悪獣篇 泉鏡花 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)銑太郎《せんたろう》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)花|揺《ゆら》ぐ [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)眗《みまわ》す /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)漕いで見せな/\ -------------------------------------------------------        一  つれの夫人がちょっと道寄りをしたので、銑太郎《せんたろう》は、取附《とッつ》きに山門の峨々《がが》と聳《そび》えた。巨刹《おおでら》の石段の前に立留まって、その出て来るのを待ち合せた。  門の柱に、毎月《まいげつ》十五十六日当山説教と貼紙《はりがみ》した、傍《かたわら》に、東京……中学校水泳部合宿所とまた記してある。透《すか》して見ると、灰色の浪を、斜めに森の間《なか》にかけたような、棟の下に、薄暗い窓の数、厳穴《いわあな》の趣して、三人五人、小さくあちこちに人の形。脱ぎ棄《す》てた、浴衣、襯衣《しゃつ》、上衣《うわぎ》など、ちらちらと渚《なぎさ》に似て、黒く深く、背後《うしろ》の山まで凹《なかくぼ》になったのは本堂であろう。輪にして段々に点《とも》した蝋《ろう》の灯が、黄色に燃えて描いたよう。  向う側は、袖垣《そでがき》、枝折戸《しおりど》、夏草の茂きが中に早咲《はやざき》の秋の花。いずれも此方《こなた》を背戸にして別荘だちが二三軒、廂《ひさし》に海原《うなばら》の緑をかけて、簾《すだれ》に沖の船を縫わせた拵《こしら》え。刎釣瓶《はねつるべ》の竹も動かず、蚊遣《かやり》の煙の靡《なび》くもなき、夏の盛《さかり》の午後四時ごろ。浜辺は煮えて賑《にぎや》かに、町は寂しい樹蔭《こかげ》の細道、たらたら坂《ざか》を下りて来た、前途《ゆくて》は石垣から折曲る、しばらくここに窪《くぼ》んだ処、ちょうどその寺の苔蒸《こけむ》した青黒い段の下、小溝《こみぞ》があって、しぼまぬ月草、紺青の空が漏れ透くかと、露もはらはらとこぼれ咲いて、藪《やぶ》は自然の寺の垣。  ちょうどそのたらたら坂を下りた、この竹藪のはずれに、草鞋《わらじ》、草履、駄菓子の箱など店に並べた、屋根は茅《かや》ぶきの、且つ破れ、且つ古びて、幾秋《いくあき》の月や映《さ》し、雨や漏りけん。入口の土間なんど、いにしえの沼の干かたまったをそのままらしい。廂は縦に、壁は横に、今も屋台は浮き沈み、危《あやう》く掘立《ほったて》の、柱々、放れ放《ばな》れに傾いているのを、渠《かれ》は何心なく見て過ぎた。連れはその店へ寄った[#「寄った」は底本では「寄つた」]のである。 「昔……昔、浦島は、小児《こども》の捉《とら》えし亀を見て、あわれと思い買い取りて、……」と、誦《すさ》むともなく口にしたのは、別荘のあたりの夕間暮れに、村の小児等《こどもら》の唱うのを聞き覚えが、折から心に移ったのである。  銑太郎は、ふと手にした巻莨《まきたばこ》に心着いて、唄をやめた。 「早附木《マッチ》を買いに入ったのかな。」  うっかりして立ったのが、小店《こみせ》の方《かた》に目を注いで、 「ああ、そうかも知れん。」と夏帽の中で、頷《うなず》いて独言《ひとりごと》。  別に心に留めもせず、何の気もなくなると、つい、うかうかと口へ出る。 「一日《あるひ》大きな亀が出て、か。もうしもうし浦島さん――」  帽を傾け、顔を上げたが、藪に並んで立ったのでは、此方《こなた》の袖に隠れるので、路《みち》を対方《むこう》へ。別荘の袖垣から、斜《ななめ》に坂の方を透かして見ると、連《つれ》の浴衣は、その、ほの暗い小店に艶《えん》なり。 「何をしているんだろう。もうしもうし浦島さん……じゃない、浦子さんだ。」  と破顔しつつ、帽のふちに手をかけて、伸び上るようにしたけれども、軒を離れそうにもせぬのであった。 「店ぐるみ総じまいにして、一箇《ひとつ》々々袋へ入れたって、もう片が附く時分じゃないか。」  と呟《つぶや》くうちに真面目《まじめ》になった、銑太郎は我ながら、 「串戯《じょうだん》じゃない、手間が取れる。どうしたんだろう、おかしいな。」        二  とは思ったが、歴々《ありあり》彼処《かしこ》に、何の異状なく彳《たたず》んだのが見えるから、憂慮《きづかう》にも及ぶまい。念のために声を懸けて呼ぼうにも、この真昼間《まっぴるま》。見える処に連《つれ》を置いて、おおいおおいも茶番らしい、殊に婦人《おんな》ではあるし、と思う。  今にも来そうで、出向く気もせず。火のない巻莨《まきたばこ》を手にしたまま、同じ処に彳んで、じっと其方《そなた》を。  何《なん》となくぼんやりして、ああ、家も、路《みち》も、寺も、竹藪《たけやぶ》を漏る蒼空《あおぞら》ながら、地《つち》の底の世にもなりはせずや、連《つれ》は浴衣の染色《そめいろ》も、浅き紫陽花《あじさい》の花になって、小溝《こみぞ》の暗《やみ》に俤《おもかげ》のみ。我はこのまま石になって、と気の遠くなった時、はっと足が出て、風が出て、婦人《おんな》は軒を離れて出た。  小走りに急いで来る、青葉の中に寄る浪のはらはらと爪尖《つまさき》白く、濃い黒髪の房《ふさ》やかな双の鬢《びんづら》、浅葱《あさぎ》の紐《ひも》に結び果てず、海水帽を絞って被《かぶ》った、豊《ゆたか》な頬《ほお》に艶《つや》やかに靡《なび》いて、色の白いが薄化粧。水色縮緬《みずいろちりめん》の蹴出《けだし》の褄《つま》、はらはら蓮《はちす》の莟《つぼみ》を捌《さば》いて、素足ながら清らかに、草履ばきの埃《ほこり》も立たず、急いで迎えた少年に、ばッたりと藪の前。 「叔母さん、」  と声をかけて、と見るとこれが音に聞えた、燃《もゆ》るような朱の唇、ものいいたさを先んじられて紅梅の花|揺《ゆら》ぐよう。黒目勝《くろめがち》の清《すず》しやかに、美しくすなおな眉の、濃きにや過ぐると煙ったのは、五日月《いつかづき》に青柳《あおやぎ》の影やや深き趣あり。浦子というは二十七。  豪商|狭島《さじま》の令室で、銑太郎には叔母に当る。  この路を去る十二三町、停車場|寄《より》の海岸に、石垣高く松を繞《めぐ》らし、廊下で繋《つな》いで三棟《みむね》に分けた、門には新築の長屋があって、手車の車夫の控える身上《しんしょう》。  裳《もすそ》を厭《いと》う砂ならば路に黄金《こがね》を敷きもせん、空色の洋服の褄を取った姿さえ、身にかなえば唐《から》めかで、羽衣着たりと持て囃《はや》すを、白襟で襲衣《かさね》の折から、羅《うすもの》に綾《あや》の帯の時、湯上りの白粉《おしろい》に扱帯《しごき》は何というやらん。この人のためならば、このあたりの浜の名も、狭島が浦と称《とな》えつびょう、リボンかけたる、笄《こうがい》したる、夏の女の多い中に、海第一と聞えた美女《たおやめ》。  帽子の裡《うち》の日の蔭に、長いまつげのせいならず、甥《おい》を見た目に冴《さえ》がなく、顔の色も薄く曇って、 「銑さん。」  とばかり云った、浴衣の胸は呼吸《いき》ぜわしい。 「どうしたんです、何を買っていらしったんです。吃驚《びっくり》するほど長かった。」  打見《うちみ》に何の仔細《しさい》はなきが、物怖《ものおじ》したらしい叔母の状《さま》を、たかだか例の毛虫だろう、と笑いながら言う顔を、情《なさけ》らしく熟《じっ》と見て、 「まあ、呑気《のんき》らしい、早附木《マッチ》を取って上げたんじゃありませんか。」  はじめて、ほッとした様子。 「頂戴! いつかの靴以来です。こうは叔母さんでなくッちゃ出来ない事です。僕もそうだろうと思ったんです。」 「そうだろうじゃありませんわ。」 「じゃ、早附木ではないんですか。」        三 「いいえ、銑さんが煙草《たばこ》を出すと、早附木《マッチ》がないから、打棄《うっちゃ》っておくと、またいつものように、煙草には思い遣《や》りがない、監督のようだなんて云うだろうと思って、気を利かして、ちょうど、あの店で、」  と身を横に、踵《かかと》を浮かして、恐《こわ》いもののように振返って、 「見附かったからね、黙って買って上げようと思って入ったんですがね、お庇《かげ》で大変な思いをしたんですよ。ああ、恐かった。」  とそのままには足も進まず、がッかりしたような風情である。 「何が、叔母さん。この日中《ひなか》に何が恐いんです。大方また毛虫でしょう、大丈夫、毛虫は追駈《おっか》けては来ませんから。」 「毛虫どころじゃアありません。」  と浦子は後《うしろ》見らるる状《さま》。声も低う、 「銑さん、よっぽどの間だったでしょう。」 「ざッと一時間……」  半分は懸直《かけね》だったのに、夫人はかえってさもありそうに、 「そうでしたかねえ、私はもっとかと思ったくらい。いつ、店を出られるだろう、と心細いッたらなかったよ。」 「なぜ、どうしたんですね、一体。」 「まあ、そろそろ歩行《ある》きましょう。何だか気草臥《きくたび》れでもしたようで、頭も脚もふらふらします。」  歩を移すのに引添うて、身体《からだ》で庇《かば》うがごとくにしつつ、 「ほんとに驚いたんですか。そういえば、顔の色もよくないようですよ。」 「そうでしょう、悚然《ぞっ》として、未《いま》だに寒気がしますもの。」  と肩を窄《すぼ》めて俯向《うつむ》いた、海水帽も前下り、頸《うなじ》白く悄《しお》れて連立つ。  少年は顔を斜めに、近々と帽の中。 「まったく色が悪い。どうも毛虫ではないようですね。」  これには答えず、やや石段の前を通った。  しばらくして、 「銑さん、」 「ええ、」 「帰途《かえり》に、またここを通るんですか。」 「通りますよ。」 「どうしても通らねば不可《いけ》ませんかねえ、どこぞ他《ほか》に路がないんでしょうか。」 「海ならあります。ここいらは叔母さん、海岸の一筋路ですから、岐路《わかれみち》といっては背後《うしろ》の山へ行《ゆ》くより他《ほか》にはないんですが、」 「困りましたねえ。」  と、つくづく云う。 「何ね、時刻に因って、汐《しお》の干ている時は、この別荘の前なんか、岩を飛んで渡られますがね、この節の月じゃどうですか、晩方干ないかも知れません。」 「船はありますか。」 「そうですね、渡船《わたしぶね》ッて別にありはしますまいけれど、頼んだら出してくれないこともないでしょう、さきへ行って聞いて見ましょう。」 「そうね。」 「何、叔母さんさえ信用するんなら、船だけ借りて、漕《こ》ぐことは僕にも漕げます。僕じゃ危険《けんのん》だというでしょう。」 「何《なん》でも可《よ》うござんすから、銑さん、貴郎《あなた》、どうにかして下さい。私はもう帰途《かえり》にあの店の前を通りたくないんです。」  とまた俯向《うつむ》いたが恐々《こわごわ》らしい。 「叔母さん、まあ、一体、何ですか。」と、余りの事に微笑《ほほえ》みながら。        四 「もう聞えやしますまいね。」  と憚《はばか》る所あるらしく、声もこの時なお低い。 「何が、どこで、叔母さん。」 「あすこまで、」 「ああ! 汚店《きたなみせ》へ、」 「大きな声をなさんなよ。」と吃驚《びっくり》したように慌《あわただ》しく、瞳《ひとみ》を据えて、密《そっ》という。 「何が聞えるもんですか。」 「じゃあね、言いますけれど、銑さん、私がね、今、早附木《マッチ》を買いに入ると、誰も居ないのよ。」 「へい?」 「下さいな、下さいなッて、そういうとね。穴が開いて、こわれごわれで、鼠の家の三階建のような、取附《とッつき》の三段の古棚の背《うしろ》のね、物置みたいな暗い中から、――藻屑《もくず》を曳《ひ》いたかと思う、汚い服装《なり》の、小さな婆《ばあ》さんがね、よぼよぼと出て来たんです。  髪の毛が真白《まっしろ》でね、かれこれ八十にもなろうかというんだけれど、その割には皺《しわ》がないの、……顔に。……身体《からだ》は痩《や》せて骨ばかり、そしてね、骨が、くなくなと柔かそうに腰を曲げてさ。  天窓《あたま》でものを見るてッたように、白髪《しらが》を振って、ふッふッと息をして、脊の低いのが、そうやって、胸を折ったから、そこらを這《は》うようにして店へ来るじゃありませんか。  早附木を下さいなッて、云ったけれど聞えません。もっともね、はじめから聞えないのは覚悟だというように、顔を上げてね、人の顔を視《なが》めてさ。目で承りましょうと云うんじゃないの。  お婆さん、早附木を下さい、早附木を、といった、私の唇の動くのを、熟《じっ》と視めていたッけがね。  その顔を上げているのが大儀そうに、またがッくり俯向《うつむ》くと、白髪の中から耳の上へ、長く、干からびた腕を出したんですがね、掌《てのひら》が大きいの。  それをね、けだるそうに、ふらふらとふって、片々《かたかた》の人指《ひとさし》ゆびで、こうね、左の耳を教えるでしょう。  聞えないと云うのかね、そんなら可《よ》うござんす。私は何だか一目見ると、厭《いや》な心持がしたんですからね、買わずと可《い》いから、そのまま店を出ようと思うと、またそう行《ゆ》かなくなりましたわ。  弱るじゃありませんか、婆さんがね、けだるそうに腰を伸ばして、耳を、私の顔の傍《そば》へ横向けに差しつけたんです。  ぷんと臭《にお》ったの。何とも言えない、きなッくさいような、醤油《おしたじ》の焦げるような、厭な臭《におい》よ。」 「や、そりゃ困りましたね。」と、これを聞いて少年も顰《ひそ》んだのである。 「早附木を下さい。 (はあ?) (早附木よ、お婆さん。) (はあ?)  はあッて云うきりなの。目を眠って、口を開けてさ、臭うでしょう。 (早附木、)ッて私は、まったくよ。銑さん、泣きたくなったの。  ただもう遁《に》げ出したくッてね、そこいら眗《みまわ》すけれど、貴下《あなた》の姿も見えなかったんですもの。  はあ、長い間よ。  