伊勢之巻 泉鏡花 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)床《ゆか》しき |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)伊勢国|古市《ふるいち》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)眗《みまわ》す -------------------------------------------------------  昔男と聞く時は、今も床《ゆか》しき道中姿。その物語に題は通えど、これは東《あずま》の銭なしが、一年《ひととせ》思いたつよしして、参宮を志し、霞《かすみ》とともに立出でて、いそじあまりを三河国《みかわのくに》、そのから衣、ささおりの、安弁当の鰯《いわし》の名に、紫はありながら、杜若《かきつばた》には似もつかぬ、三等の赤切符。さればお紺の婀娜《あだ》も見ず、弥次郎兵衛《やじろべえ》が洒落《しゃれ》もなき、初詣《ういもうで》の思い出草。宿屋の硯《すずり》を仮寝の床に、路《みち》の記の端に書き入れて、一寸《ちょいと》御見《ごけん》に入れたりしを、正綴《ほんとじ》にした今度の新版、さあさあかわりました双六《すごろく》と、だませば小児衆《こどもしゅ》も合点せず。伊勢は七度《ななたび》よいところ、いざ御案内者で客を招けば、おらあ熊野へも三度目《みたびめ》じゃと、いわれてお供に早がわり、いそがしかりける世渡りなり。   明治三十八乙巳年十月吉日 [#地から4字上げ]鏡花 [#改ページ] [#7字下げ]一[#「一」は中見出し] 「はい、貴客《あなた》もしお熱いのを、お一つ召上りませぬか、何ぞお食《あが》りなされて下さりまし。」  伊勢国|古市《ふるいち》から内宮《ないぐう》へ、ここぞ相《あい》の山の此方《こなた》に、灯《ともしび》の淋しい茶店。名物|赤福餅《あかふくもち》の旗、如月《きさらぎ》のはじめ三日の夜嵐に、はたはたと軒を揺《ゆす》り、じりじりと油が減って、早や十二時に垂《なんなん》とするのに、客はまだ帰りそうにもしないから、その年紀頃《としごろ》といい、容子《ようす》といい、今時の品の可《い》い学生風、しかも口数を利かぬ青年なり、とても話対手《はなしあいて》にはなるまい、またしないであろうと、断念《あきら》めていた婆々《ばば》が、堪《たま》り兼ねてまず物優しく言葉をかけた。  宵から、灯も人声も、往来《ゆきき》の脚も、この前あたりがちょうど切目で、後へ一町、前へ三町、そこにもかしこにも両側の商家軒を並べ、半襟と前垂《まえだれ》の美しい、姐《ねえ》さんが袂《たもと》を連ねて、式《かた》のごとく、お茶あがりまし、お休みなさりまし、お飯《まんま》上りまし、お饂飩《うどん》もござりますと、媚《なま》めかしく呼ぶ中を、頬冠《ほっかむり》やら、高帽やら、菅笠《すげがさ》を被《かぶ》ったのもあり、脚絆《きゃはん》がけに借下駄《かりげた》で、革鞄《かばん》を提げたものもあり、五人づれやら、手を曳《ひ》いたの、一人で大手を振るもあり、笑い興ずるぞめきに交《まじ》って、トンカチリと楊弓《ようきゅう》聞え、諸白《もろはく》を燗《かん》する家《や》ごとの煙、両側の廂《ひさし》を籠《こ》めて、処柄《ところがら》とて春霞《はるがすみ》、神風に靉靆《たなび》く風情、灯《ひ》の影も深く、浅く、奥に、表に、千鳥がけに、ちらちらちらちら、吸殻も三ツ四ツ、地《つち》に溢《こぼ》れて真赤《まっか》な夜道を、人脚|繁《しげ》き賑《にぎや》かさ。  花の中なる枯木《こぼく》と観じて、独り寂寞《じゃくまく》として茶を煮る媼《おうな》、特にこの店に立寄る者は、伊勢平氏の後胤《こういん》か、北畠《きたばたけ》殿の落武者か、お杉お玉の親類の筈《はず》を、思いもかけぬ上客《じょうかく》一|人《にん》、引手夥多《ひくてあまた》の彼処《かしこ》を抜けて、目の寄る前途《さき》へ行《ゆ》き抜けもせず、立寄ってくれたので、国主《こくしゅ》に見出《みいだ》されたほど、はじめ大喜びであったのが、灯《あかり》が消え、犬が吠《ほ》え、こうまた寒い風を、欠伸《あくび》で吸うようになっても、まだ出掛けそうな様子も見えぬので。 「いかがでございます、お酌《しゃく》をいたしましょうか。」 「いや、構わんでも可《い》い、大層お邪魔をするね。」  ともの優しい、客は年の頃二十八九、眉目秀麗《びもくしゅうれい》、瀟洒《しょうしゃ》な風采《ふうさい》、鼠《ねず》の背広に、同一《おなじ》色の濃い外套《がいとう》をひしと絡《まと》うて、茶の中折《なかおれ》を真深う、顔を粛《つつ》ましげに、脱がずにいた。もしこの冠物《かむりもの》が黒かったら、余り頬《ほお》が白くって、病人らしく見えたであろう。  こっくりした色に配してさえ、寒さのせいか、屈託でもあるか、顔の色が好《よ》くないのである。銚子《ちょうし》は二本ばかり、早くから並んでいるのに。  赤福の餅《もち》の盆、煮染《にしめ》の皿も差置いたが、猪口《ちょく》も数を累《かさ》ねず、食べるものも、かの神路山《かみじやま》の杉箸《すぎばし》を割ったばかり。  客は丁字形《ていじけい》に二つ並べた、奥の方の縁台に腰をかけて、掌《てのひら》で項《うなじ》を圧《おさ》えて、俯向《うつむ》いたり、腕を拱《こまぬ》いて考えたり、足を投げて横ざまに長くなったり、小さなしかも古びた茶店の、薄暗い隅なる方《かた》に、その挙動《ふるまい》も朦朧《もうろう》として、身動《みうごき》をするのが、余所目《よそめ》にはまるで寝返《ねがえり》をするようであった。  また寝られてなろうか! 「あれ、お客様まだこっちのお銚子もまるでお手が着きませぬ。」  と婆々は片づけにかかる気で、前の銚子を傍《かたえ》へ除《の》けようとして心付く、まだずッしりと手に応《こた》えて重い。 「お燗を直しましょうでござりますか。」  顔を覗《のぞ》き込むがごとくに土間に立った、物腰のしとやかな、婆々は、客の胸のあたりへその白髪頭《しらがあたま》を差出したので、面《おもて》を背けるようにして、客は外《と》の方《かた》を視《なが》めると、店頭《みせさき》の釜《かま》に突込んで諸白の燗をする、大きな白丁《はくちょう》の、中が少くなったが斜めに浮いて見える、上なる天井から、むッくりと垂れて、一つ、くるりと巻いたのは、蛸《たこ》の脚、夜の色|濃《こまや》かに、寒さに凍《い》てたか、いぼが蒼《あお》い。 [#7字下げ]二[#「二」は中見出し]  涼しい瞳《ひとみ》を動かしたが、中折《なかおれ》の帽の庇《ひさし》の下から透《すか》して見た趣で、 「あれをちっとばかりくれないか。」と言ってまた面《おもて》を背けた。  深切な婆々《ばば》は、膝《ひざ》のあたりに手を組んで、客の前に屈《かが》めていた腰を伸《の》して、指《ゆびさ》された章魚《たこ》を見上げ、 「旦那様《だんなさま》、召上りますのでござりますか。」 「ああ、そして、もう酒は沢山だから、お飯《まんま》にしよう。」 