古代民謡の研究 その外輪に沿うて 折口信夫 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)勿《ナ》焼《ヤ》きそ |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)此|客人《マレビト》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)尾骶骨  [#(…)]:訓点送り仮名  (例)天[#(ノ)]窟戸 /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)まる/\ *濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」 -------------------------------------------------------      一 [#ここから2字下げ] おもしろき野をば 勿《ナ》焼《ヤ》きそ。旧草《フルクサ》に 新草《ニヒクサ》まじり 生《オ》ひば生ふるかに(万葉集巻十四) [#ここで字下げ終わり] 此歌は、訣つた事にして来てゐるが、よく考へれば、訣らない。第一、どの点に、民謡としての興味を繋ぐことが出来たのか。其が見当もつかない。「ふる草に新草まじり」といふ句は、喜ばれさうだが、昔の人にもさうであつたらうか。上田秋成などは「高円の野べ見に来れば、ふる草に新草まじり、鶯の鳴く」と借用してゐる。だが、かうした興味からだけで、もと謡はれたものとは言ひにくい。或はそこに暗喩を感じる事が出来たのかとも思ふが、此歌全体の大体の意義さへよく説かれてゐないのは、事実である。        生ひば生ふるかに まづ「おもしろき此野をば、な焼きそ。去年のふる草に、新草のまじりて、生《オ》ひなば生ふるに任せよ」と言ふ風に、大体考へられる様だ。だが、考へると、「生ひば生ふるかに」と言ふ文法は、普通の奈良朝の用語例ならば、後世の表現法によると、「生ふるかに[#「かに」に傍線]」だけで済む処だ。「袖も照るかに[#「かに」に傍線]」「人も見るかに[#「かに」に傍線]」「けぬかに[#「かに」に傍線]、もとな思ほゆるかも」などで訣るのである。 ところが、古い用法になると、「けなばけぬかに[#「かに」に傍線]恋ふとふ我妹《ワギモ》」と言はねば、完全に感じなかつたらしい。「けぬべく思ほゆ」と言ふのと、略《ほぼ》似た用語例にあるもので、万葉でも新らしいのは、べく[#「べく」に傍線]或は音を変へてかね[#「かね」に傍線]と言うてゐる様だ。「か」は句を体言化する接尾語で、「に」は副詞の限定辞である。そして「かね」を使ふ場合は、それ以下の文句を省いてゐるか、前の方へ跳ね戻る――句の倒置――かゞ常である。だから此なども、説明句を省いたか、上へ返るか、どちらかである。「生ひば生ふるかに[#「かに」に傍線]な焼きそ」となるのか、それとも「生ひば生ふるかに[#「かに」に傍線]……せよ」と言ふ文法かである。とにかく「かに」があると、文章全体が命令になつて来るのが新しくて、古いものでは、もつと自由な様である。 又「生ひば生ふべく……」とか「生えれば生える程に……」と訳してよい様だが、「生ひば」と言ふ条件式な言ひ方は、此文の発想から言ふと、意味がないのである。現代風に訳すれば、ないのと一つに見るのが、ほんとうなのだ。「けぬかに」「けなばけぬかに」が、等しく「消ぬべく」の義と同様であるのは、訣がある。 古い日本の文法には、自動詞にも目的格があつた。即、有対自動詞の形をとるのである。さうせぬと、完全に文章感覚が出て来なかつたらしい。「言へばえに[#「えに」に傍線]」と言ふ句――言ふとすれば、常に言ひえないで[#「えないで」に傍線]――は、「えんに」と言ふ平安朝以後の流行語の元である。艶《エン》にといふ聯想は、後から出た事で、「言へば言ひえに[#「えに」に白丸傍点]」或は「言へばえ[#「え」に白丸傍点]言は[#「言は」に傍点]に[#「に」に白丸傍点]」の略せられた形であつた。言ふに言はれないでの義である。これがえに[#「えに」に傍線]・えんに[#「えんに」に傍線]となるのを見れば、けなば[#「けなば」に傍線]――けぬれば[#「けぬれば」に傍線]と同じい――を省いて、けぬかに[#「けぬかに」に傍線]とする道筋も明らかである。 