春昼後刻 泉鏡花 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)間《ま》もなく |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)迷惑|処《どころ》では [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)睜 ------------------------------------------------------- [#7字下げ]二十四[#「二十四」は中見出し]  この雨は間《ま》もなく霽《は》れて、庭も山も青き天鵞絨《びろうど》に蝶花《ちょうはな》の刺繍《ぬいとり》ある霞《かすみ》を落した。何んの余波《なごり》やら、庵《いおり》にも、座にも、袖《そで》にも、菜種《なたね》の薫《かおり》が染《し》みたのである。  出家は、さて日《ひ》が出口《でぐち》から、裏山のその蛇《じゃ》の矢倉《やぐら》を案内しよう、と老実《まめ》やかに勧めたけれども、この際、観音《かんおん》の御堂《みどう》の背後《うしろ》へ通り越す心持《こころもち》はしなかったので、挨拶《あいさつ》も後日《ごじつ》を期して、散策子は、やがて庵《いおり》を辞した。  差当《さしあた》り、出家の物語について、何んの思慮もなく、批評も出来ず、感想も陳《の》べられなかったので、言われた事、話されただけを、不残《のこらず》鵜呑《うの》みにして、天窓《あたま》から詰込《つめこ》んで、胸が膨《ふく》れるまでになったから、独《ひと》り静《しずか》に歩行《ある》きながら、消化《こな》して胃の腑《ふ》に落ちつけようと思ったから。  対手《あいて》も出家だから仔細《しさい》はあるまい、(さようなら)が些《ち》と唐突《だしぬけ》であったかも知れぬ。  ところで、石段を背後《うしろ》にして、行手《ゆくて》へ例の二階を置いて、吻《ほっ》と息をすると……、 「転寐《うたたね》に……」  と先《ま》ず口の裏《うち》でいって見て、小首を傾けた。杖《ステッキ》が邪魔なので腕《かいな》の処《ところ》へ揺《ゆす》り上げて、引包《ひきつつ》んだその袖《そで》ともに腕組をした。菜種の花道《はなみち》、幕の外の引込《ひっこ》みには引立《ひった》たない野郎姿《やろうすがた》。雨上りで照々《てかてか》と日が射すのに、薄く一面にねんばりした足許《あしもと》、辷《すべ》って転ばねば可《よ》い。 「恋しき人を見てしより……夢てふものは、」  とちょいと顔を上げて見ると、左の崕《がけ》から椎《しい》の樹が横に出ている――遠くから視《なが》めると、これが石段の根を仕切る緑なので、――庵室《あんじつ》はもう右手《めて》の背後《うしろ》になった。  見たばかりで、すぐにまた、 「夢と言えば、これ、自分も何んだか夢を見ているようだ。やがて目が覚《さ》めて、ああ、転寐《うたたね》だったと思えば夢だが、このまま、覚めなければ夢ではなかろう。何時《いつ》か聞いた事がある、狂人《きちがい》と真人間《まにんげん》は、唯《ただ》時間の長短だけのもので、風が立つと時々波が荒れるように、誰でもちょいちょいは狂気《きちがい》だけれど、直ぐ、凪《な》ぎになって、のたりのたりかなで済む。もしそれが静まらないと、浮世の波に乗っかってる我々、ふらふらと脳が揺れる、木《き》静まらんと欲すれども風やまずと来た日にゃ、船に酔《え》う、その浮世の波に浮んだ船に酔うのが、たちどころに狂人《きちがい》なんだと。  危険々々《けんのんけんのん》。  ト来た日にゃ夢もまた同一《おんなじ》だろう。目が覚めるから、夢だけれど、いつまでも覚めなけりゃ、夢じゃあるまい。  夢になら恋人に逢えると極《きま》れば、こりゃ一層《いっそ》夢にしてしまって、世間で、誰某《たれそれ》は? と尋ねた時、はい、とか何んとか言って、蝶々《ちょうちょう》二つで、ひらひらなんぞは悟ったものだ。  庵室《あんじつ》の客人なんざ、今聞いたようだと、夢てふものを頼《たの》み切りにしたのかな。」  と考えが道草《みちくさ》の蝶に誘《さそ》われて、ふわふわと玉《たま》の緒《お》が菜の花ぞいに伸びた処《ところ》を、風もないのに、颯《さっ》とばかり、横合《よこあい》から雪の腕《かいな》、緋《ひ》の襟《えり》で、つと爪尖《つまさき》を反らして足を踏伸《ふみの》ばした姿が、真黒《まっくろ》な馬に乗って、蒼空《あおぞら》を飜然《ひらり》と飛び、帽子の廂《ひさし》を掠《かす》めるばかり、大波を乗って、一跨《ひとまた》ぎに紅《くれない》の虹を躍《おど》り越えたものがある。  はたと、これに空想の前途《ゆくて》を遮《さえぎ》られて、驚いて心付《こころづ》くと、赤楝蛇《やまかがし》のあとを過ぎて、機《はた》を織る婦人《おんな》の小家《こいえ》も通り越していたのであった。  音はと思うに、きりはたりする声は聞えず、山越えた停車場《ステイション》の笛太鼓《ふえたいこ》、大きな時計のセコンドの如く、胸に響いてトトンと鳴る。  筋向《すじむか》いの垣根《かきね》の際《きわ》に、こなたを待ち受けたものらしい、鍬《くわ》を杖《つ》いて立って、莞爾《にこ》ついて、のっそりと親仁《おやじ》あり。 「はあ、もし今帰らせえますかね。」 「や、先刻は。」 [#7字下げ]二十五[#「二十五」は中見出し]  その莞爾々々《にこにこ》の顔のまま、鍬《くわ》を離した手を揉《も》んで、 「何んともハイ御《ご》しんせつに言わっせえて下せえやして、お庇様《かげさま》で、私《わし》、えれえ手柄《てがら》して礼を聞いたでござりやすよ。」 「別に迷惑にもならなかったかい。」  と悠々《ゆうゆう》としていった時、少なからず風采《ふうさい》が立上《たちあが》って見えた。勿論《もちろん》、対手《あいて》は件《くだん》の親仁だけれど。 「迷惑|処《どころ》ではござりましねえ、かさねがさね礼を言われて、私《わし》大《でっか》くありがたがられました。」 「じゃ、むだにならなかったかい、お前さんが始末をしたんだね。」 「竹ン尖《さき》で圧《おさ》えつけてハイ、山の根っこさ藪《やぶ》の中へ棄てたでごぜえます。女中たちが殺すなと言うけえ。」 「その方が心持《こころもち》が可《い》い、命を取ったんだと、そんなにせずともの事を、私《わたし》が訴人《そにん》したんだから、怨《うら》みがあれば、こっちへ取付《とッつ》くかも分らずさ。」 「はははは、旦那様の前だが、やっぱりお好きではねえでがすな。奥にいた女中は、蛇がと聞いただけでアレソレ打騒《ぶっさわ》いで戸障子《としょうじ》へ当《あた》っただよ。  私《わし》先ず庭口《にわぐち》から入って、其処《そこ》さ縁側《えんがわ》で案内《あんねえ》して、それから台所口《だいどこぐち》に行ってあっちこっち探索のした処《ところ》、何が、お前様|御勘考《ごかんこう》さ違わねえ、湯殿《ゆどの》に西の隅《すみ》に、べいらべいら舌さあ吐《は》いとるだ。  思ったより大《でっこ》うがした。  畜生め。われさ行水《ぎょうずい》するだら蛙《かえる》飛込《とびこ》む古池《ふるいけ》というへ行けさ。化粧部屋|覗《のぞ》きおって白粉《おしろい》つけてどうしるだい。白鷺《しらさぎ》にでも押惚《おっぽ》れたかと、ぐいとなやして動かさねえ。どうしべいな、長アくして思案のしていりゃ、遠くから足の尖《さき》を爪立《つまだ》って、お殺しでない、打棄《うっちゃ》っておくれ、御新姐《ごしんぞ》は病気のせいで物事《ものごと》気にしてなんねえから、と女中たちが口を揃《そろ》えていうもんだでね、芸《げえ》もねえ、殺生《せっしょう》するにゃ当らねえでがすから、藪畳《やぶだた》みへ潜《もぐ》らして退《の》けました。  御新姐《ごしんぞ》は、気分が勝《すぐ》れねえとって、二階に寝てござらしけえ。  今しがた小雨《こさめ》が降って、お天気が上ると、お前様《めえさま》、雨よりは大きい紅色《べにいろ》の露がぽったりぽったりする、あの桃の木の下の許《とこ》さ、背戸口《せどぐち》から御新姐《ごしんぞ》が、紫色の蝙蝠傘《こうもりがさ》さして出てござって、(爺《じい》やさん、今ほどはありがとう。その厭《いや》なもののいた事を、通りがかりに知らして下すったお方は、巌殿《いわど》の方へおいでなすったというが、まだお帰りになった様子はないかい。)ッて聞かしった。 (どうだかね、私《わし》、内方《うちかた》へ参ったは些《ちい》との間《ま》だし、雨に駈出《かけだ》しても来さっしゃらねえもんだで、まだ帰らっしゃらねえでごぜえましょう。  それとも身軽でハイずんずん行かっせえたもんだで、山越しに名越《なごえ》の方さ出《だ》さっしゃったかも知れましねえ、)言うたらばの。 (お見上げ申したら、よくお礼を申して下さいよ。)ッてよ。  その溝さ飛越《とびこ》して、その路《みち》を、」  垣の外のこなたと同一《おんなじ》通筋《とおりすじ》。 「ハイぶうらりぶうらり、谷戸《やと》の方へ、行かしっけえ。」  と言いかけて身体《からだ》ごと、この巌殿《いわど》から橿原《かしわばら》へ出口の方へ振向いた。身の挙動《こなし》が仰山《ぎょうさん》で、さも用ありげな素振《そぶり》だったので、散策子もおなじくそなたを。……帰途《かえるさ》の渠《かれ》にはあたかも前途《ゆくて》に当る。 「それ見えるでがさ。の、彼処《あすこ》さ土手の上にござらっしゃる。」  錦《にしき》の帯を解いた様な、媚《なま》めかしい草の上、雨のあとの薄霞《うすがすみ》、山の裾《すそ》に靉靆《たなび》く中《うち》に一張《いっちょう》の紫《むらさき》大きさ月輪《げつりん》の如く、はた菫《すみれ》の花束に似たるあり。紫羅傘《しらさん》と書いていちはちの花、字の通りだと、それ美人の持物。  散策子は一目《ひとめ》見て、早く既にその霞《かすみ》の端《はし》の、ひたひたと来て膚《はだ》に絡《まと》うのを覚えた。  彼処《かしこ》とこなたと、言い知らぬ、春の景色の繋がる中へ、蕨《わらび》のような親仁《おやじ》の手、無骨《ぶこつ》な指で指《ゆびさし》して、 「彼処《あすこ》さ、それ、傘《かさ》の陰に憩《やす》んでござる。はははは、礼を聞かっせえ、待ってるだに。」 [#7字下げ]二十六[#「二十六」は中見出し]  横に落した紫の傘には、あの紫苑《しおん》に来る、黄金色《こがねいろ》の昆虫の翼《つばさ》の如き、煌々《きらきら》した日の光が射込《いこ》んで、草に輝くばかりに見える。  その蔭《かげ》から、しなやかな裳《もすそ》が、土手の翠《みどり》を左右へ残して、線もなしに、よろけ縞《じま》のお召縮緬《めしちりめん》で、嬌態《しな》よく仕切ったが、油のようにとろりとした、雨のあとの路《みち》との間、あるかなしに、細い褄先《つまさき》が柔《やわら》かくしっとりと、内端《うちわ》に掻込《かいこ》んだ足袋《たび》で留《と》まって、其処《そこ》から襦袢《じゅばん》の友染《ゆうぜん》が、豊かに膝まで捌《さば》かれた。雪駄《せった》は一《ひと》ツ土に脱いで、片足はしなやかに、草に曲げているのである。  前を通ろうとして、我にもあらず立淀《たちよど》んだ。散策子は、下衆儕《げしゅうばら》と賭物《かけもの》して、鬼が出る宇治橋《うじばし》の夕暮を、唯《ただ》一騎《いっき》、東へ打《う》たする思《おもい》がした。  かく近づいた跫音《あしおと》は、件《くだん》の紫の傘を小楯《こだて》に、土手へかけて悠然《ゆうぜん》と朧《おぼろげ》に投げた、艶《えん》にして凄《すご》い緋《ひ》の袴《はかま》に、小波《さざなみ》寄する微《かすか》な響きさえ与えなかったにもかかわらず、こなたは一ツ胴震《どうぶる》いをして、立直《たちなお》って、我知らず肩を聳《そび》やかすと、杖《ステッキ》をぐいと振って、九字《くじ》を切りかけて、束々《つかつか》と通った。  路は、あわれ、鬼の脱いだその沓《くつ》を跨《また》がねばならぬほど狭いので、心から、一方は海の方《かた》へ、一方は橿原《かしわばら》の山里へ、一方は来《こ》し方《かた》の巌殿《いわど》になる、久能谷《くのや》のこの出口は、あたかも、ものの撞木《しゅもく》の形《なり》。前は一面の麦畠《むぎばたけ》。  正面に、青麦《あおむぎ》に対した時、散策子の面《おもて》はあたかも酔えるが如きものであった。  南無三宝《なむさんぼう》声がかかった。それ、言わぬことではない。 「…………」  一散《いっさん》に遁《に》げもならず、立停《たちど》まった渠《かれ》は、馬の尾に油を塗って置いて、鷲掴《わしづか》みの掌《たなそこ》を辷《すべ》り抜けなんだを口惜《くちおし》く思ったろう。 「私《わたし》。」  と振返って、 「ですかい、」と言いつつ一目《ひとめ》見たのは、頭《かしら》禿《かむろ》に歯《は》豁《あらわ》なるものではなく、日の光|射《さ》す紫のかげを籠《こ》めた俤《おもかげ》は、几帳《きちょう》に宿る月の影、雲の鬢《びんずら》、簪《かざし》の星、丹花《たんか》の唇、芙蓉《ふよう》の眦《まなじり》、柳の腰を草に縋《すが》って、鼓草《たんぽぽ》の花に浮べる状《さま》、虚空にかかった装《よそおい》である。  白魚《しらお》のような指が、ちょいと、紫紺《しこん》の半襟《はんえり》を引き合わせると、美しい瞳《ひとみ》が動いて、 「失礼を……」  と唯《ただ》莞爾《にっこり》する。 「はあ、」と言ったきり、腰のまわり、遁《に》げ路《みち》を見て置くのである。 「貴下《あなた》お呼び留《と》め申しまして、」  とふっくりとした胸を上げると、やや凭《もた》れかかって土手に寝るようにしていた姿を前へ。 「はあ、何《なに》、」  真正直《まっしょうじき》な顔をして、 「私ですか、」と空とぼける。 「貴下《あなた》のようなお姿だ、と聞きましてございます。先刻《せんこく》は、真《まこと》に御心配下さいまして、」  徐《やお》ら、雪のような白足袋《しろたび》で、脱ぎ棄てた雪駄《せった》を引寄《ひきよ》せた時、友染《ゆうぜん》は一層はらはらと、模様の花が俤《おもかげ》に立って、ぱッと留南奇《とめき》の薫《かおり》がする。  美女《たおやめ》は立直《たちなお》って、 「お蔭様《かげさま》で災難を、」  と襟首《えりくび》を見せてつむりを下げた。  爾時《そのとき》独武者《ひとりむしゃ》、杖《ステッキ》をわきばさみ、兜《かぶと》を脱いで、 「ええ、何んですかな、」と曖昧《あいまい》。  美女《たおやめ》は親しげに笑いかけて、 「ほほ、私《わたし》はもう災難と申します。災難ですわ、貴下《あなた》。あれが座敷へでも入りますか、知らないでいて御覧なさいまし、当分|家《うち》を明渡《あけわた》して、何処《どこ》かへ参らなければなりませんの。真個《ほんとう》にそうなりましたら、どうしましょう。お庇様《かげさま》で助《たすか》りましてございますよ。ありがとう存じます。」 「それにしても、私と極《き》めたのは、」  と思うことが思わず口へ出た。  これは些《ち》と調子はずれだったので、聞き返すように、 「ええ、」 [#7字下げ]二十七[#「二十七」は中見出し] 「先刻《さっき》の、あの青大将《あおだいしょう》の事なんでしょう。それにしても、よく私だというのが分りましたね、驚きました。」  と棄鞭《すてむち》の遁構《にげがま》えで、駒の頭《かしら》を立直《たてなお》すと、なお打笑《うちえ》み、 「そりゃ知れますわ。こんな田舎《いなか》ですもの。そして御覧の通り、人通りのない処《ところ》じゃありませんか。  貴下《あなた》のような方《かた》の出入《ではいり》は、今朝《けさ》ッからお一人しかありませんもの。丁《ちゃん》と存じておりますよ。」 「では、あの爺《じい》さんにお聞きなすって、」 「否《いいえ》、私ども石垣の前をお通りがかりの時、二階から拝《おが》みました。」 「じゃあ、私が青大将を見た時に、」 「貴下《あなた》のお姿が楯《たて》におなり下さいましたから、爾時《そのとき》も、厭《いや》なものを見ないで済みました。」  と少し打傾《うちかたむ》いて懐《なつか》しそう。 「ですが、貴女《あなた》、」とうっかりいう、 「はい?」  と促《うな》がすように言いかけられて、ハタと行詰《ゆきつま》ったらしく、杖《ステッキ》をコツコツと瞬《またたき》一《ひと》ツ、唇を引緊《ひきし》めた。  追っかけて、 「何んでございますか、聞かして頂戴《ちょうだい》。」  と婉然《えんぜん》とする。  慌《あわ》て気味に狼狽《まご》つきながら、 「貴女《あなた》は、貴女《あなた》は気分が悪くって寝ていらっしゃるんだ、というじゃありませんか。」 「あら、こんなに甲羅《こうら》を干《ほ》しておりますものを。」 「へい、」と、綱《つな》は目《め》を睜《みは》って、ああ、我ながらまずいことを言った顔色《がんしょく》。  