「はいはい、……」  身を起して背向《うしろむき》になったが、庖丁《ほうちょう》を取出すでもなく、縁台の彼方《あなた》の三畳ばかりの住居《すまい》へ戻って、薄い座蒲団《ざぶとん》の傍《かたわら》に、散《ちら》ばったように差置いた、煙草《たばこ》の箱と長煙管《ながぎせる》。  片手でちょっと衣紋《えもん》を直して、さて立ちながら一服吸いつけ、 「旦那え。」 「何だ。」 「もう、お無駄でござりまするからお止《よ》しなさりまし、第一あれは余り新しゅうないのでござります。それにお見受け申しました処、そうやって御酒《ごしゅ》もお食《あが》りなさりませず、滅多に箸《はし》をお着けなさりません。何ぞ御都合がおありなさりまして、私《わし》どもにお休み遊ばします。時刻《とき》が経《た》ちまするので、ただ居てはと思召《おぼしめ》して、婆々に御馳走《ごちそう》にあなた様、いろいろなものをお取り下さりますように存じます、ほほほほほ。」  笑《わらい》とともに煙を吹き、 「いいえ、お一人のお客様には難有過《ありがたす》ぎましたほど儲《もう》かりましてございまする。大抵のお宿銭ぐらい頂戴をいたします勘定でござりますから、私《わたくし》どもにもう一室《ひとま》、別座敷でもござりますなら、お宿を差上げたい位に、はい、もし、存じまするが、旦那様。」  婆々は框《かまち》に腰を下して、前垂《まえだれ》に煙草の箱、煙管を長く膝にしながら、今こう謂《い》われて、急に思い出したように、箸の尖《さき》を動かして、赤福の赤きを顧みず、煮染《にしめ》の皿の黒い蒲鉾《かまぼこ》を挟んだ、客と差向いに、背屈《せこご》みして、 「旦那様、決してあなた、勿体《もったい》ない、お急立《せきた》て申しますわけではないのでござりますが、もし、お宿はお極《きま》り遊ばしていらっしゃいますかい。」  客はものいわず。 「一旦《いったん》どこぞにお宿をお取りの上に、お遊びにお出掛けなさりましたのでござりますか。」 「何、山田の停車場《ステエション》から、直ぐに、右|内宮道《ないぐうみち》とある方へ入って来たんだ。」 「それでは、当伊勢はお馴《な》れ遊ばしたもので、この辺には御親類でもおありなさりますという。――」と、婆々は客の言尻《ことばじり》について見たが、その実、土地馴れぬことは一目見ても分るのであった。 「どうして、親類どころか、定宿《じょうやど》もない、やはり田舎ものの参宮さ。」 「おや!」  と大きく、 「それでもよく乗越しておいでなさりましたよ。この辺までいらっしゃいます前には、あの、まあ、伊勢へおいで遊ばすお方に、山田が玄関なら、それをお通り遊ばして、どうぞこちらへと、お待受けの別嬪《べっぴん》が、お袖《そで》を取るばかりにして、御案内申します、お客座敷と申しますような、お褥《しとね》を敷いて、花を活《い》けました、古市があるではござりませぬか。」  客は薄ら寒そうに、これでもと思う状《さま》、燗《かん》の出来立《できたて》のを注《つ》いで、猪口《ちょく》を唇に齎《もた》らしたが、匂《におい》を嗅《か》いだばかりでしばらくそのまま、持つ内に冷《つめた》くなるのを、飲む真似《まね》して、重そうにとんと置き、 「そりゃ何だろう、山田からずッと入ると、遠くに二階家を見たり、目の前に茅葺《かやぶき》が顕《あらわ》れたり、そうかと思うと、足許《あしもと》に田の水が光ったりする、その田圃《たんぼ》も何となく、大《おおき》な庭の中にわざと拵《こしら》えた景色のような、なだらかな道を通り越すと、坂があって、急に両側が真赤《まっか》になる。あすこだろう、店頭《みせさき》の雪洞《ぼんぼり》やら、軒提灯《のきぢょうちん》やら、そこは通った。」 [#7字下げ]三[#「三」は中見出し] 「はい、あの軒ごと、家《や》ごと、向《むこう》三軒両隣と申しました工合《ぐあい》に、玉転《たまころが》し、射的だの、あなた、賭的《かけまと》がござりまして、山のように積んだ景物の数ほど、灯《あかり》が沢山|点《つ》きまして、いつも花盛りのような、賑《にぎやか》な処でござります。」  客は火鉢に手を翳《かざ》し、 「どの店にも大きな人形を飾ってあるじゃないか、赤い裲襠《しかけ》を着た姐様《ねえさん》もあれば、向う顱巻《はちまき》をした道化もあるし、牛若もあれば、弥次郎兵衛《やじろべえ》もある。屋根へ手をかけそうな大蛸《おおだこ》が居るかと思うと、腰蓑《こしみの》で村雨《むらさめ》が隣の店に立っているか、下駄屋にまで飾ったな。皆《みんな》極彩色だね。中にあの三|間間口《げんまぐち》一杯の布袋《ほてい》が小山のような腹を据えて、仕掛けだろう、福相な柔和な目も、人形が大きいからこの皿ぐらいあるのを、ぱくりと遣《や》っちゃ、手に持った団扇《うちわ》をばさりばさり、往来を煽《あお》いで招くが、道幅の狭い処へ、道中双六《どうちゅうすごろく》で見覚えの旅の人の姿が小さいから、吹飛ばされそうです。それに、墨の法衣《ころも》の絵具が破れて、肌の斑兀《まだらはげ》の様子なんざ、余程|凄《すご》い。」 「招《まねき》も善悪《よしあし》でござりまして、姫方や小児衆《こどもしゅう》は恐《こわ》いとおっしゃって、旅籠屋《はたごや》で魘《うな》されるお方もござりますそうでござりまする。それではお気味が悪くって、さっさと通り抜けておしまいなされましたか。」 「詰《つま》らないことを。」  客は引緊《ひきしま》った口許《くちもと》に微笑した。 「しかし、土地にも因るだろうが、奥州の原か、飛騨《ひだ》の山で見た日には、気絶をしないじゃ済むまいけれど、伊勢というだけに、何しろ、電信柱に附着《くッつ》けた、ペンキ塗《ぬり》の広告まで、土佐絵を見るような心持のする国だから、赤い唐縮緬《とうちりめん》を着た姐さんでも、京人形ぐらいには美しく見える。こっちへ来るというので道中も余所《よそ》とは違って、あの、長良川、揖斐川《いびがわ》、木曾川の、どんよりと三条《みすじ》並んだ上を、晩方通ったが、水が油のようだから、汽車の音もしないまでに、鵲《かささぎ》の橋を辷《すべ》って銀河《あまのがわ》を渡ったと思った、それからというものは、夜に入《い》ってこの伊勢路へかかるのが、何か、雲の上の国へでも入るようだったもの、どうして、あの人形に、心持を悪くしてなるものか。」 「これは、旦那様《だんなさま》お世辞の可《い》い、土地を賞《ほ》められまして何より嬉しゅうござります。で何でござりまするか、一刻も早く御参詣《ごさんけい》を遊ばそう思召《おぼしめし》で、ここらまで乗切っていらっしゃいました?」 「そういうわけでもないが、伊勢音頭を見物するつもりもなく、古市より相の山、第一名が好《い》いではないか、あいの山。」  客は何思いけん手を頬《ほお》にあてて、片手で弱々と胸を抱《いだ》いたが、 「お婆《ばあ》さん、昔から聞馴染《ききなじみ》の、お杉お玉というのは今でもあるのか。」 「それはござりますよ。