日本橋 泉鏡花 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)舐《な》め |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)娘|風俗《ふう》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)眗 ------------------------------------------------------- 篠蟹  檜木笠  銀貨入  手に手  露地の細路  柳に銀の舞扇 河童御殿  栄螺と蛤  おなじく妻  横槊賦詩  羆の筒袖 縁日がえり  サの字千鳥  梅ヶ枝の手水鉢  口紅  一重桜 伐木丁々  空蝉  彩ある雲  鴛鴦  生理学教室  美挙  怨霊比羅 一口か一挺か  艸冠  河岸の浦島  頭を釘  露霜 彗星  綺麗な花  振向く処を  あわせかがみ  振袖 [#改ページ] [#5字下げ]篠蟹[#「篠蟹」は大見出し] [#7字下げ]一[#「一」は中見出し] 「お客に舐《な》めさせるんだとよ。」 「何を。」 「その飴《あめ》をよ。」  腕白ものの十《とお》ウ九ツ、十一二なのを頭《かしら》に七八人。春の日永に生欠伸《なまあくび》で鼻の下を伸している、四辻の飴屋の前に、押競饅頭《おしくらまんじゅう》で集った。手に手に紅だの、萌黄《もえぎ》だの、紫だの、彩った螺貝《ばい》の独楽《こま》。日本橋に手の届く、通《とおり》一つの裏町ながら、撒水《まきみず》の跡も夢のように白く乾いて、薄い陽炎《かげろう》の立つ長閑《のどか》さに、彩色した貝は一枚々々、甘い蜂、香《かんば》しき蝶になって舞いそうなのに、ブンブンと唸《うな》るは虻《あぶ》よ、口々に喧《やかま》しい。  この声に、清らな耳許《みみもと》、果敢《はか》なげな胸のあたりを飛廻られて、日向《ひなた》に悩む花がある。  盛の牡丹《ぼたん》の妙齢《としごろ》ながら、島田髷《しまだ》の縺《もつ》れに影が映《さ》す……肩揚を除《と》ったばかりらしい、姿も大柄に見えるほど、荒い絣《かすり》の、いささか身幅も広いのに、黒繻子《くろじゅす》の襟の掛った縞御召《しまおめし》の一枚着、友染《ゆうぜん》の前垂《まえだれ》、同一《おんなじ》で青い帯。緋鹿子《ひがのこ》の背負上《しょいあげ》した、それしゃ[#「それしゃ」に傍点]と見えるが仇気《あどけ》ない娘|風俗《ふう》、つい近所か、日傘も翳《さ》さず、可愛い素足に台所|穿《ばき》を引掛けたのが、紅と浅黄で羽を彩る飴《あめ》の鳥と、打切《ぶっきり》飴の紙袋を両の手に、お馴染《なじみ》の親仁《おやじ》の店。有りはしないが暖簾《のれん》を潜《くぐ》りそうにして出た処を、捌《さば》いた褄《つま》も淀むまで、むらむらとその腕白共に寄って集《たか》られたものである。 「煮てかい、焼いてかい。」 「何、口からよ。」  と、老成《ませ》た事を云って、中でも矮小《ちび》が、鼻まで届きそうな舌を上舐《うわなめ》にべろんと行《や》る、こいつが一芸。 「まあ、可笑《おか》しい。」  若い妓《こ》は、優しく伏目に莞爾《にっこり》して、 「お客様が飴なんか。大概|御酒《ごしゅ》をあがるんですもの。」  で、ちょっと紙袋を袖で抱く。 「それだってよ、それでもよ、髯《ひげ》へ押着《おッつ》けやがるじゃねえか。」 「不見手様《みずてんさん》。」とまた矮小が、舌をべろんと飜《ひるがえ》す。  若い妓は柔《おとな》しかった。むっともしそうな頬はなお細って見えて、 「あら、大《おおき》な声をするもんじゃないことよ。」 「だって、看板に掛けてやがって。」と一人が前を遮るように、独楽の手繰《たぐり》をずるりと伸す。 「違ったか。雪や氷、冷《おべた》い氷よ。そら水の上に丶《チョン》なんだ。」 「不見手様。」と矮小が頤《あご》でしゃくる。 「矮小やい、舌を出せ。」 「出せよ、畜生。」 「ううん、ううん、そう号令を掛けちゃ出せやしませんさ。」  と焦って頭《ず》突きに首を振る。 「馬鹿、咽喉《のど》ぼとけを掴《つか》んでいやがる。」 「ほほほ。」と、罪の無い皓歯《しらは》の莟《つぼみ》。 「畜生、笑ったな、不見手。」  と矮小は、ぐいと腕を捲《まく》った。 「可厭《いや》、また……大《おおき》な声をして。」 「大な声がどうしたんでえ。」  と、一人の兄哥《にい》さん、六代目の仮声《こわいろ》さ。 [#7字下げ]二[#「二」は中見出し]  その若い妓は、可愛い人形を抱くように、胸へ折った片袖で、面《おもて》を蔽《おお》う姿して、 「堪忍して下さいな。」  と遣瀬《やるせ》なさそうに悄《しお》れて云う。 「やあ、謝罪《あやま》るぜ、ぐうたらやい。」 「不見手よりか心太《ところてん》だい。」  またしてもこの高声、はっとしたらしく袖を翳《かざ》して、若い妓は隠れたそうに、 「内証《ないしょ》なのよ、ねえ、後生よ。姉さんに聞えると腹を立ちますわ。」 「何を云ってやんでえ。」 「分るもんか。」  矮小が抜からず、べろん、と出して、 「お前ン許《とこ》の姉さんは、町内の狂人《きちがい》じゃねえかよ。」 「其奴《そいつ》も怪しいんだぜ、お夥間《なかま》だい。」  と背後《うしろ》から喚《わめ》くと、間近に、(何。)とか云う鮨屋《すしや》の露地口。鼬《いたち》のようにちょろりと出た同一《おなじ》腕白。下心あって、用意の為に引込んでいたらしい。芥溜《ごみため》を探したか、皿から浚《さら》ったか、笹ッ葉一束、棒切の尖《さき》へ独楽なわで引括《ひっくく》った間に合せの小道具を、さあ来い、と云う身で構えて、駆寄ると、若い妓の島田の上へ突着けた、ばさばさばッさり。  が、黙って、何にも言わないで、若い妓は俯向《うつむ》いて歩行《ある》き出す。  頸摺《うなじず》れに、突着け、突掛《つッか》け、 「やあ、おいらんの道中々々!」 「大高、旨《うま》いぞ。」と一人が囃《はや》す。 「おっと任せの、千崎|弥五郎《やごろう》。」  矮小が、心得、抜衣紋《ぬきえもん》の突袖《つつそで》で、据腰の露払。早速《さそく》に一人が喜助と云う身で、若い妓の袖に附着《くッつ》く、前後《あとさき》にずらりと六人、列を造って練りはじめたので、あわれ、若い妓の素足の指は、爪紅《つまべに》が震えて留まる。  此奴《こいつ》不見手、と笹の葉の旗を立てて、日本橋あたり引廻しの、陽炎揺るる影法師。  日南《ひなた》に蒸《いき》れる酢の臭《におい》に、葉も花片も萎《な》えんとす。  引切《ひっきり》の無い人通りも、およそ途中で立停《たちどま》って、芸者の形を見物するのは、鰻屋《うなぎや》の前に脂気《におい》を嗅《か》ぐ、奥州のお婆さんと同じ恥辱だ、という心得から、誰も知らぬ顔で行違う。……もっとも対手《あいて》は小児《こども》である。  世渡《よわたり》やここに一|人《にん》、飴屋の親仁は変な顔。叱言《こごと》を、と思う頬辺《ほっぺた》を窪めて、もぐもぐと呑込んで黙言《だんまり》の、眉毛をもじゃ。若い妓は気の毒なり、小児たちは常得意。内心痛し、頗《すこぶ》る痒《かゆ》しで、皺《しわ》だらけの手の甲を顋《あご》の下で摺《こす》ってござった。 「川柳にも有るがね、(黙然と辻斬を見る石地蔵。)さね。……俺《わし》も弱ったよ。……近い処が、西河岸にござらっしゃる、ね、あの、目の前であったろうずりゃ、お地蔵様はどうお扱いなさりょうかと、つくづく思っていましたよ、はい。……」  と後で人にそう云った。またこの飴屋が、喇叭《らっぱ》も吹かず、太鼓をトンとも鳴らさぬかわりに、いつでも広告の比羅《びら》がわり、赤い涎掛《よだれかけ》をしている名代の菩薩《ぼさつ》でなお可笑《おかし》い。 「笹や、笹々笹や笹、笹を買わんせ煤竹《すすだけ》を――」  大高うまい、と今呼ばれた、件《くだん》の(鼬みめよし)が、笹をわざと、島田の上で、ばさばさと振りながら、足踏をして唱出《うたいだ》した。  声を揃えて、手拍子で、 「笹を買わんせ煤竹を――」  ここで三音諧張上げる。気障《きざ》な調子で、 「大高源吾は橋の上ええ。」 [#5字下げ]檜木笠[#「檜木笠」は大見出し] [#7字下げ]三[#「三」は中見出し] 「あら、お止しなさいよ、そんな唄。大嫌《だいきらい》だわ。二階に寝ている姉さんが、病気で疳《かん》が立っておいでだから、直ぐに聞きつけて、沢山《たんと》加減を悪くするからね……ほんとうに嫌《きらい》なのよ。」  と若い妓《こ》は頭《かぶり》を振るように左右を顧《み》る。 「何が嫌《きらい》だい。」 「生意気云うない。」 「状《ざま》あ! 女郎|奴《め》、手前《てめえ》に嫌われて幸《さいわい》だ。好かれて堪《たま》るかい。」と笹を持ったのが、ぐいとその棹《さお》を小脇に引くと、呀《やあ》、斜に構えて前に廻った。 「嘘よ、お前さんじゃないのよ。その大高源吾とか云う、ずんぐりむっくりした人がね、笹を担いで浪花節《なにわぶし》で歩行《ある》いては、大事な土地が汚《けが》れるって。……橋は台なし、堪らないって、姉さんが云うんだわ。」 「知ってらい!」  と矮小が、ぺろぺろと舌を吐いて、 「不断、そう云《い》やがるとよ、可《い》いか。手前ン許《とこ》の狂女《きちがい》がな、不断そう云やがる事を知ってるから、手前《てめえ》だって尋常《ただ》は通さないんだぜ。僕がな、形を窶《やつ》してよ、八百屋の小児《こども》に生れてよ、間者になって知ってるんだ。行軍将棊《こうぐんしょうぎ》でもな、間者は豪《えら》いぜ、伴内《ばんない》阿魔《あま》。」  商人《あきゅうど》はもとより、親が会社員にしろ、巡査にしろ、田舎の小忰《こせがれ》でないものが、娘を苛《いじ》める仔細《しさい》はない。故あるかな、スパルタ擬《もど》きの少年等が、武士道に対する義憤なのである。 「忠臣、義士の罰が当らあ。」 「勿論よ。」  ひょろ竹と云われる瘠《や》せたのが、きいきいと軋《きし》む声で、 「疾《とう》に罰が当って、気の違った奴なんか構わねえや。……此奴に笹葉《ささっぱ》を頂かせろ。」 「嚔《くしゃみ》をさしたれ。」  と、含羞《はなじろ》んだ若い妓の、揃った目鼻の真中《まんなか》を狙って――お螻《けら》の虫が、もじゃもじゃもじゃ。 「へッくしょ。」と思わず唐突《だしぬけ》に陽炎を吸って咽《む》せた……飴屋の地蔵は堪《たま》らなそうに鼻を撫《な》でる。当の狙われた若い妓は、はッと顔を背けたので、笹葉は片頬《かたほ》外れに肩へ辷《すべ》って、手を払って、持ったのを引払《ひっぱら》われて、飴の鳥はくしゃん[#「くしゃん」に傍点]、と潰《つぶ》れる。 「可哀相に、鶯を。」  とつい、衣紋《えもん》が摺《ず》って、白い襟。髪艶やかに中腰になった処を、発奮《はずみ》で一打《ひとうち》、ト颯《さっ》と烏の翼の影、笹を挙げて引被《ひっかぶ》る。 「ああ、少時《しばらく》。」  慌《あわただ》しく声を掛けて、白足袋のしょぼけた草鞋《わらじ》で、つかつかと寄ろうとした、が、ふと足を曳《ひ》いて、手甲掛けた手を差伸ばして、 「もしもし、大高|氏《うじ》、暫時《しばらく》、大高氏。」と大風《おおふう》に声を掛けて呼んだのは、小笠《おがさ》を目深《まぶか》に、墨の法衣《ころも》。脚絆穿《きゃはんばき》で、むかし傀儡師《かいらいし》と云った、被蓋《きせぶた》の箱を頸《くび》に掛けて、胸へ着けた、扮装《いでたち》は仔細《しさい》らしいが、山の手の台所でも、よく見掛ける、所化《しょけ》か、勧行か、まやかしか、風体《ふうてい》怪しげなる鉢坊主。  形だけも世棄人《よすてびと》、それでこそ、見得も外聞も洒落《しゃれ》も構わず、変徹も無く、途中で芸者を見ていらるる。――斜めに向う側の土蔵の白壁に、へまむし、と炭団《たどん》の欠《かけ》で楽書をしたごとく彳《たたず》んで、熟《じっ》と先刻《さっき》から見詰めていた。  小笠のふちに、手を掛けながら、 「源吾どの、ちょっと、これへ。……」 [#7字下げ]四[#「四」は中見出し] 「そりゃ、(かな手本。)の御連中、あすこで呼んでいさっしゃる。」  潮を踏んだ飴屋は老功。赤い涎掛《よだれかけ》を荷の正面へ出して、小児の捌口《はけくち》へ水を向ける。 「僕の事かい。」  と猶予《ためら》いながら、笹ッ葉の竹棹《たけざお》を、素直《まっすぐ》に支《つ》いた下に、鬢《びん》のほつれに手を当てて、おくれを掻《か》いた若い妓の姿は、願《ねがい》の糸を掛けた状《さま》に、七夕らしく美しい。 「お前様方でのうて、忠臣蔵がどこに有るかな。」と飴屋は頷《うなず》くように頤杖《あごづえ》を支いて言う。 「一所においでよ、皆《みんな》。」 「おい。」  義士の人数《にんず》、六人の同勢は、羽根のように、ぽんぽんと発奮《はず》んで出て行《ゆ》く。  坊主は、笠ながら会釈して、 「貴殿は大高源吾どの?」  笹を持ったのが、(気を付け。)の姿勢になった。 「ええ、そうです。」 「こなたはな。」  見向かれた、ひょろ竹は、なぜか、ごしごしと天窓《あたま》を掻いた。 「僕は赤鞘《あかざや》の安兵衛てんです。」 「ははあ、堀部|氏《うじ》でおいでなさる。」 「千崎弥五郎だよ。」  矮小《ちび》は唇を、もぐもぐと遣《や》る。 「成程――その他いずれもお揃いでありますな。」  と、六人をずらりと見渡し、 「いや、これは誰方《どなた》も、はじめまして御意を得ます。」  ここで更《あらた》めてまた慇懃《いんぎん》に挨拶《あいさつ》した。小児等はきょとんとする。  中に大高源吾が、笠を覗込《のぞきこ》んで、前へ屈《かが》み、 「坊さんは誰なんです。」 「怜悧《りこう》だな。何、天晴《あっぱれ》御会釈。いかさま、御姓名を承りますに、こなたから先へ氏素姓を申上げぬという作法はありませなんだ。しかし御覧の通り、木の端《はし》同然のものでありますので、別に名告《なの》りますほどの苗字とてもありませぬ。愚僧は泉岳寺の味噌摺《みそすり》坊主でござる。」  事実元禄義士扱い。で、言葉も時代に、鄭重《ていちょう》に、生真面目《きまじめ》な応対《あいしらい》。小児等は気を取られて、この味噌摺坊主に、笑うことも忘れて浮《うっか》りでいる。 「ええ、さて各自《おのおの》には、すでに御本望をお遂げなされたのでありまするか。それとも、また今夜《こよい》にも吉良邸へお討入りに相成りますかな。」  小児等は同じように顔を合せて、猿眼《さるまなこ》に、猫の目、上り目、下り目、団栗目《どんぐりめ》、いろいろなのがぱちくるのみ。  自ら名告《なの》った味噌摺坊主は、手甲の手の腕組して、 「ははあ、御思考最中と見えますな。いや、何にいたせ、貴方《あなた》がたを義士の御連中とお見掛け申して、ちと折入って、お話し申したい事があります。余り端近。な、ここは余り端近で、それそれ通りがかりの人目も多い。もそっとこれへ、ちょっと向うへ。あの四角《よつかど》の処まで、手前と御同道が願いたい。  決して悪いことではありませぬ。さあさあ誰方も。」  と云うより早く、すたすたと通りの方へ。  松屋あたりの、人通《ひとどおり》。どっちが(端近。)なのかそれさえ分らず、小児等は魅せられたようになって、ぞろぞろと後に続く。  電車が来る、と物をも言わず、味噌摺坊主は飛乗《とびのり》に飜然《ひらり》、と乗った。で、その小笠をかなぐって脱いだ時は、早や乗合の中に紛れたのである。――白い火が飛ぶ上野行。――文明の利器もこう使うと、魔術よりも重宝である。  角店の硝子《がらす》窓の前に、六個《むッつ》の影が、ぼやりとして、中には総毛立って、震えたのがあった。 [#5字下げ]銀貨入[#「銀貨入」は大見出し] [#7字下げ]五[#「五」は中見出し]  地《つち》に砕けた飴の鳥の鶯には、どこかの手飼の、緋《ひ》の首玉した小猫が、ちろちろと鐸《すず》を鳴らして搦《から》んで転戯《じゃ》れる……  若い妓《こ》の、仔細《しさい》なくそこを離れたのは云うまでもない。  と自《おのず》から肩の嬌態《しな》、引合せた袖をふらふらと、台所|穿《ばき》をはずませながら、傍見《わきみ》らしく顔を横にして、小走りに駆出したが、帰りがけの四辻を、河岸の方へ突切ろうとする角に、自働電話と、一棟《ひとむね》火の番小屋とが並んでいる。……  ものも、こう、新旧相競うと、至って対照が妙で、どうやら辻番附の東西の大関とでも言いそうに見える。電話の方が(塗立注意。)などと来るといよいよ日当りに新味を発揮するが、油障子に(火の番。)と書いたお定りの屋台は、昼|行燈《あんどう》と云う形。屋形船が化けて出て河童《かっぱ》が住居《すま》う風情がある。註に及ばず、昼間は人気勢《ひとけはい》もあるのでない。  その両方の間《あわい》の、もの蔭に小隠れて、意気|人品《ひとがら》な黒|縮緬《ちりめん》、三ツ紋の羽織を撫肩《なでがた》に、縞《しま》大島の二枚小袖、襲《かさ》ねて着てもすらりとした、痩《や》せぎすで脊《せい》の高い。油気の無い洗髪。簪《かんざし》の突込《つッこ》み加減も、じれッたいを知った風。一目にそれしゃとは見えながら、衣紋つき端正《しゃん》として、薄い胸に品のある、二十七八の婀娜《あだ》なのが、玉のような頸《うなじ》を伸して、瞳を優しく横顔で、熟《じっ》と飴屋の方を凝視《みつ》めたのがある。 「あら、清葉《きよは》姉さん。」  と可懐《なつか》しそうに呼掛けて、若い妓はバッタリ留った。 「お千世《ちせ》さん。」  と柳の眉の、面《おもて》正しく、見迎えてちょっと立直る。片手も細《ほっそ》り、色傘を重そうに支《つ》いて、片手に白塩瀬《しろしおぜ》に翁格子《おきなごうし》、薄紫の裏の着いた、銀貨入を持っていた。  若い妓はお千世と言う、それは稲葉家《いなばや》の抱妓《かかえ》である。 「お出掛け、姉さん。どちらへか。」 「いいえ、帰途《かえり》なの。ちょっと浅草へお参りをしたんです。――今ね、通りがかりに見たんだけれど、お前さん、飛んだ目にお逢いだったわね。」 「ええ。」 「でも、可《よ》かったこと。私ね、見ていてどうしようかしら、と思ったのよ。――お千世さん。」 「は、」  と顔を上げて、甘えたそうに、ぴったり寄る。 「そして……あの坊さんは知った方。何なの、内へ勧化《かんげ》にでも来たことのある人なの。」 「いいえ、ちっとも知りませんわ。」 「そう。」 「笠を被《かぶ》っておいでなすって、顔はちっとも見えなかったんですもの……でも、そうでなくッても、まるッきり、心当りはありませんよ。」 「そうね、それはそうだともね。」  清葉はなぜか落着いて頷《うなず》いた。  若い妓は、気が入って口早に、せいせいと呼吸《いき》をしながら、 「でもね、私、いじめッ児《こ》を、皆《みんな》引張《ひっぱ》って電車通りの方へ行って下すった後姿を見て拝んだんですよ。私お地蔵様かと思いました。……ええ。」 [#7字下げ]六[#「六」は中見出し]  お千世は、ぱっちりとした目を瞬いて、 「飴屋の小父さんは、鶯が壊れたから、代りを拵《こさ》えて、そして持って行《ゆ》けッて云ったんですよ。………私、それどころじゃないんですもの。帰って姉さんにそう云って、あの西河岸のお地蔵様へお参りに行くか、でなけりゃ、直ぐ、あの、お仏壇へお燈明をあげて拝みましょうと思って駆出して来た処なんですわ。」 「まあ、お千世さん。お前さん、大《おおき》な態度《なり》をして飴なのかね。私は蜜豆屋かと思ったよ。」  と細《ほっそ》りした頬に靨《えくぼ》を見せる、笑顔のそれさえ、おっとりして品が可《い》い。この姉さんは、渾名《あだな》を令夫人と云う……十六七、二十《はたち》の頃までは、同じ心で、令嬢と云った。あえて極《きま》った旦那が一|人《にん》、おとっさんが附いている、その意味を諷するのではない。その間のしょうそく[#「しょうそく」に傍点]は別として、しかき風采を称《たた》えたのである。  序《ついで》にもう一つ通名《とおりな》があって、それは横笛である。曰く、清葉、曰く令夫人で可いものを、誰《た》が詮索に及んだか、その住居《すまい》なる檜物町《ひものちょう》に、磨込《みがきこ》んだ格子戸に、門札打った本姓が(滝口。)はお誂《あつらえ》で。むかし読本《よみほん》のいわゆる(名詮自称《みょうせんじしょう》。)に似た。この人、日本橋に褄《つま》を取って、表看板の諸芸|一通《ひととおり》恥かしからず心得た中にも、下方《したかた》に妙を得て、就中《なかんずく》、笛は名誉の名取であるから。 「あら……清葉姉さん酷《ひど》いこと、何ぼ私かって蜜豆を。立って、往来で。」 「ほほほ、申過しました、御免なさいよ。いえね、実はね、……小児《こども》衆が、通せん坊をして、わやわや囃《はや》しているから、気になってね、密《そっ》と様子を見て案じていたの。……あの、もっとこっちへお寄んなさいよ。」  と、令夫人は仲通りの前後《あとさき》を、芝居気の無い娘じみた眗《みまわ》し方。で、件《くだん》の番小屋の羽目を、奥の方へ誘い入れつつ、 「別にね、お前さんと話をしているのを見られて悪い事は無いんだけれど、人が通って極《きま》りが悪いから。」  で、忍んだ梅ヶ香、ほんのりとする俤《おもかげ》。……勤めする身の、夏は日向、冬は日陰へ路を譲って、真中《まんなか》を歩行《ある》かぬことと、不断心得た女である。 「もう、あれだわ。誰か竹棹でお前さんの髷《まげ》を打《ぶ》とうとした時は、どうしようかと思ってねえ。くずしたお宝がちっと有るから、駆出して、あの中へ撒《ま》こうかしら、とすんでの事……」  為に銀貨入を手にしたので。 「口で留めたって、宥《なだ》めたって、云うことを利くんじゃなし、喧嘩するにも先方《さき》は小児だし、と云う中《うち》にも、私は意気地が無くって、そんな気にはなれないし、お宝を撒くに限る。あんな児《こ》に限って、そりゃきっと夢中になって、お前さんの事なんざ落《おっこ》として、お宝を拾うから、とそのお前さん謀《はかりごと》、計略?」  と打|微笑《ほほえ》み、 「そりゃ、お千世さん、可いけれど、私にゃ手が出せなかった。意気地が無くって自分ながら口惜《くやし》いのよ。……悪い事をするんじゃなし、誰に遠慮が、と思っても、何だかねえ、派手過ぎたようで差出たようで、ぱっとして、ただ恥しくって、どうにも駆出せなかったの。  まあ、極りの悪い。……銀貨入を握った手が、しっとり汗になりました。」  とその塩瀬より白い指に、汗にはあらず、紅宝玉《ルビイ》の指環《ゆびわ》。点滴《したた》るごとき情《なさけ》の光を、薄紫の裏に包んだ、内気な人の可懐《なつか》しさ。 [#7字下げ]七[#「七」は中見出し]  清葉は、きれの長い清《すず》しい目で、その銀貨入の紫を覗《のぞ》いて見つつ、 「お前さんの姉さんに聞かせたら、さぞ気が利かないってお笑いだろう。」 「いいえ、姉さん。」  傍目《わきめ》も触《ふ》らず、清葉を凝視《みつ》めて聞いたお千世が、呼吸《いき》が支《つか》えたようにこう云った。 「でもね、娑婆気《しゃばっけ》だの、洒落《しゃれ》だの、見得だの、なんにもそんな態《わざ》とでなしに、しようと思って、直ぐあの中へ、頭からお宝を撒ける人は、まあ、沢山《なんと》ほかには無い。――お孝《こう》さんばかりなんだよ。」  稲葉家の主《あるじ》、お千世の姉さん、暮から煩って引いている。が、錦絵《にしきえ》のお孝とて、人の知った、素足を伊達《だて》な婦《おんな》である。 「折角お前さん、可《い》い姉さんを持って幸福《しあわせ》だったのに、」  と清葉は、もの寂しそうに、 「困るわねえ、病気をして。」 「ええ。」  お千世は引入れられたように返事して、二人の目の熟《じっ》と合う時、自働電話に備付《そなえつけ》の番号帳がパタリと鳴る。……前《さき》に繰って見たものが粗雑《ぞんざい》に置いたらしい、紐《ひも》が摺《ず》って落ちた音。  ちょっと目を遣って見返しながら、 「そして、どんななの、やっぱりお孝さんは相不変《あいかわらず》?」 「ええ、困るのよ。二日に一度、三日に一度ぐらい、ちょっと気がつくんですけれど、直《すぐ》に夢のようになってしまいますわ。」 「そうだってねえ。」 「時々、嬰児《あかんぼ》のようなことなんか。今しがたも、ぶっきり飴と鳥が欲しいって、そう云って、………」  と莞爾《にっこり》するのが、涙ぐむより果敢《はかな》く見られる。 「ああ、それで飴を買いに。」  と云いかけて、清葉は何か思出した面色《おももち》して、 「お千世さん、今の、あの、味方をして下すった坊さんね、……」 「ええ。」 「お前さん誰かに肖《に》ていたとは思わなくって、」 「肖ていて。誰に、ええ?……姉さん。」 「ちょっとあの……それだと、お前さんも、お孝さんも、私も知っている方なんだがね。」 「そうでしょう、ですから、私もきっとそうでしょうと思いましたわ。」 「まあ、やっぱり、そうかねえ。気の迷いじゃなかったかねえ。」  と清葉は半ば独言《ひとりごと》に云うと、色傘を上へ取って身繕いをする状《さま》して、も一度あとを見送りそうな気構えに、さらさらと二返《ふたかえし》、褄を返して、火の番の羽目を出たが、入交《いれかわ》って、前へ通そうとするお千世と、向を変えてまた立留まった。時も過ぎたり、いかにしても、今はその影も見えないことを心付いたらしいのである。 「では、あの、姉さんはお顔を見たことがあるんですか。」 「私は、ここで遠いもの。顔なんてどうして?……お前さんは見たんじゃない? もっとも笠を被《かぶ》っていなすったけれどもさ。」  お千世はしきりに瞬した。 「あら、姉さん、肖ていたって、西河岸のお地蔵様じゃないんですか。私は直接《じか》に見たことはありませんけれど、……でしょうと思いましたから。で、なくって、誰に肖ていましたの、姉さん。」 「まあ、お千世さん、肖たってのはその事なの。……じゃ、やっぱり、気の迷だったんだよ。」とうっかりしたように色傘を支《つ》く。 「いいえ、気の迷いじゃありません。私はまったく。」 「そうね、……折があったら、お千世さん、一所におまいりをしようねえ。」 [#5字下げ]手に手[#「手に手」は大見出し] [#7字下げ]八[#「八」は中見出し] 「成程、蜜豆屋じゃなかったわね。」  飴屋が名代の涎掛《よだれかけ》を新しく見ながら、清葉は若い妓《こ》と一所に、お染久松がちょっと戸迷《とまど》いをしたという姿で、火の番の羽目を出て、も一度仲通へ。どっちの家へも帰らないで、――西河岸の方へ連立ったのである。  けれども、いずれそのうち、と云った、地蔵様へ参詣《さんけい》をしたのではない。そこに、小紅屋《こべにや》と云う苺《いちご》が甘《うま》そうな水菓子屋がある。二人は並んでその店頭《みせさき》。帳場に横向きになって、拇指《おやゆび》の腹で、ぱらぱらと帳面を繰っていた、肥《ふと》った、が効性《かいしょう》らしい、円髷《まるまげ》の女房が、莞爾《にっこり》目迎《むか》えたは馴染《なじみ》らしい。 「いらっしゃいまし、……唯今《ただいま》お坊ちゃんがお見えになりましたよ。」 「おや、そうですか、小婢《ちび》がついて。」  と小さな袱紗《ふくさ》づつみをちょっと口へ、清葉は温容《しとやか》なものである。 「いいえ、乳母《ばあや》さんに負《おん》ぶをなすって、林檎《りんご》を両個《ふたつ》、両手へ。」  と女房は正面へ居直って、膝にちゃんと手を支《つ》いて、わざと目を円くしながら、円々ちい括頤《くくりあご》で、頷《うなず》くように襟を圧《おさ》えて、 「懐中《ふところ》へ一つ、へい。」  と恍《とぼ》けた顔。この大業《おおぎょう》なのが可笑《おかし》いとて、店に突立《つッた》った出額《おでこ》の小僧は、お千世の方を向いて、くすりと遣る。  女房は念入りにも一つ頷き、 「お土産《みや》の先廻り。……莞爾々々《にこにこ》お帰りでございました。ですからもう今日《こんにち》は、お持ちになるに及びません。ほんとにお坊ちゃんは、水菓子がお好きでいらっしゃいます事!  お宅様の直《じ》き御近所に、立派な店がございますのに、難有《ありがた》い事に手前どもが御贔屓《ごひいき》で。……小いお娘様《あねえさま》もその御縁で、学校のお帰りなんぞに、(小母さんお水《ひや》を一杯。)なんて、お寄りなすって下さいますし、土地第一の貴女方《あなたがた》に御心安く願いますので、房州出のこんな田舎ものも、実《まこと》にねえ、町内で幅が利きますんでございますよ。はい。」 「飛んでもない、女房《おかみ》さん、何ですか、小娘《こども》までが、そんなに心安だてを申しますか、御迷惑でございますこと。」 「勿体ない、お蔭さまで人気が立って大景気でございますよ。」 「お世辞が可いのねえ、お千世さん。」 「はあ、ほんとうに評判よ。」 「いいえ、滅相な、お世辞ではございませんが、貴女方に誉められます処を、亡くなった亭主《やど》に聞かしてやりとうございます。そういたしましたら、生きてるうち邪慳《じゃけん》にしましたのをさぞ後悔することでございましょう。しかしまた未練が出て、化けてでも出ると大変でございますね。」  お千世が襦袢《じゅばん》の袖口で口を圧《おさ》えて、一昨年《おととし》の冬なくなったその亭主の、いささか訛《なまり》のある仮声《こわいろ》を使う。 「松蔵どんやあ。」 「わい。」  と叫んで、飛上ると、蜜柑《みかん》の空箱《からばこ》を見事に一個《ひとつ》、がた、がたんと引転覆《ひっくりかえ》して、松小僧は帳場口へどんと退《さが》って、 「女房《おかみ》さん!」 「ああ、驚いた。何だい。」  不意打に吃驚《びっくり》して、女房《かみさん》もぬッと立って、 「何だねえ、お前、大袈裟《おおげさ》な。」と立身《たちみ》に頭から叱られて、山姥《やまうば》に逢ったように、くしゃくしゃと窘《すく》んで、松小僧は土間へ蹲《しゃが》む。 「見たか、弱虫。」  お千世は白い肱《ひじ》をちらりと見せ、細い二の腕を軽く叩いて、 「可い気味さ。」 「何だね、お前さん。」と、余所《よそ》の抱妓《かかえ》でも、そこは姐《ねえ》さん、他人に気兼で、たしなめる。 「だって、いつも人魂の土蔵の処《とこ》じゃ、暗がりで私を威《おど》すんですもの。」 [#7字下げ]九[#「九」は中見出し] 「まあ、貴女方、どうぞ、まあ。」  女房《かみさん》は立った序《ついで》に、小僧にも吩咐《いいつ》けないで、自分で蒲団《ふとん》を持出して店端《みせばな》の縁台に――夏は氷を売る早手廻しの緋毛氈《ひもうせん》――余り新しくはないのであるが、向う側が三間ばかり、忍返しの附いた黒板塀なのと、果物の艶《つや》を被《かぶ》せたので、埃《ほこり》も見えず綺麗である。 「いいえ、すぐにお暇《いとま》を。――お千世さん、何が可《よ》かろうねえ。」 「済みません、姉さん。」  とお千世は瞬きで礼を言う。  清葉はいまし方、火の番小屋から、直ぐに分れて帰ろうとして、その銀貨入を、それごとお千世の帯の間へ挟みつつ云うのに―― 「あの、極りが悪いんですがね、お前さんのために使おうと思ったのを、使わないで済んだんです。お金子《かね》だと思わないで、お千世さん。」 「まあ、なぜ?」 「小児《こども》に苛《いじ》められたお見舞に。」  お千世は、生際の濃い上へ、俳優《やくしゃ》があいびきを掛けたように、その紫の裏を頂いたが、手へ返して、清葉のその手に、縋《すが》るがごとく顔を仰いで、 「姉さん、このお宝で、私をお座敷へ呼んで下さいな。……ちっとも私、この節かかって来ないんですもの。」  土地の故参で年上でも、花菖蒲《はなあやめ》、燕子花《かきつばた》、同じ流れの色である。……生意気盛りが、我慢も意地も無いまでに、身を投げ掛けたは、よくせき、と清葉はしみじみ可哀《あわれ》に思った。 「菊家へ行《ゆ》こうよ、私がお客で。大したお大尽《だいじん》だわね、お小遣を持扱《もちあつか》って。」  とわざと銀貨入を帯に納めて、 「途中で我ままな馴染に逢って無理に連れられたとそうお云いな。目と鼻の前《さき》だって、一旦|家《うち》へ帰ってからだと、河岸の鮨は立食しても、座敷にはきちょうめんな、極《きま》りの堅いお孝さん。お化粧だの、着換だので、ついそのままではお出しであるまい。……私も五時からお約束が一つある。早いが可いわね。ちょっとこの自働電話で、内へ電話をお掛けなさい。一所に行って御飯を食べよう。」 「姉さん。」  と、いそいそしながら、果敢《はか》なそうに、 「もうね、内に電話は無いんですよ。」  清葉は思いがけず疑いの目を睜《みは》って、 「どうして、ねえ。」 「お孝姉さんはあんなでしょう。私は滅多に御座敷はありませんし、あの……」  とお千世は言淀んだが、 「鑑札のお代だって余計なものだのに、電話なんか無駄だからって、それで、譲ってしまったんでしょう。一昨日《おととい》から、内にはボンボン時計も無いんでしょう。ですから、チンリンと云う音もしないで、寂寞《ひっそり》ぽかんとしているんですわ。  方々、お茶屋さんだの、待合さんへ、そう云っておいでって云うんでしょう。――私がずッと廻りましたの。  姉さん。