沼夫人 泉鏡花 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)室内《まのうち》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)西洋|室《ま》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)眗 ------------------------------------------------------- [#7字下げ]一[#「一」は中見出し] 「ああ、奥さん、」  と言った自分の声に、ふと目が覚めると……室内《まのうち》は真暗《まっくら》で黒白《あやめ》が分らぬ。寝てから大分の時が経《た》ったらしくもあるし、つい今しがた現々《うとうと》したかとも思われる。  その現々たるや、意味のごとく曖昧《あいまい》で、虚気《うっかり》としていたのか、ぼうとなっていたのか、それともちょいと寝たのか、我ながら覚束《おぼつか》ないが、 「ああ、奥さん、」  と返事をした声は、確《たしか》に耳に入《い》って、判然《はっきり》聞こえて、はッと一ツ胸を突かれて、身体《からだ》のどっかが、がっくりと窪《くぼ》んだ気がする。  そこで、この返事をしたのは、よくは覚えぬけれども、何でも、誰かに呼ばれたのに違いない。――呼んだのは、室の扉《ひらき》の外からだった――すなわち、閨《ねや》の戸を音訪《おとず》れられたのである。  但し閨の戸では、この室には相応《そぐ》わぬ。寝ているのは、およそ十五畳ばかりの西洋|室《ま》……と云うが、この部落における、ある国手《いしゃ》の診察室で。  小松原は、旅行中、夏の一夜《ひとよ》を、知己《ちかづき》の医学士の家に宿ったのであった。  隙間漏る夜半《よわ》の風に、ひたひたと裙《すそ》の靡《なび》く、薄黒い、ものある影を、臆病《おくびょう》のために嫌うでもなく、さればとて、群《むらが》り集《たか》る蚊の嘴《くちばし》を忍んでまで厭《いと》うほどこじれたのでもないが、鬱陶《うっとう》しさに、余り蚊帳を釣るのを好まず。  ちとやそっとの、ぶんぶんなら、夜具の襟を被《かぶ》っても、成るべくは、蛍、萱草《かやくさ》、行抜けに見たい了簡《りょうけん》。それには持って来いの診察室。装飾《かざり》の整ったものではないが、張詰めた板敷に、どうにか足袋|跣足《はだし》で歩行《ある》かれる絨氈《じゅうたん》が敷いてあり、窓も西洋がかりで、一雨欲しそうな、色のやや褪《あ》せた、緑の窓帷《カアテン》が絞ってある。これさえ引いておけば、田圃《たんぼ》は近くっても虫の飛込む悩みもないので、窓も一つ開けたまま、小松原は、昼間はその上へ患者を仰臥《あおむ》かせて、内の国手《せんせい》が聴診器を当てようという、寝台《ねだい》の上。ますます妙なのは蚤《のみ》の憂《うれい》更になし。  地方《いなか》と言っても、さまで辺鄙《へんぴ》な処ではないから、望めばある、寝台の真上の天井には、瓦斯《がす》が窓越の森に映って、薄ら蒼《あお》くぱっと点《つ》いていたっけが、寝しなに寝台の上へひょいと突立《つッた》って、捻《ねじ》って、ふっと消した。 「何、この方が勝手です、燧火《マッチ》を一つ置いといて頂けば沢山で。」  この家《や》の細君は、まだその時、宵に使った行水の後の薄化粧に、汗ばみもしないで、若々しい紅《あか》い扱帯《しごき》、浴衣にきちんとしたお太鼓の帯のままで、寝床の世話をして、洋燈《ランプ》をそこへ、…… 「いいえ、お馴《な》れなさらないと、偶《ふ》とお目覚めの時、不可《いけな》いもんですよ。夫《やど》でもついこの間、窓を開けて寝られるから涼しくって可《い》いてって、此室《ここ》へ臥《ふせ》りましてね、夜中に戸迷《とまど》いをして、それは貴下《あなた》、方々へ打附《ぶつか》りなんかして、飛んだ可笑《おか》しかったことがござんすの。  可笑《おかし》いより、貴下、ひょんな処へ顔を入れて、でもまあ、男でしたから宜《よろ》しかったようなものの、私《わたくし》どもだったらどうしましょう。そこにございます、それですわ。同じような切《きれ》を掛けて蔽《おおい》にしておくもんですから、暗さは暗し、扉の処が分りませんので、何しろ、どこか一つ窓へ顔を出して方角を極《き》めようとしましてね、窓掛だ、と思って引揚げましたのが、その蔽だったんでしょう。箱の中に飾っておきます骸骨《がいこつ》に、ぴったり打撞《ぶつか》ったんでございますとさ、厭《いや》ではござんせんかねえ。」  ……と寝台の横手、窓際に卓子《テエブル》があるのに、その洋燈《ランプ》を載《の》せながら話したが、中頃に腰を掛けた、その椅子は、患者が医師《せんせい》と対向《さしむか》いになる一脚で、 「何ぼ、男でもヒヤリとしましたそうですよ。」  と愛嬌《あいきょう》よく莞爾《にっこり》した。 「や、そりゃ、酒田さん驚いたでしょう。幾ら商売道具でも暗やみで打撞っちゃ大変だ。」 「ですから、お気を注《つ》けなさいまし。夫《やど》とは違って、貴下はお人柄でいらっしゃるから、またそうでもない、骸骨さんの方から夜中に出掛けますとなりません。……婦《おんな》のだって、言いますから。」 [#7字下げ]二[#「二」は中見出し]  主人《あるじ》の医学士は、実は健康を損ねたため、保養かたがた暢気《のんき》を専一に、ここに業を開いているのであるが、久しぶりのこの都の客と、対談《はなし》が発奮《はず》んで、晩酌の量を過したので、もう奥座敷で、ごろりと横の、そのまま夢になりそうな様子だった折から、細君もただそれだけにして、 「どうぞ御緩《ごゆっく》り。」  と洋燈《ランプ》を差置き、ちらちらと――足袋じゃない、爪先《つまさき》が白く、絨氈《じゅうたん》の上を斜めに切って、扉《ひらき》を出た。  しばらくして、女中が入って来て、 「ここへ、冷水《おひや》をお置き申します。」  声を聞いたばかり。昼間|歩行《ある》き廻った疲労《つかれ》と、四五杯の麦酒《ビイル》の酔に、小松原はもう現々《うとうと》で、どこへ水差を置いたやら、それは見ず。いつまた女中が出て去《い》ったか、それさえ知らず。ただ洋燈の心を細めた事は、一緊《ひとしめ》胸を緊《し》めたほど、顔の上へ暗さが乗懸《のしかか》ったので心着くと、やがて、すうすう汐《しお》が退《ひ》く塩梅《あんばい》に、灯《あかり》が小さく遠くなり、遥《はるか》に見え、何だか自分が寝た診察台の、枕の下へ滅入込《めいりこ》んで、ずっと谷底の古御堂《ふるみどう》の狐格子《きつねごうし》の奥深く点《とも》れたもののごとく、思われた……か思ったのか、それとも夢路を辿《たど》る峠から覗《のぞ》く景色か、つい他愛《たわい》がなくなる。  処を、前に言った、(奥さん)――で目が覚めたが、真暗《まっくら》、洋燈はその時消えていた。  枕を擡《もた》げて、 「唯今《ただいま》!」  威勢よく、(開けます)とやろうとする、その扉《ひらき》の見当が附かぬから、臥床《ねどこ》に片手|支《つ》いたなり、熟《じっ》と室《ま》の内を眗《みまわ》しながら、耳を傾けると、それ切り物の気勢《けはい》がせぬ。 「はてな、」  自分で、奥さん、と言ったのに、驚いて覚めたには覚めたが、誰に呼ばれたのか、よくは分らぬ。もっとも、小松原とも立二《りゅうじ》とも、我が姓、我が名《めい》を呼ばれたのでもなければ、聞馴《ききな》れた声で、貴郎《あなた》、と言われた次第でもない。  とは言え、呼んだのは確《たしか》に婦《おんな》で……しかも目のぱっちりした―― 「待て、待て、」  当人|寝惚《ねぼ》けている癖に、他《ひと》の目色《めつき》の穿鑿《せんさく》どころか。けれども、その……ぱっちりと瞳の清《すず》しい、色の白い、髪の濃い、で、何に結ったか前髪のふっくりとある、俯向《うつむ》き加減の、就中《なかんずく》、歴然《ありあり》と目に残るのは、すっと鼻筋の通った……  ここまで来ると、この家《や》の細君の顔ではない。それはもっと愛嬌《あいきょう》があって、これはそれよりも品が優る。  勿論、女中などに似ようはないと、夢か、現《うつつ》か、朦朧《もうろう》と認めた顔の容《かたち》が、どうやらこう、目前《めさき》に、やっぱりその俯向《うつむ》き加減に、ちらつく。従って、今声を出した、奥さんは誰だか知れるか。  それに、夢中で感覚した意味は、誰か知らず、その女性《にょしょう》が、 「開けて下さい。」  と言ったのに応じて、唯今、と直ぐに答えたのであるが、扉《ひらき》の事だろう? その外廊下に、何の沙汰《さた》も聞えないは、待て、そこではなさそう。 「他《ほか》に開ける処と言っては、窓だが、」  さてはまさしく魘《うな》された? この夜更けに、男が一人寝た部屋を、庭から覗込《のぞきこ》んで、窓を開けて、と言う婦《おんな》はあるまい。  いや、無いとも限らん――有れば急病人の許《とこ》から駈着《かけつ》けて、門を敲《たた》いても、内で寝入込んで、車夫をはじめ、玄関でも起さない処から、等閑《なおざり》な田舎の構《かまえ》、どこか垣の隙間から自由に入って来て、直ぐに脊伸《せいのび》で覗《のぞ》いた奴《やつ》。  かとも思ったが、どちらを視《なが》めても、何も居《お》らず、どこに窓らしい薄明りも射《さ》さなければ、一間開放した筈《はず》の、帷《カアテン》の戦《そよ》ぎも見えぬ。  カタリとも言わず……あまつさえ西洋|室《ま》の、ひしとあり、寂《しん》として、芬《ぷん》と、脳《ここ》へ染《く》る、強い、湿っぽい、重くるしい薬の匂《におい》が、形ある箔《はく》のように颯《さっ》と来て、時にヒイヤリと寝台を包む。 [#7字下げ]三[#「三」は中見出し]  渠《かれ》は、今更ながら、しとど冷汗になったのを知った。  窓を開けたままで寝ると、夜気に襲われ、胸苦しいは間々ある習《ならい》で。どうかすると、青い顔が幾つも重《かさな》って、隙間から差覗《さしのぞ》いて、ベソを掻《か》いたり、ニタニタと笑ったり、キキと鳴声を立てたり、その中には鼠も居る。――希代なのは、その隙間形《すきまなり》に、怪しい顔が、細くもなれば、長くもなり、菱形《ひしがた》にも円くもなる。夕顔に目鼻が着いたり、摺木《すりこぎ》に足が生えたり、破《やぶれ》障子が口を開けたり、時ならぬ月が出《い》でなどするが、例えば雪の一片《ひとひら》ごとに不思議の形があるようなもので、いずれも睡眠に世を隔つ、夜の形の断片《かけら》らしい。  すると、今見た女の顔は……何に憑《つ》いて露《あらわ》れたろう。 「何だか美しかった。」  と思出して、今度は悚然《ぞっ》とした。 「そして、奥さんだ?……奥さんとはどこの奥さんだ。」  確《たしか》に此家《ここ》の細君の顔ではない、あれでなし、それでもなし、目がぱっちりして、色が白く、前髪がふっくりと、鼻筋通り……  と胸の裡《うち》で繰返して、その目と、髪と、色艶《いろつや》と、一つ一つ絡《まと》まり掛けると……覚《おぼえ》がある!  トンと寝台《ねだい》に音を立てて、小松原は真暗《まっくら》な中に、むっくと起きた。 「馬鹿な。」  と思わず呟《つぶや》いた。 「何、そんな奴《やつ》があるものか。」  いや、いや、もしその人だとすれば――三年以前に別れてから、片時も想わずにはおらぬ、寝た間も忘れはしないのであるから、幻も、その俤《おもかげ》は当然《あたりまえ》で、かえって不審《いぶかし》くも凄《すご》くもない筈《はず》。 「開けて下さい、」  と云った……それそれ、扉《ひらき》を開けるつもりで、目を覚《さま》したに違いはない。  且つ現《うつつ》から我に返った、咄嗟《とっさ》には、内の細君で……返事をしたが、かくの通り、続いてちっとも音沙汰のないのを思え。対手《さき》は何でも、小松原自分の目には、皆《みんな》胸にある、その人の俤《おもかげ》に見えるのかも知れぬ。 「どこを、何を開けて、と云ったんだろう。」  一体――と渠はまた熟《じっ》と考えた。  既に夢だと承知しながら、なお何か現在に、事を連絡させようとしている内が、その実、現《うつつ》だったものらしいが。  窓は開いているし、扉《ひらき》の外は音信《おとずれ》は絶えたり、外に開けるものは、卓子《テエブル》の抽斗《ひきだし》か、水差の蓋《ふた》……  いや、有るぞ、有るぞ、棚の上に瓶がある。瓶も……四つ五つ並んでいたろう。内の医師《せんせい》が手にかけたという、嬰児《あかんぼ》の酒精《アルコオル》に浸《つ》けたのが、茶色に紫がかって、黄色い膚《はだ》に褐斑《かばまだら》の汚点《しみ》が着いて、ぐたりとなって、狗《いぬ》の児《こ》か鼠の児かちょいとは分らぬ、天窓《あたま》のひしゃげた、鼻と口と一所に突き出た不状《ぶざま》なのが、前のめりにぶくりと浮いて、膝を抱いて、呀《や》! と一つ声を掛けると、でんぐりかえしを打ちそうな、彼これ大小もあったけれども、どれが七月児《ななつきご》か、六月児《むつきご》か、昼間見た時、医師《せんせい》の説明をよくは心にも留めて聞かなかったが、海鼠《なまこ》のような、またその岩のふやけたような、厭《いや》な膚合《はだあい》、ぷつりと切った胞衣《えな》のあとの大きな疣《いぼ》に似たのさえ、今見るごとく目に残る、しかも三個《みッつ》。  と考え出すと、南無三宝《なむさんぽう》、も一つの瓶には蝮《まむし》が居たぞ、ぐるぐると蜷局《とぐろ》を巻いた、胴腹が白くよじれて、ぶるッと力を入れたような横筋の青隈《あおぐま》が凹《くぼ》んで、逆鱗《さかうろこ》の立ったるが、瓶の口へ、ト達《とど》く処に、鎌首を擡《もた》げた一件、封じ目を突出る勢《いきおい》。 「一口どうかね。」  と串戯《じょうだん》に瓶の底を傾けて、一つ医師《せんせい》が振った時、底の沈澱《よどみ》がむらむらと立って、煙《けむ》のように蛇身を捲《ま》いたわ。  場所が場所で、扱う人が扱う人だけ、その時は今思うほどでもなかったが、さてこう枕許《まくらもと》にずらりと並べて、穏かな夢の結ばれそうな連中は、御一方もお在《いで》なさらぬ。  ああ、悪い処へ寝たぞ。  中にも件《くだん》の長物《ながもの》などは、かかる夜更《よふけ》に、ともすると、人の眠《ねむり》を驚かして、 「開けて下さい。」  を遣《や》りかねまい、と独りで拵《こしら》えて、独りで苦笑した。 [#7字下げ]四[#「四」は中見出し]  寝覚《ねざめ》の思いの取留め無さも、酒精浸《アルコオルづけ》の蝮《まむし》が、瓶の口をば開けて給《た》べ、と夢枕に立った、とまでになる、と結句|可笑《おかし》く、幻に見た婦《おんな》の顔が、寝た間も忘れぬその人を、いつもの通り現《うつつ》に見た、と合点が行《ゆ》くと、いずれ一まず安心が出来たので、そのまま仰向《あおむ》けに、どたりと寝た。  急に起上ったのであるけれども、さまで慌《あわただ》しくもなかったらしく、枕は思った処にちゃんとある。ここで、枕の位置が極《き》まると、寝台《ねだい》の向《むき》も、室《ま》の工合《ぐあい》も、方角も定まったので、どの道暗がりの中を、盲目覗《めくらのぞ》きではあるが、扉《ひらき》、窓、卓子《テエブル》、戸棚の在所《ありどころ》などがしっかり知れる。  上に、その六月目、七月目の腹籠《はらごもり》、蝮が据置かれた硝子《がらす》戸棚は、蒼筋《あおすじ》の勝ったのと、赤い線の多いのと、二枚|解剖《かいぼう》の図を提げて、隙間一面、晃々《きらきら》と医療器械の入れてあるのがちょうど掻巻《かいまき》の裾《すそ》の所、二間の壁に押着《おッつ》けて、直ぐ扉《ひらき》の横手に当る。