ついこの前途《さき》をたらたらと上りました、道で申せばまず峠のような処に観世物《みせもの》の小屋がけになって、やっぱり紅白粉《べにおしろい》をつけましたのが、三味線《さみせん》でお鳥目《ちょうもく》を受けるのでござります、それよりは旦那様、前方《さき》に行って御覧じゃりまし、川原に立っておりますが、三十人、五十人、橋を通行《ゆきき》のお方から、お銭《あし》の礫《つぶて》を投げて頂いて、手ン手に長棹《ながざお》の尖《さき》へ網を張りましたので、宙で受け留めまするが、秋口|蜻蛉《とんぼ》の飛びますようでござります。橋の袂《たもと》には、女房達が、ずらりと大地に並びまして、一文二文に両換《りょうがえ》をいたします。さあ、この橋が宇治橋と申しまして、内宮様《ないぐうさま》へ入口でござりまする。川は御存じの五十鈴川《いすずがわ》、山は神路山《かみじやま》。その姿の優しいこと、気高いこと、尊いこと、清いこと、この水に向うて立ちますと、人膚《ひとはだ》が背後《うしろ》から皮を透《とお》して透いて見えます位、急にも流れず、淀《よど》みもしませず、浪《なみ》の立つ、瀬というものもござりませぬから、色も、蒼《あお》くも見えず、白くも見えず、緑の淵《ふち》にもなりませず、一様に、真《ほん》の水色というのでござりましょ。  渡りますと、それから三千年の杉の森、神代《かみよ》から昼も薄暗い中を、ちらちらと流れまする五十鈴川を真中《まんなか》に、神路山が裹《つつ》みまして、いつも静《しずか》に、神風がここから吹きます、ここに白木造《しろきづくり》の尊いお宮がござりまする。」 [#7字下げ]四[#「四」は中見出し] 「内宮《ないぐう》でいらっしゃいます。」  婆々《ばば》は掌《て》を挙げて白髪の額に頂き、 「何事のおわしますかは知らねども、忝《かたじけな》さに涙こぼるる、自然《ひとりで》に頭《つむり》が下りまする。お帰りには二見《ふたみ》ヶ浦、これは申上げるまでもござりませぬ、五十鈴川の末、向うの岸、こっちの岸、枝の垂れた根上り松に纜《もや》いまして、そこへ参る船もござります。船頭たちがなぜ素袍《すおう》を着て、立烏帽子《たてえぼし》を被《かぶ》っていないと思うような、尊い川もござりまする、女の曳《ひ》きます俥《くるま》もござります、ちょうど明日は旧の元日。初日の出、」  いいかけて急に膝《ひざ》を。 「おお、そういえば旦那様《だんなさま》、お宿はどうなさります思召《おぼしめし》。  成程、おっしゃりました名の通《とおり》、あなた相の山までいらっしゃいましたが、この前方《さき》へおいでなさりましても、佳《い》い宿はござりません。後方《あと》の古市《ふるいち》でござりませんと、旦那様方がお泊りになりまする旅籠はござりませんが、何にいたしました処で、もし、ここのことでござりまする、必ず必ずお急《せ》き立て申しますではないのでござりまするけれども、お早く遊ばしませぬと、お泊《とまり》が難しゅうござりますので。  はい、いつもまあこうやって、大神宮様のお庇《かげ》で、繁昌《はんじょう》をいたしまするが、旧の大晦日《おおみそか》と申しますと、諸国の講中《こうじゅう》、道者《どうじゃ》、行者《ぎょうじゃ》の衆《しゅ》、京、大阪は申すに及びませぬ、夜一夜、古市でお籠《こもり》をいたしまして、元朝、宇治橋を渡りまして、貴客《あなた》、五十鈴川で嗽手水《うがいちょうず》、神路山を右に見て、杉の樹立《こだち》の中を出て、御廟《おたまや》の前でほのぼのと白《しら》みますという、それから二見ヶ浦へ初日の出を拝みに廻られまする、大層な人数。  旦那様お通りの時分には、玉ころがしの店、女郎屋の門《かど》などは軒並《のきなみ》戸が開《あ》いておりましてございましょうけれども、旅籠屋は大抵戸を閉めておりましたことと存じまする。  どの家も一杯で、客が受け切れませんのでござります。」  婆々はひしひし、大手の木戸に責め寄せたが、 「しかし貴客《あなた》、三人、五人こぼれますのは、旅籠《はたごや》でも承知のこと、相宿でも間に合いませぬから、廊下のはずれの囲《かこい》だの、数寄《すき》な四阿《あずまや》だの、主人《あるじ》の住居《すまい》などで受けるでござりますよ。」  と搦手《からめて》を明けて落ちよというなり。  けれども何の張合もなかった、客は別に騒ぎもせず、さればって聞棄《ききず》てにもせず、何《なん》の機会《きっかけ》もないのに、小形の銀の懐中時計をぱちりと開けて見て、無雑作に突込《つッこ》んで、 「お婆さん、勘定だ。」 「はい、あなた、もし御飯《おまんま》はいかがでござります。」  客は仰向《あおむ》いて、新《あらた》に婆々の顔を見て莞爾《かんじ》とした。 「いや、実は余り欲しくない。」 「まあ、ソレ御覧《ごろう》じまし、それだのに、いかなこッても、酢蛸《すだこ》を食《あが》りたいなぞとおっしゃって、夜遊びをなすって、とんだ若様でござります。どうして婆々が家の一膳飯《いちぜんめし》がお口に合いますものでござります。ほほほほ。」 「時に、三由屋《みよしや》という旅籠はあるね。」 「ええ、古市一番の旧家で、第一等の宿屋でござります。それでも、今夜あたりは大層なお客《ひと》でござりましょ。あれこれとおっしゃっても、まず古市では三由屋で、その上に講元《こうもと》のことでござりまするから、お客は上中下とも一杯でござります。」 「それは構わん。」といって客は細く組違えていた膝を割って、二ツばかり靴の爪尖《つまさき》を踏んで居直った。 「まあ、何ということでござります、それでは気を揉《も》むではなかったに、先へ誰方《どなた》ぞお美しいのがいらしって、三由屋でお待受けなのでござりますね。わざと迷児《まいご》になんぞおなり遊ばして、可《よ》うござります、翌日《あす》は暗い内から婆々が店頭《みせさき》に張番をして、芸妓《げいこ》さんとでも腕車《くるま》で通って御覧じゃい、お望《のぞみ》の蛸の足を放りつけて上げますに。」と煙草《きせる》を下へ、手で掬《すく》って、土間から戸外《そと》へ、……や……ちょっと投げた。トタンに相の山から戻腕車《もどりぐるま》、店さきを通りかかって、軒にはたはたと鳴る旗に、フト楫《かじ》を持ったまま仰いで留《とま》る。 「車夫《くるまや》。」 「はい。」と媚《なまめか》しい声、婦人《おんな》が、看板をつけたのであった、古市組合。 [#7字下げ]五[#「五」は中見出し] 「はッ。」  古市《ふるいち》に名代《なだい》の旅店、三由屋《みよしや》の老番頭、次の室《ま》の敷居際にぴたりと手をつき、 「はッ申上げまするでございまする。」  上段の十畳、一点の汚《よごれ》もない、月夜のような青畳、紫縮緬《むらさきちりめん》ふッくりとある蒲団《ふとん》に、あたかもその雲に乗ったるがごとく、菫《すみれ》の中から抜けたような、装《よそおい》を凝《こら》した貴夫人一人。さも旅疲《たびづかれ》の状《さま》見えて、鼠地《ねずみじ》の縮緬に、麻の葉|鹿《か》の子の下着の端、媚《なまめ》かしきまで膝《ひざ》を斜《ななめ》に、三枚襲《さんまいがさね》で着痩《きや》せのした、撫肩《なでがた》の右を落して、前なる桐火桶《きりひおけ》の縁に、引《ひき》つけた火箸《ひばし》に手をかけ、片手を細《ほっそ》りと懐にした姿。衣紋《えもん》の正しく、顔の気高きに似ず、見好《みよ》げに過ぎて婀娜《あだ》めくばかり。