に山人化したものである。 叙事詩化した呪詞を伝承して、祝福以外に、一方面を拓いたのが、語部の物語であつた。だから、多少芸術化した叙事詩は、音楽的にも、聴く者の内界へ、自らなる影響を与へた。其上に、此には更に、鎮魂の威力をも考へねばならぬ。其は臣下からは、教育の出来ぬ宮廷・豪家の子弟の魂に、語部の物語の詞章が触れて、薫化するものと考へられてゐた事である。語部は此意味に於て、家庭教師らしい職分を分化して来た。平安の宮廷・豪家で、女房たちが、子女の教師であり、顧問でもあつた遠い源は、こゝに在る。だから、女房たちの手になつた平安の物語類は、読み聴かせる用途から出たのであつた。そして、黙読する物になり、説明から鑑賞に移つて、文学化を遂げた。其外に尚一つ、語部職の分化する大きな理由があつた。其はつぎ[#「つぎ」に傍線]の伝承である。 [#5字下げ]三 系図と名代部と[#「三 系図と名代部と」は中見出し] つぎ[#「つぎ」に傍線]はよつぎ[#「よつぎ」に傍線]と言ふ形になつて、後代まで残つたものである。意義は転じたが、其でも、原義は失ひきらなかつた。継承次第を主として、其に説明を添へて進むと言つた、書き入れ系図の、自由な姿の口頭伝承である。 平安中期以後のよつぎ[#「よつぎ」に傍線]は、記録せられた歴史をも言ふが、其前は、記載の有無にも拘らずよつぎ[#「よつぎ」に傍線]と言ひ、更に古くは、語根のまゝつぎ[#「つぎ」に傍線]と言うたのである。此を記録し始めた時代からある期間は、つぎぶみ[#「つぎぶみ」に傍線](纂記・譜第)と称へて居た。宮廷のつぎ[#「つぎ」に傍線]は日を修飾にして、ひつぎ[#「ひつぎ」に傍線]と言ふ。日のみ子或は日神の系図の義で、口だて[#「口だて」に傍線]によつて諷誦せられたものである。恐らく、主上或は村君として持たねばならぬ威力の源なる外来魂を継承する信仰から出たものであらう。つぎ[#「つぎ」に傍線]に加へる事をつぎつ[#「つぎつ」に傍線](下二段活用)と言ふ。 極めて古い時代には、主上或は村君は、不滅の人格と考へられて居る。だから、個々の人格の死滅は問題としない。勢《いきほひ》、つぎ[#「つぎ」に傍線]・ひつぎ[#「ひつぎ」に傍線]の観念も発達して居なかつたと見える。信仰の変化から神格と人格との区別が考へられる様になつて、始めてつぎ[#「つぎ」に傍線]が現れたのである。 奈良朝以前のつぎ[#「つぎ」に傍線]は、生の為でなく、死の為のものであつた。つぎ[#「つぎ」に傍線]につぎてられる[#「つぎてられる」に傍点]のは、死が明らかに認められた後であり、生死の別が定まるまでは、鎮魂式を行ひ、氏々・官司奉仕の本縁を唱へて、寿詞を奏する。此を、日本紀などには、後世風の誄《シヌビゴト》と解して書いて居るが、古代はしぬびごと[#「しぬびごと」に傍線]自体が、哀悼の詞章ではなかつた。外来魂が竟《つひ》に還らぬものと定まると、この世の実在でないと言ふ自覚を、死者に起させようとかゝる。死者の内在魂に対して、唱へ聴かす詞章がなくてはならぬ。此がつぎ[#「つぎ」に傍線]であつた。 此つぎ[#「つぎ」に傍線]と、氏々・官司の本事《モトツゴト》(略してこと[#「こと」に傍線]とも言ふ)とを混淆して、一列にしぬびごと[#「しぬびごと」に傍線]と称せられ、又宣命の形式のまゝで、漢文風の発想を国語でするしぬびごと[#「しぬびごと」に傍線]も出来かけた。即、つぎ[#「つぎ」に傍線]は鎮め葬つた上、陵墓の前で諷誦すべきものである。而も、其が夙《はや》くから紊《みだ》れて居た様である。名をつぎてられず[#「つぎてられず」に傍線]に消えて行く事は、死者の魂に、不満と不安とを感じさせるものと考へられ、内在魂を完全に退散させる方便としてのつぎ[#「つぎ」に傍線]の意義も出て来た。 主上・村君等のつぎ[#「つぎ」に傍線]が、次第に氏族の高級巫女なる后妃・妻妾・姉妹・女児を列し、宮廷で言へば、ひつぎのみこ[#「ひつぎのみこ」に傍線]更に継承資格を認められて居た兄弟中の数人を加へる様になつた。さうして更に進んで、多くの皇子女を網羅する様になつて行つたのだと言ふ事が出来る。主上・村君以外は、傍流をつぎて[#「つぎて」に傍点]なかつた時代には、其外の威力優れた人の為には、つぎ[#「つぎ」に傍線]こそなけれ、一つの方法が立てられてゐた。 威力あつて、つぎ[#「つぎ」に傍線]に入らなかつた人の死後、其執念を散ずる方便には、新しい村が立てられた。在来の村に新しい名をつける事もあり、全く新しく村を構へさせる事もあつた。其村々には、必、死者の名、或は住み処などの称への、其人を思ひ出し易い数音を被せて名とした。此が、名代部《ナシロベ》又は子代部の発生である。 後には、つぎ[#「つぎ」に傍線]に入つた人にさへ、名代の村を作る様にもなつた。さうなると、子のない人々も亦、歿後の名を案じて、生前自ら名代部を組織する(一)。愛寵する人(子のない)の為に、死後は固より生前にも名代を与へる様になる(二)。(一)(二)の二つは子代部とも称せられた。 かうして見ると、名代部には荘園の淵源が伺はれるのみならず、古く既に、さうした目的さへ現れてゐたことが訣る。即、村を与へる外に、職業団体としての部曲《カキベ》、珍らしい才技《テワザ》・豊かな生産、村々・氏々から羨まれてゐる職業団体、或は分布区域の広い部曲などを授ける事がある。かうして、名代制度の中に、経済観念が深まつて行つた。 名代部は、国・村の君の上につぎ[#「つぎ」に傍線]のある様に、新しく出来た村なり、団体なりに、其人から始まつた新しいつぎ[#「つぎ」に傍線]を語り伝へさせるのが目的であつた。軽部《カルベ》は木梨[#(ノ)]軽[#(ノ)]太子の為に、葛城部《カツラギベ》は磐[#(ノ)]媛皇后の為に、建部《タケルベ》は倭建命の為に、春日部は春日皇后の為に立てられた名代・子代であつた。皆、美しく、苦しき、猛く、弛《ユル》さぬ、あはれな物語を伝承して居た。 子のない為に作つたのが、名代の原義ではなかつた。だから、其人に子孫のある時は、其地を私用して、一種の村君の生活をした。 つぎ[#「つぎ」に傍線]の第一義的効果は、死霊退散にあつたのだから、後|漸《やうや》く、つぎ[#「つぎ」に傍線]自身呪文の様な威力を持つて来た。即、君主・族長の人格的現実観が、其神格に対する畏敬をのり超えて了ふやうになると、其信仰威力を戻す為に、実証手段として、つぎ[#「つぎ」に傍線]の諷誦が行はれる。最正しい伝統によつて神格を享けてゐる人ゆゑ、其稜威は精霊・魂魄の上に抑圧の威力を発揮する。かうした畏怖を相手方に起させるものと信じた。其が更に、つぎ[#「つぎ」に傍線]を唱へるだけで、呪力が発動するものとの信仰を生んだ。 戦争も求婚も、元は一つ方法を採つた。魂の征服が遂げられゝば、女も従ひ、敵も降伏する。名のり[#「名のり」に傍線]が其方式である。呪言を唱へかけて争うたのが、段々固定して、家と名とを宣《ノ》る様になつた。さうして、相手の発言を求める形になつた。つぎ[#「つぎ」に傍線]を諷誦して、家系をあかした古代の風習が、単純化して了うたのであらう。 名代部の最初の主のつぎ[#「つぎ」に傍線]には、其人の生れた様から、嫁とり、戦ひ、さうして死に到るあり様まで、色々の事を型通りに伝へて行くであらう。其が、或部分だけ特殊の事情で、ぬけて発達して、何部・何氏・何村の、物語・歌として、もてはやされるものが出来る。其等の歌は、何れも鎮魂に関係あるもの故、内外のほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]に手びろく利用され、撒布せられた。 甘橿《アマカシ》の丘のことのまかとの崎[#「ことのまかとの崎」に傍線]で、氏姓の正偽を糺した事実(允恭紀)は、つぎ[#「つぎ」に傍線]に神秘の呪言的威力を考へて居たからである。其諷誦によつて、偽り枉げてゐる者には、錯誤のある呪言の神が、曲つた呪はれた結果を示すものと信じてゐたのだ。此時の神判は、正統を主張する氏々の人を組み合はせて、かけあひ[#「かけあひ」に傍線]させたものなのだらう。誤つたり、偽つたりして呪言を唱へる者を顕して、直ぐに直日[#(ノ)]神の手に移すのが、まがつみの神[#「まがつみの神」に傍線]元来の職分であつて、誓約《ウケヒ》の場合に、呪言の当否を判つのであつた。更に転じては、誓詞と内心との一致・不一致を見別ける様になつて他のたゞし[#「たゞし」に傍線]の神格を分化した。 ことあげ[#「ことあげ」に傍線]の中にも、前者の系統・種姓を言ふ部分がある。神・精霊等を帰伏させるのに、前者の呪言なるつぎ[#「つぎ」に傍線]を自由にすると言ふ意味もあつたのであらう。 つぎ[#「つぎ」に傍線]も亦、君主・族長の唱へる為事だつた。其を神人に伝達《コトモ》たせたところから、語部の職分となつたのであらう。 神聖なつぎ[#「つぎ」に傍線]の中にも、神授の尊いものと、人の世の附加とが、自ら区別せられて居た。宮廷のひつぎ[#「ひつぎ」に傍線]で言へば、神代の正系の神は、殊に糺されてゐる。紀に一書を列ねた理由である。記の綏靖以降開化までの叙述と、下巻の末のとは、おなじく簡単でありながら、取り扱ひが違うてゐる。 [#3字下げ]賤民の文学[#「賤民の文学」は大見出し] [#5字下げ]一 海語部芸術の風化[#「一 海語部芸術の風化」は中見出し] 最新しく宮廷に入つた海語部《アマガタリベ》の物語は、諸氏・諸国の物語をとり容れて、此を集成した。 其は種類も多様で、安曇《アヅミ》や海部《アマベ》に関係のない詞章も多かつたことは明らかである。