澄江堂雑記 芥川龍之介 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)画《ゑ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)日頃|大雅《たいが》の [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)匇忙《そうばう》 〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ (例)〔Phoe&nix〕 アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください http://aozora.gr.jp/accent_separation.html -------------------------------------------------------      一 大雅の画  僕は日頃|大雅《たいが》の画《ゑ》を欲しいと思つてゐる。しかしそれは大雅でさへあれば、金を惜まないと云ふのではない。まあせいぜい五十円位の大雅を一|幅《ぷく》得たいのである。  大雅《たいが》は偉い画描《ゑか》きである。昔、高久靄崖《たかひさあいがい》は一文《いちもん》無しの窮境にあつても、一幅の大雅だけは手離さなかつた。ああ云ふ英霊漢《えいれいかん》の筆に成つた画《ゑ》は、何百円と雖《いへど》も高い事はない。それを五十円に値切りたいのは、僕に余財のない悲しさである。しかし大雅の画品を思へば、たとへば五百万円を投ずるのも、僕のやうに五十円を投ずるのも、安いと云ふ点では同じかも知れぬ。芸術品の価値も小切手や紙幣《しへい》に換算出来ると考へるのは、度《ど》し難い俗物ばかりだからである。  Samuel Butler の書いた物によると、彼は日頃「出来の好《い》い、ちやんと保存された、四十シリング位のレムブラント」を欲しがつてゐた。処が実際二度までも莫迦《ばか》に安いレムブラントに遭遇した。一度は一|磅《ポンド》と云ふ価《あたひ》の為に買はなかつたが、二度目には友人の Gogin に諮《はか》つた上、とうとうそれを手に入れる事が出来た。その画《ゑ》はどう云ふ画だつたか、どの位の金を払つたか、それはどちらも明らかではない。が、買つた時は千八百八十七年、買つた場所はストランド(ロンドン)の或|質店《しちみせ》の店さきである。  かう云ふ先例もあつて見ると、五十円の大雅《たいが》を得んとするのは、必《かならず》しも不可能事ではないかも知れぬ。何処《どこ》か寂しい町の古道具屋の店に、たつた一幅売り残された、九霞山樵《きうかさんせう》の水墨山水――僕は時時退屈すると弥勒《みろく》の出世でも待つもののやうに、こんな空想にさへ耽《ふけ》る事がある。      二 にきび  昔「羅生門《らしやうもん》」と云ふ小説を書いた時、主人公の下人《げにん》の頬《ほほ》には、大きい面皰《にきび》のある由を書いた。当時は王朝時代の人間にも、面皰のない事はあるまいと云ふ、謙遜《けんそん》すれば当推量《あてずゐりやう》に拠つたのであるが、その後《ご》左経記《さけいき》に二君[#「二君」に傍点]とあり、二君[#「二君」に傍点]又は二禁[#「二禁」に傍点]なるものは今日の面皰である事を知つた。二君[#「二君」に傍点]等は勿論当て字である。尤《もつと》もかう云ふ発見は、僕自身に興味がある程、傍人《ばうじん》には面白くも何《なん》ともあるまい。      三 将軍  官憲《くわんけん》は僕の「将軍《しやうぐん》」と云ふ小説に、何行《なんぎやう》も抹殺を施《ほどこ》した。処が今日《けふ》の新聞を見ると生活に窮した廃兵たちは、「隊長殿にだまされた閣下連の踏台《ふみだい》」とか、「後顧するなと大うそつかれ」とか、種種のポスタアをぶら下げながら、東京街頭を歩いたさうである。廃兵そのものを抹殺する事は、官憲の力にも覚束《おぼつか》ないらしい。  又官憲は今後と雖も、「○○の○○に○○の念を失はしむる」物は、発売禁止を行ふさうである。○○の念は恋愛と同様、虚偽《きよぎ》の上に立つ事の出来るものではない。虚偽とは過去の真理であり、今は通用せぬ藩札《はんさつ》の類《たぐひ》である。官憲は虚偽を強《し》ひながら、○○の念を失ふなと云ふ。それは藩札をつきつけながら、金貨に換へろと云ふのと変りはない。  無邪気なるものは官憲である。      四 毛生え薬  文芸と階級問題との関係は、頭と毛生《けは》え薬《ぐすり》との関係に似ている。もしちやんと毛が生えてゐれば、必《かならず》しも塗る事を必要としない。又もし禿《は》げ頭だつたとすれば、恐らくは塗つても利《き》かないであらう。      五 芸術至上主義  芸術至上主義の極致はフロオベルである。