桜 岡本かの子 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)生命《いのち》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)桜|日和《びより》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)ぽぷらあ[#「ぽぷらあ」に傍点] ------------------------------------------------------- 桜ばないのち一ぱいに咲くからに生命《いのち》をかけてわが眺《なが》めたり さくら花《ばな》咲きに咲きたり諸立《もろだ》ちの棕梠《しゆろ》春光《しゆんくわう》にかがやくかたへ この山の樹樹《きぎ》のことごと芽ぐみたり桜のつぼみ稍《やや》ややにゆるむ ひつそりと欅《けやき》大門《だいもん》とざしありひつそりと桜咲きてあるかも 丘の上の桜さく家《いへ》の日あたりに啼《な》きむつみ居《を》る親豚子豚 ひともとの桜の幹《みき》につながれし若駒《わかごま》の瞳《め》のうるめる愛《かな》し 淋しげに今年《ことし》の春も咲くものか一樹《ひとき》は枯《か》れしその傍《そば》の桜 春さればさくらさきけり花蔭《はなかげ》の淀《よど》の浮木《ふぼく》の苔《こけ》も青めり ひえびえと咲きたわみたる桜花《はな》のしたひえびえとせまる肉体の感じ 散りかかり散りかかれども棕梠の葉に散る桜花《はな》ふぶき溜《たま》るとはせず ならび咲く桜の吹雪《ふぶき》ぽぷらあ[#「ぽぷらあ」に傍点]の若芽《わかめ》の枝の枝ごとにかかる わが庭の桜|日和《びより》の真昼なれ贈りこしこれのつやつや林檎《りんご》 青森の林檎の箱ゆつやつやと取り出《い》でてつきず桜花《はな》の樹《こ》のもと 林檎むく幅広《はばひろ》ないふ[#「ないふ」に傍点]まさやけく咲き満《み》てる桜花《はな》の影うつしたり 地震《なゐ》崩《くづ》れそのままなれや石崖に枝垂《しだ》れ桜は咲き枝垂れたり しんしんと桜花《さくら》かこめる夜《よる》の家|突《とつ》としてぴあの[#「ぴあの」に傍点]鳴りいでにけり しんしんと桜花《はな》ふかき奥にいつぽんの道とほりたりわれひとり行《ゆ》く せちに行けかし春は桜の樹下《こした》みちかなしめりともせちに行けかし さくら花ひたすらめづる片心《かたごころ》せちに敵《かたき》をおもひつつあり 朝ざくら討たば討《う》たれむその時の臍《ほぞ》かためけりこの朝のさくら あだかたきうらみそねみの畜生《ちくしやう》が桜花《さくら》見てありとわれに驚く わが婢《はした》なにおもふらむ廚辺《くりやべ》の桜花《はな》の樹《こ》のもとにあちらむき停《た》てり この朝の桜花《はな》の樹《こ》のもと小心の与作《よさく》ものつ[#「のつ」に傍点]と歩み出でたり わが幼稚《をさな》さひたはづかしし立ち優《まさ》り咲き揃《そろ》ひたる春花《はるはな》なれや 咲きこもる桜花《はな》ふところゆ一《ひと》ひらの白刃《しろは》こぼれて夢さめにけり わがころも夜具《やぐ》に仕換《しか》へてつつましく掻《か》い寝《いね》てけり月夜《つくよ》夜ざくら 角《つの》立ちのみじかきからに牛の角《つの》つのだち行けどふれずさくらに いみじくも枝垂《しだ》るるさくら日《ひ》の本《もと》の良子《ながこ》女王《によわう》が素直《なほ》きおん眉《まゆ》 可愛《かあ》ゆしといふわが言の畏《かし》こけれ桜花《さくら》見ますかわが良子ひめ 