此語部の物語は、在来の物に比べると、曲節も、内容も、副演出も遥かに進歩してゐて、芸術意識も出て来て居たらしく思はれる。朝妻[#(ノ)]手人《テビト》龍麻呂が雑戸を免ぜられて、天語[#(ノ)]連の姓を賜はつた(続紀養老三年)のは、其芸を採用する為であつて、部曲制度の厳重な時代ではあつたが、官命で転職させて、相応した姓を与へたのである。 海部の民は、此列島国に渡来して以来、幾代とも知れぬ移居流離の生活の後、或者はやつと定住した。さうした流民団は、海部伝来の信仰を宣伝する事を本位とする者が出来て来た。海人部《アマベ》の上流子弟で、神祇官に召された者が、海部駈使丁《アマハセヅカヒ》であり、其が卜部にもなつた事は、既に述べた。さうして、護詞《イハヒゴト》をほかひ[#「ほかひ」に傍線]することほぎ[#「ことほぎ」に傍線]の演技と、発想上の習慣とを強調して、当代の嗜好を迎へて行つた。 卜部のする護詞《イハヒゴト》は、平安期では祭文《サイモン》と言ひ、其表出のすべてをことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]と称へ替へた。そして、寺々の守護神・羅刹神の来臨する日の祭文は、後期王朝末から現れた。 陰陽道の日本への渡来は古い事で、支那の方士よりも、寧、仏家の行法を藉りて居る部分が多い。宮廷の陰陽道は漢風に近くても、民間のものは、其よりも古く這入つて来て、国民信仰の中に沁みついて居た。だから、神学的(?)にも、或は方式の上にも、仏家及び其系統に近づいた呪禁師《ジユゴンシ》の影響が沁みこんでゐる。貴僧で同時に、陰陽・呪禁に達した者もあつた。第一、仏・道二教の境界は、奈良の盛時にすら明らかでなかつたのである。 斎部の護詞《イハヒゴト》に替つた「卜部祭文」は、儒家の祭文とは別系統であつて、仏家の祭文をなぞつた痕が明らかである。而して、謹厳なるべき寺々の学曹の手になる仏前の祭文にまで影響して行つた。はじめは仏家の名目を学びながら、後には――名も実も――却つて寺固有の祭文様式を変化させた。祭文の名は、陰陽寮と神祇官とに行はれた名である。 寺々の奴隷或は其階級から昇つた候人流の法師或は、下級の大衆なども、寺の為のことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]を行ふのに、宮廷の卜部に近い方式をとつた。此は寺奴の中には、多くの亡命神人を含んで居たからである。さうでなくとも、家長の為によごと[#「よごと」に傍線]・いはひ詞[#「いはひ詞」に傍線]をまをす古来の風を寺にも移して、地主神・羅刹神に扮した異風行列で、寺の中に練り込んだのである。 室町の頃になると、芸奴と言ふべき曲舞・田楽・猿楽の徒は、大抵寺と社と両方を主と仰ぎ、或は数个寺・両三社に仕へて、ことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]を寺にも社にも行うた。更に在家の名流の保護者の家々にも行ふ様になつた。平安末百年には、かうした者が完全に演芸化し、職業化して行つた。 其初めに出来たのは、多く法師陰陽師の姿になつて了うた唱門師《シヨモジン》(寺の賤奴の声聞身の宛て字)の徒を中心とした千秋万歳《センズマンザイ》であつた。其ことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]を軽く見て、演芸を重く見た方の者を曲舞《クセマヒ》と言ふ。寺の雅楽を、ことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]の身ぶり[#「身ぶり」に傍線]・神楽のふりごと[#「ふりごと」に傍線]に交へて砕いたもので、正舞に対する曲舞《キヨクブ》の訓読である。 男の曲舞では、室町に興った[#「興った」はママ]「幸若舞」なる一流が最栄えた。此も、叡山の寺奴の喝食の徒の出であるらしい。だから千秋万歳同様の演技を棄てなかつた。江戸になつて、幸若には、昔から舞はなかつたと称して、歌舞妓に傾いた女舞から、自ら遮断しようとした。 女舞は、女曲舞とも、女幸若とも言うた。江戸の吉原町に隔離せられて住み、後には舞及び幸若詞曲に伴ふ劇的舞踊を棄てゝ、太夫と称する遊女になつた。江戸の女歌舞妓の初めの人々が此である。地方の社・寺に仕へて居た者は、男を神事舞太夫、女を曲舞太夫或は舞々《マヒ/\》と称して、男は神人、女房は歌舞妓狂言を専門としたのが多い。 此は、唱門師が、陰陽師となるか、修験となるかの外は、神人の形を採らねばならなくなつた為である。桃井幸若丸を元祖と称する新曲舞も、前述の通り、やはり千秋万歳《センズマンザイ》の一流であつたのだ。 猿楽師になると、社寺何れを本主とするか訣らない程だ。が、社奴の色彩の濃い者で、神楽の定型を芸の基礎として居る。而も、雅楽を伝承した楽戸の末でもあつた。其が、時勢に伴うて、雅楽を棄てゝ、雑楽・曲舞を演じたのだ。何にしても「曲舞」の寺出自なるに対して、多くは社及び神宮寺を仰いだ一流である様である。 其先輩の田楽は、明らかに、呪師《ノロンジ》の後で、呪師の占ひに絡んだ奇術や、演芸に、外来の散楽を採り込んで、神社以前から伝つた民間の舞踊・演芸・道具・様式を多くとり込んでゐる。此は、恐らく、法師・陰陽師の別派で、元は神奴であつたものであらう。さうして演芸期間も、他の者の正月・歳暮なのに対して、五月田植ゑの際に――或は正月農事始めにも――行うた「田舞《タマヒ》」の後である。此「田舞」は散楽と演芸種目も似て居る処から、段々近よつて行つたと見る方がよい。やはり、田畠のことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]で、仮装行列を条件として居る。曲舞の叙事詩を、伝来の狂言の側から採り込んで、猿楽の前型となつたわけである。 此外、種々の芸人皆、寺奴・社奴出自でないものはない。其芸人としての表芸には王朝末から鎌倉へかけても、まだことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]を立てゝゐた。即|唱門師《シヨモジン》の陰陽師配下についたわけである。此等が悉く卜部系統の者、海語部の後とは言はれないが、戸籍整理や、賦役・課税を避けたりして、寺奴となつたほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]の系統を襲《ツ》ぐものとだけは言はれる。 そして又、ほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]には、卜部となつた者もあり、ならない者もあつたらうし、生活様式を学んだ為に、同じ系統と看做された者もあらうが、海部や、山の神人(山人・山姥など、鬼神化して考へられた)の多かつた事は事実である。 ほかひ人[#「ほかひ人」に傍線]の一方の大きな部分は、其呪法と演芸とで、諸国に乞食の旅をする時、頭に戴いた霊笥《タマケ》に神霊を容れて歩いたらしい。其|霊笥《タマケ》は、ほかひ[#「ほかひ」に傍線](行器)――外居[#「外居」に傍線]・ほかゐ[#「ほかゐ」に傍線]など書くのは、平安中期からの誤り――と言はれて、一般の人の旅行具となる程、彼等は流民生活を続けて居た。手に提げ、担ぎ、或は其に腰うちかけて、祝福するのがほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]の表芸であつた。 [#5字下げ]二 くゞつ[#「くゞつ」に傍線]の民[#「二 くゞつの民」は中見出し] 莎草《ハマスゲ》で編んだ嚢《ふくろ》を持つたからの名だと言ふくゞつ[#「くゞつ」に傍線]の民は、実は平安朝の学者の物好きな合理観から、今におき、大陸・半島或は欧洲に亘る流民と一つ種族の様に見られて居る。が、私は、此ほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]の中に、沢山のくゞつ[#「くゞつ」に傍線]も交つて居ることゝ思ふ。くゞつ[#「くゞつ」に傍線]の名に、宛て字せられる傀儡子の生活と、何処迄も不思議に合うてゐる。彼等は人形を呪言の受けて[#「受けて」に傍線]即、わき[#「わき」に傍線]としたらしい。志賀《シカ》[#(ノ)]島の海部の祭りに出る者は固より、海部の本主となつた八幡神のわき神[#「わき神」に傍線]も、常に偶人である。 室町になつて、淡路・西[#(ノ)]宮の間から、突然に「人形舞」が現れて来た様に見える。が、其長い間を、海部の子孫の流民の芸能の間に潜んで来たものと見るべきである。人形は精霊の代表者であり、或は穢悪の負担者であるから、此を平気に弄ぶまでには、長い時日を要したわけである。 宮廷の神楽は、八幡系統のものであるが、人形だけは採用しなかつた。人間の才《さい》の男《を》があつたからである。だが、社々では、人形か仮面かを使うた処が多い。遂に人形が主神と考へられる様にもなつた。 人形が才の男、即、反抗方《モドキ》に廻るのだから、くゞつ[#「くゞつ」に傍線]本流の演芸では、偶人劇と歌謡とを主としたらしい。だから、舞踊に秀でたものもあつたが、演劇の方面は伸びなかつた。 ほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]は神人でもあり、芸人でもあり、呪禁《ジユゴン》師(毉)でもあつた。時には呪咀もし、奪掠もした。