探偵小説アルセーヌ・ルパン EDITH AU COU DE CYGNE モーリス・ルブラン Maurice Leblanc 婦人文化研究会訳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)著《つ》いた |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)今|灯《あかり》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#10字下げ] ------------------------------------------------------- [#10字下げ]一[#「一」は中見出し]  今から三年前のことである。ブレスト発の列車がレンヌ駅に著《つ》いた時、その一貨車の扉の破壊されているのが見出だされた。この貨車はブレジリアの富豪スパルミエント大佐の借切ったもので、中には綴《つづ》れ錦の壁布を入れた箱がいくつも積込まれていたが、箱の一つは破られて、中の錦の一枚がなくなっていた。  スパルミエント大佐は、夫人と一緒に同じ列車に乗っていたが、これを知ると、鉄道会社に談判を持ち込んで、一枚が盗まれても他の物の値打まで非常に下《さが》るからとて、莫大の損害賠償を請求した。  問題は起った。警察は犯人の捜索に主力を集中した。鉄道会社でも少なからぬ懸賞金を投じてこれに声援した。  この騒ぎの真中の警視庁へ、一通の手紙がまい込んだ。開いてみると、今回の窃盗事件はアルセーヌ・ルパンの指揮の下に行われ、贓品《ぞうひん》は翌日[#「翌日」は底本では「習日」]北アメリカへ向けて送られた。という文面である。警視庁は俄《にわか》に活動を進めた。同夜サンラザール停車塲で、一刑事のために彼の錦が一行李の中から発見された。  この窃盗はルパンの失敗に終った。  これを聞いたルパンは怒り絶頂に達して、直ちに筆を取って、スパルミエント大佐に一書を送った。それにはこう書いてあった。 [#ここから1字下げ] 先日はただ一枚のみ頂戴しました。その時は一枚だけでよかったのですが、それをかく御取戻しになるにおいては、小生にも考があります。今度はきっと十二枚全部頂戴いたします。 右前以って御通知まで。 [#ここで字下げ終わり] [#地から4字上げ]アルセーヌ・ルパン [#10字下げ]二[#「二」は中見出し]  スパルミエント大佐は、フェイザンドリイ街とジュフレノアイ街の角にある邸宅をかまえた。  大佐は頑丈な体格の持主で、広い肩、黒い髪、また銅色の皮膚も屈強に見えた。夫人はすこぶる美人ではあるが、生来薄柳の質で、この間の壁布の紛失事件の時でもひどく恐れを抱いて、こんな物があるとどんな怖ろしい事になるかもしれないから、いくらでもかまわない、早く手離した方が安心だとしきりに夫に説いたほどであった。が、大佐はなかなか剛情なたちで、女達の弱音ぐらいにへこむ人ではなかった。従って錦は決して売払われはしなかった。でも十二分の用心をして、設備を加えたり、盗難保険に入ったりした。  第一番に、庭の方に向いている、家の正面だけを警戒したら足るようにと、裏の方のジュフレノアイ街に向いた方は、下から上まで、窓も入口もすっかり壁を塗りつぶしてしまった。更に錦の飾られている室《へや》の窓という窓に、秘密の装置を施して、ちょっとでもこれに触れると、家中の電燈が一時《いっとき》にパッとともり、同時に電鈴がけたたましく鳴りひびく仕掛にした。  保険会社の方では、それにもなおあき足らず三人の探偵を選んで、給料は先払とし、夜になると、この邸の階下にあって警戒させた。三人の探偵は経験もあり手練《しゅれん》の刑事で、ルパンを仇敵のように思っている者ばかりであった。  大佐邸の使用人は、長年使いなれてその性質はわかっているので、大佐が[#「大佐が」は底本では「大佑が」]これを保証した。  こうして絶対に盗難の憂をなくするため、ほとんど要塞のように厳重な設備が出来上がったので、大佐はいよいよ邸宅改築の披露を兼ね、自慢のつづれの錦を展観させるべく一夕《いっせき》知己《ちき》を招いた。集まった人々は、大佐の入会しているクラブの会員、婦人、新聞記者、好事家、美術批評家という風に種々雑多な人々であった。  客は門を入るや否や、まるで監獄へでも投げこまれたように思わせられた。階段の下には例の三人の刑事が、仁王立になっていて、するどい眼玉をギロつかせ、いちいち客から招待状を受取り、おまけに迂散《うさん》くさそうにジロジロ顔を見た。ほとんど身体検査をされ、指紋をとられんばかりである。蟻の這入《はい》る隙間もないとはこの事であった。  大佐は二階で客を出迎えて、この仰山な警戒を詫びたり、そして錦の安全を期するためにほとんど万全の策がとられた事を誇ったりした。夫人はさもあきらめ顔に大佐の傍に従っていた。若々しく、美しく、気品があって、房々とした金髪、真白な肌、なよなよとして媚《なま》めかしい中に愁《うれい》を含んだ様子は、まだこのほどの事件の驚きが消え失せぬようであった。  客のすべてが入ってしまうと、門も玄関の戸もぴたりと閉った。そして彼等は扉の二重になっている陳列室に入ることが出来た。部屋の窓には大きな鎧戸がある外に鉄の格子が張ってあった。そして中に十二枚の綴れの錦が陳列されてあった。  錦というのは、ウイリアム征服王に従って来た武士の子孫が、十六世紀の頃アラスの名工エジエハン・ゴセットに織らせたもので、織り出された図は英国征服史である。