照葉狂言 泉鏡花 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)市中《まちなか》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)誰一人|執成《とりな》して [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)睜 ------------------------------------------------------- [#ページの左右中央] [#ここから3字下げ] [#1段階大きな文字]鞠唄  仙冠者  野衾  狂言  夜の辻  仮小屋  井筒  重井筒  峰の堂[#大きな文字終わり] [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] [#5字下げ]鞠唄[#「鞠唄」は大見出し] [#7字下げ]一[#「一」は中見出し]  二坪に足らぬ市中《まちなか》の日蔭の庭に、よくもこう生い立ちしな、一本《ひともと》の青楓《あおかえで》、塀の内に年経たり。さるも老木《おいき》の春寒しとや、枝も幹もただ日南《ひなた》に向いて、戸の外にばかり茂りたれば、広からざる小路の中を横ぎりて、枝さきは伸びて、やがて対向《むかい》なる、二階家の窓に達《とど》かんとす。その窓に時々姿を見せて、われに笑顔向けたまうは、うつくしき姉上なり。  朝な夕な、琴弾きたまうが、われ物心覚えてより一日《ひとひ》も断ゆることなかりしに、わが母みまかりたまいし日よりふと止《や》みぬ。遊びに行《ゆ》きし時、その理由《わけ》問いたるに、何ゆえというにはあらず、飽きたればなりとのたまう。されど彼家《かしこ》なる下婢《かひ》の、密《ひそか》にその実《まこと》を語りし時は、稚心《おさなごころ》にもわれ嬉しく思い染《そ》みぬ。 「それはね、坊ちゃん、あの何ですッて。あなたのね、母様《おっかさん》がおなくなり遊ばしたのを、御近所に居ながら鳴物《なりもの》もいかがな訳だって、お嬢様が御遠慮を遊ばすんでございますよ。」  その隣家《となり》に三十ばかりの女房一人住みたり。両隣は皆二階家なるに、其家《そこ》ばかり平家にて、屋根低く、軒もまた小《ささや》かなりければ、大《おおい》なる凹《おう》の字ぞ中空に描かれたる。この住居《すまい》は狭かりけれど、奥と店との間に一《ひとつ》の池ありて、金魚、緋鯉《ひごい》など夥多《あまた》養いぬ。誰《た》が飼いはじめしともなく古くより持ち伝えたるなり。近隣の人は皆年久しく住みたれど、そこのみはしばしば家主かわりぬ。さればわれその女房とはまだ新らしき馴染《なじみ》なれど、池なる小魚《こうお》とは久しき交情《なか》なりき。 「小母さん小母さん」  この時髪や洗いけん。障子の透間《すきま》より差覗《さしのぞ》けば、膚《はだ》白く肩に手拭《てぬぐい》を懸けたるが、奥の柱に凭《よ》りかかれり。 「金魚は、あの内に居るかい。」 「居ますとも、なぜ今朝ッからいらっしゃらないッて、待ってるわ、貢《みつぎ》さん。」 「そう。」 「あら、そう、じゃアありません、お入りなさいよ、ちょいと。」 「だって開《あ》かないもの、この戸は重いねえ。」  手を空ざまに、我が丈より高き戸の引手を押せば、がたがたと音したるが、急にずらりと開く。婦人《おんな》は上框《あがりがまち》に立ちたるまま、腕《かいな》を延べたる半身、斜《ななめ》に狭き沓脱《くつぬぎ》の上に蔽《おお》われかかれる。その袖の下を掻潜《かいくぐ》りて、衝《つ》と摺抜《すりぬ》けつつ、池ある方《かた》に走り行《ゆ》くをはたはたと追いかけて、後《うしろ》より抱《いだ》き留《とど》め、 「なぜそうですよ。金魚ばかりせッ[#「せッ」に傍点]ついて、この児《こ》は。私ともお遊びッてば、厭《いや》かい。」  と微笑《ほほえ》みたり。 「うむ。」 「うむ、じゃアありません。そんなことをお言いだと私ゃ金魚を怨《うら》みますよ。そして貢さんのお見えなさらない時に、焼火箸《やけひばし》を押着《おッつ》けて、ひどい目に逢わせてやるよ。」 「厭だ。」 「それじゃ、まあお坐《すわ》んなさい。そしてまた手鞠歌《てまりうた》を唄ってお聞かせな。あの後が覚えたいからさ。何というんだっけね。……二両で帯を買うて、三両で絎《く》けて、二両で帯を買うて、それから、三両で絎けて、そうしてどうするの、三両で絎けて……」 「今年はじめて花見に出たら、寺の和尚に抱き留められて。」  とわれは節つけて唄い出《いだ》しぬ。  婦人《おんな》は耳を澄《すま》して聞く。 「寺の和尚に抱き留められて、止《よ》しゃれ、放しゃれ、帯切らしゃるな。」 「おや、お上手だ。」と障子の外より誰やらむ呼ぶ者ありけり。 [#7字下げ]二[#「二」は中見出し] 「誰?」と言いかけて走り出で、障子の隙間《すきま》より戸外《おもて》を見しが、彼は早や町の彼方《かなた》に行《ゆ》く、その後姿は、隣なる広岡の家の下婢《かひ》なりき。 「貢さんが、お上手だもんだから。立って聞いてたの。それはね、唄も節もまるで私たちの知ッてるのと違うんだもの。もっと聞かして下さい、後でまた昨日《きのう》の続きのお話をして上げますから。」  この婦人《おんな》、昔話の上手にて、稚《おさな》きものにもよく分るよう、可哀《あわれ》なる、おかしき物語して聞かす。いつもおもしろき節にて止《や》めては、明くる日その続きをと思うに、まずわれに鞠歌を唄わしむるなり。 「高い縁から突き落されて、笄《こうがい》落し、小枕落し……」  と唄い続けつ。頭《かしら》を垂れて聞き果てたり。 「何だか可哀《あわれ》っぽいのね。鬱《ふさ》いで来るようだけれど、飛んだおもしろいよ。私たちの覚えたのは、内方《うちかた》袖方《そでかた》、御手《おんて》に蝶や花、どうやどうんど、どうやどうんど、一丁、二丁、三丁、四丁ッてもう陽気なことばかりで、訳が解《わか》らないけれど、貢さんのはまた格別だねえ。難有《ありがと》うござんした。それではちょうど隙《ひま》だし、昨日のあの、阿銀《おぎん》小銀《こぎん》のあとを話してあげましょう。」  とて語り出づる、大方の筋は継母《ままはは》のその継《まま》しき児《こ》に酷《むご》きなりけり。 「昨日はどこまで話しましたッけね、そうそう、そうするとね、貢さん、妹の小銀と云う子が感心じゃありませんか。今の母様《おっかさん》の子で、姉様《ねえさん》の阿銀とはお肚《なか》が違っているのだけれど、それはそれは姉おもいの優しい子で、姉様が継母の悪だくみで山へ棄てられるというのを聞いて、どんなにか泣いたろう。何てッて頼んでも、母様は肯入《ききい》れないし、父様《おとっさん》は旅の空。家来や小者はもうみんなが母様におべっかッてるんだから、誰一人|執成《とりな》してくれようと云うものはなし、しかたがないので、そっとね、姉様が冤《むじつ》の罪を被《き》せられて――昨夕《ゆうべ》話したッけ――冤というのは何にも知らない罪を塗りつけられたの。納屋の中に縛られている処へ忍んで逢いに行ってね、言うようには、姉さん、私がどんなにか母様に頼んだけれど、どうしても堪忍しませんから、一旦《いったん》連れられておいでなさいまし。後でまたどうにでもしてお助け申しましょう。そうして、いらッしゃる処が解らないでは、お迎いに行《ゆ》くことが出来ませんから、これを……ッて、そう云って、胡麻《ごま》を一掴《ひとつかみ》、姉様の袂《たもと》へ入れてあげたの。行《ゆ》く道々、中の絶えないように、そこいらに撒《ま》いておいでなさい。それをたよりにして逢いに行《ゆ》くッて、まあ、賢こいじゃアありませんか、小銀はようよう九つ。  その晩は手を取りあッて、二人が泣いて別れて、明日《あくるひ》になると、母様の眼を忍んで小銀が裏庭へ出て見ると、枝折戸《しおりど》の処から、点々《ぽっちり》ずつ、あの昨夜《ゆうべ》の胡麻が溢《こぼ》れ出して、細い、暗い、背戸山の坂道へかかっているのを、拾い拾い、ずッとずッと、遠い遠い、路を歩いて、淋しい山ン中へ入ッて行ッたの。そうするとね、新らしく土を掘りかえした処があッて、掻寄《かきよ》せたあとが小高くなッてて、その上へ大きな石が乗ッけてあって、そこまで小銀が辿《たど》って行《ゆ》くと、一条《ひとすじ》細うく絶々《たえだえ》に続いていた胡麻のあとが無くなっていたでしょう。  もう疑うことはない。姉様はこの中に埋《い》れられたな、と思いながら、姉さん、姉さん、と地《つち》に口をつけて呼んでみても返事がないから、はッと思って、泣伏して、耳をこう。」  言いかけて婦人《おんな》は頭《こうべ》を傾け、顔を斜《ななめ》に眼を瞑《ねむ》りて手をその耳にあてたるが、「ね。」とばかり笑顔寂しく、うっとり[#「うっとり」は底本では「うつとり」]眼を開きてわが顔をば見し。戸外《おもて》には風の音、さらさらと、我家《わがいえ》[#ルビの「わがいえ」は底本では「わがいへ」]なるかの楓《かえで》の葉を鳴《なら》して、町のはずれに吹き通る、四角《よつかど》あたり夕戸出《ゆうとで》の油売る声|遥《はるか》なり。 [#7字下げ]三[#「三」は中見出し]  一《ひと》しきり窓あかるく、白き埃《ほこり》見えたるが、早ものに紛れてくらくなりぬ。寂しくなりたれば、近寄りて婦人《おんな》の膝に片手突きぬ。彼方《かなた》も寒くなりけむ、肌を入れつ。片袖を掛けてわが背《せな》を抱《いだ》きて蔽《おお》いながら、顔さし覗《のぞ》く状《さま》して、なお粛《しめや》かにぞ語れる。 「そうすると、深い深い、下の方で、幽《かすか》に、姉の阿銀がね、貢さん、(ああい。)てッて返事をしましたとさ。  それからまた精一杯な声で、姉さん姉さんッて呼んだの。そうすると、ああ、もう水が出て、足の裏が冷たくッて冷たくッて、と姉さんがお言いだとね。土を掘ったのだもの、水が出ますわ。  どうぞして、上の石を退《の》けて出してあげようとおしだけれど、大きな男が幾人もかかって据えたものを、どうして小銀の手に合うものかね。そちこちするうち日が暮れそうだから、泣き泣きその日は帰ってしまって、翌日《あくるひ》また尋ねて行って、小銀が(小銀が来ましたよ、小銀が来ましたよ。姉さん、姉さん、どこまで水がつきました。)ッて、問うたればね、膝まで水がつきましたッて、そうお言いだとさ。そのあくる日は、もう股《もも》の処へついたッて。またその翌日《あくるひ》行った時は、お腹《なか》の上まで来たんですとね。そうしてもうそうなると、水足が早くなって、小銀が、姉さん、姉さんッて聞く内に、乳の下まで着いたんだよ。山の中は寂《ひっそ》りして、鳥の声も聞えない。人ッ子一人通ろうではなし、助けてもらうわけにはゆかず、といって石は退けられないし、ただもうせめてのことに、お見舞をいうばかり、小銀が悲しい声を絞って。」  この時|婦人《おんな》は一息つきたり。可哀《あわれ》なるこの物語は、土地の人|口碑《こうひ》に伝えて、孫子《まごこ》に語り聞かす、一種のお伽譚《とぎばなし》なりけるが、ここをば語るには、誰もかくすなりとぞ。婦人《おんな》もいま悲しげなる小銀の声を真似《まね》むとて、声繕《こわづくろ》いをしたりしなり。 「(姉さんや、姉さんや、どこまで水がつきました。どこまで水がつきました。もう一度顔が見たいねえ! 小銀が来ましたよう。)ッて、呼んでも呼んでも返事がないの。もう下で口が利けなくなったんでしょう。小銀の悲しさは、まあどんなだったろうねえ。叶《かな》わないとは思っても、ひょッと聞えようかと、(姉さんや、姉さんや、どこまで水がつきました。)阿銀さん、姉さんッて、はッと泣き倒れて、姉さん、姉さん。」  と悲しき声す。先刻《さき》より我知らず悲しくなりしを押耐《おしこら》えていたりしが、もはや忍ばずなりて、わッと泣きぬ。驚きて口をつぐみし婦人《おんな》は、ひたと呆《あき》れし状《さま》にて、手も着けでぞ瞻《みまも》りける。  門《かど》の戸引開けて、衝《つ》と入りざま、沓脱《くつぬぎ》に立ちて我が名を慌《あわただ》しく呼びたるは、隣家《となり》なる広岡の琴弾くかの美しき君なり。 「あれ。」とばかりに後にすさりて、後《うしろ》ざまにまたその手を格子戸の引手にかけし、遁《にげ》も出ださむ身のふりして、面《おもて》をば赧《あか》らめたまえる、可懐《なつか》しと思う人なれば、涙ながら見て、われは莞爾《にっこ》と笑いぬ。 「まあ私はどうしたというのでしょう。」  かく言いかけて俯向《うつむ》きたまえり。 「どうぞ、さあどうぞお入りなさいまし。お嬢様まことに散らかしておりますが。」  此方《こなた》も周章《あわ》てていう。 「はい、まだしみじみ御挨拶《ごあいさつ》にも上りませぬのに、失礼な、つい、あの、まあ、どうしたら可《よ》うございましょう。」  詮方《せんかた》なげに微笑《ほほえ》みたまいつ。果《はて》は笑いとこそなりたれ、わがその時の泣声の殺されやすると思うまで烈《はげ》しき悲鳴なりしかば、折しも戸に倚《よ》りて夕暮の空を見たまいしが、われにもあらで走入りたまいしなりとぞ。されば、わが泣きたるも、一つはこの姉上の母の、継母ぞということをば、かねて人に聞きて知れればなりき。 [#7字下げ]四[#「四」は中見出し]  うつくしき君の住《すま》いたるは、わが町家《まちや》の軒ならびに、比《なら》びなき建物にて、白壁《しらかべ》いかめしき土蔵も有りたり。内証は太《いた》く富めりしなりとぞ。人数《ひとかず》は少なくて、姉上と、その父と、母と、下婢《かひ》とのみ、もの静《しずか》なる仕舞家《しもたや》なりき。  財産持てりというには似で、継母なる人の扮装《みなり》の粗末さよ。前垂《まえだれ》も下婢と同じくしたり。髪は鵲《かささぎ》の尾のごときものの刎《は》ね出でたる都髷《みやこまげ》というに結びて、歯を染めしが、ものいう時、上下《うえした》の歯ぐき白く見ゆる。  年紀《とし》は四十に余れり。われをば睨《にら》みしことあらざれど、遊びに行《ゆ》けば余り嬉しき顔せず。かつて夜《よ》に入《い》りて、姉上と部屋にて人形並べて遊びしに、油こそ惜しけれ、しかることは日中《ひなか》にするものぞと叫びぬ。  われを憎むとは覚えず、内に行《ゆ》くことをこそ好まざれ、外《おもて》にて遊ぶ時は、折々ものくれたり。されどかの継母の与えしものに、わが好ましきはあらざりき。  節句の粽《ちまき》貰いしが、五把《ごわ》の中《うち》に篠《ささ》ばかりなるが二ツありき。杏《あんず》、青梅、李《すもも》など、幼き時は欲しきものよ。広岡の庭には実のなる樹ども夥多《あまた》ありし、中にも何とかいう一種李の実の、またなく甘《うま》かりしを今も忘れず。継母の目のなきひまに、姉上の潜《ひそか》に取りて、両手に堆《うずたか》く盛りてわが袂《たもと》に入れたまいしが、袖の振《ふり》あきたれば、喜び勇みて走り帰る道すがら大方は振り落して、食べむと思うに二ツ三ツよりぞ多からざりける。  継母はわずかに柿の実二ツくれたり。その一顆《ひとつ》は渋かりき。他の一顆を味《あじわ》わむとせしに、真紅の色の黒ずみたる、台《うてな》なきは、虫のつけるなり。熟せしものにはあらず、毒なればとて、亡き母棄てさせたまいぬ。  いつなりけむ、母上の給《たま》いたる梨の、核《しん》ばかりになりしを地に棄てしを見て、彼処《かしこ》の継母眉を顰《ひそ》め、その重宝なるもの投ぐることかは、磨《す》りおろして汁をこそ飲むべけれと、老実《まめ》だちてわれに言えりしことあり。  さる継母に養わるる姉上の身の思わるるに、いい知らず悲しくなりて、かくはわれ小銀の譚《ものがたり》に泣きしなる。その理由《いわれ》を語るべき我が舌は余り稚《おさな》かりき。 「まあ、こうなんですよ。お嬢様、ちょいと御覧なさいまし、子供ですねえ。」  女房は笑みつつ言う。そのままにも出でかねてや、姉上は内に入《い》りたまい、 「まことに失礼いたしました。私もそそっかしい、考えたって解りますのにねえ。小母さん、悪く思召さないで下さいまし、ほんとにどうしよう私は。」と、ひたすらに詫びたまいぬ。  此方《こなた》はただ可笑《おか》しがりて、 「いいえ、しかし何ですわ。うっかりした話はいたされませんね。私も吃驚《びっくり》しました、だって泣きようが太《ひど》いのですもの。厭《いや》な人ねえ。貢さん、私ゃ懲々《こりこり》したよ。もうもうこんなことは聞かせません。」と半ばは怨顔《うらみがお》なるぞ詮方なき。 「でも賢いのね。貢さん、よくお解りだった。」  と優しく頭《かしら》撫《な》でつつ、姉上の愛《め》でたまうに、やや面《おもて》を起せり。 「お嬢様。」とものありげに戸外《おもて》より下婢の声懸けたれば、かの君はいそがわしく辞し去りたまいぬ。あと追うて出でむとせしを、女房の遮りて、笑いながら、 「あらそのまんまで遁《に》げちゃずるいよ。もうひとつ手鞠唄をお聞かせでなくッちゃあ……」  再び唄いたり。辞《いな》みて唄わざらむには、うつくしき金魚もあわれまた継母の手に掛《かか》りやせむ。 [#5字下げ]仙冠者[#「仙冠者」は大見出し] [#7字下げ]一[#「一」は中見出し]  我が居たる町は、一筋細長く東より西に爪先上《つまさきあが》りの小路なり。  両側に見好《みよ》げなる仕舞家《しもたや》のみぞ並びける。市中《いちなか》の中央の極めて好《よ》き土地なりしかど、この町は一端のみ大通りに連《つらな》りて、一方の口は行留《ゆきどま》りとなりたれば、往来少なかりき。  朝《あした》より夕《ゆうべ》に至るまで、腕車《くるま》、地車《じぐるま》など一輌も過《よ》ぎるはあらず。美しき妾《おもいもの》、富みたる寡婦《やもめ》、おとなしき女《め》の童《わらわ》など、夢おだやかに日を送りぬ。  日は春日山の巓《いただき》よりのぼりて粟《あわ》ヶ崎の沖に入《い》る。海は西の方《かた》に路程《みちのり》一里半隔りたり。山は近く、二階なる東の窓に、かの木戸の際なる青楓の繁りたるに蔽《おお》われて、峰の松のみ見えたり。欄に倚《よ》りて伸上れば半腹なる尼の庵《いおり》も見ゆ。卯辰山《うたつやま》、霞が峰、日暮《ひぐらし》の丘、一帯波のごとく連りたり。空|蒼《あお》く晴れて地の上に雨の余波《なごり》ある時は、路なる砂利うつくしく、いろいろの礫《こいし》あまた洗い出《いだ》さるるが中に、金色《こんじき》なる、また銀色《ぎんしょく》なる、緑なる、樺色《かばいろ》なる、鳶色《とびいろ》なる、細螺《きしゃご》おびただし。轍《わだち》の跡というもの無ければ、馬も通らず、おさなきものは懸念なく踞居《ついい》てこれを拾いたり。  