美女《たおやめ》はその顔を差覗《さしのぞ》く風情《ふぜい》して、瞳《ひとみ》を斜めに衝《つ》と流しながら、華奢《きゃしゃ》な掌《たなそこ》を軽《かろ》く頬に当てると、紅《くれない》がひらりと搦《から》む、腕《かいな》の雪を払う音、さらさらと衣摺《きぬず》れして、 「真個《まったく》は、寝ていましたの……」 「何んですッて、」  と苦笑《にがわらい》。 「でも爾時《そのとき》は寝ていやしませんの。貴下《あなた》起きていたんですよ。あら、」  とやや調子高《ちょうしだか》に、 「何を言ってるんだか分らないわねえ。」  馴々《なれなれ》しくいうと、急に胸を反《そ》らして、すッきりとした耳許《みみもと》を見せながら、顔を反向《そむ》けて俯向《うつむ》いたが、そのまま身体《からだ》の平均を保つように、片足をうしろへ引いて、立直《たちなお》って、 「否《いいえ》、寝ていたんじゃなかったんですけども、貴下《あなた》のお姿を拝みますと、急に心持《こころもち》が悪くなって、それから寝たんです。」 「これは酷《ひど》い、酷《ひど》いよ、貴女《あなた》は。」  棄《す》て身《み》に衝《つつ》と寄り進んで、 「じゃ青大将の方が増《まし》だったんだ。だのに、わざわざ呼留《よびと》めて、災難を免《のが》れたとまで事を誇大《こだい》にして、礼なんぞおっしゃって、元来、私は余計なお世話だと思って、御婦人ばかりの御住居《おすまい》だと聞いたにつけても、いよいよ極《きまり》が悪くって、此処《ここ》だって、貴女《あなた》、こそこそ遁《に》げて通ろうとしたんじゃありませんか。それを大袈裟《おおげさ》に礼を言って、極《きまり》を悪がらせた上に、姿とは何事です。幽霊《ゆうれい》じゃあるまいし、心持《こころもち》を悪くする姿というがありますか。図体《ずうたい》とか、状《さま》とかいうものですよ。その私の図体を見て、心持が悪くなったは些《ち》と烈《はげ》しい。それがために寝たは、残酷じゃありませんか。  要《い》らんおせっかいを申上げたのが、見苦しかったらそうおっしゃい。このお関所をあやまって通して頂く――勧進帳《かんじんちょう》でも読みましょうか。それでいけなけりゃ仕方がない。元の巌殿《いわど》へ引返《ひっかえ》して、山越《やまごえ》で出奔《しゅっぽん》する分《ぶん》の事です。」  と逆寄《さかよ》せの決心で、そう言ったのをキッカケに、どかと土手の草へ腰をかけたつもりの処《ところ》、負けまい気の、魔《ま》ものの顔を見詰《みつ》めていたので、横ざまに落しつけるはずの腰が据《すわ》らず、床几《しょうぎ》を辷《すべ》って、ずるりと大地へ。 「あら、お危《あぶな》い。」  というが早いか、眩《まばゆ》いばかり目の前へ、霞《かすみ》を抜けた極彩色《ごくさいしき》。さそくに友染《ゆうぜん》の膝を乱して、繕《つくろ》いもなくはらりと折敷《おりし》き、片手が踏み抜いた下駄《げた》一ツ前壺《まえつぼ》を押して寄越《よこ》すと、扶《たす》け起すつもりであろう、片手が薄色の手巾《ハンケチ》ごと、ひらめいて芬《ぷん》と薫《かお》って、優《やさ》しく男の背《そびら》にかかった。 [#7字下げ]二十八[#「二十八」は中見出し]  南無観世音大菩薩《なむかんぜおんだいぼさつ》………助けさせたまえと、散策子は心の裏《うち》、陣備《じんぞなえ》も身構《みがまえ》もこれにて粉《こな》になる。 「お足袋《たび》が泥だらけになりました、直《じ》き其処《そこ》でござんすから、ちょいとおいすがせ申しましょう。お脱《ぬ》ぎ遊ばせな。」  と指をかけようとする爪尖《つまさき》を、慌《あわただ》しく引込《ひっこ》ませるを拍子《ひょうし》に、体《たい》を引いて、今度は大丈夫《だいじょうぶ》に、背中を土手へ寝るばかり、ばたりと腰を懸《か》ける。暖《あたたか》い草が、ちりげもとで赫《かっ》とほてって、汗びっしょり、まっかな顔をしてかつ目をきょろつかせながら、 「構わんです、構わんです、こんな足袋《たび》なんぞ。」  ヤレまた落語の前座《ぜんざ》が言いそうなことを、とヒヤリとして、漸《やっ》と瞳《ひとみ》を定《さだ》めて見ると、美女《たおやめ》は刎飛《はねと》んだ杖《ステッキ》を拾って、しなやかに両手でついて、悠々《ゆうゆう》と立っている。  羽織《はおり》なしの引《ひっ》かけ帯《おび》、ゆるやかな袷《あわせ》の着こなしが、いまの身じろぎで、片前下《かたまえさが》りに友染《ゆうぜん》の紅《くれない》匂《にお》いこぼれて、水色縮緬《みずいろちりめん》の扱帯《しごき》の端《はし》、ややずり下《さが》った風情《ふぜい》さえ、杖《ステッキ》には似合わないだけ、あたかも人質に取られた形――可哀《かわい》や、お主《しゅう》の身がわりに、恋の重荷《おもに》でへし折れよう。 「真個《ほんと》に済みませんでした。」  またぞろ先《せん》を越して、 「私《わたし》、どうしたら可《い》いでしょう。」  と思い案ずる目を半《なか》ば閉じて、屈託《くったく》らしく、盲目《めくら》が歎息《たんそく》をするように、ものあわれな装《よそおい》して、 「うっかり飛んだ事を申上げて、私、そんなつもりで言ったんじゃありませんわ。  貴下《あなた》のお姿を見て、それから心持《こころもち》が悪くなりましたって、言通《ことばどお》りの事が、もし真個《まったく》なら、どうして口へ出して言えますもんですか。貴下《あなた》のお姿を見て、それから心持が悪く……」  再び口の裏《うち》で繰返して見て、 「おほほ、まあ、大概《たいがい》お察し遊ばして下さいましなね。」  と楽にさし寄って、袖《そで》を土手へ敷いて凭《もた》れるようにして並べた。春の草は、その肩あたりを翠《みどり》に仕切って、二人の裾《すそ》は、足許《あしもと》なる麦畠に臨んだのである。 「そういうつもりで申上げたんでござんせんことは、よく分ってますじゃありませんか。」 「はい、」 「ね、貴下《あなた》、」 「はい、」  と無意味に合点《がってん》して頷《うなず》くと、まだ心が済まぬらしく、 「言《ことば》とがめをなすってさ、真個《ほんと》にお人が悪いよ。」  と異《おつ》に搦《から》む。  聊《いささ》か弁《べん》ぜざるべからず、と横に見向いて、 「人の悪いのは貴女《あなた》でしょう。私《わたし》は何も言《ことば》とがめなんぞした覚えはない。心持が悪いとおっしゃるからおっしゃる通りに伺《うかが》いました。」 「そして、腹をお立てなすったんですもの。」 「否《いや》、恐縮をしたまでです。」 「そこは貴下《あなた》、お察し遊ばして下さる処《ところ》じゃありませんか。  言《ことば》の綾《あや》もございますわ。朝顔の葉を御覧なさいまし、表はあんなに薄っぺらなもんですが、裏はふっくりしておりますもの……裏を聞いて下さいよ。」 「裏だと……お待ちなさいよ。」  ええ、といきつぎに目を瞑《ねむ》って、仰向《あおむ》いて一呼吸《ひといき》ついて、 「心持《こころもち》が悪くなった反対なんだから、私の姿を見ると、それから心持が善《よ》くなった――事になる――可《い》い加減《かげん》になさい、馬鹿になすって、」  と極《き》めつける。但《ただ》し笑いながら。  清《すず》しい目で屹《きっ》と見て、 「むずかしいのね? どう言えばこうおっしゃって、貴下《あなた》、弱いものをおいじめ遊ばすもんじゃないわ。私《わたし》は煩《わずら》っているんじゃありませんか。」  草に手をついて膝をずらし、 「お聞きなさいましよ、まあ、」  と恍惚《うっとり》したように笑《えみ》を含む口許《くちもと》は、鉄漿《かね》をつけていはしまいかと思われるほど、婀娜《あだ》めいたものであった。 「まあ、私に、恋しい懐《なつか》しい方《かた》があるとしましょうね。可《よ》うござんすか……」 [#7字下げ]二十九[#「二十九」は中見出し] 「恋しい懐《なつか》しい方《かた》があって、そしてどうしても逢《あ》えないで、夜も寐《ね》られないほどに思い詰めて、心も乱れれば気も狂いそうになっておりますものが、せめて肖《に》たお方でもと思うのに、この頃はこうやって此処《ここ》らには東京からおいでなすったらしいのも見えません処《ところ》へ、何年ぶりか、幾月越《いくつきごし》か、フトそうらしい、肖《に》た姿をお見受け申したとしましたら、貴下《あなた》、」  と手許《てもと》に丈《たけ》のびた影のある、土筆《つくし》の根を摘《つ》み試《こころ》み、 「爾時《そのとき》は……、そして何んですか、切《せつ》なくって、あとで臥《ふせ》ったと申しますのに、爾時《そのとき》は、どんな心持《こころもち》でと言って可《い》いのでございましょうね。  