生ひば生ふるかにの「生ひば」は、自動詞「生ふ」の目的で、現代の言語情調には、這入りきらぬ文法感である。即「生ふるかに」の意味に説いてさしつかへはないのである。「ふる草に新草まじり生ふるかに……」と言ふ義の、長い副詞句である。この「……」の部分は「生ふべく見ゆ」「生ふべくあり」などゝも考へられる。又「生ふるかに勿《ナ》焼きそ」であるらしくもある。まづ仮りに、後の方ときめて、他の部分を考へて置かう。        おもしろき野をば 「おもしろき」は訣つたやうで、やはり知り難い語である。此はおもしる君[#「おもしる君」に傍線]・おもしる妹[#「おもしる妹」に傍線]など言ふ「おもしる」の形容詞化したものと考へるのが正しからう。「おもしる」は顔を知つてゐるだけではなく、「なぢみ深い」とか、「なつかしい」とか言ふ事らしい。万葉巻十六の竹取翁の長歌には、「おもしろみ」と「なつかしみ」が対になつてゐる。「おもしろし」も天[#(ノ)]窟戸の物語に、神々の面の著しく明るくなつた事から、あな面白だなど言ふのは、たゞの物語で、語原・意義は別である。「なぢみ深く髣髴著《オモシル》く浮べ得る」と言ふだけの内容はあつたのであらう。 をば[#「をば」に傍線]は、唯の「をば」ではない。「を」と言ふてにをは[#「てにをは」に傍線]すら、古くは、目的格の指辞ではなく、「……よ。其を」「……よ。其に」と言ふ風の感動語尾であつた。其上の語句に、次第に目的格の意識が出て来たので、「を」は目的格を定めるものと考へられて来たのだ。「をば」は殊に、其義を長く失はなかつた語《ことば》で、目的指辞「を[#「を」に傍点]」に「をば」を代へる風は、容易に出ては来なかつたのである。「ば[#「ば」に傍点]」は強い感動語尾であるから、「をば」は、をよ[#「をよ」に傍線]・をや[#「をや」に傍線]など訳して切り、次の語句へすぐさま続けぬ様にせねばならぬ。 「……此野をよ」「……此野なるものをや」など釈いて、現代の語感のためには「をよ。それを……」と言ふ風にでも訳すればよからう。さうすると「懐しい野であることよ。それに、此野を焼かうと言ふのか。……焼いてくれるな」と懐旧の情を起してゐるのであらう。        古草に新草まじり 「古草に新草まじり……」は二様にとれる。「へた[#「へた」に傍点]に焼いて、古草に新草まじつて生える様な風には焼くな」と言ふ風にとるのが、文法の正面だが、さうはとれない。 「野をばな焼きそ」と印象強く言うてゐるのを見ると、「野」と「な焼きそ」との関係は放されないのである。「野……をよ。其は、……まじり生ふべくある様にと思ふ野なるを焼くな」の義である。「な[#「な」に傍点]」の禁止感は「生ふべく焼くこと」を支配するのではない。「生ふべき為に焼くな」と「焼く」だけにかゝる制止である。 残りの部分を口訳すると「……ふる草にまじつて新草の生えるやうにはからうて、焼かずに居れ。此野の野守りよ」と言ふ事になる。 [#ここから2字下げ] わすれ草、我が紐につく。香具山のふりにし里を、忘れぬがため(万葉集巻三) [#ここで字下げ終わり] 大伴[#(ノ)]旅人の此歌と、おなじ風である。「忘れない様にと望んで……」と説くのが尤《もつとも》らしいが、忘れる為のわすれ草[#「わすれ草」に傍線]を、印象的に第一に出して居る。其故「忘れない為に忘れようと思つて……」と言ふ義に極められるのである。 此場合は間違ふ人もない筈だが、一応は反対論も作つて見ねばならない。ところが尚問題がある。「古草のなかまに入れて(まじり)新草まで焼くな。新草は生ふべくあるに」と言ふやうにも、とれることだ。むづかしい様だが、此は言へる事である。「古草に新草まじり、おもしろき野をば勿《ナ》焼きそ。生ひば生ふるかに……」と転置してみれば正しい解釈なのが知れよう。又、同じ考へ方で「古草に新草まじる様のおもしろい野をよ。其を焼くな。新草は生ふべく見ゆるに」ともとれる。併しさうすると「おもしろき」が、近代的の内容しか持たなくなる。 私はやはり、此「おもしろき」に力点をおいて見てゐる。ふる草、即、去年の草、其に懐しい印象がある。「此ふる草の伸びの盛りに籠つたことのある野、其草かげには、はや新草の生ふべく見えてゐる。去年の如く、又生ひ盛るべき草の野を、焼かうとする人がある。