――はじめてお弘めに連れられました時よりか、私極りが悪かったんです。……だって、ただ、(ああそうですか御苦労様。)ってお言いなさる許《とこ》は可いんですけれども、中にはねえ、(どうして。)って。……いいえ、冷評《ひやか》すんじゃありません、深切で聞いて下さるお家《うち》では、(私がちっとも出ませんから。)  そう言わなけりゃなりませんもの。しょう事なしに、笑って云うにゃ云いましたが、死ぬほど辛うござんしたわ。」  と指を環にしつ、引靡《ひきなび》けつ。 [#7字下げ]十[#「十」は中見出し]  寐起《ねおき》の顔にも、鬢《びん》の乱れは人に見せない身躾《みだしなみ》。他人の縺《もつ》れ毛も気になるか、一つ座敷の年下など、小蔭で撫着けてやる外には、客はもとより、身体《からだ》に手なんぞ、触った事の無い清葉が、この時は、しかと頸筋《くびすじ》でも抱きたそうに、お千世の肩に手を掛けた。 「まあ、お孝さんが廻れと云って?」 「いいえ。」  と驚いたように頭《かぶり》を振って、 「私の姉さんが、そんな事!……病気から以来《こっち》、内の世話をしている叔母さんのいいつけなんですよ。」  稲葉家のお孝が、そうした容体になってから、叔母とは云うが血筋ではない。父親は台湾とやら所在分らず、一人有ったが、それも亡くなった叔父の女房で、蒟蒻島《こんにゃくじま》で油揚の手曳《てびき》をしていた。余り評判のよくない阿婆《おばあ》が、台所《だいどこ》から跨込《またぎこ》んで、帳面を控えて切盛する。其奴《そいつ》の間夫《まぶ》だか、田楽だか、頤髯《あごひげ》の凄《すさ》まじい赤ら顔の五十男が、時々長火鉢の前に大胡坐《おおあぐら》で、右の叔母さんと対向《さしむかい》になると、茶棚|傍《わき》の柱の下に、櫛巻の姉さんが、棒縞《ぼうじま》のおさすり着もの、黒繻子《くろじゅす》の腹合せで、襟へ突込んだ懐手、婀娜《あだ》にしょんぼりと坐っているのが毎度と聞く。可哀《かわい》そうに、お千世は御飯炊から拭掃除、阿婆が寝酒の酌までして、ちびりちびりと苛《いじ》められる上、収入《みいり》と云っては自分一人の足りない勝で、すぐにお孝の病気の手当に差響くのに気を揉《も》んで、言い憎かろう。我が口から、 「若干金《いくら》でも。」と待合の女中に囁《ささや》く。  不思議な事は、禍《わざわい》だか、幸《さいわい》だか、お孝の妹分と聞いただけで、その向きの客人は一目を置き、三舎を避けて、ただでも稲葉家では後日《あとあと》が、と敬遠すること、死せる孔明活ける仲達《ちゅうたつ》を走らすごとし。従ってちっとも出ない。その為に、阿婆の寝酒はなおあくどい[#「あくどい」に傍点]。あわれがって、最惜《いとし》がって、住替を勧めても、 「私が出ますと姉さんが。」  とお孝を案じて辛抱する。その可愛さも知れている。それだのに、お千世に口の掛からない時は、宵から、これは何だ、と阿婆が茶の缶の錻力《ブリキ》を、指で弾《はじ》いて見せると云うまで、清葉は聞伝えているのであった。  電話さえ無い始末、内証も偲《しの》ばれる。……あの酒のみが、打切飴《ぶっきりあめ》。それも欲《ほし》い時は火のつくばかり小児《こども》になって強請《ねだ》るのに、買って帰ればもう忘れて、袋を見ようともしないとか。病気が病気の事であるから、誰の顔の見さかえも有るまいが、それにしても大分《だいぶん》の無沙汰をした。……お千世のためには、内の様子も見て置きたい、と菊家へ連れようとした気を替えて、清葉はお孝を見舞いに行くのに、鮨というのも狂乱の美人、附属《つき》ものの笹の気が悪い。野暮な見立ても、萎《しお》るる人の、美しい露にもなれかしと、ここに水菓子を選んだのである。  小紅屋の女房|揉手《もみで》をして、 「稲葉家さんへ。ええええ、直《すぐ》に、お後から持たせまして。」  小僧|合点《がってん》して、たちまち出額《おでこ》に蛸顱巻《たこはちまき》。  引摺《ひきず》るほどにその奴《やっこ》が着た、半纏《はんてん》の印に、稲穂の円《まる》の着いたのも、それか有らぬか、お孝が以前の、派手を語って果敢《はか》なく見えた。  二人は引返して、また、あの火の番の前へ出たが、約束事ででも有るごとく、揃って立停《たちど》まらなければならなかったのは、一町たらず河岸寄りの向う側、稲葉家のそこが露地の中から、蜥蜴《とかげ》のように、のろりと出て、ぬっと怪しげな影を地に這《は》わした、服装《みなり》はしょびたれ、薄汚れて、広袖《どてら》かと思う、袖口も綻《ほころ》びて下ったが、巌乗《がんじょう》づくりの、ずんと脊の高い、目深に頬被《ほおかぶ》りした、草鞋穿《わらじばき》で、裾を端折らぬ、風体の変な男があって、懐手で俯向《うつむ》いて、こなたへのさのさと来掛った、と見ると、ふと頬|被《かむ》りの裡《うち》の目ばかり、……そこに立留まった清葉たちを見るや否や、ばねで弾かれたかと思う、くるりと背後向《うしろむき》。方角をかえて河岸通へ、しかものそのそと着流しのぐなりとした、角帯のずれた結目《むすびめ》をしゃくって行く。  出て来た処が稲葉家の露地であるだけ、お孝に憑《つ》いたあやかし[#「あやかし」に傍点]と思う可厭《いや》な影の、角の電信柱で、フッと消えるまで、二人は、ものをも言わず見送っていたのである。 [#5字下げ]露地の細路[#「露地の細路」は大見出し] [#7字下げ]十一[#「十一」は中見出し]  昔と語り出《い》づるほどでもない、殺された妾《めかけ》の怨恨《うらみ》で、血の流れた床下の土から青々とした竹が生える。筍《たかんな》の(力に非ず。)凄《すご》さを何にたとうべき。五位鷺《ごいさぎ》飛んで星移り、当時は何某《なにがし》の家の土蔵になったが、切っても払っても妄執《もうしゅう》は消失《きえう》せず、金網戸からまざまざと青竹が見透かさるる。近所で(お竹蔵《たけぐら》。)と呼んで恐《おそれ》をなす白壁が、町の表。小児《こども》も憚《はばか》るか楽書の痕《あと》も無く、朦朧《もうろう》として暗夜《やみ》にも白い。  時々人魂が顕《あらわ》れる。不思議や鬼火は、大きさも雀の形に紫陽花《あじさい》の色を染めて、ほとほとと軒を伝う雨の雫《しずく》の音を立てつつ、棟瓦《むながわら》を伝うと云うので。  小紅屋の奴《やっこ》、平《たいら》の茶目が、わッ、と威《おどか》して飛出す、とお千世が云ったはその溝端。――稲葉家は真向うの細い露地。片側|立《だて》四軒目で、一番の奥である。片側は角から取廻した三階建の大構《おおがまえ》な待合の羽目で、その切れ目の稲葉家の格子向うに、小さな稲荷《いなり》の堂がある。傍《わき》に、総井戸を埋めたと云う、扇の芝ほど草の生えた空地《くうち》があって、見切《みきり》は隣町の奥の庭。黒板塀の忍返しで突当る。  そこに紅梅の風情は無いが、姿見に映る、江一格子《えいちごうし》の柳が一本《ひともと》。湯上りの横櫛は薄暗い露地を月夜にして、お孝の名はいつも御神燈《ごじんとう》に、緑|点滴《したた》るばかりであった。けれども、ここの露地口と、分けて稲葉家のその住居《すまい》とに、少なからず、ものの陰気な風説《うわさ》がある。  以前、仲之町《なかのちょう》の声妓《うれっこ》で、お若と云った媚《なまめ》かしい中年増が、新川の酒問屋に旦那が出来たため色を売るのは酷《きつ》い法度の、その頃の廓《くるわ》には居られない義理になって場所を替えた檜物町《ひものちょう》。  廓《さと》に馴《な》れた吾妻下駄《あずまげた》、かろころ左褄《ひだりづま》を取ったのを、そのままぞろりと青畳に敷いて、起居《たちい》に蹴出《けだ》しの水色|縮緬《ちりめん》。伊達巻で素足という芸者家の女房《おんなあるじ》。むかし古石場の寄子ほど、芸者の数を二階に抱えて、日本橋に芽生えの春。若菜家の盛を見せた。夏の素膚《すはだ》の不断の絽明石《ろあかし》、真白《まっしろ》に透く膚とともに、汗もかかない帯の間に、いつも千円束《せんりょうたば》が透いて見える、と出入りの按摩《あんま》が目を剥《む》いたのが、その新川の帳尻に、柳の葉の散込むのが秋風の立つはじめ。金気|蕭条《しょうじょう》としてたちまち至る殺風景。やけ[#「やけ」に傍点]でお若は浮気をする。紐がつく、蔦《つた》が搦《から》む、蜘蛛《くも》の巣が軒にかかる、旦那は暴れる、お若は遁《に》げる。追掛廻《おっかけまわ》して殺すと云う。  手切話しに、家《うち》を分けて、間夫《まぶ》をたてひく三度の勤めに、消え際がまた栄えた、おなじ屋号の御神燈を掛けたのが、すなわちこの露地で、稲葉屋の前《ぜん》がそれである。  お若と云うのは、一輪の冬牡丹を凩《こがらし》に咲かす間もなく、その家《うち》で煩いついて、いわゆる労症の、果はどっと寝て、枕も上らないようになると、件《くだん》の間夫の妹と称する、いずくんぞ知らん品川の女郎上り。女で食う色男を一度食わせたことのある、台の鮨のくされ縁が、手扶《てだす》けの介抱と称《とな》えて入《い》り込んで、箪笥《たんす》の抽斗《ひきだし》を明けたり出したり、引解《ひきほど》いたり、鋏《はさみ》を入れたり。勝手に台所を掻廻《かきまわ》した挙句が、やれ、刺身が無いわ、飯が食われぬ、醤油が切れたわ、味噌が無いわで、皿小鉢を病人へ投打ち三昧《ざんまい》、摺鉢《すりばち》の当り放題。 [#7字下げ]十二[#「十二」は中見出し]  お若の身は火消壺、蛍ばかりに消え残った、可哀《あわれ》に美しく凄《すご》い瞳に、自分のを直して着せた滝縞《たきじま》お召の寝々衣《ねんねこ》を着た男と、……不断じめのまだ残る、袱紗帯《ふくさおび》を、あろう事か、〆《し》めるはまだしも、しゃら解《ど》けさして、四十歳《しじゅう》宿場の遊女《おいらん》どの、紅入友染《べにいりゆうぜん》の長襦袢《ながじゅばん》。やっぱり、勝手に拝借ものを、垂々《だらり》と見せた立膝で、長火鉢の前にさしむかいになった形を、世に有るものとも思わなかった、地獄の絵かと視《なが》めながら、涙の暗闇《やみ》のみだれ髪、はらはらとかかる白い手の、掴《つか》んだ拳《こぶし》に俯伏《うつぶ》せに、魂は枕を離れたのである。  が、姿は雨に、月の朧《おぼろ》に、水髪の横櫛、頸《うなじ》白く、水色の蹴出し、蓮葉《はすは》に捌《さば》く裾に揺れて、蒼白《あおじろ》く燃える中に、いつも素足の吾妻下駄。うしろ向になって露地口を、カラカラと踏んで、五つばかり聞えてフッと消える。  も一度からからと響くと思うと、若菜家の格子のカタンと開《あ》く音。  極《きま》って、同じ姿が、うしろ向きに露地口へ立って、すいと入《い》ると途中で消えて、あとは下駄の音ばかりして格子が鳴る。  勿論、開いたでもなければ、誰も居ない。……これを見たもの、聞いたもの。  やがて風説《うわさ》も遠退《とおの》いて、若菜家は格子先のその空地に生える小草《おぐさ》に名をのみ留《とど》めたが、二階づくりの意気に出来て、ただの住居《すまい》には割に手広い。……ここで、一度待合になった処、開店《みせびらき》の晩に、酔って裏二階から庇合《ひあわい》へ落ちて、黒塀の忍返しにぶら下って、半死半生に大怪我をした客があって、すぐに寂れて、間もなく行方知れずそれは引越す。  一度、勤人の堅気が借りて、これは無事。ただし商館通いであったが、旅順とやらの支店の方へ勤がえになって、貸家札。  時に二割方家賃をあげた。近所では驚いた。差配の肚《はら》は大きかった。  すぐに引越し蕎麦《そば》を大蒸籠《おおせいろ》で配ったのが、微酔《ほろよい》のお孝であった。……抱妓《かかえ》が五人と分《わけ》が二人、雛妓《おしゃく》が二人、それと台所と婢《ちび》の同勢、蜀山《しょくざん》兀《こつ》として阿房宮、富士の霞に日の出の勢《いきおい》、紅白粉《べにおしろい》が小溝に溢《あふ》れて、羽目から友染がはみ出すばかり、芳町《よしちょう》の前《ぜん》の住居《すまい》が、手狭となって、ここに鏡台の月を移して、花の島田を纏《まと》めたものが。  三年にして現時の始末。  もっとも中頃、火取虫が赤いほど御神燈に羽たたきして、しきりに蛞蝓《なめくじ》が敷居を這《は》う、と云う頃から、傍《はた》では少なからず気にしたものの、年月《としつき》過ぎたことでもあり、世間一体不景気なり、稲葉家などは揚りのいい方、取り立てて言出して、気にさせても詮ない事と、土地で故顔《ふるがお》のお茶屋の女中、仕上げて隠居分の箱屋なども、打出しては言わなかった。  かえって河岸の客などに、場所も所説《いわれ》もよく知って、――中には見たのが有ると云う――酒の座敷で威《おど》かし半分、 「帰りに摺違うよ、露地口で。」  とまで打撒《ぶちま》けるものは有っても、勝気|気嵩《きがさ》の左褄、投遣りの酒機嫌。 「評判な人ね、あやかりたいよ。」  で、粋《すい》な音〆《ねじめ》と聞えた美声。 [#ここから3字下げ] 露地の細路……駒下駄《こまげた》で…… [#ここで字下げ終わり]  と得意の一節|寂寞《しん》とする。――酔えば蒼《あお》くなる雪の面《おもて》に、月がさすように電燈の影が沈むや。 「肖然《そっくり》。」  と、知った同士が囁《ささや》き合って、威した客の方が悚然《ぞっ》とする。…… [#ここから3字下げ] 露地の細路、……駒下駄で…… [#ここで字下げ終わり] 「お孝、それだけは堪忍しな。」  つむじ曲りが、娑婆気《しゃばっけ》な、わざと好事《ものずき》な吾妻下駄、霜に寒月の冴ゆる夜《よ》の更けて帰る千鳥足には、殊更に音を立てて、カラカラと板を踏む。  顔の見える時はまだしもである。  朽ちた露地板は気前を見せて、お孝が懐中《ふところ》で敷直しても、飯盛《めしもり》さえ陣屋ぐらいは傾けると云うのに、芸者だものを、と口惜《くやし》がっても、狭い露地は広くならぬ。  車は通らず、雨傘も威勢よくポンと轆轤《ろくろ》を開いたのでは、羽目へ当って幅ったいので、湯の帰りにも半開《はんびらき》、春雨|捌《さば》きの玉川|翳《ざし》。  美人《たおやめ》のこの姿は、浅草|海苔《のり》と、洗髪と、お侠《きゃん》と、婀娜《あだ》と、(飛んだり刎《は》ねたり。)もちょっと交って、江戸の名物の一つであるが、この露地ばかり蛇目傘《じゃのめ》の下の柳腰は、と行逢うものは身の毛を悚立《よだ》てて、鶯の声の媚《なまめ》いて濡れたのさえ、昼間も時鳥《ほととぎす》の啼《な》く音を怪む。 [#5字下げ]柳に銀の舞扇[#「柳に銀の舞扇」は大見出し] [#7字下げ]十三[#「十三」は中見出し]  鐘さえ霞む日は闌《たけなわ》に、眉を掠《かす》める雲は無いが、薄《うっす》りとある陽炎《かげろう》が、ちらりと幻を淡く染めると、露地を入りかけた清葉は、風説《うわさ》の吾妻下駄と、擦違うように悚然《ぞっ》とした。  清葉は実際、途中でも、座敷でも、廊下でも、茶屋の二階の上り下り、箱部屋などでも、ちょうど、袖|袂《たもと》の往通いに、生きていた頃の幽霊と、擦違って知ったのであるから。――  ここまで引添ったお千世は、家《うち》の首尾を見る為か、あるじもうけの心附けか、ものも言わないで、一足|前《さき》へ、袖を振って駆出した。格子の音はカラカラと高く奥から響いたけれども、幸に吾妻下駄の音ではなくて、色気も忘れて踏鳴らす台所|穿《ばき》の大《おおき》な跫音《あしおと》。それさえ頼母《たのも》しい気がするまで、溝板《どぶいた》を辿《たど》れば斧の柄の朽ちるばかり、漫《そぞろ》に露地が寂しいのである。  並んで四軒、稲葉家の隣家《となり》は目下《いま》空家で、あとの二軒も、珍しく芸者家ではない。  片側の待合のその羽目に、薄墨でぼかしたように、ふらふらと、一所に歩行《ある》いて附いて来る影法師。  清葉は例の包ましやかに、色傘を翳《かざ》していた。その影と分れたが、フト気になるので、そこで窄《つぼ》めて、逆上《のぼせ》るばかりの日射《ひざし》を除《よ》けつつ、袖屏風《そでびょうぶ》するごとく、怪《あやし》いと見た羽目の方へ、袱紗《ふくさ》づつみを頬にかざして、徐《しずか》に通る褄はずれ、末濃《すそご》に藤の咲くかと見えつつ。  さて音訪《おとず》るる格子戸は、向うへ間を措《お》いて、そこへ行《ゆ》く手前が、下に出窓、二階が開いて、縁が見える。 「お孝さん。」  と無遠慮に心易く、それなり声を掛けるのには――二人の間は疎遠でないが――いずれも名取りの橋の袂、双方|対《つい》の看板主、芸者同士の礼儀があるので。  一歩《ひとあし》とまって、二階か、それとも出窓の内か、と熟《じっ》と視《なが》めて、こう、仰いだ清葉の目に、色糸を颯《さっ》と投げたか、とはらりと映って、稲妻のごとく瞳を射つつ沈んで輝く光があった。  驚いた鬢《びん》のほつれに、うしろの羽目板で、ちらちらと一つ影が添って、重《かさな》った蒼《あお》い影。  優しいながら、口を緊《し》めて――透《とお》った鼻筋は気質に似ないと人の云う――若衆質《わかしゅだち》の細面《ほそおもて》の眉を払って、仰向いて見上げた二階の、天井裏へ、飜然《ひらり》と飛ぶのは、一面、銀の舞扇である。 [#7字下げ]十四[#「十四」は中見出し]  きらりと光ると、扇は沈んで影は消えた。  ……が、また飜《ひるがえ》って颯《さっ》と揚羽。輝く胡蝶《こちょう》の翼一尺、閃《ひらめ》く風に柳を誘って、白い光も青澄むまで塵《ちり》を払った表二階。  露地も温室のような春の中に、そこに一人月のごとき美人や病む。  扇に描《か》いたは、何の花か、淡《うす》い絵具も冷たそうに、床の柱に映るのが見える。  落ちると、トンと幽《かすか》な音。あの力なさは足拍子でない。……畳に辷《すべ》った要《かなめ》の響。日ざしの白い静かさは、深山桜《みやまざくら》が散るようである。  障子を左右に開け放して、見透かされたるその座敷に、欞子隠《れんじがく》れの肩も見えず、欄干《てすり》にこぼるる裳《もすそ》も見えぬ。  お孝はまさしく寝ているのである。  寝ながら、舞扇のお手玉して、千鳥に投げて遊ぶのであった。 「ああ、多日《ながく》逢わない……」  清葉は、また可懐《なつか》しさが身に染みた。……軒の柳の翠《みどり》も浅い、霞のような簾《すだれ》一枚、じきそこに、と思うのが、気の狂った美人である。……寝ながら扇を……  また飛ぶ扇、閃めく影、影に重る塀の影。  なぜか渾名《あだな》の(錦絵。)に、魂の通う不思議な友に、夢|現《うつつ》に相見る気がして、清葉は軽く胸が轟く。  さてこう云うも咄嗟《とっさ》の事。  直ぐに格子を音ずれかけたが、歩みも運ばないで、立淀んだ。  清葉は途端に、内で、がみがみと喚《わめ》く声を聞いたから。 「遅いじゃないかね。」  と云う、嗄《しゃ》がれた中《うち》に痰《たん》の交じった、冷飯に砂利を噛《か》む、心持の悪い声で、のっけに先ず一つくら[#「くら」に傍点]わせた。  続いて、 「真昼間《まっぴるま》、……お尻を振廻して歩行《ある》いたって、誰も買手は有りはしないや。……鳶《とんび》、鳶、」  と茶色な歯、尖《とが》った口も見えると思うと、 「鳶につつかれるくらいが落なんだよ。どこ、何、お茶、お茶、どこへお茶を買って来、」  とちょっと途絶える。  お千世は飴を買ったのに。 「何だ、飴だえ。私はまたお前さんの身のものは、売買《うりかい》ともにお茶だと思った。……そう飴を、お茶うけに、へへん、」  と笑い上げたは、煙草《たばこ》を吹いたぞ。 「やっぱりお茶に縁が有らあね、……世間じゃお天道様と米の飯は附いて廻ると云うけれど、お前さんにゃ、貰水《もらいみず》とお茶がついて廻るんだ。お茶の水は本郷の名所だっけ。日本橋にゃ要らないもんだ。  ええ、姉さんのだ、嘘をお吐《つ》き。……いいえ、姉さんがまた吩咐《いいつ》けたって、口ばかりさ、直ぐに忘れて、きょとんとしている事は知ってるじゃないか。そして、食べさしちゃ悪いんだ。狂女《きちがい》に食ものッてね、むしゃむしゃ食散らかされて堪《たま》るものかな。  食べると水膨《むくむ》んだよ。……あの上|水膨《むくま》れちゃ、御当人より傍《はた》のものが助からないよ。人が乾殺《ほしころ》しでもするように、陰へ廻っちゃ出過ぎたがる。姉さんもまた、人聞きの悪いほど、何だかだって食べたがる。精々何にも当飼《あてが》わないで、咽喉《のど》腹を乾しとかないと、この上また何かの始末でもさせられるようじゃどうすると思うんだ。」  清葉は睫毛《まつげ》に露を押えて、二階の陽炎の光るのを見た。――扇は澄まして舞うのである。 [#7字下げ]十五[#「十五」は中見出し]  清葉は格子へ音訪《おとず》れ兼ねた。  自分と露地口まで連立って、一息|前《さき》へ駆戻ったお千世を捉《とら》えて、面前《まのあたり》喚くのは、風説《うわさ》に聞いたと違いない、茶の缶を敲《たた》く叔母であろう。  悪戯児《いたずらっこ》の悪関係《こだわり》から、火の番の立話、小紅屋へ寄ったまで、ちょっと時間が取れている。昼間近所へ振売だ、と云う。そんなお尻は鳶の突《つつ》くが落だ、と云う。お茶と水とは附いて廻る、駿河台《するがだい》に水車《みずぐるま》が架《かか》ったか、と云う。  お千世さんは私が一所にここへ来たことを云ったのだろうか。……言って、そして聞えよがしに、悪体を吐《つ》くとすると、私に喧嘩を売るのかしら。何の怨みも無いものが、煩う人の見舞に来たのに、いかに分らずやの叔母だと云って、まさかそうした事ではあるまい。露地から急いで、……あのお千世さんが心づかい、台所から長火鉢、二階を股に掛けて、眼張《がんば》っている、ものがもの。姉さんは姉さんゆえ、客に粗末の無いように、と先触れに駆込んだ処を、頭から喚き立てて、あの妓《こ》が呼吸《いき》を吐《つ》いて、口を利く間も措かず、立続《たてつ》けて饒舌《しゃべ》るらしい。  それにしても、汚い口から出過ぎた悪体。お千世も同じ、芸者はお互い。筆がしらでも中軸《なかじく》でも一味についた連名の、昼鳶がお尻を突《つつ》く、駿河台の水車、水からくりの姉さんが、ここにも一人と、飛込もうか。  それには用意がなければならず、覚悟もしないじゃ出来まいが、自分へ面当《つらあて》なら破れかぶれ。お千世へだけの事だったら、陰で綻《ほころび》を縫うまで、と内気な女が思直す。……  またその時、異《おつ》う悪黙りに黙ってしまって、ふと手の着けられぬまで、格子の中が寂寞《ひっそり》して、薄気味の悪いほど静まった。  これぞ、お千世の客が来て、門《かど》に近いのを、やっと囁《ささや》き得た事を頷《うなず》かせる。 「ええ。」  咳《しわぶき》を優しくして、清葉が出窓際の柳の葉の下を、格子へ抜けようとする、とあたかもその時。  はらりと音して、寝ながら投げた扇が逸《そ》れたか、欄干を颯《さっ》と掠《かす》めて、蒔絵《まきえ》の波がしら立つごとく、浅翠《あさみどり》の葉に掛って、月かと思う影が揺《ゆら》ぐと、清葉の雪のような頬を照らす。……と思わず、受けたは袱紗《ふくさ》の手。我知らず色傘を地に落して、その袖をはっと掛けて、斜めに丁と胸に当てた。  清葉は前刻《さっき》から見詰めた扇子《おうぎ》で、お孝の魂が二階から抜けて落ちたように、気を取られて、驚いて、抱取る思いがしたのである。  潜《くぐ》って流れた扇子の余波《なごり》か、風も無いのにさらさらと靡《なび》く、青柳の糸の縺《もつ》れに誘われた風情して、二階にすらりと女の姿。  お孝は寝床を出た扱帯《しごきおび》。寛《ゆる》い衣紋を辷《すべ》るよう、一枚小袖の黒繻子の、黒いに目立つ襟白粉《えりおしろい》、薄いが顔にも化粧した……何の心ゆかしやら――よう似合うのに、朋輩が見たくても、松の内でないと見られなかった――潰《つぶし》島田の艶《つや》は失せぬが、鬢のほつれは是非も無い。  生際曇る、柳の葉越、色は抜けるほど白いのが、浅黄に銀の刺繍《ぬいとり》で、これが伊達の、渦巻と見せた白い蛇の半襟で、幽《かすか》に宿す影が蒼《あお》い。 [#7字下げ]十六[#「十六」は中見出し]  と……思ったほどは窶《やつ》れも見えぬ。  病気のために失心して、娑婆も、苦労も忘れたか、不断年より長《ふ》けた女が、かえって実際より三つ四つも少ないくらい、ついに見ぬ、薄化粧で、……分けて取乱した心から、何か気紛れに手近にあったを着散したろう、……座敷で、お千世がいつも着る、紅と浅黄と段染《だんぞめ》の麻の葉|鹿《か》の子の長襦袢を、寝衣《ねまき》の下に褄浅く、ぞろりと着たのは、――かねて人が風説《うわさ》して、気象を較べて不思議だ、と言った、清葉が優しい若衆立《わかしゅだち》で、お孝が凜々《りり》しい娘|形《がた》、――さながらのその娘風の艶《えん》に媚《なまめ》かしいものであった。  お孝は弛《ゆる》んだ伊達巻の、ぞろりと投遣りの裳《もすそ》を曳《ひ》きながら、……踊で鍛えた褄は乱れず、白脛《しろはぎ》のありとも見えぬ、蹴出捌《けだしさば》きで、すっと来て、二階の縁の正面に立ったと思うと、斜めにそこの柱に凭《もた》れて、雲を見るか、と廂合《ひあわい》を恍惚《うっとり》と仰いだ瞳を、蜘蛛に驚いて柳に流して、葉越しに瞰下《みおろ》し、そこに舞扇を袖に受けて、見上げた清葉と面《おもて》を合せた。 「ああ、お孝さん。」  と声を掛ける。  上で見詰めたなり、何にも言わず、微笑むらしいお孝の唇、紅をさしたように美しい。  そこへ、あとも閉めないでおいたと見える、開けたままの格子を潜《くぐ》って、顔を出したお千世は、一杯目に涙を湛《たた》えている。  乱れて咲いた欄干の撓《たわわ》な枝と、初咲のまま萎《しお》れんとする葉がくれの一輪を、上下《うえした》に、中の青柳は雨を含んで、霞んだ袂《たもと》を扇に伏せた。―― 「清葉さんは楽勤め。」と茶屋小屋で女中が云う。……時間過ぎの座敷などは、(お竹蔵。)の棟瓦に雀が形を現しても、この清葉が姿を見せた験《ためし》が無い。……替りには、刻限までだと、何時《なんどき》に口を掛けても、本人が気にさえ向けば、待つ間が花と云う内に、催促に及ばずして、金屏風《きんびょうぶ》の前に衣紋を露《あらわ》す。  但し約束は受けていても、参詣《おまいり》の帰途《かえりみち》に眩暈《めまい》がすると、そのまま引籠《ひきこも》ること度々で。この眩暈と、風邪と、も一つ、用達《ようたし》と云う断りが出る、と箱三《はこさん》の札は、裏返らないでも、電話口の女中が矢継早の弓弦《ゆんづる》を切って、断念《あきら》めて降参する。  座敷で口惜《くやし》がるもの曰く、 「旦那が来ているのだろう。」  勿論である。  時に説を為《な》すものあり。 「そのくらいなら商売を止めれば可《よ》い。」  難じ得て妙だと思うと、たちまち本調子の声がして、 「芸者が好きな旦那でしょうよ。」  一言簡潔にして更に妙で、座客ぐうの音も出ず愕然《がくぜん》としてこれを見れば、蓋《けだ》し三味線《さみせん》が、割前の一座を笑ったのである。  そうまで我儘《わがまま》が通る癖に、附合が綺麗で、朋輩に深切で、内気で、謙遜で、もの優しい。おくれた座敷は、若い妓《こ》の背後《うしろ》に控えて、動く処は前《さき》へ立って目立たないように取り廻す、というのであるから、お茶屋の蔵の前《さき》に目の光る古狸から、新道の塒《ねぐら》を巣立ちの雛児《ひよっこ》まで、 「ああ、いい姉さん。」  とのっけ[#「のっけ」に傍点]に云う。……続いて頭《かぶり》を振る所科《しぐさ》ありと知るべし。少《わか》いもの慌てまい。その頭を振る事たるや、今のは嘘だと云う打消しではない。 [#7字下げ]十七[#「十七」は中見出し]  向うへ対手《あいて》に廻しては、三味線の長刀《なぎなた》、扇子《おうぎ》の小太刀《こだち》、立向う敵手《あいて》の無い、芳町育ちの、一歩を譲るまい、後《おくれ》を取るまい、稲葉家のお孝が、清葉ばかりを当の敵《かたき》に、引くまい、退《の》くまい、と気を揉んで、負けじとするだけ、かねてこなたが弱身なのであった。  張も、意地も、全盛も、芸ももとよりあえて譲らぬ。否、較べては、清葉が取立てて勝身は無い。分けてむこうは身一つで、雛妓《おしゃく》一人抱えておらぬ。  こなたは、盛りは四天王、金札《きんさつ》打った独武者《ひとりむしゃ》、羅生門よし、土蜘蛛よし、猅々《ひひ》、狼ももって来なで、萌黄《もえぎ》、緋縅《ひおどし》、卯の花縅、小桜を黄に返したる年増交りに、十有余人の郎党を、象牙の撥《ばち》に従えながら、寄すれば色ある浪に砕けて、名所の松は月下に独り、従容《しょうよう》として名を得る口惜《くや》しさ。  弱虫の意気地なしが、徳とやらをもって人を懐《なず》ける。雪の中を草鞋《わらじ》穿《は》いて、蓑《みの》着て揖譲《おじぎ》するなんざ、惚気《のろけ》て鍋焼を奢《おご》るより、資本《もとで》のかからぬ演劇《しばい》だもの。 「字《あざな》は玄徳め。」  と、所好《すき》な貸本の講談を読みながら、梁山泊《りょうざんぱく》の扈三娘《こさんじょう》、お孝が清葉を詈《ののし》る、と洩聞《もれき》いて、 「その気だから、あの妓《こ》は、(そんけん)さ。」  と内証で洒落《しゃれ》た待合の女房《おかみ》がある由。  却説《さて》、言うがごとく、清葉の看板は滝の家にただ一人である。母親がある。それは以前同じ土地に聞えた老妓で、清葉はその実、養女である。学校に通う娘が一人。これには表むき、おっかさん、とおおびらに自分を呼ばせて、誰に、遠慮も気づかいも無い。  なお水菓子が好きだと云う、三歳《みッつ》になる男の児《こ》の有ることを、前《さき》の条《くだり》にちょっと言ったが、これは特に断って置く必要がある、捨児《すてご》である。夜半《よなか》に我が軒に棄てられたのを、拾い取って育てている。その児に乳母を選んで、附けて置く裕《ゆたか》な身上《しんしょう》。  土蔵《くら》がある、土蔵には、何かの舞に使った、能の衣裳まで納まったものである。  かつて山から出て来た猪《しし》が、年の若さの向う不見《みず》、この女に恋をして、座敷で逢えぬ懐中《ふところ》の寂しさに、夜更けて滝の家の前を可懐《なつか》しげに通る、とそこに、鍋焼が居た。荷の陰で引飲《ひっか》けながら、フトその見事な白壁を見て、その蔵は? 「滝の家で。」 「たきの家?」 「へい、清葉姉さんの家《うち》でげすよ。」  や、これを聞くと、雲を霞と河岸へ遁《に》げた。しかも霜冴えて星の凍《い》てたる夜《よ》に、その猪が下宿屋の戸棚には、襲《かさ》ねる衾《ふすま》も無かったのであった。  と、何の苦労も、屈託も無さそうなその清葉が、扇子《おうぎ》とともに、身を震わした。  声もうるんで、 「お千世さん、姉さんが。」  と、二階に彳《たたず》んで物言わぬお孝を、その妹に教えながら、お千世の泣顔を、ともに誘って、涙ぐんだ目で欄干《てすり》を仰いで、 「私、……私よ、お孝さん。」  と二度目に呼んで声を掛けるや、 「葛木《かつらぎ》さん。」  と、冴えた声。お孝が一声応ずるとともに、崩れた褄は小間を落ちた、片膝立てた段|鹿《か》の子の、浅黄、紅《くれない》、露《あら》わなのは、取乱したより、蓮葉《はすは》とより、薬玉《くすだま》の総《ふさ》切れ切れに、美しい玉の緒の縺《もつ》れた可哀《あわれ》を白々地《あからさま》。萎《な》えたように頬杖《ほおづえ》して、片手を白く投掛けながら、 「葛木さん。」  二度まで、同じ人の名を、ここには居ない人の名を、胸を貫いて呼んだと思うと、支えた腕《かいな》が溶けるように、島田髷《しまだ》を頂《の》せて、がっくりと落ちて欄干《てすり》に突伏《つッぷ》したが、たちまち反《そ》り返るように、衝《つッ》と立つや、蹌踉々々《よろよろ》として障子に当って、乱れた袖を雪なす肱《ひじ》で、しっかりと胸にしめつつ、屹《き》と瞰下《みお》ろす目に凄味《すごみ》が見えた。 「ああ。」 「危いわ、姉さん。」  端近な低い欄干、虹が消えそうな立居《たちい》の危さ、と見ると、清葉が落した色傘を拾っていたお千世が、小脇に取ったまま慌《あわただ》しく駆込んだのは、梯子《はしご》を一飛びに二階へ介添。 「何だい、盗人猫《どろぼうねこ》のように、唐突《だしぬけ》に。」  と摺違いに毒気を浴びせて、ぬっと門口を覗《のぞ》いた、遣手面《やりてづら》の茶缶阿婆《ちゃかんおばあ》。 「えへへ。」と笑う、茶色な前歯、金の入歯と入乱れて、窪んだ頬に白粉《おしろい》の残滓《かす》。 「まあ、滝の家のお姉様、どうぞこちらへ。……まあ、御全盛な貴女様が、こんな怪物《ばけもの》屋敷見たような処へ、まあ、どうした風の吹廻しで。」  清葉はきりりと、扇子《おうぎ》を畳んで、持直して、 「ちょっと、お茶を頂きに。」 [#5字下げ]河童御殿[#「河童御殿」は大見出し] [#7字下げ]十八[#「十八」は中見出し] 「ははあ、葛木ですかね、姓じゃね、苗字であるですね。名は何と云わるるですか。」 「晋三《しんぞう》です。」  上外套《オウバアコオト》を着ながら、なお蒲柳《やせ》の見える、中脊の男が答える。  三月四日の夜《よ》の事であった。宵に小降りのした雨上り、月は潜んで朧《おぼろ》、と云うが、黒雲が浸《にじ》んで暗い、一石橋《いちこくばし》の欄干際。  