化銀杏 泉鏡花 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)極《きわめ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)一枚|蔀《しとみ》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)睜 ------------------------------------------------------- [#7字下げ]一[#「一」は中見出し]  貸したる二階は二間にして六畳と四畳半、別に五畳余りの物置ありて、月一円の極《きわめ》なり。家主《やぬし》は下の中の間の六畳と、奥の五畳との二間に住居《すま》いて、店は八畳ばかり板の間になりおれども、商売家《あきないや》にあらざれば、昼も一枚|蔀《しとみ》をおろして、ここは使わずに打捨てあり。  往来より突抜けて物置の後《うしろ》の園生《そのう》まで、土間の通庭《とおりにわ》になりおりて、その半ばに飲井戸あり。井戸に推並《おしなら》びて勝手あり、横に二個《ふたつ》の竈《かまど》を並べつ。背後《うしろ》に三段ばかり棚を釣りて、ここに鍋《なべ》、釜《かま》、擂鉢《すりばち》など、勝手道具を載《の》せ置けり。廁《かわや》は井戸に列してそのあわい遠からず、しかも太《いた》く濁りたれば、漉《こ》して飲用に供しおれり。建てて数十年を経たる古家なれば、掃除は手綺麗《てぎれい》に行届きおれども、そこら煤《すす》ぼりて余りあかるからず、すべて少しく陰気にして、加賀金沢の市中にてもこのわたりは浅野川の河畔一帯の湿地《しけち》なり。  園生は、一重の垣を隔てて、畑造りたる裏町の明地《あきち》に接し、李《すもも》の木、ぐみの木、柿の木など、五六本の樹立《こだち》あり。沓脱《くつぬぎ》は大戸を明けて、直ぐその通庭なる土間の一端にありて、上り口は拭《ふ》き込みたる板敷なり。これに続ける六畳は、店と奥との中の間にて、土地の方言茶の室《ま》と呼べり。その茶の間の一方に長火鉢を据えて、背《うしろ》に竹細工の茶棚を控え、九谷焼、赤絵の茶碗、吸子《きゅうす》など、体裁よく置きならべつ。うつむけにしたる二個《ふたつ》の湯呑《ゆのみ》は、夫婦《めおと》別々の好みにて、対にあらず。  細君は名をお貞《てい》と謂《い》う、年紀《とし》は二十一なれど、二つばかり若やぎたるが、この長火鉢のむこうに坐《すわ》れり。細面にして鼻筋通り、遠山の眉余り濃からず。生際《はえぎわ》少しあがりて、髪はやや薄《うす》けれども、色白くして口許《くちもと》緊《しま》り、上気性《のぼせしょう》と見えて唇あれたり。ほの赤き瞼《まぶた》の重げに見ゆるが、泣《なき》はらしたるとは風情異り、たとえば炬燵《こたつ》に居眠りたるが、うっとりと覚めしもののごとく涼しき眼の中《うち》曇を帯びて、見るに俤《おもかげ》晴やかならず、暗雲一帯|眉宇《びう》をかすめて、渠《かれ》は何をか物思える。  根上りに結いたる円髷《まるまげ》の鬢《びん》頬に乱れて、下〆《したじめ》ばかり帯も〆めず、田舎の夏の風俗とて、素肌に紺縮《こんちぢみ》の浴衣を纏《まと》いつ。あながち身だしなみの悪きにあらず。  教育のある婦人《おんな》にあらねど、ものの本など好みて読めば、文《ふみ》書く術《すべ》も拙《つたな》からで、はた裁縫の業《わざ》に長《た》けたり。  他の遊芸は知らずと謂う、三味線《さみせん》はその好きの道にて、時ありては爪弾《つめびき》の、忍ぶ恋路の音《ね》を立つれど、夫は学校の教授たる、職務上の遠慮ありとて、公に弾《ひ》くことを禁じたれば、留守の間を見計らい、細棹《ほそざお》の塵《ちり》を払いて、慎ましげに音〆《ねじめ》をなすのみ。  お貞は今思出したらむがごとく煙管《きせる》を取りて、覚束無《おぼつかな》げに一服吸いつ。  渠《かれ》は煙草《たばこ》を嗜《たしな》むにあらねど、憂《うき》を忘れ草というに頼りて、飲習わんとぞ務むるなる、深く吸いたれば思わず咽《む》せて、落すがごとく煙管を棄《す》て、湯呑に煎茶をうつしけるが、余り沸《たぎ》れるままその冷《さ》むるを待てり。  時に履物の音高く家《うち》に入来《いりく》るものあるにぞ、お貞は少し慌《あわた》だしく、急に其方《そなた》を見向ける時、表の戸をがたりとあけて、濡手拭《ぬれてぬぐい》をぶら提げつつ、衝《つ》と入りたる少年あり。  お貞は見るより、 「芳さんかえ。」 「奥様《おくさん》、ただいま。」  と下駄を脱ぐ。 「大層、おめかしだね。」 「ふむ。」  と笑い捨てて少年は乱暴に二階に上るを、お貞は秋波《ながしめ》もて追懸けつつ、 「芳ちゃん!」 「何?」  と顧みたり。 「まあ、ここへ来て、ちっとお話しなね。お祖母様《ばあさん》はいま昼寝をしていらっしゃるよ。騒々しいねえ。」 「そうかい。」  と下りて来て、長火鉢の前に突立《つった》ち、 「ああ、喉《のど》が渇く。」  と呟《つぶや》きながら、湯呑に冷《さま》したりし茶を見るより、無遠慮に手に取りて、 「頂戴。」  とばかりぐっと飲みぬ。 「あら! 酷《ひど》いのね、この人は。折角冷しておいたものを。」  わざと怨《えん》ずれば少年は微笑《ほほえ》みて、 「余ってるよ、奥様はけち[#「けち」に傍点]だねえ。」  と湯呑を返せり。お貞は手に取りて中を覗《のぞ》き、 「何だ、けも残しゃアしない。」  と底の方に残りたるを、薬のように仰ぎ飲みつ。 「まあ、芳《よッ》さんお坐ンな、そうしてなぜ人を、奥様々々ッて呼ぶの、嫌なこッた。」 「だって、円髷に結ってるもの、銀杏返《いちょうがえし》の時は姉様《ねえさん》だけれど、円髷の時ゃ奥様だ。」 [#7字下げ]二[#「二」は中見出し]  お貞はハッとせし風情にて、少年の顔を瞻《みまも》りしが、腫《はれ》ぼったき眼に思いを籠《こ》め、 「堪忍おしよ、それはもう芳さんが言わないでも、私はこの通り髪も濃くないもんだから、自分でも束ねていたいと思うがね、旦那が不可《いけない》ッて言うから仕様がないのよ。」 「だからやっぱり奥様《おくさん》じゃあないか。」  と少年は平気なり。お貞はしおれて怨《うら》めしげに、 「だって、他《ほか》の者《もん》なら可《い》いけれど、芳さんにばかりは奥様ッて謂われると、何だか他人がましいので、頼母《たのも》しくなくなるわ。せめて「お貞さん」とでも謂っておくれだと嬉しいけれど。」  とためいきして、力なげなるものいい[#「ものいい」に傍点]なり。少年は無雑作に、 「じゃあ、お貞さんか。」  と言懸けて、 「何だか友達のように聞えるねえ。」 「だからやっぱり、姉《ねえ》さんが可いじゃあないかえ。」 「でも円髷に結ってるもの、銀杏返だと亡《なく》なった姉様《ねえさん》にそっくりだから、姉様だと思うけれど、円髷じゃあ僕は嫌だ。」  と少年は素気《そっけ》なし。 「じゃあまるであかの[#「あかの」に傍点]他人なの?」 「なにそうでもないけれど。……」  少年は言淀《いいよど》みぬ。お貞は襟を掻合《かきあわ》せ、浴衣の上前を引張《ひっぱ》りながら、 「それだから昨日《きのう》も髪を結わない前に、あんなに芳さんにあやまったものを。邪慳《じゃけん》じゃあないかね。可《いい》よ、旦那が何といっても、叱られても大事ないよ。私ゃすぐ引毀《ひっこわ》して、結直して見せようわね。」  お貞は顔の色|尋常《ただ》ならざりき。少年は少し弱りて、 「それでなくッてさえ、先達《こないだ》のような騒《さわぎ》がはじまるものを、そんなことをしようもんなら、それこそだ。僕アまた駈出《かけだ》して行《ゆ》かにゃあならない。」 「ほんとうに、あの時は。ま、どうしようと思ったわ。  芳さんは駈出してしまって二晩もお帰りでないし、おばあさんはまた大変に御心配遊ばしてどうしたら可《よ》かろうとおっしゃるし、旦那は旦那でものも言わないで、黙って考え込んでばかりいるしね、私はもう、面目ないやら、恥かしいやら、申訳がないやらで、ぼうッとしてしまったよ。後で聞くと何だっさ、真蒼《まっさお》になって寝ていたとさ。  芳|様《さん》の跫音《あしおと》が聞えたので、はッと気が着いて駈出したが、それまでどうしていたんだか、まるで夢のようで[#「夢のようで」は底本では「夢のやうで」]、分らなかったよ。」  少年は頻《しき》りに頷《うなず》き、 「僕はまた髯《ひげ》がさ、(水上《みなかみ》さん)て呼ぶから、何だと思って二階から覗《のぞ》くと、姉様《ねえさん》は突伏《つっぷ》して泣いてるし、髯は壇階子《だんばしご》の下口《おりぐち》に突立《つった》ってて、憤然《むっ》とした顔色《かおつき》で、(直ぐと明けてもらいたい。)と失敬ことを謂うじゃあないか。だから僕は不愉快で堪《たま》らないから、それからそのまんまで、家《うち》を出て、どこか可い家があったらと思ったけれど、探す時は無いもんだ。それから友達の処《ところ》へ泊って、牛《ぎゅう》を奢《おご》ってね、トランプをして遊んでいたんだ。僕あ一番強いんだぜ。滅茶々々に負かして悪体を吐《つ》いてやると、大変に怒ってね、とうとう喧嘩《けんか》をしちまったもんだから、翌晩《あくるばん》はそこに泊ることも出来ないので、仕方が無いから帰って来たんだ。」  お貞は聞きつつ睨《にら》む真似して、 「憎らしいねえ。人の気も知らないで、お友達とトランプも無いもんだね。気が違やあしないかと、私ゃ自分でそう思った位だのにさ。」 「でも僕あ帰った時、(芳さん!)てって奥から出て来た、あの時の顔にゃ吃驚《びっくり》したよ。暮合《くれあい》ではあるし、亡《なく》なった姉さんの幽霊かと思った。」 「いやな! 芳さんだ。恐いことね。」  お貞は身震いして横を向きぬ。少年は微笑《ほほえ》みたり。 「何だ、臆病《おくびょう》な。昼じゃあないか。」 