雅俗貧困譜 岸田國士 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)切《しき》りに |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)二度|効《き》かん [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)譃 /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)しやあ/\ *濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」 ------------------------------------------------------- [#ここから2字下げ] 人物 [#ここから5字下げ] 押川 進  三十一 妻なる子  二十四 持山六郎  三十二 妻なぞえ  二十五 陽々軒女将 三十五 摺沢    六十 紙屋    二十五 印刷屋   十八 製本屋   四十五 彦     十六 [#ここから2字下げ] 場所 [#ここから5字下げ] 東京の裏街の二階家。電話もない小出版社、北極書院の事務所兼住宅。階下は玄関とも三間で、中央の八畳に、テーブルを二つ並べ、これが主人押川進の事務を取るところ。部屋の周囲には、堆高き書籍の山。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] [#5字下げ]一[#「一」は中見出し] [#ここから5字下げ] 押川進がテーブルに倚つて、切《しき》りに帳簿を調べてゐる。 なる子が左手からはひつて来る。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] なる子  お酒屋だけなんとかならないでせうか。 押川  ならないね。 なる子  半分だけでいゝわ。 押川  駄目だ。 なる子  四十円なにがしよ。 押川  問題はなにがしにあるんぢやない。一銭も、そつちいは出せないよ。 [#ここから5字下げ] なる子、黙つて去る。 押川、口笛を吹きはじめる。が、算盤の手は休めずに、時々、厳粛な顔をして、帳簿をのぞき込む。 玄関の格子が開く。紙屋である。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 押川  あ、今、電話をかけようと思つてたんだ。もう少し後《あと》にしてくれないか。 紙屋  何時頃ならよろしいでせう。 押川  さあ、その時間になつてみないとわからないが、まあ、十二時過ぎとしといてみてくれ。 紙屋  それや困りますなあ。 押川  困る! ぢや、きつかりでもいゝや。 紙屋  間違ひなく頂けませうか。 押川  そんなことを訊いてどうするんだ、君、そこは信用ぢやないか。 紙屋  その信用が、どうもね。 押川  ぢや、仕方がない。結果を見よう。今ちよつと忙《いそが》しいから、またゆつくり……(算盤を置きはじめる) 紙屋  (出て行きながら)なんべんも無駄足をさせないで下さいよ。 [#ここから5字下げ] やがてまた、なる子が、通帳をもつて現はれる。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] なる子  ねえ、あなた、この分ですけどね、十円だけ入れといてやりませうよ。 押川  なんだ、肴屋か。何処も公平に行かうぢやないか。今年は総て延期だ。ゐるのかい。 なる子  えゝ。なんとかしてくれつて云ふの。 押川  そつちでどうかしろつて云へ。 なる子  小さな店なんだから、可哀想だわ。 押川  向うでもさう云つてるだらう。いゝから、追つ払つた、追つ払つた。 [#ここから5字下げ] なる子、引退る。 入れ代りに、玄関が開く。印刷屋である。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 押川  あ、今、電話をかけようと思つてたんだ。もう少し後《あと》にしてくれ給へ。 印刷屋  後つたつて、もう日が暮れちまひますぜ。 押川  なんだい、それや。日暮れて路遠しの洒落《しやれ》か。君んところなんか、まだ近い方だぜ。品川から三度もやつて来た人がゐるよ。 印刷屋  序《ついで》がありやまだいゝですよ。こつちは、あんたのとこだけですから、この方面ぢや……。 押川  勉強が足りないからさ。また、どつか紹介するよ。その代り、もう一月《ひとつき》待ち給へ。 印刷屋  戯談《じやうだん》云つちやいけない。今度つていふ今度は、大将が承知しませんよ。 押川  さうかなあ。さうでもあるまい。ぢや、兎に角、十二時前後に来て見てくれ給へ。都合によつちや、なんとかするから……。 印刷屋  大丈夫ですか。 押川  僕に僕の保証をさせるのかい。知らないよ。おい、今少し、忙しいんだ。話は後からにしてくれ。(仕事にかゝる) 印刷屋  (帰りかけて)ちえツ、しやうがねえなあ……。 [#ここから5字下げ] 押川は、また口笛を吹き、今度は、算盤を投げ出して、煙草に火をつける。 なる子がはひつて来る。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] なる子  困つちやつたわ。あたし、すつかり忘れてたの。 押川  丁度いゝぢやないか。 なる子  (書付を出し)これよ、ほら……。 押川  なんだ、向うで覚えてるのか。 なる子  先月、あんたが脳貧血を起した、あん時のよ。 押川  往診弐円、注射壱円、頓服散薬五拾銭……。 なる子  看護婦さんが来てるのよ。 押川  後《のち》ほど伺ひますつて……。 