焼くことをやめてくれゝばよいに」と見るのである。少しくどい様だが、かうすれば、此歌の謡はれた理由が出て来る。      二 今の人から見れば、春もやゝ深く、早萌えようとする新草もあるのに、其新らしい草の焼かれる事を思うたもの、草の上にも愛しみの及んだ歌と見たからうが、さういふ洗煉と感傷とは、此時代の人の心にはないものと見るのが、正当である。 ふる草に新草まじる様が、どうして、昔人の鑑賞に入るか。考へられないのである。「生ふるかに」で見ると、まだほんとうに生ひて見えるのではない。だから益《ますます》、おもしろい――今の定義の――理由が訣らぬ。 [#ここから2字下げ] 佐保川の岸のつかさの柴な刈りそね。ありつゝも 春し来たらば、立ち隠るがね(万葉集巻四) 池の辺の小槻の下の篠《シヌ》な刈りそね。それをだに、君がかたみに、見つゝ偲ばむ(万葉集巻七) [#ここで字下げ終わり] 此らの歌を見ると、草の高い野と言ふと、直に逢ひかたらふ若い男女の幻影を浮べもし、歌の上の類型にもなつてゐた頃である。だから、野のふる草と言へば、其処にこもつた懐しい記憶あるべき男女を思ひ浮べ、新草を見れば、其伸び盛る筈の日に待ち心を抱く若い村人の俤がちらつく。さうした時代の人々共有の情趣に叶ふものである。ふる草・新草で、此だけの聯想を起しても、私はをかしくないと思ふ。 [#ここから2字下げ] 武蔵野は(春日野は〔古今集〕)今日は勿《ナ》焼きそ。わかくさの つまもこもれり。われもこもれり(伊勢物語) [#ここで字下げ終わり] 一世紀は遅れてゐるはずの此歌を見ても、同じ感じ方を、説明を細やかにしてゐるだけの違ひなのに気がつくであらう。「つまもこもれり。われもこもれり」と言ふだけが、後代風なのだ。「わかくさも古草もまじつてゐて、娯《たの》しい時を思はせてゐる」と言うた表現が、更に文学的に展開した構想の痕が見える。若草を枕詞に転じた対句のぐあひを見ても「おもしろき野」の歌が、近代化すれば、かうなつて行くであらうと言ふことは考へられる筈だ。 殊に、若草を見ても、寝よげなる触覚を空想する癖の引き続いてゐる時代ではある。此若草の伸び揃うた時、其若草の陰に隠れた事を思ふのに、野守りは春野を焼きはじめてゐる。娯しい春の野遊びもだめにならうとしてゐる。かうした村の人々の幾代の経験がある。表現の幾多の類型がある。 さう言ふ共有のいろごのみ[#「いろごのみ」に傍線]の心を潤すのに十分である。「おもしろき」一語に、黙会を予期してゐるのである。「をば」に愛惜を籠め、「おもしろき……な焼きそ」の二句を通じて、さうした境遇を理想化し、微かながら美意識に移して実感を柔げた、おほまかな調子を出してゐる。 此は、ある人のある時の痛感でなく、さうした境涯に同化して謡ひ娯しむ人々の間に、自ら孕《はら》まれて来る声であつた。三句四句への移り方なども、茅の帳・芝の毳《カモ》を夢みる様に、鮮やかでゐて、豊かな波をうつて進んでゐる。第五句なども、拍子は転換して結んでゐる。が更に緩やかになつて来てゐる。実感でなく気分だからである。 叙事的な――寧、劇的な民謡も多くある東歌の中に、今一面かうした気分本位の温かい、生活を美化したものもまじつてゐる。つまり、いやが上に刺戟して慰みを感じるのと、未来の世界の俤にも似た「あこがれ」と「やすらひ」との姿を寓した物とがあるのである。 此などは、ふる草を見ておもしろみ[#「おもしろみ」に傍線]し、新草を目にして心をどりする生活のまだまる/\伝説化しない時代であつたればこそ、直に流れこんで来る内容を持つた歌なのだ。仄《ほの》かな軽い目くばせで相手の心を合点する。さうした柔らいだ理会から来てゐる無拘泥なのである。「今日はな焼きそ」と「……な刈りそね」とを両方から支柱にかつて、はじめて訣る程度のかすかなものになつてゐる。 此歌、又、何となくある恋情を暗喩するらしい様な気もする。古草と若草とを、老若の女又は男と見て、其若いのはよいが老いたのも棄て難い。かういつた類の解釈は、幾らでも試みられる。併し、どうも野を焼くと言ふ譬喩が、適当にはまる境涯が思はれない。 [#ここから2字下げ] ふゆごもり 春の大野をやく人は、やき飽かぬかも。我が心やく(万葉集巻七) [#ここで字下げ終わり] などに比べると、譬喩と言ふべきものでもなさゝうだ。それよりもやはり、気分に深く入つてゐるので、今日からは、やゝ象徴的な印象さへ受ける。