あそびなかまの暮ごとに集いしは、筋むかいなる県社|乙剣《おとつるぎ》の宮の境内なる御影石《みかげいし》の鳥居のなかなり。いと広くて地《つち》をば綺麗《きれい》に掃いたり。榊《さかき》五六本、秋は木犀《もくせい》の薫《かおり》みてり。百日紅《さるすべり》あり、花桐《はなぎり》あり、また常磐木《ときわぎ》あり。梅、桜、花咲くはここならで、御手洗《みたらし》と後合《うしろあわ》せなるかの君の庭なりき。  この境内とその庭とを、広岡の継母は一重《ひとえ》の木槿垣《むくげがき》をもて隔てたり。朝霧淡くひとつひとつに露もちて、薄紫に蘂《しべ》青く、純白《まっしろ》の、蘂赤く、あわれに咲重なる木槿の花をば、継母は粥《かゆ》に交ぜて食するなり。こは長寿《ながいき》する薬ぞとよ。  梨の核《しん》を絞りし汁《つゆ》も、木槿の花を煮こみし粥も、汝《な》が口ならば旨《うま》かるべし。姉上にはいかならむ。その姉上と、大方はわれここに来て、この垣をへだてて見《まみ》えぬ。表より行《ゆ》かむは、継母のよき顔せざればなり。  時は日ごとに定まらねど、垣根に彳《たたず》めば姉上の直ちに見えたまう。垂籠《たれこ》めていたまうその居間とは、樹々の梢《こずえ》ありて遮れど、それと心着きてや必ず庭に来たまうは、虫の知らするなるべし。一時《あるとき》は先立ちて園生《そのう》をそぞろあるきしたまうことあり。さる折には、われ家を出づる時、心の急がざることあらざりき。  行《ゆ》きて差覗《さしのぞ》けば、悄《しお》れて樹《こ》の間《ま》に立ちて、首《こうべ》をさげ、肩を垂れ、襟深く頤《おとがい》を埋《うず》めて力なげに彳みたまう。病気にやと胸まず轟《とどろ》くに、やがて目をあげて此方《こなた》を見たまう時、莞爾《にっこ》として微笑《ほほえ》みたまえば、病《やまい》にはあらじと見ゆ。かかることしばしばあり。  独《ひとり》居たまう時はいつもしかなりけむ。われには笑顔見せたまわざること絶えてなかりしが、わがために慰めらるるや、さらば勉《つとめ》て慰めむとて行《ゆ》く。もどかしき垣を中なる逢瀬《おうせ》のそれさえも随意《まま》ならで、ともすれば意地悪き人の妨ぐる。  国麿《くにまろ》という、旧《もと》の我が藩の有司の児《こ》の、われより三ツばかり年紀《とし》たけたるが、鳥居の突《つき》あたりなる黒の冠木門《かぶきもん》のいと厳《いかめ》しきなかにぞ住《すま》いける。 [#7字下げ]二[#「二」は中見出し]  肩幅広く、胸張りて、頬に肥肉《しし》つき、顔|丸《まろ》く、色の黒き少年なりき。腕力《ちから》もあり、年紀《とし》も長《た》けたり、門閥も貴《たっと》ければ、近隣の少年等みな国麿に従いぬ。  厚紙もて烏帽子《えぼし》を作りて被《こうむ》り、払《はたき》を腰に挿したるもの、顱巻《はちまき》をしたるもの、十手を携えたるもの、物干棹《ものほしざお》を荷《にな》えるものなど、五三人左右に引着けて、渠《かれ》は常に宮の階《きざはし》の正面に身構えつ、稲葉太郎|荒象園《こうぞうえん》の鬼門《おにかど》なりと名告《なの》りたり。さて常にわが広岡の姉上に逢わむとて行《ゆ》くを、などさは女々《めめ》しき振舞する。ともに遊べ、なかまにならば、仙冠者牛若三郎という美少年の豪傑になさむと言いき。仙冠者は稲葉なにがしの弟にて、魔術をよくし、空中を飛行《ひぎょう》せしとや。仙冠者をわれ嫌うにあらねど、誰か甘んじて国麿の弟たらむ。  言うこと肯《き》かざるを太《いた》く憎み、きびしくその手下に命じて、われと遊ぶことなからしめたり。さらぬも近隣の少年は、わが袖長き衣《きぬ》を着て、好《よ》き帯したるを疎《うとん》じて、宵々には組を造りて町中《まちなか》を横行しつつ、我が門《かど》に集いては、軒に懸けたる提灯《ちょうちん》に礫《つぶて》を投じて口々に罵《ののし》りぬ。母上の名、仮名もてその神燈に記されたり。亡き人に礫打たしては、仏を辱かしめむとて、当時わが家をば預りたまえる、伯母の君|他《ほか》のに取りかえたまいぬ。  かかりし少年の腕力あり門閥ある頭領を得たるなれば、何とて我威を振《ふる》わざるべき。姉上に逢わむとて木槿垣《むくげがき》に行《ゆ》く途《みち》、まず一人物干棹をもて一文字に遮り留《とど》む。十手持ちたるが引添いて眼《まなこ》を配り、顱巻したるが肩をあげて睨《ね》め着くる。その中にやさしき顔のかの烏帽子|被《かぶ》れる児《こ》の払《はたき》をば、国麿の引取りて、背後《うしろ》の方《かた》に居て、片手を尻下りに結びたる帯にはさみて、鷹揚《おうよう》に指揮《さしず》するなり。  わびたりとて肯くべきにあらず、しおしおと引返す本意《ほい》なき日数《ひかず》こそ積りたれ。忘れぬは我《わが》ために、この時嬉しかりし楓にこそ。  その枝のさき近々と窓の前にさしいでたれば、広岡のかの君は二階にのぼりて、此方《こなた》の欄《てすり》に掴《つか》まりたるわが顔を見て微笑《ほほえ》みたまいつつ、腕《かいな》さしのべて、葉さきをつまみ、撓《しな》いたる枝を引寄せて、折鶴、木⭼《みみずく》、雛《ひいな》の形に切りたるなど、色ある紙あまた引結いてはソト放したまう。小枝は葉摺《はず》れしてさらさらと此方に撓いて来つ。風少しある時殊に美しきは、金紙《きんし》、銀紙を細《こまか》く刻みて、蝶の形にしたるなりき。  雨の日はいかにしけむ、今われ覚えておらず。麗《うらら》かなる空をば一群《ひとむれ》の鳩《はと》輪をつくりて舞うが、姉上とわれと対《むか》いあえるに馴《な》れて、恐気《おそれげ》なく、此方《こなた》の軒、彼方《かなた》の屋根に颯《さっ》と下《おろ》しては翼を休めて、廂《ひさし》にも居たり。物干場の棹にも居たり。棟にも居たり。みな表町《おもてまち》なる大通《おおどおり》の富有の家に飼われしなりき。夕越《ゆうごえ》くれば一斉に塒《ねぐら》に帰る。やや人足繁く、戸外《おもて》を往来《ゆきか》うが皆あおぎて見つ。楓にはいろいろのもの結ばれたり。  そのまま置きて一夜《ひとよ》を過すに、あくる日はまた姉上の新たに結びたまわでは、昨日《きのう》なるは大方|失《う》せて見えずなりぬ。  手届きて人の奪うべくもあらねば、町の外れなる酒屋の庫《くら》と観世物《みせもの》小屋の間に住めりと人々の言いあえる、恐しき野衾《のぶすま》の来て攫《さら》えて行《ゆ》くと、われはおさなき心に思いき。 [#5字下げ]野衾[#「野衾」は大見出し] [#7字下げ]一[#「一」は中見出し]  その翼広げたる大きさは鳶《とび》に較《たぐ》うべし。野衾《のぶすま》と云うは蝙蝠《こうもり》の百歳《ももとせ》を経たるなり。年紀《とし》六十に余れる隣の扇折《おうぎおり》の翁《おじ》が少《わか》き時は、夜ごとにその姿見たりし由、近き年は一年《ひととせ》に三たび、三月に一|度《たび》など、たまたまならでは人の眼に触れずという。一尾ならず、二ツ三ツばかりある。普通《なみ》の小さきものとは違いて、夏の宵、夕月夜、灯《ひとも》す時、黄昏《たそがれ》には出来《いできた》らず。初夜すぎてのちともすればその翼もて人の面《おもて》を蔽《おお》うことあり。柔かに冷き風呂敷のごときもの口に蓋《ふた》するよと見れば、胸の血を吸わるるとか。幻のごとく軒に閃《ひらめ》きて、宮なる鳥居を掠《かす》め、そのまま隠れ去る。かの酒屋の庫《くら》と、観世物《みせもの》小屋の間まで、わが家より半町ばかり隔りし。真中《まんなか》に古井戸一ツありて、雑草の生い茂りたる旧《もと》空地なりしに、その小屋出来たるは、もの心覚えし後なり。  興行あるごとに打囃《うちはや》す鳴物《なりもの》の音|頼母《たのも》しく、野衾の恐れも薄らぐに、行《ゆ》きて見れば、木戸の賑《にぎわ》いさえあるを、内はいかにおもしろからむ。母上いませし折は、わが見たしと云うを許したまわず、野衾の居て恐しき処なるに、いかでこの可愛《かわゆ》きもの近寄らしむべきとて留《とど》めたまいぬ。  亡き人となりたまいて後は、わが寂しがるを慰めむとや、伯母上は快よく日ごとに出だしたまう。場内の光景は見|馴《な》れて明《あきらか》に覚えたり。  土間、引船、桟敷《さじき》などいうべきを、鶉《うずら》、出鶉《でうずら》、坪、追込など称《とな》えたり。舞台も、花道も芝居のごとくに出来たり。人数一千は入《い》るるを得たらむ。  木戸には桜の造花《つくりばな》を廂《ひさし》にさして、枝々に、赤きと、白きと、数あまた小提灯《こぢょうちん》に、「て。」「り。」「は。」と一つひとつ染め抜きたるを、夥《おびただ》しく釣《つる》して懸け、夕暮には皆|灯《ひとも》すなりけり。その下あたり、札をかかげて、一人々々役者の名を筆太にこそ記したれ。小親《こちか》というあり、重子というあり、小松というあり、秋子というあり、細字《さいじ》もてしのぶ[#「しのぶ」に傍点]というあり。小光、小稲《こいな》と書きつらねて、別に傍《かたわら》に小六と書いたり。 [#7字下げ]二[#「二」は中見出し]  印半纏《しるしばんてん》被《き》たる壮佼《わかもの》の、軒に梯子《はしご》さして昇りながら、一つずつ提灯に灯《ひ》ともすが、右の方《かた》より始めたれば、小親という名、ぱっと墨色濃く、鮮《あざや》かに最初の火に照《てら》されつ。蝋燭《ろうそく》の煮え込まざれば、その他はみな朧気《おぼろげ》なりき。  ありたけの提灯あかくなりたる後に、一昨日《おととい》も、その前《さき》の日も、昨日《きのう》も来つ。この夕《ゆうべ》は時やや早かりければ、しばしわれ木戸の前に歩行《ある》くともなく彳《たたず》みつつ、幾度《いくたび》か小親の名を仰ぎ見たり。名を見るさえ他のものとは違いて、そぞろに興ある感起りぬ。かねてその牛若に扮《ふん》せし姿、太《いた》くわが心にかないたり。  見物は未《いま》だ来《きた》り集わず。木戸番の燈《ともしび》大通《おおどおり》より吹きつくる風に揺れて、肌寒う覚ゆる折しも、三台ばかり俥《くるま》をならべて、東より颯《さっ》と乗着けしが、一斉に轅《ながえ》をおろしつ、と見る時、女一人おり立ちたり。続いて一|人《にん》片足を下せるを、後なる俥より出でたる女、つと来て肩を貸すに手を掛けてひらりと下りたり。先なるは紫の包を持ちて手に捧げつ。左右に二|人《にん》引添いたる、真中《まんなか》に丈たかきは、あれ誰やらむ、と見やりしわれを、左なる女木戸を入《い》りざま、偶《ふ》と目を注ぎて、 「おや、お師匠様。」  また一|人《にん》、 「あの、このお子ですよ。」と低声《こごえ》に言いたり。聞棄てながら一歩を移せし舞の師匠は振返りつ。冴《さや》かなる眼にキトわれを見しが、互に肩を擦合せて小走りに入《い》るよとせしに、つかつかと引返して、冷たき衣《きぬ》の袖もてわが頸《うなじ》を抱くや否や、アと叫ぶ頬をしたたかに吸いぬ。  ややありてわれ眼を睜《みは》りたり。三人は早や木戸を入りて見えざりき。あまり不意なれば、茫然《ぼうぜん》として立ったるに、ふと思い出でしは野衾の事なりき。俄《にわか》に恐しくなりて踵《くびす》を返す。通《とおり》の角に、われを見て笑いながら彳みたるは、その頃わが家に抱えられたる染《そめ》という女なり。  走り行《ゆ》きて胸に縋《すが》りぬ。 「恐《こわ》かったよ、染ちゃん恐かったよ。」 「そう、恐かったの、貢さんはあれが恐いのかい。」 「見ていたの。」 「ああ見ていたとも、私が禁厭《おまじない》をしてあげたから何とも無かったんですわ。危ないことね。」 「恐かったよ。染ちゃん、顔をね、包んでしまったから呼吸《いき》が出なかったの。そうして酷《ひど》いの、あの頬《ほっ》ぺたを吸ったんだ。チュッてそう云ったよ、痛いよ、染ちゃん。」  染は眉を顰《ひそ》めて仔細《しさい》らしく、 「どれ、ちょいとお見せ。」  と言いつつ、「て」「り」「は」の提灯のあかりに向けて透《すか》し見るより、 「おや、おや、おや、大変。まあ。」とけたたましく言うに、わが胸|轟《とどろ》きたり。おどおどすれば真顔になりて、 「乱暴だ、酷いことをするわ、野衾が吸ったんだね、貢さん、血が出てるわ。……おや。」  驚きて、 「あら、泣くんじゃアありません。何ともないよ、直ぐ治るから往来で何のこッたね、あら、泣かないでさ。」  と小腰を屈《かが》めて、湯に行《ゆ》きし帰途《かえり》なれば、手拭《てぬぐい》の濡れたるにて、その血の痕《あと》というもの拭《ぬぐ》いたり。 「さあ、治りました。もう何ともないよ。」  と賺《すか》す、血の出たるが、こう早く癒《い》ゆべしとは、われ信ぜず。 「嫌だ、嫌だ、痛いや、治りやしないや。」 「困るね。」  いう折しもまたここに来かかりしは、むかいなるかの女房なりき。われはまた彼方《かなた》に縋りぬ。 「小母さん、恐かったよ。あのね、野衾が血を吸ったの。恐かったよ。」 「え、どうしたって云うの、大変だ、あの野衾がね。」  傍《かたわら》より、 「姉さんほんとうですよ、あのね。」  と言いつつ、ひたと身を寄せ、染は耳朶《みみたぶ》に囁《ささや》きて、 「ね、ほんとうでしょう……ですからさ。」とまた笑えり。  女房は微笑《ほほえ》みながら、 「不可《いけな》いよ。貢さんは何でもほんとにするから欺《だま》されるんだよ。この賑《にぎや》かなのに、何だってまた野衾なんかが出るものかね。嘘だよ、綺麗な野衾だから結構さ。」 「あら姉さん。」 「お止《よ》しよ。そんなこと謂《い》って威《おど》すのは虫の毒さ、私も懲りたことが有るんだからね、欺しッこなし。貢さん、なに血なもんかね、御覧よ。」  中指のさきを口に含みて、やがて見せたる、血の色つきたり。 「紅《べに》さ。野衾でも何でも可《い》いやね。貢さんを可愛がるんだもの、恐くはないから行って御覧、折角、気晴《きばらし》に行《ゆ》くのものを、ねえ。此奴《こいつ》が、」 「あれ。」 「あばよ。」とばかり別れたる、囃子《はやし》の音おもしろきに、恐しき念も失《う》せて、忙《せわ》しくまた木戸に行《ゆ》きぬ。  能は始まりたり。早くと思うに、木戸番の男、鼻低う唇厚きが、わが顔を見てニタニタと笑いいたれば、何をか思うと、その心はかり兼ねて猶予《ためら》いぬ。 [#7字下げ]三[#「三」は中見出し] 「坊ちゃん、お入んなさい、始りましたよ。」  わが猶予《ためら》いたるを見て、木戸番は声を懸けぬ。日ごとに行《ゆ》きたれば顔を見識《みし》れるなりき。 「どうなすったんだ。さあ、お入んなさい、え、どうしたんだね。もう始りましたぜ。何でさ、木戸銭なんか要りやしません。お入んなさい、無銭《ただ》で可《よ》うごす。木戸銭は要りませんから、菓子でも買っておあがんなさい。」  大胡坐《おおあぐら》掻きたるが笑いながら言示《いいしめ》せり。さらぬだに、われを流眄《しりめ》にかけたるが気に懸《かか》りて、そのまま帰らむかと思えるならば、堪《こら》えず腹立たしきに、伯母上がたまいし銀貨|入《い》りたる緑色の巾着、手に持ちたるままハタと擲《なげう》ちたり。銀貨入を誰《た》が惜《おし》む。投ぐると斉《ひと》しく駈《か》け出《いだ》しぬ。疾《と》く帰りて胸なる不平を伯母上に語らばやと、見も返らざりし背後《うしろ》より、跫音《あしおと》忙《せわ》しく追迫りて、手を捉《とら》えて引留めしは年若き先の女《むすめ》なり。 「坊ちゃん、まあ、あなた、まあどう遊ばしたんですよ。どこへいらっしゃるのさ。え、何かお気に入らない事があったんですか。お怒りなすって、まあ、飛んだ御機嫌が悪いのねえ。堪忍して頂戴な。よう、いらっしゃいよ。さあ、私と一所においでなさいましなね。何です、そんな顔をなさるもんじゃありません。」 「嫌だ。」 「あれ、そんなこと有仰《おっしゃ》らないでさ。あのね、あのね、小親さんがお獅子を舞いますッて、ね、可《い》いでしょう、さあ、いらっしゃい。」  と手を取るに、さりとも拒み得で伴われし。木戸に懸《かか》る時、木戸番の爺《おじ》われを見つつ、北叟笑《ほくそえ》むようなれば、面《おもて》を背けて走り入りぬ。  人大方は来揃いたり。桟敷《さじき》の二ツ三ツ、土間少し空きたる、舞台に近き桟敷の一間に、女はわれを導きぬ。 「坊ちゃん、じゃあね、ここで御覧なさいまし。」  意外なる待遇《もてなし》かな、かかりし事われは有らず。平時《いつも》はただ人の前、背後《うしろ》、傍《わき》などにて、妨《さまたげ》とならざる限り、処定めず観たりしなるを。大《おおい》なる桟敷の真中《まんなか》に四辺《あたり》を眗《みまわ》して、小《ちいさ》き体|一個《ひとつ》まず突立《つった》てり。  とばかりありて、仮花道に乱れ敷き、支え懸けたる、見物の男女《なんにょ》が袖肱《そでひじ》の込合うたる中をば、飛び、飛び、小走《こばしり》に女《め》の童《わらわ》一人、しのぶと言うなり。緋鹿子《ひがのこ》を合せて両面着けて、黒き天鵞絨《びろうど》の縁《へり》取りたる綿厚き座蒲団《ざぶとん》の、胸に当てて膝を蔽《おお》うまでなるを、両袖に抱えて来つ。  見返る女《むすめ》に顔を見合せて、 「あのね、姉さんが。」と小声に含めて渡す。  受取りて女《むすめ》は桟敷に直しぬ。 「さあ、お敷き遊ばせよ。」  われはまた蒲団に乗りて、坐《すわ》りもやらで立ったりき。女《むすめ》は手もて足を押えて顔を見て打笑みたり。 「さあ、おゆっくり。」  われは据えられぬ。 「しのぶさん、お火鉢。」 「あい。」と云いしが眗して、土間より立ったる半纏着の壮佼《わかもの》を麾《さしまね》き、 「ちょいと、火鉢をね。」 「おい。」とこちら向く。その土間なる客の中に、国麿の交《まじ》りしをわれ見たり。顔を見合せ、そ知らぬ顔して、仙冠者は舞台の方《かた》に眼《まなこ》を転じぬ。牛若に扮したるは小親にこそ。 [#7字下げ]四[#「四」は中見出し]  髪のいと黒くて艶《つやや》かなるを、元結《もッとい》かけて背に長く結びて懸けつ。大口の腰に垂れて、舞う時|靡《なび》いて見ゆる、また無き風情なり。狩衣《かりぎぬ》の袖もゆらめいたり。長範をば討って棄て、血刀《ちがたな》提げて吻《ほ》と呼吸《いき》つく状《さま》する、額には振分たる後毛《おくれげ》の先端《さき》少し懸《かか》れり。眉|凜々《りり》しく眼の鮮《あざやか》なる、水の流るるごときを、まじろぎもせで、正面に向いたる、天晴《あっぱれ》快き見得なるかな。  囃子の音|止《や》み寂然《ひっそ》となりぬ。粛然として身を返して、三の松を過ぎると見えし、くるりと捲《ま》いたる揚幕に吸わるるごとく舞込みたり、 「お茶はよろし、お菓子はよしかな、お茶はよろし。」  と幕間《まくあい》を売歩行《うりある》く、売子の数の多き中に、物語の銀六とて痴《たわ》けたる親仁《おやじ》交りたり。茶の運びもし、火鉢も持て来、下足の手伝もする事あり。