なる子  また来やしないでせうね。 押川  おい、そつちはそつちで、引受けるつて約束だらう。いちいち相談に来るなよ。 [#ここから5字下げ] なる子、引込む。 玄関が開く。今度は、製本屋である。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 押川  やあ、失敬々々、今電話をかけようと思つたんだ。済まないが、今夜出来るだけ遅く出直して来て貰ひたいんだがなあ。 製本屋  弱つたなあ。 押川  もう、序《ついで》はないの。 製本屋  なに、序《ついで》がなくつたつて、来るにや来ますが、一体、出来るんですか、出来ないんですか。 押川  はつきり云へつて云ふのかい。 製本屋  えゝ。 押川  出来さうもないよ。 製本屋  ぢや、どうするんです。 押川  さあ、どうしたもんだらうね。 製本屋  話を決《き》めて頂きたいんですがね。 押川  と、云ふと? 製本屋  あんたの方で、さう出て来るなら、こつちにも考へがあるつてことさ。 押川  可笑《をか》しなことを云ふね。僕の方で、どう出たね。真面目《まじめ》に相談してるんぢやないか。君も製本屋だ。さうだらう。本屋が困つてれば、君も困るのは当り前ぢやないか。そこをなんとか切り抜けるのには、お互、智慧を藉《か》し合はなけれやならない。君の智慧を藉《か》りようつていふんぢやないか。わからないかい。 製本屋  わかつてますよ。たゞ、そんな智慧は、こちとらにやねえからしやうがねえ。 押川  ない。そいぢや、僕が藉《か》さう。君のところは、僕のとこより、楽《らく》だ。 製本屋  巫山戯《ふざけ》ちやいけねえ。 押川  どうして? 君のところは、方々へ払ひを五月《いつつき》も溜めてるかい。貧乏臭い話はしたくないが、まあ勝手へ廻つて帳面を見て来給へ。 製本屋  そんなことをしなくつたつて、大抵わかつてるがね。 押川  有難う。ぢや、なんにも云はずに、待つてくれ給へ。 製本屋  今日はどうしても駄目かね。 押川  さあ、それが、まだわからないんだ。集金の都合が、どうなるか……。 製本屋  なにしろ、こつちも苦しいんだから、ぢや、かうしませう。今夜遅く、もう一度寄つてみるからね、出来るだけ入れておくんなさい。 押川  よろしい。ぢや、失敬。 [#ここから5字下げ] 製本屋、去る。 押川、起ち上つて、部屋中を歩きまはる。時々、積み上げた本を、あれこれと抜き取つて、ぱらぱらと頁を繰りなどする。 なる子がはひつて来る。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 押川  (本を一冊、妻の方に差出し)いゝね、この装幀は……。ナンセンス物には惜しいくらゐだ。 なる子  さうよ、初めからどれもみんな御自分でなさればよかつたんだわ。 押川  下手《へた》な絵かきなんかに頼むよりね。 なる子  品《ひん》がいゝわ、第一……。 押川  品がね。それより、目につき易いだらう、並べてあつてさ。適度に刺戟的だ。 なる子  ぱツとしたところがあるわね。 押川  「知識の花弁」といふところだ。 なる子  持山さん、まだ御覧にならないんでせう。 押川  あいつは、装帳なんかどうでもいゝんだよ。てんで趣味はないらしい。珍しい男さ。第一、自分の本を、手元に一冊も置いてないなんて、あきれるよ。 なる子  売つておしまひになるんでせう。 押川  さうさ。古本屋へ行つて、かう云ふんだとさ――「この本は、まだ出たてだが、五割引ならいゝだらう」つて……。 なる子  聞いたわ、その話……。すると、亭主が、「この著者のもんでは、どうも」つて云ふんでせう。 押川  その話を聞いて、おれもうつかり笑つたけど、実際、笑ひごとぢやないよ。 なる子  それはさうと、まだ買物が少しあるんだけど……。 押川  来年のことにしろよ。 なる子  二三円でいゝの。 押川  今、すつからかんだつて云つてるぢやないか。彦の奴、一旦帰つて来りやいゝのに……。 なる子  あゝあ、くたびれた。 押川  同感だ。しかし、もうお前の方の片《かた》はついたのかい。 なる子  ついたやうなもんだわ。 押川  それぢやよし。もう別に用がないなら、夜店でもひやかして来い。 なる子  あなたの方はまだなの。 押川  これからだ。 なる子  しつかりおやんなさい。どれ、こつちはあたしがゐても仕様がないから、お炬燵《こた》にでもはひつてくるわ。 押川  風邪《かぜ》を引くなよ。 なる子  大丈夫、蒲団を着てるから。 押川  なんだ、もう寝るのか。 なる子  いけない? 押川  いゝとも、いゝとも。ゆつくりお寝《やす》み。 なる子  ぢや、除夜の鐘が鳴つたら起してね。七輪にお湯が沸いててよ。 [#ここから5字下げ] なる子去る。 押川はテーブルにつき、また帳簿を繰りはじめる。 やがて、玄関が開き、持山六郎がはひつて来る。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 持山  まだ仕事かい。 押川  うん。まあ上れ。 持山  なかなか寒い。 押川  あゝ、寒い。 持山  (椅子に掛けながら)静かだね。 押川  (相変らず帳簿の上に目を落し)あゝ。 持山  どうだい、景気は。 押川  大したこともない。(間)本が出たよ。 持山  本? どの本? 押川  呑気《のんき》な奴だなあ。「蛇の足」さ。 持山  あゝ、俺のか。ちつたあ売れるかい。 押川  慌《あわ》てるなよ。やつと配本を済ましたばかりだ。 持山  十冊ばかり持つてくぜ。 押川  待てよ。今、古本に出されちや困るよ。 持山  細君は? 押川  二階だ。 持山  余裕綽々ぢやないか。 押川  ふん。ざつとね。