双面獣 牧逸馬 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)国道《ハイウエイ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)二|町《ブロックス》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)踠 ------------------------------------------------------- [#5字下げ]1[#「1」は中見出し]  レスリイ・シュナイダア夫人は、七歳になる娘ドロシイの登校を見送って、ブレント・クリイクと呼ばれる郊外に近いロレイン街の自宅から、二|町《ブロックス》ほど離れたディクシイ国道《ハイウエイ》の曲り角までドロシイの手を引いて歩いて行った。一九二八年一月十二日木曜日の朝のことで、雪を孕んだ空っ風が米国ミシガン州マウント・モウリスの町を吹き捲り、地面には薄氷が張っていた。そこらは、緩い勾配をもって起伏する野面の所どころに、伐り残された雑木林が散らばり、土地会社の分譲地の札が立っていたり、あちこち粗らに人家が集団《かた》まっていたりする、代表的な、寒ざむしい新開地だった。白い淋しいディクシイ国道が、遠く真っ直ぐに野の末へ走っている。毎朝その角まで送って来て、ドロシイと別れるのだが、小さな女の児が、其処から町の学校まで独りで歩いて行かなければならないと思うと、母親のシュナイダア夫人は、何時も可憐《いじ》らしくてならなかった。殊にこの朝は、荒涼たる天候の故か、夫人は妙に感傷的な気持ちになっていて、国道まで出ても、娘の手を放したくなかった。固く握り合った儘、母娘《おやこ》は、また一町ほど町の方へ歩いた。ドロシイ・シュナイダアは、眼の碧い、輝かしい金髪の少女で、ロレイン街の家から約一哩離れたマウント・モウリス合同小学校《コンソリジイテド・スクウル》附属の幼稚園へ通っていた。シュナイダア夫人はその朝に限って、学校まで送って行きたい程に思ったが、自宅には、ケネスという三つになる男の子が病気でむずかっているので、そうもならず、直ぐ引き返さなければならなかった。しかし、何かしら重い心臓が夫人の足を捉えて、そこの国道へ釘づけにしたに相違ない。 「ドロシイはいつものようにいそいそ[#「いそいそ」に傍点]と、時どきふり返って手を振りながら遠ざかって行きましたが、私は、ドロシイが見えなくなってから十五分間[#「十五分間」に傍点]も、夢中で道の真ん中に立って、その姿の消えた方向をじっと見詰めていました。気が付くと、低声にドロシイの名を呼び続けていました。何んですか、訳もなく耐らなくなって、追っ掛けて行って伴れ帰りたい気が致しました」  と、後でシュナイダア夫人が郡警察官《カウンテイ・シェリフ》ヘンリイ・マンガア氏―― Henry Munger ――に言っている。  ドロシイの父ウイリアム・シュナイダアは、近くのフリント市のビュイック自動車会社に勤めている塗工《ペインター》で、そのマウント・モウリス町の場末ブレント入江《クリイク》ロレイン街七一二番という自宅から、毎日自分で自動車を運転して工場へ通っていた。もう一台自動車を買って、シュナイダア夫人がドロシイを乗せて学校の送り迎えをするようにしたいと、夫婦で寄りより話し合っていたが、二台の自動車を置くことは、一職工のシュナイダアにとって鳥渡重荷なので、そのままになっていた。  午前十一時三十分になった。もうドロシイの帰って来なければならない頃である。シュナイダア夫人は、表《フロント》に面した窓に立って、今にもドロシイの笑顔が街角に現れるであろうと、ディクシイ国道のほうを凝視めていた。するとそのとき、一台の自動車が、国道を走って来てちょっと停まるのが見えた。立樹の影を縫って過ぎたので、その自動車はぼやけて映ったが、確かに一度停止して、側面《サイド》の扉《ドア》が開いて直ぐまた閉まった音を聞いた。兎に角、そんな印象を受けて、シュナイダア夫人はドロシイが途中で誰か近処の人の自動車にでも乗せて貰って帰って来たのだろうと思ったが、その儘自動車は再び南へ走って、ロレイン街から四分の一哩程隔たったスタンレイ街道《ロウド》へ出ると、西を指して疾駆し去った。誰も降りた様子もないし、いくら待ってみても、国道から曲って来る人影もないので、夫人は病児 Kenneth のところへ帰って、看病に気を取られるまま二十分余り経った。正午である。それでもドロシイの姿が見えない。真剣な憂慮が夫人の上に来た。十二時に一応念のため学校へ訊き合わせると、生徒監《スウパインテンジント》 Mr. B. B. Fox が電話線の向うへ出て、幼稚部のドロシイ・シュナイダアは正十一時に校門を出て帰路に就いたと告げた。  筆者は、十代の頃からミシガン州に住んだことがあってこの辺の地理には比較的通じている心算である。  少女 Dorothy の父 William Leslie Schneider の勤務先ビュイック自動車会社の工場は、前に言ったように、ブレント入江《クリイク》から程遠からぬフリント市にある。  このドロシイ・シュナイダア事件の起った一九二八年一月十二日に先だって、前年一九二七年の十一月一日のことだった。骨を洗ったような灰色の墓標が立ち並んでいる其のフリント市の共同墓地で、エヴァリン・ダンカン、十八歳―― Miss Evelyn Duncan ――という美しい娘が、何者かによって残虐な暴行を受けたのち、女袴《スカアト》から破り取った布片で絞殺されていた惨事があった。何一つ遺留品も手懸りもなく、犯人はいまだに眼星がついていなかった。すると、その年の降誕祭《クリスマス》の翌日、十二月二十六日の夜である。このフリント市から少し離れた Oak Hill 町の矢張り墓地で、マアサ・ガッツという附近の牧師の家の女中が、手巾《ハンケチ》で覆面をした労働者風の背の高い男に襲われて、この時は、奪われるものを奪われた丈けで生命には別条なかった。マアサは、靴下一つの殆んど裸体にされた上、靴紐で背《うし》ろ手に緊縛されたまま、外套を被って往来へ転げ出たところを、通行人に救われたのだった。それから間もなく、一九二八年に這入ってからだが――一月五日――今度は Floria Macfadden という七歳の少女が、程近いカアランド Carland 町へ通ずる淋しい裏道で、コロロフォルムを嗅がされて××されたと覚しく、心神喪失の状態で路傍に遺棄されていた。そのほか、附近一帯の町村で、夜娘が寝巻に着更えていると、窓硝子に男の顔が写ったとか、樹に登って二階の若夫婦の寝室を覗いた者があったとか――何ものか、眼に見えない淫魔が漂ってでもいるかのように、この、二七年から八年の初頭へかけて、そのミシガン州の一部に、不吉な雰囲気が揺れ動いていたのだ。それが、Mrs. Leslie Schneider の心持へ食い入って、ドロシイの帰宅の遅いことを案じさせずには置かなかったのだろう。  午後まで帰らないなど、ついぞないことである。犇ひしと不安に駆られ出したシュナイダア夫人は、機嫌の悪いケネス坊やを、親しくしている近処の家―― Mr. Thomas Mccarshy's ――タマス・マッカアセイ方に預けて、主人のマッカアセイに頼んで一緒に心当りを捜しに出て貰った。心当りと言っても、別に子供の立ち寄るような相識《しりあい》もない一本道である。捜すといったところで、マッカアセイ夫人がケネスのお守りをしている間、シュナイダア夫人とマッカアセイは、その 712 Lorraine Avenue, Brent Creek のシュナイダア家から、学校のある Mt. Morris 町までの途を、ドロシイの歩いて来るであろう逆に、二人で辿ってみるより他なかった。勿論ブレント入江《クリイク》一帯は隈なく捜索したし、学校友達の家や其処ここの商店にも一々這入り込んで訊いて廻ったが、ドロシイの消息は何処にも発見出来なかった。軈てそろそろ事態の急を意識して、マウント・モウリス町の代理検察官《デビュテイ・シェリフ》 Harry D. Gleason ハアリイ・D・グリイスンの助力が求められた。近処の店の者なども参加して、今はそれは相当の人数の捜査隊になっていた。彼らは改めて、沿道の村という村、町という町の露路抜け裏から、人家は戸別に叩いて歩いたが――其の時である。狂気のようになっている母親がふと想い出したのは、いつもドロシイの帰って来る午前十一時半頃に自宅の前のロレイン街とディクシイ国道の角に鳥渡停まったように思われた、あの自動車のことである。同時に、ドロシイ・シュナイダアの失踪は、もう学校のほうでも騒ぎになって、受持の女教師アナ・ニコラス Anna Nicholas は、生徒監フォックス氏と相談の上、上級生の全部を散らばせて捜索に当らせていた。既記の三つの暴行事件の他に、同じく前年の秋から、エドワアド・ヒックマン Edward Hickman という少年が行方不明になっていたり、十四歳の娘マリアン・パアカア―― Marrian Parker 殺し、加州に起った当時有名な事件で、全米を震撼して間もなくだった――がこれも普通人の考えられない残酷な状況の下に強姦扼殺されていたりなど、これら到底些少のセンチメントのある人間の所業と思われない兇悪な犯罪が人々の記憶に生なましく、殊にこのミシガン州を貫くディクシイ国道の一角には恐怖の旋風が舞い立っている最中である。シュナイダア夫人が、今から思えば怪しい自動車が家の前を通るのを見たと話すと、一同は早や、これが容易ならぬ事件への端緒であることを覚悟しなければならなかった。「一体ミシガン州は斯ういう悲劇の現場であるべく約束づけられているのか?」―― Is Michigan to be the scene of such a tragedy? これは事件の当時、同州デトロイト市のデトロイト時報《タイムス》記者 Ralph Goll が報道の際スロウガンとして連日紙上に掲げて、全州の警察を鞭韃し、一般公衆の奮起と協力を促したので一寸有名になった文句である――人々は文字通り石を起し草の根を分けて、ドロシイの影を求めて狂奔し出した。気絶に近いシュナイダア夫人をマッカアセイ夫人方へ送り返して置いて、捜索隊は勇躍して其の謎の自動車の行方を追うことになったが、するとここに、マウント・モウリス町からブレント入江《クリイク》に至る一哩程のディクシイ国道の真ん中辺のところに、Sid Hodges という男の経営している小さな瓦斯油供給所《フィリング・ステーション》がある。シュナイダアの隣人タマス・マッカアセイと代理検察官グリイスンが此処へ立ち寄って訊くと、シッド・ハッジスは、 「ああ其の児なら毎日通るから識っています。今日ですか。ええ、きょうも通りました。朝は知りませんが、お正午近く学校から帰るところでしたろう。十一時二十分頃、独りでブレント入江の方へ歩いて行くのを見かけました」  尚このシッド・ハッジスの口から、ドロシイが通り過ぎて間もなく、紺灰色に塗った一台の箱型《セダン》がマウント・モウリスの方角からやって来て、ハッジスは此の車に十ガロンのガソリンを売っていることが判明した。