新草をいつくしんだり、ふる草をも共にあはれんだりする詩人式の情愛を寓する歌では、決してない。野を焼くことが、まだ実世界の経済生活に関係深かつた時代なのである。さればこそ、若い享楽の壊される事の不満を述べたのである。それ程無風流な生活行事であつた。 枕詞・序歌に使ひ、又其行事を非難する物はあるが、此中から美を見出す風流はまだなかつたのである。草刈る事を非難する表現に馴れた人々である。野を焼くを悪《にく》む発想に到らないはずはない。「今日はな焼きそ」の一種叙事詩化した以前、既に幾多の怨み歌が出てゐたに違ひない。この歌は、強ひて言へば、寒気に閉ぢられた冬は去つて、春の喜びに充ちてゐる。村を囲む山へかけての、曠野の往き来も自由になつた。娯しい野山の行き会ひを思ふ時、もう野山に火がつけられてゐる。暫くは又、草木の伸びるのを待たなければならない。どうにもならぬ落胆である。 [#ここから2字下げ] 武蔵野は 今日は 勿《ナ》焼きそ。わか草の嫩芽《ツマ》もこもれり、冬草まじり [#ここで字下げ終わり] こんな形にして見ると、発想展開の順序に見当がつく。「……と、予期《アラマ》したる野をば勿焼きそ。ふる草に新草まじり、生ふべくなれるを」――こんなにして見ると、大分はつきりして来る。若草・紫草・菅其他に、恋愛の聯想のつき纏うてゐるのも、此側に一つの大きな原因があるのだ。      三 草木を伐り、野を焼くを嫌ふ原因は、まだ外にもある様だ。 [#ここから2字下げ] 山城の久世の社に 草な手折《タヲ》りそ。しが時と、立ち栄ゆとも、草なたをりそ(万葉巻七) [#ここで字下げ終わり] 此は禁忌である。かうした神の標《シメ》野を犯す事を忌むことの影響もある。其に今一つ考へられるのは、木を伐り出す時の「山口祭り」の様に、野を占めて焼く時の呪詞があつたらうといふ事だ。御県《ミアガタ》の神の祭りに似て、尚すこし畏怖の情の深い、野の神の祭りが行はれたのであらう。のづち[#「のづち」に傍線]は野雷《ノヅチ》で、野の蛇神である。かやのひめ[#「かやのひめ」に傍線]は葺草場の神であらう。其外色々ゐる神に対つてする呪詞が、必、あつて忘却せられたのであらう。 かうした野の神々を鎮圧するのが、村に対する山の神の務めである。さうした呪詞の断篇化し、又は、拗曲したのが、更に時代生活に合理化せられて行つた。草木を伐り、野を焼くのを忌むといふに適した恋愛境遇に一致させて来たのらしい。さなくても、田畠・移動耕地の精霊は草を刈りつめられ、火に焚かれて、神となる風であつたから、此行事に関するあらゆる記憶も、変化して、こんな類型を作る一因となつた事であらう。 右の順序を逆に言へば、古代邑落の男女媾会の一方法が知れる。野山を刈り焚いて新神を作つた風。其と対等の原因として、精霊の所有なる未開拓地を墾《ひら》く方式。此が双方から歩みよつて、叙事詩では、大国主及びやまとたける[#「やまとたける」に傍線]の焼け野の難の話になつた。其呪詞の一部が「さねさし相摸《サガム》の小野《ヲヌ》に燃ゆる火の、炎中《ホナカ》に立ちて、とひし君はも」(記)となり、或は「萱な刈りそね」「野をば勿《ナ》焼きそ」などゝ、夜の訪れ以外に、昼も野山で会ふといふ結婚法と相互に影響し合うて、実生活の上の顕著な様式を形づくつた。 更に三転して、草野にこもる男女と、焼き囲む野火との聯想が、小説的になつて、民謡に栄え、更に文学にまでも入る事になつたのである。万葉では既にさうである。だから実生活とばかりも言へないのである。誇張と空想と芸術化とが加つてゐるのだ。必しも、歌が生活の反映であつたとは言へない。 すべて伝承の詞曲の上の事を、悉く実在した事と見る事は出来ない。多くは、詞曲にのみある事であつたり、其が反対に、実生活に移されたり、実生活様式と合一したりした物なる事を考へねばならぬ。殊に、其生活から、庶民の生活を抜き出す事の出来ぬ、高級神人・巫女の上に限つた伝承である事は、勿論である。伝承に出る至上階級の行動も、神・人の区別がない。だから、人の世の事と思へば、神話であつたりする。草刈り・野焼きの歌なども、すべて経験から出てゐるとは言へない。歌論の上の慣例を追うたに止る事の多い事を思ふべきだ。 此歌の捉へ処のない様に見えるのは、或は既に、神の真言化して考へられ、呪文とせられてゐたのかも知れぬ。 [#ここから2字下げ] 天なる ひめ菅原の茅な刈りそね。みなのわた かぐろき髪に 芥し着くも(万葉巻七) [#ここで字下げ終わり] 譬へば、此歌なども、叙事詩から断篇化した歌らしい。軽[#(ノ)]大郎女を憐んだ歌だらうと言ふ人もある程だ。処が、此旋頭歌は、呪文に使はれたものと見る方がよさゝうだ。すると「おもしろき」も野焼きの火に過ちなき様になど言ふ原義を没した用途を持つてゐたのかも知れぬ。 [#ここから2字下げ] 妹なろが つかふ川門《カハト》のさゝら荻《ヲギ》 あしとひと言《コト》 語りよらしも(万葉巻十四) [#ここで字下げ終わり] 東歌では此なども、おなじ種類らしく思へる。 さて、ふり返つて、此歌の謡はれ、又記録せられた理由を纏めよう。文学的な繊細さで、知られた物と見るか、性生活の期待を豊かに感じさせる為か、或は又、其意義から退化して、呪文として用ゐられて来たものか。かうして見ると、最初の問題は、大分はつきりして来た。 東歌の悉くが、採集者や、万葉集編纂者に、必しも訣つてゐたものでない事は、明らかである。だから、此方面、即鑑賞法を問題にする必要はない。東人等が、ともに興味を持ち得たであらうか。其等の追窮を試みたいのである。 今の処私は、やはり第二説である。「わが立ち隠るべき、おもしろの野を焼くな。野はふる草まじり新草生ひて、寝好《ネヨ》げに見ゆるを」と、かう説いて姑《しばら》く私の考への、更に熟するのを待ちたいのである。      四 [#ここから2字下げ] 雨障《アマヅヽミ》常する君は、久方のきのふの雨に、懲りにけむかも(万葉巻四) 笠なしと 人にはいひて、雨乍見《アマヅヽミ》 とまりし君が 容儀《スガタ》し おもほゆ(万葉巻十一) ……とぶとりの 飛鳥壮《アスカヲトコ》が、霖禁《ナガメイミ》 縫ひし黒沓 さしはきて、庭にたゝずみ……(万葉巻十六、竹取翁の歌) [#ここで字下げ終わり]        田あそび 此等の創作歌及び民謡は「田遊び」の行事に触れてゐる。田遊び全体、春まつりの一部であつたものが、をり/\にくり返されるのであつた。後代は、五月田植ゑの際に行ふのを本位とする様だ。併し、初春に一年中の田の行事や作がらを祝福する為、劇的な動作や歌舞を行ふのが、春田打ちであつた。だが、此は、演者は神の資格でするのだから、第二義以下の祭りではない。――祭りの語義と、用語例推移については、別のをりに書く――神が呪詞を宣する第一義の祭りの一部分であつても、全体ではない。だから、田遊び(歌舞《アソビ》)ではあつても、田祭りとは言へないのだ。此田遊びが、呪師《ノロンジ》出の法体芸人の手に移つて演芸化したものが、田楽《デンガク》であつた。農村々々によつて、村人自身行ふ処と、田楽師を迎へる処とが出来て来た。春の田遊びが、五月の田植ゑの時に移し行はれて盛んになるのは、如何にも、実感に適するからである。 田植ゑに、田遊びを行ふのは、春田打ちに臨んだ神で、やはり初春と一つの積りで来て行つたのが、古い形だ。だから、田遊びを行ふ人は、異形を装ひ、他界の霊物のしるし[#「しるし」に傍線]なる簑を着て、顔は笠其外の物で隠してゐる。此に対して、五月処女《サヲトメ》(そおとめ[#「そおとめ」に傍線]と発音する)は、巫女の資格を持つ。神人とおなじく、頭髪を深く、布・帯の類で包み、其上に赭土・白粉――後は多く此方になる――を塗つて、身をやつした。 赭土を「さに」といふ。その「さ」は五月の行事に関係の多い「さ」であらう。さ月・五月夜・五月蠅・さ苗・さをとめ[#「さをとめ」に傍線]の類の「さ」である。水口祭りと言ふのが、田植ゑ行事の一つにあるのは、遠処の水の神に水を乞ひ初め、山の花を挿して、稲の花の象徴とする行事で、此花の様に稲の咲き実る様にと、日中に、神の贄飯をまつるのである。 水口と言ふのは、後に考へた水かけの口[#「口」に傍点]では、元なかつた。水の灌けはじめで、口あけ[#「口あけ」に傍線]の義だ。山口祭りの口[#「口」に傍点]も、山の上り口の神をまつるものと見てゐるが、山の木の伐り出し初めにする行事、即其々の山の斧入れに当つて、物をまつられる神なのであつた。 田植ゑの後、夜、さなぶり[#「さなぶり」に傍線]を行ふのが普通である。早苗饗応だと言ふ説の当否はとにかく、田植ゑに臨んだ神々を、賓客として開いた饗宴の遺風なのは、事実である。