「でもそんなことをお言いだと、晩に手水《ちょうず》に行《ゆ》かれやしないや。」 「そんなに臆病な癖にして、昨夜《ゆうべ》も髯と二人|連《づれ》で、怪談を聞きに行ったじゃあないか。」  お貞はまじめに弁解《いいわけ》して、 「はい、ですから切前《きりまえ》に帰りました。切前は茶番だの、落語だの、そりゃどんなにかおもしろいよ。」 「それじゃもう髯の御機嫌は直ったんだね。」 [#7字下げ]三[#「三」は中見出し] 「別に直ったというでもないけれど、まああんなものさ。あれでもね、おばあさんには大変気の毒がってね、(お年寄がようよう落着《おちつき》なされたものを、またお転宅《ひっこし》は大抵じゃアあるまいから、その内可い処があったら、御都合次第お引越しなさるが可し、また一月でも、二月でも、家《うち》においでになっても差支えはございませんから)ッて、それッきりになってるのよ。そのかわりね、私にゃ、(芳さんと談話《はなし》をすることは決してならない)ッて、固くいいつけたわ。やっぱり疑ぐっているらしいよ。」  少年は火箸《ひばし》を手にして、ぐいぐい灰に突立てながら、不平なる顔色《かおつき》にて、 「一体疑ぐるッて何だろう。僕のおばあさんにもね、姉様《ねえさん》、髯《ひげ》が、(お孫さんも出世前の身体《からだ》だから、云々《うんぬん》が着いてはなりますまい。私は、私で、内の貞に気を着けますから、あなたもそこの処おぬかりなく。)ッさ。内証で言ったそうだ。変じゃないか、え、姉様、何を疑ぐッているんだろう。何か僕と、姉様と、不道徳な関係があるとでもいうことなんかね、それだと失敬極まるじゃあないか、え、姉様。」  と詰《なじ》り問うに、お貞は、 「ああ。」  と生返事、胸に手を置き、差俯向《さしうつむ》く。  少年は安からぬ思いやしけむ。 「じゃあ何だね、こないだあの騒ぎのあった前に、二人で奥に談話《はなし》をしていた時、髯が戸外《おもて》から帰って来たので、姉様は、あわアくって駈出《かけだ》したが、そのせいなの? 一体気が小さいから不可《いけな》いよ。いつに限らずだ。人が、がらりと戸を開けると、何だか大変なことでも見付かったように、どぎまぎして、ものをいうにも呼吸《いき》をはずまして、可訝《おかし》いだろうじゃないか。先刻《さっき》僕の帰った時も、戸をあけると、吃驚《びっくり》して、何だかおどおどしておいでだったぜ。こないだの時だってもそうだ。髯に向って、(いらっしゃいまし)自分の亭主を迎えるとって、(いらっしゃいまし)なんて、言う奴があるものか。何だってそう気が小さくッて、物驚きをするんだなあ。それだから疑ぐられるんだ。不可《いけない》ねえ。」  お貞は淋しげなる微笑《えみ》を含み、 「そういってながら芳さんもあの時はやっぱりそそッかしく、二階へ駈《か》け上ったじゃあないかね。」  少年は別に考うる体《てい》もなく、 「そりゃ何だ、僕は何も恐《こわ》いことはないけれど、あの髯が嫌だからだ。何だか虫が好かなくッて、見ると癪《しゃく》に障るっちゃあない、僕あもう大嫌《だいきらい》だ。」  と臆面《おくめん》もなく言うて退《の》けつ。渠《かれ》は少年の血気にまかせて、後前《あとさき》見ずにいいたるが、さすがにその妻の前なるに心着きけむ、お貞の色をうかがいたり。  お貞は気に懸けたる状《さま》もなく、かえって同意を表するごとく、勢《いきおい》なげに歎息して、 「誰が見てもちがいはないねえ。私だってやっぱり嫌だわ。だがね、芳ちゃんは、なぜ好かないの。」  少年はお貞の言《ことば》の吾が意を得たるに元気づきて、声の調子を高めたり。 「他《ほか》にね、こうといって、まだ此家《ここ》へ来て、そんなに間もないこったから、どこにどうという取留めたこともないけれど、ただね、髯の様子がね、亡なった姉様の亭主に肖《に》ているからね、そのせいだろうと思うんだ。」 「そうして、不可《いけな》いお方だったの。」  少年はそぞろに往時を追懐すらむ、慨然《がいぜん》としたりけるが、 「不可いどころの騒《さわぎ》じゃない、姉様を殺した奴だもの。」  お貞は太《いた》く感ぜし状《さま》にて、 「まあ。」  とそのうるみたる眼を睜《みは》りぬ。 「酷《ひど》い人ね、何だッてまた姉様を殺したんだろうね。芳さんのお姉様《あねえさん》なら、どんなにか優しい、佳《い》い人だったろうにさ。」 「そりゃ、真実《ほんとう》に僕を可愛がってくれたッちゃあないよ。今着ている衣服《きもの》なんか、台なしになってるけれど、姉様がわざと縫って寄来《よこ》したもんだから、大事にして着ているんだ。」 「そのせいで似合うのかねえ。」  とお貞は今更のごとく少年の可憐なる状《さま》ぞ瞻《みまも》られける。水上芳之助は年紀《とし》十六、そのいう処、行う処、無邪気なれどもあどけなからず。辛苦のうちに生《おい》たちて浮世を知れる状見えつ。もののいいぶりはきはきして、齢《よわい》のわりには大人びたり。 [#7字下げ]四[#「四」は中見出し]  要なければここには省く。少年はお蓮《れん》といえりし渠《かれ》の姉が、少《わか》き時配偶を誤りたるため、放蕩《ほうとう》にして軽薄なる、その夫判事なにがしのために虐遇され、精神的に殺されて入水して果てたりし、一条の惨話を物語りつ。語《ことば》は簡に、意は深く、最もものに同情を表して、動かされ易きお貞をして、悲痛の涙に咽《むせ》ばしめたり。  語を継ぎて少年言う。 「姉様《ねえさん》もやっぱり酷《ひど》いめにあわされるから、それで髯《ひげ》が嫌なんだろう。」  折からぶつぶつと湯の沸返《にえかえ》りて、ぱっと立ちたる湯気に驚き、少年は慌《あわただ》しく鉄瓶の蓋《ふた》を外し、お貞は身を斜《ななめ》になりて、茶棚より銅《あかがね》の水差を取下して急がわしく水を注《さ》しつ。 「いいえ、違うよ。私のはまた全く芳さんの姉さんとは反対《あちこち》で、あんまり深切にされるから、もう嫌で、嫌で、ならないんだわ。」  少年は太《いた》く怪《あやし》み、 「そんな事っちゃアあるもんでない。何だって優しくされて、それで嫌だというがあるものか。」 「まあさ、お聞きなね。深切だといえば深切だが、どちらかといえば執着《しつこ》いのだわ。かいつまんで話すがね、ちょいと聞賃をあげるから。」  と菓子皿を取出《とりいだ》して、盛りたる羊羹《ようかん》に楊枝《ようじ》を添え、 「一ツおあがり、いまお茶を入替えよう。」  と吸子の茶殻を、こぼしにあけ、 「芳ちゃんだから話すんだよ。誰にも言っちゃ不可《いけな》いよ。実は私の父親《おとっさん》は、中年から少し気が違ったようになって、とうとうそれでおなくなりなすったがね、親のことをいうようだけれど、母様《おっかさん》は少し了簡違《りょうけんちが》いをして、父親《おとっさん》が病気のあいだに、私には叔父さんだ、弟ごと関着《くッつ》いたの。  するとお祖父《じい》さんのお計らいで、私が乳《ち》放れをするとすぐに二人とも追出して、御自分で私を育てて、十三の時までお達者だったが、ああ、十四の春だった。中風《ちゅうぶ》でお悩みなすってから、動くことも出来なくおなりで、家《うち》は広し、四方は明地《あきち》で、穴のような処に住んでたもんだから、火事なんぞの心配はないのだけれど、盗賊《どろぼう》にでも入られたら、それこそどうすることもならないのよ。お金子《かね》も少々あったそうだし。  雇いの婆さんは居たけれど、耳は遠いし、そんなことの助けにゃならず、祖父《おじい》さんの看病も私一人では覚束《おぼつか》なし、確《たしか》な後見をといった処で、また後見なんていうものは、あとでよく間違が出来るものだから、それよりか、いっそ私に……というので、親類中で相談を極《き》めて、とうとうあてがったのが今の旦那なの。  その頃ちょうど高等中学校を卒業したので、ま、宅《うち》へ来てから、東京へ出て、大学へ入ろうという相談でね、もともと内の緊《しま》りにもなってもらわなきゃあならないというんでさ、わざッと年の違ったのを貰ったもんだから、旦那は二十九で、私は十四。」  お貞は今吸子に湯をばささんとして、鉄瓶に手を懸けたる、片手を指折りて数えみつ。 「十五の違《ちがい》だね。もっとも晩学だとかいうので、大抵なら二十五六で、学士になるのが多いってね。」 「無論さ。」  と少年は傾聴しながら喙《くち》を容《い》れたり。  お貞は煎茶を汲出《くみい》だして、まず少年に与えつつ、 「何だか知らないけれど、御婚礼をした時分は、嬉しくもなく、恐《こわ》くもなく、まるで夢中で、何とも思やしなかったが、実はおじいさんと二人ばかりで、他所《よそ》の人の居ない方が、御膳《ごぜん》を頂く時やなんか、私ゃ気が置けなくて可《よ》かったわ。  変に気が詰まって、他人《ひと》の内へ泊《とまり》にでも行ったようで、窮屈で、つまらなくッて、思ってみればその時分から旦那が嫌いだったかも知れないよ。でも大方甘やかされた癖で、我儘《わがまま》の方が勝ってたのであろうと思う。  そのうちお祖父さんも安心をなすったせいか、大層気分も好《よ》くなるし、いよいよ旦那が東京へたつというので、祝ってたたしたお酒の座で、ちっと飲《のみ》ようが多かったのがもとになってね、旦那が出発をしたそのおひるすぎに、お祖父|様《さん》は果敢《はか》なくおなりなすったのよ。私ゃもうその時は……」  とお貞は声をうるましたり。 [#7字下げ]五[#「五」は中見出し] 「それからというものは[#「いうものは」は底本では「いふものは」]、私はまるで気ぬけがしたようで、内の中でも一番薄暗い、三畳の室《ま》へ入っちゃあ、どういうものだかね、隅の方へちゃんと坐って、壁の方を向いて、しくしく泣くのが癖になってね、長い間治らなかったの。そうこうするうち児《こ》が出来たわ。  可笑《おかし》いじゃないかねえ。」  お貞は苦々しげに打笑みたり。 「妙なものがころがり出してしまってさ、翌年《あくるとし》の十月のことなのよ。」  