黒百合 泉鏡花 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)石滝《いわたき》の |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)越中の国|立山《たてやま》なる [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)睜 -------------------------------------------------------       序  越中の国|立山《たてやま》なる、石滝《いわたき》の奥深く、黒百合となんいうものありと、語るもおどろおどろしや。姫百合、白百合こそなつかしけれ、鬼と呼ぶさえ、分けてこの凄《すさま》じきを、雄々しきは打笑い、さらぬは袖几帳《そでぎちょう》したまうらむ。富山の町の花売は、山賤《やまがつ》の類《たぐい》にあらず、あわれに美しき女なり。その名の雪の白きに愛でて[#「愛でて」は底本では「愛でで」]、百合の名の黒きをも、濃い紫と見たまえかし。     明治三十五年寅壬[#「寅壬」は縦中横]三月 [#改ページ]        一 「島野か。」  午《ひる》少し過ぐる頃、富山県知事なにがしの君が、四十物町《あえものちょう》の邸《やしき》の門で、活溌に若い声で呼んだ。  呼ばれたのは、知事の君が遠縁の法学生、この邸に奇寓《きぐう》する食客《しょっかく》であるが、立寄れば大樹《おおき》の蔭で、涼しい服装《みなり》、身軽な夏服を着けて、帽を目深《まぶか》に、洋杖《ステッキ》も細いので、猟犬ジャム、のほうずに耳の大《おおき》いのを後《うしろ》に従え、得々として出懸ける処《ところ》、澄ましていたのが唐突《だしぬけ》に、しかも呼棄《よびず》てにされたので。  およそ市中において、自分を呼棄てにするは、何等《なにら》の者であろうと、且つ怪《あやし》み、且つ憤って、目を尖《とが》らして顔を上げる。 「島野。」 「へい、」と思わず恐入って、紳士は止《や》むことを得ず頭《かしら》を下げた。 「勇美《ゆみ》さんは居るかい。」と言いさま摺《す》れ違い、門を入ろうとして振向いて言ったのは、十八九の美少年である。絹セルの単衣《ひとえ》、水色|縮緬《ちりめん》の帯を背後《うしろ》に結んだ、中背の、見るから蒲柳《ほりゅう》の姿に似ないで、眉も眦《まなじり》もきりりとした、その癖|口許《くちもと》の愛くるしいのが、パナマの帽子を無造作に頂いて、絹の手巾《ハンケチ》の雪のような白いのを、泥に染めて、何か包んだものを提げている。  成程これならば、この食客的紳士が、因ってもって身の金箔《きんぱく》とする処の知事の君をも呼棄てにしかねはせぬ。一国の門閥《もんばつ》、先代があまねく徳を布《し》いた上に、経済の道|宜《よろ》しきを得たので、今も内福の聞えの高い、子爵|千破矢《ちはや》家の当主、すなわち若君|滝太郎《たきたろう》である。 「お宅でございます、」と島野紳士は渋々ながら恭《うやうや》しい。 「学校は休《やすみ》かしら。」 「いえ、土曜日《はんどん》なんで、」 「そうか、」と謂《い》い棄てて少年はずッと入った。 「ちょッ。」  その後を見送って、島野はつくづく舌打をした。この紳士の不平たるや、単に呼棄てにされて、その威厳の幾分を殺《そ》がれたばかりではない。誰《たれ》も誰も一見して直ちに館《やかた》の飼犬だということを知って、これを従えた者は、知事の君と別懇の者であるということを示す、活《い》きた手形のようなジャムの奴《やつ》が、連れて出た己《おのれ》を棄てて、滝太郎の後から尾を振りながら、ちょろちょろと入ったのであった。 「恐れるな。小天狗《こてんぐ》め、」とさも悔しげに口の内に呟《つぶや》いて、洋杖《ステッキ》をちょいとついて、小刻《こきざみ》に二ツ三ツ地《つち》の上をつついたが、懶《ものう》げに帽の前を俯向《うつむ》けて、射る日を遮《さえぎ》り、淋《さみ》しそうに、一人で歩き出した。 「ジャム、」  真先《まっさき》に駈《か》けて入った猟犬をまず見着けたのは、当|館《やかた》の姫様《ひいさま》で勇美《ゆみ》子という。襟は藤色で、白地にお納戸で薩摩縞《さつまじま》の単衣《ひとえ》、目のぱッちりと大きい、色のくッきりした、油気の無い、さらさらした癖の無い髪を背《せな》へ下げて、蝦茶《えびちゃ》のリボン飾《かざり》、簪《かざし》は挿さず、花畠《はなばたけ》の日向《ひなた》に出ている。        二  この花畠は――門を入ると一面の芝生、植込のない押開《おっぴら》いた突当《つきあたり》が玄関、その左の方が西洋|造《づくり》で、右の方が廻《まわり》廊下で、そこが前栽になっている。一体昔の大名の別邸を取払った幾分の造作が残ったのに、件《くだん》の洋風の室数《まかず》を建て増したもので、桃色の窓懸《まどかけ》を半ば絞った玄関|傍《わき》の応接所から、金々として綺羅《きら》びやかな飾附の、呼鈴《よびりん》、巻莨入《まきたばこいれ》、灰皿、額縁などが洩《も》れて見える――あたかもその前にわざと鄙《ひな》めいた誂《あつらえ》で。  日車《ひぐるま》は莟《つぼみ》を持っていまだ咲かず、牡丹《ぼたん》は既に散果てたが、姫芥子《ひめげし》の真紅《まっか》の花は、ちらちらと咲いて、姫がものを言う唇のように、芝生から畠を劃《かぎ》って一面に咲いていた三色菫《さんしきすみれ》の、紫と、白と、紅《くれない》が、勇美子のその衣紋《えもん》と、その衣《きぬ》との姿に似て綺麗である。 「どうして、」  体は大《おおき》いが、小児《こども》のように飛着いて纏《まつ》わる猟犬のあたまを抑《おさ》えた時、傍目《わきめ》も触《ふ》らないで玄関の方へ一文字に行《ゆ》こうとする滝太郎を見着けた。 「おや、」  同時に少年も振返って、それと見ると、芝生を横截《よこぎ》って、つかつかと間近に寄って、 「ちょいとちょいと、今日はね、うんと礼を言わすんだ、拝んで可《い》いな。」と莞爾々々《にこにこ》しながら、勢《いきおい》よく、棒を突出したようなものいいで、係構《かけかまい》なしに、何か嬉しそう。  言葉つきなら、仕打なら、人の息女とも思わぬを、これがまた気に懸けるような娘でないから、そのまま重たげに猟犬の頭《かしら》を後《うしろ》に押遣《おしや》り、顔を見て笑って、 「何?」 「何だって、大変だ、活《い》きてるんだからね。お姫様なんざあ学者の先生だけれども、こいつあ分らない。」と件《くだん》の手巾《ハンケチ》の包を目の前へ撮《つま》んでぶら下げた。その泥が染《にじ》んでいる純白《まっしろ》なのを見て、傾いて、 「何です。」 「見ると驚くぜ、吃驚《びっくり》すらあ、草だね、こりゃ草なんだけれど活きてるよ。」 「は、それは活きていましょうとも。草でも樹でも花でも、皆《みんな》活きてるではありませんか。」という時、姫芥子の花は心ありげに袂《たもと》に触れて閃《ひらめ》いた。が、滝太郎は拗《す》ねたような顔色《かおつき》で、 「また始めたい、理窟をいったってはじまらねえ。可いからまあ難有《ありがと》うと、そういってみねえな、よ、厭《いや》なら止《よ》せ。」 「乱暴ねえ、」 「そっちアまた強情だな、可いじゃあないか難有う……と。」 「じゃアまああっちへ参りましょう。」  と言いかけて勇美子は身を返した。塀の外をちらほらと人の通るのが、小さな節穴を透《すか》して遙《はるか》に昼の影燈籠《かげどうろう》のように見えるのを、熟《じっ》と瞻《みまも》って、忘れたように跪居《ついい》る犬を、勇美子は掌《てのひら》ではたと打って、 「ほら、」  ジャムは二三尺|飛退《とびすさ》って、こちらを向いて、けろりとしたが、衝《つ》と駈出《かけだ》して見えなくなった。 「活きてるんだな。やっぱり。」といって滝太郎一笑す。  振向いて見たばかり、さすがこれには答えないで、勇美子は先に立って鷹揚《おうよう》である。        三 「いらっしゃいまし。」  縁側に手を支《つか》えて、銀杏返《いちょうがえし》の小間使が優容《しとやか》に迎えている。後先《あとさき》になって勇美子の部屋に立向うと、たちまち一種身に染みるような快い薫《かおり》がした。縁の上も、床の前も、机の際も、と見ると芳《かんばし》い草と花とで満《みた》されているのである。ある物は乾燥紙の上に半ば乾き、ある物は圧板《おしいた》の下に露を吐き、あるいは台紙に、紫、紅《あか》、緑、樺《かば》、橙色《だいだいいろ》の名残《なごり》を留《とど》めて、日あたりに並んだり。壁に五段ばかり棚を釣って、重ね、重ね、重ねてあるのは、不残《のこらず》種類の違った植物の標本で、中には壜《びん》に密閉してあるのも見える。山、池、野原、川岸、土堤《どて》、寺、宮の境内、産地々々の幻をこの一室に籠《こ》めて物凄《ものすご》くも感じらるる。正面には、紫の房々とした葡萄《ぶどう》の房を描いて、光線を配《あし》らった、そこにばかり日の影が射《さ》して、明るいようで鮮かな、露垂るばかりの一面の額、ならべて壁に懸けた標本の中なる一輪の牡丹《ぼたん》の紅《くれない》は、色はまだ褪《あ》せ果てぬが、かえって絵のように見えて、薄暗い中へ衝《つ》と入った主《あるじ》の姫が、白と紫を襲《かさ》ねた姿は、一種言うべからざる色彩があった。 「道、」 「は、」と、答《いらえ》をし、大人しやかな小間使は、今座に直った勇美子と対向《さしむかい》に、紅革《べにかわ》の蒲団《ふとん》を直して、 「千破矢様の若様、さあ、どうぞ。」  帽子も着たままで沓脱《くつぬぎ》に突立《つった》ってた滝太郎は、突然《いきなり》縁に懸けて後《うしろ》ざまに手を着いたが、不思議に鳥の鳴く音《ね》がしたので、驚いて目を睜《みは》って、また掌《てのひら》でその縁の板の合せ目を圧《おさ》えてみた。 「何だい、鳴るじゃあないか、きゅうきゅういってやがら、おや、可訝《おかし》いな。」 「お縁側が昔のままでございますから、旧《もと》は好事《ものずき》でこんなに仕懸けました。鶯張《うぐいすばり》と申すのでございますよ。」  小間使が老実立《まめだ》っていうのを聞いて、滝太郎は恐入った顔色《かおつき》で、 「じゃあ声を出すんだろう、木だの、草だの、へ、色々なものが生きていら。」 「何をいってるのよ。」と勇美子は机の前に、整然《ちゃん》と構えながら苦笑する。 「どう遊ばしましたの。」 取為顔《とりなしがお》の小間使に向って、 「聞きねえ、勇さんが、ね、おい。」 「あれ、また、乱暴なことを有仰《おっしゃ》います。」と微笑《ほほえ》みながら、道は馴々《なれなれ》しく窘《たしな》めるがごとくに言った。 「御容子《ごようす》にも御身分にもお似合い遊ばさない、ぞんざいな言《こと》ばっかし。不可《いけね》えだの、居やがるだのッて、そんな言《こと》は御邸の車夫だって、部屋へ下って下の者同士でなければ申しません。本当に不可《いけ》ませんお道楽でございますねえ。」 「生意気なことをいったって、不可《いけね》えや、畏《かしこま》ってるなあ冬のこッた。ござったのは食物でみねえ、夏向は恐れるぜ。」 「そのお口だものを、」といって驚いて顔を見た。 「黙って、見るこッた、折角お珍らしいのに言句《もんく》をいってると古くしてしまう。」といいながら、急いで手巾《ハンケチ》を解《ほど》いて、縁の上に拡げたのは、一|掴《つかみ》、青い苔《こけ》の生えた濡土である。  勇美子は手を着いて、覗《のぞ》くようにした。眉を開いて、艶麗《あてやか》に、 「何です。」  滝太郎は背《せな》を向けてぐっと澄まし、 「食いつくよ、活きてるから。」        四 「まあ、若様、あなた、こっちへお上り遊ばしましな。」と小間使は一塊の湿った土をあえて心にも留めないのであった。 「面倒臭いや、そこへ入り込むと、畏《かしこま》らなけりゃならないから、沢山だい。」といって、片足を沓脱《くつぬぎ》に踏伸ばして、片膝を立てて頤《おとがい》を支えた。 「また、そんなことを有仰《おっしゃ》らないでさ。」 「勝手でございますよ。」 「それではまあお帽子でもお取り遊ばしましな、ね、若様。」  黙っている。心易立《こころやすだ》てに小間使はわざとらしく、 「若様、もし。」 「堪忍しねえ、炫《まぶし》いやな。」  滝太郎はさも面倒そうに言い棄てて、再び取合わないといった容子を見せたが、俯向《うつむ》いて、足に近い飛石の辺《ほとり》を屹《きっ》と見た。渠《かれ》は炫いといって小間使に謝したけれども、今瞳を据えた、パナマの夏帽の陰なる一双の眼《まなこ》は、極めて冷静なものである。小間使は詮方《せんかた》なげに、向直って、 「お嬢様、お茶を入れて参りましょう。」  勇美子は余念なく滝太郎の贈物を視《なが》めていた。 「珈琲《コオヒイ》にいたしましょうか。」 「ああ、」 「ラムネを取りに遣わしましょうか。」 「ああ、」とばかりで、これも一向に取合わないので、小間使は誠に張合がなく、 「それでは、」といって我ながら訳も解らず、あやふやに立とうとする。 「道、」 「はい。」 「冷水《おひや》が可いぜ、汲立《くみたて》のやつを持って来てくんねえ、後生だ。」  といいも終らず、滝太郎はつかつかと庭に出て、飛石の上からいきなり地《つち》の上へ手を伸ばした、疾《はや》いこと! 掴《つかま》えたのは一疋の小さな蟻《あり》。 「おいらのせいじゃあないぞ、何だ、蟻のような奴が、譬《たとえ》にも謂《い》わあ、小さな体をして、動いてら。おう、堪忍しねえ、おいらのせいじゃあないぞ。」といいいい取って返して、縁側に俯向《うつむ》いて、勇美子が前髪を分けたのに、眉を隠して、瞳を件《くだん》の土産に寄せて、 「見ねえ。」  勇美子は傍目《わきめ》も触《ふ》らないでいた。  しばらくして滝太郎は大得意の色を表して、莞爾《にっこ》と微笑《ほほえ》み、 「ほら、ね、どうだい、だから難有《ありがと》うッて、そう言いねえな。」 「どこから。」といって勇美子は嬉しそうな、そして頭《つむり》を下げていたせいであろう、耳朶《みみもと》に少し汗が染《にじ》んで、眶《まぶち》の染まった顔を上げた。 「どこからです、」 「え、」と滝太郎は言淀《いいよど》んで、面《かお》の色が動いたが、やがて事も無げに、 「何、そりゃ、ちゃんと心得てら。でも、あの余計にゃあ無いもんだ。こいつあね、蠅じゃあ大きくって、駄目なの、小さな奴なら蜘蛛《くも》の子位は殺《やッ》つけるだろう。こら、恐《こわ》いなあ、まあ。」  心なく見たらば、群がった苔の中で気は着くまい。ほとんど土の色と紛《まが》う位、薄樺色《うすかばいろ》で、見ると、柔かそうに湿《しめり》を帯びた、小さな葉が累《かさな》り合って生えている。葉尖《はさき》にすくすくと針を持って、滑《なめら》かに開いていたのが、今蟻を取って上へ落すと、あたかも意識したように、静々と針を集めて、見る見る内に蟻を擒《とりこ》にしたのである。  滝太郎は、見て、その験《げん》あるを今更に驚いた様子で、 「ね、特別に活きてるだろう。」        五 「何でも崖《がけ》裏か、藪《やぶ》の陰といった日陰の、湿った処で見着けたのね?」 「そうだ、そうだ。」  滝太郎は邪慳《じゃけん》に、無愛想にいって目も放さず見ていたが、 「ヤ、半分ばかり食べやがった。ほら、こいつあ溶けるんだ。」 「まあ、ここに葉のまわりの針の尖《さき》に、一ツずつ、小さな水玉のような露を持っててね。」 「うむ、水が懸《かか》って、溜《たま》っているんだあな、雨上りの後だから。」 「いいえ、」といいながら勇美子は立って、室《へや》を横ぎり、床柱に黒塗の手提の採集筒と一所にある白金巾《しろかなきん》の前懸《まえかけ》を取って、襟へあてて、ふわふわと胸膝を包んだ。その瀟洒《しょうしゃ》な風采《ふうさい》は、あたかも古武士が鎧《よろい》を取って投懸けたごとく、白拍子が舞衣《まいぎぬ》を絡《まと》うたごとく、自家の特色を発揮して余《あまり》あるものであった。  勇美子は旧《もと》の座に直って、机の上から眼鏡《レンズ》を取って、件《くだん》の植物の上に翳《かざ》し、じっと見て、 「水じゃあないの、これはこの苔が持っている、そうね、まあ、あの蜘蛛が虫を捕える糸よ。蟻だの、蚋《ぶゆ》だの、留まると遁《の》がさない道具だわ。あなた名を知らないでしょう、これはね、モウセンゴケというんです、ちょいとこの上から御覧なさい。」と、眼鏡《レンズ》を差向けると、滝太郎は何をという仏頂面で、 「詰《つま》らねえ、そんなものより、おいらの目が確《たしか》だい。」といって傲然《ごうぜん》とした。  しかり、名も形も性質も知らないで、湿地の苔の中に隠れ生えて、虫を捕獲するのを発見した。滝太郎がものを見る力は、また多とすべきものである。あらかじめ[#「あらかじめ」は底本では「あからじめ」]書籍《ほん》に就いて、その名を心得、その形を知って、且ついかなる処で得らるるかを学んでいるものにも、容易に求猟《あさ》られない奇品であることを思い出した勇美子は、滝太郎がこの苔に就いて、いまだかつて何等の知識もないことに考え到《いた》って、越中の国富山の一箇所で、しかも薄暗い処でなければ産しない、それだけ目に着きやすからぬ不思議な草を、不用意にして採集して来たことに思い及ぶと同時に、名は知るまいといって誇ったのを、にわかに恥じて、差翳《さしかざ》した高慢な虫眼鏡を引込めながら、行儀悪くほとんど匍匐《はらばい》になって、頬杖《ほおづえ》を突いている滝太郎の顔を瞻《みまも》って、心から、 「あなたの目は恐《こわ》いのね。」と極めて真面目《まじめ》にしみじみといった。  勇美子は年紀《とし》も二ツばかり上である。去年父母に従うてこの地に来たが、富山より、むしろ東京に、東京よりむしろ外国に、多く年月を経た。父は前《さき》に仏蘭西《フランス》の公使館づきであったから、勇美子は母とともに巴里《パリイ》に住んで、九ツの時から八年有余、教育も先方《むこう》で受けた、その知識と経験とをもて、何等かこの貴公子に見所があったのであろう、滝太郎といえばかねてより。……        六 「よく見着けて採って来てねえ、それでは私に下さるんですか、頂いておいても宜《よろ》しいの。」 「だから難有《ありがと》うッて言いねえてば、はじめから分ってら。」と滝太郎は有為顔《したりがお》で嬉しそう。 「いいえ、本当に結構でございます。」  勇美子はこういって、猶予《ためら》って四辺《あたり》を見たが、手をその頬の辺《あたり》へ齎《もた》らして唇を指に触れて、嫣然《えんぜん》として微笑《ほほえ》むと斉《ひと》しく、指環《ゆびわ》を抜き取った。玉の透通って紅《あか》い、金色《こんじき》の燦《さん》たるのをつッと出して、 「千破矢さん、お礼をするわ。」  頤杖《あごづえ》した縁側の目の前《さき》に、しかき贈物を置いて、別に意《こころ》にも留めない風で、滝太郎はモウセンゴケを載せた手巾《ハンケチ》の先を――ここに耳を引張《ひっぱ》るべき猟犬も居ないから――摘《つま》んでは引きながら、片足は沓脱《くつぬぎ》を踏まえたまま、左で足太鼓を打つ腕白さ。 「取っておいて下さいな。」  まるで知らなかったのでもないかして、 「いりやしねえよ。さあ、とうとう蟻を食っちゃった、見ねえ、おい。」  勇美子は引手繰《ひったぐ》られるように一膝出て、わずかに敷居に乗らないばかり。 「よう、おしまいなさいよ。」といったが、端《はした》なくも見えて、急《せ》き込む調子。 「欲《ほし》かアありませんぜ。」 「お厭《いや》。」 「それにゃ及ばないや。」 「それではお礼としないで、あの、こうしましょうか、御褒美。」と莞爾《にっこり》する。 「生意気を言っていら、」  滝太郎は半ば身を起して腰をかけて言い棄てた。勇美子は返すべき言葉もなく、少年の顔を見るでもなく、モウセンゴケに並べてある贈物を見るでもなく、目の遣《や》り処に困った風情。年上の澄ました中《うち》にも、仇気《あどけ》なさが見えて愛々しい。顔を少し赤らめながら、 「ただ上げては失礼ね、千破矢さん、その指環。」 「え、」と思わず手を返した、滝太郎の指にも黄金《きん》の一条《ひとすじ》の環《わ》が嵌《はま》っている。 「取替ッこにしましょうか。」 「これをかい。」 「はあ、」  勇美子は快活に思い切った物言いである。  滝太郎は目を円《つぶら》にして、 「不可《いけね》え。こりゃ、」 「それでは、ただ下さいな。」 「うむ。」 「取替えるのがお厭なら。」 「止しねえ、お前《めえ》、お前さんの方がよッぽど可《い》いや、素晴しいんじゃないか。俺《おいら》のこの、」  と斜《ななめ》に透かして、 「こりゃ、詰《つま》らない。取替えると損だから、悪いことは言わないぜ、はははは、」と笑ったが、努めて紛らそうとしたらしい。  勇美子は燃ゆるがごとき唇を動かして、動かして、 「惜しいの、大事なんですか。」 「うむ、大事なんだ。」といい放って、縁を離れてそのまますッくと立った。 「帰《けえ》ったら何か持たして寄越《よこ》さあ、邸でも、庫《くら》でも欲しかあ上げよう、こいつあ、後生だから堪忍しねえ。」  勇美子も慌《あわただ》しく立つ処へ、小間使は来て、廻縁の角へ優容《しとやか》に現れた。何にも知らないから、小腰を屈《かが》めて、 「お嬢様、例《いつぞ》の花売の娘が参っております。若様、もうお忘れ遊ばしたでしょう、冷水《おひや》は毒でございますよ。」        七  場末ではあるけれども、富山で賑《にぎや》かなのは総曲輪《そうがわ》という、大手先。城の外壕《そとぼり》が残った水溜《みずたまり》があって、片側町に小商賈《こあきゅうど》が軒を並べ、壕に沿っては昼夜交代に露店《ほしみせ》を出す。観世物《みせもの》小屋が、氷店《こおりみせ》に交《まじ》っていて、町外《まちはずれ》には芝居もある。  ここに中空を凌《しの》いで榎《えのき》が一本、梢《こずえ》にははや三日月が白く斜《ななめ》に懸《かか》った。蝙蝠《こうもり》が黒く、見えては隠れる横町、総曲輪から裏の旅籠町《はたごまち》という大通《おおどおり》に通ずる小路を、ひとしきり急足《いそぎあし》の往来《ゆきき》があった後へ、もの淋《さみ》しそうな姿で歩行《ある》いて来たのは、大人しやかな学生風の、年配二十五六の男である。  久留米の蚊飛白《かがすり》に兵児帯《へこおび》して、少し皺《しわ》になった紬《つむぎ》の黒の紋着《もんつき》を着て、紺足袋を穿《は》いた、鉄色の目立たぬ胸紐《むなひも》を律義に結んで、懐中物を入れているが、夕涼《ゆうすずみ》から出懸けたのであろう、帽は被《かぶ》らず、髪の短かいのが漆《うるし》のようで、色の美しく白い、細面の、背のすらりとしたのが、片手に帯を挟んで、俯向《うつむ》いた、紅絹《もみ》の切《きれ》で目を軽く押えながら、物思いをする風で、何か足許《あしもと》も覚束《おぼつか》ないよう。  静かに歩を移して、もう少しで通《とおり》へ出ようとする、二|間《けん》幅の町の両側で、思いも懸けず、喚《わッ》! といって、動揺《どよ》めいた、四五人の小児《こども》が鯨波《とき》を揚げる。途端に足を取られた男は、横様にはたと地《つち》の上。 「あれ、」という声、旅籠町の角から、白い脚絆《きゃはん》、素足に草鞋穿《わらじばき》の裾《すそ》を端折《はしょ》った、中形の浴衣に繻子《しゅす》の帯の幅狭《はばぜま》なのを、引懸《ひっか》けに結んで、結んだ上へ、桃色の帯揚《おびあげ》をして、胸高に乳の下へしっかと〆《し》めた、これへ女扇をぐいと差して、膝の下の隠れるばかり、甲斐々々しく、水色|唐縮緬《とうちりめん》の腰巻で、手拭《てぬぐい》を肩に当て、縄からげにして巻いた茣蓙《ござ》を軽《かろ》げに荷《にな》った、商《あきない》帰り。町や辻では評判の花売が、曲角から遠くもあらず、横町の怪我《けが》を見ると、我を忘れたごとく一飛《ひととび》に走り着いて、転んだ地《つち》へ諸共に膝を折敷いて、扶《たす》け起そうとする時、さまでは顛動《てんどう》せず、力なげに身を起して立つ。 「どこも怪我はしませんか。」と人目も構わず、紅絹を持った男の手に縋《すが》らぬばかりに、ひたと寄って顔を覗《のぞ》く。 「やあい、やあい。」 「盲目《めくら》やあい、按摩針《あんまはり》。」と囃《はや》したので、娘は心着いて、屹《きっ》と見て、立直った。 「おいらのせいじゃあないぞ、」 「三年先の烏のせい。」  甲走《かんばし》った早口に言い交わして、両側から二列に並んで遁《に》げ出した。その西の手から東の手へ、一条《ひとすじ》の糸を渡したので町幅を截《き》って引張《ひっぱり》合って、はらはらと走り、三ツ四ツ小さな顔が、交《かわ》る交《がわ》る見返り、見返り、 「雁《がん》が一羽|懸《かか》った、」 「懸った、懸った。」 「晩のお菜《かず》に煮て食おう。」と囃しざま、糸に繋《つなが》ったなり一団《ひとかたまり》になったと見ると、大《おおき》な廂《ひさし》の、暗い中へ、ちょろりと入って隠れてしまった。 [#ここから6字下げ]   新庄《しんじょ》通れば、茨《いばら》と、藤と、 藤が巻附く、茨が留める、   茨放せや、帯ゃ切れる、       さあい、さんさ、よんさの、よいやな。 [#ここで字下げ終わり]  と女の子のあどけないのが幾|人《たり》か声を揃えて唄うのが、町を隔てて彼方《あなた》に聞える。  二人は聞いて立並んで、黙って、顔を見て吻《ほっ》と息。        八 「小児《こども》衆ですよ、不可《いけ》ません。両方から縄を引張《ひっぱ》って、軒下に隠れていて、人が通ると、足へ引懸《ひッか》けるんですもの、悪いことをしますねえ。」 「お雪さん、」と言いかけて、男はその淋しげな顔を背けた。声は、足を搦《から》んで僵《たお》された五分を経ない後《のち》にも似ず、落着いて沈んでいる。 「はい、どこも何ともなさいませんか。」  お雪と呼ばれた花売の娘は、優しく男の胸の辺りで百合の姿のしおらしい顔を、傾けて仰いで見た。 「いえ、何、擦剥《すりむき》もしないようだ。」と力なく手を垂れて、膝の辺りを静《しずか》に払《はた》く。 「まあ、砂がついて、あれ、こんなに、」と可怨《うらめ》しそうに、袖についた埃《ほこり》を払おうとしたが、ふと気を着けると、袂《たもと》は冷々《ひやひや》と湿りを持って、塗《まみ》れた砂も落尽くさず、またその漆黒な髪もしっとりと濡れている。男の眉は自《おのず》から顰《ひそ》んで、紅絹《もみ》の切《きれ》で、赤々と押えた目の縁《ふち》も潤んだ様子。娘は袂に縋《すが》ったまま、荷を結えた縄の端を、思わず落そうとしてしっかり取った。 「今帰るのかい。」 「は……い。」 「暑いのに随分だな。」  思入って労《ねぎら》う言葉。お雪は身に染み、胸に応《こた》えて、 「あなた。」 「ああ、」 「お医者様は、」  問われて目を圧《おさ》えた手が微《かすか》に震え、 「悪い方じゃあないッていうが、どうも捗々《はかばか》しくは行《ゆ》かぬそうだ。なりたけまあ大事にして、ものを見ないようにする方が可《い》いっていうもんだから、ここはちょうど人通の少い処、密《そっ》と目を塞《ふさ》いで探って来たので、ついとんだ羂《わな》に蹈込《ふみこ》んださ、意気地《いくじ》はないな、忌々《いまいま》しい。」  とさりげなく打頬笑《うちほほえ》む。これに心を安んじたか、お雪もやや色を直して、 「どうぞまあ、お医者様を内へお呼び申すことにして、あなたはお寝《よ》って、何にもしないでいらっしゃるようにしたいものでございますね。」 「それは何、懇意な男だから、先方《さき》でもそう言ってくれるけれども、上手なだけ流行るので隙《ひま》といっちゃあない様子、それも気の毒じゃあるし、何、寝ているほどの事もないんだよ。」 「でも、随分お悪いようですよ。そしてあの、お帰途《かえり》に湯にでもお入りなすったの。」  考えて、 「え、なぜね。」 「お頭《つむり》が濡れておりますもの。」 「む、何ね、そうか、濡れてるか、そうだろう[#「そうだろう」は底本では「そうだらう」]。医者が冷《ひや》してくれたから。」と、詰《なじ》られて言開《いいひらき》をする者のような弱い調子で、努めて平気を装って言った。 「冷しますと、お薬になるんですか。」と袂を持つ手に力が入ると、男は心着いて探ってみたが、苦笑して 「おお、湿った手拭を入れておいたな、だらしのない、袂が濡れた。成る程|女房《おかみさん》には叱られそうなこッた。」 「あれ、あんなことをいっていらっしゃるよ。」と嬉しそうに莞爾《にっこり》したが、これで愁眉《しゅうび》が開けたと見える。 「御一所に帰りましょうか。」 「別々に行《ゆ》こうよ、ちっと穏《おだやか》でないから。いや、大丈夫だ。」 「気を着けて下さいましよ。」        九  男女《ふたり》が前後して総曲輪《そうがわ》へ出て、この町の角を横切って、往来《ゆきき》の早い人中に交《まじ》って見えなくなると、小児《こども》がまた四五人一団になって顕《あらわ》れたが、ばらばらと駈《か》けて来て、左右に分れて、旧《もと》のごとく軒下に蹲《しゃが》んで隠れた。  