眉の鮮かさ、色の白さに、美しき血あり、清き肌ある女性《にょしょう》とこそ見ゆれ、もしその黒髪の柳濃く、生際《はえぎわ》の颯《さっ》と霞《かす》んだばかりであったら、画《えが》ける幻と誤るであろう。袖口《そでくち》、八口《やつくち》、裳《もすそ》を溢《こぼ》れて、ちらちらと燃ゆる友染《ゆうぜん》の花の紅《くれない》にも、絶えず、一叢《ひとむら》の薄雲がかかって、淑《つつ》ましげに、その美を擁護するかのごとくである。  岐阜《ぎふ》県××町、――里見稲子《さとみいなこ》、二十七、と宿帳に控えたが、あえて誌《しる》すまでもない、岐阜の病院の里見といえば、家族雇人《やからうから》一同神のごとくに崇拝する、かつて当家の主人《あるじ》が、難病を治した名医、且つ近頃三由屋が、株式で伊勢の津《つ》に設立した、銀行の株主であるから。  晩景、留守を預るこの老番頭にあてて、津に出張中の主人《あるじ》から、里見氏の令夫人参宮あり、丁寧に宿を参らすべき由、電信があったので、いかに多数の客があっても、必ず、一室《ひとま》を明けておく、内証の珍客のために控えの席へ迎え入れて、滞《とどこお》りなく既に夕餉《ゆうげ》を進めた。  されば夫人が座の傍《かたわら》、肩掛、頭巾《ずきん》などを引掛《ひっか》けた、衣桁《いこう》の際《きわ》には、萌黄《もえぎ》の緞子《どんす》の夏衾《なつぶすま》、高く、柔かに敷設けて、総附《ふさつき》の塗枕《ぬりまくら》、枕頭《まくらもと》には蒔絵《まきえ》ものの煙草盆《たばこぼん》、鼻紙台も差置いた、上に香炉を飾って、呼鈴《よびりん》まで行届《ゆきとど》き、次の間の片隅には棚を飾って、略式ながら、薄茶の道具一通。火鉢には釜《かま》の声、遥《はるか》に神路山の松に通い、五十鈴川の流《ながれ》に応じて、初夜も早や過ぎたる折から、ここの行燈《あんどう》とかしこのランプと、ただもう取交《とりか》えるばかりの処。 「ええ、奥方様、あなた様にお客にござりまして。」  優しい声で、 「私に、」と品よく応じた。 「はッ、あなた様にお客来《きゃくらい》にござりまする。」  夫人はしとやかに、 「誰方《どなた》だね、お名札《なふだ》は。」 「その儀にござりまする。お名札をと申しますと、生憎《あいにく》所持せぬ、とかようにおっしゃいまする、もっともな、あなた様お着《つき》が晩《おそ》うござりましたで、かれこれ十二時。もう遅うござりますに因って、御一人旅の事ではありまするし、さようなお方は手前どもにおいでがないと申して断りましょうかとも存じましたなれども、たいせつなお客様、またどのような手落になりましても相成らぬ儀と、お伺いに罷出《まかりで》ましてござりまする。」  番頭は一大事のごとく、固くなって、御意を得ると、夫人は何事もない風情、 「まあ、何とおっしゃる方。」 「はッ立花様。」 「立花。」 「ええ、お少《わか》いお人柄な綺麗《きれい》な方でおあんなさいまする。」 「そう。」と軽《かろ》くいって、莞爾《にっこり》して、ちょっと膝を動かして、少し火桶を前へ押して、 「ずんずんいらっしゃれば可《い》いのに、あの、お前さん、どうぞお通し下さい。」 「へい、宜《よろ》しゅうござりますか。」  頤《おとがい》の長い顔をぼんやりと上げた、余り夫人の無雑作なのに、ちと気抜けの体《てい》で、立揚《たちあが》る膝が、がッくり、ひょろりと手をつき、苦笑《にがわらい》をして、再び、 「はッ。」 [#7字下げ]六[#「六」は中見出し]  やがて入交《いりかわ》って女中が一人《いちにん》、今夜の忙しさに親類の娘が臨時手伝という、娘柄《こがら》の好《い》い、爪《つま》はずれの尋常なのが、 「御免遊ばしまし、あの、御支度はいかがでございます。」  夫人この時は、後毛《おくれげ》のはらはらとかかった、江戸紫の襟に映る、雪のような項《うなじ》を此方《こなた》に、背向《うしろむき》に火桶《ひおけ》に凭掛《よりかか》っていたが、軽《かろ》く振向き、 「ああ、もう出来てるよ。」 「へい。」と、その意を得ない様子で、三指《みつゆび》のまま頭《つむり》を上げた。  事もなげに、 「床なんだろう。」 「いいえ、お支度でございますが。」 「御飯かい。」 「はい。」 「そりゃお前《まい》疾《とう》に済んだよ。」と此方《こなた》も案外な風情、余《あまり》の取込《とりこみ》にもの忘れした、旅籠屋《はたごや》の混雑が、おかしそうに、莞爾《にっこり》する。  女中はまた遊ばれると思ったか、同じく笑い、 「奥様、あの唯今《ただいま》のお客様のでございます。」 「お客だい、誰も来やしないよ、お前《まい》。」と斜めに肩ごしに見遣《みやっ》たまま打棄《うっちゃ》ったようにもののすッきり。かえす言《ことば》もなく、 「おや、おや。」と口の中《うち》、女中は極《きまり》の悪そうに顔を赤らめながら、変な顔をして座中を眗《みまわ》すと、誰も居ないで寂《しん》として、釜《かま》の湯がチンチン、途切れてはチンという。  手持不沙汰《てもちぶさた》に、後退《あとじさり》にヒョイと立って、ぼんやりとして襖《ふすま》がくれ、 「御免なさいまし。」と女中、立消えの体《てい》になる。  見送りもせず、夫人はちょいと根の高い円髷《まるまげ》の鬢《びん》に手を障《さわ》って、金蒔絵《きんまきえ》の鼈甲《べっこう》の櫛《くし》を抜くと、指環《ゆびわ》の宝玉きらりと動いて、後毛を掻撫《かいな》でた。  廊下をばたばた、しとしとと畳ざわり。襖に半身を隠して老番頭、呆れ顔の長いのを、擡《もた》げるがごとく差出したが、急込《せきこ》んだ調子で、 「はッ。」  夫人は蒲団《ふとん》に居直り、薄い膝に両手をちゃんと、媚《なまめか》しいが威儀正しく、 「寝ますから、もうお構いでない、お取込の処を御厄介ねえ。」 「はッはッ。」  遠くから長廊下を駈《か》けて来た呼吸《いき》づかい、番頭は口に手を当てて打咳《うちしわぶ》き、 「ええ、混雑《ごたごた》いたしまして、どうも、その実に行届《ゆきとど》きません、平《ひら》に御勘弁下さいまして。」 「いいえ。」 「もし、あなた様、希有《けう》でござります。確かたった今、私《わたくし》が、こちらへお客人をお取次申しましてござりましてござりまするな。」 「そう、立花さんという方が見えたってお謂《い》いだったよ。どうかしたの。」 「へい、そこで女どもをもちまして、お支度の儀を伺わせました処、誰方《どなた》もお見えなさりませんそうでござりまして。」 「ああ、そう、誰もいらっしゃりやしませんよ。」 「はてな、もし。」 「何なの、お支度ッて、それじゃ、今着いた人なんですか、内に泊ってでもいて、宿帳で、私のいることを知ったというような訳ではなくッて?」 「何、もう御覧の通《とおり》、こちらは中庭を一ツ、橋懸《はしがかり》で隔てました、一室《ひとま》別段のお座敷でござりますから、さのみ騒々しゅうもございませんが、二百余りの客でござりますで、宵の内はまるで戦争《いくさ》、帳場の傍《はた》にも囲炉裡《いろり》の際《きわ》にも我勝《われがち》で、なかなか足腰も伸びません位、野陣《のじん》見るようでござりまする。