けれども、後代の意味の乞食者の内容を備へて来たのは、平安朝になつて後の事である。 聖武の朝、行基門徒に限つて、托鉢生活を免してから、得度せないまでも、道心者の階級が認められて来た。其と共に、乞食行法で生計を立てるものは、寺の所属と認められ、ほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]即《すなはち》寺奴の唱門師となつたのであらう。さうでない者は、村に定住して農耕の傍、ほかひ[#「ほかひ」に傍線]をする様になつた。だから、僧形ではなくて、社奴の様な姿をとる事になつたのであらう。 後世、寺社奉行を設けなければならなかつた一つの理由は、かうした治外法権式の階級が発達して、支配に苦しめられた事もあるのである。此様に、形式上寺家の所有となつたゞけだから、法師・陰陽師の妻が巫女であつたり、盲僧が歌占巫女を女房としたりしたのである。 くゞつ[#「くゞつ」に傍線]とほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]との相違は、くゞつ[#「くゞつ」に傍線]の海・川を主として、後に海道に住み著いて宿《シユク》をなした者も多いのに、ほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]は水辺生活について、何の伝説も持たない。早く唱門師になつた者の外は、山人又は山姥と言はれた山の神人として、山中に住んだのもあらう。又、くゞつ[#「くゞつ」に傍線]に混じて、自らさへくゞつ[#「くゞつ」に傍線]と信ずる様になつた者もあらう。 ほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]は細かに糺して見ると、くゞつ[#「くゞつ」に傍線]と同じものでない処が見える。海語部の外に、他の国々氏々の神人も多く混つてゐた。唯《ただ》後に、僧形になつて仏・道・神三信仰を併せた形になつたものと、山に隠れ里を構へて、山伏し・修験となつた一流と、くゞつ[#「くゞつ」に傍線]に混淆した者とがあつたことは言はれる。 今は仮りに、ほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]を、海から天に字を換へた様に海部から山人に変つたものと、安曇氏の管轄に属する海部以外の者と見て置く。私は、くゞつ[#「くゞつ」に傍線]・傀儡子同種説は、信ずる事が出来ないで居る。くゞつ[#「くゞつ」に傍線]の民は、海のほかひ[#「ほかひ」に傍線]を続けて、後代までえびす神[#「えびす神」に傍線]を持ち廻つた様に、猿女などの後ではないかと思ふ。 [#5字下げ]三 社寺奴婢の芸術[#「三 社寺奴婢の芸術」は中見出し] 此項に言ふ事は、わりに文学に縁遠い方面に亘らねばならぬ。宮廷の物語は平安に入ると、記録せられるものもあり、亡びるものは亡びる事になつたらしい。其が、先代の語部の意義において仕へてゐた女房の仮名文によつて、歌物語の描写が、段々新作を導く様になつた。中篇小説から長篇小説に進んで、源氏物語の様な大家庭小説までも生んでゐる。だが、短篇小説は、細かく言へば、別の経路を通つてゐる。真言からうた[#「うた」に傍線]・ことわざ[#「ことわざ」に傍線]が出来た。だからうた[#「うた」に傍線]は必須知識として、ことわざ[#「ことわざ」に傍線]同様の呪力あるもの、或は氏・国の貴人として、知らねばならない旧事とせられて居た。 其成立の事情は、説話として、口頭対話式をとつたのも、奈良以前から既にあつたものと言うてよい。此が風土記などゝ別な意味で、国別に書き上げを命ぜられた事もあつたらしい。東歌・風俗の様なものは、奈良以前からあつたと考へてよい。だから歌物語は逸話の形をとつてゐた。中篇は家によつて書く形で、今考へられる形は、ある人物のある時期の間の事実を主としてゐるものだ。源氏物語は、歌物語と中篇小説とを併せた形である。 宮廷の女房文学では、かうまで発達したが、地方の伝承では、飛鳥末から段々、宮廷伝承に習合せられ、又は自身調子を合せる様になつて行つた。家々の纂記、後代の本系帳式の物や、国々の「語部物語」の説話化したのや、土地によつて横に截断した物を蒐集したりして、風土記の一部は編纂せられた。 出雲風土記には、語部の伝誦を忠実に書きとつたらしい部分が多いが、播磨のになると、大抵説話化して居たらしい書き方である。が尚、古い物語の口写しらしい処も見える。国は古くても、定住のわりに新しい里が多かつたのであらう。 一体、風土記に歌を録することの尠いのは、奈良人の古伝承信用の形式に反《そむ》いて居る。常陸の分は、長歌めいた物は漢訳するつもりらしいが、短歌やことわざ[#「ことわざ」に傍線]は、原形を尊重して記してゐる。此は短歌が文学化し始めた頃であり、枕詞・序歌・訓諭などが、短篇小説に近い物語・説話を伴うて居た為であらう。常陸のは、まづ文学意識の著しく出た地誌と言へる。 概して言へば、諸国・諸土豪の物語は、中央の宮廷貴族の伝承より、早く亡びたものと見てよからう。旧国造は、多く郡領に任ぜられて、神と遠のかねばならなかつた。さうした国や氏々は幸福な方で、早く滅された国邑の君を神主と仰いだ神人たちは、擁護者と自家存在の意義とを失うて了うたのである。此が、ほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]として流離した最初の人々であらう。神人は、大倭の顕《あき》つ神の宰《みこともち》たる国司等の下位になつた神の奴隷として没収せられ、虐使せられる風があつた様だから、どうしても亡命せねば居られなかつた地方もあつたであらう。 此等の民が、或は新地を遠国の山野に得て、村をなした例もある。此は奈良朝より古い事らしい。郷国では、神と神との「霊争《モノアラソ》ひ」に負けた神として、威力を失うても、他郷に出れば、新来《イマキ》の神として畏れ迎へられるのである。どうしても、団体亡命の事情が具つて居た訣である。 国々の語部の物語も、現用のうた[#「うた」に傍線]に絡んだものばかりになり、其さへ次第に頽《すた》れて行つたらしい。わりに長く、平安期までも保存せられたものは、其国々の君が宮廷に奉仕した旧事を物語つて「国ぶりうた」の本《モト》を証し、寿詞同様の効果をあげることを期する物語である。さうした国々は、平安中期には固定してゐた。其事情は、色々に察せられるが、断案は下されない。 古くは、数人の語部の中、或は立ち舞ひ、或は詠じ、或は又其本縁なる旧事を奏するものなどがあつたであらう。 後期王朝中期以後には、物語は大嘗祭にのみ奏せられた。「其音|祝《ノリト》に似て、又歌声に渉《ワタ》る」と評した位だ。語部は、宮廷に於てさへ、事実上平安期には既に氓《ほろ》びて、猿女《サルメ》の如きも、大体伝承を失うて居た。まして、地方は甚しかつたであらう。唯語部と祝師《ノリトシ》との職掌は、分化してゐる様でしてゐない有様であつたから、祝師(正確に言へば、ほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線])には物語が伝つて居たのである。 ほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]の国まはりの生計には、ことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]の外に、諷諭のことわざ[#「ことわざ」に傍線]及び感銘の深い歌が謡はれ、地の叙事詩が語られる様になつたと見られる。其演奏種目が殖えて行つて、ほかひ[#「ほかひ」に傍線]・ことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]よりも、くづれ[#「くづれ」に傍線]とも言ふべき物語や狂言・人獣の物まね・奇術・ふりごと[#「ふりごと」に傍線]などがもてはやされた。此等は、奈良以前から既にあつた証拠が段々ある。 平安朝になると、一層甚しく、祝言職と言へば、右に挙げたすべての内容を用語例にしてゐたのである。平安朝末から鎌倉になると、諸種のほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]・くゞつ[#「くゞつ」に傍線]は皆、互に特徴をとり込みあうて、愈複雑になつた。ちよつと見には、どれが或種の芸人の本色か分らなくなつた。「新猿楽記」を見ると、此猿楽は恐らく皆、千秋《センズ》万歳の徒の演芸種目らしく思はれる。其中には、千秋万歳系統のほかひ[#「ほかひ」に傍線]の芸は勿論、神楽の才の男の態、呪師・田楽側の奇術や、器楽もあれば、狂言があり、散楽伝来の演劇がゝつたものもあり、同じ筋の軽業の類もある。又盲僧・瞽女《ごぜ》の芸、性欲の殊に穢い方面を誇張した「身ぶり芸」も行はれた事が知れる。尤《もつとも》、まじめな曲舞なども交つてゐたに違ひない。 此が、田遊び・踊躍《ユヤク》念仏を除いた田楽の全内容にもなつた。今、能楽と言ふ猿楽も、初めはやはり、此であつたであらう。田楽が武家の愛護を受けてから、曲舞に近づいて行つたと同じく、猿楽も肝腎の狂言は客位に置く様になつて、能芸即神事舞踊に演劇要素を多くした。声楽方面には、曲舞・田楽・反閇《ヘンバイ》などの及ばぬ境地を拓いた。取材は改り、曲目も抜群に増加し、詞章はとりわけ当代の美を極めた。そして、室町将軍の擁護を受ける様になつてからは、愈向上した。