月の色はやや青く、蜘蛛《くも》はその囲《い》を営むのに忙《せわ》しい。  その時|旅籠町《はたごまち》の通《とおり》の方から、同じこの小路を抜けようとして、薄暗い中に入って来たのは、一|人《にん》の美少年。  パナマの帽を前下り、目も隠れるほど深く俯向《うつむ》いたが、口笛を吹くでもなく、右の指の節を唇に当て、素肌に着た絹セルの単衣《ひとえ》の衣紋《えもん》を緩《くつろ》げ――弥蔵《やぞう》という奴――内懐に落した手に、何か持って一心に瞻《みつ》めながら、悠々と歩を移す。小間使が言った千破矢の若君という御容子《ごようす》はどこへやら、これならば、不可《いけね》えの、居やがるのと、いけぞんざいなことも言いそうな滝太郎。 「ふん。」  片微笑《かたほえみ》をして、また懐の中を熟《じっ》と見て、 「おいらのせいじゃあないぞ。」と仇口《あだぐち》に呟《つぶや》いた。 「やあい、やい」 「盲目《めくら》やあい。」  小児《こども》は一時《いちどき》に哄《どッ》と囃したが、滝太郎は俯向いたまま、突当ったようになって立停《たちどま》ったばかり、形も崩さず自若としていた。  膝の辺りへ一条《ひとすじ》の糸が懸《かか》ったのを、一生懸命両方から引張《ひっぱ》って、 「雁が一羽懸った、」 「懸った、懸った、」と夢中になり、口々に騒ぎ立つのは、大方獲物が先刻《さっき》のごとく足を取られたと思ったろう。幼いものは、驚破《すわ》というと自分の目を先に塞《ふさ》ぐのであるから、敵の動静はよくも認めず、血迷ってただ燥《はしゃ》ぐ。  左右を眗《みまわ》して、叱りもしない、滝太郎の涼しやかな目は極めて優しく、口許《くちもと》にも愛嬌《あいきょう》があって、柔和な、大人しやかな、気高い、可懐《なつか》しいものであったから、南無三《なむさん》仕損じたか、逃後《にげおく》れて間拍子を失った悪戯者《いたずらもの》。此奴《こいつ》羽搏《はばたき》をしない雁だ、と高を括《くく》って図々しや。 「ええ、そっちを引張んねえ。」 「下へ、下へ、」 「弛《ゆる》めて、潜《くぐ》らせやい。」 「巻付けろ。」  遊軍に控えたのまで手を添えて、搦《から》め倒そうとする糸が乱れて、網の目のように、裾、袂、帯へ来て、懸っては脱《はず》れ、また纏《まと》うのを、身動きもしないで、彳《たたず》んで、目も放さず、面白そうに見ていたが、やや有って、狙《ねらい》を着けたのか、ここぞと呼吸を合わせた気勢《けはい》、ぐいと引く、糸が張った。  滝太郎は早速に押当てていた唇を指から放すと、薄月《うすづき》にきらりとしたのは、前《さき》に勇美子に望まれて、断乎として辞し去った指環である。と見ると糸はぷつりと切れて、足も、膝も遮るものなく、滝太郎の身は前へ出て、見返りもしないで衝《つ》と通った。  そのまま総曲輪へ出ようとする時、背後《うしろ》ではわッといって、我がちに遁《に》げ出す跫音《あしおと》。  蜘蛛の子は、糸を切られて、驚いて散々《ちりぢり》なり。 「貰ったよ。」  滝太郎は左右を眗《みまわ》し、今度は憚《はばか》らず、袂から出して、掌《たなそこ》に据えたのは、薔薇《ばら》の薫《かおり》の蝦茶《えびちゃ》のリボン、勇美子が下髪《さげがみ》を留めていたその飾である。        十  土地の口碑《こうひ》、伝うる処に因れば、総曲輪のかの榎《えのき》は、稗史《はいし》が語る、佐々成政《さっさなりまさ》がその愛妾《あいしょう》、早百合を枝に懸けて惨殺した、三百年の老樹《おいき》の由。  髪を掴《つか》んで釣《つる》し下げた女の顔の形をした、ぶらり[#「ぶらり」に傍点]火というのが、今も小雨の降る夜が更けると、樹の股《また》に懸《かか》るというから、縁起を祝う夜商人《よあきんど》は忌み憚《はばか》って、ここへ露店を出しても、榎の下は四方を丸く明けて避ける習慣《ならわし》。  片側の商店《あきないみせ》の、夥《おびただ》しい、瓦斯《がす》、洋燈《ランプ》の灯と、露店のかんてらが薄くちらちらと黄昏《たそがれ》の光を放って、水打った跡を、浴衣着、団扇《うちわ》を手にした、手拭を提げた漫歩《そぞろあるき》の人通、行交《ゆきちが》い、立換《たちかわ》って賑《にぎや》かな明《あかる》い中に、榎の梢《こずえ》は蓬々《ほうほう》としてもの寂しく、風が渡る根際に、何者かこれ店を拡げて、薄暗く控えた商人《あきんど》あり。  ともすると、ここへ、痩枯《やせが》れた坊主の易者が出るが、その者は、何となく、幽霊を済度しそうな、怪しい、そして頼母《たのも》しい、呪文を唱える、堅固な行者のような風采《ふうさい》を持ってるから、衆《ひと》の忌む処、かえって、底の見えない、霊験ある趣を添えて、誰もその易者が榎の下に居るのを怪しまぬけれども、今夜のはそれではない。  今灯を点《つ》けたばかり、油煙も揚らず、かんてらの火も新しい、店の茣蓙《ござ》の端に、汚れた風呂敷を敷いて坐り込んで、物|馴《な》れた軽口で、 「召しませぬか、さあさあ、これは阿蘭陀《オランダ》トッピイ産の銀流し、何方《どなた》もお煙管《きせる》なり、お簪《かんざし》なり、真鍮《しんちゅう》、銅《あかがね》、お試しなさい。鍍金《めっき》、ガラハギをなさいましても、鍍金、ガラハギは、鍍金ガラハギ、やっぱり鍍金、ガラハギは、ガラハギ。」  と尻ッ刎《ぱね》の上調子で言って、ほほと笑った。鉄漿《かね》を含んだ唇赤く、細面で鼻筋通った、引緊《ひきしま》った顔立の中年増《ちゅうどしま》。年紀《とし》は二十八九、三十でもあろう、白地の手拭《てぬぐい》を姉《あね》さん被《かぶり》にしたのに額は隠れて、あるのか、無いのか、これで眉が見えたらたちまち五ツばかりは若やぎそうな目につく器量。垢抜《あかぬけ》して色の浅黒いのが、絞《しぼり》の浴衣の、糊《のり》の落ちた、しっとりと露に湿ったのを懊悩《うるさ》げに纏《まと》って、衣紋《えもん》も緩《くつろ》げ、左の手を二の腕の見ゆるまで蓮葉《はすは》に捲《まく》ったのを膝に置いて、それもこの売物の広告か、手に持ったのは銀の斜子打《ななこうち》の女煙管である。  氷店《こおりみせ》の白粉首《しろくび》にも、桜木町の赤襟にもこれほどの美なるはあらじ、ついぞ見懸けたことのない、大道店の掘出しもの。流れ渡りの旅商人《たびあきんど》が、因縁は知らずここへ茣蓙《ござ》を広げたらしい。もっとも総曲輪一円は、露店も各自《てんでん》に持場が極《きま》って、駈出《かけだ》しには割込めないから、この空地へ持って来たに違いない。それにしても大胆な、女の癖にと、珍しがるやら、怪《あやし》むやら。ここの国も物見高で、お先走りの若いのが、早や大勢。  婦人《おんな》は流るるような瞳を廻《めぐ》らし、人だかりがしたのを見て、得意な顔色《かおつき》。 「へい、鍍金《めっき》は鍍金、ガラハギはガラハギ、品物に品が備わりませぬで、一目見てちゃんと知れる。どこへ出しても偽物《いかもの》でございますが、手前商いまする銀流しを少々、」と言いかけて、膝に着いた手を後《うしろ》へ引き、煙管を差置いて箱の中の粉を一捻《いちねん》し、指を仰向《あおむ》けて、前へ出して、つらりと見せた。 「ほんの纔《わずか》ばかり、一|撮《つま》み、手巾《ハンケチ》、お手拭の端、切《きれ》ッ屑《くず》、お鼻紙、お手許お有合せの柔かなものにちょいとつけて、」  婦人《おんな》は絹の襤褸切《ぼろきれ》[#「襤褸切」は底本では「襤褄切」]に件《くだん》の粉を包んで、俯向《うつむ》いて、真鍮の板金を取った。  お掛けなさいまし、お休みなさいましと、間近な氷店で金切声。夜芝居《よしばい》の太鼓、どろどろどろ、遥《はるか》に聞える観世物《みせもの》の、評判、評判。        十一 「訳のないこと、子供|衆《しゅ》でも誰でも出来る。ちょいと水をつけておいて、柔かにぐいぐいとこう遣《や》りさえすりゃ、あい、鷹《たか》化して鳩《はと》となり、傘《からかさ》変わって助六となり、田鼠《でんそ》化して鶉《うずら》となり、真鍮変じて銀となるッ。」 「雀入海中為蛤《すずめかいちゅうにいってはまぐりとなる》か。」と、立合の中《うち》から声を懸けるものがあった。  婦人《おんな》はその声の主《ぬし》を見透そうとするごとく、人顔をじろりと見廻わし、黙って莞爾《にっこり》して、また陳立《のべた》てる。 「さあさあ召して下さい、召して下さいよ。御当地は薬が名物、津々浦々までも効能が行渡るんでございますがね、こればかりは看板を掛けちゃ売らないのですよ。一家秘法の銀流《ぎんながし》、はい、やい、お立合のお方は御遠慮なく、お持合せ[#「お持合せ」は底本では「お待合せ」]のお煙管なり、お簪《かんざし》なり、これへ出してお験《ため》しなさいまし、目の前で銀にしてお慰《なぐさみ》に見せましょう、御遠慮には及びません。」  といってちょいと句切り、煙管を手にして、莨《たばこ》を捻《ひね》りながら、動静を伺って、 「さあさあ、誰方《どなた》でもどうでござんす。」  若い同士耳打をするのがあり、尻を突《つつ》いて促すのがあり、中には耳を引張《ひっぱ》るのがある。止せ、と退《しさ》る、遣着《やッつ》けろ、と出る、ざまあ見ろ、と笑うやら、痛え、といって身悶《みもだ》えするやら、一斉に皆うようよ。有触れた銀流し、汚い親仁《おやじ》なら何事もあるまい、いずれ器量が操る木偶《でく》であろう。 「姉《ねえ》や。」  この時、人の背後《うしろ》から呼んだ、しかしこれは、前に黄な声を発して雀海中に入《い》ってを云々《うんぬん》したごとき厭味《いやみ》なものではない。清《すず》しい活溌なものであった。  婦人《おんな》は屹《きっ》と其方《そなた》を見る、トまた悪怯《わるび》れず呼懸けて、 「姉や、姉や。」 「何でございますか、は、私《わたくし》、」 「指環でも出来るかい。」 「ええ、出来ますとも、何でもお出しなさいましよ。」 「そう、」と極めてその意を得たという調子で、いそいそずッと出て、店前《みせさき》の地《つち》へ伝法に屈《かが》んだのは、滝太郎である。遊好《あそびずき》の若様は時間に関らず、横町で糸を切って、勇美子の頭飾《かみかざり》をどうして取ったか、人知れず掌《たなそこ》に弄《もてあそ》んだ上に、またここへ来てその姿を顕《あらわ》した。  滝太郎は、さすがに玉のような美しい手を握って、猶予《ためら》わず、売物の銀流の粉《こ》の包、お験しの真鍮板、水入、絹の切などを並べた女の膝の前に真直《まっすぐ》に出した。指環のきらりとするのを差向けて、 「こいつを一つ遣《や》ってくんねえな。」  立合の手合はもとより、世擦れて、人馴れて、この榎の下を物ともせぬ、弁舌の爽《さわやか》な、見るから下っ腹に毛のない姉御《あねご》も驚いて目を睜《みは》った。その容貌《ようぼう》、その風采《ふうさい》、指環は紛うべくもない純金であるのに、銀流しを懸けろと言うから。 「これですかい。」 「ちょいと遣っておくんな。」 「結構じゃありませんかね。」 「お銭《あし》がなくっちゃあ不可《いけ》ねえか、ここにゃ持っていねえんだが、可《よ》かったらつけてくんねえ。後で持たして寄越《よこ》すぜ。」  と真顔でいう、言葉つき、顔形、目の中《うち》をじっと見ながら、 「そんな吝《けち》じゃアありませんや。お望《のぞみ》なら、どれ、附けて上げましょう。」と婦人《おんな》は切の端に銀流を塗《まぶ》して、滝太郎の手を密《そっ》と取った。 「ようよう、」とまた後《うしろ》の方で、雀海中に入った時のごとき、奇なる音声を発する者あり。        十二 「可《い》いぜ、可いぜ、沢山だ、」と滝太郎はやや有って手を引こうとする、ト指の尖《さき》を握ったのを放さないで、銀流の切《きれ》を摺着《すりつ》けながら、 「よくして上げましょう、もう少しですから。」 「沢山だよ。」 「いいえ、これだけじゃあ綺麗にはなりません。」と婦人《おんな》は急に止《や》めそうにもない。 「さあ、大変。」 「お静《しずか》に、お静に。」 「構わず、ぐっと握るべしさ、」 「しっかり頼むぜ。」  などと立合はわやわやいうのを、澄《すま》したもので、 「口切《くちきり》の商《あきない》でございます、本磨《ほんみがき》にして、成程これならばという処を見せましょう、これから艶布巾《つやぶきん》をかけて、仕上げますから。」 「止せ。」  滝太郎の声はやや激して、振放そうとして力を入れる。押えて動かさず、 「ま、もうちっと辛抱をなさいましな、これから裏の方を磨きましょうね。」  婦人《おんな》はこういいつつ、ちらちらと目をつけて、指環の形、顔、服装《みなり》、天窓《あたま》から爪先《つまさき》まで、屹《きっ》と見てはさりげなく装うのを、滝太郎は独り見て取って、何か憚《はばか》る処あるらしく、一度は一度、婦人《おんな》が黒い目で睨《にら》む数の重《かさな》るに従うて、次第に暗々|裡《り》に己《おのれ》を襲うものが来《きた》り、近《ちかづ》いて迫るように覚えて、今はほとんど耐難《たえがた》くなったと見え、知らず知らず左の手が、片手その婦人《おんな》に持たれた腕に懸《かか》って、力を添えて放そうとする。肩は聳《そび》え、顔には薄く血を染めて、滝太郎は眉を顰《ひそ》めた。 「可いッてんだい。」 「お待ち!」とばかりで婦人《おんな》も商売を忘れて、別に心あって存するごとく、瞳を据えて面《おもて》を合せた。  ちょうどその時、四五十歩を隔てた、夜店の賑かな中を、背後《うしろ》の方で、一声高く、馬の嘶《いなな》くのが、往来の跫音《あしおと》を圧して近々と響いた。  と思うと、滝太郎は、うむ、といって、振向いたが、吃驚《びっくり》したように、 「義作だ、おう、ここに居るぜ。」 「ちょいと、」 「ええ、」 「あれ、」といって振返された手を押えた。指の間には紅《くれない》一滴、見る見る長くなって、手首へ掛けて糸を引いて血が流れた。 「姉《ねえ》さん、」 「どうなすった。」  押魂消《おッたまげ》た立合は、もう他人ではなくなって、驚いて声を懸ける。滝太郎はもう影も見えない。  婦人《おんな》は顔の色も変えないで、切《きれ》で、血を押えながら、姉《ねえ》さん被《かぶり》のまま真仰向《まあおの》けに榎を仰いだ。晴れた空も梢《こずえ》のあたりは尋常《ただ》ならず、木精《こだま》の気勢《けはい》暗々として中空を籠《こ》めて、星の色も物凄《ものすご》い。 「おや、おや、おかしいねえ、変だよ、奇体なことがあるものだよ。露か知らん、上の枝から雫《しずく》が落ちたそうで、指が冷《ひや》りとしたと思ったら、まあ。」 「へい、引掻《ひっか》いたんじゃありませんか。」 「今のが切ったんじゃないんですかい。」 「指環で切れるものかね、御常談を、引掻いたって、血が流れるものですか。」 「さればさ。」 「厭《いや》だ、私は、」と薄気味の悪そうな、悄《しょ》げた様子で、婦人《おんな》は人の目に立つばかり身顫《みぶるい》をして黙った。榎の下|寂《せき》として声なし、いずれも顔を見合せたのである。        十三 「何だね、これは。」 「叱《しっ》、」と押えながら、島野紳士のセル地の洋服の肱《ひじ》を取って、――奥を明け広げた夏座敷の灯が漏れて、軒端《のきば》には何の虫か一個《ひとつ》唸《うなり》を立ててはたと打着《ぶつ》かってはまた羽音を響かす、蚊が居ないという裏町、俗にお園小路と称《とな》える、遊廓桜木町の居まわりに在り、夜更けて門涼《かどすずみ》の団扇が招くと、黒板塀の陰から頬被《ほおかぶり》のぬっと出ようという凄《すご》い寸法の処柄、宵の口はかえって寂寞《ひっそり》している。――一軒の格子戸を背後《うしろ》へ退《すさ》った。  これは雀部《ささべ》多磨太といって、警部長なにがし氏の令息で、島野とは心合《こころあい》の朋友である。  箱を差したように両人気はしっくり合ってるけれども、その為人《ひととなり》は大いに違って、島野は、すべて、コスメチック、香水、巻莨《シガレット》、洋杖《ステッキ》、護謨靴《ゴムぐつ》という才子肌。多磨太は白薩摩《しろさつま》のやや汚れたるを裾短《すそみじか》に着て、紺染の兵児帯《へこおび》を前下りの堅結《かたむすび》、両方|腕捲《うでまくり》をした上に、裳《もすそ》を撮上《つまみあ》げた豪傑造り。五分刈にして芋のようにころころと肥えた様子は、西郷の銅像に肖《に》て、そして形《なり》の低い、年紀《とし》は二十三。まだ尋常中学を卒業しないが、試験なんぞをあえて意とするような吝《けち》なのではない。  島野を引張《ひっぱ》り着けて、自分もその意気な格子戸を後《うしろ》に五六歩。 「見たか。」  島野は瘠《やせ》ぎすで体も細く、釣棹《つりざお》という姿で洋杖《ステッキ》を振った。 「見た、何さ、ありゃ。門札の傍《わき》へ、白で丸い輪を書いたのは。」 「井戸でない。」 「へえ。」 「飲用水の印ではない、何じゃ、あれじゃ。その、色事の看板目印というやつじゃ。まだ方々にあるわい。試みに四五軒見しょう、一所に来う、歩きながら話そうで。まずの、」  才子と豪傑は、鼠のセル地と白薩摩で小路の黄昏《たそがれ》の色に交《まじ》り、くっ着いて、並んで歩く。  ここに注意すべきは多磨太が穿物《はきもの》である。いかに辺幅を修せずといって、いやしくも警部長の令息で、知事の君の縁者、勇美子には再従兄《またいとこ》に当る、紳士島野氏の道伴《みちづれ》で、護謨靴と歩を揃えながら、何たる事! 藁草履《わらぞうり》の擦切れたので、埃《ほこり》をはたはた。  歩きながら袂を探って、手帳と、袂草《たもとくそ》と一所くたに掴《つか》み出した。 「これ見い、」  紳士は軽く目を注いで、 「白墨かい。」 「はははは、白墨じゃが、何と、」 「それで、」と言懸けて、衣兜《かくし》に堆《うずだか》く、挟んでおく、手巾《ハンケチ》の白いので口の辺《あたり》をちょいと拭《ふ》いた。 「うむ、おりゃ、近頃博愛主義になってな、同好の士には皆《みんな》見せてやる事にした。あえてこの慰《なぐさみ》を独擅《どくせん》にせんのじゃで、到《いた》る処俺が例の観察をして突留めた奴の家《うち》には、必ず、門札の下へ、これで、ちょいとな。」 「ふん、はてね。」 「貴様今見たか、あれじゃ、あの形じゃ。目立たぬように丸い輪を付けておくことにしたんじゃ。」 「御趣向だね。」 「どうだ、今の家《うち》には限らずな、どこでも可《よ》いぞ、あの印の付いた家を随時|窺《うかが》って見い。殊に夜な、きっと男と女とで、何かしら、演劇《しばい》にするようなことを遣っとるわ。」        十四  多磨太は言懸けて北叟笑《ほくそえ》み、 「貴様も覚えておいてちと慰みに覗《のぞ》いて見い。犬川でぶらぶら散歩して歩いても何の興味もないで、私《わし》があの印を付けておく内は不残《のこらず》趣味があるわい。姦通かな、親々の目を盗んで密会するかな、さもなけりゃ生命《いのち》がけで惚《ほ》れたとか、惚れられたとかいう奴等、そして男の方は私等《わしら》構わんが、女どもはいずれも国色じゃで、先生|難有《ありがた》いじゃろ。」  ぎろりとした眼で島野を見ると、紳士は苦笑して、 「変ったお慰《なぐさみ》だね、よくそして見付けますなあ。」 「ははあ、なんぞ必ずしも多く労するを用いん。国民皆|堕落《だらく》、優柔|淫奔《いんぽん》になっとるから、夜分なあ、暗い中へ足を突込《つッこ》んで見い。あっちからも、こっちからも、ばさばさと遁出《にげだ》すわ、二疋ずつの、まるでもって螇蚸《ばった》蟷螂《かまきり》が草の中から飛ぶようじゃ。其奴《そいつ》の、目星い処を選取《えりと》って、縦横に跡を跟《つ》けるわい。ここぞという極めが着いた処で、印を付けておくんじゃ。私《わし》も初手の内は二軒三軒と心覚えにしておいたが、蛇《じゃ》の道は蛇《へび》じゃ、段々その術に長ずるに従うて、蔓《つる》を手繰るように、そら、ぞろぞろ見付かるで。ああ遣って印をして、それを目的《めあて》にまた、同好の士な、手下どもを遣わす、巡査、探偵などという奴が、その喜ぶこと一通《ひととおり》でないぞ。中には夜行をするのに、あの印ばかり狙《ねら》いおる奴がある。ぐッすり寐込《ねこ》んででもいようもんなら、盗賊《どろぼう》が遁込《にげこ》んだようじゃから、なぞというて、叩き起して周章《あわ》てさせる。」 「酷《ひど》いことを!」  島野は今更のように多磨太の豪傑|面《づら》を瞻《みまも》った。 「何《な》に其等《そいら》はほんの前芸じゃわい。一体何じゃぞ、手下どもにも言って聞かせるが、野郎と女と両方夢中になっとる時は常識を欠いて社会の事を顧みぬじゃから、脱落《ぬかり》があってな、知らず知らず罪を犯しおるじゃ。私《わし》はな、ただ秘密ということばかりでも一種立派な罪悪と断ずるで、勿論市役所へ届けた夫婦には関係せぬ。人の目を忍ぶほどの中の奴なら、何か後暗いことをしおるに相違ないでの。仔細《しさい》に観察すると、こいつ禁錮《きんこ》するほどのことはのうても、説諭位はして差支えないことを遣っとるから、掴《つか》み出して警察で発《あば》かすわい。」 「大変だね。」 「発くとの、それ親に知れるか、亭主に知れるか、近所へ聞える。何でも花火を焚《た》くようなもので、その途端に光輝天に燦爛《さんらん》するじゃ。すでにこないだも東の紙屋の若い奴が、桜木町である女と出来合って、意気事を極《き》めるちゅうから、癪《しゃく》に障ってな、いろいろ験《しら》べたが何事もないで、為方《しかた》がない、内に居る母親《おふくろ》が寺|参《まいり》をするのに木綿を着せて、汝《うぬ》が傾城買《じょろうかい》をするのに絹を纏《まと》うのは何たることじゃ、という廉《かど》をもって、説諭をくらわした。」 「それで何かね、警察へ呼出しかね。」 「ははあ、幾ら俺が手下を廻すとって、まさかそれほどの事では交番へも引張《ひっぱ》り出せないで、一名制服を着けて、洋刀《サアベル》を佩《お》びた奴を従えて店前《みせさき》へ喚《わめ》き込んだ。」 「おやおや、」 「何、喧嘩をするようにして言って聞かせても、母親《おふくろ》は昔|気質《かたぎ》で、有るものを着んのじゃッて。そんなことを構うもんか、こっちはそのせいで藁草履《わらぞうり》を穿《は》いて歩いてる位じゃもの。」  さなり、多磨太君の藁草履は、人の跡を跟《つ》けるのに跫音《あしおと》を立てぬ用意である。        十五 「それからの、山田下の植木屋の娘がある、美人じゃ。貴様知ってるだろう、あれがな、次助というて、近所の鋳物師の忰《せがれ》と出来た。先月の末、闇《やみ》の晩でな、例のごとく密行したが、かねて目印の付いてる部じゃで、密《そっ》と裏口へ廻ると、木戸が開いていたから、庭へ入った。」 「構わず?」 「なに咎《とが》めりゃ私《わし》が名乗って聞かせる、雀部といえば一縮《ひとちぢみ》じゃ。貴様もジャムを連れて堂々|濶歩《かっぽ》するではないか、親の光は七光じゃよ。こうやって二人並んで歩けばみんな途《みち》を除《よ》けるわい。」  島野は微笑して黙って頷《うなず》いた。 「はははは、愉快じゃな。勿論、淫魔《いんま》を駆って風紀を振粛し、且つ国民の遊惰《ゆうだ》を喝破する事業じゃから、父爺《おやじ》も黙諾の形じゃで、手下は自在に動くよ。既にその時もあれじゃ、植木屋の庭へこの藁草履を入れて掻廻《かきま》わすと、果せるかな、螇蚸《ばった》、蟷螂《かまきり》。」 「まさか、」 「うむ、植木屋の娘と其奴《そいつ》と、貴様、植込の暗い中に何か知らん歎いておるわい。地面の上で密会なんざ、立山と神通川とあって存する富山の体面を汚《けが》すじゃから、引摺出《ひきずりだ》した。」 「南無三宝《なむさんぽう》、はははは。」 「挙動が奇怪じゃ、胡乱《うろん》な奴等、来い! と言うてな、角の交番へ引張《ひっぱ》って行って、吐《ぬか》せと、二ツ三ツ横面《よこッつら》をくらわしてから、親どもを呼出して引渡した。ははは、元来東洋の形勢日に非なるの時に当って、植込の下で密会するなんざ、不埒《ふらち》至極じゃからな。」 「罪なこッたね、悪い悪戯《いたずら》だ、」と言懸けて島野は前後を見て、杖《ステッキ》を突いた、辻の角で歩を停《とど》めたので。 「どこへ行《ゆ》こうかね。」  榎の梢《こずえ》は人の家の物干の上に、ここからも仰いで見らるる。 「総曲輪へ出て素見《ひやか》そうか。まあ来いあそこの小間物屋の女房にも、ちょいと印が付いておるじゃ。」 「行き届いたもんですな。」 「まだまだこれからじゃわい。」 「さよう、君のは夜が更けてからがおかしいだろうが、私は、その晩《おそ》くなると家《うち》が妙でないから失敬しよう。」 「ははあ、どこぞ行くんかい。」 「ちょいと。」 「そんなら行《ゆ》け。だが島野、」と言いながら紳士の顔を、皮の下まで見透かすごとくじろりと見遣って、多磨太はにやり。  擽《くすぐ》られるのを耐《こら》えるごとく、極めて真面目《まじめ》で、 「何かね、」 「注意せい、貴様の体にも印が着いたぞ。」 「え!」と吃驚《びっくり》して慌てて見ると、上衣《うわぎ》の裾に白墨で丸いもの。 「どうじゃ。」 「失敬な、」とばかり苦い顔をして、また手巾《ハンケチ》を引出した。島野はそそくさと払い落して、 「止したまえ。」 「ははは、構わん、遣れ。あの花売は未曾有《みぞう》の尤物《ゆうぶつ》じゃ、また貴様が不可《いけ》なければ私《わし》が占めよう。」 「大分、御意見とは違いますように存じますが。」 「英雄色を好むさ。」と傲然《ごうぜん》として言った。二人が気の合うのはすなわちここで、藁草履と猟犬と用いる手段は異なるけれども、その目的は等《ひとし》いのである。  島野は気遣わしそうに見えて、 「まさか、君、花売が処へは、用いまいね、何を、その白墨を。」 「可いわい、一ツぐらい貴様に譲ろう。油断をするな、那奴《あいつ》また白墨|一抹《いちまつ》に価するんじゃから。」        十六 「貴方《あなた》御存じでございますか。」 「ああ、今のその話の花か。知ってはいない、見たことはないけれどもあるそうだ。いや、有るに違いはないんだよ。」  萱《かや》の軒端《のきば》に鳥の声、という侘《わび》しいのであるが、お雪が、朝、晩、花売に市へ行く、出際と、帰ってからと、二度ずつ襷懸《たすきが》けで拭込《ふきこ》むので、朽目《くちめ》に埃《ほこり》も溜《たま》らず、冷々《ひやひや》と濡色を見せて涼しげな縁に端居《はしい》して、柱に背《せな》を持たしたのは若山|拓《ひらく》、煩《わずらい》のある双の目を塞《ふさ》いだまま。  生《うまれ》は東京で、氏素性は明かでない。父も母も誰も知らず、諸国漫遊の途次、一昨年の秋、この富山に来て、旅籠町の青柳《あおやぎ》という旅店に一泊した。その夜《よ》賊のためにのこらず金子《きんす》を奪われて、明《あく》る日の宿料もない始末。七日十日|逗留《とうりゅう》して故郷へ手紙を出した処で、仔細《しさい》あって送金の見込はないので、進退|谷《きわ》まったのを、宜《よろ》しゅうがすというような気前の好《い》い商人《あきんど》はここにはない。ただし地方裁判所の検事に朝野なにがしというのが、その為人《ひととなり》に見る所があって、世話をして、足を留《とど》めさせたということを、かつて教《おしえ》を受けた学生は皆知っている。若山は、昔なら浪人の手習師匠、由緒ある士《さむらい》がしばし世を忍ぶ生計《たつき》によくある私塾を開いた。温厚|篤実《とくじつ》、今の世には珍らしい人物で、且つ博学で、恐らく大学に業を修したのであろうと、中学校の生意気なのが渡りものと侮って冷かしに行って舌を巻いたことさえあるから、教子《おしえご》も多く、皆敬い、懐《なず》いていたが、日も経《た》たず目を煩って久しく癒《い》えないので、英書を閲《けみ》し、数字を書くことが出来なくなったので、弟子は皆断った。直ちに収入がなくなったのである。  先生|葎《むぐら》ではございますが、庭も少々、裏が山|続《つづき》で風も佳《よし》、市《まち》にも隔って気楽でもございますから御保養かたがたと、たって勧めてくれたのが、同じ教子の内に頭角を抜いて、代稽古《だいげいこ》も勤まった力松という、すなわちお雪の兄で、傍ら家計を支えながら学問をしていたが、適齢に合格して金沢の兵営に入ったのは去年の十月。  後はこの侘住居《わびすまい》に、拓と阿《お》雪との二人のみ。拓は見るがごとく目を煩って、何をする便《たより》もないので、うら若い身で病人を達引《たてひ》いて、兄の留守を支えている。お雪は相馬氏の孤児《みなしご》で、父はかつて地方裁判所に、明決、快断の誉《ほまれ》ある名士であったが、かつて死刑を宣告した罪囚の女《むすめ》を、心着かず入れて妾《しょう》として、それがために暗殺された。この住居《すまい》は父が静を養うために古屋《こおく》を購《あがな》った別業の荒れたのである。近所に、癩病《かったい》医者だと人はいうが、漢方医のある、その隣家《となり》の荒物屋で駄菓子、油、蚊遣香《かやりこう》までも商っている婆さんが来て、瓦鉢《かわらばち》の欠けた中へ、杉の枯葉を突込《つっこ》んで燻《いぶ》しながら、庭先に屈《かが》んでいるが、これはまたお雪というと、孫も子も一所にして、乳で育てたもののように可愛《かわゆ》くてならないので。  