三人の盲の話 泉鏡太郎 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)其處《そこ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)三|人《にん》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)毮 /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)もし/\ *濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」 ------------------------------------------------------- [#8字下げ]一[#「一」は中見出し] 「もし/\、其處《そこ》へ行《い》らつしやりますお方《かた》。」……と呼《よ》ぶ。  呼《よ》ばれた坂上《さかがみ》は、此《こ》の聲《こゑ》を聞《き》くと、外套《ぐわいたう》の襟《えり》から先《ま》づ悚然《ぞつ》とした。……誰《たれ》に似《に》て可厭《いや》な、何時《いつ》覺《おぼ》えのある可忌《いまは》しい調子《てうし》と云《い》ふのではない。が、辿《たど》りかゝつた其《そ》のたら/\上《あが》りの長《なが》い坂《さか》の、下《した》から丁《ちやう》ど中央《なかば》と思《おも》ふ處《ところ》で、靄《もや》のむら/\と、動《うご》かない渦《うづ》の中《なか》を、見《み》え隱《がく》れに、浮《う》いつ沈《しづ》みつする體《てい》で、跫音《あしおと》も聞《きこ》えぬばかり――四谷《よツや》の通《とほ》りから穴《あな》の横町《よこちやう》へ續《つゞ》く、坂《さか》の上《うへ》から、しよな/\下《お》りて來《き》て、擦違《すれちが》つたと思《おも》ふ、と其《そ》の聲《こゑ》。  何《なん》の約束《やくそく》もなく、思《おも》ひも懸《か》けず行逢《ゆきあ》つたのに、ト見《み》ながら行過《ゆきす》ぎるうち、其《そ》れなり何事《なにごと》も無《な》しには分《わか》れまい。呼《よ》ぶか、留《と》めるか、屹《きつ》と口《くち》を利《き》くに違《ちが》ひない、と坂上《さかがみ》は不思議《ふしぎ》にも然《さ》う思《おも》つた。尤《もつと》も其《それ》は、或機會《あるきつかけ》に五位鷺《ごゐさぎ》が闇夜《やみ》を叫《さけ》ぶ、鴉《からす》が啼《な》く、と同《おな》じ意味《いみ》で、聞《き》くものは、其處《そこ》に自分《じぶん》一人《ひとり》でも、鳥《とり》は誰《たれ》に向《むか》つて呼《よ》ぶのか分《わか》らない。けれども、可厭《いや》な、可忌《いまは》しい聲《こゑ》を聞《き》かずには濟《す》むまい、と思《おも》ふと案《あん》の定《ぢやう》……  來《き》て、其《そ》の行逢《ゆきあ》つたものは、一《ひと》ならびに並《なら》んだ三|人《にん》づれで、どれも悄乎《しよんぼり》とした按摩《あんま》である。  中《なか》に挾《はさ》まれたのは、弱々《よわ/\》と、首《くび》の白《しろ》い、髮《かみ》の濃《こ》い、中年増《ちうどしま》と思《おも》ふ婦《をんな》で、兩《りやう》の肩《かた》がげつそり痩《や》せて、襟《えり》に引合《ひきあは》せた袖《そで》の影《かげ》が――痩《や》せた胸《むね》を雙《さう》の乳房《ちぶさ》まで染《し》み通《とほ》るか、と薄暗《うすぐら》く、裾《すそ》をかけて、帶《おび》の色《いろ》と同《おな》じやうに――黒《くろ》く映《さ》して、ぴた/\ぴた/\と草履穿《ざうりばき》か、地《つち》とすれ/\の褄《つま》を見《み》た。  先《さき》に立《た》つたのは鼠《ねずみ》であらう、夜目《よめ》には此《こ》の靄《もや》を織《お》つてなやした、被布《ひふ》のやうなものを、ぐたりと着《き》て、縁《ふち》なしの帽子《ばうし》らしい、ぬいと、のはうづに高《たか》い、坊主頭《ばうずあたま》其《そ》のまゝと云《い》ふのを被《かぶ》つた、脊《せい》のひよろりとしたのが、胴《どう》を畝《うね》らして……通《とほ》る。  後《あと》なる一人《ひとり》は、中脊《ちうぜい》の細《ほそ》い男《をとこ》で、眞中《まんなか》の、其《そ》の盲目婦《めくらをんな》の髮《かみ》の影《かげ》にも隱《かく》れさうに、帶《おび》に體《からだ》を附着《くツつ》けて行違《ゆきちが》つたのであるから、形《なり》、恰好《かつかう》、孰《ど》れも判然《はつきり》としない中《なか》に、此《こ》の三|人目《にんめ》のが就中《なかんづく》朧《おぼろ》に見《み》えた。  此《そ》の癖《くせ》、もし/\、と云《い》つた、……聲《こゑ》を聞《き》くと、一番《いちばん》あとの按摩《あんま》が呼留《よびと》めた事《こと》が、何《ど》うしてか直《す》ぐに知《し》れた…… 「私《わたし》かい。」  と直《す》ぐに答《こた》へて、坂上《さかがみ》は其《そ》のまゝ立留《たちど》まつて、振向《ふりむ》いた……ひやりと肩《かた》から窘《すく》みながら、矢庭《やには》に吠《ほ》える犬《いぬ》に、(畜生《ちくしやう》、)とて擬勢《ぎせい》を示《しめ》す意氣組《いきぐみ》である。 「はあ、お前樣《まへさま》で。」  と沈《しづ》んで云《い》ふ。果《はた》せる哉《かな》、殿《しんがり》の痩按摩《やせあんま》で、恁《か》う口《くち》をきく時《とき》、靄《もや》を漕《こ》ぐ、杖《つゑ》を櫂《かい》に、斜《なゝ》めに握《にぎ》つて、坂《さか》の二三|歩《ぽ》低《ひく》い處《ところ》に、伸上《のびあが》るらしく仰向《あをむ》いて居《ゐ》た。  