おりおり、小幾、しのぶ、小稲が演ずる、狂言の中に立交りて、ともすれば屹《きっ》となりて居直りて足を構え、手拍子打ち、扇を揚げて、演劇《しばい》の物語の真似《まね》するがいと巧《たくみ》なれば、皆おかしがりて、さは渾名《あだな》して囃せるなり。  真似の上手なるも道理《ことわり》よ、銀六は旧俳優《もとやくしゃ》なりき。  かつて大槻内蔵之助《おおつきくらのすけ》の演劇《しばい》ありし時、渠《かれ》浅尾を勤めつ。三年《みとせ》あまり前《さき》なりけむ、その頃母上居たまいたれば、われ伴われて見に行《ゆ》きぬ。  蛇責《へびぜめ》こそ恐しかりけり。大釜《おおがま》一個《ひとつ》まず舞台に据えたり。背後《うしろ》に六角の太き柱立てて、釜に入れたる浅尾の咽喉《のんど》を鎖もて縛《いまし》めて、真白なる衣《きぬ》着せたり。顔の色は蒼《あお》ざめて、乱髮《みだれがみ》振りかかれるなかに輝きたる眼《まなこ》の光の凄《すさ》まじさ、瞻《みまも》り得べきにあらず。夥兵《くみこ》立懸《たちかか》り、押取巻《おっとりま》く、上手《かみて》に床几《しょうぎ》を据えて侍控えいて、何やらむいい罵《ののし》りしが、薪《たきぎ》をば投入れぬ。  どろどろと鳴物《なりもの》聞えて、四辺《あたり》暗くなりし、青白きものあり、一条《ひとすじ》左の方《かた》より閃《ひらめ》きのぼりて、浅尾の頬を掠《かす》めて頭上に鎌首を擡《もた》げたるは蛇《くちなわ》なり。啊呀《あなや》と見る時、別なるがまた頸《うなじ》を絡《まと》いて左なるとからみ合いぬ。恐しき声をあげて浅尾の呻《うめ》きしが、輪になり、棹《さお》になりて、同じほどの蛇《くちなわ》[#ルビの「くちなわ」は底本では「くちなは」]幾|条《すじ》ともなく釜の中より蜿《うね》り出でつ。細く白き手を掙《もが》きて、その一条を掻掴《かいつか》み、アと云いさま投げ棄てつ。交《かわ》る交《がわ》る取って投げしが、はずみて、矢のごとくそれたる一条、土間に居たまいたる母上の、袖もてわれを抱《いだ》きてうつ向きたまいし目の前《さき》にハタと落ちたるに、フト立ちて帰りたまいき。  この時その役|勤《つとめ》し後、渠《かれ》はまた再び場《じょう》に上らざるよし。蛇責の釜に入《い》りしより心地|悪《あし》くなりて、はじめはただ引籠《ひきこも》りしが、俳優《やくしゃ》厭《いや》になりぬとて罷《や》めたるなり。やや物狂わしくなりしよしなど、伯母上のうわさしたまう。  何地《いずち》行《ゆ》きけむ。久しくその名聞えざりしが、この一座に交りて、再び市人《いちびと》の眼に留りつ。かの時の俤《おもかげ》は、露ばかりも残りおらで、色も蒼からず、天窓《あたま》兀《は》げたり。大声に笑い調子高にものいい、身軽く小屋の中を馳《は》せ廻りて独《ひとり》快げなる、わが眼にもこのおじが、かの恐しき事したりとは見えず。赤き顱巻《はちまき》向うざまにしめて、裾《すそ》を括《から》げ、片肌脱ぎて、手にせる菓子の箱高く捧げたるがその銀六よ。 [#7字下げ]五[#「五」は中見出し] 「人気だい、人気だい。や、すてきな人気じゃ。お菓子、おこし、小六さん、小親さん、小六さんの人気おこし、おこしはよしか。お菓子はよしか。」  いまの能の品評《しなさだめ》やする、ごうごうと鳴る客の中を、勢いよく売ありきて、やがてわが居たる桟敷《さじき》に来《きた》りて、 「はい、これを。」  と大きく言いて、紙包にしたる菓子をわが手に渡しつ。 「楽屋から差上げます。や、も、皆大喜び、数ならぬ私《わたくし》まで、はははは。何てッてこれ坊ちゃんのようなお小《ちいさ》いのが毎晩見て下さる。当興行|大当《おおあたり》、滅茶々々に面白い。すてきに面白い。おもしろ狸のきぬた巻でも、あんころ餅《もち》でも、鹿子《かのこ》餅でも、何でもございじゃ、はい、何でもござい、人気おこし、お菓子はよしか。小六さん、小親さん、小六さんの人気おこし、おこしはよしか。」と呼びかけて前の桟敷を跨《また》ぎ越ゆる。  ここに居て見物したるは、西洋手品の一群《ひとむれ》なりし。顔あかく、眼《まなこ》つぶらにて、頤《おとがい》を髯《ひげ》に埋《うず》めたる男、銀六の衣《きもの》の裾《すそ》むずと取りて、 「何を!」と言いさま、三ツ紋つきたる羽織の片袖まくし揚げつつ、 「何だ、小六さん、小六さんの人気おこしたあ何だ。」 「へい。」 「へいじゃあない、小六さんたあ何だ。客の前を何と心得てるんだ。獣《けだもの》め、乞食芸人の癖に様づけに呼ぶ奴《やつ》があるもんか。汝《きさま》あ何だい、馬鹿め!」  と言うより早く拳《こぶし》をあげて、その胸のあたりをハタと撲《う》ちぬ。背後《うしろ》に蹌踉《よろ》けて渋面せしが、たちまち笑顔になりて、 「許させられい、許させられい。」  と身を返して遁《に》げ行《ゆ》きぬ。  この時、人声静まりて、橋がかりを摺足《すりあし》して、膏薬《こうやく》練《ねり》ぞ出で来《きた》れる。その顔は前《さき》にわれを引留めて、ここに伴いたるかの女《むすめ》に肖《に》たるに、ふと背後《うしろ》を見れば、別なるうつくしき女、いつか来て坐りたり。黒髪を束《つか》ねて肩に懸けたるのみ、それかと見れば、俤《おもかげ》は舞台なりし牛若の凜々《りり》しげなるには肖で、いと優しきが、涼しき目もて、振向きたるわが顔をば見し。打微笑《うちほほえ》みしまま未《いま》だものいわざるにソト頬摺《ほおずり》す。われは舞台に見向きぬ。  背後《うしろ》見らるる心地もしつ。  ややありて吸競《すいくら》べたる膏薬練の、西なる方《かた》吸寄せられて、ぶざまに転《こ》けかかりたる状《さま》いと可笑《おかし》きに、われ思わず笑いぬ。 「おもしろうござんすか。」  と肩に手をかけて潜《ひそ》めき問いぬ。 「よく来て下さいますね。ちょいと、あの、これを。」  渠《かれ》は先にわが投げ棄てし銀貨入を手にしつつ、 「私これ頂いときますよ。ね、頂戴。可《よ》うござんすか。」 「ああ。」  また頷《うなず》けば軽く頂き、帯の間に挟みしが、 「木戸のがね、お気に入りませんだったら叱ッてもらってあげますから、腹を立てないで毎晩、毎晩、いらっしゃいましな、ね。ちゃんとここを取って、私のこのお蒲団敷いてあげますわ。そうしてお前さんの好きなことをして見せましょう。何が可《い》いの、狂言がおもしろいの。」 「いいえ。」 「じゃあ、お能の方なの。」 「牛若が可いんだ、刀持って立派で可いんだ。」 「そう。」と言いかけて莞爾《にこり》とせしが、見物は皆舞台を向いたり。人知れずこそ、また一ツ、ここにも野衾居たりしよ。 [#5字下げ]狂言[#「狂言」は大見出し] [#7字下げ]一[#「一」は中見出し]  見物みな立ちたればわれも立ちぬ。小親が与えし緋鹿子《ひがのこ》の蒲団《ふとん》の上に、広き桟敷《さじき》の中に、小さき体一ツまたこそこの時|突立《つった》ちたれ。さていかにせむ。前なるも、後《うしろ》なるも、左も右も、人波打ちつつどやどやと動揺《どよ》み出づる、土間桟敷に五三人、ここかしこに出後《でおく》れしが、頭巾|被《かぶ》るあり、毛布《けっと》纏《まと》うあり、下駄の包《つつみ》提げたるあり、仕切の板飛び飛びに越えて行《ゆ》く。木戸の方《かた》は一団《ひとかたまり》になりて、数百《すひゃく》の人声|推合《おしあ》えり。われはただ茫然としてせむ術《すべ》を知らざりき。 「おい、帰らないか。」  と声を掛け、仕切の板に手を支《つ》きて、われを呼びたるは国麿なり。釦《ぼたん》三ツばかり見ゆるまで、胸を広く掻広《かきひろ》げて、袖をも肱《ひじ》まで捲《まく》し上げたる、燃立つごとき紅《くれない》の襯衣《しゃつ》着たり。尻さがりに結べる帯、その色この時は紫にて、 「どうした、一所に帰ろうな。」 「後から。」と低く答えぬ。  国麿は不満の色して、 「だって皆《みんな》帰るじゃあないか。一人ぼッちで何しに残るんだ。」 「だって、まだ、何だもの。」  となお猶予《ためら》いぬ。女《むすめ》来て帰れと言わず、座蒲団このままにして、いかで、われ行《ゆ》かるべき。  国麿はものあり顔に、 「可《い》いじゃあないか、一所に帰ったって可いじゃあないか。」 「だって何だから……どうしたんだなあ。」  ひたすら楽屋の方《かた》打見やる。国麿は冷《ひやや》かなる笑《えみ》を含み、 「用があるんか。誰か待ってるか、おい。」 「誰も待ってやしないんだ。」 「嘘を吐《つ》け。いまに誰か来るんだろう。云ったって可いじゃないか。」 「誰も来るんじゃあないや。そうだけれど……困るなあ。」 「何を困るんだ。え、どうしたんだ。」 「どうもしないさ。」 「じゃあ困る事はないじゃあないか。な、一所に帰ろうと云うに。」  顔の色変りたれば恐しくなりぬ。ともかくも成らば成れ、ともに帰らむか。鳥居前のあたりにて、いかなる事せむも計られずと思いて逡巡するに、国麿は早や肩を揚げぬ。 「疾《はや》くしないかい、おい。」 「だって何だから。」 「何が何だ、おかしいじゃあないか。」 「この座蒲団が……」  国麿はいま見着けし顔にて、 「や、すばらしい蒲団だなあ。すばらしいものだな、どうしたんだ。この蒲団はどうしたんだ。」 「敷いてくれたの。」 「誰が、と聞くんだ、敷いてくれたのは分ってらい。」 「お能のね、お能の女。」 「ふむ、あんな奴《やつ》の敷いたものに乗っかる奴が有るもんか。彼奴《あいつ》等、おい、皆《みんな》乞食だぜ。踊ってな、謡《うた》唄ってな、人に銭よウ貰ってる乞食なんだ。内の父様《おとっさん》なんかな、能も演《や》るぜ。む、謡《うたい》も唄わあ。そうして上手なんだ。そうしてそういってるんだ。ほんとのな、お能というのは男がするもんだ。男の能はほんとうの能だけれど、女のは乞食だ。そんなものが敷いて寄越《よこ》した蒲団に乗るとな、汚《けが》れるぜ。身《からだ》が汚れらあ。しちりけっぱいだ、退《ど》け!」  踏みこたえて、 「何をする。」 「何でえ、おりゃ士族だぜ。退け!」 [#7字下げ]二[#「二」は中見出し]  国麿は擬勢を示して、 「汝《きさま》平民じゃあないか、平民の癖に、何だ。」 「平民だって可《い》いや。」 「ふむ、豪勢なことを言わあ。平民も平民、汝《きさま》の内ゃ芸妓《げいしゃ》屋じゃあないか。芸妓も乞食も同一《おんなじ》だい。だから乞食の蒲団になんか坐るんだ。」  われは恥かしからざりき。娼家の児《こ》よと言わるるごとに、不断は面《おもて》を背けたれど、こういわれしこの時のみ、われは恥しと思わざりき。見よ、見よ、一たび舞台に立たむか。小親が軽《かろ》き身の働《はたらき》、躍れば地《つち》に褄《つま》を着けず、舞の袖の飜るは、宙《そら》に羽衣|懸《かか》ると見ゆ。長刀《なぎなた》かつぎてゆらりと出づれば、手に抗《た》つ敵の有りとも見えず。足拍子踏んで大手を拡げ、颯《さっ》と退《ひ》いて、衝《つ》と進む、疾《と》きこと電《いなずま》のごとき時あり、見物は喝采《かっさい》しき。軽《かろ》きこと鵞毛《がもう》のごとき時あり、見物は喝采しき。重きこと山のごとき時あり、見物は襟を正しき。うつくしきこと神のごとき時あり、見物は恍惚《こうこつ》たりき。かくても見てなお乞食と罵る、さは乞食の蒲団に坐して、何等|疚《やま》しきことあらむ。われは傲然《ごうぜん》として答えたり。 「可いよ乞食、乞食だから乞食の蒲団に坐るんだ。」 「何でえ。」  国麿は眼を円《つぶら》にしつ。 「何でえ、乞食だな、汝《きさま》乞食だな、む、乞食がそんな、そんな縮緬《ちりめん》の蒲団に坐るもんか。」 「可いよ、可いよ、私《あたい》、私はね、こんなうつくしい蒲団に坐る乞食なの。国ちゃん、お菰《こも》敷いてるんじゃないや。うつくしい蒲団に坐る乞食だからね。」  国麿は赤くなりて、 「何よウ言ってんだい。おい貢、汝《きさま》そんなこと言って可いのかな、帰途《かえり》があるぜ。」  威《おど》されてわれはその顔を見たり。舞台は暗くなりぬ。人大方は立出《たちいで》ぬ。寒き風|場《じょう》に満ちて、釣洋燈《つりランプ》三ツ四ツ薄暗き明《あかり》映《さ》すに心細くこそなりけれ。 「帰途《かえり》があるって、帰途がどうしたの、国ちゃん。」  国麿は嘲笑《あざわら》えり。 「知ってるだろう。鳥居前の俺《おれ》が関を知ってるだろう。」  手下四五人、稲葉太郎荒象園の鬼門《おにかど》彼処《かしこ》に有りて威を恣《ほしいまま》にす。われは黙して俯向《うつむ》きぬ。国麿はじりりと寄りて、 「皆《みんな》知ってるぜ、おい、皆見ていたぜ。汝《きさま》婦人《おんな》とばかり仲好くして、先刻《さっき》もおれを見て知らない顔して談話《はなし》してたじゃあないか。そうするが可いや、うむ、たんとそうするさ。」 「国ちゃん、堪忍おし。」 「へ、あやまるかい。うむ、あやまるなら可いや。じゃあ可いから、な、その座蒲団にちょっと己《おれ》をのッけてくれないか、そこを退《ど》いて。さあ、」  国麿はヌト立ちつつ、褄《つま》取りからげて、足を、小親がわれに座を設けし緋鹿子に乗せんとす。止《や》むなく、少しく身を退《ひ》きしが、と見れば足袋を穿《は》きもせで、そこら跣足《はだし》にてあるく男の、足の裏|太《いた》く汚れて見ゆ。ここに乗せなばあとつけなむ、土足にこの優しきもの踏ますべきや。 「いけないよ。」 「何だ……」  覚悟したれば身を交《かわ》して、案のごとく踵《かかと》をあげたる、彼が足蹴《あしげ》をば外《そら》してやりたり。蒲団持ちながら座を立ちたれば、拳《こぶし》の楯《たて》に差翳《さしかざ》して。 [#7字下げ]三[#「三」は中見出し] 「あら。」  国麿の手は弛《ゆる》みぬ。われは摺抜《すりぬ》けて傍《かたえ》に寄りぬ。 「いやです、いやです、あなたはいやです。」  緋鹿子の片隅に手を添えて、小親われを庇《かぼ》うて立ちぬ。国麿は目を怒らしたり。その帯は紫なり、その襯衣《しゃつ》は紅《くれない》なり。緋鹿子の座蒲団は、われと小親片手ずつ掛けて、右左に立護《たちまも》りぬ。小親この時は楽屋着の裾《すそ》長く緋縮緬《ひぢりめん》の下着踏みしだきて、胸高に水色の扱帯《しごき》まといたり。髪をばいま引束ねつ。優しき目の裡《うち》凜《りん》として、 「もし、旦那様、あの、乞食の蒲団は、いやです、私が貴方《あなた》にゃ敷かせないの。私の蒲団です。渡すことはなりません。」  と声いとすずしくいい放てり。 「よく敷かせないで下さいました。お前さん、どこも何ともないかい。酷《ひど》いよ、乱暴ッちゃあない。よくねえ、よく庇《かば》って下すッたのね。楽屋で皆《みんな》がせりあって、ようよう私が、あの私のを上げたんですもの。他人《ひと》に敷かれて堪《たま》るものかね、お帰りよ、お帰り遊ばせよ。あなた!」 「何でえ、乞食の癖に、失敬な、失敬じゃあないか。お客に向《むか》ッて帰れたあ何だい。」 「おからだの汚《けがれ》になります。ねえ。」  とわが顔に頬をあてて、瞳は流れるる[#「流れるる」はママ]ごとく国麿を流眄《しりめ》に掛く。国麿は眉を動かし、 「馬鹿、年増《としま》の癖に、ふむ、赤ン坊に惚《ほ》れやがったい。」 「え、」  と顔を赧《あか》らめしが、 「何ですねえ、存じません。何の、贔屓《ひいき》になすって下さるお客様を大事にしたって、何が、何が、おかしゅうござんすえ。」 「おかしいや、そんな小《ち》ッぽけなお客様があるもんか。」 「あら、私ばッかりじゃありません。姉さんだッて、そういいました。そりゃ御贔屓になすッて下さるお客も多いけれど、何の気なしにただおもしろがって見て下さるのはこのお児《こ》ばかり。あなた御存じないんでしょう。当座《こちら》ではじめてから毎晩、毎晩来て下すって、あの可愛らしい顔をして傍見《わきみ》もしないで見ていて下さるじゃありませんか。このお年紀《とし》で、お一人で、行儀よく終番《しまい》まで御覧なすって、欠伸《あくび》一ツ遊ばさない。  手品じゃアありません、独楽《こま》廻しじゃ有りません。球乗《たまのり》でも、猿芝居でも、山雀《やまがら》の芸でもないの。狂言なの、お能なの、謡をうたうの、母様《おっかさん》に連れられて、お乳をあがっていらっしゃる方よりほか、こんな罪のない小児衆《こどもしゅう》のお客様がもウ一人ござんすか。  目につきました、目立ちました。他《ほか》のお客様にはどうであろうと、この坊ちゃんだけにゃ飽かしたくない。退屈をさしたくない、三十日なり、四十日なり、打ち通すあいだ来ていただきたい、おもしろう見せてあげたいと、そう思ったがどうしました。……  ほんとうに芸人|冥利《みょうり》、こういう御贔屓を大事にするは当前《あたりまえ》でござんせんか。しのぶも、小稲も、小幾も、重子も、みんな弟子分だから控えさして、姉さんのをと思ったけれど、私の方が少《わか》いからお対手《あいて》に似合うというので、私の座蒲団をあげたんですわ。何も年増だの、何のって、貴方に、そ、そんなことを言われる覚えはない!」  と太《いた》く気色《けしき》ばみ言い開きし。声高なりしを怪《あやし》みけむ。小稲、小幾、重子など、狂言|囃子《ばやし》の女ども、楽屋口より出で来《きた》りて、はらりと舞台に立ちならべる、大方あかり消したれば、手に手に白と赤との小提灯《こぢょうちん》、「て」「り」「は」と書けるを提《ひっさ》げたり。 [#7字下げ]四[#「四」は中見出し]  舞台なりし装束を脱替えたるあり、まだなるあり、烏帽子《えぼし》直垂《ひたたれ》着けたるもの、太郎冠者《たろうかじゃ》[#ルビの「たろうかじゃ」は底本では、「たらうかじゃ」]あり、大名あり、長上下《なががみしも》を着たるもの、髪結いたるあり、垂れたるあり、十八九を頭《かしら》にて七歳《ななつ》ばかりのしのぶ[#「しのぶ」に傍点]まで、七八人ぞ立《たち》ならべる。 「どうしたの、どうしたの。」  と赤き小提灯さしかざし、浮足《うきあし》してソト近寄りたる。国麿の傍《わき》に、しのぶの何心なく来かかりしが、 「あれ。」  恐しき顔して睨《ね》めつけながら、鼻の前《さき》にフフと笑いて、 「何か言ってらい、おたふくめ。」  と言棄てに身を返すとて、国麿は太き声して、 「貢!」 「牛若だねえ。」  とて小親、両袖をもてわが背《せな》蔽《おお》いぬ。 「覚えておれ、鳥居前は安宅《あたか》の関だ。」  と肩を揺《ゆす》りて嘲笑《せせらわら》える、渠《かれ》は少しく背|屈《かが》みながら、紅《くれない》の襯衣《しゃつ》の袖二ツ、むらさきの帯に突挿しつつ、腰を振りてのさりと去りぬ。 「済まなかったね、みつぎさん、お前さん、貢さんて言うの?」 「ああ。」 「楽屋に少し取込みが有ったものだから、一人にしておいて飛んだめに逢わせたこと。