それでもようよう聞えたと見えてね、口をむぐむぐとさして合点《がってん》々々をしたから、また手間を取らないようにと、直ぐにね、銅貨を一つ渡してやると、しばらくして、早附木を一ダース。  そんなには要らないから、包を破いて、自分で一つだけ取って、ああ、厄落し、と出よう、とすると、しっかりこの、」  と片手を下に、袖《そで》をかさねた袂《たもと》を揺《ゆす》ったが、気味悪そうに、胸をかわして密《そっ》と払い、 「袂をつかまえたのに、引張られて動けないじゃありませんか。」 「かさねがさね、成程、はあ、それから、」        五 「私ゃ、銑さん、どうしようかと思ったんです。  何にも云わないで、ぐんぐん引張って、かぶりを掉《ふ》るから、大方、剰銭《つり》を寄越《よこ》そうというんでしょうと思って、留りますとね。  やッと安心したように手を放して、それから向う向きになって、緡《さし》から穴のあいたのを一つ一つ。  それがまたしばらくなの。  私の手を引張るようにして、掌《てのひら》へ呉《く》れました。  ひやりとしたけれど、そればかりなら可《よ》かったのに。 (御新姐様《ごしんぞさま》や)」  と浦子の声、異様に震えて聞えたので、 「ええ、その婆《ばば》が、」 「あれ、銑さん、聞えますよ。」と、一歩《ひとあし》いそがわしく、ぴったり寄添う。 「その婆が、云ったんですか。」  夫人はまた吐息をついた。 「婆《ばあ》さんがね、ああ。」 (御新姐様や、御身《おみ》ア、すいたらしい人じゃでの、安く、なかまの値で進ぜるぞい。)ッて、皺枯《しわが》れた声でそう云うとね、ぶんと頭へ響いたんです。  そして、すいたらしいッてね、私の手首を熟《じっ》と握って、真黄色《まっきいろ》な、平《ひらっ》たい、小さな顔を振上げて、じろじろと見詰めたの。  その握った手の冷たい事ッたら、まるで氷のようじゃありませんか。そして目がね、黄金目《きんめ》なんです。  光ったわ! 貴郎《あなた》。  キラキラと、その凄《すご》かった事。」  とばかりで重そうな頭《つむり》を上げて、俄《にわ》かに黒雲や起ると思う、憂慮《きづか》わしげに仰いで視《なが》めた。空ざまに目も恍惚《うっとり》、紐《ひも》を結《ゆわ》えた頤《おとがい》の震うが見えたり。 「心持でしょう。」 「いいえ、じろりと見られた時は、その目の光で私の顔が黄色になったかと思うくらいでしたよ。灯《あかり》に近いと、赤くほてるような気がするのと同一《おんなじ》に。  もう私、二条《ふたすじ》針を刺されたように、背中の両方から悚然《ぞっ》として、足もふらふらになりました。  夢中で二三|間《げん》駈《か》け出すとね、ちゃらんと音がしたので、またハッと思いましたよ。お銭《あし》を落したのが先方《さき》へ聞えやしまいかと思って。  何でも一大事のように返した剰銭《つり》なんですもの、落したのを知っては追っかけて来かねやしません。銑さん、まあ、何てこッてしょう、どうした婆さんでしょうねえ。」  されば叔母上の宣《のたま》うごとし。年紀《とし》七十《ななそじ》あまりの、髪の真白《まっしろ》な、顔の扁《ひらた》い、年紀の割に皺《しわ》の少い、色の黄な、耳の遠い、身体《からだ》の臭《にお》う、骨の軟かそうな、挙動《ふるまい》のくなくなした、なおその言《ことば》に従えば、金色《こんじき》に目の光る嫗《おうな》とより、銑太郎は他に答うる術《すべ》を知らなかった。  ただその、早附木《マッチ》一つ買い取るのに、半時ばかり経《た》った仔細《しさい》が知れて、疑《うたがい》はさらりとなくなったばかりであるから、気の毒らしい、と自分で思うほど一向な暢気《のんき》。 「早附木は? 叔母さん。」と魅せられたものの背中を一つ、トンと打つようなのを唐突《だしぬけ》に言った。 「ああ、そうでした。」  と心着くと、これを嫗に握られた、買物を持った右の手は、まだ左の袂《たもと》の下に包んだままで、撫肩《なでがた》の裄《ゆき》をなぞえに、浴衣の筋も水に濡れたかと、ひたひたとしおれて、片袖しるく、悚然《ぞっ》としたのがそのままである。大事なことを見るがごとく、密《そっ》とはずすと、銑太郎も覗《のぞ》くように目を注いだ。 「おや!」 「…………」        六  黒の唐繻子《とうじゅす》と、薄鼠《うすねずみ》に納戸がかった絹ちぢみに宝づくしの絞《しぼり》の入った、腹合せの帯を漏れた、水紅色《ときいろ》の扱帯《しごき》にのせて、美しき手は芙蓉《ふよう》の花片《はなびら》、風もさそわず無事であったが、キラリと輝いた指環《ゆびわ》の他《ほか》に、早附木《マッチ》らしいものの形も無い。  視詰《みつ》めて、夫人は、 「…………」ものも得《え》いわぬのである。 「ああ、剰銭《つり》と一所に遺失《おと》したんだ。叔母さんどの辺?」  と気早《きばや》に向き返って行《ゆ》こうとする。 「お待ちなさいよ。」  と遮って上げた手の、仔細《しさい》なく動いたのを、嬉しそうに、少年の肩にかけて、見直して呼吸《いき》をついて、 「銑さん、お止《よ》しなさいお止しなさい、気味が悪いから、ね、お止しなさい。」  とさも一生懸命。圧《おさ》えぬばかりに引留めて、 「あんなものは、今頃何に化《な》っているか分りませんよ、よう、ですから、銑さん。」 「じゃ止します、止しますがね。」  少年は余りの事に、 「ははははは、何だか妖物《ばけもの》ででもあるようだ。」と半ば呟《つぶや》いて、また笑った。 「私は妖物としか考えないの、まさか居ようとは思われないけれど。」 「妖物ですとも、妖物ですがね、そのくなくなした処や、天窓《あたま》で歩行《ある》きそうにする処から、黄色く※[#「亠/(田+久)」、200-7]《うね》った処なんぞ、何の事はない婆《ばば》の毛虫だ。毛虫の婆《ばあ》さんです。」 「厭《いや》ですことねえ。」と身ぶるいする。 「何もそんなに、気味を悪がるには当らないじゃありませんか。その婆に手を握られたのと、もしか樹の上から、」  と上を見る。藪《やぶ》は尽きて高い石垣、榎《えのき》が空にかぶさって、浴衣に薄き日の光、二人は月夜を行《ゆ》く姿。 「ぽたりと落ちて、毛虫が頸筋《くびすじ》へ入ったとすると、叔母さん、どっちが厭な心持だと思います。」 「沢山よ、銑さん、私はもう、」 「いえ、まあ、どっちが気味が悪いんですね。」 「そりゃ、だって、そうねえ、どっちがどっちとも言えませんね。」 「そら御覧なさい。」  説き得て可《よ》しと思える状《さま》して、 「叔母さんは、その婆を、妖物か何ぞのように大騒ぎを遣《や》るけれど、気味の悪い、厭な感じ。」  感じ、と声に力を入れて、 「感じというと、何だか先生の仮声《こわいろ》のようですね。」 「気楽なことをおっしゃいよ!」 「だって、そうじゃありませんか、その気味の悪い、厭な感じ、」 「でも先生は、工合《ぐあい》の可《い》いとか、妙なとか、おもしろい感じッて事は、お言いなさるけれど、気味の悪いだの、厭な感じだのッて、そんな事は、めったにお言いなさることはありません。」 「しかしですね、詰《つま》らない婆を見て、震えるほど恐《こわ》がった、叔母さんの風《ふう》ッたら……工合の可《い》い、妙な、おもしろい感じがする、と言ったら、叔母さんは怒るでしょう。」 「当然《あたりまえ》ですわ、貴郎《あなた》。」 「だからこの場合ですもの。やっぱり厭な感じだ。その気味の悪い感じというのが、毛虫とおなじぐらいだと思ったらどうです。別に不思議なことは無いじゃありませんか。毛虫は気味が悪い、けれども怪《あやし》いものでも何でもない。」 「そう言えばそうですけれど、だって婆さんの、その目が、ねえ。」 「毛虫にだって、睨《にら》まれて御覧なさい。」 「もじゃもじゃと白髪《しらが》が、貴郎。」 「毛虫というくらいです、もじゃもじゃどころなもんですか、沢山毛がある。」 「まあ、貴下《あなた》の言うことは、蝸牛《でんでんむし》の狂言のようだよ。」と寂しく笑ったが、 「あれ、」  寺でカンカンと鉦《かね》を鳴らした。 「ああ、この路の長かったこと。」        七  釣棹《つりざお》を、ト肩にかけた、処士あり。年紀《とし》のころ三十四五。五分刈《ごぶがり》のなだらかなるが、小鬢《こびん》さきへ少し兀《は》げた、額の広い、目のやさしい、眉の太い、引緊《ひきしま》った口の、やや大きいのも凜々《りり》しいが、頬肉《ほおじし》が厚く、小鼻に笑《え》ましげな皺《しわ》深く、下頤《したあご》から耳の根へ、べたりと髯《ひげ》のあとの黒いのも柔和である。白地に藍《あい》の縦縞《たてじま》の、縮《ちぢみ》の襯衣《しゃつ》を着て、襟のこはぜも見えそうに、衣紋《えもん》を寛《ゆる》く紺絣《こんがすり》、二三度水へ入ったろう、色は薄く地《じ》も透いたが、糊沢山《のりだくさん》の折目高。  薩摩下駄《さつまげた》の小倉《こくら》の緒《お》、太いしっかりしたおやゆびで、蝮《まむし》を拵《こしら》えねばならぬほど、弛《ゆる》いばかりか、歪《ゆが》んだのは、水に対して石の上に、これを台にしていたのであった。  時に、釣れましたか、獲物を入れて、片手に提《ひっさ》ぐべき畚《びく》は、十八九の少年の、洋服を着たのが、代りに持って、連立って、海からそよそよと吹く風に、山へ、さらさらと、蘆《あし》の葉の青く揃って、二尺ばかり靡《なび》く方へ、岸づたいに夕日を背《せな》。峰を離れて、一刷《ひとはけ》の薄雲を出《いで》て玉のごとき、月に向って帰途《かえりみち》、ぶらりぶらりということは、この人よりぞはじまりける。 「賢君、君の山越えの企ては、大層帰りが早かったですな。」  少年は莞爾《にこ》やかに、 「それでも一抱えほど山百合を折って来ました。帰って御覧なさい、そりゃ綺麗《きれい》です。母の部屋へも、先生の床の間へも、ちゃんと活《い》けるように言って来ました。」 「はあ、それは難有《ありがた》い。朝なんざ崖《がけ》に湧《わ》く雲の中にちらちら燃えるようなのが見えて、もみじに朝霧がかかったという工合でいて、何となく高峰《たかね》の花という感じがしたのに、賢君の丹精で、机の上に活かったのは感謝する。  早く行って拝見しよう、……が、また誰か、台所の方で、私の帰るのを待っているものはなかったですか。」  と小鼻の左右の線を深く、微笑を含んで少年を。  顔を見合わせて此方《こなた》も笑い、 「はははは、松が大層待っていました。先生のお肴《さかな》を頂こうと思って、お午飯《ひる》も控えたって言っていましたっけ。」 「それだ。なかなか人が悪い。」広い額に手を加える。 「それに、母も、先生。お土産を楽しみにして、お腹をすかして帰るからって、言づけをしたそうです。」 「益々《ますます》恐縮。はあ、で、奥さんはどこかへお出かけで。」 「銑さんが一所だそうです。」 「そうすると、その連《つれ》の人も、同じく土産を待つ方なんだ。」 「勿論です。今日ばかりは途中で叔母さんに何にも強請《ねだ》らない。犬川で帰って来て、先生の御馳走《ごちそう》になるんですって。」  とまた顔を見る。  この時、先生|愕然《がくぜん》として頸《うなじ》をすくめた。 「あかぬ! 包囲攻撃じゃ、恐るべきだね。就中《なかんずく》、銑太郎などは、自分釣棹をねだって、貴郎《あなた》が何です、と一言の下《もと》に叔母御《おばご》に拒絶された怨《うらみ》があるから、その祟《たた》り容易ならずと可知矣《しるべし》。」  と蘆の葉ずれに棹を垂れて、思わず観念の眼《まなこ》を塞《ふさ》げば、少年は気の毒そうに、 「先生、買っていらっしゃい。」 「買う?」 「だって一|尾《ぴき》も居ないんですもの。」  と今更ながら畚《びく》を覗《のぞ》くと、冷《つめた》い磯《いそ》の香《におい》がして、ざらざらと隅に固まるものあり、方丈記に曰《いわ》く、ごうなは小さき貝を好む。        八  先生は見ざる真似《まね》して、少年が手に傾けた件《くだん》の畚《びく》を横目に、 「生憎《あいにく》、沙魚《はぜ》、海津《かいづ》、小鮒《こぶな》などを商う魚屋がなくって困る。奥さんは何も知らず、銑太郎なお欺くべしじゃが、あの、お松というのが、また悪く下情《かじょう》に通じておって、ごうなや川蝦《かわえび》で、鰺《あじ》やおぼこの釣れないことは心得ておるから。これで魚屋へ寄るのは、落語の権助が川狩の土産に、過って蒲鉾《かまぼこ》と目刺を買ったより一層の愚じゃ。  特に餌《えさ》の中でも、御馳走の川蝦は、あの松がしんせつに、そこらで掬《すく》って来てくれたんで、それをちぎって釣る時分は、浮木《うき》が水面に届くか届かぬに、ちょろり、かいず奴《め》が攫《さら》ってしまう。  大切な蝦五つ、瞬く間にしてやられて、ごうなになると、糸も動かさないなどは、誠に恥入るです。  私は賢君が知っとる通り、ただ釣という事におもしろい感じを持って行《や》るのじゃで、釣れようが釣れまいが、トンとそんな事に頓着《とんちゃく》はない。  次第に因ったら、針もつけず、餌なしに試みて可《い》いのじゃけれど、それでは余り賢人めかすようで、気咎《きとがめ》がするから、成るべく餌も附着《くッつ》けて釣る。獲物の有無《ありなし》でおもしろ味に変《かわり》はないで、またこの空畚《からびく》をぶらさげて、蘆《あし》の中を釣棹《つりざお》を担いだ処も、工合の可《い》い感じがするのじゃがね。  その様子では、諸君に対して、とてもこのまま、棹を掉《ふ》っては[#「掉《ふ》っては」は底本では「掉《ふ》つては」]帰られん。  釣を試みたいと云うと、奥様が過分な道具を調えて下すった。この七本竹の継棹《つぎざお》なんぞ、私には勿体《もったい》ないと思うたが、こういう時は役に立つ。  一つ畳み込んで懐中《ふところ》へ入れるとしよう、賢君、ちょっとそこへ休もうではないか。」  と月を見て立停《たちどま》った、山の裾《すそ》に小川を控えて、蘆が吐き出した茶店が一軒。薄い煙に包まれて、茶は沸いていそうだけれど、葦簀張《よしずばり》がぼんやりして、かかる天気に、何事ぞ、雨露に朽ちたりな。 