先《さき》の二人《ふたり》、頭《あたま》の長《なが》いのと、何《なに》かに黒髮《くろかみ》を結《むす》んだのは、芝居《しばゐ》の樂屋《がくや》の鬘臺《かつらうけ》に、髷《まげ》をのせて、倒《さかさ》に釣《つる》した風情《ふぜい》で、前後《あとさき》になぞへに並《なら》んで、向《むか》うむきに立《た》つて、同伴者《つれ》の、然《さ》うして立淀《たちよど》んだのを待《ま》つらしい。  坂上《さかがみ》は外套《ぐわいたう》の袖《そで》を捻《ね》ぢて、踵《くびす》を横《よこ》ざまに踏《ふ》みながら、中折《なかをれ》の庇《ひさし》から、對手《あひて》の眉間《みけん》を透《す》かし視《み》つつ、 「私《わたし》に用《よう》か。」 「一寸《ちよつと》……お話《はな》しが……ありまして……」と落着《おちつ》いたのか、息《いき》だはしいのか、冬《ふゆ》の夜《よ》ふけをなまぬるい。 [#8字下げ]二[#「二」は中見出し] 「用事《ようじ》は何《なん》です。」  はじめ、靄《もや》の中《なか》を、此《こ》の三|人《にん》が來《き》て通《とほ》りすがつた時《とき》、長《なが》いのと短《みじか》いのと、野墓《のばか》に朽《く》ちた塔婆《たふば》が二|本《ほん》、根本《ねもと》にすがれた尾花《をばな》の白《しろ》い穗《ほ》を縋《すが》らせたまゝ、土《つち》ながら、凩《こがらし》の餘波《なごり》に、ふは/\吹《ふ》き送《おく》られて來《き》たかと思《おも》つた。  漸《や》つと、其《そ》の(思《おも》つた)が消《き》えて、まざ/\と恁《か》うしてものを言交《いひか》はせば、武藏野《むさしの》の丘《をか》の横穴《よこあな》めいた、山《やま》の手《て》場末《ばすゑ》の寂《さ》びた町《まち》を、搜《さぐ》り/\に稼《かせ》いで歩行《ある》くのが、誘《さそ》ひ合《あ》はせて、年《とし》を越《こ》す蚊《か》のやうに、細《ほそ》い笛《ふえ》の音《ね》で、やがて木賃宿《きちんやど》の行燈《あんどう》の中《なか》へ消《き》えるのであらうと、合點《がつてん》して、坂上《さかがみ》も稍《やゝ》もの言《い》ひが穩《おだや》かに成《な》つたのである。  按摩《あんま》は其《その》仰向《あをむ》いて打傾《うちかたむ》いた、耳《みゝ》の痒《かゆ》いのを掻《か》きさうな手《て》つきで、右手《めて》に持添《もちそ》へた杖《つゑ》の尖《さき》を、輕《かる》く、コト/\コト/\と彈《はじ》きながら、 「用《よう》と云《い》うて、別《べつ》に、此《これ》と云《い》うてありませぬ。ありませぬ、けれども、お前樣《まへさま》今《いま》から、何處《どこ》へ行《ゆ》かれます。何處《どこ》へ、何處《どこ》へ、何處《どこ》へ?」……と些《ち》と嘲《あざ》けるやうに、小鼻《こばな》で調子《てうし》を取《と》つた聞《き》き方《かた》をする。 「構《かま》ひなさんな。」  無理《むり》な首尾《しゆび》の、婦《をんな》に忍《しの》ぶ夜《よ》であつた……  坂上《さかがみ》は憤然《むつ》として、 「何處《どこ》へ行《い》つても可《い》いではないか。」 「可《よ》うない、其《それ》が可《よ》うない、お前樣《まへさま》、」と押附《おしつ》けに言《い》つた聲《こゑ》に、振切《ふりき》つては衝《つ》と足《あし》の出《で》ぬ力《ちから》が籠《こも》る。 「何故《なぜ》惡《わる》いんだね。」  と、却《かへ》つて坂下《さかした》へ小戻《こもど》りにつか/\と近《ちか》づいたが、餘《あま》り傍《そば》へ寄《よ》ると、靄《もや》が、ねば/\として顏《かほ》へ着《つ》きさうで、不氣味《ぶきみ》で控《ひか》へた。 「もう遲《おそ》い!」  と急《きふ》に幅《はゞ》のある強《つよ》い聲《こゑ》。按摩《あんま》は其《そ》の時《とき》、がつくりと差俯向《さしうつむ》く。  立《た》ち窘《すく》んだ體《てい》だつた、長頭《ながあたま》の先達盲人《せんだつめくら》は、此《こ》の時《とき》、のろりと身動《みうご》きして、横《よこ》に崖《がけ》の方《はう》へ顏《かほ》を向《む》けた。  次《つぎ》の婦《をんな》は、腰《こし》から其《そ》の影《かげ》を地《つち》へ吸込《すひこ》まれさうに、悄乎《しよんぼり》と腰《こし》をなやして踞《しやが》む……鬢《びん》のはづれへ、ひよろりと杖《つゑ》の尖《さき》が抽《ぬ》けて青《あを》い。  三|人《にん》が根《ね》をおろしたらしく見《み》て取《と》ると、坂上《さかがみ》も、急《きふ》には踏出《ふみだ》せさうもなく、足《あし》が地《ち》に附着《くツつ》いたが、前途《さき》を急《いそ》ぐ胸《むね》は、はツ/\と、毒氣《どくき》を掴《つか》んで口《くち》から吹込《ふきこ》まれさうに躍《をど》つて、血《ち》を動《うご》かしては、ぐつと膨《ふく》れ、肉《にく》をわなゝかしては、げつそり挫《ひしや》げる。  坂《さか》の其《そ》の兩方《りやうはう》は、見上《みあ》げて峰《みね》の如《ごと》き高臺《たかだい》のなだれた崖《がけ》で、……時《とき》に長頭《ながあたま》が面《おもて》を向《む》けた方《はう》は、空《そら》に一二|軒《けん》、長屋立《ながやだて》が恰《あたか》も峠茶屋《たうげぢやや》と云《い》ふ形《かたち》に、霜《しも》よ、と靄《もや》のたゝまり積《つ》んだ、枯草《かれくさ》の上《うへ》に、灯《ひ》の影《かげ》もなく鎖《とざ》さるゝ。  で、此《こ》のものどもの寄《よ》つた方《はう》は、木《き》の根《ね》ぐるみ地壓《ぢおさ》への杭《くひ》も露顯《あらは》に、泥《どろ》の崩《くづ》れた切立《きりた》てで、上《うへ》には樹立《こだち》が參差《すく/\》と骨《ほね》を繋《つな》ぐ。其《そ》の枝《えだ》の所々《しよ/\》、濁《にご》つた月影《つきかげ》のやうな可厭《いや》な色《いろ》の靄《もや》が搦《から》んで、星《ほし》もない……山《やま》深《ふか》く谷川《たにがは》の流《ながれ》に望《のぞ》んだ思《おも》ひの、暗夜《やみ》の四谷《よツや》の谷《たに》の底《そこ》、時刻《じこく》は丁《ちやう》ど一|時《じ》頃《ごろ》。  