彼自身の言葉によれば、「神は万象《ばんしやう》の創造に現れてゐるが、しかも人間に姿を見せない。芸術家が創作に対する態度も、亦《また》斯《か》くの如くなるべきである。」この故にマダム・ボヴアリイにしても、ミクロコスモスは展開するが、我我の情意には訴へて来ない。  芸術至上主義、――少くとも小説に於ける芸術至上主義は、確かに欠伸《あくび》の出易いものである。      六 一切不捨  何《なん》の某《なにがし》は帽子《ばうし》ばかり上等なのをかぶつてゐる。あの帽子さへなければ好《よ》いのだが、――かう云ふ言葉を做《な》す人がある。しかしその帽子を除いたにしても、何の某の服装なるものは、寸分《すんぶん》も立派《りつぱ》になる次第ではない。唯貧しげな外観が、全体に蔓延《まんえん》するばかりである。  何《なん》の某《なにがし》の小説はセンテイメンタルだとか、何の某の戯曲はインテレクチユアルだとか、それらはいづれも帽子の場合と、選ぶ所のない言葉である。帽子ばかり上等なるものは、帽子を除き去る工夫《くふう》をするより、上着もズボンも外套《ぐわいたう》も、上等ならしむる工夫《くふう》をせねばならぬ。センテイメンタルな小説の作者は、感情を抑へる工夫をするより、理智を活《い》かすべき工夫をせねばならぬ。  これは独り芸術上の問題のみではない。人生に於《おい》ても同じ事である。五欲の克服のみに骨を折つた坊主《ばうず》は、偉い坊主になつた事を聞かない。偉い坊主になつたものは、常に五欲を克服すべき、他の熱情を抱《いだ》き得た坊主である。雲照《うんせう》さへ坊主の羅切《らせつ》を聞いては、「男根《だんこん》は須《すべから》く隆隆《りゆうりゆう》たるべし」と、弟子《でし》共に教へたと云ふではないか?  我等の内にある一切《いつさい》のものはいやが上にも伸ばさねばならぬ。それが我等に与へられた、唯一《ゆゐいち》の成仏《じやうぶつ》の道である。      七 赤西蠣太  或時|志賀直哉《しがなほや》氏の愛読者と、「赤西蠣太《あかにしかきた》の恋」の話をした事がある。その時僕はこんなことを言つた。「あの小説の中の人物には栄螺《さざえ》とか鱒次郎《ますじらう》とか安甲《あんかふ》とか、大抵《たいてい》魚貝《ぎよばい》の名がついてゐる。志賀氏にもヒユウモラス・サイドはないのではない。」すると客は驚いたやうに、「成程《なるほど》さうですね。そんな事には少しも気がつかずにゐました」と云つた。その癖客は僕なぞよりも「赤西蠣太の恋」の筋をはつきり覚えてゐたのである。  客は決して軽薄児《けいはくじ》ではない。学問も人格も兼備した、寧《むし》ろ珍しい文芸通である。しかもこの事実に気づかなかつたのは、志賀氏の作品の型とでも云ふか、兎《と》に角《かく》何時《いつ》か頭の中にさう云ふ物を拵《こしら》へた上、それに囚《とら》はれてゐた為であらう。これは独り客のみではない。我我も気をつけねばならぬ事である。      八 釣名文人  古来作家が本を出した時、その本の好評を計《はか》る為に、新聞雑誌に載るべき評論を利用する事は稀《まれ》ではない。中には手加減を加へるどころか、作者自身然るべき匿名《とくめい》のもとに、手前味噌《てまへみそ》の評論を書いたのもある。  ド・ラ・ロシユフウコオルは名高い格言集の作家である。処がサント・ブウヴの書いたものによると、この人さへジユルナアル・デ・サヴアンに出た評論には、彼自身修正を施したらしい。しかもジユルナアル・デ・サヴアンは、当時発行された唯一《ゆゐいち》の新聞であり、その評論の載つたのは、千六百六十五年三月九日だと云ふのだから、作家の評論を利用するのも、ずいぶん淵源《えんげん》は古いものである。僕はロシユフウコオルの格言を思ひながら、この記事を読んだ時、実際|苦笑《くせう》せずにはゐられなかつた。それを思へば日本の文壇は、新開地だけに悪風も少い。売笑批評とか仲間褒《なかまぼ》め批評とか云つても、まづ害毒は知れたものである。  因《ちなみ》に云ふ。この評論の筆者はマダム・ド・サブレ、評論されたのは例の格言集である。      九 歴史小説  歴史小説と云ふ以上、一時代の風俗なり人情なりに、多少は忠実でないものはない。しかし一時代の特色のみを、――殊に道徳上の特色のみを主題としたものもあるべきである。たとへば日本の王朝時代は、男女関係の考へ方でも、現代のそれとは大分《だいぶ》違ふ。其処《そこ》を宛然《ゑんぜん》作者自身も、和泉式部《いづみしきぶ》の友だちだつたやうに、虚心平気に書き上げるのである。この種の歴史小説は、その現代との対照の間《あひだ》に、自然或暗示を与へ易い。メリメのイザベラもこれである。フランスのピラトもこれである。  しかし日本の歴史小説には、未《いま》だこの種の作品を見ない。日本のは大抵《たいてい》古人の心に、今人《こんじん》の心と共通する、云はばヒユマンな閃《ひらめ》きを捉《とら》へた、手つ取り早い作品ばかりである。