実は、ぐたぐたになつて寝てるんだ。 持山  ほう。これはまた、しほらしいね。といふのが、僕のところぢや、かういふわけなんだ……。 押川  ちよつと……。今、こいつを済ましちまふから。 持山  (手持無沙汰さうに、煙草を出して、火を点ける) 押川  (算盤を弾く。やがて)これでよしと……。(急に調子を更へて)いよいよ今年も終りだね。 持山  (面喰つて)あゝ、終りだ。よく出来たもんだ。 押川  几帳面にね。(間)ところで、ちよつと、一時間ばかり、出かけて来なきやならないんだが、君、さし支へがなかつたら、留守を頼みたいんだがな。 持山  いゝよ。君さへさし支へなければ。 押川  (咄嗟に呑みこめず)うん、ぢや、頼む。茶が欲しかつたら、台所に湯が沸いてるから。 持山  もうお客さんはないかね。 押川  それが、あると思ふがね。よろしくやつといてくれ。 [#ここから5字下げ] 持山がきよとんとして、後を見送つてゐる間に、押川は玄関で二重廻しを着、帽子を持つたまゝ、外へ出る。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 持山  おい、それでなにかい……。 [#ここから5字下げ] 押川の姿は、見えなくなる。 とりのこされて、持山六郎は、はじめて責任の重大なるを感じたるが如く、腰を浮かせて、あたりを見廻してゐる。 [#ここで字下げ終わり] [#5字下げ]二[#「二」は中見出し] [#ここから5字下げ] 持山六郎が、主人然とテーブルに就き、陽々軒の女将が、火鉢の傍に椅子を引き寄せて、背中を丸めてゐる。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 持山  偶然つていふものは、妙なもんですね。僕が降りる、向うが乗るさ、電車にですよ。こつちで気がつかなけれや、それまでぢやありませんか。「おい、どこへ行くんだ」と声をかけると、奴《やつこ》さん、ちよつと驚いたには驚いたらしいがね。洒々《しやあ/\》とかうぬかすぢやありませんか――「こんな晩に、あたしひとりでうちにゐられますか」……。もつともな話だから、僕も亦、ふらふらと、電車に乗り込んだわけです。こんな晩に、僕だつて、ひとりでうちにゐたくありませんからね。(そこで、女将《おかみ》が何か云はうとする)いや、そのことなら、もう分りましたよ。今日《けふ》は、黙つて帰り給へ。 女将  でも、ほんとに、あなたは押川さんとどういふ御関係なんです? 持山  どういふ関係に見えますね? 女将  このお店にいらつしやる方《かた》ぢやないでせう。 持山  僕は店員といふわけぢやないが、まあ、それに類したものです。此処に積んである本は、大方《おほかた》僕が書いたの。 女将  あら、さうですか。ぢや、先生ですね。 持山  同時に、押川とは学校友達でね。まあ、無二の親友さ。 女将  へえ、そんなに御懇意なんですか。そんなら、あなた、なんとかして下さいよ。奥さんには内証だつておつしやるから、今まで伺はずにゐたんですよ。 持山  内証話は、大きな声でするもんぢやない。で、勘定はいくら? 女将  (書付を出し)大分《だいぶ》溜つてるんですよ。 持山  百円足らずですね。 女将  チップはついてをりません。 持山  さあ、今、ちよつと持ち合せはないが、押川が帰つたら、相談してみませう。 女将  あらいやだ。そんなら、あなたにお願ひしなくたつていゝんですわ。 持山  僕もそのうち行きますよ。 女将  どうぞ……。洋酒は吟味してございます。 持山  やあ、それぢや、また、何れ……。どうぞ、僕におかまひなく……。 女将  あなたは、押川さんをお待ちになつてるんでせう。 持山  いや、別に待つてもゐないが、生憎《あいにく》、留守番を頼まれたんでね。なに、ぶらつと金を借りに来たら、それを云ひ出さないうちに、奴《やつこ》さん、出かけちまつたんだ。僕は、今日は、急がないから、かうしてるだけさ。ほんとに、御遠慮なく……。 女将  えゝ。でも、このまゝぢや帰れませんから……。 持山  君んところは、洋食の方もやつてるんですね。 女将  えゝ、この辺ぢやどうしてもね、その方が主《しゆ》になりますわ。 持山  女給さんは幾人ゐるの? 女将  今、三人ですの。 [#ここから5字下げ] この時、玄関が開く。押川である。黙つて、立つてゐる。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 持山  何か忘れもんでもしたのか。 押川  (しぶしぶ上りながら)いや。(女将《おかみ》に)何時《いつ》来たんだ。 女将  お留守にどうも……。今日お寄り下さるつてお話でしたから、ついさつきまでお待ちしてたんですけれど……。 押川  寄つて来たよ。 女将  あら、ほんとですか。 押川  譃だと思ふなら帰つてみ給へ。金はお豊に預けて来たよ。全部ぢやないが、現金でだ。偽札だつたら日本銀行を訴へてくれ。 女将  からかつてるんだわね。 押川  とにかく、帰つてみ給へ。 女将  帰りますから、幾ら置いて来て下すつたの? 押川  十円ばかりだ。 女将  あら、それぢや困るわ。 押川  困る? ほんとに困る? おれも困る。 持山  それみ給へ。世間はみんな困つてる。ねえ、お女将《かみ》さん、そこに積んである本をみてごらん。みんな定価がついてる。床《とこ》の間《ま》の上のが、あれで一冊一円八十銭、そこの赤い函にはひつてるのが、九十銭、向うの金文字入りが、ああ見えて、一円二十銭……(押川に)今度のはいくら? 押川  六十銭……。 持山  (取りに行き)これ……。一冊、進呈しよう。わりに面白いよ。僕のペンネーム……(著者の名前を指す) [#ここから5字下げ] 玄関が開く。