激《はげ》しく動《うご》くは胸《むね》ばかり……づん/\と陰氣《いんき》な空《そら》から、身體《からだ》を壓附《おしつ》けられるやうで、 「遲《おそ》いのが、何《なん》で惡《わる》い。」  とものいひも重《おも》く成《な》る。 「然《さ》う言《い》はれる、申《まを》される……」  と杖《つゑ》を持《も》つた手《て》の甲《かふ》を、丁《とん》と敲《たゝ》き、 「如何《いか》にも、もし、それが惡《わる》い……」 「行《い》つては不可《いけな》いと云《い》ふのかね。」と、心《こゝろ》がかりな今夜《こんや》の逢《あ》ふ瀬《せ》の、辻占《つじうら》にもと裏問《うらど》へば…… 「惡《わる》いと云《い》うたりとて、お前樣《まへさま》氣《き》一《ひと》つで行《ゆ》かるれば、それまでの事《こと》ではあれど、先《ま》づお留《と》め申《まを》したい。  これは、私《わし》一人《ひとり》か……  其處《そこ》に居《ゐ》る人《じん》も。」  と云《い》つて、杖《つゑ》をまつすぐに持直《もちなほ》すと、むかうで長頭《ながあたま》が、一《ひと》つ幽《かすか》な咳《しはぶき》。 [#8字下げ]三[#「三」は中見出し] 「行《い》くなつたつて、行《い》かなけりや成《な》らない所《ところ》だつたら何《ど》うします。」  と坂上《さかがみ》の呼吸《いき》はあせつた…… 「親《おや》が大病《たいびやう》だか、友《とも》だちが急病《きふびやう》だか、知《し》れたもんですか。……君《きみ》たちのやうに言《い》つちや、何《なに》か、然《さ》も怪《あや》しい所《ところ》へでも出掛《でか》けるやうだね。」 「へゝゝ、」  と杖《つゑ》の尖《さき》に頬《ほゝ》をすりつける如《ごと》く傾《かし》がつて、可厭《いや》に笑《わら》ひ、 「其《それ》が分《わか》ればこそ申《まを》すのなり、あの人《じん》も言《い》へと言《い》ひます……當《あ》てますか、私《わたし》が。……知《し》つても大事《だいじ》ない。明《あ》けて爾々《しか/″\》とお言《い》ひなされ。お前樣《まへさま》は婦《をなご》に逢《あ》ひに行《ゆ》く、」 「…………」 「な、然《しか》も、先方《さき》は、義理《ぎり》、首尾《しゆび》で、差當《さしあた》つては間《ま》の惡《わる》い處《ところ》を、お前樣《まへさま》が突詰《つきつ》めて、斷《た》つて、垣《かき》も塀《へい》も、押倒《おしたふ》し突破《つきやぶ》る、……其《そ》の力《ちから》で、胸《むね》を掻毮《かきむし》るやうにあせるから、婦《をなご》も切《せま》つて、身《み》にも生命《いのち》にも代《か》へて逢《あ》はうと云《い》ふ。其《それ》へ行《ゆ》く……お前樣《まへさま》、其《そ》の途中《とちう》でありませう。通《とほ》りがかりから、行逢《ゆきあ》うて、恁《か》うやつて擦違《すれちが》うたまでの跫音《あしおと》で、よう知《し》れました。とぼ/\した、上《うは》の空《そら》なので丁《ちやん》と分《わか》る……  霧《きり》もかゝり、霜《しも》もおりる……月《つき》も曇《くも》れば星《ほし》も暗《くら》し、此《こ》の大空《おほぞら》にも迷《まよ》ひはある。迷《まよ》ひも、其《それ》は穩《おだや》かなれども、胸《むね》の塞《ふさが》り呼吸《いき》が閉《とぢ》る、もやくやなあとの、電《いなびかり》、はたゝがみを御覽《ごらん》ぜい。  人間《にんげん》の思《おも》ひ、何事《なにごと》も不思議《ふしぎ》はない。  私《われら》が心《こゝろ》に思較《おもひくら》べた……身《み》に引較《ひきくら》べればこそ、此《こ》の掌《たなごころ》を……」  と云《い》ふ、己《おの》が面《おもて》へ、掌《たなそこ》を蓋《ふた》する如《ごと》くに、 「……掌《たなごころ》を見《み》るとやら申《まを》す通《とほ》り、見《み》えぬ目《め》にも知《し》れました。」  あとの二人《ふたり》とも、此《こ》の時《とき》言合《いひあ》はせた體《てい》に、上《うへ》と下《した》で、衣《き》ものの襞襀《ひだ》まで、頷《うなづ》いたのが朧《おぼろ》に分《わか》つた。  坂上《さかがみ》は、氣拔《きぬ》けのした状《さま》に、大息《おほいき》を吻《ほつ》と吐《つ》いて、 「辻《つじ》で賣卜《うらなひ》をする人《ひと》たちか。私《わたし》も氣《き》が急《いそ》いだので、何《なに》か失禮《しつれい》を言《い》つたかも知《し》れない……  先方《さき》は足袋跣足《たびはだし》で、或家《あるいへ》を出《で》て、――些《ちつ》と遠《とほ》いが、これから行《ゆ》く所《ところ》に、森《もり》のある中《なか》に隱《かく》れて待《ま》つた切《きり》、一人《ひとり》で身動《みうご》きも出來《でき》ないで居《ゐ》るんです。  其《そ》の事《こと》は、私《わたし》が今《いま》まで居《ゐ》た所《ところ》へ、當人《たうにん》から懸《か》けた、符牒《ふてふ》ばかりの電話《でんわ》で知《し》れて、實際《じつさい》、氣《き》も顛倒《てんだう》して急《いそ》ぐんです。行《い》かないで何《ど》うしますか、行《い》つては惡《わる》いんですか。」 「われら考《かんが》へたも其《そ》の通《とほ》り……いや、男《をとこ》らしく、よう申《まを》されました。さて、いづれもお最惜《いと》しいが、あゝ、危《あぶな》い事《こと》かな。」  と杖《つゑ》を引緊《ひきし》めるやうに、胸《むね》へ取《と》つて兩手《りやうて》をかけた。