料理番と婢の姿 田中貢太郎 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)梯子段《はしごだん》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)二人|伴《づれ》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)※[#「報」の「幸」に代えて「赤」、272-5] -------------------------------------------------------  彼女は裏二階の階子段《はしごだん》をおりて便所へ往った。郊外の小さな山の上になったその家へは、梅の咲くころたまに呼ばれることはあるが、夜遅くしかも客と二人で来て泊まって往くようなことはなかったので、これまではなんとも思わなかったが、独りで便所へ往くとなるとさびしかった。彼女は婢《じょちゅう》が来たなら便所の判らないようなふりをしていっしょに傍まで往ってもらおうと思ったが、婢はこうした二人|伴《づれ》の客の処へは来ないことになっているのでそれもできなかった。  東京の近郊では有名な料理店で木材も大きながっしりしたのを用いてあるが、もう新らしい時代にとりのこされたような建物で、点《つ》けてある電燈も微暗《うすぐら》かった。便所は裏二階の降口《おりぐち》を左に往って、その往き詰めを右に折れた処にあった。縁側《えんがわ》からその便所へは一跨《ひとまた》ぎの渡廊下《わたりろうか》がついていて、昼見ると下には清水の流れている小溝があって石菖《せきしょう》などが生えていた。渡廊下の前には寒竹《かんちく》のような小さな竹で編んだ眼隠《めかくし》がしてあった。入って往くと往き詰めの左側が共同便所のような男の便所になり、右側が女の便所になって、その向いが洗面所と手洗場になり、そこの壁には大きな鏡をとりつけてあった。彼女は淋しいので急いで取附の便所へ入ろうとしたところで、その入口に二人の者が便所の方を向いて並んで立っていた。彼女はあまりあわてていたので人のいるのも眼に入らなかったのかと思ってきまりがわるかった。彼女はひとりで己《じぶん》の顔の※[#「報」の「幸」に代えて「赤」、272-5]《あか》らんだのを感じながら二人の後《うしろ》に立った。それはひとりは印半纏《しるしばんてん》を着た料理番のような壮《わか》い男で、ひとりは銀杏返《いちょうがえし》に結《ゆ》った婢《じょちゅう》のような女であった。そこには女便所が三つばかりあったが、二人が立っているくらいであるから、無論みなふさがっているのだろうと思った。彼女はしばらく待っていたが、便所の中の人は何人《だれ》も出て来なかった。彼女はじれったくなったので他の便所へ往こうと思って、一まず二階の室《へや》へ引返した。二階の室には客が長火鉢《ながひばち》によりかかって煙草を喫《の》んでいた。 「もう往って来たのか」  彼女は不平であった。 「往ったのですけど、たてこんでて、待ってたけれど、前の人がどうしても出て来ないのですもの、痴《ばか》にしてるわ、まだ他にも料理番のような方と婢さんのような方が待ってるわ」 「なに、料理番のような男と、婢のような女がいた」 「あれ、ここの方」 「そうだろうよ、だが、もういないさ、おれも往くから、いっしょに往こう」 「でも、まだ一ぱいだわ」 「もう、大丈夫だよ、おいで」  男は新らしい煙草をつけてすぐ起《た》って室《へや》を出た。彼女も男の力に引きずられるようにして後から従《つ》いて往った。もう便所はがらんとして何人《だれ》もいなかった。彼女は男といっしょに室《へや》へ帰ったが、翌朝になって自動車で男といっしょに海岸にある男の宿坊《やど》へ引返していると、男は笑って云った。 「前夜《ゆうべ》の便所の口に立ってた二人ね、あれをなんと思うのだね」 「なにって、あれ、なんなの」 「ありゃ、時どきあすこへ出るものだよ」 「え」 「あいつ、かまわずにずんずん入って往きゃいいのだ。なにもしやしないのだよ」 「あなた、知ってて」 「おなじみだよ」  翌晩になって彼女は雑誌記者だと云う三人|伴《づれ》の客の席へ呼ばれた。その時同じように呼ばれて来ていた知己《しりあい》の女から、 「あなた、この比《ごろ》、へんなことを聞かない」  と云われた。彼女には前夜《ゆうべ》の体験があった。 「見たわ、あれでしょう」 「見たの、山の、あの字のついた家よ」 「そうよ、前夜《ゆうべ》、見たてのほやほやだわ」 「ほんとう、料理番と婢《じょちゅう》さん」 「そうよ」  彼女は得意になって話した。 底本:「伝奇ノ匣6 田中貢太郎日本怪談事典」学研M文庫、学習研究社    2003(平成15)年10月22日初版発行 底本の親本:「日本怪談全集」改造社    1934(昭和9)年 入力:Hiroshi_O 校正:noriko saito 2010年10月20日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。