誰か年少の天才の中に、上記の新機軸を出すものはゐないか?      十 世人  西洋雑誌の載せる所によると、二十一年の九月|巴里《パリ》にアナトオル・フランスの像の建つた時、彼自身その除幕式に演説を試みたと云ふ事である。この頃それを読んでゐると、かう云ふ一節を発見した。「わたしが人生を知つたのは、人と接触した結果ではない。本と接触した結果である。」しかし世人は書物に親しんでも、人生はわからぬと云ふかも知れない。  ルノアルの言つた言葉に、「画《ゑ》を学ばんとするものは美術館に行け」とか云ふのがある。しかし世人は古名画を見るよりも、自然に学べと云ふかも知れない。  世人とは常にかう云ふものである。      十一 火渡りの行者  社会主義は、理非曲直《りひきよくちよく》の問題ではない。単に一つの必然である。僕はこの必然を必然と感じないものは、恰《あたか》も火渡《ひわた》りの行者《ぎやうじや》を見るが如き、驚嘆の情を禁じ得ない。あの過激思想取締法案とか云ふものの如きは、正にこの好例の一つである。      十二 俊寛  平家物語《へいけものがたり》や源平盛衰記《げんぺいせいすゐき》以外に、俊寛《しゆんくわん》の新解釈を試みたものは現代に始まつた事ではない。近松門左衛門《ちかまつもんざゑもん》の俊寛の如きは、最も著名なものの一つである。  近松の俊寛の島に残るのは、俊寛自身の意志である。丹左衛門尉基康《たんのさゑもんのじやうもとやす》は、俊寛|成経《なりつね》康頼等《やすよりら》三人の赦免状《しやめんじやう》を携へてゐる。が、成経《なりつね》の妻になつた、島の女|千鳥《ちどり》だけは、舟に乗る事を許されない。正使《せいし》基康《もとやす》には許す気があつても、副使の妹尾《せのを》が許さぬのである。妻子《さいし》の死を聞いた俊寛は、千鳥を船に乗せる為に、妹尾太郎《せのをたらう》を殺してしまふ。「上使《じやうし》を斬りたる咎《とが》によつて、改めて今|鬼界《きかい》が島《しま》の流人《るにん》となれば、上《かみ》の御《お》慈悲の筋も立ち、御《お》上使の落度《おちど》いささかなし。」この英雄的な俊寛は、成経康頼等の乗船を勧《すす》めながら、従容《しようよう》と又かうも云ふのである。「俊寛が乗るは弘誓《ぐぜい》の船、浮き世の船には望みなし。」  僕は以前|久米正雄《くめまさを》と、この俊寛《しゆんくわん》の芝居を見た。俊寛は故人|段四郎《だんしらう》、千鳥《ちどり》は歌右衛門《うたゑもん》、基康《もとやす》は羽左衛門《うざゑもん》、――他は記憶に残つてゐない。俊寛が乗るは云云《うんぬん》の文句は、当時大いに久米正雄を感心させたものである。  近松《ちかまつ》の俊寛は源平盛衰記《げんぺいせいすゐき》の俊寛よりも、遙かに偉い人になつてゐる。勿論|舟出《ふなで》を見送る時には、嘆き悲しむのに相違ない。しかしその後《ご》は近松の俊寛も、安らかに余生を送つたかも知れぬ。少くとも盛衰記の俊寛程、悲しい末期《まつご》には遇《あ》はなかつたであらう。――さう云ふ心もちを与へる限り、「苦しまざる俊寛」を書いたものは、夙《つと》に近松にあつたと云ふべきである。  しかし近松の目ざしたのは、「苦しまざる俊寛」にのみあつたのではない。彼の俊寛は「平家《へいけ》女護《によご》が島《しま》」の登場人物の一人《ひとり》である。が、倉田《くらた》、菊池《きくち》両氏の俊寛は、俊寛のみを主題としてゐる。鬼界《きかい》が島《しま》に流された俊寛は如何《いか》に生活し、又如何に死を迎へたか?――これが両氏の問題である。この問題は殊に菊池氏の場合、かう云ふ形式にも換へられるであらう。――「我等は俊寛と同じやうに、島流しの境遇に陥つた時、どう云ふ生活を営むであらうか?」  近松と両氏との立ち場の相違は、盛衰記の記事の改めぶりにも、窺《うかが》はれると云ふ事を妨《さまた》げない。近松はあの俊寛を作る為に、俊寛の悲劇の関鍵《くわんけん》たる赦免状の件《くだり》さへも変更した。両氏も勿論近松に劣らず、盛衰記の記事を無視してゐる。しかし両氏とも近松のやうに、赦免状の件《くだり》は改めてゐない。与へられた条件の内に、俊寛の解釈を試みる以上、これだけは保存せねばならぬからである。  丁度《ちやうど》その場合と同じやうに、倉田氏と菊池氏との立ち場の相違も、やはり盛衰記の記事を変更した、その変更のし方に見えるかも知れぬ。倉田氏が俊寛の娘を死んだ事にしたり、菊池氏が島を豊沃《ほうよく》の地にしたり、――それらは皆両氏の俊寛、――「苦しめる俊寛」と「苦しまざる俊寛」とを描出するに便だつた為であらう。僕の俊寛もこの点では、菊池氏の俊寛の蹤《あと》を追ふものである。唯菊池氏の俊寛は、寧《むし》ろ外部の生活に安住の因を見出してゐるが、僕のは必《かならず》しもそればかりではない。  