新しき家居《いへゐ》の門《かど》に桜花《はな》咲けど夜《よ》を暗み提灯《ちやうちん》つけて出《い》でけり 桜花《はな》さける道は暗けど一《いつ》しんに提灯ふりて歩みけるかも わが持てる提灯の炎《ひ》はとどかずて桜はただに闇《やみ》に真白し いつぽんの桜すずしく野に樹《た》てりほかにいつぽんの樹もあらぬ野に 桜ばな暗夜《やみよ》に白くぼけてあり墨《すみ》一色《いつしき》の藪《やぶ》のほとりに つぶらかにわが眼《め》を張《は》ればつぶつぶに光こまかき朝桜かも ひんがしの家《や》の白かべに八重《やへ》ざくら淋漓《りんり》と花のかげうつしたり さくら咲く丘のあなたの空の果て朝やけ雲の朱《しゆ》を湛《たた》へたり わだつみの豊旗雲《とよはたぐも》のあかねいろ大和《やまと》島根《しまね》の春花《はるはな》に映《は》ゆ ひさかたの光のどけし桜ちるここの丘辺《をかべ》を過ぐる葬列《さうれつ》 ほそほそと雫《しづく》しだるる糸ざくら西洋婦人|濡《ぬ》れてくぐるも 糸桜ほそき腕《かひな》がひしひしとわが真額《まひたへ》をむちうちにけり わが家《いへ》の遠《とほ》つ代《よ》にひとり美しき娘ありしといふ雨夜《あまよ》夜ざくら 真玉《まだま》なす桜花《はな》のしづくに白黒のだんだら犬がぬれて停《た》ちたり 折々《をりをり》にしづくしたたる桜花《はな》のかげ女靴《めぐつ》のあとのとびとびに残る ほそほそと桜花《はな》の奥より見えて来る灯《ひ》にまさりたる淋しき灯なし 桜花《はな》の奥なにたからかに語り来る人ありて姿なかなか見えず 糸杉《いとすぎ》のみどり燃えたりそのかたへふわふわ桜咲き白《しら》むかも 桜さく丘にのぼれば遠《をち》かたの松ふく風の声かそかなり この丘の桜花《さくら》のもとゆ見はるかす遠松原《とほまつばら》のほのぼのしかも 松の間《ま》に桜さきたり松の葉の黒きひまよりうす紅《べに》ざくら ミケロアンゼロの憂鬱《いううつ》はわれを去らずけり桜花《さくら》の陰影《かげ》は疲れてぞ見ゆれ 桜花《はな》あかりさす弥生《やよひ》こそわが部屋にそこはかとなく淀《よど》む憂鬱 かなしみがやがて黒める憂鬱となりて術《すべ》なし桜花《はな》のしたみち 早春の風ひようひようと吹きにけりかちかちに莟《つぼ》む桜|並木《なみき》を かちかちにつぼむ桜の樹下《こした》みちしなび蜜柑《みかん》を曳《ひ》いて通るも さくら咲くあかるき外《と》には立ちにけりわが衣《きぬ》の皺《しわ》にはかに著《しる》し 仁丹《じんたん》の広告灯が青くまた赤く照《てら》せり夜《よ》の桜ばな 桜花《さくらばな》軒場《のきば》に近し頬《ほ》にあつるかみそりの冷えのうすらさびしき 山川のどよみの音のすさまじきどよみの傍《そば》の一本《ひともと》桜 桜花《はな》さけど廚《くりや》女房いつしんに働きてあり釜《かま》ひかる廚 裏庭のひよろひよろ桜てふずば[#「てふずば」に傍点]の手ふき手ぬぐひ薄汚《うすよご》れたり しんしんと家をめぐりて桜さくおぞけだちたり夜半《よは》にめざめて けふ咲ける桜はわれに要《えう》あらじひとの嘘《うそ》をばひたに数《かぞ》ふる さかんなる桜はわれになまぬるき「許しの心」あに教ふべしや 薄月夜《うすづくよ》こよひひそかに海鳥《うみどり》がこの丘《をか》の花をついばみに来《こ》む この丘に桜散る夜《よ》なり黒玉《ぬばたま》の海に白帆《しらほ》はなに夢むらむ 夜《よ》は夜とて闇の小床《をどこ》に淡星《あはぼし》と語らふものか小《こ》ざくら桜 こよひわきて桜花《はな》の上なる暗空《やみぞら》に光するどき星ひとつあり