そこには明《あかり》取りも何にもないから、仄《ほのか》な星明《ほしあかり》も辿《たど》れないが、昼の見覚《みおぼえ》は違うまい。同じ戸棚が左右に二個《ふたつ》、別に真中《まんなか》にずっと高いのを挟んで、それには真白《まっしろ》な切《きれ》が懸《かか》っていた、と寝乱れた浴衣の、胸越に伺う……と白い。茫《ぼう》と天井から一幅《ひとはば》落ちたが、四辺《あたり》が暗くて、その何にも分らぬ……両方の棚に、ひしひしと並べた明|晃々《こうこう》たる器械のありとも見えず、寂《しん》となって隠れた処は、雪に埋もれた関らしく、霜夜の刑場《しおきば》とも思われる。  旅行の袂《たもと》に携えた、誰かの句集の中にでもありそうなのを、偶然《ふと》目に浮べたは可《よ》かったが、たちまち、小松原は胸を打った。  本尊! 本尊! 夢を驚かした本尊は、やあやあその中に鎮座まします――しかも婦《おんな》の骸骨《がいこつ》で、その真白《まっしろ》な蔽《おおい》の中に、襟脚を釣るようにして、ぶら下げた、足をすっと垂れて、がっくりと俯向《うつむ》いたのが、腰、肩、蒼白《あおじろ》く繋《つな》がって、こればかり冷たそうに、夕陽を受けた庭の紫陽花《あじさい》の影を浴びて、怪しい色を染めたのを見た。  もうこの上には、仇《あだ》、情《なさけ》、貴下《あなた》、私も無さそうな形ながら、婦《おんな》というだけ、骨の細りと、胸の辺《あたり》も慎ましやかに、頤《おとがい》を掻込《かいこ》んだ姿を、仔細《しさい》らしく視《なが》めたが、さして心した、というでもなかったに、余程目に染みたものらしく、晩飯の折から、どうかした拍子だった、一風《ひとかぜ》颯《さっ》と――田舎はこれが馳走《ちそう》という、青田の風が簾《すだれ》を吹いて、水の薫《かおり》が芬《ぷん》とした時、――膳《ぜん》の上の冷奴豆腐《ひややっこ》の鉢の中へ、その骨のどの辺《あたり》かが、薄《うっす》りと浮いて出た。  それから前《さき》は、……寝しなに細君が串戯《じょうだん》に、 「夜中に出掛けますかも知れません、婦《おんな》だって言いますから。」  と笑ったが、話が陽気で、別に気にもならずに寝た。処を、今のその婦《おんな》が来て…… 「ほい、蝮《まむし》より、この方が開けてくれに縁がある。」  いや、南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》、縁なんぞないのが可《い》い、と枕を横に目を外《そ》らすと、この切《きれ》がまた白い。襟許《えりもと》の浴衣が白い。同一《おなじ》色なのが、何となく、戸棚の蔽《おおい》に、ふわりと中だるみがしつつも続いて、峠の雪路《ゆきみち》のように、天井裏まで見上げさせる。  小松原はまた肩のあたりに、冷い汗を垂々《たらたら》と流したが、大分夜も更けた様子で、冷々《ひやひや》と、声もない、音もせぬ風が、そよりと来ては咽喉《のど》を掠《かす》める。  ごほんと、乾咳《からぜき》を咳《せ》いて、掻巻《かいまき》の襟を引張《ひっぱ》ると、暗がりの中に、その袖が一波《ひとなみ》打って煽《あお》るに連れて、白い蔽《おおい》に、襞襀《ひだ》が入って、何だか、呼吸《いき》をするように、ぶるぶると動き出す。  目を塞《ふさ》いでも、こんな時は詮《せん》がないから、一層また起直って、確《しか》と、その実は蔽が見えるのでもなく、勿論揺れるのでもない、臆病眼《おくびょうまなこ》が震えるのを、見定めようと思ったが、頭が重いのに、瞼《まぶた》がだるく、耳が鳴る。手足もぐったりで、その元気が出ぬ。  ままよ、寝っちまえ! ぐッと引被《ひっかぶ》ると、開いたのか、塞いだのか、分別が着かぬほど、見えるものはやっぱり見えて、おまけに、その白いものが、段々拡がって、前へ出て、押立《おった》って、まざまざと屏風《びょうぶ》を立てたように寄って来る。 [#7字下げ]五[#「五」は中見出し]  さあ、その、ふわふわと縦に動く白いものが、次第|低《びく》に、耐力《たわい》なく根を抜いて、すっと掻巻《かいまき》の上へ倒れたらしい心地がすると、ひしひしと重量《おもみ》が掛《かか》って、うむ、と圧《お》された同然に、息苦しくなったので、急いで、刎退《はねの》けに懸《かか》ると、胸に抱合わせている手が直ぐに解けず、緊着《しめつ》けられているような。  腕を引っこ抜く勢《いきおい》で、捥《もが》いて、掻巻をぱっと剥《は》ぐ、と戸棚の蔽《おおい》は、旧《もと》の処にぼうと下《さが》って、何事も別条はない。が、風がまたどこからか吹いて来て、湿っぽい、蒼臭《あおくさ》い、汗蒸《いき》れた匂《におい》が、薬の香に交って、むらむらとそこらへ泳ぎ出す。  疲れ切った脳の中に、その臭気ばかりが一つ一つ別々に描かれて、ああ、湿っぽいのは腹籠《はらごも》りで、蒼臭いのは蝮《まむし》の骸《むくろ》、汗蒸れたのは自分であろう。  そのにおいを見附けたそうに、投出している我が手をはじめ、きょろきょろと眗《みまわ》す内に、何となくほんのりと、誰だか、婦《おんな》の、冷い黒髪の香がしはじめる。  香のする方を、熟《じっ》と見ると、ただやっぱり白い……が、思いなしか、その中に、どうやら薄墨で影がさして、乱しもやらず、ふっくり鬢《びん》が纏《まとま》って、濃い前髪の形らしく見分《みわけ》がつく、と下から捲《まき》上がるごとく、白い切《きれ》が、くるくると小さくなり、左右から、きりりと緊《しま》って、細くなって、その前髪を富士形に分けるほど、鼻筋がすっと通る。 「奥さん!」  と思わず言って、小松原はまた目を覚した。  トもまだ心着かないで、 「今、開けます。」  と言って、愕然《がくぜん》として我に返った。 「また、夢か。」  今度は目が覚めつつも、まだ、その俤《おもかげ》が室《ま》の中《うち》に朦朧《もうろう》として残ったが、吻《ほ》と吐《つ》く呼吸《いき》にでも吹遣《ふきや》られるように、棚の隅へ、すっと引いて、はっと留まって、衝《つ》と失《な》くなる。  後がたちまち真暗《まっくら》になるのが、白の一重芥子《ひとえげし》がぱらりと散って、一片《ひとひら》葉の上に留《とま》りながら、ほろほろと落ちる風情。 「こりゃ、どうかしているな。」  現《うつつ》と幻との見境《みさかい》さえ附きかねた。その上、寒気はする、頭《かしら》は重し、いや、耐《たま》らぬほど体が怠《だる》い。夜が明けたら、主人の一診を煩わそうまでは心着いたが、先刻《さっき》より、今は起直る力がない。  特に我慢のならぬのは、呼吸苦《いきぐる》しいので、はあはあ耳に響いて、気の怯《ひ》けるほど心臓の鼓動が烈《はげ》しくなった。  手を伸ばすか、どうにかすれば、水差に水はある筈《はず》、と思いながら、枕を乗出すさえ億劫《おっくう》で、我ながら随意《まま》にならぬ。  ちょうど、この折だったが、びしょびしょ、と水の滴るような音がし出した。遠くで蚊の鳴くのかとも聞えるし、鼠が溢《こぼ》したかとも疑われて、渇いた時でも飲みたいと思うような、快い水の音信《おとずれ》ではない。  陰気な、鈍い、濁った――厭果《あきは》てた五月雨の、宵の内に星が見えて、寝覚にまた糠雨《ぬかあめ》の、その点滴《したたり》が黴《か》びた畳に浸込《しみこ》む時の――心細い、陰気でうんざりとなる気勢《けはい》である。 「水差が漏るのかな……」  亀裂《ひび》でも入《い》っていたろう。 「洋燈《ランプ》から滲出《しみだ》すのか……」  可厭《いや》な音だ。がそれにしては、石油の臭《におい》がするでもなし……こう精神が濛《もう》としては、ものの香は分るまい。  断念《あきら》めるつもりにしたけれども、その癖やっぱり、頻《しき》りに臭う。湿っぽい、蒼《あお》くさい、汗蒸《いき》れたのが跳廻《はねまわ》る。 「ソレまた……」  気にすると、直ぐに、得ならず、時めく、黒髪の薫《かおり》が颯《さっ》と来た。 「また夢か。」  いつまで続く、ともうげんなりして、思慮《かんがえ》が、ドドドと地《じ》の底へ滅入《めい》り込む、と今度は、戸棚の蔽《おおい》が纏《まとま》って、白い顔にはならない替りに、窓の外か、それとも内か、扉《ひらき》の方角ではなしに、何だか一つ、変な物音……沈んだ跫音《あしおと》。 [#7字下げ]六[#「六」は中見出し]  その音は――今しがた聞え出した、何かを漏れて、雫《しずく》の落ちる不快な響《ひびき》が、次第に量を増して、それの大きくなったもののようでもあるし、新たに横合から加わったもののようでもある。  何しろ、同一《おなじ》方角に違いない。……開けて寝た窓から掛けて、洋燈《ランプ》がそこで消えた卓子《テエブル》の脚を伝《つたわ》って床に浸出す見当で、段々|判然《はっきり》して、ほたりと、耳許《みみもと》で響くかとするとまた幽《かすか》になる。幽になって外《おもて》の木《こ》の葉を、夜露が伝うように遠ざかる。――が、絶えたり続いたりと云うよりは、出つ入《い》りつ、見えつ隠れつするかに聞えて、浸出《にじみだ》すか、零《こぼ》れるか、水か、油か、濡れたものが身繕いをするらしい。  しばらく経《た》つと、重さに半ば枕に埋《うず》んで、がっくりとした我が頭髪《かみのけ》が、その潵《しぶき》……ともつかぬ水分を受けるにや、じとりと濡れて、粘々《ねんばり》とするように思われた。もう、手で払う元気が無いので、ぶるぶると振ると、これは! 男の天窓《あたま》にあるべくもないが、カランと、櫛《くし》の落ちた音……  例のほたほた零れる水と、やがてまた縁が離れて、直ぐに新《あたらし》い音がはじまり、寝台《ねだい》の脚から掻巻《かいまき》の裾《すそ》へかけて、こう、一つ持上げては、踏落す……それも、爪先《つまさき》で擦《こす》るでなしに、宙を伝う裙《すそ》から出て、踵《かかと》が摺《す》れ摺れに床へ触るらしく、小股《こまた》に歩行《ある》くほどの間《あわい》を措《お》いて、しと、しと、しと。  まさかこれぎりに殺されもしまい、と小松原は投《なげ》に出て、身動きもしないでいれば、次第に寝台の周囲《まわり》を廻って、ぐるりと一周りして枕許《まくらもと》を通る、と思うと、ぐらぐらと頭を取って仰向《あおむ》けに引落される――はっとすると、もう横手へ退《の》く。  その内に、窓下の点滴《したたり》が、ますます床へ浸出《しみだ》すそうで、初手は、件《くだん》の跫音《あしおと》とは、彼これ間《あわい》を隔てたのが、いつの間にか、一所になって、一条《ひとすじ》濡れた路が繋《つなが》ったらしくなると、歩行《ある》く方が、びしょびしょ陰気に、湿っぽくなって来た。  これでは目が覚めて見ると、血の足跡が、飛々《とびとび》に残っていようも知れぬ。  飛々どころか、何として、一面の血か、水であろう、と思われたのは、間も無くであった。  しとしという尋常らしい跫音《あしおと》が、今はびちゃびちゃと聞えて来た。水なら踵《かかと》まで浴《かか》ろう深さ、そうして小刻《こきざみ》に疾《はや》くなったが、水田《みずた》へ蹈込《ふみこ》んで渡るのを畔《あぜ》から聞く位の響き。  と卓子《テエブル》の上で、ざざっと鳴出す。窓から、どんどと流込む。――さてもさても夥多《おびただ》しい水らしいが、滝の勢《いきおい》もなく、瀬の力があるでもない。落ちても逆捲《さかま》かず、走っても迸《ほとばし》らぬ。たとえば用水が畔へ開き、田が一面の湖となる、雨上《あまあが》りの広田圃《ひろたんぼ》を見るような、鮒《ふな》と鰌《どじょう》の洪水めいたが、そのじめじめとして、陰気な、湿っぽい、ぬるぬるした、不気味さは、大河《おおかわ》の出水《でみず》の凄《すご》いに増《まさ》る。  そんな水がどこへ出た、と言われたら、この部屋一面、と答えようと思いながら、小松原は但し身動きも出来ないのである。  やがて短夜《みじかよ》が……嬉しや、もう明けそうに、窓から白濁りの色が注《さ》して、どんよりと光って、卓子《テエブル》の上へ飜った、と見ると、跫音《あしおと》が、激しくなって、ばたばたばた、とそこいらを駈《か》けたが、風か、水か、ざっと鳴る時、婦《おんな》の悲鳴が、 「あッ」  と云う…… 「奥さん。」  と刎起《はねお》きる、と、起きた正面に、白い姿が、髴《ふつ》とある! 「ああ、夢か。」  と気が着いたが、まざまざ垂れたその切《きれ》が、ふっくりした乳にも見えるし、すっとした手にも見える。その辺《あたり》が、と思うと、円い肩になり、なぞえに白く胸になって、くびって腰になって、すらりと裾のようになる。  あの、雪に、糸|一条《ひとすじ》も懸《かか》らぬか、と疑えば、非ず、ひたひたと身に着いた霞のような衣《きぬ》をぞ絡《まと》う。  と見ると、乳《ち》の辺《あたり》、胸へ掛けて、無慚《むざん》や、颯《さっ》と赤くなって、垂々《たらたら》と血に染まった。 [#7字下げ]七[#「七」は中見出し]  枕に響いた点滴《したたり》の音も、今さらこの胸からか、と悚然《ぞっ》とするまで、その血が、ほたほたと落ちて、汐《しお》が引くばかりに、見る間に、びしゃびしゃと肉が萎《しぼ》む、と手と足に蒼味《あおみ》が注《さ》して、腰、肩、胸の隅々《くまぐま》に、まだその白い膚《はだ》が消々《きえぎえ》に、薄《うっす》らと雪を被《かつ》いで残りながら、細々と枝を組んで、肋骨《あばらぼね》が透いて見えた。 「ああ、これだな。」  と合点が行《ゆ》く。  途端に、がたがたと戸棚が鳴った。  自分で正気づいたと、心が確《たしか》になった時だけ、現《うつつ》の婦《おんな》の跫音《あしおと》より、このがたがたにもう堪《たま》らず、やにわに寝台《ねだい》からずるずると落ちた。  小松原は暗がりを手探りながら、鋭くなった神経に、先刻《さっき》から電燈《でんき》で照らしたほど、室内の見当はよく着けていたので、猶予《ためら》いもせず、ズシンと身体《からだ》ごと扉《ひらき》の引手に持って行《ゆ》くと、もとより錠を下ろしたのではない。  ドンと開《あ》く。  扉に身体《からだ》が附着《くッつ》いて、発奮《はず》んで出たが、跨《また》いだ足が、そう苦なしには大穴から離りょうとはせぬので、地獄から娑婆《しゃば》へ踏掛けた体《てい》で、独《ひとり》で踠《もが》いて、どたんばたん、扉の面《おもて》と、や、組んだりける。  この物音に、驚破《すわや》と奥で起直って、早や身構《みがまえ》をしたと見える――慌《あわただ》しい耳にも、なおがったりと戸棚の前の怪しげな響《ひびき》がまた聞えたのに、堪《たま》りかねて主人《あるじ》を呼ぶと――向うへ、突当りの縁が折曲った処に、ぼうと射《さ》していた灯《あかり》が動いて、直ぐに台附の洋燈《ランプ》を手にした、浴衣の胸のはだかった、扱帯《しごき》のずるずるとある医師《せんせい》が、右を曲って、正面へ。  開放した障子を洩《も》れて、だらりと裾《すそ》を引いた萌黄《もえぎ》の蚊帳を横にして、廊下の八分目ぐらいな処で、 「便所か。」  と云う、髯《ひげ》、口許《くちもと》が明々《あかあか》として、洋燈《ランプ》を翳《かざ》す。  この明《あかり》で、小松原は水浸しになったほど、汗びっしょりの、我ながら萎垂《しょぼた》れた、腰の据《すわ》らぬ、へとへとになった形を認めたが、医学士はかつて一年志願兵でもあったから、武備も且つある、こんな時の頼母《たのも》しさ。