とてもどうもこの上お客の出来る次第ではござりませんので、早く大戸を閉めました。帳場はどうせ徹夜《よあかし》でござりますが、十二時という時、腕車《くるま》が留まって、門《かど》をお叩きなさいまする。」 [#7字下げ]七[#「七」は中見出し] 「お気の毒ながらと申して、お宿を断らせました処、連《つれ》が来て泊っている。ともかくも明けい、とおっしゃりますについて、あの、入口の、たいてい原ほどはござります、板の間が、あなた様、道者衆《どうじゃしゅう》で充満《いっぱい》で、足踏《あしぶみ》も出来ません処から、框《かまち》へかけさせ申して、帳場の火鉢を差上げましたような次第で、それから貴女様《あなたさま》がお泊りの筈《はず》、立花が来たと伝えくれい、という事でござりまして。  早速お通し申しましょうかと存じましたなれども、こちら様はお一方《ひとかた》、御婦人でいらっしゃいます事ゆえ念のために、私《わたくし》お伺いに出ました儀で、直ぐにという御意にござりましたで、引返《ひっかえ》して、御案内。ええ、唯今《ただいま》の女が、廊下をお連れ申したでござります。  女が、貴女様このお部屋へ、その立花様というのがお入り遊ばしたのを見て、取って返しましたで、折返して、お支度の程を伺わせに唯今差出しました処、何か、さような者は一向お見えがないと、こうおっしゃいます。またお座敷には、奥方様の他《ほか》に誰方《どなた》もおいでがないと、目を丸くして申しますので、何を寝惚《ねぼ》けおるぞ、汝《てまえ》が薄眠い顔をしておるで、お遊びなされたであろ、なぞと叱言《こごと》を申しましたが、女いいまするには、なかなか、洒落《しゃれ》を遊ばす御様子ではないと、真顔でござりますについて、ええ、何より証拠、土間を見ましてございます。」  いいかけて番頭、片手敷居越に乗出して、 「トその時、お上《あが》りになったばかりのお穿物《はきもの》が見えませぬ、洋服でおあんなさいましたで、靴にござりますな。  さあ、居合せましたもの総立《そうだち》になって、床下まで覗《のぞ》きましたが、どれも札をつけて預りました穿物ばかり、それらしいのもござりませぬで、希有《けう》じゃと申出しますと、いや案内に立った唯今の女は、見す見す廊下をさきへ立って参ったというて、蒼《あお》くなって震えまするわ。  太《いこ》う恐《こわ》がりましてこちらへよう伺えぬと申しますので、手前|駈出《かけだ》して参じましたが、いえ、もし全くこちら様へは誰方もおいでなさりませぬか。」と、穏《おだやか》ならぬ気色である。  夫人、するりと膝をずらして、後へ身を引き、座蒲団の外へ手の指を反《そら》して支《つ》くと、膝を辷《すべ》った桃色の絹のはんけちが、褄《つま》の折端《おりはし》へはらりと溢《こぼ》れた。 「厭《いや》だよ、串戯《じょうだん》ではないよ、穿物がないんだって。」 「御意にござりまする。」 「おかしいねえ。」と眉をひそめた。夫人の顔は、コオトをかけた衣裄《いこう》の中に眉暗く、洋燈《ランプ》の光の隈《くま》あるあたりへ、魔のかげがさしたよう、円髷《まげ》の高いのも艶々《つやつや》として、そこに人が居そうな気勢《けはい》である。  畳から、手をもぎ放すがごとくにして、身を開いて番頭、固くなって一呼吸《ひといき》つき、 「で、ござりまするなあ。」 「お前、そういえば先刻《さっき》、ああいって来たもんだから、今にその人が見えるだろうと、火鉢の火なんぞ、突《つッ》ついていると、何なの、しばらくすると、今の姐《ねえ》さんが、ばたばた来たの。次の室《ま》のそこへちらりと姿を見せたっけ、私はお客が来たと思って、言《ことば》をかけようとする内に、直ぐ忙《せわ》しそうに出て行って、今度来た時には、突然《いきなり》、お支度はって、お聞きだから、変だと思って、誰も来やしないものを。」とさも訝《いぶか》しげに、番頭の顔を熟《じっ》と見ていう。  いよいよ、きょとつき、 「はてさて、いやどうも何でござりまして、ええ、廊下を急足《いそぎあし》にすたすたお通んなすったと申して、成程、跫音《あしおと》がしなかったなぞと、女は申しますが、それは早や、気のせいでござりましょう。なにしろ早足で廊下を通りなすったには相違ござりませぬ、さきへ立って参りました女が、せいせい呼吸《いき》を切って駈けまして、それでどうかすると、背後《うしろ》から、そのお客の身体《からだ》が、ぴったり附着《くッつ》きそうになりまする。」  番頭は気がさしたか、密《そっ》と振返って背後《うしろ》を見た、釜《かま》の湯は沸《たぎ》っているが、塵《ちり》一つ見当らず、こういう折には、余りに広く、且つ余りに綺麗《きれい》であった。 「それがために二三度、足が留まりましたそうにござりまして。」 [#7字下げ]八[#「八」は中見出し] 「中にはその立花様とおっしゃるのが、剽軽《ひょうきん》な方で、一番《ひとつ》三由屋をお担ぎなさるのではないかと、申すものもござりまするが、この寒いに、戸外《おもて》からお入りなさったきり、洒落《しゃれ》にかくれんぼを遊ばす陽気ではござりません。殊に靴までお隠しなさりますなぞは、ちと手重《ておも》過ぎまするで、どうも変でござりまするが、お年紀頃《としごろ》、御容子《ごようす》は、先刻《さっき》申上げましたので、その方に相違ござりませぬか、お綺麗な、品の可《い》い、面長《おもなが》な。」 「全く、そう。」 「では、その方は、さような御串戯《ごじょうだん》をなさる御人体《ごじんてい》でござりますか、立花様とおっしゃるのは。」 「いいえ、大人《おとなし》い、沢山《たんと》口もきかない人、そして病人なの。」  そりゃこそと番頭。 「ええ。」 「もう、大したことはないんだけれど、一時《ひとしきり》は大病でね、内の病院に入っていたんです。東京で私が姉妹《きょうだい》のようにした、さるお嬢さんの従兄子《いとこ》でね、あの美術、何、彫刻師《ほりものし》なの。国々を修行に歩行《ある》いている内、養老の滝を見た帰りがけに煩って、宅で養生をしたんです。二月ばかり前から、大層、よくなったには、よくなったんだけれど、まだ十分でないッていうのに、肯《き》かないでまた旅へ出掛けたの。  私が今日こちらへ泊って、翌朝《あした》お参《まいり》をするッてことは、かねがね話をしていたから、大方|旅行先《たびさき》から落合って来たことと思ったのに、まあ、お前、どうしたというのだろうね。」 「はッ。」  というと肩をすぼめて首《こうべ》を垂れ、 「これは、もし、旅で御病気かも知れませぬ。いえ、別に、貴女様《あなたさま》お身体《からだ》に仔細《しさい》はござりませぬが、よくそうしたことがあるものにござります。はい、何、もうお見上げ申しましたばかりでも、奥方様、お身のまわりへは、寒い風だとて寄ることではござりませぬが、御帰宅の後はおこころにかけられて、さきざきお尋ね遊ばしてお上げなされまし、これはその立花様とおっしゃる方が、親御、御兄弟より貴女様を便りに遊ばしていらっしゃるに相違ござりませぬ。」  