けれども、元は唱門師《シヨモジン》同様の祝言もする賤民の一種であつて、将軍の恩顧を得たのも、容色を表とする芸奴であつたからである。 幸若太夫が「日本記」と称する神代語りを主とするのは、反閇《ヘンバイ》の謂はれを説くためである。田楽法師の「中門口《チユウモングチ》」を大事とするのは、神来臨して室寿《ムロホギ》をする形式である。猿楽に翁をおもんじ、黒尉《クロジヨウ》の足を踏むのも、家及び土地の祝言と反閇《ヘンバイ》とである。 [#5字下げ]四 唱門師の運動[#「四 唱門師の運動」は中見出し] 唱門師は、神事関係の者ばかりでなく、寺との因縁の深かつたものも多かつた。だが、大寺の声聞身《シヨモジン》なる奴隷が、唱門師(しよもじん)の字を宛てられる様になつたのは、陰陽家の配下になつた頃からの事である。 彼等の多くは、寺の開山などに帰服した原住者の子孫であつたから、祀る神を別に持つてゐて、本主の寺の宗旨に、必しも依らねばならないことはなかつた。神奴でも同じで、祖先が主神に服従を誓うた関係を、長く継続せねばならぬと信じてゐたゞけで、社の神以外に、自身の神を信じて居た例が段々ある。 さうした「鬼の子孫」の「童子」のと言はれる村或は、団体が、寺の内外に居た。其等ほかひ人[#「ほかひ人」に傍線]と童子との外に、今一つ声聞身出自の一流派に属する団体がある。其は修験者とも、山伏し・野ぶしとも言うた人々である。 修験道の起りは藤原の都時代とあるが、果して役《エン》[#(ノ)]小角《ヲヅヌ》が開祖か、又は正しく仏教に属すべきものか、其さへ知れないのである。役[#(ノ)]行者の修行は或は、其頃流行の道教の仙術であつたのかも知れない。当時には大伴仙・安曇仙・久米仙などの名が伝へられて居り、天平には禁令が出て、出家して山林に亡命することを止めたのである。其文言を見ると、仏教・道教に厳重な区劃は考へてゐなかつた様であるが、万葉巻五の憶良の「令反惑情歌」は、其禁令の直訳なのに拘らず、道教側の弊ばかり述べてゐる。 其よりも半世紀も前の事である。山林に瞑想して、自覚を発した徒の信仰が、果して仏家の者やら、道教の分派やら、判断出来なかつたに違ひない。続日本紀を見ても、平安朝の理会を以て、多少の記録に対した処で、もう伝来の説を信じるより外はなくなつて居たらう事が察せられる。修験道の行儀・教義は、ある点まで、新しい仏教――天台・真言――の修法を主とする験方の法師等の影響を受けて居さうである。だから、奈良以前の修験道を考へる事は、平安時代附加の部分のとり除かれない間はおぼつかない。 山の神人即、山人の信仰が、かうした一道を開く根になつたのである。其懺悔の式も亦、懺法などの影響以前からある。山の神は人の秘密を聴きたがるとの信仰と、若者の享ける成年戒の山ごもりの苦行精神とが合体してゐるのである。 [#ここから2字下げ] 足柄の御坂《ミサカ》畏《カシコ》み、くもりゆの我《ア》が底延《シタバ》へを、言出《コチデ》つるかも(万葉巻十四) [#ここで字下げ終わり] 又 [#ここから2字下げ] 畏《カシコ》みと 告《ノ》らずありしを。み越路《コシヂ》の たむけに立ちて、妹が名|告《ノ》りつ(万葉巻十五) [#ここで字下げ終わり] 恋しさに名を呼んだのではなく、「今までは、身分違ひで、名をさへ呼ばずに居た。其に、越路へ越ゆる愛発《アラチ》山の峠の神の為に、たむけ[#「たむけ」に傍線]の場所で、妹が名を告白した」と言ふのである。 修験道の懺悔は、此意義から出て、仏家の名目と形式の一部を採つたのである。又、御嶽精進《ミタケサウジ》も、物忌みの禁欲生活で、若い人々の山籠りをして神人の資格を得る、山人信仰の形式から出たものと見る方が正しいのである。唯、女の登山を極端に忌んだのは、山の巫女(山姥)さへ択び奨めた古代の信仰とは違ふ様だが、成年戒を享ける期間に、女に近づけぬ形の変化なのだ。 山人の後身なる修験者は、山人に仮装し馴れた卜部等の、低級に止つた唱門師《シヨモジン》と同じ一つの根から出てゐた。修験者の仮装して戒を授ける山神は、鬼とおなじ物であつた。其を引き放して、仏家式の天狗なる新しい霊物に考へ改めた。だから天狗には、神と鬼との間の素質が考へられて居る。よく言ふ天狗の股を裂くと言ふ伝へも、身体授戒の記憶の枉《まが》つて伝つてゐるものらしい。 役[#(ノ)]小角が自覚したと言ふ教派は、まづ此位の旧信仰を土台にして、現れたものらしい。其に最初からも、後々にも陰陽道の作法・知識が交つたものらしい。 平安以後の修験道は、単に行力を得る為に修行するだけで、信仰の対象は疾くに忘れられてゐた。奈良朝以前の修験道と、平安のと、鎌倉以後の形式とでは、先達らの資格から違うてゐる。平安期には、験方の加持修法を主とする派の験者以外に、旧来の者を優婆塞《ウバソク》・山ぶしなどゝ言ひ別けた。さうして、両方ある点まで歩み寄つてゐた。鎌倉以後になると、寺の声聞身等が、優婆塞姿であり、旧来の行者同様、修験者の配下について、此方面に入る者も出来た事は考へられる。山伏しになつた中には、陰陽師と修験者とを兼ねた、ことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]・禊ぎ・厄よけ・呪咀などを行ふ唱門師《シヨモジン》もあつた事は疑ひはない。此方面に進んだものは、最自由にふるまうた。 此山ぶし[#「山ぶし」に傍線]・野ぶし[#「野ぶし」に傍線]と言ふ、平安朝中期から見える語には、後世の武士の語原が窺はれるのである。「武士《ブシ》」は実は宛て字で、山・野と云ふ修飾語を省いた迄である。此者共の仲間には、本領を失うたり、郷家をあぶれ出たりした人々も交つて来た。党を組んで、戦国の諸豪族を訪れ、行法と武力とを以て、庸兵となり、或は臣下となつて住み込む事もあつた。そして、山伏しの行力自負の濫行が、江戸の治世になつても続いた。諸侯の領内の治外法権地に拠り、百姓・町人を劫《おびや》かすばかりか、領主の命をも聴かなかつた。其為、山伏し殺戮が屡《しばしば》行はれてゐる。 叡山を中心にした唱門師の外に、高野山も亦、一つの本部となつてゐた。苅萱|唱門《ソウモン》など言ふ萱堂聖以外に、谷々に童子村が多かつた。高野聖、後に海道の盗賊の名になつたごまのはひ[#「ごまのはひ」に傍線]なども、此山出の山伏し風の者であつた。 今も栄えてゐる地方の豪族の中には、山伏しから転じて陰陽師となり、其資格で神職となつたのが多い。かういふ風に変化自在であつた。山伏しの唱文を、陰陽師式に祭文と称へた理由も明らかである。陰陽師の禊祓の代りに、懺悔の形式をとつて、罪穢を去るのである。「山伏し祭文」は、江戸になつて現れて来るが、事実もつと早くから行はれたに違ひない。先達代つて、罪穢を懺悔すれば、多くの人々の罪障・触穢・災禍が消滅すると考へるのである。身の罪業を告白すると言ふ形式が、芸術化して来たのである。 室町時代の小説類に多い「さんげ物」は勿論だが、江戸の謡ひ物の祭文は「山伏し祭文」から出て、ある人の罪業告白の自叙伝式の物になり、再転して「色さんげ」から、故人の恋愛生活などを言ひ立てることになつた。錫杖《しやくぢやう》と法螺《ほら》とを伴奏楽器とした。唱文は家の鎮斎を主として、家を脅すもの、作物を荒す物などを叱る詞章であつた。其くづれの祭文が、くどき[#「くどき」に傍線]めいたものであつた。其傾向が、他の条件と結合した。 さんげ[#「さんげ」に傍線]物語は山伏しの祭文以外にも、高野其他の念仏聖或は熊野比丘尼などの自身の半生を物語る様な形で唱へた身代りさんげ・菩提すゝめの懺悔文から影響せられてゐる様だ。寧、山伏しは祭文のおどけ[#「おどけ」に傍線]に富んだ処へ、男女念仏衆のさんげ[#「さんげ」に傍線]種を、とり込んだのであらう。さうして、もつと明るく、浮き立つ様なものにしたのではないか。色祭文・歌祭文など、皆ちよぼくれ[#「ちよぼくれ」に傍線]となり、あほだら経[#「あほだら経」に傍線]となるだけの素地を見せて居た。祭文には「さんげ念仏」と共通のさんげ[#「さんげ」に傍線]の語句があつた。さうした処から次第に念仏に歩みより、遂には、山伏しの手を離れて、祭文語りの側に移つたらしい。 歌比丘尼は、悪道苦患の掛軸を携へて、業報の贖《あがな》ひ切れぬ事を諭す絵《ヱ》解きを主として居た。其が段々変化して、石女《ウマズメ》の堕ちる血の池地獄のあり様、女の死霊の逆に宙を踏んで詣る妙宝山の様などをも謡ふ様になつた。 其に対して、歌順礼は、主として成年戒得受以前に死んだ者の受ける悩みを、叙事詩や、短詩形の短歌で謡うた。此は熊野の歌占巫女《ウタウラミコ》から胚胎したのであらう。三十三所の順礼歌の最後が「谷汲」であり、さんげ念仏[#「さんげ念仏」に傍線]の小栗転生物語の小萩の居たのは青墓であつた。熊野と美濃との関係は閑却出来ぬ。 あひの山ぶし[#「あひの山ぶし」に傍線]は、和讃・今様から、絵解きに移り、更に念仏化したものらしい。男性のたゝき[#「たゝき」に傍線]の一方の為事になつて行く。 此たゝき[#「たゝき」に傍線]と言ふものは、思ふに「節季候《セキゾロ》」が山の神人(山人)の後身を思はせる如く、海の神人の退転したのではあるまいか。私は、くゞつ[#「くゞつ」に傍線]の民の男性の、ほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]の仲間に入つたものゝ末の姿だと思うてゐる。其以前の形は、あまの囀り[#「あまの囀り」に傍線]の様に、早口で物を言うて、大路小路を走る胸たゝき[#「胸たゝき」に傍線]であつた。