しかし謡《うたひ》や浄瑠璃《じやうるり》にある通り、不毛の孤島に取り残された儘、しかもなほ悠悠たる、偉い俊寛を考へられぬではない。唯この巨鱗《きよりん》を捉《とら》へる事は、現在の僕には出来ぬのである。  附記 盛衰記に現れた俊寛は、機智に富んだ思想家であり、鶴《つる》の前《まへ》を愛する色好《いろごの》みである。僕は特にこの点では、盛衰記の記事に忠実だつた。又俊寛の歌なるものは、康頼《やすより》や成経《なりつね》より拙《つたな》いやうである。俊寛は議論には長じてゐても、詩人肌ではなかつたらしい。僕はこの点でも、盛衰記に忠実な態度を改めなかつた。又盛衰記の鬼界が島は、たとひタイテイではないにしても、満更《まんざら》岩ばかりでもなささうである。もしあの盛衰記の島の記事から、辺土《へんど》に対する都会人の恐怖や嫌悪《けんを》を除き去れば、存外《ぞんぐわい》古風土記《こふうどき》にありさうな、愛すべき島になるかも知れない。      十三 漢字と仮名と  漢字なるものの特徴はその漢字の意味以外に漢字そのものの形にも美醜を感じさせることださうである。仮名《かな》は勿論使用上、音標文字《おんぺうもじ》の一種たるに過ぎない。しかし「か」は「加」と云ふやうに、祖先はいづれも漢字である。のみならず、いつも漢字と共に使用される関係上、自然と漢字と同じやうに仮名《かな》そのものの形にも美醜の感じを含み易い。たとへば「い」は落ち着いてゐる、「り」は如何《いか》にも鋭いなどと感ぜられるやうになり易いのである。  これは一つの可能性である。しかし事実はどうであらう?  僕は実は平仮名《ひらがな》には時時《ときどき》形にこだはることがある。たとへば「て」の字は出来るだけ避けたい。殊に「何何して何何」と次に続けるのは禁物《きんもつ》である。その癖「何何してゐる。」と切れる時には苦《く》にならない。「て」の字の次は「く」の字である。これも丁度《ちやうど》折れ釘のやうに、上の文章の重量をちやんと受けとめる力に乏しい。片仮名《かたかな》は平仮名に比べると、「ク」の字も「テ」の字も落ち着いてゐる。或は片仮名は平仮名よりも進歩した音標文字なのかも知れない。或は又平仮名に慣《な》れてゐる僕も片仮名には感じが鈍《にぶ》いのかも知れない。      十四 希臘末期の人  この頃エジプトの砂の中から、ヘラクレニウムの熔岩の中から、希臘《ギリシヤ》人の書いたものが発見される。時代は 350 B.C. から 150 B.C. 位のものらしい。つまりアテネ時代からロオマ時代へ移らうとする中間の時代のものである。種類は論文、詩、喜劇、演説の草稿、手紙――まだ外《ほか》にもあるかも知れない。作者は従来書いたものの少しは知られてゐた人もある。名前だけやつと伝つてゐた人もある。勿論《もちろん》全然名前さへ伝はつてゐなかつた人もある。  しかしそれは兎《と》も角《かく》も、さういふ断簡零墨《だんかんれいぼく》を近代語に訳したものを見ると、どれもこれも我我にはお馴染《なじ》みの思想ばかりである。たとへば Polystratus と云ふエピクロス派の哲学者は「あらゆる虚偽と心労とを脱し、人生を自由ならしむる為には万物生成の大法を知らなければならぬ」と論じてゐる。さうかと思へば Cercidas と云ふ所謂《いはゆる》犬儒派《けんじゆは》の哲学者は「蕩児《たうじ》と守銭奴《しゆせんど》とは黄白《くわうはく》に富み、予ばかり貧乏するのは不都合《ふつがふ》である! ……正義は土豚《どとん》のやうに盲目なのか? Themis(正義の女神)の明《めい》は蔽《おほ》はれてゐるのか?」と大いに憤慨を洩《も》らした後、「遮莫《さもあらばあれ》我徒は病弱を救ひ、貧窶《ひんる》を恵むことを任にしたい」と勇ましい信念を披露《ひろう》してゐる。更に又彼に先立つこと三十年余と伝へられる Colophon の 〔Phoe&nix〕 は「何びとも金持ちには友だちである。金さへあれば神神さへ必ず君を愛するであらう。が、万一貧しければ母親すら君を憎むであらう」と諷刺《ふうし》に満ちた詩を作つてゐる。最後に 〔OE&noande〕 の Diogenes は「予の所見に従へば、人類は百般の無用の事に百般の苦楚《くそ》を味《あぢは》つてゐる。……予は既《すで》に老人である。生命の太陽も沈まうとしてゐる。予は唯予の道を教へるだけである。……天下の人は悉《ことごと》く互に虚偽を移し合つてゐる。丁度《ちやうど》一群《いちぐん》の病羊《びやうやう》のやうに」と救援の道を教へてゐる。  かう云ふ思想はいつの時代、どこの国にもあつたものと見える。どうやら人種の進歩などと云ふのは蛞蝓《なめくぢ》の歩みに似てゐるらしい。      十五 比喩  メタフオアとかシミリイとかに文章を作る人の苦労するのは遠い西洋のことである。我我は皆せち辛《がら》い現代の日本に育つてゐる。