やっぱり、あの、厭《いや》な心持になって、というほかはないではありませんか。それを申したんでございますよ。」  一言《いちごん》もなく……しばらくして、 「じゃ、そういう方《かた》がおあんなさるんですね、」と僅《わずか》に一方《いっぽう》へ切抜《きりぬ》けようとした。 「御存じの癖《くせ》に。」  と、伏兵《ふくへい》大いに起る。 「ええ、」 「御存じの癖に。」 「今お目にかかったばかり、お名も何も存じませんのに、どうしてそんな事が分ります。」  うたゝ寐《ね》に恋しき人を見てしより、その、みを、という名も知らぬではなかったけれども、夢のいわれも聞きたさに。 「それでも、私が気疾《きやみ》をしております事を御存じのようでしたわ。先刻《さっき》、」 「それは、何、あの畑打《はたう》ちの爺《じい》さんが、蛇をつかまえに行った時に、貴女《あなた》はお二階に、と言って、ちょっと御様子を漏《も》らしただけです。それも唯《ただ》御気分が悪いとだけ。  私の形を見て、お心持が悪くなったなんぞって事は、些《ちっ》とも話しませんから、知ろう道理《どうり》はないのです。但《ただ》礼をおっしゃるかも知れんというから、其奴《そいつ》は困ったと思いましたけれども、此処《ここ》を通らないじゃ帰られませんもんですから。こうと分ったら穴へでも入るんだっけ。お目にかかるのじゃなかったんです。しかし私が知らないで、二階から御覧なすっただけは、そりゃ仕方がない。」 「まだ、あんな事をおっしゃるよ。そうお疑いなさるんなら申しましょう。貴下《あなた》、このまあ麗《うらら》かな、樹も、草も、血があれば湧《わ》くんでしょう。朱《しゅ》の色した日の光にほかほかと、土も人膚《ひとはだ》のように暖《あたたこ》うござんす。竹があっても暗くなく、花に陰もありません。燃えるようにちらちら咲いて、水へ散っても朱塗《しゅぬり》の杯《さかずき》になってゆるゆる流れましょう。海も真蒼《まっさお》な酒のようで、空は、」  と白い掌《たなそこ》を、膝に仰向《あおむ》けて打仰《うちあお》ぎ、 「緑の油のよう。とろとろと、曇《くもり》もないのに淀《よど》んでいて、夢を見ないかと勧めるようですわ。山の形も柔《やわら》かな天鵞絨《びろうど》の、ふっくりした括枕《くくりまくら》に似ています。そちこち陽炎《かげろう》や、糸遊《いとゆう》がたきしめた濃いたきもののように靡《なび》くでしょう。雲雀《ひばり》は鳴こうとしているんでしょう。鶯《うぐいす》が、遠くの方で、低い処《ところ》で、こちらにも里がある、楽しいよ、と鳴いています。何不足のない、申分《もうしぶん》のない、目を瞑《ねむ》れば直ぐにうとうとと夢を見ますような、この春の日中《ひなか》なんでございますがね、貴下《あなた》、これをどうお考えなさいますえ。」 「どうと言って、」  と言《ことば》に連れられた春のその日中《ひなか》から、瞳《ひとみ》を美女《たおやめ》の姿にかえした。 「貴下《あなた》は、どんなお心持がなさいますえ、」 「…………」 「お楽《たのし》みですか。」 「はあ、」 「お嬉《うれ》しゅうございますか。」 「はあ、」 「お賑《にぎや》かでございますか。」 「貴女《あなた》は?」 「私は心持が悪いんでございます、丁《ちょう》ど貴下《あなた》のお姿を拝みました時のように、」  と言いかけて吻《ほ》と小さなといき、人質のかの杖《ステッキ》を、斜めに両手で膝へ取った。情《なさけ》の海に棹《さおさ》す姿。思わず腕組をして熟《じっ》と見る。 [#7字下げ]三十[#「三十」は中見出し] 「この春の日の日中《ひなか》の心持を申しますのは、夢をお話しするようで、何んとも口へ出しては言えませんのね。どうでしょう、このしんとして寂《さび》しいことは。やっぱり、夢に賑《にぎや》かな処《ところ》を見るようではござんすまいか。二歳《ふたつ》か三歳《みッつ》ぐらいの時に、乳母《うば》の背中から見ました、祭礼《おまつり》の町のようにも思われます。  何為《なぜ》か、秋の暮より今、この方《ほう》が心細いんですもの。それでいて汗が出ます、汗じゃなくってこう、あの、暖かさで、心を絞《しぼ》り出されるようですわ。苦しくもなく、切《せつ》なくもなく、血を絞られるようですわ。柔《やわら》かな木の葉の尖《さき》で、骨を抜かれますようではございませんか。こんな時には、肌《はだ》が蕩《とろ》けるのだって言いますが、私は何んだか、水になって、その溶けるのが消えて行《ゆ》きそうで涙が出ます、涙だって、悲しいんじゃありません、そうかと言って嬉《うれ》しいんでもありません。  あの貴下《あなた》、叱《しか》られて出る涙と慰められて出る涙とござんすのね。この春の日に出ますのは、その慰められて泣くんです。やっぱり悲しいんでしょうかねえ。おなじ寂《さび》しさでも、秋の暮のは自然が寂しいので、春の日の寂しいのは、人が寂しいのではありませんか。  ああ遣《や》って、田圃《たんぼ》にちらほら見えます人も、秋のだと、しっかりして、てんでんが景色の寂しさに負けないように、張合《はりあい》を持っているんでしょう。見た処《ところ》でも、しょんぼりした脚《あし》にも気が入っているようですけれど、今しがたは、すっかり魂《たましい》を抜き取られて、ふわふわ浮き上って、あのまま、鳥か、蝶々《ちょうちょう》にでもなりそうですね。心細いようですね。  暖《あたたか》い、優《やさ》しい、柔《やわら》かな、すなおな風にさそわれて、鼓草《たんぽぽ》の花が、ふっと、綿《わた》になって消えるように魂《たましい》がなりそうなんですもの。極楽というものが、アノ確《たしか》に目に見えて、そして死んで行《ゆ》くと同一《おなじ》心持《こころもち》なんでしょう。  楽しいと知りつつも、情《なさけ》ない、心細い、頼りのない、悲しい事なんじゃありませんか。  そして涙が出ますのは、悲しくって泣くんでしょうか、甘えて泣くんでしょうかねえ。  私はずたずたに切られるようで、胸を掻きむしられるようで、そしてそれが痛くも痒《かゆ》くもなく、日当りへ桃の花が、はらはらとこぼれるようで、長閑《のどか》で、麗《うららか》で、美しくって、それでいて寂《さび》しくって、雲のない空が頼りのないようで、緑の野が砂原《すなはら》のようで、前生《ぜんせ》の事のようで、目の前の事のようで、心の内が言いたくッて、言われなくッて、焦《じれ》ッたくって、口惜《くやし》くッて、いらいらして、じりじりして、そのくせぼッとして、うっとり地《じ》の底へ引込《ひきこ》まれると申しますより、空へ抱《だ》き上げられる塩梅《あんばい》の、何んとも言えない心持《こころもち》がして、それで寝ましたんですが、貴下《あなた》、」  小雨《こさめ》が晴れて日の照るよう、忽《たちま》ち麗《うららか》なおももちして、 「こう申してもやっぱりお気に障《さわ》りますか。貴下《あなた》のお姿を見て、心持が悪くなったと言いましたのを、まだ許しちゃ下さいませんか、おや、貴下《あなた》どうなさいましたの。」  身動《みじろ》ぎもせず聞き澄《す》んだ散策子の茫然《ぼんやり》とした目の前へ、紅白粉《べにおしろい》の烈しい流《ながれ》が眩《まばゆ》い日の光で渦《うずま》いて、くるくると廻っていた。 「何んだか、私も変な心持になりました、ああ、」  と掌《てのひら》で目を払って、 「で、そこでお休みになって、」 「はあ、」 「夢でも御覧になりましたか。」  思わず口へ出したが、言い直した、余り唐突《だしぬけ》と心付《こころづ》いて、 「そういうお心持《こころもち》でうたた寐《ね》でもしましたら、どんな夢を見るでしょうな。」 「やっぱり、貴下《あなた》のお姿を見ますわ。」 「ええ、」 「此処《ここ》にこうやっておりますような。ほほほほ。」  と言い知らずあでやかなものである。 「いや、串戯《じょうだん》はよして、その貴女《あなた》、恋しい、慕《した》わしい、そしてどうしても、もう逢《あ》えない、とお言いなすった、その方《かた》の事を御覧なさるでしょうね。」 「その貴下《あなた》に肖《に》た、」 「否《いいえ》さ、」  ここで顔を見合わせて、二人とも挘《むし》っていた草を同時に棄てた。 「なるほど。