此に対する女性は、姥たゝき[#「姥たゝき」に傍線]と言はれるものがあつた。此外にも、くゞつ[#「くゞつ」に傍線]の遊女化せぬ時代の姿を、江戸の末頃近くまで留めてゐたのは、桂女《カツラメ》である。あの堆《うづたか》く布を捲き上げた縵《カヅラ》は、山縵ではなかつた。 [#5字下げ]五 他界を語る熊野唱導及び念仏芸[#「五 他界を語る熊野唱導及び念仏芸」は中見出し] 聖の徒は、僧家の唱導文を、あれこれ通用した。説経の座にも、成仏を奨める念仏の庭にも、融通してゐる内に、段々分科が定まつて行つたらしい。 口よせ[#「口よせ」に傍線]の巫術は「本地《ホンヂ》語り」に響いた。此を扱ふのは、多くは、盲僧や陰陽師・山伏しの妻の盲御前《メクラゴゼ》や、巫女の為事となつた。熊野には、かうした巫術が発達した。初めに唱へられる説経用の詞章が、陰惨な色あひを帯びて来ないはずはない。 念仏踊りの源も、また大きな一筋を此地に発した。念仏の両大派の開祖の種姓は伝説化してゐるが、高貴の出自を信じることは出来ない。やはり単に、寺奴なる「童子|声聞身《シヨモジン》」の類であつたらしい。念仏の唱文に、田楽の踴躍《ユヤク》舞踊を合体させたものが、霊気退散の念仏踊りになつたらしい。田楽が念仏踊りの基礎となり、田楽の目的なる害虫・邪気放逐を、霊気の上に移したばかりなのを見ても、念仏宗開基の動機は、あまりに尋常過ぎて居る。自然発生らしい信仰が、開祖の無智な階級の出なる事を示して居るのである。 熊野念仏は、寺奴|声聞身《シヨモジン》から大宗派を興す動機になつた。熊野田楽のふり[#「ふり」に傍線]と、熊野巫覡の霊感とが、聖《ヒジリ》階級の念仏衆の信仰・行儀に結びついたのだ。熊野巫女や熊野の琵琶弾きは、何時までも、信者の多い東国・奥州へ出かけて、念仏式な「物語」を語つた。義経記《ギケイキ》は、盲僧の手にかゝつて、一種の念仏式説経となり、瞽巫女《ゴゼ》や歌占巫女の霊感は、曾我物語を為《シ》あげて、まづ関の東で、地盤を固めた。曾我物語は、熊野信仰の一分派と見られる箱根・伊豆山二所を根拠とする、瞽巫女の団体の口から、語りひろげられ、語りつがれたものらしいのである。 義経記及び曾我物語は、此ら盲巫覡の幻想の口頭に現れ始めた物語で、元は、定本のなかつたものと見てよい。此二つの物語の主人公の、若くして寃屈《ゑんくつ》の最期を遂げた霊気懺悔念仏の意味から出たもので、其物語られる詞は、義経や、曾我兄弟の自ら告げたものであるから、邪気・怨霊・執念の、其等若武家には及ばぬものを、直ちに退散させるものとの信仰もあつたのであらう。 生霊・死霊の区別の明らかでない古代に、謡ひ物のとはず語りから得る実感は、語り手を曲中の人物と考へる癖が伝つて居た。後には主人公自身でなく、其親近の人の、始めて語つた物であり、同時に目前に現れて物語つてゐると言ふ錯覚が起つた。即、義経記では生き残つた常陸房海尊、曾我物語では虎御前と考へたらしい。最初の語り手から受けついだ形が転じて、生き存《ナガラ》へた人の目撃談、とりも直さず、其神に仕へる巫覡が伝宣する姿に移して考へる様になつたのだ。 室町時代に、京に上つて来たといふ若狭の八百比丘尼なども、念仏比丘尼の上のさうした論理の投影した長寿信仰であつたのであらう。さうしておもしろいのは、常陸房にも、八百比丘尼にも、一个処懺悔の俤《おもかげ》を残してゐることだ。比丘尼は人魚の肉を盗み喰うた事、海尊は主従討ち死の時に居あはさなかつた事を悔いて居る。 不老不死の霊物を盗んで、永生する説話は到る処にあるが、比丘尼の場合は、長寿の原因を言ふ必要がないのであつた。此はさんげ[#「さんげ」に傍線]の形式に入れた証拠だ。「五十年忌歌念仏」には、お夏自身、亡夫の妹と、念仏比丘尼となつて廻国する処で書き収めてある。念仏の一つの特徴である。又、西沢一風は姫路で、お夏のなれのはてといふ茶屋の婆を見たと書いてゐる。お夏は実在したかどうかも分らぬもので、熊野聖の笠を歌うた小唄をとり込んだ「清寿さんげ」の念仏物語から来た社会的幻想であらう。熊野比丘尼の一種に、清寿と言ふものがあつたらしい――白霊人書・水茎のあと――のだ。やはり歌念仏を語る女なるが故に、其詞章の上の、女主人公或は副主人公とも言へる人物其物と、信じられてゐたのだ。かうした論理の根拠を考へなかつた為、お夏実在説が信じられたのである。念仏衆のさんげ唱導に属する世間信仰の、ひよつくり現れたのだと言ふ事が知れる。 念仏衆が長文のさんげ念仏を語ることは稀になつた。同様に衰へて行つたものに、念仏の狂言がある。此をする地方は、まだ間々あるが。 沖縄では、日本の若衆歌舞妓をまねたものを、若衆《ニセ》(似せともとれる)念仏《ネンブツ》と言うた時代もあつた(伊波普猷氏の話)。あの島へは、念仏聖が早くから渡つてゐる。さうして、其持つて行つた芸道は、稍《やや》長篇の歌、順礼系統の哀れな叙事詩、唱門師関係のことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]の詞章、童子訓の様な文句、其他いろ/\残つてゐる。又|京太郎《チヤンダラ》と言ふ人形芝居があつた。柳田国男先生の考へで、念仏者の村は、浄土聖の行者の住みついたものと定つた。いづれにしても浄土の末流に、尠くとも此幾倍かの演芸種目を携へて、琉球まで来たものがあつたのだ。江戸の初期を降らない頃から、或はもつと早くに渡つて居たであらうと考へられる。沖縄の伝説中に、内地の物語と暗合の余り甚しいものゝあるのは、浄土説経の諷誦から来たものだと言ふ事が知れる。尤、袋中《タイチユウ》和尚其他相当な島渡りの浄土僧からも伝へられたらうと言ふ事も考へられないでもない。 念仏聖の中にも、名は念仏を称しても、既に田楽・猿楽の如く、遊芸化した団体を組んだ者もゐたのである。即、たゞの念仏の外に、念仏興行を頼まれゝば、出向いて盂蘭盆・鎮魂・鎮花其他の行儀を行ふ上に、演劇・偶人劇・舞踊・諷誦等雑多の演芸種目を演じる者もあつたのである。室町には、かうした念仏職人の中には、山伏しにあつたと同じく、敗残の土豪等も身を寄せてゐた。或は、山伏し同様、呪力・武力を以て、行く先々の村を荒し、地を奪うて住み著く様になつた芸奴出身の成り上り者もあつたらう。 上州徳川の所領を失うたと言ふ江戸将軍の祖先徳阿弥父子は、遊行派の念仏聖として、方々を流離した末、三河の山間松平に入つて、其処で入り壻となり、土地にありついて、家門繁昌の地盤を築いた。此事などは、念仏其他の興行に、檀那場を廻つてゐた聖・山伏しの小団体の生活の、一つの型を髣髴させる歴史である。 すつぱ[#「すつぱ」に傍線]又、らつぱ[#「らつぱ」に傍線]といひ、すり[#「すり」に傍線]と言ふのも、皆かうした浮浪団体又は、特に其一人をさすのであつた。新左衛門のそろり[#「そろり」に傍線]なども、此類だと言ふ説がある。口前うまく行人をだます者、旅行器具に特徴のあつたあぶれもの[#「あぶれもの」に傍線]、或は文学・艶道の顧問(幇間の前型)と言つた形で名家に出入りする者、或はおしこみ専門の流民団など、色々ある様でも、結局は大抵、社寺の奴隷団体を基礎としたものであつた。かう言ふ仲間に、念仏聖の芸と、今一つ後の演劇の芽生えとなつた伝承が、急に育つて来た。其は、荒事《アラゴト》趣味である。室町末から、大坂へかけての間を、此流行期と見なしてよい。実は古代から、一時的には常に行はれた事の、時世粧として現れて来たのである。 祭りや法会の日に、神人・童子或は官奴の神仏群行に模した仮装行列、即前わたり[#「前わたり」に傍線]・練道《レンダウ》などの扮装が、次第に激しく誇張せられて来た。踏歌|節会《せちゑ》のことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]に出る卜部たちや、田楽師等の異装にも、まだ上の上が出て来たのだ。 田楽が盛んになつてから、とりわけ突拍子もない風をする様になつた。田楽師に関係の深い祇園会の、神人・官奴などの渡御の風流などになると、年々殆ど止りが知れぬ程だつた。祇園祭りや祇園ばやしなどが、国々に、益《ますます》盛んになつて行くに連れて、物見の人までが、我も/\と異風をして出かけた。竟《つひ》に、日常の外出にさへ行はれ出した。戦国の若い武士の趣味には叶ふ筈である。大きく、あらつぽくて、華美で、はいから[#「はいから」に傍線]で、性欲的でもあると言うた、目につく服装ばかりに凝つた。此には念仏聖などが殊に流行を煽つた様である。呪師の目を眩す装ひをついだ田楽師、其後を承けた念仏芸人である。 若い武家の無条件で娯《たのし》めるのは、幸若舞であつた。舞役者の若衆の外出の服装や姿態が、変生男子風の優美を標準とした男色の傾向を一変した。 以前、風流《フリウ》と言うた語《ことば》に代る語が、どこの武家の国から現れたものか、戦国頃から流行し出した。かぶく[#「かぶく」に傍線]と言ふ語が其である。此方言らしい語が、新しい、印象的な、壮快で、性的で、近代的である服装や、ふるまひを表すのに、自由な情調を盛り上げた。かぶく[#「かぶく」に傍線]・かぶかう[#「かぶかう」に傍線]・かぶき[#「かぶき」に傍線]など言ふ変化の具つたのも、固定したふりう[#「ふりう」に傍線]よりは自在であつた。 此語が現れてから、かぶきぶり[#「かぶきぶり」に傍線]は段々内容を拡げて行つた。そして、恣《ほしいまま》にかぶき[#「かぶき」に傍線]まくつたのは、唱門師《シヨモジン》及び其中に身を投じた武家たちであつた。