それが五百年後、英国のある古城から発見されたのである。それを大佐はどうしたものかわずか五万フランで買入れたのだというが、実際の値段は十倍以上もあるものであった。  十二枚の中、一等美しくて立派なものは、かつてルパンに盗まれて、再び取りかえしたものである。それにはウイリアム征服王の軍に踏み破られたハスチングスの民の、累々として積る無残な屍体の中に、エジスが首をさし伸べつつ、愛人チキソン王ハロルトの屍《しかばね》を探している世にも愁《うれ》わしい図が描かれていた。その質朴な美、その色ざめた中にある雅趣、人物の姿は惨憺《さんたん》哀愁人に迫るものがあった。  客はこの名画名技の前に来って、思わずうっとりして我を忘れて感嘆の声を久しゅうした。薄命の王妃エジスの憂れわしい姿は、百合の花が雨に打たれた風情とも見られた。見よ、彼女の白衣はしゅうしゅうと吹き来る風に飜り、歩むも危き脛《すね》もあらわに、空にひろげた細腕にはあらゆる恐怖とあらゆる悲愁の情が刻まれるとも見えた。ああ絶望の微笑をうかべた横顔、それはまことに世にも類いなき哀れさであった。 『何という悲しい微笑でしょう! そして何という[#「何という」は底本では「何いう」]美しい微笑でしょう! スパルミエントさん。何だか奥様を思わせるような顔付ではありませんか。』  一批評家はふとこう言った。他の人々はそれを熱心に聞いていた。 『まったくですね。私もすぐそう思いましたよ。あの首筋のしなやかな曲線、その細い手、横顔といい、姿といい、物腰といい、どうも似通っていますね。』 『ハハハハ、そうですかな。実は私がこの壁布を買い求めましたのも、これがよく似ていましたからですよ。いやそればかりではありません。どうも妙な縁で、家内の名もエジスというのです。』  大佐はなお笑いながら、 『でも、何ですね、壁布のエジスと、家内のエジスと似るのは結構ですが、家内が夫の屍体を探すような運命にはなりたくはありませんな。私は死にたくはありませんな。話はこの辺でおしまいにしようじゃありませんか。でも、この壁布が、もし盗られるような事があったら、さア、そうなったら、私も自殺しなければなりませんな。ハハハハハ。』  大佐は大口を開けて笑ったが、その笑声は[#「笑ったが、その笑声は」は底本では「笑ったが。その笑声は」]決して陽気なものではなかった。この後この夜の事が話題に上った時、人々はこの時の事を思い出して、お互にハタと声を呑んで息を殺したということである。この時の来客は、一人としてこの冗談に答えることが出来なかった。  しばらくして一人がこの不吉な冗談を打消すように、 『でも、スパルミエントさん。あなたはハロルドという名前ではないじゃありませんか。』[#「ありませんか。』」は底本では「ありませんか。]と言った。  大佐は快活に、 『そうです。私はハロルドとは言いません。そしてハロルド王に似ている所は少しもないでしょう。だからこの点は安心ですよ。』  と、この大佐の言葉の終るのを待っていたように、窓の方にあって、俄然として一声強くはげしい電鈴が鳴りひびいた。同時にスパルミエント夫人はキャッと叫んで夫の腕に倒れるようにすがりついた。 『どうした? どうした?』と大佐は夫人を抱きしめた。  来客一同も、思わず水を浴びたように固くなって、窓の方を見た。 『どうしたんだろう? どうも怪しい。あのベルの装置を知っているのは私より他にないはずだ!』  と、今度は俄かに電燈が一時にパッと消えて、あたりは真の闇になった。そして下から上まで、部屋々々の電鈴が耳も聾《ろう》せんばかりに一時に鳴り初めた。  一同は、狂人のようになってうろたえさわいだ。逃げ惑った。婦人達は悲鳴をあげて泣きわめき、男達は締めた戸口に折重なり、どんどん戸を叩き押しあいへし合い、我勝に逃げ出ようとして人を突飛ばし、倒れ、踏みつけた。ちょうど狂犬に追われるか、爆弾を投げつけられたような騒ぎであった。  大佐は声をはげまして、その混雑を制しようとした。 『どうぞお静かに、騒がないで下さい‥‥大丈夫です。今|灯《あかり》をつけます。スイッチがここにあるんですから‥‥この隅に‥‥』  大佐は客を掻きわけて陳列室の角に行った。電燈はサッとともった。と、同時に電鈴の音もパッタリと止った。 [#10字下げ]三[#「三」は中見出し] 『壁布は?』 『ある!』  誰かが叫んだ。しかし、婦人は二人気絶していた。スパルミエント夫人も失神せんばかりになって、真蒼《まっさお》な顔色をしてぶるぶる震えながら夫の腕にすがりついていた。男達も皆顔色を失ったり、カラーをゆがめたり、ちょうど格闘のあとのような様であった。  それらの人々は、みんなかの錦の壁布の盗まれたものだと思っていたのに、壁布は元のように壁に掛っているのが、何だかおかしいくらいに思えた。  その他にも人間より他に動いたものは何もない。高価な額も無事に掛っている。それにあんなに家中が真暗になったり電鈴が鳴りひびいたりしたけれども、出入を警戒した探偵等には何の異変をも認めることは出来なかった。一人だって外から入った者も無ければ、また入ろうとした者もない。  大佐はようやく愁眉《しゅうび》を開いて、 『ベルの装置は陳列室の窓ばかりですし、それにその仕掛を知っているのは私一人ですがそれを締め直しておかなかったのです。』  来客は声をあげて打笑った。そして誰も今自分等がとった周章狼狽《しゅうしょうろうばい》のありさまを極り悪く思って笑い濁した。でも何だか急に空気が重苦しく感じて、みんな一時も早くこの家を去りたいと思った。  