一体、ここは旧《もと》山の裾の温泉宿《ゆやど》の一廓であった、今も湯の谷という名が残っている。元治年間立山に山|崩《くずれ》があって洪水《でみず》の時からはたと湧《わ》かなくなった。温泉《いでゆ》の口は、お雪が花を貯えておく庭の奥の藪畳《やぶだたみ》の蔭にある洞穴《ほらあな》であることまで、忘れぬ夢のように覚えている、谷の主とも謂《い》いつべき居てつきの媼《おうな》、いつもその昔の繁華を語って落涙する。今はただ蚊が名物で、湯の谷といえば、市《まち》の者は蚊だと思う。木屑《きくず》などを焼《た》いた位で追着《おッつ》かぬと、売物の蚊遣香は買わさないで、杉葉《すぎッぱ》を掻《か》いてくれる深切さ。縁側に両人《ふたり》並んだのを見て嬉しそうに、 「へい、旦那様知ってるだね。」        十七 「百合には種類が沢山あるそうだよ。」  ささめ、為朝《ためとも》、博多《はかた》、鬼百合、姫百合は歌俳諧にも詠《よ》んで、誰も知ったる花。ほしなし、すけ、てんもく、たけしま、きひめ、という珍らしい名なるがあり。染色《そめいろ》は、紅《くれない》、黄、透《すかし》、絞《しぼり》、白百合は潔く、袂《たもと》、鹿《か》の子は愛々しい。薩摩《さつま》、琉球《りゅうきゅう》、朝鮮、吉野、花の名の八重百合というのもある。と若山は数えて、また紅絹《もみ》の切《きれ》で美しく目を圧《おさ》え、媼《おうな》を見、お雪を見て、楽しげに、且つ語るよう、 「話の様子では西洋で学問をなすったそうだし、植物のことにそういう趣味を持ってるなら、私よりは、お前のお花主《とくい》の、知事の嬢さんが、よく知ってお在《いで》だろうが、黒百合というのもやっぱりその百合の中の一ツで、花が黒いというけれども、私が聞いたのでは、真黒《まっくろ》な花というものはないそうさ。」 「はい、」しばらくして、「はい、」媼は返事ばかりでは気が済まぬか、団扇持つ手と顔とを動かして、笑傾《えみかたむ》けては打頷《うちうなず》く。 「それでは、あの本当はないのでございますか。」とお雪は拓の座を避けて、斜《ななめ》に縁側に掛けている。 「いえ、無いというのじゃあないよ。黒い色のはあるまいと思うけれども、その黒百合というのは帯紫暗緑色で、そうさ、ごくごく濃い紫に緑が交《まじ》った、まあ黒いといっても可いのだろう。花は夏咲く、丈一尺ばかり、梢《こずえ》の処へ莟《つぼみ》を持つのは他《ほか》の百合も違いはない。花弁《はなびら》は六つだ、蕊《しべ》も六つあって、黄色い粉の袋が附着《くッつ》いてる。私が聞いたのはそれだけなんだ。西洋の書物には無いそうで、日本にも珍らしかろう。書いたものには、ただ北国《ほっこく》の高山で、人跡の到らない処に在るというんだから、昔はまあ、仙人か神様ばかり眺めるものだと思った位だろうよ。東京理科大学の標本室には、加賀の白山《はくさん》で取ったのと、信州の駒《こま》ヶ嶽《たけ》と御嶽《おんたけ》と、もう一色《ひといろ》、北海道の札幌で見出《みだ》したのと、四通り黒百合があるそうだが、私はまだ見たことはなかった。  お雪さん、そしてその花を欲しいというお嬢さんは、どういう考えで居るんだね。」 「はい、あのこないだからいつでもお頼みなさいますんでございますが、そういう風に御存じのではないのですよ。やっぱり私達が、名を聞いております通《とおり》、芝居でいたします早百合《さゆり》姫のことで、富山には黒百合があるッていうから、欲しい、どんな珍らしい花かも知れぬ。そして仏蘭西《フランス》にいらしった時、大層御懇意に遊ばした、その方もああいうことに凝っていらっしゃるお友達に、由緒を書いて贈りたいといってお騒ぎなんでございます。お請合《うけあい》はしませんけれども、黒百合のある処は解っておりますからとそう言って参りましたが、太閤記に書いてあります草双紙のお話のような、それより外|当地《ここ》でもまだ誰も見たものはないのでございますから、どうかしら、怪しいと存じました。それでは、あの、貴方《あなた》、処に因って、在る処には、きっと有るのでございますね。」  とお雪は膝に手を置いて、ものを思うごとく、じっと気を沈めて、念を入れて尋ねたのである。その時、白地の浴衣を着た、髪もやや乱れていたお雪の窶《やつ》れた姿は、蚊遣の中に悄然《しょうぜん》として見えたが、面《おもて》には一種不可言の勇気と喜《よろこび》の色が微《かすか》に動いた。 「おお、燻《くすぶ》る燻る、これは耐《たま》りませぬ、お目の悪いに。」  一団の烟《けぶり》が急に渦《うづま》いて出るのを、掴《つか》んで投げんと欲するごとく、婆さんは手を掉《ふ》った。風があたって、※[#「火+發」、262-14]《ぱっ》とする下火の影に、その髪は白く、顔は赤い。黄昏《たそがれ》の色は一面に裏山を籠《こ》めて庭に懸《かか》れり。  若山は半面に団扇を翳《かざ》して、 「当地《こちら》で黒百合のあるのはどこだとか言ったっけな。」        十八 「ねえ、お婆さん。」  お雪は、黒百合が富山にある、場所の答を、婆さんに譲って、其方《そなた》を見た。  湯の谷の主は習わずして自《おのず》から這般《しゃはん》の問に応ずべき、経験と知識とを有しているので、 「はい、石滝《いわたき》の奥には咲くそうでござります。」  若山は静かに目を眠ったまま、 「どんな処ですか。」 「蛍の名所なのね。」とお雪は引取る。 「ええ、その入口迄は女子供も参りまする、夏の遊山場でな、お前様。お茶屋も懸《かか》っておりまするで、素麺《そうめん》、白玉、心太《ところてん》など冷物《ひやしもの》もござりますが、一坂越えると、滝がござります。そこまでも夜分参るものは少い位で、その奥山と申しますと、今身を投げようとするものでも恐がって入りませぬ。その中でなければ無いと申しますもの、とても見られますものではござりますまい。」婆さんは言って、蚊遣を煽《あお》ぐ団扇の手を留めて、その柄を踞《つくば》った膝の上にする。 「それでは滝があって蛍の名所、石滝という処は湿地だと見えるね。」 「それはもう昼も夜も真暗《まっくら》でござります。いかいこと樹が茂って、満月の時も光が射《さ》すのじゃござりませぬ。  一体いつでも小雨が降っておりますような、この上もない陰気な所で、お城の真北《まッきた》に当りますそうな。ちょうどこの湯の谷とは両方の端で、こっちは南、田※[#「なべぶた/(田+久)」、264-5]《たんぼ》も広々としていつも明《あかる》うござりますほど、石滝は陰気じゃで、そのせいでもござりましょうか、評判の魔所で、お前様、ついしか入ったものの無事に帰りました例《ためし》はござりませぬよ。」 「その奥に黒百合があるんですッて、」お雪は婆さんの言《ことば》を取って、確めてこれを男に告げた。  若山はややあって、 「そりゃきっとあるな、その色といい、形といい、それからその昔からの言い伝《つたえ》で、何か黒百合といえば因縁事の絡《まつ》わった、美しい、黒い、艶《つや》を持った、紫色の、物凄《ものすご》い、堅い花のように思われるのに、石滝という処は、今の談《はなし》では、場処も、様子もその花があって差支えないと考える。もっとも有ることはあるのだから、大方黒百合が咲いてるだろう。夏月《かげつ》花ありという時節もちょうど今なんだけれども、何かね、本当にあるものなら、お前さん、その嬢さんに頼まれたから、取りにでも行《ゆ》こうというのか。」と落着いて尋ねて、渠《かれ》は気遣わしく傾いた。 「…………」お雪はふとその答に支《つか》えたが、婆さんはかえって猶予《ためら》わない。 「滅相な、お前様、この湯の谷の神様が使わっしゃる、白い烏が守ればといって、若い女が、どうして滝まで行《ゆ》かれますものか。取りにでも行く気かなぞと、問わっしゃるさえ気が知れませぬてや。ぷッ、」と、おどけたような顔をして婆《ばば》は消えかかった蚊遣を吹いた。杉葉の瓦鉢《かわらばち》の底に赤く残って、烟《けぶり》も立たず燃え尽しぬ。 「お婆さん、御深切に難有《ありがと》う。」  とうっかり物|思《おもい》に沈んでいたお雪は、心着いて礼をいう。 「あいあい、何の。もう、お大事になされませ、今にまたあの犬を連れた可厭《いやら》しいお客がござって迷惑なら、私家《わしとこ》へ来て、屈《かが》んで居ッさい。どれ、店を開けておいて、いかいこと油を売ったぞ、いや、どッこいな。」と立つ。        十九  帰りたくなると委細は構わず、庭口から、とぼとぼと戸外《おもて》へ出て行《ゆ》く。荒物屋の婆《ばばあ》はこの時分から忙《せわ》しい商売がある、隣の医者が家《うち》ばかり昔の温泉宿《ゆやど》の名残《なごり》を留《とど》めて、徒《いたず》らに大構《おおがまえ》の癖に、昼も夜も寂莫《せきばく》として物音も聞えず、その細君が図抜けて美しいといって、滅多に外へ出たこともないが、向うも、隣も、筋向いも、いずれ浅間で、豆洋燈《まめランプ》の灯が一ツあれば、襖《ふすま》も、壁も、飯櫃《めしびつ》の底まで、戸外《おもて》から一目に見透かされる。花売の娘も同じこと、いずれも夜が明けると富山の町へ稼ぎに出る、下駄の歯入、氷売、団扇売、土方、日傭取《ひやとい》などが、一廓を作《な》した貧乏町。思い思い、町々八方へ散《ちら》ばってるのが、日暮になれば総曲輪から一筋道を、順繰に帰って来るので、それから一時《ひとしきり》騒がしい。水を汲《く》む、胡瓜《きゅうり》を刻む。俎板《まないた》とんとん庖丁チョキチョキ、出放題な、生欠伸《なまあくび》をして大歎息を発する。翌日《あくるひ》の天気の噂をする、お題目を唱える、小児《こども》を叱る、わッという。戸外《おもて》では幼い声で、――蛍来い、山見て来い、行燈《あんど》の光をちょいと見て来い! 「これこれ暗くなった。天狗様が攫《さら》わっしゃるに寝っしゃい。」と帰途《かえり》がけに門口《かどぐち》で小児を威《おど》しながら、婆さんは留守にした己《おのれ》の店の、草鞋《わらじ》の下を潜《くぐ》って入った。  草履を土間に脱いで、一渡《ひとわたり》店の売物に目を配ると、真中《まんなか》に釣《つる》した古いブリキの笠の洋燈《ランプ》は暗いが、駄菓子にも飴《あめ》にも、鼠は着かなかった、がたりという音もなし、納戸の暗がりは細流のような蚊の声で、耳の底に響くばかりなり。 「可恐《おそろ》しい唸《うなり》じゃな。」と呟《つぶや》いて、一|間口《けんぐち》の隔《へだて》の障子の中へ、腰を曲げて天窓《あたま》から入ると、 「おう、帰ったのか。」 「おや。」 「酷《ひど》い蚊だなあ。」 「まあ、お前様《めえさま》。まあ、こんな中に先刻《さっき》にからござらせえたか。」 「今しがた。」 「暗いから、はや、なお耐《たま》りましねえ。いかなこッても、勝手が分らねえけりゃ、店の洋燈でも引外《ひっぱず》してござれば可《よ》いに。」  深切を叱言《こごと》のごとくぶつぶつ言って、納戸の隅の方をかさかさごそりごそりと遣る。 「可《い》いから、可いから。」といって、しばらくすると膝を立直した気勢《けはい》がした。 「近所の静まるまで、もうちっと灯《あかし》を点《つ》けないでおけよ。」 「へい。」 「覗《のぞ》くと煩《うるさ》いや。」 「それでは蚊帳を釣って進ぜましょ。」 「何、おいら、直ぐ出掛けようかとも思ってるんだ。」 「可いようにさっしゃりませ。」 「ああ、それから待ちねえこうだと、今に一人|此家《ここ》へ尋ねて来るものがあるんだから、頼むぜ。」 「お友達かね。お前様は物事《ものずき》じゃで可《よ》いけれど、お前様のような方のお附合なさる人は、から、入ってしばらくでも居られます所じゃあござりませぬが。」  言いも終らず、快活に、 「気扱いがいる奴じゃねえ、汚《きたね》え婦人《おんな》よ。」 「おや!」と頓興《とんきょ》にいった、婆《ばば》の声の下にくすくすと笑うのが聞える。 「婆ちゃん、おくんな。」と店先で小児《こども》の声、繰返して、 「おくんな。」 「おい。」 「静《しずか》に………」といって、暗中の客は寝転んだ様子である。        二十  婆《ばば》が帰った後《あと》、縁側に身を開いて、一人は柱に凭《よ》って仰向《あおむ》き、一人は膝に手を置いて俯向《うつむ》いて、涼しい暗い処に、白地の浴衣で居た、お雪は、突然驚いたようにいった。 「あれ星が飛びましたよ。」  湯の谷もここは山の方へ尽《はずれ》の家で、奥庭が深いから、傍《はた》の騒しいのにもかかわらず、森《しん》とした藪蔭《やぶかげ》に、細い、青い光物が見えたので。 「ああ、これから先はよくあるが、淋しいもんだよ。」  と力なげに団扇持った手を下げて、 「今も婆さんが深切に言ってくれたが、お雪さん、人が悪いという処へ推して行《ゆ》くのは不可《いけ》ない。何も、妖物《ばけもの》が出るの、魔が掴《つか》むのということは、目の前にあるとも思わないが、昔からまるで手も足も入《い》れない処じゃあ、人の知らない毒虫が居て刺そうも知れず、地《つち》の工合《ぐあい》で蹈《ふ》むと崩れるようなことがないとも限らないから。」 「はい、」 「行《ゆ》く気じゃあるまいね。」とやや力を籠《こ》めて確めた。 「はい、」と言懸けて、お雪は心に済まない様子で後を言い残して黙ったが、慌《あわただ》しく、 「蛍です。」  衝《つ》と立った庭の空を、つらつらと青い糸を引いて、二筋に見えて、一つ飛んだ。 「まあ、珍らしい、石滝から参りました。」  この辺《あたり》に蛍は珍らしいものであった、一つ一《びと》つ市中へ出て来るのは皆石滝から迷うて来るのだといい習わす。人に狩り取られて、親がないか、夫がないか、孤《みなしご》、孀婦《やもめ》、あわれなのが、そことも分かず彷徨《さまよ》って来たのであろう。人|可懐《なつかし》げにも見えて近々と寄って来る。お雪は細い音《ね》に立てて唇を吸って招きながら、つかつかと出て袂《たもと》を振った、横ぎる光の蛍の火に、細い姿は園生《そのう》にちらちら、髪も見えた、仄《ほのか》に雪なす顔を向けて、 「団扇を下さいなちょいと、あれ、」と打つ。蛍は逸《そ》れて、若山が上の廂《ひさし》に生えた一八《いちはつ》の中に軽《かろ》く留まった。 「さあ、団扇、それ、ははは……大きな女の嬰児《あか》さんだな。」と立ちも上らず坐ったまま、縁側から柄ばかり庭の中へ差向けたが、交際《つきあい》にも蛍かといって発奮《はず》みはせず、動悸《どうき》のするまで立廻って、手を辷《すべ》らした、蛍は、かえってその頭の上を飛ぶものを、振仰いで見ようともせぬ、男の冷《ひやや》かさ。見当違いに団扇を出して、大きな嬰児《あかんぼ》だといって笑ったが、声も何となくもの淋しい。お雪は草の中にすッくと立って、じっと男の方を視《なが》めたが、爪先《つまさき》を軽く、するすると縁側に引返《ひっかえ》して、ものありげに――こうつんとした事は今までにはなかったが――黙って柄の方から団扇を受取り、手を返して、爪立《つまだ》って、廂を払うと、ふッと消えた、光は飜《ひるがえ》した団扇の絵の、滝の上を這《ほ》うてその流《ながれ》も動く風情。  お雪は瞻《みまも》って、吻《ほっ》と息を吐《つ》いて、また腰を懸けて、黙って見ていた、目を上げて、そと男の顔を透かしながら、腰を捻《ね》じて、斜《ななめ》に身を寄せて、件《くだん》の団扇を、触らぬように、男の胸の辺りへ出して、 「可愛いでしょう、」といった声も尋常《ただ》ならず。 「何か、石滝の蛍か、そうか。」といって若山は何ともなしに微笑《ほほえ》んだが、顔は園生の方を向いて、あらぬ処を見た。涼しい目はぱッちりと開いていたので、蛍は動いた。団扇は揺れて、お雪の細い手は震えたのである。        二十一 「歩きますわ、御覧なさいな。」と沈んだ声でいいながら、お雪は打動かす団扇の蔭から、儚《はか》ない一点の青い灯《ともし》で、しばしば男の顔を透かして差覗《さしのぞ》く。  男はこの時もう黙ってしまい、顔を背けて避《よ》けようとするのを、また、 「御覧なさいな、」と、人知れずお雪は涙含《なみだぐ》んで、見る見る、男の顔の色は動いた。はッと思うと、 「止せ!」  若山は掌《てのひら》をもてはたと払ったが、端《はし》なく団扇を打って、柄は力のない手を抜けて、庭に落ちた。 「あれ、」といってお雪は顔を見ながら、と胸を衝《つ》いて背後《うしろ》に退《すさ》る。  渠《かれ》は膝を立直して、 「見えやあしない。」 「ええ!」 「僕の目が潰《つぶ》れたんだ。」  言いさま整然《ちゃん》として坐り直る、怒気満面に溢《あふ》れて男性の意気|熾《さかん》に、また仰ぎ見ることが出来なかったのであろう、お雪は袖で顔を蔽《おお》うて俯伏《うつぶし》になった。 「どうしたならどうしたと聞くさ、容体はどうです目が見えないか、と打出して言えば可《い》い。何だって、人を試みるようなことをして困らせるんだい、見えない目前《めさき》へ蛍なんか突出して、綺麗だ、動く、見ろ、とは何だ。残酷だな、無慈悲じゃあないか、星が飛んだの、蛍が歩くのと、まるで嬲《なぶ》るようなもんじゃあないか。女の癖に、第一失敬ださ。」  と、声を鋭く判然《はっきり》と言い放つ。言葉の端には自《おのず》から、かかる田舎にこうして、女の手に養われていらるべき身分ではないことが、響いて聞える。 「そんな心懸《こころがけ》じゃあ盲目《めくら》の夫の前で、情郎《いろおとこ》と巫山戯《ふざけ》かねはしないだろう。厭《いや》になったらさっぱりと突出すが可いじゃあないか、あわれな情《なさけ》ないものを捕《つかま》えて、苛《いじ》めるなあ残酷だ。また僕も苛められるようなものになったんだ、全くのこッた、僕はこんな所にお前様《まえさん》ほどの女が居ようとは思わなんだ。気の毒なほど深切にされる上に、打明けていえば迷わされて、疾《はや》く身を立てよう、行末を考えようと思いながら、右を見ても左を見ても、薬屋の金持か、せいぜいが知事か書記官の居る所で、しかも荒物屋の婆さんや近所の日傭取《ひやとい》にばかり口を利いて暮すもんだからいつの間にか奮発気がなくなって、引込思案になる所へ、目の煩《わずらい》を持込んで、我ながら意気地はない。口へ出すのも見《みッ》ともないや。お前さんに優しくされて朝晩にゃ顔を見て、一所に居るのが嬉しくッて、恥も義理も忘れたそうだ。そっちじゃあ親はなし、兄《あに》さんは兵に取られているしよ、こういっちゃあ可笑《おか》しいけれども、ただ僕を頼《たより》にしている。僕はまた実際|杖《つえ》とも柱とも頼まれてやる気だもんだから、今目が見えなくなったといっちゃあ、どんなに力を落すだろう。お前さんばかりじゃない、人のことより僕だって大変だ。死んでも取返しのつかないほど口惜しいから、心にだけも盲目《めくら》になったと思うまい、目が見えないたあいうまいと、手探《てさぐり》の真似もしないで、苦しい、切ない思《おもい》をするのに、何が面白くッてそんな真似をするんだな。されるのはこっちが悪い、意気地なしのしみったれじゃアあるけれども。」  お雪の泣声が耳に入《い》ると、若山は、口に蓋《ふた》をされたようになって黙った。        二十二 「お雪さん。」  ややあって男は改めて言って、この時はもう、声も常の優しい落着いた調子に復し、 「お雪さん、泣いてるんですか。悪かった、悪かった。真《まこと》を言えばお前さんに心配を懸けるのが気の毒で、無暗《むやみ》と隠していたのを、つい見透かされたもんだから、罪なことをすると思って、一刻に訳も分らないで、悪いことをいった。知ってる、僕は自分|極《ぎ》めかも知らないが、お前さんの心は知ってる意《つもり》だ。情無い、もう不具根性《かたわこんじょう》になったのか、僻《ひがみ》も出て、我儘《わがまま》か知らぬが、くさくさするので飛んだことをした、悪く思わないでおくれ。」  その平生《ふだん》の行《おこない》は、蓋《けだ》し無言にして男の心を解くべきものがあったのである。お雪は声を呑んで袂に食着いていたのであるが、優しくされて気も弛《ゆる》んで、わっと嗚咽《おえつ》して崩折《くずお》れたのを、慰められ、賺《すか》されてか、節も砕けるほど身に染みて、夢中に躙《にじ》り寄る男の傍《そば》。思わず縋《すが》る手を取られて、団扇は庭に落ちたまま、お雪は、潤んだ髪の濡れた、恍惚《うっとり》した顔を上げた。 「貴方《あなた》、」 「可いよ。」 「あの、こう申しますと、生意気だとお思いなさいましょうが、」 「何、」 「お気に障りましたことは堪忍して下さいまし、お隠しなさいますお心を察しますから、つい口へ出してお尋ね申すことも出来ませんし、それに、あの、こないだ総曲輪でお転びなすった時、どうも御様子が解りません、お湯にお入りなさいましたとは受取り難《にく》うございますもの、往来ですから黙って帰りました。が、それから気を着けて、お知合のお医者様へいらっしゃるというのは嘘で、石滝のこちらのお不動様の巌窟《いわや》の清水へ、お頭《つむり》を冷《ひや》しにおいでなさいますのも、存じております。不自由な中でございますから、お怨み申しました処で、唯今《ただいま》はお薬を思うように差上げますことも出来ませんが、あの……」  と言懸けて身を正しく、お雪はあたかも誓うがごとくに、 「きっとあの私が生命《いのち》に掛けましても、お目の治るようにして上げますよ。」と仇気《あどけ》なく、しかも頼母《たのも》しくいったが、神の宣託でもあるように、若山の耳には響いたのである。 「気張っておくれ、手を合わして拝むといっても構わんな。実に、何だ、僕は望《のぞみ》がある、惜《おし》い体だ。」といって深く溜息を吐《つ》いたのが、ひしひしと胸に応《こた》えた。お雪は疑わず、勇ましげに、 「ええ、もう治りますとも。そして目が開いて立派な方におなりなさいましても、貴方、」 「何だ。」 「見棄てちゃあ、私は厭《いや》。」 「こんなに世話になった上、まだ心配を懸けさせる、僕のようなものを、何だって、また、そういうことを言うんだろう。」 「ふ、」と泣くでもなし、笑うでもなし、極《きまり》悪げに、面を背けて、目が見えないのも忘れたらしい。 「お雪さん。」 「はい。」 「どうしてこんなになったろう、僕は自分に解らないよ。」 「私にも分りません。」 「なぜだろう、」  莞爾《にっこり》して、 「なぜでしょうねえ。」  表の戸をがたりと開けて、横柄に、澄して、 「おい、」        二十三  声を聞くとお雪は身を窘《すく》めて小さくなった。 「居るか、おい、暗いじゃないか。」 「唯今、」 「真暗《まっくら》だな。」  例の洋杖《ステッキ》をこつこつ突いて、土間に突立《つった》ったのは島野紳士。今めかしくいうまでもない、富山の市《まち》で花を売る評判の娘に首っ丈であったのが、勇美姫おん目を懸けさせたまうので、毎日のように館《やかた》に来る、近々と顔を見る、口も利くというので、思《おもい》が可恐《おそろ》しくなると、この男、自分では業平《なりひら》なんだから耐《たま》らない。  花屋の庭は美しかろう、散歩の時は寄ってみるよ、情郎《いろおとこ》は居ないか、その節邪魔にすると棄置かんよ、などと大《おお》上段に斬込《きりこ》んで、臆面《おくめん》もなく遊びに来て、最初は娘の謂うごとく、若山を兄だと思っていた。  それ芸妓《げいしゃ》の兄《あに》さん、後家の後見、和尚の姪《めい》にて候ものは、油断がならぬと知っていたが、花売の娘だから、本当の兄もあるだろうと、この紳士大ぬかり。段々様子が解ってみると、瞋恚《しんい》が燃ゆるようなことになったので、不埒《ふらち》でも働かれたかのごとく憤り、この二三日は来るごとに、皮肉を言ったり、当擦《あてこす》ったり、つんと拗《す》ねてみたりしていたが、今夜の暗いのはまた格別、大変、吃驚《びっくり》、畜生、殺生なことであった。  かつてまた、白墨狂士多磨太君の説もあるのだから、肉が動くばかりしばしも耐《たま》らず、洋杖《ステッキ》を握占めて、島野は、 「暗いじゃあないか、おい、おい。」とただ忙《あせ》る。 「はい、」と潤んだ含声の優しいのが聞えると、※[#「火+發」、276-15]《ぱッ》と摺附木《マッチ》を摺《す》る。小さな松火《たいまつ》は真暗《まっくら》な中に、火鉢の前に、壁の隅に、手拭の懸《かか》った下に、中腰で洋燈《ランプ》の火屋《ほや》を持ったお雪の姿を鮮麗《きれい》に照《てら》し出した。その名残《なごり》に奥の部屋の古びた油団《ゆとん》が冷々《ひやひや》と見えて、突抜けの縁の柱には、男の薄暗い形が顕《あら》われる。  島野は睨《にら》み見て、洋杖《ステッキ》と共に真直《まっすぐ》に動かず突立《つった》つ。お雪は小洋燈に灯を移して、摺附木を火鉢の中へ棄てた手で鬢《びん》の後毛《おくれげ》を掻上《かいあ》げざま、向直ると、はや上框《あがりがまち》、そのまま忙《せわ》しく出迎えた。  ちょいと手を支《つ》いて、 「まあ、どうも。」 「…………」島野は目の色も尋常《ただ》ならず、尖《とが》った鼻を横に向けて、ふんと呼吸《いき》をしたばかり。 「失礼、さあ、お上りなさいまし、取散らかしまして、汚穢《むそ》うございますが、」と極《きま》り悪げに四辺《あたり》を眗《みまわ》すのを、後《うしろ》の男に心を取られてするように悪推《わるずい》する、島野はますます憤って、口も利かず。 (無言なり。) 「お晩《おそ》うございましたのね。」と何やらつかぬことを言って、為方《しかた》なしにお雪は微笑《ほほえ》む。 「お邪魔をしましたな。」という声ぎっすりとして、車の輪の軋《きし》むがごとく、島野は決する処あって洋杖《ステッキ》を持換えた。 「お前ねえ、」  邪気|自《おのず》から膚《はだえ》を襲うて、ただは済みそうにもない、物ありげに思い取られるので、お雪は薄気味悪く、易《やす》からぬ色をして、 「はい。」 「あのな、」と重々しく言い懸けて、じろじろと顔を見る。 「どうぞ、まあ、」 「入っちゃあおられん。」 「どちらへか。」 「なあに。」 「お急ぎでございますか。」と畳に着く手も定まらない。 「ちょっと出てもらおう、」 「え、え。」 「用があるんだ。」        二十四 「後を頼むとって、お前様《めえさま》、どこさ行《ゆ》かっしゃる。」  ちょいとどうぞと店前《みせさき》から声を懸けられたので、荒物屋の婆《ばば》は急いで蚊帳を捲《まく》って、店へ出て、一枚着物を着換えたお雪を見た。繻子《しゅす》の帯もきりりとして、胸をしっかと下〆《したじめ》に女|扇子《おおぎ》を差し、余所行《よそゆき》の装《なり》、顔も丸顔で派手だけれども、気が済まぬか悄然《しょんぼり》しているのであった。 「お婆さん、私は直《じき》帰るんですが、」 「あい、」 「どうぞねえ、」と何やら心細そうで気に懸《かか》ると、老人《としより》の目も敏《さと》く、 「内方にゃ御病気なり、夜分、また、どうしてじゃ。総曲輪へ芝居にでも誘われさっせえたか。はての、」  と目を遣《や》ると、片蔭に洋服の長い姿、貧乏町の埃《ほこり》が懸るといったように、四辺《あたり》を払って島野が彳《たたず》む。南無三《なむさん》悪い奴と婆さんは察したから、 「何にせい、夜分|出歩行《である》くのは、若い人に良くないてや、留守の気を着けるのが面倒なではないけれども、大概なら止《よし》にさっしゃるが可《よ》かろうに。」  と目で知らせながら、さあらず言う。 「いえ、お召なんでございます。四十物町《あえものちょう》のお邸から、用があるッて、そう有仰《おっしゃ》るのでございますから。」 「四十物町のお花主《とくい》というと、何、知事様のお邸だッけや。」 「お嬢様が急に、御用がおあんなさいますッて。」 「うんや、善くないてや。お前様が行く気でも、私《わし》が留めます。お嬢様の御用とって、お前、医者じゃあなし、駕籠屋《かごや》じゃあなし、差迫った夜の用はありそうもない。大概の事は夜が明けてからする方が仕損じが無いものじゃ。若いものは、なおさら、女じゃでの、はて、月夜に歩いてさえ、美しい女の子は色が黒くなるという。」 「はい、ですけれども。」 「殊に闇《やみ》じゃ、狼が後《あと》を跟《つ》けるでの、たって止《や》めにさっせえよ。」と委細は飲込んだ上、そこらへ見当を付けたので、婆さんは聞えよがし。  島野は耐えかねてずッと出て、老人《としより》には目も遣らず、 「さあ、」 「…………」黙って俯向《うつむ》く。 「おい、」とちと大きくいって、洋杖《ステッキ》でこと、こと、こと。  お雪は覚悟をした顔を上げて、 「それじゃあお婆さん。」 「待たっせえ、いや、もし、お前様、もし、旦那様。」  顧みもせず島野は、己《おれ》ほどのものが、へん、愚民にお言葉を遣わさりょうや!  婆さんも躍気《やっき》になって、 「旦那様、もし。」 「おれか。」 「へい、婆《ばば》がお願《ねがい》でござります、お雪が用は明日のことになされ下さりませ。内には目の不自由な人もござりますし、四十物町までは道も大分でござりますで。」 「何だ、お前は。」 「へい、」 「さあ、行こう。」  お雪は黙って婆さんの顔を見たが、詮方《せんかた》なげで哀《あわれ》である。 「お前様、何といっても、」と空しく手を掉《ふ》って、伸上った、婆は縋着《すがりつ》いても放したくない。 