と言懸けてお貞はもの案じ顔に見えたりしが、 「そうそう、芳ちゃん、まだその前《さき》にね、旦那がさ、東京へ行って三月めから、毎月々々一枚ずつ、月の朔日《ついたち》にはきっと写真を写してね、欠かさず私に送って寄来《よこ》すんだよ。まあ、御深切様じゃないかね。そのたんびに手紙がついてて、(いや今月は少し痩《や》せた)の、(今度は少し眼が悪い)の、(どうだ先月と合わしてみい、ちっとあ肥《ふと》って見えよう)なんて、言書《ことばがき》が着いてたわ。  私ゃお祖父さんのことばかり考えて、別に何にも良人《さき》の事は思わないもんだから、ちょいと見たばかりで、ずんずん葛籠《つづら》の裡《なか》へしまいこんで打棄《うっちゃ》っといたわ。すると、いつのことだッけか、何かの拍子、お友達にめっかってね、 (まあ! お貞さん、旦那様は飛んだ御深切なお方だねえ。)サ酷《ひど》く擽《くすぐ》ったもんだろうじゃあないかえ。  それもそのはずだね。写真の裏に一葉《ひとつ》々々、お墨附があってよ。年、月、日、西岡時彦|写之《これをうつす》、お貞殿へさ。  私もつい口惜《くやし》紛れに、(写真の儀はお見合せ下されたく、あまりあまり人につけても)ッさ。何があまりあまりだろう、可笑《おかし》いね。そういってやると、それッきりおやめになったが、十四五枚もあった写真を、また見られちゃあ困ると思ったがね、人にも遣《や》られず、焼くことも出来ずさ、仕方がないから、一|纏《まと》めにして、お持仏様の奥ン処へ容《い》れておいてよ。毎日拝んだから可いではないかね。」  先刻《さき》に干したる湯呑の中へ、吸子の茶の濃くなれるを、細く長くうつしこみて、ぐっと一口飲みたるが、あまり苦かりしにや湯をさしたり。  少年はただ黙して聞きぬ。  お貞は口をうるおして、 「児《こ》が出来る、もうそのしくしく泣いてばかりいる癖はなくなッて、小児《こども》にばかり気を取られて、他《ほか》に何にも考えることも、思うこともなくッて、ま、五歳《いつつ》六歳《むッつ》の時は知らず、そのしばらくの間ほど、苦労のなかった時はないよ。  すると、その夏の初《はじめ》の頃、戸外《おもて》にがらがらと腕車《くるま》が留《とま》って、入って来た男があったの。沓脱《くつぬぎ》に突立《つった》ってて、案内もしないから、寝かし着けていた坊やを置いて、私が上り口に出て行って、 (誰方《どなた》、)といって、ふいと見ると驚いたが、よくよく見ると旦那なのよ。旦那は旦那だが、見違えるほど瘠《や》せていて、ま、それも可いが妙な恰好《かっこう》さ。  大きな眼鏡のね、黒磨《くろずり》でもって、眉毛から眼へかけて、頬ッペたが半分隠れようという黒眼鏡を懸けて、希代さね、何のためだろう。それにあのそれ呼吸器とかいうものを口へ押着《おッつ》けてさ、おまけに鬚《ひげ》を生やしてるじゃあないか。それで高帽子《たかじゃっぽ》で、羽織がというと、縞《しま》の透綾《すきや》を黒に染返したのに、五三の何か縫着紋《ぬいつけもん》で、少し丈不足《たけたらず》というのを着て、お召が、阿波縮《あわちぢみ》で、浅葱《あさぎ》の唐縮緬《とうちりめん》の兵児帯《へこおび》を〆《し》めてたわ。  どうだい、芳さん、私も思わず知らず莞爾《にっこり》したよ、これは帰って[#「帰って」は底本では「帰つて」]来たのが嬉しいのより、いっそその恰好が可笑《おかし》かったせいなのよ。  病気で帰ったというこッたから、私も心配をして、看病をしたがね、胃病だというので、ちょいとは快《よ》くならない。一月も二月も、そうさ[#「そうさ」は底本では「さうさ」]、かれこれ三月ばかりもぶらぶらして、段々瘠せるもんだから、坊やは居るし、私もつい心細くなッて、そっと夜出掛けちゃあお百度を踏んだのよ。するとね、その事が分ったかして、 (お貞、そんなに吾《おれ》を治したいか)ッて、私の顔を瞻《みつ》めるからね。何の気なしで、(はい、あなたがよくなって下さいませねば、どうしましょう、私どもは路頭に立たなければなりません。)と真実《ほんとう》の処をいったのよ。  さあ怒ったの、怒らないのじゃあない。(それでは手前、活計《くらし》のために夫婦になったか。そんな水臭い奴とは知らなんだ。)と顔の色まで変えるから、私は弱ったの、何のじゃない、どうしようかと思ったわ。」 [#7字下げ]六[#「六」は中見出し] 「(なぜ一所に死ぬとは言ってくれない。愛情というものは、そんな淡々《あわあわ》しいものではない。)ッていうのさ。向うからそう出られちゃあ、こっちで何とも言いようが無いわ。  女郎や芸妓《げいしゃ》じゃあるまいしさ、そんな殺文句が謂《い》われるものかね。でも、旦那の怒りようがひどいので、まあ、さんざあやまってさ。坊やがかすがいで、まずそれッきりで治まったがね、私ゃその時、ああ、執念深い人だと思って、ぞッとして、それからというものは、何だか重荷を背負《しょ》ったようで、今でも肩身が狭いようなの。  あとでね、あのそら先刻《さっき》いった黒眼鏡ね、(烏蜻蛉《からすとんぼ》見たように、おかしいじゃアありませんか。)と、病気が治ってから聞いたことがあったよ。そうするとね、東京はからッ[#「からッ」に傍点]風で塵埃《ほこり》が酷《ひど》いから、眼を悪くせまいための砂除《すなよけ》だっていうの、勉強|盛《ざかり》なら洋燈《ランプ》をカッカと、ともして寝ない人さえあるんだのに、そう身体《からだ》ばかり庇《かば》ってちゃあ、何にも出来やしないと思ったけれど、まさかそんなことをいえたものでもなし、呼吸器も肺病の薬というので懸けるんだッて。それからね、その髯《ひげ》がまた妙なのさ。」  とお貞は少年の面《かお》を見て、 「衛生髯だとさ、おほほ。分るかえ? 芳さん。」 「何のこッた、衛生髯ッたって分らないよ。」 「それはね。」  となお微笑《ほほえ》みながら、 「こうなのよ。何でも人間の身体《からだ》に附属したものは、爪《つめ》であろうが、垢《あか》であろうが、要らないものは一つもないとね、その中でも往来の塵埃《ほこり》なんぞに、肺病の虫がまざって、鼻ンなかへ飛込むのを、髯がね、つまり玄関番見たようなもので、喰留めて入れないンだッさ。見得でも何でもないけれど、身体《からだ》のために生《はや》したと、そういったよ。だから衛生髯だわね。おほほほほ。」  お貞は片手を口にあてつ。少年も噴出《ふきい》だしぬ。 「いくら衛生のためだって、あの髯だけは廃止《よせ》ば可いなあ。まるで(ちょいとこさ)に肖《に》てるものを、髯があるからなおそっくりだ。」  お貞は眉を打顰《うちひそ》めて、 「嫌だよ、芳さんは。(ちょいとこさ)はあんまりだわ。でも(ちょいとこさ)と言えばこないだ、小橋の上で、あの(ちょいとこさ)の飴屋《あめや》に逢ったの。ちょうどその時だ。桜に中《ちゅう》の字の徽章《きしょう》の着いた学校の生徒が三人|連《づれ》で、向うから行《ゆ》き違って、一件を見ると声を揃えて、(やあ、西岡先生。)と大笑《おおわらい》をして行き過ぎたが、何のこった知らんと、当座は気が着かずに居たっけがね。何だとさ、学校じゃあ、皆《みんな》がもう良人《うちの》に、(ちょいとこさ)と謂う渾名《あだな》を附けて、蔭じゃあ、そうとほか言わないそうだよ。」  少年は頭《こうべ》を掉《ふ》れり。 「何の、蔭でいうくらいなら優しいけれど、髯がね、あの学校の雇《やとい》になって、はじめて教場へ出た時に、誰だっけか、(先生、先生の御姓名は?)と聞いたんだって。するとね、ちょうど、後《おく》れて溜《たまり》から入って来た、遠藤ッて、そら知ってるだろう。僕の処《とこ》へもよく遊びに来る、肩のあがった、武者修行のような男。」 「ああ、ああ、鉄扇でものをいう人かえ。」 「うむ、彼奴《あいつ》さ、彼奴がさ。髯の傍《そば》へずいと出て、席から名を尋ねた学生に向って、(おい、君、この先生か。この先生ならそうだ、名は⦅チョイトコサ⦆だ。)と謂ったので、組《クラス》一統がわッといって笑ッたって、里見がいつか話したっけ。」  お貞は溜《ため》いきをもらしたり。 「嫌になっちまう! じゃ、まるでのっけ[#「のっけ」に傍点]から安く踏まれて、馬鹿にされ切っていたんだね。」 「でもなかにゃああ見えても、なかなか学問が出来るんだって、そういってる者もあるんだ。何《なん》しろ、教場へ出て来ると、礼式もないで、突然《いきなり》、ボウルドに問題を書出して、 (何番、これを。)  といったきり椅子にかかッて、こう、少しうつむいて、肱《ひじ》をついて、黙っているッて。呼ばれた番号の奴は災難だ。大きに下稽古《したげいこ》なんかして行かなかろうものなら、面くらって、(先生私には出来ません。)といってみても返事をしない。そのままうっちゃっておくもんだから、しまいにゃあ泣声で、(私には出来ません、先生々々。)と呼ぶと、顔も動《うごか》さなけりゃ、見向きもしないで、(遣ってみるです。)というッきりで、取附《とりつく》島も何にもないと。それでも遣ってみても出来そうもない奴は、立ったり、居たり、ボウルドの前へ出ようとして中戻《ちゅうもどり》をしたり、愚図《ぐず》々々|迷《まご》ついてる間に、柝《たく》が鳴って、時間が済むと、先生はそのまんまでフイと行ってしまうんだッて。そんな時あ問題を一つ見たばかりで、一時間まる遊び。」 [#7字下げ]七[#「七」は中見出し] 「だから、西岡は何でも一方に超然として、考えていることがあるんだろう。えらい! という者もあるよ。」  お貞は「何の。」という顔色《かおつき》。 「考えてるッて、大方内のことばかり考えてて、何をしても手が附かないでいるんだろう。聞いて御覧、芳さんが来てからは、また考えようがいっそきびしいに相違《ちがい》ないから。何だって、またあの位、嫉妬《しっと》深い人もないもんだね。  