竈の中の顔 田中貢太郎 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)相場三左衛門《あいばさんざえもん》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)四|目《もく》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)Ⅰ ------------------------------------------------------- [#10字下げ][#中見出し]Ⅰ[#中見出し終わり] 「今日も負かしてやろうか」  相場三左衛門《あいばさんざえもん》はそう云ってから、碁盤《ごばん》を中にして己《じぶん》と向いあっている温泉宿《ゆやど》の主翁《ていしゅ》の顔を見て笑った。 「昨日《さくじつ》は、あまり口惜《くや》しゅうございましたから、睡《ねむ》らず工夫《くふう》しました、今日はそう負けはいたしません」  主翁《ていしゅ》は淋しそうに笑って手にした石をおろしはじめた。 「そうか、それは油断をせられないな、小敵《しょうてき》と見て侮《あなど》ることなかれ、か」  三左衛門はあっちこっちに石を置いている主翁の指端《ゆびさき》の顫《ふる》えを見ていた。それは主翁の神経的な癖であった。 「今日はそうは負けませんよ」  主翁はひどく碁が好きであったが、それは所謂《いわゆ》る下手《へた》の横好《よこず》きで、四|目《もく》も五目も置かなければならなかった。それでも三左衛門は湯治《とうじ》の間の隙潰《ひまつぶし》にその主翁を対手《あいて》にしていた。 「それでは負けないように願おうかな」  三左衛門は江戸を出てこの箱根の山中《さんちゅう》へ来てからもう二十日《はつか》あまりになっていた。 「それでは、今日は勝ちましょうか」  二人のおろす石の響きが思いだしたように響いていた。それは初夏の明るい日で開け放した障子《しょうじ》の外はすぐ山路《やまみち》になっていて、そこをあがりおりする人の影が時とすると雲霧《くもぎり》のように薄《うっ》すらした影を曳《ひ》いた。 「お客さんが来たのじゃないか」  三左衛門は人の影とも鳥の影とも判らないものが映ったように思ったので注意した。 「お客さんは来るには来ましたが、このお客さんが悪いお客さんで、困っております」  主翁は碁に夢中になっている。 「悪いお客なら、断らなくちゃならないな」  三左衛門は笑いながら縁側《えんがわ》の方へちょと眼をやった。色の蒼白《あおじろ》い痩《や》せた僧がそこに立っていた。 「これは、旅僧《たびそう》」  三左衛門はちょと会釈《えしゃく》した。 「ちょっと覗《のぞ》かしてもらいます、私もいたって碁が好きでな」  僧も三左衛門に会釈を返した。その声に主翁がはじめて気が注《つ》いた。 「や、これはお坊さんだな、まあ、どうかお掛けなさい」 「ちょっと覗かしてもらいます」  僧は黒い破れた法衣《ころも》を着ていた。彼は冠《かぶ》っている菅笠《すげがさ》の紐《ひも》を解《と》き解き縁側に腰をかけて、斜《ななめ》に碁盤の上を覗き込んだ。 「さあ、それでは往こうかな」  三左衛門は控えていた石をおろした。 「それでは、私もまいりましょうか、ここか、ここにしよう」  主翁はもう僧のことも忘れてしまったように石をおろしだした。 「それでは、私はここにする」  三左衛門のおちついた声に交《まじ》って、主翁のきょときょとした声が聞えた。 「またいけない、これとこれが繋《つな》がった、お客さん、また負けました、もう駄目です」  主翁《ていしゅ》はがっかりしたように云った。