顔を見ると、蘇生《よみがえ》った心地で、 「やあ。」と掛けた声が勢《いきおい》なく中途で掠《かす》れて、 「夜更けに恐縮、」  とやっと根こそぎに室《へや》を離れた。……扉《ひらき》を後《うしろ》ざまに突放せば、ここが当|館《やかた》の関門、来診者の出入口で、建附に気を注《つ》けてあるそうで、刎返《はねかえ》って、ズーンと閉る。  と突出された体《てい》にしょんぼり立って、 「どうも、何だ、夜夜中《よるよなか》、」  医師《せんせい》は亭主関白といった足取、深更に及んでも、夜中でも、その段は一切|頓着《とんじゃく》なく、どしどしと廊下を踏んで、やがて対向《さしむかい》になる時、傍《かたわら》の玄関の壁越に凄《すさま》じい鼾《いびき》を聞いて、 「壮《さかん》だ、壮だ。」  と莞爾《にっこり》する。  顔色《かおつき》が、ぐっすり寝込んだ処を、今ので呼覚《よびさま》されて、眠いに迷惑らしい様子もないので、 「どうも気の毒です。酷《ひど》い目に逢ってね。」  といささか落着く。  医師《せんせい》は立《たち》はだかりつつ、 「どうした、蚊軍《ぶんぐん》の襲来かい。」  なかなか、こんな事を解釈する余裕はなくって、 「ええ、」  といかにも気が利かない。 「蚊に城を破られたかよ。」 「そこどころか。」  対手《あいて》の余り暢気《のんき》なのが、この際|怨《うら》めしく思われた。 「この中は大変だ。」 「大変だ?」 「何か来たんだ。」 「何、入って来たか、」  と洋燈《ランプ》を上げて、扉《ひらき》の上を、ぐいと仰ぐ。 「がたがた遣《や》ってる。」  小松原は、ずうっと医師《せんせい》に身を寄せる、と目を返して、今度はその体《てい》をじろじろ視《なが》めて、 「震えてるね、君は。」 [#7字下げ]八[#「八」は中見出し] 「どうだい、心持は。もう爽快《さっぱり》したろう。」  主人《あるじ》の医師《せんせい》は、奥座敷の蚊帳の中に、胡坐《あぐら》して、枕許《まくらもと》の煙草《たばこ》盆を引寄せた。 「こういう時は、医師《いしゃ》の友達は頼母《たのも》しかろう。ちと処方外の療治だがね、同じ葡萄酒《ぶどうしゅ》でも薬局で喇叭《らっぱ》を極《き》めると、何となく難有味《ありがたみ》が違って、自《おのずか》ら精神が爽快《そうかい》になります。しかし怯《おび》えたっけ、ははは。」  と髯《ひげ》を捻《ひね》って、冴々《さえざえ》しい。  蚊がぶうんと唸《うな》って、歯切《はぎしり》もどこかでする。灯《あかり》の暗い、鬱陶《うっとう》しかるべき蚊帳の内も、主人《あるじ》がこれであるから、あえて蒸暑くもないのであった。  小松原は、裾《すそ》を細う、横に手枕で気を休めていた。 「怯えたどころか、一時はそのままになるかと思った。起きるには起きられず、遁《に》げるには遁げられず、寝返りさえ容易じゃない、実際息が留まりそうだったものね。」  咽喉《のど》を斜《ななめ》に手を入れて、痩《や》せた胸を圧《おさ》えながら、 「見たまえ、いまだにこの動悸《どうき》を、」 「色は白くっても、野郎の癪《しゃく》を圧《おさ》えたってはじまらない。は、はは、いや、しかし弱い男だ。」 「ふ、ふ、」  と力抜けた声で笑って、 「奥さんは?」と俯向《うつむ》けに額を圧える。 「御心配に及びません。君が侵入に及んだために他室へ遠慮したというんじゃない。小児《こども》の奴がまた生意気に、私がちと飲過すと、酒臭い、と云って一つ蚊帳を嫌います。いや、大《おおき》に台所の内諭《ないゆ》なきにしもあらずだろうが。  そこで、先刻《さっき》、君と飲倒れたまま遠島申附かった訳だ。――空鉄砲《からでっぽう》の機会《きっかけ》もなしに、五斗兵衛むっくと起きて、思入《おもいいれ》があったがね。それっきり目が冴えて寝られないで、いささか蚊帳の広さかなの感あった処です。  君もちょっとは寝られまい、朝までここで話したまえ。」  折から陽気にという積りか、医師《せんせい》の言は、大《おおい》に諧謔《かいぎゃく》の調を帯びたが、小松原はただ生真面目《きまじめ》で、 「どうかそうしてくれたまえ。ここを追出されたればといって、二度とあすこへ行って寝る気はしない。どうも驚いた。」 「はじめから奇を好むからです。あすこへ行って寝るなんざ、どの道|好《よ》くない。いずれ病人でなくっては乗っからない寝台《ねだい》だもの。もっとも、私にゃ大切な商売道具だがね。  しかしそれにしてもあんまりな怯《おび》え方だ。夢を見て遁出《にげだ》すなんざ、いやしくも男子たるべきものが……と云って罵倒《ばとう》するわけじゃないが、ちとしっかりしないかい。串戯《じょうだん》じゃない、病気になる。  そんなのが嵩《こう》じると、何も餅《もち》屋がって、ここで病名は申さんがね、起きている真昼間《まっぴるま》でも目に見えるようになる。それ、現在目に見えて、そこに居るから、口も利くだろう、声も懸けようではないか。傍《はた》から見ると、直ぐにもうキの字だぜ、恐るべし、恐るべし。  何も、朦朧《もうろう》と露《あらわ》れたって、歴々《ありあり》と映ったって、高が婦《おんな》じゃないか。婦の姿が見えたんだって言うじゃないか。何が、そんなに恐いものか。」 「別に見えたって訳じゃない。何だか寝台の周囲《まわり》を歩行《ある》いたんだが、そう、どっちにしても婦《おんな》らしく思われた――それがすぐに、息の詰るほど厭《いや》な心地《こころもち》だったんではないけれども、こう、じとじとして、湿っぽくッて、陰気で、そこらに鯰《なまず》でも湧出《わきだ》しそうな、泥水の中へ引摺込《ひきずりこ》まれそうな気がしたんで、骨まで浸透《しみとお》るほど慄然々々《ぞくぞく》するんだ。」  と肩を細うして、背《せな》で呼吸《いき》をする。 「男らしくもない、そんな事を言って梅雨期《つゆどき》はどうします、まさか蓑笠《みのかさ》を着て坐ってやしまい。」 「うむ、何、それがただのじとじとなら可《い》いけれど、今云う泥水の一件だ、轟《ごう》と来た洪水か何かで、一思《ひとおもい》に流されるならまだしもです――灯《あかり》の消えた、あの診察|処《じょ》のような真暗《まっくら》な夜、降るともつかず、降らないでもない、糠雨《ぬかあめ》の中に、ぐしゃりと水のついた畔道《あぜみち》に打坐《ぶっすわ》って、足の裏を水田《みずた》のじょろじょろ流《ながれ》に擽《くす》ぐられて、裙《すそ》からじめじめ濡通って、それで動くことも出来ないような思いを一度して見たまえ。」  と力強く云って、また小松原は溜息《ためいき》で居る。 [#7字下げ]九[#「九」は中見出し]  医師《せんせい》は徐《おもむろ》に、煙草盆を引寄せて、 「それ、そこが苦労性だと言うのです。窓を開けたまんまで寝たから、夜風が入って湿っぽかったらただ湿っぽかったで可《よ》かろう。何も真暗《まっくら》な夜、田圃《たんぼ》の中に、ぐしゃりと坐って、足の裏を擽《くすぐ》られて、腰から冷通《ひえとお》るとまで、こじつけずともの事だ。その気でお膳《ぜん》に向った日にゃ、お汁《つけ》の湯気が濛々《もうもう》と立騰《たちのぼ》ると、これが毒のある霧になる、そこで咽死《むせじに》に死にかねませんな。」 「そう一概に言ってくれる事はない。どうせ現在お目に懸けた臆病《おくびょう》です。それを弁解するんじゃないが、田圃だの、水浸しだの、と誇大に妄想《もうぞう》した訳ではありません。  実際、そんな目に逢って、一生忘れられん思《おもい》をした事があるからだよ。いや、考えても身の毛が弥立《よだ》つ。」  フイと起返って、蚊帳の中を眗《みまわ》したが、妙に、この男にばかり麻目が蒼《あお》い。  医師《せんせい》は落着いて、煙を吹かして、 「どこで野宿をした時だ、今度の旅でか。」 「ううむ。」  と深く頭《かぶり》を振って、 「いつかの時さ、あの一件の……」  と言懸けて、頬のこけた横顔になって打背《うちそむ》いた。――小松原の肩のあたりから片面《かたおも》の耳朶《みみたぶ》かけて、天井の暗さが倒《さかさま》に襲ったのを、熟《じっ》と見ながら、これがある婦人と心中しようとした男だと頷《うなず》いた。  当時その風説は、友達の間に誰も知らぬものはなかったが、医学士は、折から処を隔てていたので、その場合何事にも携わらなんだ。もう三年か四年かと、指を折るほど前《さき》に、七十五日も通越したから、更《あらた》めて思出すほどでもなし、おいそれと言《ことば》に従《つ》いて、極《きま》りの悪い思《おもい》をさせるでもなかろう。で、一向|無頓着《むとんじゃく》に、 「何だい、いつかの一件とは?」 「面目次第も無い件《こと》さ。三年|前《ぜん》だ、やっぱりこの土地で、鉄道往生をし損《そく》なった、その時なんです。」 「ああ、そんな事があったってな、危いじゃないか。」  と云う内に自《おのず》から真心が籠《こも》って、 「一思いに好男子、粉にする処だっけ。勿論、私がこうして御近所に陣取っていれば、胴切《どうぎり》にされたって承合《うけあい》助かる。洒落《しゃれ》にちょいと轢《ひ》かれてみるなんぞも異《おつ》だがね、一人の時は危険だよ。」  わざと話に、一人なる語《ことば》を交えて、小松原が慚愧《ざんき》の念を打消そうとするつもりだった。  ところが案外! この情《なさけ》に、太《いた》く動かされた色が見えたが、面《おもて》を正しゅう向直った。 「何とも――感謝する。古疵《ふるきず》の悩《なやみ》を覚えさせまい、とそうやって知らん顔をしてくれるのは真《まこと》に嬉しい、難有《ありがた》いが……それでは怨《うらみ》だ。  ねえ。  あれほどの騒ぎだもの。ことに自惚《うぬぼれ》らしいが、私の事を忘れないでいてくれる君が、しかもこの土地へ来ていて、知らないという法はない。承知の上で、何にも知らん振《ふり》をしてくれるのは、やっぱりあの時の事を、世間並に、私が余処《よそ》の夫人を誘って、心中を仕損《しそくな》った、とそう思っているからです。  勝手な事を言うものには、言わしておいて構わんけれども、君のような人に対しては、何とももって恥入るんだ。」  と俯向《うつむ》いて腕を拱《こまぬ》き、 「その君の情《なさけ》ある心で、どうか訳を聞いて欲しい。くどい事は言わん。何しろ、少なくとも君だけには言訳をする責任があると思う。」  医師《せんせい》は潔く、 「承わろう。今更その条道《すじみち》を話して聞かせる……惚気《のろけ》なら受賃を出してからにしてもらおうし、愚痴《ぐち》なら男らしくもない、止《よ》したまえ――だが、私たちが誤解をしているんなら、大《おおい》に弁じて聞かせてくれ、今まで疑っていたから私にも責任がある。」 「そう、きっぱりとなられては、どうもまた言出しにくい。」 「可《い》いじゃないか、その容体を聞かせたまえ、医師《いしゃ》には秘密を打開《うちあ》けて可《い》いもんだ。」 「…………」  言淀《いいよど》んで見えたので、ここへ来い、と構《かまえ》を崩して、透《すき》を見せた頬杖《ほおづえ》し、ごろりと横になって、小松原の顔を覗込《のぞきこ》みつつ、 「で、何か、その晩、田圃《たんぼ》に坐ったのか。」  と軽く扱《あしら》って誘《さそい》を入れた。 [#7字下げ]十[#「十」は中見出し] 「まあ、坐ったんだ。」  小松原は苦笑して頬を撫《な》でたが、寂しそうに打傾き、 「土下坐《どげざ》をしたというわけでもないが、やっぱり坐っていたんだよ。」 「またどうしてだい。」  と医師《せんせい》は寛《くつろ》いだ身の動作《こなし》で、掻巻《かいまき》の上へ足を投げて、綴糸《つづりいと》を手で引張《ひっぱ》る。 「それがね、」 と熟《じっ》と灰吹を見詰めてから、静かに巻莨《まきたばこ》を突込《つッこ》みながら、 「はじめは何でもない事だった。――何の気なしに、あの人を、そこいらへ散歩に誘ったんです。」 「あの人ッて?」 「…………」 「ははあ、対手《あいて》の貴婦人だね。」 「そんな事を言わないで、」  と吸口をもっと突込《つッこ》む。 「可《い》いじゃないか、何も貴婦人と云ったって、直ぐに浮気だ、という意味ではないから。」 「何、貴婦人に違いはないが、その対手《あいて》が悪い。」 「可《よ》し、可し、黙って聞こう。そうまた一々気にしないでお話しなさい。そこで。」 「御存じの通り、あの前の年から、私は体が悪くって二年越この田舎へ来ていたんだ。あの人は、私が世話になってる叔父が媒酌人《なこうど》で結婚をしたんだろう。大して懇意ではないが見知越《みしりごし》でいたのだった。  ちょうど戦争のあった年でね。  主人は戦地へ行って留守中。その時分、三才《みッつ》だった健坊と云うのが、梅雨あけ頃から咳《せき》が出て、塩梅《あんばい》が悪いんで、大した容体でもないが、海岸へ転地が可《い》い、場所は、と云って此地《ここ》を、その主治医が指定したというもんです。  小児《こども》の病気とはいいながら、旅館と来ると湯治《とうじ》らしく、時節柄人目に立つ。新《あらた》に別荘を一軒借りるのも億劫《おっくう》だし、部屋|借《がり》が出ず入らず、しかるべき空座敷《あきざしき》があるまいか、と私が此地《こっち》に居た処から、叔父へ相談があったというので、世話をするように言って来た。  そちこち聞合せると、私が借りていた家から、田圃《たんぼ》の方へ一町ばかり行った処に、村じゃ古店で商《あきない》も大きく遣《や》っている、家主の人柄も可《よ》し、入口が別に附いて、ちょっと式台もあって、座敷が二間、この頃に普請をしたという湯殿も新しいし、畳も入替えたのがある。  直ぐに極《き》めて、そこへ世話をして、東京から来る時も、私が停車場《ステエション》へ迎いに行って、案内をしたんだっけが、七月盆過ぎから来ていて、九月の末の事だったよ。  五日ばかり降続いて、めっきり寂しくなる。朝晩は、単衣《ひとえ》に羽織を被《き》て、ちとまだぞくぞくして、悪い陽気だとばかり、言合って閉籠《とじこも》っていた処……その日は朝から雨が上《あが》って、昼頃には雲切《くもぎれ》がして、どうやら晴れそうな空模様。でもまだ、蒼空《あおぞら》は見えなかったが、多日《しばらく》ぶりで、出歩行《である》くに傘は要らない。  小児《こども》を歩行かせるには路《みち》が悪いから、見得張らない人だ、またおんぶをして、宿の植込の中から、斜《はす》っかいに私の前二階を覗《のぞ》いて、背中の小児に言わせるように、前髪を横向けにして、 (お出掛けなさいませんか。)  と浜を誘いに見えるだろう。 (小松……君。)  と原抜きにして、高慢に仇気《あどけ》なく高声で呼ぶ、小児の声が、もうその辺から聞えそうだ、と思ったが、出て来ない。  その内、湯に入ると、薄《うっす》りと湯槽《ゆぶね》の縁へ西日がさす。覗《のぞ》くと、空の真白《まっしろ》な底に、高くから蒼空が団扇《うちわ》をどけたような顔を見せて、からりと晴れそうに思うと、囲《かこい》の外を、 (水が出たぞ。) (田圃一面。)  と饒舌《しゃべ》って通った。  これを聞くと、何か面白い興行でもはじまったような気がして、勇んで、そわそわして、早く行って見たくって、碌《ろく》に手拭《てぬぐい》も絞らないで、ふらんねるを引《ひっ》かけたなり、帽子も被《かぶ》らずに、下駄を突掛《つッか》けて出たんだがね。」