寂《しん》としたもんですね、どうでしょう、この閑《しずか》さは……」  頂《いただき》の松の中では、頻《しきり》に目白《めじろ》が囀《さえず》るのである。 [#7字下げ]三十一[#「三十一」は中見出し] 「またこの橿原《かしわばら》というんですか、山の裾《すそ》がすくすく出張《でば》って、大きな怪物《ばけもの》の土地の神が海の方へ向って、天地に開いた口の、奥歯へ苗代田《なわしろだ》麦畠《むぎばたけ》などを、引銜《ひっくわ》えた形に見えます。谷戸《やと》の方は、こう見た処《ところ》、何んの影もなく、春の日が行渡《ゆきわた》って、些《ち》と曇《くもり》があればそれが霞《かすみ》のような、長閑《のどか》な景色でいながら、何んだか厭《いや》な心持《こころもち》の処ですね。」  美女《たおやめ》は身を震わして、何故《なぜ》か嬉《うれ》しそうに、 「ああ、貴下《あなた》もその(厭《いや》な心持)をおっしゃいましたよ。じゃ、もう私もそのお話をいたしましても差支《さしつか》えございませんのね。」 「可《よ》うございます。ははははは。」  トちょっと更《あらた》まった容子《ようす》をして、うしろ見られる趣《おもむき》で、その二階家《にかいや》の前から路《みち》が一畝《ひとうね》り、矮《ひく》い藁屋《わらや》の、屋根にも葉にも一面の、椿《つばき》の花の紅《くれない》の中へ入って、菜畠《なばたけ》へ纔《わずか》に顕《あらわ》れ、苗代田《なわしろだ》でまた絶えて、遥かに山の裾《すそ》の翠《みどり》に添うて、濁った灰汁《あく》の色をなして、ゆったりと向うへ通じて、左右から突出《つきで》た山でとまる。橿原《かしわばら》の奥深く、蒸《む》し上《あが》るように低く霞《かすみ》の立つあたり、背中合せが停車場《ステイション》で、その腹へ笛太鼓《ふえたいこ》の、異様に響く音《ね》を籠《こ》めた。其処《そこ》へ、遥かに瞳《ひとみ》を通《かよ》わせ、しばらく茫然《ぼうぜん》とした風情《ふぜい》であった。 「そうですねえ、はじめは、まあ、心持《こころもち》、あの辺からだろうと思うんですわ、声が聞えて来ましたのは、」 「何んの声です?」 「はあ、私が臥《ふせ》りまして、枕に髪をこすりつけて、悶《もだ》えて、あせって、焦《じ》れて、つくづく口惜《くやし》くって、情《なさけ》なくって、身がしびれるような、骨が溶けるような、心持でいた時でした。先刻《さっき》の、あの雨の音、さあっと他愛《たわい》なく軒《のき》へかかって通りましたのが、丁《ちょう》ど彼処《あすこ》あたりから降り出して来たように、寝ていて思われたのでございます。  あの停車場《ステイション》の囃子《はやし》の音に、何時《いつ》か気を取られていて、それだからでしょう。今でも停車場《ステイション》の人ごみの上へだけは、細《こまか》い雨がかかっているように思われますもの。まだ何処《どこ》にか雨気《あまけ》が残っておりますなら、向うの霞《かすみ》の中でしょうと思いますよ。  と、その細い、幽《かすか》な、空を通るかと思う雨の中に、図太い、底力《そこぢから》のある、そして、さびのついた塩辛声《しおからごえ》を、腹の底から押出《おしだ》して、 (ええ、ええ、ええ、伺《うかが》います。お話はお馴染《なじみ》の東京|世渡草《よわたりぐさ》、商人《あきんど》の仮声《こわいろ》物真似《ものまね》。先ず神田辺《かんだへん》の事でござりまして、ええ、大家《たいけ》の店前《みせさき》にござります。夜《よ》のしらしら明けに、小僧さんが門口《かどぐち》を掃《は》いておりますると、納豆《なっとう》、納豆――)  と申して、情《なさけ》ない調子になって、 (ええ、お御酒《みき》を頂きまして声が続きません、助けて遣《や》っておくんなさい。)  と厭《いや》な声が、流れ星のように、尾を曳《ひ》いて響くんでございますの。  私は何んですか、悚然《ぞっ》として寝床に足を縮めました。しばらくして、またその(ええ、ええ、)という変な声が聞えるんです。今度は些《ちっ》と近くなって。  それから段々あの橿原《かしわばら》の家《うち》を向い合いに、飛び飛びに、千鳥《ちどり》にかけて一軒一軒、何処《どこ》でもおなじことを同一《おなじ》ところまで言って、お銭《あし》をねだりますんでございますがね、暖《あたたか》い、ねんばりした雨も、その門附《かどづ》けの足と一緒に、向うへ寄ったり、こっちへよったり、ゆるゆる歩行《ある》いて来ますようです。  その納豆納豆――というのだの、東京というのですの、店前《みせさき》だの、小僧が門口《かどぐち》を掃いている処《ところ》だと申しますのが、何んだか懐《なつか》しい、両親の事や、生れました処なんぞ、昔が思い出されまして、身体《からだ》を煮られるような心持がして我慢が出来ないで、掻巻《かいまき》の襟《えり》へ喰《く》いついて、しっかり胸を抱《だ》いて、そして恍惚《うっとり》となっておりますと、やがて、些《ち》と強く雨が来て当ります時、内《うち》の門《かど》へ参ったのでございます。 (ええ、ええ、ええ、)  と言い出すじゃございませんか。 (お話はお馴染《なじみ》の東京|世渡草《よわたりぐさ》、商人《あきんど》の仮声《こわいろ》物真似《ものまね》。先ず神田辺《かんだへん》の事でござりまして、ええ、大家《たいけ》の店さきでござります。夜《よ》のしらしらあけに、小僧さんが門口《かどぐち》を掃いておりますと、納豆納豆――)  とだけ申して、 (ええ、お御酒《みき》を頂きまして声が続きません、助けて遣《や》っておくんなさい。)  と一|分《ぶ》一|厘《りん》おなじことを、おなじ調子でいうんですもの。私の門《かど》へ来ましたまでに、遠くから丁《ちょう》ど十三|度《たび》聞いたのでございます。」 [#7字下げ]三十二[#「三十二」は中見出し] 「女中が直ぐに出なかったんです。 (ねえ、助けておくんなさいな、お御酒《みき》を頂いたもんだからね、声が続かねえんで、えへ、えへ、)  厭《いや》な咳《せき》なんぞして、 (遣《や》っておくんなさいよ、飲み過ぎて切《せつ》ねえんで、助けておくんなさい、お願《ねげ》えだ。)  と言って独言《ひとりごと》のように、貴下《あなた》、 (遣《や》り切《きれ》ねえや、)ッて、いけ太々《ふとぶと》しい容子《ようす》ったらないんですもの。其処《そこ》らへ、べッべッ唾《つば》をしっかけていそうですわ。  小銭《こぜに》の音をちゃらちゃらとさして、女中が出そうにしましたから、 (光《みつ》かい、光や、)  と呼んで、二階の上《あが》り口へ来ましたのを、押留《おしと》めるように、床《とこ》の中から、 (何んだね、)  と自分でも些《ち》と尖々《とげとげ》しく言ったんです。 (門附《かどづけ》でございます。) (芸人《げいにん》かい!) (はい、)  ッて吃驚《びっくり》していました。 (不可《いけな》いよ、遣《や》っちゃ不可《いけ》ない。  芸人なら芸人らしく芸をして銭《おあし》をお取り、とそうお言い。出来ないなら出来ないと言って乞食《こじき》をおし。なぜまた自分の芸が出来ないほど酒を呑んだ、と言ってお遣《や》り。いけ洒亜々々《しゃあしゃあ》失礼じゃないか。)  とむらむらとして、どうしたんですか、じりじり胸が煮え返るようで極《き》めつけますと、窃《そっ》と跫音《あしおと》を忍んで、光《みつ》やは、二階を下りましたっけ。  お恥《はずか》しゅうございますわ。  甲高《かんだか》かったそうで、よく下まで聞えたと見えます。表二階《おもてにかい》にいたんですから。 (何んだって、)  と門口《かどぐち》で喰《く》ってかかるような声がしました。  枕をおさえて起上《おきあが》りますと、女中の声で、御病気なんだからと、こそこそいうのが聞えました。  嘲《あざけ》るように、 (病人なら病人らしく死んじまえ。治《なお》るもんなら治ったら可《よ》かろう。何んだって愚図《ぐず》ついて、煩《わずら》っているんだ。)  と赭顔《あからがお》なのが白い歯を剥《む》き出していうようです。はあ、そんな心持がしましたの。 (おお、死んで見せようか、死ぬのが何も、)とつっと立つと、ふらふらして床《とこ》を放《はな》れて倒れました。段へ、裾《すそ》を投げ出して、欄干《らんかん》につかまった時、雨がさっと暗くなって、私はひとりで泣いたんです。それッきり、声も聞えなくなって、門附《かどづけ》は何処《どこ》へ参りましたか。