植ゑ初めから、植ゑ了ふまでの間は、群神は村に居て、夜行する故、此間は居籠りを守つてゐる。夜の、外出はきびしく忌んだのである。神逗留の間はまつり[#「まつり」に傍線]と言ふには当らない。神が能動的にふるまひ、人は水口祭り以外には、神に向つてする事がないからである。 さなぶり[#「さなぶり」に傍線]の饗宴は、果して古くからあつたものであらうか。神の行ふべき行事は、悉く田遊びで尽きてゐるのだから、此さなぶり[#「さなぶり」に傍線]は、田植ゑに必須条件ではなかつたらしい。唯この夜、家々の男は悉く外に出て、処女或は巫女の資格ある女が、協同作業《ユヒ》の斎屋《イミヤ》――或は個々の家――に待ち申して、此|客人《マレビト》をもてなす事が行はれたらしい。此が、陰陽道の五月の端午の節供に習合せられたのであつた。世間で男の節供と言ひながら、此夜に限つて、家々を女の家と言ひ習して来た――女殺油地獄の中――のは、男の物忌みで家に居ぬ日だつたからである。殊に少青年の行動は戒めねばならぬ様であつた。 端午の節の斎戒は、男が守らねばならなかつた為、男の節供として、人形《ヒトガタ》を据ゑて穢邪を移し、又ゆきあひまつり[#「ゆきあひまつり」に傍線](交叉期の祭り)の考へから出た邪鬼――夜行神の恐れが転じて――の来襲を防ぐ備へをする日になつた。併し、五月幟の類は、一つは田植ゑに来訪する神を迎へる招《ヲ》ぎ代《シロ》なる青山(標の山の類)の変化でもあり、又神人たるべき若者の、神意によつて、指された住む家の目あてになるものらしい。つまりは、斎居《イモヰ》の宿のしるし[#「しるし」に傍線]から拡つたのである。 我が国では、ある時代から、多く四五月の間を、成年戒・成女戒を村の青年処女に授ける時期とする様になつたらしい。成年戒を授かつた後の男子は、忌み日として外に集つて居籠るのではなく、神人の一人として、群行神の一人に扮して、女の家に訪れて行く資格を得るのである。        男になつたしるし[#「しるし」に傍線] 古代には、成年戒を授かるのは、初春よりも、此五月の夜に多かつたらしい。中部・西部諸国に亘つてある或神の氏子の男のしるしの曲つてゐると言ふ伝承は、意外な程広く、多く語られてゐる。其は、成年戒を受けた時の印象から出た言ひ習しらしい。 又一方、神人たる資格の有無は、男精に特殊な形を備へて生れるものとも考へられたかも知れない。其しるし[#「しるし」に傍線]の特徴を言ふ根本の理由は、成年戒を受けないで、神人の資格なしに死んだ者は、死者の霊の到り集つてゐる彼岸の理想国、常世に行く事が出来ない。成年戒を授かつた者は、神となれる神聖なる神格を受けたのである。受戒期間は山に籠つて、花かづらをする。其は女もした。 [#ここから2字下げ] はね蘰《カヅラ》 今する妹をうら若み、いざ、率《イザ》川の音のさやけさ(万葉巻七) [#ここで字下げ終わり] 此蘰の花草が、神人となつたしるし[#「しるし」に傍線]で、兼ねて一般成年男子の神事奉仕の際の斎みのしるし[#「しるし」に傍線]となるものである。だから受戒しない人の葬式には、花を摘んで、棺や頭陀袋に入れる風の、処々にある訣が知れる。此花蘰が、支那伝承の端午の信仰と合体して、菖蒲鉢巻が、少年の頭に纏はれる風を生じたのであらう。        雨づゝみ・長雨斎み 万葉にある「雨づゝみ」「長雨斎《ナガメイ》み」など言ふ語は、雨季の五月の居籠りを言ふので、雨の為に出られずに、こもつてゐる義ではない。 八重山島のある村では、尻の亀の尾の辺に、特徴を与へるのが、成年戒を授けたしるし[#「しるし」に傍線]とする。兄若い衆に当る者が二人で、受戒者の臀を下に手足を持つて吊りあげて、ある聖なる石の上に、尾骶骨を打ちつける。かうした風もあると思へば、割礼を施す以外に、神秘の条件に叶うたらしく感ぜられる。 神としての資格を完全に得る為、物斎《モノイ》みを家に居てする間の禁欲生活を遂げさせる為、しるし[#「しるし」に傍線]を曲げて縛つて置きなどした信仰伝承があつたかと思ふ。其が諺化し、伝承化して氏子の特徴の言ひ習しを生んだらしい。古代人は、はかま[#「はかま」に傍線]は穿いてゐたが、ふもだし[#「ふもだし」に傍線]は常用しなかつたらしい。ふもだし[#「ふもだし」に傍線]の、生き物を繋ぐ用途から、男精を縛る布の名にもしたのであらう。 