さう云ふことに苦労するのは勿論《もちろん》、兎《と》に角《かく》意味を正確に伝へる文章を作る余裕《よゆう》さへない。しかしふと目に止まつた西洋人の比喩《ひゆ》の美しさを愛する心だけは残つてゐる。 「ツインガレラの顔は脂粉《しふん》に荒らされてゐる。しかしその皮膚《ひふ》の下には薄氷《うすらひ》の下の水のやうに何かがまだかすかに仄《ほの》めいてゐる。」  これは Wassermann の書いた売笑婦ツインガレラの肖像である。僕の訳文は拙《つたな》いのに違ひない。けれどもむかし Guys の描《ゑが》いた、優しい売笑婦の面影《おもかげ》はありありと原文に見えるやうである。      十六 告白 「もつと己《おの》れの生活を書け、もつと大胆《だいたん》に告白しろ」とは屡《しばしば》諸君の勧《すす》める言葉である。僕も告白をせぬ訣《わけ》ではない。僕の小説は多少にもせよ、僕の体験の告白である。けれども諸君は承知しない。諸君の僕に勧めるのは僕自身を主人公にし、僕の身の上に起つた事件を臆面《おくめん》もなしに書けと云ふのである。おまけに巻末の一覧表には主人公たる僕は勿論、作中の人物の本名《ほんめい》仮名《かめい》をずらりと並べろと云ふのである。それだけは御免《ごめん》を蒙《かうむ》らざるを得ない。――  第一に僕はもの見高い諸君に僕の暮しの奥底をお目にかけるのは不快である。第二にさう云ふ告白を種に必要以上の金と名とを着服するのも不快である。たとへば僕も一茶《いつさ》のやうに交合記録を書いたとする。それを又中央公論か何かの新年号に載せたとする。読者は皆面白がる。批評家は一転機を来したなどと褒《ほ》める。友だちは、愈《いよいよ》裸になつたなどと、――考へただけでも鳥肌《とりはだ》になる。  ストリンドベルクも金さへあれば、「痴人《ちじん》の告白《こくはく》」は出さなかつたのである。又出さなければならなかつた時にも、自国語の本にする気はなかつたのである。僕も愈《いよいよ》食はれぬとなれば、どう云ふ活計を始めるかも知れぬ。その時はおのづからその時である。しかし今は貧乏なりに兎《と》に角《かく》露命を繋《つな》いでゐる。且又体は多病にもせよ、精神状態はまづノルマアルである。マゾヒスムスなどの徴候は見えない。誰が御苦労にも恥ぢ入りたいことを告白小説などに作るものか。      十七 チヤプリン  社会主義者と名のついたものはボルシエヴイツキたると然らざるとを問はず、悉く危険視されるやうである。殊にこの間の大《だい》地震の時にはいろいろその為に祟《たた》られたらしい。しかし社会主義者と云へば、あのチヤアリイ・チヤプリンもやはり社会主義者の一人《ひとり》である。もし社会主義者を迫害するとすれば、チヤプリンも亦《また》迫害しなければなるまい。試みに某憲兵大尉の為にチヤプリンが殺されたことを想像して見給へ。家鴨《あひる》歩きをしてゐるうちに突き殺されたことを想像して見給へ。苟《いやし》くも一たびフイルムの上に彼の姿を眺めたものは義憤を発せずにはゐられないであらう。この義憤を現実に移しさへすれば、――兎《と》に角《かく》諸君もブラツク・リストの一人《ひとり》になることだけは確かである。      十八 あそび  これはサンデイ毎日所載、福田雅之助《ふくだまさのすけ》君の「最近の米国庭球界」の一節である。 「テイルデンは指を切つてから、却《かへ》つて素晴《すばら》らしい当りを見せる様になつた。なぜ指を切つてからの方が、以前よりうまくなつたかと云ふに、一つは彼の気が緊張してゐるからだ。彼は非常に芝居気があつて、勝てるマツチにもたやすく勝たうとはせず、或程度まで相手をあしらつて行《ゆ》くらしかつたが、今年度は「指」と云ふハンデイキヤツプの為に、ゲエムの始めから緊張してかかるから、尚更《なほさら》強いのである……」  ラケツトを握る指を切断した後《のち》、一層《いつそう》腕を上げたテイルデンはまことに偉大なる選手である。が、指の満足だつた彼も、――同時に又相手を翻弄《ほんろう》する「あそび」の精神に富んでゐた彼も必《かならず》しも偉大でないことはない。いや、僕はテイルデン自身も時時はちよつと心の底に、「あそび」の精神に富んでゐた昔をなつかしがつてゐはしないかと思つてゐる。      十九 塵労  僕も大抵《たいてい》の売文業者のやうに匇忙《そうばう》たる暮しを営んでゐる。勉強も中中思ふやうに出来ない。二三年|前《ぜん》に読みたいと思つた本も未だに読まずにゐる始末《しまつ》である。僕は又かう云ふ煩《わづら》ひは日本にばかりあることと思つてゐた。が、この頃ふとレミ・ド・グルモンのことを書いたものを読んだら、グルモンはその晩年にさへ、毎日ラ・フランスに論文を一篇、二週間目にメルキユウルに対話を一篇書いてゐたらしい。すると芸術を尊重する仏蘭西《フランス》に生れた文学者も甚だ清閑《せいかん》には乏しい訣《わけ》である。