摺沢がはひつて来る。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 摺沢  今晩は……。 押川  やあ、どうもわざわざ……。今日、お電話をしようと思つてたんですけど……つい……。 摺沢  いえ、なに、お忙《いそが》しいところを、そんな……。 押川  まあ、お上り下さい。かまはないんです。 女将  ぢや、どうしませうね。 押川  どうしよう? まあ、ちよつと待つててみ給へ。さあ、どうぞ……(持山に、書物をのせた椅子を指し)ちよつと、そいつをおろしてくれ。 持山  (指図通りにして)これへどうか……。 摺沢  (大きな鞄を抱へて上つて来る)如何《いかゞ》です。益々御盛大で……。 押川  えゝ、お蔭で……。(持山に)あゝ、この方はね、摺沢さん……ほら……あれさ。 持山  あゝ、僕、持山六郎です。 押川  親友です。同時に……。 摺沢  やあ、これは……。 押川  (持山に)話さなかつたかしら……摺沢さんは、僕の大事な金主だよ。 持山  あゝ、なるほど……。押川が大変御厄介になつて……。 摺沢  いや、どういたしまして……。 押川  六年前に、僕がこの仕事をはじめる時、二千円といふ資本を出して下すつたのはこの方《かた》だ。それが面白いぢやないか。お互は赤の他人なんだぜ。 摺沢  いやあ。 押川  全くさ。ある偶然の機会に、僕は、一二度会つたきりのこの方《かた》に、今度かういふ仕事をはじめたいんだが、実は金が無いんでといふやうな話をしたんだ。 摺沢  その通りでしたよ。 押川  するとね、驚くぢやないか。わたしが一肌《ひとはだ》脱ぎませうつていふわけでね、即座に小切手を書いて下さつたもんだ。無論、証書へ判だけは捺した。 持山  無抵当でね。 摺沢  それがです。わたくし、予々《かね/″\》、出版といふ仕事に興味をもつてをりまして……。 押川  御自分では経験もないしするから、つまり、僕の事業を授《たす》けながら……。 摺沢  わたくしも、ひと儲けしたいと思ひまして……。 押川  早く云へば、僕の腕に……。 摺沢  二千円、賭けさせていたゞきましたんです。 持山  と云ふと、つまり……。 押川  一種の投機さ。 持山  それはわかつてるが……。 押川  利子のことかい。 持山  うん、そこまでは聞かなくつていゝが……。 押川  いや、話すよ。ねえ、摺沢さん、こゝだけの話だからいゝでせう。 摺沢  細かいことは、御勘弁を願ひます。 押川  大ざつぱに云ひませう。六年目の今日、元利合計、九千なにがしになつてゐるんだ。 女将  まあ……。 持山  ふん、利殖としては悪くないね。 押川  それが、まだ、一文も払つてないんだ。 持山  もう少し、待つて頂くさ。先《さき》が見えてるんだもの。 摺沢  いえ、それやもう、お待ちすることはいくらでもお待ちいたしますんです。 押川  この手だからね。証書を書き替へさへすれやいゝんでせう。 摺沢  用意して来てをります。 持山  凄いね。失礼ですが、御商売は? 押川  おい、馬鹿なことを訊くなよ。 [#ここから5字下げ] 玄関が開く。さつきの製本屋である。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 押川  ちよつと、そこで待つててくれ。今行くから……。 持山  僕も、最近、何か一つ、商売をはじめようと思つてるんですが、あなたのお考へでは、どういふ種類の……。 摺沢  さやうですな。今の御商売が一番結構だと思ひますな。 持山  さうですか。実は、それについて、困ることは、資本のないことで……。 [#ここから5字下げ] 玄関が開く。例の印刷屋である。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 持山  (その方に)あゝ、和光さんだね。少し待つてくれ給へ。(摺沢に)どうでせう、ひとつ……二千円ばかり……。 押川  おい、まてよ。こつちに少し話があるんだ。ところで、摺沢さん、御覧の通り、この店ではもう手狭《てぜま》なくらゐ、本の数も殖《ふ》えましたし……。 摺沢  いや、さつきから、それを拝見して、ひそかに喜んでゐるやうな次第です。 押川  ですからして、こゝを、なんとか、切り抜けさせて下さい。なにしろ、今迄は、資本を寝かす一方でして、もう一息《ひといき》といふところで、動きがとれなくなるのが、どうも残念なんです。あと千円もあれば、この暮れがどうにか……。 摺沢  押川さん、それや、いけません。わたしは、たゞ本年度の利息を頂戴に上つたんです。 押川  ですから……。 摺沢  それも、待てとおつしやれば、よろしい、それはお待ちしませう。 押川  ですから……。 [#ここから5字下げ] 玄関が開く。さつきの紙屋である。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 押川  そこは狭いね。上り給へ、みんな、上つてくれ給へ。まとめて片づけよう。和光さん、寒いから、外套を着たまゝでいゝよ。(摺沢に)ですから、お序《ついで》に、もう千円だけ、是非、この際……。 [#ここから5字下げ] 製本屋、印刷屋、紙屋の順に上つて来る。椅子がないので、みんな立つたまゝでゐる。女将が起ち上つて、製本屋に椅子を薦めなどする。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 押川  (持山に)君、ちよつとそつちを頼む。(摺沢に)さういふわけですから……(従《つ》いて来いといふ合図をして、自分から先へ席を立ち、隣りの部屋に行く。摺沢、仕方がなく、その後に従ふ。