その自動車は、南へ、つまりドロシイと同じにブレント入江のほうへ走り去ったが、両者の通過した時間と距離を考え合わせると少女がこの給油所《ステーション》と自宅の間を三分の二まで行かない内に、自動車に追い抜かれたろうという、シッド・ハッジスの推定である。 「男が一人乗って運転していました。何うと言って別に特徴のある人物ではありませんでしたが、人相や着衣は、はっきり覚えています、私はそんなことに注意を払う方ではないんですが、理由があるんです。というのは、代金をはらうのを忘れて行こうとしたので、呼び停めて請求しました。そのために、普通の客よりも余計に言葉を交して、また顔を見た間も長く、それだけ印象に残っている訳です。金は直ぐ、失敬失敬と言って笑いながら出しました」 [#5字下げ]2[#「2」は中見出し]  グリイスンとマッカアセイは、その足で自動車を走らせて、シュナイダア夫人が、問題の自動車はディクシイ国道をスタンレイ街道《ロウド》へ曲って南の方へ急ぎ去ったと言ったのを頼りに、直ぐその通りに辿ってみた。この Stanley Road は、赤土に小砂利を置いた丈けの、切り開いた許りで未だ舗装してない道路である。従って、それ程頻繁に自動車の通る途ではないから、其処の路上に、残雪に濡れて確然《はっきり》と印された新しい車輪《タイヤ》の跡を発見することは、比較的容易な仕事だった。地面を嗅ぐように其の二条の線を追って行くと、一哩程して、小径が別れてT字形になっているところへ出た。見ると、自動車は、小径へ這入ろうとして一度そっちへ鼻を向けたが、深い泥濘《ぬかるみ》に辟易して、諦めて背行《バック》したらしい形跡が、歴然と看取出来るのである。何しにそんな、先に人家のありそうもない、野中の畦路のような個所へ乗り入れようとしたのか――追跡者二人は、ぼんやり顔を見合わせて停ち止まっていた。あたりは蕭条たる冬枯れの景色である。此処らで一時車を降りて、徒歩で何方へ行ったものにしろ、何となくこの辺が臭いのだ。マッカアセイとグリイスンが手分けしてそこらを探し廻ると、スタンレイ街道を小半町先へ行った地点に、明らかに轍が泥へ填まり込んで大分自動車の踠いたあとが読める。既に午後二時半になっていた。ブレント入江からマウント・モウリス方面の捜索で、散々貴重な時間を空費したのだが、このタイアの跡から判定すると、誘拐自動車は今の先ここを通って、まだ左程遠くへは行っていないように観察される。一刻の猶予もならない焦慮がこみ[#「こみ」に傍点]上げて来て、グリイスンとマッカアセイは、当てもなく走り出したい気持ちだった。ふとマッカアセイが見つけた。路傍に粗らに棒杙を打ち並べた垣根の裾に、汚れた雪が吹き寄せられて溜まっている。其処にすぽりと穴を開けたように、大きな足跡が続いているのだ。 「そうだ。ここで降りて歩き出したんだ」グリイスンが呻いた。「だが、何処へ? そして何しに――?」  首を傾げながら二人は、その足あとを伝わって傍らの野原へ出た。雪が解けて、一面の枯れ草原だ、靴跡は草に消えて、尾けようがないのである。三十分も探し廻った末、野原の向側に雪の残っている個所があって、そこにふたたび同じ足あとが点々としているのを見つけた。伐った儘の枝を横に渡して、又もや垣根が囲らしてある。足跡は、その柵を越して、灌木や雑木林の連なっている奥へ奥へと踏み込んでいるのだ。垣根の一個処に、雪と土に汚れた靴を掛けて足場にしたらしいところが見える。その真下に、たった一つ子供の足跡と思われる凹みが残っていた。ほかには、附近何処を探しても子供の靴のあとと認むべき印しは一つもなかった。男の足跡は大きく深く、普通人より重量のある、大柄な人物に相違ないことを示している。其処らは矢鱈に垣根が結び廻してあって、グリイスンとマッカアセイは、六つの垣を乗り越えて、耕地や藪原を幾つとなく過ぎて断続している足跡を尾けて行くと、遂に立樹に囲まれた小川の堤へ出た。これが、この辺の地名になっているブレント入江《クリイク》である。入江と言っても、小川が淀んで、幅八呎、水深三呎の曲りくねったささやかな流れを成しているに過ぎない。灌木の繁みに引っ掛っていた女の児の鳶色《タン》の帽子と、鳶いろのスェタアを発見してそれらをドロシイの有と認めたのは、其の辺の、その沼のような泥水の岸でだった。  恐しい展開を暗示されて、二人は無言で顔を見つめ合った。そして尚も附近を捜索したが、他には何ら手懸りらしいものも獲られなかった。グリイスンは、まだ犯人は遠くへ行かないであろうから、今の内に此の、ドロシイの着衣の一部が現れたという報知《ニュウス》を拡げて、手早く非常線を敷いたなら――斯う思ってスタンレイ街道《ロウド》へ駈け戻って電話のある家を探すと、半哩ほど離れたブレント森に、Archie Bacon という農家がある。そこへ飛び込んで行って、直接の上司であるフリント市の検察官《シェリフ》フランク・グリイン―― Frank Green ――へ電話を掛けた。  その、グリイスンの電話を聞いていた主のアウチイ・ベエコンが、さっと顔色を変えたのだ。 「畜生! 飛んでもねえことをしやあがった!」ベエコンが叫んだ。「すると、あの野郎に決まってる。旦那、わっしゃあ其奴に手を藉して、泥濘《どろ》ん中にめり[#「めり」に傍点]込んで足掻《あが》きが取れねえでいるやつの自動車を持上げてやったんで――」  以下、グリイスンの問いに対して農夫アウチイ・ベエコンの答えたところである。 「正午頃でした。何気なくこの窓から見ていると、一台の自動車が、あの、スタンレイ街道から小路が分れて丁字形になっているところを此方へやって来るんです。非道いぬかるみだが旨く通れるかなと思って見ているうちに、一度車が見えなくなったので、きっと元来た方へ引っ返したのだろうとそれきり忘れていましたところが、暫らくして一人の男が、何か包みのような物を抱えて、あの野原をすたこら奥のほうへ急ぐのが眼に這入りました。が、私は、別に変なことをするとも思いませんでしたから、特に注意を払った訳ではありません。漸て二時間程経ってからです。そうです丁度時計が二時を打ち終ったときですが、それと同一人らしい見慣れない男が、この家を叩戸《ノック》して、自動車が泥に空回転《からまわり》して動けなくて困っている。鳥渡来て自動車《くるま》を押し上げて呉れと言うんです。つい其処に住んでいるウイリアム・ロウレンス William Lawrence という男が来合わせていて、此処で私と無駄話ししていましたが、お易い御用だというんで、二人で鍬を担いで其の男と一緒に自動車の食い込んでいる現場へ出掛けて行きました。成程可成り深く埋まっている。が、車輪の周囲の泥を掘って、三人掛りでやっとのこと地面の固いところまで引き出しました。男は厚く礼を言って、このスタンレイ街道を真っ直ぐ運転して行きましたが、間もなくあのクリオ街道―― Clio Road Dodge ――から西へ切れて見えなくなりました。曲る時、まだ私達が見送っていたので、車窓から盛んに手を振ったりしました。元気のいい、それでいて柔和そうな男でした」 「何んな人相のやつかね? 自動車の種類は? 車体番号は見ませんでしたか」 「ちょっと待って下さい」立て続けの質問にベエコンは魔誤付いて、「今よく思い出しますから――」  そして、眼をつぶってその映像を呼び返そうと努めていたが、やがてベエコンの陳述した「其の男」の描相《デスクリプション》は、実に詳細と適確を極めたもので、米国官憲が私人の実見者から得た容疑者の「言葉の似顔絵」の中で今まで一番本人に近いものだったと言われている。このアウチイ・ベエコンの口を土台に、デトロイト時報《タイムス》のアウチイ・オットマン画伯が「その男」のスケッチを画いた。これが毎日のように全州の新聞に掲載されて、恐怖と憎悪をもって公衆の眼底に灼きついたのだったが、後で犯人が逮捕されてみると、絵のほうが少し瘠せて若く見えた丈けで大した変りはなく、このベエコンの印象とそれを絵にしたオットマンの想像力は、未だに本事件に関する驚異的揷話の一つとされている。  ベエコンの述べた「其の男」と謂うのは――。 「年齢五十歳前後、身長五呎八乃至九吋、体重約百九十|封度《ポンド》。色白の方で、訛りのない標準英語を語《はな》す。服装は、二年位い経た紺サアジの三つ組、薄茶と緑の霜降りの外套、その右肩に一見何人も気の付く著しい油の汚点がある。大きな眉庇《ひさし》の附いた黒褐色毛皮製の鳥打帽、黒の編上靴――全体として|少し猫背の感じ《スウイトウ・ストウブー》」  しかし、細かいことは細かいが、色いろ特徴があるようで、その実、いざとなってみると、余り頼りになる特徴はないのである。適確であり、詳細であればあるだけに、捜査の実際的見地からは、莫然としていて、あまりに多くの人間に当てはまるのだ。従ってこれは、これとして、大して信拠出来ない気がして来る。で、フリント市の在るジェネシイ郡|検察官《シェリフ》フランク・グリイン氏などは、完全にこの人相書を無視して進むことを主張し、其の他部内にもそういう声が高かったが、兎に角これが州の求める「その男」の人体として公表された。新聞にも出たしラジオでも放送されている。  次ぎにベエコンは「其の自動車」を普通の四扉《フォア・ドア》のダッジ Dodge の箱型《セダン》で、多分一九二四年型だったと証言した。|駒鳥の卵の色《ロビンス・エッグ・ブルウ》――青灰色――に塗ってあって、下部は全体泥まみれだった為め番号札は読めなかったというのだ。  グリイスンはその場から直ぐこのアウチイ・ベエコンの陳述をフリント市駐在の Genesce 郡検察官フランク・グリイン氏に電話して、茲にミシガン州初まって以来の大々的人狩りは開始された。シェリフ・グリイン自ら大部隊の刑事を引率してマッカアセイとグリイスンがドロシイの衣類を発見したブレント入江の小川へ急行する。少女の父ウイリアム・レスリイ・シュナイダアも、その働き先のフリント市ビュイック自動車会社から呼び返されてその一行に加わっていた。  冬の日は短い。野に、薄暮が落ちて来ていた。夕ぐれと一緒に寒気は激しく、小川の面てに漸時に水の動かないところが出来てきて、氷りかけつつあった。刑事達は、その入江を中心に思い思いの方向に散って、上流から森の奥へかけて素速い、そして熱心な捜索を続けている。  二十分程してからだった。捜査隊の一人に Fred Dormire というフリント市の刑事が居た。グリイスンとマッカアセイが第一の着物を見つけた繁みから、小川に沿って歩きながら、彼は、川岸の、泡のような氷の粒つぶの下に、桃色《ピンク》の地にレイスの附いた布が浮かぶとも沈むともなく漂っているのを認めた。ドロシイの肌着と|下穿き《ズロウス》だった。これに勢いを得たフレッド・ドウマイアは、洋袴《ズボン》を捲くり上げて川の中へ這入ってみた。暫らく足で川底を探ぐって歩き廻っていた。と思うと忽ち電気を掛けられたように立ち竦んだのだ。