気が着いて、悪いことをしたと思って、急いで来て見るとああだもの。よくねえ、そして、あの方はお友達?」 「友達になれッていうのよ。」 「おや、そう。しない方が可《い》いよ。可厭《いや》な人っちゃあない。それでもよく蒲団を敷かせないで下すッた。それは私ゃ嬉しいけれど、もしお前さん疵《きず》でも着けられちゃ大変だのに、どうして、なぜ敷かせてやらなかったの。」 「だッて、あんな汚い足をつけられると、この蒲団が可哀《かわい》そうだもの。きれいだね、きれいな座蒲団、可愛《かわい》んだねえ。」  真中《まんなか》を絞りて、胸に抱《いだ》き、斜《ななめ》に頬を押当つるを、小親見て、慌《あわただ》しく、 「あら、そんな事をなすッちゃ、お前さんの顔に。まあ、勿体ない。」  とて白き掌《たなそこ》もて拭《ぬぐ》う真似《まね》せり。 「あのほんとに、毎晩いらっしゃいよ。私もついあんな事を云ったんだから、あの人につけても、お前さんが毎晩来てくれなくッちゃ極《きまり》が悪いわ。後生ですよ。その代り、この蒲団は、誰の手も触らせないでこうやって、」  二隅を折りて襟をば掻《かい》あけ、胸のあたりいと白きにその紅《くれない》を推入《おしい》れながら、 「こうやって、お守《まもり》にしておくの。そうしちゃ暖《あった》めておいて、いらっしゃる時敷かせますからね、きっとよ。」 「ああ。」 「ほんとうかい。」 「きっと!」 「嬉しいねえ。」と莞爾《にこり》として、 「じゃあね、晩《おそ》くなりましたから今夜はお帰んなさいな。母様《おっかさん》がお案じだろうから。」  母はあらず。 「母様じゃあないの。伯母さんなの。」 「おや、母様ないの。」 「亡くなったの、またいらっしゃるんだッて、皆《みんな》そう云うけれど、嘘なの。もうお帰りじゃない、亡くなってしまったんだ。」 「まあ。」と言いかけてまた瞻《みまも》りしが、頷《うなず》く状《さま》にて、 「じゃあその伯母さんがお案じだろうから、私が送って行ってあげましょう、ね。鳥居前ッて言うのはどこ? 待伏《まちぶせ》をしてると不可《いけな》いから。」 「直《じき》、そこだよ。」 [#7字下げ]五[#「五」は中見出し] 「わけ無しだね。ちょいと衣物《きもの》を着替えて来るから待っていらっしゃいよ。小稲さん、遊ばしてあげておくれ。」 「はい。」  ばらばらと女ども五六人、二人を中に取巻きたり。小稲と云うがまず笑いて、 「若お師匠様、おめでとう存じます、おほほほほほ。」  小親は素知らぬ顔したり。重子というが寄添いつつ、 「ちょいと、何がおめでたいのさ。」 「おや、迂濶《うっかり》だねえ。知らないのかい。」 「はあ、何ですか。」 「何ですか存じませんが、小稲さんのいいますとおり、若お師匠様、おめでとうございます。」  傍《かたわら》より小幾がいう。小松がまた引取りて、 「私もお祝い申しますわ。」 「それでは私も。あの、若お師匠様おめでとう存じます。」  小親は取巻《とりまか》れてうろうろしながら、 「お前達は何をいうのだ。」 「何でも、おめでたいに違いませんもの。」 「姉さん、何なの、どうしたの。」  と差出でて、しのぶの問いければ、小稲は静《しずか》に頷《うなず》きて、 「お前は嬰児《ねんねえ》だから解《わか》るまいね、知らない道理《わけ》だから言って聞かせよう、あのね、若お師匠様にね、御亭主《だんなさま》が出来たの。」  大勢、 「おやおやおやおや。」  小親は顔を赧《あか》らめたり。 「知らないよ!」  小稲また立懸《たちかか》り、 「お秘《かく》し遊ばしても不可《いけ》ません。そうして若お師匠様、あなたもうお児様《こさま》が出来ましたではございませんか。」 「へい。」 「何を言うのだね。」 「争われませんものね。もうおなかが大きくおなり遊ばしたよ。」 「む、これかえ。」と俯向《うつむ》きて、胸を見て、小親は艶麗《あでやか》に微笑《えみ》を含みぬ。  一同目を着け、 「ほんにね。おやおや!」 「だから、お芽出たかろうではないの。」 「そして旦那様はどなたでございます。」 「馬鹿だねえ、嘘だよ。」 「それでは何でございます、どうしてそんなにおなり遊ばしたの。」 「何でもないのさ、知らないッて言うのに。」 「いえ、御存じないでは済みません。あなた私たちにお隠し遊ばしては水臭いじゃアありませんか。是非どうぞ、どなたでございますか聞かして下さいましな。」 「若お師匠様、どうぞ私《わたくし》にも。」 「私《わたくし》にも。」 「うるさいね、いまちょいと出懸けるんだから。」 「いえ、お身持で夜あるきを遊ばすのはお毒でございます。それはお出し申されません。ねえ?」 「お身体《からだ》に障りましては大変ですとも。どうして、どうして、お出し申すことではございませんよ。」 「うるさいよ。詰《つま》らない。」 「じゃあお見せ遊ばせ、ちょいとそのお腹《なか》ン処《とこ》を、お見せ遊ばせ。」 「そうはゆかない、ほほほほほ。」 「擽《くすぐ》りますよ!」 「そうはゆかない、あれ!」  と言うより身震《みぶるい》せしが、俯伏《うつむけ》にゆらめく挿頭《かんざし》、真白き頸《うなじ》、手と手の間を抜けつ、潜《くぐ》りつ、前髪ばらりとこぼれたるが仰《の》けざまに倒れかかれる、裳《もすそ》蹴返し踵《かかと》を空に、下着の紅《くれない》宙を飛びて、技利《わざきき》のことなれば、二|間《けん》ばかり隔りたる舞台にひらりと飛び上《あが》りつ。すらりと立って向直り、胸少し掻《かい》あけて、緋鹿子の座蒲団の片端見せて指さしたり。 「稲ちゃん、このことかい。」 「は。」と小稲は前に出でて、 「もうお幾月ぐらい?」 「さようさ、九ツ十……」とばかり、小親われを見てまた微笑《ほほえ》みぬ。 [#7字下げ]六[#「六」は中見出し] 「さあ、こん度は坊ちゃんの番だよ。」  とて、小稲つッと差寄りつつ、 「坊ちゃん、お相手をいたしましょうね。何をして遊びましょう。」  われは黙して言わざりき。 「おや、私ではお気に入らないそうだよ。重子さん、ちょいとお前伺って御覧。」 「はい。」と進み、「さあお相手。」と言う。 「そんな藪《やぶ》から棒な挨拶《あいさつ》がありますか!」 「おや! おや!」と退《の》いたるあと、小松なるべし立替れり。 「私では不可《いけ》ませんか。」 「遊ばなくッてもいい。」 「まあ、素気《そっけ》なくッていらっしゃる。」  小稲は笑いぬ。 「坊ちゃん、私にね、そっと内証でおっしゃいな、小親さんが、あの、坊ちゃんに何かいったでしょう。」 「言わない。」 「うまくおっしゃるのよ、可愛い坊ちゃんだッて、そういったでしょう。」 「ああ、言った。」  皆どっと笑いたり。 「驚きましたね、そして何でしょう。あの、外の女と遊ぶ事はなりませんて、そう言やあしませんか。」  さることは聞かざりき。 「そんなこと、言やあしないや。」 「あら、お隠し遊ばすと擽《くすぐ》りますよ。」 「ほんとう、そんなこと聞きやしない。」 「それじゃ堪忍してあげますから、今度は秘《かく》さないで有仰《おっしゃ》いよ。あのね、坊ちゃんは毎晩いらっしゃいますが、何が第一《いっち》お気に入ったの。」 「牛若が可《い》いんだ。そしてお獅子も可いんだ。」 「じゃあ小親さんが可いんですね。うつくしいからお気に入ったんでしょう。え、坊ちゃん。」 「立派で可いんだ。刀さげて、立派で可いんだ。」 「うそをおっしゃい。綺麗だから可いんですわ。」 「いいえ。」 「だって、それではお能の装束しないでいる時はお気にゃ入りませんか。今なんざ、あんな、しだらない装《なり》をしていたじゃありませんか。」  われは考えぬ。いかに答えて可《よ》からむ。言い損わば笑わるべし。 「やっぱり可いんでしょう。ね、それ御覧なさい。美女《きれい》だからだよ。坊ちゃんは小親さんに惚《ほ》れたのね。」  皆|哄《どっ》と笑う。 「惚れやしない、惚れるもんか。」 「だってお気に入ったんでしょう。佳《い》い人だと思うんでしょう。」 「ああ。」  また声をあげて笑いしが、 「じゃあ惚れたもおんなじだわ。」 「あらあら、惚れたの、おかしいなあ。」  しのぶ手を拍《たた》きて遁《に》げながら言う。  哄《どっ》と笑いて、左右より立懸《たちかか》り、小稲と重子と手と手を組みつつ、下より掬《すく》いて、足をからみて、われをば宙に舁《か》いて乗せつ。手の空いたるが後前《あとさき》に、「て」「り」「は」の提灯ふりかざし、仮花道より練出《ねりいだ》して、 [#ここから4字下げ] (お手々の手車に誰様《だれさん》乗せた。) (若いお師匠|様《さん》の婿様《むこさん》乗せた。) (二階|桟敷《さじき》の坊ちゃん乗せた。) [#ここで字下げ終わり]  と口々に唄いつれて舞台を横ぎり、花道にさしかかる。ものうければ下《おろ》せとて、上にてあせるを許さばこそ。小稲はわが顔を仰向き見て、 「坊ちゃんも何ぞお唄いなさい。そうすると下してあげます。」  止《や》むなく声あげてうたいたり。 [#ここから4字下げ] (一夜源の助がまけたに借りた、) (負けたかりたはいくらほど借りた。) (金子《かね》が三両に小袖が七ツ、) (七ツ七ツは十四じゃあないか。……) [#ここで字下げ終わり]  しのぶは声を合せてうたいぬ。 [#ここから4字下げ] (下谷《したや》一番|伊達者《だてしゃ》でござる。) (五両で帯を買うて三両で絎《く》けて、) (絎目《くけめ》々々に七房さげて。) [#ここで字下げ終わり]  木戸の外には小親ハヤわれを待ちて、月を仰ぎて彳《たたず》みたり。 [#5字下げ]夜の辻[#「夜の辻」は大見出し] [#7字下げ]一[#「一」は中見出し]  頭巾着て肩掛《ショオル》引絡《ひきまと》える小親が立姿、月下に斜《ななめ》なり。横向きて目迎えたれば衝《つ》と寄りぬ。立並べば手を取りて、 「寒いこと、ここへ。」  とて、左の袖下|掻開《かいひら》きて、右手《めて》を添えて引入れし、肩掛《ショオル》のひだしとしとと重たくわが肩に懸《かか》りたり。冷たき帯よ。その肩のあたりに熱したる頬を撫《な》でて、時計の鎖輝きぬ。 「向うなの、貢さんの家《うち》は。」  衣《きぬ》ずれの音立てて、手をあげてぞ指さし問いたる。霞ヶ峰の半腹に薄き煙めぐりたり。頂の松|一本《ひともと》、濃く黒き影あざやかに、左に傾きて枝垂《しだ》れたり。頂の兀《は》げたるあたり、土の色も白く見ゆ。雑木ある処だんだらに隈《くま》をなして、山の腰遠く瓦屋根《かわらやね》の上にて隠れ、二町《ふたまち》越えて、流《ながれ》の音もす。  東より西の此方《こなた》に、二ならび両側の家軒暗く、小さき月に霜|凍《い》てて、冷たき銀《しろがね》敷き詰めたらむ、踏心地堅く、細く長きこの小路の中を横截《よこぎ》りて、廂《ひさし》より軒にわたりたる、わが青楓《あおかえで》眼前《めさき》にあり。 「あそこ、あの樹のある内。」 「近いのね。」  と歩を移す、駒下駄《こまげた》の音まず高く堅き音して、石に響きて辻に鳴りぬ。 「大分|晩《おそ》くなったね、伯母さんがさぞお案じだろうに、悪いことをしたよ。貢さん、直《じき》送ってあげれば可《よ》かったのに、早いと人だかりがして煩《うるさ》いので、つい。」 「いいえ、案じてやしないよ。遊びに出ていると伯母さんは喜ぶよ。」 「どうして? まあ。」  小親は身を屈《かが》めてわが耳を覗《のぞ》いて聞く。 「皆《みんな》で、余所《よそ》の叔父さんと、兄さんと、染ちゃんと、皆でね、お酒を飲んでそうして遊んでいるの、賑《にぎや》かだよ。私《あたい》ばかり寂しいの、一所に遊びたいんだけれど、お寝、お寝って言うもの。」  小親はまた歩行《ある》きかけつつ、 「それはね、貢さんが睡《ねむ》がるせいでしょう。」 「そうじゃあなくッて、私《あたい》床ン中に入ってからね、母様《おっかさん》が居なくッて寂しくッて寝られないんだ。伯母さんも、染ちゃんも、余所の人も皆《みんな》おもしろそうだよ。賑かなの。私一人寂しいんだ。」 「そうかい。」 「鼠が出て騒ぐよ。がたがたッて、……恐《こわ》いよ。」 「まあ。」 「恐かったよ、それでね、私《あたい》、貰っといたお菓子だの、お煎餅《せん》だの、ソッと袂《たもと》ン中へしまッとくの、そしてね、紙の上へ乗せて枕頭《まくらもと》へ置いとくの。そして鼠にね、お前、私を苛《いじ》めるんじゃアありません。お菓子を遣《や》るからね、おとなしくして食べるんだッて、そう云ったよ。」 「利口だねえ。」 「そうするとね、床ン中で聞いて、ソッと考えているとね、コトコトッてっちゃ喰べるよ。そうしてちっとも恐くなくなったの。毎晩やるんだ。いつでも来ちゃあ食べて行《ゆ》くよ。もう恐くはなくッて、可愛らしいよ。寝るとね、鼠が来ないか来ないかと思って目を塞《ふさ》いじゃあ待ってるの。そうすると寝てしまうの。目を覚すとね、皆《みんな》食べて行ってあったよ。」  われは小親の名呼ばむとせしが猶予《ためら》いぬ。何とか言うべき。 「ねえ。」 「あいよ。」 「ねえ、鼠は可愛いんだねえ。」 「じゃあ貢さん家《とこ》に猫は居ないのかい。」 「居るよ、三毛猫なの。この間ね、四ツ児《こ》を産んだよ、伯母さんが可愛がるよ。」 「貢さんも可愛がっておくれかい。」  われは肩掛《ショオル》の中に口籠《くちごも》りぬ。袖|面《おもて》を蔽《おお》いたれば、掻分《かきわ》けて顔をば出《いだ》しつ。冷たき夜なりき。 [#7字下げ]二[#「二」は中見出し]  小親の下駄の音ふと止《や》みて、取り合いたる掌《て》に力|籠《こも》りしが、後《うしろ》ざまに退《すさ》りたり。鳥居の影の横《よこた》うあたり、人一人立ったるが、動き出づるを、それ、と胸|轟《とどろ》く。果せるかな。螽《いなご》の飛ぶよ、と光を放ちて、小路の月に閃《ひら》めきたる槍《やり》の穂先霜を浴びて、柄長く一文字に横《よこた》えつつ、 「来い!」とばかりに呼《よば》わりたる、国麿は、危《あやう》きもの手にしたり。 「何だ、それは何だい。」  われは此方《こなた》に居て声かけぬ。国麿は路の中央《まんなか》に突立《つった》ちながら、 「宝蔵院の管槍《くだやり》よ!」  小親は前に出でむとせず、固く立ちて瞻《みまも》りぬ。 「出て来い、出て来い! 出て来い!」  といと誇顔《ほこりがお》にほざいたり。小親わが手を放たむとせず。 「出て来い。男なら出て来い。意気地《いくじ》なし、女郎《めろう》の懐に挟《はさま》ってら。」  われは振放たんとす。小親は声低く力を籠《こ》めて、 「いけない、危いから。」 「可《い》いんだ。」 「可いじゃアありません。お止《よ》し、危ないわね。あんながむしゃらの向うさき見ずは、どんな事をしようも知れない。怪我《けが》をさしちゃあ、大変だから……あれさ!」 「構うもんか、厭《いや》だ! 厭だ。」 「厭だって、危いもの。返りましょう。あとへ返りましょう。大人でないから恐いよ。」  国麿は快げに、 「ざまあ見ろ、女の懐を出られやしまい、牛若も何もあるもんか。」 「厭だ、厭だ、女と一所にゃ厭だ。放して、放してい。」 「堪忍おし、堪忍おし、堪忍して頂戴、私が悪いんだから堪忍おしよ。」  ひしと抱《いだ》きて引留むる。国麿は背ゆるぎさして、 「勝ったぞ、ふむ、己《おれ》が勝った。貢、汝《きさま》が負けた。可いか、能のな、能の女は己がのだぜ。」  言棄てて槍を繰り込み、流眄《しりめ》に掛けながら行《ゆ》かむとす。 「負けない、負けやしないや。」  国麿は振返り、 「それじゃあ来るか。」 「恐かあないや。」 「む、来るなら来い! 女郎の懐から出て来て見ろ。」  小親|啊呀《あなや》と叫びしを聞き棄てに、振放ちて、つかつかとぞ立出でたる。背後《うしろ》の女《ひと》はいかにすらむ、前には槍を扱《しご》いたり。 「さあ、来い。」  と目の前《さき》に穂尖《ほさき》危なし。顔を背け、身を反《そら》し、袖を翳《かざ》して、 「牛若だ、牛若だ、牛若だ。」 「安宅の関だい。」 「何するもんか、突かれるもんか。」 「突くよ、突くよ。芸妓《げいしゃ》屋の乞食なんか突《つッ》ついて刎《は》ね飛ばさあ。」  し兼ねまじき気勢《けはい》なれば、気はあせれども逡巡《ためら》いぬ。小親|背後《うしろ》に見てあらむと、われは心に恥じたりき。 「ざまあ見ろ、汝《きさま》先刻《さっき》は威張ったけれど、ふ、大きな口よウたたくなあ、蒲団《ふとん》に坐ってる時ばかりだ。うつくしい蒲団に坐ってる乞食ゃそんなものか。詰《つま》らないもんだなあ。乞食、弱虫、背後《うしろ》に立ってるなあどいつだ。やっぱり乞食か、ええ、意気地が無いな。」  するりと槍を取直し、肩に立懸け杖《つえ》つきつつ、前に屈《かが》みて、突出《つきいだ》せる胸の紅《くれない》の襯衣《しゃつ》花やかに、右手《めて》に押広げて拍《たた》いたり。 「口惜《くやし》くばドンと来い!」 [#7字下げ]三[#「三」は中見出し]  驚破《すわ》、この時、われは目を瞑《ねむ》りて、まっしぐらにその手元に衝入《つきい》りしが、膝を敷いて茫然たりき。 「あれ!」 「危い。」  と国麿の叫びつつ、しばし呆れたる状《さま》して彳《たたず》みしが、見上ぐるわれと面《おもて》を合し、じっと互に打《うち》まもりぬ。 「恐しい奴《やつ》だなあ。」  国麿は太い呼吸《いき》を吻《ほ》とつきて、 「汝《きさま》の方が乱暴だい。よっぽど乱暴だ、無鉄砲極まらあ、ああ。」  とまた息|吐《つ》きつつ、落胆《がっかり》したる顔色《かおつき》して、ゆるやかに踞《つくば》いたり。 「え、おい、胸でも突かれたら、おい貢、どうするつもりだ。気が短いや、うったぜ。乱暴な。どこだ、どこだ、むむ。」 「痛かあない、痛かあない。」 「む、泣くな、泣いちゃあ不可《いか》んぜ。ああ、何、袂《たもと》ッ草《くさ》を着けときゃあわけなしだ。」  と槍を落して、八口《やつくち》より袂の底を探らむとす。暖かき袖口もて頬の掠疵《かすりきず》押えたりし小親声を掛けて、 「厭《いや》ですよ、そんな袂ッ草なんて汚いもの、不可《いけ》ません。酷《ひど》いことね。もう、灸《きゅう》のあとさえない児《こ》に、酷いっちゃあない。御覧なさい、こんなになったじゃありませんか。あら、あら、血が出て、どうしよう。」  国麿は仰ぎ見て、 「疵は深いかな。酷いかな。」  その太き眉を顰《しか》めたり。小親は月の影に透《すか》しながら、 「そんなじゃあないんだけれど、掠《かす》ったんでしょうけれど。」 「じゃあ、何、袂ッ草で治ッちまあ。」  再びその袂の中探らむとす。 「厭、そんな、そんなものを、この顔に附着《くッつ》けて可《い》いもんですか。」  国麿は苦笑して、 「それじゃあそちらで可いようにするさ。ああ、驚いた。」  