日本に生れた僕などの不平を云ふのは間違ひかも知れない。      二十 イバネス  イバネス氏も日本へ来たさうである。滞在日数も短かかつたし、まあ通り一ぺんの見物をすませただけであらう。イバネス氏の評伝には Camille Pitollet の 〔V.Blasco-Iba'n‾ez, Ses romans et le roman de sa vie〕 などと云ふ本も流行してゐる。と云つて読んでゐる次第ではない。唯二三年|前《ぜん》の横文字の雑誌に紹介してあるのを読んだだけである。 「わたしの小説を作るのは作らずにはゐられない結果である。……わたしは青年時代を監獄《かんごく》に暮した。少くとも三十度は入獄したであらう。わたしは囚人《しうじん》だつたこともある。度たび野蛮《やばん》な決闘の為に重傷を蒙《かうむ》つたこともある。わたしは又人間の堪へ得る限りの肉体的苦痛を嘗《な》めてゐる。貧乏のどん底に落ちたこともある。が、一方《いつぱう》には代議士に選挙されたこともある。土耳古《トルコ》のサルタンの友だちだつたこともある。宮殿に住んでゐたこともある。それからずつと鉅万《きよまん》の金を扱ふ実業家にもなつてゐた。亜米利加《アメリカ》では村を一つ建設した。かう云ふことを話すのはわたしは小説を生活の上に実現出来ることを示す為である。紙とインクとに書き上げるよりも更に数等巧妙に実現出来ることを示す為である。」  これはピトオレエの本の中にあるイバネス氏自身の言葉ださうである。しかし僕はこれを読んでも、文豪イバネス氏の云ふやうに、格別小説を生活の上に実現してゐると云ふ気はしない。するのは唯小説の広告を実現してゐると云ふ気だけである。      二十一 船長  僕は上海《シヤンハイ》へ渡る途中、筑後丸《ちくごまる》の船長と話をした。政友会《せいいうくわい》の横暴とか、ロイド・ジヨオジの「正義」とかそんなことばかり話したのである。その内に船長は僕の名刺を見ながら、感心したやうに小首を傾けた。 「アクタ川と云ふのは珍らしいですね。ははあ、大阪毎日新聞社、――やはり御専門は政治経済ですか?」  僕は好《い》い加減に返事をした。  僕等は又|少時《しばらく》の後《のち》、ボルシエヴイズムか何かの話をし出した。僕は丁度《ちやうど》その月の中央公論に載つてゐた誰かの論文を引用した。が、生憎《あいにく》船長は中央公論の読者ではなかつた。 「どうも中央公論も好《い》いですが、――」  船長は苦《にが》にがしさうに話しつづけた。 「小説を余り載せるものですから、つい買ひ渋《しぶ》つてしまふのです。あれだけはやめる訣《わけ》に行《い》かないものでせうか?」  僕は出来るだけ情けない顔をした。 「さうです。小説には困りますね。あれさへなければと思ふのですが。」  爾来《じらい》僕は船長に格別の信用を博したやうである。      二十二 相撲 「負けまじき相撲《すまふ》を寝ものがたりかな」とは名高い蕪村《ぶそん》の相撲の句である。この「負けまじき」の解釈には思ひの外《ほか》異説もあるらしい。「蕪村句集講義」によれば虚子《きよし》、碧梧桐《へきごどう》両氏、近頃は又|木村架空《きむらかくう》氏も「負けまじき」を未来の意味としてゐる。「明日《あす》の相撲は負けてはならぬ。その負けてはならぬ相撲を寝ものがたりに話してゐる。」――と云ふやうに解釈するのである。僕はずつと以前から過去の意味にばかり解釈してゐた。今もやはり過去の意味に解釈してゐる。「今日《けふ》は負けてはならぬ相撲を負けた。それをしみじみ寝ものがたりにしてゐる。」――と云ふやうに解釈するものである。もし将来の意味だつたとすれば、蕪村は必ず「負けまじき」と調子を張つた上五《かみご》の下へ「寝ものがたりかな」と調子の延びた止《と》めを持つて来はしなかつたであらう。これは文法の問題ではない。唯「負けまじき」をどう感ずるかと云ふ芸術的|触角《しよくかく》の問題である。尤《もつと》も「蕪村句集講義」の中でも、子規居士《しきこじ》と内藤鳴雪《ないとうめいせつ》氏とはやはり過去の意味に解釈してゐる。      二十三 「とても」 「とても安い」とか「とても寒い」と云ふ「とても」の東京の言葉になり出したのは数年以前のことである。勿論「とても」と云ふ言葉は東京にも全然なかつた訣《わけ》ではない。が従来の用法は「とてもかなはない」とか「とても纏《まと》まらない」とか云ふやうに必ず否定を伴つてゐる。  肯定に伴ふ新流行の「とても」は三河《みかは》の国あたりの方言であらう。現に三河の国の人のこの「とても」を用ゐた例は元禄《げんろく》四年に上梓《じやうし》された「猿蓑《さるみの》」の中に残つてゐる。 [#天から2字下げ]秋風《あきかぜ》やとても芒《すすき》はうごくはず 三河《みかは》、子尹《しゐん》  すると「とても」は三河の国から江戸へ移住する間《あひだ》に二百年余りかかつた訳である。