三左衛門の笑い声が起った。 「今日は負けるはずじゃなかったが、どうした」 「どうも」  主翁は右の耳際《みみぎわ》を軽く掻《か》いてからその眼を僧の方へやった。 「お坊さん、どうだね、私はどうも駄目だ」 「私も好きだが、どうも下手でな」 「同じ対手《あいて》より、ちがった対手が面白いものじゃ、ひとつやったらどうだな」  僧は厭《いや》でないと云う顔をした。で、三左衛門が云った。 「ひとつ願いましょうか」 「とてもお対手になりますまいが」  僧はそう云い云い縁側へあがって胡坐《あぐら》をかくようにした。 「そこは板の上だ、どうかこちらへ」  三左衛門は僧を畳の上へあげようとした。僧は頭《かしら》を掉《ふ》って応じなかった。 「私は、石の上や板の上に慣れておる」  そこで三左衛門は碁盤を前へ出して、一方の脚《あし》を敷居《しきい》の上に載せるようにした。 「私とあなたとは、どうも互角《ごかく》のようだ、私が先《せん》で往こう」  僧は主翁の出した碁笥《ごけ》に手をやった。 「私が先で往こう」  三左衛門の詞《ことば》の中《うち》に僧はもう石をおろした。 「それはいかん、私が先で往く」 「まあ、今度はこれで願いましょう」  二人は石をおろしはじめた。三左衛門もゆったりとしておれば僧もゆったりとしていて、ただ石の音が丁丁《ちょうちょう》と響くばかりであった。  そのうちに黒白《こくびゃく》の石が碁盤の上にいっぱいになった。三左衛門は己《じぶん》の負けたことを知った。 「私が負けた、二三|目《もく》は負けたようだ」  三左衛門はそれでも対手《あいて》が好いので面白かった。 「うんと多くて、二目でしょうよ」  僧が云った。吟味《ぎんみ》の結果は僧が云ったように三左衛門が二目の負けとなっていた。 「今度は私が先で往く」  三左衛門が先《さき》に石をおろしはじめた。僧は三左衛門の云うままになって後から石をおろした。勝負の結果は僧が二目の負けとなった。三左衛門は面白くてたまらなかった。 「今度は私がまた先《せん》だ」  僧がさきに石をおろした。 「これは面白い」  主翁《ていしゅ》も己のことのようにして喜んだ。 [#10字下げ][#中見出し]Ⅱ[#中見出し終わり]  三左衛門と僧は夕方まで石を持っていたが、一勝一敗、先手《せんて》になる者が勝ち後手《ごて》になる者が負けて、甚《はなはだ》しい懸隔《けんかく》がなかったので非常に面白かった。碁が終って僧が帰ろうとすると三左衛門が云った。 「貴殿《あなた》は、どこか、このあたりのお寺に御逗留《ごとうりゅう》になっておりますか」  三左衛門は僧を帰すのが惜しいような気がしていた。 「私は、この山の上に庵《あん》を結《むす》んでおりますよ」  僧は起《た》って菅笠《すげがさ》を頭《かしら》に載せていた。 「では、またお対手《あいて》が願えますな、なんなら明日《あす》あたり、またお対手が願えますまいか」 「まいりましょう、私は碁と聞くとたまらない、明日も明後日《あさって》も、気が向いたら、毎日でも来てお対手をしましょう」 「それはかたじけない、私は退屈で毎日困っておるところじゃで」 「では、復《ま》た明日お目にかかります」  僧はそのまま簷下《のきした》を離れて路《みち》へおり、夕陽《ゆうひ》の光の中を鳥の飛ぶように坂上《さかうえ》の方へ登って往った。 「あんなお坊さんが、このあたりにおったか、なあ」  主翁は気が注《つ》かなかったと云うようにした。 「お前さんは気が注かなかったのか」  三左衛門はもう温泉《ゆ》のことを考えていた。 