ただ二人の新聞記者だけがあとに残った。大佐は夫人を女中共にあずけた後、この二人の記者と、警戒の探偵三人とで共々に邸内くまなく調べたけれど、怪しい点の何者をも見出すことは出来なかった。そこで大佐はシャンペンを上げた。そして新聞記者は帰って行った。それは夜中の二時四十五分であった。  記者を送り出すと、大佐も寝室に入り、探偵達も例の部屋へ引き取った。でもこの探偵達は部屋に帰っても寝ることは出来ない。夜通しで、庭を見廻ったり、陳列室を覗いてみたりして警戒をせねばならなかった。  しかしこの規定は朝の五時から七時までは睡《ねむ》ってよかった。それは外にはもう日が昇って、もしものことがあっても、電鈴が少しでもひびけば、誰も眼を醒まさぬわけはないからである。  ところが、七時二十一分に、探偵の一人が陳列室の扉を開けて、例のように覗いてみると、壁布が一枚だって無かった。彼は気も遠くならんばかりに仰天した。  あまりの事に周章《うろた》えたか、これを早速大佐には告げないで、すぐに警察へ通知した。ひとまず主人に通知した上で警察へ通知したとて遅いことはない。何もそれがために警察の仕事がうまく行かないようになるという事もない。と、その計らいは評判が悪かった。  彼がこの事を大佐に告げたのは八時半であった。この時、大佐は外出の仕度をして今にも出かけようとしている所であった。大佐は探偵から委細を聞き取ったが、さほど驚いた風を現わさなかった。いや、これは大きな驚きを押さえ隠して、うろたえた場面を見せまいとしたのであろう。でも、さすがの大佐も終《つい》にたまらない風に、ドカリと椅子の上に尻餅をついて、しばしはぼんやりと口も利かなかった。探偵等はこれほどの剛気な人がと思って、その心中を十分に推察することが出来た。  まもなく自分に返った大佐は、気をとり直して陳列室に入り錦の壁布のはぎ取られた壁を改めていたが、やがてテーブルに倚《よ》ってサラサラとペンを走らせた。そして一通の手紙は探偵に渡された。 『私は今大急ぎなんです‥‥至急に訪問しなければならぬ人がありますから‥‥この手紙を、警察の方がお出でになったら渡して下さい。』 『かしこまりました。』  大佐は手紙を渡すと、いらいらして走るように出て行った。しばらくその後姿を見送っていた探偵は、その時のそわそわした落着かぬ様子を後で思い合せることがあった。  警視庁から、警視がやって来た。大佐の置手紙は開かれた。それにはこんな事が書いてあった。 [#ここから2字下げ] 愛する者に悲しみを見せるのは忍びないことであるけれど、これも運命だとあきらめてくれ。お前の名は最後まで思いつづけるであろう。 [#ここで字下げ終わり]  人々はあッとばかりに驚いた。あわれ大佐はあまりの失望から遂に自殺を決心したのである。一片の遺書はいたずらに机上にひるがえった。ああ、大佐は果して自殺するだろうか?  遺書は直ちにスパルミエント夫人に[#「スパルミエント夫人に」は底本では「スパルエント夫人に」]届けられた。夫人の驚きはくどくどしく説くの要はあるまい。多くの人は八方に走り出た。大佐の行先を草を分けても捜そうとするためである。婦人はその人々の吉報を今か今かと首を長うして待っていたけれど、時間は遠慮なく経つばかりで、まだ何の消息もない。  と、その日の暮れ方ヴィルダブレイという町から電話がかかって来た。ただ今トンネルの出口に顔の形もないように無残に轢殺《れきさつ》された一人の男が発見された。固《もと》より確かな根拠のあるわけではないが、その服装や所持品などからどうも[#「などからどうも」は底本では「などかどうも」]大佐の人相書と符合する点があるというのである。  夫人は、取るものも取敢えずヴィルダブレイへ急行した。その夜の七時過、停車場前に自動車を下りると、すぐ駅内の一室に案内せられて、眼前に横《よこた》わっている一個の死体の被いを取られて見せられた。まさしく夫の死体であることを一目にして承認した。あはれにも、スパルミエント夫人エジスは、かの錦の壁布に描かれたエジス王妃と今こそ運命を同じくしたのである。  社会の同情は期せずして夫人の一身に集った。と同時に、アルセーヌ・ルパンに対する公憤はその極に達した。  輿論《よろん》を尊重する一新聞は、例の如くルパン攻撃ののろしを挙げた。 『今回の事件は、彼に対して今まで与えていた好意を零にするものである。アルセーヌ・ルパンはこれまで幾多の罪悪を犯している。しかし彼の相手たる者は、常に曖昧銀行とか、独逸《ドイツ》の華族とか、山師とか、秘密政客等であって、悪者に対して悪事を働いたのであった。中にも最も許すべき点は人を傷つけぬということである。強盗はしても人命を害するようなことは彼の避くる所であった。ところが、今回の事件はよし自分手に手を下したものでなくとも、彼の明を以てすれば明らかに自殺を予想することが出来たであろうに‥‥ここに流血の惨事を惹起した罪は到底彼の免がるべからざる所である。彼の名前に、終に紅い血汐《ちしお》が塗られた。これ神人共に許す能わざる所である‥‥』 [#10字下げ]四[#「四」は中見出し]  知るも知らぬもスパルミエント未亡人に同情をよせた。と同時にアルセーヌ・ルパンを憎むこといよいよ甚しくなった。中にも前夜招待された人々は、殊に悲痛に心を乱し、嘆き沈んで身も世もあらぬ未亡人を取囲んでは、口には言わねど、伝説のエジスにさも似たる悲惨な身の上に涙をそそいだ。  しかしまた、遺憾なくこの窃盗に成功したルパンの非凡なる手の中《うち》には誰も舌を巻いて感嘆せぬわけにはゆかなかった。