「可《い》いじゃありませんか、先生、畚は僕が持っていますから、松なんぞ愚図々々《ぐずぐず》言ったら、ぶッつけてやります。」  無二の味方で頼母《たのも》しく慰めた。 「いやまた、こう辟易《へきえき》して、棹を畳んで、懐中《ふところ》へ了《しま》い込んで、煙管筒《きせるづつ》を忘れた、という顔で帰る処もおもしろい感じがするで。  それに咽喉《のど》も乾いた、茶を一つ飲みましょう。まず休んで、」  と三足《みあし》ばかり、路を横へ、茶店の前の、一間ばかり蘆が左右へ分れていた、根が白く濡地《ぬれち》が透いて見えて、ぶくぶくと蟹《かに》の穴、うたかたのあわれを吹いて、茜《あかね》がさして、日は未《いま》だ高いが虫の声、艪《ろ》を漕《こ》ぐように、ギイ、ギッチョッ、チョ。 「さあ、お掛け。」  と少年を、自分の床几《しょうぎ》の傍《わき》に居《お》らせて、先生は乾くと言った、その唇を撫《な》でながら、 「茶を一つ下さらんか。」  暗い中から白い服装《なり》、麻の葉いろの巻つけ帯で、草履の音、ひた――ひた、と客を見て早や用意をしたか、蟋蟀《きりぎりす》の噛《かじ》った塗盆《ぬりぼん》に、朝顔茶碗の亀裂《ひび》だらけ、茶渋で錆《さ》びたのを二つのせて、 「あがりまし、」  と据えて出し、腰を屈《かが》めた嫗《おうな》を見よ。一筋ごとに美しく櫛《くし》の歯を入れたように、毛筋が透《とお》って、生際《はえぎわ》の揃った、柔かな、茶にやや褐《かば》を帯びた髪の色。黒き毛、白髪《しらが》の塵《ちり》ばかりをも交《まじ》えぬを、切髪《きりかみ》にプツリと下げた、色の白い、艶《つや》のある、細面《ほそおもて》の頤《おとがい》尖《とが》って、鼻筋の衝《つ》と通った、どこかに気高い処のある、年紀《とし》は誰《た》が目も同一《おなじ》……である。        九 「渺々乎《びょうびょうこ》として、蘆《あし》じゃ。お婆さん、好《いい》景色だね。二三度来て見た処ぢゃけれど、この店の工合が可《い》いせいか、今日は格別に広く感じる。  この海の他《ほか》に、またこんな海があろうとは思えんくらいじゃ。」  と頷《うなず》くように茶を一口。茶碗にかかるほど、襯衣《しゃつ》の袖の膨《ふく》らかなので、掻抱《かいいだ》く体《てい》に茶碗を持って。  少年はうしろ向《むき》に、山を視《なが》めて、おつきあいという顔色《かおつき》。先生の影二尺を隔てず、窮屈そうにただもじもじ。  嫗《おうな》は威儀正しく、膝《ひざ》のあたりまで手を垂れて、 「はい、申されまする通り、世がまだ開けませぬ泥沼の時のような蘆原《あしはら》でござるわや。  この川沿《かわぞい》は、どこもかしこも、蘆が生えてあるなれど、私《わし》が小家《こいえ》のまわりには、また多《いこ》う茂ってござる。  秋にもなって見やしゃりませ。丈が高う、穂が伸びて、小屋は屋根に包まれる、山の懐も隠れるけに、月も葉の中から出《で》さされて、蟹《かに》が茎へ上《あが》っての、岡沙魚《おかはぜ》というものが根の処で跳ねるわや、漕《こ》いで入る船の艪櫂《ろかい》の音も、水の底に陰気に聞えて、寂しくなるがの。その時稲が実るでござって、お日和《ひより》じゃ、今年は、作も豊年そうにござります。  もう、このように老い朽ちて、あとを頂く御菩薩《ごぼさつ》の粒も、五つ七つと、算《かぞ》えるようになったれども、生《しょう》あるものは浅間《あさま》しゅうての、蘆の茂るを見るにつけても、稲の太るが嬉しゅうてなりませぬ、はい、はい。」  と細いが聞くものの耳に響く、透《とお》る声で言いながら、どこをどうしたら笑えよう、辛き浮世の汐風《しおかぜ》に、冷《つめた》く大理石になったような、その仏造った顔に、寂しげに莞爾《にっこり》笑った。鉄漿《かね》を含んだ歯が揃って、貝のように美しい。それとなお目についたは、顔の色の白いのに、その眠ったような繊《ほそ》い目の、紅《くれない》の糸、と見るばかり、赤く線を引いていたのである。 「成程、はあ、いかにも、」  と言ったばかり、嫗の言《ことば》は、この景に対するものをして、約半時の間、未来の秋を想像せしむるに余りあって、先生は手なる茶碗を下にも措《お》かず、しばらく蘆を見て、やがてその穂の人の丈よりも高かるべきを思い、白泡のずぶずぶと、濡土《ぬれつち》に呟《つぶや》く蟹の、やがてさらさらと穂に攀《よ》じて、鋏《はさみ》に月を招くやなど、茫然《ぼうぜん》として視《なが》めたのであった。  蘆の中に路があって、さらさらと葉ずれの音、葦簀《よしず》の外へまた一人、黒い衣《きもの》の嫗が出て来た。  茶色の帯を前結び、肩の幅広く、身もやや肥えて、髪はまだ黒かったが、薄さは条《すじ》を揃えたばかり。生際《はえぎわ》が抜け上って頭《つむり》の半ばから引詰《ひッつ》めた、ぼんのくどにて小さなおばこに、櫂《かい》の形の笄《こうがい》さした、片頬《かたほ》痩《や》せて、片頬《かたほ》肥《ふと》く、目も鼻も口も頤《あご》も、いびつ形《なり》に曲《ゆが》んだが、肩も横に、胸も横に、腰骨のあたりも横に、だるそうに手を組んだ、これで釣合いを取るのであろう。ただそのままでは根から崩れて、海の方へ横倒れにならねばならぬ。  肩と首とで、うそうそと、斜めに小屋を差覗《さしのぞ》いて、 「ござるかいの、お婆さん。」  と、片頬夕日に眩《まぶ》しそう、ふくれた片頬は色の悪さ、蒼《あお》ざめて藍《あい》のよう、銀色のどろりとした目、瞬《またたき》をしながら呼んだ。  駄菓子の箱を並べた台の、陰に入って踞《しゃが》んで居た、此方《こなた》の嫗《おうな》が顔を出して、 「主《ぬし》か。やれもやれも、お達者でござるわや。」  と、ぬいと起《た》つと、その紅糸《べにいと》の目が動く。        十  来たのが口もあけず、咽喉《のど》でものを云うように、顔も静《じっ》と傾いたるまま、 「主《ぬし》もそくさいでめでたいぞいの。」 「お天気模様でござるわや。暑さには喘《あえ》ぎ、寒さには悩み、のう、時候よければ蛙《かわず》のように、くらしの蛇に追われるに、この年になるまでも、甘露の日和《ひより》と聞くけれども、甘い露は飲まぬわよ、ほほほ、」  と薄笑いした、また歯が黒い。 「おいの、さればいの、お互《たがい》に砂《いさご》の数ほど苦しみのたねは尽きぬ事いの。やれもやれも、」と言いながら、斜めに立った[#「立った」は底本では「立つた」]廂《ひさし》の下、何を覗《のぞ》くか爪立《つまだ》つがごとくにして、しかも肩腰は造りつけたもののよう、動かざること如朽木《くちきのごとし》。 「若い衆《しゅ》の愚痴《ぐち》より年よりの愚痴じゃ、聞く人も煩《うる》さかろ、措《お》かっしゃれ、ほほほ。のう、お婆さん。主はさてどこへ何を志して出てござった、山かいの、川かいの。」 「いんにゃの、恐しゅう歯がうずいて、きりきり鑿《のみ》で抉《えぐ》るようじゃ、と苦しむ者があるによって、私《わし》がまじのうて進じょうと、浜へ鱏《えい》の針掘りに出たらばよ、猟師どもの風説《うわさ》を聞かっしゃれ。志す人があって、この川ぞいの三股《みつまた》へ、石地蔵が建つというわいの。」  それを聞いて、フト振向いた少年の顔を、ぎろりと、その銀色の目で流眄《しりめ》にかけたが、取って十八の学生は、何事も考えなかった。 「や、風説《うわさ》きかぬでもなかったが、それはまことでござるかいの。」 「おいのおいの、こんな難有《ありがた》い奇特なことを、うっかり聞いてござる年紀《とし》ではあるまいがや、ややお婆さん。  主は気が長いで、大方何じゃろうぞいの、地蔵様|開眼《かいげん》が済んでから、杖《つえ》を突張《つッぱ》って参らしゃます心じゃろが、お互に年紀じゃぞや。今の時世《ときよ》に、またとない結縁《けちえん》じゃに因って、半日も早うのう、その難有《ありがた》い人のお姿拝もうと思うての、やらやっと重たい腰を引立《ひった》てて出て来たことよ。」  紅糸《べにいと》の目はまた揺れて、 「奇特にござるわや。さて、その難有《ありがた》い人は誰でござる。」 「はて、それを知らしゃらぬ。主としたものは何ということぞいの。  このさきの浜際に、さるの、大長者《おおちょうじゃ》どのの、お別荘がござるてよ。その長者の奥様じゃわいの。」 「それが御建立なされるかよ。」 「おいの、いんにゃいの、建てさっしゃるはその奥様に違いないが、発願《ほつがん》した篤志《こころざし》の方はまた別にあるといの。  聞かっしゃれ。  その奥様は、世にも珍らしい、三十二相そろわしった美しい方じゃとの、膚《はだ》があたたかじゃに因って人間よ、冷たければ天女じゃ、と皆いうのじゃがの、その長者どのの後妻《うわなり》じゃ、うわなりでいさっしゃる。  よってその長者どのとは、三十の上も年紀が違うて、男の児《こ》が一人ござって、それが今年十八じゃ。  奥様は、それ、継母《ままはは》いの。  気立《きだて》のやさしい、膚も心も美しい人じゃによって、継母|継児《ままこ》というようなものではなけれども、なさぬなかの事なれば、万に一つも過失《あやまち》のないように、とその十四の春ごろから、行《おこない》の正しい、学のある先生様を、内へ頼みきりにして傍《そば》へつけておかしゃった。」  二人は正にそれなのである。        十一 「よいかの、十四の年からこの年まで、四五六七八と五年の間、寝るにも起《おき》るにも附添うて、しんせつにお教えなすった、その先生様のたんせいというものは、一通《ひととおり》の事ではなかったとの。  その効《かい》があってこの夏はの、そのお子がさる立派な学校へ入らっしゃるようになったに就いて、先生様は邸《やしき》を出て、自分の身体《からだ》になりたいといわっしゃる。  それまで受けた恩があれば、お客分にして一生置き申そうということなれど、宗旨々々のお祖師様でも、行《ゆ》きたい処へ行かっしゃる。無理やりに留めますことも出来んでのう。」 「ほんにの、お婆さん。」 「今度いよいよ長者どのの邸を出さっしゃるに就いて、長い間御恩になった、そのお礼心というのじゃよ。何ぞ早や、しるしに残るものを、と言うて、黄金《こがね》か、珠玉《たま》か、と尋ねさっしゃるとの。  その先生様、地蔵尊の一体建立して欲しいと言わされたとよ。  そう云えば何となく、顔容《かおかたち》も柔和での、石の地蔵尊に似てござるお人じゃそうなげな。」  先生は面《おもて》を背けて、笑《えみ》を含んで、思わずその口のあたりを擦《こす》ったのである。 「それは奇特じゃ、小児衆《こどもしゅ》の世話を願うに、地蔵様に似さしった人は、結構にござることよ。」 「さればその事よ。まだ四十にもならっしゃらぬが、慾《よく》も徳も悟ったお方じゃ。何事があっても莞爾々々《にこにこ》とさっせえて、ついぞ、腹立たしったり、悲しがらしった事はないけに、何としてそのように難有《ありがた》い気になられたぞ、と尋ねるものがあるわいの。  先生様が言わっしゃるには、伝もない、教《おしえ》もない。私《わし》はどうした結縁《けちえん》か、その顔色《かおつき》から容子《ようす》から、野中にぼんやり立たしましたお姿なり、心から地蔵様が気に入って、明暮《あけくれ》、地蔵、地蔵と念ずる。  痛い時、辛い時、口惜《くちおし》い時、怨《うら》めしい時、情《なさけ》ない時と、事どもが、まああってもよ。待てな、待てな、さてこうした時に、地蔵菩薩《じぞうぼさつ》なら何となさる、と考えれば胸も開いて、気が安らかになることじゃ、と申されたげな。お婆さん、何と奇特な事ではないかの。」 「御奇特でござるのう。」 「じゃでの、何の心願というでもないが、何かしるしをといわるるで思いついた、お地蔵一体建立をといわっしゃる。  折から夏休みにの、お邸中《やしきじゅう》が浜の別荘へ来てじゃに就いて、その先生様も見えられたが、この川添《かわぞい》の小橋の際《きわ》のの、蘆《あし》の中へ立てさっしゃる事になって、今日はや奥さまがの、この切通しの崖《がけ》を越えて、二つ目の浜の石屋が方《かた》へ行《ゆ》かれたげじゃ。  のう、先生様は先生様、また難有《ありがた》いお方として、浄財《おたから》を喜捨なされます、その奥様の事いの。  少《わか》い身そらに、御奇特な、たとえ御自分の心からではないとして、その先生様の思召《おぼしめし》に嬉し喜んで従わせえましたのが、はや菩薩の御弟子《みでし》でましますぞいの。  七歳の竜女とやらじゃ。  結縁《けちえん》しょう。年をとると気忙《きぜわ》しゅうて、片時もこうしてはおられぬわいの、はやくその美しいお姿を拝もうと思うての。それで、はい、お婆さん、えッちらえッちら出て来たのじゃ。」 「おう、されば、これから二つ目へおざるかや。」 「さればいの、行くわいの。」 「ござれござれ。私《わし》も店をかたづけたら、路ばたへ出て、その奥様の、帰らしゃますお顔を拝もうぞいの。」  赤目の嫗《おうな》は自から深く打頷《うちうなず》いた。        十二  時に色の青い銀の目の嫗《おうな》は、対手《あいて》の頤《おとがい》につれて、片がりながら、さそわれたように頷《うなず》いたが、肩を曲げたなり手を腰に組んだまま、足をやや横ざまに左へ向けた。 「帰途《かえり》のほどは宵月《よいづき》じゃ、ちらりとしたらお姿を見はずすまいぞや。かぶりものの中、気をつけさっしゃれ。お方くらい、美しい、紅《べに》のついた唇は少ないとの。薄化粧に変りはのうても、膚《はだ》の白いがその人じゃ、浜方じゃで紛《まぎ》れはないぞの、可《よ》いか、お婆さん、そんなら私《わし》は行くわいの。」 「茶一つ参らぬか、まあ可《い》いで。」 「預けましょ。」 「これは麁末《そまつ》なや。」 「お雑作でござりました。」  と斉《ひと》しく前へ傾きながら、腰に手を据えて、てくてくと片足ずつ、右を左へ、左を右へ、一ツずつ蹈《ふ》んで五足《いつあし》六足《むあし》。 「ああ、これな、これな。」  と廂《ひさし》の夕日に手を上げて、たそがれかかる姿を呼べば、蘆《あし》を裾《すそ》なる背影《うしろかげ》。 「おい、」とのみ、見も返らず、ハタと留まって、打傾いた、耳をそのまま言《ことば》を待つ。 