痩按摩《やせあんま》は熟《じつ》と案《あん》じて、 「先《ま》づお聞《き》き申《まを》すが、唯今《たゞいま》、此《こ》の坂《さか》の此《こ》の、われらが片寄《かたよ》つて路傍《みちばた》に立《た》ちました……此《こ》の崖下《がけした》に、づら/\となぞへに並《なら》びました瓦斯燈《がすとう》は、幾基《いくだい》が所《ところ》燈《あかり》が點《つ》いて、幾基《いくだい》が所《ところ》消《き》えて居《を》ります。一寸《ちよつと》、御覽《ごらん》ぜ、一寸《ちよつと》御覽《ごらん》ぜ。」  と言《い》ひ/\、がく/\と項《うなじ》を掉《ふ》つて首《かうべ》を垂《た》れる。  言《ことば》に引向《ひきむ》けられたやうに、三|人《にん》の並《なら》んだ背後《うしろ》を拾《ひろ》つて、坂下《さかした》から、上《うへ》の町《まち》へ、トづらりと視《み》ると……坂上《さかがみ》は今夜《こんや》はじめて此《こ》の路《みち》を通《とほ》るのではない。……片側《かたかは》へ並《なら》べて崖添《がけぞ》ひに、凡《およ》そ一|間《けん》おきぐらゐに、間《なか》を籠《こ》めて、一二三堂《ひふみだう》と云《い》ふ、界隈《かいわい》の活動寫眞《くわつどうしやしん》の手《て》で建《た》てた、道路安全《だうろあんぜん》の瓦斯燈《がすとう》がすく/\ある。  しろ/″\と霜柱《しもばしら》のやうに冷《つめ》たく並《なら》んで、硝子火屋《がらすほや》は、崖《がけ》の巖穴《いはあな》に一《ひと》ツ一《ひと》ツ窓《まど》を開《あ》けた風情《ふぜい》に見《み》えて、ばつたり、燈《あかり》が消《き》えたあとを、目《め》の屆《とゞ》く、どれも是《これ》も、靄《もや》を噛《か》んで、吸《す》ひ溜《た》め吸《す》ひ溜《た》め、透間《すきま》を覗《のぞ》いて切《き》れ/″\に灰色《はひいろ》の息《いき》を吹出《ふきだ》す。  かと思《おも》へば、目《め》の前《まへ》に近《ちか》いのは、あらう事《こと》か、鬼《おに》の首《くび》を古綿《ふるわた》で面形《めんがた》に取《と》つた形《かたち》に、靄《もや》がむら/\と瓦斯燈《がすとう》の其《そ》の消《き》えたあとに蟠《わだかま》つて、怪《あや》しく土蜘蛛《つちぐも》の形《かたち》を顯《あらは》し、同《おな》じ透間《すきま》から吹《ふ》く息《いき》も、これは可恐《おそろ》しい絲《いと》を手繰《たぐ》つて、天《そら》へ投掛《なげか》け、地《ち》に敷《し》き展《の》べ、宙《ちう》に綾取《あやど》る。や、然《さ》う思《おも》へば、靄《もや》のねば/\は、這個《こ》の振舞《ふるまひ》か。 [#8字下げ]四[#「四」は中見出し] 「大抵《たいてい》、皆《みな》消《き》えて居《を》ります筈《はず》で。」  と按摩《あんま》は、坂上《さかがみ》が然《さ》うして、きよろ/\と瓦斯燈《がすとう》を眗《みまは》す内《うち》に、先《さき》んじて又《また》云《い》つた。 「すつかり消《き》えて居《ゐ》る。あゝ、」と尚《な》ほ一倍《いちばい》、夜《よ》の更《ふ》けたのが身《み》に染《し》みた。 「な、消《き》えて居《を》りませう……けれども、お前樣《まへさま》から、坂《さか》の上《うへ》の方《はう》へ算《かぞ》へまして、其《そ》の何臺目《なんだいめ》かの瓦斯《がす》が一《ひと》つ、まだ燈《あかり》が點《つ》いて居《を》らねばなりませぬ。……見《み》えますか。」 「見《み》える……」  と答《こた》へた、如何《いか》にも一|臺《だい》、薄《うす》ぼんやりと、灯《ひ》が亂《みだ》れて、靄《もや》へ流《なが》れさうに點《つ》いて居《ゐ》る。 「しかし、何本《なんぼん》めだか一寸《ちよつと》分《わか》らない。」 「餘《あま》り遠《とほ》い所《ところ》ではありませぬ。人通《ひとどほ》りのない、故道松並木《ふるみちまつなみき》の五位鷺《ごゐさぎ》は、人《ひと》の居處《ゐどころ》から五|本目《ほんめ》の枝《えだ》に留《とま》ります、道中《だうちう》定《さだま》り。……其《そ》の灯《ひ》の消殘《きえのこ》りましたのは、お前樣《まへさま》から、上《うへ》へ五|本目《ほんめ》と存《ぞん》じます。  私《わたし》が間違《まちが》つた事《こと》を言《い》ひますれば、其處《そこ》に居《ゐ》ます師匠《ししやう》、沙汰《さた》をします筈《はず》。點《とも》つて立《た》つて居《を》ります上《うへ》は、決《けつ》して相違《さうゐ》ないと存《ぞん》じます。數《かず》を取《と》つて御覽《ごらん》ぜ、御覽《ごらん》ぜ……一《ひと》つ、」と杖《つゑ》の尖《さき》をカタ/\と二《ふた》つ鳴《な》らす。 「一《ひ》い……」 「二《ふた》ツ、」と三《みつ》ツ、杖《つゑ》の尖《さき》をコト/\コト。 「三《み》い……四《よ》う……確《たしか》に五|本目《ほんめ》……」 「でありませうな。」 「何《ど》うしたと云《い》ふんです。」 「お前樣《まへさま》、此《こ》の暗夜《やみ》に、われらの形《かたち》、崖《がけ》の樣子《やうす》、消《き》えた瓦斯燈《がすとう》の見《み》えますのも、皆《みな》其《そ》の一《ひと》つの影《かげ》なので。然《さ》もない事《こと》には、鼻《はな》を撮《つま》まれたとて分《わか》りませぬが。」  成程《なるほど》、覺束《おぼつか》ない、ものの形《かたち》も、唯《たゞ》一《ひと》ツ其《そ》の燈《あかり》の影《かげ》なのである……心着《こゝろづ》くと、便《たよ》りない色《いろ》ながら、其《そ》の力《ちから》には、揃《そろ》つて消《き》えた街燈《がいとう》が、時々《とき/″\》ぎら/\と光《ひか》りさへする――靄《もや》が息《いき》を吐《は》いて瞬《またゝ》く中《うち》に、――坂上《さかがみ》の姿《すがた》もふら/\として、 「一體《いつたい》、其《それ》が何《ど》うしたんです。」 「然《さ》れば……其《そ》の五|基目《だいめ》に一《ひと》ツ殘《のこ》りました灯《ひ》の下《した》に、何《なに》か見《み》えはいたしませぬか。」 