雨も上って、また明《あかる》い日が当りました。何んですかねえ、十文字に小児《こども》を引背負《ひっしょ》って跣足《はだし》で歩行《ある》いている、四十|恰好《かっこう》の、巌乗《がんじょう》な、絵に描《か》いた、赤鬼《あかおに》と言った形のもののように、今こうやってお話をします内《うち》も考えられます。女中に聞いたのでもございませんのに――  またもう寝床へ倒れッきりになりましょうかとも存じましたけれども、そうしたら気でも違いそうですから、ぶらぶら日向《ひなた》へ出て来たんでございます。  否《いいえ》、はじめてお目にかかりました貴下《あなた》に、こんなお話を申上げまして、もう気が違っておりますのかも分りませんが、」  と言いかけて、心を籠《こ》めて見詰めたらしい、目の色は美しかった。 「貴下《あなた》、真個《ほんとう》に未来というものはありますものでございましょうか知ら。」 「…………」 「もしあるものと極《きま》りますなら、地獄でも極楽でも構いません。逢いたい人が其処《そこ》にいるんなら。さっさと其処へ行《ゆ》けば宜《よろ》しいんですけれども、」  と土筆《つくし》のたけの指《ゆび》白《しろ》う、またうつつなげに草を摘《つ》み、摘み、 「きっとそうと極《きま》りませんから、もしか、死んでそれっきりになっては情《なさけ》ないんですもの。そのくらいなら、生きていて思い悩んで、煩《わず》らって、段々消えて行《ゆ》きます方が、いくらか増《まし》だと思います。忘れないで、何時《いつ》までも、何時までも、」  と言い言い抜き取った草の葉をキリキリと白歯《しろは》で噛《か》んだ。  トタンに慌《あわただ》しく、男の膝越《ひざごし》に衝《つ》とのばした袖《そで》の色も、帯の影も、緑の中に濃くなって、活々《いきいき》として蓮葉《はすは》なものいい。 「いけないわ、人の悪い。」  散策子は答えに窮《きゅう》して、実は草の上に位置も構わず投出《なげだ》された、オリイブ色の上表紙《うわびょうし》に、とき色のリボンで封のある、ノオトブックを、つまさぐっていたのを見たので。 [#7字下げ]三十三[#「三十三」は中見出し] 「こっちへ下さいよ、厭《いや》ですよ。」  と端《はし》へかけた手を手帳に控えて、麦畠《むぎばたけ》へ真正面《まっしょうめん》。話をわきへずらそうと、青天白日《せいてんはくじつ》に身構えつつ、 「歌がお出来なさいましたか。」 「ほほほほ、」  と唯《ただ》笑う。 「絵をお描《か》きになるんですか。」 「ほほほほ。」 「結構ですな、お楽しみですね、些《ち》と拝見いたしたいもんです。」  手を放《はな》したが、附着《くッつ》いた肩も退《の》けないで、 「お見せ申しましょうかね。」  あどけない状《さま》で笑いながら、持直《もちなお》してぱらぱらと男の帯のあたりへ開く。手帳の枚頁《ページ》は、この人の手にあたかも蝶の翼《つばさ》を重ねたようであったが、鉛筆で描《か》いたのは……  一目《ひとめ》見て散策子は蒼《あお》くなった。  大小|濃薄《のうはく》乱雑に、半《なか》ばかきさしたのもあり、歪《ゆが》んだのもあり、震えたのもあり、やめたのもあるが、○《まる》と□《しかく》△《さんかく》ばかり。 「ね、上手《じょうず》でしょう。此処等《ここいら》の人たちは、貴下《あなた》、玉脇《たまわき》では、絵を描《か》くと申しますとさ。この土手へ出ちゃ、何時《いつ》までもこうしていますのに、唯《ただ》いては、谷戸口《やとぐち》の番人のようでおかしゅうござんすから、いつかッからはじめたんですわ。  大層評判が宜《よろ》しゅうございますから……何《なん》ですよ、この頃に絵具《えのぐ》を持出《もちだ》して、草の上で風流の店びらきをしようと思います、大した写生じゃありませんか。  この円《まる》いのが海、この三角が山、この四角《しかく》いのが田圃《たんぼ》だと思えばそれでもようござんす。それから○《まる》い顔にして、□《しかく》い胴にして△《さんかく》に坐っている、今戸焼《いまどやき》の姉様《あねさん》だと思えばそれでも可《よ》うございます、袴《はかま》を穿《は》いた殿様だと思えばそれでも可《よ》いでしょう。  それから……水中に物あり、筆者に問えば知らずと答うと、高慢な顔色《かおつき》をしても可《い》いんですし、名を知らない死んだ人の戒名《かいみょう》だと思って拝《おが》んでも可《い》いんですよ。」  ようよう声が出て、 「戒名《かいみょう》、」  と口が利ける。 「何《なに》、何んというんです。」 「四角院円々三角居士《しかくいんまるまるさんかくこじ》と、」  いいながら土手に胸をつけて、袖《そで》を草に、太脛《ふくらはぎ》のあたりまで、友染《ゆうぜん》を敷乱《しきみだ》して、すらりと片足|片褄《かたづま》を泳がせながら、こう内《うち》へ掻込《かきこ》むようにして、鉛筆ですらすらとその三体《さんたい》の秘密を記《しる》した。  テンテンカラ、テンカラと、耳許《みみもと》に太鼓《たいこ》の音。二人の外《ほか》に人のない世ではない。アノ椿《つばき》の、燃え落ちるように、向うの茅屋《かやや》へ、続いてぼたぼたと溢《あふ》れたと思うと、菜種《なたね》の路《みち》を葉がくれに、真黄色《まっきいろ》な花の上へ、ひらりと彩《いろど》って出たものがある。  茅屋《かやや》の軒へ、鶏《にわとり》が二羽|舞上《まいあが》ったのかと思った。  二個《ふたつ》の頭《かしら》、獅子頭《ししがしら》、高いのと低いのと、後《あと》になり先になり、縺《もつ》れる、狂う、花すれ、葉ずれ、菜種に、と見るとやがて、足許《あしもと》からそなたへ続く青麦の畠《はたけ》の端、玉脇の門の前へ、出て来た連獅子《れんじし》。  汚れた萌黄《もえぎ》の裁着《たッつけ》に、泥草鞋《どろわらじ》の乾いた埃《ほこり》も、霞《かすみ》が麦にかかるよう、志《こころざ》して何処《どこ》へ行《ゆ》く。早《はや》その太鼓を打留《うちや》めて、急足《いそぎあし》に近づいた。いずれも子獅子の角兵衛《かくべえ》大小《だいしょう》。小さい方は八ツばかり、上は十三―四と見えたが、すぐに久能谷《くのや》の出口を突切《つッき》り、紅白の牡丹《ぼたん》の花、はっと俤《おもかげ》に立つばかり、ひらりと前を行《ゆ》き過ぎる。 「お待ちちょいと、」  と声をかけた美女《たおやめ》は起直《おきなお》った。今の姿をそのままに、雪駄《せった》は獅子の蝶に飛ばして、土手の草に横坐《よこずわ》りになる。  ト獅子は紅《くれない》の切《きれ》を捌《さば》いて、二つとも、立って頭《かしら》を向けた。 「ああ、あの、児《こ》たち、お待ちなね。」  テンテンテン、(大きい方が)トンと当てると、太鼓の面《おも》に撥《ばち》が飛んで、ぶるぶると細《こまか》に躍《おど》る。 「アリャ」  小獅子は路《みち》へ橋に反《そ》った、のけ様《ざま》の頤《あぎと》ふっくりと、二《ふた》かわ目《め》に紅《こう》を潮《ちょう》して、口許《くちもと》の可愛《かわい》らしい、色の白い児《こ》であった。 [#7字下げ]三十四[#「三十四」は中見出し] 「おほほほ、大層勉強するわねえ、まあ、お待ちよ。あれさ、そんなに苦しい思いをして引《ひっ》くりかえらなくっても可《い》いんだよ、可いんだよ。」  と圧《おさ》えつけるようにいうと、ぴょいと立直《たちなお》って頭《かしら》の堆《うずたか》く大きく突出《つきで》た、紅《くれない》の花の廂《ひさし》の下に、くるッとした目を睜《みは》って立った。  ブルブルッと、跡《あと》を引いて太鼓が止《や》む。  美女《たおやめ》は膝をずらしながら、帯に手をかけて、揺《ゆ》り上げたが、 「お待ちよ、今お銭《あし》を上《あげ》るからね、」  手帳の紙へはしり書《がき》して、一枚|手許《てもと》へ引切《ひきき》った、そのまま獅子をさし招いて、 「おいでおいで、ああ、お前ね、これを持って、その角《かど》の二階家へ行って取っておいで。」  留守へ言いつけた為替《かわせ》と見える。  後馳《おくれば》せに散策子は袂《たもと》へ手を突込《つきこ》んで、 「細《こまか》いのならありますよ。」 「否《いいえ》、可《よ》うござんすよ、さあ、兄《あに》や、行って来な。」  撥《ばち》を片手で引《ひッ》つかむと、恐る恐る差出《さしだ》した手を素疾《すばや》く引込《ひっこ》め、とさかをはらりと振って行《ゆ》く。 