一方は口つきでも知れる、言うまでもなく警官である。 「新はどう書くですかね、……通例新の新ですか? あるいは。」 「晋《すすむ》と云う字です。」  と男は声を低うした。ここに事故《こと》ありと聞きつけて、通行の人集《ひとだか》りを憚《はばか》って、さりげなく知合が立話でもするごとく装おうとしたらしい。  さして気遣う事は無い。近間に大《おおき》な建築《たてもの》の並んだ道は、崖の下行く山道である。峰を仰ぐものは多いけれど、谷を覗《のぞ》くものは沢山《たんと》ない。夜はことさら往来《ゆきき》が少い。しかも、その夜《よ》は、ちょうど植木|店《だな》の執持《とりもち》薬師様と袖を連ねた、ここの縁結びの地蔵様、実は延命地蔵尊の縁日で、西河岸で見初《みそめ》て植木店で出来る、と云って、宵は花簪《はなかんざし》、蝶々|髷《まげ》、やがて、島田、銀杏返《いちょうがえし》、怪《け》しからぬ円髷まじり、次第に髱《たぼ》の出た、襟脚の可《い》いのが揃って、派手に美しく賑《にぎわ》うのである。それも日本橋寄から仲通へ掛けた殷賑《にぎわい》で、西河岸橋を境にしてこなたの川筋は、同じ広重の名所でも、朝晴の富士と宵の雨ほど彩色が変って寂しい。もっともこの一石橋の夜《よ》の御領主、名代の河童《かっぱ》が、雨夜の影を潜めたのも、やっと五六年以来であるから。  初夜も過ぎた屋根越に、向う角の火災保険の煉瓦《れんが》に映る、縁結びの紅《あか》い燈《あかり》は、あたかも奥庭の橋に居て、御殿の長廊下を望んで、障子越の酒宴《さかもり》を視《なが》める光景《ありさま》! 島田の影法師が媚《なま》めくほど、なお世に離れた趣がある。  偶《たま》にこぼれて出て来るのは、小姓梅之助に手を曳《ひ》かるる腰元の青柳か、密《そっ》と外して酔ざましの椎茸髱《しいたけたぼ》。いずれも人目を忍ぶ色の、悪くすると御手討もの。巡査と対向《さしむかい》に立ったのなんぞ、誰も立停《たちど》まって聞くものは無い。  夜は、間遠いので評判な、外濠《そとぼり》電車のキリキリ軋《きし》んで通るのさえ、池の水に映って消える長廊下の雪洞《ぼんぼり》の行方に擬《まが》う。  が、名を憚《はばか》った男の、低い声に、(ああん。)と聞えぬ振して、巡査が耳を傾けたのは、わざとらしく意地悪く見えた。 「すすむ、いわゆる、進歩ですかね。」 「いや――高杉晋作の晋なのです。」  と向直る。  巡査の背がぐっと伸びて、じろりと行《や》って、 「維新創業の名士、長州第一の英傑じゃね。ああ、豪《えら》い名前でありますな。ふん。」 「親がつけたんです。」  と、苦笑《にがわらい》したらしい。 「成程、大きにそこもあるですね。」  と取っても附けない気振《けぶり》をしながら、 「で、晋三の蔵の字は?……いや、名刺をお持ちじゃろう、と考えるですがね。」 「確か……有りました。」  その時、角燈をぱっと見せると、その手で片手の手袋を取って、目前《めさき》へ、ずい、と掌《てのひら》。目潰《めつぶし》もくわせる構《かまえ》。で、葛木という男は、ハッと一足さがった。 「差上げますので?」 「何、拝見をしますので、はあ、ああ。」 [#7字下げ]十九[#「十九」は中見出し]  巡査は、持替えた角燈に、頬骨高く半面暗く、葛木の名刺を指の股に挟んで、 「これは非常に皺《しわ》になっとる名刺じゃねえ。」 「つい突込《つッこ》んで置いたもんですから。」と袖の下に、葛木はその名刺入を持っている。 「ああ、非常に大事の物と見えるですね。」  巡査は鼻の先でニヤリと薄笑。  この意味が受取れなくって、 「ええ?」と云う。 「深くその、嚢底《のうてい》に秘して置くですね。」 「何、そういう次第ではないんです。いけ粗雑《ぞんざい》なんです。」 「粗略に扱うですか。わざとですかね、名刺を。」 「わざと、と云うのじゃありません。皮肉じゃありませんか。」 「あえてそうでないです。が、貴下《あんた》の言語が前後不揃であるからじゃね。」 「何が不揃です。」とちょっと忙込《せきこ》む。 「お黙りなさい、」  と、低いが唐突《だしぬけ》に一喝して、けろりとまた静《しずか》に、 「反問をすることは要らんのです。……ただ、質問に対して答えれば可《よ》いのです。」  ぐい、と名刺入を突込んだが、葛木は事を好まぬらしく、そのまま黙る。  巡査はじろりと四辺《あたり》を見た。 「早く願いたいのです。」 「順序があります。――一体この名刺はですな、……更《あらた》めて尋ねるですが、確に、これは貴下《あなた》のですな。」 「名が書いてありましょう、葛木晋三と。」 「本郷駒込が住所で。」 「相違ありません。」 「すると……皺だらけになった、この一枚のみではありますまい。他に幾枚か持合せがありましょう、有る筈《はず》じゃがね。」 「はあ。」と、浮《うっか》りした返事をする。 「それをお見せにならんけりゃ不可《いか》んね。」 「あいにく、持合せがありません。」 「無いと云う法は無い。有るべきですね。」  葛木は、これさえあれば、何事もない、と自覚したのに、実際無いのを口惜《くちお》しそうに、も一度名刺入を出して、中を苛立《いらだ》って掻廻《かきまわ》したが、 「まったく、一枚になっていたのです。」 「成程……非常に交際がお広いですね。」 「いいえ、狭いんです。」と投げたように言下に答える。 「ここに医学士、と記《し》てあるですな。」  巡査は魔を射る赤い光を、葛木の胸にぴたり。  その髯《ひげ》の薄い頤《あご》を照した。 「お職掌がら、特に御交際の狭いと云うのは、……ですな。なぜですかね。」 「開業はしておらんのです。」  いくらか、頷《うなず》いたらしかった。と更まった態度で、 「どこへお帰りですな。」 「学校へ。」 「何、」 「……その寄宿へ帰ります。」 「ははあ、学士の寄宿舎が。それは唯今ありますか。」 「医局に居《お》ります。」 「今時分。」 「そこに寝泊りをするんです。」 「すると、この駒込千駄木は?」 「籍が有るんです。」 「なぜですか、籍だけお置きになるは、……ですね。」 「妹の縁附いた家なんです。」 「御令妹の、ふん。」  と、一つ呼吸《いき》を入れたが、突附けた燈《あかり》も引かず。 「で、唯今まで、どこにおいでで有ったのかね。」 「この辺に、ちょっと飲んでおりました。」  そこへ、二人ばかり通抜けたが、誰も立停《たちどま》っても見なかった。 [#7字下げ]二十[#「二十」は中見出し] 「何屋です、何屋ですかね。」 「……それは言わなければならないでしょうか。勿論、是非となら申すんです。」 「いや、それは先ず。……しかし御愉快でしたな。」 「何、苦痛です。」  と向を替えて、欄干に凭《もた》れて云う。…… 「苦痛、……成程。道理で、顔色《がんしょく》が非常に悪いな。」  たちまち乱暴な言語《ものいい》しながら、横ざまにその痩《や》せた形を照して、 「真蒼《まっさお》じゃね、はははは。」  と笑棄てたが、底に物ある、薄気味の悪い事。  その時聞えた。糸より細い忍音《しのびね》の…… [#ここから3字下げ] ――露地の細路、駒下駄で―― [#ここで字下げ終わり] 「ああ……可厭《いや》な……姉さん。」  と若い女の声がすると、かたかたと駆出す音、呉服橋を、やや離れた辻のあたり。薄墨色の河岸を伝って、雲より黒い線路に響いた。トも一人笑った女の声。悪巫山戯《わるふざけ》に威《おど》したらしい。跫音《あしおと》は続いて響く。  葛木は挘《むし》るように顔を撫でて、 「蒼青《まっさお》ですか。……そうですか。客が野暮だから、化物に逢った帰途《かえり》でしょうよ。」 「それは、唯今のそれは、いやしくも行政官の一員たる、すなわち本職に向っての言語であるのですね。」 「いや、実は性分です。」  と焦《じれ》ったそうに言い切った。葛木は衝《つ》と行《ゆ》こうとした。表裏《ひょうり》、反覆、とにかくながら、対手《あいて》が笑ったから、話は済んだ、と思ったのである。 「お待ちなさい、お待ちなさい。待たんか、おい。」 「何です。」 「ずかずか行っちゃ不可《いか》んじゃないか。尋問はこれからなんだ。」 「僕は帽を取るよ。更めて挨拶をします。可《い》い加減にしなくっちゃ困るじゃありませんか。夜分、我々が通行するのに、こういう事は間々あります。迷惑でも御職務に対して敬意を表する。それにしてもです。唯今までさえ、立入過ぎたお尋ねのなさり方ですが、単に御熱心であるからだ、と思ったんです。  この上何を聞くんです。まったく可い加減にして下さい。……用が有るなら住所へお尋ねを願いましょうかしらん。」 「さよう、当方の都合に因っては住所へもお尋ね出来ます、また……都合によっては、本署へ御同行も出来得るですでなあ。」 「ええ。」  さすがに葛木は一驚を喫《きっ》した。余《あまり》の事である。 「けれども、御答弁に依って、そこまでに立到らない事を、紳士のために、本職は欲するでしてな、はあ、ああ。」 「早くお尋ねを願います。何です、とにかく、困りました。僕は不安に堪えません。」 「すると、むしろここで埒《らち》を明ける事を御希望になるのですね。」 「勿論、是が非でも連れて行こうと思えば、それが出来ない貴下《あなた》じゃないんだから。」 「さよう。しからば反抗をなさらんで、柔順にお答えをなさるが可《よ》い。」  と入交《いれちが》いになった向を直して、巡査は半身を反《そ》るがごとく、肩を聳《そび》やかして衝《つ》とまた角燈を突附けた。  葛木は、その忌わしさと、癇癪《かんしゃく》にぶるぶるする。 「貴下は太《ひど》くその顔色《がんしょく》が悪いですね。」 「……寒いのです。」 「寒《さぶ》い! 化物に逢ったのが、性分になって、そして今は寒い。いろいろに変化しますな。」 「まあ、君は、」と、足蹈《あしぶみ》で橋を刻んで焦《じ》れると、 「御都合で署へ御同行を願っても可いのです、が、御答弁によって、それまでに立到らない事を、紳士のために希望しますでなあ。」 「…………」 [#5字下げ]栄螺と蛤[#「栄螺と蛤」は大見出し] [#7字下げ]二十一[#「二十一」は中見出し] 「なにしろじゃね、本職の前で顔色が悪うて、震えておらるるのは事実じゃね、それはしかし寒《さぶ》いでも構わんです。  その寒いのにじゃね……先刻《さっき》から、水に臨んで、橋の上に、ここに暫時《しばらく》立っていたのは、ありゃどういうわけですか。  勝手だ、酔覚しじゃと言わるるかも知れん。けれどもじゃね、見ておったぞ、どぶん! と音のした……」  水の面《おもて》は暗かった。 「どぶん。」  ぎりぎりと靴を寄せつつ、 「川の中へ放棄《ほか》し込んだ、……確に、新聞紙に包んだ可なり重量の有るものは、あれは何ですか。」 「ああ。」  前の世の罪ででもある事か、と自ら危ぶみ、惶《おそ》れ、惑い、且つ怪《あやし》んでいた葛木は、余りの呆気《あっけ》なさにかえって驚いたのである。 「その事ですか。」 「先ずそれを聞かんとならんですね。」 「あれは栄螺《さざえ》と蛤《はまぐり》ですよ。」  これがまた少なからずこの行政官を驚かした。……その答が余り簡単で明瞭《めいりょう》でおまけに平凡であったから。……けれども、この場合の平凡たるや、世間の名詞は、巡査のためには尽《ことごと》く、平凡であったろう。  巡査に取っては、魚河岸の侠男《いさみ》が身を投げたよりは、年の少《わか》い医学士と云う人間の、水に棄てたものは意外であった。 「栄螺と蛤。」  問返す、鼻柱かけて著しく眉を顰《ひそ》めて、疑惑の眼《まなこ》は異変に光る。 「貝類の……です。」 「いや、それはいや、それはしかしながら初めは妖怪《ばけもの》の符牒《ふちょう》ででもあるかに聞いたですが、再度繰返して説明をされたで、貝類である事は分ったです。分ったですが、……貴下《あなた》は妙なものを棄てましたなあ。」 「放したのです、私は、」 「成程、でそれは禁厭《まじない》にでもなるですかね。」 「……雛《ひな》に、雛壇に供えたのを、可哀相だから放したんですよ」 「ははあ、あるいは煮、あるいは焼いたやつを。」と、わざと空惚《そらとぼ》けた事を云う。  うっかり引入れられそうだった。が、対手《あいて》が巡査である事に、彼はようやく馴《な》れたのである。 「生のままですとも。」 「何等の目的ですかね。」 「目的は有りません。」 「人間が、紳士が、いやしくも学士の名称御所有の貴下が、目的なしに、目的なしに事を行うという理由はあるまいかに考えるですね。」  医学士は思わず激した。 「根、根掘り葉掘り。」 「御都合に因ればです、本署へ御同行を願うことも出来るです。が、紳士として、御名誉の為にですな。」 「分った。……分りました。が、別に目的と云っては無い。可哀相だからそれでなんです。」 「……蓋《けだ》し非常な慈善家でおありですな。成程、いわゆる、医は仁術であるですかね。」 「私はあえて、あえて仁者とは言いますまい。妹の、姉の。」 「あ!」と一つ握拳《にぎりこぶし》を口に突込むがごとく言《ことば》を遮る。  トややしどろの体で、 「姉さんの志です。」 「姉さんの志。ははあ、君は姉のために、嬰児《あかご》を棄てたんじゃね。」 「何!」 [#7字下げ]二十二[#「二十二」は中見出し] 「前刻《さき》には御令妹であったかに、ああ、本職は記憶するですな。」 「そうです、そうなんです。」 「何か、年上の妹かね。」 「いや、姉です。」 「答が明瞭を欠いてて不可《いか》んねえ。……為にならんぞ、君。」 「ですから僕の妹です。」 「ははは、駄目じゃね、君、どうも変じゃね。」 「何が変ですか。」 「都合に因っては本署へ、ですな。」 「馬鹿を仰有《おっしゃ》い!」 「けれども、紳士のために、あえてそれは望まんのですなあ。」 「実に、貴下は。」 「誰が雛を飾ったのですか。」 「それは僕だ。」と赫《かっ》となる。 「おい、」  と云う語調が変って、 「しっかり答弁をせんと不可《いか》んねえ。君は、今しがた、……某大学ですかね、病院に寄宿をすると言ったではなかったか。……大学、病院の宿舎内で、雛を飾って遊ぶのですな。栄螺、蛤を供うるですな。」 「いかにも。」 「事実は、……本職が、貴下を疑うよりも、むしろ奇怪じゃないですか。」 「それが姉の志ですから。」 「御令妹は、」 「妹は縁附いて、千駄木に居るのです。」 「分りました。」  はじめてわずかに頷《うなず》きながら、 「姉と云うのは、ですな。」 「それまで、そんなことまですべて言わなければならんのですか。……詮方《しかた》がない、災難と思う……御都合に因っては、それはどこへでもお供をする。が、打明けてお聞かせ下さい。一体、何から起ったお疑いなんですか。」 「聞かせましょう。川へお棄てになったものを、明かにお話しが願いたい?……」 「それは、」 「ははは、やはり(栄螺と蛤)か、そいつは困りましたな。」 「お信じ下さらない。」 「強いて信じたくないとは願わんのです、紳士のために。なぜ、そんなら貴下は、その新聞包みを棄つるに際して、きょろきょろ四辺《あたり》を眗《みまわ》したり、胡乱々々《うろうろ》往来《ゆきき》をしたんじゃね。」 「そりゃ何です、人が怪みはしまいかと思ったからです。」 「ははあ、人が怪むという事を。それじゃ……御承知であったですな。」 「ものが、ものだからですから。」と大《おおい》にまごつく。 「何も貝類を川に棄つるに、世間を憚《はばか》る事は無いように思われる……ですね。」 「ですが、……また……貴下のような。」 「すると、本職がです、警官がそれを怪む事は御承知の上ですか。」 「僕には分らん。」 「本職はです、貴下のために御答弁の拙劣なのを惜むです。」 「……勝手にしたまえ。どうしようてんだ。」 「……紳士のために望まない事ですな。」 「煩《うるさ》い、勝手になさいよ。」 「為にならんぞ!」 「旦那。」  と暗がりに媚《なまめ》かしく婀娜《あだ》な声。ほんのりと一重桜、カランと吾妻下駄を、赤電車の過ぎた線路に遠慮なく響かすと、はっと留楠木《とめき》の薫して、朧《おぼろ》を透《すか》した霞の姿、夜目にも褄《つま》を咲せたのは、稲葉家のお孝であった。  ――一昨年の春である―― [#5字下げ]おなじく妻[#「おなじく妻」は大見出し] [#7字下げ]二十三[#「二十三」は中見出し] 「もし、ちょいと。」  右側の欄干際に引添った二人の傍《わき》へ、すらりと寄ったが、お端折の褄を取りたそうに、左を投げた袖ぐるみ、手をふらふらと微酔《ほろよい》で。 「旦那、その方のお検《しら》べはまだ済みませんか。」  と斜めに警官を見て、莞爾《にっこ》り笑う……皓歯《しらは》も見えて、毛筋の通った、潰《つぶし》島田は艶麗《あでやか》である。  警官は二つばかり、無意味に続けざまに咳《しわぶき》した。 「お前は何かい、ああ。」 「はあ、お次に控えておりました、賤《しず》の女《め》でござんすわいな。」とふらふらする。  分ったか、分らないか、別に心にも留らない様子で、 「何が故に、ああ、出チ来たかい、うむ?」 「はいはい、御意にござりまする。」  と妙に可愛い声して、 「このお方の、」  流眄《ながしめ》に、ト心あってか葛木を優しく見ながら、 「お検べが済みませんと、後が支《つか》えますのでござんすわいな。」 「何が支える、何が。」 「だって――ああ焦《じれ》ったい。この方は何じゃありませんか――御姉《おあねえ》さんの志だって、お雛様に御馳走なすった、お定りの(栄螺と蛤。)――  でもお儀式よ。それを貴下、川ン中へお放しなすったって、それがでしょう、怪しいって事なんでしょう。  もし、栄螺も蛤も活きていますわ。中でもね……お雛様に飾ったのは、ちらちら蝋燭《ろうそく》の煮えます時、春雨の静かな晩は、口を利くものなんですよ。クク[#「クク」に傍点]、」  と酸漿《ほおずき》を鳴らすがごとく、 「なんて。――可哀相に、蒸したり焼いたり出来ますかって貴下――おまけにお雛様んでしょう――この方の心意気は、よく分ってるじゃありませんか。  私だって放しに来ました、見て下さいな。」  片手を添えて、捧げたのは、錦手《にしきで》の中皿の、半月|形《なり》に破《わ》れたのに、小さな口紅三つばかり、裡《うち》紫の壺|二個《ふたつ》。……その欠皿も、白魚《しらお》の指に、紅猪口《べにちょく》のごとく蒼く輝く。  巡査も葛木も瞳を寄せた。 「あら、小さいんで極りの悪い事ね……お価《あし》が高いもんですから、賤の女でござんすわいな。ほほほほほ。」  桃の花片そこに散る、貝に真珠の心があって、雛《ひいな》を懐《した》う風情かな。 「お座敷|帰《がえり》に、我家《うち》の門《かど》から、奴《やっこ》に持たして出たんですがね。途中で威《おど》かしたもんだから、押放出《おっぽりだ》して遁《に》げたんですもの。ヒヤリとしたわよ、真二《まっぷた》つ。身上|大痛事《おおいたごと》。これを拾う時の拙者が心中、心持というものは、御両所、御推量下されい。  それでも、孝の字|大達引《おおたてひき》。……ねえ、そんな思いをして迄だって、放しに来たんじゃありませんか。ねえ、現在。」  と左右を見つつ、金魚鉢を覗くごとく、仇気《あどけ》なく自分も視《みつ》めて、 「お分りになって、旦那。……お許しを受けないと、また叱られるとなりません……もう可《い》いでしょう、ちょいと、放しますよ。」  巡査の、ものも言わない先、つかつかと欄干越。 「一石橋に桃が流れる。どんぶりこ。」  ばっと鳴って、どどどんと水の音。  両手を縋《すが》って、肩を細く乗出しながら、 「河童や、悪戯《いたずら》をおしでないよ。」  向う岸《がし》に鷺が居て、雲はやや白くなった。 「失礼しました。」  名刺を返して、 「悪しからず……お名前だけ記憶します。」  と、鉛筆で手帳へその名を。……振向くお孝に見向《むか》って、 「お前の名も?……何と云うかい。」 「おなじく妻、とかいて頂戴。」 [#7字下げ]二十四[#「二十四」は中見出し] 「実に難有《ありがた》かった、姉さん。」  巡査の靴音が橋の上に留《や》んで、背後向《うしろむき》のその黒い影が、探偵小説の挿画《さしえ》のように、保険会社の鉄造りの門の下に、寂しく描出《えがきいだ》された時、歎息とともに葛木はそう云った。 「お庇《かげ》さまで助かったんだよ。」 「恐入ります、御慇懃《ごいんぎん》で。」  並んで彳《たたず》んで見送っていたのが、微笑《ほほえ》んで見向いてお孝。 「でも、驚いたでしょう、貴方《あなた》。」 「驚いたって、はじめは串戯《じょうだん》だと思ったし、半頃《なかごろ》じゃ、わざと意地悪くするんだと思って癪《しゃく》にも障りましたがね、段々|真面目《まじめ》なのに気が付いたんです。確に嬰児《あかんぼ》でも沈めたと思ったらしい。先方《さき》が職務に忠実なんだと気がつくほど、一度は警察か、と覚悟をしてね――まあ、しかしそれでも活きた証拠に、同じものの放生会《ほうじょうえ》があって、僕が放生会に逢ったようだ。で、ほんとうに不思議な位だ。」 「私は毎年放すんですわ。」 「それにした処で、ちょうど機会《おり》よく、……私は姉の引合せか、と思う。」 「御馳走様。」  と横を向いた、片頬笑みの後毛《おくれげ》を、男に見せて、婀娜《あだ》に払い、 「清葉姉さんの、でしょうちょいと。」 「ええ?」 「お驕《おご》んなさいよ、葛木さん。」 「驕る。……そりゃきっとお礼をするがね、どうしてお前さん、私の名を。」 「知っていますよ。」  吾妻下駄をからりと鳴して、摺下《ずりさが》る褄を上衣《コオト》の下に直した気勢《けはい》。 「今お帰り? 清葉さんの葛木さん。」  彼は退いて片手を振った。 「止してくれ、先方《さき》が迷惑をするんだから。」 「酷《ひど》く御謙遜ね。」 「いや、まったく。」と、慌《あわただ》しく中折をぐいと被《かぶ》る。  お孝は覗くようにしながら、 「それとも、これからお出掛けなさるの。……宵にして下さいよ。そうでないと、私たちが見たくっても廊下で御目に掛れない。」 「串戯《じょうだん》を云っちゃ困る……これから行って逢えるようなら、橋の上で巡査に捉《つか》まる、そんな色消しは見せやしない。……  なんのッて暢気《のんき》らしく云うけれども、実際行掛けに流した方が無事だった。雀と違って、ものがものだし、ちょっと嵩《かさ》は有るしするから、宵の人目を憚《はばか》ったのが、虫が知らしたのかも知れんのだね。ほんとうにこれから帰るんだよ。」 「じゃ、やっぱりお帰りがけね、お待ちなさいよ。」  と抜出ていた簪《かんざし》を、反らした掌《てのひら》で、スッと留めて、 「そうね……姉さんの御志で、お雛様の栄螺と蛤を、一石橋から流すと云うのに一人ぽっち。それまで檜物町に差向いでいた芸者が、一所に着いて来ない意気じゃ、成程出来ていませんね。」 「勿論。」と外套《オウバアコオト》の襟を立てる。 「それじゃ風説《うわさ》の通りだよ。」 「や、専ら風説をするのかい。」 「評判さ。お前さん。」 「それはいささか情ない。」 「意気地なし……」  と袂《たもと》を投げた手を襟に、眉を明るく屹《きっ》と見て、 「男の癖に。」 「これは手酷い?」 [#7字下げ]二十五[#「二十五」は中見出し] 「だけども、可《い》い気味ねえ。」 「何の怨みだね。」 「可いもの好みをするからさ。」 「相済みません。」  葛木は寂しく笑って、 「猛烈なる事巡査以上だ。」 「処へ……私でなく、清葉さんに出て貰いたかったわね。」 「その人でさえ、可いかね、都合のいい時でないと、容易に顔を見せちゃくれない……」 「沢山よ。」と一転《くるり》と背後《うしろ》向く。 「いや、見得も外聞も無しにさ。分けて、お前さんは全盛だ。名だけは評判で聞いている。……この頃に一度挨拶、と思うけれど、呼んでも……ちょっとじゃ見えんのだろうな。」 「見えるも見えないも、葛木さん、御挨拶なんて要るものですか。」 「きっとそう云うだろうと思った。勿論、たかだか更めて、口で云う礼ぐらい。」 「かえって迷惑。」 「御迷惑。」と口も足も、学士は蹴躓《けつまず》いたようであった。  お孝は澄まして、 「ええ、真平《まっぴら》。」 「それじゃ時節を待って下さい。」 「可厭《いや》です。」  学士は決然たる態度で、ちょっと帽を取って、 「名は忘れませんよ、いずれ。」と二ツ三ツ塵《ちり》をはじきながら、附穂なく線路を斜めに、見えない電車に追わるるごとく。  と顧みて、そこで、ト被直《かぶりなお》して、杖《ステッキ》をついた処、お孝は二つばかり、カラカラと吾妻下駄を踏鳴らした。 「ただ別れるの。……不意気《ぶいき》だねえ、――一石橋の朧夜《おぼろよ》に、」  四辺《あたり》を見つつ袖を合せた、――雲を漏れたる洗髪。 「女と二人逢いながら、すたすた(かねやす。)の向うまで、江戸を離れる男ッてのがお前さん江戸にありますか。人目にそうは見えないでも、花のような微酔《ほろよい》で、ここに一本《ひともと》咲いたのは、稲葉家のお孝ですよ。清葉さんとは違いますわ。」 「違うから、それだから、」  学士は、つかつかと引返して、 「なおの事、忙しくって、逢ってはくれまいと言うんじゃないか。」 「ええそうよ、……違いますとも。……清葉さんと違うのはね、今時分から一人じゃ貴方を帰さない事なのよ。」 「お孝さん。」 「葛木さん、もう遅いわ。……電車も無し……巡査に咎められたりなんかして、こんな時はつけ[#「つけ」に傍点]が悪い、山の手の夜道だもの、無理をすると追剥《おいはぎ》が出ますよ。」 「もっとも、直ぐにも、挨拶もしたいんだけれど、遅い、ね、何しろ遅いからどこと云って……私は働《はたらき》が無いのでね。」 「附いてるのが私です。――箱を出たお嬢さんだわ。お座敷はどこにでも。……ちょっと……一所にいらっしゃいな。」  と取って引いた外套《がいとう》の脇を離すと、トンと突いて、ひらりと退《の》くや、不意に蹌踉《よろ》めく葛木を、すっと立って、莞爾《にっこり》見て、 「その時、きっと御挨拶なさいまし。ほほほ。」  と花やかなものである。 「姉さん。」と抱附くように腰にひったり、唐突《だしぬけ》に駆寄ったは、若い妓《こ》の派手な態度《なり》――当時一本になりたてだった、お孝が秘蔵のお千世なのである。 「まあ、千世《ちい》ちゃんか、……ああ、吃驚《びっくり》するじゃないか、ねえ。」 [#7字下げ]二十六[#「二十六」は中見出し] 「だって、姉さん。」 「姉さんじゃないよ、……唐突《だしぬけ》に何だねえ、お前、今しがた河岸の角から駆出したじゃないか。」  ――露地の駒下駄――は、この婦《おんな》で、怯《おび》えた声はその妓であった。 「緩《ゆっく》り歩行《ある》いても追着《おッつ》いて来ないから、内へ帰ったろうと思ったのに。」 「だって、姉さんが威《おどか》すんですもの。私吃驚して遁出《にげだ》しましたけれど、(お竹蔵。)の前でしょう、一人じゃ露地へ入れませんもの、可恐《こわ》くって、私……」 「煙草《たばこ》屋の小母さんに見てお貰いなら可いものを。」 「もう閉りましたの。」  と、小腰を屈《かが》めて、欄干の上で、ふっくりした鬢《びん》を庇《かば》った透《すか》して見る手、――橋の側は……変っていた。 「……覗いたけれども、真暗《まっくら》で、もう寝たんですもの。」 「それで何かい、また出掛けて来たのかい。」 「ええ、一人じゃ可恐いんですもの、……でもこっちがまだしもですわ。」 「なんて、お前、お約束だもんだから、帰りに縁日へ廻って、何か買わせようと思ってさ。さあ、行《ゆ》こうよ……ねえ、貴方一所に――千世ちゃん御挨拶をおしでないか。」 「――失礼。……お初に、」 「お初じゃないよ。……貴方、この妓は御存じだわね。」 「両三度――千世《ちせ》ちゃんだっけ。」 「あら、済みません、……誰方《どなた》。」  と縋《すが》り寄るように、外套の襟を覗いて、 「まあ、清葉姉さんに岡惚れの、」 「謝まる。」  と俯向《うつむ》けに、中折帽《なかおれ》ぐるみ顔を圧《おさ》えて、 「何とも面目次第も無い!」 「……清葉命……と顔に書いてあるようだわね、口惜《くやし》いね、明《あかる》い処でよく見てやろうや。」 「どこへ行く気なんです。」 「縁結びに……西河岸のお地蔵様へ。」  肩でトンと寄添いつつ、 「分ったでしょう、貴方、この妓には遠慮は要らない。千世ちゃん、御覧、似合ったかい。」 「あら、姉さんは?」 「お孝さん。」 「(同じく妻。)だわ。……雛の節句のあくる晩、春で、朧《おぼろ》で、御縁日、同じ栄螺と蛤を放して、巡査の帳面に、名を並べて、女房と名告《なの》って、一所に詣《まい》る西河岸の、お地蔵様が縁結び。……これで出来なきゃ、日本は暗夜《やみ》だわ。」  肩に掛った留南奇《とめき》の袖。  お孝を掠《かす》めて腕車《わんしゃ》が一台。 「危《あぶね》え。」  矢のごとし。 「おや、おいでなすったよ……」 [#ここから3字下げ] ――露地の細路、駒下駄で―― [#ここで字下げ終わり]  細く透《とお》って凄《すご》い声する。 「可厭《いや》、姉さん。」 「それ、兄さんにおつかまり。」  飛つくお千世を葛木に縋らせて、ひとり褄《つま》を挙げて、悠然と前《さき》へ立って、 「大丈夫、そうすりゃ、途中で、誰かに逢っても安心でしょう。」  葛木は、扱兼《あしらいか》ねたか、わざと不答《こたえず》。 「千世ちゃん、お前寒くはないかい。」  果せる哉《かな》、この一行は、それから参詣を済まして帰りがけに、あの……仲通りで、一人軒伝いに、包ましく来かかる清葉に、ゆくりなく出逢ったのである。 [#5字下げ][#大見出し]横槊賦詩《ほこをよこたえてしをふす》[#大見出し終わり] [#7字下げ]二十七[#「二十七」は中見出し] 「今晩は……清葉姉さん。」 「清葉姉さん、今晩は。」  そうした事も、渾名《あだな》を令夫人などと呼ばるる箇条であろう、柔かな毛皮の襟巻を、雪の細面《ほそおもて》蔽《おお》うまで、深々と巻いている。……上衣《コオト》無しで、座敷着の上へ黒縮緬《くろちりめん》の紋着《もんつき》の羽織を着て、胸へ片袖、温容《しとやか》に褄《つま》を取る、襲《かさ》ねた裳《もすそ》しっとりと重そうに、不断さえ、分けて今夜は、何となく、柳を杖に支《つ》かせたい、すんなりと春の夜風に送られて、向うから来る姿。……手を曳《ひ》かれたり、三人つれたり、箱屋と並んで通るのだの、薄彩色《うすさいしき》した陽炎《かげろう》が朧《おぼろ》に顕《あらわ》れた風情の連中が、行違ったり、出会ったり、大勢の会釈するのが、間《あわい》の隔った時分から――西河岸の露店の裸火を、ほんのりと背後《うしろ》にして軒燈明の寝静まった色の巷《ちまた》に引返す、――この三人の目に明かに見えたのである。 「あれだ、玄徳……」  見ても分る。清葉のその土地子《とちっこ》に対して、徳と位と可懐味《なつかしみ》の有るのに対して、お孝は口の中《うち》に呟《つぶや》いた。 「千世ちゃん、お放しでないよ、……葛木さん、横町へなんか躱《かわ》しては卑怯だことよ。……」 「何が可恐《こわ》くって遁《に》げるものかね、悪い事をした覚《おぼえ》は無い。」 「ただ、口説いて見たばっかりだってね。」 「そしてだ、見事に刎《は》ねられたから可いじゃないか。」 「嘘ばっかり、口説けもしないんじゃありませんか。」 「それも、評判かい。」 「まずね。」 「いや、破れかぶれ、何を隠そう。言出すまいとは思ったけれども、凡夫の浅間しさに、つい、酔った紛れに。」 「おや。」 「が、酒の勢《いきおい》を借りて、と云うのが、打明けた処だろう――しかも今夜――頭から恐入らされたよ。」と、もう一呼吸《ひといき》、帽子を深草、蓑《みの》より外套《がいとう》は見窄《みすぼ》らしい。  これは蓋《けだ》し事実なのである。  お孝は、一足|前立《さきだ》った、身を開いて、鈴を張ったような瞳に一目|凝視《みつ》めてちょっと頷《うなず》きながら、 「隠さず、白状をなすったから、私がつかまって行《ゆ》くのは堪忍して上げます。……打棄《うっちゃ》った清葉さんも豪《えら》いけれども。……」  で、立直って凜《りん》とした声、 「拾い手が立派です。……威張っていらっしゃい。そんなに可恐《こわ》がる事は無いわ。」 「いや、恐れはせん、が、面目ないのだよ。」と窘《すく》まるばかり襟に俯向《うつむ》く。  斉《ひと》しく俯向いて、莞爾々々《にこにこ》と笑ってばかり、黙って、ついて歩行《ある》いた、お千世が、衣《きぬ》の気勢《けはい》にそれと知って、真先《まっさき》に、 「今晩は、」 「おお、千世《ちい》ちゃん。」  いわゆる口説いて刎《は》ねられたと云う恋人に、しかも同じ夜《よ》。突落された丸木橋の流《ながれ》に逆らって出逢ったのである。葛木は次の瞬間を憂慮《きづか》って、靴の先から冷くなった。  お孝が、横合から、 「御参詣《おまいり》ですか、清葉姉さん。」 「は……」  と、行違って、温容《しとやか》に見返りつつ、 「姉さんて、可厭《いや》ですよ、ほほほ、人が悪いわ。」  と、すっと通った。  