「何《なに》が、」  と云《い》ふのも聲《こゑ》が震《ふる》ふ、坂上《さかがみ》は又《また》慄然《ぞつ》とした。 「何《なに》か、居《ゐ》はいたしませぬか。」 「何《なん》にも、何《なん》にも居《を》らん。」 「居《を》りませぬか。」 「居《ゐ》ない。」 「居《ゐ》ないが定《ぢやう》に成《な》りませぬ。お前樣《まへさま》が其處《そこ》までお運《はこ》びなさりますれば、必《かなら》ず出《で》ます。……それ故《ゆゑ》に、お留《と》め申《まを》すのでありまして、まあ、お聞《き》きなさりまし。」  と捻向《ねぢむ》いて、痩按摩《やせあんま》は腰《こし》を屈《かゞ》めながら、丁《ちやう》ど足許《あしもと》に一|基《だい》あつた……瓦斯燈《がすとう》の根《ね》を、其處《そこ》に轉《ころ》がつた、ごろた石《いし》なりにカチ/\と杖《つゑ》で鳴《な》らした。が音《おと》も響《ひゞ》かず、靄《もや》に沈《しづ》む。 「先《ま》づ……最《も》う一《ひと》ツ念《ねん》のために申《まを》さうに……われらが居《を》ります此《これ》なる瓦斯燈《がすとう》、唯《たつ》た今《いま》、お前樣《まへさま》を呼留《よびと》めましたなり、一歩《ひとあし》とて後《あと》へも前《まへ》へも動《うご》きませぬ……此《これ》は坂下《さかした》からはじめまして、立《た》ちました瓦斯燈《がすとう》の、十九|基《だい》めに相違《さうゐ》ありませぬ。  間違《まちが》へば、師匠《ししやう》沙汰《さた》をなされます。  さて、三|年《ねん》前《まへ》、……日《ひ》は違《ちが》ひます。なれども、同《おな》じ此《こ》の霜月《しもつき》の夜《よ》さり、丁《ちやう》ど同《おな》じ今《いま》の時刻《じこく》、私《われら》にもお前樣《まへさま》と同《おな》じ事《こと》がありました。……  其《そ》の頃《ころ》は、決《けつ》して其《そ》の、恁《か》やうな盲目《めくら》ではありませなんだ。」  と云《い》ふ、まともに坂上《さかがみ》に對《たい》して、向直《むきなほ》つたけれども、俯向《うつむ》いたなりで顏《かほ》は上《あ》げぬ。 「よう似《に》た、お前樣《まへさま》と同《おな》じ事《こと》で、然《さ》る婦《をんな》にあひゞきに參《まゐ》るので、此處《こゝ》を、此《こ》の坂《さか》を、矢張《やは》り、向《むか》つて下《した》から、うか/\と上《あが》りかけたのでありました。  時《とき》に擦違《すれちが》つたものが、これだけは、些《ち》と樣子《やうす》が違《ちが》ひまして、按摩《あんま》一人《ひとり》だけが見《み》えました。」  其《そ》の時《とき》、件《くだん》の、長頭《ながあたま》は、くるりと眞背後《まうしろ》にむかうを向《む》いた、歩行出《あるきだ》すか、と思《おも》ふと……熟《じつ》と其《そ》のまゝ。 [#8字下げ]五[#「五」は中見出し]  婦《をんな》は、と見《み》ると、其《それ》は、夥間《なかま》の話《はなし》を聞《き》くらしく、踞《しやが》んだなりに、くるりと此方《こつち》に向直《むきなほ》つた、帶《おび》も膝《ひざ》も、くな/\と疊《たゝ》まれさうなが、咽喉《のど》のあたりは白《しろ》かつた。  按摩《あんま》の聲《こゑ》は判然《はつきり》して、 「で、其《それ》で矢張《やつぱ》り、お前樣《まへさま》に私《われら》がしましたやうに、背後《うしろ》から呼留《よびと》めまして、瓦斯《がす》の五|基目《だいめ》も、足《あし》もとの十九の數《かず》も、お前樣《まへさま》に今《いま》われらが言《い》うた通《とほ》りの事《こと》を申《まを》します。  私《われら》はこゝで、其《そ》の通《とほ》りを、最《も》う一度《いちど》申《まを》しますばかりの事《こと》。  何《なん》で、約束《やくそく》した其《そ》の婦《をんな》に逢《あ》ひに行《い》つては成《な》らぬのかと――今《いま》のお前樣《まへさま》の通《とほ》りを、又《また》其《そ》の時《とき》私《わたし》が尋《たづ》ねますと、彼《あ》の盲人《めくら》が申《まを》すには、」  其《そ》の盲人《めくら》は、こゝに先達《せんだつ》の其《そ》の長頭《ながあたま》である事《こと》は、自《おのづ》から坂上《さかがみ》の胸《むね》に響《ひゞ》く。 「上《うへ》へ五|本《ほん》めの、一《ひと》つ消《き》え殘《のこ》つた瓦斯燈《がすとう》の所《ところ》に、怪《あや》しいものの姿《すがた》が見《み》える……其《それ》は、凡《すべ》て人間《にんげん》の影《かげ》を捉《と》る、影《かげ》を掴《つか》む、影法師《かげぼふし》を啖《くら》ふ魔《ま》ものぢや。  彼《かれ》めに影《かげ》を吸《す》はるれば、人間《にんげん》は形《かたち》痩《や》せ、嘗《な》めらるれば氣《き》衰《おとろ》へ、蹂躙《ふみにじ》らるれば身《み》を惱《なや》み、吹消《ふきけ》さるゝと命《いのち》が失《う》せる。  凡《およ》そ、月《つき》と日《ひ》とともに、影法師《かげぼふし》のある所《ところ》、件《くだん》の魔《ま》もの附絡《つきまと》はずと云《い》ふ事《こと》なうて、且《か》つ吸《す》ひ、且《か》つ嘗《な》め、蹂躙《ふみにじ》る。が、いづれ其《そ》の人《ひと》の生命《いのち》に及《およ》ぶには間《ま》があらう。其《それ》もつて大事《だいじ》ぢやに、可恐《おそろ》しいは、今《いま》あるやうな燈《あかり》の場合《ばあひ》。一口《ひとくち》くわつと遣《や》つて、」  と云《い》つた。按摩《あんま》の唇《くちびる》は尖《とが》つたな! 「立所《たちどころ》に影《かげ》を啖《くら》ふ、啖《く》はるれば、それまでぢや、生命《いのち》にも及《およ》びかねぬ。必《かなら》ず此《こ》の坂《さか》を通《とほ》らるゝな……  と恁《か》う言《い》ひます。  