「さあ、お前こっちへおいで、」  小さな方を膝許《ひざもと》へ。  きょとんとして、ものも言わず、棒を呑んだ人形のような顔を、凝《じっ》と見て、 「幾歳《いくつ》なの、」 「八歳《やッつ》でごぜえス。」 「母《おっか》さんはないの、」 「角兵衛に、そんなものがあるもんか。」 「お前は知らないでもね、母様《おっかさん》の方は知ってるかも知れないよ、」  と衝《つ》と手を袴越《はかまごし》に白くかける、とぐいと引寄《ひきよ》せて、横抱きに抱くと、獅子頭《ししがしら》はばくりと仰向《あおむ》けに地を払って、草鞋《わらんじ》は高く反《そ》った。鶏《とり》の羽《はね》の飾《かざり》には、椰子《やし》の葉を吹く風が渡る。 「貴下《あなた》、」  と落着《おちつ》いて見返って、 「私の児《こ》かも知れないんですよ。」  トタンに、つるりと腕《かいな》を辷《すべ》って、獅子は、倒《さかさ》にトンと返って、ぶるぶると身体《からだ》をふったが、けろりとして突立《つッた》った。 「えへへへへへ、」  此処《ここ》へ勢《いきおい》よく兄獅子が引返《ひきかえ》して、 「頂いたい、頂いたい。」  二つばかり天窓《あたま》を掉《ふ》ったが、小さい方の背中を突いて、テンとまた撥《ばち》を当てる。 「可《い》いよ、そんなことをしなくっても、」  と裳《もすそ》をずりおろすようにして止《と》めた顔と、まだ掴《つか》んだままの大《おおき》な銀貨とを互《たがい》に見較《みくら》べ、二個《ふたり》ともとぼんとする。時に朱盆《しゅぼん》の口を開いて、眼《まなこ》を輝《かがやか》すものは何。 「そのかわり、ことづけたいものがあるんだよ、待っておくれ。」  とその○□△を楽書《らくがき》の余白へ、鉛筆を真直《まっすぐ》に取ってすらすらと春の水の靡《なび》くさまに走らした仮名《かな》は、かくれもなく、散策子に読得《よみえ》られた。 [#4字下げ]君とまたみるめおひせば四方《よも》の海《うみ》の [#10字下げ]水の底をもかつき見てまし  散策子は思わず海の方《かた》を屹《きっ》と見た。波は平《たいら》かである。青麦につづく紺青《こんじょう》の、水平線上|雪《ゆき》一山《いっさん》。  富士の影が渚《なぎさ》を打って、ひたひたと薄く被《かぶ》さる、藍色《あいいろ》の西洋館の棟《むね》高《たか》く、二、三羽|鳩《はと》が羽《はね》をのして、ゆるく手巾《ハンケチ》を掉《ふ》り動かす状《さま》であった。  小さく畳《たた》んで、幼《おさな》い方の手にその(ことづけ)を渡すと、ふッくりした頤《おとがい》で、合点々々《がてんがてん》をすると見えたが、いきなり二階家の方へ行《ゆ》こうとした。  使《つかい》を頼まれたと思ったらしい。 「おい、そっちへ行《ゆ》くんじゃない。」  と立入《たちい》ったが声を懸けた。  美女《たおやめ》は莞爾《にっこり》して、 「唯《ただ》持って行ってくれれば可《い》いの、何処《どこ》へッて当《あて》はないの。落したら其処《そこ》でよし、失くしたらそれッきりで可《いい》んだから……唯《ただ》心持《こころもち》だけなんだから……」 「じゃ、唯《ただ》持って行きゃ可《い》いのかね、奥さん、」  と聞いて頷《うなず》くのを見て、年紀上《としうえ》だけに心得顔《こころえがお》で、危《あぶな》っかしそうに仰向《あおむ》いて吃驚《びっくり》した風《ふう》でいる幼い方の、獅子頭《ししがしら》を背後《うしろ》へ引いて、 「こん中へ入れとくだア、奴《やっこ》、大事にして持ッとんねえよ。」  獅子が並んでお辞儀《じぎ》をすると、すたすたと駈け出した。後白浪《あとしらなみ》に海の方《かた》、紅《くれない》の母衣《ほろ》翩翻《へんぽん》として、青麦の根に霞《かす》み行《ゆ》く。 [#7字下げ]三十五[#「三十五」は中見出し]  さて半時ばかりの後、散策子の姿は、一人、彼処《かしこ》から鳩の舞うのを見た、浜辺の藍色《あいいろ》の西洋館の傍《かたわら》なる、砂山の上に顕《あらわ》れた。  其処《そこ》へ来ると、浪打際《なみうちぎわ》までも行《ゆ》かないで、太《いた》く草臥《くたび》れた状《さま》で、ぐッたりと先ず足を投げて腰を卸《おろ》す。どれ、貴女《あなた》のために(ことづけ)の行方《ゆくえ》を見届けましょう。連獅子《れんじし》のあとを追って、というのをしおに、まだ我儘《わがまま》が言い足りず、話相手の欲しかったらしい美女《びじょ》に辞して、袂《たもと》を分ったが、獅子の飛ぶのに足の続くわけはない。  一先《ひとま》ず帰宅して寝転ぼうと思ったのであるが、久能谷《くのや》を離れて街道を見ると、人の瀬を造って、停車場《ステイション》へ押懸《おしか》ける夥《おびただ》しさ。中にはもう此処等《ここいら》から仮声《こわいろ》をつかって行《ゆ》く壮佼《わかもの》がある、浅黄《あさぎ》の襦袢《じゅばん》を膚脱《はだぬい》で行《ゆ》く女房がある、その演劇《しばい》の恐しさ。大江山《おおえやま》の段か何か知らず、とても町へは寄附《よりつ》かれたものではない。  で、路と一緒に、人通《ひとどおり》の横を切って、田圃《たんぼ》を抜けて来たのである。  正面にくぎり正しい、雪白《せっぱく》な霞《かすみ》を召した山の女王《にょおう》のましますばかり。見渡す限り海の色。浜に引上げた船や、畚《びく》や、馬秣《まぐさ》のように散《ちら》ばったかじめの如き、いずれも海に対して、我《われ》は顔《がお》をするのではないから、固《もと》より馴れた目を遮《さえぎ》りはせぬ。  かつ人《ひと》一人《ひとり》いなければ、真昼の様な月夜とも想われよう。長閑《のどか》さはしかし野にも山にも増《まさ》って、あらゆる白砂《はくさ》の俤《おもかげ》は、暖《あたたか》い霧に似ている。  鳩は蒼空《あおぞら》を舞うのである。ゆったりした浪《なみ》にも誘《さそ》われず、風にも乗らず、同一処《おなじところ》を――その友は館《やかた》の中に、ことことと塒《ねぐら》を踏んで、くくと啼《な》く。  人はこういう処《ところ》に、こうしていても、胸の雲霧《くもきり》の霽《は》れぬ事は、寐《ね》られぬ衾《ふすま》と相違《そうい》はない。  徒《いたず》らに砂を握れば、くぼみもせず、高くもならず、他愛《たわい》なくほろほろと崩れると、また傍《かたわら》からもり添える。水を掴《つか》むようなもので、捜《さぐ》ればはらはらとただ貝が出る。  渚《なぎさ》には敷満《しきみ》ちたが、何んにも見えない処でも、纔《わずか》に砂を分ければ貝がある。まだこの他に、何が住んでいようも知れぬ。手の届く近い処がそうである。  水の底を捜したら、渠《かれ》がためにこがれ死《じに》をしたと言う、久能谷《くのや》の庵室《あんじつ》の客も、其処《そこ》に健在であろうも知れぬ。  否《いな》、健在ならばという心で、君とそのみるめおひせば四方《よも》の海の、水の底へも潜《くぐ》ろうと、(ことづけ)をしたのであろう。  この歌は、平安朝に艶名《えんめい》一世《いっせ》を圧《あっ》した、田《た》かりける童《わらべ》に襖《あお》をかりて、あをかりしより思ひそめてき、とあこがれた情《なさけ》に感じて、奥へと言ひて呼び入れけるとなむ……名媛《めいえん》の作と思う。  言うまでもないが、手帳にこれをしるした人は、御堂《みどう》の柱に、うたた寐《ね》の歌を楽書《らくがき》したとおなじ玉脇の妻、みを子である。  深く考うるまでもなく、庵《いおり》の客と玉脇の妻との間には、不可思議の感応で、夢の契《ちぎり》があったらしい。  男は真先《まっさき》に世間外《せけんがい》に、はた世間のあるのを知って、空想をして実現せしめんがために、身を以《も》って直《ただ》ちに幽冥《ゆうめい》に趣《おもむ》いたもののようであるが、婦人《おんな》はまだ半信半疑でいるのは、それとなく胸中の鬱悶《うつもん》を漏《も》らした、未来があるものと定《さだま》り、霊魂の行末《ゆくすえ》が極《きま》ったら、直ぐにあとを追おうと言った、言《ことば》の端《はし》にも顕《あらわ》れていた。  唯《ただ》その有耶無耶《うやむや》であるために、男のあとを追いもならず、生長《いきなが》らえる効《かい》もないので。  そぞろに門附《かどづけ》を怪しんで、冥土《めいど》の使《つかい》のように感じた如きは幾分か心が乱れている。意気張《いきばり》ずくで死んで見せように到っては、益々《ますます》悩乱《のうらん》のほどが思い遣《や》られる。  