前にも談《はな》した通り、旦那はね、病気で帰省をしてから、それなり大学へは行《ゆ》かないで、ただぶらぶらしていたもんだから、沢山《たんと》ないお金子《かね》も坐食《いぐい》の体《てい》でなくなるし、とうとう先《せん》に居た家《うち》を売って、去々年《おととし》ここの家へ引越したの。  それでもまあ方々から口があって、みんな相当で、悪くもなくって、中でも新潟県だった、師範学校のね芳さん、校長にされたのよ。校長は可《い》いけれど、私は何だか一所に居るのが嫌だから、金沢に残ることにして、旦那ばかり、任地《あっち》へ行くようにという相談をしたが不可《いけ》なくって、とうとう新潟くんだりまで、引張《ひっぱ》り出されたがね。どういうものか、嫌で、嫌で、片時も居たたまらなくッてよ。金沢へ帰りたい帰りたいで、例の持病で、気が滅入《めい》っちゃあ泣いてばかり。  旦那が学校から帰って来ても、出迎《でむかえ》もせず俯向《うつむ》いちゃあ泣いてるもんだから、 (ああ、またか。)となさけなそうに言っちゃあ、しおれて書斎へ入って行ったの。別につらあて[#「つらあて」に傍点]というンじゃあ決してなかったんだけれど、ほんとうに帰りたかったんだもの。  旦那もとうとう我《が》を折って(それじゃあ帰るが可い、)というお許しが出ると、直ぐに元気づいて、はきはきして、五日ばかり御膳も頂かれなかったものが、急に下婢《げじょ》を呼んで、(直ぐ腕車夫《くるまや》を見ておいで。)さ、それが夜の十時すぎだから恐しいじゃあないかえ。何だか狂人《きちがい》じみてるねえ。  旦那を残し、坊やはその時分|五歳《いつつ》でね、それを連れて金沢《こっち》へ帰ると、さっぱりしてその居心の可《よ》かったっちゃあない。坊もまた大変に喜んだのさ。  それがというと、坊やも乳児《ちのみ》の時から父親《おとっさん》にゃあちっとも馴染《なじ》まないで、少しものごころが着いて来ると、顔を見ちゃ泣出してね。草履を穿《は》いて、ちょこちょこ戸外《おもて》へ遊びに出るようになると、情《なさけ》ないじゃあないかえ。家《うち》へ入ろうとしちゃあ、いつでもさ。外戸《おもてど》の隙からそッと透見《すきみ》をして、小さな口で、(母様《かあちゃん》、父様《おとっちゃん》家に居るの?)と聞くんだよ。 (ああ。)と返事をすると、そのまま家へ入らないで、ものの欲《ほし》くなった時分でも、また遊びに行ってしまって、父様居ない、というと、いそいそ入って来ちゃあ、私が針仕事をしている肩へつかまって。」  と声に力を籠《こ》めたりけるが、追愛の情の堪え難かりけむ、ぶるぶると身を震わし、見る見る面の色激して、突然長火鉢の上に蔽《おお》われかかり、真白き雪の腕《かいな》もて、少年の頸《うなじ》を掻抱《かいいだ》き、 「こんな風に。」  とものぐるわしく、真面目《まじめ》になりたる少年を、惚々《ほれぼれ》と打《うち》まもり、 「私の顔を覗《のぞ》き込んじゃあ、(母様《おっかさん》)ッて、(母様)ッて呼んでよ。」  お貞は太《いた》く激しおれり。 「そうしてね、(父様《おとっちゃん》が居ないと可《い》いねえ。)ッて、いつでも、そう言ったわ。」  言懸けてうつむく時、弛《ゆる》き前髪の垂れけるにぞ、うるさげに掻上《かきあ》ぐるとて、ようやく少年にからみたる、その腕《かいな》を解《ほど》きけるが、なお渠《かれ》が手を握りつつ、 「そんな時ばかりじゃあないの。私が何かくさくさすると、可哀相に児《こども》にあたって、叱咤《ひッちか》ッて、押入へ入れておく。あとで旦那が留守になると、自分でそッと押入から出て来てね、そッと抜足かなんかで、私のそばへ寄って来ちゃあ、肩越に顔を覗《のぞ》いて、(母様《おっかちゃん》、父様が居ないと可いねえ)ッさ。五歳《いつつ》や六歳《むッつ》で死んで行く児《こ》は、ほんとうに賢いのね。女の児《こ》はまた格別情愛があるものだよ。だからもう世の中がつまらなくッて、つまらなくッて、仕様がなかったのを、児《こども》のせいで紛れていたがね、去年(じふてりや)で亡くなってからは、私ゃもう死んでしまいたくッて堪《たま》らなかったけれど、旦那が馬鹿におとなしくッて、かッと喧嘩することがないものだから、身投げに駈出《かけだ》す機《おり》がなくッて、ついぐずぐずで活《い》きてたが、芳ちゃん、お前に逢ってから、私ゃ死にたくなくなったよ。」  と、じっとその手をしめたるトタンに靴音高く戸を開けたり。 [#7字下げ]八[#「八」は中見出し]  お貞はいかに驚きしぞ、戸のあくともろともに器械のごとく刎《は》ね上りて、夢中に上り口に出迎《いでむか》えつ。蒼《あお》くなりて瞳を据えたる、沓脱《くつぬぎ》の処に立ちたるは、洋服|扮装《でたち》の紳士なり。頤《おとがい》細く、顔|円《まろ》く、大きさ過ぎたる鼻の下に、賤《いや》しげなる八字髭《はちじひげ》の上唇を蔽《おお》わんばかり、濃く茂れるを貯えたるが、面《かお》との配合を過《あやま》れり。眼《まなこ》はいと小さく、眦《まなじり》垂れて、あるかなきかを怪《あやし》むばかり、殊に眉毛の形乱れて、墨をなすりたるごとくなるに、額には幾条の深く刻める皺《しわ》あれば、実際よりは老けて見ゆべき、年紀《とし》は五十の前後ならむ、その顔に眼鏡を懸け、黒の高帽子を被《かぶ》りたるは、これぞ(ちょいとこさ)という動物にて、うわさせし人の影なりける。  良夫《おっと》と誤り、良夫と見て、胸は早鐘を撞《つ》くごとき、お貞はその良人ならざるに腹立ちけむ、面《おもて》を赤め、瞳を据えて、屹《き》とその面を瞻《みまも》りたる、来客は帽を脱して、恭《うやうや》しく一礼し、左手《ゆんで》に提《ひさ》げたる革鞄《かばん》の中《うち》より、小《ちいさ》き旗を取出《とりいだ》して、臆面もなくお貞の前に差出しつ。 「日本大勝利、万歳。」  と謂いたるのみ、顔の筋をも動かさで、(ちょいとこさ)は反身《そりみ》になり、澄し返りて控えたり。  渠がかくのごとくなす時は、二厘三厘思い思いに、その掌《たなそこ》に投げ遣るべき金沢市中の通者《とおりもの》となりおれる僥倖《ぎょうこう》なる漢《おのこ》なりき。 「ちょいとこ、ちょいとこ、ちょいとこさ。」  と渠は、もと異様なる節を附し両手を掉《ふ》りて躍りながら、数年来金沢市内三百余町に飴を売りつつ往来して、十万の人一般に、よくその面を認《みし》られたるが、征清《せいしん》のことありしより、渠は活計《たつき》の趣向を変えつ。すなわち先のごとくにして軒ごとを見舞いあるき、怜悧《れいり》に米塩《べいえん》の料を稼ぐなりけり。  渠は常にものいわず、極めて生真面目《きまじめ》にして、人のその笑えるをだに見しものもあらざれども、式《かた》のごとき白痴者なれば、侮慢《ぶまん》は常に嘲笑《ちょうしょう》となる、世に最も賤《いやし》まるる者は時としては滑稽《こっけい》の材となりて、金沢の人士《ひと》は一分時の笑《わらい》の代《しろ》にとて、渠に二三厘を払うなり。  お貞はようやく胸を撫《な》でて、冷《ひやや》かに旧《もと》の座に直りつ。代価は見てのお戻りなる、この滑稽劇を見物しながら、いまだ木戸銭を払わざるにぞ、(ちょいとこさ)は身動きだもせで、そのままそこに突立《つった》ちおれり。  ややありてお貞は心着きけむ、長火鉢の引出《ひきだし》を明けて、渠に与うべき小銭を探すに、少年は傍《かたわら》より、 「姉さん、湯銭のつりがあるよ、おい。」  と板敷に投出せば、(ちょいとこさ)は手に取りて、高帽子を冠《かぶ》ると斉《ひと》しく、威儀を正して出行《いでゆ》きたり。 [#7字下げ]九[#「九」は中見出し]  出行く(ちょいとこさ)を見送りて、二人は思わず眼を合しつ。 「なるほど肖《に》ているねえ。」  とお貞は推出《おしだ》すがごとくに言う。少年はそれには関せず。 「まあ、それからどうしたの?」  渠は聞くことに実の入《い》りけむ、語る人を促《うなが》せり。 「さあその新潟から帰った当座は、坊やも――名は環《たまき》といったよ――環も元気づいて、いそいそして、嬉しそうだし、私も日本晴《にっぽんばれ》がしたような心持で、病気も何にもあったもんじゃあないわ。野へ行《ゆ》く、山へ行くで、方々|外出《そとで》をしてね、大層気が浮いて可い心持。  出来るもんならいつまでも旦那が居ないで、環と二人ッきり暮したかったわ。  だがねえ、芳さん、浮世はままにならないものとは詮じ詰めたことを言ったんだね。二三度旦那から手紙を寄越《よこ》して、(奉公人ばかりじゃ、緊《しまり》が出来ない、病気が快《よ》くなったら直ぐ来てくれ。)と頼むようにいって来ても、何《なん》の、彼《か》のッて、行かないもんだから、お聞きよ、まあ、どうだろうね。行ってから三月も経《た》たない内に、辞職をして帰って来て、(なるほどお前なんざ、とても住めない、新潟は水が悪い)ッさ。まあ!  するとまた環がね、どういうものか、はきはきしない、嫌にいじけッちまって、悪く人の顔色を見て、私の十四五の時見たように、隅の方へ引込《ひっこ》んじゃあ、うじうじするから、私もつい気が滅入《めい》って、癇癪《かんしゃく》が起るたんびに、罪もないものを……」  と涙を浮《うか》め、お貞はがッくり俯向《うつむ》きたり。 「その癖、旦那は、環々ッて、まあ、どんなに可愛がったろう。頭へ手なんざ思いも寄らない、睨《にら》める真似をしたこともなかったのに、かえって私の方が癇癪を起しちゃ、(母様《おっかちゃん》)と傍《そば》へ来るのを、 (ええ、も、うるさいねえ、)といって突飛ばしてやると、旦那が、(咎《とが》もないものをなぜそんなことをする)てッて、私を叱るとね、(母様を叱っては嫌よ、御免なさい御免なさい)と庇《かば》ってくれるの。そうして、(あんな母様《おっかさん》は不可《いけない》のう、ここへ来い)と旦那が手でも引こうもんなら、それこそ大変、わッといって泣出したの。 (あ、あ、)と旦那が大息をして、ふいと戸外《おもて》へ出てしまうと、後で、そっと私の顔を見ちゃあ、さもさもどうも懐しそうに、莞爾《にっこり》と笑う。そのまた愛くるしさッちゃあない。私も思わず莞爾して、引ッたくるように膝へのせて、しっかり抱《だき》しめて頬をおッつけると、嬉しそうに笑ッちゃあ、(父様《おとっちゃん》が居ないと可い)と、それまたお株を言うじゃあないかえ。  だもんだから、つい私もね、何だか旦那が嫌になったわ。でも或時《いつか》、 (お貞、吾《おれ》も環にゃ血を分けたもんだがなあ。)とさも情《なさけ》なそうに言ったのには、私も堪《たま》らなく気の毒だったよ。  前世の敵《かたき》同士ででもあったものか、芳さん、環がじふてりやでなくなる時も、私がやる水は、かぶりつくようにして飲みながら、旦那が薬を飲ませようとすると、ついと横を向いて、頭《かぶり》を掉《ふ》って、私にしがみついて、懐へ顔をかくして、いやいやをしたもんだから、ついぞ荒い言《こと》をいったこともない旦那が、何と思ったか血相を変えて、 (不孝者!)といって、握拳《にぎりこぶし》で突然《いきなり》環をぶとうとしたから、私も屹《きっ》となって、片膝立てて、 (何をするんです!)と摺寄《すりよ》ったわ。その時の形相の凄《すさま》じさは、ま、どの位であったろうと、自分でも思い遣られるよ。言憎《いいにく》いことだけれど、真実《ほんとう》にもう旦那を喰殺してやりたかったわね。今でも旦那を環の敵《かたき》だと思うもの。あの父親さえ居なけりゃ、何だって環が死ぬものかね、死にゃあしないわ、私ばかりの児《こ》だったら。」  お貞はしばらく黙したりき。ややあり思出したらんかのごとく、 「旦那はそのまま崩折《くずお》れて、男泣きに泣いたわね。  私ゃもう泣くことも忘れたようだった。ええ、芳さん、環がなくなってから、また二三度も方々へいい役に着いたけれども、金沢なら可いが、みんな遠所《とおく》なので、私はどういうものか遠所へ行くとしきりに金沢が恋しくなッて、帰りたい帰りたい一心でね、済まないことだとは思ってみても、我慢がし切れないのを、無理に堪《こた》えると、持病が起って、わけもないことに泣きたくなったり、飛んだことに腹が立ったりして、まるで夢中になるもんだから、仕方なしに帰って来ると、旦那も後からまた帰る、何でも私をば一人で手放しておく訳にゃゆかないと見えて、始終一所に居たがるわ。  だもんだからどこも良《い》い処には行かれないで、金沢じゃ、あんなつまらない学校へ、腰弁当というしがない役よ。」  と一人冷かに笑うたり。 [#7字下げ]十[#「十」は中見出し] 「何もそんなに気を揉《も》まなくッても、よさそうなものを。旦那はね、まるで留守のことが気に懸《かか》るために出世が出来ないのだ、といっても可いわ。  そんなに私を思ってくれるもんだから、夜遊《よあそび》はせず、ほんのこッたよ、夫婦になってから以来《このかた》、一晩も宅《うち》を明けたことなしさ。学校がひければ、ちゃんともう、道寄もしないで帰って来る。もっとも無口の人だから、口じゃ何ともいわないけれど、いつもむずかしい顔を見せたことはなし、地体がくすぶった何《なん》しろ、(ちょいとこさ)というのだもの。それだが、眼が小さいからちったああれでも愛嬌《あいきょう》があるよ。荒い口をきいたことなし、すりゃ私だって、嫌だ、嫌だとはいうものの、どこがといっちゃあ返事が出来ない。けれども嫌だから仕様がないわ。  それだから私も、なに言うことに逆らわず、良人はやっぱり良人だから、嫌だっても良人だから、良人のように謹んで事《つか》えているもの。そう疑ぐるには及ばないじゃあないかね。芳さん、芳さんの姉様《ねえさん》がひどくされたようでも困るけれど、男はちったあ男らしく、たまには出歩行《であるき》でもしないとね、男に意気地《いくじ》がないようで、女房の方でも頼母《たのも》しくなくなるのよ。  それを旦那と来た日にゃあ、ちょいとの間でも家《うち》に居て、私の番をしていたがるんだわ。それも私が行届かないせいだろうと、気を着けちゃあいるし、それにもう私は旦那の犠牲《いけにえ》だとあきらめてる。分らないながらも女の道なんてことも聞いてるから、浮気らしい真似もしないけれど、芳さん、あの人の弱点《よわみ》だね。それがために出世も出来ないなんといった日にゃ、私ゃいっそ可哀相だよ。あわれだよ。  何の密夫《まおとこ》の七人ぐらい、疾《とっ》くに出来ないじゃあなかったが……」  といいかけしがお貞はみずからその言過しを恥じたる色あり。 「これは話さ。」  と口軽に言消して、 「何も見張っていたからって、しようのあるもんじゃあないわね。」  お貞は面《おもて》晴々しく、しおれし姿きりりとなりて、その音調も気競《きお》いたり。 「しかしね、芳さん、世の中は何という無理なものだろう。ただ式三献《おさかずき》をしたばかりで、夫だの、妻だのッて、妙なものが出来上ってさ。女の身体《からだ》はまるで男のものになって、何をいわれてもはいはいッて、従わないと、イヤ、不貞腐《ふてくされ》だの、女の道を知らないのと、世間でいろんなことをいうよ。  折角お祖父さんが御丹精で、人並に育ったものを、ただで我ものにしてしまって、誰も難有《ありがた》がりもしないじゃないか。  それでいて婦人《おんな》はいつも下手《したで》に就いて、無理も御道理《ごもっとも》にして通さねばならないという、そんな勘定に合わないことッちゃあ、あるもんじゃない。どこかへ行こうといったって、良人がならないといえば、はい、起《た》てといえば、はい、寝ろといわれりゃそれも、はい、だわ。  人間一|人《にん》を縦にしようが、横にしようが、自分の好《すき》なままにしておきながら、まだ不足で、たとえば芳さんと談話《はなし》をすることはならぬといわれりゃ、やっぱり快く落着いて談話も出来ないだろうじゃないかね。  一体操を守れだの、良人に従えだのという、捉《おきて》かなんか知らないが、そういったようなことを極《き》めたのは、誰だと、まあ、お思いだえ。  一遍婚礼をすりゃ疵者《きずもの》だの、離縁《さられ》るのは女の恥だのッて、人の身体《からだ》を自由にさせないで、死ぬよりつらい思いをしても、一生嫌な者の傍《そば》についてなくッちゃあならないというのは、どういう理窟だろう、わからないじゃないかね。  まさか神様や、仏様のおつげ[#「おつげ」に傍点]があったという訳でもあるまいがね。もともと人間がそういうことを拵《こしら》えたのなら、誰だって同一《おんなじ》人間だもの、何|密夫《まおとこ》をしても可い、駈落《かけおち》をしても可いと、言出した処で、それが通って、世間がみんなそうなれば、かえって貞女だの、節婦だの、というものが、爪《つま》はじきをされようも知れないわ。  旦那は、また、何の徳があって、私を自由にするんだろう。すっかり自分のものにしてしまって、私の身体《からだ》を縛ったろうね。食べさしておくせいだといえば、私ゃ一人で針仕事をしても、くらしかねることもないわ。ねえ、芳さん、芳さんてばさ。」  少年は太《いた》くこの答に窮して、一言もなく聞きたりけり。 [#7字下げ]十一[#「十一」は中見出し]  お貞はなおも語勢強く、 「ほんとに虫のいい談話《はなし》じゃないかね、それとも私の方から、良人になッて下さいって、頼んで良人にしたものなら、そりゃどんなことでも我慢が出来るし、ちっとも不足のあるもんじゃあないが、私と旦那なんざ、え、芳さん、夫にした妻ではなくッて、妻にした良人だものを。何も私が小さくなッて、いうことを肯《き》いて縮んでいる義理もなし、操を立てるにも及ばないじゃあないか。  芳さんとだってそうだわ。何もなかをよくしたからとッて、不思議なことはないじゃあないかね。こないだ騒ぎが持上って、芳さんがソレ駈出《かけだ》した、あの時でも、旦那がいろいろむずかしくいうからね、(はい、芳さんとは姉弟分《きょうだいぶん》になりました。どういう縁だか知らないけれど、私が銀杏返《いちょうがえし》に結っていますと、亡なった姉様《ねえさん》に肖《に》てるッて、あの児も大層姉おもいだと見えまして、姉様々々ッて慕ってくれますもんですから、私もつい可愛くなります。)と無理だとは言われないつもりで言ったけれど、(他人で、姉弟というがあるものか)ッて、真底から了簡《りょうけん》しないの。傍《そば》に居た伯父さんも、伯母さんも、やっぱりおんなじようなことを言って、(ふむ、そんなことで世の中が通るものか。言ようもあろうのに、ナニ姉弟分だ。)とこうさ。口惜《くや》しいじゃあないかねえ。芳さん、たとい芳さんを抱いて寝たからたッて、二人さえ潔白なら、それで可いじゃあないか、旦那が何と言ったって、私ゃちっとも構やしないわ。」  お貞はかく謂えりしまで、血色勝れて、元気よく、いと心強く見えたりしが、急に語調の打沈みて、 「しかしこうはいうものの、芳さん世の中というものがね、それじゃあ合点《がってん》しないとさ。たとい芳さんと私とが、どんなに潔白であッたからっても、世間じゃそうとは思ってくれず、(へん、腹合せの姉弟だ。)と一万石に極《きめ》っちまう! 旦那が悪いというでもなく、私と芳さんが悪いのでもなく、ただ悪いのは世間だよ。  どんなに二人が潔白で、心は雪のように清くッてもね、泥足で踏みにじって、世間で汚くしてしまうんだわ。  雪といえば御覧な、冬になって雪が降ると、ここの家《うち》なんざ、裏の地面が畠《はたけ》だからね、木戸があかなくッて困るんだよ。理窟を言えば同一《おんなじ》で、垣根にあるだけの雪ならば、無理に推せば開《あ》くけれど、ずッとむこうの畠から一面に降りつづいて、その力が同一《ひとつ》になって、表からおすのだもの。どうして、何といわれても、世間にゃあ口が開《あ》かないのよ。  男の腕なら知らないこと、女なんざそれを無理にこじあけようとすると、呼吸切《いきぎれ》がしてしまうの。