力なげに槍を拾うて立ちしが、 「貢、もう己《おら》あ邪魔あしない。堪忍してやらあ、案じるな。」  と、くるりと此方《こなた》に背《せな》向けつつ、行懸《ゆきか》けしが立ち返りて、円《つぶら》なる目に懸念の色あり。またむこう向《むき》に身を返して、 「袂ッ草が血留《ちどめ》になるんだ。袂ッ草が血留にならあ。」  聞かすともなく呟《つぶや》きつつ、鳥居の傍《わき》なる人の家の、雪垣に隠れしが、二の鳥居の有るあたり、広き境内の月の中に、その姿|露《あらわ》れて、長く、長く影を引き、槍重たげに荷《にな》いたる、平たき肩を窄《すぼ》めながら向う屈《かが》みに背を円くし、いと寒げなる状《さま》見えつつ、黒き影法師小さくなりて、突《つき》あたり遥《はるか》なる、門高き構《かまえ》の内に薄霧|籠《こ》めて見えずなりぬ。われはうかうかと見送りしが、この時その人憎からざりき。 「ちょいと、痛むかい。痛むだろうね、可哀相《かわいそう》に。」 「何ともない。痛かあない。」 「大した事もないけれど、私ゃもうハッと思った。あの児をつかまえて喧嘩《けんか》もならず、お前さんがまた肯《き》かないんだもの、はらはらと思ってる内、もう、どうしたら可いだろう。折角送って来ながら申訳がないね。」 「可いよ、痛かあないもの。」 「だって疵《きず》がつきました。かすり疵でも、あら、こんなに血が出るもの。」  と押拭《おしぬぐ》い、またおしぬぐう。 「もう可い。」 「可《よ》かアありませんよ、このまんまにして、帰しちゃあ、私が貢さんのお内へ済まないもの。」  伯母上何をか曰《のたま》わむ。 [#7字下げ]四[#「四」は中見出し] 「じゃあこうしようね、一所に私の家《うち》へ来て今夜お泊りでないか。そうして、翌日《あす》になったら一所に行って言訳をしましょうよ。私でも、それでなきゃ誰か若い衆《しゅ》でも着けてあげてね、そして伯母さんにお詫《わび》をしたら可《い》いでしょう。」 「可いよ、そんなにしなくッても、一人で帰るよ。」 「だって……困ること。」 「何ともないじゃあないか。」  前《さき》になりて駈出《かけいだ》せば、後より忙《せわ》しく追縋《おいすが》りて、 「そんなら、まあ可いとして門《かど》まで送りましょう。だがねえ、可《よ》かったらそうおしな。お嫌!」 「嫌じゃあないけれど、だって、あの、待ってるから。」 「そう、伯母さんがさぞ、どんなにかね。」 「いいえ、伯母さんじゃあない、姉さんなの。」 「おや、貢さん、姉さんがいらっしゃるのかい。」 「宅《うち》にじゃあないの。むかいのね、広岡の姉さんなの。」 「広岡ッて?」 「継母の内なの。継母が居てね、姉さんが可哀相だよ、」  こう言いたる時、われは思わず小親の顔見られにき。 「あのウ、」 「何。」 「何てそういおうなあ、何て言うの。あの、お能の姉さん?」 「嫌ですね、お能の姉さんッて、おかしいね、嫌だよ。」 「じゃあ何ていうの。え、どういうの。」  頭巾の裡《うち》に笑《えみ》を籠めて、 「私はね、……親《ちか》。」 「親ちゃん!」 「あい。おほほ。」 「親ちゃん、継母じゃあないの。え、継母は居ないのかい。」  憂慮《きづかわ》しければぞ問いたる。小親は事も無げに、 「私には何にもないよ。ただね、親方が有るの。」 「そう、じゃあ可いや、継母だと不可《いけな》いよ。酷《ひど》いよ。広岡の姉さんは泣いている……」  先よりさまで心にも止めざるようなりし小親は、この時身に沁《し》みて聞きたる状《さま》なり。 「それは気の毒だね。皆《みんな》そうだよ、継母は情《なさけ》ないもんだとね。貢さんなんざ、まだまあ、伯母さんだから結構だよ。何でも言うことを肯《き》いて可愛がられるようになさいよ。おお、そういやあほんとうに晩《おそ》くなって叱られやしないかね。」 「もう来たんだ。ちょいと。」  手を放すより、二三間|駈出《かけだ》して、われはまず青楓の扇の地紙開きたるよう、月を蔽《おお》いて広がりたる枝の下に彳《たたず》みつ。仰げば白きもの仄《ほの》見ゆる、前《さき》の日雨ふりし前なりけむ、姉上の結びたまいし折鶴のなごりなり。  打見るさえいと懐しく、退《すさ》りて二階なる窓の戸に向いて、 「姉さん、唯今《ただいま》帰りました。」  と高く呼びぬ。毎夜狂言見に行《ゆ》きたる帰《かえり》には、ここに来てかくは云うなりけり。案じてそれまでは寝《い》ねたまわず。  しばし音なければ、彼方《かなた》に立てる小親の方《かた》を視返《みかえ》りたり。  頭巾深々と被《かぶ》れるが、駒下駄のさきもて、地《つち》の上叩いて、せわしく低き音刻みながら、手をあげて打ち招く。来よ、もの言わむとする状《さま》なり。心に懸《かか》りて行《ゆ》かむとする時、静《しずか》に雨戸の戸一枚ソトその半ばを引きたまいつ。  楓の上に明《あかり》さして、小灯《こともし》の影ここまでは届かず月の光に消えたり。と見る時、立姿あらわしたまいしが、寝みだれていたまいき。  横顔のいと白きに、髪のかかりたるが、冷き風に揺《ゆら》ぐ、欄干に胸少しのりかけたまいぬ。 「お帰《かえり》ですか。」 「唯今。」 「遅かったから姉さんは先へ寝ていたがね。」  言いかけて四辺《あたり》を見まわしたまいし。小親の姿ちらりと動きて、ものの蔭にぞなりたる。ふッと灯《あかり》を吹消したまい、 「お待ちなさいよ。」 [#7字下げ]五[#「五」は中見出し]  小親わが方《かた》に歩み寄りしが、また戻りぬ。内より枢《くるる》外す音して、門《かど》の戸の開《あ》いたるは、跫音《あしおと》もせざりしが、姉上の早や二階を下りて来たまいたるなり。 「……寒いこと。」  羽織の両袖打合せて、静《しずか》に敷居を越えたまいぬ。 「晩《おそ》かったのね。」 「あのね、面白かったんだよ。」と言いたるが、小さき胸のうち安からず。目には小親の姿見ゆ。 「それは、好《よ》うございましたけれど、風邪をひくと不可《いけ》ません。あんまり晩くならないうちに、今度からお帰りなさいよ。」 「はい。」  姉上はなお気遣わしげに、 「そして、まだ内へはお入りでないのでしょうね。」 「まだ。」  しばらく考えたまいしが、 「それではね、私がここに見ていますからね、貢さん、潜《そっ》と行って、あの、格子まで行って、見て来て御覧。」  深き思いに沈みつつのたまうよう見えたれば、いぶかしさに堪えざりし。 「どうしたの、私《あたい》の内はどうしたの。」 「いえどうもしませんけれど、少し何んですから、まあ、潜《そっ》と行って見ていらっしゃい。」  果《はて》は怖気《こわげ》立《だ》ちて、 「嫌だ、恐《こわ》いもの。」 「ちっとも恐いことはない。私がここに見ていますよ。」  われは立放れて抜足しつつ、小路の中を横ぎりたり。見返れば姉上の立ちたまう。また見れば、小親|居処《いどころ》を替えしがなお立てり。  密《ひそか》にわが家の門《かど》の戸に立寄りぬ。何事もあらず、内はいと静《しずか》なり。かかる時ぞ。いつもわが独寝《ひとりね》の臥床《ふしど》寂しく、愛らしき、小さき獣に甘《うま》きもの与えて、寝ながらその食《くら》うを待つに、一室《ひとま》の内より、「丹《あお》よ、」「すがわらよ。」など伯母上、余所《よそ》の客など声々に云うが襖《ふすま》漏れて聞ゆる時なり。今宵《こよい》もまたしかならむ、と戸に耳を附けて聞くに、ただ寂然《ひっそ》としたれば、可《よ》し、また抜足して二足三足ぞ退《の》きたる。  ど、ど、どッという響《ひびき》、奥の方《かた》騒がしく、あれと言う声、叫ぶ声、魂消《たまぎ》る声のたちまち起りて、俄《にわか》にフッと止《や》みたるが、一文字に門口《かどぐち》より鞠《まり》のごとく躍り出で、白きもの空《くう》を駈《か》けて、むかいなる屋根に上るとて、凄《すさま》じき音させしは、家に飼いたる猫なりき。  とばかりありて、身を横さまに、格子戸にハタとあたりて、呻《うめ》きつつ、片足踏出でて掙《あせ》れる染をば、追い来し者ありて引捉《ひっとら》え、恐しき声にて叱りたるが、引摺《ひきず》りて内に入《い》りぬ。咄嗟《とっさ》の間《かん》に、われ警官の姿を見たり。慌てて引返《ひっかえ》す、小路のなかばに、小親走り来て手を取りつ。手を取られしままに、姉上の立ちたまえる広岡の戸口に行《ゆ》きぬ。  三人かくは立《たち》ならびしが、未《いま》だものいわむとする心も出でず。呆れて茫然と其方《そなた》を見たる、楓の枝ゆらゆらと動きて、大男の姿あり。やがてはたと地に落ちて、土蜘蛛《つちぐも》の縮《すく》むごとく、円くなりて踞《うずくま》りしが、またたく間《ひま》に立つよとせし、矢のごとく駈け出《いだ》して、曲り角にて見えずなりぬ。  頭巾をば掻取《かいと》りたる、小親の目のふち紅《あか》かりき。 「貴女《あなた》。」  声かくるに、心着きたまいけむ。はじめて顔を見合せたまいしが、姉上は、いともの静《しずか》に、 「はい。」  とばかり答えたまう、この時格子の戸|颯《さ》と開《あ》きぬ。すかし見る框《かまち》の上に、片肌脱ぎて立ちたるは、よりより今はわが伯母上とも行交《ゆきか》いたる、金魚養う女房なり。渠《かれ》は片肌脱ぎたるまま、縄もて後手《うしろで》に縛《いまし》められつ。門《かど》に出でし時、いま一|人《にん》の警官|後《うしろ》より出でて、毛布《けっと》もてその肌|蔽《おお》いたり。続きて染の顔見ゆ。あとなるは伯母上なりき。 [#5字下げ]仮小屋[#「仮小屋」は大見出し] [#7字下げ]一[#「一」は中見出し]  楽屋なる居室《いま》の小窓と、垣|一重《ひとえ》隔てたる、広岡の庭の隅、塵塚《ちりづか》の傍《かたわら》に横《よこた》わりて、丈《たけ》三尺余、周囲《まわり》およそ二尺は有らむ、朽目《くちめ》赤く欠け欠けて、黒ずめる材木の、その本末《もとすえ》には、小さき白き苔《こけ》、幾百ともなく群《むらが》り生《お》いたり。  指《ゆびさ》して、それを、旧《もと》のわが家なる木戸の際に、路《みち》を蔽《おお》いて繁りたりしかの青楓の果《はて》なりと、継母の語りし時、われは思わず涙ぐみぬ。 「この変りました事と云ったら、まるで夢のようで、私《わし》でさえ門《かど》へ出ては、時々ぼんやりして見る事がございますよ。ほんに貢さんなんぞ、久しぶりでお帰んなすったが、ちっとも故郷らしい処はありますまい。」と継母は庭に立ちてぞ語れる。  しかり、町の中にても、隣より高かりし、わが二階家の、今は平家に建直りて、煙草《たばこ》屋の店開かれたり。扇折《おうぎおり》の住みし家は空しくなり、角より押廻せる富家の持地《もちじ》となりて、黒き板塀建て廻されぬ。  そのあたりの家はみな新木造《あらきづくり》となりたり。小路は家を切開きて、山の手の通りに通ずるようなしたれば、人通《ひとどおり》いと繁く、車馬の往来|頻《しきり》なり。  ここに居て遊ぶ小児等《こどもら》、わが知りたるは絶えてあらず。風俗もまた異《かわ》りて見ゆ。わが遊びし頃は、うつくしく天窓《あたま》そりたるか、さらぬは切禿《きりかむろ》にして皆|梳《す》いたるに、今は尽《ことごと》く皆|毬栗《いがぐり》に短く剪《はさ》みたり。しらくも頭の児《こ》一人目に着きぬ。  すべてうつくしき女あらずなりて、むくつけなる男ぞ多き。三尺帯前に〆《し》めて、印半纏《しるしばんてん》着たるものなんど、おさなき時には見もせざりし。  町もこうは狭からざりしが、今はただ一跨《ひとまた》ぎ二足三足ばかりにて、向《むかい》の雨落《あまおち》より、此方《こなた》の溝まで亙《わた》るを得るなり。  筋向いなりとわれは覚ゆ。かの石の鳥居まで、わが家より赴くには、路のほどいと遥《はるか》なりと思いしに、何事ぞ、ただ鼻の先なる。宮の境内も実《まこと》に広からず、引抱《ひっかか》えて押動かせし百日紅《ひゃくじつこう》も、肩より少し上ぞ梢《こずえ》なる。仰いで高し厳《いかめ》しと見し国麿が門《かど》の冠木門《かぶきもん》も、足|爪立《つまだ》つれば脊届くなり。  さてその国麿はと想う、渠《かれ》はいま東京に軍人にならむとて学問するとか。烏帽子《えぼし》被《かぶ》りて、払《はたき》掉《ふ》りしかの愛らしき児は、煎餅《せんべい》をば焼きつつありとぞ。物干棹《ものほしざお》持てりしは、県庁に給仕勤むるよし。いま一|人《にん》、また一人、他の一人にはわれ偶《ふ》と通《とおり》にて出合いたり。その時渠は道具屋の店に立ちて、皿茶碗など買うたりき。  皆|幸《さいわい》なるべし。  伯母上はいかにしたまいけむ、もの賭《か》けて花がるたしたまいたりとて、警察に捕えられたまいし後、一年《ひととせ》わが県に洪水ありて、この町流れ、家の失《う》せし時にも何の音信《おとずれ》も無かりしとか。惟《おも》うに、身を恥じていずくにか立去りたまいしならむ。かの時の、その夜《よ》より、直《ただち》に小親に養われて、かく健《すこやか》に丈のびたる、われは、狂言、舞、謡など教えられつ。さればこの一座のためには益《やく》なきにもあらぬ身なり。ここに洪水のありし事は、一昨年《おととし》なりけむ、はたその前《さき》のなお前の年なりけむ、われ小親とともに、伊予の国なる松山にて興行せし時聞及びつ。かかるべしとは思わでありし、今年またこの地にて興行せむとて、一座とともに来《きた》りたる八年|前《ぜん》のふるさとの目に見ゆるもの皆かわりぬ。 [#7字下げ]二[#「二」は中見出し]  たそがれに戸に出ずる二代目のおさなき児等《こら》、もはや野衾《のぶすま》の恐《おそれ》なかるべし。旧《もと》のかの酒屋の土蔵《くら》の隣なりし観世物《みせもの》小屋は、あとも留《とど》めずなりて、東警察とか云うもの出来たり。  一座が掛《かか》りたる仮小屋は、前《さき》に金魚養いし女房の住みたる家のあとを、その隣、西の方《かた》、二軒ばかり空地となりしに建てられつ。小さき池は、舞台の真下になりたれば、あたかも可《よ》しとて、興行はじむる時、大瓶《おおがめ》一個《ひとつ》、俯向《うつむ》けて埋《うず》めたり。こは鼓の音《ね》冴えさせむとてしたるなりき。  揚幕より推出《おしいだ》されて、多勢の見物の見る目恥かしく、しのぶ、小稲とともに狂言のなかに立交《たちまじ》りて、舞台に鞠唄《まりうた》うたいし声の、あやしく震いたるも多日《しばし》がほどぞ。  振《ふり》のむずかしき、舞の難き、祭礼《まつり》に異様なる扮装《いでたち》して大路を練りありくそれとは同じからず。芸に忠にして、技に実なる、小親が世における実《まこと》の品位は神ありて知りたまわむ、うつくしき蒲団《ふとん》に坐る乞食よと、人の口さがなく謂《い》わば言え。  何か苦しかるべき。この姿して、この舞台に立ちて、われは故郷《ふるさと》の知人に対していささかも恥ずる心なかりしなり。  されども知りたるは多からず。小路を行交《ゆきか》う市人《いちびと》もすべてわが知れりしよりは著しく足早になりぬ。活計《たつき》にせわしきにや、夜ごとに集う客の数も思い較《くら》ぶればいと少し。  物語の銀六は、大和|巡《めぐり》する頃病みてまかりぬ。小六はおいたり。しのぶも髪結いたり。小稲はよきほどの女房とはなりぬ。  その間、年《とし》に風雨あり。朝《あした》に霜あり。夕《ゆうべ》に雪あり。世の中とかく騒がしかりければ、興行の収入《みいり》思うままならで、今年この地に来《きた》りしにも、小親は大方ならず人に金借りたるなり。  楽しき境遇にはあらざれど、小親はいつも楽しげなりき。こなたも姉と思う女《ひと》なり、姉とも思う人なり。  さりながら、ここにまた姉上と思いまいらせし女《ひと》こそあれ。  ふる里の空のなつかしきは、峰の松の左に傾きて枝を垂れたる姿なり。石の鳥居なり。百日紅なり。砂《いさご》のなかなる金色《こんじき》の細蠃《きしゃご》なり。軒に見馴《みな》れしと思う蜘蛛の巣のおかしかりし状《さま》さえ懐しけれど、最も慕わしく、懐しき心に堪えざりしは、雪とて継母の女《むすめ》なる、かの広岡の姉上なりき。  伯母上にそのあしきことありし時、姉上は広岡の家に来よとのたまいぬ。小親は狂言の楽屋に来《きた》れと言いぬ。二人の顔を見かわして、わが心動きしはいずれなりけむ。継母の声したれば、ふと小親のあたたかき肩掛《ショオル》の下に、小さきわが身体《からだ》ひそみにき。  寂しかりしよ、わかれの時、凍《い》てたる月に横顔白く、もの憂きことに窶《やつ》れたまいし、日頃さえ、弱々しく、風にも堪えじと見えたまうが、寝着《ねまき》姿の肌薄きに、折から身を刺す凩《こがらし》なりし。悵然《ちょうぜん》として戸に倚《よ》りて遥《はるか》に此方《こなた》を見送りたまいし。あわれの俤《おもかげ》眼前《めさき》を去らず、八年《やとせ》永き月日の間、誰《た》がこの思《おもい》はさせたるぞ。  広岡の継母に、かくて垣越に出会いしは、ふるさとに帰りし日の、二十日過ぎたる夕暮なりけむ。 [#7字下げ]三[#「三」は中見出し]  舞台には隣間近なり。ここに居ても、この声の聞えやせむかと、夜ごとに枕を欹《そばだ》てなどしつ。おもて立ちて訪ずれむは、さすがに憚《はばか》りありたれば、強いて控えたり。余所《よそ》ながら姉上の姿見ばやと思いて、木槿垣《むくげがき》の有りしあとと思うあたりを、そぞろ歩行《あるき》して、立ちて、伺いしその暮方なりき。  ふとこの継母とわれは出逢《いであ》いつ。  幼顔《おさながお》は覚え染《そ》みて忘れざりけむ、一目見るよりわれをば認めつ。呼懸けられたれば隠れも得《え》せで、進寄りて、二ツ三ツものいううち、青楓の枯れたるをはじめとして、継母はいたずらに数々のその昔をぞ数えたる。 「あんたに面と向うては言悪《いいにく》い事じゃがの。この楓の樹な、はや見るたびに腹が立つ。憎いやつで、水の出た時にの、聞いてくんなされ。  あんたの家《うち》も、私家《わしとこ》も、同一《ひとつ》に水びたり。根太《ねだ》の弛《ゆる》んだはお互様じゃが、私《わし》が家《とこ》など、随分と基礎《どだい》も固し、屋根もどっしりなり、ちょいとや、そっとじゃ、流れるのじゃなかったに、その時さの、もう洪水《みず》が引き際というに、洪《どっ》とそれ一瀬《ひとせ》になって打着《ぶッつか》ると、あんたの内のこの楓の樹が根こぎになって、どんぶりこと浮き出いてからに、宅《うち》の、大黒柱に突き当ったので、それがために動き出いて、とうとう流れたというもんじゃ。ハヤ実に……誠に、何も何も、それを怨《うら》むのじゃありやせぬけれど、いつまで経《た》ってもこいつの憎いは忘れられませぬ。因って、お宮様の段にしがらんで、流れずに残っていたのを、細い処は焼いてしもうたが、これだけは残しておいて、腹の立つ時は見ています。」  