彼等は、かぶきぶり[#「かぶきぶり」に傍線]を発揮する為に、盛んに外出をし、歩くにも六方法師の練りぶり[#「練りぶり」に傍線]をまね、後に江戸の丹前ぶりを分化した六方で、道を濶歩して口論・喧嘩のあくたいぶり[#「あくたいぶり」に傍線]や、立ちあひぶり[#「立ちあひぶり」に傍線]に、理想的にかぶかう[#「かぶかう」に傍線]とした。名護屋山三郎の、友人と争うて死んだのも、かうしたかぶき[#「かぶき」に傍線]趣味に殉じたのである。 幸若の様に固定しない念仏の方は、演奏種目を幾らでも増すことが出来た。即かぶき男[#「かぶき男」に傍線]の動作を取り込んで、荒事ぶりを編み出し、念仏踊り及び旧来の神事舞・小唄舞を男舞にしたてゝ、をどり出した。流行語のかぶき[#「かぶき」に傍線]を繰り返して詠じたから、かぶきをどり[#「かぶきをどり」に傍線]の名が、直ちについた。或は、幸若の一派に「かぶき踊り」と言ふものが、既にあつたのかも知れぬ。だが、よく見ると、念仏踊りであつたゞけに、名古屋山三郎の亡霊現れて、お国の踊りを見て、妄執を霽《はら》して去ると言ふのは、やはり供養の形の念仏である。念仏踊りは、田楽の亜流であり、鎮花祭の踊りの末裔であるから、神社にも不都合はなかつた。即、田楽の異風なもので、腰鼓の代りに、叩き鉦を使ふだけが、目につく違ひである。念仏踊りの出来た初めには、古い名の田楽を称してゐたものもあつたらうと思ふ。又、後世まで、念仏でゐて、田楽を称したのもある位だ。 お国の「念仏踊り」は、旧来の物の外に、小唄舞を多くとり込んで発達した。田楽との距離の大きい「念仏踊り」の一つに違ひない。其上、よほど演芸化して、浮世じたてのものが多くなつて居た。 [#5字下げ]六 説経と浄瑠璃と[#「六 説経と浄瑠璃と」は中見出し] 念仏聖の多くは、放髪にして禿《カブロ》に断《キ》つたものである。剃つたものは、法師・陰陽師であつた。だが、禿《カブロ》即、童髪《ワラハガミ》にした「童子《ドウジ》」ばかりであつたわけではない。寺奴にも段階があつて、寺主に候ふ者・剃髪を許された者・寺中に住める者・境外|即《すなはち》門前或は可なり離れた地に置かれて居た者などがある。其最下級の者が、童子村の住民であつた。此階級の人々は、念仏宗の興立と共に、信仰の上にまで、宿因・業報だとばかり、あきらめさせられてゐた従来の教理から解放せられた。だから、高野は勿論、叡山其他寺々の童子は、昔から信仰に束縛のなかつた慣例から、浄土・一向・融通・時衆などに趨《おもむ》いた。 処が、平安末の念仏流行の時勢は、公家・武家にも多くの信者を出したと同時に、寺に居て、寺の宗義を奉じながら、一方新しく開基せられた念仏宗を信じた僧さへ出て来た。洛東|安居院《アグヰ》は、天台竹林院派の道場で著れてゐた。其処に居て、安居院《アグヰ》法師と称せられた聖覚《セイカク》は、天台五派の一流の重位に居ながら、法然上人の法弟となり、浄土宗の法統には、円光大師直門の重要な一人とせられて居る。此人は叡山流の説経伝統から見て大切な人だ。父はやはり説経の中興と言はれた程の澄憲《テウケン》(同じく安居院の法印)であり、信西入道には孫である。澄憲は其兄弟中に四人まで、平家物語の作者だと言はれる人を持つてゐる。さうして桜の命乞ひをした話や、鸚鵡返しの歌で名高い桜町中納言も、其兄弟の一人である。 私は経を読み、又説経する時に、琵琶を使うたのが平安朝の琵琶法師だと考へてゐる。平家物語の弾かれたのが、琵琶の叙事詩脈の伴奏に使はれた初めだとは思はない。其以前に「経を弾いた」事があつたと認められる。澄憲の説経には、歌論義・問答・頓作めいた処が讃へられた様に思はれる。平家物語もある点から見れば、説経である。其上、目前平家の亡んだ様子が、如何にも唱導の題材である。私は源氏物語の作為の動機にも、可なりの分量の唱導意識がある、と考へてゐるのである。 説経の材料は、既に「三宝絵詞」があり、今昔物語があつた。此等は、唱導の目的で集められた逸話集と見るべき処が多い。古くは霊異記、新しくは宝物集・撰集抄・沙石集などの逸話集は、やはり、かうした方面からも見ねばならぬ。かうした説経には、短篇と中篇とがあつて、長篇はなかつた。処が、中篇或は短篇の形式でありながら、長篇式の内容を備へたもの――源氏・平家の両物語は姑《しばら》く措いて――が出来た。其は安居院《アグヰ》(聖覚)作を伝へる「神道集」である。神道と言ふ語は、仏家から出た用語例が、正確に初めらしい。日本の神に関した古伝承をとつて、現世の苦患は、やがて当来の福因になる、と言ふ立場にあるもので、短篇ながら、皆ある人生を思はせる様な書き方のものが多い。巧みな作者とは言へぬが、深い憂ひと慰めとに満ちた書き方である。此は、聖覚作とは言ひにくいとしても、変改記録せられたのは、後小松院の頃だらう。さうして此が説経として、口に上つてゐたのは、もつと早かつたらうと思はれる。 説経はある処まで、白拍子と一つ道を歩んで来た。其間に、早く芸化し、舞踊をとり入れた曲舞・白拍子・延年舞は、実は、皆曲舞の分派である。白拍子・歌論義、其等から科白劇化した連事、其更に発達したのが宴曲である。説経は次第に、かうした声楽をとり込んで来た。 唱導を説経から仮りに区別をすれば、講式の一部分が独立して、其平易化した形をとるものが唱導であつて、法会・供養の際に多く行はれる様になつて居たらしい。其法養の趣旨を述べるのが表白《ヘウビヤク》である。此も唱導と言ふが、中心は此処にない。唯、表白は祭文化、宴曲化し、美辞や警句を陳《つら》ねるので、会衆に喜ばれた。今日の法養の目的によく似た事実を、天・震・日の三国に亘つて演説する。此が、読誦した経の衍儀《えんぎ》でもあり、其経の功徳に与らせる事にもなるのである。唱導の狭義の用例である。其上で形式的に、論義が行はれ、口語で問答もする。 室町以後の説経になると、題材が段々日本化し、国民情趣に叶ひ易くなつたと共に、演説種目が固定して、数が減つて行つた。講座の説経のみならず、祭会に利用せられて、仏神・社寺の本地や縁起を語る事に、讃歎の意義が出て来た。家々で行ふ時は、神寄せ・死霊の形にもなつて来た。此意味の説経は、其物語の部分だけを言ふのである。 琵琶法師にも、平安末からは、言ほぎ[#「言ほぎ」に傍線]や祓への職分が展《ひら》けて来た痕が見える。又寺の講師の説経の物語の部分を流用して、民間に唱導詞章を伝へ、又平易な経や偽経を弾くやうになつた。説経の芸術化は、琵琶法師より始まる。其為、後には寺の説経には伴奏を用ゐず、盲僧の説経には、唱門師としての立場から、祓除の祭文に当る経本を誦した。平家も最初は、扇拍子で語つたと言ふ伝へは、寺方説経の琵琶と分離した痕を示すのだ。 鎌倉室町に亘つて盛んであつた澄憲の伝統|安居院《アグヰ》流よりも、三井寺の定円の伝統が後代説経ぶしの権威となつたのには、訣がある。 澄憲流は早く叡山を離れて、浄土の宗教声楽となり、僧と聖とに伝つたが、肝腎の安居院は、早く氓びて、家元と見るべきものがなくなつた。定円流は其専門家としての盲僧の手で、寺よりも民間に散らばつたらしい。浄土説経は絵ときや、念仏ぶしに近づいて行つたが、三井寺を源流とする盲僧は、寺からは自由であり、平家其他の物語や、詞曲として時好に合ふ義経記や、軍記などの現世物を持つて居た。浄土派の陰惨な因果・流転の物語よりは、好まれるわけで、段々両種の台本を併せて語るやうになつた。其中、神仏の本地転生を語る物を説経と言ひ、現世利益物を浄瑠璃と言ふ様になつたらしいのである。説経・浄瑠璃は、また目あきの芸にもなつて、扇や簓《サヽラ》を用ゐる様にもなつた。 一方盲僧の説経なる軍記類は、同じ陰陽配下の目あきの幸若舞などの影響から素語りの傾向を発達させた。そして物語講釈や、素読みが、何時か軍談のもとを作つて居た。口語りの盛衰記や、かけあひ話の平家や、猿楽の間語《アヒダガタ》りの修羅などが、橋渡しをしたらしい。盛衰記は幸若を経て、素語りを主とする様になり、太平記にも及んだ。此が、戦国失脚のかぶき者[#「かぶき者」に傍線]などに、馴れた幸若ぶし[#「幸若ぶし」に傍線]などで語られて、辻講釈の始めとなつたのである。 釜神の本縁を語り、子持ち山の由来・諏訪本縁を述べたりする説経の、既に、南北朝にある(神道集)のは、平安末の物と違うて来た事を見せ、荒神供養や、産女守護・鎮魂避邪を目的とする盲僧の所為であつたことを見せるのか。 浄土派の説経の異色のあるのは、安居院《アグヰ》流のだからであらう。浄土の念仏聖は此説経を念仏化して、伝道して歩いたらしく思はれる。たとへば、大和物語に出た蘆刈りの件「釜神の事」の様なものである。其が、沖縄の島にさへ伝へられ、奥州地方にも拡つてゐる。 大体、近松の改作・新作の義太夫浄瑠璃の出現は、説経と浄瑠璃との明らかな交迭期を見せてゐる。一体、説経にも旧派のものと、新式の物とがあつて、新式のものは、やがて、近松の出て来る暗示を見せてゐるのであるが、さういふ側が更に「歌説経」に進んだのである。 説経は平家を生み、平家は説経を発達させた。現に、北九州の盲僧|所謂《いはゆる》師の房[#「師の房」に傍線]らの弾くものには、経[#「経」に傍線]があり、説経があり、くづれ[#「くづれ」に傍線]があり、其説経には、重いものとくづれ[#「くづれ」に傍線]に属するものとがある。そして、幸若流の詞曲が重いものとなつてゐる。盲僧の妻は瞽女であるが、盲僧の説経や平家に対して、瞽女は浄瑠璃を語るのが、本来であつたらしい。 説経は本地を説き、人間苦の試錬を説いて、現世利益の方面は、閑却してゐた。