警察は直ちに盗出方法を説明した。それは陳列室の窓が三つ開け放されてあったことが探偵の調べによって判明したが、ルパンやその手下はこの窓から忍び入ったのであるというのである。  その推定は当っているかもしれない。でも第一、庭の門をどうして入ることが出来ただろう? 誰れにも見咎められず、どうして入って、どうして帰り去《さり》つることが出来ただろう? 第二に、庭を通れば壁や梯子を掛けねばならぬが、そこには何等の形跡をも、何等怪しむべき点をも見出すことが出来ないのはどうしてだろう? 第三に、あれほど周到なる警戒設備が整っているのに、邸内の電燈電鈴にいささかの故障なく、その鎧戸や鉄格子をどうして開けることが出来ただろう?  疑問の石は水の表面に投げ入れられた。波は起って広がった。  まず警戒の任にあたった三人の探偵にこの波は打ち当った。予審判事はこの三人を長い事取調べたが、そしてまた彼等の私的生活についても詳細に探られたが、三人が三人、その行為は最も正しく、いささかも後ろめたいような点はなかった。  こうして盗まれた綴れ錦の壁布――予備陸軍大佐の死に値する愛蔵――の行方はいかん? 波は広がった。いよいよ高く逆巻くように広がった。  ここに警視庁刑事主任ガニマール氏はソーニャ・クリシュノフの王冠事件の後、ルパンの部下より探知したたくさんの証拠を握って、ルパンの跡を追い廻していたが、何の得る所もなく、ふらりと巴里《パリ》に帰って来た。帰ってみれば、今まで自分が追い掛けていたはずのルパンがこの大事件を起しているのであった。ガニマール氏はまたしても不倶戴天《ふぐたいてん》の敵アルセーヌ・ルパンのためにうまうまと一枚喰わされたのである。ガニマール氏をしてルパンが東洋方面に逃走したらしく思わせたのはルパンの計略であって、これはこの名探偵を巴里《パリ》の外へ追出しておいて、その留守にうまうまと錦の壁布事件の大事件をしたのである。  ガニマール刑事は無念の歯噛《はがみ》を食いしばって口惜《くや》しがった。彼は直ちに捜索課長から二週間の猶予をもらって、旅装もとかず、その足を以てスパルミエント夫人を訪ね、必ず夫君スパルミエント氏のために讐《あだ》を報い心を安んぜしめるであろうと誓った。  しかし、よし敵を討ってもらったところで、死んだ夫が生き返るわけはないエジス夫人は一度受けた胸の痛みが癒えるはずはなかった。泣くなく野辺《のべ》の送りをすませた夜、三人の探偵は引き取らせ、一人の老僕と老婢だけを使うことにした。探偵達を見ると、つい亡き夫の事が思い出されて悲しみをそそったからである。こうして一間に閉じ籠ったきり、何事も手がつかなかった。総《すべ》ての事はガニマール氏の言うがままにしておいた。  ガニマール刑事の方は階下に立籠って、即刻調査にかかった。彼の緻密な頭脳は、かの大きな疑問の波を押し分け押し分け進んだ。詳細な研究は次第々々に進められた。近隣で問合せたり、家の組立を実査したり、二十度も三十度も電鈴を鳴らしてみたり、この名探偵はあらゆる能力をしぼった。  初めの計画の二週間は過ぎたが、事件は依然として五里霧中の裡《うち》にあった。刑事は[#「刑事は」は底本では「刊事は」]更に延期を願出た。捜索課長ジュズイ氏が心配してガニマール刑事の研究の実況を見に来た時には、刑事は陳列室の前に梯子をかけ、その上に上って一心に考えていた。  しかし刑事の脳中には本件の解決に関して少しの光明も見出さなかったのである。  でもその翌日ジュズイ氏が再びそこを訪れた時には、ガニマール刑事は新聞紙を前にひろげて、身も魂も打込むように思案していた。初めはジュズイ氏の問にも[#「問にも」は底本では「間にも」]答えようとはしなかったが、強いて尋ねていると、刑事は重い口を開いて、 『わかりません。全く解りません。が、ここにほんのちょっと不審に思うことがあるんです。でも、それもどうも当《あて》にはなりませんが‥‥』 『すると、君はどうするつもり?』 『課長、どうか、もう少し待って下さい。どうぞ本件は万事私にお任せ下さい。そして、そのうち電話をかけましたら、大至急で自動車でお出でを願います‥‥その時こそ本件の秘密の鍵を握った時ですから!』  ジュズイ氏は満足して帰った。と、それから三日経った朝、課長の許へ、一通の電報が届いた。差出人はガニマール刑事で、文句は簡短《かんたん》に、 『リイユへ行く』とあるのみであった。 『ふふむ?』ジュズイ氏は考えた。 『何だって、リイユなどへ行くのだろう?』  その日も、次の日も刑事からは何の便りもなかった。  しかしジュズイ氏は落胆しなかった。彼はガニマール刑事を充分に信頼していた。右腕と頼む刑事主任の人物をよく知っていた。ガニマールの一挙手一投足には必ず確信ある根拠があることを疑わなかった。  二日目の夜、突然[#「突然」は底本では「笑然」]ジュズイ氏に電話がかかって来た。 『課長? 課長ですか!』 『ああ、君は、ガニマール君?』 『はい、そうです。』 『して、その後の模様は?』  捜索課長ジュズイ氏も、ガニマール刑事も共に用心深く、相手がそれに相違ないことを知るまでは軽卒な口は利かなかった。こうして双方相求める人に相違ないことを知ると、ようやく安心した刑事は言葉忙しく言い出した。 『至急、十人ばかり人を出して下さい。』 『よし!』 『あなたもどうか御一緒に!』 『承知した。どこだ?』 『例の家の、階下の部屋に。しかしお出で下さる時には庭の門まで迎えに出ます。』 『わかった! 自動車だろうね? もちろん。』 