「とても手間取つた」と云ふ外はない。      二十四 猫  これは「言海《げんかい》」の猫の説明である。 「ねこ、(中略)人家《ジンカ》ニ畜《カ》フ小《チヒ》サキ獣《ケモノ》。人《ヒト》ノ知《シ》ル所《トコロ》ナリ。温柔《ヲンジウ》ニシテ馴《ナ》レ易《ヤス》ク、又《マタ》能《ヨ》ク鼠《ネズミ》ヲ捕《トラ》フレバ畜《カ》フ。然《シカ》レドモ竊盗《セツタウ》ノ性《セイ》アリ。形《カタチ》虎《トラ》ニ似《ニ》テ二尺《ニシヤク》ニ足《タ》ラズ。(下略《げりやく》)」  成程《なるほど》猫は膳《ぜん》の上の刺身《さしみ》を盗んだりするのに違ひはない。が、これをしも「竊盗《せつたう》ノ性アリ」と云ふならば、犬は風俗壊乱の性あり、燕は家宅侵入の性あり、蛇は脅迫《けふはく》の性あり、蝶《てふ》は浮浪の性あり、鮫《さめ》は殺人の性ありと云つても差支《さしつか》へない道理であらう。按ずるに「言海」の著者|大槻文彦《おほつきふみひこ》先生は少くとも鳥獣|魚貝《ぎよばい》に対する誹謗《ひばう》の性を具へた老学者である。      二十五 版数  日本の版数は出たらめである。僕の聞いた風説によれば、或相当の出版業者などは内務省への献本二冊を一版に数へてゐるらしい。たとひそれは譃《うそ》としても、今日《こんにち》のやうに出たらめでは、五十版百版と云ふ広告を目安《めやす》に本を買つてゐる天下の読者は愚弄《ぐろう》されてゐるのも同じことである。  尤《もつと》も仏蘭西《フランス》の版数さへ甚だ当てにならぬものださうである。例へばゾラの晩年の小説などは二百部を一版と号してゐたらしい。しかしこれは悪習である。何も香水やオペラ・バツクのやうに輸入する必要はないに違ひない。且又メルキユルは出版した本に一一何冊目と記したこともある。メルキユルを学ぶことは困難にしろ、一版を何部と定《さだ》めた上、版数も偽《いつは》らずに広告することは当然日本の出版業組合も厲行《れいかう》して然るべき企てであらう。いや、かう云ふ見易いことは賢明なる出版業組合の諸君のとうに気づいてゐる筈である。するとそれを実行しないのは「もし佳書を得んと欲せば版数の少きを選べ」と云ふ教訓を垂れてゐるのかも知れない。      二十六 家  早川孝太郎《はやかはかうたらう》氏は「三州横山話《さんしうよこやまばなし》」の巻末にまじなひの歌をいくつも揚げてゐる。  盗賊の用心に唱へる歌、――「ねるぞ、ねだ、たのむぞ、たる木、夢の間《ま》に何ごとあらば起せ、桁梁《けたはり》」  火の用心の歌、――「霜柱、氷の梁《はり》に雪の桁《けた》、雨のたる木に露の葺《ふ》き草」  いづれも「家《いへ》」に生命を感じた古《いにし》へびとの面目《めんもく》を見るやうである。かう云ふ感情は我我の中にもとうの昔に死んでしまつた。我我よりも後《のち》に生れるものは是等《これら》の歌を読んだにしろ、何《なん》の感銘も受けないかも知れない。或は又鉄筋コンクリイトの借家《しやくや》住まひをするやうになつても、是等の歌は幻《まぼろし》のやうに山かげに散在する茅葺《かやぶき》屋根を思ひ出させてくれるかも知れない。  なほ次手《ついで》に広告すれば、早川氏の「三州横山話」は柳田国男《やなぎだくにを》氏の「遠野物語《とほのものがたり》」以来、最も興味のある伝説集であらう。発行所は小石川区《こいしかはく》茗荷谷町《みやうがだにまち》五十二番地|郷土研究社《きやうどけんきうしや》、定価は僅かに七十銭である。但《ただ》し僕は早川氏も知らず、勿論広告も頼まれた訣《わけ》ではない。  付記 なほ四五十年|前《ぜん》の東京にはかう云ふ歌もあつたさうである。「ねるぞ、ねだ、たのむぞ、たる木、梁《はり》も聴け、明けの六《む》つには起せ大《おほ》びき」      二十七 続「とても」  肯定《こうてい》に伴ふ「とても」は東京の言葉ではない。東京人の古来使ふのは「とても及ばない」のやうに否定に伴ふ「とても」である。近来は肯定に伴ふ「とても」も盛んに行はれるやうになつた。たとへば「とても綺麗《きれい》だ」「とてもうまい」の類である。この肯定に伴ふ「とても」の「猿蓑《さるみの》」の中に出てゐることは「澄江堂雑記《ちようかうだうざつき》」(随筆集「百艸《ひやくさう》」の中《なか》)に辯じて置いた。その後《ご》島木赤彦《しまきあかひこ》さんに注意されて見ると、この「とても」も「とてもかくても」の「とても」である。 [#天から2字下げ]秋風やとても芒《すすき》はうごくはず 三河《みかは》、子尹《しゐん》  しかしこの頃又乱読をしてゐると、「続春夏秋冬《ぞくしゆんかしうとう》」の春の部の中にもかう言ふ「とても」を発見した。 [#天から2字下げ]市雛《いちびな》やとても数《かず》ある顔貌《かほかたち》 化羊《くわやう》  元禄《げんろく》の子尹《しゐん》は肩書通り三河の国の人である。