「知事様のお使だ。」と島野が舌打して言った。  これが代官様より可恐《おそろ》しく婆の耳には響いたので、目を睜《みは》って押黙る。  その時、花屋の奥で、凜《りん》として澄んで、うら悲しく、 [#ここから6字下げ] 雲横秦嶺家何在《くもはしんれいによこたわっていえいずくにかある》 雪擁藍関馬不前《ゆきはらんかんをようしてうますすまず》 [#ここで字下げ終わり]  と、韓湘《かんしょう》が道術をもって牡丹花《ぼたんか》の中に金字で顕《あらわ》したという、一|聯《れん》の句を口吟《くちずさ》む若山の声が聞えて止《や》んだ。  お雪はほろりとしたが、打仰いで、淋しげに笑って、 「どうぞ、ねえ。」        二十五  恩になる姫様《ひいさま》、勇美子が急な用というに悖《さから》い得ないで、島野に連出されたお雪は、屠所《としょ》の羊の歩《あゆみ》。 「どういう御用なんでございましょう。いつも御贔屓《ごひいき》になりますけれども、つい、お使なんぞ下さいましたことはございませんのに、何でしょうね、馴《な》れませんこッてすから、胸がどきどきして仕様がありません。」  島野は澄まして冷《ひやや》かに、 「そうですか。」 「貴下《あなた》御存じじゃあないのですか。」 「知らないね。」と気取った代脉《だいみゃく》が病症をいわぬに斉《ひと》しい。  わざと打解けて、底気味の悪い紳士の胸中を試みようとしたお雪は、取附《とりつく》島もなく悄《しお》れて黙った。  二人は顔を背け合って、それから総曲輪へ出て、四十物町へ行こうとする、杉垣が挟《さしはさ》んで、樹が押被《おっかぶ》さった径《こみち》を四五間。 「兄さんに聞いたら可《よ》かろう。」島野は突然こう言って、ずッと寄って、肩を並べ、 「何もそんなに胸までどきつかせるには当らない、大した用でもなかろうよ。たかがお前この頃|情人《いいひと》が出来たそうだね、お目出度いことよ位なことを謂《い》われるばかりさ。」 「厭《いや》でございます。」 「厭だって仕方がない、何も情人が出来たのに御祝儀をいわれるたッて、弱ることはないじゃあないか。ふん、結構なことさね、ふん、」  と呼吸《いき》がはずむ。 「ほんとうでございますか。」 「まったくよ。」 「あら、それでは、あの私《わたくし》は御免|蒙《こうむ》りますよ。」  お雪は思切って立停《たちど》まった、短くさし込んだ胸の扇もきりりとする。 「御免蒙るッて、来ないつもりか。おい、お嬢様が御用があるッて、僕がわざわざ迎《むかい》に来たんだが、御免蒙る、ふん、それで可《い》いのか。――御免蒙る――」 「それでも、おなぶり遊ばすんですもの、私《わたくし》は辛うございます。」 「可いさ、来なけりゃ可いさ、そのかわり、お前、知事様のお邸とは縁切だよ。宜《よ》かろう、毎日の米の代といっても差支えない、大切なお花主《とくい》を無くする上に、この間から相談のある、黒百合の話も徒為《ふい》になりやしないかね。仏蘭西《フランス》の友達に贈るのならばって、奥様も張込んで、勇美さんの小遣にうんと足して、ものの百円ぐらいは出そうという、お前その金子《かね》は生命《いのち》がけでも欲《ほし》いのだろう、どうだね、やっぱり御免を蒙りまするかね。」といって、にやにやと笑いけり。  お雪は深い溜息《ためいき》して、 「困っちまいました、私はもうどうしたら可いのでございましょうねえ。」  詮方なげに見えて島野に縋《すが》るようにいった。お雪は止《や》むことを得ず、その懐に入って救われんとしたのであろう。  紳士は殊の外その意を得た趣で、 「まあ、一所に来たまえ。だから僕が悪いようにゃしないというんだ。え、どこかちょっと人目に着かない処で道寄をしようじゃあないか、そしていろいろ相談をするとしよう。またどんな旨《うま》い話があろうも知れない。ははは、まずまあ毎日汗みずくになって、お花は五厘なんていって歩かないでも暮しのつくこッた。それに何さ、兄さんとかいう人に存分療治をさせたい、金子《かね》も自《おのず》から欲《ほし》くなくなるといったような、ね、まあまあ心配をすることはないよ、来たまえ!」といって、さっさっと歩行《ある》き出す。お雪は驚いて、追縋るようにして、 「貴下、どちらへ参るんでございます。」        二十六 「心得てるさ、ちっとも気あつかいのいらないように万事取計らうから可いよ。向うが空屋《あきや》で両隣が畠《はたけ》でな、聾《つんぼ》の婆さんが一人で居るという家が一軒、……どうだね、」と物凄《ものすご》いことをいう。この紳士は権柄《けんぺい》ずくにおためごかしを兼ねて、且つ色男なんだから極めて計らいにくいのであります。  勇美子の用でも何でもない。大方こんなこととは様子にも悟っていたが、打着けに言われたので、お雪も今更ぎょっとした。 「路《みち》も遠うございますから、晩《おそ》くなりましょう、直ぐあの、お邸の方へ参っちゃあ不可《いけ》ませんか。」 「何、遠慮することはないさ。」  これだもの。………… 「いいえ、」といったばかり。お雪は遁帰《にげかえ》る機掛《きっかけ》もなし、声を立てる数《すう》でもなし、理窟をいう分《わけ》にも行《ゆ》かず、急にお腹《なか》が痛むでもない。手もつけられねば、ものも言われず。  径《こみち》ややその半《なかば》を過ぎて、総曲輪に近くなると、島野は莞爾《にこや》かに見返って、 「どうだ、御飯でも食べて、それからその家《うち》へ行くとしようか。」  お雪はものもいい得ない。背後《うしろ》から大きな声で、 「奢《おご》れ奢れ、やあ、棄置かれん。」と無遠慮に喚《わめ》いてぬいと出た、この野面《のづら》を誰とかする。白薩摩の汚れた単衣《ひとえ》、紺染の兵子帯《へこおび》、いが栗天窓《ぐりあたま》、団栗目《どんぐりめ》、ころころと肥えて丈の低きが、藁草履《わらぞうり》を穿《うが》ちたる、豈《あに》それ多磨太にあらざらんや。  島野は悪い処へ、という思入《おもいれ》あり。 「おや、どちらへ。」 「ははあ、貴公と美人とが趣く処へどこへなと行くで。奢れ! 大分ほッついたで、夕飯の腹も、ちょうど北山とやらじゃわい。」 「いいえさ、どこへ行くんです。」と島野は生真面目《きまじめ》になって押えようとする、と肩を揺《ゆす》って、 「知事が処じゃ。」 「今ッからね。」 「うむ、勇美子さんが来てくれいと言うものじゃでの。」 「へい、」と妙な顔をする。  多磨太、大得意。 「何《なん》よ、また道寄も遣らかすわい。向うが空屋で両隣は畠だ、聾の婆《ばばあ》が留守をしとる、ちっとも気遣《きづかい》はいらんのじゃ、万事|私《わし》が心得た。」 「驚いたね。」 「どうじゃ、恐入ったか。うむ、好事魔多し、月に村雲じゃろ。はははは、感多少かい、先生。」 「何もその、だからそういったじゃアありませんか。君、僕だけは格別で。」 「豈《あに》しからん、この美肉をよ、貴様一人で賞翫《しょうがん》してみい、たちまち食傷して生命に係《かかわ》るぞ。じゃから私《わし》が注意して、あらかじめ後を尾《つ》けて、好意一足の藁草履を齎《もた》らし来《きた》った訳じゃ、感謝して可いな。」  島野は苦々しい顔色《かおつき》で、 「奢ります、いずれ奢るから、まあ、君、君だって、分ってましょう。それ、だから奢りますよ、奢りますよ。」 「豚肉《とんにく》は不可《いかん》ぞ。」 「ええ、もうずっとそこン処はね。」 「何、貴様のずっとはずっと見当が違うわい。そのいわゆるずっとというのは軍鶏《しゃも》なんじゃろ、しからずんば鰻《うなぎ》か。」 「はあ、何でも、」と頷《うなず》くのを、見向もしないで。 「非《あら》ず、私《わし》が欲する処はの、熊《ゆう》にあらず、羆《ひ》にあらず、牛豚《ぎゅうとん》、軍鶏にあらず、鰻にあらず。」 「おやおや、」 「小羊の肉よ!」 「何ですって、」 「どうだ、螇蚸《ばった》、蟷螂《かまきり》、」といいながら、お雪と島野を交《かわ》る交《がわ》る、笑顔で眗《みまわ》しても豪傑だから睨《にら》むがごとし。        二十七  島野は持余した様子で、苦り切って、ただ四辺《あたり》を見廻すばかり。多磨太は藁草履の片足を脱いで、砂だらけなので毛脛《けずね》を擦《こす》った。 「蚋《ぶよ》が螫《さ》す、蚋が螫すわ。どうじゃ、歩き出そうでないか。堪《たま》らん、こりゃ、立っとッちゃあ埒《らち》明かん、さあ前《さき》へ行《い》ね、貴公。美人は真中《まんなか》よ、私《わし》は殿《しんがり》を打つじゃ、早うせい。」  島野は堪《たま》りかねて、五六歩|傍《かたわら》へ避《よ》けて目で知らせて、 「ちょいと、君、雀部さん、ちょいと。」 「何じゃ、」と裾を掴《つか》み上げて、多磨太はずかずかと寄る。  島野は真顔になって、口説くように、 「かねて承知なんじゃあないか、君、ここは一番《ひとつ》粋を通して、ずっと大目に見てくれないじゃあ困りますね。」と情《なさけ》なそうにいった。 「どうするんかい、」 「何さ、どうするッて。」 「貴公、どこへしょびくんじゃ、あの美人をよ、巧く遣りおるの。うう、」と団栗目を細うして、変な声で、えへ、えへ、えへ。 「しょびくたって何も君、まったくさ、お嬢さんが用があるそうだ。」 「嘘を吐《つ》けい、誰じゃと思うか、ああ。貴公目下のこの行為は、公の目から見ると拐帯《かどわかし》じゃよ、詐偽《さぎ》じゃな。我輩警察のために棄置かん、直ちに貴公のその額へ、白墨で、輪を付けて、交番へ引張《ひっぱ》るでな、左様《さよ》思え、はははは。」 「串戯《じょうだん》をいっちゃあ不可《いけ》ません。」 「何、構わず遣るぞ。癪《しゃく》じゃ、第一、あの美人は、私《わし》が前《さき》へ目を着けて、その一挙一動を探って、兄じゃというのが情男《いろおとこ》なことまで貴公にいうてやった位でないかい。考えてみい、いかに慇懃《いんぎん》を通じようといって、貴公ではと思うで、なぶる気で打棄《うっちゃ》っておいたわ。今夜のように連出されては、こりゃならんわい。向面《むこうづら》へ廻って断乎として妨害を試みる、汝《なんじ》にジャムあれば我に交番ありよ。来るか、対手《あいて》になるか、来い、さあ来い。両雄並び立たず、一番勝敗を決すべい。」  と腕まくりをして大乗気、手がつけられたものではない。島野もここに至って、あきらめて、ぐッと砕け、 「どうです、一ツ両雄並び立とうではありませんか、ものは相談だ。」と思切っていう。多磨太は目を睜《みは》って耳を聳《そばだ》てた。 「ふむ、立つか、見事両雄がな。」 「耳を、」肩を取って、口をつけ、二人は木《こ》の下蔭に囁《ささやき》を交え、手を組んで、短いのと、長いのと、四脚を揃えたのが仄《かす》かに見える。お雪は少し離れて立って、身を切裂かるる思いである。  当座の花だ、むずかしい事はない、安泊《やすどまり》へでも引摺込《ひきずりこ》んで、裂くことは出来ないが、美人《たぼ》の身体《からだ》を半分ずつよ、丶丶丶の令息《むすこ》と、丶丶の親類とで慰むのだ。土民の一少婦、美なりといえどもあえて物の数とするには足らぬ。 「ね、」 (笑って答えず。)  多磨太は頷《うなず》いて身を退《の》いて、両雄いい合わせたように屹《きっ》とお雪を見返った。  径《こみち》に被《かぶ》さった樹々の葉に、さらさらと渡って、裙《すそ》から、袂から冷々《ひやひや》と膚《はだ》に染み入る夜の風は、以心伝心二人の囁を伝えて、お雪は思わず戦悚《ぞっ》とした。もう前後《あとさき》も弁《わきま》えず、しばらくも傍《そば》には居たたまらなくなって、そのまま、 「島野さん、お連《つれ》様もお見え遊ばしたし、失礼いたしますから、お嬢様にはどうぞ、」も震え声で口の裡《うち》、返事は聞きつけないで、引返《ひっかえ》そうとする。 「待ちなさい、」 「待て、おい、おい、おい、待て!」といいさま追い縋《すが》って、多磨太は警部長の令息であるから傍若無人。 「あれ、」と遁《に》げにかかる、小腕《こがいな》をむずと取られた。形《なり》も、振《ふり》も、紅《くれない》、白脛《しらはぎ》。        二十八 「踠《もが》くない、螇蚸《ばった》、わはは、はは、」多磨太は容赦なくそのいわゆる小羊を引立《ひった》てた。 「あれ、放して、」 「おい、声を出しちゃあ不可《いかん》、黙っていな、優《おとな》しくしてついてお出《いで》。あれそれ謂っちゃあ第一何だ、お前の恥だ。往来で見ッともない、人が目をつけて顔を見るよ。」と島野は落着いたものである。多磨太は案を拍《う》たないばかりで、 「しかり、あきらめて覚悟をせい。魚《うお》の中でも鯉《こい》となると、品格が可いでな、俎《まないた》に乗ると撥《は》ねんわい。声を立てて、助かろうと思うても埒《らち》明かんよ。我輩あえて憚《はばか》らず、こうやって手を握ったまま十字街頭を歩くんじゃ。誰でも可い、何をすると咎《とが》めりゃ、黙れとくらわす。此女《こいつ》取調《とりしらべ》の筋があるで、交番まで引立《ひった》てる、私《わし》は雀部じゃというてみい、何奴《どいつ》もひょこひょこと米搗虫《こめつきむし》よ。」 「呑気なものさね、」と澄まし切って、島野は会心の微笑を浮べた。 「さあ、行こう、何も冥途《めいど》へ連れて行くんじゃあないよ。謂わばまあ殿様のお手が着くといったようなものさ。どうして雀部や私《わし》を望んだって、花売なんぞが、口も利かれるもんじゃあない、難有《ありがた》く思うが可いさ。」  法学生の堕落したのが、上部を繕ってる衣を脱いだ狼と、虎とで引挟《ひっぱさ》み、縛って宙に釣ったよりは恐しい手籠《てごめ》の仕方。そのまま歩き出した、一筋路。少《わか》い女を真中《まんなか》に、漢《おのこ》が二人要こそあれと、総曲輪の方から来かかって歩《あゆみ》を停《とど》め、間《あわい》を置いて前屈《まえかが》みになって透かしたが、繻子《しゅす》の帯をぎゅうと押えて呑込んだという風で、立直って片蔭に忍んだのは、前夜|榎《えのき》の下で、銀流《ぎんながし》の粉を売った婦人《おんな》であった。  お雪は呼吸《いき》さえ高うはせず、気を詰めて、汗になって、 「まあ、この手を放して、ねえ、手を放して、」と漫《そぞろ》である。 「可いわ、放すから遁《に》げちゃあならんぞ、」 「何、逃げれば、捕《つかま》える分のことさ、」  あらかじめ因果を含めたからと、高を括《くく》って、手を放すと半ば夢中、身を返して湯の谷の方へ走ろうとする。 「やい、汝《うぬ》!」  藁草履を蹴立てて飛着いて、多磨太が暗まぎれに掻掴《かいつか》む、鉄拳《かなこぶし》に握らせて、自若として、少しも騒がず、 「色男!」といって呵々《からから》と笑ったのは、男の声。呆れて棒立になった多磨太は、余りのことにその手を持ったまま動かず、ほとんど無意識に窘《すく》んだ。 「島野か、そこに居るのは。島野、おい、島野じゃないか。」  紳士はぎょっとして、思わず調子はずれに、 「誰《だ》、誰です。」 「己《おいら》だ、滝だよ。おい、ちょいと誰だか手を握った奴があるぜ。串戯《じょうだん》じゃあない、気味が悪いや、そういってお前放さしてくんな。おう、後生大事と握ってやがらあ。」  先刻《さっき》荒物屋の納戸で、媼《おうな》と蚊の声の中に言《ことば》を交えた客はすなわちこれである。媼は、誰とも、いかなる氏素性の少年とも弁えぬが、去年秋銃猟の途次《みちすがら》、渋茶を呑みに立寄って以来、婆や、家《うち》は窮屈で為方《しかた》がねえ、と言っては、夜昼|寛《くつろ》ぎに来るので、里の乳母のように心安くなった。ただ風変りな貴公子だとばかり思ってはいるが、――その時お雪が島野に引出されたのを見て、納戸へ転込《ころげこ》んで胸を打って歎くので、一人の婦人《おんな》を待つといって居合わせたのが、笑いながら駆出して湯の谷から救《すくい》に来たのであった。        二十九  子爵千破矢滝太郎は、今年が十九で、十一の時まで浅草|俵町《たわらまち》の質屋の赤煉瓦《あかれんが》と、屑屋《くずや》の横窓との間の狭い路地を入った突当りの貧乏長家に育って、納豆を食い、水を飲み、夜はお稲荷《いなり》さんの声を聞いて、番太の菓子を噛《かじ》った江戸児《えどッこ》である。  母親と祖父《じい》とがあって、はじめは、湯島三丁目に名高い銀杏《いちょう》の樹に近い処に、立派な旅籠屋《はたごや》兼帯の上等下宿、三階|造《づくり》の館《やかた》の内に、地方から出て来る代議士、大商人《おおあきんど》などを宿して華美《はで》に消光《くら》していたが、滝太郎が生れて三歳《みッつ》になった頃から、年紀《とし》はまだ二十四であった、若い母親が、にわかに田舎ものは嫌いだ、虫が好かぬ、一所の内に居ると頭痛がすると言い出して、地方の客の宿泊をことごとく断った。神田の兄哥《あにい》、深川の親方が本郷へ来て旅籠を取る数《すう》ではないから、家業はそれっきりである上に、俳優狂《やくしゃぐるい》を始めて茶屋小屋|入《ばいり》をする、角力取《すもうとり》、芸人を引張込《ひっぱりこ》んで雲井を吹かす、酒を飲む、骨牌《かるた》を弄《もてあそ》ぶ、爪弾《つまびき》を遣る、洗髪《あらいがみ》の意気な半纏着《はんてんぎ》で、晩方からふいと家《うち》を出ては帰らないという風。  滝太郎の祖父《じい》は母親には継父であったが、目を閉じ、口を塞《ふさ》いでもの言わず、するがままにさせておくと、瞬く内に家も地所も人手に渡った。謂《い》うまでもなく四人の口を過ごしかねるようになったので、大根畠に借家して半歳ばかり居食《いぐい》をしたが、見す見す体に鉋《かんな》を懸けて削り失《な》くすようなものであるから、近所では人目がある、浅草へ行って蔵前辺に屋台店でも出してみよう、煮込おでんの汁《つゆ》を吸っても、渇《かつ》えて死ぬには増《まし》だという、祖父の繰廻しで、わずか残った手廻《てまわり》の道具を売って動《うごき》をつけて、その俵町の裏長屋へ越して、祖父は着馴《きな》れぬ半纏被《はんてんぎ》に身を窶《やつ》して、孫の手を引きながら佐竹ヶ原から御徒町辺《おかちまちあたり》の古道具屋を見歩いたが、いずれも高直《たかね》[#「高直《たかね》」はママ]で力及ばず、ようよう竹町の路地の角に、黒板塀に附着《くッつ》けて売物という札を貼《は》ってあった、屋台を一個《ひとつ》、持主の慈悲で負けてもらって、それから小道具を買揃えて、いそいそ俵町に曳《ひ》いて帰ると、馴れないことで、その辺の見計いはしておかなかった、件《くだん》の赤煉瓦と横窓との間の路地は、入口が狭いので、どうしても借家まで屋台を曳込《ひきこ》むことが出来ないので、そのまま夜一夜《よひとよ》置いたために、三晩とは措《お》かず盗まれてしまったので、祖父は最後の目的の水の泡になったのに、落胆して煩い着いたが、滝太郎の舌が廻って、祖父ちゃん祖父ちゃん、というのを聞いて、それを思出に世を去った。  後は母親が手一ツで、細い乳を含めて遣《や》る、幼児《おさなご》が玉のような顔を見ては、世に何等かの大不平あってしかりしがごとき母親が我慢の角も折れたかして、涙で半襟の紫の色の褪《あ》せるのも、汗で美しい襦袢《じゅばん》の汚れるのも厭《いと》わず、意とせず、些々《ささ》たる内職をして苦労をし抜いて育てたが、六ツ七ツ八ツにもなれば、膳《ぜん》も別にして食べさせたいので、手内職では追着《おッつ》かないから、世話をするものがあって、毎日吾妻橋を越して一《ある》製糸場に通っていた。  留守になると、橋手前には腕白盛《わんぱくざかり》の滝太一人、行儀をしつけるものもなし、居まわりが居まわりなんで、鼻緒を切らすと跣足《はだし》で駆歩行《かけある》く、袖が切れれば素裸《すッぱだか》で躍出る。砂を掴《つか》む、小砂利を投げる、溝泥《どぶどろ》を掻廻《かきまわ》す、喧嘩《けんか》はするが誰も味方をするものはない。日が暮れなければ母親は帰らぬから、昼の内は孤児《みなしご》同様。親が居ないと侮って、ちょいと小遣でもある徒《てあい》は、除物《のけもの》にして苛《いじ》めるのを、太腹《ふとッぱら》の勝気でものともせず、愚図々々いうと、まわらぬ舌で、自分が仰向《あおむ》いて見るほどの兄哥《あにい》に向って、べらぼうめ!        三十  その悪戯《いたずら》といったらない、長屋内は言うに及ばず、横町裏町まで刎《は》ね廻って、片時の間も手足を静《じっ》としてはいないから、余りその乱暴を憎らしがる女房《かみさん》達は、金魚だ金魚だとそういった。蓋《けだ》し美しいが食えないという意《こころ》だそうな。  滝太はその可愛い、品のある容子《ようす》に似ず、また極めて殺伐《さつばつ》で、ものの生命《いのち》を取ることを事ともしない。蝶、蜻蛉《とんぼ》、蟻《あり》、蚯蚓《みみず》、目を遮るに任せてこれを屠殺《とさつ》したが、馴るるに従うて生類を捕獲するすさみに熟して、蝙蝠《こうもり》などは一たび干棹《ほしざお》を揮《ふる》えば、立処《たちどころ》に落ちたのである。虫も蛙となり、蛇となって、九ツ十ウに及ぶ頃は、薪雑棒《まきざっぽう》で猫を撃《う》って殺すようになった。あのね、ぶん撲《なぐ》るとね、飛着くよ。その時は何でもないの、もうちッと酷《ひど》くくらわすと、丸ッこくなってね、フッてんだ。呻《うな》っておっかねえ目をするよ、恐いよ。そこをも一ツ打《ぶ》つところりと死ぬさ。でもね、坊はね、あのはじめの内は手が震えてね、そこで止《よ》しちゃッたい。今じゃ、化猫わけなしだと、心得澄したもので。あれさ妄念《もうねん》が可恐《おそろ》しい、化けて出るからお止しよといえば、だから坊はね、おいらのせいじゃあないぞッて、そう言わあ。滝太郎はものの命を取る時に限らず、するな、止せ、不可《いけな》いと人のいうことをあえてする時は、手を動かしながら、幾たびも俺《おいら》のせいじゃないぞと、口癖のようにいつも言う。  井戸端で水を浴びたり、合長屋の障子を、ト唾《つば》で破いて、その穴から舌を出したり、路地の木戸を石磈《いしころ》でこつこつやったり、柱を釘で疵《きず》をつけたり、階子《はしご》を担いで駆出すやら、地蹈鞴《じだんだ》を蹈《ふ》んで唱歌を唄うやら、物真似は真先《まっさき》に覚えて来る、喧嘩の対手《あいて》は泣かせて帰る。ある時も裏町の人数八九名に取占《とっち》められて路地内へ遁《に》げ込むのを、容赦なく追詰めると、滝は廂《ひさし》を足場にある長屋の屋根へ這上《はいあが》って、瓦《かわら》を捲《ま》くって投出した。やんちゃんもここに至っては棄置かれず、言付け口をするも大人げないと、始終|蔭言《かげごと》ばかり言っていた女房《かみさん》達、耐《たま》りかねて、ちと滝太郎を窘《たし》なめるようにと、夜《よ》に入《い》ってから帰る母親に告げた事がある。  しかるに、近所では美しいと、しおらしいで評判の誉物《ほめもの》だった母親が、毫《ごう》もこれを真《まこと》とはしない。ただそうですか済みませんとばかり、人前では当らず障らずに挨拶をして、滝や、滝やと不断の通り優《やさ》しい声。  それもその筈《はず》、滝は他に向って乱暴|狼藉《ろうぜき》[#ルビの「ろうぜき」は底本では「ろうせき」]を極め、憚《はばか》らず乳虎《にゅうこ》の威を揮《ふる》うにもかかわらず、母親の前では大《おおき》な声でものも言わず、灯頃《ひともしころ》辻の方に母親の姿が見えると、駆出して行って迎えて帰る。それからは畳を歩行《ある》く跫音《あしおと》もしない位、以前の俤《おもかげ》の偲《しの》ばるる鏡台の引出《ひきだし》の隅に残った猿屋の小楊枝《こようじ》の尖《さき》で字をついて、膝も崩さず母親の前に畏《かしこま》って、二年級のおさらいをするのが聞える。あれだから母親《おッかさん》は本当にしないのだと、隣近所では切歯《はがみ》をしてもどかしがった。  学校は私立だったが、先生はまたなく滝太郎を可愛がって、一度同級の者と掴合《つかみあい》をして遁《に》げて帰って、それッきり、登校しないのを、先生がわざわざ母親の留守に迎《むかい》に来て連れて行って、そのために先生は他《ほか》の生徒の父兄等に信用を失って、席札は櫛《くし》の歯の折れるように透いて無くなったが、あえて意《こころ》にも留めないで、ますます滝太郎を愛育した。いかにか見処《みどころ》があったのであろう。        三十一  しかるに先生は教うるにいかなる事をもってしたのであるか、まさかに悪智慧《わるぢえ》を着けはしまい。前年その長屋の表町に道普請があって、向側へ砂利を装上《もりあ》げたから、この町を通る腕車荷車は不残《のこらず》路地口の際を曳《ひ》いて通ることがあった。雨が続いて泥濘《ぬかるみ》になったのを見澄して、滝太が手で掬《すく》い、丸太で掘って、地面を窪《くぼ》めておき、木戸に立って車の来るのを待っていると、窪《くぼみ》は雨溜《あめだまり》で探りが入《い》らず、来るほどの車は皆輪が喰い込んで、がたりとなる。さらぬだに持余すのにこの陥羂《おとしわな》に懸《かか》っては、後へも前《さき》へも行くのではないから、汗になって弱るのを見ると、会心の笑《えみ》を洩《も》らして滝太、おじさん押してやろう、幾干《いくら》かくんねえ、と遣ったのである。自から頼む所がなくなってはさる計《はかりごと》もしはせまい、憎まれものの殺生|好《ずき》はまた相応した力もあった。それはともかく、あの悪智慧のほどが可恐《おそろ》しい、行末が思い遣られると、見るもの聞くもの舌を巻いた。滝太郎がその挙動を、鋭い目で角の屑屋の物置みたような二階の格子窓に、世を憚《はばか》る監視中の顔をあてて、匍匐《はらばい》になって見ていた、窃盗《せっとう》、万引、詐偽《さぎ》もその時|二十《はたち》までに数《すう》を知らず、ちょうど先月までくらい込んでいた、巣鴨が十たび目だという凄《すご》い女、渾名《あだな》を白魚のお兼といって、日向《ひなた》では消えそうな華奢《きゃしゃ》姿。島田が黒いばかり、透通るような雪の肌の、骨も見え透いた美しいのに、可恐《おそろ》しい悪党。すべて滝太郎の立居|挙動《ふるまい》に心を留めて、人が爪弾《つまはじき》をするのを、独り遮って賞《ほ》めちぎっていたが、滝ちゃん滝ちゃんといって可愛がること一通《ひととおり》でなかった処。……  滝太郎が、その後《のち》十一の秋、母親が歿《みまか》ると、双葉にして芟《か》らざればなどと、差配佐次兵衛、講釈に聞いて来たことをそのまま言出して、合長屋が協議の上、欠けた火鉢の灰までをお銭《あし》にして、それで出合《だしあい》の涙金を添えて持たせ、道で鳶《とび》にでも攫《さら》われたら、世の中が無事で好《い》い位な考えで、俵町から滝太郎を。  一昨日《おととい》来るぜい、おさらばだいと、高慢な毒口を利いて、ふいと小さなものが威張って出る。見え隠れにあとを跟《つ》けて、その夜《よ》金竜山の奥山で、滝さん餞別《せんべつ》をしようと言って、お兼が無名指《べにさし》からすっと抜いて、滝太郎に与えたのが今も身を離さず、勇美子が顔を赤らめてまで迫ったのを、頑として肯《き》かなかった指環《ゆびわ》なのである。  その時、奥山で餞《はなむけ》した時、時ならぬ深夜の人影を吠《ほ》える黒犬があった。滝さんちょいとつかまえて御覧とお兼がいうから、もとより俵町|界隈《かいわい》の犬は、声を聞いて逃げた程の悪戯《いたずら》小憎。御意は可しで、飛鳥のごとく、逃げるのを追懸《おッか》けて、引捕《ひッとら》え、手もなく頸《うなじ》の斑《ぶち》を掴《つか》んで、いつか継父が児《こ》を縊《くび》り殺した死骸《しがい》の紫色の頬が附着《くッつ》いていた処だといって今でも人は寄附かない、ロハ台の際まで引摺《ひきず》って来ると、お兼は心得て粋《いき》な浴衣に半纏を引《ひっ》かけた姿でちょいと屈《かが》み、掌《てのひら》で黒斑を撫《な》でた、指環が閃《ひらめ》いたと見ると、犬の耳が片一方、お兼の掌《てのひら》の上へ血だらけになって乗ったのである。人間でもわけなしだよ、と目前奇特を見せ、仕方を教え、針のごとく細く、しかも爪ほどの大《おおき》さの恐るべき鋭利な匕首《ナイフ》を仕懸けた、純金の指環を取って、これを滝太郎の手に置くと、かつて少年の喜ぶべき品、食物なり、何等のものを与えてもついぞ嬉しがった験《ためし》のない、一つはそれも長屋|中《うち》に憎まれる基《もとい》であった滝太郎が、さも嬉しげに見て、じっと瞶《みつ》めた、星のような一双の眼《まなこ》の異様な輝《かがやき》は、お兼が黒い目で睨《にら》んでおいた。滝太郎は生れながらにして賊性を亨《う》けたのである。諸君は渠《かれ》がモウセンゴケに見惚《みと》れた勇美子の黒髪から、その薔薇《ばら》の薫《かおり》のある蝦茶《えびちゃ》のリボン飾を掏取《すりと》って、総曲輪の横町の黄昏《たそがれ》に、これを掌中に弄《もてあそ》んだのを記憶せらるるであろう。        三十二 「滝さん、滝さん、おい、おい。」 「私《わっち》かい、」と滝太歩を停《とど》めて振返ると、木蔭を径《こみち》へずッと出たのは、先刻《さっき》から様子を伺っていた婦人《おんな》である。透かして見るより懐しげに、 「おう来たのか、おいら約束の処へ行ってお前《めえ》の来るのを待ってたんだけれども、ちょいと係合《かかりあい》で歩《ぶ》に取られて出て来たんだ。