『はい、十歩ばかり手前で自動車を留めて、口笛を吹いていただけば、すぐ門を開けます‥‥そっと吹いて下さい‥‥家の者に聞えないように。』 [#10字下げ]五[#「五」は中見出し]  捜索課長は主任刑事の請求通り、直ちに出張の命令を下した。  ガニマール刑事は真夜中少し過ぎた頃、家の燈がすっかり消されて、真暗になったのを見計って階下を出てジュズイ氏を待っていた。  口笛は静かに鳴った。門は音もなく開かれた。会見はひそかにかつ敏捷《びんしょう》に行われた。巡査等はすべて主任刑事の命令の下に行動した。捜索課長と主任刑事の二人は足音を忍ばせて庭を通って、家の中に入った。 『一体どうしたんだ?』 『‥‥‥‥』 『何だい、この態《ざま》は? まるで泥棒のようなじゃないか。』 『‥‥‥‥』  捜索課長は、色々ガニマールに囁いたが、ガニマールは返事もしなかった。課長は彼の挙動の尋常でないのを見て取った。課長は彼のこんなに昂奮している様をかつて見たことがなかった。 『どうした。変った事があるのかい?』  課長も引入れられて緊張せざるを得なかった。 『はい、今度こそは、課長! しかし実に自分にも信ずることが出来ないような事件です。でも[#「事件です。でも」は底本では「事件ですでも」]、断じて誤っていません。全く真相を掴みました。事実とは思われない事実です。全く、嘘でも誤解でもありません。真実です。』  主任刑事は額の汗を[#「汗を」は底本では「汚を」]押し拭いながら、充血した眼を上げてこう云った。彼は冷水をグッと飲みほして気を落ちつけると更に語を続けた。 『これまで私は何度も何度も失敗《しくじ》りましたが、今度こそは‥‥』 『そんなことはどうでもいい。事件の方を、結局どうした?』 『いや、細かく云わねばお解りになりませんよ。私の実験したいろいろの事情を申上げねば‥‥合理的な順序であることがお解りになりませんよ[#「なりませんよ」は底本では「なりまんよ」]。』  ガニマールの意外な意気込に、課長も声を落して聞き入った。 『これまで何度もの失敗に、私はさんざんな目に合いましたが、でもそれによって、自然彼との戦の作戦に経験を積んだのです。そこで本件についても、事件を聞くとすぐ思いついたのは、ルパンという奴は、こうすればどうなるという結果を考えないでは、何事もやった事はありません。だから、あの壁布が盗まれれば当然の結果としてスパルミエント氏が自殺するくらいのことを考えないことはありません。しかるに元々彼は人を殺すことは断じてしません。血を見ることをはなはだしく嫌っている彼が、自殺をすることを予期しつつ壁布を盗んだことが第一の疑問です。』 『しかし五六十万フランもする‥‥』 『錦の壁布には代えられないと云われますか?』 『そうだ。』 『いいえ、課長! ルパンはいかなることがあろうとも、物質のために人命を奪うようなことは致しません。もちろん自ら手を下さないばかりでなく、すべての死の原因となることを避けるのは彼の持前です。』 『すると?』 『あの前夜の招待会で、電燈を消したり、電鈴を鳴らしたりしたのは何のためでしょう。これが第二の疑問です。私はこの一行動を以て、恐怖不安、怪異の心を起させ、本件に対して人の嫌疑をくらまそうとする真犯人の策略だと思いますが、いかがでしょう?』 『さア!』 『もっとも、分明《ふんみょう》したことではありません[#「ありません」は底本では「ありまん」]。私自身も本問題は考えれば考えるほど、いよいよ合点が行かなくなってしまいます。ただここに一道の光明は‥‥』 『共犯者か?』 『そうです!』 『来客中に紛れ入って、電鈴を鳴らし、散会後邸内に隠れて‥‥』 『そこです、そこです。邸内へ不意に忍び入った者にはどうしても壁布を盗むことは出来ません。誰か邸内にいて盗み出したものに相違ないのです。そこで来客名簿を調査しなければなりません。』 『うむ。』 『それよりもまず出入の人数を調べねばなりません。客が来た時にも帰る時にも探偵三人で名前を控えていました。ところが六十三人来て六十三人帰りました。』 『すると? 邸内の者が?』 『そうです。』 『召使か?』 『いいえ。』 『探偵か?』 『いいえ。』 『じゃア‥‥』 『‥‥‥‥』 『内部から本件が行われたとすれば?‥‥』  課長はあせり立った。 『相違ありません!』  ガニマール刑事は断然として言明した。彼の舌端には火がほとばしるほどの熱が籠っていた。彼は少しも疑惑せず、固い自信を以て更に説き出した。 『全力を上げて研究しました。色々の方法も皆同じ結果に集って来ました。それは私の確信を与えたものです。それは真に驚くべき理知的な方則《ほうそく》です。』 『ふむ!』 『理論から云っても、実際から云っても、この窃盗は邸内に住んでいる共犯者の手を借りなければ行うことは出来ません。しかるに、その共犯者が無いのです。』 『変だね、どうして共犯者が無い?』 『実に変です。しかし、もう一歩進めて考えると同時に、それは恐ろしい真理にぶつかります。』 『えッ?』 『実に捕え所のないほどの真理です。しかし十分の根拠があるんです。課長! お解りになりませんか?』  ジュズイ氏はしばらく沈黙した。そして課長にも主任刑事の胸中と同様の思索が波打って起った。 『来客でもなく、召使でもなく、探偵達でもないとすると?』 『まだ、残っている人がありますよ。』  ジュズイ氏は愕然として身を震わせた。 [#10字下げ][#中見出し]六[#「六」は底本では「七」][#中見出し終わり] 『だって君、そんな事があるはずはない。』 