また一面から見れば、門附《かどづけ》が談話《はなし》の中に、神田辺《かんだへん》の店で、江戸紫《えどむらさき》の夜あけがた、小僧が門《かど》を掃《は》いている、納豆《なっとう》の声がした……のは、その人が生涯の東雲頃《しののめごろ》であったかも知れぬ。――やがて暴風雨《あらし》となったが――  とにかく、(ことづけ)はどうなろう。玉脇の妻は、以《もっ》て未来の有無を占《うらな》おうとしたらしかったに――頭陀袋《ずだぶくろ》にも納めず、帯にもつけず、袂《たもと》にも入れず、角兵衛がその獅子頭《ししがしら》の中に、封じて去ったのも気懸《きがか》りになる。為替《かわせ》してきらめくものを掴《つか》ませて、のッつ反《そ》ッつの苦患《くげん》を見せない、上花主《じょうとくい》のために、商売|冥利《みょうり》、随一《ずいいち》大切な処《ところ》へ、偶然|受取《うけと》って行ったのであろうけれども。  あれがもし、鳥にでも攫《さら》われたら、思う人は虚空《こくう》にあり、と信じて、夫人は羽化《うか》して飛ぶであろうか。いやいや羊が食うまでも、角兵衛は再び引返《ひきかえ》してその音信《おとずれ》は伝えまい。  従って砂を崩せば、従って手にたまった、色々の貝殻にフト目を留《と》めて、 [#4字下げ]君とまたみる目《め》おひせば四方《よも》の海《うみ》の…… と我にもあらず口ずさんだ。  更に答えぬ。  もしまたうつせ貝《がい》が、大いなる水の心を語り得るなら、渚に敷いた、いささ貝《がい》の花吹雪は、いつも私語《ささやき》を絶えせぬだろうに。されば幼児《おさなご》が拾っても、われらが砂から掘り出しても、このものいわぬは同一《おなじ》である。  小貝《こがい》をそこで捨てた。  そうして横ざまに砂に倒れた。腰の下はすぐになだれたけれども、辷《すべ》り落ちても埋《うも》れはせぬ。  しばらくして、その半眼《はんがん》に閉じた目は、斜めに鳴鶴《なきつる》ヶ|岬《さき》まで線を引いて、その半ばと思う点へ、ひらひらと燃え立つような、不知火《しらぬい》にはっきり覚めた。  とそれは獅子頭《ししがしら》の緋《ひ》の母衣《ほろ》であった。  二人とも出て来た。浜は鳴鶴ヶ岬から、小坪《こつぼ》の崕《がけ》まで、人影一ツ見えぬ処《ところ》へ。  停車場《ステイション》に演劇《しばい》がある、町も村も引っぷるって誰《たれ》が角兵衛に取合《とりあ》おう。あわれ人の中のぼうふらのような忙《せわ》しい稼業の児《こ》たち、今日はおのずから閑《かん》なのである。  二人は此処《ここ》でも後《あと》になり先になり、脚絆《きゃはん》の足を入れ違いに、頭《かしら》を組んで白波《しらなみ》を被《かつ》ぐばかり浪打際《なみうちぎわ》を歩行《ある》いたが、やがてその大きい方は、五、六尺|渚《なぎさ》を放《はな》れて、日影の如く散乱《ちりみだ》れた、かじめの中へ、草鞋《わらじ》を突出《つきだ》して休んだ。  小獅子は一層|活溌《かっぱつ》に、衝《つ》と浪を追う、颯《さっ》と追われる。その光景、ひとえに人の児《こ》の戯《たわむ》れるようには見えず、かつて孤児院の児が此処《ここ》に来て、一種の監督の下に、遊んだのを見たが、それとひとつで、浮世の浪に揉《も》み立てられるかといじらしい。但《ただ》その頭《かしら》の獅子が怒り狂って、たけり戦う勢《いきおい》である。  勝《かつ》では可《よ》い!  ト草鞋《わらじ》を脱いで、跣足《はだし》になって横歩行《よこあるき》をしはじめた。あしを濡らして遊んでいる。  大きい方は仰向《あおむ》けに母衣《ほろ》を敷いて、膝を小さな山形に寝た。  磯《いそ》を横ッ飛《とび》の時は、その草鞋《わらじ》を脱いだばかりであったが、やがて脚絆《きゃはん》を取って、膝まで入って、静かに立っていたと思うと、引返《ひきかえ》して袴《はかま》を脱いで、今度は衣類《きもの》をまくって腰までつかって、二、三度|密《そっ》と潮《しお》をはねたが、またちょこちょこと取って返して、頭《かしら》を刎退《はねの》け、衣類《きもの》を脱いで、丸裸になって一文字に飛込《とびこ》んだ。陽気はそれでも可《よ》かったが、泳ぎは知らぬ児《こ》と見える。唯《ただ》勢《いきおい》よく、水を逆に刎《は》ね返した。手でなぐって、足で踏むを、海水は稲妻《いなずま》のように幼児《おさなご》を包んでその左右へ飛んだ。――雫《しずく》ばかりの音もせず――獅子はひとえに嬰児《みどりご》になった、白光《びゃくこう》は頭《かしら》を撫《な》で、緑波《りょくは》は胸を抱《いだ》いた。何らの寵児《ちょうじ》ぞ、天地《あめつち》の大きな盥《たらい》で産湯《うぶゆ》を浴びるよ。  散策子はむくと起きて、ひそかにその幸福を祝するのであった。  あとで聞くと、小児心《こどもごころ》にもあまりの嬉《うれ》しさに、この一幅《いっぷく》の春の海に対して、報恩《ほうおん》の志《こころざし》であったという。一旦《いったん》出て、浜へ上って、寝た獅子の肩の処《ところ》へしゃがんでいたが、対手《あいて》が起返《おきかえ》ると、濡れた身体《からだ》に、頭《かしら》だけ取って獅子を被《かつ》いだ。  それから更に水に入った。些《ち》と出過《ですぎ》たと思うほど、分けられた波の脚《あし》は、二線《ふたすじ》長く広く尾を引いて、小獅子の姿は伊豆《いず》の岬に、ちょと小さな点になった。  浜にいるのが胡坐《あぐら》かいたと思うと、テン、テン、テンテンツツテンテンテン波に丁《ちょう》と打込《うちこ》む太鼓、油のような海面《うなづら》へ、綾《あや》を流して、響くと同時に、水の中に立ったのが、一曲、頭《かしら》を倒《さかさま》に。  これに眩《めくる》めいたものであろう、啊呀《あな》忌《いま》わし、よみじの(ことづけ)を籠《こ》めたる獅子を、と見る内に、幼児《おさなご》は見えなくなった。  まだ浮ばぬ。  太鼓が止《や》んで、浜なるは棒立ちになった。  砂山を慌《あわただ》しく一文字に駈けて、こなたが近《ちかづ》いた時、どうしたのか、脱ぎ捨てた袴《はかま》、着物、脚絆《きゃはん》、海草の乾《から》びた状《さま》の、あらゆる記念《かたみ》と一緒に、太鼓も泥草鞋《どろわらじ》も一《ひと》まとめに引《ひっ》かかえて、大きな渠《かれ》は、砂煙《すなけむり》を上げて町の方《かた》へ一散《いっさん》に遁《に》げたのである。  浪《なみ》はのたりと打つ。  ハヤ二、三人駈けて来たが、いずれも高声《たかごえ》の大笑い、 「馬鹿な奴だ。」 「馬鹿野郎。」  ポクポクと来た巡査に、散策子が、縋《すが》りつくようにして、一言《ひとこと》いうと、 「角兵衛が、ははは、そうじゃそうで。」  死骸《しがい》はその日|終日《ひねもす》見当らなかったが、翌日しらしらあけの引潮《ひきしお》に、去年の夏、庵室《あんじつ》の客が溺れたとおなじ鳴鶴《なきつる》ヶ|岬《さき》の岩に上《あが》った時は二人であった。顔が玉《たま》のような乳房《ちぶさ》にくッついて、緋母衣《ひほろ》がびっしょり、その雪の腕《かいな》にからんで、一人は美《び》にして艶《えん》であった。玉脇の妻は霊魂《れいこん》の行方《ゆくえ》が分ったのであろう。  さらば、といって、土手の下で、分れ際《ぎわ》に、やや遠ざかって、見返った時――その紫の深張《ふかばり》を帯のあたりで横にして、少し打傾《うちかたむ》いて、黒髪《くろかみ》の頭《かしら》おもげに見送っていた姿を忘れぬ。どんなに潮《うしお》に乱れたろう。渚《なぎさ》の砂は、崩しても、積る、くぼめば、たまる、音もせぬ。ただ美しい骨が出る。貝の色は、日の紅《くれない》、渚の雪、浪《なみ》の緑。 底本:「春昼・春昼後刻」岩波文庫    1987(昭和62)年4月16日第1刷発行    1999(平成11)年7月5日第19刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第十卷」岩波書店    1940(昭和15)年5月 初出:「新小説」    1906(明治39)年12月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※章番号は「春昼」から連続しています。 入力:小林繁雄 校正:平野彩子、土屋隆 2006年7月18日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。