知らぬ振か、実際それとも、面《おもて》を蔽《おお》うたので認めなかったか、心付かない様子で通過ぎたの、トお千世が袂《たもと》を曳いたのに、葛木は宙を行くように、うかうかと思わず別れた。  ――お孝―― 「姉さんて、可厭ですよ、ほほほ、人が悪いわ。」 [#7字下げ]二十八[#「二十八」は中見出し] 「ちょッ、玄徳め。」  と、投げたように、袖を払って、拗身《すねみ》に空の雁《かり》の声。朧《おぼろ》を仰いで、一人|立停《たちどま》った孫権を見よ。英気|颯爽《さっそう》としてむしろ槊《ほこ》を横《よこた》えて詩を赤壁に賦《ふ》した、白面の曹操《そうそう》の概がある。  前へ行く二人の影に、その通る声で、こっちから、 「通越し。」  と浴びせたのは、稲葉家の我家《うち》へ曲る火の番の辻であった。  すぐに、カタカタと追縋《おいすが》って、 「千世ちゃん、清葉さんの長襦袢《ながじゅばん》を見たかい。」 「ええ、可いわねえ。」 「色が白くて、髪が黒い処へ、細《ほっそ》りしてるから、よく似合うねえ。年紀《とし》よりは派手なんだけれど、娘らしく色気が有って、まことに可い。葛木さん、ちょいと、あすこへ惚れたんじゃないこと。」 「馬鹿な。」 「でも可いでしょう。」 「長襦袢なんか、……ちっとも知らない。」 「まあ、長襦袢を見ないで芸者を口説く。……それじゃ暗夜《やみよ》の礫《つぶて》だわ。だから不可《いけな》いんじゃありませんか。今度、私が着て見せたいけれど、座敷で踊るんでないとちょっと着憎い。……口惜《くやし》いから、この妓《こ》に拵《こしら》えて着せましょうよ。」  やがてお千世が着るようになったのを、後にお孝が気が狂ってから、ふと下に着て舞扇を弄《もてあそ》んだ、稲葉家の二階の欄干《てすり》に青柳の糸とともに乱れた、縺《もつ》るる玉の緒の可哀《あわれ》を曳《ひ》く、燃え立つ緋《ひ》と、冷い浅黄と、段染《だんぞめ》の麻の葉|鹿《か》の子は、この時見立てたのである事を、ちょっとここで云って置きたい。  序《ついで》に記すべき事がある。それは、一石橋からこの火の番の辻に来る、途中で清葉に逢った前。  縁日はもう引汐《ひきしお》の、黒い渚《なぎさ》は掃いたように静まった河岸の側《かわ》で、さかり場からはずッと下《さが》って、西河岸の袂《たもと》あたりに、そこへ……その夜《よ》は、紅い涎掛《よだれかけ》の飴屋が出ていた。  が、それではない。  桜草をお職にした草花の泥鉢、春の野を一欠《ひとかき》かいて来たらしく無造作に荷を積んだのは帰り支度。踵《かかと》を臀《しり》の片膝立。すべりと兀《は》げた坊主頭へ縞目《しまめ》の立った手拭《てぬぐい》の向顱巻《むこうはちまき》。円顔で頬皺《ほおじわ》の深い口の大《おおき》い、笑うと顔一杯になりそうな、半白眉の房《ふっさ》りした爺《じい》さま一人、かんてらの裸火の上へ煙管《きせる》を俯向《うつむ》け、灰吹から狼煙《のろし》の上る、火気に翳《かざ》して、スパスパと吸って、涎掛の飴屋と何か云って、アハハ、と罪も無げに仰向いて笑った、……その顔をこっちで見ると、葛木に寄縋って、一石橋から来たお千世が、 「ああ、お爺さんが。」と云うと斉《ひと》しく、振払うようにして駆出したのであった。 「可愛いわね。」  それを透かして、写絵の楽屋のごとき、一筋のかんてらに、顔と姿の写るのを、わざと立淀んで、お孝が視《なが》めて、 「ねえ、ちょいと。……生意気盛りの、あの時分じゃ、朋輩の見得や、世間への外聞で、抱主《かかえぬし》の台所口へ、見すぼらしい親身のものの姿が見えると、つんと起《た》って、行《ゆ》きもしないお稽古だの、寝坊が朝湯へ行き兼ねないのに、大道さなか、(お爺さん。)――ええ、お千世はあの人の孫なのよ、――可愛ッちゃないのねえ。」 [#5字下げ]羆の筒袖[#「羆の筒袖」は大見出し] [#7字下げ]二十九[#「二十九」は中見出し] 「阿爺《おやじ》どの、阿爺どの。」 「はい、私《わし》かねえ。」  橋から橋へ、河岸の庫《くら》の片暗がりを遠慮らしく片側へ寄って、売残りの草花の中に、蝶の夢には、野末の一軒家の明窓《あかりまど》で、かんてらの火を置いた。荷は軽そうなが前屈《まえかが》みに、てくてく帰る……お千世が爺《じい》の植木屋|甚平《じんべい》、名と顱巻《はちまき》は娑婆気《しゃばけ》がある。  背後《うしろ》をのさのさと跟《つ》けて来て、阿爺どの。――呼声は朱鞘《しゅざや》の大刀《だんびら》、黒羽二重、五分月代《ごぶさかやき》に似ているが、すでにのさのさである程なれば、そうした凄味《すごみ》な仲蔵ではない。  按《あん》ずるに日本橋の上へは、困った浪花節の大高源吾が臆面《おくめん》もなく顕《あらわ》れるのであるが、いまだ幸に西河岸へ定九郎の出た唄を聞かぬ。……もっともこのあたり、場所は大日本座の檜《ひのき》舞台であるけれども、河岸は花道ではないのであるから。  変な好みの、萌葱《もえぎ》がかった、釜底形《かまぞこがた》の帽子をすッぽり、耳へ被《かぶ》さって眉の隠るるまで低《の》めずらした、脊のずんとある巌乗造《がんじょうづくり》。かてて加えて爪皮の掛った日和下駄で、見上げるばかり大《おおき》いのが、もくもくとして肩も胸も腹もなく、ずんぐり腰の下まで着込んだのは、羆《ひぐま》の皮を剥《む》いた、毛をそのままにした筒袖である。  これがもし対丈《ついたけ》で、赤皮の靴を穿《は》けば、樺太の海賊であるが、腰の下の見すぼらしさで、北海道の定九郎。  見よかし羆の袖を突出し、腕を頤《あご》のあたりへ上げ状《ざま》に拱《こまぬ》いた、手首へ面《つら》を引傾《ひっかた》げて、横睨《よこにら》みにじろじろと人を見る癖。 「帰るのかあ。」と少し訛《なま》る。 「はい。」  むかし権三《ごんざ》は油壺。鰊蔵《にしんぐら》から出たよな男に、爺さんは、きょとんとする。  羆は件《くだん》の横睨みで、 「おい、帰るのかあ。」 「家《うち》へかね。」 「うむ。」と頷く。 「帰りますよ、はい。」 「帰ると……ふん。どこか道寄りはせんのですかい。」と、悪く横柄な癖に時々変徹に丁寧なり。 「道寄りとおっしゃりますと?……」 「何よ、あれだ、お前、今あすこで。」  と人指《ひとさし》一本、毛の中へちょいと出し、 「あれよ、芸者と少《わか》い男と三人連に逢うたでしょうが。」 「はい、はい。」と大《おおき》な口を開けて続けざまに頷きながら、目はかえって半ば閉じて、分別したは老功|也《なり》。 「知ってるだろうが、姉さんはお孝と云うのだ。少い妓《こ》はお千世よ。」 「さようでございます[#「さようでございます」は底本では「さようでごさいます」]、はい。」となお胡散《うさん》らしく薄目で見上げる。 「阿爺どのは、どうやら大分懇意らしい様子ですな。」 「ええ、いいえ、些少《ささい》の。何、お前さま。何かその、私《てまえ》に用事で。」 「火を一つ貸してくれ。」  と云う、煙草より前《さき》に、蔵造りの暗い方へ、背《せな》を附着《くッつ》け、ずんぐりと小溝を股に挟んで大きく蹲《しゃが》み、帽子の中《うち》から、ぎろぎろと四辺《あたり》を見た。が、落こぼれたような影もまばらで、開いているのは、地蔵尊の門と、隣家《となり》の煙草屋の店ぐらいに過ぎなかった。  爺さんは遁腰《にげごし》に天秤《てんびん》を捻《ひね》って、 「さあ、お点《つ》けなさりまし、だが、お早く願いますので、はい。」 [#7字下げ]三十[#「三十」は中見出し] 「聞くだけ聞けば用は無いだ。」  例の訛った下卑た語調《ものいい》。圧《おし》は利かないが威《おどか》すと、両切の和煙草を蝋巻《ろうまき》の口に挟んで、チュッと吸って、 「な、阿爺《おやじ》どの、お孝が今だ、お前に別れて帰り際に、(待ってるからおいで、きっとだよ。)と言うたではないですかい。……違やせまいが、な。」  爺さんは、面中《かおじゅう》の皺《しわ》へ皺を刻んで、 「ええ、ええ、さような事もござりましたよ。」 「秘《かく》さずとも可《い》い。な、阿爺どの。お前は何だ、内の千世の奴の親身でしょうが。孫娘に用が有って逢いに来たことが二三度あるです、で、俺は知っとるですわい。お前は何か、しかし俺の顔は知らんですか。」  と釜底帽、一名(のっぺらぼう。)とも云わるる、青ぺらの鍔《つば》を挘《むし》り上げて、引傾《ひきかた》げて剥《は》いで見せたは、酒気《さかけ》も有るか、赤ら顔のずんぐりした、目の細い、しかし眉の迫った、その癖、小児《こども》のような緊《しまり》の無い口をした血気|壮《ざかり》の漢《おのこ》である。 「へい、いいえ、お顔は存じておりますほどでもござりませんが、その上被《うわっぱり》の召ものでござります、お見事な、」  こう云ったのは羆《ひぐま》の筒袖。 「稲葉家様の縁起棚の壁でござりますの、縁側などに掛っていて拝見したことがござりますよ。はい。何でござりますか、それでは旦那様は、」 「うむ、内のもの同然だ。」と頤《あご》を撫でる。  界隈《かいわい》では、且つ知って且つ疑う。土地に七不思議が有ればそれはその第一に数えて可い。一石橋の河太郎、露地の駒下駄、お竹蔵などとともに、この熊の皮がそれである。湿深《しつぶか》そうな膏《あぶら》ぎったちょんぼり目を膃肭臍《おっとせい》、毛並の色で赤熊とも人呼んで、いわゆるお孝の兄さんである。……本名|五十嵐《いがらし》伝吾、北海道産物商会主とある名札を持つから、成程膃肭臍も売るのであろうが、他に何を商って、どこに住むか、目下の処いまだ定かならずである。  それ、後家の後見、和尚の姪《めい》、芸者の兄、近頃女学生のお兄様、もっと新しく女優の監督にて候ものは、いずれも瓜《うり》の蔓《つる》の茄子《なす》である。この意味において、知るものは、お孝における羆の皮を一方ならず怪《あやし》むのであった。  赤熊は指揮《さしず》する体に頤で掬《しゃく》って、 「な、阿爺どの、だから俺には何も秘《かく》すことは要らんのですわい。」 「ええ、ええ、別に秘すではござりません、(これからお茶屋へ行って一口飲むから、待ってるからきっとおいで。)と、はい、そのきっとでござりますが、何の、貴下様、こんな爺《おやじ》に御一座が出来ますもので。姉さんがただ御串戯《ごじょうだん》におっしゃったのでござりますよ。」 「串戯ではなかったがい。俺はな、あの、了《しま》いかけた見世物小屋の裏口に蹲《しゃが》んで聞いとったんだ。」  赤熊のこの容態では、成程|立聴《たちぎき》をする隠れ場所に、見世物小屋を選ばねばならなかったろう、と思うほど、薄気味の悪い、その見世物は、人間の顔の尨《むく》犬であった。 「それは、もし、万ヶ一ほんとうに仰有《おっしゃ》って遣わされたにしました処で、私《てまえ》は始めからその気では聞きませなんだよ。」 「どうでも可い。それは構わんが、俺が聞きたいのは、お前《ま》んに後から来い、と云うて、先へ行ったその家の名ですわい。自分の内でない事は知れておる。……そりゃどこですかい、阿爺どの。」 「…………」 「ああん、阿爺い。」 「さあ、何とか云うお茶屋であった。」と、独言《ひとりごと》のように云って、顱巻《はちまき》を反《そ》らして仰向く。 [#7字下げ]三十一[#「三十一」は中見出し]  赤熊は、チェと俯向《うつむ》けの股へ唾《つば》を吐いて、 「今時分、どこの茶屋が起きておろうで。待合に相違ないがい、阿爺い、秘《かく》さんと云え、阿爺い。自分が来いと云われた先の名を忘れると云うがあるもんですかい。悪くすると為にならんのですぞ。」と、教員らしい口も利く。 「さあ、何か存じません、待合さんかも、それは分りませんが、てんで私《てまえ》の方で伺う気はござりませなんで、頭字《かしらじ》も覚えませぬよ、はい。」 「で、何か。」  とちょっと睨《ね》めつけた、が更《あらたま》って、 「あの、野郎は何かい、あれは、ついぞ見掛けぬ奴だが、阿爺は知っとるのですかい、奴をですがい。」 「ええ、私《てまえ》も今までお見掛け申しはしませんので、はい、いずれお客人でござりましょう。」 「客には違わんで、それゃ違わんで。どっちの客だ知っとるだろうが。」 「それは、もし、お尋ねまでもござりません、孫めがお附き申しておりましたよ。で、(旦那様、お初に。どうぞ何分。)と私《てまえ》御挨拶をしました処で、爺の口から旦那様が嬉しい、飲ましてやろう、と姉さんが申されたのでござりましたよ。」  跡方も無い嘘は吐《つ》けぬ。……爺さんは実に、前刻《さき》にお孝にもその由を話したが……平時《いつも》は、縁日廻りをするにも、お千世が左褄を取るこの河岸あたりは憚《はばか》っていたのである。が、抱主《かかえぬし》の家へは自分の了簡《りょうけん》でも遠慮をするだけ、可愛い孫の顔は、長者星ほど宵から目先にちらつくので、同じ年齢《としごろ》の、同じ風俗《ふう》の若い妓《こ》でも、同じ土地で見たさの余り、ふとこの夜《よ》に限って、西河岸の隅へ出たのであった。  帰りがけの霞の空の、真中《まんなか》を蔽《おお》う雲を抜けて、かんてらの前へ、飛出したお千世の姿は、爺さんの目には、背後《うしろ》の蔵から昨夜《ゆうべ》の雛が抜出したように見えて、あっと腰を抜いて、ぺたんと胡坐《あぐら》を掻《か》いて、ものを言うより莞爾々々《にこにこ》としていたのである。  その間にお孝は、葛木と二人で参詣を済まして、知らぬ振して帰るも可い、が、かえって気まずく思わせよう。 (お爺さん虞美人草《けしぼうず》はないの、ぱっと散る。)桜草の前へ立った時、……お孝に挨拶をした爺さんが、(これは旦那様。)とその時葛木にお辞儀をしたので、  地蔵様へお参りして、縁を結んで来た矢前《やさき》――旦那様は嬉しいね――で、それから引上げる、待合の名をそこで教えて、旦那様に見立ててくれた礼心に、お爺さんには今夜一晩、……私が玉をつけて可愛いお千世を抱かして上げよう。……来て一所にお寝、串戯《じょうだん》じゃない、きっと待ってる。……と云った。  仔細《しさい》はそうした事なのである。  赤熊が顕《あらわ》れた。  この毛むくじゃらを、稲葉家の縁起棚の傍《わき》で見た事があるというだけ、その血相と、意気込みで、様子を悟って、爺さんは、やがて、押《おっ》くり返し何と言われても、行った先を饒舌《しゃべ》らなかった事は言うまでもない。 「御自分、ついて行って見なさりゃ可《よ》かった。」  何か知らぬが、お千世が世話になる稲葉家に退《の》かぬ中の男、と思うだけ、虫を堪《こら》えて飽くまで下手に出た爺さんも、余りの押問答、悪執拗《わるしつこ》さに、こう言って焦《じ》れたほどである。  知らぬ知らぬで、事は済む、問われる方が焦れたくらい、言数《ことばかず》を尽すだけ、問う方の苛立《いらだ》ち加減は尋常《よのつね》ではない! 「この業突張《ごうつくばり》、何だとッ。」 [#5字下げ]縁日がえり[#「縁日がえり」は大見出し] [#7字下げ]三十二[#「三十二」は中見出し] 「まあ、お前さん、怪我をしやしませんか。」  植木屋の布子《ぬのこ》の肩に、手を柔かに掛けた、弱腰も撓《たわ》むと見える帯腰に、もの優しい羽織の紋の、藤の細いは清葉であった。 「拷問《ごうもん》してやる。」  赫《かっ》となった赤熊が、握拳《にぎりこぶし》を被《かぶ》ると斉《ひと》しく、かんてらが飛んで、真暗《まっくら》に桜草が転げて覆《かえ》ると、続いて、両手で頬を抱えて、爺さんは横倒れ。  苦《あっ》とも言わせず、踏のめす気か足を挙げた赤熊は、四辺《あたり》に人は、邪魔は、と見る目に、御堂《みどう》の灯《ともしび》に送らるるように、参詣《おまいり》を済まして出た……清葉が、朧《おぼろ》の町に、明《あかる》いばかりの立姿。……それと見て、つかつかと、小刻みながら影が映《さ》す、衣《きぬ》の色香を一目見ると、じたじたとなって胴震いに立窘《たちすく》むや否や、狼狽《うろたえ》加減もよっぽどな、一度駆出したのを、面喰って逆戻りで、寄って来る清葉の前を、真角《まっかく》に切って飛んで遁《に》げた、赤熊の周章《あわ》てた形は、見る見る日本橋の袂《たもと》へ小さくなって、夜中に走る鼬《いたち》に似ていた。  そっちは見返しもしないのである。 「お年寄を、こんなこと、何て乱暴なんだろう。」 「はいはい。」  爺さんは居ざり起きて、自分がたしなめられたごとく、畏《かしこま》って、やっと口を利く。…… 「恐入りましてござります、はい。」 「音がしましたわ、串戯《じょうだん》ではありません。さぞお痛かったでしょうねえ。怪我をしたんじゃありませんか。」  前刻《さっき》から響いていた、鉄棒《かなぼう》の音が、ふッと留《や》むと、さっさっと沈めた鞋《わらじ》の響き。……夜廻りの威勢の可いのが、肩を並べてずっと寄った。 「どうした、」 「どうしたんだえ。――やあ、姉さん。」 「頭《かしら》たち、御苦労です。……今、そこへ駆出して行った大《おおき》な男なんだよ。」 「膃肭臍《おっとせい》。」 「赤熊。」と二人は囁《ささや》いて、ちょっと目配《めくばせ》。 「姉さん、こりゃ何かい、お前さんお係合《かかりあい》なんですかい。」 「いいえ、私はただ通りかかったばかりなんです。でもまあ遁げてくれて可かったけれど、抵《むか》って来たらどうしようかと思ったよ。……可哀相に、綺麗な植木の花が。」  清葉は桜草の泥鉢を、一鉢起して持ちながら、 「手伝って、そして、よく見て上げて下さいな。遅うござんすから、私は失礼ですが。」  一人は組合の看板を、しゃん、と一ツ膝に控えて、 「御心配にゃ及びません。見てやりますとも。」 「では、お爺さん、お大事になさいまし。お気をつけなさいましよ。」 「はいはい、あなた方の御志、孫も幸福《しあわせ》。それが嬉しゅうござります。」  とッちて、着きも無いことを云うのを、しんみりと聞いて、清葉はなぜか、ほろりとしたが、一石橋の方へ身を開いて向返った処で、衣紋をつくって、ちょっと、手招《まね》く。  鉄棒小脇に掻込みたるが一人、心得てつかつかと寄った。 「ええ……え、腕車《くるま》に、成程。ええ可うがす、可うがすとも。そりゃ仔細《わけえ》有りゃしません。何、私《わっし》たちに。串戯じゃありません。姉さん、串《じょ》……、そうですかい、済まねえな。」  そのまま見送って小戻りする。この徒《てあい》も清葉が戻路《もどりみち》の方《かた》を違《たが》えて、なぞえに一石橋の方へ廻ったのは知らずにいたろう。 [#5字下げ]サの字千鳥[#「サの字千鳥」は大見出し] [#7字下げ]三十三[#「三十三」は中見出し] 「何だか、唐突《だしぬけ》に謎見たような事だけれど、それが今夜の事の抑々《そもそも》というのだから、恥辱《はじ》も忘れて話すんだがね……  上野から日本橋へ来る電車――確か大門《だいもん》行だったと思う――品川行にした処で、あの往復切符、勿論乗換札じゃないのだよ。……その往《ゆき》か復《かえり》か、どっちにしろ切符の表に、片仮名の(サ)の字が一字、何か書いてあると思いますか。」  葛木は卓子台《ちゃぶだい》に乗せた寄鍋に着けようとした箸《はし》を、(まだ。)とお孝に注意されて、そのまま控えながら話す。  お孝は時に、猪口《ちょこ》を取って、お千世の酌を受けたのである。 「サの字。」 「考えるに及ばないよ、そんな字は一つも無い。ところが、松坂屋の前を越して、あすこは、黒門町を曲ろうとする処だ。……ふっと! 心から胸へ、衣《き》ものの襟へ突通るような妙な事を思ったのが、その(サ)の字、左の手に持っていた切符を視《み》て、そこにサの字が一字あったら、それから行って逢うつもりの。」 「清葉さん。」と薄目で見越して、猪口は紅を噛《か》んだかと思う、微笑《ほほえみ》のお孝の唇。 「……止そう、そんな事を云うんなら。」と葛木は苦笑して、棒縞お召の寝々衣《ねんねこ》を羽織った、胡坐《あぐら》ながら、両手を両方へ端然《きちん》と置く。  潰《つぶし》島田を正的《まっすぐ》に見せて、卓子台の端にぴたりと俯向《うつむ》き、 「謝罪《あやま》った、謝罪った。たって手前の方から願いましたものを。千世《ちい》ちゃん、御免なさい、と云って、お前さんもおやや[#「おやや」に傍点]まり。」と言憎いから先繰りに訛《なま》って置く。 「あら、姉さん、私は何にも。」とお千世は熱かった銚子《ちょうし》を持添えた、はっと薫る手巾《ハンケチ》を、そのまま銚子を撫でて云う。 「だって、今、(行って逢うつもり。)と、こちらがお言いなすった時は、直ぐに清葉さんとお思いだろう。」 「ええ、そりゃ思ってよ。」 「そら御覧、思ったって饒舌《しゃべ》ったって、罪は同じくらいだよ。それに、謝罪《あやま》るには、お前さんの方が役者が上だからさ、よう、ちょいと。」 「貴方、御免なさいまし、ほほほ。」  葛木はしかし考えさせられた様子が見えて、 「成程、思ったって饒舌ったって、違いは無いか。いや、そうまでは、なかなか悟れない。……と云うのはやはり色気なんです。……極《きま》りは悪いがね。  そのサの字なんだ。切符の表に、有るべき理由の無い一字が、もし有ったら、いつも控え控え断念《あきら》めて引退《ひきさが》る、その心がきっと届くぞ!……想が叶う。打明けて言えば清葉が言う事を肯《き》いてくれる。思切って打着《ぶッつ》かろう。サの字が無ければ、今夜も優柔《おとな》しく、と言えば体裁が可《よ》い、指を銜《くわ》えて引込もうと、屹《きっ》と思って熟《じっ》と視ると、波打つ胸の切符に寄せる、夕日に赤い渚《なぎさ》を切って、千鳥が飛ぶように、サの字が見えた。」 「ああ。」とその千鳥を見るように、引入れられて、屏風はずれに前髪を上げた、瞼《まぶた》の色。お孝の瞳は恍惚《うっとり》と、湯気の朧《おぼろ》に美しい。  葛木も連れられて、夢を見るように面《おもて》を合せて、 「明《あかる》いね、ここの電燈は何燭だろう。」 「五燭よ、ほほほほ。」とお千世が花やかな笑声。鍋は暖く霞んだのである。 [#7字下げ]三十四[#「三十四」は中見出し] 「あれ……この妓《こ》が笑う。」  と葛木も笑いながら、 「客がこれだからその筈《はず》の事だけれども、私の行《ゆ》く家《うち》が、元来甚だ立派でないのだ。ね、座敷の電燈が五燭なんだよ。平時《いつも》は、そんなでもなかったが、過般中《このあいだ》、連があって、二人で出掛けた、その時、その千世ちゃんが来たんだね。確か……」  お千世が頷《うなず》く。 「覚えている、それを知って、笑うんだ。私のような、向う見ずに女に目の眩《くら》んだものに取っては、電燈の暗いのなんぞちっとも気にはならないがね、同伴《つれ》の男は驚きましたぜ。何しろ火鉢に掴《つか》まって、しばらく気を静めていると、襖《ふすま》や障子が朦朧《もうろう》と顕《あらわ》れるけれども、坐った当座は、人顔も見えないという始末だからね、余り力を入れて物を見るので、頭が痛いと云うんだよ。その妓《こ》も知ってるけれども、同伴《つれ》の男が。  客の無い閑《ひま》な家《うち》だし、不景気だし、いずれ経済上の都合だろうから、余分な御祝儀の出ない客が、(明《あかり》を直せ。)も殿様じみるから、同じメートルで光は三倍強という重宝な電球ね、あいつを寄附しようとなって、……来ていた清葉が、」 「東西、黙って。」  と笑顔をお千世に向けて、トわざと睨《にら》んで見せる。 「私、何にも言やしませんわ。」 「いや、何とでもお言い、こうなれば意地で饒舌《しゃべ》る。」と呷《ぐい》と煽《あお》る。 「お酌。」  と自分でお孝が、ツッと銚子を向けて、 「それに限るの。貴郎《あなた》は気が弱いから可厭《いや》さ。」 「ところで、……清葉が下階《した》へ下りて、……近所だからね、自分の内へ電話を掛けて、婢《おんな》にいいつけて、通りへ買いに遣った、タングステンが、やがて紙包みになって顕れて、芝居の月の書割のように明るくなった。  そこが、お鹿(待合の名。)の上段の間さ。」 「あら、串戯《じょうだん》の間、可《い》いわねえ。」 「いや、その串戯じゃない、御本陣式、最上等の座敷の意味だ。  人の好《い》い、気の好い、(お鹿。)の女房が喜んで、貴方の座敷だ――貴方の座敷だと云って通す。まるで新座敷一ツ建増した勢《いきおい》だ。素ばらしいもんだね、こう見えても。」 「さすがはね。」 「串戯じゃない、……いや、その串戯ではない座敷の上段へ、今夜も通された――サの字の謎から、ずっと電車で此地《こっち》へ来てだよ。……  平時《いつも》と違って、妙に胸がどきつくのさ。頭の頂上《てっぺん》へ円髷《まるまげ》をちょんと乗せた罪の無いお鹿の女房が、寂寞《ひっそり》した中へお客だから、喜んで莞爾々々《にこにこ》するのさえ、どうやら意見でもしそうでならない。  飯は済んだ、と云うのは、上野から電車で此地へ来る前に、朋達《ともだち》三人で、あの辺の西洋料理で夕飯を食べた。そこで飲んでね、もう大分酔っていたんです。可訝《おかし》くふらふらするくらい。その勢で、かッとなる目の颯《さっ》と赤い中へ、稲妻と見たサの字なんだ。  考えれば、千鳥の知らせでもなく、恋の神のおつげでもない。酒のサの字だったかも知れないものを。……その酒さえ、弱身のある人が来て対向《さしむか》いになると、臆面の無いほてった顔を、一皮|剥《む》かれるように醒《さ》めるんだからの。お察しものです。」  カチリと力無く猪口を置く。 [#5字下げ]梅ヶ枝の手水鉢[#「梅ヶ枝の手水鉢」は大見出し] [#7字下げ]三十五[#「三十五」は中見出し] 「座敷へ入ると間も無くさ、びりびり硝子戸《がらすど》なんざ叩破りそうな勢、がらん、どん、どたどたと豪《えら》い騒ぎで、芸者交りに四五人の同勢が、鼻唄やら、高笑《たかわらい》。喚《わめ》くのが混多《ごった》になってね。上り込むと、これが狭い廊下を一つ置いた隣座敷へ陣取って、危いわ、と女の声。どたんと襖《ふすま》に打《ぶ》つかる音。どしん、と寝転ぶ音。――楠《くすのき》の正成《まさしげ》がーと梅ヶ|枝《え》の手水鉢《ちょうずばち》で唄い出す。  座敷を取替えて上げよう、こっちは一人だから。……第一寄進に着いた電燈に対してもお鹿の女房が辞退するのを、遠慮は要らない、で直ぐに、あの、前刻《さっき》のあれ、雛《ひな》の栄螺《さざえ》と蛤《はまぐり》の新聞包みを振下《ぶらさ》げて出た。が、入交《いれかわ》るのに、隣の客と顔が合うから、私は裏梯子《うらばしご》を下りて、鉢前《はちさき》へちょっと立った。……  ここに、朝顔形の瀬戸の手水鉢が有るんです。これがまた清葉が寄進に附いたのさ。お鹿の内には、まだ開業当時というので手水鉢も柄杓《ひしゃく》も無かった。湯殿の留桶《とめおけ》に水を汲《く》んで、簀《す》の子の上に出してある。恐らく待合の手水鉢に柄杓の無いのは、厠《かわや》に戸の無いより始末が悪い。右は早速|調達《ちょうだつ》に及んだけれど、桶はそのままになっていたのを、清葉が心付いて、いつか、女房が勘定を届けか何か、滝の家へ出向いた時、火事見舞に貰ったのが、まだ使わないで新しい、お役に立てば、と持たして返した。……  知っての通り、清葉の家は、去年の火事に焼けたんだね。  何ですよ、奥庭に有った手水鉢を見ましたがね、青銅のこんな形、とお鹿の女房は仕方をして、そして竜《たつ》の口を捻《ひね》ると、ザアです。焼けてもびくともなさらない。すっかり青苔を帯びた所が好いなんのッて、私に話した。  惚れた芸者の工面の可いのは、客たるもの、無心を言われるよりなお怯《ひる》む、……ここでまた怯まされた。  清葉の手水鉢、でいささか酔覚の気味。二階は梅ヶ枝の手水鉢。いや、楠の正成だ。……大将も惜い事に、懐中《ふところ》都合は悪かったね。  二階へ返って、小座敷へ坐直る、と下階《した》で電話を掛けます。また冷評《ひやか》すだろうが、待人の名が聞える。」  二人は黙って微笑《ほほえ》むのみ。 「ねえ、そうした電話が筒抜けに耳へ響くのは、事は違うが、鳥屋の二階で、軍鶏《しゃも》の鳴声を聞くのと肖《に》ている。故《かるがゆえ》に君子は庖厨《ほうちゅう》を遠ざく……こりゃ分るまいが、大尽《だいじん》は茶屋の構《かまえ》の大《おおき》からんことを望むのだとね。 (誰だ、誰だ、誰を掛けてるんだ。)(何、清葉だ、清葉とは誰だ。)一座の芸者が小さな声で、(滝の家の姉さんよ。)(馬鹿、清葉が、こんな家へ来るもんか。)  と隣座敷で憚《はばか》らない高話。」 「お酌《つ》ぎ……千世ちゃん、生意気だね。お孝なら飛んで来る、と言やしないか。」 「誰も、そんな事を言いはしませんよ。」とお千世が宥《なだ》めるように優しく云って内端《うちわ》に酌ぐ。 「口惜《くやし》いねえ、……(清葉が来るもんか。)呼んで下すった、それが私で、お孝が、こんな家へと云って貰いたかった。……私はそこへ手水鉢なんぞじゃない、摺鉢《あたりばち》と采配《さいはい》を両手に持って、肌脱ぎになって駆込んで驚かしてやったものを。」 「でも、何だ、お前さんとは、今しがた逢ったばかりじゃないか。」 「ですから、今度っから、楠の正成で、梅ヶ枝をお呼びなさいよ、……その手水鉢へ、私なら三百円入れてやりたい、とこっちでも思うばかりだから、先方《さき》さまでも、お孝がこんな家へ来るもんか、とは言わないわね。……貴方お盃を下さいな、……チョッ口惜いねえ、清葉さんは。……」 [#7字下げ]三十六[#「三十六」は中見出し] 「少々加減が悪くって、内で寝ていた、と云って、黒の紋着《もんつき》の羽織で、清葉が座敷へ。  前後《あとさき》七年ばかりの間、内端に打解けたような、そんな風采《なり》をしていたのは初めてかと思う。もっともちょっとひく感冒《かぜ》と、眩暈《めまい》は持病で、都合に因れば仮託《かこつけ》でね――以前、私の朋達《ともだち》が一人、これは馴染《なじみ》が有って、別なある待合へ行った頃――ちょいちょい誘われて出掛けた時分には、のべつに感冒と眩暈で、いくら待っても通って見ても、一度も逢えた事は無かったんだ。もう断念《あきら》めていた処、その後宴会があって、あるお茶屋へ行くと、その時、しばらく振で顔を見た。何だか、打絶えていた親類に思掛けず出逢ったような可懐《なつかし》い気がしたっけ。それが縁で、……時々、と云っても月に二三度、そのお茶屋で呼ぶとね、三度に二度は来てくれる。  そこの女中|頭《がしら》をしていたんだ、お鹿の女房と云うのは。」 「知っていますわ。」 「気心は知ったり、遠慮は無しで、そこへ行くようになってから、余り月日を置かないで、顔だけも見るのは、やっと一昨年《おととし》の夏からだと思う。……  ところで、よく、あんなで座敷が勤まるよ。……もっとも私なんぞは座敷の中へは入るまいが、あの人と来たら、煙草は喫《の》まず、酒は飲まず、」 「ただ、貯《たま》るばかり。」 「まあ、堪忍したまえ。猪口は唇へ点《つ》けるくらいに過ぎますまい、朝顔の花を噛《か》むように、」 「敗軍《まけいくさ》の鬱憤《うっぷん》ばらしに、そのくらいな事は言っても可いのね。」 「堪忍したまえ。酒を飲まない芸妓《げいしゃ》ぐらい口説き憎いものは無い。」 「じゃ、そっちこっち、当って見たの。」 「いや、人はどうだか私一人としてはなんだ。ところで今夜だ――御飯は済んだと云う、御粥《おかゆ》を食べたんだとさ。」 「御養生でおいで遊ばすのね。……それから、」 「お鹿の女房《かみさん》も、暖るものが可かろうと云うんで、桶饂飩《おけうどん》。」 「おやおやおや。」とお孝は、がっかり、も一つうんざり[#「うんざり」に傍点]したらしい。 「……ここに八頭《やつがしら》の甘煮《うまに》と云うのが有ります。」  と葛木は、小皿と猪口の間を、卓子台《ちゃぶだい》の上で劃《しき》って、 「一度|讃《ほ》めたが、以来お鹿の自慢でね、きっと通しものに乗って出ます。……今日あたり土曜から日曜で私が来そうだと思う日は、煮て置くんだとお世辞を言った。が、ああ、十《と》ウに九ツこれも見納めになろうも知れん、と云うのは(サの字。)の謎の事。……一度口へ出して、ピシリと遣られる、二度とは面《おもて》は向けられまい、お鹿も今夜ぎりと思うと何となく胸が迫って卓子台の上が暗かった……」  お孝はポンと楊枝《ようじ》をくべた、すうッと帯を揺《ゆす》って焦《じ》れったそうに、 「ちょいと、まあ、待って頂戴よ。お粥腹のお姫様《ひいさま》を饂飩で口説いて、八頭を見て泣いたって、まるでお精霊様《しょうろさま》の濡場のようだね。よく、それでも生命《いのち》があって帰って来たよ。しっかりして下さいよ、後生だから、お前さん、私が附いてるから。」  で、するり卓子台の縁を辷《すべ》って、葛木の膝に手を掛ける。 「ああ、痛い。」  そのまま、背中をトンと凭《も》たして、瞳を返すと、お千世を見て、 「どうした、お爺さんは遅いじゃないか。」 「あら、姉さん、来るもんですか。」 「私は来るつもりで待っていたのに――そこの襖《ふすま》を開けて御覧よ、居るかも知れない。」 「まあ、」と可愛く、目をぱちぱち。 「可いからちょいと御覧。」  と言う、香《こう》の煙に巻かれたように、跪《ひざまず》いて細目に開けると、翠帳紅閨《すいちょうこうけい》に、枕が三つ。