『なぜです?』 『まア、考えてみたまえ。』 『はい。』 『そんな、そんな馬鹿な事が‥‥』 『どうしてです?』 『考えられもせんじゃないか。そんな馬鹿々々しい。スパルミエントがルパンの共犯者だなんて!』  ガニマールはニヤリと笑った。 『御もっともです。しかしお考え下さい。大佐がルパンの共犯者とすると、すべての問題を解くことが出来るんです。夜中に三人の探偵が階下で見張っている間に、いや、むしろ、大佐から強いシャンペンの御馳走になって、前後も知らず眠っている間に、大佐は壁布をはずし室の窓から外へ出しました。その方面の階下の室の窓は、全部塗りつぶされてありますから[#「ありますから」は底本では「あますから」]見張っていない街の方の窓の方からです‥‥』  課長は笑い出した。 『駄目々々。』 『なぜです?』 『なぜと云って、大佐がルパンの共犯者とすると、仕事のすんだ後殺されるわけはないじゃないか。』 『どうして大佐が殺されたというんです?』 『現在、死体が出たじゃないか。』 『ルパンは決して人を殺しません。』 『だって、事実は仕方がない。しかもスパルミエント夫人が死体を承認したじゃないか。』 『そのお言葉を待っていました。実は私もここで大いに頭を悩したんです。突然二人が三人になったのですから‥‥。第一がアルセーヌ・ルパン、第二が共犯者スパルミエント大佐、第三が死体。』  ガニマール刑事は、こう言いながら、ポケットの中から一枚の新聞を取り出して課長に示した。 『こないだ、あなたがお出でになった時、私は新聞を調べていました。あの時には、今度の事件と何か関係のある記事はなかろうかと思って多くの新聞を探していたのです。ところが、私の予想を満足させる一記事がありました。これを御覧下さい。』  その新聞にはどんな記事があるのであろう。 (昨夜リイユ屍体陳列所で、屍体が一つ盗まれた。この屍体は前日郵便鉄道で轢死したもので、身元不明の青年であった云々‥‥屍体陳列所では大問題とされている。)  ジュズイ氏はだまって考えていた。 『君は、これを関係があると思うか?』 『リイユへ行って実否をただしましたが、この記事に少しも間違はありません。その屍体は、スパルミエント大佐が招待会を催した夜盗み出されたもので、一輌の自動車に積まれすぐヴィルダブレイへ[#「ヴィルダブレイへ」は底本では「ヴィルダブイへ」]運び、その自動車は鉄道沿線に日暮れまでいたそうです。』 『トンネルのあたりなんだね。』 『そうです。』 『すると、そこでスパルミエント大佐の[#「スパルミエント大佐の」は底本では「スパミエント大佐の」]衣裳をつけて轢かれていた屍体は、その屍体と同一なものだというのだね。』 『そうです。』 『しかし、そうなると、この事件の意味はどうなるのだろう。最初壁布を一枚盗み、次にそれを取戻し、今度は十二枚全体盗んだ。一体どうしたというのだろう。あの招待会、あの騒動‥‥どうも解らないなア。』 『全く奇怪です。課長、もっと話を進めねばなりません。ルパンとスパルミエント大佐との関係です。これは素晴らしい厳密な理知に発足しておりますよ。』 『ふむ。』 『共犯者などを考えることが間違なんです。そんな者は無用です。自分一箇で、ただ一人で計画しかつ実行したものです。』 『どうして? わからないね。』  ジュズイ氏はガニマール刑事の言葉ごとに呆れ入るばかりであった。刑事はにこりと微笑をもらして、 『驚かれたでしょう。課長! あなたがここへ私を見に来られた時、ふとこの考えが湧きました。全く驚き入りました。あいつの手練には馴れていますから、大抵の事は心得ているつもりですが、今度という今度はさすがに面喰いましたよ。』 『冗談じゃない!』 『どうしてです。』 『そんな事があるものか。』 『あるんです。しかもまことに当然なことです。一人で三役勤めているんです。子供にだってこんな問題はわかりますよ。まず屍体はウソだから取除けますよ。』 『ふん!』 『あとにはスパルミエント大佐と、ルパンとの二人が残るでしょう。』 『ふん!』 『それから、他から入っていないし、内の者にも他にはないのですから、スパルミエント大佐こそは‥‥』 『ルパンか?』 『そうです。課長! ブレジリヤの富豪という化の皮を被って、彼奴《きゃつ》は六ヶ月前にスパルミエント大佐と称し、英国を旅行している中あの綴れ錦の壁布の発見されたことを聞いてそれを買い込むと、その中一等良いのを盗まれたと言ってルパンに世人の注意を向け、ルパン対スパルミエントの大芝居で世間の人気を集め、招待会で来客を驚かし、すっかり膳立が出来ると、献立通りの御馳走を頂戴したのです。大佐は死んでしまった。友達からは惜しまれ、世間からは気の毒がられ、そして本体の最終目的たる多大の利益を握るために‥‥』と言いかけて、刑事は課長の顔色をうかがいながら、 『愛妻を残しておいたのです。』 『エジス夫人だね。』 『そうです。』 『君は本当にそう思うか?』 『思いますとも。目的もないのに、こんな芝居をやるものですか。それは莫大な利益!』 『だって、利益と云った所で、ルパンが壁布‥‥を亜米利加《アメリカ》とかへ売るというだけのものだろう。それなら‥‥』 『それなら、スパルミエント大佐にだって売れます。こんな芝居をやるがものはありません。』 『じゃア。』 『外にもっと金の這入ることがあるんです。』 『金が這入るというと?』 『そら、課長! スパルミエント大佐は初め一枚盗られた時、大損害だと言って騒いだでしょう。そして今度大佐は死んでも、後に妻君が残っているでしょう。