―― [#7字下げ]十一[#「十一」は中見出し] 「汎水《でみず》だ、と云ったって、この通り、川らしい川のない処だから、駈出《かけだ》して見物に行くほどの事もなさそうなもんだけれど、私は何だ。……  董《すみれ》、茅花《つばな》の時分から、苗代、青田、豆の花、蜻蛉《とんぼ》、蛍、何でも田圃が好《すき》で、殊に二百十日前後は、稲穂の波に、案山子《かかし》の船頭。芋莄《ずいき》の靡《なび》く様子から、枝豆の実る処、ちと稗蒔《ひえまき》染みた考えで、深山大沢《しんざんだいたく》でない処は卑怯《ひきょう》だけれど、鯨《くじら》より小鮒《こぶな》です、白鷺《しらさぎ》、鶉《うずら》、鷭《ばん》、鶺鴒《せきれい》、皆《みん》な我々と知己《ちかづき》のようで、閑古鳥よりは可懐《なつかし》い。  山、海、湖などがもし天然の庭だったら、田圃はその小座敷だろう。が、何しろ好きでね、……そのせいか、私には妙な事がある。  いつ頃からかはよく分らんが、床に入って、可《いい》心持に、すっと足を伸《のば》す、背《せなか》が浮いて、他愛《たわい》なくこう、その華胥《かしょ》の国とか云う、そこへだ――引入れられそうになると、何の樹か知らないが、萌黄色《もえぎいろ》の葉の茂ったのが、上へかかって、その樺色《かばいろ》の根を静《しずか》に洗う。藍《あい》がかった水の流《ながれ》が、緩く畝《うね》って、前後《あとさき》の霞んだ処が、枕からかけて、睫《まつげ》の上へ、自分と何かの境目《さかいめ》へ露《あらわ》れる。……  トその樹の下に、笊《ざる》か何か手に持って、まあ、膝ぐらいな処まで、その水へ入って、そっと、目高か鮒か、掬《すく》ってる小児《こども》がある。其奴《そいつ》が自分で。――ああ、面白そうだと思うと、我ながら、引き入れられて、身節《みふし》がなえて、嬉しくなる。その内に波立ちもしないで、水の色が濃くなって、小濁《ささにご》りに濁ると思うと、ずっと深さが増して、ふうわり草の生えた土手へ溢《あふれ》るんだがね、その土手が、城趾《しろあと》の濠《ほり》の石垣らしくも見えれば、田の畔《あぜ》のようでもあるし、沼か、池の一角のようでもある。その辺は判然しないが、何でも、すっと陽炎《かげろう》が絡《まつわ》る形に、その水の増す内が、何とも言えない可《い》い心地で、自分の背中か、その小児の脚か、それに連れて雲を踏むらしく糶上《せりあが》ると、土手の上で、――ここが可訝《おか》しい――足の白い、綺麗《きれい》な褄《つま》をしっとりと、水とすれすれに内端《うちわ》に掻込《かいこ》んで、一人美人が彳《たたず》む、とそれと自分が並ぶんで……ここまで来るともう恍惚《うっとり》……  すやすや寝ます。  枕に就いて、この見える時は、実際子守唄で賺《す》かされるように寝られる。またまったく心持の可い時でないと見えんから、見えない時でも見るように、見るようにと心掛ける――それでも、散らかって、絡《まと》まらないで、更に目に宿らん事が多い。そういう時は、きっと寝そびれて悩むんだ。  そこで、大好きな田圃の中でも、選分《えりわ》けて、あの、ちょろちょろ川が嬉しい。雨上《あまあが》りにちっと水が殖《ふ》えて、畔へかかった処が無類で。  取留めのない事だが、我慢して聞きたまえ。――本人にも一向|掴《つかま》え処はない。いつも見る景色だけれども、朝だか、晩方だか、薄曇った日中《ひなか》だか、それさえ曖昧《あいまい》で、ただ見える。  さあ、模様が誂向《あつらえむ》きとなったろう――ところで、一番近い田圃へ出るには、是非、あの人が借りていた、その商家《あきんどや》の前を通るんだったよ。  店をはずれて、ひょろひょろとした柳で仕切った、その門《かど》を見ると、小児《こども》が遊んでいたらしく、めんこが四五枚、散《ばら》に靴脱ぎのたたきの上へ散《ちらか》って、喇叭《らっぱ》が一ツ、式台に横飛び。……で、投出して駈出《かけだ》したか、格子戸が開放《あけっぱな》し、框《かまち》の障子も半分開いて、奥の長火鉢の端が見えた。  その格子戸の潜《くぐり》の上へ手を掛けて、 (健ちゃん、)  と呼んでみたが、黙っていた。 (居ないの。お留守、)  と遣《や》ると、……そこもやっぱり開いたままの、障子の陰の、湯殿へ通う向うの廊下へ、しとしとと跫音《あしおと》がして、でも、黙然《だんまり》で、ちょいと顔だけ見せて覗《のぞ》いたが、直ぐに莞爾《にっこり》して、縁側を奥座敷へ上《あが》った姿は……  帯なし、掻取《かいど》り気味に褄《つま》を合せて、胸で引抱えた手に、濡手拭《ぬれてぬぐい》を提げていた。二間を仕切った敷居際に来て、また莞爾《にっこり》すると、……」 「謹聴、」  と医学士《せんせい》が唐突《だしぬけ》に云った。 「真面目だよ、真面目だよ。」 [#7字下げ]十二[#「十二」は中見出し] 「湯上りの、ぱっと白い、派手な、品の可《い》い顔を、ほんのり薄紅《うすべに》の注《さ》した美しい耳許《みみもと》の見えるまで、人可懐《ひとなつッこ》く斜めにして、 (失礼、今ね、お返事の出来ない処だったの……裸体美人、)  と云って花やかな笑顔になる。いかにも伸々《のびのび》と寛容《ゆったり》して、串戯《じょうだん》の一つも言えそうな、何の隔てもない様子だったが、私は何だか、悪い処へ来合せでもしたように、急込《せきこ》んで、 (田圃へ行って見ませんか、)  と何のあしらいもなく装附《もりつ》けた。 (は、参りましょう、)  と頷《うなず》いて、台所の方を振返りながら、 (ちょいと、御免なさいよ。)  支度を、と断るまでもなく、平常着《ふだんぎ》のままで出は出たが、――その時、横向きになって、壁に向うと、手を離した。裙《すそ》が落ちて、畳に颯《さっ》と捌《さば》けると、薄色の壁に美しく濡蔦《ぬれづた》が搦《から》んで絵模様、水の垂りそうな濡毛《ぬれげ》を、くっきりと肱《ひじ》で劃《くぎ》って、透通るように櫛《くし》を入れる。ちょうどそこの柱に懸けて、いかがな姿見が一面あった――勿論、東京から御持参の品じゃない。これと、床の間の怪しい山水は、家主のお愛想なんです――あの人がまた旅へ姿見を持って出るような心掛けなら、なに、こんな処で、平気でお化粧《つくり》をする事もなかろう。  熟《じっ》と見てもいられますまい。この際、どこへ持って行こうか、と背ける目を掠《かす》めて、月の中を雪が散った……姿見に映った胸で、……膚《はだ》の白い人だっけ。  直ぐにそれは消えたけれど、今のその褄《つま》はずれの色合は、どうやら水際に足を白く、すらりと立った姿に見えたが……  ああ、その晩方、幻のような形で、二人して、水の上に立つようになったんだ。  何に誘われて出たんだか、――とうとうあんな酷《ひど》い目に逢う原因《もと》だったがね。別に怪しいものじゃない、自分が時々見る美しい、嬉しい夢、――いや、夢じゃない、我が心に、誘出《さそいだ》されたものかと思う。」  小松原は、現《うつつ》のように目を睜《みは》って、今向直って気を入れた、医師《せんせい》の顔を瞻《みまも》りながら、 「また愚痴だ、と言うだろうが、後で考えれば、私は今までの経験に因ると、いつでも、湯の中でフイと気が立って、何だか頻《しき》りにそわついて、よくも洗わないで飛出した時に限って、余りめでたい事がない。一度も小児《こども》の時だった、やっぱりそういう折に大怪我をしたのを覚えている。  それにね、そんな風で停車場《ステエション》へ迎いに行って、連れて来て、家《うち》も案内する、近所で間に合せの買物まで、一所に歩行《ある》いて、台所の俎《まないた》、摺鉢《あたりばち》の恰好《かっこう》まで心得てるような関係になっていたから、夏の中《うち》も随分毎日のように連立って海岸へ行ったんで――また小児のために、それが何よりの目的なんでね。  来たてには、手荷物の始末、掃除の手伝いかたがた、馬丁《べっとう》と、小間使と女中と、三人が附いて来たが、煮炊《にたき》が間に合うようになると、一度、新世帯のお手料理を御馳走《ごちそう》になった切り、その二人は帰った、年上の女中だけ残って。それも戦時の遠慮からです。  一人になったが、女中には大した用があるんじゃない。どうせ旅の事で、何を極《きま》って、きちょうめんにしなければならんというでもなし、一向気取らない女主人で、夜も坊ちゃんを真中《まんなか》へ、一ツ蚊帳に寝るほどだから、お茶漬をさらさらで、じゃかじゃかと洗ってしまえば埒《らち》は明く。女中も物珍らしく遊びたいから、手廻しよく、留守は板戸の開閉《あけたて》一つで往来《ゆきき》の出来る、家主の店へ頼んで、一足|後《おく》れ馳《ば》せにでも、 (坊ちゃん)……か何かで、直ぐに追着《おッつ》く。  だから、いつでも女中が一所で、その健坊と四人連れ立たないのは珍らしい、まあ、ほとんど無かったろう。  浜に人影がなくなって、海松《みる》ばかり打上げられる、寂しい秋の晩方なんざ、誰の発議だったか、小児が、あの手遊《おもちゃ》のバケツを振提《ぶらさ》げると、近所の八百屋へ交渉して、豌豆豆《えんどうまめ》を二三合……お三どんが風呂敷で提げたもんです。磯《いそ》へ出ると、砂を穿《ほ》って小さく囲って、そこいらの燃料《もえくさ》で焚附《たきつ》ける。バケツへ汐汲《しおくみ》という振事があって、一件ものをうでるんだが、波の上へ薄《うっす》りと煙が靡《なび》くと、富士を真正面《まっしょうめん》に、奥方もちっと参る。が、落日に対して真《まこと》に気高い、蓬莱《ほうらい》の島にでも居るような心持のする時も、いつも女中が随《つ》いていたのに。」 [#7字下げ]十三[#「十三」は中見出し] 「それが、その時に限って二人きりだった。もっともね、 (健ちゃんは?)ッて聞いたんだ。 (そこいらに居ましょう。)  と藤色の緒の表附《おもてつき》の駒下駄《こまげた》を、紅《べに》の潮《さ》した爪先《つまさき》に引掛《ひっか》けながら、私が退《の》いた後へ手を掛けて、格子から外を覗《のぞ》いた、門《かど》を出てからで可《よ》さそうなものを、やっぱり雨に閉籠《とじこも》った処を、四五日振りの湯上りで晴々《せいせい》して、戸外《おもて》へ出るのが嬉しくって、気が急《せ》いたものらしかった。  帯もざっとした引掛《ひっかけ》結びで、 (おや、居ませんか?)  ッて蓮葉《はすは》に出て、直ぐ垣隣りの百姓屋の背戸を覗込《のぞきこ》んで、 (健ちゃん、健ちゃんや。)  と呼ぶと、急に、わやわやと四五人|小児《こども》の声がして、向うの梅の樹の蔭で、片手に棒千切《ぼうちぎれ》を持って健坊が顔を出した。田圃《たんぼ》へお出《い》で、と云うと、 (厭《いや》だべい。)  で突掛《つッかか》るように刎附《はねつ》ける、同じ腕白|夥間《なかま》に大勢|馴染《なじみ》が出来たから、新仕込のだんべいか何かで、色も真黒《まっくろ》になった。母様《かあさん》がまたこれを大層喜んでいたもんです。 (じゃ遊んでるかい。母様は運動に行って来るよ。) (うん、)  と云うと、わっと吶喊《とき》を上げて、垣根の陰へ隠れたが、直ぐにむらむらと出て、鶏小屋《とりごや》の前で、健ちゃんは素飛《すっと》ぶ。 (お庇様《かげさま》で、この頃の悪い陽気にも障らなくなりましたよ。)  と嬉しそうに見えて、 (どちらへ?)と聞く。 (踏切の方へ行って見ましょう。水が出たそうですから。)  百姓家二三軒でもう畷《なわて》だが、あすこは一方畑だから、じとじと濡れてるばかり。片方《かたっぽ》に田はあっても線路へ掛けて路が高い。ために別に水らしい様子も見えん。踏切を越して土手を畦伝《あぜづた》いに海岸の方へ下りると、なぞえに低くなるから、そこへ行けばちょろちょろ見えよう――もっとも汎水《でみず》と云うほどの事はどの道ないのだから、畷を帰る百姓も、私たちのぶらぶら歩行《あるき》を通越す大八車の連中も、水とも、川とも言うものはなく、がったり通る。  路は悪かった。所々の水溜《みずたまり》では、夫人《おくさん》の足がちらちら映る。真中《まんなか》は泥濘《ぬかるみ》が甚《ひど》いので、裙《すそ》の濡れるのは我慢しても、路傍《みちばた》の草を行《ゆ》かねばならない。  停車場《ステエション》は、それあすこだからね。柵の中に積んだ石炭が見える、妙に白光《しろびかり》に光って、夜になると蒼《あお》く燃えそう。またあの町の空を、山へ一面に真黒な、その雲の端が、白く流れ出して、踏切の上を水田《みずた》の方へ、むらむらと斑《まだら》に飛ぶ。が海を抱《いだ》いた出崎の隅だけ朗かな青空……でも、何だか、もう一|拭《ぬぐ》い拭《ぬぐい》を掛けたいように底が澄まず、ちょうど海の果《はて》と思う処に、あるかなし墨を引いた曇《くもり》が亘《わた》って、驚破《すわ》と云うとずんずん押出して、山の雲と一|絡《まと》めにまた空を暗闇《くらやみ》にしそうに見える。もっともそれなり夜になろうが、それだけに、なお陰気で、星は出そうにもなし、雨になると戸を閉めるから、遠い灯《ともしび》の影も見られなそうな夕暮だった。 (もう、お天気になりましょうね。) (さあ、)  とは云ったがどうも請合いかねる。……明白《あからさま》に云うと、この上降続いちゃ、秋風は立って来たし、さぞ厭《あ》き厭きして、もう引上げやしまいか、と何だかそれが寂しかったよ。  風はなかった。稲葉がそよりともせぬ。けれども何となく、ざわついて海の波が響くようなは、溢《あふ》れた水が田へ被《かぶ》るそれらしかった。  踏切を渡ると、鴉《からす》が一羽……その飛んだ事ったら――吃驚《びっくり》したほど、頭の上を矢を射るように、目を遮って、低い雲か、山の端《は》か、暗い処へ消えたっけ……早や秋だったねえ。雨気《あまけ》が深く包みはしたが、どの峰も姿が薄い。  もう少し隧道《トンネル》の方へ行《ゆ》くと、あすこに、路の真中《まんなか》に、縦に掛けたちょっとした橋がある。棒杭《ぼうぐい》のように欄干がついて、――あれを横切って、山の方から浜田へ流れて出る小川を見ると、これはまた案外で、瓦色《かわらいろ》に濁ったのが、どうどうとただ一幅《ひとはば》だけれども畝《うねり》を立てて、橋の底へすれすれに凄《すさま》じいほど流れている。いつもは俯向《うつむ》いて、底を見るのが、立って、伸上って見送るほど、嵩《かさ》増して、薄《すすき》の葉が瀬を造って、もうこれで充満《いっぱい》と云うように、川柳が枝を上げて、あぶあぶ遣《や》ってた。」 [#7字下げ]十四[#「十四」は中見出し] 「この水が、路端《みちばた》の芋大根の畑を隔てた、線路の下を抜ける処は、物凄《ものすご》い渦を巻いて、下田圃へ落ちかかる……線路の上には、ばらばらと人立《ひとだち》がして、明《あかる》い雲の下に、海の方へ後向《うしろむき》に、一筆画《ひとふでがき》の墨絵で突立《つッた》つ。蓑《みの》を脱いで手に提げて鍬《くわ》を支《つ》いた百姓だの、小児《こども》を負《おぶ》った古女房だの、いかにも水見物をしているらしい。  見ると、堪《たま》らなく嬉しくなった。 (さあ、こうしておいでなさい。)  と畦《あぜ》を踏分けて跡をつけては、先へ立って、畠《はたけ》を切れて、夜は虫が鳴く土手を上《あが》ったが、ここらはまだ褄《つま》を取るほどの雫《しずく》じゃなかった。  線路へ出て、ずっと見ると、一面の浜田がどことなく、ゆさゆさ動いて、稲穂《いなぼ》の分れ伏した処は幾ヶ所ともなしに細流《せせらぎ》が蜘蛛手《くもで》に走る。