夫人はこれを聞くうちに、差俯向《さしうつむ》いて、両方引合せた袖口《そでくち》の、襦袢《じゅばん》の花に見惚《みと》れるがごとく、打傾いて伏目《ふしめ》でいた。しばらくして[#「しばらくして」は底本では「しばらしくて」]、さも身に染みたように、肩を震わすと、後毛《おくれげ》がまたはらはら。 「寒くなった、私、もう寝るわ。」 「御寝《ぎょし》なります、へい、唯今《ただいま》女中《おんな》を寄越しまして、お枕頭《まくらもと》もまた、」 「いいえ、煙草《たばこ》は飲まない、お火なんか沢山。」 「でも、その、」 「あの、しかしね、間違えて外の座敷へでも行っていらっしゃりはしないか、気をつけておくれ。」 「それはもう、きっと、まだ、方々見させてさえござりまする。」 「そうかい、此家《うち》は広いから、また迷児《まいご》にでもなってると悪い、可愛い坊ちゃんなんだから。」とぴたりと帯に手を当てると、帯しめの金金具《きんかなぐ》が、指の中でパチリと鳴る。  先刻《さっき》から、ぞくぞくして、ちりけ元は水のような老番頭、思いの外、女客の恐れぬを見て、この分なら、お次へ四天王にも及ぶまいと、 「ええ、さようならばお静《しずか》に。」 「ああ、御苦労でした。」と、いってすッと立つ、汽車の中からそのままの下じめがゆるんだか、絹足袋の先へ長襦袢、右の褄《つま》がぞろりと落ちた。 「お手水《ちょうず》。」 「いいえ、寝るの。」 「はッ。」と、いうと、腰を上げざまに襖《ふすま》を一枚、直ぐに縁側へ辷《すべ》って出ると、呼吸《いき》を凝《こら》して二人ばかり居た、恐《こわ》いもの見たさの徒《てあい》、ばたり、ソッと退《の》く気勢《けはい》。 「や。」という番頭の声に連れて、足も裾《すそ》も巴《ともえ》に入乱るるかのごとく、廊下を彼方《あなた》へ、隔ってまた跫音《あしおと》、次第に跫音。この汐《しお》に、そこら中の人声を浚《さら》えて退《の》いて、果《はて》は遥《はるか》な戸外《おもて》二階の突外《とっぱず》れの角あたりと覚しかった、三味線《さみせん》の音《ね》がハタと留《や》んだ。  聞澄《ききすま》して、里見夫人、裳《もすそ》を前へ捌《さば》こうとすると、うっかりした褄がかかって、引留められたようによろめいたが、衣裄《いこう》に手をかけ、四辺《あたり》を眗《みまわ》し、向うの押入をじっと見る、瞼《まぶた》に颯《さっ》と薄紅梅。 [#7字下げ]九[#「九」は中見出し]  煙草盆《たばこぼん》、枕《まくら》、火鉢、座蒲団《ざぶとん》も五六枚。 (これは物置だ。)と立花は心付いた。  はじめは押入と、しかしそれにしては居周囲《いまわり》が広く、破れてはいるが、筵《むしろ》か、畳か敷いてもあり、心持四畳半、五畳、六畳ばかりもありそうな。手入をしない囲《かこい》なぞの荒れたのを、そのまま押入に遣《つか》っているのであろう、身を忍ぶのは誂《あつら》えたようであるが。 (待て。)  案内をして、やがて三由屋の女中が、見えなくなるが疾《はや》いか、ものをいうよりはまず唇の戦《おのの》くまで、不義ではあるが思う同士。目を見交《みかわ》したばかりで、かねて算した通り、一先《ひとま》ず姿を隠したが、心の闇《やみ》より暗かった押入の中が、こう物色の出来得るは、さては目が馴《な》れたせいであろう。  立花は、座敷を番頭の立去ったまで、半時ばかりを五六時間、待飽倦《まちあぐ》んでいるのであった。 (まず、可《よ》し。)  と襖《ふすま》に密《そっ》と身を寄せたが、うかつに出らるる数《すう》でなし、言《ことば》をかけらるる分でないから、そのまま呼吸《いき》を殺して彳《たたず》むと、ややあって、はらはらと衣《きぬ》の音信《おとない》。  目前《めさき》へ路《みち》がついたように、座敷をよぎる留南奇《とめぎ》の薫《かおり》、ほの床《ゆか》しく身に染むと、彼方《かなた》も思う男の人香《ひとか》に寄る蝶《ちょう》、処を違《たが》えず二枚の襖を、左の外、立花が立った前に近づき、 「立花さん。」 「…………」 「立花さん。」  襖の裏へ口をつけるばかりにして、 「可《い》いんですか。」 「まだよ、まだ女中が来るッていうから少々、あなた、靴まで隠して来たんですか。」  表に夫人の打微笑《うちほほえ》む、目も眉も鮮麗《あざやか》に、人丈《ひとたけ》に暗《やみ》の中に描かれて、黒髪の輪郭が、細く円髷《まげ》を劃《くぎ》って明《あかる》い。  立花も莞爾《にっこり》して、 「どうせ、騙《だま》すくらいならと思って、外套《がいとう》の下へ隠して来ました。」 「旨《うま》く行ったのね。」 「旨く行《ゆ》きましたね。」 「後で私を殺しても可《い》いから、もうちと辛抱なさいよ。」 「お稲《いな》さん。」 「ええ。」となつかしい低声《こごえ》である。 「僕は大空腹。」 「どこかで食べて来た筈《はず》じゃないの。」 「どうして貴方《あなた》に逢《あ》うまで、お飯《まんま》が咽喉《のど》へ入るもんですか。」 「まあ……」  黙ってしばらくして、 「さあ。」  手を中へ差入れた、紙包を密《そっ》と取って、その指が搦《から》む、手と手を二人。  隔《へだて》の襖は裏表、両方の肩で圧《お》されて、すらすらと三寸ばかり、暗き柳と、曇れる花、淋《さみ》しく顔を見合せた、トタンに跫音《あしおと》、続いて跫音、夫人は衝《つ》と退《の》いて小さな咳《しわぶき》。  さそくに後を犇《ひし》と閉め、立花は掌《たなそこ》に据えて、瞳《ひとみ》を寄せると、軽く捻《ひね》った懐紙《ふところがみ》、二隅《ふたすみ》へはたりと解けて、三ツ美《うつくし》く包んだのは、菓子である。  と見ると、白と紅《くれない》なり。 「はてな。」  立花は思わず、膝《ひざ》をついて、天井を仰いだが、板か、壁か明かならず、低いか、高いか、定《さだか》でないが、何となく暗夜《やみよ》の天まで、布|一重《ひとえ》隔つるものがないように思われたので、やや急心《せきごころ》になって引寄せて、袖《そで》を見ると、着たままで隠れている、外套《がいとう》の色が仄《ほのか》に鼠。  菓子の色、紙の白きさえ、ソレかと見ゆるに、仰げば節穴かと思う明《あかり》もなく、その上、座敷から、射《さ》し入るような、透間《すきま》は些《すこ》しもないのであるから、驚いて、ハタと夫人の賜物《たまもの》を落して、その手でじっと眼《まなこ》を蔽《おお》うた。  立花は目よりもまず気を判然《はっきり》と持とうと、両手で顔を蔽う内、まさに人道を破壊しようとする身であると心付いて、やにわに手を放して、その手で、胸を打って、がばと眼《まなこ》を開いた。  なぜなら、今そうやって跪《ひざまず》いた体《なり》は、神に対し、仏に対して、ものを打念《うちねん》ずる時の姿勢であると思ったから。  あわれ、覚悟の前ながら、最早《もは》や神仏を礼拝し得べき立花ではないのである。  さて心がら鬼のごとき目を睜《みひら》くと、余り強く面《おもて》を圧していた、ためであろう、襖一重の座敷で、二人ばかりの女中と言葉を交わす夫人の声が、遠く聞えて、遥《はるか》に且つ幽《かすか》に、しかも細く、耳の端《はた》について、震えるよう。  