そらその妻君の手に入るじゃありませんか?』 『入るって? 何が!』 『何がって? そら、保険金が!』  聞くと同時に、ジュズイ氏はあまりの驚きにウウとうなった。初めて事件の真相が彼の面前に展開されたのである。 [#10字下げ]七[#「七」は中見出し] 『や、なるほど、そうだそうだ、大佐は壁布を保険に掛けたな。』 『しかも、少々ではありません。』 『いくらだ?』 『八十万フラン。』 『八十万フラン!』 『そうです、五つの会社へ‥‥』 『夫人はもうそれを請取ってしまったか?』 『昨日十五万フラン、今日は私の居ない間に二十万フラン。あとは今週中に請取ることになっています。』 『驚いたなア。』 『私のいない時に勘定をしていますが、折よく帰り道で、私の知っている保険会社の社員に会ったのですっかり話を聞きました。』  しばし唖然としていた課長は、思わず太息を吐いて、 『実に恐ろしい奴だなア。』 『全くです。ずいぶん巧妙に出来ているではありませんか。四五週間も、誰一人スパルミエント大佐を怪しむものは無いのですから。いかに巧妙な奸策《かんさく》であるかがわかります。驚くの外ありません。世間の疑問、憤怒、探索をルパン一人に背負わせているんです。そして一方あの伝説の中から出て来たようなエジス夫人が泣きの涙でうまく勤めているのですから保険会社などは、てんで損害などは眼中になく、少しでも夫人を慰め得れば満足だとするくらいですから‥‥彼奴の計画は首尾よく運んだものです。』  二人に互に顔を見合せて呆れ返った。  やがて課長は口を開いた。 『その夫人は一体何者だ。』 『ソーニャ・クリシュノフ。』 『うむ!』 『あなたが去年逮捕したことのある‥‥』 『露西亜《ロシア》女か! 王冠事件の時、ルパンが逃がしてやった。』 『そうです。』 『うむ、僕も世間並みにルパンの計略にかかってすっかりあの女に気が付かなかったよ。なるほど、こう話が決ってみると思い出すことがある。ソーニャの奴確かに英国女に化けているのだ。あいつと来た日にゃ、ルパンの事なら、死ねと云えば死ぬくらいに惚れ込んでいるんだからなア。いや、よくやってくれた。感謝する! さすがはガニマール君だ。』課長は固く主任刑事の手を握って賞讃した。 『お褒めに預って恐縮します。まだ拾い物があるんですよ。』 『何だ?』 『例のルパンの乳母‥‥』 『ビクトアル?』 『はい、その婆さんも今スパルミエント夫人のソーニャ・クリシュノフについてこの家に来ていますよ。』 『そのまま?』 『いや、料理人に化けて‥‥』 『そいつは有難い!』 『まだありますよ、課長!』  ジュズイ氏は[#「ジュズイ氏は」は底本では「シュズイ氏は」]いきなり刑事の腕を両手で握って躍り上った。ガニマール刑事の手も震えていた。 『まだある? 何が?』 『何がって、今頃何のためにあなたに御足労を掛けたと思われます。ソーニャやビクトアルの如き小魚なら、何もあなたのお手を煩わしはしません。あんな者ならいつだって縄をかけられます。』 『すると?』  両人の眼はらんらんと光った。 『わかりませんか?』 『奴が?』 『いますよ。』 『いる?』 『いるのです。』 『隠れて?』 『どうして、ずうずうしく召使に化けて‥‥』  さすがの課長も、ルパンの飽くまでも大胆なのに茫然として自失せんばかりであった。  ガニマール氏はほくそ笑みつつ、 『ソーニャがもしヘマをやるかと心配して、第四の役を背負って戻って来たものです。保険金を請取らぬ中《うち》しっぽを見せては折角の苦心も水の泡なので、自分がいて裁配《さいはい》を振らねば心許なかったのでしょう。三週間前から、私の行動を蔭にいて窺っているのです。』 『どうして見極めをつけた?』 『もちろん顔では分りません。彼奴は独特の変装術を心得ていますから、とても見分は付きません。私もまさか召使に化けて入っていようとは思いませんでした。ところが今晩、ソーニャと乳母のビクトアルが、階段の蔭の真暗な所で立話をしているのを盗み聞きますと、乳母が召使を呼ぶに『坊ちゃん坊ちゃん』と言ってるじゃありませんか。その坊ちゃんでようやくハッと気付いたのです。ビクトアルは今でも奴の事を子供のように思って、いつでもこう呼んでいるのです。私は決心しました。』  何遍追跡しても、かつて手を触れる事の出来なかった強敵が、今現にこの家に潜んでいることを思うと、捜索課長もあわてだした。 『今度こそ逃がさぬぞ! 逃げようたって逃がすものか!』 『そうですとも、女共も一網《いちもう》に!』 『どこにいる?』 『ソーニャとビクトアルは三階に!』 『ルパンは?』 『四階に!』  ジュズイ氏はふと不安を感じた。 『やア、壁布の紛失した時も、その部室《へや》の窓から落としたじゃないか。』 『そうです。』 『すると、今度もそこから逃げ出すかもしれないよ。その窓はジュフレノアイ街に向いていたから。』 『ええ、だから、その用意はしてあります。お連れになった。部下を四人、すぐその窓下に伏せておきました。窓を逃出そうとする者があったら、容赦なく射《う》ってしまえ。だが、最初は空砲、二度目には実弾を射てと命じてあります。』 『よし、万事抜かりはないな。』 『はい。』 『じゃ夜明に‥‥』 『いや、彼奴に限って油断はなりませんよ。規則だの形式だのと、つまらぬ事にこだわって、そのうちに感付かれでもすると、また馬鹿を見ねばなりません。奴の手品は大変ですよ。ぐずぐずしてはいられません。今すぐ踏み込んで不意を襲いましょう!』  