それを楓の知ることか。われは聞くに堪えざれば、冷《ひやや》かに去らむとせしが、この継母に、その女《ひと》のこと、なつかしきわが姉上のこと問わむと思いたれば堪《こら》えて彳《たたず》む。 「そして何か、今あんたは隣に勤めていなさるのかな。」  軽んじ賤《いやし》むる色はその面《おもて》に出でたれど、われは逆らわで頷《うなず》きぬ。かの人の継母なれば、心からわれも渠《かれ》に対しては威なきものとなれるなるべし。 「うう、何、それでも結構じゃ。口すぎさえ出来れば、なあ、あんた。」  ただ微笑《ほほえ》みて見せぬ。姉上のこと疾《と》く語らずや、と思うのみ。 「ええ、ところで、おおそれさ、あんたの一座の中じゃそうなの。ええ、何とかいう、別嬪《べっぴん》が一人居なさるそうじゃな。何とか言うたよ。あんた、知ってじゃろう。」  と言いかけて少し歩み寄りたり。その不快なる顔、垣の上にヌト出でて、あたかも梟首《きょうしゅ》せられたるもののごとくに見ゆ。 「小稲ですか。」 「小……稲、いや、違うた。稲じゃない、稲じゃない、はて、何とか言う。」  眉を顰《しか》めながら顔を斜《ななめ》にす。太《いた》く考うる状《さま》なれば、あえてその意を迎えむとにはあらねど、かりにもかの女《ひと》の母なれば、われは遂《つい》にわが惜しき小親の名語りたり。 「違いますか、小親。」 「うむ、それそれ、それそれその小親と言うのじゃ。小親じゃ。ははははは。」  蓮葉《はすは》なる笑声、小親にゃ聞えむかと、思わず楽屋なる居室《いま》の方《かた》見られたり。  継母は憚る状《さま》なく、 「その小親、と言うのは、あんた、中が好《い》いのかな。」 「何ですね、小母さん。」 [#7字下げ]四[#「四」は中見出し] 「はッはッはッ、可愛がられておいでじゃろ。私《わし》は早あんたが掌《てのひら》へ乗っかるような時の事から知っとるで、そこは豪《えら》いもの。顔を見るとちゃんと分ります。可愛がられると書いてある。」  快よからずニタニタ笑いて、 「そしてその小親と云うのは幾歳《いくつ》におなりだ。はははは、別嬪盛《べっぴんざかり》じゃと言えば、十七かな、八ぐらい?」 「いいえ、二十二。」 「む、二十二はちょうどいい。二十二は好《い》い年じゃ。ちょうどその位な時が好いものじゃ。何でもその時分が盛《さかり》じゃ。あんたも佳《い》い別嬪に可愛がられて羨《うらや》ましいの。いんえ、隠しなさるな、書いてある、書いてある。」 「小母さん、何ですね。」 「何でもないが少しその談話《はなし》があるで、何じゃよ。お前さんはほんとに小児《こども》の時から可愛らしかった。色が白くての、ぼちゃぼちゃと肥《ふと》って、頬《ほお》ッぺたへ噛《かじ》りつきたいような、抱いてみたいような、いやもうちょっと見ると目がなくなるくらいじゃった。それもそうかい、あんたの母様《おっかさん》はな、何でもこのあたりに評判の美《い》い女で、それで優しくって、穏当で、人柄で、まことに愛くるしい、人好《ひとずき》のする、私《わし》なんか女じゃが、とろとろとするほど惚《ほ》れていました。その腹《おなか》の貢さんじゃ。これがまた女の中で育ったというもので申分の無いお稚児様に出来ているもの。誰でも可愛がるよ、可愛がりますともさ。はははは、内のお雪なんかの、あんな内気な、引込思案な女じゃったけれど、もう、それは、あんたの事と言うたら、まるで狂気《きちがい》。起きると貢さん、寝ると貢さん、御飯を頂く時も貢さん、何でも貢さんで持切ってな、あんたがこっちに居なくなっても、今頃はどうしておいでなさるじゃろ。船の談《はなし》が出りゃ、お危い。雨が降りゃ、寂しかろ。人なつッこいお児《こ》じゃったから、どんなに故郷へ帰りたかろ。風が吹けば、風が吹く、お風邪でも召すまいかと、それはそれは言続け。嘘ではない、神信心もしていたようじゃが、しかし大きくおなりで、お達者なように見える。まあ、何より結構。  今では能役者と言うものじゃな。はははは、役者々々。はて、うつくしい、能役者はまた上品で、古風で可《い》いもんじゃよ。私《わし》も昔|馴染《なじみ》じゃから、これ深切で言いますが、気を着けなされ。む、気を着けなさい、女では失策《しくじ》るよ。若い時の大毒は、女と酒じゃ。お酒はあがりそうにも見えぬけれど、女には、それ、可愛がられそうな顔色《かおつき》じゃ。  いんえ、串戯《じょうだん》ではない、嘘ではない。余所《よそ》に面白いことが十分あると見えて、それ、たまたまで、顔を見せても、雪の雪《ゆ》の字も言いなさらぬ。な、あの児も、あんたには大きに苦労をしたもんじゃが。  早や懺悔《ざんげ》だと思いなさい。私《わし》もあの時分は、意地が張って、根性が悪うて、小児《こども》が、その嫌いじゃったでの、憎むまいものを憎みました。が、もう年紀《とし》も取る。ふッつりと心を入れかえました。優しい女《こ》での、今もそれ言う通り、あんまりあんたを可愛がるもんじゃから、私《わし》は羨《うらやま》しいので、つい、それ嫉妬《やきもち》を焼いて、ほんに、貢さんの半分だけなと、私《わし》を可愛がッてくれたらなと、の、嫉妬の故に、はははは、あんたにも可い顔見せず、あの女《こ》にも辛かったが、みんな貢さん、あんたのせいじゃ。  ほんに、そのくらいまでに、あんたを思うているものを、何と、貢さん、私《わし》の顔を見ながら、お雪はどうした、姉さんは達者かと、一言ぐらいは、何より先に云ってくんなされても可《よ》さそうなものを、小親に可愛がられるので、まるで忘れるとは、あんまりな、薄情だ。芸人になればそんなものか、怨《うらみ》じゃよ。」  俄《にわか》に粛《しめ》やかなる言語《ものいい》ぶりなり。 [#7字下げ]五[#「五」は中見出し]  その時の我顔を、継母はじっと見しが、俄《にわか》に笑い出しぬ。 「あの真面目《まじめ》な顔が、ははは、串戯《じょうだん》じゃ、串戯じゃ。  何の、そんな水臭い人でない事は、私《わし》がちゃんと知っている。むむ、知っとるとも。  杏《あんず》や、桃を欲しがった時分とは違うて、あんた色気が着いた。それでな、旧《もと》のように、小母さん、姉さんは、と言悪《いいにく》い。ところで、つい、言いそそくれておしまいのであろ。何、むかし馴染《なじみ》じゃあるけれど、今では女というものが分ったで、女と男、男と女、女と男ということが胸にあるに因って、私に遠慮をして、雪のことをちょっと口へ出し悪《にく》い、とまあいうたわけじゃの、違うまい。むむ。」  面《おもて》を背けてわれは笑いぬ。継母は打頷《うちうなず》き、 「それ見なされ。そこは何と言うても小母さんじゃ。胸の中は、ちゃんと見通《みとおし》の法印様。  それで私《わし》も落着いた。いや、そういう心なら、モちっとも怨みには思いませぬ。どうして、あんたのような優しい児《こ》が、いかに余所《よそ》に良《よ》いことが出来たとて、さっぱりふいと、こっちを忘れなさるとは思やせなんだが、そこは人情。またどうであろと思うたで、ちょいと気を引いてみたばかり。  悪く取られては困ります。こんな婆々《ばばあ》が、こんな顔で、こんな怨みっぽい事を言うたとて、何んとも思いはしなさるまいが、何じゃよ、雪が逢うてもこう言います。いま私《わし》の言うたような事を言いますわいの。それはの、言うわけがあるからで。  けれども、あの女《こ》は、じたい、無口で、しんみりで、控目で、内気で、どうして思う事を、さらけ出いて口で云えるような性《たち》ではない。因って、それ、私《わし》がの、その心を察して、あの女《こ》の代りに言いました。  雪じゃと思うて聞きなさい。そこは、私《わし》がちゃんとあんたの胸の裡《うち》を見|透《すか》したように、あの女《こ》のお腹《なか》んなかも破《わ》ったように知っとるで、つい、嫌味なことを言うたもの。  あんたがそうした心なら、あの女《こ》が何、どうしていようと、風が吹くとも思やせぬ。……泣いていようと、煩っていようと、物も食べられないで、骨と皮ばかりになっていようと、髪の毛を毮《むし》られていようが、生爪《なまづめ》をはがれて焼火箸《やけひばし》で突かれていようが、乳の下を蹴つけられて、呼吸《いき》の絶えるような事が一日に二度ぐらいずつはきっと有ろうと、暗い処に日の目も見ないで、色が真蒼《まっさお》になっていようと、踏《ふみ》にじられてひいひい呻《うめ》いていようと……そっちの事じゃ、私《わし》は構わぬ。ふむ、世の中にはそんな事もあるものですか、妙だね、ふふふで聞き流いて、お能の姉さんと面白そうに、お取膳《とりぜん》で何か召あがっておいで遊ばすような事もあるまいと思われる。な、あんた。」  顔の色も変りたるべし。冷たき汗にわが背のうるおいしぞ。黙して聞かるることかは。堪えかねたれば遮りたり。 「姉さんは御機嫌ですか。」  継母は太き声にて、 「はい、生きてはいます。死にはせいで、ああ、息のある内に、も一度貢さんの顔が見たいと云うての。」 「え!」 「それが、そういう事口へ出しては謂《い》われぬ女《こ》じゃで、言いはせぬ。けれど、そこは小母さんちゃんと見通し。ま、この大きくおなりの処を見たら、どんなにか喜ぶであろ。それこそ死なずにいた効《かい》があると、喜びますじゃろ。ああ、ほんとうに。」 「小母さん、逢いたい。」 「む、逢いたい、いや、それは小母さんちゃんと見通し。」 「お目にかかりたい、小母さん。」 「道理《もっとも》じゃ。」 「逢わして下さいな。」  と垣に伸上りぬ。継母は少し退《すさ》りて、四辺《あたり》を見まわし、声を潜め、 「養子がの、婿がの、その大変な男で、あんたを逢わしたりなんかしようもんなら……それこそ。」 [#5字下げ]井筒[#「井筒」は大見出し] [#7字下げ]一[#「一」は中見出し] 「貢さん、何をそんなにお鬱《ふさ》ぎだ。この間から始終くよくよしておいでじゃないか。言ってお聞かせ、どうしたの。何も私に秘《かく》す事は無いわ。」  二三日来、小親われを見ては憂慮《きづか》いて、かくは問うたりき。心なく言うべきことにあらねば語らでありしが、この夜《よ》は渠《かれ》とわれとのみ、傍《かたわら》に人なき機《おり》なり。 「私の事じゃないよ。」 「おや他人《ひと》のことで苦労してるの、お前さんは生意気だね。」  と打微笑《うちほほえ》む。浮きたる事にはあらじ、われは真顔になりぬ。 「だって何も心配をするのは、我身の事ばかりなものではない。他人《ひと》のだッて、しなきゃならない心配ならしようじゃないか。お前さんだって、私のことを心配おしだから、それで聞くんじゃないか、どうしたッて?」 「はい、はい。沢山《たんと》心配をしておあげなさいまし。御道理《ごもっとも》なことだねえ、ほほほ。」 「また、そんな、もう言うまいよ、詰《つま》らない。」 「ま、承りましょう。可《い》いからお話しなさい。大方、また広岡のお雪さんのこッたろう。」 「え、知ってるの。」 「紅花染《べにはなぞめ》だね。お前さんの心配はというと、いつでもお極《きま》りだよ。またどうかしたのかい。」 「ああ、養子が大変だと、酷《ひど》いんだとさ。あの、恐しい継母が、姉さん、涙を流して、密《そっ》と話した位だもの。大抵ではないと、そうお思い。お雪さんが可哀相っちゃない。ようよう命が有るばかりだと言うんだもの。姉さん、真面目になって聞いておくれ。いやに笑うねえ。」 「ちっと妬《や》けますもの。」 「詰らない、じゃあ言うまい。」 「いいえ承りましょう。酷いかね、養子にゃ可いのはないものだと云うけれど、そっちが酷くッて、こっちが苛《いじ》められるのは珍しいね。そして、あの継母が着いてるじゃあないか。貢さんに聞いたようでは。養子に我儘《わがまま》なんかさせそうにも思われないがね。」  われも初めは現在《いま》小親の疑うごとく疑いたるなり。 「それがね、姉さん、皆《みんな》金子《かね》のせいですとさ。洪水《みず》が出て、家《うち》が流れた時、旧《もと》あった財産も家も皆《みんな》なくなってしまってね、仕方が無い時にその養子を貰ったんだッて。」 「持参金《もちこみ》かね。」 「ええ、大分《だいぶん》の高だというよ。初《はじめ》ッからお雪さんは嫌っていた男だってね。私も知ってる奴《やつ》だよ。万吉てッて、通《とおり》の金持の息子なの。ねえ、姉さん、どういうものか万の字の着いたのに利口なものは居ないよ。馬鹿万と云うのがあるしね、刎万《はねまん》だの、それから鼻万だのッて、皆《みんな》嫌な奴さ。ありゃ名でもって同《おんな》じような申分のあるのが出来るのは、土地に因るんだとね。かえって利口なのも有るんだって。」 「また、詰らないことを言出したよ。幾歳《いくつ》だねえ、お前さんは。そんなこと云っていて、人の心配も何も出来るものじゃない。」 「だって、それに違いないのだ。あのお雪さんの養子になってるのは、やっぱり万という名だからさ。私がね、小さい時、万はもう大きな身《からだ》をして、良い処の息子の癖に、万金丹売のね、能書《のうがき》を絵びらに刷ったのが貰いたいって、革鞄《かばん》を持って、お供をして、嬉しがって、威張って歩行《ある》いた児《こ》だものを。誰が、そんな。  だからお雪さんも嫌っていたんだそうだけれど、どっさりお金子《かね》を持って来ると言うので、あの継母がね、是非婿にしよう、しなけりゃあなりませんと、そう云ったんだ、と。お雪さんが嫌だと云ったけれど……あの、姉さんも知ってるはずだよ。……私の内に楓の樹があって、往来へ枝がさして茂ってたのが、あすこの窓へ届いたので、内が暗くって、仕様がない。貢の内へ掛合って、伐《き》らしてしまうと言った時分に、私は何も知らないけれど、お雪さんが、あれだけは、そんなかわいそうな事をしないで下さい。後生ですって、止めたんだ。……それがあの洪水《みず》の時に流れ出して、大丈夫だった広岡の家《うち》へ衝突《ぶつか》ったので流れただろう、誰のおかげだ……」 [#7字下げ]二[#「二」は中見出し] 「……皆《みんな》お前のせいじゃないか。あの時|伐《き》らしてさえおけば、こんなに路頭に立つようになるまで、家《うち》を流されるんじゃなかったッて、難題を言って、それで、お雪さんも仕方なしに、その養子をしたんだって。……それが酷《ひど》いんだ。  小児《こども》の内は間抜けのようだったけれど、すっかり人が異《かわ》って、癇癪持《かんしゃくもち》の乱暴な奴になったと見えるんだよ。……姉さん、年紀《とし》がゆくと変るものかしら。」  小親は火箸もて炭を挟みたる手を留めて、 「そりゃ、変るね。貢さんだって考えて御覧なさい、大そう異《かわ》ったじゃあないか。」 「私は何、大きくなったばかりだね。」 「いいえ、ちっと憎らしくもおなりだよ。」 「そうかね。」 「その口だよ、憎らしい。」 「じゃ沢山憎んでおくれ。可《い》いよ、どうせ憎まれッ児《こ》だ、構やあしない。」  小親は清《すず》しき目を睜《みは》りぬ。 「いいえ、可愛がるよ。」 「そんな事いうからだ。今でも皆《みんな》でなぶって不可《いけな》い。いろんな事をいうもんだから、人の前でうっかりした口も利けまいじゃないか。一所に居て、そうして、何も私は姉さんにものを云うのに、遠慮をすることは要らないわけだと思うけれど、皆がなぶるから、つい、何でも考えてしたり、考えてものを云ったりしなけりゃならないよ。窮屈で弱ってしまう。皆がどうしてああだろう。」  莞爾《にっこり》して、 「さようでございますね。」 「ほんとうにお聞き、真面目でさ。」 「畏《かしこ》まりました。」 「そら、そうだから不可《いけな》いよ。姉さん、姉さんというものはね、年のいかない弟に、そんなことをするもんじゃあないよ。ちゃんと姉顔をして澄《すま》していなくっちゃあ。妙にお客あしらいで、私をばお大事のもののようにして、その癖ふざけるから、皆《みんな》が種々《いろん》なこと云うんじゃアあるまいかね。立派に姉さんの顔をして、貢、はい、というようにして御覧。おかしなことは無くなるに違いないから。そうしてなかよくして、ね、可愛がっておくれ。私も心細いんだもの。」  いいかけて顔を見合せぬ。小親は炭を継ぎて火箸もて、火をならしながら、ややありて後《のち》しめやかに頷《うなず》きたり。秋の末なれば月の影|冷《ひやや》かなりし。小親は後《うしろ》むきて其方《そなた》を見たる、窓少し開《あ》きたりしが、見たるまま閉めむともせで、また此方《こなた》に向きぬ。 「そして、お雪さんはどうしたの。」 「それがね、酷いんだ。他人《ひと》の口から言ったのなら何だけれど、あの、継母が我身で我身の邪慳《じゃけん》だったことを私に話したんだよ。  そんな風にして、無理に推着《おッつ》けて婿を取らしたが、実は何、路頭に立つなんて、それほど窮《こま》りもしなんだのを、慾張《よくば》りで、お金子《かね》が欲しさに無理に貰ったが悪いことをしたッて、言うんだ。  それがというと、養子の奴が、飛んだ癇癪持で、別に、他《ほか》に浮気なんぞするでもなしに、朝から晩まで、お雪さんを苛《いじ》めるんだってね。今まで苛めていた継母さえ見るに見兼ねると云うんだから酷いではないか。ねえ、姉さん。  それに、はじめお雪さんを無理強いにした言草《いいぐさ》が、私の内の楓の樹で、それをお雪さんが太《ひど》く庇《かば》って伐《き》らさなかったからこんなことが起ったんだってね、……そしてなぜ楓の樹を伐らさなかったろう。それは一ツ貢さん、あなたが考えて見ておくれッて継母が言いましたさ。」  煙管《きせる》をば取りあげつ。小親は煙草《たばこ》の箱|弾《はじ》きながら、 「そして。」 「私、考えた。」 [#7字下げ]三[#「三」は中見出し] 「何だか分りませんッて、継母には言ったけれど、考えて見ると、何だかねえ、遠い処に、幽《かすか》に小さい、楓の樹のこんもり[#「こんもり」に傍点]葉の繁ったのが見えて、その緑色が濡れているのに、太陽《ひ》がさして、空が蒼《あお》く晴れた処に、キラキラとうつくしいものが振下《ぶらさが》って……それにね、白い手で、高い処の枝に結《ゆわ》いつけておいでのお雪さんが、夢のように思い出されるんだよ。だもんだから、何だか私のために、お雪さんが、そんな養子を推着《おッつ》けられて、酷《ひど》いめにあわされているようにね、何ということなしに、我身で極《き》めてしまったんだもの。可哀相で堪《たま》らないんでね、つい、鬱《ふさ》ぐの。」  言うほどにまた幻見ゆ。空蒼く日の影花やかに、緑の色濃き楓の葉に、金紙、銀紙の蝶の形ひらひらと風にゆれて、差《さし》のばしたまう白く細き手の、その姉上の姿ながら、室《へや》の片隅の暗きあたり鮮麗《あざやか》にフト在るを、見返せば、月の影窓より漏れて、青き一条の光、畳の上に映《さ》したるなり。