床の柱に桜の初花。 [#5字下げ]口紅[#「口紅」は大見出し] [#7字下げ]三十七[#「三十七」は中見出し] 「御維新ちっと前だって、芝の大門通りの足袋屋に名代娘の美人が有った。  その時分、増上寺の坊さんは可恐《おそろ》しく金を使ったそうでね、怪しからないのは居周囲《いまわり》の堅気の女房で、内々囲われていたのさえ有ると言うのさ。その増上寺に、年少《としわか》な美僧で道心堅固な俊才《えらい》のが一人あった。夏の晩方、表町へ買物が有って、麻の法衣《ころも》で、ごそごそと通掛ると、その足袋屋の小僧の、店前《みせさき》へ水を打っていた奴、太粗雑《いけぞんざい》だから、ざっと刎《は》ねて、坊さんが穿《は》きたての新しい白足袋を泥だらけにしたんだとね。……当時は電車で、毎々の事だが。  娘が夕化粧の結綿《ゆいわた》で駆出して、是非、と云って腰を掛さして、そこは商売物です。直ぐに足袋を穿替《はきか》えさせるとなって、かねて大切なお山の若旦那だから、打たての水に褄《つま》を取ると、お極《きま》りの緋縮緬《ひぢりめん》をちらりと挟んで、つくまって坊さんの汚れた足袋を脱がそうとすると、紐なんです。……結んだやつが濡れたと来て、急には解けなかった為に口を添えた、皓歯《しらは》でその、足袋の紐に口紅の附いたのを見て、晩方の土の紺泥《こんでい》に、真紅の蓮花《れんげ》が咲いたように迷出して、大堕落をしたと言う、いずれ堕落して還俗だろうさ。  こっちは悔悟《かいご》して、坊主にでもなろうと云うんだ。……いずれ精進には縁があります。自棄《やけ》だから序《ついで》に言うが、……私は、はじめて逢った時、二十三の年、……高等学校を出ると、祝だと云って連出して、村田屋で御飯を驕《おご》ったものがある。酒は飲めず、畏《かしこま》って煙草《たばこ》ばかり吐《ふ》かしていたので、愛想に一本、ちょっと吸って、帰りがけにくれたのが、」 「承知々々。」とまた笑う。 「でね、口紅がついていたんだ。」 「気障《きざ》だ。」とお孝は手酌である。 「坊主には縁があるって事だよ。」  軽く清《ゆす》いで盃をさしながら、 「処をまた還俗さしてあげるから、もとッこだわね。可哀相に……そのかわり小鰭《こはだ》の鮨を売りやしないか。」  と倦怠《だる》そうに居直って、 「もし、その吸口はどう遊ばしたえ?……後学の為に承り置きたい……ものでござるな。……よ。ほんとうに、」 「路傍《みちばた》では踏つけよう、溝《どぶ》も気になる……一石橋から流したよ。」 「ああ、祟《たた》りますねえ。そんな男を、私も因果だ。」 「恐入ります、が聞いて下さい。」 「聞いて遣わす、お酌をおし……御免なさいよ。」といよいよ酔う。 「そうだ――ああお銚子が冷めました、とこう、清葉が、片手で持って、褄の深い、すんなりとした膝を斜《はす》っかいに火鉢に寄せて、暖めるのに炭火に翳《かざ》す、と節の長い紅宝王《ルビイ》を嵌《は》めたその美しい白い手が一つ。親か、姉か、見えない空から、手だけで圧《おさ》えて、毒な酒はお飲みでない、と親身に言ってくれるように、トその片手だけ熟《じっ》と見たんだ。……」  お孝が、ふと無意識の裡《うち》に、一種の暗示を与えられたように、掌《てのひら》を反《そ》らしながら片手の指を顋《あご》に隠した。その指には、白金《プラチナ》の小蛇《こへび》の目に、小さな黒金剛石《くろダイヤ》を象嵌《ぞうがん》したのが、影の白魚のごとく絡《まつわ》っていたのである。  後で知れた、――衣類の紋も、同じ白色の小蛇の巻いた渦巻であった。 「時に、隣の間の正成も、ふと音の消えた時、違棚の上で、チャチャ、と囁《ささや》くように啼《な》いたものがある。声のしたのは、蛤です。動いたと見えて、ガサガサと新聞包が揺れたろうではないか。」 [#7字下げ]三十八[#「三十八」は中見出し] 「(栄螺と蛤です。……)  思掛けない音に、ちょっと驚いた顔をした清葉にそう云って、土産じゃない、汐干《しおひ》では時節が違う。……雛に供えたのを放生会《ほうじょうえ》、汐入《しおいり》の川へ流しに来たので、雛は姉から預かったのを祭っている……先祖の位牌《いはい》は、妹が一人あって、それが斉眉《かしず》く、と言ったんだね。  そして御姉妹《ごきょうだい》は、と清葉が訊《き》くから、(実は。)と出ました。……実は、それに就いて、と言ったもんです。何に就いてだが、自分にも分らない。けれどもね……何に就いたって、あし掛七年の間、ただ一度も、気障《きざ》な、可厭《いや》らしい、そんな事を、言出せそうな機会と云っては一度も無かった。  いつも、座敷の服装《なり》で、きちんと芸者と云う鎧《よろい》を着ているのから見れば、羽織で櫛巻だけに、客に取っては馴れ易い。覚悟は有ったし、サの字の謎。……  実は、と目を瞑《ねむ》って切掛《きっか》けたが、からッきし二の太刀が続きません。酌をして下さい、と一口に飲んでまた飲んだ飲んだ。もう一つ、もう一つ酌《つ》いで欲しい、また、と立続けに引掛《ひっか》けても、千万無量の思が、まるで、早鐘のごとくになって、ドキドキと胸へ撞上《つきあ》げるから、酒なざどこへ消えるやら。  口も濡れないどころか舌が乾く。……また、清葉が何にも言わずに、あんなに煽切《あおっき》るのも道理だ、と断念《あきら》めたらしく見えて、黙って酌《つ》ぐんだよ。  ああ、酔った。」  と袖を擦並べたお孝の肩に、頭《つむり》を支《ささえ》たそうに頽然《がっくり》となる。のをお孝が向うへ、片手で邪慳《じゃけん》らしく、トンと突戻した、と思うと、その手を直ぐに、葛木の膝へ。敷いて重ねた腕枕に、ころりと横になって、爪先をすっと流す、と靡《なび》いた腰へ、男の寝々衣《ねんねこ》の裾を曳いて、半ばを掛けた。…… 「肝心な処、それから。」と自若として言う。 「弱った……」 「私《わたい》を口説く気で、可《よ》うござんすか。まったくは、あの御守殿より、私の方が口説くには煩《むずかし》いんだから、その積《つもり》で、しっかりして。」 「破れかぶれは初手からだ。構うもんか!……更《あらたま》って(清葉さん)。……」 「黙って顔を見ましたかい。」 「惚れたと云うのが不躾《ぶしつけ》であるなら、可懐《なつかし》いんです、床《ゆかし》いんだ、慕《したわ》しいんです。……私に一人の姉がある。姉は人の妾《めかけ》だった。……恋こがれた若い男が有ったのに、生命《いのち》にかえてある相場師の妾になった……それは弟の為だったんです。  私の父親は医師《いしゃ》だったんだよ。……と云うお医師も、築地、本郷、駿河台は本場だけれども、薬研堀《やげんぼり》の朝湯に行って、二合半《こなから》引掛けてから脈を取ったんだそうだから、医師の方では場違いだね。  広袖《どてら》を着たまま亡くなると、看病やつれの結び髪を解きほぐす間も無しに、母親も後を追う。  姉は二十《はたち》、私は十三、妹は十一で、六十を越して祖母《おばあ》さんが、あとに残った……私と妹は奉公に出たんです。  姉は祖母《おばあさん》をかかえて、裏長屋に、間借りをして、そこで、何か内職をして露命をつないでいる。私が小僧になったのは、赤坂台町の葉茶屋だった。」  膝に島田を乗せながら、葛木の色は白澄んだ。  チャランチャラン、と河岸通、五郎兵衛町を出番の金棒。 [#5字下げ]一重桜[#「一重桜」は大見出し] [#7字下げ]三十九[#「三十九」は中見出し] 「忘れもしない、ずっと以前――今夜で言えば昨夜《ゆうべ》だね――雛の節句に大雪の降った事がある。その日、両国向うの得客《とくい》先へ配達する品があって、それは一番後廻、途中方々へ届けながら箱車を曳いて、草鞋穿《わらじばき》で、小僧で廻った。日が暮れたんです。両国の橋を引返した時の寒さったら、骨まで透《とお》って、今思出しても震えちまう。  何の事は無い、山から小僧が泣いて来たんだ。  人通りは全然《まるで》無し、大川端の吹雪の中を通魔のように駆けて通る郵便配達が、たった一人。……それが立停まって、チョッ可哀相にと云った。……声を出して泣きながら、声も涸《か》れて、やっと薬研堀の裏長屋の姉の内の台所口へ着いた、と思うと感覚《おぼえ》が無い。  浸々と降る雪の中に、ただどしんと云う音がしたって、姉が後で言い言いした。  ところがどうです……妹は妹で、その前夜から奉公先を病気で下って、内で寝ている。  これがまた悲惨でね。……聞いて見ると、猫の小間使に行っていたんだ。主人夫婦が可恐《おそろし》い猫好きで、その為に奉公人一人給金を出して抱えるほどだから、その手数の掛る事と云ったら無い、お剰《まけ》に御秘蔵が女猫と来て、産の時などは徹夜《よっぴて》、附《つき》っきり。生れた小猫に、すぐにまた色気が着くと、何とどうです、不潔物の始末なんざ人間なみにさせられる。……処へ、妹が女の子の癖に、かねて猫嫌いと来ていたんだものね。死ぬほどの思いで、辛抱はしたんだが、遣切れなくなって煩いついた。(少し変だ、顔を洗うのに澄まして片手で撫でる、気を鎮めるように。)と言って、主人から注意があったんだとね。  祖母《ばあさん》は祖母で、目を煩ってほとんど見えない。二人の孫を手探りにして赤い涙を流すんじゃないか。  私は気が付くと、その夜《よ》、――後で妹の話を聞いて慄然《ぞっと》して飛んで出たが、猫行火《ねこあんか》に噛着《かじりつ》いていて、豆煎《まめいり》を頬張ったが、余り腹が空いて口が乾いて咽喉《のど》へ通らないから、番茶をかけて掻込《かっこ》んだって。  内職の片手間に、近所の小女《こむすめ》に、姉が阪東を少々、祖母さんが宵は待《まち》ぐらいを教えていたから、豆煎は到来ものです。 (白酒をおあがり、晋ちゃん、私が縁起直しに鉢の木を御馳走しよう。)と、錻《ブリキ》落しの長火鉢の前へ、俎《まないた》と庖丁を持出して、雛に飾った栄螺《さざえ》と蛤《はまぐり》をおろしたんだ。  重代の雛は、掛物より良《い》い値がついて、疾《とう》に売った。有合わせたのは土彩色《つちさいしき》の一もん雛です。中にね、――潰島田に水色の手柄を掛けた――年数が経《た》って、簪《かんざし》も抜けたり、その鬢《びん》の毛も凄《すご》いような、白い顔に解《ほつ》れたが――一重桜の枝を持って、袖で抱くようにした京人形、私たち妹も、物心覚えてから、姉に肖《に》ている、姉さんだ姉さんだと云い云いしたのが、寂しくその蜜柑《みかん》箱に立っていた。  それをね、姿見を見る形に、姉が顔を合せると、そこへ雪明りが映《さ》して蒼《あお》くなるように思ったよ。姉が熟《じっ》と視《なが》めていたが、何と思ったか、栄螺と蛤を旧《もと》へ直すと、入かわりに壇へ飾ったその人形を取って、俎の上へ乗せたっけ……」 「千世《ちい》ちゃん。」  と葛木の膝枕のまま、お孝が呼んだ。 「はあ。」と襖越しに返事した。お千世は、前刻《さっき》そこを見せられた序《ついで》に、……(眠かろう先へお寝な。)と言われたのである。そして寂寞《ひっそり》して今しがた、ずるずると帯を解いた気勢《けはい》がした。 [#7字下げ]四十[#「四十」は中見出し] 「寒くなった、掻巻《かいまき》をおくれ。」  とお孝は曲げた腕《かいな》を柔く畳に落して、手をかえた小袖の縞《しま》を、指に掛けつつ男の膝。 「姉さん、私、帯を解いてよ。」 「生意気お言いでないよ、当も無しに。可いから持っといで。」 「うまい装《なり》をして、」  と膚《はだ》の摺《す》れる、幽かな衣《きぬ》の捌《さば》きが聞えて、 「御免なさいまし。」と抱いて出た掻巻の、それも緋《ひ》と浅黄の派手な段鹿子《だんかのこ》であったのを、萌黄《もえぎ》と金茶の翁格子《おきなごうし》の伊達巻で、ぐいと縊《くび》った、白い乳房を夢のように覗《のぞ》かせながら、ト跪《ひざまず》いてお孝の胸へ。  襟足白く、起上るようにして、ずるりと咽喉《のど》まで引掛けながら、 「貴方、同じ柄で頼母《たのも》しいでしょう、清葉さんの長襦袢《ながじゅばん》と。」  学士は黙って額を圧《おさ》える。 「姉さん、枕よ……」 「不作法だわ、二人で居る処へたった一ツ。」 「知らない、姉さんは。」 「持ってお帰り。」 「はい。」  と立って、脛《はぎ》をするすると次の室《ま》へ。襖を閉めようとしてちょっと立姿で覗く。羽二重の紅《くれない》なるに、緋で渦巻を絞ったお千世のその長襦袢の絞《しぼり》が濃いので、乳の下、鳩尾《みずおち》、窪みに陰の映《さ》すあたり、鮮紅《からくれない》に血汐が染むように見えた――俎に出刃を控えて、潰島田の人形を取って据えたその話しの折のせいであろう。  凄《すご》さも凄いが、艶《えん》である。その緋の絞の胸に抱く蔽《おおい》の白紙《しらかみ》、小枕の濃い浅黄。隅田川のさざ波に、桜の花の散敷く俤《おもかげ》。  非ず、この時、両国の雪。  葛木は話したのである。 「姉の優しい眉が凜《りん》となって、顔の色が蝋《ろう》のように、人形と並んで蒼みを帯びた。余りの事に、気が違ったんじゃないかと思った。  顔の色が分ったら祖母《おばあ》さんは姉を外へ出さなかったろうと思うね。――兄弟が揃った処、お祖母さんも、この方がお気に入るに違いない、父上《おとうさん》、母上《おっかさん》の供養の為に、活《いき》ものだから大川へ放して来ようよ……  で、出たっきり、十二時過ぎまで帰らなかった。  妹が涙ぐんで、(兄さん、姉さんは? 見て来て下さい。)と言う。私も水へ飛込み兼ねない勢《いきおい》で、台所へ出ようとすると、姉は威勢よくそこへ帰った。……  白鳥《はくちょう》を提げてね、景気よく飲むんだって……当人すでに微酔《ほろよい》です。お待遠様と持込んだのが、天麩羅蕎麦《てんぷらそば》に、桶饂飩《おけうどん》。  女二人が天麩羅で、祖母《おばあ》さんと私が饂飩なんだよ。考えて見ると、その時分から意気地の無い江戸児《えどっこ》さ。  その晩、かねて口を利いた浜町の骨董屋《こっとうや》の内へ駈込《かけこ》んで、(あい。)と返事をしたんだって。  浅草、花川戸の、軒に桃の咲く二階家に引越して、都鳥の鼈甲《べっこう》の花笄《はなこうがい》、当分は島田のままで、祖母さんと妹がそこへ引取られて、私は奉公を止して、中学校の寄宿舎へ入る。続いて白筋の制帽となって、姉の思《おもい》一つなんだ。かみわざで助けられるように、金釦《きんぼたん》の制服と漕《こ》ぎつけた。」 [#5字下げ]伐木丁々[#「伐木丁々」は大見出し] [#7字下げ]四十一[#「四十一」は中見出し] 「……迄は、まあ可かったんです。……ところが、その後|祖母《おばあさん》の亡くなった時と、妹が婚礼をした時ぐらいなもので、可懐《なつかし》い姉は、毎晩夢に見るばかり。……私には逢ってくれない。二階の青簾《あおすだれ》、枝折戸《しおりど》の朝顔、夕顔、火の見の雁《かり》がね、忍返しの雪の夜。それこそ、鳴く虫か小鳥のように、どれだけ今戸のあたり姉の妾宅の居周囲《いまわり》を、あこがれて徉徊《さまよ》ったろう、……人目を忍び、世間を兼ねる情婦《いろ》ででも有るように。――暗号《あいず》で出て来る妹と手を取って、肩を抱合って、幾度泣いたか知れません。……姉は恥かしいから逢わぬと歎く。女の身体《からだ》の、切刻まれる処が見たいか、と叱るんだね。  その弟の身になると、姉は隅田川の霞の中に、花に包まれた欄干に立って、私を守っているようでもあるし、紅蓮《ぐれん》大紅蓮という雪の地獄に、俎《まないた》に縛られて、胸に庖丁を擬《あ》てられながら、救《すくい》を求めて悶《もだ》えるとも見える。……  死ものぐるいに勉強をしたよ。  大学へ入ると言う、その祝いだ、と云って、私を村田屋へ連出したのは、姉の旦那だ。  その時清葉を見ました。  心の迷いか、済まん事だが、脊恰好《せいかっこう》、立居《たちい》の容子が姉に肖然《そっくり》。  この方は手形さえあれば、曲りなりにも関所が通られると思うと、五|度《たび》に一度、それさえ半年の間なんだ、……小遣を貯《た》めるんだからね。……また芸者の身になって見りゃ、迷惑な事は夥多《おびただ》しい。」  お孝は黙って頭《かぶり》を掉《ふ》った。 「姉の方は、天か地か、まるで幽明処を隔つ、遠い昔のものがたりの中に住むか、目近に姿ばかりの錦絵を見るようだろう。同じ、娑婆《しゃば》に、おなじ時刻に、同じ檜物町の土地に、ただ町を離れて、本郷の学校の門と、格子戸を隔てただけで住んでいる筈の清葉さえ、夢に見ても夢でさえ、遠出だったり、用達しだったり、病気だったりして逢えないんだものね。半年の間|熟《じっ》と目を塞いでいて、お茶屋の二階で目を開いて、ドキドキする胸を圧《おさ》えるのがその仕儀なんだ。  一度も夢で泣いたのは……」  天井を高く仰いで云った、学士の瞳は水のごとし。 「どこか……私の寄宿舎の二階と向合う、同じ高さに川が一筋……川が一筋。……で、夢だろう。水はその下を江戸川の(どんどん)ぐらいな流れで通る。向う岸《がし》に二階がある。表だけ見えて、欄干が左右へ……真中《まんなか》に榎《えのき》の大樹があって仕切る、その二階がね、一段低くなって流《ながれ》に臨んで、も一つ高い座敷が裏に有りそうなんだ、夢だからね、お聞き。……いや聞いておくれ。  その左右の欄干の、向って右へ、嫋娜《すらり》と掛って、美しい片袖が見える。ト頬杖《ほおづえ》か何か、物思わしい風情で、熟《じっ》とこっちを視《なが》めるらしい、手首が雪のように、ちらりと見えるのに、顔は榎に隠れたんだ。榎はどこか、深山《みやま》の崖か、遠い駅路《うまやじ》の出入境《でいりざかい》に有る、繁った大《おおき》な年|経《ふ》る樹らしい。  そこへね、むくむくと動いて葉を分けて、ざわざわと枝を踏んで、樵夫《きこり》が出て来た。花咲爺の画《え》にあるような、ああ、」  と横を向いて卓子台《ちゃぶだい》を幽《かすか》に拊《う》って、 「前刻《さっき》、西河岸で逢った植木屋……ね、ちょっと肖《に》ていたよ。取留めは無いのだけれども。  その爺さんが、コツンコツンと斧を入れる。が、斧の音は、あの、伐木《ばつぼく》丁々として、百里も遠く幽《かすか》だのに、一枝、二枝、枝は、ざわざわと緑の水を浴びて落ちる。」 [#7字下げ]四十二[#「四十二」は中見出し] 「三枝、五枝、裏掻《うらが》いてその繁茂《しげり》が透くに連れて、段々、欄干の女の胸が出て、帯が出て、寝着《ねまき》姿が見えて、頬が見えて、鼻筋の通る、瞳が澄んで、眉が、はっきりとなる。縺毛《もつれげ》がはらはらとかかって島田髷《しまだ》が見えた。  川の水が少し渺《びょう》として、月が出たのか、日が白いのか、夜だか昼だか分らない。……間がおよそどのくらいか知れないまで遠くなる、とその一段高い女の背後《うしろ》に、すっくと立った、大《おおき》な影法師が出た。一段高いのに、突立《つッた》ったから胸から上は隠れたが、人とも獣《けもの》とも、大《おおき》な熊が蔽《おお》われかかるように見えたんだがね。」 「ちょっと待って!」  お孝の怯《おび》えたらしい慌《あわただ》しさ。が沈んで力ある声に、学士は夢から現《うつつ》の世に引き戻されて、 「ええ、」と驚く。 「ここを抱いていて下さい。」  その声は、もう静《しずか》であった。掻巻越に、お孝は学士の手を我が胸に持添えて、 「さあ、話しておくんなさいな、――身に染みるわねえ。」 「たわいは無いんだよ。……すがすがしいが、心細い、可哀《あわれ》な、しかし可懐《なつか》しい、胸を絞るような駅路《うまやじ》の鐸《すず》の音が、りんりんと響いたので、胸がげっそりと窪んで目が覚めるとね、身体が溶けるような涙が出たんだ。  その二階越の女が、どうしても姉なんだ。いや清葉だった。しかもつい近頃の事なんだよ。」 「…………」 「話が前後《あとさき》になったんだがね、……夢を見たのは、姉がもう行方知れずになってからです。」 「行方知れず?……」と手を支《つ》く音。 「私がとにかく、今の学校を卒業すると、妹には代々の位牌《いはい》を、私にはその一組の雛《ひな》と、人形を記念《かたみ》に残して観音様の巡礼に、身は亡きものと思っておくれ、――妹に――達者でおくらし、――私に、晋さん御機嫌よう――  妹には夫がある。  この行方を探すには、私が巡礼に出なければならないんだ。  が、それは今出来兼ねる。  けれども、夢にも快く逢える事か、似た人にさえ思いのままには口も利けない。七年越し(私は姉が欲しい、……お前さんが欲しい、清葉さん。)と清葉に云った。  今夜思切って言ったんだ。  ただ他人でありたくない! が、いまこの二人は、きょうだいになり得る世界を持たん。夫婦になりたい。一所になりたい、ただ他人ではありたくない。しかし様子を見ても大抵分る、これは肯入《ききい》れてはくれないだろう、断然断らるるに違ない!  私は、お前さんから巡礼になる、少くとも行方知れずになる、杯をうけて下さい。」 「御守殿は何と云って?」と言《ことば》は烈しく、掻巻はすらりとしている。 「清葉は、すっと横を向いて、襦袢《じゅばん》の袖口をキリキリと噛《か》んだ。」 「一件だね。」 「私は胸が迫ったよ。……清葉が、声を霞ませて言った。……(お察し申します。)」 「へえ。」 「(貴方の姉さんが私でしたら、貴方に何とおっしゃるでしょう。貴方は姉さんにお聞き下さいまし。私には母があります。養母です。)と俯向《うつむ》いたが、起直って、(母に聞かなければなりません。ト……また私には子があるんです。その子の父があるんです。一人|極《きま》った人があれば、果敢《はか》ないながら芸者でも操を立てねばなりません。芸者の操、貴方お笑いなさいまし。私は泣いて、そのお別れの杯を頂きましょう。)……」 「ああ、言いそうなこった。御守殿め、チョッ。」と膝を丁と支《つ》くと、颯《さっ》と掻巻の紅裏を飜《かえ》す、お孝は獅子頭《ししがしら》を刎《は》ねたように、美しく威勢よく、きちんと起きて、 「でも、さすがに土地の姉さんだねえ。」 [#5字下げ]空蝉[#「空蝉」は大見出し] [#7字下げ]四十三[#「四十三」は中見出し] 「もしもし、貴女《あなた》様、もし……」  ここに葛木に物語られつつある清葉は、町を隔て、屋根を隔てて、かしこにただ一人、水に臨んで欄干に凭《もた》れて彳《たたず》む。……男の夢の流《ながれ》ではない、一石橋の上なのである。が、姿も水もその夢よりは幻影《まぼろし》である。  と、小腰を屈《かが》めて差覗《さしのぞ》き、頭を揺《ふ》って呼掛けたのは、顱巻《はちまき》もまだ除《と》らないままの植木屋の甚平爺さん。 「今頃、何をしておいでなさります、お一人でこんな処に……ははは、」  と底力の無い愛想笑で、 「いや、もう、人様の事をお案じ申すという効性《かいしょう》もござりません。……お助けを被りました御礼を先へ申さねばなりませんのでござりました。はい、先刻は何とも早や、お庇《かげ》で助かりました。とんと生命《いのち》拾いでござります。それにまた、お情深い貴女様、種々《いろいろ》と若衆《わかいしゅ》たちまで、お優しいお心附《こころづけ》を下さいまして、お礼の申上げようもござりません。」 「ああ、植木屋さん。」  と云う……人を見た声も様子も、通りがかりに、その何となく悄《しお》れたのを見て、下に水ある橋の夜更《よふけ》、と爺《おやじ》が案じたほどのものではない。 「今、お帰りなんですか。」 「はい、ええ、貴女からお心添え、と申されて、途中でまた待伏せでもされるような事があってはならねえ。泊れ、世話をしょう、荷なりと預ってやろうと、こう云うて下さいましたが、何、前後の様子で、私《てまえ》、尺を取りました寸法では、一時|赫《かっ》として手を上げましたばかり。さして意趣遺恨の有る覚えとてもござりませず、……何また、この上に重ねて乱暴をしますようなれば、一旦はちと遠慮がござりましてわざと控えましたようなものの、いざとなれば、何の貴女、ただ打《ぶ》たれておりますものか。向脛《むこうずね》を掻払《かっぱら》って、ぎゃっと傾倒《のめ》らしてくれますわ。」と影弁慶が橋の上。もとより好む天秤棒、真中《まんなか》取って担ぎし有様、他《よそ》の見る目も覚束《おぼつか》ない。  附け景気の広言さえ、清葉は真面目《まじめ》に憂慮《きづか》うらしく、 「でも、お年寄が、危いじゃありませんかね、喧嘩はただ当座のものですよ。一晩明かしてお帰りなさると可かったのにねえ。」 「はい、それに実は何でござります、……大分年数も経《た》ちました事ゆえ、一時《ひととき》半時では、誰方もお心付《こころづき》の憂慮《きづかい》はござりませんが。……貴女には、何をお秘《かく》し申しましょう。私《てまえ》はその、はい、以前はやはりこの土地に住いましたもので。」 「まあ、」 「ええ……忰《せがれ》が相場ごとに掛りまして分散、と申すほど初手からさしたる身上《しんしょう》でもござりませぬが、幽《かすか》には、御覚えがあろうも知れませぬ、……元|数寄屋町《すきやちょう》の中程の、もし、へへへ、煎餅屋の、はい、その時分からの爺《おやじ》でござりますよ。」 「あら、お店の前の袖垣に、朝顔の咲いた、撫子《なでしこ》の綺麗だった、千草煎餅の、知っていますとも――まあ、お見それ申して済まないことねえ。」  はずんだ声も夜《よ》とともに沈んで聞えて静である。 「滅相な、何の貴女。お忘れ下さるのが功徳でござりますよ、はい、でも私《てまえ》はざっとお見覚え申しております、たしか……滝の家さんのお妹御……」 「ええ、小女《ちいさ》い方よ、お爺さん、こんなになって……お可懐《なつかし》いのね。」 [#7字下げ]四十四[#「四十四」は中見出し] 「御主婦《おかみ》さんは、」 「養母《おふくろ》ですか。息災ですよ。でも、めっきり弱りました。」 「私《てまえ》、陰ながら承って存じております。姉さんが、お亡くなりになりましたそうで、あの方はお丈夫で。……貴女はお小さい時から悪戯《いたずら》もなさらず、いつもお弱くっておいでなさりましたが、しかし、まあ、御機嫌よう、御全盛で。」 「いいえ、全盛《それ》どころではござんせん。姉が達者でいてくれますと、養母《おふくろ》も力になるんですけど、私がこんなですからね。――何ですよ、いつも身体が弱くって困りますの。」 「お見受け申しました処でも、ちっと蒲柳《ほっそり》なさり過ぎますて。」  何やら、もの思わしげな清葉の容子を、もう一度|凝《た》めて視《み》て、 「もっとも柳に雪折なし、かえって御心配の無いものでござります。でござりますが。」  爺さんは天秤を潜《くぐ》るがごとく、腰を極《き》めて、一息寄る。 「そのお弱い貴女が、また……何で、今時分、こんな処に夜風は毒の、橋は冷えます。私なんぞ出過ぎましたようでござりますが、お案じ申すのでござりますよ。」 「難有《ありがと》う、……身投げじゃないの、お爺さん。」 「滅法界《めっぽうけえ》な、はッはッ。」 「でも、ほんとうは投げても可いんです、今夜あたり。」と微笑んだ、が、笑顔の気高いのが凄いように見える。 「滅相至極も無い。」 「親身に心配して下さるのを私、串戯《じょうだん》を云って済みません。まったく身でも投げそうに、それは見えましたでしょうとも。一人で、こんな処にぼんやりして。  実はね、お爺さん、宵からお目に掛っていた客が、帰りがけにこの橋から放生会《ほうじょうえ》をなすった品《もの》があるんです。――昨日《きのう》はお雛様のお節句だわね――その蛤と栄螺ですって。」 「はい、成程。」 「殿方ばかりでなさるんでは、わざとらしくも聞えますが、その方は御姉《おあねえ》さんの御遺言。……まあね、……遺言と云った訳なんですとさ、私も姉が亡くなったんです。  何ですか、可懐《なつかし》くって、身に染みてならないのに、少々|仔細《しさい》が有りましてね、もうその方ともこれっきり、お目に掛られないかも知れなくなったの。七年|以来《このかた》、夢にまで、ほんとうに夢を見て頂くまで、贔屓《ひいき》に……思って……下すった……のに。」  袖を落して悄《しお》るる手に、鉄の欄干は痛々しい。 「私……もう御別離《おわかれ》をお見送り申し旁々《かたがた》、せめて、この橋まで一所に来て、優しい事を二人でして、活きものの喜ぶのを見たかったんですけれども、二人ばかりの朧夜《おぼろよ》は、軒続きを歩行《ある》くのさえ謹まねばならないように、もう久しい間……私ねえ、躾《しつ》けられているもんですから、情ないのよ。お爺さん。お恥かしいじゃありませんか。そのね、(二人で来る。)というのさえ、思出さねば気が付かない迄、好《すき》な事、嬉しい事、床しい事も忘れていて、お暇乞《いとまごい》をしたあとで、何だかしきりに物たりなくって、三絃《はこ》を前に、懐手で熟《じっ》と俯向《うつむ》いている中《うち》に、やっと考え出したほどなんですもの。  私許《わたしんとこ》でも、真似事《まねごと》の節句をします。その栄螺だの蛤だのは、どうしたろうと、何年越かで、ふっと、それも思出すと、きっと何かと突包《つッくる》んで一所に食べたに違いない。菱餅も焼くのを知って、それが草色でも、白でも、紅色でも、色の選好《よりこの》みは忘れている、……ああ、何という空蝉《ぬけがら》の女になったろう、と胸が一杯になったんですよ。」 [#7字下げ]四十五[#「四十五」は中見出し] 「お地蔵様の縁日だし、序《ついで》と云っては失礼だけれど、その方と御一所に、お参詣《まいり》をしながら、貝を流しに来られたら、どんなに嬉しかったろうと思いますとね、……それなり内へ帰る気になれなかったもんですから、後を慕ったように見に来ました。  お爺さん、その方は、随分、私に思切った、殿方の口からでは、さぞ仰有《おっしゃ》りにくかろうと思う事さえ、打明けて下すったのに、私は女で、女の口から言って可い、言わねばならない……今、ただ、お前さんに話をした、一所にここまでお見送りがしたい、とそれだけさえ、口へは出せない身なんですもの。  大抵お察しなさいまし。……小児《こども》のような罪の無い、そしてそれより、酢いも甘いもよう知って、浮世を悟ったお老人《としより》は仏様、何にも隠す事は無い。……私には、小児の親の旦那があります。  どうせ女房《おかみ》さんや児《こ》があって、浮気をなさるくらいな人、妾《めかけ》てかけは他にもある。珍らしくもない私を、若い妓《こ》に見かえないで滝の家一軒世帯の世話をしてくれますのは、棄てる言分が無いからです。落度があればそれッきり、まことに頃日《このごろ》の様子では、内々じゃ持扱《もてあつか》って、私の落度を捜しているかも知れませんもの。大一座ででもあるなら知らず、差向いでは、串戯《じょうだん》も思切っては言えませんわ。  そんなに、だらしなく意気地なく、色恋も、情《なさけ》も首尾も忘れたような空洞《うつろ》になったも、燃立つ心を冷《さま》し冷し、家《うち》を大事と思うばかり。その家だって私のじゃない。……  ねえ、お爺さん。」  と面《おもて》を背けて、 「養母《おふくろ》へ義理たった一つばかりなのよ!……  亡くなった姉に、生命《いのち》がけの情人《いろ》が有って、火水の中でも添わねばならない、けれど、借金のために身抜けが出来ず――以前|盗人《どろぼう》が居直って、白刃《しらは》を胸へ突きつけた時、小夜着《こよぎ》を被《かぶ》せて私を庇《かば》って、びくともしなかった姉さんが、義理に堰《せ》かれて逢うことさえ出来ない辛さに、私を抱いてほろほろ泣く。  出生《うまれ》は私、東京でも、静岡で七つまで育ったから、田舎ものと言われようけれど……その姉さんを持ったお庇《かげ》に、意地も、張も、達引《たてひき》も、私は習って知っている。  その時に覚悟をして、可厭《いや》で可厭でならなかった、旦那の自由になったんです。またそうして、後々までも引受ければ、養母が承知をして、姉を手放してくれたんですもの。……  ちゃんと養母に約束した、その時の義理がありますから、自分じゃ、生命《いのち》も随意《まま》にはなりやしない。  お爺さん、私ゃ芸者のかざかみにも置かれない……意気な人には御守殿だ、……奥さんだ、お部屋だって言われます。」  はなじろみながら眉の昂《あが》った、清葉の声は凜《りん》とした。……途中でお孝の三人づれに行逢ったを爺《おやじ》は知るまい。が、言う清葉より聞く方が、ものをも言わず、鼻をすする。 「心に思う万分一、その一言は云わないでも、姉の身ぬけにこうこうと、今云った義理だけは、私はその人に言いたかった、言いたかったんです。」  と思わず縋《すが》って泣くように、声が迫って、 「ですけれど、他人は知らず、私たち、そうした人に、この事を打明けては、死んだ姉に恩を被《き》せる、と乗ってる蓮《はす》の台《うてな》が裂ける……姉は私に泣いてましょう、泣いてくれるのは嬉しいけれど、気の毒がられては、私は済まない。  坊主になる、とまで真実に愚に返って、小児のように言った人に、……私は堪《こら》えて黙っていました。