ひとり見る山ざくらばな胃を病《や》みてほろほろ苦き舌を含《ふふ》めり ねむたげな桜|並木《なみき》を一声《ひとこゑ》の汽笛《きてき》の音がつつ走りけり 駅前の石炭の層にうらうらと桜花《はな》ちりかかる真昼なりけり 自動車の太輪《ふとわ》の砂塵《さぢん》もうもうとたちけむりつつ道の辺《べ》の桜 真白なる鶏《くだかけ》ひとつ今朝《けさ》みれば血に染《そ》みてあり桜花《はな》の樹《こ》のもと 空高く桜咲けどもわがたどる一本の道は岩根《いはね》こごしき さくらばな咲く春なれや偽《いつは》りもまことも来よやともに眺《なが》めな 日《ひ》の本《もと》の春のあめつち豪華《がうくわ》なる桜花《さくら》の層をうちに築きたり おのづから蔭影《かげ》こそやどれ咲き満《み》てる桜花《さくら》の層のこのもかのもに にほやかにさくら描《か》かむと春陽《はるひ》のもとぬばたまの墨《すみ》をすり流したり にほやかにさくら描《ゑが》きておみな子《ご》も金《かね》もうけむとおもひ立ちたり おみな子の金もうくるを笑はざれ日本のさくら震後の桜 日本の震後のさくらいかならむ色にさくやと待ちに待ちたり 金ほしきおみなとなりて眺《なが》むれど桜の色は変《かわ》らざりけり 金ほしき今年の春のおのれかもいやうるはしと桜をば見つ このわれや金とり初《そ》めの日《ひ》の本《もと》の震後の桜花《はな》の真盛りの今日《けふ》 停電の電車のうちゆつくづくと都《みやこ》の桜花《はな》をながめたるかも 桜さく頃ともなればわきてわが疲《つか》るる日こそ数は多けれ かろき疲れさくらさく椽《えん》にかりそめの綻《ほころ》びもわがつくろはずけり しばたたきうちしばたたき眼《め》を病《や》めるわれや桜をまともには見ず さくら花《ばな》まぼしけれどもやはらかく春のこころに咲きとほりたり うつらうつらわが夢むらく遠方《をちかた》の水晶山に散るさくら花 うちわたす桜の長道《ながて》はろばろとわがいのちをば放ちやりたり 外《と》の面《も》には桜|盛《さか》るをわが瓶《へい》の室咲《むろざ》きの薔薇《ばら》ははやもしぼめり 真黒くわれ動《うごか》ざりあしたより桜花《はな》は窓辺《まどべ》に散りに散れども ひそかなる独言《ひとりごと》なれけふ聞きてあすは忘れよひともと桜 遠稲妻《とほいなづま》そらのいづこぞうちひそみこの夜桜《よざくら》のもだし愛《かな》しも かきくもる大空のもとひそやかに息づきにつつこの丘の桜 かそかなる遠雷《とほいかづち》を感じつつひつそりと桜さき続きたり なごやかに空くもりつつ咲き盛《さか》る桜を一日《ひとひ》うち和《なご》めたり 気難《きむづ》かしきこの家《や》の主人《あるじ》むづかしき顔しつつさくら移植《うつ》させて居《を》り 歌麿《うたまろ》の遊女《いうぢよ》の襟《えり》の小桜《こざくら》がわが傘《からかさ》にとまり来にけり 政信《まさのぶ》の遊女の袖《そで》に散るさくらいかなる風にかつ散りにけん うたかたの流れの岸に広重《ひろしげ》が現《うつつ》の桜花《はな》を描《か》き重ねたり 咲き倦《う》みて白くふやけし桜花《はな》のいろ欠伸《あくび》かみつつわが見やりたり みちばたのさくらの太根《ふとね》玉葱《たまねぎ》を懇《ねもごろ》いだきわがいこひたり ほろほろと桜ちれども玉葱はむつつりとしてもの言はずけり 何がなしかなしくなれりもの言はぬ玉葱に散り散り滑《すべ》るさくら ここに散る桜は白し玉葱の薄茶《うすちや》の皮ゆ青芽《あをめ》のぞけり 春浅しここの丘辺《をかべ》の裸木《はだかぎ》の桜|並木《なみき》を歩《あゆ》みつつかなし