でも芳さんは士官になるというから、今に大将にでもおなりの時は、その力でいくらも世間を負かしてしまって、何にも言わさないように出来もしようけれど、今といっちゃあたッた二人で、どうすることもならないのよ。  それとも神様や仏様が、私だちの手伝をして、力を添えて下さりゃ可いけれど、そんな願《ねがい》はかなわないわね。  婆々《ばばあ》じみるッて芳さんはお笑いだが、芳さんなぞはその思遣《おもいやり》があるまいけれど、可愛《かわゆ》い児でも亡くして御覧、そりゃおのずと後生《ごしょう》のことも思われるよ。  あれは、えらい僧正だって、旦那の勧める説教を聞きはじめてから、方々へ参詣《まい》ったり、教《おしえ》を聞いたりするんだがね。なるほどと思うことばかり、それでも世の中に逆らッて、それで、御利益があるッてことは、ちっとも聞かしちゃあくれないものを。  戸を推《お》ッつけてる雪のような、力の強い世の中に逆らって行《ゆ》こうとすると、そりゃ弱い方が殺されッちまうわ。そうすりゃもう死ぬより他《ほか》はないじゃないかね。  私ももうもう死んでしまいたいと思うけれど、それがまたそうも行《ゆ》かないものだし、このごろじゃ芳さんという可愛いものが出来たからね、私ゃ死ぬことは嫌になったわ。ほんとうさ! 自分の児が可愛いとか、芳さんとこうやって談話《はなし》をするのが嬉しいとか、何でも楽《たのし》みなことさえありゃ、たとい辛くッても、我慢が出来るよ。どうせ、私は意気地なしで、世間に負けているからね、そりゃ旦那は大事にもする、病気《やまい》が出るほど嫌な人でも、世間《よのなか》にゃ勝たれないから、たとい旦那が思い切って、縁を切ろうといってもね、どんな腹いせでも旦那にさせて、私ゃ、あやまって出て行《ゆ》かない。」  と歯をくいしめてすすり泣きつ。 [#7字下げ]十二[#「十二」は中見出し]  お貞は幾年来独り思い、独り悩みて、鬱積《うっせき》せる胸中の煩悶《はんもん》の、その一片をだにかつて洩《もら》せしことあらざりしを、いま打明くることなれば、順序も、次第も前後して、乱れ且つ整わざるにも心着かで、再び語り続けたり。 「いっちゃ女の愚痴だがね。私はさっきいったように、世の中というものがあって、自分ばかりじゃないからと、断念《あきら》めて、旦那に事《つか》えてはいるけれど、一日に幾度となく、もうふツふツ嫌になることがあるわ。  芳さんも知っておいでだ。ついこないだのことだっけ、晩方旦那の友達が来たので、私もその日は朝ッから、塩梅《あんばい》が悪くッて、奥の室《ま》に寝ていた処へ、推懸《おしか》けたもんだから、外に別に部屋はなし、ここへ出て坐っていたの。  お客がまた私の大嫌《だいきらい》な人で、旦那とは合口《あいくち》だもんだから、愉快《おもしろ》そうに[#「愉快《おもしろ》そうに」は底本では「愉快《おもしろ》さうに」]話してたッけが、私は頭痛がしていた処へ、その声を聞くとなお塩梅が悪くなって、胸は痛む、横腹《よこッぱら》は筋張るね、おいおい薄暗くはなって来る。暑いというので燈火《あかり》はつけずさ。陰気になって、いろんなことを考え出して、つい堪《たま》らなくなったから、横になろうと思っても、直ぐ背後《うしろ》に居るんだもの、立膝《たてひざ》も出来ないから、台所へ行って板の間にでもと思ったが、あすこにゃ蚊《か》が酷《ひど》いし、仕方がないから戸外《おもて》へ出て、軒下にしゃがんで泣いてた処へ、ちょうどお前さんが来ておくれで、二階へ来いとおいいだから、そっと上ると、まあ、おとしよりが御深切に、胸を押して下すったので、私ゃもう難有《ありがた》くッて、嬉しくッて、心じゃ手を合せて拝んだわ。  おかげでやっと胸が開きそうになって、ほっと呼吸《いき》をついた処へ、 (貞はそこに参っておりましょうな。)と、壇階子《だんばしご》の下へ来て、わざわざ旦那が呼んだじゃあないかね。  私ゃあんまりくさくさしたから、返事もしないで黙っていると、おばあさんがお聞きつけなすッて、 (階下《した》へおいで、ね、ね、そうしないと悪い)ッて、みんなもうちゃんと推量して、やさしく言って下さるんだもの。 (ここに居とうございます!)と、おばあ様《さん》の膝に縋《すが》りついたの。  下ではなお呼ぶもんだから、おばあさんが私のかわりに返事をなすって、 (可いから、可いから。)と、低声《こごえ》でおっしゃってね、背《せなか》を撫でて下さるもんだから、仕方なしに下りて行くと、お客はもう帰っていてね、嫌な眼で睨《にら》まれたよ。  空いてる室《ま》がないもんだから、そういう時には困っちまう。アレ悪く取っちゃあ困るわね。  何も芳さんに二階を貸しておいて、こういっちゃあわるいけれど、はじめッからこの家《うち》は嫌いなの。  水は悪いし、流元《ながしもと》なんざ湿地で、いつでもじくじくして、心持が悪いっちゃあない。雪どけの時分《ころ》になると、庭が一杯水になるわ。それから春から夏へかけては李《すもも》の樹が、毛虫で一杯。  それに宅中《うちじゅう》陰気でね、明けておくと往来から奥の室《ま》まで見透《みとお》しだし、ここいら場末だもんだから、いや、あすこの宅はどうしたの、こうしたのと、近所中で眼を着けて、晩のお菜まで知ってるじゃあないかね。大嫌な猫がまた五六疋、野良猫が多いので、のそのそ入って、ずうずうしく上り込んで、追ってもにげるような優しいんじゃない。  隣の小猫はまた小猫で、それ井戸は隣と二軒で使うもんだから、あすこの隔《へだて》から入って来ちゃあ、畳でも、板の間でも、ニャアニャア鳴いて歩行《ある》くわ。  隣の猫のこッたから、あのまた女房《おかみ》が大抵じゃないのだからね、(家《うち》の猫を)なんて言われるが嫌さに、打《ぶ》つわけにはもとよりゆかず、二三度干物でも遣ったものなら、可いことにして、まつわって、からむも可いけれど、芳さん、ありゃ猫の疱瘡《ほうそう》とでもいうのかしら。からだじゅう一杯のできもの[#「できもの」に傍点]で、一々|膿《うみ》をもって、まるで、毛が抜けて、肉があらわれてね、汚なくって手もつけられないよ。それがさ、昨夜《ゆうべ》も蚊帳《かや》の中へ入込んで、寝ていた足をなめたのよ。何の因果だか、もうもう猫にまで取着《とッつ》かれる。」  と投ぐるがごとく言いすてつ。苦笑《にがわらい》して呟《つぶや》きたり。 「ほんとうに泣《なく》より笑《わらい》だねえ。」 [#7字下げ]十三[#「十三」は中見出し]  お貞の言《ことば》途絶えたる時、先刻《さっき》より一言《ひとこと》も、ものいわで渠《かれ》が物語を味いつつ、是非の分別にさまよえりしごとき芳之助の、何思いけん呵々《からから》と笑い出して、 「ははは、姉様《ねえさん》は陰弁慶だ。」  お貞は意外なる顔色《かおつき》にて、 「芳さん、何が陰弁慶だね。」 「だってそんなに決心をしていながら、一体僕の分らないというのはね、人ががらりと戸を明けると、眼に着くほどびっくりして、どきり! する様子が確《たしか》に見えるのは、どういうものだろう。髯《ひげ》の留守に僕と談話《はなし》でもしている処へ唐突《だしぬけ》に戸外《おもて》があけば、いま姉様がいった世間《よのなか》の何とかで、吃驚《びっくり》しないにも限らないが、こうしてみるに、なにもその時にゃ限らないようだ。いつでもそうだから可笑《おかし》いじゃないか。それに姉様のは口でいうと反対で、髯の前じゃおどおどして、何だか無暗《むやみ》に小さくなって、一言ものをいわれても、はッと呼吸《いき》のつまるように、おびえ切っている癖に。今僕に話すようじゃ、酸いも、甘いも、知っていて、旦那を三銭《さんもん》とも思ってやしない。僕が二厘の湯銭の剰銭《つり》で、(ちょいとこさ)を追返したよりは、なお酷《ひど》く安くしてるんだ。その癖、世間じゃ、(西村の奥様は感心だ。今時の人のようでない。まるで嫁にきたて[#「きたて」に傍点]のように、旦那様を大事にする。婦人《おんな》はああ行《ゆ》かなければ嘘だ。貞女の鑑《かがみ》だ。しかし西村には惜《おし》いものだ。)なんとそう言ってるぞ。そうすりゃ世間も恐しくはなかろうに、何だって、あんなにびくびくするのかなあ。だから姉様は陰弁慶だ。」  と罪もなくけなし[#「けなし」に傍点]たるを、お貞は聞きつつ微笑《ほほえ》みたりしが、ふと立ちて店に出《い》で行《ゆ》き、往来の左右を視《なが》め、旧《もと》の座に帰りて四辺《あたり》を眗《みまわ》し、また板敷に伸上りて、裏庭より勝手などを、巨細《こさい》に見て座に就きつ。 「それはね、芳さん、こうなのよ。」  という声もハヤふるえたり。 「芳さんだと思って話すのだから、そう思ッて聞いておくれ。  私はね、可いかい。そのつもりで聞いておくれ。私はね、いつごろからという確《たしか》なことは知らないけれど、いろんな事が重《かさな》り重りしてね、旦那が、旦那が、どうにかして。  死んでくれりゃいい。死んでくれりゃいい。死ねばいい。死ねばいい。  とそう思うようになったんだよ。ああ、罪の深い、呪詛《のろ》うのも同一《おんなじ》だ。親の敵《かたき》ででもあることか、人並より私を思ってくれるものを、(死んでくれりゃいい)と思うのは、どうした心得違いだろうと、自分で自分を叱ってみても、やっぱりどうしてもそう思うの。  その念《おもい》が段々|嵩《こう》じて、朝から晩まで、寝てからも同一《おんなじ》ことを考えてて、どうしてもその了簡《りょうけん》がなおらないで、後暗いことはないけれど、何《なん》に着け、彼《か》に着け、ちょっとの間もその念《おもい》が離れやしない。始終そればかりが気にかかって、何をしても手に着かないしね、じっと考えこんでいる時なんざ、なおのこと、何にも思わないでその事ばかり。ああ、人の妻の身で、何たる恐しい了簡だろうと、心の鬼に責められちゃあ、片時も気がやすまらないで、始終胸がどきどきする。  