そして、両袖から水を滴らして抱き上げたのは、冷水に光ってうす明りの中に白銀に見えたドロシイの裸体だった。  亜米利加の七歳だから、日本流に数えると九つ位である。それに、大柄な米国人にしても、このドロシイ・シュナイダアは発育の早い方だったので、その裸体には、少年のようなぎこちなさの中にも、十三、四歳程度の、もう何処となく女に近いことを想わせる幾分伸びやかな線が見られた。栗色の断髪、乳房のない平べったい胸部、まだ脂肪の乗らない細長い両脚――岸に立って、この、ドウマイアの腕に差上げられた白い物体を一眼見た父親のシュナイダアは、崩折れるように気を失って終った。  この屍体発見の時のことを、ドウマイアはデトロイト時報《タイムス》へ寄書して、 「私は眼を瞑ってドロシイの屍体を堤の草の上へ下ろした。警官として斯ういう場面に慣れている筈の私でさえ正視に耐えない程、惨鼻を極めた屍体だったのだ。実際皆|尻込み《ドロウ・バック》して、誰も長く見詰め得る者はなかった」 [#5字下げ]3[#「3」は中見出し]  ××を受けた後、死へまで殴打されたのだった。その上言語に絶する残虐が屍体に加えてあって、何のためか、左の腋の下から左肋へ掛けて注意深く×り×き、背中の肩胛骨の真下にも、左右に各一つずつ深くナイフを×き×した痕があった。左の肋骨などは、宛然鶏を料理するように、殆んど一本一本丁寧に×り×してあって、やっと、皮膚と些少《すこし》の筋で継がっている状態だった。鼻が根元から綺麗に×がれて、水に洗われて大きな空洞《ほらあな》が開いていた。××から小刀を揷入して下腹部内部を×き廻したらしく、おまけに、刷毛序でと言ったように左脇腹を××して内臓の一部を手際よく切り取ってあった。屍体のこの部分の損傷は、[#横組み]“some of her organs had been removed with care.”[#横組み終わり]云々とぼんやり公表された丈けで、手許にある当時の新聞にも然う載っている。が、筆者は検屍をしたジェネシイ郡警察医《カウンテイ・コロナー》 D. R. Brassie 博士が前記のデトロイト時報記者ラルフ・ガル氏に寄せた個人的手記に基いて、ガル氏が遠廻しに記述しているところを簡明に解釈しているのである。恐らく事態を其の儘伝えているものと信ずる。暴行の事実は、それがこの殺人の第一目的と推定して、疑いを容れる余地もなく、またナイフと事後の水に依る局部の損害にも係らず、幾多の専門的検査ののち明白以上に立証されたところでもある。この以前、一九二七年八月二十八日夜、このブレント入江《クリイク》にもフリント市にも殆んど接続しているマウント・モウリス町の、既述の二事件と同じにこれも共同墓地で、生前同町の郵便局に勤めていた二十二歳の Sandrra G. Baxter という美しい女の二日前に埋めた許りの死屍《しかばね》が掘り返され、死×の上、まるで解剖の稽古のような暴虐なナイフがその全身に施こされてあって大騒ぎをしたことがある。州当局は躍気になって活動したが、この喰屍鬼《グウル》もまだ逮捕を見るに到らないで、既に事件は迷宮に這入った形なのだが、今、グリイン検察官がこのドロシイ殺しの手口を見ると、不必要な程屍体を弄んで嗜虐症とも謂う可き観を遺している点と言い、殊に小刀《ナイフ》の扱い方がまるで外科医のように素人離れしていて鳥渡常識以上の人体解剖の知識と経験を示しているように思われることなど、これはひょっとすると此の両者は同一人の仕業ではあるまいか――と、何か香いを嗅ぐように、グリイン氏の頭脳にぴいんと来たものがあった。  小川に沿って現場検証が続けられた。間もなく、コロロフォルムの壜の栓がグリイン氏によって拾い上げられ、屍体から××された右手の拇指と小指、其のほか他の部分の血だらけの肉片なども枯れ草の間から出て来た。また暫らくして、リグレイ印のチュウイング・ガムの包み紙一枚と、男持ちの血染めの手巾《ハンケチ》が、附近の残雪にまみれて発見された。ハンケチは、白地に青い線で縁取った大版の、木綿の安物だった。  薄明は刻々闇黒に変ろうとして、夕寒い風が集まって来ていた。現場の小川の畔りに、シェリフ・グリインを中心に、眼を据えた蒼白い顔が輪を作って、取り敢えず第一回の捜査会議が開かれた。この際、最初の一歩は、先ず、四囲の情況と与えられた事実を材料に此の犯罪の行程を如実に|組立直す《リコンストラクト》べく推理し想像することである――被害者ドロシイ・シュナイダアは、帰宅の途、「其の男」に一片のチュウイング・ガムを与えられて「その自動車」に招待されたものに相違ない。この先のスタンレイ街道《ロウド》の丁字形の個処で、「その男」は、ドロシイの鼻にコロロフォルムを当てがって、意識を失っている身体を抱えて柵を越え、この小川の岸まで運んで来たのだろう。そして此処の猫柳に取り巻かれた凹地の陰で××を加えた後、拳で乱打し、ナイフで突き刺して死に到らしめ、屍骸を××にしてあちこち××したうえ、川へ抛り込んだのである。アウチイ・ベエコンの証言に依れば此の間約二時間と見ていい。それから直ちに「其の男」は手や着衣の血痕を流れで洗い落し、泥道に乗り棄ててあった自動車――ダッジ二四年型――を動かす可く近くのベエコン方を訪れて、ベエコンと、居合わせたウイリアム・ロウレンスの助力を乞うたのだった。スタンレイ街道からクリオ街道を西へ折れて疾走し去ったことは、前のベエコンの証言にある通りである。 [#ここから1字下げ、折り返して3字下げ] 1 一九二七年八月二十八日、マウント・モウリス町共同墓地に於けるサンドラ・G・バックスタァ――二十二歳――の墓地発掘、屍姦並びに死体毀損事件。 2 同年十一月一日、フリント市共同墓地での暴行絞殺事件。被害者は十八歳になるエヴァリン・ダンカン嬢。 3 おなじく十二月二十六日、オウク・ヒル町墓地におけるマアサ・ガッツ強姦事件。 4 一九二八年一月五日、フロリア・マクファドン――七歳――がカアランド町に到る山道で暴行された事実。 5 同一月十二日、このドロシイ・シュナイダア事件。 [#ここで字下げ終わり]  この凡べてが同一人の手によるか否かは第二に、ここに、約四個月間に五件の常規を逸した変態性慾的惨虐が行われたのだ。しかもその内二つは七歳の幼児姦と、それに伴って、悪魔をさえ眼を覆わしめるこの Mutilations である。キャリフォルニアのマリアン・パアカア事件のセンセイションが未だ消えやらぬ内に、またこのドロシイ殺しの恐怖とショックは、地方的なそれから忽ち全国的な恐慌――そして一面には公衆の探偵小説的興味へと漸時に拡大波紋して往った。今まで知る人もなかった Brent Creek とドロシイ・シュナイダアの名が、亜米利加中の口に上り、ディクシイ国道を中心に中西部諸州《ミッドル・ウエスト》の到るところで挙動不審の浮浪人、この種の罪に問われたことのある前科者などが嫌疑者として可笑しい程続々収監されている。血痕の附着した外科医療具と、同じく血だらけのタオルを所持していたという丈けで、ナイヤガラ瀑布で有名な紐育州バッファロ市を通過中の一医師が、其処の停車場で汽車から引き下ろされて警察に渡されたりした。尤も、ミシガン州 Britton 町から乗車していたということも、この場合嫌疑を深めた一原因だったが、勿論この人は確乎とした現場不在が証明されて、二日許り日程を狂わしたという個人的迷惑に止まって即時釈放された。ベイ郡でも、これは普段からあまり評判のよくない男だったけれど、矢張り医者が一人取調べられてこのほうは一時可成り有力な容疑者に観られさえしたが、結局ものにならなかった。兎に角、ミシガン州をはじめ、合衆国の方々で幾多のこんな悲喜劇が繰り返された。その間、南部ミシガンの諸市では、不良少年と、変態性の危険人物として平常それとなく看視している人間を、片っ端から引き挙げて来て、あのガソリン屋のシッド・ハッジスと、アウチイ・ベエコン、それからウイリアム・ロウレンスを各警察へ廻して毎日のように首実験をやっていた。デトロイト警察も、敏腕を誇る二名の刑事を急遽ジェネシイ郡検察部《カウンテイ・シェリフ・オフィス》へ派遣するなど、応援を惜まなかった。が、所轄ではあり、一番眼覚しい活躍をしたのは、フランク・グリインを部長とするフリント警察の連中だった。再三現場検証に出掛けて、亜米利加中の市場で手に這入る凡ゆる車輪《タイヤ》で同じような泥道に跡をつけてみて比較研究した結果自信をもって彼らが確立した新事実は、「其の男の自動車」の前方の二つのタイヤは、グッドリッチ金剛石型輪底《ダイヤモンド・トレッド》であり、後部のは左右二つともグッドイヤア・オウル・ウエザア・トレッド・タイヤ―― Goodrich Diamond Tread と Goodyear Allweather Tread Tires 緒《とも》に最も広く使用されているもの――であるということである。斯うして|牛歩遅々乍ら着実に《スロウ・バット・シュア》、何うやら日一日捜査の範囲が狭められつつある時、ジェネシイ郡の住民は、この誰とも知れぬ淫魔に対して呪咀と憤激の爆発点に沸騰していた。犯人が判り次第、其の筋の手を俟たずに私刑《リンチ》に処すべし、生きながら立樹に吊して焼き殺すがいい、いや、少女がされたと同じように、散ざん殴った上滅多斬りにするのだ――其の他凡ゆる復讐の手段が、単なる威嚇や空言でなしに、フリント市とマウント・モウリス町の街角や、人の集まる場処で、現実に計画されていた。昔から亜米利加では群集の感情が激発すると、この lynch ということは間々ある例だ。警察は、もう一つ仕事が殖えた。犯人が現れた場合、この怒りのために盲目になっている公衆からその身柄を保護し、飽く迄も彼の上に正規の法の進展を齎らさなければならない。幾ら斯かる人獣でも、当局としては、一応自分を弁護する機会をも与え、その上で法律に拠って適宜に裁断する義務のあることは、尠くとも文明国である以上言うまでもなかろう。ところが街頭の昂奮性野次馬が絶大の勢力を有つ米国辺りでは、この解り切った理窟を運行することが、実際になると仲なか至難な許りでなく、時として、護送中などに、群集に犯人を奪われて、あっ[#「あっ」に傍点]と言う間に私刑《リンチ》にされて終うことも珍らしくない。また、場合によっては、野次馬の頭目から金を取って、警官が犯人を群衆へ売り渡したり、そうかと思うと、面倒臭い裁判よりも、手っ取り早くて好いと言うので、初めから私服の警官が群集に紛れ込んでいて采配を揮い、制服の警官とあっさり小競合いの後筋書き通り犯人――非道い時には未だ嫌疑者に止まっているのに――を奪取して、自分達が先頭に立ってさっさ[#「さっさ」に傍点]とリンチを済ましたり、この亜米利加名物の私刑《リンチ》の話しになると、傍道に外れて行って限りがないが、此のドロシイ事件の際のグリイン等フリント警察の態度は、当然と言えば当然だけれど、何時になくしっかりしていた。フリント市の場末、ラ・サアル街の路上に、壊れ掛ったダッジの箱型《セダン》が行き悩んでいて、その傍に魔誤まごしていた男があった。