「主《ぬし》、今のことをの、坂下の姉《あね》さまにも知らしてやらしゃれ、さだめし、あの児《こ》も拝みたかろ。」  聞きつけて、件《くだん》の嫗、ぶるぶると頭《かぶり》を掉《ふ》った。 「むんにゃよ、年紀《とし》が上だけに、姉《あね》さまは御生《ごしょう》のことは抜からぬぞの。八丈ヶ島に鐘が鳴っても、うとい耳に聞く人じゃ。それに二つ目へ行かっしゃるに、奥様は通り路。もう先刻《さっき》に拝んだじゃろうが、念のためじゃ立寄りましょ。ああ、それよりかお婆さん、」  と片頬《かたほ》を青く捻《ね》じ向けた、鼻筋に一つの目が、じろりと此方《こなた》を見て光った。 「主《ぬし》、数珠《じゅず》を忘れまいぞ。」 「おう、可《よ》いともの、お婆さん、主、その鱏《えい》の針を落さっしゃるな。」 「御念には及ばぬわいの。はい、」  と言って、それなり前途《むこう》へ、蘆を分ければ、廂《ひさし》を離れて、一人は店を引込《ひっこ》んだ。磯《いそ》の風|一時《ひとしきり》、行《ゆ》くものを送って吹いて、颯《さっ》と返って、小屋をめぐって、ざわざわと鳴って、寂然《ひっそり》した。  吻々吻《ほほほ》と花やかな、笑い声、浜のあたりに遥《はるか》に聞ゆ。  時に一碗の茶を未《いま》だ飲干さなかった、先生はツト心着いて、いぶかしげな目で、まず、傍《かたわら》なる少年の並んで坐った背《せな》を見て、また四辺《あたり》を眗《みまわ》したが、月夜の、夕日に返ったような思いがした。  嫗《おうな》の言《ことば》が渠《かれ》を魅したか、その蘆の葉が伸びて、山の腰を蔽《おお》う時、水底《みなそこ》を船が漕《こ》いで、岡沙魚《おかはぜ》というもの土に跳ね、豆蟹《まめがに》の穂末《ほずえ》に月を見る状《さま》を、目《ま》のあたりに目に浮べて、秋の夜の月の趣に、いつか心の取られた耳へ、蘆の根の泡立つ音、葉末を風の戦《そよ》ぐ声、あたかも天地《あめつち》の呟《つぶや》き囁《ささや》くがごとく、我が身の上を語るのを、ただ夢のように聞きながら、顔の地蔵に似たなどは、おかしと現《うつつ》にも思ったが、いつごろ、どの時分、もう一人の嫗《おうな》が来て、いつその姿が見えなくなったか、定かには覚えなかった。たとえば、そよそよと吹く風の、いつ来て、いつ歇《や》んだかを覚えぬがごとく、夕日の色の、何の機《とき》に我が袖《そで》を、山陰へ外れたかを語らぬごとく。  さればその間、およそ、時のいかばかりを過ぎたかを弁《わきま》えず、月夜とばかり思ったのも、明るく晴れた今日である。いつの程にか、継棹《つぎざお》も少年の手に畳まれて、袋に入って、紐までちゃんと結《ゆわ》えてあった。  声をかけて見ようと思う、嫗は小屋で暗いから、他《ほか》の一人はそこへと見|遣《や》るに、誰《たれ》も無し、月を肩なる、山の裾、蘆を裀《しとね》の寝姿のみ。 「賢、」  と呼んだ、我ながら雉子《きじ》のように聞えたので、呟《せきばらい》して、もう一度、 「賢君、」 「は、」  と快活に返事する。 「今の婆さんは幾歳《いくつ》ぐらいに見えました。」 「この茶店のですか。」 「いや、もう一人、……ここへ来た年寄が居たでしょう。」 「いいえ。」        十三 「あれえ! ああ、あ、ああ……」  恐《こわ》かった、胸が躍って、圧《おさ》えた乳房重いよう、忌《いま》わしい夢から覚めた。――浦子は、独り蚊帳《かや》の裡《うち》。身の戦《わなな》くのがまだ留《や》まねば、腕を組違えにしっかと両の肩を抱いた、腋《わき》の下から脈を打って、垂々《たらたら》と冷《つめた》い汗。  さてもその夜《よ》は暑かりしや、夢の恐怖《おそれ》に悶《もだ》えしや、紅裏《もみうら》の絹の掻巻《かいまき》、鳩尾《みずおち》を辷《すべ》り退《の》いて、寝衣《ねまき》の衣紋《えもん》崩れたる、雪の膚《はだえ》に蚊帳の色、残燈《ありあけ》の灯に青く染まって、枕《まくら》に乱れた鬢《びん》の毛も、寝汗にしとど濡れたれば、襟白粉《えりおしろい》も水の薫《かおり》、身はただ、今しも藻屑《もくず》の中を浮び出でたかの思《おもい》がする。  まだ身体《からだ》がふらふらして、床の途中にあるような。これは寝た時に今も変らぬ、別に怪しい事ではない。二つ目の浜の石屋が方《かた》へ、暮方仏像をあつらえに往《い》った帰りを、厭《いや》な、不気味な、忌わしい、婆《ばば》のあらもの屋の前が通りたくなさに、ちょうど満潮《みちしお》を漕《こ》げたから、海松布《みるめ》の流れる岩の上を、船で帰って来たせいであろう。艪《ろ》を漕いだのは銑さんであった、夢を漕いだのもやっぱり銑さん。  その時は折悪《おりあし》く、釣船も遊山船《ゆさんぶね》も出払って、船頭たちも、漁、地曳《じびき》で急がしいから、と石屋の親方が浜へ出て、小船を一|艘《そう》借りてくれて、岸を漕いでおいでなさい、山から風が吹けば、畳を歩行《ある》くより確《たしか》なもの、船をひっくりかえそうたって、海が合点《がってん》するものではねえと、大丈夫に承合《うけあ》うし、銑太郎もなかなか素人離れがしている由、人の風説《うわさ》も聞いているから、安心して乗って出た。  岩の間をすらすらと縫って、銑さんが船を持って来てくれる間、……私は銀の粉を裏ごしにかけたような美しい砂地に立って、足許《あしもと》まで藍《あい》の絵具を溶いたように、ひたひた軽く寄せて来る、浪に心は置かなかったが、またそうでもない。先刻《さっき》の荒物屋が背後《うしろ》へ来て、あの、また変な声で、御新姐様《ごしんぞさま》や、といいはしまいかと、大抵気を揉《も》んだ事ではない。……  婆さんは幾らも居る、本宅のお針も婆さんなら、自分に伯母が一人、それもお婆さん。第一近い処が、今内に居る、松やの阿母《おふくろ》だといって、この間隣村から尋ねて来た、それも年より。なぜあんなに恐ろしかったか、自分にも分らぬくらい。  毛虫は怪しいものではないが、一目見ても総毛立つ。おなじ事で、たとえ不気味だからといって、ちっとも怪しいものではないと、銑さんはいうけれど、あの、黄金色《こがねいろ》の目、黄《きいろ》な顔、這《は》うように歩行《ある》いた工合。ああ、思い出しても悚然《ぞっ》とする。  夫人は掻巻の裾《すそ》に障《さわ》って、爪尖《つまさき》からまた悚然とした。  けれどもその時、浜辺に一人立っていて、なんだか怪しいものなぞは世にあるものとは思えないような、気丈夫な考えのしたのは、自分が彳《たたず》んでいた七八間さきの、切立《きった》てに二丈ばかり、沖から燃ゆるような紅《くれない》の日影もさせば、一面には山の緑が月に映って、練絹《ねりぎぬ》を裂くような、柔《やわらか》な白浪《しらなみ》が、根を一まわり結んじゃ解けて拡がる、大きな高い巌《いわ》の上に、水色のと、白衣《びゃくえ》のと、水紅色《ときいろ》のと、西洋の婦人が三人。――  白衣のが一番上に、水色のその肩が、水紅色のより少し高く、一段下に二人並んで、指を組んだり、裳《もすそ》を投げたり、胸を軽くそらしたり、時々楽しそうに笑ったり、話声は聞えなかったが、さものんきらしく、おもしろそうに遊んでいる。  それをまたその人々の飼犬らしい、毛色のいい、猟虎《らっこ》のような茶色の洋犬《かめ》の、口の長い、耳の大きなのが、浪際を放れて、巌《いわ》の根に控えて見ていた。  まあ、こんな人たちもあるに、あの婆さんを妖物《ばけもの》か何ぞのように、こうまで恐《こわ》がるのも、と恥かしくもあれば、またそんな人たちが居る世の中に、と頼母《たのも》しく。……  と、浦子は蚊帳に震えながら思い続けた。        十四  ざんぶと浪に黒く飛んで、螺線《らせん》を描く白い水脚《みずあし》、泳ぎ出したのはその洋犬《かめ》で。  来るのは何ものだか、見届けるつもりであったろう。  長い犬の鼻づらが、水を出て浮いたむこうへ、銑さんが艪《ろ》をおしておいでだった。  うしろの小松原の中から、のそのそと人が来たのに、ぎょっとしたが、それは石屋の親方で。  草履ばきでも濡れさせまいと、船がそこった間だけ、負《おぶ》ってくれて、乗ると漕《こ》ぎ出すのを、水にまだ、足を浸したまま、鷭《ばん》のような姿で立って、腰のふたつ提《さ》げの煙草入《たばこいれ》を抜いて、煙管《きせる》と一所に手に持って、火皿をうつむけにして吹きながら、確かなもんだ確かなもんだと、銑さんの艪《ろ》を誉《ほ》めていた。  もう船が岩の間を出たと思うと、尖った舳《へさき》がするりと辷《すべ》って、波の上へ乗ったから、ひやりとして、胴の間《ま》へ手を支《つ》いた。  その時緑青色のその切立《きった》ての巌《いわ》の、渚《なぎさ》で見たとは趣がまた違って、亀の背にでも乗りそうな、中ごろへ、早|薄靄《うすもや》が掛《かか》った上から、白衣《びゃくえ》のが桃色の、水色のが白の手巾《ハンケチ》を、二人で、小さく振ったのを、自分は胴の間に、半ば袖《そで》をついて、倒れたようになりながら、帽子の裡《うち》から仰いで見た。  二つ目の浜で、地曳《じびき》を引く人の数は、水を切った網の尖《さき》に、二筋黒くなって砂山かけて遥《はる》かに見えた。  船は緑の岩の上に、浅き浅葱《あさぎ》の浪を分け、おどろおどろ海草の乱るるあたりは、黒き瀬を抜けても過ぎたが、首きり沈んだり、またぶくりと浮いたり、井桁《いげた》に組んだ棒の中に、生簀《いけす》があちこち、三々五々。鴎《かもめ》がちらちらと白く飛んで、浜の二階家のまわり縁を、行《ゆ》きかいする女も見え、簾《すだれ》を上げる団扇《うちわ》も見え、坂道の切通しを、俥《くるま》が並んで飛ぶのさえ、手に取るように見えたもの。  陸近《くがぢか》なれば憂慮《きづか》いもなく、ただ景色の好《よ》さに、ああまで恐ろしかった婆《ばば》の家、巨刹《おおでら》の藪《やぶ》がそこと思う灘《なだ》を、いつ漕ぎ抜けたか忘れていたのに、何を考え出して、また今の厭《いな》な年寄。……  ――それが夢か。―― 「ま、待って、」  はてな、と夫人は、白き頸《うなじ》を枕《まくら》に着けて、おくれ毛の音するまで、がッくりと打《うち》かたむいたが、身の戦《わなな》くことなお留《や》まず。  それとも渚の砂に立って、巌の上に、春秋《はるあき》の美しい雲を見るような、三人の婦人の衣《きぬ》を見たのが夢か。海も空も澄み過ぎて、薄靄《うすもや》の風情も妙《たえ》に余る。  けれども、犬が泳いでいた、月の中なら兎《うさぎ》であろうに。  それにしても、また石屋の親方が、水に彳《たたず》んだ姿が怪しい。  そういえば用が用、仏像を頼みに行《ゆ》くのだから、と巡礼染《じゅんれいじ》みたも心嬉しく、浴衣がけで、草履で、二つ目へ出かけたものが、人の背《せなか》で浪を渡って、船に乗ろうとは思いもかけぬ。  いやいや思いもかけぬといえば、荒物屋の、あの老婆《としより》。通りがかりに、ちょいとほんの燐枝《マッチ》を買いに入ったばかりで、あんな、恐ろしい、忌《いま》わしい不気味なものを、しかも昼間見ようとは、それこそ夢にも知らなかった。  船はそのためとして見れば、巌の婦人も夢ではない。石屋の親方が自分を背負《おぶ》って、世話をしてくれたのも、銑さんが船を漕いだのも、浪も、鴎も夢ではなくって、やっぱり今のが夢であろう。  ――「ああ、恐しい夢を見た。」――  と肩がすくんで、裳《もすそ》わなわな、瞳《ひとみ》を据えて恐々《こわごわ》仰ぐ、天井の高い事。前後左右は、どのくらいあるか分らず、凄《すご》くて眗《みまわ》すことさえならぬ、蚊帳《かや》に寂しき寝乱れ姿。        十五  果して夢ならば、海も同じ潮入りの蘆間《あしま》の水。水のどこからが夢であって、どこまでが事実であったか。船はもう一浪《ひとなみ》で、一つ目の浜へ着くようになった時、ここから上って、草臥《くたび》れた足でまた砂を蹈《ふ》もうより、小川尻《おがわじり》へ漕《こ》ぎ上《あが》って、薦の葉を一またぎ、邸《やしき》の背戸の柿の樹へ、と銑さんの言った事は――確《たしか》に今も覚えている。  艪《ろ》よりは潮が押し入れた、川尻のちと広い処を、ふらふらと漕ぎのぼると、浪のさきが飜って、潮の加減も点燈《ひともし》ごろ。  帆柱が二本並んで、船が二|艘《そう》かかっていた。舷《ふなばた》を横に通って、急に寒くなった橋の下、橋杭《はしぐい》に水がひたひたする、隧道《トンネル》らしいも一思い。  石垣のある土手を右に、左にいつも見る目より、裾《すそ》も近ければ頂もずっと高い、かぶさる程なる山を見つつ、胴ぶくれに広くなった、湖のような中へ、他所《よそ》の別荘の刎橋《はねばし》が、流《ながれ》の半《なかば》、岸近な洲《す》へ掛けたのが、満潮《みちしお》で板も除《の》けてあった、箱庭の電信ばしらかと思うよう、杭がすくすくと針金ばかり。三角形《さんかくなり》の砂地が向うに、蘆の葉が一靡《ひとなび》き、鶴の片翼《かたつばさ》見るがごとく、小松も斑《ふ》に似て十本《ともと》ほど。  暮れ果てず灯《ともし》は見えぬが、その枝の中を透く青田越《あおたご》しに、屋根の高いはもう我が家。ここの小松の間を選んで、今日あつらえた地蔵菩薩《じぞうぼさつ》を――  仏様でも大事ない、氏神にして祭礼《おまつり》を、と銑さんに話しながら見て過ぎると、それなりに川が曲って、ずッと水が狭うなる、左右は蘆が渺《びょう》として。  船がその時ぐるりと廻った。  岸へ岸へと支《つか》うるよう。しまった、潮が留《とま》ったと、銑さんが驚いて言った。船べりは泡だらけ。瓜《うり》の種、茄子《なす》の皮、藁《わら》の中へ木の葉が交《まじ》って、船も出なければ芥《あくた》も流れず。真水がここまで落ちて来て、潮に逆《さから》って揉《も》むせいで。  あせって銑さんのおした船が、がッきと当って杭《くい》に支《つか》えた。泡沫《しぶき》が飛んで、傾いた舷《ふなばた》へ、ぞろりとかかって、さらさらと乱れたのは、一束《ひとたばね》の女の黒髪、二巻ばかり杭に巻いたが、下には何が居るか、泥で分らぬ。  ああ、芥の臭《におい》でもすることか、海松布《みる》の香でもすることか、船へ搦《から》んで散ったのは、自分と同一《おなじ》鬢水《びんみず》の……  ――浦子は寝ながら呼吸《いき》を引いた。