沼 芥川龍之介 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)夜《よる》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)又|枝蛙《えだかはづ》の [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)匀《にほひ》や -------------------------------------------------------  おれは沼のほとりを歩いてゐる。  昼か、夜《よる》か、それもおれにはわからない。唯、どこかで蒼鷺《あをさぎ》の啼く声がしたと思つたら、蔦葛《つたかづら》に掩《おほ》はれた木々の梢《こずゑ》に、薄明りの仄《ほの》めく空が見えた。  沼にはおれの丈《たけ》よりも高い芦《あし》が、ひつそりと水面をとざしてゐる。水も動かない。藻《も》も動かない。水の底に棲《す》んでゐる魚も――魚がこの沼に棲んでゐるであらうか。  昼か、夜か、それもおれにはわからない。おれはこの五六日、この沼のほとりばかり歩いてゐた。寒い朝日の光と一しよに、水の匀《にほひ》や芦《あし》の匀ひがおれの体を包んだ事もある。と思ふと又|枝蛙《えだかはづ》の声が、蔦葛《つたかづら》に蔽《おほ》はれた木々の梢から、一つ一つかすかな星を呼びさました覚えもあつた。  おれは沼のほとりを歩いてゐる。  沼にはおれの丈《たけ》よりも高い芦が、ひつそりと水面をとざしてゐる。おれは遠い昔から、その芦の茂つた向うに、不思議な世界のある事を知つてゐた。いや、今でもおれの耳には、Invitation au Voyage の曲が、絶え絶えに其処《そこ》から漂《ただよ》つて来る。さう云へば水の匀や芦の匀と一しよに、あの「スマトラの忘れな艸《ぐさ》の花」も、蜜のやうな甘い匀を送つて来はしないであらうか。  昼か、夜か、それもおれにはわからない。おれはこの五六日、その不思議な世界に憧《あこ》がれて、蔦葛《つたかづら》に掩はれた木々の間《あひだ》を、夢現《ゆめうつつ》のやうに歩いてゐた。が、此処《ここ》に待つてゐても、唯芦と水とばかりがひつそりと拡がつてゐる以上、おれは進んで沼の中へ、あの「スマトラの忘れな艸《ぐさ》の花」を探しに行《ゆ》かなければならぬ。見れば幸《さいはひ》、芦の中から半《なか》ば沼へさし出てゐる、年経《としへ》た柳が一株ある。あすこから沼へ飛びこみさへすれば、造作《ざうさ》なく水の底にある世界へ行《ゆ》かれるのに違ひない。  おれはとうとうその柳の上から、思ひ切つて沼へ身を投げた。  おれの丈《たけ》より高い芦が、その拍子《ひやうし》に何かしやべり立てた。水が呟《つぶや》く。藻《も》が身ぶるひをする。あの蔦葛《つたかづら》に掩《おほ》はれた、枝蛙《えだかはづ》の鳴くあたりの木々さへ、一時はさも心配さうに吐息《といき》を洩《も》らし合つたらしい。おれは石のやうに水底《みなそこ》へ沈みながら、数限りもない青い焔が、目まぐるしくおれの身のまはりに飛びちがふやうな心もちがした。  昼か、夜か、それもおれにはわからない。  おれの死骸は沼の底の滑《なめらか》な泥に横《よこた》はつてゐる。死骸の周囲にはどこを見ても、まつ青《さを》な水があるばかりであつた。この水の下にこそ不思議な世界があると思つたのは、やはりおれの迷《まよひ》だつたのであらうか。事によると Invitation au Voyage の曲も、この沼の精が悪戯《いたづら》に、おれの耳を欺《だま》してゐたのかも知れない。が、さう思つてゐる内に、何やら細い茎が一すぢ、おれの死骸の口の中から、すらすらと長く伸び始めた。さうしてそれが頭の上の水面へやつと届いたと思ふと、忽ち白い睡蓮《すゐれん》の花が、丈の高い芦に囲まれた、藻の匀のする沼の中に、的皪《てきれき》と鮮《あざやか》な莟《つぼみ》を破つた。  これがおれの憧《あこが》れてゐた、不思議な世界だつたのだな。――おれの死骸はかう思ひながら、その玉のやうな睡蓮《すゐれん》の花を何時《いつ》までもぢつと仰ぎ見てゐた。 [#地から1字上げ](大正九年三月) 底本:「筑摩全集類聚 芥川龍之介全集第四巻」筑摩書房    1971(昭和46)年6月5日初版第1刷発行    1979(昭和54)年4月10日初版第11刷発行 入力:土屋隆 校正:松永正敏 2007年6月26日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。