ともかく、附近のダッジの箱型を一つ一つ虱潰しに当っている最中だから、こいつ臭いとあって、一寸来いということになった。一応ぽうんと抛り込んで置く、それはいいが、その抛りこむ段取りへ来て、問題が生じた。フリント市には、亜米利加の何処の町でもそうだが、郡《カウンテイ》の刑務所と市《シティ》のそれと二つある。これは郡シェリフのやっている事だから、順序から言えば郡のほうへ収容す可きだが、当時フリント市にあったジェネシイ郡刑務所は、大分古い建物ですっかり損んじている。優勢なモップが押し寄せたとなると、一溜りもなく潰れそうなのだ。そこでグリイン検察官は、手続きを無視し、反対を斥けて、その嫌疑者の安全を確保すべく、新築して間もない厳丈な市《シティ》刑務所へこれを留置した。そして、それらの動きは勿論、「警察は何をしているか」の凡てを、それ以後一切厳秘に附した。と言うのが何の程度の嫌疑者にしろ鳥渡でも怪しいやつが挙げられたと聞けば、忽《たちま》ち町中の人が武器を手に留置場へ殺到しそうな、実際それ程狂憤的な空気だったのである。一旦モッブが襲来した日には、モッブの、殊に亜米利加のモッブの性質として、知事が露台へ出て演説しようが、大統領が教書を読み上げようが、多くの場合、待ったは利かない。催涙ピストル位い持出したところで、瞬く間に警察でも監獄でも焼打ちして、眼ざす人間を私刑《リンチ》せずには止まないだろう。そんなことになっては大変だから、グリイン氏は、犯人捜査は言わずもがな、この方でも、人知れず苦労しなければならなかった。 [#5字下げ]4[#「4」は中見出し] 「嫌疑者がリンチされて、後になって無罪と判ったら何うする」グリイン氏が言っている。 「考えてもぞっとするではないか」  そして、全公衆は激昂の極に達して、まるで私刑に飢えている心状《ムウド》なのだ。グリインは語を継いで、 「合衆国の、いや、法治国の名誉にかけて、この嫌疑者を、そして何れあらわれるであろう犯人を、群集の手に渡してはならない」  これは、群集に弱い亜米利加官憲としては、随分勇敢な言辞なのである。度びたびデトロイト時報を引用するが、大きく言えば劃時代的な表明として、同紙上にも特筆してある。  ジェネシイ郡の警察医D・R・ブラッセイ博士がドロシイの屍体を検証して、暴行の事実その他、警察の意見を一層確定せしめた。 「驚く可き一事は、これだけ人体にナイフを加えながら、手が少しも顫えていないことです」  博士は、この点に特に係官の注意を促した。  シュナイダア夫人は、事件発生と同時に驚愕の余り昏睡状態に陥って、ずっと寝込んで医師の看護を受けているし、父親のウイリアム・シュナイダアは、自宅の一室に閉じ籠ったきりで、日夜|狂人《きちがい》のように歩き廻って呪いの言葉を口走ったり、大声に神の名を呼んで祈り続けたりする許りだったが、それでも、シュナイダア家の故郷である同州 Midland 町には、親戚知友が集まって着々ドロシイの葬式の準備をしていた。  この時、グリイン検察官が一つの声明を発表している。 「われらの求める男は、現にこのフリント市か、若しくは、其の附近に住んでいる。或いは、最近まで住んでいた。凡べての情況は、『その男』がミシガン州のこの部分を自宅の庭のように熟知していることを示している」  フリント市警察署長 Caesar Scavarda 氏はじめ、捜査本部も一般市民もこれと同意見だった。つまり、「流し」の類ではないというのである。  金曜日土曜日とこの二日間に、嫌疑の程度には自ら濃淡があっても、何らかの点で白眼まれた百三十二人という夥しい数の容疑者が、フリント警察署に堂々巡りをして、一人ひとり例のアウチイ・ベエコンの前に顔見せをやった。その中には、少女に戯れる常習犯で前科六犯という豪の者のラピイア郡の一百姓なども混っていた。これらは一応兇行当日の所在、行動等につき訊問を受けた後、一列縦隊に並んで、眼を皿のようにしているベエコンの前をゆっくり歩かせられるのだ。実際このベエコンは、犯人の顔をはっきり記憶えている唯一の証人として、当局にとっては掛け更えのない貴重な存在だった。彼は、自分の蔵している兇漢の映像に絶大な自信を有っているとみえて、次ぎつぎに眼の前に立つ容疑者に、ちらと鋭い一瞥を呉れた丈けで、否《ノウ》の意味で続けざまに手を振っていた。シェリフ・グリインは、傍らに椅子を引いて、そのベエコンと、行列の男達の表情の小さな影をも逃すまいと、凝視め続けた。 「これだ! この男です!」  今にもベエコンの口からこの恐しい一語が洩れはしないか――それは、呼吸詰まるような、昂奮と期待の瞬間の連続だった。  このベエコンは、殆んど毎日のように、「其の男」の相貌着付け等に関する細かい部分の供述を取り変えて、そのため一部では、あれは人騒がせが面白くて出鱈目をいっているのだと言われたが、後で犯人が捕まってみると、不思議なことにはベエコンの印象は、日が経てば経つ程確実になって、あとから変えたところは、またそれだけ一層本人に近づいていたのだった。  州から一千弗、郡から一千弗、計二千弗の賞金が犯人逮捕の緒となる可き重要な|聞込み《インフォメーション》を齎した者へ、と一般に呈供されている。  日曜日である。  センセイションは空気の何処にも感じられ、人は眼の色を変えて寄ると触るとドロシイ殺しの噂ばかりしているが、まだ犯人がこの界隈に潜んでいるに相違ないという見込みは、徐々に支持を失いつつあった。もう兇行後三日も経っている。この騒ぎを見聞きして、安閑と済ましている筈はない。疾うに州外へ逃れ出た後だろう――皆そう言い合って、また一つ迷宮入りが殖えたと州民の過半は、警察を非難し揶揄したい気持ちだった。  何時もなら、平和過ぎる程平和な、亜米利加の田舎の日曜日風景である。教会の鐘が、乾いた音を振り撒く。牧師はこの少女殺しを演材に説教して、憐れむ可き罪人が一刻も早く神と人の裁きに就き、この好ましくない騒擾が州から除かれ、女児を有つ親という親の心が安んじられるように――と会衆と一緒に跪坐いて祈る。母親は小さな娘の手を固く握って会堂へ急ぐのだ。父は、その心臓に恐怖を宿して聖餐に列なる。そして、人類の間にこんな野獣が隠れ棲んでいたことを、何うして神は今まで許して置いたのだろう――言わず語らずそんな考えを胸に、それは白じらと淋しい日曜日だった。  するとここに、マウント・モウリス町から三十哩程離れたところに、オウオソ―― Owosso ――という小都会がある。シャワジイ郡 Shiawasee Country の郡庁の所在地で、有名な文士故 James Oliver Curwood の故郷である。  町で唯一の教会を基督教会《チャーチ・オブ・クライスト》―― The Church of Christ ――と言って、この日も、朝の礼拝に殆んど町中の家族が集まって来ている。小|商人《あきんど》、労働者、農夫、そういった人達とその妻子だ。  この基督《キリスト》教会の補祭の一人に、ハロルド・ロスリッジ―― Harold Lothridge ――と呼ぶ若い大工が居た。補祭《デイコン》といっても、田舎町の小さな教会のことだから、ただ集まりの時会衆の世話をしたり、牧師を助けて教区の事務を執ったりするだけで、普段は大工を職業としているのだった。  その前晩というから、土曜日の夜である。  此のロスリッジ青年は、何時になく妙に寝つかれなくて困っていた。寝台《ベッド》に輾転反側して、眠りが来るようにしきりに祈りながら、一生懸命に眼をつぶっていると、そのうち、何処か高いところからでも墜落するように、急に眠り出したものとみえる。ハロルド・ロスリッジは、眠ろうとする努力に疲れ切って、打たれたように寝台に円くなって鼾の音を聞かせはじめた。と彼は、急に大きな叫び声を上げた。それは、まるで七[#「七」に傍点]、八つの女の児[#「八つの女の児」に傍点]のような、甲高い、恐怖に満ちた声だった。同時に、弾かれたようにベッドに起き上って、夢中で、痙攣的に顫える手で額部に滴る冷たい汗を拭っている。  傍らに寝ていた妻がびっくり眼を覚まして、白く変っている良人の顔を覗き込んだ。 「あら、何うなすって?」 「夢を見たんだ」ロスリッジは呼吸を整えながら、「恐しい夢だった。夢――というより、まるでサイレント映画の一節だった。背景の細かいところまで、現実のようにはっきりしていた。小さな女の子が殺される夢なんだ――」  細君は、莫迦ばかしいといったように、枕の上から苦笑した。 「嫌だわ、あんまり熱心にあのドロシイ殺しの新聞記事を読むからよ」 「そうじゃないんだ。いや、そうかも知れないが、おれは、殺すところを見たんだよ。その殺したやつの顔がまだありありと眼に残っている」 「じゃ、誰が殺したの?」 「それわね[#「それわね」はママ]」ロスリッジは暫らく逡巡《ためら》った後、「おれもお前もよく識っている人なんだ――併し、言えない。幾らここだけの夢物語でも、あんまり真に迫っているんで、名前だけはいえない」  斯う言ってロスリッジは口を噤んだ。  夢――信じられない程不神聖な、非人間的にまで狂暴な悪夢の主人公に、かれは、日頃から敬愛している一知友の顔を驚く可き如実さに於て見たのだ。  話しは再び翌一月十五日の日曜日、オウオソ町の基督教会に返る。  質朴な、信心深い田舎町の人々である。  日常生活も、宗教も、保守そのもののような、小さな社会だった。  頑固な程はっきりした正邪の区別が、彼等の有つ観念《イデオロギー》のすべてだ。父や祖父の信仰をその儘受け継いで、何らの疑点も懐かないばかりか、外部の世間とは自ら断ち切ったようにあらゆる風潮に眼を閉じ、耳を塞いでいるのが、この米国中西部の小都会の市民である。狭小で、|善良な《レスペクタブル》たましいが、オウオソ町基督教会のメンバア達だった。  何時もなら、平和過ぎる程平和な亜米利加の田園の日曜日風景である。教会の鐘が、乾いた音を振り撒く。牧師は、この少女殺しを演材に説教して、憐れむ可き罪人が一刻も早く神と人の裁きに就き、この好ましくない騒擾が州から除かれ、女児を持つ親という親の心が安んじられるように――と、会衆と一緒に跪坐いて祈る。母親は小さな娘の手を固く握って会堂へ急ぐのだ。父は、その心臓に恐怖を宿して聖餐に列なる。そして、人類の間にこんな野獣が隠れ棲んでいたことを、何うして神は今まで許して置いたのだろう――言わず語らずそんな考えを胸に、それは、白じらと淋しい一月十五日の日曜日だった。  この朝の礼拝に最初に教会へやって来た一団の信者達のなかに、アドルフ・ホテリングという人と、その妻、子供たちがあった。ホテリングは、今日まで長く補祭の一人として勤めて、教会の善き仕事のために、いつも先頭に立って人一倍働いて来たので、その謝恩の意味で、今夜の集会《あつまり》で全教会員に押されて長老《エルダア》の地位に昇格することになっていた。平常から愛想の好いホテリングだったが、殊に今日は、そういう、彼の信仰生活にとって「|大きな日《ビッグ・デー》」なので、彼も、妻も、眼に見えて上機嫌だった。誰かれとなく握手して、特徴の、腹の底から揺れ昇るような笑い声を撒き散らしていた。