私《われら》も血氣《けつき》で、何《なに》を言《い》ふ。第一《だいいち》、其《その》魔《ま》ものとはどんなものか、と突懸《つゝかゝ》つて訊《き》きますと、其《そ》の盲人《めくら》ニヤリともせず、眞實《まじめ》な顏《かほ》をしまして、然《さ》れば、然《さ》れば先《ま》づ、守宮《やもり》が冠《かんむり》を被《かぶ》つたやうな、白犬《しろいぬ》が胴伸《どうの》びして、頭《づ》に山伏《やまぶし》の兜巾《ときん》を頂《いたゞ》いたやうなものぢや、と性《しやう》の知《し》れぬ事《こと》を言《い》ふ。  いや、聞《き》くよりは見《み》るが疾《はや》い。さあ、生命《いのち》を取《と》られて遣《や》らう、と元來《ぐわんらい》、あたまから眞《まこと》とは思《おも》ひませぬなり。づか/\、其《そ》の、……其處《そこ》の其《そ》の五|基《だい》めの瓦斯燈《がすとう》の處《ところ》まで小砂利《こざり》を蹴《け》つて參《まゐ》りますと、道理《もつとも》な事《こと》、何《なん》の仔細《しさい》もありませぬ。  處《ところ》に、右《みぎ》の盲人《めくら》、カツ/\と杖《つゑ》を鳴《な》らして、刎上《はねあが》つて、飛《と》んで參《まゐ》り、これは無體《むたい》な事《こと》をなされる。……強《きつ》い元氣《げんき》ぢや。私《み》が言《い》うて聞《き》かす事《こと》を眞《まこと》とは思《おも》はぬ汝《こなた》に、言託《ことづ》けるのは無駄《むだ》ぢやらうが、ありやうは、右《みぎ》の魔《ま》ものは、さしあたり汝《こなた》の影《かげ》を、掴《つか》まうとするではない。  今夜《こんや》……汝《こなた》が逢《あ》ひに行《い》く……其《そ》の婦《をんな》の影《かげ》を捉《と》らうと、豫《かね》てつけ狙《ねら》うて居《を》るによつて、嚴《きびし》い用心《ようじん》、深《ふか》い謹愼《つゝしみ》をしますやう、汝《こなた》を通《つう》じて、其《そ》の心《こゝろ》づけがしたかつたのぢや。  と恁《か》う又《また》言《い》ふのでありました。」 [#8字下げ]六[#「六」は中見出し] 「まざ/\と譫言《たはこと》吐《つ》く……私《われら》の婦《をんな》知《し》つたりや、と問《と》ひますと、其《それ》を知《し》らいで何《なに》をする……今日《けふ》も晩方《ばんがた》、私《み》が相長屋《あひながや》の女房《にようぼ》が見《み》て來《き》て話《はな》した。谷町《たにまち》の湯屋《ゆや》で逢《あ》うたげな。……よう湯《ゆ》の煙《けむり》で溶《と》けなんだ、白雪《しらゆき》を撫《な》でてふつくりした、其《それ》は、其《それ》は、綺麗《きれい》な膚《はだ》を緋《ひ》で緊《し》めて、淡《うす》い淺葱《あさぎ》の紐《ひも》で結《ゆは》へた、乳《ち》の下《した》する/\辷《すべ》るやうな長襦袢《ながじゆばん》。小春時《こはるどき》の一枚小袖《いちまいこそで》、藍《あゐ》と紺《こん》の小辨慶《こべんけい》、黒繻子《くろじゆす》の帶《おび》に、又《また》緋《ひ》の扱帶《しごき》……髷《まげ》に水色《みづいろ》の絞《しぼ》りの手絡《てがら》。艷《つや》の雫《しづく》のしたゝる鬢《びん》に、ほんのりとした耳《みゝ》のあたり、頸許《えりもと》の美《うつく》しさ。婦同士《をんなどうし》も見惚《みと》れたげで、前《まへ》へ𢌞《まは》り、背後《うしろ》で視《なが》め、姿見《すがたみ》に透《す》かして、裸身《はだか》のまゝ、つけまはいて、黒子《ほくろ》が一《ひと》つ、左《ひだり》の乳《ちゝ》の、白《しろ》いつけ際《ぎは》に、ほつりとある事《こと》まで、よう知《し》つたと云《い》ふ話《はなし》。  何《なん》と、此《こ》の婦《をんな》に相違《さうゐ》あるまい、汝《こなた》が逢《あ》ひに行《ゆ》く其《そ》の婦《をんな》は……  と又《また》其《そ》の盲人《めくら》が云《い》ふのであります。」  聞《き》くうちに、坂上《さかがみ》は、ぶる/\と身震《みぶる》ひした。其《それ》は、其處《そこ》に、此《こ》の話《はなし》をする按摩《あんま》の背後《うしろ》に跪《つ》い居《ゐ》て、折《をり》から面《かほ》を背《そむ》けた婦《をんな》が、衣服《きもの》も、帶《おび》も、まさしく、歴然《あり/\》と、其《そ》の言葉通《ことばどほ》りに目《め》に映《うつ》つたためばかりではない。――  足袋跣足《たびはだし》で出《で》たと云《い》ふ、今夜《こんや》は、もしや、あの友染《いうぜん》に……あの裾模樣《すそもやう》、と思《おも》ふけれども、不斷《ふだん》見馴《みな》れて氣《き》に染《し》みついた、其《そ》の黒繻子《くろじゆす》に、小辨慶《こべんけい》。  坂上《さかがみ》は血《ち》の冷《ひ》えるあとを赫《くわつ》と成《な》る。 「何《ど》うでありませう。お前樣《まへさま》。此《これ》から逢《あ》ひにおいでなさらうと云《い》ふ、其《そ》の婦《をなご》の方《かた》は、裾模樣《すそもやう》に、錦《にしき》の帶《おび》、緋縮緬《ひぢりめん》の蹴出《けだ》しでも。……其《そ》の黒繻子《くろじゆす》に、小辨慶《こべんけい》の藍《あゐ》と紺《こん》、膚《はだ》の白《しろ》さも可《い》いとして、乳房《ちゝ》の黒子《ほくろ》まで言《い》ひ當《あ》てられました、私《わたし》が其《そ》の時《とき》の心持《こゝろもち》、憚《はゞか》りながら御推量《ごすゐりやう》下《くだ》さりまし。  こゝな四谷《よツや》の谷底《たにそこ》に、酷《むご》い事《こと》、帶紐《おびひも》取《と》つて、あか裸《はだか》で倒《たふ》されてでも居《を》りますのが、目《め》に見《み》えるやうに思《おも》はれました。  