路《みち》は一筋だから大丈夫だとは思ったが、逢い違わなければ可いと思っての。」 「そう、私実は先刻《さっき》からここに居たんだよ。路先を切って何か始まったから、田舎は田舎だけに古風なことをすると思ってね、旅稼《たびかせぎ》の積《つもり》でぐッとお安く真中《まんなか》へ入ってやろうかと思ってる処へ、お前さんがお出《いで》だから見ていたの。あい、おかしくッて可《よ》うござんした。ここいらじゃあ尾鰭《おひれ》を振って、肩肱《かたひじ》を怒《いか》らしそうな年上なのを二人まで、手もなく追帰《おッかえ》したなあ大出来だ、ちょいと煽《あお》いでやりたいわねえ、滝さんお手柄。」 「馬鹿なことを謂ってらあ、何もこっちが豪《えら》いんじゃあねえ。島野ッてね、あのひょろ長え奴が意気地なしで、知事を恐《こわ》がっていやあがるから、そこが附目《つけめ》よ。俺《おいら》に何か言われちゃあ、後で始末が悪いもんだから、同類の芋虫まで、自分で宥《なだ》めて連れて行ったまでのこッた。敵《むこう》が使ってる道具を反対《あべこべ》にこっちで使われたんだね、別なこたあねえ、知事様がお豪いのでござりますだ。」といって事も無げに笑った。 「それじゃあ滝さん、毒をもって毒を制するとやらいうのかい。」 「姉《ねえ》や、お前《めえ》学者だなあ、」 「旦那、御串戯《ごじょうだん》もんですよ。」と斉《ひと》しく笑った。  身装《みなり》は構わず、絞《しぼり》のなえたので見すぼらしいが、鼻筋の通った、眦《めじり》の上った、意気の壮《さかん》なることその眉宇《びう》の間に溢《あふ》れて、ちっともめげぬ立振舞。わざと身を窶《やつ》してさるもののように見らるるのは、前《さき》の日総曲輪の化榎《ばけえのき》の下で、銀流しを売っていた婦人《おんな》であって――且つ少《わか》かりし時、浅草で滝太郎に指環を与えた女賊白魚のお兼である。もとより掏賊《すり》の用に供するために、自分の持物だった風変りな指環であるから、銀流を懸けろといって滝太が差出したのを、お兼は何条|見免《みのが》すべき。  はじめは怪《あやし》み、中《なかば》は驚いて、果《はて》はその顔を見定めると、幼立《おさなだち》に覚えのある、裏長屋の悪戯《いたずら》小憎、かつてその黒い目で睨《にら》んでおいた少年の懐しさに、取った手を放さないでいたのであったが。十年ばかりも前のこと、場所も意外なり、境遇も変っているから、滝太郎の方では見忘れて、何とも覚えず、底気味が悪かった。  横町の小児《こども》が足搦《あしがらみ》の縄を切払うごときは愚《おろか》なこと、引外して逃《にげ》るはずみに、指が切れて血が流れたのを、立合の衆《ひと》が怪《あやし》んで目を着けるから、場所を心得て声も懸けなかったほど、思慮の深い女賊は、滝太郎の秘密を守るために、仰いでその怪みを化榎に帰して、即時人の目を瞞《くる》めたので。  越えて明くる夜《よ》、宵のほどさえ、分けて初更《しょこう》を過ぎて、商人《あきんど》の灯がまばらになる頃は、人の気勢《けはい》も近寄らない榎の下、お兼が店を片附ける所へ、突然と顕《あらわ》れ出《い》で、いま巻納めようとする茣蓙《ござ》の上へ、一束の紙幣を投げて、黙っててくんねえ、人に言っちゃ悪いぜとばかり、たちまち暗澹《あんたん》たる夜色は黒い布の中へ、機敏迅速な姿を隠そうとしたのは昨夜の少年。四辺《あたり》に人がないから、滝さんといって呼留めて、お兼は久《ひさし》ぶりでめぐりあったが、いずれも世を憚《はばか》って心置のない湯の谷で、今夜の会合をあらかじめ約したのであった。        三十三  二人は語らい合って、湯の谷の媼《ばば》が方《かた》へ歩き出した。  お兼は四辺《あたり》を眗《みまわ》して、 「そりゃそうと、酷《ひど》い目に逢いそうだった姉さんはどうしたの。なんだかお前さんと、あの肥《ふと》った、」 「芋虫か、」 「え、じゃあ細長い方は蚯蚓《みみず》かい。おほほほほ、おかしいねえ、まあ、その芋虫と、蚯蚓とお前さんと。」 「厭《いや》だぜ、おいら虫じゃあねえよ。」と円《つぶら》に目を睜《みは》ってわざと真顔になる。 「御免なさいまし、三人|巴《ともえ》になってごたごたしてるので、つい見はぐしたよ、どうしたろう。」 「何か、あの花売の別嬪《べっぴん》か。」 「高慢なことをいうねえ、花売だか何だか。」 「うむ、ありゃもう疾《とっ》くに帰った。俺《おい》ら可《い》いてことよと受合って来たけれども、不安心だと見えてあとからついて来たそうで、老人《としより》は苦労性だ。挨拶《あいさつ》だの、礼だの、誰方《どなた》だのと、面倒|臭《くせ》えから、ちょうど可い、連立《つれだ》たして、さっさと帰しちまった。」 「何しろ可《よ》かったねえ。喧嘩になって、また指環でも揮廻《ふりまわ》しはしないかと、私ははらはらして見ていたんだよ。ほんとにお前さん、あれを滅多に使っちゃあ悪うござんす。」 「蝮《まむし》の針だ、大事なものだ。人に見せて堪《たま》るもんか、そんなどじなこたあしやしないよ。」 「いかがですか、こないだ店前《みせさき》へ突出したお手際では怪しいもんだよ。多勢居る処じゃあないかね。」 「誰がまた姉や、お前《めえ》だと思うもんか。あの時はどきりとした、ほんとうだ、縛られるかと思った。」 「だからさ、私に限らず、どこにどんな者が居ないとも限らないからね、うっかりしちゃあ危険《けんのん》だよ。」 「あい、いいえ、それが何だ、知事のお嬢さんがね、いやに目をつけて指環を取換《とッか》えようなんて言うんだ。何だか機関《からくり》を見られるようで、気がさすから、目立たないのが可かろう、銀流でもかけておけと、訳はありゃしねえ、出来心で遣ったんだ、相済みません。」といって、莞爾《かんじ》として戯《たわむれ》にその頭《つむり》を下げた。 「沢山《たんと》お辞儀をなさい、お前さん怪《け》しからないねえ。そりゃ惚《ほ》れてるんだろう、恐入った?」 「おお、惚れたんだか何だか知らねえが、姫様《ひいさま》の野郎が血道を上げて騒いでるなあ、黒百合というもんです。」 「何だとえ。」 「百合の花の黒いんだッさ、そいつを欲しいって騒ぐんだな。」 「へい、欲しければ買ったら可さそうなもんじゃあないか。」 「それがね、不可《いけ》ねえんだ、銭金《ぜにかね》ずくじゃないんだってよ。何でも石滝って処を奥へ蹈込《ふみこ》むと、ちょうど今時分咲いてる花で、きっとあるんだそうだけれど、そこがまた大変な処でね、天窓《あたま》が石のような猿の神様が住んでるの、恐《おそろし》い大《おおき》な鷲《わし》が居るの、それから何だって、山ン中だというに、おかしいじゃあねえか、水掻《みずかき》のある牛が居るの、種々《いろいろ》なことをいって、まだ昔から誰も入ったことがないそうで、どうして取って来られるもんだとも思やしないんだってこッた。弱虫ばかり、喧嘩の対手《あいて》にするほどのものも居ねえ処だから、そン中へ蹈込んで、骨のある妖物《ばけもの》にでも、たんかを切ってやろうと、おいら何《なん》するけれども、つい忙《せわし》いもんだから思ったばかし。」 「まあ、大層お前さん、むずかしいのね、忙いって何の事だい。」 「だから待ちねえ、見せるてこッた、うんと一番《ひとつ》喜ばせるものがあるんだぜ。」 「ああ、その滝さんが見せるというものは、何だか知らないが見たいものだよ。」        三十四  滝太郎はかつて勇美子に、微細なるモウセンゴケの不思議な作用を発見した視力を誉《たた》えられて、そのどこで採獲《とりえ》たかの土地を聞かれた時、言葉を濁して顔の色を変えたことを――前回に言った。  いでそのモウセンゴケを渠《かれ》が採集したのは、湯の谷なる山の裾の日当《ひあたり》に、雨の後ともなく常にじとじと、濡れた草が所々にある中においてした。しかもお雪が宿の庭|続《つづき》、竹藪《たけやぶ》で住居《すまい》を隔てた空地、直ちに山の裾が迫る処、その昔は温泉《ゆ》が湧出《わきで》たという、洞穴《ほらあな》のあたりであった。人は知らず、この温泉《ゆ》の口の奥は驚くべき秘密を有して、滝太郎が富山において、随処その病的の賊心を恣《ほしいまま》にした盗品を順序よく並べてある。されば、お雪が情人に貢ぐために行商する四季折々の花、美しく薫《かおり》のあるのを、露も溢《こぼ》さず、日ごとにこの洞穴の口浅く貯えておくのは、かえって、滝太郎が盗利品に向って投げた、花束であることを、あらかじめここに断っておかねばならぬ。  さて、滝太郎がその可恐《おそろ》しい罪を隠蔽《いんぺい》しておく、温泉《ゆ》の口の辺《あたり》で、精細|式《かた》のごときモウセンゴケを見着けた目は、やがてまた自分がそこに出没する時、人目のありやなしやを熟《じっ》と見定める眼《まなこ》であるから、己《おのれ》の視線の及ぶ限《かぎり》は、樹も草も、雲の形も、日の色も、従うて蟻の動くのも、露のこぼるるのも知らねばならないので、地平線上に異状を呈した、モウセンゴケの作用は、むしろ渠がいまだかつて見も聞きもしなかったほど一層心着くに容易《たやす》いのであった。あたかも可し、さる必用を要する渠が眼《まなこ》は、世に有数の異相と称せらるる重瞳《ちょうどう》である。ただし一双ともにそうではない、左一つ瞳《ひとみ》が重《かさな》っている。  そのせいであったろう。浅草で母親が病んで歿《みまか》る時、手を着いて枕許《まくらもと》に、衣帯を解かず看護した、滝太郎の頸《うなじ》を抱いて、(お前は何でもしたいことをおしよ、どんなことでもお前にはきっと出来るのだから、)といったッきり、もう咽喉《のど》がすうすうとなった。  その上また母親はあらかじめ一封の書を認《したた》めておいて、不断滝太郎から聞き取って、その自分の信用を失うてまで、人の忌嫌う我児を愛育した先生に滝太郎の手から託さするように遺言して、(私が亡くなった後で、もしも富山からだといって人が尋ねて来たら、この手紙を渡して下さい。開けちゃあ不可《いけ》ません、来なかったらばそのままで破って下さい、きっとお見懸け申してお頼み申します。)と言わせたのである。  やや一月ばかり経《た》つと、その言違《ことたが》わず果して富山からだといって尋ねて来たのが、すなわち当時の家令で、先代に託されて、その卒去の後《のち》、血統というものが絶えて無いので、三年間千破矢家を預《あずか》っていて今も滝太郎を守立ててる竜川守膳《たつかわしゅぜん》という漢学者。  守膳は学校の先生から滝太郎の母親の遺書を受取ったが、その時は早や滝太郎が俵町を去って二月ばかり過ぎた後であったので、泰山のごとく動かず、風采《ふうさい》、千破矢家の傳《ふ》たるに足る竜川守膳が、顔の色を変えて血眼になって、その捜索を、府下における区々の警察に頼み聞えると、両国|回向院《えこういん》のかの鼠小憎の墓前《はかのまえ》に、居眠《いねむり》をしていた小憎があった。巡行の巡査が怪《あやし》んで引立《ひった》て、最寄の警察で取調べたのが、俵町の裏長屋に居たそれだと謂って引渡された。  田舎は厭《いや》だと駄々を捏《こ》ねるのを、守膳が老功で宥《なだ》め賺《すか》し、道中土を蹈《ふ》まさず、動《ゆるぎ》殿のお湯殿子《ゆどのこ》調姫《しらべひめ》という扱いで、中仙道は近道だが、船でも陸《おか》でも親不知《おやしらず》を越さねばならぬからと、大事を取って、大廻《おおまわり》に東海道、敦賀、福井、金沢、高岡、それから富山。        三十五  湯の谷の神の使だという白烏《しろからす》は、朝月夜にばかり稀《まれ》に見るものがあると伝えたり。  ものの音はそれではないか。時ならず、花屋が庭|続《つづき》の藪《やぶ》の際に、かさこそ、かさこそと響《ひびき》を伝えて、ややありて一面に広々として草まばらな赤土の山の裾《すそ》へ、残月の影に照らし出されたのは、小さい白い塊である。  その描けるがごとき人の姿は、薄《うッす》りと影を引いて、地の上へ黒い線が流るるごとく、一文字に広場を横切って、竹藪を離れたと思うと、やがて吹流しに手拭を被《かぶ》った婦人《おんな》の姿が顕《あらわ》れて立ったが、先へ行《ゆ》く者のあとを拾うて、足早に歩行《ある》いて、一所になると、影は草の間に隠れて、二人は山腹に面した件《くだん》の温泉《ゆ》の口の処で立停《たちどま》った。夏の夜はまだ明けやらず、森《しん》として、樹の枝に鳥が塒《ねぐら》を蹈替《ふみか》える音もしない。 「跟《つ》いておいで、この中だ。」と低声《こごえ》でいった滝太郎の声も、四辺《あたり》の寂莫《せきばく》に包まれて、異様に聞える。  そのまま腰を屈《かが》めて、横穴の中へ消えるよう。  お兼は抱着くがごとくにして、山腹の土に手をかけながら、体を横たえ、顔を斜《ななめ》にして差覗《さしのぞ》いて猶予《ためら》った。 「滝さん、暗いじゃあないか。」  途端に紫の光一点、※[#「火+發」、308-13]《ぱっ》と響いて、早附木《マッチ》を摺《す》った。洞《ほら》の中は広く、滝太郎はかえって寛《くつろ》いで立っている。ほとんどその半身を蔽《おお》うまで、堆《うずだか》い草の葉|活々《いきいき》として冷たそうに露を溢《こぼ》さぬ浅翠《あさみどり》の中に、萌葱《もえぎ》、紅《あか》、薄黄色、幻のような早咲の秋草が、色も鮮麗《あざやか》に映って、今踏込むべき黒々とした土の色も見えたのである。 「花室《はなむろ》かい、綺麗だね。」 「入口は花室だ、まだずっと奥があるよ。これからつき当って曲るんだ、待っといで、暗いからな。」  燃え尽して赤い棒になった早附木《マッチ》を棄てて、お兼を草花の中に残して、滝太郎は暗中に放れて去る。  お兼は気を鎮めて洞《ほら》の口に立っていたが、たちまち慌《あわただ》しく呼んだ。 「ちょいと……ちょいと、ちょいと。」  音も聞えず。お兼は尋常《ただ》ならず声を揚げて、 「滝さん、おい、ちょいと、滝さん。」 「おう、」と応《こた》えて、洞穴の隅の一方に少年の顔は顕れた。早く既に一個角燈に類した、あらかじめそこに用意をしてあるらしい灯《ともし》を手にしている。  お兼は走り寄って、附着《くッつ》いて、 「恐しい音がする、何だい、大変な響だね。地面を抉《えぐ》り取るような音が聞えるじゃあないか。」  いかにも洞の中は、ただこれ一条の大|瀑布《ばくふ》あって地の下に漲《みなぎ》るがごとき、凄《すさま》じい音が聞えるのである。  滝太郎は事もなげに、 「ああ、こりゃね、神通川の音と、立山の地獄谷の音が一所になって聞えるんだって言うんだ。地底《じぞこ》がそこらまで続いているんだって、何でもないよ。」  神通は富山市の北端を流るる北陸《ほくろく》七大川の随一なるものである。立山の地獄谷はまた世に響いたもので、ここにその恐るべき山川《さんせん》大叫喚の声を聞くのは、さすがに一個婦人の身に何でもない事ではない。  お兼は顔の色も沈んで、滝太郎にひしと摺寄《すりよ》りながら、 「そうかい、川の音は可《い》いけれど地獄が聞えるなんざ気障《きざ》だねえ。ちょいと、これから奥へ入ってどうするのさ、お前さんやりやしないか。私ゃ殺されそうな気がするよ、不気味だねえ。」 「馬鹿なことを!」        三十六 「いいえ、お前さん、何だか一通《ひととおり》じゃあないようだ、人殺《ひとごろし》もしかねない様子じゃあないか。」さすがの姉御《あねご》も洞中《ほらなか》の闇《やみ》に処して轟々《ごうごう》たる音の凄《すさま》じさに、奥へ導かれるのを逡巡《しりごみ》して言ったが、尋常《ただ》ならぬ光景に感ずる余り、半ばは滝太郎に戯れたので。 「おいで、さあ、夜が明けると人が見るぜ。出後《でおく》れた日にゃあ一日|逗留《とうりゅう》だ、」と言いながら、片手に燈《ともし》を釣って片手で袖を引くようにして連込んだ。お兼は身を任せて引かれ進むと、言うがごとく洞穴の突当りから左へ曲る真暗《まっくら》な処を通って、身を細うして行くとたちまち広し。 「まだまだ深いのかい。」 「もう可《い》い、ここはね、おい、誰も来る処じゃあねえよ。おいらだって、余程の工面で見着け出したんだ。」  滝太郎はこう言いながら、手なる燈《ともし》を上げて四辺《あたり》を照らした。  と見ると、処々《ところどころ》に筵《むしろ》を敷き、藁《わら》を束《つか》ね、あるいは紙を伸べ、布を拡げて仕切った上へ、四角、三角、菱形《ひしがた》のもの、丸いもの。紙入がある、莨入《たばこいれ》がある、時計がある。あるいは銀色の蒼《あお》く光るものあり、また銅《あかがね》の錆《さび》たるものあり、両手に抱えて余るほどな品は、一個《ひとつ》も見えないが、水晶の彫刻物、宝玉の飾《かざり》、錦《にしき》の切《きれ》、雛《ひいな》、香炉《こうろ》の類から、印のごときもの数えても尽されず、並べてあった。その列の最も端の方に据えたのが、蝦茶《えびちゃ》のリボン飾《かざり》、かつて勇美子が頭《かしら》に頂いたのが、色もあせないで燈《ひ》の影に黒ずんで見えた。傍《かたわら》には早附木《マッチ》の燃《もえ》さしが散《ちら》ばっていたのである。  地獄谷の響《ひびき》、神通の流《ながれ》の音は、ひとしきりひとしきり脈を打って鳴り轟《とどろ》いて、堆《うずたか》いばかりの贓品《ぞうひん》は一個々々《ひとつびとつ》心あって物を語らんとするがごとく、響に触れ、燈《ともし》に映って不残《のこらず》動くように見えて、一種言うべからざる陰惨の趣がある。お兼はじっと見て物をも言わぬ、その一言も発しないのを、感に耐えたからだとも思ったろう。滝太郎は極めて得意な様子でお兼の顔を見遣りながら、件《くだん》のリボン飾《かざり》を指《ゆびさ》して、 「これがね、一番新しいんだぜ。ほら、こないだ総曲輪で、姉やに掴《つか》まった時ね、あの昼間だ、あの阿魔、知事の娘のせいでもあるまいが、何だか取難《とりにく》かったよ、夜店をぶらついてる奴等の簪《かんざし》を抜くたあなぜか勝手が違うんだ。でもとうとう遣ッつけた、可い心持だった、それから、」  と言って飜《ひるがえ》って向うへ廻って、一個《ひとつ》の煙草入を照らして見せ、 「これが最初《はじめて》だ、富山へ来てから一番|前《さき》に遣ったのよ。それからね、見ねえ。」  甚しいかな、古色を帯びた観世音の仏像一体。 「これには弱ったんだ、清全寺ッて言う巨寺《おおでら》の秘仏だっさ。去年の夏頃開帳があって、これを何だ、本堂の真中《まんなか》へ持出して大変な騒ぎを遣るんだ。加賀からも、越後からもね、おい、泊懸《とまりがけ》の参詣《さんけい》で、旅籠町の宿屋はみんな泊《とまり》を断るというじゃあねえか。二十一日の間拝ませた。二十一日目だったかな、おいらも人出に浮かされて見に行ったっけ。寺の近所は八町ばかり往来の留まる程だったが、何が難有《ありがて》えか、まるで狂人《きちがい》だ。人の中を這出《はいだ》して、片息になってお前《めえ》、本尊の前へにじり出て、台に乗っけて小さな堂を据えてよ、錦《にしき》の帳《とばり》を棒の尖《さき》で上げたり下げたりして、その度にわッと唸《うな》らせちゃあ、うんと御賽銭《おさいせん》をせしめてやがる。そのお前、前へ伸上って、帳の中を覗《のぞ》こうとした媼《ばばあ》があったさ。汝《うぬ》血迷ったかといって、役僧め、媼を取って突飛ばすと、人の天窓《あたま》の上へ尻餅を搗《つ》いた。あれ引摺出《ひきずりだ》せと講中《こうじゅう》、肩衣《かたぎぬ》で三方にお捻《ひねり》を積んで、ずらりと並んでいやがったが、七八人|一時《いっとき》に立上がる。忌々《いまいま》しい、可哀そうに老人《としより》をと思って癪《しゃく》に障ったから、おいらあな、」  活気は少年の満面に溢《あふ》れて、蒼然《そうぜん》たる暗がりの可恐《おそろ》しい響《ひびき》の中に、灯はやや一条《ひとすじ》の光を放つ。        三十七 「晩方で薄暗かったし、鼻と鼻と打《ぶ》つかっても誰だか分らねえような群衆だから難かしいこたあねえ。一番驚かしてやろうと思って、お前《めえ》、真直《まっすぐ》に出た。いきなり突立《つった》って、その仏像を帳《とばり》の中から引出したんだから乱暴なこたあ乱暴よ。媼《ばあ》やゆっくり拝みねえッて、掴《つか》みかかった坊主を一人|引捻《ひんねじ》って転《の》めらせたのに、片膝を着いて、差つけて見せてやった。どうして耐《たま》ったもんじゃあねえ。戦争の最中に支那《ちゃん》が小児《こども》を殺したってあんな騒《さわぎ》をしやあしまい。たちまち五六人血眼になって武者振つくと、仏敵だ、殺せと言って、固めている消防夫《しごとし》どもまで鳶口《とびぐち》を振って駈《か》け着けやがった。」  光景の陰惨なのに気を打たれて、姿も悄然《しょうぜん》として淋しげに、心細く見えた女賊は、滝太郎が勇しい既往の物語にやや色を直して、蒼白《あおじろ》い顔の片頬《かたほ》に笑《えみ》を湛《たた》えていたが、思わず声を放って、 「危いねえ!」 「そんなこたあ心得てら。やい、おいらが手にゃあ仏様持ってるぜ、手を懸けられるなら懸けてみろッて、大《おおき》な声で喚《わめ》きつけた。」 「うむ、うむ、」とばかりお兼は嬉しそうに頷《うなず》いて聞くのである。 「おいらが手で持ってさいその位騒ぐ奴等だ、それをお前こっちへ掴んでるからうっかり手出《てだし》ゃならねえやな。堂の中は人間の黒山が崩れるばかり、潮が湧《わ》いたようになってごッた返す中を、仏様を振廻しちゃあ後へ後へと退《さが》って、位牌堂《いはいどう》へ飛込んで、そこからお前壁の隅ン処を突き破って、墓原へ出て田圃《たんぼ》へ逃げたぜ。その替り取れようとも思わねえ大変なものをやッつけた。今でもお前、これを盗まれたとってどの位探してるか知れねえよ。富山の家《うち》が五六百焼けたってあんなじゃあるめえと思う位、可い心持じゃあねえか。姉や、それだがね、おらあこんなことを遣ってからはじめてだ、実は恐《こわ》かった、殺されるだろうと思ったよ。へん、おいらアのせいじゃないぜ、大丈夫知れッこなしだ、占めたもんだい、この分じゃあ今に見ねえ、また大仕事をやらかしてやらあな。」  血も迸《ほとば》しらんばかり壮《さかん》だった滝太郎の面《おもて》を、つくづく見て、またその罪の数を眗《みまわ》して、お兼はほっという息を吐《つ》いた。  歎息《ためいき》して、力なげにほとんどよろめいたかと見えて、後《うしろ》ざまに壁のごとき山腹の土に凭《もた》れかかり、 「滝さん、まあ、こうやって、どうする意《つもり》だねえ。いいえ、知ってるさ。私だって、そうだったが、殊にお前さん銭金《ぜにかね》に不自由はなし、売ってどうしようというんじゃあない、こりゃ疾《やまい》なんだ。どうしても止《や》められやしないんだろうね。」  言うことは白魚のお兼である。滝太郎は可怪《あやし》い目をして、 「誰がお前、これを止しちゃッて何がつまるもんか。おらあ時とすると筵《むしろ》を敷いて、夜一夜《よッぴて》この中で寝て帰ることがある位だ。見ねえ、おい、可い心持じゃあねえか、人にも見せてやりたくッてしようがねえんだけれど、下らない奴に嗅《かぎ》つけられた日にゃ打破《ぶちこわ》しだから、ああ、浅草で別れた姉やぐらいなのがあったらと、しょッちゅう思っていねえこたあなかったよ。おいら一人も友達は拵《こせ》えねえんだ、総曲輪でお前に、滝やッて言われた時にゃあ、どんなに喜んだと思うんだ、よく見て誉《ほ》めてくんねえな。」  ずッと寄ると袖を開いて、姉御は何と思ったか、滝太郎の頸《うなじ》を抱いて、仰向《あおむき》の顔を、 「どれ、」  燈《ともし》は捧げられた、二人はつくづくと目を見合せたのであった。お兼は屹《きっ》と打守って、 「滝さん、お前さんは自分の目がどんなに立派なものだか知ってるかね。」        三十八 「お前さんの母様《おっかさん》が亡《なく》なんなすった時も、お前にゃあ何でもしたいことが出来るからってとお言いだったと聞いちゃあいたがね、まあ、随分思切ったこったね。何かい、ここで寝ることがあるのかい。」 「ああ、あの荒物屋の媼《ばば》っていうのが、それが、何よ、その清全寺で仏像の時の媼なんだから、おいらにゃあ自由が利くんだ。邸《やしき》からじゃあ面倒だからね、荒物屋を足溜《あしだまり》にしちゃあ働きに出るのよ。それでも何や彼《か》や出入に面倒だったり、一品《ひとしな》々々|捻《ひね》くっちゃあ離れられなくって、面白い時はこの穴ン中で寝て行かあ。寝てるとね、盗んで来たここに在る奴等が、自分が盗《と》られた時の様子を、その道筋から、機会《きっかけ》から、各々《めいめい》に話をするようで、楽《たのしみ》ッたらないんだぜ。」 「それでまあよくお前さん体が何ともないね。浅草に餓鬼大将をやってお在《いで》の時とは違って、品もよくおなりだし、丸顔も長くなってさ、争われない、どう見ても若殿様だ。立派なもんだ。どうして、お前さんのその不思議な左の目の瞳子《どうし》に見覚《みおぼえ》がなかった日にゃあ、名告《なの》られたって本当に出来るもんじゃあない、その替り、こら、こんなに、」  と手を取って、お兼は掌《てのひら》に据えて瞻《みまも》りながら、 「節もなくなって細うなったし、体も弱々しくって、夜露に打たれても毒そうではないか。」 「不景気なことを言ってらあ。麦畠《むぎばたけ》の中へ引《ひっ》くりかえって、青天井で寝た処で、天窓《あたま》が一つ重くなるようなんじゃあないよ、鍛えてあらあな。」と昂然《こうぜん》たり。 「そうかい、体はそれで可いとした処で、お前さんのような御身分じゃあ、鎖《じょう》を下ろした御門もあろうし、お次にはお茶坊主、宿直《とのい》の武士というのが控えてる位なもんじゃあないか。よくこうやって夜一夜《よッぴて》出歩かれるねえ。」 「何、そりゃおいら整然《ちゃん》と旨《うま》くやってるから、大概内の奴あ、今時分は御寝《ぎょし》なっていらっしゃると思ってるんだ。何から何まで邸の事をすっかり取締ってるなあ、守山てって、おいらを連れて来た爺さんだがね、難かしい顔をしてる割にゃあ解ってて、我儘《わがまま》をさしてくれらあね。」 「成程ね、華族様の内をすっかり預《あずか》って、何のこたあない乞食からお前さんを拾上げたほどの人だから、そりゃお前さんを扱うこたあ、よく知っているんだろう。」 「ああ、ただもう家名を傷《きずつ》けないようにって、耳|懊《うるさ》く言って聞かせるのよ。堅い奴だが、おいら嫌いじゃあねえ。」 「ふむ、それでお前さん、盗賊《どろぼう》をすりゃ世話は無いじゃあないか。」と言って、心ありげに淋しい笑《えみ》を含んだのである。 「おいら何もこれを盗って、儲けようというんじゃあなし、ただ遊んで楽《たのし》むんだあな。犬猫を殺すのも狩をするのも同一《おんなじ》こッた。何、知れりゃ華族だ、無断に品物を取って来た、代価は幾干《いくら》だ、好《すき》な程払ってやるまでの事じゃあねえか。」 「あんな気だから納まらないよ。ほんとに私もあの時分に心得違いをしていたから、見処のあるお前さん、立派な悪党に仕立ててみようと、そう思ったんだがね。滝さんお聞き、蛇がその累々《つぶつぶ》した鱗《うろこ》を立てるのを見ると気味が悪いだろう、何さ、恐《こわ》くはないまでも、可い心持はしないもんだ。蟻でも蠅でも、あれがお前、万と千と固《かたま》っていてみな、厭《いや》なもんだ。松の皮でもこう重《かさな》り重りして堆《うずだか》いのを見るとね、あんまり難有《ありがた》いもんじゃあない、景色の可い樹立《こだち》でも、あんまり茂ると物凄《ものすご》いさ。私ゃもう疾《とう》にからそこへ気が着いて厭になって、今じゃ堅気になっているよ。ね、お前さん、厭な姿は、蛇が自分でも可い心持じゃあなかろうではないか。蚊でも蚤《のみ》でも食ったのが、ぶつぶつ一面に並んでみな、自分の体でも打棄《うっちゃ》りたいやな。私ゃこうやってお前さんがここに盗んだものを並べてあるのを見ると、一々動くようで蛇の鱗だと思って、悚然《ぞっ》とした。」        三十九 「野暮は言わない、私だって何も素人じゃあなし、お前さんの病な事も知ってるから、今めかしい意見をするんじゃないが、世の中にゃもッと面白い盗賊《どろぼう》のしようがありそうなもんじゃないか。時計だの、金だの、お前さんが嬉しがって手柄そうにここに並べて置くものは、こりゃ何だい! 私に言わせると吝《けち》さ、端《はした》のお鳥目でざら幾干《いくら》でもあるもんだ。金剛石《ダイヤモンド》だって、高々人間が大事がって秘《しま》っておくもんだよ、慾《よく》の固《かたまり》だね。金と灰吹は溜《たま》るほど汚いというが、その宝を盗んで来るのは、塵芥溜《ごみため》から食べ荒しをほじくり出す犬と同一《おんなじ》だね、小汚ない。  そんなことより滝さん、もっと立派な、日本晴《にっぽんばれ》の盗賊《どろぼう》がありやしないかしら。  主の棲《す》む淵《ふち》といえば誰も入ったものはあるまい。昔から人の入らない処なら、中にまたどんな珍らしい不思議なものがあろうも知れない。譬《たとえ》にも竜《りゅう》の腭《あご》には神様のような綺麗な珠があるというよ。何そんなものばかりじゃあない、世の中は広いんだ、富山にばかりも神通川も立山もあるじゃあないか。