鞄を忘れずに持つて行く)御承知の通り、出版といふ仕事は、当つたら、その機会をつかんで……。 摺沢  いや、それはもう、わたしには専門の知識は……。 押川  ざつくばらんにお話しますとね……(後は聞えない) 持山  (思ひ出したやうに)では、君たちの御用は? 製本屋  もうわかつてるんですから……。 持山  (印刷屋に)君は、和光さん。 印刷屋  へゝゝゝゝ。 持山  あゝ、さう、わかつた。君は、何屋さんだい。 紙屋  紙屋です。 持山  紙屋さんは、もう済んでるんぢやないの。 紙屋  いえ、とんだこつてす。 持山  まあ、さう怒るなよ。今、向うの話がつき次第、払ふものは払ふから、一服やつててくれ給へ。あの人の抱《かゝ》へてる鞄をみ給へ。君たちが五人や十人来たつて、びくともしさうにないだらう。あの人が、摺沢さんつて云ふ多額納税者だ。北極書院の隠れたる金主だから覚えとき給へ。 押川  (突然語調を強めて)しかし、さうして下さらなきや、僕の仕事はぺしやんこですよ。 摺沢  (落ちつき私つて)止《や》むを得ません。あなたが損をなさるんですよ。 持山  (一同に)駄目だ。見込みはなささうだ。諸君、気の毒だが、これで引きとつてくれ給へ。僕は、僕の名誉にかけて諸君に誓ふ、北極書院が潰れる日は、持山六郎の破滅の日だ。諸君にこのうへ迷惑はかけない。諸君への支払ひに対しては、僕が共同の責任を負ふ。 摺沢  (押川から遠ざかり)いやいや、もうその話は何度うかゞつてもおんなじです。ぢや、兎に角、証書を書換へておきませう。(テーブルの方へ近づく) 押川  (その後から追ひ縋るやうに)僕はもう、そんな証書に判は捺しませんよ。 摺沢  (相変らず冷静に)では、お約束通り、財産差押へを致しませうか。 押川  どうぞ御勝手に……。 持山  どうしたんだい。さうお互ひに、短気を起しちやいかんよ。摺沢さん、この男のいゝところは、こゝなんです。どんな場合にでも、一直線の道を歩く。正々堂々と、障碍にぶつかつて行くんです。お気を悪《わる》くなさらないで下さい。押川、君もちつと相手を考へろよ。摺沢さんを、敵にしちや損だ。ねえ、摺沢さん。 摺沢  (何事もなかつたやうに)いやなに、わたしも、押川さんのさういふところを見込んで、一肌《ひとはだ》脱いだ訳なんですから、心のなかでは、何とも思つてやしません。 持山  (他のものに)諸君も、お聞きのやうなわけだ。今日《けふ》のところは、みんな、厭な顔をしないで別れようぢやないか。 製本屋  どうかして貰ふまでは、動かないつもりですがね、あつしや……。 押川  動かずにゐ給へ。 持山  また、それだ。喧嘩をするなよ、喧嘩を……。かういふ時には、根気《こんき》が大事だ。みんな根気くらべだ。 摺沢  では、急ぎますから、ひとつ、形式だけ整へて置きませう。 持山  硯ですか。(硯の蓋をあけてやる) 摺沢  大体書き入れてはありますが……。(鞄をあけ、書類を出す) 紙屋  ぢや、かうしていたゞけませんか。講義録と、最後の「蛇の足」の分だけ、あの紙はほかから取つたもんですから……。 押川  わかつてる。誠に申訳がない。 印刷屋  こつちは、すつかり当てにしてたんで、どうも……。 持山  わかつてるつて云つたぢやないか。 女将  あたしや、そいぢや、御暇しませう。 持山  まあ、いゝぢやないですか。 女将  いえ、またつてことにしますわ。 持山  さうかね。 押川  ぢや、頼む。みんなによろしく。 持山  (女将を送つて出ながら)もう少したつと、集金の小僧が帰つて来るんだがね。ことによつたら、君の方だけ、幾分入れられると思ふんだがなあ。 女将  さうですか。そんなら……。 押川  絶対駄目だ。集りつこないよ。さつき電話で方々当つてみたんだ。 持山  (この時、何を思つたか、突然、厳粛な調子になり)さうときまれば、みんなもう諦めるより外はない。僕も諦めた。さ、諸君は、其処にさうして起《た》つてゐる必要はない。それとも、押川の懐《ふところ》へ、天から札《さつ》が降つて来るとでも思つてるのか。が、待ち給へ。僕が一つ、名案を授けよう。 摺沢  (さつきから、書類に何か書き入れてゐたが、この時)押川さん、では、こゝへ御判をひとつ……。 押川  (証書を受取つて読む) 持山  名案といふのは、外でもない。非常手段だ。諸君がそれほど欲しがつてゐるものなら、その一念で、なんとかならうぢやないか。 摺沢  (書類を指し)此処と、こゝへ、どうぞ……。 持山  しかし、非常手段といふからには、失敗を覚悟しなけれあならん。たとひそれが空想であつたにしろ、諸君は、いつ時、胸を躍らすに違ひない。罪ならば罪で、僕がたゞ一人、その罪を着よう。(と云ひながら、片手を伸ばして、摺沢が蓋を開けたまゝ側らに置いた例の鞄を引寄せ、悠々と、中にある札束を掴み出す)えゝと、みんな受取を出し給へ。 [#ここから5字下げ] 一同は、あつけに取られながら、それでも、順々に書付を出す。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 持山  君からだね、六百二十七円……八十何銭はどうでもいゝだらう。(札を数へながら)一、二、三、四、……あゝ、面倒臭い。勝手に、めいめいで分け給へ! [#ここから5字下げ] この壮絶なる一句と共に、紙幣の束が、次ぎ次ぎに、集金人たちの眼前に投げ出される。 その少し前から、摺沢と押川とは、この異様な光景を、訝しげに眺めてゐたが、摺沢の眼は、次第に空ろになり、はツと気がついて側を見る。そこからは、鞄が何時の間にか消え去つてゐる。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 摺沢  (愕然として)あ、わたしの鞄! それ、わたしの……(と、叫びながら、テーブルの上下に散乱した紙幣を、無我夢中で掻き集める)なにをするんだ、この人は……。