屋根の上の黒猫 田中貢太郎 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)令弟《れいてい》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)三田|稲門《とうもん》 -------------------------------------------------------  昭和九年の夏、横井春野君が三田|稲門《とうもん》戦の試合を見て帰って来たところで、その時千葉の市川にいた令弟《れいてい》の夫人から、 「病気危篤、すぐ来い」  と云う電報が来た。横井君は令弟の容態を心配だから、夜もいとわずに市川へ駈けつけた。そして、令弟の家の門口を潜《くぐ》ろうとして、何気なく屋根の上へ眼をやったところで、其処に一匹の黒猫がいて、それが糸のような声で啼《な》いていた。瞬間横井君は、 「しまった」  と思った。それは横井君のお父さんがまだ壮《わか》い比《ころ》、酒興のうえで、一匹の黒猫を刺し殺したことがあったが、それからと云うものは、横井君の家には、何か不幸なことでもあると、きっと黒猫が姿をあらわした。お父さんが歿《な》くなった時にも、また四人の兄弟をはじめ二人の小供の歿《な》くなったときにも、やはり黒猫が来て屋根から離れなかった。横井君はそのつどそれを見ているので、 「この野郎」  と云って、そこにあった小石を拾って投げつけた。すると猫は屋根の向う側へ姿をかくしたようであるから、家の中へ入ろうとすると、すぐまた出て来て淋しそうに啼いた。横井君は令弟のことが気になるので、もいちど小石を投げつけておいて家の中へ入った。と、令弟は気息えんえんとして、今にも呼吸を引きとろうとしているところであった。  横井君は猫が気になるので、また外へ出て猫を追ったが、猫は依然として屋根の上から離れなかった。そして、暁《あ》けがたになってその猫の声がぴたりとやむと同時に、令弟が呼吸を引きとった。 底本:「伝奇ノ匣6 田中貢太郎日本怪談事典」学研M文庫、学習研究社    2003(平成15)年10月22日初版発行 底本の親本:「新怪談集 実話篇」改造社    1938(昭和13)年 入力:Hiroshi_O 校正:noriko saito 2010年10月20日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。