それも心細く、その言う処を確めよう、先刻《さき》に老番頭と語るのをこの隠れ家で聞いたるごとく、自分の居処《いどころ》を安堵《あんど》せんと欲して、立花は手を伸べて、心覚えの隔ての襖に触れて試《み》た。  人の妻と、かかる術《すべ》して忍び合うには、疾《と》く我がためには、神なく、物なく、父なく、母なく、兄弟なく、名誉なく、生命《いのち》のないことを悟っていたけれども、ただ世に里見夫人のあるを知って、神仏より、父より、母より、兄弟より、名誉より、生命《いのち》よりは便《たより》にしたのであるが。  こはいかに掌《たなそこ》は、徒《いたずら》に空《くう》を撫《な》でた。  慌《あわただ》しく丁《ちょう》と目の前へ、一杯に十指を並べて、左右に暗《やみ》を掻探《かいさぐ》ったが、遮るものは何にもない。  さては、暗《やみ》の中に暗をかさねて目を塞《ふさ》いだため、脳に方角を失ったのであろうと、まず慰めながら、居直って、今まで前にしたと反対の側を、衝《つ》と今度は腕《かいな》を差出すようにしたが、それも手ばかり。  はッと俯向《うつむ》き、両方へ、前後に肩を分けたけれども、ざらりと外套の袖の揺れたるのみ。  かっと逆上《のぼ》せて、堪《たま》らずぬっくり突立《つッた》ったが、南無三《なむさん》物音が、とぎょッとした。  あッという声がして、女中が襖をと思うに似ず、寂莫《せきばく》として、ただ夫人のものいうと響くのが、ぶるぶると耳について、一筋ずつ髪の毛を伝うて動いて、人事|不省《ふせい》ならんとする、瞬間に異ならず。  同時に真直《まっすぐ》に立った足許に、なめし皮の樺色《かばいろ》の靴、宿を欺くため座敷を抜けて持って入ったのが、向うむきに揃っていたので、立花は頭から悚然《ぞっ》とした。  靴が左から……ト一ツ留《とま》って、右がその後から……ト前へ越すと、左がちょい、右がちょい。  たとえば歩行の折から、爪尖《つまさき》を見た時と同じ状《さま》で、前途《ゆくて》へ進行をはじめたので、啊呀《あなや》と見る見る、二|間《けん》三|間《げん》。  十間、十五間、一町、半、二町、三町、彼方《かなた》に隔るのが、どうして目に映るのかと、怪《あやし》む、とあらず、歩を移すのは渠《かれ》自身、すなわち立花であった。  茫然《ぼうぜん》。  世に茫然という色があるなら、四辺《あたり》の光景は正しくそれ。月もなく、日もなく、樹もなく、草もなく、路《みち》もない、雲に似て踏みごたえがあって、雪に似て冷《つめた》からず、朧夜《おぼろよ》かと思えば暗く、東雲《しののめ》かと見れば陰々たる中に、煙草盆、枕、火鉢、炬燵櫓《こたつやぐら》の形など左右、二列《ふたなら》びに、不揃《ぶぞろ》いに、沢庵《たくあん》の樽《たる》もあり、石臼《いしうす》もあり、俎板《まないた》あり、灯のない行燈《あんどう》も三ツ四ツ、あたかも人のない道具市。  しかもその火鉢といわず、臼といわず、枕といわず、行燈といわず、一斉に絶えず微《かすか》に揺《ゆら》いで、国が洪水に滅ぶる時、呼吸《いき》のあるは悉《ことごと》く死して、かかる者のみ漾《ただよ》う風情、ただソヨとの風もないのである。 [#7字下げ]十[#「十」は中見出し]  その中《うち》に最も人間に近く、頼母《たのも》しく、且つ奇異に感じられたのは、唐櫃《からびつ》の上に、一個八角時計の、仰向《あおむ》けに乗っていた事であった。立花は夢心地にも、何等か意味ありげに見て取ったので、つかつかと靴を近《ちかづ》けて差覗《さしのぞ》いたが、ものの影を見るごとき、四辺《あたり》は、針の長短と位地を分ち得るまでではないのに、判然《はっきり》と時間が分った。しかも九時半の処を指して、時計は死んでいるのであるが、鮮明《あざやか》にその数字さえ算《かぞ》えられたのは、一点、蛍火《ほたるび》の薄く、そして瞬《またたき》をせぬのがあって、胸のあたりから、斜《ななめ》に影を宿したためで。  手を当てると冷《つめた》かった、光が隠れて、掌《たなそこ》に包まれたのは襟飾《えりかざり》の小さな宝石、時に別に手首を伝い、雪のカウスに、ちらちらと樹《こ》の間から射《さ》す月の影、露の溢《こぼ》れたかと輝いたのは、蓋《けだ》し手釦《てぼたん》の玉である。不思議と左を見詰めると、この飾もまた、光を放って、腕《かいな》を開くと胸がまた晃《きらめ》きはじめた。  この光、ただに身に添うばかりでなく、土に砕け、宙に飛んで、翠《みどり》の蝶《ちよう》の舞うばかり、目に遮るものは、臼《うす》も、桶《おけ》も、皆これ青貝摺《あおがいずり》の器《うつわ》に斉《ひとし》い。  一足進むと、歩くに連れ、身の動くに従うて、颯《さっ》と揺れ、溌《ぱっ》と散って、星一ツ一ツ鳴るかとばかり、白銀《しろがね》黄金《こがね》、水晶、珊瑚珠《さんごじゅ》、透間《すきま》もなく鎧《よろ》うたるが、月に照添うに露|違《たが》わず、されば冥土《よみじ》の色ならず、真珠の流《ながれ》を渡ると覚えて、立花は目が覚めたようになって、姿を、判然《はっきり》と自分を視《なが》めた。  我ながら死して栄《はえ》ある身の、こは玉となって砕けたか。待て、人の妻と逢曳《あいびき》を、と心付いて、首《こうべ》を低《た》れると、再び真暗《まっくら》になった時、更に、しかし、身はまだ清らかであると、気を取直して改めて、青く燃ゆる服の飾を嬉しそうに見た。そして立花は伊勢は横幅の渾沌《こんとん》として広い国だと思った。宵の内通った山田から相の山、茶店で聞いた五十鈴川、宇治橋も、神路山も、縦に長く、しかも心に透通るように覚えていたので。  その時、もう、これをして、瞬間の以前、立花が徒《いたずら》に、黒白《あやめ》も分かず焦り悶《もだ》えた時にあらしめば、たちまち驚いて倒れたであろう、一間ばかり前途《ゆくて》の路に、袂《たもと》を曳《ひ》いて、厚い袘《ふき》を踵《かかと》にかさねた、二人、同一《おなじ》扮装《いでたち》の女《め》の童《わらわ》。  竪矢《たてや》の字の帯の色の、沈んで紅《あか》きさえ認《したた》められたが、一度《ひとたび》胸を蔽《おお》い、手を拱《こまぬ》けば、たちどころに消えて見えなくなるであろうと、立花は心に信じたので、騒ぐ状《さま》なくじっと見据えた。 「はい。」 「お迎《むかい》に参りました。」  駭然《がくぜん》として、 「私を。」 「内方《うちかた》でおっしゃいます。」 「お召ものの飾から、光の射《さ》すお方を見たら、お連れ申して参りますように、お使《つかい》でございます。」と交《かわ》る交《がわ》るいって、向合って、いたいたけに袖《そで》をひたりと立つと、真中《まんなか》に両方から舁《か》き据えたのは、その面《おもて》銀のごとく、四方あたかも漆のごとき、一面の将棋盤。  白き牡丹《ぼたん》の大輪なるに、二ツ胡蝶《こちょう》の狂うよう、ちらちらと捧げて行《ゆ》く。  今はたとい足許が水になって、神路山の松ながら人肌を通す流《ながれ》に変じて、胸の中に舟を纜《もや》う、烏帽子《えぼし》直垂《ひたたれ》をつけた船頭なりとも、乗れとなら乗る気になった。