――  ――今も蚊帳に染む梅花の薫《かおり》。――  あ、と一声|退《の》こうとする、袖《そで》が風に取られたよう、向うへ引かれて、靡《なび》いたので、此方《こなた》へ曳《ひ》いて圧《おさ》えたその袖に、と見ると怪しい針があった。  蘆の中に、色の白い痩《や》せた嫗《おうな》、高家《こうけ》の後室ともあろう、品の可《い》い、目の赤いのが、朦朧《もうろう》と踞《しゃが》んだ手から、蜘蛛《くも》の囲《い》かと見る糸|一条《ひとすじ》。  身悶《みもだ》えして引切《ひっき》ると、袖は針を外れたが、さらさらと髪が揺れ乱れた。  その黒髪の船に垂れたのが、逆《さかさ》に上へ、ひょろひょろと頬《ほお》を掠《かす》めると思うと――(今もおくれ毛が枕に乱れて)――身体《からだ》が宙に浮くのであった。 「ああ!」  船の我身は幻で、杭に黒髪の搦みながら、溺《おぼ》れていたのが自分であろうか。  また恐しい嫗の手に、怪しい針に釣り上げられて、この汗、その水、この枕、その夢の船、この身体、四角な室《へや》も穴めいて、膚《はだえ》の色も水の底、おされて呼吸《いき》の苦しげなるは、早や墳墓《おくつき》の中にこそ。呵呀《あなや》、この髪が、と思うに堪えず、我知らず、ハッと起きた。  枕を前に、飜った掻巻《かいまき》を背《せな》の力に、堅いもののごとく腕《かいな》を解いて、密《そ》とその鬢《びん》を掻上《かきあ》げた。我が髪ながらヒヤリと冷たく、褄《つま》に乱れた縮緬《ちりめん》の、浅葱《あさぎ》も色の凄《すご》きまで。        十六  疲れてそのまま、掻巻《かいまき》に頬《ほお》をつけたなり、浦子はうとうととしかけると、胸の動悸《どうき》に髪が揺れて、頭《かしら》を上へ引かれるのである。 「ああ、」  とばかり声も出ず、吃驚《びっくり》したようにまた起直った。  扱帯《しごき》は一層《ひとしお》しゃらどけして、褄《つま》もいとどしく崩れるのを、懶《ものう》げに持て扱いつつ、忙《せわ》しく肩で呼吸《いき》をしたが、 「ええ、誰も来てくれないのかねえ、私が一人でこんなに、」  と重たい髷《まげ》をうしろへ振って、そのまま仰《のけ》ざまに倒れそうな、身を揉《も》んで膝《ひざ》で支えて、ハッとまた呼吸《いき》を吐《つ》くと、トントンと岩に当って、時々|崖《がけ》を洗う浪。松風が寂《しん》として、夜が更けたのに心着くほど、まだ一声も人を呼んでは見ないのであった。 「松か、」  夫人は残燈《ありあけ》に消え残る、幻のような姿で、蚊帳の中から女中を呼んだ。  けれども、直ぐに寐入《ねい》ったものの呼覚《よびさま》される時刻でない。  第一(松、)という、その声が、出たか、それとも、ただ呼んで見ようと心に思ったばかりであるか、それさえも現《うつつ》である。 「松や、」と言って、夫人は我が声に我と我が耳を傾ける。胸のあたりで、声は聞えたようであるが、口へ出たかどうか、心許《こころもと》ない。  まあ、口も利けなくなったのか、と情《なさけ》なく、心細く、焦って、ええと、片手に左右の胸を揺《ゆす》って、 「松や、」と、急《せ》き調子でもう一度。 (松や、)と細いのが、咽喉《のど》を放れて、縁が切れて、たよりなくどこからか、あわれに寂しく此方《こなた》へ聞えて、遥《はる》か間《ま》を隔てた襖《ふすま》の隅で、人を呼んでいるかと疑われた。 「ああ、」とばかり、あらためて、その(松や、)を言おうとすると、溜息《ためいき》になってしまう。蚊帳が煽《あお》るか、衾《ふすま》が揺れるか、畳が動くか、胸が躍るか。膝を組み緊《し》めて、肩を抱いても、びくびくと身内が震えて、乱れた褄《つま》もはらはらと靡《なび》く。  引掴《ひッつか》んでまで、撫《な》でつけた、鬢《びん》の毛が、煩《うるさ》くも頬へかかって、その都度脈を打って血や通う、と次第に烈《はげ》しくなるにつれ、上へ釣られそうな、夢の針、汀《みぎわ》の嫗《おうな》。  今にも宙へ、足が枕を離れやせん。この屋根の上に蘆《あし》が生えて、台所の煙出《けむだ》しが、水面へあらわれると、芥溜《ごみため》のごみが淀《よど》んで、泡立つ中へ、この黒髪が倒《さかさ》に、髻《たぶさ》から搦《から》まっていようも知れぬ。あれ、そういえば、軒を渡る浜風が、さらさら水の流るる響《ひびき》。  恍惚《うっとり》と気が遠い天井へ、ずしりという沈んだ物音。  船がそこったか、その船には銑太郎と自分が乗って……  今、舷《ふなべり》へ髪の毛が。 「あッ、」と声立てて、浦子は思わず枕許へすッくと立ったが、あわれこれなりに嫗の針で、天井を抜けて釣上げられよう、とあるにもあられず、ばたり膝を支《つ》くと、胸を反らして、抜け出る状《さま》に、裳《もすそ》を外。  蚊帳が顔へ搦んだのが、芬《ぷん》と鼻をついた水の香《におい》。引き息で、がぶりと一口、溺《おぼ》るるかと飲んだ思い、これやがて気つけになりぬ。  目もようよう判然《はっきり》と、蚊帳の緑は水ながら、紅《くれない》の絹のへり、かくて珊瑚《さんご》の枝ならず。浦子は辛うじて蚊帳の外に、障子の紙に描かれた、胸白き浴衣の色、腰の浅葱《あさぎ》も黒髪も、夢ならぬその我が姿を、歴然《ありあり》と見たのである。        十七  しばらくして、浦子は玉《ぎょく》ぼやの洋燈《ランプ》の心を挑《あ》げて、明《あかる》くなった燈《ともし》に、宝石輝く指の尖《さき》を、ちょっと髯《びん》に触ったが、あらためてまた掻上《かきあ》げる。その手で襟を繕って、扱帯《しごき》の下で褄《つま》を引合わせなどしたのであるが、心には、恐ろしい夢にこうまで疲労して、息づかいさえ切ないのに、飛んだ身体《からだ》の世話をさせられて、迷惑であるがごとき思いがした。  且つその身体を棄《す》てもせず、老実《まめ》やかに、しんせつにあしらうのが、何か我ながら、身だしなみよく、床《ゆか》しく、優しく、嬉しいように感じたくらい。  一つくぐって鳩尾《みずおち》から膝《ひざ》のあたりへずり下った、その扱帯の端を引上げざまに、燈《ともし》を手にして、柳の腰を上へ引いてすらりと立ったが、小用《こよう》に、と思い切った。  時に、障子を開けて、そこが何になってしまったか、浜か、山か、一里塚か、冥途《めいど》の路《みち》か。船虫が飛ぼうも、大きな油虫が駈《か》け出そうも料られない。廊下へ出るのは気がかりであったけれど、なおそれよりも恐ろしかったのは、その時まで自分が寝て居た蚊帳《かや》の内を窺《うかが》って見ることで。  蹴出《けだ》しも雪の爪尖《つまさき》へ、とかくしてずり下り、ずり下る寝衣《ねまき》の褄《つま》を圧《おさ》えながら、片手で燈をうしろへ引いて、ぼッとする、肩越のあかりに透かして、蚊帳を覗《のぞ》こうとして、爪立《つまだ》って、前髪をそっと差寄せては見たけれども、夢のために身を悶《もだ》えた、閨《ねや》の内の、情《なさけ》ない状《さま》を見るのも忌《いま》わしし、また、何となく掻巻《かいまき》が、自分の形に見えるにつけても、寝ていて、蚊帳を覗《うかが》うこの姿が透いたら、気絶しないでは済むまいと、思わずよろよろと退《すさ》って、引《ひっ》くるまる裳《もすそ》危《あやう》く、はらりと捌《さば》いて廊下へ出た。  次の室《へや》は真暗《まっくら》で、そこにはもとより誰も居ない。  閨《ねや》と並んで、庭を前に三間続きの、その一室《ひとま》を隔てた八畳に、銑太郎と、賢之助が一つ蚊帳。  そこから別に裏庭へ突き出でた角座敷の六畳に、先生が寝ている筈《はず》。  その方《ほう》にも厠《かわや》はあるが、運ぶのに、ちと遠い。  件《くだん》の次の明室《あきま》を越すと、取着《とッつき》が板戸になって、その台所を越した処に、松という仲働《なかばたらき》、お三と、もう一人女中が三人。  婦人《おんな》ばかりでたよりにはならぬが、近い上に心安い。  それにちと間はあるが、そこから一目の表門の直ぐ内に、長屋だちが一軒あって、抱え車夫が住んでいて、かく旦那《だんな》が留守の折からには、あけ方まで格子戸から灯《あかり》がさして、四五人で、ひそめくもの音。ひしひしと花ふだの響《ひびき》がするのを、保養の場所と大目に見ても、好《い》いこととは思わなかったが、時にこそよれ頼母《たのも》しい。さらばと、やがて廊下づたい、踵《かかと》の音して、するすると、裳《もすそ》の気勢《けはい》の聞ゆるのも、我ながら寂しい中に、夢から覚めたしるしぞ、と心嬉しく、明室《あきま》の前を急いで越すと、次なる小室《こべや》の三畳は、湯殿に近い化粧部屋。これは障子が明いていた。  中《うち》から風も吹くようなり、傍正面《わきしょうめん》の姿見に、勿《な》、映りそ夢の姿とて、首垂《うなだ》るるまで顔を背《そむ》けた。  新しい檜《ひのき》の雨戸、それにも顔が描かれそう。真直《まっすぐ》に向き直って、衝《つ》と燈《ともしび》を差出しながら、突《つき》あたりへ辿々《たどたど》しゅう。        十八  ばたり、閉めた杉戸の音は、かかる夜ふけに、遠くどこまで響いたろう。  壁は白いが、真暗《まっくら》な中に居て、ただそればかりを力にした、玄関の遠あかり、車夫部屋の例のひそひそ声が、このもの音にハタと留《や》んだを、気の毒らしく思うまで、今夜《こよい》はそれが嬉しかった。  浦子の姿は、無事に厠《かわや》を背後《うしろ》にして、さし置いたその洋燈《ランプ》の前、廊下のはずれに、媚《なまめ》かしく露《あら》われた。  いささか心も落着いて、カチンとせんを、カタカタとさるを抜いた、戸締り厳重な雨戸を一枚。半ば戸袋へするりと開けると、雪ならぬ夜の白砂、広庭一面、薄雲の影を宿して、屋根を越した月の影が、廂《ひさし》をこぼれて、竹垣に葉かげ大きく、咲きかけるか、今、開くと、朝《あした》の色は何々ぞ。紺に、瑠璃《るり》に、紅絞《べにしぼ》り、白に、水紅色《ときいろ》、水浅葱《みずあさぎ》、莟《つぼみ》の数は分らねども、朝顔形《あさがおなり》の手水鉢《ちょうずばち》を、朦朧《もうろう》と映したのである。  夫人は山の姿も見ず、松も見ず、松の梢《こずえ》に寄る浪の、沖の景色にも目は遣《や》らず、瞳を恍惚《うっとり》見据えるまで、一心に車夫部屋の灯《ともし》を、遥《はるか》に、船の夢の、燈台と力にしつつ、手を遣ると、……柄杓《ひしゃく》に障《さわ》らぬ。  気にもせず、なお上《うわ》の空で、冷たく瀬戸ものの縁を撫《な》でて、手をのばして、向うまで辷《すべ》らしたが、指にかかる木《こ》の葉もなかった。  目を返して透かして見ると、これはまた、胸に届くまで、近くあり。  直ぐに取ろうとする、柄杓は、水の中をするすると、反対《むこう》まえに、山の方へ柄がひとりで廻った。  夫人は手のものを落したように、俯向《うつむ》いて熟《じっ》と見る。  手水鉢と垣の間の、月の隈《くま》暗き中に、ほのぼのと白く蠢《うごめ》くものあり。  その時、切髪《きりかみ》の白髪《しらが》になって、犬のごとく踞《つくば》ったが、柄杓の柄に、痩《や》せがれた手をしかとかけていた。  夕顔の実に朱の筋の入った状《さま》の、夢の俤《おもかげ》をそのままに、ぼやりと仰向《あおむ》け、 「水を召されますかいの。」  というと、艶《つや》やかな歯でニヤリと笑む。  息とともに身を退《ひ》いて、蹌踉々々《よろよろ》と、雨戸にぴッたり、風に吹きつけられたようになって面《おもて》を背けた。斜《はす》ッかいの化粧部屋の入口を、敷居にかけて廊下へ半身。真黒《まっくろ》な影法師のちぎれちぎれな襤褸《ぼろ》を被《き》て、茶色の毛のすくすくと蔽《おお》われかかる額のあたりに、皺手《しわで》を合わせて、真俯向《まうつむ》けに此方《こなた》を拝んだ這身《はいみ》の婆《ばば》は、坂下の藪《やぶ》の姉様《あねさま》であった。  もう筋も抜け、骨崩れて、裳《もすそ》はこぼれて手水鉢、砂地に足を蹈《ふ》み乱して、夫人は橋に廊下へ倒れる。  胸の上なる雨戸へ半面、ぬッと横ざまに突出したは、青ンぶくれの別の顔で、途端に銀色の眼《まなこ》をむいた。  のさのさのさ、頭で廊下をすって来て、夫人の枕に近づいて、ト仰いで雨戸の顔を見た、額に二つ金の瞳、真赤《まっか》な口を横ざまに開けて、 「ふァはははは、」 「う、うふふ、うふふ、」と傾《かた》がって、戸を揺《ゆす》って笑うと、バチャリと柄杓を水に投げて、赤目の嫗《おうな》は、 「おほほほほほ、」と尋常な笑い声。  廊下では、その握られた時氷のように冷たかった、といった手で、頬にかかった鬢《びん》の毛を弄《もてあそ》びながら、 「洲《す》の股《また》の御前《ごぜん》も、山の峡《かい》の婆さまも早かったな。」というと、 「坂下の姉《あね》さま、御苦労にござるわや。」と手水鉢から見越して言った。  銀の目をじろじろと、 「さあ、手を貸され、連れて行《い》にましょ。」        十九 「これの、吐《つ》く呼吸《いき》も、引く呼吸も、もうないかいの、」と洲《す》の股《また》の御前《ごぜん》がいえば、 「水くらわしや、」  と峡《かい》の婆《ばば》が邪慳《じゃけん》である。  ここで坂下の姉様《あねさま》は、夫人の前髪に手をさし入れ、白き額を平手で撫《な》でて、 「まだじゃ、ぬくぬくと暖い。」 「手を掛けて肩を上げされ、私《わし》が腰を抱こうわいの。」  と例の横あるきにその傾いた形を出したが、腰に組んだ手はそのままなり。  洲の股の御前、傍《かたわら》より、 「お婆さん、ちょっとその鱏《えい》の針で口の端《はた》縫わっしゃれ、声を立てると悪いわや。」 「おいの、そうじゃの。」と廊下でいって、夫人の黒髪を両手で圧《おさ》えた。  峡の婆、僅《わずか》に手を解き、頤《おとがい》[#ルビの「おとがい」は底本では「おとがひ」]で襟を探って、無性《ぶしょう》らしく撮《つま》み出した、指の爪《つめ》の長く生伸《はえの》びたかと見えるのを、一つぶるぶると掉《ふ》って近づき、お伽話《とぎばなし》の絵に描いた外科医者という体《てい》で、震《おのの》く唇に幽《かすか》に見える、夫人の白歯《しらは》の上を縫うよ。  