大体この Adolph Hotelling は、観たところ、あまり風采の上ったほうではなかった。猫背でグロテスクな程両腕が長く、何う贔屓眼に見ても、人好きのする外貌を備えているとは言えなかった。平べったい醜悪《ぶざま》な顔に眼が窪んで、厚い口唇が強情に歪んでいた。牛のような鈍重な身体を、小淡泊《こざっぱり》した黒の日曜着に包んで、外套は、青味がかった灰色だった。その洋服も外套も、およそ身に適っていない。滑稽なほどぶくぶくなものだった。  が、仲間の信者達は、このホテリング補祭《デイコン》――今夜の就任式で長老ホテリングとなるのだが――の不恰好な身体つきや、映えない男振り、と言うよりも、実際人相の悪い容貌などに、誰も格別関心を持つ者はなかった。皆長い間信仰の友として親しく交際して来て、自分達のあいだに仲なか得難い、穏厚実直な人物であることを熟知しているからだった。 [#5字下げ]5[#「5」は中見出し]  事実、補祭《デイコン》 Adolph Hotelling は、常に恭敬と謙遜の態度を忘れない、おだやかな紳士だった。このオウオソ町に九年も定住し、以前はソルト聖《セント》マリイ Sault Ste. marie ――またミシガンが仏蘭西の植民地だった頃、一六六八年にマルケットがジュスイット教の布教所《ミッション》を置いたので歴史的宗教的に有名な土地――にも住んでいたことがあるが、個人的な悪評など、小指の先程もついぞ立てられたことがなかった。そのソルト聖《セント》マリイでも、ホテリングは模範的な教会員であり、伝道事業の献身的な活動家だったし、其の後一時カルカスカ郡 Kalkaska の奥へ隠棲して百姓をしていたのが、間もなく、この附近での鳥渡した都会である此のオウオソへ再び出て来たのも、教会の働きが懐しく、それへ心身の全部を打ち込みたい為めだと、平常よく人に話していた位いの篤信家だったのである。一体オウオソ町は、大工が多い。州の産物として材木が一位を占めているので、首府のランシングなども家具製造で名高いくらい、製材、建築等が一般に盛んなのだ。職業《トレイド》によって何時の間にか集団して、それが又其の町の専門とも特徴ともなるのが、亜米利加の地方都市の一傾向なのだが、その方面から観ると、オウオソは、四囲に欝蒼たる森林を控えて、謂わば大工町だった。基督教会の信者には、大工が尠くなかった。アドルフ・ホテリングもその一人で、彼は、いっぱし腕の利く大工だった。ナザレの大工――ではない、オウオソの大工である。この、「主の選び給うた職《クラフト》」として、ホテリングは其の大工のなりわいを誇り、楽しんで従事していた。  四十六歳で、五人の子女の父である。上の娘二人は、もう成人して他家《よそ》へ片付いていた。誰もが微笑で眺めていた程の、非常な子煩悩で、家庭を大事にする、好き良人でもあった。仕事先の都合以外に、殆んど自家を明けたことがなかった。住処は 908 north Hickory Street, Owosso 半生の苦闘で、自分で建てた家だった。  只彼は、教会員以外の大工と、一緒に働く事を嫌う風がある。不信心な労働者は、自分の繊細な宗教心の容れないところで、伍して快しとしないというのかも知れない。そんなような、妙に昂然たる、偏屈な一面もあるのだったが、これは、狂信者に共通の特性として、珍らしくない心理であろう。同僚の仕事に欠点《あら》を見付けては、密かにそれを雇主に告げる習慣があって、其のため、教会へ行かない大工の間では、余り評判が好くなかったこともある。  その朝ホテリングは、例もの補祭《デイコン》らしい威厳と愛嬌をもって、そして、前に言ったように長老職《エルダシップ》に選ばれる日なので、元気よく、教会に現れたのだった。  礼拝が初まる迄に十五分程間がある。  定りの座席に家族を残して、彼は、隅にストウブを囲んで雑談に花を咲かせている、男の信者たちのグルウプへ、割り込んで来た。  大声に挨拶を投げると、 「お早う、兄弟《ブラザー》ホテリング」  愛想好く応じたのは、ハロルド・ロスリッジである。後刻ホテリングが長老に昇ると、ロスリッジは後を襲って補祭の上席に就く筈になっていた。これは、前に出て来て、あの夢を見た大工だが、二十五歳、オウオソ町の 406 East Comstock st. というのに住んでいる。 「おう、これは兄弟ロスリッジ、いいお天気で、結構な日曜ですな。少し寒いが――」  呟くように、ホテリングが言った。  一しきり、天候の話しが続いた。このところ好晴だが、じっさい此の二、三日、急に寒気が増して来ていた。それから、ホテリングとロスリッジと二人の間に、同じ大工として仕事の話題《はなし》が持出された。教会の事務や、銘めいの役目のことなどもふたりの口に上った。何気ない会話だ。牧師のジェイムス・W・フライ師―― The Reverend Mr. James W. Frye ――も加わって、礼拝の時間を待つ暢気な親密な、ストウブ会議だった。  其の時も、後でも、少女ドロシイの暴行惨殺事件に関連しては、教会では一言も話しが出なかった。  礼拝の時刻が、来た。雑談は、静かにこわれた。フライ牧師は、聖壇の上の正規の位置に就き、ロスリッジは合唱隊《クワイア》に加わる。祈祷が唱えられ、讃美歌の声が上る。何の変哲もない、空気の冷たい朝の教会だ。ホテリングは、補祭として最後のつとめである。感慨無量の面持ちで、その受持ちとなっている聖餐を助司していた。  夜の集まりも、同じことだった。  ホテリングは長老へ、ロスリッジはその後任の主席補祭へ、夫れぞれの昇格式があるので、教会員の殆んど全部が出席していた。二人とも、人気があるのだった。其の昇進は、受けが好く、全メンバア一致の欣びと感謝をもって、迎えられた。誰もが、この新しい役員を持ったことで、一層自分達の教会を誇り度い心持ちで楽しく帰路に就く。  ロスリッジ青年は、補祭の上席に抜擢された幸福さに、多分に興奮して噪気《さわ》いでいたのが、妻と並んで、寒い夜の道を家路へ向かいはじめると、ふっと不安気な沈黙に落ちた。  足早に歩いていたのを、歩を緩めて、ぞっとしたように身顫いをした。 「何うなすって? ハロルド、あなた何だか変よ」  ロスリッジ夫人が、覗き込むようにして訊くと、良人は吃って、 「いや、何でもないんだ。心配することは無い」  しかし、その夜彼は、一晩中まんじりともしないで、溜息と一緒に考えこんでいた様子だ。朝の食卓で、ロスリッジは思い切ったように妻に、 「何うしたらいいだろう。気になって仕様がないんだ」 「あら、何のこと?」 「あの夢さ。忘れられないんだよ。実際恐しい夢だったからな。夢――というより、まるで現実だった。背景の細かいところまで、はっきり覚えている」  細君は、珈琲の上から笑って、相手になるまいとした。 「莫迦ばかしいわ。夢のことなんか、そんなに何時までも考えてるもんじゃなくってよ」 「しかし」ロスリッジは神経的に、「少女の殺される現場をまざまざと見たんだよ」 「そんなこと仰言ってらしったわね。そして、殺したのは、あたし達の識ってる人だとか――」 「うん。そうなんだ。知っている許りじゃなく、先輩で尊敬している人なんだ」  鳥渡真剣な色が、ロスリッジ夫人の顔を走り過ぎた。 「だから、だあれ?――と訊いても、おっしゃらないんでしょう? 嫌よあたし、そんな当て物みたいなこと」  ロスリッジが黙って俯向いて、焼麺麭《トースト》の片《かけ》を弄んでいるので、細君は半ば冗談に、だが、何となくきっ[#「きっ」に傍点]とした声で、 「誰なの?」 「言って終おう」良人は顔を上げた。「いったほうがいい――僕らの教会の人なんだよ」 「教会の――? 何いってるのよ。教会にそんな人が居るもんですか」 「お前こそ何を言ってるんだ。おれは只、夢の話しをしている丈けだぞ。誰の顔を夢に見ようと、おれの責任じゃない。おれの知ったことじゃあないんだ。だから、問題の夢で、アドルフ・ホテリングさんが少女を――?」 「アドルフ・ホテリング!」細君の手から、匙が落ちた。 「あの、昨日長老になった――?」 「うむ。が、ケイト」ロスリッジは、囁きに変った。「これは何処までも夢の話しだぜ。現実と結びつけて考える必要は、少しもないんだ」 「勿論だわ。それも人に依りけりで、あのホテリングさんが――考えようたって、考えられることじゃないわ」 「何故おれは、長老ホテリングのあんな夢を見たんだか判らない」ロスリッジは、自分を責めるように悄気て見えた。 「そりゃあおれも、愚にもつかない夢として打ち消しているさ。打ち消したいんだよ。だが、昨日教会でつくづく見ると――ねえケイト、お前はそう思わないかい?」 「何を――」 「新聞やラジオで発表されたドロシイ殺しの犯人の人相が、ホテリングさんにぴったり当て適《は》まる!」  何度も読んで暗記する程知っている映像を、𥇥の裏に浮かべて、細君は暫らく眼を瞑っていたが、忽ち、ぎょっとして反《そ》ると、椅子が鳴った。 「あら、ほんとだわ!」 「ね! そうだろう?」 「ほんとに、何処からどこまで、気味が悪いほど合うわ! 不思議ねえ。すると――」 「無論、偶然の一致さ」 「そうね。偶然の一致ね」 「偶然の一致だが、犯人捜査でこんなに大騒ぎしている際だから、気になることも、気になるんだよ。あの夢のこと許り考えて、仕事も何も手につきゃあしない。何うしたもんだろう。いっそ警察へ行って話してみようかしら」 「駄目よ、警察なんて。警察へ夢のおはなしを持込んだところで、みんな笑うばかりで、誰も相手になんかしやしないわ」細君は附け足して、「それに、飛んでもないことで、同じ教会員の、しかも長老の、根も葉もない悪口を言って歩くように思われて、第一こっちが、基督教徒らしくないわ。夢は、何処までも夢ですものね。それこそあなたが大変なことになるわ」  父親に相談してみるのが、一番好いということになった。ハロルド・ロスリッジの父は、矢張り大工で近辺に住んでいたが、丁度此の時、このオウオソ町とフリント市の中間のフラッシング市に小学校の建築があって、父子とも其処に働いているのだった。不眠の眼を窪ませて異常に昂奮したロスリッジは、自分で自動車を運転して其のフラッシングの建築場へ駈けつけると同時に、直ぐ父親を捜して、片隅へ伴いながら、呼吸を弾ませて私語いた。 「お父さん、あのシュナイダア事件の犯人のことですがねえ。不思議なことから、私に、若しやと思う当りがあるんです――」  低声だったが、二人の頭の上の足場に居て、ふと此の声に聞き耳を立てた者があった。シェルドン・S・ロビンスン―― Sheldon S. Robinson ――と言って、マウント・モウリス町の大工である。高い所へ上って何気なく仕事をしていたのだが、飛び込んできたロスリッジ青年の慌しい様子に、鳥渡其方へ注意が行った拍子に、この容易ならぬ言葉が聞えて来たのだ。じっとロスリッジの話しに耳を傾けていたが、軈て其の終るのを待って、ロビンスンはそろそろと足場から降りて来た。そして、道具を捨てて、何処へとも言わずに仕事場から姿を消したのだった。  