怪《け》しからん。みんなどいてくれ、さ、どいてくれ。さ、どいてくれ。誰も触《さは》つちやいかん。近所に交番はないか……。 持山  (愉快さうに)どうだい、年末の余興としては、ちよつといゝ思ひつきだらう。 摺沢  もう、その辺に落ちてないかね。誰も足の下へ入れてやしないかね。 持山  大丈夫、そんな素捷《すばし》つこい奴は、一人もゐませんよ。ゆつくりお拾ひなさい。さて、諸君、胸がちつとはすつとしたでせう。いゝ年をお迎へなさい。 [#ここから5字下げ] 摺沢は、あらまし紙幣を拾ひ集めたらしく、この時、一同の顔面は、そろそろ硬直が旧に復して、押川、紙屋、印刷屋、製本屋、照れたやうな、淋しいやうな、そのくせ、善心そのものゝやうな微笑を口辺に浮び上らせる。そして、摺沢が、一心不乱に数へてゐる紙幣の一枚々々の上に、それぞれの輝いた視線が集中し、遂に、一座の悉くは、期せずして、摺沢のする通りに、頭を上下に動かし、無心に紙幣を数へはじめる。 [#ここで字下げ終わり] [#5字下げ]三[#「三」は中見出し] [#ここから5字下げ] 前場の人物は、押川と持山とを除き、既にみな帰つたあとである。持山は、座蒲団の上に、寝転んでゐる。押川は、勝手に行つて茶器を運んで来る。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 持山  細君はうまくやつてるね。 押川  うん。 持山  君の計らひだらうな。 押川  世帯の方は、どうやらやり繰りをつけて、夕方から床《とこ》へもぐり込んぢまつた。店の方はどうだといふから、こつちはおれが引受けると返事をした。安心して眠《ね》てるだらう。除夜の鐘が鳴つたら起すことになつてゐる。 持山  おれの女房は、今頃は、何処をうろついてるか。これも、除夜の鐘が鳴つたら、此処へ来いと云つてある。 押川  お蔭で助かつたよ。やりきれん。 持山  なに、おれの戦法は、二度|効《き》かんのでね。 押川  鮮やかなもんだ。 持山  貧友の誼《よし》みといふやつさ。こつちは、何処で断《ことわ》るのもおんなじだ。相手の顔が違ふだけさ。あたりが、馬鹿に静かになつた。おい、炭は何処にある? 押川  今持つて来る。 持山  (時計を見て)あ、もう、そろそろ、除夜だぜ、あと、二分……十五秒……。(ラヂオの時報を真似て)あと、一分五十秒……三十秒……二十秒……十秒……あと五秒……鳴らねえや。 [#ここから5字下げ] 長い間。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 押川  (勝手から炭取りを運び)鳴つてるかい。 持山  坊主|居睡《ゐねむ》りか。 押川  時計眠とぼけだ。おや、玄関が開いたやうだね。 持山  錯覚だ。 押川  いや、慥かに、玄関に誰か来てるよ。声は聞えないが、人のゐる気配がする。(出てみる)そらみろ、やあ、お待ちしてゐました。さあ、どうぞ。 持山  あゝ、もう来やがつたな。時間まで待ちきれずにか。上れ、上れ。 押川  コートはそのまゝでいゝでせう。部屋ん中も、なかなか寒いですよ。 [#ここから5字下げ] 持山の妻なぞえがはひつて来る。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 持山  早いぞ。まだ鳴らないぢやないか。 なぞえ  鳴つたわよ、とつくに。 押川  さうだらう、変だと思つた。 持山  まあいゝや。浅草かい。 なぞえ  当つたわ。変なもんね、やつぱり足が向いちまふの。去年も一昨年《をとゝし》も、ほら、行つたわね。 持山  鐘を聴きにね。 押川  しかし、此処にゐて聞えない筈はないんだがなあ。 なぞえ  除夜の鐘? 風向きで、さういふこともあるわ。こら、手がこんなよ。(夫の手に触る) [#ここから5字下げ] 押川、二階に駈け上る。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] なぞえ  いやな方ねえ。なにをぼんやりしてらしつたの? 持山  ぼんやりしてれば、聞える筈だ。するとあの騒動の最中《さいちう》かな。 なぞえ  騒動つて、なにかあつたの? 持山  いや、別に……。何処でもある程度のもんさ。浅草は、相変らずかい? なぞえ  さうね、相変らずつていふんでせうね。あたし、喜劇|観《み》ちやつた。可笑《をか》しくもなんともないの。 持山  喜劇でね。そいつあ変つたもんだな。 なぞえ  ほかの見物《けんぶつ》は、そいでも笑つてたわ。 持山  さうだらう。喜劇を見せられたら、笑ふのが礼儀だ。時に、どうする、今夜は、此処へ泊つてかうか。 なぞえ  どうでも。夜具はそろつてゐるかしら……。 持山  そいつは、向うで心配するだらう。旅で正月をするのも久し振りだね。 なぞえ  えゝ。 持山  (二階の方を見上げて)あ、押川夫人のお眼覚めだ。 なぞえ  なに、寝てらしつたの? 持山  受持ちが違ふんださうだ。 なぞえ  よく眠られるわね。でも、こちら、うちみたいなことはないでせう。 持山  さあ、わからんね。 [#ここから5字下げ] 押川が降りて来る。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 押川  ぐつすり眠込《ねこ》んでるから感心だよ。健康なのもそのお蔭だ。奥さんはよくおやすみになる方ですか。 なぞえ  むらがありますの。眠《ね》られないとなると、どうしても眠《ね》つかれませんの。この人ですわ、人に喋《しやべ》らしといて、ぐうぐう鼾をかいてるのは。 持山  ほかのことを考へてるより、罪はないさ。 [#ここから5字下げ] 押川の妻、なる子が現はれる。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] なる子  いらつしやいませ。どうも、失礼いたしました。もつと早く起してくれゝばいいんですのに……。お寒いわね。あら、こんな火ぢや駄目だわ……瓦斯で起して来ませう。 持山  (押川の顔をつくづく眺め)どうだらう、五十円ばかり、どうかならんかね。 押川  (これもぢつと持山の顔を見据ゑ)あゝ、さう云へば、チビがまだ帰つて来ないや。 持山  途中で浚《さら》はれちまつたかな。 押川  小さな口だけ廻らしたんだが、五十円にもなれあ大手柄だ。 持山  ぢや、かうしよう、五十円未満だつたらおれが持つて行く。それ以上は、君が取れ。 押川  もう金の話はよせよ。 なぞえ  ほんとだわ。 持山  なんだ、自分で云ひ出したんぢやないか。旅行する金を工面しろつて……。 [#ここから5字下げ] なる子が、十能をもつて現はれ、火鉢に火をつぐ。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] なる子  (なぞえに)お正月の御馳走はもうお出来になつて? 押川  それを今、云つてるんだがね、お二人は、これから大島へ旅行ださうだ。 持山  大島もいゝね。僕は、伊東ぐらゐのつもりでゐたんだが……。 [#ここから5字下げ] この白《せりふ》の間に、遥か、鐘の音が響いて来る。一同は顔を見合はす。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 持山  おや、鳴つてるね。 押川  鳴つとる。 なる子  鳴つてるわ。 なぞえ  さうよ。 持山  さうよたあ、なんだい。 なぞえ  だつて、外は寒くつて、時間なんか待つてゐられなかつたんですもの。 押川  なるほど。必要のない譃つてものは、女性的だからな。 なる子  なに、除夜の鐘がもう鳴つたつて、奥様がおつしやつたの。 押川  (にやにやしながら)二度聴くのも悪《わる》くないな。 なる子  ぢや、さつきの夢は今年の夢ぢやなかつたんだわ。 持山  さては、惜しい夢かな。 なる子  まあね。 なぞえ  伺ひたいわ。 なる子  云つてみませうか。 押川  夢の話なんか、つまらん。 持山  現金なことを云ふな。夜が明けるまでは、大分間があるぜ、奥さんの夢物語でも聴いて、ねむくなつたら、そのへんに寝かして貰はうぢやないか。 なぞえ  まあ、失礼な……。 なる子  あら、子守歌の代りになれば、光栄ぢやありませんか。おなか、お空《す》きにならない。おかちんでも焼きませうか。(餅と餅網を取りに行く) なぞえ  (この間、なぞえは、夫の洋服の肩にかゝつてゐるフケを、やけに払ひ落しながら)さつきから、あたし、おなかがぺこぺこなの。 持山  しつかりしろよ。 [#ここから5字下げ] なる子が現はれる。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] なる子  (餅を一つ一つ網の上に並べながら)おや、聴いて下さる。どうせ夢だから、辻棲の合はないところがあつてよ。 押川  夢のせゐにするない。 なる子  黙つていらつしやい。(文字通り夢を追ひながら)処は何処だかわからないの。なんでも、ビルディングがまはりに聳えてるやうな町の中よ。押川と一緒に歩いてゐますの。あたしは、馬鹿に急いでて、なんの用があるんだか、早く歩きたくてしやうがないんでせう。それに、この人つたら、ゆつくりゆつくり、まるで散歩かなんかするやうに、ステッキを振つて歩いてるんですの。そのうちに、晴れてゐた空が急に曇つて来て、雪のやうなもんが降り出したんですけれど、別にそれが顔にあたつても冷《つめた》くはないんですの。夢でよくさういふことありますわね。それと、その雪のやうなもんが、地べたへ積ると、白くなる筈だのに、それが、かう、薄茶色に、紫がかつたやうな、さうかと思ふと、ところどころ、黒いぽつぽつが見えたりして、どうも可笑《をか》しいんですの。さう思ふと、押川も、おやつていふやうな顔をして、あたりを眺めまはしてゐるでせう。すると、だしぬけに、「原稿が降つて来た、原稿が降つて来た。早く拾へ。早く……。風呂敷かなんか持つてないか」つて怒鳴り出しましたの。あたしが、それでも、そんな筈はないと思つて、よく地べたの上をみますと、まあ、どうしたと云ふんでせう、道いつぱいに、お札《さつ》が積つてるんですわ。 押川  大きな声を出すなよ。 なる子  (餅が焦げ出したので、慌ててそれをひつくり返す。なぞえも、手伝ひはじめる)で、あたしも、これはと思つて……(男たちは思はず吹出す)どうして? これはと思ふのが可笑《をか》しくて? 持山  まあいゝですよ。 なる子  これは警察へ届けなくつちやいけないかしらと思つてると、押川は、「なにを愚図々々してるんだ。おれが天から授かつた原稿を、一枚でも失くしたら取返しがつかん」さういひながら、片手でそれを掻き集めながら、もう一方の手で拾つた一枚を夢中で読んでるんですの。「戯談《じやうだん》ぢあないわ、これは、みんな拾円札よ」つて、あたしが、それこそいくら云つても、きかないんですよ。「素晴しく面白い。傑作だ。当るぞ」――そんなことを、繰返して云つてるもんで、あたし、たうとう、じれつたくなつて、自分でどんどん拾ひ出しましたの。生憎《あひにく》風呂敷は一枚きり持つてゐないんですけれど、袂や懐や、帯の間へ、出来るだけねぢこんで……(男たちまた笑ふ)いゝぢやありませんか、ほんとなんですもの。でも、そんなことぢや、とても追つつきつこありませんわ。