……」 [#5字下げ]彩ある雲[#「彩ある雲」は大見出し] [#7字下げ]四十六[#「四十六」は中見出し]  爺さんは、先刻《さっき》打撲《くらわ》された時|怪飛《けしと》んだ、泥も払わない手拭《てぬぐい》で、目を拭《ふ》くと、はッと染みるので、驚いて慌《あわただ》しいまで引擦《ひっこす》って、 「他所目《よそめ》には大所《おおどこ》の御新造《ごしんぞ》さんのように見えます、その貴女が、……やっぱり苦界、いずれ苦の娑婆《しゃば》でござります。それにつけましても孫が可愛うございますので、はい。」  沈めて、静に、 「お孫さん?……」 「ええ、女の子でござりまして。」 「まあ、私はちっとも知りません。」 「御尤《ごもっとも》でござりますとも。……まだ胎内《おなか》に居《お》ります内に、唯今の場末へ引込《ひっこ》みましてな。」 「では、私の静岡と同じだわね。それは、まあ、お楽み。」 「いえ、ところがどうして、ところがどうして。」  と頭《かぶり》を掉《ふ》って、下《おろ》して有る天秤に掴《つかま》りながら、 「大苦《おおくるし》みなわけでござりまして、貴女方と同一《おんなじ》と申すと口幅ったい、その数でもござりませんが、……稲葉家さんに、お世話になっておりますので、はい。」 「まあ、お孝さんの許《とこ》に、……ちっとも私知らなかった。」 「はい、あちらの姉さんも、あの御気象で、よく可愛がって下さいます、が、願えますものならば、貴女のお手許に、とその時も思った事でござります。いいえ、不足を言うではござりません。芸者と一概に口では云い条、貴女は、それこそれっきとした奥方様も同じ事。一人の旦那様にちゃんと操をお守りなされば、こりゃ天下一本筋の正しい道をお通りなさる、女の手本でござります。彼娘《あれ》にもな、あやからせとう存じますので。」 「飛んでもない、お孝さんこそ可い姉さん。ああでなくては不可《いけ》ません。私は何も、曲《ゆが》んだり拗《す》ねたりして、こう云うのではないんです。お爺さん、色でも恋でもない人に、立てる操は操でないのよ。……一人に買われる玩弄品《おもちゃ》です。大人の手に遊ばれる姉さま人形も同じ事。」  ふと言《ことば》絶え、嘆息《ためいき》して、 「ここで栄螺を放した方は、上の壇に栄螺が乗って、下に横にして供えられた左褄《ひだりづま》の人形を、私とは御存じないの。」  と、半ば乱れた独言《ひとりごと》、聞かせぬつもりの声が曇る。 「何も浮世でござりますよ。」  と分らぬながら身につまされて、爺さんはがっくりと蹲《しゃが》んで俯向《うつむ》き、もう一度目を引擦《ひっこす》って、 「何の真似は出来ませいでも、せめて芸ごとで、勤まるようになれば可いと存じますよ。貴女なぞは何が何でも、そこが強味でいらっしゃいます。憂さも辛さも、糸に掛けて唄っておしまいなさりまし。芸ごとも貴女ぐらいにおなりなさると、人の楽みより御自分のお気晴しになりまする。……中にも笛は御名誉で、お十二三の頃でございましたろうか、お二階でなさいますのが、私《てまえ》ども一町隣、横町裏道|寂《しん》となって、高い山から谷底に響くようでござりましたよ。」 「ピイピイ笛の麦藁《むぎわら》ですかえ、……あんな事を。」と、むら雲一重、薄衣《うすぎぬ》の晴れたように、嬉しそうに打微笑む、月の眉の気高さよ。 「あの、時分の事を思いますと、夢のようでござります。この頃でも、御近所だと時々聞かれますのでござりましょうがな。」 「可い塩梅《あんばい》。」  とやや元気に、 「幸《しあわせ》と聞えやしませんよ。……でも笛だけは、もういつも、帯につけていますけれども、箱部屋の隅へ密《そっ》として置くばかり。七年にも八年にも望まれた事はありません。世間じゃ誰も知らないのに、お爺さん、ひょんな事を言出して、何だか胸があつくなった。笛が動いて胸先へ!……嬰児《あかんぼ》のように乳に響く! いつでも口を結えられて、袋に入っているんだから。」  と命を抱《いだ》く羽織の下に、きっと手を掛けた女の心は、錦の綾《あや》に、緋総《ひぶさ》の紐、身を引きしめた朧《おぼろ》の顔に、彩《いろ》ある雲が、颯《さっ》と通る。  眉を照らして、打仰ぎ、 「……世に出て月が見たいんでしょう。……吹きはしませんよ。」  とすらりと抜いて、衝《つ》と欄干へ姿を斜めに、指白々と口に取る。  ああ、七年《ななとせ》の昔を今に、君が口紅流れしあたり。風も、貝寄せに、おくれ毛をはらはらと水が戦《そよ》ぐと、沈んだ栄螺の影も浮いて、青く澄むまで月が晴れた。と、西河岸橋、日本橋、呉服橋、鍛冶橋、数寄屋橋、松の姿の常盤橋、雲の上なる一つ橋、二十の橋は一斉に面影を霞に映す。橋の名所の橋の上。九百九十九の電燈の、大路小路に残ったのが、星を散らして玉を飾って、その横笛を鏤《ちりば》むる。  清葉は欄干に上々《こうごう》しい。  甚平は手拭を鷲掴《わしづか》みで、思わず肩を聳《そびや》かした。 「吹奏《なさり》まし、吹奏まし。何の貴女、誰《た》、誰が咎めるもので。こんな時。……不忍《しのばず》の池あたりでお聞き遊ばすばかりでございます。」 「勿体ないこと。……」  と笛を袖へ、またうつむいて悄《しお》れたのである。  河童《かっぱ》の時計の蒼《あお》い浪、幽《かすか》な水音。どぶりと一つ、……一時であろう。 [#5字下げ][#大見出し]鴛鴦《おしどり》[#大見出し終わり] [#7字下げ]四十七[#「四十七」は中見出し]  稲葉家のお孝は冷くなった、有合わせの猪口《ちょこ》を呼吸《いき》つぎに呷《ぐい》、と一口。……で、薄ら寒いか両袖を身震いして引合わせたが、肩が裂けるか、と振舞は激しく、風采《とりなり》は華奢《きゃしゃ》に見えた。  が、すっきりと笑いながら、 「それじゃ、清葉さんばかり縹緻《きりょう》がよくって、貴方は、だらしが無いんだわね。」 「まあ、そうなんだ。」と葛木は、打傾いて頬に手を置く。 「まあじゃないじゃありませんか。立派に断られたに違いない。」 「そりゃ違いない。」 「振られたのね。」 「ふられました。」 「ポーンと。」 「何もそうまで凹ますには当るまい。」 「嬉しいねえ。」  小児《こども》らしいまで胸を揺《ゆす》った、が、なぜか気が立って胸の騒ぐのを、そうして紛らしたようである。  葛木は、煙草の喫《のみ》さしを火鉢に棄てた。 「それだがね……」 「まだ負惜み?」 「ただ話さ。」  と苦笑して、 「別れに献《さ》した盃を、清葉が、ちっと仰向くように、天井に目を閉《ふさ》いで飲んだ時、世間がもう三分間、もの音を立てないで、死んでいて欲しかった。私の胸が、この心が、どうなるかそれが試して見たかったが、ドシンばたん、と云う足音。隣室《となり》の酔客《よっぱらい》が総立ちになって、寝るんだ、座敷は、なんて喚《わめ》いて、留める芸者と折重なって、こっちの襖《ふすま》へばたばたと当る。何を、と云ってね、その勢《いきおい》で、あー……開けるぞ、と思うと、清葉が、膝を支直《つきなお》して、少し反身《そりみ》で、ぴたりと圧《おさ》えて、(お客様です。)  そう、屹《きっ》として言ったんだよ。(誰だ。)と怒鳴ると、(清葉がお附き申しております。)と手に触った撥《ばち》を握って、すっと立った――芸妓《げいしゃ》のひそめく声がして、がたがたとそこらが鳴って静まったがね……私は何だか嬉しかったよ。」 「情人《いいひと》らしく扱われたような気がして? そんな負惜みをお言いなさんなよ。」軽く卓子台《ちゃぶだい》を掌《たなそこ》で当てて、 「卑怯な、男のようでもない。」 「いや、そんな意味じゃ決してないんだ。恥を秘《かく》して貰ったようでさ。不出来《ふでかし》をして女に振られた、恋の奴《やっこ》の、醜体《だらしなさ》を人目から包んでくれた気がしたから。」 「人目がどうして、そんな事ぐらい芸者が貴下《あなた》、もしかそれが旦那だったら、清葉さんはどうするだろう。……ちょいと、ここへ、もしか私の男が、出刃庖丁か抜身でも持って、蒼《あお》くなって飛込んだら、私がどうすると、貴下思ってるの? いいえ、吃驚《びっくり》する事は無い。私だってそのくらいな覚悟はしている。  大丈夫、そうすりゃ貴下の上へ、屏風に倒れて背《うしろ》になって、私が突かれる、斬られて上げるわ。何の、嫉妬《じんすけ》の刃物|三昧《ざんまい》、切尖《きっさき》が胸から背まで突通るもんですか。一人殺される内には貴下は助かる。両方|遁《に》げるから危いんだわ。ねえ、ちょいと、」  と、じりじりと膝で寄って来たが、目が覚めたように座を眗《みまわ》し、 「あら、何の話をしたんだろう、……ああ、そうそう。」  お孝は何気なく頷いて、 「清葉さんがお庇《かば》い遊ばして――まことに、お豪《えら》い芸者衆でいらっしゃいます。」 「まったく、私は、しかし、」 「しかしどうしたのさ。」 「姉に、姉の袖で抱かれた気がした。」 「葛木さん。」  そのまま衝《つつ》と膝を掛ける、と驚いて背後《うしろ》へ手を支《つ》く、葛木の痩《や》せた背《せな》に、片袖当てて裳《もすそ》を投げて、 「そんなに姉さんが恋しいの。人形のお話は、私も聞いて泣いていました。ほんとうに貴下、そんなじゃ情婦《いろ》は出来ない。口説くのは下拙《へた》だし、お金子《かね》は無さそうだし、」 「謝罪《あやま》る。」 「口説かれるのも下拙だし、気は利かないし、跋《ばつ》は合わず、機会《きっかけ》は知らず、言う事は拙《まず》し、意気地は無し、」 「堪忍したまえ。」 「から、だらしは無いけれど、ただ一つ感心なのは惚れる事。お前さん、惚れ方は巧いのね。」 「…………」 「情婦《いろ》が無くって、寂しくって、行方の知れない姉さんを尋ねるッてさ、坊主になんかならないように、私が姉さんになって上げましょう。」 「…………」 「御不足? 清葉さんでなくっては。」 「そ……そんな事は。……ああ、息が塞《ふさが》るよ。」 「死んでおしまいよ。こんな男は国土《くに》の費《ついえ》だ」 「酷《ひど》い。」  と云う時、とんと突飛ばして、すっくり立つ、と手足を残して燃ゆるように見えた。パチンと電燈を消したのである。  力の籠《こも》った、情《なさけ》の声。 「ちょいと、(サの字。)が見えなくって? サの字よ、私、葛木さん。」 「お孝さん。」  とわずかに言う。 「暗い中でも、姉さんに見えませんか、姉さんにしてくれませんか。自惚《うぬぼ》れてて? ちょいと自惚れだ、と思いますか。清葉さんでなくっては――不可《いけな》いの、不可いの。」 「真暗《まっくら》だ。私は、真暗だ。……」 「まだ、まだまだあんな事を。清葉さんでなくっちゃ、不可いの、不可いかい。」 「顔が見たい、お孝さん。」 「贅沢《ぜいたく》だよう。」  と婀娜《あだ》な声、暗中《やみ》に留南奇《とめき》がはっと立つ。衣摺《きぬずれ》の音するすると、しばらくして、隔ての襖《ふすま》に密《そ》と手を掛けた、ひらめく稲妻、輝く白金《プラチナ》、きらりと指環の小蛇を射る。 「ほんとうの、貴方の姉さんは私は知らない。清葉さんなら恐れはしない。芸でいけなきゃ、容色《きりょう》で、……容色でいけなけりゃ芸事で、皆不可なけりゃ、気で負けないわ。生命《いのち》で勝つ。葛木さん、見て頂戴。」  とすらりと開ける、と翠《みどり》の草に花の影を敷いて、霞に鴛鴦《おし》の翼が漾《ただよ》う。 「ああ、お千世は?」  と葛木が言った。それは影も見えなんだ。 「枕を持って、下階《した》の女房《おかみさん》の中へ寝に行きました、……一度でも芸者と遊んで、そのくらいな事が分らない。――さあ、ちゃんとして見て頂戴、サの字が見えない? 姉さんに肖《に》ない?……ええ、焦《じれ》ったい。」  と襖に縋《すが》って、暗い方へ退《さが》る男と、明《あかる》く浮いた枕を見交わす。 「姉さんで可愛がられるのに不足なら、妹にまけて可愛がられて上げましょう。従姉妹《いとこ》になってなかよくしましょう。許嫁《いいなずけ》でも、夫婦でも、情婦《いろ》でも、私、まけるわ、サの字だから。鬼にでも、魔にでも、蛇体にでも、何にでもなって見せてよ、芸人ですもの。」  と裳《もすそ》を揺《ゆ》って拗《す》ねたように云いながら、ふと、床の間の桜を見た時、酔った肩はぐたりとしながら、キリリと腰帯が、端正《しゃん》と緊《しま》る。 「何の、姉妹《きょうだい》になるくらい、皮肉な踊よりやさしい筈《はず》だ。」  掻巻の裾を渚《なぎさ》のごとく、電燈に爪足白く、流れて通って、花活《はないけ》のその桜の一枝、舞の構えに手に取ると、ひらりと直って、袖にうけつつ、一呼吸《ひといき》籠めた心の響、花ゆらゆらと胸へ取る。姉の記念《かたみ》にやわ劣るべき花柳の名取の上手が、思《おもい》のさす手を開きしぞや。  その枝ながら、袖を敷いた、花の霞を裳に包んで、夢の色濃き萌黄《もえぎ》の水に、鴛鴦の翼に肩を浮かせて、向うむきに潰島田。玉の緒|揺《ゆら》ぐ手柄の色。 「葛木さん。」 「…………」 「人形が寂しい事よ。」 [#5字下げ]生理学教室[#「生理学教室」は大見出し] [#7字下げ]四十八[#「四十八」は中見出し]  お孝は黒繻子《くろじゅす》の襟、雪の膚《はだ》、冷たそうな寝衣《ねまき》の装《なり》で、裾を曳《ひ》いて、階子段《はしごだん》をするすると下りると、そこに店前《みせさき》の三和土《たたき》にすっくと立った巡査に、ちょっと目礼をして、長火鉢の横手の扉《ひらき》を、すっと縁側へ出て行く。  そこが中庭になる、錦木の影の浅い濡縁で、合歓《ねむ》の花をほんのりと、一輪立膝の口に含んだのは、五月初の遅い日に、じだらくに使う房楊枝《ふさようじ》である。  その背後《うしろ》に、座敷が見えて、花は庭よりもそこに咲いて、眉の緑の年増も交る。  と、下地子《したじっこ》らしい十二三なのが、金盥《かなだらい》を置いて引返して来て、長火鉢の傍《わき》の腰窓をカタンと閉めたので、お孝の姿は見えなくなった。  とばかりで、三和土に立った警官は、お孝が降りて来た階子段を斜《ななめ》に睨《にら》んで、髯《ひげ》を捻《ひね》る事|専《もっぱら》なり。で、少時《しばらく》家中が寂然《ひっそり》する。  一体、不断は千本格子を境にして、やけな奥女中の花見ぐらい陽気な処へ、巡査と見ると騒動《さわぎ》が豪《えら》い。謹むのではない笑うので、キャッキャックックッ、各自《てんでん》があっちこっち、中には奥へ駆込んで転がるまで、胡蝶《ちょうちょう》と鸚鵡《おうむ》が笑う怪物《ばけもの》屋敷の奇観を呈する。  事の起因《おこり》を按《あん》ずるに、去年秋雨の降くらす、奥の座敷に、女ばかり総勢九人、しかも二組になって御法度の花骨牌《はながるた》。軒の玉水しとしとと鳴る時、格子戸がらり。 「御免。」と掛けた声が可恐《おそろし》く厳《いかつ》い蛮音。薩摩訛《さつまなまり》に、あれえ、と云うと、飛上るやら、くるくる舞うやら、ぺたんと坐って動けぬやら。  座敷では袂《たもと》へ忍ばす金縁の度装《どもの》の硝子《がらす》を光々さした、千鳥と云う、……女学生あがりで稲葉家第一の口上|言《いい》が、廂髪《ひさしがみ》の阿古屋《あこや》と云う覚悟をして度胸を据えて腰を据えて、もう一つ近視眼《ちかめ》を据えて、框《かまち》へ出て、はッと悪く落着いた切口上。 「別にそのでございます。相変りました事はございませんです。」と、戸籍係に立《たて》ごかしの三ツ指を極《き》めたと思え。 「羅宇《らう》が出来たけえ、……持って来たですッ。」 「何だね、羅宇屋さん、裏へお廻り。」と、婆やが水口《みずぐち》の障子で怒鳴ると、白磨竹《しろみがき》を突着けられた千鳥の前は、拷問《ごうもん》の割竹で、胸を抉《えぐ》られた体にぐなりとした。  鍋焼|饂飩《うどん》は江戸児《えどっこ》でない、多くは信州の山男と聞く。……鹿児島の猛者《もさ》が羅宇の嵌替《すげかえ》は無い図でない。しかも着ていたのが巡査の古服、――家鳴《やなり》震動|大笑《おおわらい》。  以来、戸籍|検《しら》べ、とさえ言えば、食いかけた箸を持って刎廻《はねまわ》る埒《らち》の無さ。当区域受持の警官も、稲葉家では、(笑う。)と極《き》めて、その気で髯を捻るのであったが。  今日《けさ》のは大《おおき》に勝手が違った。 「姉さんは内じゃろうで。」 「はあ、あの……」 「是非、直接に逢いたいんじゃ……取次を頼むです。」  小女《こおんな》が一度、右の千鳥女史と囁《ささや》き合って、やがて巡査の顔を見い見い、二階に寝ていたのを起した始末。笑い掛けたのは半途で圧《おさ》え、噴出《ふきだ》したのは嚥込《のみこ》んで、いやに静かな事よって如件《くだんのごとし》。  幽《かすか》な咳《しわぶき》してお孝が出た。輪曲《わが》ねて突込んだ婀娜《あだ》な伊達巻の端ばかり、袖を辷《すべ》って着流しの腰も見えないほどしなやかなものである。 「失礼をいたしました。」 「は、あんた覚えておらるるかね。」  唐突《だしぬけ》に言うのがそれで、お孝はちょっと分り兼ねつつ、黄楊《つげ》の横櫛を圧《おさ》えたのである。 [#7字下げ]四十九[#「四十九」は中見出し]  巡査は掌《てのひら》を向うへ扱《しご》いて、手袋を外して、片手に絞って、更《あらた》めて会釈する。 「ちょっと分りますまい、じゃろうがね、………先達て、三月四日の午後十二時の頃に逢うたのですが。」 「ああ、一石橋の、あの時の。」  お孝は軽く傾いていたのが屹《きっ》と見直す。 「多日《しばらく》でした、いや、その節は失敬じゃった。」 「いいえ、私こそ失礼を。」 「むむ、いささかその失礼でないこともなかったですね、ひゃッ、ひゃッ。」と壁に響くがごとき力ある笑声、笑うのに力が有って、あえて底意は無さそうである。  お孝は顔を洗ったばかりの、縁起棚より前《さき》へする挨拶とて、いつになく、もじもじして、 「ついね、お白酒の持越しで、酔っていたものですから、ほほほ。」  と莟《つぼみ》ぐらいな内端《うちわ》な声。 「お茶をよ、誰か。」 「そういう心配をされては困る。……官服の手前もある。お宅などで余り世話になっては不可《いか》んのです。……けれども、ちょっとここを拝借します。」 「さあどうぞ、……貴官《あなた》お上り遊ばしては。」 「ここで結構です。」  小女が心得て手早く座蒲団《ざぶとん》と煙草盆《たばこぼん》。 「御免下さい。」と外套《がいとう》を抱えたまま、ガチリと佩剣《はいけん》の腰を捌《さば》いて、框《かまち》の板に背後《うしろ》むきに、かしッと長靴の腰を掛ける、と帽子を脱いで仰向けにストンと置いて、 「何は、ちょいちょい来らるるかね。」と髯を捻る。 「誰方……でございますか。」 「何は、大学の国手《せんせい》は?」 「さっぱり……」と目が働いて、頬が緊《しま》る、お孝は注意深い色である。 「全然《まるで》お見えにならんですかね。」 「いいえ、時……偶《たま》。」と、膝で二つばかり掌《てのひら》を軽く合せる。 「今度お逢いでしたら、貴方《あんた》から、私《わし》に、託《ことづけ》を一つ頼まれて下さらんじゃろうかね。」 「はあ、お目に懸りました節は。――ですが、いつまたお見えになりますか。」と瞻《みまも》らるる目を外《そら》して言う。 「別に急ぐという件ではないです。――今名刺を上げます。で、私《わし》が職務としてではない。一《いつ》個人として、私一|人《にん》として、じゃね、……非常に先達ては失敬した、詫《わび》をします、と貴方《あんた》からよう言うて貰いたいのじゃ。実はそれを頼みとうて、今日は私用のみで出向いて来たです。……いやいや一石橋の事のみではないです。  実は、今週の金曜日、一昨日でした。私《わし》は非番だもんで、医科大学へ葛木さんを訪問したです。可《え》えですか。……と云うのはじゃね、先夜、あの場合、貴方が不意に出て来られて、私が疑問の的とした、不審を実際に示して、証明をされたもんで、それ以上追究は出来兼る都合で手を放した。  もっとも孰《いずれ》にせい、私《わし》が思うたほどの事件《こと》でない、とだけは了解したのじゃけれども、医学士などは、出たら目じゃろう。また、あの年配で、それが今日堂々たる最高の学府に氏名を列する一員であらるるものがじゃね、……学問上、蛙の腸や、モルモットの骨を新聞紙に包んで棄てるならば、幾分かいわれはある。それも必ずしもあるべき事実とは思わんのじゃがね。  栄螺と蛤、姉の志と云うて、雛にそなえたを汐に流す、――そんな事が。私《わし》は断じて信ぜんのじゃ。」  と今もなお且つ信じないように、渋に朱を加えた赤い顔で――信ぜんのじゃ!―― [#7字下げ]五十[#「五十」は中見出し]  巡査はそこに注《つ》いで出した茶を、喫《の》まず、じろりと見たばかり。 「事態、私《わし》も怪訝《かいが》に堪えんもんで、早急《さっきゅう》とはなしに、本郷方面へ、同僚の筋を手繰って捜《さぐ》りを入れると、葛木晋三と云う医学士はいかにもあるじゃね、そしてです、それは医科に勤めておらるるが、内科、外科、乃至《ないし》婦人科、何でもないのじゃ。大学内のその、生理学教室に居《お》って研究をされつつある……」  と真顔にお孝に打傾いて、左の手の自脈を取りつつ、 「まるでこの方には関係ない。純粋のその学者じゃとある。で、なお怪《あやし》いですわい。その晩の挙動なり、……あの余り……貴方《あんた》の前じゃけれどもが、風采の上らん、痩《や》せた、薄髯のある、背の屈《かが》んだ、こう、突くとひょろひょろっとしそうな、人に口を利くにおどおどする、初心らしい、易っぽい、容子と云うのがじゃね、  人品備わらんですじゃろうが、どうですかね、……きゃッ、きゃッ、きゃッ。」  空咳《からせ》きに咳入るごとく、肩を揺《ゆす》って高笑いをする。 「さあ、」と云ったが、ほほほ、とばかり、この際困ったという片頬笑みをして、ちょっと指先で畳をこすり状《さま》に、背後《うしろ》を向いて、も一度ほほほ、と莞爾《にっこり》すると、腰窓を覗《のぞ》いていた、島田と銀杏返《いちょうがえし》が、ふっと消える。  巡査は、すなわち髯を捻って、 「怪しいものではあるまい。後暗い事は、それは無いのじゃろう。がです……あの晩の人間は名を騙《かた》った者に相違無い、とどうしても疑われてならんもんで。好奇心にも駆らるるですわ。非常に思切って、医科大学に刺を通じて面会を求めたです。そりゃ、貴方《あんた》、通常服で、そして小倉じゃが袴《はかま》を着けて出向いたけえな。  どうか思うたが、取次いだ小使どんが、やや暫時《しばらく》あって引返して、お目に掛ろう言わるる、通れ、とあって、廊下伝い方角を教わって、そしてそれから歩行《ある》き出したがね、――私《わし》は先年この岐阜県下ですわ、飛騨《ひだ》のある山家|辺僻《へんぴ》に勤務した事があって、深い谷陰、高い崖に煙草の密造をする奴を検《しら》べに行ったのじゃね。その節、路も無い処を、いわゆる、木の根|巌角《いわかど》ですわい。時々|藤蔓《ふじづる》にぶら下って、激流の空を綱渡などしたが、いや、見当の着かぬ心細い事は、――門外漢が学校のその奥へ行く廊下伝いは、奥山を歩行《ある》くどころではなかったです。  日も西山に没して、前途なお遥《はるか》なりと云う、遠い向うの峠見たような処に、大《おおき》な扉《ドア》の戸を、細う開けて、背《うしろ》にして、すっくりと立って、こっちを出迎えておられた。峰の一本の松という姿に見えたのが、何と驚いたねえ、あの晩の少《わか》い紳士じゃ、国手《せんせい》じゃったで。  ぴたりと留まって、思わず、挙手の礼を施したですよ。常服《ふだんぎ》では可笑《おかし》いのじゃが。  すぐにこれへ、と言われて、大な扉《ドア》を入ると、ズシンと閉ったと思われい。稲妻のように、目を射られたのは、室《へや》一杯に並んだ書架に、ぎっしりと並んだ、独逸《ドイツ》語じゃろうね、原書の背皮の金文字ですわ。  暮方の空に、これがどうですか。紺地に金泥《こんでい》のごとく、尊い処へ、も一つの室《へや》には名も知れない器械が、浄玻璃《じょうはり》の鏡のように、まるで何です、人間の骨髄を透《とお》して、臓腑を射照らすかと思う、晃々《こうこう》たる光を放つ。  私《わし》は、よろよろとなったで。あの晩、国手《せんせい》が、私のために、よろよろとなられたごとくじゃ。何と、俗に云う餅屋は餅屋じゃ、職務は尊《たっと》い。」  と沈着に、腕を拱《こまぬ》く。 [#7字下げ]五十一[#「五十一」は中見出し] 「その器械と、書架の有ると、国手《せんせい》両室を占領しておらるる様子じゃねえ――傍《かたわら》には寝台《ねだい》も有ったですよ。柱の電鈴《よびりん》を圧《お》さるると、小使どんが紅茶を持って来るのじゃった……  私《わし》は卓子《テイブル》の向いに、椅子を勧められて真四角《まっしかく》に掛けたのじゃが、硝子《がらす》窓から筑波山の夕日が射《さ》して、その生理学教室を␼《ぱっ》と輝かした中に、国手の少《わか》い姿が、神々しいまでに見えた。  一応話を聞いたです。私《わし》もね、出来得る限り、行政官の一員たるその威厳を保ってからに。しかし、決して警官として訊問《じんもん》をするではありません。すでに一石橋当夜の紳士と、生理学教室における国手とが同一人である事を確めた上は、些少《さしょう》たりとも犯罪に対して何等その疑いは無いのでありますが、お話のごとき事が事実有り得るものかどうか、後学のため、一種人情に対する警官の経験の為に、云うて、その室で飾ると云われた、雛を見せて貰うたです。  国手、一個の書架《しょだな》の抽斗《ひきだし》、それには小説、伝奇の類が大分|帙《ちつ》を揃えて置かれた――中から、金唐革《きんからかわ》の手箱を、二個出して、それを開けると無造作に、莞爾々々《にこにこ》しながら卓子の上に並べられた。一銭雛《いちもんびな》じゃね、土人形五個なのです。が、白い手飾《カフス》の、あの綺麗な手で扱われると、数千の操糸を掛けたより、もっと微妙な、繊細な、人間のこの、あらゆる神経が、右の、厳粛な、緻密《ちみつ》な、雄大な、神聖な器械の種々から、清い、涼《すずし》い、芬《ぷん》と薬の香のする室《へや》の空間《あきま》を顫動《せんどう》させつつ伝《つたわ》って、雛の全身に颯《さっ》と流込むように、その一個々々が活きて見える……  就中《なかんずく》、丈、約七寸|許《ばかり》の美しい女の、袖には桜の枝をのせて、ちょっとうつむいた、慄然《ぞっと》するような[#「ような」は底本では「やうな」]、京人形。……髪は、」  と言い掛けて、お孝の姿を更めて視《み》て、 「貴方《あんた》、貴方のその髪と同一に髪を結うた人形じゃがね。」  お孝は俯向《うつむ》いて、しゃんと手を支《つ》く。 「それは何と云う髪の結びかたですかね。」 「潰《つぶし》……」 「はあ?……何ですかね、覚えて置くで失礼します。」と、手帳を出す。  お孝の上げた顔は、颯《さっ》と瞼《まぶた》が染ったのである。 「あの、潰島田でございます、お人形さんの方は結構でしょうけれども、これはまことにその潰しの利きませんお恥しいんですよ。」 「いいえ、潰しなんかきかんで可《え》えです。貴方《あんた》はすでに葛木さんの。」  隅の階子段《はしごだん》を視《み》て空ざまに髯を扱《しご》いた。見よ、下なる壁に、あの羆《ひぐま》の毛皮、大《おおい》なる筒袖の、抱着いたごとく膠頽《べたり》として掛りたるを――  巡査は心付いた目をお孝に返して、 「貴方《あんた》、大抵の事は、ここで饒舌《しゃべ》って可えですか。ある種の談話は憚《はばか》らんでも構わんですかい。」 「ええええ、」  と懐を広く、一膝《ひとひざ》出ながら、 「ちっとも……お気に入りましたら、私をすぐ、お口説きなすっても構いませんの。」 「きゃッきゃッきゃッ。葛木さんの奥さん。どないしてかい?……」 「まあ、そんな事こそ、先方《さき》さまが御迷惑です。」 「いや、しかし、その積りで出向いて来たで。」 「羽織を。寒い。……そして私にも煙草をおくれな。」 [#5字下げ]美挙[#「美挙」は大見出し] [#7字下げ]五十二[#「五十二」は中見出し] 「さあ……何の話じゃったかね、そこで。」 「貴方《あなた》、その潰島田に結ったお人形さんですわ。」 「さよう、……就中《なかんずく》、それが、葛木さんの目と一所にぱちばちと瞬きするじゃね、――声を曇らして、姉と云う御婦人の事も言われた――  私《わし》は別世間を見たです。異った宇宙を見たです。新しい世の中を発見してむしろ驚異の念に打たれた。……吃驚《びっくり》したんじゃね、何の事はない。  かつて、その岐阜県の僻土《へきど》、辺鄙《へんぴ》に居た頃じゃったね。三国峠を越す時です。只今、狼に食われたという女の検察をしたがね、……薄暮《うすぐれ》です。日帰りに山家から麓《ふもと》の里へ通う機織《はたおり》の女工が七人づれ、可《え》えですか。……峠をもう一息で越そうという時、下駄の端緒《はなお》が切れて、一足後れた女が一人キャッと云う。先へ立った連の六人が、ひょいと見ると、手にも足にも十四五疋の、狼で蔽被《おおいかぶ》さった。――身体はまるで蜂の巣ですわ。  私は反対の方から上《のぼ》りかかったんでね。峠から駆下りて来た郵便脚夫が一人、(旦那、女が狼に食われております。)と云い棄てて、すたすた行《ゆ》きおる。――あとで、その顔を覚えとったで、(なぜ通りかかって助けんかい。)……叱った処で、在郷軍人でもなし仕方が無い。そういう事も現在見た。  また、山の中に、山猫と云うのが居る、形はかつて見せん。見たものは無いと云うです。ただ深更に及んでその啼声《なきごえ》じゃね、これを聞くと百獣|悉《ことごと》く声を潜むる。鳥が塒《ねぐら》で騒ぐ。昔の猅々《ひひ》じゃと云う。非常に淫猥《いんわい》な獣《けもの》じゃそうでね、下宿した百姓の娘などは、その声を聞くと震えるですわい、――現在私も、それは知っとる。  炭焼の奴が、女を焼いて食った事件もある。  そういう事は知っとるが、趣味と情愛の見聞が少かったためじゃろうか、医学士が生理学教室で、雛を祭る、と云うは信じなかった。――吹く風はなこその関と思えどもですわ。」  と嘆息《ためいき》して、髯に掛けた指を忘れた。 「鎧《よろい》の袖に桜のちらちらとかかると云う趣も、私のその了簡《りょうけん》では嘘にせねばならんのじゃっけえ。  恥入るです――一《いつ》個人としてじゃが。」  巡査は、ずるりと靴をずらして、佩剣《はいけん》の鞘手《つか》に居直ったのである。 「で、国手《せんせい》に大《おおい》に謝そうと思う処へ、五六人、学生とは覚えない、年配の、堂々たる同僚らしいのが一斉に入ってござったで、機《おり》を考えて、それなりに帰ったです。  この意をじゃね、願わくは貴方《あんた》から国手にお伝えのほどを偏《ひとえ》に希望します。私は職務上の過失であらば責《せめ》を負うです。それは別問題として、――私は、貴方から御挨拶を願うのが、もっともその道を得たものと信ずるのじゃ。  就てはです。私《わし》は没分暁漢《わからずや》の一巡査であるが、生理学教室に雛を祭ることにおいて、一石橋の朧月《おぼろづき》一片の情趣を会得した甲斐に、緋緘《ひおどし》の鎧の袖に山桜の意気の羨《うらやま》しさに堪えんで。  十年勤務の間、唯一の美挙として、貴方《あんた》に差上げたいものがある。  ……奥さん。」 「…………」 「言うても構いませんな、奥さん。」 「嬉しいんですよ。」  と声が迫って、涙が美しく輝いた。 「一生に一度ですわ。」 「葛木の奥さん、……学位年齢姓名と並べて、(同じく妻《さい》。)と認《したた》めた手帳の一枚です、お受取り下さい。」  出すのを取って、熟《じっ》と俯向《うつむ》く、……潰島田の、水浅黄の手柄のはらはらと揺《ゆす》るるを視《み》ながら、冷めた茶碗を不器用な手つきで、取って陰気に一口、かぶりと呑むと、ガチリと立って挙手したきり、ただの巡査になって格子を出た。  この巡査が、本郷を訪問した時の光景は、彼がここに物語った通りであった。それさえ、神境に白き菊に水あるごとき言うべからざる科学の威厳と情緒《じょうしょ》の幽玄に打たれたのに――やがて仔細《しさい》有って、この日の午後、赤熊の毛皮をそのまま、爪を磨ぎ、牙を噛《か》んで、喘《あえ》ぐ猛獣のごとくになって、生理学教室へ、日本橋から本郷を一飛びに躍り込んだ……海産商会の五十嵐伝吾は、それはまた思いの外意気地の無いものであった。――  大学の廊下を人立《じんりつ》して、のさのさと推寄《おしよ》せた伝吾が、小使に導かれて、生理学教室の扉《ドア》に臨んだ時、呀《や》、恋の敵《かたき》の葛木は、籐《とう》の肱《ひじ》つき椅子に柔く腕を投げて、仰向けに長くなって、寝ながら巻莨《まきたばこ》を喫《の》んでいた。……が、客|来《きた》る、と無造作に身を起して、カタリと大床に靴を据えた。その音さえ、谺《こだま》するまで、高い天井、大空に科学の神あって彼を守護するごとくであるのに、かてて加えた学友が、五人の数、彼を取巻いて、あたかも迷宮の奇《くし》き灰色の柱のごとく、すくすくと居合わせたのが、希有《けう》な侵入者を見ると、一斉に伝吾に瞳を向けた。