で、右《みぎ》の其《そ》の盲人《めくら》は、例《れい》の魔《ま》ものは、其《そ》の婦《をんな》の影《かげ》を、嘗《な》めう、吸《す》はう、捉《とら》へよう、蹂躙《ふみにじ》らう、取啖《とりくら》はうとつけ𢌞《まは》す――此《こ》の儀《ぎ》を汝《こなた》から託《ことづ》けて、氣《き》を注《つ》けるやう言《い》ひなさい、と申《まを》したのを、よくも聞《き》かずに、黒雲《くろくも》を捲《ま》いて、飛《と》んで行《ゆ》き、電《いなづま》のやうに、鐵《てつ》の門《もん》、石《いし》の唐戸《からと》にも、遮《さへぎ》らせず、眞赤《まつか》な胸《むね》の炎《ほのほ》で包《つゝ》んで、弱《よわ》い婦《をんな》に逢《あ》ひました。  影《かげ》を取《と》る、影《かげ》を吸《す》ふ、影《かげ》を嘗《な》める、魔《ま》ものに逢《あ》つた。此《こ》の坂《さか》しか/″\の瓦斯燈《がすとう》のあかりで見《み》て來《き》た。……  婦《をんな》の家《うち》は、つい此《こ》の居《ゐ》まはりでありました。――  夜《よる》も晝《ひる》も附𢌞《つけまは》すぞ、それ、影《かげ》が薄《うす》いわ、用心《ようじん》せい、とお前樣《まへさま》。  可哀氣《かはいげ》に、苦勞《くらう》で氣《き》やみに煩《わづら》つて、帶《おび》をしめてもゆるむほど、細々《ほそ/″\》と成《な》つて居《ゐ》るものを、鐵槌《かなづち》で打《う》つやうに、がん/\と、あたまへ響《ひゞ》くまで申《まを》しましたわ。  他人《ひと》に、膚《はだ》を見《み》せたと思《おも》ふ妬《ねた》みから、――婦《をんな》が膝《ひざ》に突俯《つゝぷ》して、震《ふる》へる聲《こゑ》の下《した》で、途中《とちう》、どんなものに逢《あ》つて誰《だれ》に聞《き》いた話《はなし》だ、と右《みぎ》の影《かげ》を捉《と》る魔《ま》について尋《たづ》ねました時《とき》、――おのれ、胸《むね》に問《と》へ!なぞと云《い》うて、盲人《めくら》から聞《き》いた事《こと》は言《い》はずに了《しま》つたのでありました。  此《これ》が飛《と》んでもない心得違《こゝろえちが》ひ。其《そ》の盲人《めくら》こそ、其《そ》の婦《をんな》に思《おも》ひを懸《か》けて、影《かげ》のやうに附絡《つきまと》うて、それこそ、婦《をんな》の家《いへ》の居《ゐ》まはりの瓦斯燈《がすとう》のあかりで見《み》れば、守宮《やもり》か、と思《おも》ふ形體《ぎやうたい》で、裏板塀《うらいたべい》、木戸《きど》、垣根《かきね》に、いつも目《め》を赤《あか》く、面《つら》を蒼《あを》く、唇《くちびる》を白《しろ》く附着《くツつ》いて、出入《でい》りを附狙《つけねら》つて居《ゐ》たとの事《こと》。  はじめから、威《おど》したものが盲人《めくら》と知《し》れれば、婦《をんな》も然《さ》までは呪詛《のろは》れずに濟《す》んだのでありませう。」 [#8字下げ]七[#「七」は中見出し] 「今度《こんど》、……其《そ》の次《つぎ》……段々《だん/\》に婦《をんな》に逢《あ》ふ事《こと》が少《すくな》くなりました。  兎角《とかく》むかうで、私《われら》を避《さ》けるやうにするのであります。  ……殺《ころ》して死《し》なう、と逆上《ぎやくじやう》するうち、段々《だん/\》委《くは》しく聞《き》きますと、其《そ》の婦《をんな》が、不思議《ふしぎ》に人《ひと》に逢《あ》ふのを嫌《きら》ふ。妙《めう》に姿《すがた》を隱《かく》したがるのは、此《こ》の、私《われら》ばかりには限《かぎ》らぬ樣子《やうす》。  終《しまひ》には猫又《ねこまた》が化《ば》けた、妾《めかけ》のやうに、日《ひ》の目《め》を厭《いと》うて、夜《よる》も晝《ひる》も、戸障子《としやうじ》雨戸《あまど》を閉《し》めた上《うへ》を、二|重《ぢう》三|重《ぢう》に屏風《びやうぶ》で圍《かこ》うて、一室《ひとま》どころに閉籠《とぢこも》つた切《きり》、と言《い》ひます……  漸《やつ》との思《おも》ひ、念力《ねんりき》で、其《そ》の婦《をんな》を見《み》ました時《とき》は、絹絲《きぬいと》も、むれて、ほろ/\と切《き》れて消《き》えさうに、なよ/\として、唯《たゞ》うつむいて居《ゐ》たのであります。  顏《かほ》を上《あ》げさした……ト目《め》が、潰《つぶ》れました。へい、いえ、其《そ》の婦《をんな》の兩眼《りやうがん》で。  聞《き》きますると、私《われら》に、件《くだん》の影《かげ》を捉《と》る魔《ま》ものの話《はなし》を聞《き》いてからは、瞬《またゝ》く間《ま》さへ、瞳《ひとみ》に着《つ》いて、我《われ》と我《わ》が影《かげ》が目前《めさき》を離《はな》れぬ。  臺所《だいどころ》を出《で》れば引窓《ひきまど》から、縁《えん》に立《た》てば沓脱《くつぬぎ》へ、見返《みかへ》れば障子《しやうじ》へ、壁《かべ》へ、屏風《びやうぶ》へかけて映《うつ》ります。  映《うつ》ると其《そ》の影《かげ》を、魔《ま》が來《き》て、吸《す》ひさうで、嘗《な》めさうで、踏《ふ》みさうで、揉《も》みさうで、絡《から》みさうで、寢《ね》さうで成《な》らぬ。  月《つき》の影《かげ》、日《ひ》の影《かげ》、燈《ともしび》の影《かげ》、雪《ゆき》、花《はな》の朧々《おぼろ/\》のあかりにも、見《み》て影《かげ》のない隙《ひま》はなし……影《かげ》あれば其《そ》の不氣味《ぶきみ》さ、可厭《いや》さ、可恐《おそろ》しさ、可忌《いまは》しさに堪兼《たへか》ねる。  所詮《しよせん》が嵩《かう》じて、眞暗《まつくら》がり。我《わ》が掌《てのひら》は見《み》えいでも、歴々《あり/\》と、影《かげ》は映《うつ》る、燈《あかり》を消《け》しても同《おな》じ事《こと》で。  次第《しだい》に、床《とこ》の間《ま》の柱《はしら》、天井裏《てんじやううら》、鴨居《かもゐ》、障子《しやうじ》の棧《さん》、疊《たゝみ》のへり。