奮然と立ち上ったガニマール刑事は、意気込すさまじく門外に出て六人の部下を引き入れた。 『よし! 課長! 用意は出来ました。ジュフレノアイ街にはピストルを上げて、すわと云えば一斎射撃、窓々をねらっています。さア、やっつけましょう。』  人の出入に、少しはざわ付いたけれど、家人の耳にはよもや入るまい。ジュズイ氏は正式の逮捕手続をしていないのを不本意に思ったけれども、事は急だ。千載一遇、この機を逸していつまたルパンを捕え得ようぞ。決然として振い起った。 『よし! やっつけろ!』 [#10字下げ]八[#「八」は中見出し]  手に手にピストルを握って、ひたすらルパンを捕えることに心奪われつつ、足早に階段を上った。  ガニマール刑事はもちろんよく勝手を知っていた。スパルミエント夫人の部屋に来ると、扉にのしかかって、叫んだ。 『開けろ!』  一人の警官は、つと進んで、肩で一突、難なく扉は押破られた。  が、中には誰もいない。  隣のビクトアルの部屋へ行った。  同じく藻抜《もぬけ》のからだ。 『上にいるんだ。ルパンの部屋に‥‥油断するな!』ガニマールは一同に注意した。  八人一時に四階に馳《か》け上った。しかし、ルパンの部屋は開け放されて、同じく人影もなかった。  ガニマール刑事は血眼になって馳け廻ったが、どの部屋にも、誰もいなかった。 『畜生! 畜生! どうしやがった?』  すると、三階へ下りたジュズイ氏が[#「ジュズイ氏が」は底本では「ジュイ氏が」]、ガニマール刑事を呼んだ。三階の窓の扉が一枚締めてはあったが、ちょっと押せば開いたからである。 『そら、ここから逃げたのだ。これが壁布を持ち出した所じゃないか。僕があれほど言ったのに‥‥ジュフレノアイ街の方だ‥‥』  ガニマール刑事は怒りの歯噛み荒々しく、 『それなら、なぜ射ち留めないだろう? 伏せてある部下が?』 『まだ張込んでない前に、風を喰って逃げ出したのだろう。』 『でも、あなたの所へ電話をかけた時には、三人共ちゃんと部屋にいたんですが。』 『君が庭の蔭で、僕等を待っていた時に飛び出したのだろう。』 『それにしてもなぜ逃げたでしょう?』 『うん、保険金を握らぬ中《うち》に‥‥』 『今夜急に行ってしまうわけは無い[#「無い」は底本では「無ない」]。』 『どうも不思議だ。』  いや、実は、不思議でも何でもない。それには明白な理由があった、テーブルの上にはちゃんとガニマール殿という一通の手紙が置かれてあった。それはまさしくルパンの置手紙である。中にはすべての事情こまごまと、しかもそれは、あたかも主人が召使に与える説明書のようなものであった。  その文章に曰く  アルセーヌ・ルパン、紳士強盗、予備陸軍大佐スパルミエント、同下男及び前屍体陳列所紛失屍体たる余は、ガニマールと称する者の当邸における勤務ぶりを見て、すこぶる小才あり、かつ頓智ある者なりと考ふ。依ってこれを証明す。全力をあげて職務に勉励し、何等《なんら》の根拠なきによく余の計画を看破し、保険会社をして四十五万フランの損害を妨《ふせ》ぎ得たり。ただし、階下の電話はソーニャ・クリシュノフの部屋に装置されある電話と相通ぜることを知らず、捜索課長へ通報すると同時に、余に一早く事情を報告したる功により、莫大なる保険金の損害を容赦し、かつその機敏なる智能を賞するものなり。もしそれ電話装置を看破し能はざりし如きは大功中の小過、毫《ごう》もその勝利の価を減ずべきものにあらず。ここに感嘆と尊敬との意を表す。以上。 [#地から4字上げ]アルセーヌ・ルパン 底本:「アルセーヌ・ルパン」婦人パンフレツト、婦人文化研究會    1922(大正11)年12月15日発行 ※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。 その際、以下の置き換えをおこないました。 「恰も→あたかも 貴方→あなた 如何→いかが・いかん 幾何→いくら 些か→いささか 何時→いつ 愈々→いよいよ 且→かつ 曽て・嘗て・甞て→かつて かも知れ→かもしれ 位→くらい 呉れ→くれ 此処・茲→ここ 毎→ごと 此・之→これ 流石→さすが 左程→さほど 而も→しかも 然るに→しかるに 暫く→しばらく 随分→ずいぶん 頗る→すこぶる 直ぐ→すぐ 其処→そこ その中→そのうち 沢山→たくさん 唯→ただ 但し→ただし 給え→たまえ 為→ため 丁度→ちょうど 一寸→ちょっと て居→てお て了→てしま て見→てみ て貰→てもら 何うして→どうして 何処→どこ 所が→ところが 尚→なお 仲々→なかなか 何故→なぜ 計り・許り→ばかり 筈→はず 甚だ→はなはだ 一先ず→ひとまず 程→ほど 殆ど・殆んど→ほとんど 正しく→まさしく 先ず→まず 亦・又→また 迄→まで 儘→まま 間もなく→まもなく 寧ろ→むしろ 若し→もし 勿論→もちろん 尤も→もっとも 漸く→ようやく 僅か→わずか」 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※「燈」と「灯」の混在は、底本通りです。 ※読みにくい漢字には適宜、底本にはないルビを付しました。 入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(山本貴之) 校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう) 2004年6月28日作成 2014年7月28日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。