それがというと、私の胸にあることを、人に見付かりやしまいかと、そう思うから恐怖《こわい》んだよ。  わけても、旦那に顔を見られるたびに、あの眼が、何だか腹の中まで見透《みすか》すようで、おどおどしずにゃいられない。(貞)ッて一声呼ばれると、直ぐその、あとの句が、(お前、吾《おれ》の死ぬのが待遠いだろう。)とこう来るだろうと思うから、はッとしないじゃいられないわね。それで何ぞ外のことを言われると、ほッと気が休まって、その嬉しさっちゃないもんだから、用でも、何でも、いそいそする。  それにこうやって、ここへ坐って、一人でものを考えてる時は、頭の中で、ぐるぐるぐるぐる、(死ねば可い)という、鬼か、蛇《じゃ》か、何ともいわれない可恐《こわい》ものが、私の眼にも見えるように、眼前《めさき》に駈《かけ》まわっているもんだから、自分ながら恐しくッて、観音様を念じているの。そこへがらりと戸を開けられちゃあ、どうして慌てずにいられよう。(ああ、めッかった。)と、もう死んだ気になっちまう!  それが心配で、心配で、どうぞして忘れたいと思うから、けもないことにわあわあ騒いだり、笑ったり、他所《よそ》めには、さも面白そうに見えようけれど、自分じゃ泣きたいよ。あとではなおさら気がめいッて、ただしょんぼりと考え込むと、また、いつもの(死ねばいい)が見えるようなの。  恐しくッてたまらないから、どうぞこの念がなくなりますようにと、観音様に願っても、罪が深いせいなのか、段々強くなるばかり。  気のせいか知らないけれど、旦那は日に日に血色が悪くなって、次第に弱って行く様子、こりゃ思いが届くのかと考えると、私ゃもう居ても起《た》っても堪《たま》らない。  だから旦那が煩いでもすると、ハッと思って、こりゃどうでも治さないと、私が呪詛《のろい》殺すのだと、もうもうさほどでもない病気でも、夜《よ》の目も寝ないで介抱するが、お医者様のお薬でも、私の手から飲ませると、かえって毒になるようで、何でも半日ばかりの間は、今にも薬の毒がまわって、血でも吐きやしないかしらと、どうしてその間の心配というものは! でもそれでもやっぱり考えることといったら、ちっとも違《ちがい》はない、(死ねば可い。)で、早くなおって欲しいのは、実は(死ねば可い。)と思うからだよ。  ねえ、芳さん分ったろう。もう胸が一杯で、口も利かれやしないから、後生だ、推量しておくれ。も、私ゃ、私はもう芳さんどうしたら可いんだねえ。」  と身を震わしたるいじらしさ!  お貞がこの衷情《ちゅうじょう》に、少年は太《いた》く動かされつ。思わず暗涙《なみだ》を催したり。 「ああ姉様は可哀そうだねえ。僕が、僕が、僕が、どうかしてあげようから、姉さん死んじゃあ不可《いけな》いよ。」  お貞は聞きて嬉しげに少年の手をじっと取りて、 「嬉しいねえ。何の自害なんかするもんかね、世間と、旦那として私をこんなにいじめるもの。いじめ殺されて負けちゃ卑怯《ひきょう》よ。意気地が無いわ。可いよ、そんな心配は要らないよ。私ゃ面《つら》あてにでも、活《い》きている。たといこの上幾十倍のつらい悲しいことがあっても、きっと堪《こら》えて死にゃあしないわ。と心強くはいってみても、死なれないのが因果なのだねえ。」  ほろりとして見る少年の眼にも涙を湛《たた》えたり。時に二階より老女の声。 「芳や、帰ったの。」 「あれ、おばあさんが。」 「はい、唯今《ただいま》。」 [#7字下げ]十四[#「十四」は中見出し]  二段ばかり少年は壇階子《だんばしご》を昇り懸けて、と顧みて驚きぬ。時彦は帰宅して、はや上口《あがりぐち》の処に立てり。  我が座を立ちしと同時ならむ。と思うも見るもまたたくま、さそくの機転、下を覗《のぞ》きて、 「もう、奥様《おくさん》、何時《なんどき》です。」 「は。」  とお貞は起《た》ちたるが、不意に顛倒《てんどう》して、起ちつ、居つ。うろうろ四辺《あたり》を見廻す間《ひま》に、時彦は土間に立ちたるまま、粛然として帯の間より、懐中時計を取出《とりいだ》し、丁寧に打視《うちなが》めて、少年を仰ぎ見んともせず、 「五十九分前六時です。」 「憚様《はばかりさま》。」  と少年は跫音《あしおと》高く二階に上れり。  時彦は時計を納めつ。立ちも上らず、坐りも果てざる、妻に向《むか》いて、沈める音調、 「貞、床を取ってくれ、気分が悪いじゃ。貞、床をとってくれ、気分が悪いじゃ。」  面《おもて》は死灰のごとくなりき。 [#7字下げ]十五[#「十五」は中見出し]  時彦はその時よりまた起《た》たず、肺結核の患者は夏を過ぎて病勢募り、秋の末つ方に到りては、恢復《かいふく》の望《のぞみ》絶果てぬ。その間お貞が尽したる看護の深切は、実際隣人を動かすに足るものなりき。  渠《かれ》は良人の容体の危篤に陥りしより、ほとんど一月ばかりの間帯を解きて寝しことあらず、分けてこのごろに到りては、一七日《いちしちにち》いまだかつて瞼《まぶた》を合さず、渠は茶を断ちて神に祈れり。塩を断ちて仏に請えり。しかれども時彦を嫌悪の極、その死の速《すみや》かならんことを欲する念は、良人に薬を勧むる時も、その疼痛《とうつう》の局部を擦《さす》る隙《ひま》も、須臾《しゅゆ》も念頭を去りやらず。甚しいかなその念の深く刻めるや、おのが幾年の寿命を縮め、身をもて神仏の贄《にえ》に供えて、合掌し、瞑目《めいもく》して、良人の本復を祈る時も、その死を欲するの念は依然として信仰の霊を妨げたり。  良人の衰弱は日に著《しる》けきに、こは皆おのが一念よりぞと、深更四隣静まりて、天地沈々、病者のために洋燈《ランプ》を廃して行燈《あんどん》にかえたる影暗く、隙間《すきま》もる風もあらざるにぞ、そよとも動かぬ灯影《ほかげ》にすかして、その寂《じゃく》たること死せるがごとき、病者の面をそと視《なが》めて、お貞は顔を背けつつ、頤《おとがい》深く襟に埋《うず》めば、時彦の死を欲する念、ここぞと熾《さかん》に燃立ちて、ほとんど我を制するあたわず。そがなすままに委《まか》しおけば、奇異なる幻影|眼前《めさき》にちらつき、␼《ぱっ》と火花の散るごとく、良人の膚《はだ》を犯すごとに、太く絶え、細く続き、長く幽《かす》けき呻吟声《うめきごえ》の、お貞の耳を貫くにぞ、あれよあれよとばかりに自ら恐れ、自ら悼《いた》み、且つ泣き、且つ怒《いか》り、且つ悔いて、ほとんどその身を忘るる時、 「お貞。」  と一声《ひとこえ》、時彦は、鬱《うつ》し沈める音調もて、枕も上げで名を呼びぬ。  この一声を聞くとともに、一桶《ひとおけ》の氷を浴びたるごとく、全身の血は冷却して、お貞は、 「はい。」  と戦《おのの》きたり。  時彦はいともの静《しずか》に、 「お前、このごろから茶を断ッたな。」 「いえ、何も貴下《あなた》、そんなことを。」  と幽かにいいて胸を圧《おさ》えぬ。  時彦は頤《おとがい》のあたりまで、夜着の襟深く、仰向《あおむけ》に枕して、眼細《まぼそ》く天井を仰ぎながら、 「塩断《しおだち》もしてるようだ。一昨日《おととい》あたりから飯も食べないが、一体どういう了簡《りょうけん》じゃ。」 (貴下を直したいために)といわんは、渠の良心の許さざりけむ、差俯向《さしうつむ》きてお貞は黙しぬ。 「あかりが暗い、掻立《かきた》てるが可い。お前が酷《ひど》く瘠《や》せッこけて、そうしょんぼりとしてる処は、どう見ても幽霊のようじゃ、行燈が暗いせいだろう。な。」 「はい。」  お貞は、深夜幽霊の名を聞きて、ちりけもとより寒さを感じつ。身震いしながら、少しく居寄りて、燈心の火を掻立てたり。 「そんなに身体《からだ》を弱らせてどうしようという了簡なんか。うむ、お貞。」  根深く問うに包みおおせず、お貞はいとも小さき声にて、 「よく御存じでございます。」 「むむ、お前のすることは一々|吾《おり》ゃ知っとるぞ。」 「え。」  とお貞はずり退《さが》りぬ。 「茶断《ちゃだち》、塩断《しおだち》までしてくれるのに、吾《おれ》はなぜ早く死なんのかな。」  お貞は聞きて興覚顔《きょうざめがお》なり。  時彦の語気は落着けり。 「疾《はや》く死ねば可いと思うておって、なぜそんな真似をするんだな。」  と声に笑いを含めて謂《い》えり。お貞はほとんど狂せんとせり。  病者はなおも和《やわら》かに、 「何、そう驚くにゃ及ばない。昨日今日にはじまったことではないが、お貞、お前は思ったより遥《はるか》に恐しい女だな。あれは憎い、憎い奴だから殺したいということなら、吾《おれ》も了簡のしようがあるが、(死んでくれりゃ可い。)は実に残酷だ。人を殺せば自分も死なねばならぬというまず世の中に定規《さだめ》があるから、我身《わがみ》を投出して、つまり自分が死んでかかって、そうしてその憎い奴を殺すのじゃ。誰一人|生命《いのち》を惜《おし》まぬものはない、活きていたいというのが人間第一の目的じゃから、その生命《いのち》を打棄ててかかるものは、もう望《のぞみ》を絶ったもので、こりゃ、隣《あわれ》むべきものである。  お前のはそうじゃあない。(死んでくれりゃ可い)と思うので、つまり精神的に人を殺して、何の報《むくい》も受けないで、白日青天、嫌な者が自分の思いで死んでしまった後《あと》は、それこそ自由自在の身じゃでの、仕たい三昧《ざんまい》、一人で勝手に栄耀《えよう》をして、世を愉快《おもしろ》く送ろうとか、好《すき》な芳之助と好《い》いことをしようとか、怪《け》しからんことを思うている、つまり希望というものがお前にあるのだ。  人の死ぬのを祈りながら、あとあとの楽《たのし》みを思うている、そんな太い奴があるもんか。  吾《おれ》はきっと許さんぞ。  そうそう好《すき》なまねをお前にされて、吾も男だ、指を啣《くわ》えて死にはしない。  といつも思っていたんだが、もうこの肺病には勝たれない、いや、つまり、お前に負けたのだ。  してみれば、お貞、お前が呪詛《のろい》殺すんだと、吾がそう思っても、仕方があるまい。  