ロスリッジの相談を受けた父親は、初めの内は好い加減に聞き流していたが、息子の態度が余り真剣なので、それならばと、兎に角オウオソ町の警察へ同行して、嗤われるのを覚悟の上で一応その夢物語を届けて置こう――苦笑した父親が、ロスリッジと同車してオウオソへ引っ返そうとドライヴし出した時、一方は、立ち聞きしたシェルドン・ロビンスンである。  疾うにフリント市のジェネシイ郡|警司《シェリフ》フランク・グリイン氏の事務所に自動車を乗りつけて、友人である代理検察官の一人マアク・ペイルソルプ Mr. Mark Pailthorpe に、いま聞いた通りのロスリッジ青年の夢の話しを耳打ちしていた。  が、言う迄もなくペイルソルプは、この奇抜な聞込みに一顧の価値をも認めなかった。事件以来、ありと凡ゆる根拠のない風説や、個人的な悪感情に基くとしか思われない様ざまな意外な人への疑点や中傷などが、連日何十何百となく、或いは態わざ自身訪問して、あるいは文書で、しっきりなく舞い込んで来ていて当局は応接に暇なく、極度に悩まされ続けていた。明らかに、これも其の一つに過ぎない。しかし、捜査は未だ五里霧中にあって、刑事連は、藁をも掴み度い焦燥に駆られている最中である。  無駄を承知で、鳥渡掘じくってみようか。その分には損はない――ペイルソルプは、机上を片附けて起ち上がっていた。 「おい、誰か僕と一緒に、骨折り損の草臥れ儲けに出掛ける物好きはないか。タマス・ケリイ君、ヘンリイ・マンガア君、何うだ散歩の心算で来給え」 [#5字下げ]6[#「6」は中見出し]  Mark Pailthorpe, Thomas Kelly, Henry Munger ――この内タマス・ケリイは黒人である――の、偶然にもフランク・グリイン氏部下の最も敏腕なる、三羽烏とでも謂い度い此の三人の刑事が、ロビンスンを案内に、直ちに其の場からフラッシングへ自動車を走らせて、小学校の建築場でハロルド・ロスリッジに面接し、質問している。  若い補祭はすっかりどぎまぎして、ペイルソルプの問いに、逡巡して答える許りで初めは一向要領を得なかった。教会でも一個の人格者と観られ、殊には、全メンバア一致で名誉ある長老職に押されて間もない信友であり、先輩である。単に半夜の夢で、この人に此の恐しい嫌疑を投げていいものだろうか。これこそ夢のように他愛ない、そしてそれだけ又、自分としては許す可からざる隣人への罪を犯しているのではなかろうか。刑事連を眼前に、彼は改めて、この夢と現実に苦しまなければならなかった。  が、事実そういう夢を見たか何うか、飽く迄も夢の話しとして訊くのだ――と、ペイルソルプに説かれてみると、ロスリッジも終に肯定して、 「はい。確かに、オウオソ基督教会の長老アドルフ・ホテリングが小川の岸で少女を惨殺するところを夢に見ました」  刑事達は苦笑した。 「そうですか。いや、有難う。只しかし、夢は夢で、一体警察の仕事は、夢なるものを重大視す可く余りに非詩的《プロザイク》で実際的なのが、大いに残念ですなあ」  笑って引き上げた。今迄も随分捜査上の喜劇にぶつかった事はあるけれど、まあこれが傑作だろう。夢とは面白い。殊に、人もあろうに教会の長老が――彼らの頭脳は、署へ帰ってからこの素晴らしいユウモアを何ういう冗句《ジョーク》にして同僚達を笑倒させてやろうかという、持前の、亜米利加人らしい呑気な思索で忙しかった。  突然、フリント市への帰路を運転していたタマス・ケリイが、思いついたのだ。 「何うだい、序でだ。其の大工の長老様ってのを拝んで行こうじゃないか」 「そうだ、そうだ」剽軽者のヘンリイ・マンガア老人が直ぐに応じた。「夢の御本尊を見なくっちゃ話しにならねえ」 「じゃあ、オウオソで少し油を売って行くか」  自動車は砂を噛んで廻れ右をした。  こうして、戯け乍らオウオソ町北ヒッコリイ街九〇八番のホテリング方を訪れた刑事達は、それでも、念のため小当りに当ってみる気が、底にあったのだ。矢張り彼らは、刑事だった。名うての三羽烏だった。  主の人柄其のもののように、謙遜な小住宅である。小淡白《こざっぱり》と手入れの往き届いた前庭を横切って表玄関《フロント》の鈴を押すと、品の好いホテリング夫人が取次ぎに出て、往来に面した広い客間へ案内した。  アドルフ・ホテリングは、家庭的なのんびりした顔で、何思うともなく椅子に掛けている。 「何か御用ですか」  にこにこして、起ち上った。  刑事達は、困って、肩を擦り合わして戸口《ドア》に立ち停まっている。魔誤まごし乍ら、三人とも、右手から左手へ、それから逆に、続け様に帽子を持直して許りいるのだ。 「署の者ですが――」  やっとペイルソルプが、口を切った。相手は大工ではあるが、聞えた敬神家で、衆望を集めている教会の長老である。一青年の愚にも付かない夢に関連して、滅多な事は言えないのだ。そういった顧慮以外に、三人は、心からの尊敬をも篤信家ホテリングに対して有っていた。 「鳥渡或る事で、最近の御動静をお洩らし願い度いんですが――形式なんです。ほんの形式なんです」  謝まるような口調だ。ホテリングは、宗教的な人に共通の静かな威厳をもって、 「お易い御用です。然し、最近の動静と言っても、実は、お恥しい次第ですが失業して、この二週間程ぶらぶらしている丈けで――精ぜい彼方此方仕事口を探しておりますが」  長老の穏やかな態度には、元より何ら警戒的なところなど見られない。よく来たと言い度そうな、開けっ拡げの微笑なのだ。 「誠に詰まらないことをお訊きして恐縮ですが」ヘンリイ・マンガア老は、擦り消したキャムルに火を点け乍ら、「ダッジの箱型《セダン》をお所有でしょうか」 「有っております」  事務的な答えだ。三人は、ちらと素速い眼を合わせて、 「御自分で運転なさるんで――?」 「はあ。自分でドライヴしております」  より事務的な返辞である。 「其の自動車は今何処にありますか」 「自動車ですか。車庫にあります」 「何んな塗色《いろ》ですか」 「黒です」  黒――黒では眼指す車ではない。が、言うまでもなく、あの兇漢の自動車が此の長老の車庫に在る訳はないのだ。お役目に調べていたのが、斯う立派に逆証されて、刑事たちは、これでほっと安心した気持ちだった。同時に、足を使ってやって来て、こうして長老の暇を潰している自分達の立場が顧みられて、些か照れ臭い感じだ。  引き揚げるに如かず――。 「や、何うも、お邪魔しましたです」ペイルソルプは、握手の手を差出して、「お察し下さい。吾れわれ警察の者は始終下らないことで駈けずり廻っております。これも仕事で、あははははは」 「いえ、貴方がたがいらっしゃればこそ、町民は枕を高くして眠られるというものです。尊いお仕事です。私どもも常に感謝を忘れません。何らお役に立ちますまいが、知っている事は何でも申上げます」 「いや、もう別に――失礼しました」  ホテリングに送られて、三人が玄関の廊下へ出た時だ。老刑事ヘンリイ・マンガアが急に、 「折角ここまで来たものですから何うです、其のダッジのセダンを拝見して行っては」  気軽に首頷いたホテリングについて、一行は家の横から裏庭へ廻った。ささやかな空地がある。粗末なガレイジが建っている。幅の広い横扉《ドア》が開け放しになっていて、二台の自動車が見える。成程一つは、黒塗りの Dodge の箱型《セダン》だ。  刑事達は、暫らく其のダッジを取り巻いて眺めていたが、鹿爪らしい顔で全く不必要なことをしているようで、段だん面映ゆい気がして来る。照れ隠しにペイルソルプが運転台のドアの把手《ハンドル》に手を掛けると、 「さあ、行こう」  ケリイが言った。ペイルソルプは把手から手を離して、其の儘身体を廻そうとした。すると、これが所謂ものの機《はず》みである。その、車体に近く引き下げられたペイルソルプの右手の指に、大きな印形《シグニット》入りの金指輪――刑事らしい好みだ――が嵌められてあった。それが、ドアを撫でたのだ。擦ったのだ。急いで手を引く拍子だったので、案外強い力だったのだろう。指輪が、激しく車体に触って、黒|塗料《ぬり》の表面をちょっと削り除った。車扉に瑕が付いたのだ。と、下から、青い色が覗いて見える。青い痕――指輪が表被を削り取った下は、地が青いのである。  青――も、只の青ではない。青灰色――|駒鳥の卵の色《ロビンス・エッグ・ブルウ》という特種の混合色なのだ。  少女ドロシイの暴行虐殺犯人は、駒鳥の卵の色のダッジのセダンに乗っていた。  ホテリングは、この小さな出来事に気が付かない。静かにガレイジの戸口に立って、外を見ている。三人の刑事の眼に、一時に異様な緊張が来た。凡ゆる不可能は、場合に依っては可能である。真逆、と思う、そのまさか[#「まさか」に傍点]を決して除外出来ない事は、経験が彼等に教える所だ。青灰色のダッジ――斯うなると、この尊敬す可き長老と雖も、最少し叩いてみなければならない。  咄嗟に、無言の相談が纒って、 「鳥渡伺いますが、先週の木曜日に、フリント市へ行きましたか」  ペイルソルプが、逸る声を抑さえて、ホテリングの背中へ訊いた。  相手はゆっくり振り返って、 「はい、参りました。仕事を探しに行ったのです」  何らの感情を示さずに、ホテリングはそう首肯いたが、この答えは、兎も角此の際、運命的なものだったと言っていい。  タマス・ケリイがしきりに話しかけて、自然らしくホテリングをガレイジに引き止めて置いている間に、ペイルソルプとマンガアは家へ引っ返して行って、何事が起ったのか喫驚しているホテリング夫人へ、 「あの御主人のダッジは何んな色でしたな」 「あら、何故でしょう。灰色がかった青で御座います」 「今は青じゃありませんよ。黒ですよ」マンガア老刑事が、 「最近黒に塗り直したんじゃないんですか」 「へええ、存じません。確かに青灰色の筈ですけれど――変ですねえ」  刑事の要求に依って、ホテリングの外套と帽子が全部持出された。帽子の一つは「大きな眉庇の附いた黒褐色毛皮製の鳥打帽」で、前掲の農夫アウナイ・ベエコンの述べた犯人の帽子と完全に一致するのだ。三人は、どきどきして来る心臓を鎮めて、その外套の右肩へ一斉に眼を据えた。再びベエコンの証言に依れば、「薄茶と緑の霜降りの外套、其の右肩の部分に、一見何人も気の付く著しい油の汚点がある」――筈である。成程外套は薄茶と緑の霜降りだが、汚点は無かった。が、よく見ると、最近入念にクリイニングした形跡が、読まれるのである。  底は、もう割れた。  不可能が、可能どころか、確定に急転したのだ。自動車の塗色の事から胸を躍らせ乍らも、一方、今の今まで「真逆!」と強く否定していた其のまさかが、既に動かない現実として眼前に展開し出したのだ。  感づいて、逃げはしないだろうか――急に心配になって来た。ケリイは、この発見は知らないが、巧まくガレイジで会話で継いで居て呉れればいいが――。  ホテリング夫人も、此の不時の警官の来訪目的が何であるか気が付いたらしい。恐怖が、顔へ滲み出て来た。が、平静を装って、他二、三の質問に答えると、台所の窓から、大急ぎに車庫へ帰って往く二人の刑事の後を見送った。 「ホテリングさん!」  ペイルソルプが、愛想好く声を掛けた。 