全く途方に暮れて、これが、せめてうちの庭だつたらと思ひましたわ。(一同笑ふ)さうかうしてゐるうちに、向うから、一人、男がやつて来ました。「やあ、これは、これは、お手伝ひしませうか」とかなんとか云つて、その人、夕刊を持つてたもんで、そん中へ、またいつぱい包んで、あたしの手に渡すんですの。それをまた、あたしも、不思議には思はないんですのね。「恐れ入ります」つていふわけよ。(笑ふ)すると、その男も、こいつはきりがないと思つたんでせうね。「待つていらつしやい。その辺にゐる人をみんな呼んで来ますから」つて、大急ぎで走り出さうとしますから、あたし、そんなことされたら大変だと思つて、(一同だんだん厳粛な顔になる)「待つて頂戴。それより、タクシイを一台、見つけて下さいませんか」つて、さう云ひますと、「タクシイよりトラックがいいでせう」……。 持山  同感だな。 なる子  すぐに、トラックが二台、来ましたの。その男の人は、どつかから、箒を持つて来ましたわ。押川はどうしたかと思ふと、だんだん積つて来るお札《さつ》の中に埋つて、首だけ出してますの。片手にはやつぱり、お札を一枚持つて、しきりになんか読み耽つてるといふ風でせう。あきれちまひましたわ。(間)それからあと、ちよつと思ひ出せないんですけれど、なにしろ、あたしたちは、お札を山と積んだトラックの、そのまた上へ乗つて、たしかお濠端を走つてゐます。通る人が、みんな振り返つて見るんですわ。そん時、ふつと、「あゝ、さつきの男の人に、もつとお礼を云ふんだつた」と気がつき、何気《なにげ》なく後ろを向くと、遥か向うの方で、その男の人が、にこにこ笑ひながら、こつちを見てゐるんです。それが、可笑しいのね。持山さん、あなたなのよ。 持山  わあ! なる子  (焼けた餅を皿に盛り)いかゞ、焼けましたわ。 押川  それから、どうしたんだい? なる子  そこで、あんたの背中を叩いて、あたし、さう云つたのよ。――「さつきの人、あれごらんなさい。持山さんよ」つて……。 押川  さうしたら? なる子  あんたのいふことがいゝわ。――「持山ならそれくらゐのことはするよ」ですつて……。 持山  また、わあだ! [#ここから5字下げ] この時、玄関の格子があいて、のつそりはひつて来たのが小僧の彦である。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 押川  どうした。 彦  たうとう、渋谷の方は廻りきれませんでした。 押川  あゝ、あつちはどうでもいゝや。それで…… 彦  はじめ文隆堂へ行つたんですが、今年は駄目だつていふんです。 押川  さうだらう、あとは? 彦  先進館は、半分くれました。十五円です。(書類を出す) 押川  上等だ。 彦  忠孝社は講義録だけで、八円五十銭……。 押川  いちいち云はなくつてもいゝ。 彦  目白ぢや、どうにもならないんです。火事があつて、通《とほ》れないんです。廻り道をしたら自転車のチェーンが外《はづ》れて、真暗《まつくら》なもんで、なかなか……。 押川  よし、よし、早くしろ。なにか食つたか。 彦  それがです、蕎麦屋が何処も満員で……。 押川  話はあとにしろ。出すものは出して、さつさと寝給へ。 彦  へえ、ですけれど、年の暮つて、何処でも大変なもんですね。大塚の近所ぢや交番に……。 なる子  さ、おかちんをあげるから、あつちへ行つておあがり。お金を落しやしないだらうね。 彦  へえ。大丈夫です。これぱつち、持つて歩くのは平気ですよ。 持山  大きく出るぞ。どれつぱつちだい、云つてみろ。 彦  まだ、数へてみませんが……。 持山  どら、貸せ。おれが勘定してやる。算盤を持つて来い。(彦、鞄を出す) なぞえ  余計なことおよしなさいよ。 持山  (鞄から紙幣貨幣を掴み出し)さつきと、手触《てざは》りが違はあ。おや、案外、集めたぞ。(一同のぞき込む)待てよ。先づ、分類してみよう。これが十円、これが五円、これが……と、一円札といふもんは少くなつたね。次は五十銭……十銭……五銭……あと銅貨だ……。さあ、みんなで、いくら……。当てた、当てた。 なる子  おかちんが固くなりますよ。 持山  これで三十……三十……六十。細《こまか》いので……。大分《だいぶ》あるぞ……。十、二十、三十……九十……と……四……五……六……。二十……七……。間違ひないね。帳面と引合せよう。あとにするか。ところで、押川、こいつは、一体、どうする。困るだらうな。 押川  うん、いや、別に、……。さつき云つた通りにすれやいゝだらう。 持山  五十円、貰つとくか。が、まあ、よさう。さ、奥さん、みんなそつちいしまつといて下さい。どれ、餅でも食はう。(餅を食ひはじめる) 押川  どうだい、いつそ、みんなで、大島へ出かけようか。あとはどうにかならあ。無二の貧友が餅を頬張つて、楽しい旅を諦めようとしてる、これが、黙つてみてゐられるかだ。 持山  (急に、泣きたいやうな顔をして、いきなり、押川の方に手を差出し、二人が真面目に握手をしたと思ふと、彼は、どさりと仰向けにひつくり返り、無理に、頓狂な声を立てて笑ふ。手足をばたばたと振り動かし、笑ひが止まらぬ風を粧ひながら、実は笑ひが止ることを防いでゐるのだ。) [#ここで字下げ終わり] [#地から6字上げ]幕 底本:「岸田國士全集6」岩波書店    1991(平成3)年5月10日発行 底本の親本:「職業」改造社    1934(昭和9)年5月17日発行 初出:「経済往来 第八巻第八号(夏季増刊新作三十三人集)」    1933(昭和8)年7月5日発行 入力:kompass 校正:門田裕志 2011年5月28日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。