立花は怯《お》めず、臆《おく》せず、驚破《すわ》といわば、手釦《てぼたん》、襟飾を隠して、あらゆるものを見ないでおこうと、胸を据えて、静《しずか》に女童《めのわらわ》に従うと、空はらはらと星になったは、雲の切れたのではない。霧の晴れたのではない、渠《かれ》が飾れる宝玉の一叢《ひとむら》の樹立《こだち》の中へ、倒《さかさま》に同一《おなじ》光を敷くのであった。  ここに枝折戸《しおりど》。  戸は内へ、左右から、あらかじめ待設けた二|人《にん》の腰元の手に開かれた、垣は低く、女どもの高髷《たかまげ》は、一対に、地ずれの松の枝より高い。 [#7字下げ]十一[#「十一」は中見出し] 「どうぞこれへ。」  椅子《いす》を差置かれた池の汀《みぎわ》の四阿《あずまや》は、瑪瑙《めのう》の柱、水晶の廂《ひさし》であろう、ひたと席に着く、四辺《あたり》は昼よりも明《あかる》かった。  その時打向うた卓子《テエブル》の上へ、女《め》の童《わらわ》は、密《そっ》と件《くだん》の将棋盤を据えて、そのまま、陽炎《かげろう》の縺《もつ》るるよりも、身軽に前後して樹の蔭にかくれたが、枝折戸《しおりど》を開いた侍女《こしもと》は、二人とも立花の背後《うしろ》に、しとやかに手を膝《ひざ》に垂れて差控えた。  立花は言葉をかけようと思ったけれども、我を敬うことかくのごときは、打ちつけにものをいうべき次第であるまい。  そこで、卓子に肱《ひじ》をつくと、青く鮮麗《あざやか》に燦然《さんぜん》として、異彩を放つ手釦《てぼたん》の宝石を便《たより》に、ともかくも駒《こま》を並べて見た。  王将、金銀、桂《けい》、香《きょう》、飛車、角、九ツの歩《ふ》、数はかかる境にも異《ちがい》はなかった。  やがて、自分のを並べ果てて、対手《あいて》の陣も敷き終る折から、異香ほのぼのとして天上の梅一輪、遠くここに薫るかと、遥《はるか》に樹《こ》の間を洩《も》れ来る気勢《けはい》。  円形の池を大廻りに、翠《みどり》の水面に小波《ささなみ》立って、二房《ふたふさ》三房《みふさ》、ゆらゆらと藤の浪《なみ》、倒《さかしま》に汀《みぎわ》に映ると見たのが、次第に近《ちかづ》くと三人の婦人であった。  やがて四阿の向うに来ると、二人さっと両方に分れて、同一《おなじ》さまに深く、お太鼓の帯の腰を扱帯《しごき》も広く屈《かが》むる中を、静《しずか》に衝《つ》と抜けて、早や、しとやかに前なる椅子に衣摺《きぬずれ》のしっとりする音。  と見ると、藤紫に白茶の帯して、白綾《しろあや》の衣紋《えもん》を襲《かさ》ねた、黒髪の艶《つやや》かなるに、鼈甲《べっこう》の中指《なかざし》ばかり、ずぶりと通した気高き簾中《れんじゅう》。立花は品位に打たれて思わず頭《かしら》が下ったのである。  ものの情深《なさけぶか》く優しき声して、 「待遠かったでしょうね。」  一言《いちげん》あたかも百雷耳に轟《とどろ》く心地。 「おお、もう駒を並べましたね、あいかわらず性急《せっかち》ね、さあ、貴下《あなた》から。」  立花はあたかも死せるがごとし。 「私からはじめますか、立花さん……立花さん……」  正にこの声、確《たしか》にその人、我が年紀《とし》十四の時から今に到るまで一日も忘れたことのない年紀上《としうえ》の女に初恋の、その人やがて都の華族に嫁して以来、十数年間|一度《ひとたび》もその顔を見なかった、絶代《ぜつだい》の佳人《かじん》である。立花は涙も出ず、声も出ず、いうまでもないが、幾年月《いくとしつき》、寝ても覚《さめ》ても、夢に、現《うつつ》に、くりかえしくりかえしいかに考えても、また逢う時にいい出づべき言《ことば》を未《いま》だ知らずにいたから。  さりながら、さりながら、 「立花さん、これが貴下《あなた》の望《のぞみ》じゃないの、天下晴れて私とこの四阿で、あの時分九時半から毎晩のように遊びましたね。その通りにこうやって将棊《しょうぎ》を一度さそうというのが。  そうじゃないんですか、あら、あれお聞きなさい。あの大勢の人声は、皆《みんな》、貴下の名誉を慕うて、この四阿へ見に来るのです。御覧なさい、あなたがお仕事が上手になると、望《のぞみ》もかなうし、そうやってお身体《からだ》も輝くのに、何が待遠くって、道ならぬ心を出すんです。  こうして私と将棊をさすより、余所《よそ》の奥さんと不義をするのが望《のぞみ》なの?」  衝《つ》と手を伸《のば》して、立花が握りしめた左の拳《こぶし》を解くがごとくに手を添えつつ、 「もしもの事がありますと、あの方もお可哀《かわい》そうに、もう活《い》きてはおられません。あなたを慕って下さるなら、私も御恩がある。そういうあなたが御料簡《ごりょうけん》なら、私が身を棄《す》ててあげましょう。一所になってあげましょうから、他《よそ》の方に心得違《こころえちがい》をしてはなりません。」と強くいうのが優しくなって、果《はて》は涙になるばかり、念被観音力《ねんぴかんのんりき》観音の柳の露より身にしみじみと、里見は取られた手が震えた。  後《うしろ》にも前にも左右にもすくすくと人の影。 「あッ。」とばかり戦《わなな》いて、取去ろうとすると、自若《じじゃく》として、 「今では誰が見ても可《い》いんです、お心が直りましたら、さあ、将棊をはじめましょう。」  静《しずか》に放すと、取られていた手がげっそり痩《や》せて、着た服が広くなって、胸もぶわぶわと皺《しわ》が見えるに、屹《きっ》と目を睜《みは》る肩に垂れて、渦《うずま》いて、不思議や、己《おの》が身は白髪になった、時に燦然《さんぜん》として身の内の宝玉は、四辺《あたり》を照《てら》して、星のごとく輝いたのである。  驚いて白髪《しらが》を握ると、耳が暖く、襖《ふすま》が明いて、里見夫人、莞爾《にっこり》して覗込《のぞきこ》んで、 「もう可《い》いんですよ。立花さん。」  操は二人とも守り得た。彫刻師はその夜の中《うち》に、人知れず、暗《やみ》ながら、心の光に縁側を忍んで、裏の垣根を越して、庭を出るその後姿を、立花がやがて物語った現《うつつ》の境の幻の道を行《ゆ》くがごとくに感じて、夫人は粛然として見送りながら、遥《はるか》に美術家の前程を祝した、誰も知らない。  ただ夫人は一夜《ひとよ》の内に、太《いた》く面《おも》やつれがしたけれども、翌日《あくるひ》、伊勢を去る時、揉合《もみあ》う旅籠屋《はたごや》の客にも、陸続たる道中にも、汽車にも、かばかりの美女はなかったのである。 [#地から1字上げ]明治三十六(一九〇三)年五月 底本:「泉鏡花集成4」ちくま文庫、筑摩書房    1995(平成7)年10月24日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第七卷」岩波書店    1942(昭和17)年7月22日発行 ※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。 ※底本編者による語注は省略しました。 入力:門田裕志 校正:土屋隆 2006年1月30日作成 2020年1月15日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。