二三枚空が映って、田の白いのは被《かぶ》ったらしい。松があって雑樹が一叢《ひとむら》、一里塚の跡かとも思われるのは、妙に低くなって、沈んで島のように見えた、そこいらも水が溢《あふ》れていよう。 (もうこれだけかね、)  甚だ怪《け》しからん次第だったけれども、稲の上を筏《いかだ》ででも漕《こ》いでくれたら、と思って、傍《そば》に居た親仁《おやじ》に聞くと、 (汐《しお》が上《あが》ったら、まっと溢《かか》るべい。)  と、腕組をして熟《じっ》と視《なが》める。  成程、漁師町を繞《めぐ》ったり、別荘の松原を廻ったり、七八《ななや》筋に分れて、また一ツになって海へ灌《そそ》ぐが、そこ行《ゆ》くとこれでも幅が二十間ぐらい、山も賦になれば、船も歌える、この様子では汐が注《さ》そう。  と二人で見ているうち、夕日のなごりが、出崎の端《はな》から␼《ぱっ》と雲を射たが、親仁の額も赫《かっ》となれば、線路も颯《さっ》と赤く染まる。稲を潜《くぐ》って隠れた水も、一面に俤立《おもかげだ》って紫雲英《げんげ》が咲満ちたように明るむ、と心持、天の端を、ちらちら白帆《しらほ》も行《ゆ》きそうだった。  またこれに浮かれ立って、線路を田圃へ下りたんだが、やがて、稲の葉が黒くなって、田が溝染《どぶぞ》めに暮れかかると、次第に褪《あ》せて行《ゆ》く茜色《あかねいろ》を、さながら剥《は》ぎたての牛の皮を拡げた上を、爪立《つまだ》って歩行《ある》くような厭《いや》な心持がするようになっちまった。  ちょうど、田圃道を、八分目ほどで、一本橋がある。それを危《あぶな》っかしく、一度渡って、二度目にまた引返してからだった……もう一跨《ひとまた》ぎで、漁師町の裏へ上《あが》ろうとする処で、思いがけなく行《ゆ》きついたろうではないか。」 「ふん、どうしてだい。」  と医師《せんせい》は枕を抱く。  小松原は一息ついて、 「どうして?ッて、見たまえ、いつもは、手拭《てぬぐい》を当てても堰留《せきと》められそうな、田の切目《きれめ》が、薬研形《やげんなり》に崩込んで、二ツ三ツぐるぐると濁水《にごりみず》の渦を巻く。ここでは稲が藻屑《もくず》になって、どうどう流れる。もっとも線路から段々|下《さが》りに低いからね。山の裾《すそ》で取囲んだ浜田ありたけの溢《あふ》れ水は、瀬になって落ちて来るんだ。但し大した幅じゃない、一間には足りないんだけれども、深さは、と云う日になると、何とどうです、崩れ口の畦《あぜ》の処に、漁師の子が三人ばかり、素裸《すっぱだか》で浸っていたろう。 (どうだ深いか。)  と一ツ当って見ると、己《おれ》達は裸で泳がい……聞くだけ野暮だ、と突懸《つッかか》り気味に、 (深え。) (二丈《ふたたけ》の上あるぜ。)  と口を尖《とん》がらかしたも道理こそ。此方《このほう》づれの体《てい》は、と見ると、私が尻端折《しりぱしょり》で、下駄を持った。あの人もまた遣附《やりつ》けない褄《つま》を取って、同じく駒下駄をぶら提げて、跣足《はだし》で、びしょびしょと立った所は、煤払《すすはき》の台所へ、手桶《ておけ》が打覆《ぶっかえ》った塩梅《あんばい》だろう。」  この時一所に笑い出したが。 「ね、小児《こども》だって、本場の苦労人《くろうと》が裸で出張ってる処へ、膝までも出さないんだ、馬鹿にするないで、もって、一本参ったもんです。  が、まだ威《おど》かしではないか、と思う未練があった。――処へ、ひょっこりしばらく潜っていたのが、鼻の前《さき》へ、ぶっくり浮いた河童小僧《かっぱこぞう》。  おやと思うと、ぶるぶると顔をやって、ふっと一条《ひとすじ》仰向《あおむ》けに水を噴《ふ》いた……深いんです。  どうもこれにゃ逡巡《たじろ》いで、二人で顔を見合せたんだ。」 [#7字下げ]十五[#「十五」は中見出し] 「そこさえ越せば、漁師町を一廻りして帰れるんで、ちょうど可《い》いくらいな散歩のつもりだったんだが、それだもの、どうして、渡るどころの騒ぎじゃない。  さあ、引返すとなると、線路からここまでの難儀さが思出される。難儀だって程度問題、覚悟をしての草鞋掛《わらじがけ》ででもあれば格別、何しろ湯あがりのぶらぶら歩き。  それ、今言った通り跣足《はだし》です。なるだけ水の上の高い処を、と拾って畦《あぜ》を伝えば、雨続きで、がばがば崩れる、路を踏めば泥濘《ぬかるみ》で辷《すべ》る、乾いた処ちっともなし。…… (お危のうございますよ。) (は、大丈夫、)  と声を掛けて、やっと辿《たど》ったのだった。また厄介なのは、縦横に幾ヶ処ともなく、畦の切目があって、ちょいと薪《まき》を倒したほどの足掛《あしかけ》が架《かか》っているが、たださえ落す時分が、今日の出水《でみず》で、ざあざあ瀬になり、どっと溢《あふ》れる、根を洗って稲の下から湧立《わきた》つ勢《いきおい》、飛べる事は飛べるから、先へ飛越えては、おもしろ半分、 (お手をお取り申しましょうかね。)  と一畦離れていて云うと、 (是非、どうぞ。)  なんて笑いながら、ま、どうにか通ったんだっけ。浅いと思った水溜《みずたまり》へ片足踏込んで、私が前《さき》へ下駄を脱いだんで、あの人も、それから跣足《はだし》、湯上りの足は泥だらけで――ああ、気の毒だと思う内に、どこかの流れで、歩行《ある》いてる内に綺麗に落ちる、その位|皆《みんな》水です。  で三町ぐらい、また引返さなけりゃならないんでね、それに段々暗くはなる、足許《あしもと》も悪かろう、うんざりしたが、自分は、まあ、どうなり、さぞ困った顔をして、と振返る……  とこの時……  薄《うっす》り路へ被《かか》った水を踏んで、その濡色《ぬれいろ》へ真白《まっしろ》に映って、蹴出《けだ》し褄《づま》の搦《から》んだのが、私と並んで立った姿――そっくりいつも見る、座敷の額の画《え》に覚えのあるような有様だった――はてな、夢か知らん……と恍惚《うっとり》となった。  ざあざあ、地《じ》の底を吹き荒れる風のような水の音。  我に返って、密《そっ》と顔を見ると、なに大して困ったらしくもなかった。 (ここは通れません。) (引返しましょう。) (飛んだ御案内をしてお気の毒です。) (いいえ、おもしろうござんすよ。こんな奇《うま》い態《なり》をして。)  と美しく微笑《ほほえ》みながら、 (いっそ袂《たもと》を担ぎましょうか。)  この元気だから。どうやら水嵩《みずかさ》[#ルビの「みずかさ」は底本では「みづかさ」]も大分増して、橋の中ほどを、蝦蟇《がま》が覗《のぞ》くように水が越すが、両岸の杭《くい》に結えつけてあるだけが便りで、渡ると、ぐらぐらした、が、まあ、あの人も無事に越した。でも、私の帯へ背後《うしろ》から片手をかけて。  それから――前を見ると、こっちが低いせいか、ぐるぐる廻りに畝《うね》って流れる、小川の両方に生被《おいかぶ》さった、雑樹のぞうぞう揺れるのが、累《かさな》り累り、所々|煽《あお》って、高い所を泥水が走りかかって、田も畑《はた》も山も一色《ひといろ》の、もう四辺《あたり》が朦朧《もうろう》として来た、稲なんぞは、手で触るぐらいの処しか、早や見えない。  人は一人も居《お》らず、……今渡った橋は、魚《うお》の腹のように仄白《ほのじろ》く水の上へ出ているが、その先の小児《こども》などは、いつの間にか影も消えていた。 (小松原さん。)  とあの人が、摺寄《すりよ》って、 (もう一つの路はどうでしょうかしら。)  と云った、様子には出さんでも、以前の難渋は、同然に困ったらしい。  もう一つと云うのは、小川が分れて松原の裏を行《ゆ》く、その川縁《かわべり》を蘆《あし》の根を伝い伝い、廻りにはなるが、踏切の処へ出る……支流で、川は細いが、汐《しお》はこの方が余計に注《さ》すから、どうかとは思ったものの、見す見す厭な路を繰返すよりは、 (行って見ましょう。)  と歩行《ある》き出して、向《むき》を代えて、もう構わず、落水《おちみず》の口を二三ヶ所、ざぶざぶ渡って、一段踏んで上《あが》ると、片側が蘆の茂りで。」 [#7字下げ]十六[#「十六」は中見出し] 「透かした前途《ゆくて》に、蘆の葉に搦《から》んで、一条《ひとすじ》白い物がすっと懸《かか》った。――穂か、いやいや、変に仇光《あだびか》りのする様子が水らしい、水だと無駄です。 (ここにいらっしゃい。)  と無駄足をさせまいため、立たせておいて、暗くならん内早くと急ぐ、跳越《はねこ》え、跳越え、倒れかかる蘆《あし》を薙立《なぎた》てて、近づくに従うて、一面の水だと知れて、落胆《がっかり》した。線路から眺めて水浸《みずびたし》の田は、ここだろう。……  が、蘆の丈でも計られる、さまで深くはない、それに汐《しお》が上げているんだから流れはせん。薄い水溜《みずたまり》だ、と試みに遣《や》ってみると、ほんの踵《かかと》まで、で、下は草です。結句、泥濘《ぬかるみ》を辷《すべ》るより楽だ。占めた、と引返しながら見ると、小高いからずっと見渡される、いや夥《おびただ》しい、畦《あぜ》が十文字に組違った処は残らず瀬になって水音を立てていた。  早や暗くなって、この田圃《たんぼ》にただ一人の筈《はず》の、あの人の影が見えない。  浜で手鍋《てなべ》の時なんかは、調子に乗って、 (お房さん。)  と呼んだりしたが、もう真《しん》になって、 (夫人《おくさん》!)  と慌てて呼んだ。 (はーい。)と云う、厭《いや》に寂しい。  声を便りに駈戻《かけもど》って、蘆がくれなのを勇んで誘い、 (大丈夫行かれます。早くしましょう、暗くなりますから。)  誰も落着いてはいないのを、汝《うぬ》が周章《あわ》てて捲立《まくした》てて、それから、水にかかると、あの人が、また渡るのか、とも言わないで、踏込んでくれたんだ。  路もどうやら広いから、なお力になる。押並んで急いだがね。浅くて一面だから、見た処は沼の真中《まんなか》へ立った姿で、何だか幻の中を行《ゆ》く、天の川でも渡るようで、その時ふとまた美《うつくし》い色が、薄濁った水に映った――」  小松原は歯を噛《か》んで言渋ったが、 (先方《さき》でも、手を出した……それを曳《ひ》こうと思った時……  私はぎょっとした。  つい目の前を、足に絡《から》んだ水よりは色の濃い、重っくるしい底力《そこぢから》のあるのが、一筋、褐色《かばいろ》の鱗《うろこ》を立ててのたっているのが、向う岸の松原で、くっきりと際立って、橋の形が顕《あらわ》れたんだ。  ここに、ちょいとした橋があるんだが、その勢《いきおい》だからもう不可《いけな》い。水の上で持上って、だぶりだぶりと煽《あおり》を打つと、蘆がまた根から穂を振って、光来々々《おいでおいで》を極《き》めてるなんざ、情《なさけ》なかろうではないか。  しかも幅一間とは無いんだよ。 (不可《いけ》ないのねえ。) (駄目です、)  と言ったきり。だって口惜《くや》しかろう。その川|一条《ひとすじ》の前途《さき》は、麗々と土が出て、薄《うっす》りと霧が這《は》って、虫の声がするんだもの。もう近いから、土手じゃ車の音はするし、……しばらく睨《にら》み詰めて立っていた。」  医師《せんせい》はむくむくと起きて、平胡坐《ひらあぐら》で、枕を頤《おとがい》に突支《つッか》って、 「いや、散々、散々、お察し申すな。」 「ところで、いつの間に来たか、ぱくぱく遣ってるその橋向《はしむこう》へ、犬が三疋と押寄せて、前脚を突立てたんだ。吠《ほ》える、吠える! うう、と唸《うな》る、びょうびょう歯向く。変に一面の水に響いて、心細くなるまで凄《すご》かった。 (あちらへ参りましょう、人が見ると悪いわ。)  と低声《こごえ》で、あの人が言う。 (なぜ。)  と思わず口へ出たが、はっと気が付いて、直ぐびちゃびちゃと歩行《ある》き出した。  現在犬に怪《あやし》まれているんです……漁師村を表《おもて》に、この松原を裏にして、別荘があって、時々ピアノが聞えたんで、聞きに来た事もある。……奥座敷とは余り離れないから、犬の声を変がって、人でも出て来ると成程悪い。  が、何だか今の一言が妙に胸底へ響いて、時めいた、ために急に元気づいて、 (一奮発|遣附《やッつ》けましょう。)  と勇《いさみ》が出た。」 [#7字下げ]十七[#「十七」は中見出し] 「その努力で、蘆の中だけは潜《くぐ》り抜けて、旧《もと》の方へ引返したが、もう、暗くなって、足許は分らないで、踏むほどの場所がざぶざぶする、じょろじょろ聞える、ざんざという。田だか畦《あぜ》だか覚束《おぼつか》なく、目印ともなろうという、雑木や、川柳の生えた処は、川筋だから轟《ごう》と鳴る、心細さといったら。  川筋さえ[#「さえ」は底本では「さへ」]避《よ》けて通れば、用水に落込む事はなかったのだが、そうこうする内、ただその飛々《とびとび》の黒い影も見えなくなって、後は水田《みずた》の暗夜《やみ》になった。  時に……急《あせ》ったせいか、私の方が真先《まっさき》に二度|辷《すべ》った、ドンと手を突いてね、はっと起上る、と一のめりに見事に這《は》った。 (あれ、お危い。)  と云う人を、こっちが、 (お気を注《つ》けなさらないと、)  この通り、ト仕方で見せて、だらしなく起《た》つ拍子に、あの人もずるりと足を取られた音で、あとは黙然《だんまり》、そら解《どけ》がしたと見える、ぐい、ぐい帯を上げてるが陰気に聞えた。  気が付いて、 (穿物《はきもの》を持って上げましょう、)  と注意すると、 (はい、いいえ、可《よ》うござんす。)  と云ったが、しばらくして、 (流れてしまったようですよ。)  成程、畦《あぜ》の切口《きれぐち》らしい、どっと落ちるんだ。 (飛んだ事をなさいました。) (いいえ、どうせ荷厄介なんですもの。さあ、参りましょう。)  愚図々々《ぐずぐず》していたので、 (可《い》いんですよ、構やしない。)  とそれでも笑った。この方が私よりまだ元気が可《い》い。が、私が猶予《ためら》ったのは、駒下駄に、未練なものか。自分のなんざいつの昔|失《な》くなしている。――実はどちらへ踏出して可いか、方角が分らんのです。もっとも線路の見当は大概《おはず》に着いてたけれども、踏処《ふみどころ》が悪いと水田へ陥《はま》る。  果して遣った! 意地にも立ったきりじゃ居られなくなって、ままよ、と胆《たん》を据えて、つかつかと出ようとすると、見事に膝まで突込《つッこ》んだ。 (あっ、)と抜こうとして、畦へ腰を突いたっけ、木曾殿落馬です。  お察し下さい、今でこそ話すが、こりゃ冥土《めいど》へ来たのかと思った。あの広場《ひろっぱ》を手探りでどうするもんかね。……  背後《うしろ》の足弱《あしよわ》が段々|呼吸《いき》づかいが荒くなってね、とうとう、 (ちっと休みましょう。)  と言い出した[#「言い出した」は底本では「言ひ出した」]。雪路以上、随分へとへとに揉抜《もみぬ》いたから。  私は凭懸《よっかか》るものもなく、ぼんやり暗《やみ》の中に立ったがね、あの人は、と思うと、目の下に、黒髪が俤立《おもかげだ》つ。 (腰を掛けたんですか。) (ええ、)と云う。 (濡れていましょう。) (ええ、何ですか、瀬戸物の欠《かけ》がざくざくして、)  私は肚胸《とむね》を突いたんだ。 (不可《いけな》い! 貴女《あなた》、そりゃ塵塚《はきだめ》だ。)  と云う内にも、襤褸切《ぼろぎれ》や、爪《うり》の皮、ボオル箱の壊れたのはまだしもで、いやどうも、言おうようのない芥《あくた》が目に浮ぶ。 (でも水の上よりは増《まし》ですわ。)  と断念《あきら》めたように、何の不足もないらしくさっぱりと言われたので、死なば諸《もろ》ともだ、と私もどっかり腰を落した。むっくり持上って、跡は冷たい。犬の死骸じゃなかろうかと、摺抜《すりぬ》けようとしたけれども、頬擦《ほおず》るばかりの鬢《びん》の薫《かおり》に。……  ここで、真《まこと》に相済まない、余計な処へ誘ったばかりで、何とも飛んだ目にお逢わせ申す、さぞ身体《からだ》に触りましょう、汚させ、濡れさせ、跣足《はだし》にさせ、夜露に打たせて……羅綾《らりょう》にも堪えない身体《からだ》を、と言おうとして、言いようがないから、 (荒い風にもお当りなさらない。)  とヘマを言って、ああ厭味《いやみ》だと思って、冷汗を掻《か》いた処を、 (お人が悪いよ、子持だと思って、)  これにまたヒヤリとしたように覚えている。」 [#7字下げ]十八[#「十八」は中見出し] 「それと同時に小児《こども》の事が気になって……言い出すと、女中ともう寝たろう。で、大して心配もしない様子、成程寝る時刻、九時ちと過ぎたかも知れない。汽車が二三度|上下《のぼりくだり》した。  この汽車だが……果《はて》しの知れない暗闇《くらやみ》の広野《ひろの》――とてもその時の心持が、隅々まで人間の手の行届いた田圃とは思われない、野原か、底知れぬ穴の中途――その頼りなさも、汽車の通るのが、人里に近くって嬉しかった。それが――後には可悪《おそろし》い偉大《おおき》な獣《けもの》が、焔《ほのお》を吹いて唸《うな》って来るか、と身震《みぶるい》をするまでに、なってしまった。  第一、足の出しようがない。それに……  もうこう夜《よ》も遅くなっては、何事もなく無事に家に帰るとして、ただ二人で今までなんだから、女中はじめ変に思おう。特に出征中の軍人の夫人だ。そうでもない、世間じゃ余計な風説《うわさ》をしている折からだから憂慮《きづか》わしい。 (どうでしょう。)  と甚だ言兼ねた事ではあったが、既に――人が見ては悪いわ――と言ってくれた人だから、こう聞いた。が、その実、いいえ、人は何とも思うまい、とこの人だけに、心配をせずに居ようと期したんだ。するとちと案外で、 (さあ、私もそれが気になります。)  返事がこれで。何とも言いようがなくって溜息《ためいき》が出た。あの人もほっと言う。話だけは色めかしい中に、何ともお話にならん事は、腹が、ぐうと鳴る、ああ、情《なさけ》ない何事だろう、と気にするほど、ぐうぐういう。  あの人にも聞えたか。 (お腹が空いたでしょうね。)  と来たのにゃ、赫《かっ》としたよ、但しそういう方も晩飯前です。……  詮方《しかた》がない、大声を揚げて見ようかとも言い出したが、こりゃ直ぐに差留められた。勿論、お怒鳴《どな》んなさいと命令をされたって、こいつばかりは、死んでもあやまる。早い話が、何と云って救《すくい》を呼びます、助船でもないだろう、人殺し……串戯《じょうだん》じゃない。」  医師《せんせい》は聞く中《うち》にも笑出した。  言うものも釣込まれたが、 「今こそ苦笑いも出るけれど、……実際だ、腹のぐうぐう鳴った時は、我ながら人間が求める糧は、なぜこう浅間しい物だろうと熟々《つくづく》思った。  ところで……  じゃ、何を便りに塵塚に腰を抜いていたか、と言うに、ここも娑婆《しゃば》だから、その内には、月が出ようと空頼み、あの人も恐らくそうででもあったろう、もっとも何かの拍子に、 (戦争に行っている方の事を思えば、こうやって一晩ぐらい、)  とは言ったがね。まさか夜《よ》の明けるまでそうして居られるものとは思うまい。  糠雨《ぬかあめ》が降って来たもの。その天窓《あたま》から顔へかかるのが、塵塚から何か出て、冷い舌の先で嘗《な》めるようです。  水の音は次第々々に、あるいは嘲《あざけ》り、あるいは罵《ののし》り、中にゃ独言《ひとりごと》を云うのも交って、人を憤り世を呪詛《のろ》った声で、見ろ、見ろ、汝《なんじ》等、水源《みなもと》の秘密を解せず、灌漑《かんがい》の恩を謝せず、名を知らず、水らしい水とも思わぬこの細流《せせらぎ》の威力《ちから》を見よと、流れ廻り、駈《か》け繞《めぐ》って、黒白《あやめ》も分《わか》ぬ真の闇夜《やみよ》を縦《ほしいまま》に蹂躪《ふみにじ》る。と時々どどどと勝誇って、躍上《おどりあが》る気勢《けはい》がする。  その流れるに従うて、我が血を絞り出されるようで、堪え難い。  次第に雨が溜《たま》るのか、水が殖《ふ》えたか、投出してる足許《あしもと》へ、縮めて見ても流《ながれ》が出来て、ちょろちょろと搦《から》みつくと、袖が板のように重くなって、塵塚に、ばしゃばしゃと沫《しぶき》が掛《かか》る、雫《しずく》が落ちる。  地鳴《じなり》が轟《ごう》として、ぱっと一条《ひとすじ》の焔《ほのお》を吐くと、峰の松が、颯《さっ》とその中に映って、三丈ばかりの真黒《まっくろ》な面《つら》が出た、真正面《まっしょうめん》へ、はた、と留まったように見えて、ふっと尾が消える。  下りの終《しまい》汽車らしい、と思った時、 (あ痛《いつ》、痛《つ》。)  はっと擦寄ると、あの人がぶるぶる震えて、 (胸が。)と云う、歯の根が合わない。 (冷えたんです。)  と言いながら、私もわなわなし出した。」 [#7字下げ]十九[#「十九」は中見出し] 「一生懸命の声をして、 (さ、お掴《つかま》んなさい。)  とずっと出すと、びったり額を伏せて、しっかりと膝を掴《つか》んだが、苦痛を堪える恐《おそろし》い力が入って、痺《しび》れるばかり。 (しっかり……しっかりして下さいよ。)  背中を擦《さす》ろうとした手が辷《すべ》って、ひやひやと後毛《おくれげ》を潜《くぐ》って、柔かな襟脚に障《さわ》ったが、やがて水晶のように冷たいのを感じた。  その時ふっとまた、褄《つま》の水に映るのが、薄彩色《うすさいしき》して目に見えたが、それならば、夢になろう、夢ならば、ここで覚める!  膝に倒れたのは、あの人だ。  私は猛然として、思わず抱きながら、引立てながら起上った。 (我慢なさい。こんな事をしていちゃ、生命《いのち》にも障りましょう。血の池でも針の山でも構わず駈出《かけだ》して行って支度して迎《むかえ》に来ます。)  と声も震えながら云うと、 (一人で、どうして居られましょう、一所に。)  ッて、ぐいと袂《たもと》に掴《つか》まったが、絞ると見えて水が垂った。 (田も畦《あぜ》も構わない、一文字に駈け抜けるんです、怪我《けが》があると不可《いけ》ません。) (可《い》いの、貴下《あなた》、婦《おんな》は最期まで、殿方が頼りです、さ、連れて行って!)  と縋《すが》った手を、しっかりと取合った。 (じゃ、悪魔に攫《さら》われたと、断念《あきら》めて、目を瞑《ねむ》って、覚悟をして……) (は、瞑りました。)  と言われたのにゃ、ほろりと熱い涙が出た。」  と、小松原は拳《こぶし》を握った手首をかえして、目を圧《おさ》えて、火入とも言わず、片手を煙草盆にはたと落した。 「考えて見れば怪しい。  はじめからその覚悟をすれば、何も冷え通るまで畦に踞《しゃが》んでるにも当らず。不断見れば掌《てのひら》ほどの、あの踏切田圃を、何に血迷ってたんだか、正気では分りません。いつもの幻と言い、おかしなものに弄《もてあそ》ばれてでもいたかと思う……もっともその堪えられない水の中でも、時々変に恍惚《うっとり》となると、なぜか雲にでも乗せられたような気がする、その時は、あの人とそうしているのが嬉しかった。  畢竟《ひっきょう》ずるに、言訳沢山の恋かも知れん。  その罰です。  後は御存じの通り、空を飛ぶような心持で、足も地につかず、夢中で手を曳合《ひきあ》って駈出《かけだ》した処を、あっと云う間もなく、終《しまい》汽車で刎飛《はねと》ばされた。  気が付いた時は、真蒼《まっさお》な何かの灯《あかり》で、がっくりとなって、人に抱えられてる、あの人の姿を一目見たんだがね、衣《きもの》を脱がしてあった。ただ一束《ひとつか》ねの滑《なめら》かな雪で、前髪と思うのが、乱れかかって、ただその鼻筋の通った横顔を見たばかり……乳の辺《あたり》に血が染《にじ》んだ、――この方とても、御多分には漏れぬ、応挙が描いた七難の図にある通り。まだ口も利けない処を、別々に運ばれた、それが見納め。  君も知ってる、生命《いのち》は、あの人も助かったんだが、その後《のち》影を隠してしまって、いまだに杳《よう》として消息がない。  これが風説《うわさ》の心中|仕損《しそこない》。言訳をして、世間が信ずるくらいなら、黙っていても自然《おのず》から明りは立つ。面と向って汝《きさま》が、と云うものがないのは、君が何にも言わないと同一《おんなじ》なんだ。  お房さんも、大方同じ考えだったものだろう。が、これは夫に顔の合わされないのは、道理です。……何も私ばかりが澄まして活《い》きているのじゃない、今ここに、君とこうやっている時を、行方知れず、と思っているものもあろう。あの人もまた、同じように、どこかで心合いの友に、述懐をしていようも知れない。――ただもう一度逢いたいよ。」  と団扇《うちわ》を膝につくと、額を暗うした。  医師《せんせい》は黙っている。 「しかし、」  と、小松原が額を上げた。 [#7字下げ]二十[#「二十」は中見出し] 「未練だね。世間じゃ、誰もあの人が活《い》きているとは思わない。私だって、実際|生存《ながら》えていようとは考えないが、随分その当時、表向きに騒いで、捜索《さがし》もしたもんだけれども、それらしい死骸も見附からないで、今まで過去《すぎさ》ったんだ。だから、もしやが頼まれる……  それかって、今ここに、君の内にその人が居るから逢え、と云われたって逢われるわけでもないんだが。」 「しかし逢いたいんだ?」  と医師《せんせい》は笑いながら口を入れた。 「…………」 「成程、そこで魘《うな》されたんだ。その令夫人に魘されたのは、かえって望む処かも知れんが、あとの泥水は厭《いや》だったろう、全く気の精だな。遁出《にげだ》したも道理《もっとも》だ。よく、あの板廊下が鉄道の線路に化けなかった。」 「時に、」  小松原は、気が着いたらしく更《あらた》まって、 「あの、白骨だがね、」  と皆まで言わせず、手を掉《ふ》って、 「大丈夫、その令夫人の骨じゃない。」 「骨じゃない、」  と鸚鵡返《おうむがえ》しで、 「けれども、婦《おんな》のだと言うじゃないか。何年|経《た》ったんだか、幾十年過ぎたんだか、知れないが、婦には変りはなかろう。骨になっても小町は小町だ。  婦が、あの姿を人目に曝《さら》されたら、どんな心持だと思います――君にこんな事を云うのは、解剖室で命乞《いのちごい》をするようなものだが、たとい骨でも、一室《ひとま》に泊り合わせたのは、免れない縁だと思う。見えん処へ隠してくれんか。――私はもう、あの人が田圃で濡れた時の事を思っても、悚然《ぞっ》とする。どうだね、可哀想《かわいそう》だとは思わないかね。」 「そうさな。まさか私だって、縁日の売薬みたいに、あれを看板に懸けちゃ置かん、骨を拾った気なんだから、何も品物を惜《おし》みはせんが、打棄《うっちゃ》っておきたまえ。そんな事を気にするのは宜《よ》くないから止《よ》したが可《よ》かろう。」 「貴郎《あなた》、」  と優しい声がしたので、小松原は身を縮めて、次の室《ま》の暗い中を透かした。暑いので襖《ふすま》は無いが、蚊帳が重ねて釣ってある。その中《うち》に、浴衣の模様が、蝶々のように掠《かす》れて見えたは細君で、しかも坐って、紅麻《こうあさ》に裳《もすそ》を寄せ、端近う坐っていた。 「何だ、起きていたのか。」 「はい、つい、あのお話しに聞惚《ききと》れまして、」  と云うのに、しんみりと涙が籠《こも》る。 「どうも、」  とばかりで、小松原は額を圧《おさ》えた。医師《せんせい》は事も無げに、 「聞いたのは構わんよ、沢山泣いて上げろ。だが、そこらへ溢《こぼ》しちゃ不可《いか》んぜ、水が出ると大変だ。」 「あれ、可厭《いや》な。」 「馬鹿だな、臆病。」 「だって、」  と蚊帳の裾を引被《ひっかつ》ぐ、腕《かいな》が白く、扱帯《しごき》の紅《くれない》が透いた時、わっと小児《こども》が泣いたので、 「おお。」  と云って添臥《そいぶ》したが、二人も黙る内、すやすやとまた寝入った。 「ねえ、貴郎《あなた》、そうして、小松原さんのおっしゃる通りになさいよ。何だか可恐《こわ》いんですもの。」  と弄《から》かうごとく、団扇を膝でくるりと遣《や》る。 「いいえ、ですがね、あの御骨《おこつ》……」 「ちょっと待て、御骨は気になる。はははは。」 「御免なさいましよ。」  と客に云って、細君は、小児《こども》に添乳《そいぢ》の胸白く、掻巻《かいまき》長う、半ば起きて、 「串戯《じょうだん》ではなくってよ。貴郎《あなた》が持って来て、あそこへ据えてから、玄関の方《かた》なんぞも、この間中|種々《いろん》な事を言ってるんですよ。  話声がするの、跫音《あしおと》が聞えるのって――大方女中なんかを徒《いたずら》に威《おど》すんだろうと思って、気にもしないでいましたけれども、今のお話の様子だと、何だか、どうとも言えませんわ。」 [#7字下げ]二十一[#「二十一」は中見出し] 「ねえ、小松原さん、」  とぼかしたような顔が、蚊帳の中で朧《おぼろ》に動いて、 「あの御骨《おこつ》だって、水に縁があるんですもの。」 「婦女子の言です。」  と医師《せんせい》は横を向く。小松原は、片手を敷布の上、隣室《となり》へ摺寄《すりよ》る身構えで、 「水に縁と……仰有《おっしゃ》ると?」 「あれは貴下《あなた》、何ですわ、つい近い頃、夫《やど》が拾って来て、あすこへ飾ったんですがね。その何ですよ、旧《もと》あった処は沼なんですって。」 「沼!」 「おっと直ぐに、そう目の色を変えるから困る。鯰《なまず》に網を打ちはしまいし、誰が沼の中から、掬上《すくいあ》げるもんか。」 「だって、そりゃ沼からじゃありますまいけれど、梅雨あけに水が殖《ふ》えたので、底から流出《ながれだ》したんだろうッて、貴郎《あなた》がそう言っていらしったではありませんか。――小松原さん、この梅雨あけにも田圃へ水が出ましてね、先刻《さっき》おっしゃいました、踏切の前の橋も落ちたんですよ。蒼沼《あおぬま》が溢《あふ》れたんですって、田圃の用水は、皆《みんな》そこから来るんだって申します……  その近処の病家へ行《ゆ》きました時に、其家《そこ》の作男が、沼を通りがかりに見て来たって、話したもんですから、夫《やど》が貴下《あなた》、好事《ものずき》にその男を連れて帰りがけに、廻道《まわりみち》をして、内の車夫《わかいしゅ》に手伝わして、拾って来たんですわ。  御骨は、沼の縁に柔《やわらか》な泥の中にありましたって、どこも不足しないで、手足も頭も繋《つなが》って、膝を屈《かが》めるようにしていたんだそうです。」 「妄誕臆説《ぼうたんおくせつ》!」  と称《とな》えて、肩を一つ団扇で敲《たた》く。 「臆説って、貴下《あなた》がお話しなすった癖に。そうしてこう骨になってから、全体|具《そなわ》っているのは、何でも非常な別嬪《べっぴん》に違いない。何骨とか言って、仏家では菩薩《ぼさつ》の化身とさえしてある。……第一膝を折った身躾《みだしなみ》の可《い》い処を見ろッて、さんざん効能を言ったではありませんか。」  