場所《ばしよ》、所《ところ》を變《か》へつゝ、彼《あ》の守宮《やもり》の形《かたち》で、天窓《あたま》にすぽりと何《なに》か被《かぶ》つた、あだ白《じろ》い、胴《どう》の長《なが》い、四足《よつあし》で畝《うね》るものが、ぴつたりと附着《くツつ》いたり、ことりと圓《まる》くなつたり、長々《なが/\》と這《は》ふのが見《み》えたり……やがて、闇《やみ》の中《なか》、枕《まくら》の下《した》にも居《ゐ》るやうに成《な》りました。  見《み》る毎《たび》に、あツと聲《こゑ》を上《あ》げて、追《お》へば、其《そ》の疾《はや》い事《こと》、ちよろ/\と走《はし》つて消《き》えて、すぐに、のろりと顯《あらは》れる。  見《み》まい、見《み》まいの氣《き》が逆上《うはず》つて、ものの見《み》えるは目《め》のあるため、と何《なん》とか申《まを》す藥《くすり》を、枕《まくら》をかいもの、仰向《あをむ》けに、髮《かみ》を縛《しば》つた目《め》の中《なか》へ點滴《したゝ》らして、其《そ》の兩眼《りやうがん》を、盲《めくら》にした、と云《い》ふのであります。  心《こゝろ》も暗夜《やみ》の手《て》を取合《とりあ》つて、爾時《そのとき》はじめて、影《かげ》を捉《と》る魔《ま》ものの話《はなし》は、坂《さか》の途中《とちう》で、一人《ひとり》の盲人《めくら》に聞《き》かされた事《こと》を申《まを》して、其《そ》の脊恰好《せいかつかう》、年《とし》ごろを言《い》ひますと、婦《をんな》は、はツと、はじめて目《め》の覺《さ》めたやうに成《な》つて、さめ/″\と泣出《なきだ》しました。  思《おも》ひの叶《かな》はぬ意趣返《いしゆがへ》しに、何《なん》と!右《みぎ》の其《そ》の横戀慕《よこれんぼ》の盲人《めくら》に、呪詛《のろ》はれたに相違《さうゐ》ありませぬ。  頬《ほゝ》の肉《にく》を引掴《ひツつか》んで、口惜涙《くやしなみだ》、無念《むねん》の涙《なみだ》、慚愧《ざんき》の涙《なみだ》も詮《せん》ずれば、たゞ/\最惜《いとを》しさの涙《なみだ》の果《はて》は、おなじ思《おも》ひを一所《いつしよ》にしようと、私《われら》これ又《また》此《こ》の通《とほ》り、兩眼《りやうがん》を我《われ》と我手《わがて》に、……これは針《はり》でズブリと突《つ》いたのでありまする。  三世《さんぜ》、一娑婆《ひとしやば》、因果《いんぐわ》と約束《やくそく》が繋《つなが》つたと、いづれも發起仕《ほつきつかまつ》り、懺悔《ざんげ》をいたし、五欲《ごよく》を離《はな》れて、唯《たゞ》今《いま》では、其《それ》なる盲人《めくら》ともろともに、三人《さんにん》一所《いつしよ》に、杖《つゑ》を引連《ひきつ》れて、晝《ひる》は面《おもて》が恥《はづ》かしい、夜《よる》とあれば通《とほ》ります……  路《みち》すがら行逢《ゆきあ》ひました。  御迷惑《ごめいわく》か存《ぞん》ぜぬが、靄《もや》の袖《そで》の擦合《すれあ》うた御縁《ごえん》とて、ぴつたり胸《むね》に當《あた》る事《こと》がありましたにより、お心着《こゝろづ》け申上《まをしあ》げます……お聞入《きゝい》れ、お取棄《とりす》て、ともお心次第《こゝろしだい》。  此《こ》の上《うへ》は、さて、何《なに》も存《ぞん》ぜぬ。然《さ》やうなれば、お暇《いとま》を申受《まをしう》けます。」  言《ことば》の下《した》より、其處《そこ》に、話《はなし》の途中《とちう》から、さめ/″\と泣《な》いて居《ゐ》た婦《をんな》は、悄然《せうぜん》として、しかも、すらりと立《た》つた。  とぼ/\とした後姿《うしろすがた》で、長頭《ながあたま》から三《みつ》つの姿《すがた》、消《き》えたる瓦斯《がす》に、幻《まぼろし》や、杖《つゑ》の影《かげ》。  婦《をんな》が、白《しろ》い優《やさ》しい片手《かたて》で立《た》つ時《とき》、眼《め》を拭《ふ》いた布《きれ》が姿《すがた》を偲《しの》ぶ……其《そ》の紅絹《もみ》ばかり、ちら/\と……蝶《てふ》のやうに靄《もや》を縫《ぬ》ひ…… 底本:「鏡花全集 巻十四」岩波書店    1942(昭和17)年3月10日第1刷発行    1987(昭和62)年10月2日第3刷発行 初出:「中央公論 第二十七年第四號」    1912(明治45)年4月 ※「聞《き》き」と「訊《き》き」、「悚然《ぞつ》と」と「慄然《ぞつ》と」、「云《い》ふ」と「言《い》ふ」、「處《ところ》」と「所《ところ》」、「尤《もつと》も」と「道理《もつとも》」、「闇夜《やみ》」と「暗夜《やみ》」と「闇《やみ》」、「乳《ちゝ》」と「乳房《ちゝ》」、「生命《いのち》」と「命《いのち》」、「一《ひと》つ」と「一《ひと》ツ」、「二《ふた》つ」と「二《ふた》ツ」、「裸身《はだか》」と「裸《はだか》」、「歴然《あり/\》」と「歴々《あり/\》」、「其《そ》の時《とき》」と「爾時《そのとき》」、「目《め》」と「眼《め》」、「些《ちつ》と」と「些《ち》と」、「呪詛《のろは》れ」と「呪詛《のろ》はれ」の混在は底本通りです。 ※「私」に対するルビの「わたし」と「われら」と「わし」と「み」、「誰」に対するルビの「たれ」と「だれ」、「婦」に対するルビの「をんな」と「をなご」、「乳房」に対するルビの「ちぶさ」と「ちゝ」、「燈」に対するルビの「あかり」と「ともしび」、「電」に対するルビの「いなびかり」と「いなづま」、「掌」に対するルビの「たなごころ」と「たなそこ」と「てのひら」、「首」に対するルビの「かうべ」と「くび」、「矢張」に対するルビの「やつぱ」と「やは」、の混在は底本通りです。 ※初出時の表題は「靄」です。 入力:門田裕志 校正:室谷きわ 2022年10月31日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。