我々の間に段々行はれなくなつて来たふんどし[#「ふんどし」に傍線]は、実は物忌みの間、貞操帯の様な役をした物であらう。どう言ふ風にするか想像出来ぬが、しるし[#「しるし」に傍線]なる物を堅く結んであつたと見える。其を解きほぐしてやるのは長老の権力で、さなぶり[#「さなぶり」に傍線]後の一夜だけであつたらう。次の期の神事の物忌みまでは、褌《ハカマ》をはく事を許したものと見てよからう。 其故、若い衆入りに、ふんどし[#「ふんどし」に傍線]を緊めて、初めて若衆宿に挨拶に行くもあり、氏神へ詣るのもあるのだ。神人としての物忌み初めのしきたり[#「しきたり」に傍線]であつたのだ。此が段々受戒者の誇りとなつて、常にも自ら緊めて、自由に解きもし、ふもだし[#「ふもだし」に傍線]としての厳しい束縛を段々緩く、自由にして行つたのだ。 かうしたふもだし[#「ふもだし」に傍線]は、若い衆の常用品となつて来た。新受戒者は、殊に厳重な束縛から、始めて一夜《ヒトヨ》づまの居る、女の家に入る。此記憶が、長く印象を、当然神人の一員となるべき氏子の男、其しるしに加へられる神秘の制約、其処の折り曲げられるしきたり[#「しきたり」に傍線]、此条々が、かうした氏子の特徴を考へさせた、村々の長い信仰生活が思はれるのである。 たぶさき[#「たぶさき」に傍線]は、古い語だが、ふもだし[#「ふもだし」に傍線]とは、別物である。緊めるものではなく、腹と背との間を越えて、余りを小さいきれ[#「きれ」に傍線]の様に垂れてゐたものらしい。 たぶさく[#「たぶさく」に傍線]といふ動詞は、日本紀にも見えてゐる。さうした物の挟み様や、たぐり上げ方を言ふ語の、名詞化した物であらう。はかま[#「はかま」に傍線]は日常にもつける物で、たぶさき[#「たぶさき」に傍線]は、神事に著ける品で、奴隷としての服従を示すものらしい。極端な服従を示す場合には、此を著けて、相手の前に出て誓うたらしく、其が段々、人々にも使はれる様になつたのであらう。 ふもだし[#「ふもだし」に傍線]が物忌み衣の一つで、男子専用の物であつた事は、段々証拠がある。此を緊めた裸身の上から、簑を著て、田遊び・夜田植ゑ、其他の神事に、神の一員として出たものらしい。 成年戒授与の儀は、元、初春に行はれたらしいが、後には、色々の日どりを、村々で定めたらしい。その中で、節分の夜に行はれた形式が、殊に著しい。だが、四月・五月の頃、田植ゑ前に授戒して、長雨斎《ナガメイ》みを経た後、田遊びや、五月夜《サヨ》の遊行に出させたらしいのである。 女の授戒も、四月上旬から中旬に亘つて――平安朝からも見えた――村々でせられた。山ごもりに、成女戒を受け、同時に早処女《サヲトメ》に出る資格を得た。 男のも、恐らく此前後に行はれ、授戒の済んだ者は、やはり山ごもりを長く続けさせられたものと思ふ。此が、貌《かほ》つきを替へて、大峰山上でする御嶽精進にもなつた。此は、平安中期にも既に見えた事だ。とりわけ、新達《シンダチ》など俗に謂ふ初登山の若者は、先達から苦しめられた。 石を堆《つ》んで人を埋めた石こつみ[#「石こつみ」に傍線]の話、謡曲に残る谷行の作法などは、成年戒の苦しみの物語化したものである。天狗が胯《また》を裂くといふ信仰も、此に関係がある様だ。さうして、山を出ると、精進落しと言ふが、大峰入りの数を重ねた年長者が、新達《シンダチ》を大和・紀州の平原の田舎色町に連れ出して、女に会う道を知らせる。こんなしきたり[#「しきたり」に傍線]は、伊勢参宮の形で行ふ地方もある。国々には、此意味の初参詣が、霊山・聖地に行はれて居もし、居た事は、近頃も多い。 端午が、漢人伝来の節の斎みであるのに、恰《あたか》も当る五月の早苗時の信仰を持つて行つたのであつた。 ながめいみ[#「ながめいみ」に傍線]は、皐月の神となる物忌みだと言うた。而も、成年戒に関係深い事を述べておいた。 万葉では、意義合理化せられてゐるが、女にあはぬ長い間の禁欲生活といふ義を含んでゐた証拠を一つあげる。        世に経るながめ[#「ながめ」に傍線] 古事記にある「長目を経しめたまふ」と言ふ語が、其である。主上の、快からぬ貢女に施された冷遇法であつた。 媾を断つて久しい事が、ながめ[#「ながめ」に傍線]を言ふと説くか、欲情生活の空虚から来る、つれ/″\な憂鬱《ナガメ》を思ひ知らしめた事で、ながめ[#「ながめ」に傍線]は、 [#ここから2字下げ] 花の色は 移りにけりな。