知らずや、その中《うち》に一人外科の俊才で、渾名《あだな》を梟《ふくろう》と云う……顔が似たのではない。いかもの食《ぐい》の大腕白、かねて御殿山の梟を生捕って、雑巾に包《くる》んで、暖炉にくべて丸蒸を試みてから名が響く、猫を刻んでおしゃます鍋、モルモットの附焼、いささか苦いのは、試験用の蛙《かわず》の油揚だと云う、古今の豪傑、千場彦七君が真黒《まっくろ》な服を着けて、高い鼻に、度の強いぎらぎらと輝く眼《まなこ》で、ござんなれ、好下品《おさかな》、羆《ひぐま》の皮をじろりと視て、頭から塩を附けたそうにニヤリと笑った。――この威にや恐れけん。  伝吾は扉《ドア》の敷居口に、へたへたと腰を抜くと、羆の筒袖の前脚めいたやつを、もさりと支《つ》いて、土下座して、 「途惑《とまどい》をいたしまして。」  とばかり、口も利き得ず、すごすごと逡巡《しりごみ》して帰ったのである。  仔細は云うまでもない。……大概様子でも知れよう。前夜から、稲葉家へ泊り込んだのが、その二階を去らず、お孝に愛想づかしをされて突出されたのであった。  却説《さて》……巡査が格子戸を出ると、やがて××署在勤笠原信八郎とある名刺にのせた、(同妻《おなじくつま》。)を熟《じっ》と視ていた、稲葉家のお孝は、片手の長煙管をばたりと落して、すっと立つと、頂いて、長火鉢の向う正面なる、朝燈明の清く輝く、縁起棚の端に上《のぼ》せた、が、黙って伏拝んで、座蒲団に居直った時、眉を上げつつ流眄《ながしめ》に、壁なる羆の毛皮を見た。 「千世《ちい》ちゃんは?」  煙草盆を引きながら少女《ちび》が、 「お稽古ですの。」 「春子さん、夏次さん、千鳥さん、萩代さん、居なさるかい。皆ちょいと来ておくれと、そうお言い。……私、話したい事がある。」 [#5字下げ][#大見出し]怨霊比羅《おんりょうびら》[#大見出し終わり] [#7字下げ]五十三[#「五十三」は中見出し] [#ここから3字下げ] ――「露地の細路、駒下駄で。」―― [#ここで字下げ終わり]  カタカタと鳴る吾妻下駄、お竹蔵|向《むこう》の露地を、突袖して我家へ帰る、お孝の褄《つま》は、幻の夜《よ》が深かった。 「姉さん。姉さん。」  と呼ぶ、可愛い声。  一時《ひとしきり》、芸者の数が有余ったため、隣家《となり》の平屋を出城にして、桔梗《ききょう》、刈萱《かるかや》、女郎花《おみなえし》、垣の結目《ゆいめ》も玉章《たまずさ》で、乱杙《らんぐい》逆茂木《さかもぎ》取廻し、本城の欄《てすり》の青簾《あおすだれ》は、枝葉の繁る二階を見せたが、近頃いわれあって世帯を詰めて、稲荷様向うの一軒につづめたので、隣家はあたかも空屋である。  そこまで戻ると、我家の格子戸前の木戸を細めに開けて、差覗《さしのぞ》く島田を見た。 「千世ちゃんかい。」  お孝は、ずっと来て、年上の女の落着いた声を沈めて、 「どうおしなの、お前さんもう寝ていたんじゃないのかい。」 「ええ、寝ていたんですけれど、私、国手《せんせい》がお帰んなさるのを、姉さんが送って出て、この木戸で、何だか話していらっしゃるのが寂しく聞えて、知っていたんですよ。カタカタと足音がして出ておいでなさいますから、あの、じゃ露地口までお送りなすったんだ、そう思っていましたけれど、それにしてはあんまり遅いんですもの。  いつまでも、お帰んなさいませんし、それだし、あの、一度お寝《よ》ったんですから、姉さんは寝衣《ねまき》でしょうのに、どうなすったしら[#「なすったしら」はママ]。……私、心配で……ここまで起きて来て、あの、通《とおり》へ出て見ようと思ったんですけれど、可恐《こわ》いでしょう。……それですから、あの、ここにつかまって震えていましたの。」 「何だねえ、そんな弱虫が、それじゃ、来てくれたって何にもなりゃしないじゃないか。」  と口では笑いながら、嬉しい目で。その癖もの案じの眉が顰《ひそ》む。……軒の柳に靄《もや》の有る、瓦斯《がす》ほの暗き五月闇《さつきやみ》。浅黄の襟に頬白う、………また雨催《あめもよい》の五位鷺が啼《な》くのに、内へも入らず、お孝は彳《たたず》む。 「どうかしたの、姉さん。」 「いいえ、どうもしやしないがね、私ね、どうしようかと思っているんだよ。千世ちゃん、ちょっとここへ来て御覧。」 「はあ。」と、お千世は何の気なし、木戸を内へギイと引く。 「静《しずか》によ、誰か目を覚すと面倒だから。」 「あい……何、姉さん。」 「ちょっと、木戸のこの柱に、こんなものが貼って有るだろう。」  お千世は、薄気味悪そうに、お孝の袂《たもと》に掴《つか》まりながら、直ぐ目の前なを、爪立って覗くように、と見ると、比羅紙《びらがみ》の、およそ二枚|凧《だこ》ぐらいな大きさの真中《まんなか》にぼつりぼつりと筆太に、南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》、と書いたのが、じめじめとして、さながら、水から這上った流灌頂《ながれかんちょう》のごとく、朦朧《もうろう》として陰気に見える。 「可厭《いや》、姉さん、何? ちょいと。」  お千世は息を切って震え声。 「性が知れてるからちっとも気味の悪いことは無いんだよ。  お聞き、前刻《さっき》、国手《せんせい》が来なさりがけに、露地口を入ろうとして、ふっと、そら、そこの松家さんの羽目板を見なさるとね、この紙が、ちょうど、入口の取着《とッつ》きの処に貼りつけて有ったとさ。  巻煙草を買うのだっけ、とその拍子に気が付いて、表の小母さんの許《とこ》へ行ったんだそうだけれど、もう寝ていたんだって。  今夜は、来ようが遅かったわねえ。」 [#7字下げ]五十四[#「五十四」は中見出し] 「国手《せんせい》はね、それから仲通まで買いに行ったんだとさ。……そしてねえ、一本|喫《ふ》かしながら入って来ると、見たばかりで、もう忘れていたくらいだったのが、またふっと気が付いて、ああ、ここに有ったっけと、お思いの、それがお前、前の処には無くってさ。同じ羽目板だけれども、足数七八つ、二間ばかり奥へ入った処に、仇白《あだじろ》くなって字が見える、………紙が歩行《ある》いた勘定だわねえ。」 「姉さん。」 「可恐《こわ》くはないんだってばさ、この娘《こ》は。」  とお千世の肩を抱込んで、 「何かお禁厭《まじない》ででもあるかいッて、国手がね、内で私にお話しなの。……何でしょう、月日も、堂|寺《てら》も記《か》いてなければ、お開帳の広告でもなかろうし、別に、そんなお禁厭が有るッてことも聞きません。変ですね、……そう云っていたんだがね。  お帰りなさるのを、框《かまち》まで見送った時、私何だか気になってね、行って見ましょうよッて、下駄を突掛《つッか》けて出ようとすると、(お止し、密《そっ》とあんなものを貼って置いて、それを見たものに、肺病か何か当の病人から譲渡《ゆずりわた》して、荷を下そうなんのって、よくあるこった。……お前は女だから神経を起すと不可《いけな》い、私は工面の悪い藪《やぶ》のかわりにゃ、大地震の前兆だって細露地を抜けるのは気にならないから。)  串戯《じょうだん》半分そう言って、国手は平気なんだけれどもね。もしか禁厭ならどうしよう、(貴方は担がないでも、荷を見せて可《い》いもんですかってさ、……災難ならせめて半分、私が背負《しょ》いましょうよ。)とばたすた急いで格子をついて出ると、お前何んだろう……  そらここへ来ているのさ。  羽目を伝わって、木戸へおいでなすったんだわ。私も慄然《ぞっ》と総毛だった。  はてな、字が殖《ふ》えて妙な事が書いてある。前刻《さっき》見たのは念仏ばかりで、こんなものは無かったって、御覧。」  と云う、南無阿弥陀仏の両傍《りょうわき》に、あいあい傘の楽書のように、(となえろとなえろとなえろとなえろ、)と蛞蝓《なめくじ》のごとくのたくり廻る。 「国手がね、(何だ、浄土か真宗にも、救世軍が出来たんじゃないか、)って笑ったけれどね、……私はドキリとしたんだよ。仮名の形を一目見ると分った。お念仏を(唱えろ唱えろ。)――覚悟をしろ――ッて謎じゃないか。こりゃ、お前、赤熊の為業《しわざ》だあね、あの、鰊《にしん》野郎の。」 「まあ、熊兄さん。」 「止しておくれ。」  はたはたと袖を払《はた》いて、 「身ぶるいがする。いつかお巡査《おまわり》さんの来なすった朝、覚悟が有って長棹《ながざお》に掛けてから門傍《かどばた》へも寄せつけない。それを怨んで、未練も有って、穴から出たり入ったり、ここいらつけ廻しているに違いない。何の男のようでもない。のッそりの蝦夷《アイヌ》なんか、私は何とも思わない。悪く形でも顕《あらわ》して見たが可《い》い。象牙の撥《ばち》があるものを、払《はた》き殺しても事は済む。――国手の身のまわりをつけ廻されるんだと、ね、千世ちゃんや、姉さんは本当に案じられる。  角の紀田屋《きだや》まで送って行って、車をそう云って帰して来たがね、獣は駆けるのが疾《はや》いやね、車にも乗れば乗るだろう。――泊めたかったが、お肯《き》きでなし、……」  とお孝は独言《ひとりごと》のように云って、 「途中で、またそうでもない、新聞にお名前の出るような事なんぞ無ければ可いが、」  と気を揉む頬の後毛《おくれげ》は、寝みだれてなお美しい、柳の糸より優しいのである。 「姉さん。」  お千世が顔を覗いて、 「縁起棚へお燈明をあげて、そしてお祈をしましょうよ。私も拝みますわ。」 「嬉しい娘《こ》だね。」  と頬摺《ほおずり》したが、襟を合せて凜《りん》として、 「お待ち、私、考えた。……お稲荷様へお百度を上げよう。」  とて見返る祠《ほこら》は、瓦斯燈の靄《もや》を曳《ひ》いて、空地に蓮《はす》の花の紅《あか》いがごとく、池があるかと浮いて見える。 「数取りにはね。」  と云うより早く、ぴりぴりと比羅紙を引剥《ひきは》がす…… 「これを裂いて紙捻《こより》にしようよ、――人を呪わば穴二つさ。見たが可い。」  気の立ったお孝は、褄を引上ぐるより前《さき》に、雨霽《あめあがり》の露地へ、ぴたと脱いだ、雪の素足。  意気地《いきじ》も張も葉がくれの闇《やみ》に、男を思うあわれさよ。鶴を折る手と、中指に、白金《プラチナ》の白蛇《はくだ》輝く手と、合せた膝に、三筋五筋|観世捻《かんぜより》、柳の糸に、もつれ縺《もつ》るる、鼓の緒にも染めてまし。  あわれ、かかる時は、あすの逢瀬を楽みに、帰途《かえり》を案ずるも心ゆかし、寐《ね》られぬ夜半《よわ》の待人掛ける、小さな犬も拵《こしら》え交ぜて、お千世に背《せな》打たれて微笑みもしたが。  柳の葉の散る頃は、――続いて冬枯の二日月、鬢櫛《びんぐし》の折れたる時は―― [#5字下げ][#大見出し]一口《ひとふり》か一挺か[#大見出し終わり] [#7字下げ]五十五[#「五十五」は中見出し] [#ここから3字下げ] ――「露地の細路駒下駄で。」―― [#ここで字下げ終わり]  男が口の裡《うち》で、フト唄って、 「不可《いか》んぞ、これは心細い。」と、苦笑いをしながら立直って、素直《まっすぐ》に杖《ステッキ》を支《つ》くと、そのまま渡り掛けたのは一石橋。月はないが、秋あかるく、銀河の青い夜の事。それは葛木晋三である。  露地に吾妻下駄カタカタの婀娜《あだ》な女と因縁のある、唄の意味も心細いが、お孝が投遣りに唄うのは、勝気と胆勇を示すものと云って可《い》い。その口癖がつい乗った男の方は、虚気《うつけ》と惑溺《わくでき》を顕《あらわ》すものと、心付いた苦笑《にがわらい》も、大道さなか橋の上。思出し笑《わらい》と大差は無いので、これは国手《せんせい》我身ながら(心細い。)に相違ない。  その虚に憑入《つけい》る、魔はこんな時に魅《さ》す、とある。  今、橋の上を欄干に添って、日本銀行の方へ半ば渡り掛けると、橋詰の、あの一石餅の、早や門《かど》を鎖《とざ》した軒下に、大《おおき》な立ん坊の迷児《まいご》のごとく蹲《うずくま》っていた男がむらむらと立つと、ざわざわと毛の音を立てて、鼻息を前にハッハッ獣《けだもの》の呼吸《いき》づかい。葛木の背後《うしろ》に迫って、のそっと前へ廻ると、両手を掉《ふ》った不器用な、意気地の無い叩頭《おじぎ》をして、がくりと腰を折って、 「国手《せんせい》、お願い!」  と喘《あえ》いで云う。  はっと一歩《ひとあし》あとに退《の》いて、立停《たちどま》って、見透《みすか》して、 「何だ、何ですか。」  彼の影の黒く大なるに対して、葛木の手のカウスは白く、杖《ステッキ》は細かった。 「直訴であります。国手。」 「直訴とは……?」 「直訴とは、……直訴とは、切、切羽詰ったですで、生命《いのち》がけで、歎願をするですで。貴方《あんた》を将軍家だ思うて、橋から青竹を差出します。俺は佐倉宗五ですのだで、ええ。この願《ねがい》を聞届け遣わされりゃ、殺されても、俺、礫《はりつけ》になっても可《え》えのですだで。国手。」 「何です。……唐突《だしぬけ》に、と云うんだけれども、私はお前さんを知っています。また、お前さんも知らないとは言わせますまい。そしてお頼みと云うのは何です。」 「国手、御診察が願いてえだな。」  と、粗雑《ぞんざい》に太く云った。が、口覚えに練習した、腹案の口上が中途で切れて、思わず地声を出したらしい。……で、頭を下げて赤熊は橋の上に蹲る。  四五分では、話のけりは着《つか》ないと覚ったろう。葛木は巻煙草を点《つ》けた。燃えさしの燐寸《マッチ》をト棄てようとして水に翳《かざ》すと、ちらちらと流れる水面の、他《よそ》の点燈《ともしび》に色を分けて、雛《ひな》の松明《たいまつ》のごとく、軸白く桃色に、輝いた時、彼はそこに、姉を思った。潰島田の人形を思った、栄螺《さざえ》と蛤《はまぐり》を思った、吸口の紅を思って、火を投げるに忍びなくって、――橋に棄てた。  これと斉《ひと》しく、どろんとしつつも血走った眼《まなこ》を、白眼勝に仰向いて、赤熊の筒袖の皮|擦《ず》れ、毛の落ち、処々《ところどころ》、大《おおい》なる斑《まだら》をなした蝦蟇《がま》のごときものの、ぎろぎろと睨《にら》むを見たのである。  が同時にまた、思出の多いここの頼母《たのも》しさを感じて、葛木は背後《うしろ》に活路を求めるのを忘れつつ、橋の欄干に、ひた、とその背《せな》を凭《もた》せた。 [#7字下げ]五十六[#「五十六」は中見出し]  葛木は従容《しょうよう》として云った。 「お前さん、診察が頼みたい?……そうすりゃ死んでも可い。そんな解らない謎見たいな事を言わないで、判然《はっきり》と、石か、瓦か、当って砕けたら可いじゃないか。私も診察なら病院へ来たまえなどと廻りくどいことは言わないから。」 「実際、願いたい次第でして。就てはで、御覧の通り、着のみ着のままだ云ううちにも、擦切れた獣《けもの》の皮一枚だ、国手《せんせい》。雨露|凌《しの》ぐ軒はまだしも、堂|社《やしろ》の縁の下、石材《いし》や、材木と一所にのたっている宿なし同然な身の上だで、御挨拶も手続も何も出来ねえですで、そこでもって直訴だでね、生命がけで願《ねげ》えてえだな。」 「本当の診察なら、私は不可《いけな》い。まるで脈を一つ採ったことの無い、自分の風邪をひいたのには葛根湯《かっこんとう》を飲んで、それで治る医者なんだ。こっちも謎のようなことを云うんじゃない。事実だよ。診察は、から駄目なんだよ。」 「決《け》してそれは脈を取って貰うには当らんです。で、ただ国手の口一つだなあ。」 「口一つかね。」 「そうですわ。」 「どうするんですか。」 「四の五の無いで、ただ一言、(お孝に切れる。)云うて下さりゃ可いですのだい。」 「大方そんな事だろうと思ったよ、……この診察は当ったな。」  葛木は莞爾《にっこり》しながら、 「折角だ、が、君、頼まれないよ。」 「何で頼まれん、何で。ありゃ俺の生命《いのち》ですが。」 「私の生命かも分らんのだ。」 「俺の女房《にょうぼ》だ事、知らんのかい。」 「私は芸者だと思っているがね。」 「何でも可《え》い。」  とドス声で忙込《せきこ》みながら、 「すっぱり切れてくれ、頼むだでな。」 「女に言え、女に、……先方《さき》で切れればそれ迄よ。人に掛合われて、自分の情婦《いろ》を、退《の》くも引くもあるものか。」 「……自分の情婦《いろ》。……ええ堪《たま》らん、俺の前でお孝の事を。……うう、筋が引釣《ひッつ》る、身体が震える。  生命とも、女房とも思う女を引奪《ひったく》られた恋の敵《かたき》に、俺の口から切れてくれ頼むと云うは、これ、よくよくの事だ思わんですだか。  女に云うて肯《き》く程なら、遠くから影を見ても、上衣《うわっぱり》の熊の毛まですくすく立つお前《ま》んに、誰《た》、誰が頼む、考えんかい。」 「私も同じことを言いたいな。女が肯かないほどのものを、男が掛合われて引退《ひきさが》る奴がありそうな事だと思うのかい。」 「俺を人間だと思うか、国手。」  赤熊はすっくと立った。 「悪魔だ、鬼だ、狂人《きちがい》だ、虎だ、狼だ。……為にならんぞ!」 「ああ、その上にまた熊でも可いよ。」 「汝《うぬっ》!」  葛木は欄干に杖《ステッキ》を倒して、柔《やわらか》に手を払《はた》いた。 「刃物を持ってるか。」 「むむ、持たんことがあるもんだか。」 「二口《ふたふり》あるか、二|挺《ちょう》持ってるか。」 「どうするだい。」 「一口《ひとふり》渡せ、一挺貸せ。――持たんのか。一本しかない刃物なら、暗撃《やみうち》にしろ。離れて狙え。遠くから打て。前に廻って、名告《なのり》掛けて、生命の与奪《やりとり》をすると云うに、敵《かたき》の得ものを用意しない奴があるものか、はははは、馬鹿だな。」 [#5字下げ]艸冠[#「艸冠」は大見出し] [#7字下げ]五十七[#「五十七」は中見出し] 「ああ、言わっしゃる。」  赤熊は身構《みがまえ》、口吻《くちぶり》、さて、急に七つ八つ年を取ったように老実《じみ》に力なく言うのであった。 「今言わしゃったは度胸でないで。胆玉《きもだま》でないですだ。学問の力だ。国手《せんせい》の見識ですわい。  詫入《あやま》りますで、はい。  もとより将軍様に直訴する云うたほどですで、はじめから国手の身体に向うて手を挙ぎょうとは思わんのですれど、ものは発奮《はずみ》だで、赫《かっ》としたでな。そりゃ刃物|措《お》け、棒切一本持たいでも、北海道|釧路《くしろ》の荒土を捏《こ》ねた腕だで、この拳《こぶし》一つでな、頭《どたま》ア胴へ滅込《めりこ》まそうと、……ひょいと抱上げて、ドブンと川に溺《は》める事の造作ないも知ったれども、そりゃ、あれを見ぬ前だ。  あれよ、……あの、大学校の大教室《でっけえへや》に、椅子で煙草を喫《の》んでござった、人間離れのした神々しい豪《えら》い処を見ぬ前だで――あれを見た目にゃ、こんなその、土竜《むぐら》見たようになってしもうた俺が手で、危いことするは余り可惜《あったら》ものだ思う気が、ふいと起ってどうにも出来ねえのですのだで。  それともに、な、国手、お前《ま》んの生命を掻払《かっぱら》いさえすりゃ、お孝との捩《より》が戻って、早い話が旧々《もともと》通り言うことを肯いて、女が自由になる見込さえあればですだ、それこそ、お前んが国手でも、神でも、仏でも、容赦する気は微塵《みじん》も無いだ。  無いだ。が、お前んに逢って、機嫌の悪い事でもあった日には、家中に八ツ当りで、十言《とこと》云うことに、一口も口を利かぬ。愚に返った苦労女《くろうと》をどうするだね。お前んの身に異常がありゃ、女も一所に死ぬですだろうで、……そうなればどうなるですだい。  国手、俺は、あの女は生命より大事ですで、死のうにも死に切れん。生きとるにも生きとられん。  国手、顔を見られないくらいなら、姿だけも見るが可えし、姿さえ見られんなら声ばかりも聞くが増だし、その声さえも聞かれないなら、跫音《あしおと》でも聞いていたい。その跫音にすらすらと衣服《きもの》の触る音でもしょうなら、魂に綱をつけて、ずるずる引摺《ひきず》り引廻《ひんまわ》されて、胸を引掻《ひっか》いて、のた打廻るだ。  お前ん、誰《たれ》も知るまいし、また知らせるようにもせんですだが、俺はお前ん、二階から突出されて、お孝の内に出入《ではい》りが出来なくなってからは、天に階子《はしご》掛けるように逆《のぼ》せ上って、極道、滅茶《めっちゃ》苦茶、死物狂いで、潰れかけた商会は煙《けむ》にする、それがために媽々《かかあ》は死ぬ。」 「女房《かみさん》が――死んだ。」と、学士は鋭く口早に言返す。 「二歳《ふたつ》になった小児《こども》は棄てる。」 「…………」 「木賃泊りの天井裏に、昼は内に潜って、夜《よ》になると、雨でも、風でも、稲葉屋の周囲《ぐるり》を、胡乱《うろ》つき廻って、稲荷さんの空地に蹲《しゃが》んでもいりゃ、突当りの黒塀に附着《くッつ》いて立明《たちあか》す……そうして声を聞く、もの音を考えるですだい。  過日来《いつかじゅう》から、隣の家が空いたですで、この頃では、大概毎晩、あの空屋で寝ているですだ。」 「空屋でかい。」  と、驚いて云う。 「国手、お前んはまた毎晩のように、蛇が蟠《とぐろ》を巻いておる上で、お孝といちゃついてござる勘定だ。  が、俺の方は、おっけ晴《ば》れて、許して縁の下へ入れて置いて貰う方が、隠忍んで隣の空屋に潜るよりかも希望《のぞみ》ですだ。」  襟の辺《あたり》を引掻くと、爪を銜《くわ》える子供のように、含羞《はにか》む体に、ニヤリとした、が、そのまま、何を噛むか、むしゃむしゃと口舐《くちなめ》ずる。 [#7字下げ]五十八[#「五十八」は中見出し] 「まだ慾《よく》の言えば、お前《ま》んとお孝と対向《さしむかい》で、一猪口《ひとちょこ》飲《や》る処をですだ、敷居の外からでも可《え》い、見ていたいものですだ。  お孝を俳優《やくしゃ》で、舞台だ思えば、何としていられても、顔を見て声を聞く方が、木戸に立って考えとるより増だからな。」  俯向《うつむ》いて半ば泣き、 「嫉《ねた》み猜《そね》みは、まだこうまで惚れない内だと考えるで。  初手はね、お前ん、喧嘩した事も、威《おど》した事もあるですだい。  現に国手《せんせい》、お前んの大学病院の何とか教室へ俺が推掛《おしか》けて、偉い人たちに吃驚《びっくり》して遁《に》げて返った、あの朝ですだ。忘れんですがい。――稲葉家の格子へ巡査が来て、お孝にお前んの身の上|話《はな》いて、――何が嬉しい、……俺は二階で聞いて胆魂《きもたま》が煮《にえ》くり返るに、きゃっきゃっきゃっきゃっと笑うて、情事《いろごと》の免許状ようなものを渡いて帰った。お孝が、直ぐに内中の芸者を茶の室《ま》へ集めて、ですだな、国手。 (私は今日からおかみさん、そう思って附合っておくれ。そのかわり、私もその気で附合うから、借金なんか、まけて欲しい人には直ぐに目の前で帳消しに棒を引きますよ。)――だ、お前ん。  その勢《いきおい》で二階へ帰って来ると、まだ顔も洗わんでおる俺を捉《とら》まえて、さあ、突然《いきなり》帰っておくれですだ。……芸者なら旦那が有ろうが、何が来ていようが構わない。それが可厭《いや》ならお止しだけれど、極《きま》った人が出来た上は、片時も、寝衣《ねまき》で胡坐《あぐら》かいた獣なんぞ、備前焼の置物だって身のまわり六尺四方は愚《おろか》なこと、一つ内へは置けないから、即座《いま》帰れ。……云うて生真面目《きまじめ》ですがい。  俺、はじめは笑ったです。が、怒ったですだ。愚痴言うた。……頼みもしたですのだ。  耳にも入れいで、(汚らわしい、こんな物を。)お前ん、お孝が蒲団を取って向うへ刎《は》ねると、その時ですわい。かねて国手の事を俺|嗅《か》ぎつけて知っとったで、お孝を威しつけてくりょうとな、前の夜さり、懐中《ふところ》に秘《かく》いておったですれども、顔を見ると、だらけて、はや、腑《ふ》が抜けて、そのまんま、蒲団の下へ突込《つッこ》んで置いた、白鞘《しらさや》の短刀が転がって出たですが。  お孝が見たでな。天道時節ここだ思うて、(阿魔《あま》覚悟があるぞ!)睨《にら》んだですだ。ばたばたとお孝が立つで、占めた、遁《に》げる、恐れたぞ。俺が勝った、と乗掛って、階子段《はしごだん》の下口《おりくち》で捉《とら》まえたは可かったですれど、どうですかい。  お孝は遁げたでないですが。……あの階子は取外しが出来るだでね、お孝が自分でドンと突いて、向うの壁へ階子をば突《つッ》ぱずしたもんですだ。(短刀をお抜き、さあ、お殺し、殺しように註文がある。切っちゃ不可《いけな》い、十の字を二つ両方へ艸冠《くさかんむり》とやらに曰《いわく》をかいて。)とお前ん、……葛木と云う字に、突いて殺せ。(名まで辛抱は出来まいが、一字や二字は堪《こら》えて見せよう。さあ早く。)と洞爺湖《どうやこ》の雪よか真白《まっしろ》な肌を脱いで、背筋のつるつると朝日で溶けて、露の滴《た》りそうな生々《なまなま》としたやつを、水浅黄ちらめかいて、柔《やわ》りと背向《うしろむ》きに突着けたですだで。  豊艶《ふっくら》と覗《のぞ》いた乳首《ちちくび》が白い蛇の首に見えて、むらむらと鱗《うろこ》も透く、あの指の、あの白金《プラチナ》が、そのまま活きて出たらしいで、俺はこの手足も、胴も、じなじなと巻緊《まきし》められると、五臓六腑が蒸上《むれあが》って、肝まで溶融《とろ》けて、蕩々《とろとろ》に膏切《あぶらぎ》った身体な、――気の消えそうな薫の佳《い》い、湿った暖い霞に、虚空|遥《はるか》に揺上げられて、天の果に、蛇の目玉の黒金剛石《くろダイヤ》のような真黒《まっくろ》な星が見えた、と思うと、自然《ひとりで》に、のさんと、二階から茶の間へ素直《まっすぐ》、棒立ちに落ちたで、はあ。」  と五十嵐伝吾は腹を揺《ゆす》って、肩を揉んで、溜息して言う。 [#5字下げ]河岸の浦島[#「河岸の浦島」は大見出し] [#7字下げ]五十九[#「五十九」は中見出し] 「その足で、お前《ま》ん、大学に押掛けてからは、御存じの通りだで。  さあ、後の、俺が身体どうなるだね。  天人に雲の上から投落されたも、お前ん、勿体ないだが、乙姫様に海の底から突出されたも同一《おんなじ》ですだ。  また始めに、お孝が俺のものになった時は、知ったほどの誰も彼も、不断云う、赤熊だことの、膃肭臍《おっとせい》だことの、渾名《あだな》を止《や》めて、浦島だ、浦島だ、言うたもんで。俺も日本橋に竜宮が在る、と思うたですが。その筈《はず》ですだね。鯨に乗って泳ぎ込む程の不思議でのうて、熊がお孝と対座《さしむかい》に、稲葉家の長火鉢の前に胡坐《あぐら》組めますまい。  見得は言わねえですぞ。国手《せんせい》の前だ。  死んだ媽《かかあ》は家附きで、俺は北海道へ出稼中、堅気に見込みを付けられて、中ぐらいな身代へ養子に入った身の上だがね。日の丸の旗を立って大船一|艘《ぱい》、海産物積んで、乗出いて、一花咲かせる目的《もくろみ》でな、小舟町へ商会を開いた当座、比羅《びら》代りの附合で、客を呼ぶわ、呼ばれもしたので、一座に河岸の人が多かったでな。土地の芸者も顔が揃うた。二三度、その中に、国手、お前んも因果は遁《のが》れぬ、御存じですだ、滝の家の清葉とな、別嬪《べっぴん》が居たでねえですか。」  葛木は吃《きっ》と見る。 「容色《きりょう》はもとより、中年増でも生娘のような、あの、優しい処へ俺目を着けた。一睨《ひとにらみ》、床の間から睨んだら、否応はあるまいわい。ああ、ここが俺膃肭臍の悲しさだ。金になる男のぬくとみにゃ、誰でも帯を解く、と奥州、雄鹿島の海女《あま》も、日本橋の芸者も同じ女だと、北海道|釧路国《くしろのくに》の学問だでな。  ――吃驚《びっくり》したですだ、お前ん……ただ居《お》りゃ袖も擦合《すりあ》うけれども、手を出すと、富士の山の天辺《てっぺん》あたりまで、スーと雲で退《の》かれたで、あっと云うと俺、尻餅を搗《つ》いたですが。 (御守殿め、男を振るなんて生意気な、可《よし》、清葉さんが嫌った人なら、私が情人《いろ》にしてやろう。……)  これだで国手。それこそ悪く傍《そば》へよると、撥《ばち》で打《ぶ》たれるぞ、と友達の衆に用心されたそのお孝が、俺の手を曳《ひ》いて抱込んだでな。いや、お孝と来ては、対手《あいて》の清葉を驚かすためには、裸体《はだか》で本当の羆《ひぐま》にも乗兼ねえですが。――後で聞くと、清葉を口説いて振られたと云うために、お孝の関係をつけたのが、一人二人でねえと云うだでな。」  葛木は聴いて、 「私も御多分には漏れんのだぜ。」と、静《しずか》に衣兜《かくし》に手を入れる。  赤熊は星が痛そうに、額を確《しか》と両手で蔽《おお》い、 「ところが、そうでない。調子が違うた。……誰もそのかわり、お孝の口から、(可厭《いや》になったら、それッきり、御免なんだよ、可《い》いかい。)と初手に念を推《お》されておるで、突出されて謂《い》う理窟は無いだね。  そりゃ、随分俺が身だけでは金も使った。けれどもな、鰊や数の子の一庫《ひとくら》二庫、あれだけの女に掛けては、吹矢で孔雀《くじゃく》だ。富籤《とみくじ》だ。マニラの富が当らんとって、何国《どこ》へも尻の持って行《ゆ》きようは無えのですもの。  が、人情は理窟でないで。  女房も生命も、その生命から二番目の一人の小児《こども》を棄ててまでも……」 「ちょっと……」  葛木は急に遮りつつ、 「ただ聞いてはいられない、……お互に人の児《こ》だよ。お前、小児を捨ちまったと云うのは? 構いつけない、打棄《うっちゃ》ってあるという意味なのかい。」 「そうでねえです。」 「人に遣ったという事かね。」 「違う。」と、ぶっきらぼうに言う。 「棄子《すてご》をしたか。」  と小さな声。 [#5字下げ]頭を釘[#「頭を釘」は大見出し] [#7字下げ]六十[#「六十」は中見出し]  赤熊は、まじまじとして、頽然《ぐったり》と俯向《うつむ》いたが、太《いた》く恥じたらしく毛皮の袖を引捜すと、何か探り当てた体で、むしゃりと噛《か》む。  葛木は眉を顰《ひそ》めて、 「ちょっと、小児も小児だし、……前刻《さっき》から、気になるが、とにかく、色事の達引《たてひき》中だ、なあ、まあ。……それに、そんな事をしてくれては不可《いけな》いじゃないか。見ていられない、……何を食うんだ。」 「はあ、これかね。」  と、食った後の指を撮《つま》んで、けろりとした顔を上げて、気《け》も無い様子で、 「虱《しらみ》だと思ったかね、へへ、違うですが。大丈夫だで、国手。脂の抜きようが足りんだった処へ、寝るにも起きるにも脱がねえもんで、こりゃ、雨な、埃《ほこり》な、日向な、汗な、膏《あぶら》で熊の皮に湧《わ》いた蛆《うじ》だよ。」 「え。」 「虫ですがい。豪《えら》く精分の強い、補剤《おぎない》になるやつで、なあ。」  伝吾は厚ぼったい口をだらりと開けつつ、 「これが有るで、俺、この頃では、一日二日怠けて飯食わねえ事あるですけれども、身体が弱らん。かえって、ほかほか温《あたたか》だね。取っちゃ食い、取っちゃ食いするだ。が、あとからあとから湧くですわい。二十間の毛皮を縫包《ぬいぐる》みにしておるで、形のある中《うち》は虫が湧くですだ。」  葛木は面《かお》を背けて、はっと吐こうとした唾《つば》を、清葉の口紅と、雛の思出、控えて手巾《ハンケチ》を口に当てた。  ――やがて、お孝が狂気になったも、一つはこの虫が因《もと》である―― [#7字下げ]六十一[#「六十一」は中見出し] 「貴下《あなた》、何をしておらるるかね。」  靴を忍んで唐突《だしぬけ》に、ずかずかと寄って声を沈めたのは巡査であった。 「ちょっと談話《はなし》を。」  葛木はその時まで、虫に背けた面《かお》を向ける。と、星に照らして、 「や、国手《せんせい》ですか。」 「おお貴官《あなた》で。」 「この橋は妙な橋ですな。」  と莞爾《にっこり》しながら、角燈を衝《つ》と向ける。そこに背後《うしろ》むきに蹲《しゃが》んだやつ。 「こちらは、」 「旧友です。ふとここで出会ったんです。」 「お話しなさい……失礼しました。」 「ああ、貴官、いつぞやは――一度、更《あらた》めてお目に掛りたいと思っています。」 「難有《ありがと》う。機会《おり》を待ちます。」  と銀河を仰ぎ、佩剣《はいけん》の秋|蕭殺《しょうさつ》として、鵲《かささぎ》のごとく黒く行く。橋冷やかに、水が白い。 「夜が更ける……おい、そして、そして小児は。」 「国手、臓腑から餌《え》を吐くまで何事も打《ぶち》まけたで、小児を棄てた処を言うですれど、これだけは内分に願いたいでね、極《ごく》ねえ。……巡査にでも知れるとならんですだ。」 「余り、巡査に遠慮する風でもあるまいじゃないか。」 「そうでねえです。河岸の腸《わた》拾いや、立ん坊は大事無いですれど、棄子が分ると引っぱられるでね、獄へ入れられる。それも可えですが、ただ、そうなると、縁の下からも、お孝の声が聞かれんですだよ。」  葛木は思わず吐息した。 「無論言いはせん。」 「なら話すだがね、小児を棄てたのは、清葉の門《かど》だで。」 「何、清葉の。じゃ、あの滝の家で拾って、可愛がってると云う小児は、お前のかい。」 「小児は幸福《しあわせ》ですだ。」 「むむ、幸福だ。」  