大海の中だの、人の行《ゆ》かない島などには、宝にしろ景色にしろ、どんな結構なものがあろうも知れぬ、そして見つかれば大びらに盗んで可いのさ。  ただそれは難かしい。島へ行くには船もいろうし、山の奥へ入るには野宿だってしなけりゃならない。お前さんはお金子《かね》が自由だろう、我儘《わがまま》が出来るじゃあないか。気象はその通《とおり》だし、胆玉《きもたま》は大《おおき》いし、体は鍛えてある、まあ、第一、その目つきが容易じゃあない。火に焼《やか》れず、水に溺れずといったような好運があるようだ。好《すき》なことが何でも出来るッて、母様《おっかさん》が折紙をつけて下すった体だよ、私が見ても違いはないね。  金目の懸《かか》った宝なんざ、人が大切がって惜しむもので、歩るくにも坐るにも腰巾着《こしぎんちゃく》につけていようが、鎖《じょう》を下ろしておこうが、土の中へ埋めてあろうが、私等が手にゃあお茶の子さ。考えて御覧、どんなに厳重にして守ったって、そりゃ人間の猿智慧《さるぢえ》でするこッた、現にお前さん、多勢黒山のような群集の中で、その観音様を一人で引揚げて来たじゃあないか。人の大事にするものを取って来るのは何でもないが、私がいう宝物は、山の霊、水の精、また天道様が大事に遊ばすものもあろう。人は誰も咎《とが》めないが、迂濶《うかつ》にお寄越《よこ》しはなさらない、大風で邪魔をするか、水で妨げるか、火で遮るか。恐い獣《けだもの》に守らしておきもしようし、真暗《まっくら》な森で包んであろうも知れず、地獄谷とやら、こんな恐い音のする、その立山の底に秘《か》くしてあるものもあろう。近い処が、お前さんが前刻《さっき》お話の、その黒百合というものだ、つい石滝とかの山を奥へ入るとあるッていうのに、そら、昔から人が足蹈《あしぶみ》をしない処で、魔処だ。入っちゃあならない、真暗だ、天窓《あたま》が石のような可恐《おそろし》い猿が居る、それが主だというじゃあないか。この国中|捌《さば》いてる知事の嬢さんが欲しくっても、金でも権柄《けんぺい》ずくでも叶《かな》わないというだろう。滝さんどうだね、そんなものを取って来ちゃあ。  一番《ひとつ》何でもそういったものを、どしどし私たちが頂戴をすることにしようじゃないか。私ばかりでない、まだ同一《おんなじ》心の者が、方々に隠れている、その苧環《おだまき》の糸を引張ってさ、縁のあるものへ結びつけて、人間の手で網を張ろうという意《つもり》でね、こうやって方々歩いている。何、私なんざ、ほんの手先の小使だ、幾らも、お前さんの相談相手があるんだから、奮発をしてお前さん、連判状の筆頭につかないか。」  意気八荒を呑む女賊は、その花のごとき唇から閃《ひらめ》いてのぼる毒炎を吐いた。洞穴《ほらあな》の中に、滝太郎が手なる燈《ともしび》の色はやや褪《あ》せたと見ると、件《くだん》の可恐《おそろし》い響《ひびき》は音絶《とだ》えるがごとく、どうーどうーどうーと次第に遠ざかって、はたと聞えなくなったようである。        四十 「もう夜明だ、姉や、分ったい、うむ、早く出よう。そして、おいらもう、この穴へは入るまい。」  滝太郎は決然として答えた。お兼は嬉しげに手を取って、 「滝さん、それでこそお前さんだ、ああ、富山じゃあ良《い》い事をした、お庇様《かげさま》で発程栄《たちばえ》がする。」 「お前《めえ》、もうちっとこっちに居てくんねえな。おいら勝手に好《すき》な真似はしてるけれど、友達も何《なんに》もありゃしないやな。本当は心細くッて、一向|詰《つま》らないんだぜ。」 「気の弱いことをいうもんじゃあない、私はこれから加州へ行って、少し心|当《あたり》があるんだし、あそこへは先へ行って待合わせている者がある。そうしちゃあいられないんだから、また逢おうよ。そしてお前さんの話をして、仲間の者を喜ばせよう。何の、味方にしようと思えば、こっちのものなんざ皆《みんな》味方さ。不残《のこらず》敵になったって難かしい事はないのだもの。」 「うむ、そんならそうよ。」と頷《うなず》いて身を開いた、滝太郎は今|森《しん》として響《ひびき》も止《や》んだ洞穴の中に耳を澄したが、見る見る顔の色が動いて、目が光った。 「や、山の上で蜩《ひぐらし》が鳴かあ、ちょッ、あいつが二三度鳴くと、直ぐに起きやあがる。花屋の女は早起だ、半日ここに居て耐《たま》るもんかい。」  ふッと燈《あかし》を消すと同時に、再びお兼の手をしっかと取って、 「姉や、大丈夫だ、暗い内に、急いで。さあ、」  温泉《ゆ》の口なる、花室の露を掻潜《かいくぐ》って、山の裾へ出ると前後《あとさき》になり、藪《やぶ》について曲る時、透かすと、花屋が裏庭に、お雪がまだ色も見え分かぬ、朝まだき、草花の中に、折取るべき一個《ひとつ》の籠《かご》を抱いて、しょんぼりとして立っていた。髪|艶《つやや》かに姿白く、袖もなえて、露に濡れたような風情。推するに渠《かれ》は若山の医療のために百金を得まく、一輪の黒百合を欲して、思い悩んでいるのであろう。南天の下に手水鉢《ちょうずばち》が見えるあたりから、雨戸を三枚ばかり繰った、奥が真四角《まッしかく》に黒々と見えて、蚊帳の片端の裾が縁側へ溢《あふ》れて出ている。ト見る時、また高らかに蜩《ひぐらし》が鳴いた。 「そらね、あれだから。」  と苦笑する。滝太郎と囁《ささや》き合い、かかることに馴《な》れて忍《しのび》の術を得たるごとき両個の人物は、ものおもうお雪が寝起《ねおき》の目にも留まらず、垣を潜《くぐ》って外へ出ると、まだ閉切ってある、荒物屋の小店の、燻《くすぶ》った、破目《やれめ》や節穴の多い板戸の前を抜けて、総井戸の釣瓶《つるべ》がしとしとと落つる短夜の雫《しずく》もまだ切果《きれは》てず、小家がちなる軒に蚊の声のあわただしい湯の谷を出て、総曲輪まで一条《ひとすじ》の径《こみち》にかかり、空を包んだ木の下に隠れて見えなくなった。 「それじゃあ滝さん、もう、ここから帰っておくれ、ちょうど人目にもかからないで済んだ。」  早朝《あさまだき》町はずれへ来て、お兼は神通川に架した神通橋の袂《たもと》で立停《たちどま》ったのである。雲のごときは前途《ゆくて》の山、煙《けぶり》のようなは、市中《まちなか》の最高処にあって、ここにも見らるる城址《しろあと》の森である。名にし負う神通二百八間の橋を、真中《まんなか》頃から吹断《ふきた》って、隣国の方へ山道をかけて深々と包んだ朝靄《あさもや》は、高く揚って旭《あさひ》を遮り、低く垂れて水を隠した。色も一様の東雲《しののめ》に、流《ながれ》の音はただどうどうと、足許《あしもと》に沈んで響く。  お兼は立去りあえず頭《かしら》を垂れたが、つと擬宝珠《ぎぼうし》のついた、一抱《ひとかかえ》に余る古びた橋の欄干に目をつけて、嫣然《えんぜん》として、振返って、 「ちょいと滝さん、見せるものがある。ね、この欄干を御覧、種々《いろいろ》な四角いものだの、丸いものだの、削った爪の跡だの、朱だの、墨だので印がつけてあるだろう、どうだい、これを記念《かたみ》に置いて行こうか。」        四十一  折から白髪天窓《しらがあたま》に菅《すげ》の小笠《おがさ》、腰の曲ったのが、蚊細《かぼそ》い渋茶けた足に草鞋《わらじ》を穿《は》き、豊島茣蓙《としまござ》をくるくると巻いて斜《ななめ》に背負《しょ》い、竹の杖を両手に二本突いて、頤《おとがい》を突出して気ばかり前《さき》へ立つ、婆《ばばあ》の旅客が通った。七十にもなって、跣足《はだし》で西京の本願寺へ詣《もう》でるのが、この辺りの信者に多いので、これは飛騨《ひだ》の山中《やまなか》あたりから出て来たのが、富山に一泊して、朝がけに、これから加州を指して行《ゆ》くのである。  お兼は黙って遣過《やりす》ごして、再び欄干の爪の跡を教えた。 「これはね、皆《みんな》仲間の者が、道中の暗号《めじるし》だよ。中にゃあ今|真盛《まっさかり》な商売人のもあるが、ほらここにこの四角な印をつけてあるのが、私が行ってこれから逢おうという人だ、旧《もと》海軍に居た将官《たいしょう》だね。それからこうあっちに、畝々《うねうね》した線《すじ》が引張《ひっぱ》ってあるだろう、これはね、ここから飛騨の高山の方へ行ったんだよ。今は止《や》めていても兇状持《きょうじょうもち》で随分人相書の廻ってるのがあるから、迂濶《うかつ》な事が出来ないからさ。御覧よ、今本願寺|参《まいり》が一人通ったろう。たしかあれは十四五人ばかり一群《ひとむれ》なんだがね、その中でも二三人、体の暗い奴等が紛れ込んで富山から放れる筈《はず》だよ。倶利伽羅辺《くりからあたり》で一所になろう、どれ私もここへ、」  と言懸けて、お兼は、銀煙管《ぎんぎせる》を抜くと、逆に取って、欄干の木の目を割って、吸口の輪を横に並べて、三つ圧《お》した。そのまま筒に入れて帯に差し、呆れて見惚《みと》れている滝太郎を見て、莞爾《にこり》として、 「どうだい、こりゃ吃驚《びっくり》だろう。方々の、祠《ほこら》の扉だの、地蔵堂の羽目だの、路傍《みちばた》の傍示杭《ぼうじぐい》だの、気をつけて御覧な、皆《みんな》この印がつけてあるから。人の知らない、楽書の中にこの位なことが籠《こも》ってるから、不思議だわね。だから世の中は面白いものだよ。滝さん、お前さんの目つきと、その心なら、ここにある印は不残《のこらず》お前さんの手下になります、頼もしいじゃあないか。」 「うむ、」といって、重瞳《ちょうどう》異相の悪少は眠くないその左の目を擦《こす》った。 「加州は百万石の城下だからまた面白い事もあろう、素晴しい事が始まったら風の便《たより》にお聞きなさいよ。それじゃあ、あの随分ねえ。」 「気をつけて行きねえ。」 「あい、」 「………」 「おさらばだよ。」  その効々《かいがい》しい、きりりとして裾短《すそみじか》に、繻子《しゅす》の帯を引結んで、低下駄《ひくげた》を穿《は》いた、商売《あきない》ものの銀流を一包にして桐油合羽《とうゆがっぱ》を小さく畳んで掛けて、浅葱《あさぎ》の切《きれ》で胴中《どうなか》を結えた風呂敷包を手に提げて、片手に蝙蝠傘《こうもりがさ》を持った後姿。飄然《ひょうぜん》として橋を渡り去ったが、やがて中ほどでちょっと振返って、滝太郎を見返って、そのまま片褄《かたづま》を取って引上げた、白い太脛《ふくらはぎ》が見えると思うと、朝靄《あさもや》の中に見えなくなった。  やがて、夜が明け放れた時、お兼は新庄《しんじょ》の山の頂を越えた、その時は、裾を紮《から》げ、荷を担ぎ、蝙蝠傘をさして、木賃宿から出たらしい貧しげな旅の客。破毛布《やぶれげっと》を纏《まと》ったり、頬被《ほおかぶり》で顔を隠したり、中には汚れた洋服を着たのなどがあった、四五人と道連《みちづれ》になって、笑いさざめき興ずる体《てい》で、高岡を指して峠を下りたとのことである。  お兼が越えた新庄というのは、加州の方へ趣く道で、別にまた市中《まちなか》の北のはずれから、飛騨へ通ずる一筋の間道がある。すなわち石滝のある処で、旅客は岸|伝《づたい》に行《ゆ》くのであるが、ここを流るるのは神通の支流で、幅は十間に足りないけれども、わずかの雨にもたちまち暴溢《あふれ》て、しばしば堤防《どて》を崩す名代の荒河。橋の詰《つめ》には向い合って二軒、蔵屋、鍵《かぎ》屋と名ばかり厳《いかめ》しい、蛍狩、涼《すずみ》をあての出茶屋《でぢゃや》が二軒、十八になる同一年紀《おないどし》の評判娘が両方に居て、負けじと意気張って競争する、声も鶯《うぐいす》、時鳥《ほととぎす》。 「お休みなさいまし、お懸けなさいまし。」        四十二  その蔵屋という方の床几《しょうぎ》に、腰を懸けたのは島野紳士、ここに名物の吹上の水に対し、上衣《コオト》を取って涼を納《い》れながら、硝子盃《コップ》を手にして、 「ああ、涼しいが風が止《や》んだ、何だか曇って来たじゃあないか、雨はどうだろうな。」  客の人柄を見て招《まねき》の女、お倉という丸ぽちゃが、片襷《かただすき》で塗盆を手にして出ている。 「はい、大抵持ちましょうと存じます。それとも急にこうやって雲が出て参りましたから、ふとすると石滝でお荒れ遊ばすかも分りません。」 「何だね、石滝でお荒れというのは。」 「それはあの、少しでも滝から先へ足踏をする者がございますと、暴風雨《あらし》になるッて、昔から申しますのでございますが。」  島野は硝子盃を下に置いた。 「うむ、そして誰か入ったものがあるのかね。」 「今朝ほど、背負上《しょいあげ》を高くいたして、草鞋《わらじ》を穿《は》きましてね、花籃《はなかご》を担ぎました、容子《ようす》の佳《い》い、美しい姉さんが、あの小さなお扇子を手に持って、」と言懸《いいかか》ると、何と心得たものか、紳士は衣袋《かくし》の間から一本|平骨《ひらぼね》の扇子を抜出して、胸の辺りを、さやさや。 「はあ、それが入ったのか。」 「さようでございます。その姉さんは貴方《あなた》、こないだから、昼間参りましたり、晩方来ましたりいたしましては、この辺を胡乱々々《うろうろ》して、行ったり来たりしていたのでございますがね。今日は七日目でございます。まさかそんなことはと存じておりますと、今朝ほどここの前を通りましてね、滝の方へ行ったきり帰りません、きっと入りましたのでございましょう。」 「何かね、全くそんな不思議な処かね。」 「貴方、お疑り遊ばすと暴風雨《あらし》になりますよ。」といって、塗盆を片頬《かたほ》にあてて吻々《ほほ》と笑った、聞えた愛嬌者《あいきょうもの》である。島野は顔の皮を弛《ゆる》めて、眉をびりびり、目を細うしたのは謂《い》うまでもない。 「それは可《い》いが姉さん、心太《ところてん》を一ツ出しておくれな。」 「はい、はい。」 「待ちたまえ、いや、それともまた降られない内に帰るとするかね。」 「どういたしまして、降りませんでも、貴方|川留《かわどめ》でございますよ。」  方二坪ばかり杉葉の暗い中にむくむくと湧上《わきあが》る、清水に浸したのを突《つき》にかけてずッと押すと、心太《ところてん》の糸は白魚のごときその手に搦《から》んだ。皿に装《も》って、はいと来る。島野は口も着けず下に置いて、 「そうして何かい、ついぞまだそこへ行った者を見たことはないのか。」 「いいえ、私が生れましてから始めてでございますが、貴方どうでございましょう、つい少しばかり前にいらっしゃいました、太った乱暴な、書生さんが、何ですか、その姉さんがここへ参りましたことを御存じの様子で、どうだとお聞きなさいますから、それそれ申しますと、うむといったッきり駈出《かけだ》して、その方もまだお帰《かえり》になりません。」 「え、そりゃ何か、目の丸い、」 「はい、お色の黒い、いがぐり天窓《あたま》の。もうもう貴方のようじゃあございませんよ、おほほほ。」 「いや!」とばかりでこの紳士、何か早や、にたりとしたが、急に真面目になって、 「ちょッ、しようがないな。」 「貴方御存じの方なんですか。」 「うむ、何だよ、その娘の跡を跟《つ》けまわしてな、から厭《いや》がられ切ってる癖に、狂犬《やまいぬ》のような奴だ、来たかい! 弱ったな、どうも、汝《うぬ》一人で。」 「何でございます。」 「いえさ、連《つれ》は無かったのか。」        四十三 「ただお一人でございましたよ、豪《えら》そうなお方なんです。それに仕込杖《しこみづえ》なんぞ持っていらっしゃいましたから、私達がかれこれ申上げた処で、とてもお肯入《ききい》れはなさりますまいと、そう思いまして黙って見ておりましたが、無事にお帰りなされば可《よ》うございますがね。」  島野は冷然として、 「何、犬に食われて死にゃあ可いんだ。」 「だって、姉さんはお可哀そうじゃございませんか。」 「そりゃお互様よ。」 「あれ、お安くございませんのね。でも、あの、二度あることは三度とやら申しますから、今日の内また誰かお入りなさりはしまいかと言って、内の父様《おとっさん》も案じておりますから、貴方またその姉さんをお助けなさろうの何のッて、あすこへいらっしゃるのはお止し遊ばしまし。」 「だが、その滝の傍《そば》までは行っても差支《さしつかえ》が無いそうじゃないか。」 「そこまでなら偶《たま》に行く人もございますが、貴方何しろ真暗《まっくら》だそうですよ。もうそこへ参りました者でも、帰ると熱を煩って、七日も十日も寝る人があるのでございます。」 「熱はお前さんを見て帰ったって同一《おんなじ》だ、何暗いたッて日中《ひなか》よ、構やしない。きっとそこらにうろついているに違いない、ちょっと僕は。おい、姉さん帰りに寄ろう。」 「お気をお着け遊ばしていらっしゃいましよ。」  島野は多磨太が先《さきん》じたりと聞くより、胸の内安からず、あたふた床几《しょうぎ》を離れて立ったが、いざとなると、さて容易な処ではない。ほぼ一町もあるという、森の彼方《かなた》にどうどうと響く滝の音は、大河を倒《さかしま》に懸けたように聞えて、その毛穴はここに居る身にもぞッと立った。島野は逡巡して立っている。  折から堤防伝《つつみづた》いに蹄《ひづめ》の音、一人|砂烟《すなけぶり》を立てて、斜《ななめ》に小さく、空《くう》を駆けるかと見る見る近づき、懸茶屋《かけぢゃや》の彼方から歩を緩《ゆる》めて、悠然と打って来た。茶屋の際の葉柳の下枝《しずえ》を潜《くぐ》って、ぬっくりと黒く顕《あら》われたのは、鬣《たてがみ》から尾に至るまで六尺、長《たけ》の高きこと三尺、全身墨のごとくにして夜眼《やがん》一点の白《はく》あり、名を夕立といって知事の君が秘蔵の愛馬。島野は一目見て驚いて呆れた。しっくりと西洋|鞍《ぐら》置いたるに胸を張って跨《またが》ったのは、美髯《びぜん》広額の君ではなく、一個白面の美少年。頭髪柔かにやや乱れた額少しく汗ばんで、玉洗えるがごとき頬のあたりを、さらさらと払った葉柳の枝を、一掴み馬上に掻遣《かいや》り、片手に手綱を控えながら、一蹄《いってい》三歩、懸茶屋の前に来ると、件《くだん》の異彩ある目に逸疾《いちはや》く島野を見着けた。 「島野、」と呼懸けざま、飜然《ひらり》と下立《おりた》ったのは滝太郎である。  常にジャムを領するをもって、自家の光彩を発揮する紳士は、この名馬夕立に対して恐入らざるを得ないので、 「おや、千破矢様、どうして貴方、」と渋面を造って頭《かしら》を下げる。その時、駿足《しゅんそく》に流汗を被りながら、呼吸はあえて荒からぬ夕立の鼻面を取って、滝太郎は、自分も掌《てのひら》で額の髪を上げた。 「おい、姉や。」 「はい、」 「水を一杯、冷《つめた》いのを大急《おおいそぎ》だ。島野、可い処でお前《めえ》に逢ったい。おいら、お前ン処《とこ》の義作の来るまで、あすこの柳にでも繋《つな》いでおこうと思ったんだけれど、お前が居りゃあ世話はねえ。この馬返すからな、四十物町《あえものちょう》まで持って行ってくんねえ、頼むぜ、おい。」  呆れたものいいと、唐突《だしぬけ》の珍客に、茶屋の女どもは茫乎《ぼんやり》。        四十四  島野は、時というとこの苦手が顕《あらわ》れるのを、前世の因縁とでもいいたげな、弱り果てて、 「へい、その馬を持って帰れとおっしゃるんですか。」  と不平らしい顔をした。 「そうよ。」 「一体その何でございますが、私はどうも一向馬の方は心得ませんもんですから。」 「大丈夫だ。こう、お前《めえ》一ツ内端《うちわ》じゃあねえか、知己《ちかづき》だろう、暴れてくれるなって頼みねえ、どうもしやあしねえやな。そして乗られなかったら曳《ひ》いて行くさ。だからちったア馬に乗ることも心懸けておくこッた、女にかかり合っているばかりが芸じゃあねえぜ。どうだ、色男。」と高慢なことを罪もなくいって、滝太郎は微笑《ほほえ》んだ。 「失敬な。」も口の裡《うち》で、島野は顔を見らるると極《きまり》悪そうに四辺《あたり》をきょろきょろ。茶店の女《むすめ》は、目の前にほっかりと黒毛の駒《こま》が汗ばんで立ってるのを憚《はばか》って、密《そ》と洋盃《コップ》を齎《もた》らした。右手《めて》をのべて滝太郎が受ける時、駒は鬣《たてがみ》を颯《さっ》と振った。あれと吃驚《びっくり》して女《むすめ》は後《あと》へ。若君は轡《くつわ》を鳴らして、しっかと取りつつ、冷水の洋盃を長く差伸べて、盆に返し、 「沢山だ。おい、可いか、島野、預けるぜ。」  屹《きっ》と向直って、早く手綱を棄てようとする。島野は狼狽《うろた》えて両手を上げて、 「若様どうぞ、そりゃ平に、」とばかり、荒馬を一頭《ひとつ》背負《しょ》わされて、庄司重忠にあらざるよりは、誰かこれを驚かざるべき。見得も外聞も無しに恐れ入り、 「平に御容赦てッたような訳なんです。へい、全く不可《いけ》ません。それにちっと待合わせるものもあるんでございますから。」  と窮したる笑顔を造って、渠《かれ》はほとんど哀を乞う。  滝太郎は黙って頷《うなず》くと斉《ひと》しく、駒の鼻頭《はなづら》を引廻《ひきめぐ》らした。蹄《ひづめ》の上ること一尺、夕立は手綱を柳の樹に結えられて嘶《いなな》いた。 「島野、おい、島野。」  この声を聞くごとに、実《ほん》のこッた、紳士はぞッとする位で。 「へい、御用ですか。」 「お前、待合わせるものがあるッて、また別嬪《べっぴん》じゃあねえか、花売のよ。」 「御串戯《ごじょうだん》を、」と言ったが、内心|抉《えぐ》られたように、ぎっくりして、穏《おだやか》ならず。  滝太郎は戯《たわむれ》にいったばかり。そのまま茶屋の女《むすめ》を見返り、 「何ぞ食べるものをくれねえか、多い方が可いぜ。」 「姉さんおいしいものを、早く、冷たくして上げるが可い。」と、島野はてれ隠しに世辞をいった。 「はい、西瓜《すいか》でも切りましょうか。心太《ところてん》、真桑《まくわ》、何を召あがります。」 「そんな水ッぽいもんじゃあねえや、べらぼうめ、そこいらに在る、有平《あるへい》だの、餡麺麭《あんパン》だの、駄菓子で結構だ。懐へ捻込《ねじこ》んで行くんだから紙にでも包んでくんな。」と並べた箱の中に指《ゆびさ》しをする。 「どちらへいらっしゃいます。」 「石滝よ。」  驚いたのは茶店の女《むすめ》ばかりではない、島野も思わず顔を視《なが》める。 「兵粮《ひょうろう》だ、奥へ入《へえ》って黒百合を取って来ようというんだから、日が暮れようも分らねえ。ひもじくなるとそいつを噛《かじ》らあ、どうだ、お前、勇美さんに言いねえ、土産を持って行ってやるからッてよ。」 「途方もない、若様。それを取ろうッて、実はつい先刻《さっき》だそうです。あの花売の女《むすめ》も石滝へ入ったんです。」 「うむ、」といった滝太郎の顔の色は動いた。滝の響《ひびき》を曇天に伝えて聞える、小川の彼方《かなた》の森の方《かた》を、屹《きっ》と見て、すっくと立って、 「あの阿魔がかい、そいつあ危《あぶね》え!」  先立って二度あることは三度とやら、見通《みとおし》の法印だった、蔵屋の亭主は奥から慌《あわただ》しく顔を出して、 「そりゃこそ、また一人。」        四十五 「やあ、島野さん、千破矢の若様はどうしました。」 「義作じゃないか、一体ありゃあどうしたんだね。お前、魔物が夕立に乗って降って来たから、驚いたろうじゃあないか。」と半《なかば》は独言《ひとりごと》のようにぶつぶついう。  被《かぶ》った帽も振落したか、駆附けの呼吸《いき》もまだはずむ、お館《やかた》の馬丁義作、大童《おおわらわ》で汗を拭《ふ》き、 「どうしたって、あれでさ、お前様《まえさん》、私ゃ飛んでもねえどじを行《や》ったで。へい、今朝旦那様をお役所へ送ってね、それからでさ、獣《えて》を引張《ひっぱ》って総曲輪まで帰って来ると、何に驚いたんだか、評判の榎があるって朝っぱらから化けもしめえに、畜生|棹立《さおだち》になって、ヒイン、え、ヒインてんで。」 「暴れたかね。」 「あばれたにも何も、一体名代の代物《しろもの》でごぜえしょう、そいつがお前《め》さん、盲目《めくら》滅法界に飛出したんで、はっと思う途端に真俯向《まうつむけ》に転《のめ》ったでさ。」 「おやおや、道理で額を擦剥《すりむ》いてら。」  義作は掌《てのひら》でべたべたと顔を撫でて、 「串戯《じょうだん》じゃあがあせん、私《わっし》ゃ一期《いちご》で、ダーだと思ったね、地《つち》ん中へ顔を埋《うず》めてお前《め》さん、ずるずると引摺《ひきず》られたから、ぐらぐらと来て気が遠くなったんで。しばらくして突立《つった》って、わってッて追い駆けると、もうわいわいという騒ぎで、砂煙《すなけぶり》が立ってまさ。あれから旅籠町へ抜けて、東四十物町を突切《つっき》って、橋通りへ懸《かか》って神通を飛越そうてえ可恐《おそろし》い逸《そ》れ方だ。南無三宝《なむさんぽう》、こりゃ加州まで行くことかと息切がして蒼《あお》くなりましたね。鳥居前のお前さん、乱暴じゃあがあせんか、華族様だってえのにどうです、もっともまああの方にゃあ不思議じゃねえようなものの、空樽《あきだる》の腰掛だね、こちとらだって夏向は恐れまさ、あのそら一膳飯屋から、横っちょに駆出したのが若様なんです。え、滝先生、滝公、滝坊、へん滝豪傑、こっちの大明神なんで。」とぐっと乗り、拳を握って力を入れると、島野は横を向いて、 「ふむ。」 「どうです、威勢が可いじゃがあせんか。突然《いきなり》畜生の前へ突立《つった》ったから、ほい、蹴飛ばされるまでもねえ、前足が揃って天窓《あたま》の上を向うへ越すだろうと思うと、ひたりと留《とま》ったでさ。畜生、貧乏|動《ゆるぎ》をしやあがる腮《あご》の下へ、体を入れて透間がねえようにくッついて立つが早いか、ぽんと乗りの、しゃんしゃんさ。素人にゃあ出来やせん。義作、貸しねえ貸しねえてって例の我儘《わがまま》だから断りもされず、不断面倒臭くって困ったこともありましたっけが、先刻《さっき》は真《ほん》のこった、私《わっし》ゃ手を合わせました。どうしてお前《め》さんなんざ学者で先生だっていうけれど、からそんな時にゃあ腰を抜かすね。へい。何だって法律で馬にゃあ乗れませんや、どうでげす。」 「はい、お茶を一ツ。」  大|気焔《きえん》の馬丁は見たばかりで手にも取らず、 「おう、そんなもなあ、まだるッこしい。今に私《わっし》ゃそこに湧《わ》いてるのに口をつけて干しちまうから打棄《うっちゃ》っておきねえ。はははは、ええ島野さん。おいらこれから石滝へ行《ゆ》くから、お前《めえ》あとから取りに来ねえ、夕立はちょいと借りるぜって、そのまま乗出したもんだからね、そこいら中騒いでた徒《てええ》に相済みませんを百万だら並べたんで。転んだ奴あ随分あったそうだけれど、大した怪我人もなし、持主が旦那様なんですから故障をいう奴もねえんで、そっちゃ安心をして追駈《おいか》けて来ましたが、何は若様はどちらへ行ったんで。」 「じゃあ、その何だろう、馬騒ぎで血逆上《ちのぼせ》がしたんだろう、本気じゃあないな。兵粮だって餡麺麭《あんパン》を捻込《ねじこ》んで、石滝の奥へ、今の前《さき》橋を渡ったんだ、ちょうど一足違い位なもんだ。」 「やッ、」というて目を睜《みは》る義作と一所に吃驚《びっくり》したのは、茶店の女で、向うの鍵屋の当の敵《かたき》、お米《よね》といって美しいのが、この折しも店先からはたはたと堤防《つつみ》へ駆出したことである。故こそあれ腕車が二台。        四十六 「もしもしちょいとどうぞ、どうぞちょいとお待ち遊ばして。」と路を遮ったので、威勢の可《い》い腕車《くるま》が二台ともばったり[#「ばったり」は底本では「ばつたり」]停《とま》る。米は顔を赤らめて手を膝に下げて、 「恐入ります、御免下さいまし。どちらの姫様《ひいさま》ですか存じませんが、どうぞあちらへいらっしゃいましたら、私《わたくし》どもへお休み遊ばして下さいまし、後生でございます。」  先に腕車《くるま》に乗ったのは、新しい紺飛白《こんがすり》に繻子《しゅす》の帯を締めて、銀杏返《いちょうがえし》に結った婦人《おんな》。 「何だね、お前さん。」 「はい、鍵屋と申します御休憩所《おやすみどころ》でございますが、よそと張合っておりますので。  今朝から向《むこう》にばかりお客がございます処へ、またお馬に召した立派な若様がお立寄でございました。あのお倉さんというのが、それはもうこれ見よがしで、私《わたくし》は居ても立ってもいられません。あんまり悔しゅうございますから、どんなにお叱り遊ばしても宜《よ》うございます、お見懸け申しましてお願い申します。助けると思召して後生でございます、私《わたくし》どもへ。」  とおろおろ声で泣くようにいう。 「おや、じゃああのお茶屋の姉さんかい。」 「はい、さようでございます。」 「それでは御馳走をしてくれますか、」と背後《うしろ》の腕車《くるま》で微笑みながらいったのは、米が姫様《ひいさま》と申上げた、顔立も風采《ふうさい》もそれに叶《かな》った気高いのが、思懸けず気軽である。  女はかえって答もなし得ず、俯向《うつむ》いてただお辞儀をした。 「それじゃ若衆《わかいしゅ》さん。」 「おう、鍵屋だぜ。」 「あい、遣《や》んねえ。」  車夫は呼交わしてそのまま曳出《ひきだ》す。米は前へ駆抜けて、初音《はつね》はこの時にこそ聞えたれ。