いたづらに 我が身世に経る ながめ[#「ながめ」に傍線]せしまに(古今巻二) 起きもせず 寝もせで 夜を明しては、春の物とて ながめ[#「ながめ」に傍線]暮しつ(古今巻十三) [#ここで字下げ終わり] などのながめ[#「ながめ」に傍線]だと言ふかすれば、今の処正しい説と見られるだらう。平安朝のながめ[#「ながめ」に傍線]は、禁欲或は、人に会ふを得ぬ不満から起る、わびしさ、やるせなさを用語例としてゐる。だが「経《フ》る」は現状のまゝ、時の経つ事になる。 ながめ[#「ながめ」に傍線]は、ながめいみ[#「ながめいみ」に傍線]から出て固定した語で、五月の「雨期虔《アマヅヽ》み」といふ語がある以上、ながめいみ[#「ながめいみ」に傍線]は、霖雨期に当つての、禁欲・不外出のつれ/″\を思ひ沁む、成年男子の毎年の経験から来て、ながめ[#「ながめ」に傍線]と略しても訣る程、広く久しく用ゐられて居た様である。 古事記に、ながめ[#「ながめ」に傍線]の略形を使うてゐるのに、万葉にながめいみ[#「ながめいみ」に傍線]を使うたのは、年代の上に、異な考へを持つかも知れぬ。が、此語の出た万葉の竹取翁の長歌などは、奈良朝初期、或は藤原朝の儒者の手になつたものと考へてもよいのだから、古事記の此条の原文が、口唱し始められた時代よりは遅れて居るかも知れぬ。強ちに万葉の方の語を新しく拗曲した、変態のものとは言へぬ。 藤原・奈良の間には、ながめいみ[#「ながめいみ」に傍線]とも、ながめ[#「ながめ」に傍線]とも言うて居たのであらう。それが平安期に入つてながめ[#「ながめ」に傍線]ばかりを使ひ、眺め[#「眺め」に傍線]の字を宛てるながめ[#「ながめ」に傍線]と混同して、ながむ[#「ながむ」に傍線]・ながむる[#「ながむる」に傍線]などゝも言ふ様になつたものだらう。 ながめいみ[#「ながめいみ」に傍線]は、五月の雨期の忌みが、飛鳥・藤原朝の頃から、農村の重大事となつて来て、其長期の禁欲生活の印象が、此語及び、略形や、其成語などに、媾事遮断《ツマサカリ》の苦痛や、焦慮・空虚感を表す様に導いたと見られる。 田植ゑ時の村の男の神人生活、五月頃行はれた成年戒の事情から、氏子の身の特徴の言ひ習しへ説き進んで、農村の五月前からの物忌みの、最、長いものとなつた時代の俤を写して見た。農村の細民まで、一般に服した斎忌だから、とりわけて著しくなつたのだ。 他の季節・祭事の物忌みは、村・国の長上者や、神官に限るのが多いから、それ程目立たないのである。けれども、春の祭りに臨まれるまでの主上の冬ごもりなどは、古代に溯る程、久しく忍び難い程の静止・精進の生活を経させられねばならなかつたのである。        天つ罪 天つゝみ[#「天つゝみ」に傍線]の説明伝説は、記・紀時代の物語には、すさのを[#「すさのを」に傍線]の天上における行為を起原としてゐる。だが、此が皆田植ゑの行事と関係があり、五月夜《サヨ》の事になり、簑笠を言ふ処を見ると、昔からの説は、古代論理を考へなさ過ぎた為ではないかと思はれる。 即、雨つゝみ[#「雨つゝみ」に傍線]の言語情調が変つて、天つ罪となつた。後世人には、雨つゝみ[#「雨つゝみ」に傍線]とするのは、天上におけるすさのを[#「すさのを」に傍線]の罪が、此地上にも亦、天つ罪の行はれる時だからと考へたのである。 すさのを[#「すさのを」に傍線]の天つ罪[#「天つ罪」に傍線]を行うた後、贖《あがな》ひとして、田を元の如くする様を、神人として演ずるのだ、といふ風に解する時代が、あつたに違ひない。わたしは古来難義の「天つ罪」は「霖斎《アマツヽ》み」の伝承から、語義まで変つたものと信じてゐる。 底本:「折口信夫全集 1」中央公論社    1995(平成7)年2月10日初版発行 底本の親本:「『古代研究』第二部 国文学篇」大岡山書店    1929(昭和4)年4月25日発行 初出:「日光 第五巻第一・二号」    1927(昭和2)年9月、12月 ※底本の題名の下に書かれている「昭和二年九・十二月「日光」第五巻第一・二号」はファイル末の「初出」欄に移しました。 入力:門田裕志 校正:仙酔ゑびす 2007年8月15日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。