うっとりせしが心着きぬ。此方《こなた》には灯影《ほかげ》あかく、うつくしき小親の顔むかいあいて、額近きわが目の前《さき》に、太《いた》く物おもう色なりき。  われは堪《こら》えず俯向《うつむ》きぬ。 「そしてまあ、その継母はまた何だって遠まわしに、貢さんのせいのように推《おし》つけて聞かしたんだろうね。お前さんにどうかしてくれろというのかね。貢さん、お前さんが心配をすればどうにかなるとでもいうような事を、継母が知ってて言うようにも承《と》れるがねえ。一体どうしたというんだろうね。」  小親は身に沁《し》みて聞きたりけむ、言う声も落着きたり。 「でね、継母がそういったよ。貢さん、あんたは小親という人に可愛がられているんだろうッて。」 「お前さんは、何と言ったの。」 「黙っていました。」 「そうかい。」  とばかり寂しく笑いぬ。煙管《きせる》は火鉢に横《よこと》うたり。 「どうしたの、姉さん。」 「何、可《い》いよ。」 「だっておかしいもの、ね、そりゃ私を可愛がっておくれだけれど……何だか、おかしいなあ。」 「何が、え? 何がおかしいの。」と口早にいう、血の色薄く瞼《まぶた》を染めぬ。 「何も気をまわすことはないよ、真面目じゃあ困るわね。私あ何とも思やしない、串戯《じょうだん》さ。なぜね、そういうことを聞いたら、そりゃ可愛がってくれますとも、とこうお言いじゃないッて云うのさ。串戯だよ、串戯だけれどもねえ、その位にさばけておくれだと、それこそお前さんの言草《いいぐさ》じゃあないが、誰も冷かしたり、なぶったりなんぞしないようになっちまうわね。え、貢さん、そうじゃないか。しかし不可《いけな》いかい。」 「だって極《きまり》が悪いもの。」 「なぜさ。」 「なぜッて、そう云うとね、他人は何だもの、姉弟《きょうだい》だと思わないで、おかしく聞くんだからね。」 「何と聞えるんだね。」 「何だか、おかしい。」 「まあさ、何と聞えるんだねえ、貢さん。」 「それはね、あの……」 「何だね。」 「お能の姉さん。」 「厭《いや》だよ!」 [#7字下げ]四[#「四」は中見出し] 「しかし御察しの可《い》いことね、継母もどうして洒落《しゃれ》てるよ。そう云ってくれたのなら、私ゃその人に礼を言おうや。貢さん、逢ったら宜《よろ》しくと申しておくれ。」 「むこうでもそう云ったよ。小親によろしくッて。」 「何のこッたね。」 「それが、何だって、その養子がね、大層姉さんのことを、美《い》い女だってね、云ってるそうだ。」  煙管《きせる》を落して、火鉢の縁をおさえつつ、小親は新しくわが顔を瞻《みまも》りぬ。 「いつか見物をしたんだろうね。」  小親はこれを聞きて笑《えみ》を含み、 「貢さん、もう大抵分ったよ。道理でお前さんは妙な顔をしちゃあ、こないだッから私を見ていたんだわ。ああ、そしてお前さんはどう思います。」 「何をさ。」 「何をって、継母はお前さんに私となか[#「なか」に傍点]が好《い》いかッて聞いたろう。」 「そりゃ聞いたよ。今も話したように。」 「道理で。」  とまた独り頷《うなず》きつつ、 「貢さん、そして何だろう、お前さんの口から、ものを私に頼んでくれと言やあしないかい。」 「ええ。」 「云ったろうね、ほほほ、解《わか》ってるよ、解ってるよ。」  とまた笑えり。 「独《ひとり》で承知をしてるのね、姉さん。」 「うっかりじゃあないわね、可《い》いよ、まんざら知らない方じゃあなし、私も一度お目に懸《かか》って、優しそうな可い方だと思ってるもの。お雪さんがそんな酷《ひど》いめに逢っていなさるんなら、可いよ、貢さん、お前さんにつけて、その位なことならばしてあげようや。」  と静《しずか》にいう、思いの外なれば訝《いぶか》りもし、はた危《あやぶ》みもしつ。 「解ってるの。姉さんがどうにかしておくれなら、それを言ぐさにして、不品行《ふみもち》だからって、その養子を出してやろう。そんな奴だけれど、ただ、疎匇《そそう》があるの、不遇《ぶあしらい》をするのッて、お雪さんを苛《いじ》めるばかり。何も良人《おっと》の権だから、それをとやこう言うわけのものではない。他《ほか》に落度は無いものを、立派な親類が沢山控えているにつけて、こっちから手の出しようがない。そんならって、浮気などするんじゃなし、生真面目《きまじめ》だから手も着けられないでいたのに、ついぞ無い、姉さんを見て、まるで夢中だから、きっとその何なんだって。そして、どうかしておくれなら、もう一廉《ひとかど》のものいいがつく。きっと叩き出してお雪さんを助けると継母が云うんだがね。――承知だ、宜しいッて、姉さん、どうして分ったんだね。どうして知っておいでなんだい。」  小親は俯向《うつむ》きたる顔をあげて、 「貢さん、お前さんは何とも思っちゃあいまいけれど、私は何だよ、お前さんの事はというと、みんな夢に見て知ッてるよ。この間だっけ、今だから云うんだがね、真闇《まっくら》な処でね、あッと云う声が聞えるから、吃驚《びっくり》して見ると、何だったの。獣《けだもの》のね、恐ろしいものに追懸《おっか》けられて、お前さんと、お雪さんと抱き合って、お隣の井戸の中へ落《おっ》こちたのを見て、はッと思って目が覚めたもんだから。……」  われは悚然《りつぜん》として四辺《あたり》を見たり。小親は急に座を起《た》ちしが、衣《きぬ》の裳《すそ》踵《かかと》にからみたるに、よろめきてハタと膝折りたる、そのまま手を伸べて小窓の戸|閉《とざ》したり。月の明り畳に失《う》せて、透間《すきま》洩《も》りし木《こ》の葉の影、浮いてあがるようにフト消えて見えずなりぬ。一室《ひとま》の内|燈《ともしび》の隈《くま》なくはなりたれど、夜の色|籠《こも》りたれば暗かりき。さやさやと音さして、小親は半纏《はんてん》の襟引合せ、胸少し火鉢の上に蔽《おお》うよう、両手をば上げて炭火にかざしつ。 「もっとお寄りではないか。貢さん、夜が更けたよ。」 [#7字下げ]五[#「五」は中見出し]  袷《あわせ》の上より、ソトわが胸を撫《な》でて見つ。 「薄着のせいかね、動悸《どうき》がしてるよ。お前さん、そんなに思い詰めるものではないわ。そりゃお雪さんのことを忘れないで、心配をしておあげなのは、お前さんが薄情でないからで、私だって嬉しいよ。ねえ、貢さん、実のある弟を持ったと思って、人のことに心配をおしのでも、私は悪い気はしませんよ。けれども、そんなに思い詰めちゃあ、ほんとうに大事な身体《からだ》をどうおしだえ。気味の悪い夢だったから、心配でならないので、稲ちゃんにもそういって、しょっちゅう気を着けていたんだもの。人にかくれちゃ、継母とちょいちょいおはなしのことも知ってるんだよ。こっちから言い出す分ではなかったから、知らない顔で見ていたけれど[#「けれど」は底本では「けれで」]、堪《たま》らないほどお鬱《ふさ》ぎだもの。可《い》いよ、もうどうにかしてあげようや、貢さん。」  吐息もつかれ、 「じゃあ、姉さん、あの養子を、だましてくれるの。」 「ま、しようがないわね。」 「だって、酷《ひど》い奴だというよ。」 「たかが田舎者さ。」 「そして、どうして? 姉さん。」 「狸を御覧よ、ほほ、ほほほ。」 「ああ、一人助かった。」  小親が顔の色沈みたり。 「しかし、貢さん善《い》いことだとは思うまいね。」  胸痛かりし。われは答にためらいたり。 「善いことだとは思うまいね、貢さん。」  その心にわかに料《はか》りかねたる、胸はまた轟《とどろ》きぬ。 「私ゃ、芸人でありながら、お前さんに逢ってから、随分大事に身を持ったよ。よ、貢さん、人に後指《うしろゆび》さされちゃあ、お前さんの肩身が狭いだろうと思ったし、その上また点を打たれる身になるとね。」  小親引寄せて、わが手を取りたり。 「お前さんは何にも知るまいけれど、どうせ、どうせ、姉の役ッきゃあ勤まらない私だけれど、姉だッて、よ、姉だッて、人に後指さされたり、ちっとでも、お前さんとこうやっていることの、邪魔になるような人が私に有っては厭《いや》だから、そりゃ随分出来にくい苦労もしたもの。何にも恩に被《き》せるんじゃあない。怨《うらみ》をいうんじゃあない。不足を云うんじゃないけれど……貢さん、広岡のお嬢さんの顔が見られるようになりさえすりゃ、私ゃ、私ゃ、どうなっても可《い》いのかい。よ、よ、私ゃどうなっても、可いのかよう。」  烈《はげ》しく手の震いたればか、何のはずみなりけむ、火箸横に寝て、その半ば埋《うずも》れしが、見る間に音もなく、ものの動くともなく、灰の中にとぼとぼと深く沈みたり。 「あら、起しますよ。」 「可いよ。」  わが指のさき少しく灰にまみれたれば、小親手首を持添えて、掌《たなそこ》をかえしてじっと見つ。下着の袖口|引出《ひきいだ》して払い去るとて、はらはらと涙をぞ落したる。  わが身体《からだ》の筋皆動きぬ。 「御免なさい。」  小親は涙ぐみたるまま目を睜《みは》りぬ。 「御免なさい。私が悪かった。」  さしうつむきて声を呑みたり。 「悪かった、姉さん、さげすんでおくれでない。広岡の姉さんも私にゃあどんなにか優しかったろう。母《おっか》さんのなくなった時から、好《すき》な琴弾かなくなっておしまいだもの。このくらいな思《おもい》を私がするのは、一度は当前《あたりまえ》だったと思って、堪忍しておくれ。悪かった、ほんとうにさもしいことだった、姉さん、姉さん。」  こたえなければ繰返しぬ。 「姉さん!」  ひたと寄り添い、肩を抱《いだ》きて、屹《きっ》と顔を見合せぬ。 「あれ!」  と叫《い》う声、広岡の家より聞えつ。 [#5字下げ]重井筒[#「重井筒」は大見出し] [#7字下げ]一[#「一」は中見出し]  井戸一ツ地境《じざかい》に挟まりて、わが仮小屋にてその半《なかば》を、広岡にてその半ばを使いたりし、蓋《ふた》は二ツに折るるよう、蝶番《ちょうつがい》もて拵《こしら》えたり。井戸の蓋と隔ての戸とをこれにて兼ね、一方を当てて夜ごとには彼方《かなた》と此方《こなた》を垣したる、透間《すきま》少し有りたる中より、奮発《はず》みたる鞠《まり》のごとく、衝《つ》と潜《くぐ》り出でて、戸障子に打衝《うちあた》る音|凄《すさま》じく、室《ま》の内に躍り込むよと見えし、くるくると舞いて四隅の壁に突当る、出処なければ引返《ひっかえ》さむとする時、慌《あわただ》しく立ちたるわれに、また道を妨げられて、座中《ざなか》に踞《うずくま》りたるは汚き猫なりき。  背をすくめて四足を立て、眼を瞋《いか》らして呻《うな》りたる、口には哀れなる鳩一羽くわえたり。餌《え》にとて盗みしな。鳩はなかば屠《ほふ》られて、羽の色の純白なるが斑《まだら》に血の痕《あと》をぞ印したる。二ツ三ツ片羽《かたはね》羽たたきたれど、早や弱り果てたる状《さま》なり。 「畜生!」  と鋭く叫び、小親片膝立てて身構えながら、落ちたる煙管《きせる》の羅宇《らお》長きを、力|籠《こ》めて掉《ふり》かざせし、吸残りけむ煙草《たばこ》の煙、小さく渦巻きて消え失《う》せたり。 「あ痛《いつ》、あ、あ、痛《いつ》。」  うつくしき眉を顰《ひそ》めつつ、はたと得物を取落しぬ。  驚きてわが走り寄る時、遁路《にげみち》あきたれば潜り抜けて、猫は飛び出で、遠く走る音して寂然《ひっそ》となりたり。 「どうしたんだね、姉さん、どうしたんだね。」  小親は玉の腕《かいな》投げ出《いだ》して、右手《めて》もて擦《さす》りながら肱《ひじ》を曲げ、手の甲を頬にあてて、口もてその脈の処を強く吸いぬ。 「僂麻質《りゅうまち》かい、姉さん。」  と危ぶみ問いたる、わが声は思わず震いぬ。 「あら、顔の色を変えて、真蒼《まっさお》だね。そんなに吃驚《びっくり》したのかね、気の弱い。」  かえってわれを激ましぬ。 「いいえ、猫にも驚いたけれど、りゅうまちじゃあないかい、え、僂麻質じゃあないかい。」 「ちょいとだよ。何でもないんだよ、何をそんなに。たかがりゅうまちだもの、生命《いのち》を取られるほどのことは無いから。」 「でも、私はもう、僂麻質と聞いても悚然《ぞっと》するよ。何より恐《こわ》いんだ。なぜッてまた小六さんのように。」 「磔《はりつけ》!」  言いたる小親も色をかえぬ。太き溜息《ためいき》吻《ほ》とつきて、 「鶴亀、々々。ああ、そういったばかりでも、私ゃ胸が痛いよ、貢さん、ほんとに小六さんもどうおしだろうね。」  物語の銀六は、蛇責《へびぜめ》の釜《かま》に入《い》りたる身の経験《おぼえ》ありたれば、一たびその事を耳にするより、蒼くなりて、何とて生命《いのち》の続くべきと、老《おい》の目に涙|泛《うか》べしなり。されど気丈なる女《ひと》なれば、今なお恙《つつが》なかるべし。  小親いまだその頃は、牛若の役勤めていつ。銀六も健かに演劇《しばい》の真似《まね》して、われは哀《あわれ》なる鞠唄うたいつつ、しのぶと踊《おどり》などしたりし折なり。  あたかもいま小親が猫を追わむとて、煙管|翳《かざ》したるその状《さま》なりしよ。越前府中の舞台にて、道成寺の舞の半ばに、小六その撞木《しゅもく》を振上げたるトタンに左手《ゆんで》動かずなり、右手《めて》も筋つるとて、立《たち》すくみになりて、楽屋に舁《か》かれて来《き》ぬ。  しからざりし以前より、渠《かれ》はこの僂麻質の持病に悩みて、仮初《かりそめ》なる俥《くるま》の上下にも、小幾、重子など、肩貸し、腰を抱きなどせしなり。  月日に痛み重《おも》るを、苦忍して、強いて装束着けたりしが、その時よりまた起《た》たずなりき。  楽屋にては小親の緋鹿子《ひがのこ》のそれとは違い、黒き天鵞絨《びろうど》の座蒲団《ざぶとん》に、蓮葉《はすは》に片膝立てながら、繻子《しゅす》の襟着いたる粗《あら》き竪縞《たてじま》の布子《ぬのこ》羽織りて被《き》つ。帯も〆《し》めで、懐中《ふところ》より片手出して火鉢に翳し、烈々たる炭火|堆《うずたか》きに酒の燗《かん》して、片手に鼓の皮乾かしなどしたる、今も目に見ゆる。  手の利かねば、割膝にわが小さき体|引挟《ひっぱさ》みて、渋面つくるが可笑《おかし》とて、しばしば血を吸いて、小親来て、わびて、引放つまでは執念《しゅうね》く放たざりし寛闊《かんかつ》なる笑声の、はじめは恐しかりしが、果《はて》は懐しくなりて、そと後《うしろ》より小さき手に目隠《めかくし》して戯れたりし、日数《ひかず》もなく、小六は重き枕に就きつ。  湯を呑むにさえ、人の手かりたりしを、情《なさけ》なき一座の親方の、身の代《しろ》取りて、その半《なかば》不随の身を売りぬ。  買いたるは手品師にて、観世物《みせもの》の磔《はりつけ》にするなりき。身体《からだ》は利かでも可《よ》し、槍《やり》にて突く時、手と足|掙《もが》きて、苦《あ》と苦痛の声絞らするまでなれば。これにぞ銀六の泣きしなる。 「ほんとにねえ、貢さん。」 [#7字下げ]二[#「二」は中見出し]  小親|行《ゆ》きて、泣く泣く小六の枕頭《まくらもと》にその恐しきこと語りし時、渠《かれ》の剛愎《ごうふく》なる、ただ冷《ひやや》かに笑いしが、われわれはいかに悲しかりしぞ。  その時の小親、今の年紀《とし》ならましかば、断ちても何とか計らいたらむ。あどけなき人のただ優しくて、親方に縋《すが》りたれど、内に居ては水一つ汲《く》まぬ者なり。手足の動かぬを何にかせむ、歌妓《うたひめ》にも売れざるを、塵塚《ちりづか》に棄つべきが、目ざましき大金《おおがね》になるぞとて、北叟笑《ほくそえみ》したりしのみ。  そもそも何の見処ありて、小六にさる価《あたい》擲《なげう》ちけむ、世には賤《いや》しき業《わざ》も多けれど、誰か十字架《はりつけ》に懸《かか》らむとする。  向うづけに屋根裏高き磔柱《はりつけばしら》に縛《いまし》められて、乳《ち》の下|発《ひら》きて衆《ひと》の前に、槍をもて貫かるるを。これに甘んずる者ありとせむか、その婦人《おんな》いかなるべき。  小六の膚《はだ》は白かりき。色の黒き婦人《もの》にては、木戸に入《い》るが稀なりとて、さる価をぞ払いしなる。手品師は詮《せん》ずるに半ば死したる小六の身のそのうつくしく艶《つやや》かなりし鳩尾《きゅうび》一斤の肉を買いしなり。諸人《もろびと》の、諸人の眼の犠牲《いけにえ》に供えむとて。  売られし小六はおさなきより、刻苦して舞を修めし女《ひと》ぞ。かくて十年二十年、一座の座頭《ざがしら》となりて後も、舞台に烈《はげ》しき働《はたらき》しては、楽屋に倒れて、その弟子と、その妹と、その養う児《こ》と、取縋り立蔽《たちおお》いて回生剤《きつけ》を呑ませ呼び活《い》けたる、技芸の鍛錬積りたれば、これをかの江戸なる家元の達人と較《くら》べて何か劣るべき。  あわれ手品師と約成りて、一座と別れんとしたりし時、扇子もて来よ、小親。一さし舞うて見せむとて、留《とど》むるを強いて、立たぬ足|膝行《いざ》り出でつ。小稲が肩貸して立たせたれば、手酌して酒飲むとは人かわりて、おとなしく身繕いして、粛然と向直る。  小親は膝に手を置きぬ。  揚幕には、しのぶと重子、涙ながら、踞居《ついい》て待ちたり。  一息つき、きっと見て、凜《りん》として、 (幕を!)  と高く声かけぬ。開けと云うなり。この声かかる時は、弟子達みな思わずひれ伏す。威なるべし。  さて声に応じて、「あ」と答え、棒をもて緞子《どんす》の揚幕キリリと捲《ま》いて揚げたれば、舞台見ゆ。広き土間|桟敷《さじき》風|寂《さ》びて人の気勢《けはい》もなく、橋がかり艶《つやや》かに、板敷白き光を帯びて、天井の煤影《すすかげ》黒く映りたるを、小六はじッと見て立ったりしが、はじめてうるめる声して、 (親ちゃん、)  とばかりはたと扇子落して見返りし、凄艶《せいえん》なる目の中《うち》に、一滴の涙宿したり。皆泣伏しぬ。迎《むかい》の俥《くるま》来たれば乗りて出でき。  可愛《かわゆ》き児の、何とて小親にのみは懐《なつ》き寄る、はじめて汝《な》が頬に口つけしはわれなるを、効《かい》なく渠《かれ》に奪《と》らるるものかは。小親の牛若さこそとならば、いまに見よ、われ癒《い》えなば、牡丹《ぼたん》の作物《つくりもの》蔽い囲む石橋《しゃっきょう》の上に立ちて、丈《たけ》六尺なるぞ、得意の赤頭《あかがしら》ふって見せむ。さらば牛若を思いすてて、わが良き児とやならむずらむ。  と病《やまい》の床に小親とわれと引きつけては、二人の手を取り戯れて、小親に顔赤うさせし愉快の女《ひと》は、かくて手品師が人の眼を眩惑《げんわく》せしむる、一種の魔薬となり果てたり。  過去りしことありのままに繰返せば、いままのあたり見るに似たり。  小親と顔を見合せぬ。 「よく覚えておいでだね。」  いかでわれ忘るべき。 [#7字下げ]三[#「三」は中見出し]  いかで忘らるべき。時々起る小親が同一《おなじ》病《やまい》の都度、大方ならずわれは胸いためぬ。  殊に今は隣家《となり》にて、啊呀《あなや》と一声叫びたまいし姉上の声の、覚えあるのみならず、猫の不意にも驚かされし、血の動きのなお止《や》まぬに、小親また腕《かいな》を痛めたれば、さこそわが顔の色も変りつらむ。 「姉さん、ほんとうに気を付けておくれ、またこの上お前が病気にでもなったらどうしよう。」 「案じずとも可《い》いよ、ちょいとだわ。しかし小六《ねえ》さんもどうしているんだろう。始終気に懸けちゃあいるけれど、まだどうにもしようがないが、もうこの節じゃあ、どこに居なさるんだかそれさえ知れない位だもの、ねえ、貢さん。」  いい掛けつつ打湿《うちしめ》りて、 「ああなぜまあ私達はこうだろう。かわいそうに、いろんなことに苦労をおしだねえ。」 「仕方がないんだ。」とわれは俯向《うつむ》きぬ。 「どうしてまた、お前さんを可愛がってあげたいものは、こんなにふしあわせなんだろうね。小六《ねえ》さんだって、あんな気の強い人だったけれど、どんなにかお前さんを可愛い、可愛いッて、いつも言ったろう。それがああだし。  いままたお雪さんだって、そうじゃあないか。お前さんも恋しがってるし、むこうでもそんなに思っているものが、飛んだ、お婿さんを娶《と》ってまたそうだし……」  小親が口籠《くちごも》りて吐《つ》くいきに、引入れらるるよう心細く、 「姉さんは何ともありゃあしないだろうね。」 「え。」 「姉さんは何ともなかろうね。」 「誰? え、お雪さんかえ。」 「いいえ。」 「私?」  われ頷《うなず》きぬ。小親は襟に首垂《うなだ》れつつ、 「私、私なんざあ、どうせやっぱり磔《はりつけ》にでもなるんだろうさ。親方持ちだもの、そりゃこうして動いてる内ゃ可いけれど、病気にでもなった上、永く煩いでもしようもんなら、大概さき[#「さき」に傍点]が分ってるわね。」 「詰《つま》らない、そんなことが。」  と勢《いきおい》よく言いたれど、力なき声なりしよ。 「いいえ、算《つも》っても御覧、小六《ねえ》さんなんざ、いままでのお礼心で、据えておいたって可いんじゃあないか。私も世話になってるし、内のは大抵|皆《みんな》小六《ねえ》さんに仕込まれた女《ひと》だもの、座をこれまでにしたのは皆《みんな》あの女《ひと》の丹精じゃあないか。寝さしておいて、謡を教えさしたッて一廉《ひとかど》の役には立つのに、お金子《かね》だといや直ぐあれなんだもの。考えてみりゃ心細いよ。」  思わず涙さしぐみぬ。十年《ととせ》の末はよも待たじ、いま早や渠《かれ》は病《やまい》あり。肩寒げに悄《しお》れたる、その状《さま》ぞ瞻《みまも》らるる。 「姉さん、私は、私はどうなるんだろうね。」  小親はハッとせし風情にて、顔をあげしがまたうつむきぬ。 「堪忍しておくれ、もう私ゃそういわれると、申訳のしようがないよ。つい、手前勝手で、お前さんを私が処へ引張っておいて、こんなに甲斐性《かいしょう》がないんだものね。あの時お雪さんの方へ行っておいでなら、またこんなことにならなかったかも知れないものを。つい何だか、お前さんをば人ン処へやりたくなかったので、……それも分別がある人なら、そりゃ、私とお前さんと両方で半分ずつ悪いんだから可《い》いけれど、東西もお分りでなかったものを、こんなにしてしまってさ。そして心配をさせるんだから、皆《みんな》私が悪いんだね、本当に、もうどうしたら可《よ》かろうね。」  太《いた》く激したるようなりき。さりとは思い懸けざりし。心も急《せ》きて、 「何だね、何も、そんな気で言ったんじゃあないんだのに。」 [#7字下げ]四[#「四」は中見出し] 「いいえ、お前さんはきっと腹を立っておいでだよ。堪忍して下さい、よう後生だから。毎日々々|果敢《はかな》いことが有るけれど、お前さんの顔を見たり、ものをいうのさえ聞いてれば、何にも思わないで、私ゃ気がはずむんでね、ちっとも苦労はしないけれど、そりゃ私の、身勝手だった。御免なさいな。」  と身を顫《ふる》わして涙を呑む。われはその膝おさえたり。 「姉さん、何が気に障りました。何だって、私がそんなこと思います。宿なしの、我《わが》ままものを、暑さ、寒さの思いもさせないで、風邪ひとつおひかせでない。お母《っか》さんに別れてから、内に居ちゃあ知らなんだ楽しいことも覚えさして下すった。伯母さんと居た時は、外へばかり出たかったに、姉さんとこう一所になってから、ちっとも楽屋の外のことは知らなくって済むようにして、こんなに育てておくれだもの、何が私に不足があるえ。そりゃお雪さんのことは……何だったから、だから、謝罪《あやま》ったじゃあないか。先刻《さっき》云ったのはちっともそんな気じゃアありません。何だか心細い事おいいだから、嘘にもそんなこと云って私を弱らして下さるなって、そういうつもりだったのに、悪く取ったのかね、まだ胸にゃあ済まないかい。」  縋《すが》りつきて、 「ひがむんだね、ああ、つい、ああもしてあげよう、こうもしてあげて、お前さんの喜ぶ顔が見たいと思うことが山ほどにあるけれど、一ツも思うようにならないので、それでつい僻《ひが》むのだよ。分りました。さ、分ったら、ね、貢さん、可《い》いかい、可いかい。」 「だってあんまりだから。」 「ほんとはお前さんが何てったって、朝夕顔が見ていたいの。そうすりゃもう私ゃ死んだって怨《うらみ》はないよ。」 「まあ!」 「いいえ、何の、死んだって、売られたって、観世物《みせもの》になったって、どうしたって構うものかね。私ゃ、一晩でもお前さんとこうしていられさえすりゃ。」 「そんなこと云っちゃあ厭《いや》だ。」  分れて坐したり。 「じゃあ、もう詰《つま》らない事はいいッこなし、気をしっかりして、私がきっとお前さんに心配はさせないよ。そのかわり私が煩って、悲しいめにあうことが――あったらばね。」  またその声を曇らせしが、 「甘えさしておくれ。可《い》いかい。ちょいとでもお前さんに甘えさしてもらいさえすりゃ、あとはどうなったって、構うものか。したいようにするが可いや。もうもう、取越苦労なんざしないでおこうね。」 「ああ。」 「極《き》めた!」  急に坐り直して、 「あら、もう火が消えたよ。」  小親はいそいそ灰のなか掻探《かいさが》して、煙管《きせる》取って上げたるが、ふと瞳を定めて、室《ま》の隅、二ところ見廻したり。 「おや! 鳩はどうしたろう。」  われもまた心着きぬ。さきに一たび姉上のことを思い断たむとしたりし折、広岡の家に悲しき叫び聞えしは、確《たしか》に忘れず、その人なりし。われわれとおなじにかの猫の鳩くわえしを見たまいしならむとのみ、仮りに思い棄てたれど、あるいはさもなくて、何等かの憂目《うきめ》に合わせたまうならずや。酷《むご》き養子のありといえば。また更に胸の安からず。 [#7字下げ]五[#「五」は中見出し]  小親はなお頻《しき》りにあたりを見廻して、 「変だよ、ちょいとお前さんも見たろうね、何だか私ゃ茫然《ぼんやり》してたが、たしかあの猫が鳩をくわえて飛込んだっけね。変な気がするよ、つい今しがたの事だった。」 「ああ、私はまた、またいうと何だろうけれど、お雪さんの(あれッ)てった声が聞えたようでね。」 「気のせいだよ、そりゃ気のせいだろうけれど、はてな、一体どこから飛込んだろうね。」 「井戸の処さ。」 「井戸だえ……」  わが顔の色見て取りたり。小親は寂しき笑《えみ》を含みて、 「可《い》いよ、どうせ心配をさせないと言ったこッた。貢さん、ついでにその心配もさせないから、もう案じないが可いよ。」 「何の心配さ。」 「お雪さんのことさ。」 「その事なら、もう。」 「いいえ、そうじゃあないよ、一旦《いったん》は何、私だって、先刻《さっき》のように云ったけれど、お前さんの心配をすることだもの、それに、どうせ、こんなからだだから、お前さんさえ愛想をお尽《つか》しでないことなら、もうどんなにでも私ゃなろうわね。構うものかね、なに構やあしない。」  かかる女《ひと》に何とてさることをさせらるべき。わが心はほぼ定まりたり。 「そんなに云っておくれだと、なお私は立つ瀬がない。お雪さんも何だけれど、姊さんが何だもの。」 「何だえ、貢さん。」 「何でもいいよ。」 「可《よ》かアありません。」 「可かアありませんたって、何もわるいこっちゃあない。」 「じゃあまあそうさ。しかしどうにかするよ、私ゃ、そのまんまにしちゃあおかないから。」 「あすのこと……そして姉さん冷えちゃあまた悪いだろう。」  われは独り自由にものおもわむと欲せしなり。  小親は軽く頷《うなず》きつつ、 「また心配をさしちゃあ悪いね。」 「だからさ。」 「あい、じゃあ、お前さんもおやすみだと可い。」  褄《つま》引合せて立上れり。 「しのぶや、……む、もう寝たそうな。」  戸口にて見返りながら、 「貢さん、床は私が取ってあげよう。」 「なに、構わないよ。あとで敷かせるから。」  打《うち》うなずきさま微笑《ほほえ》みたり。 「邪魔だったら、あっちへおいで、稲ちゃんと一所に寝ましょう。」 「のちほど。」 「それじゃあ……」  とて立出でたる、後姿隣の室《ま》の暗きなかに隠れしが、裾《すそ》花やかに足白く、するすると取って返して、 「貢さん!」  顔をあげてぞ見たる、何をか思える、小親の、憂慮《きづか》わしげなる面色《おももち》なりしよ。 「また、鼠とでも話すのかね。」 「考えてるの。」 「そんなこと云わないで、鼠とたんとお楽しみ。ほほほ、私は夢でも見ましょうや。」  と横顔見せて身をななめに、此方《こなた》を見てなお立ちたりしが、ふと心着き耳傾け、 「あら! 狐が鳴いてるよ。」  と、あだなる声にていいすてつつ、すらすらと歩み去りぬ。 [#5字下げ]峰の堂[#「峰の堂」は大見出し] [#7字下げ]一[#「一」は中見出し]  あれという声、啊呀《あなや》と姉上の叫びたまいしと、わが覚ゆる声の、猫をば見たまいて驚きたまいしならば可《よ》し。さなくて残忍なる養子のために憂目《うきめ》見たまいしならばいかにせむ。それか、あらぬかとのみ思い悩みつつ、われは夜半《よわ》の道を行《ゆ》くなりき。  小親と同一《おなじ》楽屋に居て、その顔見つつありては、われ余りに偏して、ただものに驚かせたまいしよと思い棄つるようになりがちなればぞ。  窓を透《すか》して、独居《ひとり》の時、かの可哀《あわれ》に苔《こけ》生《お》いたる青楓の材を見れば、また姉上の憂目を訴えたまいしがごとく思われつつ、心|太《いた》く惑いて脳《つむり》の苦しきが、いずれか是なる、いずれか非なる。わが小親を売りて養子の手より姉上を救い参らせむか、はた姉上をさし置きて、小親とともに世を楽しく送らむか、いずれか是なる、いずれか非なる。あわれわれこの間《かん》に処していかにせむと、手を拱《こまぬ》きて歩行《あり》くなりき。  しずかに考え決《さだ》むとて、ふらふらと仮小屋を。小親が知らぬ間に出でて、ここまで来つ。山の手の大通りは寂《せき》として露|冷《ひやや》かなり。  路すがらいかなるものにか逢いけむ、われは心着かざりし。四辺《あたり》には人の往来《ゆきき》絶えて、大路の片隅に果物売の媼《おうな》一人露店出して残りたり。三角|形《なり》の行燈《あんどん》にかんてら[#「かんてら」に傍点]の煤煙《ばいえん》黒く、水菓子と朱の筆もて書いたる下に、栗を堆《うずたか》く、蜜柑《みかん》、柿の実など三ツ五ツずつ並べたり。空には月の影いと明《あかる》きに、行燈の燈《ともし》幽《かすか》なれば、その果物はみな此方《こなた》より小《ちいさ》く丸く黒きものに見ゆ。電信の柱長く、斜《ななめ》に太き影の横《よこと》うたるに、ふと立停《たちどま》りて、やがて跨《また》ぎ越えたれば、鳥の羽音して、高く舞い上れり。星は降るごとし。あなやと見れば、対岸なる山の腰に一ツ消えて、峰の松の姿見えつ。われは流《ながれ》に沿うたりき。  岸には推《おし》ならべて柳の樹植えられたり。若樹の梢《こずえ》より、老樹《おいき》の樹《こ》の間《ま》に、居所《いどころ》かわるがわる、月の形かからむとして、動くにや、風の凪《な》ぎたる柳の枝、下垂れて流れの上に揺《ゆら》めきぬ。  来かかる人あり、すれ違いて振向きたれば、立停りて見送るに、われ足疾《あしばや》に通り過ぎつ。  柳は早うしろの方《かた》遥《はるか》になりて、うすき霧のなかに灰色になりたる、ほのかに見ゆ。松の姿の丈高きが、一抱《ひとかかえ》の幹に月を隠して、途上六尺、隈《くま》暗く、枝しげき間より、長き橋の欄干低く眺めらる。板の色白く、てらてらと対《むかい》なる岸に懸《かか》りたり。  その橋の上に乗りたるよう、上流の流れ疾《と》く白銀《しろがね》の光を浴び、蜿《うね》りに蒼《あお》みを帯びて、両側より枝|蔽《おお》える木《こ》の葉の中より走り出でて、颯《さ》と橋杭《はしぐい》を潜《くぐ》り抜け、来《こ》し方《かた》の市《まち》のあたり、ごうごうと夜《よ》深き瀬の音ぞ聞えたる。  わが心は決《さだま》らで、とこうしてその橋の袂《たもと》まで来《きた》りたり。ついでなればと思いて渡りぬ。  木津は柿の実の名所とかや。これをひさぐもの、皆|女《むすめ》にて、市《いち》よりおよそ六七里隔たりたる山中の村よりこの橋の上に出で来《きた》るなり。夜更けては帰るに路《みち》のほど覚束《おぼつか》なしとて、商《あきない》して露店しまえば、そのまま寝て、夜明けてのち里に帰るとか。紫の紐《ひも》結びつつ、一様に真白き脚絆《きゃはん》穿《は》きたるが、足を縮め、筵《むしろ》もて胸を蔽い、欄干に枕して、縦横に寝まりたる乙女等五七人、それなるべし。尽《ことごと》く顔に蓋《ふた》して、露を厭《いと》える笠のなかより、紅《くれない》の笠の紐、二条《ふたすじ》しなやかに、肩より橋の上にまがりて垂れたり。  小親も寝たらむ、とここにて思いき。 [#7字下げ]二[#「二」は中見出し]  われは一足立戻りぬ。あれという声、啊呀《あなや》と叫びたまいし声、いかでそのままに差置きて、小親と楽しく眠らるべき。  いま少し、いま少し、仮小屋と広岡の家と楓の樹と、三ツともにある処に、いま少し、少しにても遠く隔りたらば、心の悩ましさ忘られむ。  渡り越せば、仮小屋とハヤ川一ツ隔たりたり。麓路《ふもとじ》は堤防《どて》とならびて、小家《こいえ》四五軒、蒼白《あおじろ》きこの夜の色に、氷のなかに凍《い》てたるが、透《すか》せば見ゆるにさも似たり。月は峰の松の後《うしろ》になりぬ。  坂道にのぼりかけつ。頂にいたりて超然として一眸《いちぼう》のもとに瞰下《みおろ》さば、わが心高きに居て、ものよく決《さだ》むるを得べしと思いて、峰にのぼらむとしたるなり。  歩を攀《よ》ずる足のそれよりも重かりしよ。掻い撫《な》ずる掌《たなそこ》を、吸い取るばかり、袖、袂《たもと》、太《いた》く夜露に濡れたり。  さて暗き樹の下を潜《くぐ》り、白き草の上を辿《たど》り行《ゆ》く。峰は近くなりぬ。  路の曲りたる角に石碑あり。蓮《はちす》の花片《はなびら》の形したる、石の面に、艶子《つやこ》之墓と彫りたるなり。  貴き家に生れし姫の、継母に疎んじられて、家をば追われつ。このあたりに隠れすみて里の子に手習《てならい》教えていたまいしが、うらわかくてみまかりたまいしとか、老いたる人の常に語る。苔《こけ》深き墳墓の[#「墳墓の」は底本では「墳慕の」]前に、桔梗《ききょう》やらむ、萩やらむ、月影薄き草の花のむら生《お》いたるのみ。手向けたる人のあとも見えざるに、われは思わず歩を留《とど》めぬ。  あわれ広岡の、姉上は、われにいかなる女《ひと》ぞ。小親をだに棄つれば救わるべきをと、いと強く胸を拍《う》って叫ぶものあり。  草に坐して、耳を傾けぬ。さまざまのこと聞えて、ものの音響き渡る。脳《つむり》苦しければ、目を眠りて静《しずか》に居つ。  やや落着く時、耳のなかにものの聞ゆるが、しばし止《や》みたるに、頭上なる峰の方《かた》にて清き謡の声聞えたり。  松風なりき。  あまり妙《たえ》なるに、いぶかしさは忘れたるが、また思い惑いぬ。ひそかに見ばや、小親を置きて世に誰かまたこの音《おん》の調をなし得るものぞ。  身を起して、坂また少しく攀じ、石段三十五階にして、かの峰の松のある処、日暮《ひぐらし》の丘の上にぞ到れる。  松には注連縄《しめなわ》張りたり。香《こう》を焚《た》く箱置きて、地《つち》の上に円《まろ》き筵《むしろ》敷きつ。傍《かたわら》に堂のふりたるあり。廻廊の右左稲かけて低く垣結いたる、月は今その裏になりぬ。  謡は風そよぐ松の梢《こずえ》に聞ゆ、とすれど、人の在るべき処にあらず。また谷一ツ彼方《かなた》に謡うが、この山の端《は》に反響《こだま》する、それかとも思われつ。試みにソト堂の前に行《ゆ》きて――われうかがいたり。  伸びあがりて密《ひそか》にすかしたれば、本堂の傍《かたわら》に畳少し敷いたるあり。おなじ麻の上下《かみしも》着けて、扇子控えたるが四五人居ならびつ。ここにて謡えるなりき。釜《かま》かけたる湯の煙むらむらとたなびく前に、尼君一|人《にん》薄茶の手前したまいぬ。謡の道|修《しゅ》するには、かかることもするものなり。覚えあれば、跫音《あしおと》立ててこの静《しずか》さ損なわじと、忍びて退《の》きぬ。  山の端に歩み出でつ。  と見れば明星、松の枝長くさす、北の天にきらめきて、またたき、またたき、またたきたる後、拭《ぬぐ》うて取るよう白くなりて、しらじらと立つ霧のなかより、麓《ふもと》の川見え、森の影見え、やがてわが小路ぞ見えたる。襟を正して曰《いわ》く、聞け、彼処《かしこ》にある者。わが心さだまりたり。いでさらば山を越えてわれ行《ゆ》かむ。慈《いつくし》み深かりし姉上、われはわが小親と別るるこの悲しさのそれをもて、救うことをなし得ざる姉上、姉上が楓のために陥りたまいしと聞く、その境遇に報い参らす。 [#地から1字上げ]明治二十九(一八九六)年十一〜十二月[#「明治二十九(一八九六)年十一〜十二月」は1段階小さな文字] 底本:「泉鏡花集成3」ちくま文庫、筑摩書房    1996(平成8)年1月24日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第二卷」岩波書店    1942(昭和17)年9月30日発行 ※誤植の確認には、底本の親本を参照しました。 入力:門田裕志 校正:酔いどれ狸 2013年5月16日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。