「今日まで気が注きませんでした、さあ、どこにおりましょう、この辺《あたり》は、あんなお坊さんが好く往来《ゆきき》しますから」そう云って主翁は何か思いだしたように、「そのお坊さんの中には、いろんなお坊さんがありますから、うっかりお坊さんと知己《しりあい》になってはいけませんが、あのお坊さんなら大丈夫でございましょう」 「何か坊主について、かわった話でもあるかな」 「へえ、おかしな話がありますよ、この山の中に、怪しいお坊さんがいて、そのお坊さんのことを云う者があると、そのお坊さんに生命《いのち》を奪《と》られると云いますが、それがどんなことやら、べつに何人《だれ》が生命を奪られたと云う者もなければ、そのお坊さんを見たと云う者もないが、そんな噂をする者がありますよ」 「そうかな、まあ、まあ、怪しい坊主でも、碁が上手なら良《い》いな」  翌日になると彼《か》の僧がまた来た。心待《こころまち》に待っていた三左衛門はすぐ碁盤を出して、まず己《じぶん》が先《せん》でやってみた。先でやってみると昨日《きのう》のように勝った。そして、後手《ごて》でやるときっと負けた。僧はその日も夕方まで三左衛門の対手《あいて》をして帰って往った。  僧はそれから毎日のように来た。三左衛門は何時《いつ》も僧ばかりに来て貰ってもすまないように思うし、それにその僧がどんな生活をしているかそれも見たいので、己の方からも一度僧の許《もと》へ往こうと思って某日《あるひ》それを云ってみた。 「何時も私の方へばかり来ていただいてはすまない、ぶらぶら遊びかたがた、私も一度|伺《うかが》いたいと思うておるが」 「私の庵《あん》は、山の中の狼《おおかみ》や狐《きつね》のおる処で、べつに眺望も何もない、厭《いや》な処だから、どうか来るのはよしてくだされ」 「御迷惑ならなんだが、一度私からも伺わないとすまないから」 「いや、その御心配は無用にしてくだされ、私の処は、とても人の来る処じゃないから、折角《せっかく》だがそれはお断りしておきます」 「そうですかな」  三左衛門は話を碁の方へ持って往った。 「では、また一つ願いましょうかな」  僧は十日ばかりも続けて来たが、某日《あるひ》用事でも出来たのか待っていても来なかった。三左衛門は主翁《ていしゅ》を対手《あいて》にして碁を打つ気もしないので、江戸から伴《つ》れて来ている若党《わかとう》を供《とも》に伴れて戸外《そと》へ遊びに出た。  初夏の山の中は嫩葉《わかば》に飾られて、見おろす路《みち》の右側の谷底には銀のような水が黒い岩に絡《から》まって見えた。杜鵑《ほととぎす》の鳴くのが谷の方で聞えていた。三左衛門はどこか眺望の佳《い》い処はないかと思って、本道《ほんどう》から折れて小さな峰の方へ径《こみち》を登って往った。  駒《こま》ヶ|嶽《だけ》であろう頂上の薙《な》ぎ禿《は》げた大きな山の姿が頭の上にあった。その山の頂《いただき》の処には蒼白《あおじろ》い雲が流れていた。  径《こみち》は杉や檜《ひのき》の林の中へ入った。大きな山の姿も空の色ももう見えなかった。檜の枝には女蘿《さるおがせ》がかかって、霧しぶきのようなものが四辺《あたり》に立《た》ち罩《こ》めて冷たかった。  岩の多い雑木林《ぞうきばやし》となって、径は小さな谷川の流れへ出た。 「旦那様、あんな処に小屋がありますよ」  すぐ後《うしろ》を歩いていた若党が云うので、三左衛門はふり返った。若党は谷のむこうの遥か上の方へ指をやっていた。 「どこだ」 「あすこでございます」  馬のたて髪のように黒い木の枝を冠《かぶ》った岩があって、その下の処に小さな小屋のようなものが見えていた。 「なるほど小屋だ」三左衛門はそう云ってから、ふと僧のことを思いだした。