吾はどのみち助からないと、初手ッから断念《あきら》めてるが、お貞、お前の望が叶《かの》うて、後で天下|晴《ばれ》に楽《たのし》まれるのは、吾はどうしても断念められない。  謂うと何だか、女々しいようだが、報のない罪をし遂げて、あとで楽《たのしみ》をしようという、虫の可いことは決して無い。またそうさせるような吾でもない。  お貞、謝罪《わび》をしちゃあ可《い》かんぞ。お前は何も謝罪をすることもなし、吾も別に謝罪を聞く必要も認めんじゃ。悪かったというて謝罪をすればそれで済む、謝罪を聞けば了簡すると、そんな気楽なことを思うと、吾のいうことが分るまいでな。何でもしたことには、それ相当の報酬《むくい》というものが、多くもなく、少なくもなく、ちょうど可いほどあるものだと、そう思ってろ! 可いか、お貞、……お貞。」  と少し急《せ》き込みて、絶え入るばかりに咽《むせ》びつつ、しばらく苦痛を忍びしが、がらがらと血を吐きたり。  いつもかかることのある際には、一刀《ひとかたな》浴びたるごとく、蒼《あお》くなりて縋《すが》り寄りし、お貞は身動《みうごき》だもなし得ざりき。  病者は自ら胸を抱《いだ》きて、眼《まなこ》を瞑《ねむ》ること良久《ひさ》しかりし、一際《ひときわ》声の嗄《から》びつつ、 「こう謂えばな、親を蹴殺《けころ》した罪人でも、一応は言訳をすることが出来るものをと、お前は無念に思うであろうが、法廷で論ずる罪は、囚徒が責任を負ってるのだ。  今お前が言訳をして、今日からどんな優しい気になろうとも、とても助からない吾に取っては、何の利益も無いことで、死んでしまえば、それ、お前は日本晴で、可いことをして楽《たのし》むんじゃ。そううまくはきっとさせない。言訳がましいことを謂うな。聞くような吾でもなし。またお前だってそうだ。人殺《ひとごろし》よりなおひどい、(死んでくれれば可い)と思うほどの度胸のある婦人《おんな》でないか。しっかりとしろ! うむ、お貞。」  お貞は屹《きっ》と顔を上げて、 「はい、決して申訳はいたしません。」  といと潔よく言放てる、両の瞳の曇は晴れつ。旭光《きょっこう》一射霜を払いて、水仙たちまち凜《りん》とせり。  病者は心地|好《よ》げに頷《うなず》きぬ。 「可《よ》し、よく聞け、お貞。人の死ぬのを一日待に待ち殺して、あとでよい眼を見ようというはずるい[#「ずるい」に傍点]ことだ。考えてみろ。お前は今までに人情の上から吾に数え切れない借があろう。それをな、その負債をな。今吾に返すんだ。吾はどうしても取ろうというのだ。」  いと恐しき声にもおじず、お貞は一膝|乗出《のりいだ》して、看病疲れに繕わざる、乱れし衣紋《えもん》を繕いながら、胸を張りて、面《おもて》を差向け、 「旦那、どうして返すんです。」 「離縁しよう。いまここで、この場から離縁しよう。死にかかっている吾を見棄てて、芳之助と手を曳《ひ》いて、温泉へでも湯治に行《ゆ》け。だがな、お前は家附の娘だから、出て行《ゆ》くことが出来ぬと謂えば、ナニ出て行くには及ばんから、床ずれがして寝返りも出来ない、この吾を、芳之助と二人で負《おぶ》って行って、姨捨山《おばすてやま》へ捨てるんだ。さ、どちらでも構わない。ただ、(人の妻たる者が、死にかかってる良人を見棄てた。)とこういうことが世間へ知れて、世の中の者がみんなその気でお前に附合えば、それで可い、それで可い。ちっとは負債が返せるのだ。  しかし、これはお前には出来ぬこッた。お前は世間体というものを知ってるから、平生、吾が健全《たっしゃ》な時でも、そんな事は噯《おくび》にも出さないほどだ。それが出来るくらいなら、もう疾《とっ》くに離別《わかれ》てしまったに違いない。うむ、お貞、どうだ、それとも見棄てて、離縁が出来るか。」  お貞は一思案にも及ばずして、 「はい、そんなことは出来ません。」  病者はさもこそと思える状《さま》なり。 「それではお貞、お前の念《おも》いで死なないうちに、……吾《おれ》を殺せ。」  と静《しずか》にいう。 「え、貴下《あなた》を!」 「うむ、吾《おれ》を。お貞、ずるい根性を出さないで、表向《おもてむき》に吾を殺して、公然、良人殺しの罪人になるのだ。お貞、良人|殺《ころし》の罪人になるのだ。うむお貞。  吾を見棄てるか、吾を殺すか、うむ、どちらにするな。何でも負債を返さないでは、あんまり冥利《みょうり》が悪いでないか。いや、ないかどころでない! そうしなけりゃ許さんのだ。うむ、お貞、どっちにする、殺さないと、離縁にする!」  といと厳《おごそ》かに命じける。お貞は決する色ありて、 「貴下《あなた》、そ、そんなことを、私にいってもいいほどのことがあるんですか。」  声ふるわして屹《きっ》と問いぬ。 「うむ、ある。」  と確乎《かっこ》として、謂う時病者は傲然《ごうぜん》たりき。  お貞はかの女が時々神経に異変を来《きた》して、頭《かしら》あたかも破《わ》るるがごとく、足はわななき、手はふるえ、満面|蒼《あお》くなりながら、身火《しんか》烈々|身体《からだ》を焼きて、恍《こう》として、茫《ぼう》として、ほとんど無意識に、されど深長なる意味ありて存するごとく、満身の気を眼《まなこ》にこめて、その瞳をも動かさで、じっと人を目詰《みつ》むれば他をして身の毛をよだたすことある、その時と同一《おなじ》容体《ありさま》にて、目まじろぎもせで、死せるがごとき時彦の顔を瞻《みまも》りしが、俄然《がぜん》、崩折《くずお》れて、ぶるぶると身震いして、飛着くごとく良人に縋《すが》りて、血を吐く一声夜陰を貫き、 「殺します、旦那、私はもう……」  とわッとばかりに泣出しざま、擲《なげう》たれたらんかのごとく、障子とともに僵《たお》れ出でて、衝《つ》と行《ゆ》き、勝手|許《もと》の暗《やみ》を探りて、渠《かれ》は得物を手にしたり。  時彦ははじめのごとく顔の半ばに夜具を被《かつ》ぎ、仰向《あおむけ》に寝て天井を眺めたるまま、此方《こなた》を見向かんともなさずして、いとも静《しずか》に、冷《ひやや》かに、着物の袖も動かさざりき。  諸君、他日もし北陸に旅行して、ついでありて金沢を過《よぎ》りたまわん時、好事《こうず》の方々心あらば、通りがかりの市人に就きて、化銀杏《ばけいちょう》の旅店? と問われよ。老となく、少となく、皆直ちに首肯して、その道筋を教え申さむ。すなわち行きて一泊して、就褥《しゅうじょく》の後《のち》に御注意あれ。  間《ま》広き旅店の客少なく、夜半の鐘声|森《しん》として、凄風《せいふう》一陣身に染む時、長き廊下の最端に、跫然《きょうぜん》たる足音あり寂寞《せきばく》を破り近着き来《きた》りて、黒きもの颯《さ》とうつる障子の外なる幻影の、諸君の寝息を覗《うかが》うあらむ。その時声を立てられな。もし咳《しわぶき》をだにしたまわば、怪しき幻影は直ちに去るべし。忍びて様子をうかがいたまわば、すッと障子をあくると共に、銀杏返《いちょうがえし》の背向《うしろむき》に、あとあし下りに入《い》り来りて、諸君の枕辺《まくらべ》に近づくべし。その瞬時真白なる細き面影を一見して、思わず悚然《しょうぜん》としたまわんか。トタンに件《くだん》の幽霊は行燈《あんどん》の火を吹消《ふっけ》して、暗中を走る跫音《あしおと》、遠く、遠く、遠くなりつつ、長き廊下の尽頭《はずれ》に至りて、そのままハタと留《や》むべきなり。  夜《よ》はいよいよ更けて、風寒きに、怪者の再来を慮《おもんばか》りて、諸君は一夜を待明かさむ。  明くるを待ちて主翁《あるじ》に会し、就きて昨夜の奇怪を問われよ。主翁は黙して語らざるべし。再び聞かれよ、強いられよ、なお強いられよ。主翁は拒むことあたわずして、愁然《しゅうぜん》としてその実を語るべきなり。  聞くのみにてはあき足らざらんか、主翁に請いて一室《ひとま》に行《ゆ》け。密閉したる暗室内に俯向《うつむ》き伏したる銀杏返の、その背と、裳《もすそ》の動かずして、あたかもなきがらのごとくなるを、ソト戸の透《すき》より見るを得《う》べし。これ蓋《けだ》し狂者の挙動なればとて、公判廷より許されし、良人を殺せし貞婦にして、旅店の主翁はその伯父なり。  されど室内に立入りて、その面《おもて》を見んとせらるるとも、主翁は頑として肯《がえん》ぜざるべし。諸君涙あらば強うるなかれ。いかんとなれば、狂せるお貞は爾来《じらい》世の人に良人殺しの面を見られんを恥じて、長くこの暗室内に自らその身を封じたるものなればなり。渠《かれ》は恐懼《おそれ》て日光を見ず、もし強いて戸を開きて光明その膚《はだえ》に一注せば、渠は立処《たちどころ》に絶して万事|休《や》まむ。  光を厭《いと》うことかくのごとし。されば深更|一縷《いちる》の燈火《ともしび》をもお貞は恐れて吹消《ふっけ》し去るなり。  渠はしかく活《い》きながら暗中に葬り去られつ。良人を殺せし妻ながら、諸君請う恕《じょ》せられよ。あえて日光をあびせてもてこの憐むべき貞婦を射殺《いころ》すなかれ。しかれどもその姿をのみ見て面を見ざる、諸君はさぞ本意《ほい》なからむ。さりながら、諸君より十層二十層、なお幾十層、ここに本意なき少年あり。渠は活きたるお貞よりもむしろその姉の幽霊を見んと欲して、なお且つしかするを得ざるものをや。 [#地から1字上げ]明治二十九(一八九六)年二月 底本:「泉鏡花集成2」ちくま文庫、筑摩書房    1996(平成8)年4月24日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第二卷」岩波書店    1942(昭和17)年9月30日発行 初出:「文芸倶楽部」    1896(明治29)年2月 入力:門田裕志 校正:土屋隆 2006年7月3日作成 2012年9月29日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。