と、もう小児《こども》も寝たので、掻巻からするりと出て褄を合わせる。  医師《せんせい》喟然《きぜん》として、 「宜《よろ》しく頼む。あとは君にまかせるから、二人して、あの骨をその人だとでも何とでも御意《ぎょい》なさい、こちらへ来て講中にならんか。」  と笑いながら、むずと蚊帳を出て、廊下へ寝衣《ねまき》で突立《つッた》った。  が横向に隣を見て、 「何だ、お前も手水《ちょうず》か。馬鹿な、今の話しで不気味だからって。お客様の居る処を、連立って便所へ行く奴があるかい。」  と言う。  小松原が、ト透《すか》すと、二重《ふたえ》遮って仄《ほのか》ではあるが、細君は蚊帳の中を動かずにいたのである。 「貴郎《あなた》、」  とこの時、細君の声は、果せる哉《かな》、太《いた》く震えて、 「貴郎……」 「うむ、」  小松原も蚊帳の中に悚然《ぞっ》として、 「酒田。」  と変な声をする。 「誰か居ますか。」 「おお……」  と医師《せんせい》は、蹌踉《よろ》けたように、雨戸を背《うしろ》に、此方《こなた》を向き替え、斜めに隣室《となり》の蚊帳を覗《のぞ》いた。 「私はここに居ますんですよ。」 「誰だ、今のは?」  うっかり医師《せんせい》が言うや否や…… 「厭《いや》……」  と立って、ふらふらと、浅黄に白地で蚊帳を潜《くぐ》ると、裙《すそ》と裙とにばっと挟まる、と蜘蛛《くも》の巣に掛《かか》ったように見えたが、一つ煽《あお》って、すッと痩《や》せたようになって、此方《こなた》の蚊帳へ――廊下に事はあるものを、夫を力にそこへは出られぬ――腰を細く、乗るばかり、胸に縋《すが》った手が白く、小松原の膝にしがみついた。  ――この状《さま》を……後に、医学士が人に語る。―― 「蒼沼《あおぬま》の水は可恐《おそろ》しい、人をして不倫の恋をなさしむるかと、私は嫉《ねた》もうとした。」 [#7字下げ]二十二[#「二十二」は中見出し]  その時|医師《せんせい》は肩を昂《あ》げて、 「雨かな。」  と仰向《あおむ》けになったが、また、俯向《うつむ》いて胸を払った。 「何だ、廊下は水だらけだ。」  細君は何にも言わぬ。小松原も居窘《いすく》まって、忙《せわ》しく息をするばかり。  鶏《とり》が鳴いたので、やっと細君が顔を上げたが、廊下に突立《つッた》った夫を見た時、聞耳を立てて、 「何です……がたがた、がたがた言って、」  小松原が、 「あ、」 「あれか、」  と医師《せんせい》もそこで聞取った。 「酒田……先刻《さっき》のも、」 「むむ、診察処だ。」 「あれえ。」 「開けて見ると何にも居ないのだ。が、待てよ。」  と言って、蚊帳の周囲《まわり》をぐるりと半分、床の間をがたりと遣《や》ると、何か提《ひっさ》げた、その一腰、片手に洋燈《ランプ》を翳《かざ》したので、黒塗《くろぬり》の鞘《さや》が、袖をせめて、つらりと光った。 「危い、貴郎《あなた》、」 「大丈夫だ。」 「いいえ、」  細君は一声、誰かを呼んで、 「玄関の方を起して下さい、正吉――」  もう医師《せんせい》の姿はなかった。  ばたん、と扉《ひらき》の開《あ》いた音。  二人が揃って、蚊帳の中を廊下際で、並んで雨宿りをする姿で立った処へ、今度は静《しずか》に悠々と取って返す。 「どうした。」 「鼈《すっぽん》だ。」 「え。」 「鼈が三個《みッつ》よ。」 「どこに、ですえ。」  と細君は歯の音も合わぬ。  医師《せんせい》は真面目な顔して、 「場所はちと悪い、白いものの前だ。」 「あれ。」 「さぞまた蒼沼から、迎《むかえ》に来たと言うだろうなあ。」  と雨戸を一枚、颯《さっ》と風が入って、押伏《おっぷ》せて、そこに置いた洋燈《ランプ》が消えた。  が、鶏がまた鳴いて、台所で誰か起きた。  白骨が旧《もと》の沼へと立返ることになって、この使者は、言うまでもなく小松原が望んで出た。一夜《ひとよ》の縁《えにし》のみならず、そこは、自分とあの人とがために浮名を流した、浜田の水の源《みなもと》ぞと聞くからに、顔を知らぬ許婚《いいなずけ》に初めて逢いに行《ゆ》く気もすれば、神仙の園へ招待されたようでもあって、いざ、立出《たちい》づる門口から、早や天の一方に、蒼沼の名にし負う、緑の池の水の色、峰続きの松の梢《こずえ》に、髣髴《ほうふつ》として瑠璃《るり》を湛《たた》える。  その心は色に出て、医師《せんせい》は小松原一人は遣らなかった。道しるべかたがた、介添《かいぞえ》に附いたのは、正吉と云う壮《わか》い車夫。  国手お抱えの車夫とあると、ちょいと聞きには侠勇《きおい》らしいが、いや、山育ちの自然生《じねんじょう》、大の浄土宗。  お萩が好《すき》の酒嫌いで、地震の歌の、六ツ八ツならば大風《おおかぜ》から、七ツ金《かね》ぞと五水りょうあれ、を心得て口癖にする。豪《えら》いのは、旅の修行者《しゅぎょうじゃ》の直伝《じきでん》とあって、『姑蘇啄麻耶啄《こそたくまやたく》』と呪《じゅ》して疣黒子《いぼほくろ》を抜くという、使いがらもって来いの人物。  これが、例の戸棚掛の白布《しろぬの》を、直ぐに使って一包み、昨夜の一刀を上に載《の》せて、も一つ白布で本包みにしたのを、薄々沙汰は知っていながら、信心堅固で、怯気《びく》ともしないで、一件を小脇に抱える。  この腰の物は、魔除《まよ》けに、と云う細君の心添《こころぞえ》で。細君は、白骨も戻すと極《きま》り、夜が明けると、ぱっと朝露に開いた風情に元気になって、洗面の世話をしながら、縁側で、向うの峰を見て顔を洗う小松原に、 「昨晩はお楽《たのし》み……なぜって。まあ、憎らしい。奥さんが逢いにいらっしゃったではありませんか。」  など遣ったものだが、あえてこれは冷評《ひやか》したのではない。その証拠には、小松原と一足|違《ちがい》に内を出て、女子《おんな》扇と御経料を帯に挟んで、じりじりと蝉の鳴く路を、某寺《なにがしじ》へ。供養のため―― [#7字下げ]二十三[#「二十三」は中見出し] 「沼さ行ぐ道はこれを入るだよ。」  と正吉が言う処を、立直って見れば、村の故道《ふるみち》を横へ切れる細い路。次第|高《だか》の棚田に架《かか》って、峰からなぞえに此方《こなた》へ低い。田の青さと、茂った樹立《こだち》の間を透いて、六月《みなづき》の空は藍《あい》よりも蒼《あお》く、日は海の方へ廻って、背後《うしろ》から赫《かっ》と当るが、ここからは早や冷い水へ入るよう。  三方、山の尾が迫った、一方は大《おおい》なる楓《かえで》の梢《こずえ》へ、青田の波が越すばかり。それから青芒《あおすすき》の線を延《のば》して、左へ離れた一方に、一叢立《ひとむらだち》の藪《やぶ》があって、夏中日も当てまい陰暗く、涼しさは緑の風を雲の峰のごとく、さと揺出《ゆりだ》し、揺出す。その上に、萱《かや》で包んだ山が見えたが、遠いと覚しく、峰の松が、鹿の彳《たたず》んだ姿に小さい。藪に続いた一方は雑木林で、颯《さっ》と黒髪を捌《さば》いたごとく、梢《うら》が乱れ、根が茂る。  路はその雑木の中に出つ入《い》りつ、糸を引いて枝折《しおり》にした形に入る……赤土の隙間《すきま》なく、凹《くぼみ》に蔭ある、樹の下闇《したやみ》の鰭爪《ひづめ》の跡、馬は節々通うらしいが、処がら、竜《たつ》の鱗《うろこ》を踏むと思えば、鼈《すっぽん》の足痕《あしあと》を辿《たど》るよとも疑われた。  次第に山の裾を分け上ると、件《くだん》の楓を左の方に低く視《なが》めて、右へ折曲《おりまが》ってもう一谷戸《ひとやと》、雑木の中を奥へ入ろうとする処の、山懐《やまふところ》の土が崩れて、目の下の田までは落ちず、径《こみち》の端に、抜けた岩ごと泥が堆《うずたか》かった。 「沼はこの先でがんす。」  と正吉は前《さき》へ立った。……山崩れで、ここに路の切れたのも、何となく浮世を隔てた、意味ありげにぞ頷《うなず》かるる。 「梅雨あけに、医師《せんせい》と、この骨さ拾いに来っけ。そんころの雨に緩んだだね。腕車《くるま》もはい、持立《もった》てるようにしてここまでは曳《ひ》いて来ただが、前《さき》あ挺《てこ》でも動きましねえでね。」  と言う。  このあたり……どこかで何の鳥か一つ鳴出した。何《なあに》、正体を見れば、閑古鳥にしろ、直《じき》そこいらの樹の枝か葉隠れに、翼を掻込《かいこ》んだのが、けろりとした目で、閑《ひま》に任《ま》かして、退屈まぎれに独言《ひとりごと》を言っているのであろうけれども、心あって聞く者が、その境に臨むと、山から谷、穴の中の蟻《あり》までが耳を澄ます、微妙な天楽であるごとく、喨々《りょうりょう》として調べ奏《かな》でる。  ……きょ、きょら、くらら、くららっ!  と転がして、発奮《はず》みかかって、ちょいと留めて、一つ撓《た》めておいて、ゆらりと振って放す時、得も言われず銀鈴が谺《こだま》に響く。  小松原は、魂を取って扱《しご》かれるほど、ひしひしと身に堪《こた》え、 「……京から、今日ら……来るか、来るか!」  と言われるようで、 「来ました、東京から今日来ましたよ。」  と胸の裡《うち》で言った。  その蒼沼は……  小高い丘に、谷から築き上げた位置になって、対岸《むこう》へ山の青簾《あおすだれ》、青葉若葉の緑の中に、この細路を通した処に、冷い風が面《おもて》を打って、爪先《つまさき》寒う湛《たた》えたのである。  水の面《おも》は秋の空、汀《みぎわ》に蘆の根が透く辺りは、薄濁りに濁って、二葉《ふたは》三葉《みは》折れながら葉ばかりの菖蒲《あやめ》の伸びた蔭は、どんよりと白い。木《こ》の葉も、ぱらぱらと散り浮いて、ぬらぬらと蓴菜《ぬなわ》の蔓《つる》が、水筋を這《は》い廻る――空は、と見ると、覆《おおい》かかるほどの樹立はないが、峰が、三方から寄合うて、遠方《おちかた》は遠方なりに遮って、池の周囲《まわり》と同じ程より、多くは天《そら》を余さぬから、押包《おッつつ》んだ山の緑に藍《あい》を累《かさ》ねて、日なく月なく星もなく、倒《さかさ》に沼の中心に影が澄んで、そこにこそ、蒼沼の名に聞ゆる威厳をこそ備えたれ。何となく涸《か》れて荒《すさ》びて、主《ぬし》やあらん、その、主の留守の物寂しい。 [#7字下げ]二十四[#「二十四」は中見出し]  濃い緑の雑樹の中へも、枝なりにひらひらと日の光が折込《おれこ》んで、縁《ふち》を浅黄に、木《こ》の葉を照らす。この影に、人は蒼白《あおじろ》く一息した。  なぜか、葬礼《とむらい》の式に列《つらな》ったようで、二人とも多く口数も利かなかったが、やがて煙草《たばこ》も喫《の》まないで、小松原は踞《つくば》った正吉を顧みて、 「どこで拾ったね。」 「やあ、それだがね……先刻《さっき》から気い付けるだか、どうも勝手が違ったぞよ。たしか、そこだっけと勘考します、それ、その隅っこの、こんもり高《だか》な処《とこ》さ、見さっせいまし、己《おら》あ押魂消《おったまげ》ただ。その節あんな芭蕉《ばしょう》はなかっけ。」  と言う。  目覚しいのは、そこに生えた、森を欺《あざむ》くような水芭蕉で、沼の片隅から真蒼《まっさお》な柱を立てて、峰を割り空を裂いて、ばさばさと影を落す。ものの十丈もあろうと見えて、あたかもこの蒼沼に颯《さっ》と萌黄《もえぎ》の窓帷《カアテン》を掛けて、倒《さかさ》に裾《すそ》を開いたような、沼の名は、あるいはこれあるがためかとも思われた。  正吉が知らずと云う、梅雨あけの頃は、まだ丈伸びぬ時節であるから、今日見付けたのを、訝《いぶか》しむ仔細《しさい》は無い。  さて、家を出る時から、拾った場所へ旧《もと》の通り差置こうというではなく、ともあれ、沼の底へ葬り返そうとしたのであるが、いざ、となると汀《みぎわ》が浅い、ト白骨は肋《あばら》の数も隠されず、蝶々|蜻蛉《とんぼ》の影はよし、鳥の糞《ふん》にも汚《けが》されよう。勢い諸手高く差翳《さしかざ》して、えい! と中心へ投込まねばならぬとなった。 「そんな事が出来るものか。」  と小松原が猶予《ためら》うと、 「成程、へい、手荒だね。」  と正吉さえ頷《うなず》くのである。  ここで、小松原が心着いたのは、その芭蕉で…… 「まあ、それを解け。」  と手伝って、上包の結目《むすびめ》を解くと、ずしりと圧《おし》にある刀を取ったが、そのまま、するりと抜きかける。――虹《にじ》のごとく、葉を漏る日の光に輝くや否や、 「わッ!」  と正吉が飛退《とびしさ》った。途端に白布《しろぬの》の包は、草に乗って一つ動く。 「旦那《だんな》、気イ確《たしか》に持たっせえ。」  昨夜からの小松原の容子《ようす》は、まったく人目には変だった。これは気が違った、と慌てたらしい。  やがて孫呉空《そんごくう》が雲の上を曳々声《えいえいごえ》で引背負《ひっしょ》ったほどな芭蕉を一枚、ずるずると切出すと、芬《ぷん》と真蒼《まっさお》な香《におい》が樹の中に籠《こも》って、草の上を引いて来たが――全身|引《ひっ》くるまって乗っかった程に大《おおき》いのである。  小松原は莞爾々々《にこにこ》しながら、 「さあ、これへ乗せよう。」  まざまざと見るには堪えぬから、その布で包んだまま、ただ結目を解いただけで、密《そっ》と取って、骨を広葉の只中《ただなか》へ。  葉先を汀《みぎわ》へ、蘆摺《あしず》れに水へ離せば、ざわざわと音がして、ずるりと辷《すべ》る、柄を向うへ…… 「南無阿弥陀《なんまいだ》 南無阿弥陀。」  と殊勝に正吉が、せめ念仏で畳掛けるに連れて、裂目が鰭《ひれ》のように水を捌《さば》いて行《ゆ》く、と小波《ささなみ》が立って、後を送って、やがて沼の中ばに、静《じっ》と留まる。  そのまま葉が垂れると、縋《すが》りつく状《さま》に、きらきらと水が乗る、と解けるともなしに柔かに、ほろほろと布が弛《ゆる》んで、細長い包みの裾が、ふッくりと胸になり、婦《おんな》が臥《ふ》した姿になる。  思出して、はっと目を塞《ふさ》いだが、やがて見れば、もう沈んだ。  途端に、ざらざらと樹が鳴って、風が走る。そよ風が小波立てて、沼の上を千条《ちすじ》百条《ももすじ》網の目を絞って掛寄せ掛寄せ、沈んだ跡へ揺《ゆり》かけると、水鳥が衝《つ》と蹴《け》たごとく、芭蕉の広葉は向うの汀《みぎわ》へ、するすると小さく片寄る。 [#7字下げ]二十五[#「二十五」は中見出し]  ……きょ、きょら、きょきょら、くららっ!……  と、しばらくはただ鳥の声。  熟《じっ》と沼の面《おも》を見ていると、どこかに、その人の顔がある。が、水の皺《しわ》が揺《ゆ》っては消し揺《ゆす》っては消す――そうかと思うと、その水紋の揺《ゆら》めく綾が、ちらちらと目になって、瞳が流るるようでもある。ソレ鼻、ソレ口、と思う処が、ふらふらと浮いて来ては、仰向《あおむ》けに沈んで消える。もうちっとで、もうちっとで……と乗出すけれども、もうちっとで絡《まとま》らない。  急《あせ》って、踠《もが》いて、立ったり居たり、汀《みぎわ》もそちこち、場所を変えてうろついて見込んだが、ふと心づいて眗《みまわ》せば、早や何が染《そま》るでもなく、緑は緑、青は青で、樹の間は薄暮合《うすくれあい》。 「旦那もう晩方だよ。」  と云って、正吉が帰途を促がしたのは余程の前《さき》で、それを、無理遣りに一人帰してからさえ、早や久しい。  独《ひとり》になって、思うさま、胸にたたんだ空想に耽《ふけ》ろうと、待構えたのはこれからと、まず、ゆっくり腰を卸《おろ》して、衣紋《えもん》まで直して、それから横になって見たり、起返って見たり。  