「あんな処におるかも判らないぞ」 「どなたでございます」 「毎日、俺の処へ碁を打ちに来るお坊主さ」 「あのお坊さんは、お寺にはおりませんか」 「寺にはいない、庵《あん》におるそうだ、ついするとあすこかも判らない、往ってみようか、山番の小屋だったところで、良《い》いじゃないか、どうせ腹こなしだ」  三左衛門は路《みち》に注意した。岩が甃《いしだたみ》を敷いたようになっていて前岸《むこう》へ渉《わた》るにはぞうさもなかった。二人はその岩を伝って往った。  雑木《ぞうき》と岩の間に人の通った径《こみち》のような処があったり、そうかと思ってそれを往ってみると、荊棘《いばら》や葛《かずら》がそれを塞《ふさ》いでいたりした。二人は時どき立ち止まって足場を考えてからあがって往った。  岩陰にある小屋が眼の前に来た。三左衛門は一呼吸《ひといき》入れてから小屋の口へ往った。 「もし、もし、しょうしょう、伺《うかが》います」 「どなた」  中から声がして顔を出した者があった。それは彼《か》の旅僧《たびそう》であった。 「あれほどお断りしてあったのに、来られたならしかたがない、まあ、おあがりくだされ」  僧は厭《いや》な顔をして云った。三左衛門は僧が己《じぶん》が往くと云った時に断った詞《ことば》を思いだして、来なければ良かったと思った。 「いや、わざわざ参ったのではござらんが、今日は、貴殿《あなた》が見えられないし、退屈でたまらないから、若党を伴《つ》れて、眺望の佳《い》い処へ参ろうと思い、この下の谷の処まで来るとこの庵《あん》が眼に注《つ》き、貴殿《きでん》のことを思いだして、ついこうした処におられるかと思って、立ち寄った次第だ」 「じゃ、まあ、まあ、おあがりくだされ、お茶でもさしあげよう」  僧が引込《ひきこ》んだので三左衛門はそこへ草履《ぞうり》を脱いであがった。庵の内には藁《わら》を敷いて見附《みつけ》に仏間《ぶつま》を設けてあったが、それは扉を締めてあった。左側には二つの竈《かまど》があって、それには茶釜と鍋が懸《か》けてあった。  竈の前へ往って僧が坐ったので、三左衛門もそこへ往って僧と向きあって坐った。 「どうもお勤めの邪魔をして気の毒じゃ、すぐお暇《いとま》をいたそう」  三左衛門は僧の人の来るのを嫌うのは、勤行《ごんぎょう》の邪魔になるから嫌うのだと思った。 「いや、勤めの邪魔と云うことはないが、すこし理由《わけ》があってな、まあ、お茶でも沸かそう」  僧は厳《いかつ》い親しみのない眼をしていた。 「お茶は沸かさなくても、別に飲みたくもないから、よろしゅうござる」  三左衛門はそう云ってから、ちらと茶釜の方へ眼をやった。茶釜の下の竈の下から人間の顔がすうと出て来た。それは色の蒼醒《あおざ》めた恐ろしい顔であった。三左衛門はびっくりしたが、剛胆《ごうたん》な男であったから何も云わずに僧の顔を見た。僧は怪しいその顔を見つけたのか眼を瞋《いか》らしてその方を睨《にら》んだところであった。と、その顔は消えるように引込んでしまった。 「あ、木の自由な処におると、かえって油断して、木をきらした、ちょと枝を執《と》って来る、待ってくだされ」  僧はそのまま起《た》って出て往った。三左衛門は傍に置いてある刀を引寄せて、竈の下を中心に庵《あん》の内を注意していたが、こんな処に長くいるのは不吉であるから早く帰ろうと思いだした。そして、帰るには逃げるようにして帰るのは武士の恥であるから、立派に布施《ふせ》も置いて帰ろう、しかし、正面から僧の前へ出しては、復《ま》た何とか難癖《なんくせ》をつけて押し返されないとも限らないので、布施は今の内に出して置いて、僧が帰り次第に帰ろうと思った。三左衛門は竈の下を見ながら考えた。 (仏壇の中が好い)  彼は仏壇の中へ布施を入れて置こうと思いだした。彼は懐中《かいちゅう》の紙入《かみいれ》を探って銭を出し、それを鼻紙《はながみ》に包《くる》んだ。 「源吉《げんきち》」  三左衛門は揮《ふ》り返って入口の石に腰をかけている若党を呼んだ。 「へい」  若党は起って来た。 「これを、あの仏壇の中へ入れてくれ」 「へい」  若党はあがって来た。三左衛門から紙包《かみづつみ》を受けとって仏壇の前へ往き、恭《うやうや》しく扉に手をかけて開けたが、何かに驚いて後《あと》へ飛び退《すさ》った。 「エッ、く、く」  三左衛門も竈《かまど》の下のことがあっているので、また何かあったのだろうと思った。 「どうした」 「首がございます、生首《なまくび》が」 「そうか」  三左衛門は起《た》って往った。怪しい黒ずんだ風変りな仏像の前に、前方向《むこうむ》きにした男髷《おとこまげ》の首が据《す》えてあった。 「よし、その包みを持って来い」  三左衛門は若党の手から紙包を執《と》って、それを仏像と首との間に置いた。仏像は眼のぎらぎら光る三面六臂《さんめんろっぴ》の奇怪なものであった。 「よし、あっちへ往って、なにくわない顔で待っておれ」  三左衛門は扉を締めて元の処へ往って坐った。それといっしょに若党は入口の石の処へ往って腰をかけていた。 「やれ、やれ、木の中におって、木をきらしたぞ」  僧は枯枝《かれえだ》を小腋《こわき》にして帰って来た。 「これは、どうも、御厄介《ごやっかい》をかけますな」  三左衛門は平気な顔をして云ったがすこしの油断もしなかった。 「木の中におって木をきらすとは、けしからんことじゃ」  僧はこう云って枯枝を竈《かまど》の下へ入れはじめた。三左衛門は竈の下へ眼をやった。さっきの顔がまたにゅうと出て来た。僧はいきなり拳《こぶし》をこしらえてそれを打とうとするようにした。と、顔は引込んでしまった。僧はそれを見ると傍の火打石を執って火を出し、それを竈の下へ移した。 「今まで火があった釜だで、すぐ沸く」 「どうか、もうすぐお暇《いとま》をするから、おかまいないように」  三左衛門は僧に怪しいそぶりがあれば、一打《ひとう》ちにしようと僧のそぶりに眼を放さなかった。 「石があるなら、一《ひと》手位は願えますが」  僧は温泉宿で云うようにおちついた声で云った。 「そうだな、石があると願えますな」  三左衛門はそれでも油断をしなかった。 「さあ、お茶が沸いた」  僧はそう云ってどこからか二つの茶碗を持って来て茶柄杓《ちゃびしゃく》を持った。 「では、一杯いただいてから、すぐお暇をしよう」 「まあ、まあ、そう急がなくても」 「いや、路《みち》が面倒だから、すぐお暇をします」 「そうかな」  僧は茶を汲《く》んで一つの茶碗を三左衛門の前へ置き、一つの茶碗を入口の方へ持って往った。三左衛門は僧の眼が無くなると茶碗の茶を藁の間にこぼしてしまった。 「お供《とも》の方、あなたにも茶をあげよう」  僧の声とともに若党の声がしていた。三左衛門は刀を持って起《た》ちあがった。そこへ僧が引返して来た。 「ひどく御厄介をかけたが、これでお暇《いとま》します、また明日《あす》でもお暇《ひま》があれば、手合せを願います」 「それではお帰りかな、じゃ、また明日でも伺おう」  三左衛門は僧を後《うしろ》にしないようにと用心して草履《ぞうり》を穿《は》いた。若党は揉手《もみで》をして立っていた。 [#10字下げ][#中見出し]Ⅲ[#中見出し終わり]  三左衛門は後《うしろ》を用心して庵《あん》を離れて山をおりた。 「旦那様、あなた様は、あのお茶を召しあがりましたか」  若党が後《うしろ》から呼吸《いき》をせかせかさせながら聞いた。 