浦子の姿は烈《はげ》しく揺れたが、声は始めから得《え》立てなかった。目は睜《みひら》いていたのである 「もう可《よ》いわいの、」  と峡の婆、傍《かたわら》に身を開くと、坂の下の姉様は、夫人の肩の下へ手を入れて、両方の傍《わき》を抱いて起した。  浦子の身は、柔かに半ば起きて凭《もた》れかかると、そのまま庭へずり下りて、 「ござれ、洲の股の御前、」  といって、坂下の姉様、夫人の片手を。  洲の股の御前も、おなじく傍《かたわら》から夫人の片手を。  ぐい、と取って、引立《ひった》てる。右と左へ、なよやかに脇を開いて、扱帯《しごき》の端が縁を離れた。髪の根は髷《まげ》ながら、笄《こうがい》ながら、がッくりと肩に崩れて、早や五足《いつあし》ばかり、釣られ工合に、手水鉢《ちょうずばち》を、裏の垣根へ誘われ行《ゆ》く。  背後《うしろ》に残って、砂地に独り峡の婆、件《くだん》の手を腰に極《き》めて、傾《かた》がりながら、片手を前へ、斜めに一煽《ひとあお》り、ハタと煽ると、雨戸はおのずからキリキリと動いて閉《しま》った。  二人の婆に挟《さしはさ》まれ、一人《いちにん》に導かれて、薄墨の絵のように、潜門《くぐりもん》を連れ出さるる時、夫人の姿は後《うしろ》ざまに反って、肩へ顔をつけて、振返ってあとを見たが、名残惜しそうであわれであった。  時しも一面の薄霞《うすがすみ》に、処々|艶《つや》あるよう、月の影に、雨戸は寂《しん》と連《つらな》って、朝顔の葉を吹く風に、さっと乱れて、鼻紙がちらちらと、蓮歩《れんぽ》のあとのここかしこ、夫人をしとうて散々《ちりぢり》なり。         *     *     *     *     *  あと白浪《しらなみ》の寄せては返す、渚《なぎさ》長く、身はただ、黄なる雲を蹈《ふ》むかと、裳《もすそ》も空に浜辺を引かれて、どれだけ来たか、海の音のただ轟々《ごうごう》と聞ゆるあたり。 「ここじゃ、ここじゃ。」  どしりと夫人の横倒《よこたおし》。 「来たぞや、来たぞや、」 「今は早や、気随、気ままになるのじゃに。」  何処《いずこ》の果《はて》か、砂の上。ここにも船の形の鳥が寝ていた。  ぐるりと三人、三《み》つ鼎《がなえ》に夫人を巻いた、金の目と、銀の目と、紅糸《べにいと》の目の六つを、凶《あし》き星のごとくキラキラと砂《いさご》の上に輝かしたが、 「地蔵菩薩《じぞうぼさつ》祭れ、ふァふァ、」と嘲笑《あざわら》って、山の峡《かい》がハタと手拍子。 「山の峡は繁昌《はんじょう》じゃ、あはは、」と洲《す》の股《また》の御前《ごぜん》、足を挙げる。 「洲の股もめでたいな、うふふ、」  と北叟笑《ほくそえ》みつつ、坂下の嫗《おうな》は腰を捻《ひね》った。  諸声《もろごえ》に、 「ふァふァふァ、」 「うふふ、」 「あはははは。」 「坂の下祝いましょ。」  今度は洲の股の御前が手を拍《う》つ。 「地蔵菩薩祭れ。」  と山の峡が一足出る、そのあとへ臀《いしき》を捻って、 「山の峡は繁昌じゃ。」 「洲の股もめでたいな、」とすらりと出る。  拍子を取って、手を拍って、 「坂の下祝いましょ。」  据え腰で、ぐいと伸び、 「地蔵菩薩祭れ。」 「山の峡は繁昌じゃ、」 「洲の股もめでたいな、」 「坂の下祝いましょ、」 「地蔵菩薩祭れ。」  さす手ひく手の調子を合わせた、浪の調《しらべ》、松の曲。おどろおどろと月落ちて、世はただ靄《もや》となる中に、ものの影が、躍るわ、躍るわ。        二十  ここに、一つ目と二つ目の浜境《はまざかい》、浪間の巌《いわ》を裾《すそ》に浸して、路傍《みちばた》に衝《つ》と高い、一座|螺《ら》のごとき丘がある。  その頂へ、あけ方の目を血走らして、大息を吐《つ》いて彳《たたず》んだのは、狭島《さじま》に宿れる鳥山廉平。  例の縞《しま》の襯衣《しゃつ》に、その綛《かすり》の単衣《ひとえ》を着て、紺の小倉《こくら》の帯をぐるぐると巻きつけたが、じんじん端折《ばしょ》りの空脛《からずね》に、草履ばきで帽は冠《かぶ》らず。  昨日《きのう》は折目も正しかったが、露にしおれて甲斐性《かいしょう》が無さそう、高い処で投首《なげくび》して、太《いた》く草臥《くたび》れた状《さま》が見えた。恐らく驚破《すわ》といって跳ね起きて、別荘中、上を下へ騒いだ中に、襯衣を着けて一つ一つそのこはぜを掛けたくらい、落着いていたものは、この人物ばかりであろう。  それさえ、夜中から暁へ引出されたような、とり留めのないなり形《かたち》、他《ほか》の人々は思いやられる。  銑太郎、賢之助、女中の松、仲働《なかばたらき》、抱え車夫はいうまでもない。折から居合わせた賭博仲間《ぶちなかま》の漁師も四五人、別荘を引《ひっ》ぷるって、八方へ手を分けて、急に姿の見えなくなった浦子を捜しに駈《か》け廻る。今しがた路を挟んだ向う側の山の裾を、ちらちらと靄《もや》に点《とも》れて、松明《たいまつ》の火の飛んだもそれよ。廉平がこの丘へ半ば攀《よ》じ上った頃、消えたか、隠れたか、やがて見えなくなった。  もとより当《あて》のない尋ね人。どこへ、と見当はちっとも着かず、ただ足にまかせて、彼方《かなた》此方《こなた》、同じ処を四五|度《たび》も、およそ二三里の路はもう歩行《ある》いた。  不祥な言を放つものは、曰《いわ》く厠《かわや》から月に浮かれて、浪に誘われたのであろうも知れず、と即《すなわ》ち船を漕《こ》ぎ出《いだ》したのも有るほどで。  死んだは、活《い》きたは、本宅の主人へ電報を、と蜘蛛手《くもで》に座敷へ散り乱れるのを、騒ぐまい、騒ぐまい。毛色のかわった犬|一疋《いっぴき》、匂《におい》の高い総菜にも、見る目、齅《か》ぐ鼻の狭い土地がら、俤《おもかげ》を夢に見て、山へ百合の花折りに飄然《ひょうぜん》として出かけられたかも料《はか》られぬを、狭島の夫人、夜半より、その行方《ゆくえ》が分らぬなどと、騒ぐまいぞ、各自《おのおの》。心して内分にお捜し申せと、独り押鎮めて制したこの人。  廉平とても、夫人が魚《うお》の寄るを見ようでなし、こんな丘へ、よもや、とは思ったけれども、さて、どこ、という目的《めあて》がないので、船で捜しに出たのに対して、そぞろに雲を攫《つか》むのであった。  目の下の浜には、細い木が五六本、ひょろひょろと風に揉《も》まれたままの形で、静まり返って見えたのは、時々潮が満ちて根を洗うので、梢《こずえ》はそれより育たぬならん。ちょうど引潮の海の色は、煙の中に藍《あい》を湛《たた》えて、或《あるい》は十畳、二十畳、五畳、三畳、真砂《まさご》の床に絶えては連なる、平らな岩の、天地《あめつち》の奇《く》しき手に、鉄槌《かなづち》のあとの見ゆるあり、削りかけの鑪《やすり》の目の立ったるあり。鑿《のみ》の歯形を印したる、鋸《のこぎり》の屑《くず》かと欠々《かけかけ》したる、その一つ一つに、白浪の打たで飜るとばかり見えて音のないのは、岩を飾った海松《みる》、ところ、あわび、蠣《かき》などいうものの、夜半《よわ》に吐いた気を収めず、まだほのぼのと揺《ゆら》ぐのが、渚《なぎさ》を籠《こ》めて蒸すのである。  漁家二三。――深々と苫屋《とまや》を伏せて、屋根より高く口を開けたり、家より大きく底を見せたり、ころりころりと大畚《おおびく》が五つ六つ。        二十一  さてこの丘の根に引寄せて、一|艘《そう》苫《とま》を掛けた船があった。海士《あま》も簑《みの》きる時雨かな、潮の※[#「さんずい+散」、240-3]《しぶき》は浴びながら、夜露や厭《いと》う、ともの優しく、よろけた松に小綱を控え、女男《めお》の波の姿に拡げて、すらすらと乾した網を敷寝に、舳《みよし》の口がすやすやと、見果てぬ夢の岩枕。  傍《かたわら》なる苫屋の背戸に、緑を染めた青菜の畠、結い繞《めぐ》らした蘆垣《あしがき》も、船も、岩も、ただなだらかな面平《おもたいら》に、空に躍った刎釣瓶《はねつるべ》も、靄《もや》を放れぬ黒い線《いとすじ》。些《さ》と凹凸なく瞰下《みおろ》さるる、かかる一枚の絵の中に、裳《もすそ》の端さえ、片袖《かたそで》さえ、美しき夫人の姿を、何処《いずこ》に隠すべくも見えなかった。  廉平は小さなその下界に対して、高く雲に乗ったように、円く靄に包まれた丘の上に、踏《ふみ》はずしそうに崖《がけ》の尖《さき》、五尺の地蔵の像で立ったけれども。  頭《こうべ》を垂れて嘆息した。  さればこの時の風采《ふうさい》は、悪魔の手に捕えられた、一体の善女《ぜんにょ》を救うべく、ここに天降《あまくだ》った菩薩《ぼさつ》に似ず、仙家の僕《しもべ》の誤って廬《ろ》を破って、下界に追い下《おろ》された哀れな趣。  廉平は腕を拱《こまぬ》いて悄然《しょうぜん》としたのである。時に海の上にひらめくものあり。  翼の色の、鴎《かもめ》や飛ぶと見えたのは、波に静かな白帆の片影。  帆風に散るか、露《もや》消えて、と見れば、海に露《あらわ》れた、一面|大《おおい》なる岩の端へ、船はかくれて帆の姿。  ぴたりとついて留まったが、飜然《ひらり》と此方《こなた》へ向《むき》をかえると、渚《なぎさ》に据《すわ》った丘の根と、海なるその岩との間、離座敷の二三間、中に泉水を湛《たた》えた状《さま》に、路一条《みちひとすじ》、東雲《しののめ》のあけて行《ゆ》く、蒼空《あおぞら》の透くごとく、薄絹の雲左右に分れて、巌《いわ》の面《おも》に靡《なび》く中を、船はただ動くともなく、白帆をのせた海が近づき、やがて横ざまに軽《かろ》くまた渚に止《とま》った。  帆の中より、水際立って、美しく水浅葱《みずあさぎ》に朝露置いた大輪《おおりん》の花一輪、白砂の清き浜に、台《うてな》や開くと、裳《もすそ》を捌《さば》いて衝《つ》と下り立った、洋装したる一人の婦人。  夜干《よぼし》に敷いた網の中を、ひらひらと拾ったが、朝景色を賞《め》ずるよしして、四辺《あたり》を見ながら、その苫船《とまぶね》に立寄って苫の上に片手をかけたまま、船の方を顧みると、千鳥は啼《な》かぬが友呼びつらん。帆の白きより白衣《びゃくえ》の婦人、水紅色《ときいろ》なるがまた一人、続いて前後に船を離れて、左右に分れて身軽に寄った。  二人は右の舷《ふなばた》に、一人は左の舷に、その苫船に身を寄せて、互《たがい》に苫を取って分けて、船の中を差覗《さしのぞ》いた。淡きいろいろの衣《きぬ》の裳は、長く渚へ引いたのである。  廉平は頂の靄を透かして、足許を差覗いて、渠等《かれら》三人の西洋婦人、惟《おも》うに誂《あつら》えの出来を見に来たな。苫をふいて伏せたのは、この人々の註文で、浜に新造の短艇《ボオト》ででもあるのであろう。  と見ると二人の脇の下を、飜然《ひらり》と飛び出した猫がある。  トタンに一人の肩を越して、空へ躍るかと、もう一匹、続いて舳《へさき》から衝《つ》と抜けた。最後のは前脚を揃えて海へ一文字、細長い茶色の胴を一畝《ひとうね》り畝らしたまで鮮麗《あざやか》に認められた。  前のは白い毛に茶の斑《まだら》で、中のは、その全身漆のごときが、長く掉《ふ》った尾の先は、舳《みよし》を掠《かす》めて失《う》せたのである。        二十二  その時、前後して、苫《とま》からいずれも面《おもて》を離し、はらはらと船を退《の》いて、ひたと顔を合わせたが、方向《むき》をかえて、三人とも四辺《あたり》を眗《みまわ》して彳《たたず》む状《さま》、おぼろげながら判然《はっきり》と廉平の目に瞰下《みおろ》された。  水浅葱《みずあさぎ》のが立樹に寄って、そこともなく仰いだ時、頂なる人の姿を見つけたらしい。  手を挙げて、二三度|続《つづけ》ざまに麾《さしまね》くと、あとの二人もひらひらと、高く手巾《ハンケチ》を掉《ふ》るのが見えた。  要こそあれ。  廉平は雲を抱《いだ》くがごとく上から望んで、見えるか、見えぬか、慌《あわただ》しく領《うなず》き答えて、直ちに丘の上に踵《くびす》を回《めぐ》らし、栄螺《さざえ》の形に切崩した、処々足がかりの段のある坂を縫って、ぐるぐると駈《か》けて下り、裾《すそ》を伝うて、衝《つ》と高く、ト一飛《ひととび》低く、草を踏み、岩を渡って、およそ十四五分時を経て、ここぞ、と思う山の根の、波に曝《さら》された岩の上。  綱もあり、立樹もあり、大きな畚《びく》も、またその畚の口と肩ずれに、船を見れば、苫|葺《ふ》いたり。あの位高かった、丘は近く頭《かしら》に望んで、崖の青芒《あおすすき》も手に届くに、婦人《おんな》たちの姿はなかった。白帆は早や渚《なぎさ》を彼方《かなた》に、上からは平《たいら》であったが、胸より高く踞《うずく》まる、海の中なる巌《いわ》かげを、明石の浦の朝霧に島がくれ行《ゆ》く風情にして。  かえって別なる船一|艘《そう》、ものかげに隠れていたろう。はじめてここに見出《みいだ》されたが、一つ目の浜の方《かた》へ、半町ばかり浜のなぐれに隔つる処に、箱のような小船を浮べて、九つばかりと、八つばかりの、真黒《まっくろ》な男の児《こ》。一人はヤッシと艪柄《ろづか》を取って、丸裸の小腰を据え、圧《お》すほどに突伏《つッぷ》すよう、引くほどに仰反《のけぞ》るよう、ただそこばかり海が動いて、舳《へさき》を揺り上げ、揺り下すを面白そうに。穉《おさな》い方は、両手に舷《ふなべり》に掴《つか》まりながら、これも裸の肩で躍って、だぶりだぶりだぶりだぶりと同一《おなじ》処にもう一艘、渚に纜《もや》った親船らしい、艪《ろ》を操る児の丈より高い、他の舷へ波を浴びせて、ヤッシッシ。  いや、道草する場合でない。  廉平は、言葉も通じず、国も違って便《たより》がないから、かわって処置せよ、と暗示されたかのごとく、その苫船《とまぶね》の中に何事かあることを悟ったので、心しながら、気は急ぎ、つかつかと毛脛《けずね》[#ルビの「けずね」は底本では「げずね」]長く藁草履《わらぞうり》で立寄った。浜に苫船はこれには限らぬから、確《たしか》に、上で見ていたのをと、頂を仰いで一度。まずその二人が前に立った、左の方の舷から、ざくりと苫を上へあげた。