とかくして沼の中を、身動きもしないで覗込《のぞきこ》んだ……  あわれ水よ、偉《おおい》なる宇宙を三分して、その一を有する汝《なんじ》、瀬となり、滝となり、淵《ふち》となり、目《ま》のあたり我が怪しき恋となりぬ。  いで、霧となって虹《にじ》を放ち、露と凝って珠ともなる。ここに白骨を包んでは、その雪のごとき膚《はだえ》とならずや、あの濡れたような瞳とならずや。  と思い思う、まさしく、そこに、水底《みなぞこ》へ、意中の夫人が、黒髪長くかかって見ゆる。  見ようとすると、水が動く。いや、いや、我が心の動くために、人の姿が散るのであろう。  胸を打って、襟を掴《つか》んで、咽喉《のど》をせめて、思いを一処《ひとところ》に凝らそうとすれば、なおぞ、千々《ちぢ》に乱れる、砕ける。いっそ諸共に水底へ。  が、確《たしか》にその人が居ようか怪しい。……いや、まさしく、そこに、いまし葬った骨がある。骨は確《たしか》に……確に骨は、夫人がここに身を投じて、朽ちず、消えず、砕けぬ――白き珊瑚《さんご》の玉なす枝を、我がために残したことは、人にこそ言わね、昨夜《ゆうべ》より我は信じて疑わぬ。  何が不足で一所に死ねぬ―― 「その肉身か。」  と己《おの》が頭髪《ずはつ》を掴《つか》んで、宙に下がるばかり突立《つッた》った。 「卑怯《ひきょう》だ、此奴《こいつ》! 始《はじめ》からそれは求めぬ誓《ちかい》であった。またそれを求むる位なら、なぜ、行方も知れず捉《とら》うる影なきその人を、かくまで慕う。忘れられぬはその霊《こころ》であろう。……その霊は、そこにある、現在骨まである。何が、何が不足で飛込めない。  肉身か、あるいはそれもある。沼の水は、すなわち骨を包む膚《はだ》、溺《おぼ》れて水を吸うは、なおその人の唇に触れるに違《たが》わん!」  入れ、入れ、入れ、さあさあさあさあ、と水が引き引き、ざわざわと蘆《あし》を誘って、沼の真中《まんなか》へ引寄せる。  小松原は立ったまま地鞱《ぢだんだ》を踏んだが、 「ええ! 腑効《ふがい》ない。」  どっかり草へ。  蘆の葉末《はずえ》に水を載《の》せて、昼の月の浮いて映るがごとく、沼のそこに、腕《かいな》か、肩か、胸か、乳か、白々と漾《ただよ》い居る。  ソレソレ手に取るばかり、その人が、と思いながら、投出して見ても足がまだ水へは達《とど》かぬ。  何をか疑い、何をか猶予《ためら》う。  余《あまり》の事に、ここへ来るは今日には限らないと思切って、はじめて悚然《ぞっ》として、帰ろうとして、骨を送った船の漾《ただよ》う処を視《なが》むれば、四五本打った、杭《くい》の根に留《とま》ったが、その杭から、友染《ゆうぜん》の切《きれ》を流した風情で、黄昏《たそがれ》を翡翠《かわせみ》が一羽。 [#7字下げ]二十六[#「二十六」は中見出し]  それをこう視《なが》めた時、いつもとろとろと、眠りかけの、あの草の上、樹の下に、美《うつくし》い色の水を見る、描いたるごとき夢幻《ゆめうつつ》の境、前世か、後世か、ある処の一面の絵の景色が、彩色《さいしき》した影のごとくに浮《うか》んだので、ああ、このままここへ寝るかも知れない。  それも可《よし》、ままよ、なるようになれとなった。……  その内に、翡翠《かわせみ》の背らしいのが、向うで、ぼっと大きくなり、従って輪郭《りんかく》は朧《おぼろ》になったが、大きくなったのは近づくので、朧になるのは、山から沼の上を暮増《くれまさ》るのである。その暮れるのと、来かかるのとが、蘆《あし》の汀《みぎわ》を段々伝いに、そよそよと風に、背後《うしろ》を、吹かれ、送られ、近づいて、何の跫音《あしおと》も聞えなかったが、上《かみ》からか下《しも》からか、小松原の目に、婦《おんな》の色ある衣《きぬ》の裙《すそ》が見えて、傍《かたわら》に来て、しっとり留《とま》る。…… 「奥さん。」  と、我知らず叫んだが、はっと気が附いても枕はしていず、この時は、診察室の寝台《ねだい》でなかった。そこで、 「…………」  誰かが何か言う。ただ赫《かっ》として、初手のは分らなかった。瞳を凝らして、そのすっと通った鼻筋と、睫毛《まつげ》が黒く下向にそこに彳《たたず》んだのを見出《みいだ》した時、 「立二さん。」  と胸を抱いた手が白く、よくは分らぬけれども、着たものの柄にも因るか、しばらくの間に、やや太肉《ふとりじし》だった人が、げっそりと痩《や》せて小さくなった。 「おお!」  とばかりで、肩で呼吸《いき》して、草に胡坐《あぐら》したまま、己《おの》が膝を引掴《ひッつか》んで、せいせい言って唇を震わす。  上では、俯向《うつむ》きさまに、髪が揺れたが、唇の色が燃え、得も言われぬ微笑《ほほえ》みして、 「変った処で……あんまりだから、お化だと思うでしょう。」  と相変らずしとやかなものの言いよう哉《や》。  それどころか、お化……なら、お化で、またその人ならその人で、言いたいことが一切経、ありったけの本箱を引《ひっ》くり返したのと、知っただけの言《ことば》を大絡《おおまとめ》にしたのが、一斉《いちどき》に胸へ込上げて、咽喉《のど》で支《つか》えて、ぎゅうとも言えず、口は開《あ》かずに、目は動く。 「それでも、」  と鬢《びん》へちょいと手を遣《や》ったが、櫛《くし》、笄《こうがい》、簪《かんざし》、リボン、一ツもそんなものは目に入らなかった。 「まさか、墓へは連れて行《ゆ》かないから、私の許《とこ》へ御一所に。」  指《ゆびさ》して、指の先で、男が只瞻《ひたみは》りに瞻った瞳を、沼の片隅に墨で築《つ》いた芭蕉の蔭へ、触って瞬かせるまで、動かさせて、 「あすこを通って、岨伝《そばづた》いに出られる里。……立さん、そんなに吃驚《びっくり》なさらないでも、貴下《あなた》が昨日、お医師《いしゃ》様の許《とこ》へおいでなすった事は、私もう知っています。  いつかの時の怪我《けが》でねえ、まだ時々、時候の変り目に悩みますから、梅雨時分、あのお医師様にお世話になったの、……私のね、今隠れている百姓屋へ来て貰って……  立さんが、先刻《さっき》葬式《おとむらい》にいらしった、この沼の白骨も、その時私の許で聞いて、あの方がここへ来て拾って行ったんです。  この頃、また、ちっと塩梅《あんばい》が悪いので、医師《いしゃ》へ通っていますから、今日こちらへお出でなさる事も、貴下がお出掛けの直ぐあとへ行って聞いて来ました。  先刻《さっき》から、あちこちで、様子を見ていましたけれども、傍《そば》に人が居るから、見られるのが可厭《いや》で来ませんでしたよ。  さあ、いらっしゃい。」 「……参ります!」  とだけは決然として気競《きお》って云ったが、膝が萎《な》えて、がくついて、ついした事には行《ゆ》かないで、 「貴女、貴女、」  とばかり言う。 「まあ、何にもおっしゃらないで。何事も、あの、内へ行ってから、ゆっくりお話をしましょうね。」  と軽く頷《うなず》く、頬がつくと、襟の処が薄く曇って、きらきらと露が落ちた。 [#7字下げ]二十七[#「二十七」は中見出し]  その涙を払う状《さま》に、四辺《あたり》を見つつ、 「御覧なさい、可厭《いや》な。どこより前《さき》に、沼の上が暗くなりました。これが、あの田の水の源《もと》なんですもの。またいつかの時のような事があっては悪い。」  と調子はおっとり聞こえたが、これを耳にすると斉《ひと》しく、立二は焼火箸《やけひばし》を嚥《の》んだように突立《つッた》った。  ト、佳《い》い薫《かおり》が、すっと横を抜けて通って、そのまま後姿で前へ立って、尋常に汀《みぎわ》を行《ゆ》く。……お太鼓の帯腰が、弱々と、空から釣ったように、軽く、且つ薄い。  そこへ、はらはらとかかる白絽《しろろ》の袂《たもと》に、魂を結びつけられたか、と思うと、筋骨《すじぼね》のこんがらかって、捌《さばき》のつかないほど、揉《も》み立てられた身体《からだ》が、自然に歩行《ある》く。……足はどこを踏んだか覚えなし。  しばらく行《ゆ》くと、その人が、偶《ふ》と立停《たちどま》って、弱腰を捻《ね》じて、肩へ、横顔で見返って、 「気をつけて頂戴、沼の切れ目よ。」  と案内する……処に……丸木橋が、斧《おの》の柄の朽ちた体《てい》に、ほろりと中絶えがして折込《おれこ》んだ上を、水が糸のように浅く走って、おのれ、化ける水の癖に、ちょろちょろと可憐《しおらし》やか。ここには葉ばかりでなく、後《おく》れ咲《ざき》か、返り花が、月に咲いたる風情を見よ、と紫の霧を吐いて、杜若《かきつばた》が二三輪、ぱっと花弁《はなびら》を向けた。その山の端《は》に月が出た。 「今夜は私が、」  すっと跨《また》ぐ、色が、紫に奪われて、杜若に裙《すそ》が消えたが、花から抜ける捌《さば》いた裳《もすそ》が、橋の向うで納《おさ》まると、直ぐに此方《こなた》へ向替えて、 「手を引いて上げましょう。」  嫋娜《なよやか》に出されたので、ついその、伸《のば》せば達《とど》く、手を取られる。その手が消えたそうに我を忘れて、可懐《なつかし》い薫《かおり》に包まれた。  まだ耳の底に絶えなかった、あの、きょ、きょら、くらら鳥の声が、この時急に変った。野太く、図抜けた、ぼやっとした、のろまな、しかも悪く底響きのするのに変って、  ……おのれら! おのれら!……  と鳴く。  ぎょっとして、仰いで見る、月影に、森なす大芭蕉《おおばしょう》の葉の、沼の上へ擢《ぬき》んでたのが、峰から伸出《のしだ》いて覗《のぞ》くかと、頭《かしら》に高う、さながら馬の鬣《たてがみ》のごとく、譬《たと》えば長髪を乱した体《てい》の、ばさとある附元《つけもと》は、どうやら痩《やせ》こけた蒼黒《あおぐろ》い、尖《とが》った頤《おとがい》らしくもある。  あれあれ裂けた処が、そっくり口で、  ……おのれら!……  とまた鳴いた。その体《てい》は……薄汚れた青竹の太杖《ふとづえ》を突いて、破目《やぶれめ》の目立つ、蒼黒い道服を着《ちゃく》に及んで、丈《せい》高う跳《のさ》ばって、天上から瞰下《みおろ》しながら、ひしゃげた腹から野良声を振絞って、道教うる仙人のように見えた。  その葉が大きく上にかぶさる、下に彳《たたず》んで熟《じっ》と見た、瞳が霑《うる》んで溜息《ためいき》して、 「立さん、立さん、」  と手を取ったまま、励ますように呼掛けて、 「憎らしいではありませんか。あの芭蕉が伸拡がって、沼の上へ押覆《おっかぶ》さるもんですから、御覧なさい。出汐《でしお》をこうして隠すんですもの。空へ上れば峰へ伸《のび》る、向うへかかれば海へ落ちて、いつ見ても、この水に、月の影が宿りません。  可哀相に。いつかの、あの時、月の影さえ見えたらばと、どんなに二人で祈ったでしょう。身につまされて涙が出る。まあ、この沼の暗いこと! 外は、あんなに月夜だのに。……」  翳《かざ》せばその手に、山も峰も映りそう。遠い樹立は花かと散り、頬に影さす緑の葉は、一枚ごとに黄金《きん》の覆輪《ふくりん》をかけたる色して、草の露と相照らす。……沼は、と見れば、ここからは一面の琵琶《びわ》を中空に据えたようで、蘆《あし》の葉摺《はず》れに、りんりんと鳴りそうながら、一条《ひとすじ》白銀《しろがね》の糸も掛《かか》らず、暗々として漆して鼠が駈廻《かけまわ》りそうである。 「先刻《さっき》、貴下《あなた》がなすったついでに、もうちっと切払って下されば可《よ》かったのねえ。」  ただ等閑《なおざり》に言い棄てたが、小松原は思わず拳《こぶし》を握った。生れて以来《このかた》、かよわきこの女性《にょしょう》に対して、男性の意気と力をいまだかつて一たびもために露《あら》わし得た覚《おぼえ》がない。腑効《ふがい》なさもそのドン詰《づまり》に……  しゃ! 要こそあれ。  今も不思議に片手に持った、鞘《さや》を棄てて、提《ひっさ》げて衝《つ》と出たが、屹《きっ》と見上げて、 「おのれ!」  と横薙《よこなぎ》、刃《やいば》が抜けると、そのもの、長髪をざっと捌《さば》く。驚破《すわ》天窓《あたま》から押潰《おしつぶ》すよと、思うに肖《に》ず、二丈《ふたたけ》ばかりの仙人先生、ぐしゃと挫《ひし》げて、ぴしゃりとのめずる。  これにぞ、気を得て、返す刀、列位の黒道人《くろどうじん》に切附《きりつ》けると、がさりと葉尖《はさき》から崩れて来て、蚊帳を畳んだように落ちる。同時に前へ壁を築《つ》いて、すっくと立つ青仙人を、腰車に斬《き》って落す。拝打《おがみうち》、輪切《わぎり》、袈裟掛《けさがけ》、はて、我ながら、気が冴《さ》え、手が冴え、白刃《しらは》とともに、抜けつ潜《くぐ》りつ、刎越《はねこ》え、飛び交い、八面に渡って、薙立《なぎた》て薙立て、切伏せると、ばさばさと倒れるごとに、およそ一幅《ひとはば》の黒い影が、山の腹へひらひらと映って、煙が分れたように消える、とそこだけ、はっと月が射《さ》して、芭蕉のあとを、明るくなる。  果《はて》は丘のごとく、葉を累《かさ》ねた芭蕉の上に、全身緑の露を浴び、白刃に青き雫《しずく》を流して、逆手《さかて》に支《つ》いてほっと息する。  褄取りながら、そこへ来て、その人が肩を並べた。  白刃を落して、その時|腕《かいな》をさすって憩う、小松原の手を取って、 「ああ、嬉しい。」  と、山の端《は》出《い》でたる月に向って、心ゆくばかり打仰いだ。背《せな》撓《たわ》み、胸の反るまで、影を飲み光を吸うよう、二つ三つ息を引くと、見る見る衣《きぬ》の上へ膚《はだえ》が透き、真白な乳《ち》が膨らむは、輝く玉が入ると見えて、肩を伝い、腕《かいな》を繞《めぐ》り、遍《あまね》く身内の血と一所に、月の光が行通れば、晃々《きらきら》と裳《もすそ》が揺れて、両の足の爪先《つまさき》に、美《うつくし》い綾《あや》が立ち、月が小波《ささなみ》を渡るように、滑《なめら》かに襞襀《ひだ》を打った。  啊呀《あなや》と思うと、自分の足は、草も土も踏んではおらず、沼の中なる水の上。  今はこうと、まだ消え果てぬ夫人に縋《すが》ると、靡《なび》くや黒髪、溌《ぱっ》と薫って、冷《つめた》く、涼《すずし》く、たらたらと腕に掛《かか》る。  …………小松原は、俯向《うつむ》けに蒼沼に落ちた処を、帰宅《かえり》のほどが遅いので、医師《せんせい》が見せに寄越《よこし》した、正吉に救われた。  車夫は沼の隅の物音に、提灯《ちょうちん》を差出したが、芭蕉の森に白刃が走る月影に恐《おそれ》をなして、しばらく様子を見ていたと言う。  小松原が恢復《かいふく》して、この話をした時、医学士は盃を挙げて言った。 「昔だと、仏門に入《い》る処だが、君は哲学を学《や》っとる人だから、それにも及ぶまい。しかし、蒼沼は可怪《あや》しいな。」 [#地から1字上げ]明治四十一(一九〇八)年六月 底本:「泉鏡花集成5」ちくま文庫、筑摩書房    1996(平成8)年2月22日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第十一卷」岩波書店    1941(昭和16)年8月15日発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:門田裕志 校正:仙酔ゑびす 2011年3月10日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。