「お前はどうした」 「私は捨てました」 「そうか、捨ててよかった、あんな処の茶なんか、決して飲むのじゃない、俺も飲むふりをして、捨ててしまった」  三左衛門は若党を促《うなが》して走るように山をおりて温泉宿《ゆやど》へ帰ったが、どうも不審でたまらないのですぐ宿の主翁《ていしゅ》を呼んだ。 「今日は、豪《えら》い目に逢《お》うた、主翁、お前は、あの毎日碁を打ちに来る坊主を、何《な》んと思う」 「何か御覧になりましたか」 「見たとも、あの庵へ通りかかって、たいへんなものを見たぞ」  主翁は急に何か思いだしたように手をあげて押えるようにした。 「お客さん、待ってくださいませ、それを云ってはなりません、それが恐ろしい坊主じゃ、それをあなたが人に話すと、生命《いのち》がありません、そのことじゃ、それを云ってはなりません、早く私の家《うち》を出て、今晩は、そっとどこかへお泊りになって、お江戸の方へお帰りになるが宜《よろ》しゅうございます、私は人に聞いております、早くお帰りなさいませ」  主翁は顔の色が変って声も顫《ふる》えていた。 「しかし、おかしいじゃないか、ぜんたいありゃなんだろう」  三左衛門は不思議でたまらなかった。 「そ、それを云ってはなりません、あなたはきっと不思議な目にお逢いなされたでしょう、何もおっしゃらずに、すぐここをお発《た》ちになるが宜《よろ》しゅうございます、決して何人《たれ》にも云ってはなりません、そのことを云うと、生命《いのち》にかかわります」 「それにしてもおかしいじゃないか」 「ま、ま、もう、そんなことを云っては、駄目《だめ》でございます、私は決して嘘を申しません、早く早く」  三左衛門も主翁《ていしゅ》の云うことははっきり判らないが、不思議だらけのことを見ているので、何か事情があるだろうと思って、江戸へ帰ることにして払いもそこそこにして出発した。  もう日が暮れていた。三左衛門主従はその晩は山の麓《ふもと》へ宿をとり、翌晩は藤沢《ふじさわ》あたりに泊り、その翌日金沢へまで帰ってみると、宿《しゅく》の入口に江戸の邸《やしき》から来た家臣が二三人待っていた。 「お前達は何しに来た」  三左衛門は不審そうに訊《き》いた。 「旦那様が、今日、江戸へお帰りになると云うことでしたから、お迎えにあがりました」  三左衛門は不思議でたまらなかった。 「俺《わし》が帰ることをどうして知った」 「昨日《きのう》、四十位のお坊さんが来て、門番の衆に、こちらの旦那様は、箱根から急にお帰りになってるから、明日《あす》はお邸《やしき》へお帰りになる、私《わし》は頼まれてそれを知らせに来たと申しますから、急にお迎えにあがりました」 「なに四十位のお坊さん」 「黒い破れた法衣《ころも》を着たお坊様《ぼうさん》でございます」  三左衛門はもう何も云わなかった。そして、夜になって江戸の邸へ帰った。江戸の邸へは親類や友人達が来て帰国の祝《いわい》をするために待っていた。  三左衛門が上へあがると皆が前へ集まって来た。その時四つになる三左衛門の可愛がっていた末の男の子が縁側に出て立っていたが、不意に大きな声をたてたので三左衛門が驚いて出た。男の子の首の無い体が縁側に倒れていた。 底本:「伝奇ノ匣6 田中貢太郎日本怪談事典」学研M文庫、学習研究社    2003(平成15)年10月22日初版発行 底本の親本:「日本怪談全集」改造社    1934(昭和9)年 入力:Hiroshi_O 校正:noriko saito 2010年11月13日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。