「御迷惑でしょうが、鳥渡署まで御同行下さい。なに、お手間は取らせませんよ」 [#5字下げ]7[#「7」は中見出し]  この恭敬篤厚な、長老アドルフ・ホテリングを拘引する。何か他に適確な証拠でも挙がったというのだろうか。それにしてもあの兇悪無二の犯行の嫌疑が此の人の上に――本人のホテリングよりも、何心なく雑談していたタマス・ケリイ刑事の方が、さっと顔色を変えた。蒼くなった――と言っても、ケリイは黒人だから、正確には、その蒼さが濃度を増して、一段と黒くなった。真っ黒になって愕いた。まさに暗然としたのだ。 「警察へ?」ホテリングは不思議そうだが、穏やかに、 「何しにです」  ペイルソルプの返事は、ずばりとしたものだった。 「ドロシイ・シュナイダア事件についてお聞きし度い事があるのです」  敬虔な長老は、鳥渡どきりとした様子だ。が、何も言わない。額部へ汗の粒が染み出て来て洋袴《ズボン》のポケットからハンケチを取り出して拭こうとした。それは、現場のブレント入江《クリイク》の草原で残雪にまみれて発見された「男持ちの血染めの手巾《ハンカチ》、白地に青い線で縁取った大判の、木綿の安物」と、完全に同種のものである。マンガア老人が素早く手を閃めかして、ハンケチを捥ぎ取る。前後を固めて歩き出したが、一応家へ這入って妻子に告別させることにした。妻の前にホテリングが無言で立っていると、ペイルソルプが説明して、 「御主人のお力を借り度い事があって、これからフリント署まで来て戴くことになりました」  ホテリング夫人も黙って、良人の顔を凝視めている。ペイルソルプが続けた。 「殊に依ると、当分帰宅れないかも知れませんから、その心算で――」  夫人は、静かにうなずいた。其の間ホテリングは、何も知らずに纒わり付いて来る幼い子供達の顔を、じっと見廻していた。二人とも女の児で、Vida は九つ、妹の Theresa は三歳である。ホテリングは割りに、子福者で、長女も次女も結婚して、上は Mrs. Joseph Wagner と言って二十五歳、つぎの Mrs. Lyle Munroe は二十一でそれぞれ夫の家に居た。三番目が長男で十六になるドュヴォア Devore、これは其の時オウオソの中学校《ハイ・スクウル》に行っていて留守だった。  これだけの可愛い子等の父であり、恐らくは何人かの祖父でもあろうホテリングである。しかも、前から度びたび言う通り穏厚篤実をもって知られた、町の教会の長老《エルダア》なのだ――が、他方、動かす事の出来ない数々の証拠を思い合わせて、今更のように刑事達は、言い様のない恐怖に襲われた。そして、ひょっとすると、飛んでもない間違いをしているのではあるまいか。いっそそうであって呉れればいい――心の何処かで、そんな気もするのである。  情において忍びないが、斯くてある可きではない。引き離すように別れさせて、玄関へ出た。良人を敬愛する妻、父を慕う幼児が、後を追って出る。再び、此の善き隣人、美しい家庭人が、何うしてあのドロシイをああも悪魔的に凌辱虐殺したと信じられよう――。 「アドルフ! アドルフ!」ホテリング夫人が、叫んだ。 「貴方は身に覚えのない事です。何卒警官に、そうはっきり言って下さい!」  自分達の過失を隠すためのように、刑事達は慌てて長老を自動車へ押し込んだ。妻子がドアに立って手を振っているのに、ホテリングは一度も振り向かなかった。恐怖や狼狽を感じている様子はなかった。ただ吾れを忘れたように、何か頻りに沈思している風だった。タマス・ケリイがハンドルを握って、ペイルソルプとマンガアは、ホテリングを中に挟んで後部の座席に就いた。急いでいて、身体検査はしなかった。途中も、色いろ訊問してみたが、ホテリングが皿のように黙りこくっているので、無理に口を開かせようとはしなかった。刑事たち自身、妙に考え込んで終って、口数が尠なかった。若しホテリングが無罪と立証されたら、自分達は何うなるだろう。勿論責任問題だが、教会の長老ではあり、これは只では済まない。そんな考えも期せずして彼等を憂欝にしている。オウオソとフリントの間の真ん中辺へ来た時である。隙を窺ったホテリングが、ポケットから、刄を折り畳んだ鋭利なナイフをとり出して、いきなり咽喉を突こうとした。驚いた刑事が、二人掛りでナイフを取り上げて直ぐ手錠を嵌めると、忽ちホテリングは、今の騒ぎも忘れたように、けろり放心状態に這入って、ぼんやり前方を見詰めているのだ。ナイフを審べて見ると、刄に、明らかに濃い血雲りがある。そして、柄の奥に被害者ドロシイの着衣と同一の色彩、織り方の布地の小破片が、血に固まって挟まっている。もう凡ゆる顧慮を取り去って、世にも狂暴な一殺人者とのみ扱って万間違いない。ペイルソルプは、ほっと微笑した。 「おい、長老さん、気の毒だが、到頭尻尾を出しゃあがったな」  長老の鉄の神経が、漸時に彼を去りつつある。呼吸が、速く荒くなって、鈍い眼に、動物的な欝血が来た。瞳を上釣らしておろおろと車内を見廻して許りいる。今にも発狂しはしまいか――マンガアが運転台のケリイに注意して、交通規定を無視した自動車は、すっぽり窓の覆いを下ろして砂塵を捲いて驀進する。悲しみの家シュナイダア方の前を急カアブしてフリント市へ一直線のディクシイ街道へ躍り出た。  ジェネシイ郡刑務所へ収容されると同時に、ホテリングは再び自殺しようと試みている。何時の間にか看視の眼を眩まして廊下の隅から錆び釘を抜き取って、また咽喉へ突き立てたのだ。ほんのかすり傷だが、血が流れ出て、襯衣の前を真紅に染めた儘、刻を移さず郡警司フランク・グリイン氏のまえへ引き出された。これより先、刑事の一人は逸早く宙を飛んで、何時でも召喚出来るように自宅に足止めしてある、あの、犯人の顔を見識っている唯一の証人アウチイ・ベエコンを迎いに走っている。ドロシイ殺しの犯人が挙ったという噂は、忽ち此の辺の名物の野火のように、もうフリント全市に拡がっていた。冬のことで、早い夕闇と緒に、刑務所の前の野次馬は刻一刻人を加え気勢を増して来る。間もなく、息せき切ったベエコンが、前屈《のめ》るようにグリイン氏の室へ突き込まれて来た。瞬間、部屋中の顔から顔へと眼を走らせて、ふと其の視線が、刑事に囲まれて立っているホテリングを撫でると、――その儘動かない。一、二秒窒息的な静寂が、あった。ベエコンは、妖気に魅縛されたように、不思議な陶酔でホテリングを凝視めていたが、軈て気が付くと、彼は犯人に跳びつくように拳を振り上げていた。 「こいつだ!」叫んだ。呻いた。「此の野郎です。ああ、この野郎です!」  ホテリングはがっくり崩れたが、直ぐ、眼を血走らせて、四肢を取られている刑事達の手を振り解こうと踠いた。が、椅子に抑さえ付けられると、反抗の気持ちが、急に煙りのように消えたものとみえる。 「私が遣ったんです」囁いた。「私がやったんです――」  何度も繰り返した。そのたびに癇高い声になって、最後は、殆んど絶叫だった。激情に促されて、自白が、色の無い口唇を流れ出て来た――纒まりのない、躓くような片言である。鬼が哭いているようで、それは、聞く人の顔から血の気を奪うに充分だった。 「自動車で来る途中、あの児の歩いているのを見かけたんです。とぼとぼ歩いて往くのが可哀そうで、乗せて行ってやろうと思い付きました。私は子供が大好きです。自分にも、五人あります。それで、あの児を自動車へ乗せたんですが、其の時は自宅へ送り届けてやろうという考え丈けでした。が、その内に無邪気な子供を見ていると、悪魔が、そうです、悪魔が私に降りたのです。それはもう私自身ではなくて、悪魔の意思でした。此処だと言うので、一度あのディクシイ国道とロレイン街の曲り角で自動車を停めたように記憶していますが、悪魔の手が、下りようとするあの児の前へばたんと車扉《ドア》を閉めて、それからは夢中でスタンレイ街道へ乗り入れました――何を考えていたか、凡べて悪魔の仕業です。あの娘は、車の中でしくしく泣き出していました。自家《うち》へ帰り度いと言うのです。早くうちへ伴れて行かないと、お母ちゃんに言いつけるといって、泣くんです――」  告白者の口は、捻ったように歪み、手は無意識に、しきりに血だらけの頸を撫でさすって、指が、痙攣的に開閉している。一寸|語《ことば》を切って、顔を前へ突き出した。耳を立てる。二階下の正門前の犇めいている物凄い群集の喚声に聴き入っているのだ。と、突如、蹴るように椅子を離れて、人間と言うよりは、けだもののような乾いた唸り声だ。 「聞えます。私の耳には、今でもはっきり聞えます――あの娘は最後まで、うちへ帰らして呉れと言って泣き叫びました。それが、聞えるんです」  皆押し黙っている。警官、新聞記者、誰も口を開かない。その面前に揺れ悶えている、血を浴びた、ぐじゃぐじゃの動物から眼を離す力が無いもののように、呆然と見入っているきりだ。ホテリングの蒼い口尻に、泡の玉が吹き出て来た。癲癇の兆候――ぐったり頭を抱えている。 「ホテリングさん!」  検察官グリインが、優しく、洋杯《コップ》に水を注いで持たしてやり乍ら、 「そんなに興奮することはないでしょう。で、その一時あなたの中に宿った悪魔が、少女を姦した上殺して、屍体を弄んだり切断したりした後、小川へ抛り込んだと言うんですね。いや、よく判りました。成程不届きなのは悪魔ですが、然し、責任は何うも長老にもって戴かなければならないようですな」  と皮肉に微笑すると、ホテリングは、もう発作から醒めたように澄まし返って、同じく微笑を浮かべて答えた。 「其の話しは止しましょう。亜米利加中みんな知っている事です。言わないで下さい。私にも、いわせないで下さい。私にも、いわせないで下さい」  街上の群集の騒擾は頂点に達していた。危険な状態である。刑事の一人が、急に洒亜しゃあし出した犯人の態度に憤りを抑さえ切れずに、 「あれが聞えるか。あいつ達はお前を何うしょうと言うのか知ってるだろう」  二度も自殺しようとしたホテリングが、俄かに追い詰められた野獣のような眼になって腰を浮かしながら狂的に室内を見廻したが、元より逃げ途のあろう筈のない事を知ると、真剣な怖れに捉われたらしく、この儘此の刑務所に留置されるのか何うかと訊いた。検察官《シェリフ》達は相談して、ホテリングを引き立て裏口からこっそり、武装した一隊の騎馬巡査の保護の下に、自動車で出た。斯うして犯人は危いところで無事送局されたのだった。が、それを知らないモッブは全市から蝟集して来て、何時の間にか統率者が出来て、頑強に犯人の引渡しを要求している。約千五百人の群集の大部分は、狂ったような婦人連、巷の母親達だった。刑務所を取り巻く道路を埋め尽して、私刑《リンチ》を叫ぶ声が怒濤のようにどよめき渡った。リイダアと、最も激昂した群集の一部は、シュナイダア家の町マウント・モウリスの人々だった。犯人の身体に手を置いて心往く許り残虐を加え腹の虫を癒そうと言うのだ。この騒ぎの最中もう一つ騒動が沸いた。というのは、ペイルソルプ刑事が、あの若い大工の補祭ハロルド・ロスリッジを拘引して来たのだ。