さくら木のその諸立《もろだ》ちのはだか木にこもらふ熱を感ぜざらめや 松の葉の一葉《ひとは》一葉に濃《こま》やけく照る陽《ひ》のひかり桜にも照る 若竹《わかたけ》のあさきみどりに山ざくら淡淡《あはあは》と咲きて添《そ》ひ樹《た》てるかも 桜花《さくらばな》ちりて腐《くさ》れりぬかるみに黒く腐れる椿《つばき》がほとり 地を撲《う》ちて大輪《たいりん》つばき折折《をりをり》に落つるすなはち散り積むさくら 大寺《おほでら》の庭に椿は敷《し》き腐り木蓮《もくれん》の枝に散りかかる桜 ぼたん桜ここだく樹《た》てり尼《あま》たちが紐《ひも》かけ渡し白衣《びやくえ》干《ほ》すかも 鬱《うつ》として曇天《どんてん》のしたに動かざり梢《こずゑ》のさくら散り敷けるさくら どんよりと曇天に一樹《ひとき》立つさくら散るとしもなく散る花のあり 一天《いつてん》は墨《すみ》すり流し満山《まんざん》の桜のいろは気負《きお》ひたちたり 見渡せば河しも遠し河しもの瀬瀬《せぜ》にうつれる春花《はるはな》のかげ 急阪《きふはん》のいただき昏《くら》し濛濛《もうもう》と桜のふぶき吹きとざしたり さやさやと竹さやぐからに出《い》でて見ればしんと桜が咲き居《ゐ》たるかも 塔《たふ》の沢のいかもの店に女唐《めたう》停《た》ちその向《むか》つ峰《を》の桜花《はな》盛りなり いかものを女唐買ひたりその女唐箱根の桜花《はな》の下みちを行く わがままはやめなとぞおもへしかはあれ春さり来れば桜さきけり 桜花《はな》の山は淡墨《うすずみ》いろに暮れにけり大烏《おほがらす》一羽ひつそり帰る 大暴風《おほあらし》うすずみ色の生壁《なまかべ》にさくら許多《ここだ》くたたきつけたり ここにして桜|並木《なみき》はつきにけり遠浪《とほなみ》の音かそかにはする 桜花《はな》の山はうしろに高し見はるかす淡墨いろのたそがれの海 いそがはしく吾《われ》を育ててわが母や長閑《のど》に桜も見で逝《ゆ》きませしか 十年《ととせ》まへの狂院《きやうゐん》のさくら狂人《きちがひ》のわれが見にける狂院のさくら 狂人のわれが見にける十年まへの真赤きさくら真黒きさくら 狂人《きちがひ》よ狂人《きちがひ》よとてはやされき桜花《さくら》や云《い》ひし人間《ひと》や笑ひし ふたたびは見る春|無《な》けむ狂人《きちがひ》のわれに咲きけむ炎の桜 わが夫《つま》よ十年《ととせ》昔のきちがひのわが恐怖《おそれ》たる桜花《はな》あらぬ春 ねむれねむれ子よ汝《な》が母がきちがひのむかし怖れし桜花《はな》あらぬ春 人間の交友《まじわり》のはてはみな儚《はか》な桜見つつし行きがてぬかなし [#地付き](来よと宣《の》らせる佐藤春夫氏に厚く謝しつつ) 桜花《はな》あかり廚《くりや》にさせば生魚《なまざかな》鉢《はち》に三ぼん冴《さ》えひかりたり 生ざかな光りて飛べりうす紅《べに》の桜の肌の澄《す》みの冷たさ 底本:「愛よ、愛」パサージュ叢書、メタローグ    1999(平成11)年5月8日第1刷発行 底本の親本:「岡本かの子全集 第八卷」冬樹社    1976(昭和51)年4月15日初版第1刷発行 初出:「中央公論」    1924(大正13)年4月号 ※「椽《えん》」の表記について、底本は、原文を尊重したとしています。 入力:門田裕志 校正:土屋隆 2004年2月17日作成 2013年10月5日修正 青空文庫作成ファイル: 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