と引入れられて、気を取られた調子が高く、 「清葉が、頬摺《ほおず》りしたり、額を吸ったり、……抱いて寝るそうだ。お前、女房は美しかったか、綺麗な児だって。ああ、幸福《しあわせ》な児だ。可羨《うらやま》しいほど幸福《こうふく》だ。」  摺《ず》って出るように水を覗《のぞ》く、と風が冷かに面《かお》を打つ。欄干に確《しか》と両手を掛けた、が、熟《じっ》と黙って、やがて静《しずか》に立直った時、酔覚《えいざめ》の顔は蒼白《あおじろ》い。 「私は馬鹿だよ。……もし私を、仮にお前の境遇に置いたとすると、そのくらいな智慧《ちえ》も分別も決して無いのだ。お前は私より知識がある、果断がある、……飯のかわりに、羆《ひぐま》の毛の虫を食っても、それほど智慧があり、果断もあれば、話は分ろう。  大分遅い、……今度の巡査はこのままには通らんぞ。さあ、早い処を言え。  お前の要求は肯入《ききい》れられない、二人は断じて縁を切らない……」  半ば聞いて赤熊はまた頽然《ぐたり》とした。 「そう言ったら、お前はどうする、私を殺すか。」 「…………」 「お孝を殺すか。」 「ええ、あれを殺せますほどならですだ、お前《ま》んに、手向いするだい。殺したい、殺したい、殺して死にたい思うても、傍《そば》へ行きゃ、ぼっと佳《い》い香《におい》のするばかりで、筋も骨も萎々《なえなえ》と、身体がはや、湿った粘《のり》のようになりますだで。」 「チョッ、しっかりしないのか。お孝に手出しが出来なかったら、せめて私を殺す、私を狙う計画を立ててくれ。勇気を起せ、張合を附けろ。私が頼む。そして私にお前の言分を刎《は》ねつけさせてくれないか。私も頼む、その様子じゃ靄《もや》を引掴《ひきつか》んで突返すようで、断るに断り切れない。……こんな弱った事は無いのだ。  おい、男がものを言掛けるには、もしそれが肯入れなかったらどうする、と覚悟を極《き》めてかかるのが法だ。……恥を知れ、恥を知れ。気を判然《はっきり》して出直して、切物《きれもの》か、刃物の歯ごたえのあるようにして、私に断然《きっぱり》、(女と切れない。)と言わしてくれ。」  葛木が焦《じ》れて気色ともに激しくなるほど、はあはあと呼吸を内に引いて、大息で喘《あえ》いだが、獣《けもの》の背の、波打つ体《てい》に、くなくなとなると、とんと橋の上へ、真俯向《まうつむ》けに突伏《つッぷ》してしまう。 「お願いですだ、拝むですだい。……邪魔だらば、縁の下へ突込《つッこ》まりょうで。柱へうしろ手に縛られていながらでも、お孝の顔を見ていたいで、便所の掃除でも何でもするだ。活動写真で見たですが、西洋は羨《うらやま》しい。女の足を舐《な》めるだあもの。犬になっても大事ねえだで、香《におい》が嗅《か》ぎたい、顔が見たいで、この通り拝むだ、国手。恥も、外聞も、お孝があっての上ですだよ。」  わっと云うと、声を上げて、ひくひく後を引いて泣く。  葛木は踵《くびす》を刻んで、 「聞け、聞け。だが何にも言うことが出来ない。……では、お前、私がきれれば、お孝は確にお前に戻るか、その、お前に、お孝が戻ると思うのかよ。」 「そりゃ、そりゃ戻っても戻らいでも、国手があるより増だでね、声だけ聞くでも姿だけ見るでも、国手と二人の時と、お孝一人の時とでは、俺が心持がどう違うか考えずとも分るだでね。拝むですだよ。何も言わんで。……こ、こ、この橋板に摺付《こすりつ》けて血を出いて願いたいども、額の厚ぼったい事だけが、我が身で分る外何にも分らん。血の出ないのが口惜《くやし》いですだ。」と頭を釘に、線路の露の鉄を敲《たた》く。  学士はフイと居なくなった。銀河のあたり、星が流るる。 [#5字下げ]露霜[#「露霜」は大見出し] [#7字下げ]六十二[#「六十二」は中見出し]  はッと声に出して、思わず歎息《ためいき》をすると、浸《にじ》む涙を、両の腕。……面《おもて》をひしと蔽《おお》うていた。  俥《くるま》の上で――もう夜半《よなか》二時過。  この辻車が、西河岸へヌッと出たと思うと、 「ああ。」  葛木は慌《あわただ》しく声を掛けた。 「ちょっと待て、車夫《くるまや》。」 「へいへい。」 「忘れものをして来た、帰ってくれないか。」 「唯今、乗《め》した処へ。」 「ああ。」  夜延仕《よなし》でも、達者な車夫で、一もん字にその引返す時は、葛木は伏せた面《おもて》を挙げて、肩を聳《そびや》かすごとく痩《や》せた腕を組みながら、切《しきり》に飛ぶ星を仰いだ。が、夜露に、痛いほど濡れたかして、顔の色が真蒼《まっさお》であった。 「可《よ》し、ここで――ここで――ここで――」  と焦って、圧《おさ》えて云い云い、早や飛下りそうにしつつも駆戻る発奮《はずみ》にずかずかと引摺《ひきず》られるように町の角を曲って、やっと下立った処は、もう火の番を過ぎて、お竹蔵の前であった。  直ぐに稲葉家の露地を、ものに襲われた体に、慌しく、その癖、靴を浮かして、跫音《あしおと》を密《ひそ》めて、したしたと入ると、門《かど》へ行った身を飜《かえ》して、柳を透かしながら、声を忍んで、二階を呼んだ。 「お孝さん、……」  寂然《ひっそり》としていたが、重ねて呼ぶのに気を兼ねる間も無く、雨戸が一枚、すっと開《あ》いて、下から映《さ》す蒼《あお》い瓦斯《がす》を、逆に細流《せせらぎ》を浴びたごとく濡萎《ぬれしお》れた姿で、水際を立てて、そこへお孝が、露の垂りそうに艶麗《あでやか》に顕《あらわ》れた。  が、それは浴びるばかりの涙なのである。  と、見る時、葛木も面《かお》にはらはらと柳の雫《しずく》が、押えあえず散乱るる。  今宵は三度目である。宵に来て、例《いつも》のごとく河岸まで送られて十二時過に帰った時は、夢にもこうとは知らなかった。――一石橋で赤熊に逢って、浮世を思捨てるばかり、覚悟して取って返した時は、もう世間もここも寐静《ねしず》まっていた上に、お孝は疲れた、そして酔ってもいた。……途中送る折も、送る女が、送らるる男の肩に、なよなよと顔を持たせて、 「邪慳《じゃけん》だね、帰るなんて。」  ぐっすり寐込んだに相違ない。ええ、決心は鈍ろうとも、ままよ、この次に、と一度引返そうとして、ただ、口ずさみのひとりでに、思わず、 「お孝……」  と呼ぶと、 「あい。」と声の下で返事して、階子《はしご》を下りるのがトントンと引摺るばかり。日本の真中《まんなか》に、一人、この女が、と葛木は胸が切《せま》ったのであったが。  暖い閨《ねや》も、石のごとく、砥《と》のごとく、冷たく堅く代るまで、身を冷して涙で別れて……三たび取って返したのがこの時である。  お孝は、乱書《みだれがき》の仮名に靡《なび》く秋風の夜更けの柳にのみ、ものを言わせて、瞳も頬も玉を洗ったように、よろよろとただ俯向《うつむ》いて見た。 「済まないがね、――人形を忘れたから。」 「はい。」  と清く潔い返事とともに、すっと入ると、向直って出た。乳の下を裂いたか、とハッと思う、鮮血《なまち》を滴らすばかり胸に据えたは、宵に着て寝た、緋《ひ》の長襦袢《ながじゅばん》に、葛木が姉の記念《かたみ》の、あの人形を包んだのである。  ト片手ついたが、欄干《てすり》に、雪の輝く美しい白い蛇の絡んだ俤《おもかげ》。 「お怪我の無いよう……御機嫌よう。」  とはらりと落すと、袖で受けたが、さらりと音して、縮緬《ちりめん》の緋のしぼ[#「しぼ」に傍点]は、鱗が鳴るか、と地に辷《すべ》って、潰島田の人形は二片《ふたひら》三片花を散《ちら》して、枝も折れず、柳の葉末に手に留《とま》んぬ。 「清葉さん、――さようなら。」  カタリと一幅《ひとはば》、黒雲の鎖《とざ》したような雨戸が閉って、…… [#ここから3字下げ] ――露地の細路、駒下駄で―― [#ここで字下げ終わり]  と心悲《うらかな》しい、が冴えた声。鈴を振るごとく、白銀《しろがね》の、あの光、あけの明星か、星に響く。  葛木は五体が窘《すく》んだ。  稲荷堂の、背裏《うしろ》から、もぞもぞと這出して、落ちた長襦袢に掛って、両手に掴《つか》んだ、葛木を仰ぎ見て、夥多《あまた》たび押頂いたのは赤熊である。  車夫の提灯《ちょうちん》が露地口を、薄黄色に覗《のぞ》くに引かれて、葛木はつかつかと出て、飜然《ひらり》と乗ると、楫《かじ》を上げる、背に重量《おもし》が掛って、前へ突伏《つッぷ》すがごとく、胸に抱いた人形の顔を熟《じっ》と視《み》た。 [#5字下げ][#大見出し]彗星《ほうきぼし》[#大見出し終わり] [#7字下げ]六十三[#「六十三」は中見出し]  その翌年《あくるとし》の春である。日本橋三丁目の通《とおり》の角で、電車の印を結んで、小児演技《こどもしばい》の忠臣義士を煙《けむ》に巻いて、姿を消した旅僧が、胸に掛けた箱の中には、同じ島田の人形が入っていたのである。  生理学教室|三昧《さんまい》の学士も、一年ばかりお孝に馴染《なじ》んで、その仕込みで、ちょっと大高源吾ぐらいは玩《もてあそ》ぶことが出来たのである。  却説《さて》、葛木法師の旅僧は遠くも行《ゆ》かず、どこで電車を下りて迂廻《まわりみち》したか、多時《しばらく》すると西河岸へ、船から上ったごとく飄然《ひょうぜん》として顕《あらわ》れて、延命地蔵尊の御堂《みどう》に詣でて礼拝《らいはい》して、飲酒家《さけのみ》の伯父さんに叱られたような形で、あの賓頭廬《びんずる》の前に立って、葉山繁山、繁きが中に、分けのぼる峰の、月と花。清葉とお孝の名を記《しるし》にした納手拭《おさめてぬぐい》の、一つは白く、一つは青く、春風ながら秋の野に葛《くず》の裏葉の飜《ひるがえ》る、寂しき色に出《い》でて戦《そよ》ぐを見つつ、去るに忍びぬ風情であった。  茶を振舞った世話人の問に答えて、法体《ほったい》は去年の大晦日《おおみそか》からだ、と洒落《しゃれ》でなく真顔で云うよう、 「いや、夜遁《よに》げ同然な俄発心《にわかほっしん》。心よりか形だけを代えました青道心でございます。面目の無い男ですから笠は御免を蒙《こうむ》ります。……どこと申して行く処に当は無いので、法衣《ころも》を着て草鞋《わらじ》を穿《は》くと、直ぐに両国から江戸を離れて、安房《あわ》上総《かずさ》を諸所|経歴《へめぐ》りました。……今日《こんにち》は、薬研堀を通ってこっちへ。――今度は日本橋を振出しに、徒歩《かち》で東海道に向いますつもり。――以来は知らず、どこへ参っても、このあたりぐらい、名所古蹟はございませんな。」  と云って、ほろりとして、手を挙げて茶盆を頂いて出て行く。  人足繁き夕暮の河岸を、影のように、すたすたと抜けて、それからなぞえに橋になる、向って取附《とッつき》の袂《たもと》の、一石餅とある浅黄染の暖簾《のれん》を潜《くぐ》って、土間の縁台の薄暗い処で、折敷装《おしきもり》の赤飯を一盆だけ。  その癖、新しい銀貨で釣銭を取って一石橋へ出た。もう日が暮れたのである。  半ば渡った処、御城に向いた、欄干に、松を遠く、船を近く彳《たたず》んで、凭掛《もたれかか》ったが、熟《じっ》として頬杖を支《つ》いて、人の往来《ゆきき》も世を隔てたごとく、我を忘れた体であった。 「さようなら。」  と一言掛けて、発奮《はず》むばかりに身を飜《ひるがえ》すと、そこへ、ズンと来た電車が一|輛《だい》。目前《めさき》へカラカラと打《ぶ》つかりそうなのに、あとじさりに圧《お》され、圧され、煽《あお》られ気味に蹌踉々々《よろよろ》となった途端である。 「火事だ、火事だ。」  把手《ハンドル》を控えて、反身《そりみ》になった車掌が言った。その帽の、庇《ひさし》も顔も真赤《まっか》である。  黒い水の、箱を溢《あふ》るるばかり、乗客は総立ちに硝子《がらす》に犇《ひし》めく。  驚いて法師が、笠に手を掛け、振返ると、亀甲形《きっこうがた》に空を劃《くぎ》った都会《みやこ》を装う、鎧《よろい》のごとき屋根を貫いて、檜物町の空に␼《ぱっ》と立つ、偉大なる彗星《ほうきぼし》のごとき火の柱が上って、倒《さかしま》に迸《ほとばし》る。 「滝の家だい。」  その見当とは言わず、……ほとんど直覚的に、清葉の家を、耳の傍《はた》で叫んで、――前刻《さっき》から橋の際に腰を板に附いて蹲《しゃが》んでいた、土方体の大男の、電車も橋も掻退《かきの》けるがごとく、両手を振って駆出したのがある。  旅僧は、その声を、聞いたようだ、と思ったろう。しかしその時、羆の皮は着ていなかった。  これは、清葉とお千世が、この日、稲葉家へ入ろうとして、その露地から出て、二人を見て逃げるのを知った、のッそり頬被《ほおかぶり》をした昼の影法師と同じ風体の男である。 [#5字下げ]綺麗な花[#「綺麗な花」は大見出し] [#7字下げ]六十四[#「六十四」は中見出し] 「危《あぶね》えッ!」  危え、と蔵の屋根から、結束した消防夫《しごとし》が一|人《にん》、棟はずれに乗出すようにして、四番組の纏《まとい》を片手に絶叫する。  その下に、前と後《うしろ》を、おなじ消防夫に遮られつつ、口紅の色も白きまで顔色をかえながら、かかげた片褄《かたづま》、跣足《はだし》のまま、宙へ乗って、前へ出ようと身をあせるのは清葉であった。 「放して、放して。」  この土蔵一つ、細い横町の表から引込んだ処に、不思議なばかり、白磨《しろみがき》の千本格子がぴたりと閉って、寐静《ねしずま》ったように音もしないで、ただ軒に掛けた滝の家の磨硝子《すりがらす》の燈《ともしび》ばかり、瓦斯《がす》の音が轟々と、物凄い音を立てた。 「蔵は大丈夫だ。姉さん、危い。」とまた屋根から呼ばわる。  取巻く、人数《にんず》が、 「退《の》いた、退《ど》いた、退いた。」と叫ぶ。  薄藤色の出の衣服《きもの》の、肩を揉んで身をあせる、火の粉は紅梅のごとく衣紋を切って散るのである。 「蔵じゃない、蔵の事なんかじゃないんだよ。」 「箪笥《たんす》は出したい。出来るだけ出した。」 「内の人たち。」と、清葉はもう声が涸《か》れる。 「乳母《ばあや》は、湯に入っていた処だ、裸体《はだか》で遁《に》げた。」 「娘さんも小婢《こおんな》も遁がした。下女《おさん》どんは一所に手伝った。」 「何しろ火が疾《はや》い。しかも火元が裏家の二階だ。」  と口々にがやがや言う。 「その二階におっかさんが。」 「何、阿母《おふくろ》が。」 「坊やが、坊やが。放して、放して。」  と云うと、思わず圧《おさ》えたのが手を放す。 「了《しま》った。」と屋根で喚《わめ》く。  二人ばかりドンと出て格子戸に立ったのは、飛込もうとしたのではない。血迷うばかりの、清葉を遮って、突戻すためであった。  清葉は、向うから突戻されてよろよろと、退《しさ》ると、喞筒《ポンプ》の護謨管《ごむかん》に裳《もすそ》を取られてばったり膝を、その消えそうな雪の頸《うなじ》へ、火の粉がばらばらとかかるので、一人が水びたしの半纏《はんてん》を脱いで掛けた。  この折から、ここの横町を河岸へ出る、角の電信柱の根を攀《よ》じて、そこに積んだ材木の上へ、すっくと立って顕《あらわ》れた、旅僧の檜木笠《ひのきがさ》は、両側の屋根より高く、小山のごとき松明の炎に照されたが、群集の肩を踏まないでは、水管の通った他に、一足も踏込む隙間は無かったのである。 「筒先ウ向けろ。」 「手向《たむけ》の水だい。」  そこに絶望の声を放つと、二条《ふたすじ》ばかり、筒先を格子に向けた。  どどどッと鳴る音と共に、軒の瓦斯は、人魂のごとく屋根へ飛ぶ。格子が前へどんと倒れる。地獄の口の開《あ》いた中から、水と炎の渦巻を浴びて、黒煙《くろけむり》を空脛《からすね》に踏んで火の粉を泳いで、背には清葉の継《まま》しい母を、胸には捨てた(坊や。)の我児《わがこ》を、大肌脱《おおはだぬぎ》の胴中へ、お孝が……葛木に人形を包んで投げたを拾って持った、緋の長襦袢を縄からげにぐい、と結んで、 「おう!」  とばかり呻《うな》って出たのは赤熊である。 「助かった。」 「助けた。」  錦の帯は煙を払って、竜のごとく素直《まっすぐ》に立つ。母はその手に抱寄せられた。 「坊や。」  と清葉が手を伸した時、炎の流《ながれ》は格子戸の倒れた穴を、堰《せき》を切った堤のごとく、九ツの頭《かしら》を立てて漲《みなぎ》り流るる。 「まあ、綺麗に花が咲いた事。」  一町《ひとまち》、中を置いた稲葉家の二階の欄《てすり》に、お孝は、段鹿子《だんかのこ》の麻の葉の、膝もしどけなく頬杖して、宵暗《よいやみ》の顔ほの白う、柳涼しく、この火の手を視《なが》めていた。…… [#5字下げ]振向く処を[#「振向く処を」は大見出し] [#7字下げ]六十五[#「六十五」は中見出し] 「この勢《いきおい》だ、この勢だ。」  人雪頽《なだれ》打つ中を、まるで夢中で、 「人一人助けただい。この勢《いきおい》なら殺せるだい。お孝、畜生。」  眼《まなこ》は火のごとく血走りながら、厚い唇は泥のごとく緊《しまり》なく緩《ゆる》んで、ニタニタと笑いながら、足許ふらふらと虚空を睨《にら》んで、夜具包み背負《しょ》って、ト転倒《ころ》がる女を踏跨《ふんまた》ぎ、硝子戸《がらすど》を立てて飛ぶ男を突飛ばして、ばたばたと破って通る。 「この勢だい、殺せるだい。」  火の盛なる頃なれば、大膚《おおはだ》脱《ぬ》ぎを誰《たれ》一人目に留《とめ》る者も無く、のさのさと蟇《がま》の歩行《あゆ》みに一町隣りの元大工町へ、ずッと入ると、火の番小屋が、あっけに取られた体に口を開けてポカンとして、散敷いた桜の路を、人の影は流るるよう。……半鐘の響、太鼓の音、ぱっぱっと燃ゆる音、べらべらと煙の響、もの音ばかり凄《すさま》じく、両側の家はただ、黒い墓のごとく、寂しいまでにひそまり返って、ただ処々《ところどころ》、廂《ひさし》に真赤《まっか》な影は、そこへ火を呼ぶか、と凄《すご》いのである。  洪《ごう》と鳴って新しい火の手が上ると、魔が知らすような激しい人声。わッと喚《わめ》いてこの町も危《あやう》くなったが、片側の二階からドシドシ投出す、衣類、調度。  ト諸君はお竹蔵と云うのを御存じの筈《はず》と思う。あの屋根から、誰が投げて、どのがらくた[#「がらくた」に傍点]に交ったか、二尺ばかりの蝋鞘《ろざや》が一口《ひとふり》。蛇のごとく空に躍って、ちょうどそこへ来た、赤熊の額を尾でたたいて、ハタと落ちた。  発奮《はずみ》で打ったか。前刻《さっき》滝の家の二階で受けた怪我の、気の勢《いきおい》で留まっていたか。この時、額から垂々《たらたら》と血が流れたが、それには構わないで、ほとんど本能的に、胸へ抱いた年弱の三歳《みッつ》の子を両手で抱えた。  が、慌《あわただ》しく刀を拾うと、何を思う隙《ま》も無さそうに、ギラリと冷かに抜いて、鞘を棄てて提《ひっさ》げたのである。  そのまま襲入《おそいい》った、向うの露地口には、八九人|人立《ひとだち》したが、真中《まんなか》をずッと通るのに、誰も咎めたものが無い。  柳に片手を、柄下《つかさが》りに、抜刀《ぬきみ》を刃尖上《はさきあが》りに背に隠して、腰をずいと伸《の》して、木戸口から格子を透かすと、ちょうど梯子段《はしごだん》を錦絵の抜出したように下りて、今、長火鉢の処に背後《うしろ》向きに、すっと立った、段染《だんぞめ》の麻の葉鹿の子の長襦袢ばかりの姿がある。  がらりと開けると、ずかずかと入るが否や、 「畜生!」  振向く処を一刀《ひとかたな》、向うづきに、グサと突いたが脇腹で、アッとほとんど無意識に手で疵《きず》を抑《おさ》えざまに、弱腰を横に落す処を、引なぐりにもう一刀《ひとたち》、肩さきをかッと当てた、が、それは引《ひき》かき疵《きず》に過ぎなかった。刃物の鍛《きたえ》は生鉄《なまくら》で、刃は一度で、中じゃくれに曲ったのである。 「姉さん、――」  虫が知らしたか、もう一度、 「お爺さん。」と呼ぶと斉《ひと》しく、立って逃げもあえず、真白《まっしろ》な腕《かいな》をあわれ、嬰児《あかんぼ》のように虚空に投げて、身を悶《もだ》えたのは、お千世ではないか。  赤熊は今日も附狙って、清葉が下に着た段鹿子を目的《めあて》に刃《やいば》を当てた。  このお千世の着ていたのは、しかしそれではなく、……清葉が自分のを持《もた》して寄越《よこ》したのであることを、ここで言いたい。 「ちょっと、お茶を頂きに。」――  清葉の眉の上ったのを見て、茶の缶をたたく叔母なるものは、香煎《にばな》でもてなすことも出来ないで、陰気な茶の間が白けたのであったが。 [#5字下げ]あわせかがみ[#「あわせかがみ」は大見出し] [#7字下げ]六十六[#「六十六」は中見出し] 「これは、いらっしゃいまし。」  そこへ、お千世に介抱されつつ、二階から下りて来たお孝が、儀式正しく、ぴたりと手を支《つ》いて挨拶をした。肩の位に、大客を恐れない品格が備わって、取乱した人とは思われなかった、が、清葉も改めて会釈をする時、それは誰にするのやら分らないことを悟った。 「いらっしゃいまし。」  今度は澄まして在らぬ方《かた》の、店を向いて手を支いたのである。 「お孝さん、分りますか。」  清葉は声を曇らしながら、二階で弄《もてあそ》んで欄干《てすり》越、柳がくれに落したのを、袖で受けて膝に持った、銀地の舞扇を開いて立って、長火鉢の向う正面に、縁起棚の前にきらりと翳《かざ》すと、お孝が、肩を落して、仰向いて見つつ。 「お月様でしょう。――大事のお月様雲めがかくす。――とても隠すなら金屏風で、」  と唄うかと思えば、 「おお、寒い、おお寒い、もう寝ようよ。」と身ぶるいをする。  お千世が、その膝を抱くように附添って、はだけて、乳《ち》のすくお孝の襟を、掻合《かきあわ》せ、掻合せするのを見て、清葉は座にと着きあえず、扇子《おうぎ》で顔を隠して泣いた。  背後《うしろ》へ廻って、肩を抱いて、 「お大事になさいよ、静《しずか》にお寝《やす》みなさいまし、お孝さん、ちょいとお千世さんを借りますよ。――お座敷にして。」  と顧みて、あとは阿婆《おばあ》に云った。 「から、意気地も、だらしも有りませんやね、我ままの罰だ、業《ごう》だ。」  と時々刻んで呟《つぶや》いた阿婆が、お座敷と聞くと笑傾《えみかたむ》け、 「そらよ、お千世や、天から降ったような口が掛った。さあ、着換えて、」  直ぐに連れて出ると心得た阿婆が、他《ほか》には無い、お孝の乱心《みだれごころ》にゆかしがって着ていた、その段鹿子を脱がせようと、お千世が遮る手を払って、いきなりお孝の帯に手を掛けて、かなぐり取ろうとしたのである。 「叔母さん、まあ、」  とお千世はおろおろ。…… 「失礼をいたします。」と、何の事やらまた慇懃《いんぎん》に、お孝が、清葉に手を支いたのは涙ならずや。 「これが可厭《いや》なら、よく稼いで、可い旦那を取ってな、貴女方を、」  と、清葉を頤《あご》、 「見習って幾枚でも拵《こしら》えろ、そこを退《ど》かぬかい。」と突退《つきの》ける。 「お待ちなさいまし。」  凜《りん》と留めて、 「切火を打って、座敷へ出ます、芸者の衣物《きもの》を着せるには作法があるんです。……お素人方には分りません、手が違うと怪我をします。貴方、お控えなさいまし。――千世《ちい》ちゃん、今(箱さん。)を寄越すから、着換えないでいらっしゃいよ。姉さんを気をつけて。お孝さん、」  何も知らず横を向いたお孝に、端正《ちゃん》と手を支いて、 「さようなら。――二人で、一度あわせものをしましょうね。」  と目を手巾《ハンケチ》で押えて帰った。……  襦袢はわざと、膚馴《はだな》れたけれど、同一《おなじ》その段鹿子を、別に一組、縞物《しまもの》だったが対《つい》に揃えて、それは小女《こおんな》が定紋の藤の葉の風呂敷で届けて来た。  箱屋が来て、薄べりに、紅裏|香《にお》う、衣紋を揃えて、長襦袢で立った、お千世のうしろへ、と構えた時が、摺半鐘《すりばん》で。 「木の臭《におい》がしますぜ、近い。」  と云うと、箱三の喜平はひょいと一飛。阿婆《おばあ》も続いて駆出した。  お千世の斬られた時、衣物《きもの》はそこにそのままである。 [#5字下げ]振袖[#「振袖」は大見出し] [#7字下げ]六十七[#「六十七」は中見出し] 「違った、お千世だい。」  と、やっぱりニタニタと笑いながら、目を据えて階子段《はしごだん》を見上げた時。……ああ、一足遅い。  お千世の祖父《じい》の甚平が台所口から草鞋穿《わらじばき》の土足である。――これが玄関口から入ったら、あるいはこうはなかったろう。――爺さんは、当夜植木|店《だな》のお薬師様の縁日に出た序《ついで》に、孫が好きだ、と草餅の風呂敷包を首に背負《しょ》って、病中ながらかねて抱主《かかえぬし》のお孝が好いた、雛芥子《ひなげし》の早咲、念入に土鉢ながら育てたのを丁寧に両手に抱いて、来て、途中頭の上の火事に慌てながら、驚破《すわ》や見舞、と駆込んで、台所口へ廻ったのが、赤熊と一足違い。  泥鉢は一堪《ひとたま》りもなく踏潰《ふみつぶ》された。あたかも甚平の魂のごとくに挫《くじ》けて、真紅の雛芥子は処女の血のごとく、めらめらと颯《さっ》と散る。  熊は山へ帰る体に、のさのさと格子を出た。  ト、敵《あいて》を追って捕えよう擬勢も無く、お千世を抱いて、爺さんの腰を抜いた、その時、山鳥の翼を弓に番《つが》えて射るごとく、颯《さっ》と裳《もすそ》を曳《ひ》いて、お孝が矢のように二階を下りると思うと、 「熊の蛆《うじ》め、畜生。」と追縋《おいすが》って衝《つ》と露地を出た。  が、矢玉と馳違《はせちが》い折かさなる、人混雑《ひとごみ》の町へ出る、と何しに来たか忘れたらしく、ここに降かかる雨のごとき火の粉の中。袖でうけつつ、手で招きつつ、 「花が散るよ、散るよ。」  と蹴出しの浅黄を蹈《ふみ》くぐみ、その紅《くれない》を捌《さば》きながら、ずるずると着衣《きもの》を曳いて、 「おお、冷い、おお、冷い。……雪やこんこ、霰《あられ》やこんこ。……おお綺麗だ。花が散るよ、花が散るよ。」  仲通の小紅屋の小僧は、張子の木兎《みみずく》のごとく、目を光らして一すくみになった。  火の影ならず、血だらけの抜刀を提《ひっさ》げた、半裸体の大漢《おおおのこ》が、途惑《とまどい》した幟《のぼり》の絵に似て、店頭《みせさき》へすっくと立つと、会釈も無く、持った白刃《しらは》を取直して、切尖《きっさき》で、ずぶりとそこにあった林檎を突刺し、敵将の首《こうべ》を挙げたるごとく、ずい、と掲げて、風車《かざぐるま》でも廻す気か、肌につけた小児《しょうに》の上で、くるりくるりとかざして見せたが、 「あはは。」と笑うと、ドシンと縁台へ腰を掛ける、と風に落ちて来る燃えさしが人よりも多い火の下の店頭《みせさき》で、澄まして林檎の皮を剥《む》きはじめた。  小僧は土間の隅にさながらのからくり。お世辞ものの女房が居たらば何と云おう。それは見えぬ。 「坊主、咽喉《のど》が乾いたろうで、水のかわりに、好《すき》なものを遣るぞ。おお、女房《おっか》に肖如《そっくり》だい。」  ニヤニヤとまた笑ったが、胡瓜《きゅうり》の化けたらしい曲った刀が、剥きづらかったか、あわれ血迷って、足で白刃を、土間へ圧当《おしあ》て蹈延《ふみの》ばして、反《そり》を直して、瞳に照らして、持直す。目の前へ、すっと来て立ったのはお孝である。 「刀をお貸し。」  黙って袖口を、なぞえに出した手に、はっと、女神の命に従う状《さま》に、赤熊は黙ってその刀を渡した。 「おお、嬉しい、剃刀《かみそり》一挺持たせなかった。」  と、手遊物《おもちゃ》のように二つ三つ、睫《まつげ》を放して、ひらひらと振った。  眦《まなじり》を返す、と乱るる黒髪。 「覚悟をおし。」と、澄まして一言《ひとこと》。  何か言いそうにした口の、ただまたニヤニヤとなって、大《おおき》な涎《よだれ》の滴々《だらだら》と垂るる中へ、素直《まっすぐ》にずきんと刺した。が、歯にカッと辷《すべ》って、脣《くちびる》を決明果《あけび》のごとく裂きながら、咽喉へはずれる、その真中《まんなか》、我と我が手に赤熊が両手に握って、 「ううう、うう!……抉《えぐ》れ、抉れ、抉れ。」  懐中《ふところ》をころがる小児《こども》より前に、小僧はべたべたと土間を這う。 「了《しま》った。」  手を圧《おさ》えたのは旅僧である。葛木は、人に揉まれて、脱け落ちた笠のかわりに、法衣《ころも》の片袖頭巾めいて面《おもて》を包んだ。 「お孝さん。」 「先生。」  と、忘れたように柄《つか》を離すと、刀は落ちて、赤熊は真仰向けに、腹を露骨《あらわ》に、のっと反《かえ》る。  お孝の彼を抉った手は、ここにただ天地一つ、白き蛇《くちなわ》のごとく美しく、葛木の腕に絡《まつわ》って、潸々《さめざめ》と泣く。  葛木はなお縋《すが》る袖をお孝に預けたまま、跪《つまず》いて悶絶《もんぜつ》した小児を抱いた。  駆着けた警官の中に笠原信八郎氏が有った。 「葛木……更めてお目にかかります。……見苦しくなく支度をさせます。この女の内までお見免《みのが》しが願いたい。」 「諸君。」  信八郎氏は言下に云った。 「私《わたくし》が責《せめ》を負います。」  警官は二隊に分れた。  お孝は法衣《ころも》の葛木に手を曳かれて、静々と火事場を通った。裂けた袂《たもと》も、さながら振袖を着たごとくであった。  火の番の曲り角で、坊やに憧れて来た清葉に逢った。 「ああ、お地蔵様。」  夢かとばかり、旅僧の手から、坊やを抱取った清葉は、一度、継母とともに立退《たちの》いて出直したので、凜々《りり》しく腰帯で端折《はしょ》っていた。  お孝は、離さじ、とただ黙って葛木に縋る。 「や、ここにも一人。」  警官は驚いた。露地の出口の溝《どぶ》の中、さして深くもない中に、横倒れに陥《はま》って死んでいたのは茶缶婆《ちゃかんばばあ》で、胸に突疵《つききず》がある。さては赤熊が片附けた。  これが為に、護送の警官の足が留って、お孝は旅僧と二人、可懐《なつか》しそうに、葉が差覗《さしのぞ》く柳の下《もと》の我家に帰る。  清葉の途中で立停《たちどま》ったのを見て、お孝が判然《はっきり》した声で云った。 「姉さん、遺言を聞いて下さい。」 「はい。」  と答えた。二人は柳の軒燈に、清葉はその時、羽目について暗く立った。 「お孝さん、蔵も今しがた落ちました。」  と云って、実際目ぬりが届かないで、助ったつもりの蔵、中には能衣装まであると伝えた。が開いたのであった。  坊やを胸に、すっと出て、 「身に代えまして、清葉が、貴女になりかわって。」  その時三人が皆泣いた。 「お千世さんは、」 「ああ、お千世。」  余りの事に呆果てて、三人は茫然とした。中にも旅僧は何をトッチたか、膝で這廻って、雛芥子の散った花片の、煽《あおり》で動くのを、美しい魂を散らすまいとか、胸の箱へ、拾い込み拾い込みしたのである。  信八郎氏が先ず一人で入って来た。  お孝は胸に抱《いだ》いて仰向けに接吻《キッス》していた、自分のよりは色のまだ濡々と紅《くれない》な、お千世の唇を放して、 「お湯を頂きましても可《よ》うござんすか、旦那。」  と信八郎氏に手をついて言う。  渠《かれ》は挙手の礼を返して、 「御随意に、盃をなすって可い。」  茶棚に背後《うしろ》向きになった肩を拊《う》つばかり、ハタとそこへ、縁起棚から輝いて落ちたのは、清葉が、前《さき》に翳《かざ》したままそこにさし置いた舞扇で。  ふとここに心付いたらしく、立って頂いて、同じ縁起棚から取った小さな紙包み、(同妻。)の手巾《ハンケチ》の端を、湯呑に落して素湯《さゆ》を注《つ》いだ、が、なにも言わず、かぶりと飲むと、茶碗酒が得意の意気や、吻《ほっ》と小さな息をした。その中に黒子《ほくろ》を抜いた時の硝酸が入っていた。 「姉さん、遺言を聞いて下さいな。」 「生命《いのち》に掛けます、お孝さん。」  その時、舞扇を開いた面《おもて》は、銀《しろがね》よりも白ずんだ。  お千世は玉の緒を繋《つな》ぎとめた。  葛木が、生理学教室に帰ったのは言うまでもない。留学して当時独逸にあり。  滝の家は、建つれば建てられた家を、わざと稲葉家のあとに引移った。一家の美人十三人。  清葉が盃を挙げて唄う、あれ聞け横笛を。 [#ここから3字下げ] ――露地の細路駒下駄で―― [#ここで字下げ終わり] [#地から1字上げ]大正三(一九一四)年九月 底本:「泉鏡花集成12」ちくま文庫、筑摩書房    1997(平成9)年1月23日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第十五卷」岩波書店    1940(昭和15)年9月20日第1刷発行 初出:「日本橋」千章館    1914(大正3)年9月 ※「千世」に対するルビの「ちせ」と「ちい」、「三昧」に対するルビの「さんまい」と「ざんまい」の混在は、底本通りです。 ※誤植の確認には底本の親本を参照しました。 ※編者による注釈は削除しました。 入力:門田裕志 校正:酔いどれ狸 2015年10月17日作成 青空文庫作成ファイル: 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