……  ざらざらと藁が揺れて、広き額を差入れて、べとりと頤髯《あごひげ》一面なその柔和な口を結んで、足をやや爪立《つまだ》ったと思うと、両の肩で、吃驚《おどろき》の腹を揉《も》んで、けたたましく飛び退《の》いて、下なる網に躓《つまず》いて倒れぬばかり、きょとんとして、太い眉の顰《ひそ》んだ下に、眼《まなこ》を円《つぶら》にして四辺《あたり》を眺めた。  これなる丘と相対して、対《むこ》うなる、海の面《おも》にむらむらと蔓《はびこ》った、鼠色の濃き雲は、彼処《かしこ》一座の山を包んで、まだ霽《は》れやらぬ朝靄《あさもや》にて、もの凄《すさま》じく空に冲《ひひ》って、焔《ほのお》の連《つらな》って燃《もゆ》るがごときは、やがて九十度を越えんずる、夏の日を海気につつんで、崖に草なき赤地《あかつち》へ、仄《ほのか》に反映するのである。  かくて一つ目の浜は彎入《わんにゅう》する、海にも浜にもこの時、人はただ廉平と、親船を漕《こ》ぎ繞《めぐ》る長幼二人の裸児《はだかご》あるのみ。        二十三  得も言われぬ顔して、しばらく棒のごとく立っていた、廉平は何思いけん、足を此方《こなた》に返して、ずッと身を大きく巌《いわ》の上へ。  それを下りて、渚《なざさ》づたい、船を弄《もてあそ》ぶ小児《こども》の前へ。  近づいて見れば、渠等《かれら》が漕《こ》ぎ廻る親船は、その舳《じく》を波打際。朝凪《あさなぎ》の海、穏《おだや》かに、真砂《まさご》を拾うばかりなれば、纜《もやい》も結ばず漾《ただよ》わせたのに、呑気《のんき》にごろりと大の字|形《なり》、楫《かじ》を枕の邯鄲子《かんたんし》、太い眉の秀でたのと、鼻筋の通ったのが、真向《まの》けざまの寝顔である。  傍《かたわら》の船も、穉《おさな》いものも、惟《おも》うにこの親の子なのであろう。  廉平は、ものも言わずに駈《か》け歩行《ある》いた声をまず調えようと、打咳《うちしわぶ》いたが、えへん! と大きく、調子はずれに響いたので、襯衣《しゃつ》の袖口の弛《ゆる》んだ手で、その口許を蔽《おお》いながら、 「おい、おい。」  寝た人には内証らしく、低調にして小児《こども》を呼んだ。 「おい、その兄さん、そっちの児《こ》。むむ、そうだ、お前達だ。上手に漕ぐな、甘《うま》いものだ、感心なもんじゃな。」  声を掛けられると、跳上《はねあが》って、船を揺《ゆす》ること木《こ》の葉のごとし。 「あぶない、これこれ、話がある、まあ、ちょっと静まれ。  おお、怜悧《りこう》々々、よく言うことを肯《き》くな。  何《なん》じゃ、外じゃないがな、どうだ余り感心したについて、もうちッと上手な処が見せてもらいたいな。  どうじゃ、ずッと漕げるか。そら、あの、そら巌のもっとさきへ、海の真中《まんなか》まで漕いで行《ゆ》けるか、どうじゃろうな。」  寄居虫《やどかり》で釣る小鰒《こふぐ》ほどには、こんな伯父さんに馴染《なじみ》のない、人馴れぬ里の児は、目を光らすのみ、返事はしないが、年紀上《としうえ》なのが、艪《ろ》の手を止めつつ、けろりで、合点の目色《めつき》をする。 「漕げる? むむ、漕げる! 豪《えら》いな、漕いで見せな/\。伯父さんが、また褒美をやるわ。  いや、親仁《おやじ》、何よ、お前の父《とっ》さんか、父爺《とっさん》には黙ってよ、父爺に肯《き》くと、危いとか悪戯《いたずら》をするなとか、何とか言って叱られら。そら、な、可《い》いか、黙って黙って。」  というと、また合点《がってん》々々。よい、と圧《お》した小腕ながら艪を圧す精巧な昆倫奴《くろんぼ》の器械のよう、シッと一声飛ぶに似たり。疾《はや》い事、但《ただ》し揺れる事、中に乗った幼い方は、アハハアハハ、と笑って跳ねる。 「豪いぞ、豪いぞ。」  というのも憚《はばか》り、たださしまねいて褒めそやした。小船は見る見る廉平の高くあげた手の指を離れて、岩がくれにやがてただ雲をこぼれた点となンぬ。  親船は他愛がなかった。  廉平は急ぎ足に取って返して、また丘の根の巌を越して、苫船《とまぶね》に立寄って、此方《こなた》の船舷《ふなばた》を横に伝うて、二三度、同じ処を行ったり、来たり。  中ごろで、踞《しゃが》んで畚《びく》の陰にかくれたと思うと、また突立《つった》って、端の方から苫を撫《な》でたり、上からそっと叩きなどしたが、更にあちこちを眗《みまわ》して、ぐるりと舳《へさき》の方へ廻ったと思うと、向うの舷《ふなばた》の陰になった。  苫がばらばらと煽《あお》ったが、「ああ」と息の下に叫ぶ声。藁《わら》を分けた艶《えん》なる片袖、浅葱《あさぎ》の褄《つま》が船からこぼれて、その浴衣の染《そめ》、その扱帯《しごき》、その黒髪も、その手足も、ちぎれちぎれになったかと、砂に倒れた婦人《おんな》の姿。        二十四 「気を静めて、夫人《おくさん》、しっかりしなければ不可《いけ》ません。落着いて、可《い》いですか。心を確《たしか》にお持ちなさいよ。  判りましたか、私です。  何も恥かしい事はありません、ちっとも極《きま》りの悪いことはありませんです。しっかりなさい。  御覧なさい、誰も居ないです、ただ私一人です。鳥山たった一人、他《ほか》には誰も居《お》らんですから。」  海の方を背《そびら》にして安からぬ状《さま》に附添った、廉平の足許に、見得もなく腰を落し、裳《もすそ》を投げて崩折《くずお》れつつ、両袖に面《おもて》を蔽《おお》うて、ひたと打泣くのは夫人であった。 「ほんとうに夫人《おくさん》、気を落着けて下さらんでは不可《いけ》ません。突然《いきなり》海へ飛込もうとなすったりなんぞして、串戯《じょうだん》ではない。ええ、夫人《おくさん》、心が確《たしか》になったですか。」  声にばかり力を籠《こ》めて、どうしようにも先は婦人《おんな》、ひとえに目を見据えて言うのみであった。  風そよそよと呼吸《いき》するよう、すすりなきの袂《たもと》が揺れた。浦子は涙の声の下、 「先生、」と幽《かすか》にいう。 「はあ、はあ、」  と、纔《わず》かに便《たより》を得たらしく、我を忘れて擦り寄った。 「私《わ》、私は、もう死んでしまいたいのでございます。」  わッとまた忍び音《ね》に、身悶《みもだ》えして突伏すのである。 「なぜですか、夫人《おくさん》、まだ、どうかしておいでなさる、ちゃんとなさらなくッては不可《いか》んですよ。」 「でも、貴下《あなた》、私は、もう……」 「はあ、どうなすった、どんなお心持なんですか。」 「先生、」 「はあ、どうですな。」 「私が、あの、海へ入って死のうといたしましたのより、貴下《あなた》は、もっとお驚きなさいました事がございましょう。」 「……………………」  何と言おうと、黙って唾《つ》を呑《の》む。 「私が、私が、こんな処に船の中に、寝て、寝て、」  と泣いじゃくりして、 「寝かされておりましたのに、なお吃驚《びっくり》なさいましてしょうねえ、貴下。」 「……ですが、それは、しかし……」とばかり、廉平は言うべき術《すべ》を知らなかった 「先生、」  これぎり、声の出ない人になろうも知れず、と手に汗を握ったのが、我を呼ばれたので、力を得て、耳を傾け、顔を寄せて、 「は、」 「ここは、どこでございます。」 「ここですか、ここは、一つ目の浜を出端《ではず》れた、崖下の突端《とっぱずれ》の処ですが、」 「もう、夜があけましたのでございますか。」 「明けたですよ。明方です、もう日が当るばかりです。」  聞くや否や、 「ええ!」とまた身を震わした。浦子はそれなり、腰を上げて立とうとして、ままならぬ身をあせって、 「恥かしい、私、恥かしいんですよ。先生、どうしましょう、人が見ます。人が来ると不可《いけ》ません、人に見られるのは厭《いや》ですから、どうぞ死なして下さいまし、死なして下さいましよ。」 「と、ともかく。ですからな、夫人《おくさん》、人が来ない内に、帰りましょう。まだ大して人通《ひとどおり》もないですから。疾《はや》く、さあ、疾く帰ろうではありませんか。お内へ行って、まず、お心をお鎮めなさい、そうなさい。」  浦子は烈《はげ》しく頭《かぶり》を掉《ふ》った。        二十五  為《せ》ん術《すべ》を知らず黙っても、まだ頭《かぶり》をふるのであるから、廉平は茫然《ぼうぜん》として、ただ拳《こぶし》を握って、 「どうなさる。こうしていらしっては、それこそ、人が寄って来るか分りません。第一、捜しに出ましたのでも四人や八人ではありません。」  言いも終らず、あしずりして、 「どうしましょう、私、どうしましょうねえ。どうぞ、どうぞ、貴下《あなた》、一思いに死なして下さいまし、恥かしくっても、死骸《しがい》になれば……」  泣くのに半ば言消《ことき》えて、 「よ、後生ですから、」  も曇れる声なり。  心弱くて叶《かな》うまじ、と廉平はやや屹《きっ》としたものいいで、 「飛んだ事を! 夫人《おくさん》、廉平がここに居《お》るです。決《け》して、決《け》して、そんな間違《まちがい》はさせんですよ。」 「どうしましょうねえ、」  はッと深く溜息《ためいき》つくのを、 「……………………」  ただ咽喉《のど》を詰めて熟《じっ》と見つつ、思わず引き入れられて歎息した。  廉平は太い息して、 「まあ、貴女《あなた》、夫人《おくさん》、一体どうなさった。」 「訳を、訳をいえば貴下《あなた》、黙って死なして下さいますよ。もう、もう、もう、こんな汚《けがら》わしいものは、見るのも厭《いや》におなりなさいますよ。」 「いや、厭になるか、なりませんか、黙って見殺しにしましょうか。何しろ、訳をおっしゃって下さい。夫人《おくさん》、廉平です。人にいって悪い事なら、私は盟《ちか》って申しませんです。」  この人の平生はかく盟うのに適していた。 「は、申します、先生、貴下《あなた》だけなら申します。」 「言うて下さるか、それは難有《ありがた》い、むむ、さあ、承りましょう。」 「どうぞ、その、その前《さき》に先生、どこへか、人の居ない、谷底か、山の中か、島へでも、巌穴《いわあな》へでも、お連れなすって下さいまし。もう、貴下《あなた》にばかりも精一杯、誰にも見せられます身体《からだ》ではないんです。」  袖を僅《わずか》に濡れたる顔、夢見るように恍惚《うっとり》と、朝ぼらけなる酔芙蓉《すいふよう》、色をさました涙の雨も、露に宿ってあわれである。 「人の来ない処といって、お待ちなさい、船ででもどちらへか、」  と心当りがないでもなかった。沖の方へ見え初《そ》めて、小児《こども》の船が靄《もや》から出て来た。  夫人は時にあらためて、世に出たような目《まな》ざししたが、苫船《とまぶね》を一目見ると、目《ま》ぶちへ、颯《さっ》と――蒼《あお》ざめて、悚然《ぞっ》としたらしく肩をすくめた、黒髪おもげに、沖の方《かた》。 「もし、」 「は、」 「参られますなら、あすこへでも。」  いかにも人は籠《こも》らぬらしい、物凄《ものすさま》じき対岸《むこう》の崖、炎を宿して冥々《めいめい》たり。 「あんな、あんなその、地獄の火が燃えておりますような、あの中へ、」 「結構なんでございます、」と、また打悄《うちしお》れて面《おもて》を背ける。  よくよくの事なるべし。 「参りましょうか。靄が霽《は》れれば、ここと向い合った同一《おなじ》ような崖下でありますけれども、途中が海で切れとるですから、浜づたいに人の来る処ではありません。  御覧なさい、あの小児《こども》の船を。大丈夫|漕《こ》ぐですから、あれに乗せてもらいましょう、どうです。」  夫人は、がッくりして頷《うなず》いた、ものを言うも切なそうに太《いた》く疲労して見えたのである。 「夫人《おくさん》、それでは。」 「はい、」  と言って礼心に、寂しい笑顔して、吻《ほっ》と息。        二十六 「そんな、そんな貴女《あなた》、詰《つま》らん、怪《け》しからん事があるべき次第《わけ》のものではないです。汚《けが》れた身体《からだ》だの、人に顔は合わされんのとお言いなさるのはその事ですか。ははははは、いや、しかし飛んだ目にお逢《あ》いでした。ちっとも御心配はないですよ。まあ、その足をお拭《ふ》きなさい。突然こんな処へ着けたですから、船を離れる時、酷《ひど》くお濡れなすったようだ。」  廉平は砥《と》に似て蒼《あお》き条《すじ》のある滑《なめら》かな一座の岩の上に、海に面して見すぼらしく踞《しゃが》んだ、身にただ襯衣《しゃつ》を纏《まと》えるのみ。  船の中でも人目を厭《いと》って、紺がすりのその単衣《ひとえ》で、肩から深く包んでいる。浦子の蹴出《けだ》しは海の色、巌端《いわばな》に蒼澄《あおず》みて、白脛《しらはぎ》も水に透くよう、倒れた風情に休らえる。  二人は靄《もや》の薄模様。 「構わんですから、私の衣服《きもの》でお拭きなさい。  何、寒くはないです、寒いどころではないですが、貴女、裾《すそ》が濡れましたで、気味が悪いでありましょう。」 「いえ、もう潮に濡れて気味が悪いなぞと、申されます身体《からだ》ではありません。」と、投げたように岩の上。 「まだ、おっしゃる!」 「ははは、」と廉平は笑い消したが、自分にも疑いの未《いま》だ解けぬ、蘆《あし》の中なる幻影《まぼろし》を、この際なれば気《け》もない風で、 「夢の中を怪しいものに誘い出されて、苫船《とまぶね》の中で、お身体を……なんという、そんな、そんな事がありますものかな。」 「それでも私、」  と、かかる中にも夫人は顔を赧《あか》らめた。 「覚えがあるのでございますもの。貴下《あなた》が気をつけて下すって、あの苫船の中で漸々《ようよう》自分の身体になりました時も、そうでした、……まあ、お恥かしい。」  といいかけて差俯向《さしうつむ》く、額に乱れた前髪は、歯にも噛《か》むべく怨《うら》めしそう。 「ですが、ですが、それは心の迷いです。昨日《きのう》あたりからどうかなさって、お身体《からだ》の工合が悪いのでしょう。西洋なぞにも、」  言《ことば》の下に聞き咎《とが》め、 「西洋とおっしゃれば、貴下《あなた》は西洋の婦人《おんな》の方が、私のつかまっておりました船の中を覗《のぞ》いて見て、仔細《しさい》がありそうに招いたのを、丘の上から御覧なすって、それでお心着きになりましたって。  