ペイルソルプの意見では、あんな素晴らしい夢を見乍ら、直ぐ警察へ訴え出もせずに、長いこと独りで楽しんでいた許りか、訊かれても愚図ぐずして快く返事もしなかったのは、只に、当局の努力を助ける市民的に当然な誠意を欠くのみでなく、明白に、そして故意に、捜査の進展を妨害し、正義の邪魔をしたもので、公務執行妨害か犯人隠匿か或いは此の二つの併合罪に当るものだというのだ。鳥渡妙な議論だが、兎に角ペイルソルプはそう言って敦圉《いきま》いた。この通り記録にあるのだから仕様がない。何しろ、普段は退屈其のもののようなミシガンの田舎に昂奮の絶頂が襲来して、人の心が銘めい出鱈目に突っ走っている際だから、色んな珍聞が飛び出して来るのは無理もないが、斯うなると、青年補祭ロスリッジ君も仲なか負けていない。負けてはいられない。ペイルソルプの遣り方が癪に触って耐らないので、竹箆返しに、ペイルソルプは自分に罪を構えて、犯人逮捕の懸賞金を独占しようとしているのだと言い出した。 「何だと? 窓からモッブへ抛り出す可き奴はお前だ!」  ペイルソルプが喚いた。まるで喧嘩になって、ロスリッジはやっと帰宅を許されたが、群集の激昂と脅威は昇度する一方である。遂に煉瓦が飛ぶ、刑務所の硝子が割れる。外部と呼応して囚人が鬨の声を揚げる。忽ち窓硝子は一枚残らず破れ散って係官は恐慌の余り、ランシング市に居る州知事フレッド・W・グリイン氏 Mr. Fred W. Green 保安課長《セイフティ・コミッショナア》オスカア・オランダア氏 Mr. Oscar Olander へ電話で急報した。暴動の一種だと言うので、知事の職権でミシガン州国民軍フリント支部が非常召集されて群集に当っている。鳥渡吾れわれには理解出来ない心理だが此の時のフリント市の擾乱は大変なものだった。 [#5字下げ]8[#「8」は中見出し]  催涙弾を投げたりしたが、人の上に落ちて破裂しないのを、その儘群集が抛り返して却って刑務所の中に毒煙が罩もって看守も囚人も大弱りだったなどという喜劇もある。代理検察官ロイ・レイスが、群集中の重立った者を所内へ入れて、事実犯人ホテリングが移送されて居ないことを見せて廻ってやっと納得しかけた。其処へ、出動して来た軍隊が銃剣を並べてモッブへ割り込んだ。これで徐々に鎮撫したのだった。  其の時|警司《シェリフ》グリインの一行はホテリングを護送して、万一の追跡を避けて道のない道を一路首都ランシングへ急行しつつある。それ程大事を取ったのだ。フリントを出外れると、氷雨が落ちたりやんだりして、凍った路にタイアが辷った。何度も事故しようとして、気は急くし、危険極まるドライヴだった。  ランシングの州検事局でホテリングが署名した告白書から抜粋してみると――。 [#ここから1字下げ、折り返して3字下げ] 問。被告は無理やりに少女を自動車へ乗せたのではないか。 答。そう言うことはありませぬ。歩いている横へ停めて、乗らぬかと言いましたら直ぐ乗ったのであります。 問。ブレント入江へ伴れて行ったのは何の為か。 答。そんな処へ伴れて行った覚えはありませぬが、つれて行ったと言うなら行ったのでしょう。 問。伴れて行って何うしたか。 答。水の中[#「水の中」に傍点]ですか。 問。殺害の順序方法を述べてみよ。 答。あの娘を殺した者があるなどと、それは全く不可能の事にしか思えませぬ。 問。殴打して殺したのではないか。 答。そんな事はないと思います。 問。暴行の模様を述べよ。  ―笑って答えず。 問。ナイフで殺したのか。 答。はい。其のようであります。 問。何度突いたか。 答。一度で充分でした。 問。死体の衣服を剥ぎ脱って何うしたか。 答。一切記憶がありません。 問。死体は何うしたか。 答。斬って川へ沈めた。 問。その斬っている時何ういう感じがしたか。 答。別に何ういう感じもしませんでした。 問。何の為めにそんなことをしたか。 答。それは解りません。多分悪魔が乗り移っていたのでしょう。オウオソ町には七千人の人が住んでいますが、其の中で一人として、私を指して悪い人間だと言う者は無い筈です。 問。このナイフで殺したのか。 答。兎に角それは私のナイフのようです。  次ぎは州刑事部長リチャアド・エリオット氏の取った調書である。 問。被告は酒を飲むか。 答。飲みません。一度も杯を手にした事はありません。煙草も吸いません。それだのに今こんな所へ来ているのは、凡べて悪魔の仕業で、自分でも驚いている訳です。 問。犯行後の日曜に、教会で補祭を勤め乍ら何う感じたか。 答。何うも感じませんでした。基督教の教議を考えていた丈けです。 問。殺した少女の事を思い出さなかったか。 答。思い出しませんでした。 問。教会を出てから思い出したか。 答。はい。多分思い出したでしょう。 問。前年の加州羅府のマリアン・パアカア殺しの新聞記事を読んだことがあるか。 答。よく読みました。 問。それに付いて何と考えたか。 答。恐しい事だ、悪いことをするやつがあると思いました。始終その事を考えていました。頭にこびり附いて離れませんでした。I think about it, think about it, think about it. [#ここで字下げ終わり] (一)一九二七年八月二十八日、マウント・モウリス町共同墓地に於けるサンドラ・G・バックスタア嬢の墓地発掘、屍姦並びに死体毀損、(二)同年十一月一日、フリント市共同墓地でのエヴアリン・ダンカン嬢暴行絞殺事件、(三)おなじく十二月二十六日、オウク・ヒル町墓地において女中マアサ・ガッツを強姦、(四)一九二八年一月五日のカアランド山道におけるフロリア・マクファドンの暴行事件、果してこれら凡べてが、此の Adolph Hotelling 長老――何と穏厚篤実な信心家! ――実に穏厚な活躍であったことを突き留めたのは、この時訊問に当ったリチャアド・エリオット氏だった。  ホテリングは、グリイン知事出身市の、州刑務所々在地ミシガン州アイオニア市に移されて翌火曜日の早朝、今度はシャワジイ郡検察官Q・ロウカックとJ・A・フインクの前に引き出されて三度訊問を受けている。デトロイト市の探偵が同市郊外に起った二件の幼児殺しに関する一件書類を持って派遣されて来ていて、この審問に立ち合ったが、それは何うやら尊敬す可き長老の働きではなかったようだ。ホテリングの家族はこれらの自白を信ずる事を拒んで、「敬神家」の友人のオウオソ町の弁護士W・A・シイグミラアを立てて抗争の準備をしていた。が州としては、フリント市のモッブ騒動の例もあり、未だに私刑《リンチ》を要求する不穏の気が漲っているので、密かに、そして一日も早く罪を決めて終い度い。其処で一策を案じて、深夜、ホテリングと巡回裁判長のW・ブレナン判事、シイグミラア弁護人、其の他関係官一同を無燈自動車へ乗せて、ジェネシイ郡選出の上院議員ピイタア・レノン氏―― Senator Peter B. Lennon ――の荘園へ出掛けてぐるぐるドライヴし乍ら、車上法廷である。これがほんとの巡回裁判とは、嘘のような洒落た思い付きだった。ミシガン州には死刑はない。最も重い体刑は終身懲役である。勿論長老の精神状態が問題になって、その鑑定が知事へ申請された。オウオソ町基督教会の牧師フライ師が独房にホテリングを慰問して、二人は相擁して泣いたりしている。 「私はあなたに告白し度かったのです。長老に昇進する前日、土曜日に、余っ程告白しようと思って、牧師館の前まで行ったのですが、とうとう其の勇気が無くて引っ返して来ました。早く告白して、牧師さんの手で警察へ渡されれば本望だったのです」  面接後、フライ牧師は興奮して新聞記者に語った。 「私はアドルフが、私の教会のメンバアであったことを、少しも恥じる気持ちはありませぬ。私の識っている彼を想い出すと耐らなく悲しいのです。しかし彼は、精神的に不健全な人間です。憎むことも、恥じる事も出来ないと思います」  息子のドュヴォアも、シイグミラア弁護士と同行して父を訪れた。子供の、泪に光る微笑に見詰められて、ホテリングは、廊下中に響く声を上げて号泣したそうだ。ホテリング夫人は、有罪と確証された以上、群集の手に落ちて私刑された方が増しだと言って、一部に鳥渡問題になったりした。夫人としては、被害者の親達に対する迫った気持ちから、切実に、正実にそう感じたのだろう。ドュヴォア少年は、 「父は、私が物心ついてから一度も、荒い言葉で叱った事もありませんでした」  などと、父親に花を持たした。  獄中のホテリングは、未だまだ小出しに、その大好きな告白を続けていて、段だん判明したことには入浴中の娘を覗いたり、夫人連の寝室を隙見したり、夜間樹に登って二階の若夫婦の生活を望見したりなど、この二年来、附近一帯に恐慌を振り撒いていた変態者が、彼だった許りでなく、今挙げた四事件の他に――。 [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ] (五)直接問題となった犯行ドロシイ・シュナイダア殺し。 (六)前年の夏、オウオソ町郊外の墓地で Esther Skinner ――八歳――を暴行傷害したこと。 (七)同じ頃、Hern という二十七歳の女を襲って未遂に終った事件。 [#ここで字下げ終わり]  この二つは、一般には知られていなかったが、当時のシャワジイ郡|警司《シェリフ》アウサア・J・ハンチェットがそういう被害の届出を受理していた事が判って、これも、敬虔なる長老の活動として裏書きされた。デトロイトの裁判医セ・オフィル・ラファエル博士がホテリングを検診して、幼児に誘惑を感ずる特殊のサディストで、其の宗教的一面は、この自分の中の変態性を克服しようとして焦慮する最も自然な、そして無意識の努力の現れに過ぎない。昼と夜で一日を成しているように、此の正反対の二つの傾向こそ、両方とも真実の彼の姿であり、両者が不可分に彼を形作っているのだと発表した。近世に於ける素晴らしい「ジェキル博士とハイド氏」の実例である。ドロシイの父ウイリアム・レスリイ・シュナイダアが法廷でホテリングへ跳び掛って殴ったりした揷話もある。終身刑を宣告して、ブレナン判事が、 「何か言う事があるか」 「私の家族のことを考えて戴き度い」 「お前は、自分の殺した少女達の家族のことを考えた事があるか」 「私は世界中で一番深い悲しみを持っているものです」  スペリオル湖畔の、荒凉たる黒い森の奥に、ミシガンのシンシン・マルケット刑務所の鉄扉が固く締まっている。アドルフ・ホテリングは、今も其の中で労役に服しているのだが、典獄 James P. Corgan 氏の報告では、精神異常の風も認められない。マルケット第一の模範囚徒だそうだ。ハロルド・ロスリッジの夢に対しては、各地で、多くの心理学者が解説を試みたが常識的には、連日新聞で貪り読んだ犯人の人相書《デスクリプション》の印象と、日頃接しているホテリングの容貌との相似が、潜在意識に結び付いてあんな夢となって現れたのだろうと言われている。 底本:「世界怪奇実話Ⅰ」桃源社    1969(昭和44)年10月1日発行 入力:A子 校正:林 幸雄 2010年10月28日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。