横着《よこづけ》にした、楫棒《かじぼう》を越えて、前なるがまず下りると、石滝|界隈《かいわい》へ珍しい白芙蓉《はくふよう》の花一輪。微風にそよそよとして下立った、片辺《かたえ》に引添《ひっそ》い、米は前へ立ってすらすらと入るのを、蔵屋の床几《しょうぎ》に居た両人、島野と義作がこれを差覗《さしのぞ》いて、慌《あわただ》しくひょいと立って、体と体が縒《よ》れるように並んで、急足《いそぎあし》につかつかと出た。 「お嬢様。」 「へい、お道どん、御苦労だね。」 「おや、義作さん、ここに。」  勇美子は店さきに入ろうとしたが、不意に会った内の者を顧みて、 「島野さんも来ていたの。」 「ええ、僕は大分久しい前からなんです。義作君はたった今、その馬が放れました一件で。」 「実は何でございます、飛んだ疎匆《そそう》をいたしやして、へい。ねえ、お道どん、こういう訳なんだ、実は、」 「はあ、そりゃもう、路で聞きましたよ、飛んだことだったね、でもまあ可《い》い塩梅《あんばい》に。」 「御家来さん、危《あぶの》うがしたな。」 「しかし怪我アしなさらなくって何よりだったよ。」と車夫どもは口々なり。お道もまた、 「そうねえ。」 「ええ、もう私《わっし》ゃ怪我なんぞ厭《いと》やしませんが、何、皆《みんな》千破矢の若様のお庇《かげ》なんで、へい。」 「ちょいとどうなすったの、滝太郎さんは。」と姫は四辺《あたり》を見て、御意遊ばす。 「お馬はあすこに居るじゃあないかね。」 「お嬢様、何ですか、その事でこちらへお越しなんですか。」 「何あのお雪のことなの。」 「姉さん、花売なんだがね、十八九でちょっとそういった風な女を見当りはしなかったかい。」  お道に聞かれて米が答えようとするのを、ちゃっと引取ったのは今両人が鍵屋の女客に引付けられて、店から出るのに気を揉《も》んで、あとからついて出て立っている蔵屋の女《むすめ》。 「その人なら、存じております、今朝ほどでございました。」 「私だって知ってます。」と、米はつんとして倉を流盼《じろり》。        四十七 「貴方《あなた》の黒百合を採りたいって、とうとう石滝へ入ったそうです。」と、島野が引取って慎重にこれを伝える。  勇美子はその瞳を屹《きっ》と凝らしたが、道は聞くと斉《ひと》しく、顔の色を変えた。 「お嬢様、どういたしましょう。」 「困ったね、少しお待ち、あの、お前だち誰も中の様子を知らないかい。」 「はい、ちっとも。」 「あの、少しも存じません。」 「それはもう誰も知ったものはござりますまい。」  と車夫の一人。 「島野さん、義作さん、どうしたら可いでしょう。お嬢様が御褒美をお賭けなすったのを、旦那様がお聞遊ばすと、もっての外だ、間違いに怪我でもさせたらどうする、外《ほか》の内の者とは違うぞ、早く留めろと有仰《おっしゃ》るの。承わると実に御道理《ごもっとも》な事だから、早速あの娘にそういおうと思って、昨日《きのう》のことなんです、またこないだからふッとお邸には来ないもんですから、昨日《きのう》その金子《かね》は只《ただ》でお遣わしになることになって、それを持って私があそこへ、あの湯の谷の家《うち》へ行《ゆ》くと居ないんです。荒物屋から婆さんが私の姿を見ると、駆けて出て、取次いで、その花のことについて相談をされたのは私ばかり、はじめは滅相なと思ったが、情《こころ》を察すると無理はないので、泣《なき》の涙で合点しました。今日あたりはもう参ったかも知れませぬ、することが天道様の思召《おぼしめし》に叶《かな》ったら無事で帰って参りましょう。内に居る書生さんの旦那にはごく内々だから黙っておいて、とこういうことです。実はと訳をいって、お金子《かね》は預けておこうとすると、それは本人へ直《じか》にといって承知しません。無理もないと引返して、夜も寝ないで今朝、起きがけに行くともう居ないんです。また婆さんが出て、昨夜《ゆうべ》は帰りました、その事をいって聞かせると、なおのことそのお情《なさけ》に預《あずか》っては、きっと取って来て差上げずにはと、留めるのも肯《き》かないで行ったといいます。  ええ、何の知事様から下さるものを、家一つ戴いて何程《どれほど》の事があろう、痩我慢《やせがまん》な行過ぎだと、小腹が立って帰りましたが、それといって棄てておかれぬ、直ぐにといってお嬢様が、ちょうどまたお加減が悪い処、かれこれして遅くなりましたけれども、お体のお厭《いと》いもなく遠方をお出懸けになったのに、まあ飛んだことをしちまったんでございますねえ。」  と道は落着かず胡乱々々《うろうろ》する。  一同顔を見合せた。  義作一名にやりにやり 「可《よ》うがす、何、大概大丈夫でしょう、心配はありますまいぜ。諺《ことわざ》にも何でさ、案ずるより産むが易いって謂《い》いまさ。」 「何だね、お前さん。」とそこどころではない、道は窘《たしな》めるがごとくにいった。  義作あえてその(にやり)なるものを止《や》めず。 「いえ、女ってえものは、またこれがその柔よく剛を制すといった形でね。喧嘩にも傍杖《そばづえ》をくいません、それが証拠にゃあ御覧《ごろう》じろ、人ごみの中でもそんなに足を蹈《ふみ》つけられはしねえもんだ。」 「ちょいとお黙り。高慢なことをお言いでない、お嬢様がいらっしゃるよ。」 「ですからさ、そっちにお嬢様がいらっしゃりゃ、こっちにゃあまた滝公、へん、滝の野郎てえ豪傑がついてまさ。」 「あれだもの。」 「どうでえ阿魔、一言もあるめえ恐入ったか。」 「義作さん可《いい》加減におしな。お嬢様は御心配を遊ばしていらっしゃるんですよ。」 「だから、その御心配には及びますめえッてこった。難かしい事《こた》あない、娘《あま》さい無事なら可いんでしょう。そこは心得てまさ、義作が心得たといっちゃあ、馬に引摺《ひきず》られたからとあって御信仰が薄いでしょうが、滝大明神が心得てついてます。今も島野さんに承わりゃ、あとからついて入んなすったそうで、何、またあの豪傑が行きさえすりゃ、」といいかけて、額を押え、 「や、天狗が礫《つぶて》を打ちゃあがる。」  雨三粒降って、雲間に響く滝の音が乱れた。風一陣!        四十八 「女中さん、降って来そうでございます、姫様《ひいさま》におっしゃって、まあ、お休みなさいましな」と米は程合《ほどあい》を見計らう。 「ああ、そういたしましょうねえ、お嬢様。」  黙って敏活の気の溢《あふ》れた目に、大空を見ておわした姫様は、これに頷《うなず》いて御入《おんいり》があろうとする。道はもとより、馬丁《べっとう》義作続いて島野まで、長いものに巻かれた形で、一群《ひとむれ》になって。米は鍵屋あって以来の上客を得た上に、当の敵《あいて》の蔵屋の分二名まで取込んだ得意想うべく、わざと後を圧《おさ》えて、周章《あわ》てて胡乱々々《うろうろ》する蔵屋の女《むすめ》に、上下《うえした》四人をこれ見よがし。 「お懸けなさいまし、」と高らかに謂った。  蔵屋の倉は堪《たま》りかねて、睨《ね》めながら米を摺抜《すりぬ》けて、島野に走り寄った。 「旦那様、若衆様《わかいしさん》とお二方は、どうぞ私《わたくし》どもへお帰りを願いとう存じます。」 「そうだ、忘れ物もあるし後で寄るよ。」 「はい、お忘物はこちらへ持って参りましても宜《よろ》しゅうございます。申兼ねますがどうぞいらっしゃって下さいまし、拝むんでございます、あの、後生になるのでございます。」 「可いじゃあないか、何も後《のち》にだってよ。」  義作が仔細《しさい》を心得て、 「競争をしてるんでさ、評判なんで。おい、姉さん、御主人様がこちらへお褥《しとね》が据《すわ》るから、あきらめねえ、仕方がねえやな。いえさ、気の毒だ、私《わっし》あ察するがね、まあ堪忍しなさい。」 「それでもどうぞ姫様にお願い遊ばして。」 「何をいうんですよ、馬鹿におしなさいねえ。」  と米は傍《かたわら》から押隔てると、敵手《あいて》はこれなり、倉は先《せん》を取られた上に、今のお懸けなさいましで赫《かッ》となっている処。 「止してくれ、人、身体《からだ》に手なんぞ懸けるのは、汚《けが》れますよ。」 「何を癩《かったい》が。」 「磔《はりつけ》め。」と角目立《つのめだ》ってあられもない、手先の突合《つつきあ》いが腕の掴合《つかみあ》いとなって、頬の引掻競《ひっかきくら》。やい、それと声を懸けるばかりで、車夫も、馬丁《べっとう》も、引張凧《ひっぱりだこ》になった艶福家《えんぷくか》島野氏も、女だから手も着けられない。 「留めておやり。道や、」 「ちょいと、串戯《じょうだん》じゃあないよ、お前様方《まえさんがた》はどうしたもんです。これお放し、あれさ、お放しというに、両方とも恐しい力だ。こっちはお嬢様がそれどころじゃあないのだのに、お前さんまでがお気を揉《も》ませ申すんだよ。可《いい》加減におし、あれさ、可いやね、そんなら私が素裸《まッぱだか》になって着物を地《つち》に敷いて、その上へ貴女《あなた》を休ませ申すまでも、お前達の世話にゃあならない、どちらへも休みはしないからそう思っておくれ。」とすっきりいった。両人《ふたり》は左右に分れたが、そのまま左右から、道の袖を捉《つか》まえて、ひしと縋《すが》って泣出したのである。道は弱って手を束《つか》ねてぼんやりとするのを見て、勇美子は早やばらばらと音のする雨も構わず、手を両人《ふたり》の背《せな》にかけて、蔵屋と、鍵屋と、路傍《みちばた》に二軒ならんだのに目を配って、熟《じっ》と見たまい、 「二人とも聞きな、可いことを教えてあげよう、しょッちゅうそんなことをしていては、どちらにも好《い》いことはないよ。こうおし、お前の処のお客は註文のあった食物をお前の処から持運ぶし、お前の処のお客はお前の店から持って行くことにして、そして一月がわりにするの。可いかい、怨《うら》みっこ無しに冥利《みょうり》の可い方が勝つんだよ。」 「おや、お嬢様、それでは客と食物を等分に、代り合っていたします。それでいてお茶代が別にあったり何かすると、どちらが何だか分らないで、怨《うらみ》はいつの間にか忘れてしまいましょう。なるほどその事《こっ》たよ。さあ、二人とも、手を拍《う》ったり。」 「やあ、占めろ。」といって、義作は景気よく手を拍った。女《むすめ》は両人《ふたり》、晴やかな勇美子の面《おもて》を拝んだ。  折柄|荒増《あれまさ》る風に連れて、石滝の森から思いも懸けず、橋の上へ真黒《まっくろ》になって、転《こ》けつ、まろびつ、人礫《ひとつぶて》かと凄《すさま》じい、物の姿。        四十九  あれはと見る間に早や近々《ちかぢか》と人の形。橋の上を流るるごとく驀直《まっしぐら》に、蔵屋へ駆込むと斉《ひと》しく、床几《しょうぎ》の上へ響《ひびき》を打たせて、どたりと倒れたのは多磨太である。白墨狂士は何とかしけむ、そのままどたどたと足を挙げて、苦痛に堪えざる身悶《みもだえ》して、呻吟《うめ》く声|吠《ほ》ゆるがごとし。  鍵屋の一群《ひとむれ》はこれを見て棄て置かれず、島野に義作がついて店前《みせさき》へ出向いて、と見ると、多磨太は半面べとり血になって、頬から咽喉《のど》へかけ、例の白薩摩《しろさつま》の襟を染めて韓紅《からくれない》。 「君、どうしたんです。」と島野は驚いたが、薄気味の悪さうに密《そっ》と手をとって、眉を顰《ひそ》めた。  鍵屋では及腰《およびごし》に向うを伺い、振返って道が、 「あれ、怪我をしておりますようです、どうしたんでございましょう。」  勇美子も夜会結びの鬢《びんずら》を吹かせ、雨に頬を打たせて厭《いと》わず、掛茶屋の葦簀《よしず》から半ば姿をあらわして、 「石滝から来たのじゃあなくって。滝さんとお雪はどうしたろうね、」とこれは心も心ならない。道はずッと出て手招《てまねぎ》をした。 「義作さん、おおい、ちょいとお出《いで》よ、お出よ。」 「へッ、」と云って、威勢よく飛んで帰る。 「何だね、どうしたのさ、あれ大変|呻吟《うめ》くじゃあないか。」 「え、雀部さんの多磨太なんで、から仕様が無《ね》えんです。何だそうで、全体|心懸《こころがけ》が悪うがすよ。ありゃね、しょッちゅう、あの花売を追懸《おっかけ》廻していたんで、今朝も、お前《めえ》、後を跟《つ》けて石滝へ入ったんだと。え何、力になろうの、助けてやろうという贅沢《ぜいたく》なんじゃあねえんでさ。お道どん、お前の前《まい》だけれどもう思い切ってるんだからね、人の入《へえ》らねえ処だし、お前、対手《あいて》はかよわいや。そこでもってからに、」といいかけて、ちょっと姫様《ひいさま》を見上げたので声を密《ひそ》めた。 「だね、それ、狼って奴だ。お前《めえ》、滝の処はやっぱり真暗《まっくら》だっさ。野郎とうとう、めんないちどりで、ふん捕《づかめ》えて、口説こうと、ええ、そうさ、長い奴を一本|引提《ひっさ》げて入《へえ》ったって。大刀《だんびら》を突着けの、物凄くなった背後《うしろ》から、襟首を取ってぐいと手繰つけたものがあったっさ。天狗だと思って切ってかかったが、お前、暗試合《やみじあい》で盲目《めくら》なぐりだ。その内、痛えという声がする、かすったようだけれども、手応《てごたえ》があったから、占めたと、豪《えら》くなる途端にお前。」  義作は左の耳から頬へかけて掌《てのひら》ですぺりと撫でて、仕方を見せ、苦笑《にがわらい》をして、 「片耳ざくり、行って御覧《ごろう》じろ、鹿が角を折ったように片一方まるで形なしだ。呻吟《うめ》くのはそのせいさ、そのせいであの通りだ。急所じゃがあせんッて、私《わっし》もそう言ったんで、島野さんも、生命《いのち》にゃあ別条はないっていうけれどね、早く手当をしてくれ、破、破、破傷風になるって騒ぐんで、ずきりずきりと脈を打っちゃあ血が湧《わ》くのが肝《きも》にこたえるって掙《もが》いてね、真蒼《まっさお》です。それでも見得があるから、お前、松明《たいまつ》をつけて行って見ろ、天狗の片翼《かたつばさ》を切って落とした、血みどろになった鳶《とび》の羽のようなものが落ちてたら、それだと思えなんて、血迷ってまさ。大方滝太郎様にやられたんでしょう、可い気味だ、ざまあ! はははは。やあ、苦しがりやあがって、島野さんの首っ玉へ噛《かじ》りついた。あの人がまた、血を見ると癲癇《てんかん》を起すくらい臆病《おくびょう》だからね。や、慌ててら、慌ててら、それに一張羅だ、堪《たま》ったもんじゃあねえ。躍ってやあがる、畜生、おもしれえ!」とばかりで雨を潜《くぐ》って、此奴《こいつ》人の気も知らず剽軽《ひょうきん》なり。 「道、滝さんが怪我をなさりやしないのか。」 「さようでございますね、」と、顔と顔。        五十 「小主公《わかだんな》お久振でござりました、よく私《わたくし》の声にお覚えがござりますな。へい、貴方《あなた》がお目の悪いことも、そのために此家《ここ》の女《むすめ》が黒百合を取りに参りましたことも、早いもので、二日前のことだそうですが、もう市中で評判をいたしております。もっともことのついでに貴方のお噂がござりませんと、三年|越《ごし》お便《たより》は遊ばさず、どこに隠れてお在《いで》なさりますか、分りませんのでござりました。目がお見えなさらないというだけは不吉じゃあござりましたが、東京の方だというし、お年の比《ころ》なり御様子なり、てっきり貴方に違いないと、直ぐこちらへ飛んで参り、向うのあの荒物屋で聞いてお尋ね申しました。小主公《わかだんな》、何は措《お》きまして御機嫌|宜《よろ》しく。」 「慶造、何につけても、お前達にもう逢いたくはなかったよ。」  と若山は花屋の奥に端近く端座して、憂苦に窶《やつ》れ、愁然《しゅうぜん》として肩身が狭い。慶造と呼ばれたのは、三十五六の屈竟《くっきょう》な漢《おのこ》、火水に錬《きた》え上げた鉄造《くろがねづくり》の体格で、見るからに頼もしいのが、沓脱《くつぬぎ》の上へ脱いだ笠を仰向《あおむ》けにして、両掛の旅荷物、小造《こづくり》なのを縁に載《の》せて、慇懃《いんぎん》に斉眉《かしず》く風あり。拓の打侘《うちわ》びたる言《ことば》を聞いて、憂慮《きづか》わしげにその顔を見上げたが、勇気は己《おの》が面《おもて》に溢《あふ》れつつ、 「御心中お察し申しますが、人間は四百四病の器、病疾《やまい》には誰だって勝たれませぬ、そんなに気を落しなさいますな。小主公《わかだんな》、良《い》いお音信《たより》がござりますぜ、大旦那様もちょうどこの春、三月が満期で無事に御出獄でござりました。こちらでも新聞がござりますなら、疾《と》くに御存じでござりましょう。」  若山は色を動かして、 「そうか、私はまた何も彼《か》も思切って、わざと新聞なぞは耳に入れないように勤めているから、そりゃちっとも知らずに居た、御無事に。……そうかい、けれども慶造、私はお目にかかられまい。」と額に手を翳《かざ》して目を蔽《おお》うたのである。 「なぜでございます、目をお損いになりましたせいでござりますか。」 「むむ、何それもあるけれども、私が考《かんがえ》で、家を売り、邸を売り、父様《おとっさん》がいらっしゃる処も失くなしたし。」 「それは御心配ござりません、貴下《あなた》が放蕩《ほうとう》でというではなし、御望《おのぞみ》がおあり遊ばしたとはいえ、大旦那様が迷惑をお懸け遊ばした方々の債主へ、少しずつお分けになったのでござりますもの、拓はよくしたとおっしゃったのを、私《わたくし》が直《じき》に承わりましてござります。」 「そして今どこにいらっしゃるんだな。」 「へい、組合の方でお引取申しました。海でなり、陸でなり、一同旗上げをいたします迄はしばらくおかくれでござります。貴方もこういう処はお立退《たちのき》になって、それへ合体が宜《よろ》しゅうござりましょう。ちょうどこの国へ参りがけに加州を通りまして、あすこであの白魚の姉御にも逢いました。」 「何、お兼に逢った、加賀といえばつい近所へ来ているのか。」 「さようでござります、この頃|盛《さかん》に工事を起しました、倶利伽羅鉄道の工夫の中へ交《まじ》り込んで、目星いのをまた二三人も引抜いて同志につけようッて働いておりますんで。一体富山でしばらく働いたそうでござりますに、貴方をお見着け申さなんだのは、姉御が一代の大脱落《おおぬかり》でござりましょう。その代り素ばらしいのを一名、こりゃ、華族で盗賊《どろぼう》だと申しますから、味方には誂向《あつらえむ》き、いざとなりゃ、船の一|艘《そう》ぐらい土蔵を開けて出来るんでござります。金主がつけば竜に翼だ、小主公《わかだんな》、そろそろ時節到来でござりましょうよ。」と慶造が勇むに引代え、若山は打悄《うちしお》れて、ありしその人とは思われず。渠《かれ》は非職海軍大佐某氏の息、理学士の学位あって、しかも父とともに社会の暗雲に蔽《おお》われた、一座の兇星《きょうせい》であるものを!        五十一  慶造は言効《いいがい》なしとや、握拳《にぎりこぶし》を膝に置き、面《おもて》を犯さんず、意気組見えたり。 「小主公《わかだんな》、貴方《あなた》はなぜそう弱くおなんなすったね、病《やめえ》なんざ気で勝つもんです。大方何でしょう、そんな引込思案をなさいますのは、目のためじゃあござりますまい。かえってその御病気のために、生命《いのち》も用《い》らないという女のあるせいでしょう。可《よ》うがす、何そりゃ好いた女《やつ》のためにゃあ世の中を打棄《うっちゃ》るのも、時と場合にゃ男の意地でさ、品に寄っちゃあ城を一百一束《いっそくひとからげ》にして掌《てのひら》に握るのと違わねえんでございましょうが、何ですぜ、野郎の方で、はあと溜息《ためいき》をついて女児《あまッこ》の膝に縋《すが》るようじゃあ、大概《たいげえ》の奴あそこで小首を傾《かし》げまさ。汝《てめえ》のためならばな、兜《かぶと》も錣《しころ》も何《なッ》ちも用《い》らない、そらよ持って行きねえで、ぽんと身体《からだ》を投出してくれてやる場合もあります代りにゃ、女《あま》の達引《たてひ》く時なんざ、べらんめえ、これんばかしの端《はした》をどうする、手の内ア受けねえよ、かなんかで横ッ面《つら》へ叩きつけるくらいでなくッちゃあ、不可《いけ》ませんや。=苦労しもする、させもする=ていのはそりゃあ心意気でさ。」  慶造は威勢よくぽんと一ツ胸を叩いた。 「ここにあるこッてす。顔へ済まねえをあらわして、さも嬉しそうに難有《ありがて》え、苦労させるなんて弱い音《ね》を出して御覧《ごろう》じろ、奴《やっこ》さんたちまちなめッちまいますぜ。殊に貴方だ、誰だと思ってるんだ、お言《ことば》の一ツも懸けられりゃ勿体《もってえ》ねえと心得るが可い位の扱いで、結構でがす。もっとも、まあこうやって女の手一つで立過《たてすご》して、そんな恐《おっか》ねえ処へ貴方のために参ったんだ、憎くはありません、心中者だ。ですが、そりゃ私《わっし》どもはじめ世間で感心する事で、当の対手《あいて》は何の女《むすめ》ッ子の生命《いのち》なんざ、幾つ貰ったって髢屋《かもじや》にも売れやしねえ、そんな手間で気の利いた香《こう》の物でも拵《こしら》えろと、こういった工合《ぐあい》でなくッちゃ色男は勤まりませんよ。何でも不便《ふびん》だ、可愛いと思うほど、手荒く取扱って、癇癪《かんしゃく》を起してね、横頬《よこッつら》を撲《は》りのめしてやりさえすりゃ惚れた奴あ拝みまさ。貴方も江戸児《えどッこ》じゃあがあせんか。いえさ、若山さんの小主公《わかだんな》でしょう。女《あま》の心中立《しんじゅうだて》を物珍らしそうに、世の中にゃあ出ねえの、おいらこれッきりだのと、だらしのねえ、もう、情婦《いろ》を拵えるのと、坊主になるのとは同一《おんなじ》ものじゃあございませんぜ。しかしまあ盲目《めくら》におなんなすったから、按摩《あんま》にゃあかけがえのねえ女だと、拝んでるんでしょう。でれでれとするのはお金子《かね》のある分だ、貴方のなんざ、女《あま》に縋《すが》るんだから堪《たま》りませんや。え、もし、そんなこッちゃあ女《あま》にだって愛想をつかされますぜ。貴方ほどの方がどういうもんです。いや、それとも按摩さんにゃあ相当か。」と、声を激ましていいながら、慶造は、目の見えぬ、窶《やつ》れた若山の面を見守って、目には涙を湛《たた》えていた。 「慶造!」と一喝した、渠《かれ》は蒼《あお》くなって、屹《きっ》と唇を結んだ。 「ええ、」 「用意が出来たらいつでも来い、同志の者の迎《むかい》なら、冥途《めいど》からだって辞さないんだ。失敬なことをいう、盲人《めくら》がどうした、ものを見るのが私の役か、いざといって船出をする時、船を動かすのは父上《おとっさん》の役、錨《いかり》を抜くのは慶造貴様の職だ。皆《みんな》に食事をさせるのはお兼じゃあないか。水先案内もあるだろう、医者もあろう、船の行《ゆ》く処は誰が知ってる、私だ、目が見えないでも勝手な処へ指揮《さしず》をしてやる、おい、星一ツない暗がりでも燈明台なんぞあてにするには及ばんから。」  と説き得て、拓は片手を背後《うしろ》へついて、悠然として天井を仰いだ。 「難有《ありがと》[#ルビの「ありがと」は底本では「ありがた」]うござります。おお、小主公《わかだんな》。」と、慶造は思わず縁側に額をつけた。        五十二 「いやもう久《ひさし》ぶりで癇癪《かんしゃく》をお起しなすって、こんな心持の可いことはござりません。私《わたくし》ゃ変な癖で、大旦那と貴方の癇癪声さえ聞きゃ、ぐっとその溜飲《りゅういん》の下りますんで。へい、それで私《わたくし》も安心でござります、ついお心持を丈夫にしようとッて前《さき》のように太平楽は並べましたものの、私《わたくし》も涙が出ます、実は耐《こら》えておりました。」  慶造は情《なさけ》なさそうに笑いながら、 「大旦那様はそんなにも有仰《おっし》ゃりますまいが、貴方の御病気の様子を奥様がお聞きなすって御覧《ごろう》じろ、大旦那様の一件で気病《きやみ》でお亡《なくな》り遊ばしたようなお優しい、お心弱い方がどんなにお歎きでござりましょう。今じゃあ仏様で、草葉の蔭から、かえって小主公《わかだんな》をお守りなすっていらっしゃるんで、その可愛い貴方のためにそういう処へ参りました娘なら、地獄だって、魔所だって、きっとお守りなさいましょうから、御心配にゃあ及びますまい。望《のぞみ》の黒百合の花を取ってやがて戻って参りましょうが、しかし打遣《うっちゃ》っちゃあおかれません、貴方に御内縁の嬢さんなら、私《わたくし》にゃ新夫人様《にいおくさま》。いや話は別で、そうかといって見ております訳ではござりません。殊に千破矢様というのがその後へおいでなすったという風説《うわさ》、白魚の姉御がいった若様なんで、味方の大将を見殺《みごろし》にはされません。もっとも直ぐにその日、一昨日《おととい》でござりますな、少《すくな》からぬ係合《かかりあい》の知事様の嬢さんも、あすこの茶屋まで駈着《かけつ》けましたそうで。あれそれと小田原をやってる処へ、また竜川とかいう千破矢の家の家老が貴方、参ったんだそうで、御主人の安否は拙者がか何かで、昔取った杵柄《きねづか》だ、腕に覚えがありますから、こりゃ強うがす、覚悟をして石滝へ入ろうとすると、どうでございましょう。四五間しかないそうですが、泥水を装《も》って川へ一時に推出して来た、見る間に杭《くい》を浸して、早や橋板の上へちょろちょろと瀬が着く騒《さわぎ》。大変だという内に、水足が来て足を嘗《な》めたっていうんです。それがために皆《みんな》が一雪崩《ひとなだれ》に、引返《ひっかえ》したっていいますが、もっとも何だそうで、その前《さき》から風が出て大降になりました様子でござりますな。」 「ああ、その事は昨日《きのう》知事の内から、道とかいう女中が来て私にいった。ちょいちょい見舞ってくれるんだ、今日もつい前《さき》に帰ったから聞いているよ。」 「それからはまるで三日、富山中は真暗《まっくら》で、止《や》むかと思うと滝のように降出します。いや神通が切れた、郷屋敷|田圃《たんぼ》の堤防《つつみ》が崩れた、牛の淵《ふち》から桜木町へ突懸《つッかか》る、四十物町が少し引くかと思うと、総曲輪が湖《うみ》だという。それに、間を置いちゃあ大雨ですから市中は戦《いくさ》です。壁が壊《くず》れたり、材木が流れたりしますんですが、幸いまだ家が流れる程じゃあないので、ちょうど石滝の方は橋が出たという噂ですから、どうにか路は歩行《ある》かれましょう。お目に懸《かか》って、いよいと貴方でございます日にゃあ、こっちの嬢さんは御主人なり、一方にゃあ姉御がいった若様もいらっしゃる。どうでございましょう、この辺は水は大丈夫でございますか、もしそれが心配だと貴方ばかりではお目の御不自由、と打遣《うっちゃ》っちゃあ参られませんが。」 「慶造、六十年近くもここに居る荒物屋の婆さんがいうんだ、水には大丈夫だそうだから、私には構わんでも可い。」  心安く言ったので、慶造は雀躍《こおどり》をして、 「それじゃあ後髪を引かれねえで、可うがす。お二人の先途を見届けて参りましょう。小主公《わかだんな》お気を着けなすって、後《のち》ともいわず直ぐに、」  といった。折からの雨はまた篠《しの》を束《つか》ねて、暗々たる空の、殊に黄昏《たそがれ》を降静める。  慶造は眉を濡らす雫《しずく》を払って、さし翳《かざ》した笠を投出すと斉《ひと》しく、七分三分に裳《もすそ》をぐい。 「してこいなと遣附《やッつ》けろ、や、本雨だ、威勢が可いぜえ。」        五十三  開戸から慶造が躍出したのを、拓は縁に出て送ったが、繁吹《しぶき》を浴びて身を退《ひ》いて座に戻った、渠《かれ》は茫然として手を束《つか》ぬるのみ。半《なかば》は自分の体のごときお雪はあらず、余《あまり》の大降に荒物屋の媼《ばば》も見舞わないから、戸を閉め得ず、燈《ともし》を点《つ》けることもしないで、渠はただ滝のなかに穴あるごとく、雨の音に紛れて物の音もせぬ真暗《まっくら》な家《や》の内に数時間を消した。夜《よ》も初更《しょこう》を過ぎつと覚しい時、わずかに一度やや膝を動かして、机の前に寄ったばかり。三日の内にもかばかり長い間降詰めたのは、この時ばかりであった。おどろおどろしい雨の中に、遠く山を隔てた隣国の都と思うあたり、馳違《はせちが》う人の跫音《あしおと》、ものの響《ひびき》、洪水の急を報ずる乱調の湿った太鼓、人の叫声《さけびごえ》などがひとしきりひとしきり聞えるのを、奈落の底で聞くような思いをしながら、理学士は恐しい夢を見た。  こはいかに! 乾坤別有天《けんこんべつにてんあり》。いずこともなく、天|麗《うらら》かに晴れて、黄昏か、朝か、気|清《すず》しくして、仲秋のごとく澄渡った空に、日も月の形も見えない、たとえば深山《みやま》にして人跡《ひとあと》の絶えたる処と思うに、東西も分かず一筋およそ十四五町の間、雪のごとく、霞のごとく敷詰めた白い花。と見ると卯《う》の花のようで、よく山奥の溪間《たにあい》、流《ながれ》に添うて群《むれ》生ずる、のりうつぎ(サビタの一種)であることを認めた  時にそよとの風もなく、花はただ静かに咲満ちて、真白《まっしろ》な中に、ここかしこ二ツ三ツ岩があった。その岩の辺りで、折々花が揺れて、さらさらと靡《なび》くのは、下を流るる水の瀬が絡まるのであろう、一鳥声せず。  