其で、薬師如来の功徳を述べる、女の語り物の説経が出来た。女には、正式な説経は許されてゐなかつた為もあらう、浄瑠璃と言ふ様になつた。薬師如来は、浄瑠璃国主だから、幾種もの女説経を、浄瑠璃物語と称する様になつた。 其以前、曾我物語は瞽女の語り物になつてゐた。「十二段草子」は、浄瑠璃として作られた最初の物だとは言はれまい。此草子自身も、新しい改作の痕が見えてゐて、決して初稿の「十二段草子」とは言へなさゝうである。其上「やす田物語」と言ふ浄瑠璃系統のものが、更に古くあつたと言はれてゐる。さすれば、因幡堂薬師の縁起だ。やはり、浄瑠璃の名が、瞽女の演芸種目から、盲僧の手にも移つて行く事になつたのである。薬師の功徳を説かなくても、浄瑠璃は現世式の語り物の名となつた。 かうして段々、説経よりも浄瑠璃の方が、世間に喜ばれる様になつた。浄瑠璃の方が気易いから、三味線も早く採用する事が出来た。門《かど》説経は扇拍子であつても、盲僧の語る説経は、琵琶を離すことが出来なかつたのであらう。段々目あきの演芸人が出来た。説経も台本を改作し、楽器も三味線に替るやうになつた。 かうして、次第に、自然に現実味と描写態度とを加へて来たが、近松になつて徐々に、さうして姑《しば》らくしてから急激に変化し、飛躍して、其後の浄瑠璃は唱導的意義を一切失ふ様になつて了うた。でも、昔のなごりで、宮・寺の法会、追善供養などを当てこんだ作物の出たのは、説経本来の意義が、印象して居た為である。唱導芸術らしい努力が、古い詞章の改作に骨折つた時代にはなくて、却つて自由な態度で囚はれずに書いた作物(心中ものゝ切り[#「切り」に傍点]など)に見えてゐる。現世の苦悩を離れて行く輝かしさを書いたのは、世話物が讃仏乗の理想に叶ひ難いといふ案じからであらう。だが後になる程、陰惨な場合も、わりに平気で書いてゐる。此人の文学観が、変つて来たのである。 さて、説経には三つの主体があつた。大寺の説経師・寺の奴隷階級の半俗僧、今一つは琵琶弾きの盲僧である。そして江戸の説経節へ直ぐな筋を引くものは、最後のものであるが、此を最広く撒布して歩いたのは、童子聖の徒であつて、隠れてはゐるが、芸術的には大きな為事をしてゐる。あみいば[#「あみいば」に傍線]としての努力を積んで、江戸の浄瑠璃の起つて来る地盤を築きあげて居たわけである。 日本文学の一つの癖は、改作を重ねると言ふ事である。私は源氏物語さへも「紫の物語」と言つた、巫女などの唱導らしいものゝ、書き替へから始つたのだと考へてゐる。「うつぼ」などは、鎌倉の物には相違ないが、でも全然偽作ではなく、改作をしながら、書きついで行つたものであらう。住吉物語も信ぜられて居ないが、源氏物語で見れば、ある点、今の住吉物語の筋通りである。さすれば、やはり改作と見る外はない。落窪物語なども、改作によつて平安朝の特色を失うた処もあり、文法も時代にあはなくなつて了うたらしく、偽作ではなくて、やはり書き継ぎ書き加へたものである。こんな風で、説経も其正本が出るまでには、幾度口頭の変改を重ねて来てゐるか知れないのである。 [#3字下げ]戯曲・舞踊詞曲の見渡し[#「戯曲・舞踊詞曲の見渡し」は大見出し] [#5字下げ]一[#「一」は中見出し] 歌舞妓芝居は、只今ですら、実はまだ、神事芸から離れきつてゐないのである。其発生は既に述べた如くで、久しく地表に現れなかつたからとて、能楽よりも後の発生であり、能楽の変形だなどゝ考へてはならぬ。 江戸の歌舞妓の本筋は、まづ幸若舞で、上方のものは念仏踊りを基礎とした浮世物まね[#「浮世物まね」に傍線]や、組み踊り[#「組み踊り」に傍線]を混へてゐる。 豊臣時代頃から、画にも芝居にも、当世のはいから[#「はいから」に傍線]ぶりをうつす事が行はれて、芝居では殊に、美しい少人がはで[#「はで」に傍線]な異風をして練り歩くと言つた、一種の舞台の上のあるき[#「あるき」に傍線]が喜ばれた。 名護屋山三郎は、浪人でかぶき者[#「かぶき者」に傍線]であつた。其蒲生に仕へたのは、幸若舞などによつて召されて居たらしく、早歌《サウカ》をお国に伝授したらしい。早歌は、表白《ヘウビヤク》と千秋万歳の言ひ立て[#「言ひ立て」に傍線]とから出て、幸若にも伝つてゐるのだ。上方の芝居は、出雲で芸道化したお国の念仏巫女踊りに、幸若の形や、身ぶりを加へたものである。上方では座頭の女太夫を、和尚と言うたらしく、江戸では太夫と呼んでゐたと言ふ。 立役《タチヤク》と称するものゝ元は、狂言方である。此に、大人なのと、少人なのとがある。お国の場合には、少人ではなく、此に当るものは、名護屋山三郎であつた。「若」の意義が拡つて来たのである。江戸の中村勘三郎も其である。大人・少人の狂言方の出るのは王朝末にもある事で、若衆が狂言方に廻つたのが、江戸歌舞妓である。此が猿楽役であつて、狂言方[#「狂言方」に傍線]・わき方[#「わき方」に傍線]を兼ねてゐるのだ。若が勤めたから、猿若と呼ばれたらしい。而も、江戸の女太夫は、幸若の女舞であるから、念仏踊りは勘三郎が行うたらしい。 中村屋勘三の「早《ハヤ》物語」と言ふ琵琶弾きの唄(北越月令)を見ると、此だけのことが訣る。勘三が武蔵足立郡で百姓もして居た事。鳴り物の演芸に達してゐた事。縁もない琵琶の唄に謡はれて居るのは、中村屋と琵琶弾き盲僧との間に、何かの関係があつた事の三つの点である。さうすると、勘三もやはり、一種の唱門師《シヨモジン》で念仏踊りの組合(座)を総べてゐた事と、江戸芝居にも念仏踊りが這入つて居た事とが言へる。さすれば、猿若狂言に使ふ安宅丸の幕の緋房と言ふのは、実は、念仏聖の懸けた鉦鼓の名であり、本の名にまでなつた「金《キン》の揮《サイ》」は、単に念仏聖の持つぬさかけ棒[#「ぬさかけ棒」に傍線]であらうか。 [#5字下げ]二[#「二」は中見出し] 女太夫禁止以後、狂言・脇方の若衆が、幸若風に、して方[#「して方」に傍線]に廻つて、若衆歌舞妓が盛んになつた。若衆の立役が主人役と言ふ感じを与へるまでの機会を作つたのであらう。 念仏踊りと、田楽系統の科白の少い喜劇に飽いた世間は、さうした変成《ヘンゼウ》の男所作と新しい「女ぞめき」のふり[#「ふり」に傍線]を喜んだ事であらう。此は、幸若の「曾我」などを、物まねにうつせば、出て来る事であつて「傾城買ひ」或は「島原狂言」の元であり、更に此に、前述の前わたり[#「前わたり」に傍線]・道行きぶり[#「道行きぶり」に傍線]を加へて来たのである。 歌舞妓の木戸に、後々まで狂言づくし[#「狂言づくし」に傍線]と書き出したのは、能狂言に模したものを幾つも行ふ意ではなかつた。日本の古い演劇が、舞踊・演劇・奇術・歌謡、さうした色々の物を含んでゐた習慣から出た名で、歌舞妓踊りも、狂言も、小唄・やつし唄も、ありだけ見せると言ふ積りであつた。猿楽・舞尽しと言へなかつた為、同じ様に古くからある狂言と言ふ語《ことば》を用ゐたのである。名は能狂言で、其固定した内容を利用したかも知れぬが、能狂言から思ひついたとは言へないのである。農村に発達した、村々特有の筋と演出とを持つた古例の出し物があつたのだ。どこの村・どこの社寺の、どの座ではどれと言ふ風に、二立て目に出す狂言は極《きま》つて居て、狂言も其一種であつたのが、無数に殖えたのである。江戸の猿若で言へば、猿若狂言と定式狂言とが其なのである。後の物は総称して狂言と言ふが、内容は種々になる訣である。 其一つの能狂言が、対話を主として栄えたことを手本にして、改良せられて行つた。此は、能や舞に対しては踊りである。狂言の平民態度に立つてゐるのから見れば、此は武家情趣を持つて居る。但、役者自身歌舞妓者が多かつた為、舞台上の刃傷《にんじやう》や、見物との喧嘩などが多かつた。 [#5字下げ]三[#「三」は中見出し] 江戸の荒事は、金平《キンピラ》浄瑠璃と同じ原因から出たらうが、お互に模倣したものとは言へない。団十郎の初代は、唐犬権兵衛の家にゐたと言ふから、やはり町奴の一人となる資格のあつたかぶき者[#「かぶき者」に傍線]だつたのである。 かぶき[#「かぶき」に傍線]と言ふ語は、又段々、やつこ[#「やつこ」に傍線]と言ふ語に勢力を譲るやうになつた。旗本奴にも、歌舞妓衆と言はれる徒党があつて、六方に当る丹前は、此等の奴ぶり[#「奴ぶり」に傍線]から出た。その、寛濶・だて[#「だて」に傍線]などゝ流行語を易《か》へるに従うて、概念も移つて行つて、遂に「通」と言ふ「色好みの通り者」と言ふ処におちついた。 かぶき者[#「かぶき者」に傍線]は半従半放の主従関係だつたので、世が静まつても、さうした自由を欲する心の、武士の間にあつた事が知れる。だから渡り奉公のやつこ[#「やつこ」に傍線]の生活を羨んで、旗本奴などゝ言ふ名を甘受してゐたのだ。 吉原町・新吉原町に「俄《にはか》狂言」の行はれるのは、女太夫の隔離せられた処だからで、女歌舞妓以来の風なのである。又太夫の名も、舞太夫であるから称へた、歌舞妓の太夫であつたからだ。其名称は、京阪へも遷つた。 ばさら風[#「ばさら風」に傍線]と言ふのは、主として、女のかぶきぶり[#「かぶきぶり」に傍線]で、其今に残つてゐるのは、男の六方に模して踏む「八文字」である。廓語《くるわことば》の、家によつて違ふのも、元はそれ/″\座の組織であつた為、村を中心とする座の相違から来る方言の相違と用語とにも、なるべくばさら[#「ばさら」に傍線]を好んだ時代の風と俤とを残してゐるのである。 [#5字下げ]四[#「四」は中見出し] 江戸発生の舞踊がすべて、をどり[#「をどり」に傍線]と言はれて居るのは、其発生が皆、歌舞妓芝居にあつて、幸若舞系統なることは、絶対に否定せられてゐたからである。其為にをどる[#「をどる」に傍線]と舞ふ[#「舞ふ」に傍線]とは、区別があるにも拘らず、舞に属するものも皆、をどり[#「をどり」に傍線]と称せられる様になつた。 をどり[#「をどり」に傍線]は飛び上る動作で、まひ[#「まひ」に傍線]は旋回運動である。まひ[#「まひ」に傍線]の方は早く芸術的な内容を持つに到つたが、をどり[#「をどり」に傍線]の方は遅れてゐた。 神あそび・神楽《カグラ》なども、古く、をどり[#「をどり」に傍線]とくるふ[#「くるふ」に傍線]との方に傾いてゐた。まひ[#「まひ」に傍線]の動作の極めて早いのがくるふ[#「くるふ」に傍線]である。舞踊の中に、物狂ひ[#「物狂ひ」に傍線]が多く主題となつてゐるのは、此くるひ[#「くるひ」に傍線]を見せる為で、後世の理会から、狂人として乱舞する意を併せ考へたのである。 正舞は「まひ」と称し、雑楽は何楽《ナニガク》と言うた。猿楽・田楽は、雑楽の系統としての名である。がく[#「がく」に傍線]と言ふ名に、社寺の奴隷の演ずる雑楽の感じがあつたのだ。曲舞は社寺の正楽の稍乱れたものだからの名で、此は詞曲にも亘つて言ふ詞とした。舞は曲舞以来、謡ふ方が勝つて居たらしく、動きは甚しくない物となつて来たらしい。もとより此も社寺の大切な行事として、まひ[#「まひ」に傍線]と言はれたのである。 [#5字下げ]五[#「五」は中見出し] 能はわざ[#「わざ」に傍線]即、物まね[#「物まね」に傍線]の義で、態の字を宛てゝゐたのゝ略形である。而も其音たい[#「たい」に傍線]を忘れて、なう[#「なう」に傍線]と言ふに到つた程に、目馴れたのだ。「才《サイ》[#(ノ)]男《ヲ》[#(ノ)]能」などゝ書きつけたのを、伶人たちの習慣から、さいのを[#「さいのを」に傍線]ののを[#「のを」に傍線]を能[#「能」に白丸傍点]と一つに考へ、遂になう[#「なう」に傍線]と言ふに到つたのであらう。わざ[#「わざ」に傍線]は神のふりごと[#「ふりごと」に傍線]であるが、精霊に当る側のをこ[#「をこ」に傍点]な身ぶりを言ふ事になつて来た。其が鎌倉に入ると、全く能となつて、能芸《ナウゲイ》などゝ言ふ様になつた。芸は職人の演ずる「歌舞」としたのだ。能芸とは、物まね舞で、劇的舞踊と言ふ事になるのである。田楽・猿楽に通じて、能と言ふのも、ものまね狂言を主とするものであつたからで、即、劇的舞踊の義である。 ことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]は舞よりも、わざ[#「わざ」に傍線]の方ではあるが、宮廷の踏歌や、社寺の曲舞に、反閇《ヘンバイ》の徘徊ぶりが融合して、曲舞の一つとなつた。千秋万歳も、だから舞である。其物語に進んだ物なる幸若も亦《また》舞である。 呪師の方では、舞とも、楽とも言はないで、主に「手」を言ふ。舞踊よりも、奇術に属するものであつたのが、わざ[#「わざ」に傍線]や狂言を含んで来、「手」を「舞ひ方」と解する様になつたのであらう。田楽の前型なのである。 狂言はわざ[#「わざ」に傍線]に伴ふ対話である。わざ[#「わざ」に傍線]は、其古い形は、壬生念仏の様にもの言はぬ物ではあるが、狂言を興がる様になつてからは、わざ[#「わざ」に傍線]をも籠めて狂言と言ふ様になり、能とは段々少し宛《づつ》隔つて行つた。 神遊びに出た舞人は、宮廷の巫女であるが、神楽では、人長は官人で、才の男は元山人の役であつたらしい。つまり神奴である。ことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]に出るのも山人の積りだから、やはり神奴である。才芸の徒は雑戸で、其位置は良民より下るが、社寺の伶人は更に下つて、神人・童子であつた。而も、位置高い人の勤める役を、常に代つて奉仕するが故に、身は卑しながら、皆祭会には、重い役目であつた。身は賤しながら楽《ガク》の保持者である。 [#5字下げ]六[#「六」は中見出し] 所属する主家のない流民は、皆社寺の奴隷に数へられた。此徒には、海の神人の後なるくゞつ[#「くゞつ」に傍線]と、山人の流派から出たほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]とが混り合つてゐた。それが海人がほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]になり、山人がくゞつ[#「くゞつ」に傍線]になりして、互に相交つて了うた。此等が唱門師の中心であつた。舞の本流は、此仲間に伝へられたのである。 今一つ、山海の隈々に流離して、山だち[#「山だち」に傍線]・くゞつ[#「くゞつ」に傍線]など言はれた団体の女性は、山姥・傀儡女《クヾツメ》として、細かな区別は段々無くなつたが、前者は舞に長け、後者は諷誦に長じて居た。此等の流民の定住するに到るまで、久しく持ち歩いたうた[#「うた」に傍線]と其叙事詩と呪言とは、幾代かの内に幾度となく、あらゆる地方に、あらゆる文芸の芽生えを植ゑつけた。尤《もつとも》此等の二つの形式を併せ備へてゐる者もあつて、一概に其何れとは極《き》めて了ふことは出来ない。併し、其等の仲間には、常に多くの亡命良民と若干の貴種の人々とを交へて居たのは事実である。 此等の団体を基礎として、徒党を組んだ流民が、王朝末・武家の初めから、戦国の末に到るまで、諸国を窺ひ歩いた。さうして、土地或は勤王の主を得て、大名・小名或は家人・非御家人などの郷士としておちついた。 其位置を得なかつた者や、戦国に職を失うた者は、或は町住みして、部下を家々に住み込ませる人入れ稼業となり、或はかぶき者[#「かぶき者」に傍線]として、自由を誇示して廻つた。併し、いづれも、呪力或は芸道を、一方に持つて居た。かう言ふ人々及び其余流を汲む者の間から、演劇が生れ、戯曲が作られ、舞踊が案出せられ、小説が描かれ始めた。世を経ても、長く残つたのは、放蕩・豪華・暴虐・淫靡の痕跡であつた。 ことに、著しく漸層的に深まつて行つたのは、歌舞妓芝居に於けるかぶき味[#「かぶき味」に傍線]であつた。時代を経て、生活は変つても、淫靡・残虐は、実生活以上に誇張せられて行つた。他の古来の芸人階級は、それ/″\位置を高めて行つても、この俳優連衆ばかりは、江戸期が終つても、未だ細工[#「細工」に傍線]・さんか[#「さんか」に傍線]の徒と等しい賤称と冷遇とを受けて居た。此はかぶき者[#「かぶき者」に傍線]としての、戦国の遺民と言ふので、厭はれ隔離せられた風が変つて、風教を害《そこな》ふ程誘惑力を蓄へて行つた為である。 又、都会に出なかつた者は、呪力を利用して博徒となり、或は芸人として門芸を演じる様になつた。 更に若干の仲間を持つた者になると、山伏しとして、山深い空閑を求めて、村を構へ、修験法印或は陰陽師・神人として、免許を受けて、社寺を基とした村の本家となつた。或は、山人の古来行うてゐる方法に習うて、里の季節々々の神事・仏会に、遥かな山路を下つて、祝言・舞踊などを演じに出る芸人村となつた。 わが国の声楽・舞踊・演劇の為の文学は、皆かうした唱導の徒の間から生れた。自ら生み出したものも、別の階級の作物を借りた者もあるが、広義の唱導の方便を出ないもの、育てられない者は、数へる程しかないのである。 [#5字下げ]七[#「七」は中見出し] 山人の寿詞・海部《アマベ》の鎮詞《イハヒゴト》から、唱門師の舞曲・教化、かぶき[#「かぶき」に傍線]の徒の演劇に到るまで、一貫してゐるものがある。其はいはひ詞[#「いはひ詞」に傍線]の勢力である。われ/\の国の文学はいはひ詞[#「いはひ詞」に傍線]以前は、口を緘《とざ》して語らざるしゞま[#「しゞま」に傍線]のあり様に這入る。此が猿楽其他の「癋《ベシミ》の面」の由来である。其が一旦開口すると、止めどなく人に逆ふ饒舌の形が現れた。田楽等の「もどきの面」は、此印象を残したものである。其もどき[#「もどき」に傍線]の姿こそ、我日本文学の源であり、芸術のはじまりであつた。 其以前に、善神ののりと[#「のりと」に傍線]と、若干の物語とがあつた。而も現存するのりと[#「のりと」に傍線]・ものがたり[#「ものがたり」に傍線]は、最初の姿を残してゐるものは、一つもない。其でも、此だけ其発生点を追求する事の出来たのは、日本文学の根柢に常に横たはつて滅びない唱導精神の存する為であつた。 ほかひ[#「ほかひ」に傍線]を携へ、くゞつ[#「くゞつ」に傍線]を提げて、行き/\て又行き行く流民の群れが、鮮やかに目に浮んで、消えようとせぬ。此間に、私は、此文章の綴《トヂ》めをつくる。 底本:「折口信夫全集 1」中央公論社    1995(平成7)年2月10日初版発行 底本の親本:「古代研究 国文学篇」大岡山書店    1929(昭和4)年4月25日発行 初出:「日本文学講座 第三・四・一二巻」    1927(昭和2)年1、2、11月 ※底本の題名の下に書かれている「昭和二年一・二・十一月「日本文学講座」第三・四・一二巻」はファイル末の「初出」欄に移しました。 ※「踊躍《ユヤク》」と「踴躍《ユヤク》」の混在は底本通りにしました。 入力:野口英司、門田裕志 校正:仙酔ゑびす 2010年5月18日作成 2011年4月14日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。