その時も、苫を破って獣が飛んで行ったとおっしゃるではございませんか。  ですから私は、」  と早や力なげに、なよなよとするのであった。 「いや、」  と当《あて》なしに大きく言った、が、いやな事はちっともない。どうして発見《みいだ》したかを怪しまれて、湾の口を横ぎって、穉児《おさなご》に船を漕《こ》がせつつ、自分が語ったは、まずその通《とおり》。 「ですけれども、何ですな。」 「いいえ」  今度は夫人から遮って、 「もう昨日《きのう》、二つ目の浜へ参りました途中から、それはそれは貴下《あなた》、忌《いま》わしい恐ろしい事ばかりで、私は何だか約束ごとのように存じます。  三十という年に近いこの年になりますまで、少《わか》い折から何一つ苦労ということは知りませんで、悲しい事も、辛い事もついぞ覚えはありません、まだ実家には両親も達者で居ます身の上ですもの。  腹の立った事さえござんせん、余《あんま》り果報な身体《からだ》ですから、盈《みつ》れば虧《か》くるとか申します通り、こんな恐しい目に逢いましたので。唯今《ただいま》ここへ船を漕いでくれました小児《こども》たちが、年こそ違いますけれども、そっくり大きいのが銑さん、小さい方が賢之助に肖《に》ておりましたのも、皆《みんな》私の命数で、何かの因縁なんでございましょうから。」  いうことの極めて確かに、心狂える様子もないだけ、廉平は一層《ひとしお》慰めかねる。        二十七  夫人はわずかに語るうちも、あまたたび息を継ぎ、 「小児《こども》と申しても継《まま》しい中で、それでも姉弟《きょうだい》とも、真《ほん》の児《こ》とも、賢之助は可愛くッてなりません。ただ心にかかりますのはそれだけですが、それも長年、貴下《あなた》が御丹精下さいましたお庇《かげ》で、高等学校へ入学も出来ましたのでございますから、きっと私の思いでも、一人前になりましょう。  もう私は、こんな身体《からだ》、見るのも厭《いや》でなりません。ぶつぶつ切って刻んでも棄《す》てたいように思うんですもの、ちっとも残り惜《おし》いことはないのですが、慾《よく》には、この上の願いには、これが、何か、義理とか意気とか申すので死ぬんなら、本望でございますのに、活《い》きながら畜生道とはどうした因果なんでございましょうねえ。」  と、心もやや落着いたか、先のようには泣きもせで、濁りも去った涼しい目に、ほろりとしたのを、熟《じっ》と見て、廉平|堪《たま》りかねた面色《おももち》して、唇をわななかし、小鼻に柔和な皺《しわ》を刻んで、深く両手を拱《こまぬ》いたが、噫《ああ》、我かつて誓うらく、いかなる時にのぞまんとも、我《わが》心、我が姿、我が相好、必ず一体の地蔵のごとくしかくあるべき也《なり》と、そもさんか菩薩《ぼさつ》。 「夫人《おくさん》、どうしても、貴女《あなた》、怪《あやし》い獣に……という、疑《うたがい》は解けんですか。」 「はい、お恥かしゅう存じます。」と手を支《つ》いて、誰《たれ》にか詫《わ》び入る、そのいじらしさ。  眼《まなこ》を閉じたが、しばらくして、 「恐るべきです、恐るべきだ。夢現《ゆめうつつ》の貴女《あなた》には、悪獣《あくじゅう》の体《たい》に見えましたでありましょう。私の心は獣《けだもの》でした。夫人《おくさん》、懺悔《ざんげ》をします。廉平が白状するです。貴女に恥辱を被らしたものは、四脚《よつあし》の獣ではない、獣のような人間じゃ。  私です。  鳥山廉平一生の迷いじゃ、許して下さい。」と、その襯衣《しゃつ》ばかりの頸《うなじ》を垂れた。  夫人はハッと顔を上げて、手をつきざまに右視左瞻《とみこうみ》つつ、背《せな》に乱れた千筋《ちすじ》の黒髪、解くべき術《すべ》もないのであった。 「許して下さい。お宅へ参って、朝夕、貴女《あなた》に接したのが因果です。賢君に対して殆《ほと》んど献身的に尽したのは、やがて、これ、貴女に生命を捧げていたのです。  未《いま》だ四十という年にもならんで、御存じの通り、私は、色気もなく、慾気もなく、見得もなく、およそ出世間的に超然として、何か、未来の霊光を認めておるような男であったのを御存じでしょう。  なかなか以《もっ》て、未来の霊光ではなく、貴女のその美しいお姿じゃった。  けれども、到底尋常では望みのかなわぬことを悟ったですから、こんど当地の別荘をおなごりに、貴女のお傍《そば》を離れるに就いて、非常な手段を用いたですよ。  五年勤労に酬《むく》いるのに、何か記念の品をと望まれて、悟《さとり》も徳もなくていながら、ただ仏体を建てるのが、おもしろい、工合のいい感じがするで、石地蔵を願いました。  今の世に、さような変ったことを言い、かわったことを望むものが、何……をするとお思いなさる。  廉平は魔法づかいじゃ。」  と石上に跣坐《ふざ》したその容貌《ようぼう》、その風采《ふうさい》、或はしかあるべく見えるのであった。  夫人は、ただもの言わんとして唇のわななくのみ。 「貴女《あなた》も、昨日《きのう》、その地蔵をあつらえにおいでの途中から、怪しいものに憑《つ》かれたとおっしゃった。……  すべて、それが魔法なので、貴女を魅して、夢現《ゆめうつつ》の境《きょう》に乗じて、その妄執《もうしゅう》を晴しました。  けれども余りに痛《いたわ》しい。ひとえに獣にとお思いなすって、玉のごときそのお身体《からだ》を、砕いて切っても棄《す》てたいような御容子《ごようす》が、余りお可哀相《かわいそう》で見ておられん。  夫人《おくさん》、真の獣よりまだこの廉平と、思《おぼ》し召す方が、いくらかお心が済むですか。」  夫人はせいせい息を切った。        二十八 「どうですか、余り推《おし》つけがましい申分《もうしぶん》ではありますが、心はおなじ畜生でも、いくらか人間の顔に似た、口を利く、手足のある、廉平の方が可《い》いですか。」  口へ出すとよりは声をのんで、 「貴下《あなた》、」 「…………」 「貴下、」 「…………」 「貴下、ほんとうでございますか。」 「勿論、懺悔《ざんげ》したのじゃで。」  と、眉を開いてきっぱりという。  膝《ひざ》でじりりとすり寄って、 「ええ、嬉しい。貴下、よくおっしゃって下さいました。」  としっかと膝に手をかけて、わッとまた泣きしずむ。廉平は我ながら、訝《あや》しいまで胸がせまった。 「私と言われて、お喜びになりますほど、それほどの思《おもい》をなさったですか。」 「いいえ、もう、何ともたとえようはござんせん。死んでも死骸《しがい》が残ります、その獣の爪《つめ》のあと舌のあとのあります、毛だらけな膚《はだ》が残るのですもの。焼きましても狐《きつね》狸《たぬき》の悪い臭《におい》がしましょうかと、心残りがしましたのに、貴下《あなた》、よく、思い切ってそうおっしゃって下さいました。快よく死なれます、死なれるんでございますよ。」 「はてさて、」 「………………」 「じゃ、やっぱり、死ぬのを思い止まっちゃ下さらん。」  顔を見合わせ、打頷《うちうなず》き、 「むむ、成程、」  と腕を解いて、廉平は従容《しょうよう》として居直った。 「成程、そうじゃ。貴女《あなた》ほどのお方が、かかる恥辱をお受けなさって、夢にして、ながらえておいでなさる筈《はず》ではないのじゃった。  懺悔をいたせば、悪い夢とあきらめて、思い直して頂けることもあろうかと思ったですが、いかにも取返しのつかんお身体《からだ》にしたのじゃった、恥入ります。  夫人《おくさん》、貴女ばかりは殺しはせんのじゃ。」 「いいえ、飛んだことをおっしゃいます。殿方には何でもないのでございますもの、そして懺悔には罪が消えますと申します、お怨《うら》みには思いません。」 「許して下さるか。」 「女の口から行《ゆ》き過ぎではございますが、」 「許して下さる。」 「はい、」 「それではどうぞ、思い直して、」 「私はもう、」  と衝《つ》と前褄《まえづま》を引寄せる。岩の下を掻《か》いくぐって、下の根のうつろを打って、絶えず、丁々《トントン》と鼓の音の響いたのが、潮や満ち来る、どッと烈《はげ》しく、ざぶり砕けた波がしら、白滝《しらたき》を倒《さかしま》に、颯《さっ》とばかり雪を崩して、浦子の肩から、頭《つむり》から。 「あ、」と不意に呼吸《いき》を引いた。濡れしおたれた黒髪に、玉のつらなる雫《しずく》をかくれば、南無三《なむさん》浪に攫《さら》わるる、と背《せな》を抱くのに身を恁《もた》せて、観念した顔《かんばせ》の、気高きまでに莞爾《にっこ》として、 「ああ、こうやって一思いに。」 「夫人《おくさん》、おくれはせんですよ。」と、顔につららを注いで言った。打返しがまたざっと。 「※[#「さんずい+散」、261-9]《しぶき》がかかる、※[#「さんずい+散」、261-9]がかかる、危いぞ。」  と、空から高く呼《とば》わる声。  靄《もや》が分れて、海面《うなづら》に兀《こつ》として聳《そび》え立った、巌《いわ》つづきの見上ぐる上。草蒸す頂に人ありて、目の下に声を懸けた、樵夫《きこり》と覚しき一個《ひとり》の親仁《おやじ》。面《おもて》長く髪の白きが、草色の針目衣《はりめぎぬ》に、朽葉色《くちばいろ》の裁着《たッつけ》穿《は》いて、草鞋《わらんじ》を爪反《つまぞ》りや、巌端《いわばな》にちょこなんと平胡坐《ひらあぐら》かいてぞいたりける。  その岩の面《おも》にひたとあてて、両手でごしごし一|挺《ちょう》の、きらめく刃物を悠々と磨《と》いでいたり。  磨ぎつつ、覗《のぞ》くように瞰下《みおろ》して、 「上へ来さっしゃい、上へ来さっしゃい、浪に引かれると危いわ。」  という。浪は水晶の柱のごとく、倒《さかしま》にほとばしって、今つッ立った廉平の頭上を飛んで、空ざまに攀《よ》ずること十丈、親仁の手許の磨ぎ汁を一洗滌《ひとあらい》、白き牡丹《ぼたん》の散るごとく、巌角《いわかど》に飜って、海面《うなづら》へざっと引く。 「おじご、何を、何をしてござるのか。」と、廉平はわざと落着いて、下からまず声を送った。 「石鑿《いしのみ》を研ぐよ。二つ目の浜の石屋に頼まれての、今度建立さっしゃるという、地蔵様の石を削るわ。」 「や、親仁御《おじご》がな。」 「おお、此方衆《こなたしゅ》はその註文のぬしじゃろ。そうかの。はて、道理こそ、婆々《ばば》どもが附き纏《まと》うぞ。」  婆々と云うよ、生死《しょうし》を知らぬ夫人の耳に、鋭くその鑿をもって抉《えぐ》るがごとく響いたので、 「もし、」と両膝をついて伸び上った。 「婆《ばば》とお云いなさいますのは。」 「それ、銀目と、金目と、赤い目の奴等《やつら》よ。主達《ぬしたち》が功徳での、地蔵様が建ったが最後じゃ。魔物め、居処《いどこ》がなくなるじゃで、さまざまに祟《たた》りおって、命まで取ろうとするわ。女子衆《おなごしゅ》、心配さっしゃんな、身体《からだ》は清いぞ。」  とて、鑿《のみ》をこつこつ。 「何様それじゃ、昨日《きのう》から、時々黒雲の湧《わ》くように、我等の身体を包みました。婆というは、何ものでござるじゃろう。」と、廉平は揖《ゆう》しながら、手を翳《かざ》して仰いで言った。  皺手《しわで》に呼吸《いき》をハッとかけ、斜めに丁《ちょう》と鑿を押えて、目一杯に海を望み、 「三千世界じゃ、何でも居ようさ。」 「どこに、あの、どこに居ますのでございますえ。」 「それそれそこに、それ、主たちの廻りによ。」 「あれえ、」 「およそ其奴等《そいつら》がなす業じゃ。夜一夜踊りおって[#「踊りおって」は底本では「踊りおつて」]騒々しいわ、畜生ども、」  とハタと見るや、うしろの山に影大きく、眼《まなこ》の光|爛々《らんらん》として、知るこれ天宮の一将星。 「動くな!」  と喝《かっ》する下に、どぶり、どぶり、どぶり、と浪よ、浪よ、浪よ渦《うずま》くよ。  同時に、衝《つ》とその片手を挙げた、掌《たなごころ》の宝刀、稲妻の走るがごとく、射て海に入《い》るぞと見えし。  矢よりも疾《はや》く漕寄《こぎよ》せた、同じ童《わらべ》が艪《ろ》を押して、より幼き他の児《ちご》と、親船に寝た以前《さき》の船頭、三体ともに船に在《あ》り。  斜めに高く底見ゆるまで、傾いた舷《ふなべり》から、二|人《にん》半身を乗り出《いだ》して、うつむけに海を覗《のぞ》くと思うと、鉄《くろがね》の腕《かいな》、蕨《わらび》の手、二条の柄がすっくと空、穂尖《ほさき》を短《みじか》に、一斉に三叉《みつまた》の戟《ほこ》を構えた瞬間、畳およそ百余畳、海一面に鮮血《からくれない》。  見よ、南海に巨人あり、富士山をその裾に、大島を枕にして、斜めにかかる微妙の姿。青嵐《あおあらし》する波の彼方《かなた》に、荘厳《そうごん》なること仏のごとく、端麗なること美人に似たり。  怪しきものの血潮は消えて、音するばかり旭《あさひ》の影。波を渡るか、宙を行《ゆ》くか、白き鵞鳥《がちょう》の片翼《かたつばさ》、朝風に傾く帆かげや、白衣《びゃくえ》、水紅色《ときいろ》、水浅葱《みずあさぎ》、ちらちらと波に漏れて、夫人と廉平が彳《たたず》める、岩山の根の巌《いわ》に近く、忘るるばかりに漕ぐ蒼空《あおぞら》。魚《うお》あり、一尾|舷《ふなばた》に飛んで、鱗《うろこ》の色、あたかも雪。 [#ここから2字下げ] ==篇中の妖婆《ようば》の言葉(がぎぐげご)は凡《すべ》て、半濁音にてお読み取り下されたく候== [#ここで字下げ終わり] [#地から1字上げ]明治三十八(一九〇五)年十二月 底本:「泉鏡花集成4」ちくま文庫、筑摩書房    1995(平成7)年10月24日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第九卷」岩波書店    1942(昭和17)年3月30日発行 ※誤植の確認には底本の親本を参照しました。 入力:門田裕志 校正:土屋隆 2006年11月15日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。