理学士は、それともなく石滝の奥ではないかと、ふと心着いて恍惚《うっとり》となる処へ、吹落す疾風《はやて》一陣。蒼空《あおぞら》の半《なかば》を蔽《おお》うた黒い鳥、片翼およそ一間余りもあろう[#「あろう」は底本では「あらう」]と思う鷲《わし》が、旋風《つむじ》を起して輪になって、ばッと落して、そのうつぎの花に翼を触れたと見ると、あッという人の叫声。途端に飜って舞上った時に、粉吹雪《こふぶき》のごとくむらむらと散って立つ花片《はなびら》の中から、すっくと顕《あらわ》れた一個の美少年があった。捲《まく》り手《で》の肱《ひじ》を曲げて手首から、垂々《たらたら》と血が流れる拳《こぶし》を握って、眦《まなじり》の切上った鋭い目にはッたと敵を睨《にら》んだが、打仰ぐ空次第に高く、鷲は早や光のない星のようになって消えた。  少年は、熟《じっ》とその勁敵《けいてき》の逸し去ったのを見定めた様子であったが、そのまま滑《なめら》かな岩に背《せな》を支えて、仰向《あおむ》けに倒れて、力なげに手を垂れて、太《いた》く疲れているもののようである。  やや有って、今少年が潜んでいた同じ花の下から密《そっ》と出たのはお雪であった。黒髪は乱れて頸《えり》に縺《もつ》れ頬に懸《かか》り、ふッくりした頬も肉《しし》落ちて、裾《すそ》も袂《たもと》もところどころ破れ裂けて、岩に縋《すが》り草を蹈《ふ》み、荊棘《いばら》の中を潜《くぐ》り潜った様子であるが、手を負うた少年の腕《かいな》に縋《すが》って、懐紙《ふところがみ》で疵《きず》を押えた、紅《くれない》はたちまちその幾枚かを通して染まったのである。  お雪は見るも痛々しく、目も眩《く》れたる様《さま》して、おろおろ声で、 「痛みますか、痛みますか。」というのが判然《はっきり》聞える。  眠れるか、少年はわずかにその頭《かしら》を掉《ふ》ったが、血は留《とま》らず、圧《おさ》えた懐紙は手にも耐《たま》らず染まったので、花の上に棄てた。一点紅、お雪は口を着けてその疵口《きずぐち》を吸ったのである。  唇が触れた時、少年は清《すず》しい目を睜《みは》って屹《きっ》と見たが、また閉じて身動きもせず、手は忘れたもののようにお雪がするままに任せていた。  両人が姿を見ると、我にもあらず、理学士が肉《ししむら》は動いたのである。        五十四  しばらくするとお雪は帯の端を折返して、いつも締めている桃色の下〆《したじめ》を解いて、一尺ばかり曳出《ひきだ》すと、手を掛けた衣《きぬ》は音がして裂けたのである。  その切《きれ》で疵《きず》を巻いて、放すと、少年はほとんど無意識のごとく手を曲げて胸に齎《もたら》して咽喉《のど》のあたりへ乗せたが、疲れてすやすやと睡《ねむ》った様子。顔のあたり、肩のあたり、はらはらと、来て、白く溜《たま》って、また入乱れて立つは、風に花片《はなびら》が散るのではない、前《さき》に大鷲がうつぎの森の静粛を破って以来、絶えず両人《ふたり》の身の辺《あたり》に飛交う、花の色と等しい、小さな、数知れぬ蝶々で。  お雪は双の袂の真中《まんなか》を絞って持ち、留まれば美しい眉を顰《ひそ》める少年の顔の前を、絶えず払い退《の》け、払い退けする。その都度|死装束《しにしょうぞく》として身装《みなり》を繕ったろう、清い襦袢《じゅばん》の紅《くれない》の袂は、ちらちらと蝶の中に交って、間《ま》あれば、おのが肩を打ち、且つ胸のあたりを払っていたが、たちまち顔を顰《しか》めて唇を曲げた。二ツ三ツ体を捩《よ》ったが慌《あわただ》しい、我を忘れて肌を脱いだ、単衣《ひとえ》の背《せな》を溢《こぼ》れ出《い》づる、雪なす膚《はだえ》にも縺《もつ》るる紅《くれない》、その乳《ち》のあたりからも袂からも、むらむらとして飛んだのは、件《くだん》の白い蝶であった。  我身|半《なかば》はその蝶に化《け》したるかと、お雪は呆れ顔をして身内を見たが、にわかに色を染めて密《そッ》と少年を見ると、目を開かず。  お雪は吻《ほっ》と息を吐《つ》いて、肌を納めようとした手を動かすに遑《いとま》なく、きゃッといって平伏した。声に応じて少年はかッぱと刎《は》ね起きて押被《おっかぶ》さり、身をもってお雪を庇《かば》う。娘の体は再び花の中に埋《うず》もれたが、やや有って顕《あらわ》れた少年の背《せな》には、凄《すさま》じい鈎形《かぎがた》に曲った喙《くちばし》が触れた。大鷲は虚を伺って、とこうの隙《すき》なく蒼空から襲い来《きた》ったのであった。  倒れながら屹《きっ》とその面《おもて》を上げると、翼で群蝶を掻乱《かきみだ》して、白い烟《けぶり》の立つ中で、鷲は颯《さっ》と舞い上るのを、血走った目に瞶《みつ》めながら少年は衝《つ》と立った。思わず胸に縋るお雪の手を取って扶《たす》けながら、行方を睨《にら》むと、谷を隔てて遥《はるか》に見えるのは、杉ともいわず、栃《とち》ともいわず、檜《ひのき》ともいわず、二抱《ふたかかえ》三抱《みかかえ》に余る大喬木《だいきょうぼく》がすくすく天をさして枝を交えた、矢来のごとき木間《このま》々々には切倒したと覚しき同じほどの材木が積重なって、横《よこた》わって、深森の中《うち》自《おのず》から径《こみち》を造るその上へ、一列になって、一ツ去れば、また一ツ、前なるが隠るれば、後なるが顕れて、ほとんど間断なく牛が歩いた。いずれも鼻頭《はなづら》におよそ三間|余《あまり》の長綱をつけて、姿形も森の中に定かならず、牛曳《うしひき》と見えるのが飛々に現れて、のッそり悠々として通っていたのであるが、今|件《くだん》の大鷲が、風を起して一翼に谷を越え、その峰ある処、件の森の中へあからさまに入ったと思うと、牛は宙に躍って跳狂《はねくる》うのが、一ツならず、二ツならず、咄嗟《とっさ》の間《かん》に眼《まなこ》を遮って七ツ数えると止《や》んだ。 「しっかりしねえ、もう可いぜ。」といって、少年は手を放した。  お雪は血の気を失った顔を、恐る恐る上げて仰いだが、少年を見ると斉《ひと》しく身《み》を顫《ふる》わした。 「あらまたお背中を、ちょいと大変でございますよ。」 「可いッてことよ、こればかしが何だ。」といったが、あわれ身を支えかねたか、またどっさりと岩に腰を掛ける。  お雪は失心の体《てい》で姿を繕うこともせず。両膝を折って少年の足許《あしもと》に跪《ひざまず》いて、 「この足手纏《あしてまとい》さえございませねば、貴方お一方はお助《たすか》り遊ばすのに訳はないのでございます。」  と、いう声も身も顫えたのである。        五十五 「私はどういたしましょう、花も取って頂きました上に、この山に入りましてから貴方ばかり酷《ひど》い目にお逢わせ申して、今までに、生命《いのち》をお取られ遊ばすかと思いましたことが幾たびあったでございましょう。体も疵《きず》に遊ばして庇《かば》って下さいますから、勿体ない、私は一ヶ所|擦剥《すりむ》きました処もございません。たとい前《さき》の世の約束事でも、これまでに御恩を受けますことはないのでございます。どうぞ私を打遣《うっちゃ》ってお逃げなすって下さいまし、お願《ねがい》でございます。貴方にこうして頂きますより殺されます方がどんなに心安いか分りません。失礼ながらお可哀そうで、片時もこんな恐《こわ》い処に貴方をお置き申したくはございませんから。」と、嗚咽《おえつ》していう声も絶断《たえだえ》。  少年はかえってつッけんどんに、 「生意気な講釈をするない、手前達《てめえッち》の知ったこッちゃあねえや、見殺しにされるもんか。しかし、おい、おいらも、まさかこれほどとは思わなかったが、随分手に余る上に、ものは食わずよ。どこへ出て可いか方角が分らねえし、弱った。活《い》きてる内ゃ助けてやらあ、不可《いけ》なかったら覚悟しねえ。おいら父様《おとっさん》はなし、母様《おっかさん》は失《な》くなったし、一人ぼッちで心細かったっけが、こんな時にゃあさっぱりだ、情《なさけ》なくも何ともねえが、汝《てめえ》は可哀そうだな。」といって、さすがの少年が目に暗涙を湛《たた》えて、膝下《しっか》に、うつぎの花に埋《うず》もれて蹲《うずくま》る清い膚《はだえ》と、美しい黒髪とが、わななくのを見た。この一雫《ひとしずく》が身に染みたら、荒鷲《あらわし》の嘴《はし》に貫かれぬお雪の五体も裂けるであろう。  一言の答《いら》えも出来ない風情。  少年も愁然《しゅうぜん》として無言で居たが、心すともなく極めて平気な調子で、 「しょうがねえやな、おい、そうしたら一所に死のうぜ。」と、自から頷《うなず》くがごとく顔を傾けていった。  理学士は夢中ながら、おのが命をもって与えんとして、三年《みとせ》の間朝夕室を同《おな》じゅうした自分の口からも、かほどまでに情の籠《こも》った、しかも無邪気な、罪のないことをいい得なかったことを思って、ひしと胸を打たるるがごとくに感じたのである。  我にもあらず、最後を取乱したお雪の耳にも、かかる言《ことば》は聞えたのであろう[#「あろう」は底本では「あらう」]。 「勿体のうございます。」と、神に謝するがごとくにいった。 「その意《つもり》で諦《あきら》めねえ。おい、そう泣くのは止せ、弱虫だと見ると馬鹿にするぜ、ももんがあ。」といって大空を。 「はい、もう泣きはいたしません。私が先へ覚悟をしておりましたものを、お可恥《はずか》しゅうございます。」と、手をついて面を上げた。そして顔と顔を見合せた時、少年はほとんど友白髪まで添遂げた夫婦《みょうと》のごとく、事もなげに冷い玉かと見えるお雪の肩に手を掛けて、 「助かったら何よ、おいらが邸《やしき》へ来ねえ、一所に楽をしようぜ、面白く暮そうな。」と、あたかも死を賭《かけもの》にしたこの難境は、将来のその楽《たのしみ》のために造られた階梯《かいてい》であるように考えるらしく、絶望した窮厄の中に縷々《るる》として一脈の霊光を認めたごとく、嬉しげに且つ快げにいって莞爾《かんじ》とした。いまわの際に少年は、刻下無意識になった恋人に対して、為《ため》に生命を致すその報酬を求めたのではない。繊弱小心の人の、知死|期《ご》の苦痛の幾分を慰めんとしたのである。  拓は夢に、我は棄てられるのであろうと思った、お雪は自分を見棄てるであろうと思った。少年がその時のその意気、その姿、その風情は、たとい淑徳貞操の現化《げんげ》した女神《にょしん》であっても、なお且つ、一糸|蔽《おお》える者なきその身を抱《いだ》かれて遮ぎり難く見えたから。        五十六  理学士はまた心から、十《とお》の我に百を加えても、なお遥《はる》かにその少年に及ばないことを認めたのである。  たとえば己《おの》が目は盲《し》いたるに、少年の眼《まなこ》は秋の水のごとく、清く澄んで星のごとく輝くのである。我はお雪の供給に活《い》きて、渠《かれ》をして石滝の死地に陥《おちい》らしめたのに、少年はその優しき姿と、斗大の胆をもって、渠を救うために目前荒鷲と戦っている。しかも事の行懸《ゆきがが》りから察し、人の語る処に因れば、この美少年は未見の知己、千破矢滝太郎に相違ない。千破矢は華族だ、今渠が来《きた》れ、共にこの労を慰めんといったのは、すなわちお雪を高家の室となさんという心である。されば少年がその意気と、その容貌《ようぼう》と、風采《ふうさい》と、その品位をもってして誰がこれを諾《うけが》わざるべき。拓が身をもってお雪と地位をかえたとすれば、直ちに我を棄てて渠に愛を移すのは、世に最も公平なことであると思って、満身の血が冷くなった。けれどもあえて数の多量なるものが、愛を購《あがな》い得るのではなかった。お雪は少年が優しく懸けた、肩の手を静かに払って、颯《さっ》と赤らむ顔とともに、声の下で、 「はい、私はあのお邸へ上ります訳には参りませんのでございます。」  恐る恐るいうおもはゆげな状《さま》を、少年は瞻《みまも》りながら、事もなげにいった。 「なぜだ。」 「内に拓さんという方がございます、花を欲しいと存じましたのも、皆《みんな》その人のためなんですから。」と死を極めたものの、かえってかかることを憚《はばか》らず言って差俯向《さしうつむ》く。  少年は屹《きっ》となって、たちまち顔色を変えたのである。  理学士はこの時少年のいうことを聞こうとして、思わず堅唾《かたず》を飲んだ。  夢中の美少年に憤った色が見え、 「おいら、島野とは違うぜ。今までな、おい、欲《ほし》い思ったものは取らねえこたあねえ、しようと思ったことをしねえこたあなかったんだ。可いじゃあないか、不可《いけ》ねえッて? 不可ねえか。うむそうか、可いや、へん、おいら詰《つま》らねえことをしたぜ。」  と投げるようにいって、大空を恍惚《うっと》りと瞶《みつ》めた風情。取留めのない夢の想《おもい》で、拓はこの時少年がお雪に向ってなす処は、一つ一《びと》つ皆思うことあって、したかのごとく感じられて、快活かくのごとき者が、恋には恐るべき神秘を守って、今までに秋毫《しゅうごう》も、さる気色のなかったほど、一層大いなる力あることを感じて、愕然《がくぜん》とした。同時に今までは、お雪を救うために造られた、巌《いわお》に倚《よ》る一個白面、朱唇、年少、美貌《びぼう》の神将であるごとく見えたのが、たちまち清く麗しき娘を迷わすために姿を変じた、妄執の蛇であると心着いたが、手も足も動かず、叫ばんとする声も己《おの》が耳には入《い》らなかった。  鷲がその三回目の襲撃を試みない瞬間、白い花も動かず、二人は熟《じっ》として石に化したもののように見えた。やがて少年は袂を探って、一本《ひともと》の花を取出した。学識ある理学士が夢中の目は、直ちにそれを黒百合の花と認めたのである。  これがためにこそ餓えたり、傷付いたれ、物怪《もののけ》ある山に迷うたれ。荒鷲には襲わるる、少年の身に添えて守っていたと覚ゆるのを、掴《つか》むがごとく引出《ひきいだ》して、やにわに手を懸けて挘《むし》り棄てようとした趣であった。けれども、お雪が物いいたげに瞳を動かして、衝《つ》と胸を抱いて立ったのを、卑《いやし》むがごとく、嘲《あざ》けるがごとく、憎むがごとく、はた憐《あわれ》むがごとくに熟《じっ》と見て、舌打して、そのまま黒百合をお雪の手に与えると斉《ひと》しく、巌を放れてすっくと立って、 「不可《いけ》ねえや、お前《めえ》良人《ていし》があるんなら、おいら一所に死ぬのは厭だぜ。じゃあ、おい勝手にしねえ。」  といい棄てて、身を飜すとたちまち歩き去った。        五十七  我が手働かず、足動かず、目はただ天涯の一方に、白き花に埋《うず》もれたお雪を見るばかり。片手をもって抱き得るような、細い窶《やつ》れた妻の体を、理学士はいかんともすることならず。  お雪は黒百合の花を捧げて、身に影も添わず、淋しく心細げに彳《たたず》んでいたが、およそ十歩を隔てて少年が一度振返って見た時、糸をもて操らるるかと二足三足後を追うたが、そのまま素気《そっけ》なく向うを向いてしまったので、力無げに歩《あゆみ》を停《とど》めた、目には暗涙を湛《たた》えたり。  やがて後姿に触れて、ゆさゆさと揺《ゆす》ぶられる、のりうつぎ[#「のりうつぎ」に傍点]の花の梢《こずえ》は、少年を包んで見えなくなった。  これをこそは待ち得たれ、黒い星一ツ遥《はる》か彼方《かなた》の峰に現れたと見ると、風に乗って矢のごとくに颯《さっ》と寄せた。すわやと見る目の前の、鷲の翼は四辺《あたり》を暗くした中に、娘の白い膚《はだえ》を包んで、はたと仰向《あおむけ》に僵《たお》れた。 「あれえ、」  叫ぶに応じて少年は、再び猛然として顕《あらわ》れたが、宙を飛んで躍りかかった。拳《こぶし》を握って高く上げると、大鷲の翼を蹈《ふ》んで、その頸《うなじ》を打ったのである。 「畜生、おれが目に見えねえように殺せやい!」  と怒気満面に溢《あふ》れて叱咤《しった》した。少年はほとんど身を棄てて、その最後の力を尽したのであろう。  黒雲一団|渦《うずま》く中に、鷲は一双の金の瞳を怒《いか》らしたが、ぱっと音を立てて三たび虚空《こくう》に退いた。二ツ三ツ四ツ五ツばかり羽は斑々として落ちて、戦《たたかい》の矢を白い花の上に残した。  少年が勇威|凜々《りんりん》として今大鷲を搏《う》った時の風采は、理学士をして思わず面《おもて》を伏せて、僵《たお》れたる肉一団何かある、我が妻をもてこの神将に捧げんと思わしめたのである。  かくして少年ははた掌《たなそこ》を拍《う》って塵《ちり》を払ったが、吐息を吐《つ》いて、さすがに心|弛《ゆる》み、力落ちて、よろよろと僵れようとして、息も絶々《たえだえ》なお雪を見て、眉を顰《ひそ》めて、 「ちょッ、しようのねえ女だな。」  やがて手をかけて、小脇に抱上げたが、お雪の黒髪は逆《さかさま》に乱れて、片手に黒百合を持ったのを胸にあてて、片手をぶらりと垂れていた。大鷲は今の一撃に怒《いかり》をなしたか、以前のごとく形も見えぬまでは遠く去らず、中空に凧《いかのぼり》のごとく居《すわ》って、やや動き且つ動くのを、屹《きっ》と睨《にら》んでは仰いで見たが、衝《つ》と走っては打仰ぎ、走っては打仰ぎ、ともすれば咲き満ちたうつぎ[#「うつぎ」に傍点]の花の中に隠れ、顕れ、隠れ、顕れて、道を求めて駆けるのを、拓は追慕うともなく後を跟《つ》けて、ややあって一座の巌石、形|蟇《ひきがえる》の天窓《あたま》に似たのが前途《ゆくて》を塞《ふさ》いで、白い花は、あたかも雪間の飛々に次第に消えて、このあたりでは路とともに尽きて見えなくなる処に来た。  もとより後《うしろ》は見も返らず、少年はお雪を抱いたまま、ひだを蹈み、角に縋《すが》って蝙蝠《こうもり》の攀《よ》ずるがごとく、ひらりひらりと巌《いわお》の頂に上った。この巌の頂は、渠《かれ》を載せて且つ歩《あゆみ》を巡らさしむるに余《あまり》あるものである。  時に少年の姿は、高く頭上の風に鷲を漾《ただよ》わせ、天を頂いて突立《つった》ったが、何とかしけむ、足蹈《あしぶみ》をして、 「滝だ! 滝だ!」と言って喜びの色は面《おもて》に溢れた。ただ聞く、どうどうと水の音、巌もゆらぐ響《ひびき》である。  少年はいと忙《せわ》しく瞳を動かして、下りるべき路を求めたが、衝《つ》と端に臨んで、俯向《うつむ》いて見る見る失望の色を顕《あらわ》した。思わず嘆息をして口惜しそうに、 「どこまで祟《たた》るんだな、獣《けだもの》め。」        五十八  少年を載せた巌は枝に留まった梟《ふくろ》のようで、その天窓《あたま》大きく、尻ッこけになって幾千仭《いくせんじん》とも弁《わきま》えぬ谷の上へ、蔽《おお》い被《かぶ》さって斜《ななめ》に出ている。裾を蹈んで頭を叩けば、ただこの一座山のごとき大奇巌は月界に飛ばんず形。繁れる雑種の喬木《きょうぼく》は、梢《こずえ》を揃えて件《くだん》の巌《いわ》の裾を包んで、滝は音ばかり森の中に聞えるのであった。頂なる少年は、これを俯《ふ》し瞰《みおろ》して、雲の桟橋《かけはし》のなきに失望した。しかるに倒《さかさま》に伏して覗《のぞ》かぬ目には見えないであろう、尻ッこけになった巌《いわお》の裾に居て、可怪《あやし》い喬木の梢なる樹々の葉を褥《しとね》として、大胡坐《おおあぐら》を組んだ、――何等のものぞ。  面赭《かおあか》く、耳|蒼《あお》く、馬ばかりなる大きさのもの、手足に汚れた薄樺色《うすかばいろ》の産毛のようで、房々として柔《やわら》かに長い毛が一面の生いて、人か獣《けだもの》かを見分かぬが、朦朧《もうろう》としてただ霧を束《つか》ねて鋳出《いだ》したよう。真俯向《まうつむき》になって面《おもて》を上げず、ものとも知らぬ濁《だ》みたる声で、 「猿の年の、猿の月の、猿の日に、猿の年の、猿の月の、猿の日に、猿の年の、猿の月の、猿の日に、」と支干《えと》を数えて呟《つぶや》きながら、八九寸伸びた蒼黒い十本の指の爪で、件《くだん》の細々とした、突けば折れるばかりの巌の裾をごしごしごしごしと掻挘《かきむし》る。時に手を留《とど》めてその俯向いた鼻先と思う処を、爪をあつめて巌の欠《かけ》を掘取ると見ると、また掻きはじめた。その爪の切入るごとに、巌はもろくぼろぼろと欠けて、喰い入り喰い入り、見る内に危《あやう》く一重の皮を残して、まさに断切《ちぎ》れて逆さまに飛ばんとする。  あれあれ、とばかりに学士は目も眩《く》れ、心も消え、体に悪熱《あくねつ》を感ずるばかり、血を絞って急を告げようとする声は糸より細うして己《おの》が耳にも定かならず。可恐《おそろ》しきものの巌を切る音は、肝先《きもさき》を貫いて、滝の響《ひびき》は耳を聾《ろう》するようであった。  羽撃《はばたき》聞えて、鷲は颯《さっ》と大空から落ちて来た。頂高く、天近く、仰げば遥かに小さな少年の立姿は、狂うがごとく位置を転じて、腕白く垂れたお雪の手が、空ざまに少年の頭《かしら》に縋ると見た。途端に巌は地を放れて山を覆えるがごとく、二人の姿はもんどり打って空に舞い、滝の音する森の中へ足を空に陥《おちい》ったので、あッと絶叫したが、理学士は愕然《がくぜん》として可恐《おそろし》い夢から覚めたのである。  拓は茫然自失して、前《さき》のまま机に頬杖を突いた、その手も支えかねて僵《たお》れようとしたが、ふと闇《やみ》のままうとうとと居眠ったのに、いつ点《つ》いたか、見えぬ目に燈《ともしび》が映えるのに心着いた。  確かに傍《かたわら》に人の気勢《けはい》。        五十九 「誰だ、」と極めて落着いて言ったが、声は我ながら異常なものであった。  急に答がないので、更に、 「誰だ。」 「はい、」と幽《かす》かに応《こた》えた。  理学士が一生にただ一度目を開いて見たいのは、この時の姿であった、今のは疑《うたがい》も無いお雪である。  これを聞いて渠《かれ》は思わず手を差延べて、抱《いだ》こうとしたが、触れば消失《きえう》せるであろうと思って、悚然《ぞっ》として膝に置いたが、打戦《うちわなな》く。 「遅くなりまして済みませんでした、拓さん。」  と判然《はっきり》、それも一言《ひとこと》ごとに切なく呼吸《いき》が切れる様子。ありしがごとき艱難《かんなん》の中《うち》から蘇生《よみがえ》って来た者だということが、ほぼ確かめらるると同時に、吃驚《びっくり》して、 「おお、お雪か、お前! そして千破矢さんはどうした、」と数分時前、夢に渠と我とともにあった少年の名をいった。  お雪はその時答えなかった。  理学士は繰返してまた、 「千破矢さんはどうしたんだ、」と、これは何心なく安否を聞いたのであったが、ふと夢の中の事に思い当った。お雪の答が濁ったのを、さてはとばかり、胸を跳《おど》らして口を噤《つぐ》む。  しばらくして、 「送って来て下さいましたよ。」 「そして⁈」 「あの、お向《むこう》の荒物屋に休んでいらっしゃいます。」 「そうか、」といったが、我ながら素気《そっけ》なく、その真心を謝するにも、怨《うらみ》をいうにも、喜ぶにも、激して容易《たやす》くは語《ことば》も出でず。あまりのことに、活きて再び家に帰って、現《うつつ》のごとき男を見ても直ぐにはものも言懸けなかった、お雪も同じ心であろう。ものいう目にも、見えぬ目にも、二人|斉《ひと》しく涙を湛《たた》えて、差俯向《さしうつむ》いて黙然とした。人はかかる時、世に我あることを忘るるのである。  框《かまち》に人の跫音《あしおと》がしたが、慌《あわただ》しく奥に来て、壮《さかん》な激しい声は、沈んで力強く、 「遁《に》げろ、遁げねえか、何をしとる!」  お雪は薄暗い燈《ともしび》の影に、濡れしおれた髪を振って、蒼白《あおじろ》い顔を上げた。理学士の耳にも正に滝太郎の声である、と思うも疾《と》しや! 「洪水《みず》だ、しっかりしろ。」  お雪は半ば膝を立てて、滝太郎の顔を見るばかり。 「早くしねえかい、べらぼうめ。」と叱るがごとくにいって、衝《つ》と縁側に出た、滝太郎はすっくと立った。しばらくして、あれといったが、お雪は蹶起《はねお》きようとして燈《ともし》を消した。 「周章《あわ》てるない、」といって滝太郎は衝《つ》と戻って、やにわにお雪の手を取った。 「助けてい!」と言いさまに、お雪は何を狼狽《うろた》えたか、扶《たす》けられた滝太郎の手を振放して、僵《たお》れかかって拓の袖を千切れよと曳《ひ》いた。        六十  お雪は曳いて、曳き動かして、 「どうしましょう、あれ、早く貴方《あなた》、貴方。」  拓は動じないで、磐石のごとく坐っているので、思わず手を放して、一人で縁側へ出たが、踏辷《ふみすべ》ったのか腰を突いた。しばらくは起きも得なかったが、むっくと立上ると柱に縋って、わなわなと顫《ふる》えた。ただ森《しん》として縁板が颯《さっ》と白くなったと思うと、水はひたひたと畳に上った。 「ええ、」といって学士も立った。 「可恐《おそろ》しい早さだ、放すな!」と滝太郎は背《せなか》をお雪に差向ける。途端に凄《すさま》じい音がして、わっという声が沈んで聞える。 「お雪! お雪。」  学士も我を忘れて助《たすけ》を呼んだのである。 「あれ、若様、拓さんは、拓さんは目が見えません。」 「うむ、」 「助けて下さい、拓さんは目が見えません。」 「二人じゃあ不可《いけ》ねえや、」 「内の人を、私の夫を。」 「おいら、お前でなくっちゃあ、」 「厭《いや》、厭ですよ、厭ですよ、」と、捕うる滝太郎の手を摺抜ける。 「だって、汝《おめえ》の良人《ていしゅ》なら、おいらにゃあ敵《かたき》だぜ。」 「私は死んでしまいます。」 「へへ、駄目だい、」と唾《つば》するがごとく叫んで、滝太郎は飛んで拓に来た。 「滝だ、大丈夫だ。」 「お雪には義理があるんです、私に構わず、」といって、学士は身を退《すさ》って壁にひたりと背《せな》をあてた。 「あれ、拓さん、」とばかり身を急《あせ》るお雪が膝は、早や水に包まれているのである。 「いや、いけない、」と学士は決然として言放った。  滝太郎は真中《まんなか》に立って、件《くだん》の鋭い目に左右を眗《みまわ》して瞳を輝かした。 「ええ二人ともつかまんな。構うこたあねえ、可《い》けなけりゃ皆《みんな》で死のう。」  雨は先刻《さっき》に止《や》んで、黒雲《くろくも》の絶間《たえま》に月が出ていた。湯の谷の屋根に処々《ところどころ》立てた高張の明《あかり》が射《さ》して、眼《ま》のあたりは赤く、四方へ黒い布を引いて漲《みなぎ》る水は、随処、亀甲形《きっこうがた》[#「亀甲形」は底本では「亀申形」]に畝《うね》り畝り波を立てて、ざぶりざぶりと山の裾へ打当てる音がした。拓を背にし、お雪を頸《うなじ》に縋らせて、滝太郎は面《おもて》も触《ふ》らず件《くだん》の洞穴《ほらあな》を差して渡ったが、縁を下りる時、破屋《あばらや》は左右に傾いた。行くことわずかにして、水は既に肩を浸した。手を放すなといって滝太郎が水を含んで吐いた時、お雪は洪水《みず》の上に乗上って、乗着いて、滝太郎に頬摺したが、 「拓さん堪忍して。」  声を残して、魚《うお》の跳《おど》るがごとく、身を飜《ひるがえ》して水に沈んだ。遥かにその姿の浮いた折から、荒物屋の媼《ばば》なんど、五七人乗った小舟を漕寄《こぎよ》せたが、流れて来る材木がくるりと廻って舷《ふなばた》を突いたので、船は波に乗って颯《さっ》と退《ひ》いた。同時に滝太郎の姿も水に沈んだが、たちまち水烟《みずけぶり》を立てて抜手を切ったのである。拓とともに助かったのは言うまでもない。  その夜《よ》湯の谷で溺《おぼ》れたのが十七人、……お雪はその中《うち》の一人であった。  水は一晩で大方|退《ひ》いて、翌日《あくるひ》は天日快晴。四十物町はちょろちょろ流れで、兵粮を積んだ船が往来《ゆきき》する。勇美子は裾を引上げて濁水に脛《はぎ》を浸しながら、物珍らしげに門の前を歩いていた。猟犬ジャムはその袖の下を、ちゃぶちゃぶと泳ぎ、義作は夕立の背《せな》を干して、傍《かたわら》に立っていた、水はやや駒の蹄《ひづめ》を没するばかり。それでも瀬を造って、低い処へ落ちる中に、流れて来たものがある、勇美子が目敏《めざと》く見て、腕捲《うでまく》りをして採上げたのは、不思議の花であった。形は貝母《ばいも》に似て、暗緑帯紫の色、一つは咲いて花弁《はなびら》が六つ、黄粉《こうふん》を包んだ蘂《しべ》が六つ、莟《つぼみ》が一つ。  数年の後《のち》、いずこにも籍を置かぬ一|艘《そう》の冒険船が、滝太郎を乗せて、拓お兼|等《ら》が乗組んで、大洋の波に浮《うか》んだ時は、必ずこの黒百合をもって船に号《なず》けるのであろう。 [#地から1字上げ]明治三十二(一八九九)年六〜八月 底本:「泉鏡花集成2」ちくま文庫、筑摩書房    1996(平成8)年4月24日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第四巻」岩波書店    1941(昭和16)年12月25日第1刷発行 ※底本の誤植は親本を参照して直しました。 入力:もんむー 校正:門田裕志 2005年3月16日作成 2007年9月6日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。