明治の化羊《くわやう》は何国《なんごく》の人であらうか。      二十八 丈艸の事  蕉門《せうもん》に龍象《りゆうざう》の多いことは言ふを待たない。しかし誰が最も的的《てきてき》と芭蕉《ばせを》の衣鉢《いはつ》を伝へたかと言へば恐らくは内藤丈艸《ないとうぢやうさう》であらう。少くとも発句《ほつく》は蕉門中、誰もこの俳諧の新発知《しんぽち》ほど芭蕉の寂《さ》びを捉《とら》へたものはない。近頃|野田別天楼《のだべつてんろう》氏の編した「丈艸集《ぢやうさうしふ》」を一読し、殊にこの感を深うした。 [#ここから2字下げ]   前書《まへがき》略 木枕の垢《あか》や伊吹《いぶき》にのこる雪 大原《おほはら》や蝶の出て舞ふおぼろ月 谷風や青田《あをた》を廻《めぐ》る庵《いほ》の客《きやく》 小屏風《こびやうぶ》に山里涼し腹の上 雷《いなづま》のさそひ出してや火とり虫 草芝を出《い》づる螢《ほたる》の羽音《はおと》かな 鶏頭《けいとう》の昼をうつすやぬり枕 病人と撞木《しゆもく》に寝たる夜寒《よさむ》かな 蜻蛉《とんぼう》の来ては蝿とる笠の中《うち》 夜明《よあ》けまで雨吹く中や二つ星 榾《ほた》の火や暁《あかつき》がたの五六尺 [#ここで字下げ終わり]  是等《これら》の句は啻《ただ》に寂《さ》びを得たと言ふばかりではない。一句一句変化に富んでゐることは作家たる力量を示すものである。几董輩《きとうはい》の丈艸《ぢやうさう》を嗤《わら》つてゐるのは僣越《せんゑつ》も亦《また》甚しいと思ふ。      二十九 袈裟と盛遠 「袈裟《けさ》と盛遠《もりとほ》」と云ふ独白《どくはく》体の小説を、四月の中央公論で発表した時、或大阪の人からこんな手紙を貰つた。「袈裟は亘《わたる》の義理と盛遠の情《なさけ》とに迫られて、操《みさほ》を守る為に死を決した烈女である。それを盛遠との間《あひだ》に情交のあつた如く書くのは、烈女袈裟に対しても気の毒なら、国民教育の上にも面白からん結果を来《きた》すだらう。自分は君の為にこれを取らない。」  が、当時すぐにその人へも返事を書いた通り、袈裟と盛遠との間に情交があつた事は、自分の創作でも何《なん》でもない。源平盛衰記《げんぺいせいすゐき》の文覚発心《もんがくほつしん》の条《くだり》に、「はや来《きた》つて女と共に臥《ふ》し居たり、狭夜《さよ》も漸《やうやう》更け行きて云云《うんぬん》」と、ちやんと書いてある事である。  それを世間一般は、どう云ふ量見か黙殺してしまつて、あの憐《あはれ》む可《べ》き女《ぢよ》主人公をさも人間ばなれのした烈女であるかの如く広告してゐる。だから史実を勝手に改竄《かいざん》した罪は、あの小説を書いた自分になくして、寧《むし》ろあの小説を非難するブルヂヨア自身にあつたと云つて差支《さしつか》へない。改竄《かいざん》するしないは格別大問題だと心得てゐないが、事実としてこの機会にこれだけの事を発表して置く。勿論源平盛衰記の記事は譃《うそ》だと云ふ考証家が現れたら、自分は甘んじて何時《いつ》でも、改竄者の焼印を押されようとするものである。      三十 後世  私《わたし》は知己《ちき》を百代の後《のち》に待たうとしてゐるものではない。  公衆の批判は、常に正鵠《せいこう》を失《しつ》しやすいものである。現在の公衆は元より云ふを待たない。歴史は既にペリクレス時代のアゼンスの市民や文芸復興期のフロレンスの市民でさへ、如何《いか》に理想の公衆とは縁が遠かつたかを教へてゐる。既に今日《こんにち》及び昨日《さくじつ》の公衆にして斯《か》くの如くんば、明日《みやうにち》の公衆の批判と雖《いへど》も亦《また》推して知るべきものがありはしないだらうか。彼等が百代の後《のち》よく砂と金《きん》とを辨じ得るかどうか、私は遺憾《ゐかん》ながら疑ひなきを得ないのである。  よし又理想的な公衆があり得るにした所で、果して絶対美なるものが芸術の世界にあり得るであらうか。今日《こんにち》の私の眼は、唯今日の私の眼であつて、決して明日《みやうにち》の私の眼ではない。と同時に又私の眼が結局日本人の眼であつて、西洋人の眼でない事も確《たしか》である。それならどうして私に、時と処とを超越した美の存在などが信じられよう。成程《なるほど》ダンテの地獄の火は、今も猶《なほ》東方の豎子《じゆし》をして戦慄《せんりつ》せしむるものがあるかも知れない。けれどもその火と我我との間《あひだ》には、十四世紀の伊太利《イタリイ》なるものが雲霧《うんむ》の如くにたなびいてゐるではないか。  況《いは》んや私は尋常の文人である。後代の批判にして誤らず、普遍《ふへん》の美にして存するとするも、書を名山に蔵する底《てい》の事は、私の為すべき限りではない。私が知己を百代の後に待つものでない事は、問ふまでもなく明かであらうと思ふ。  時時私は廿年の後《のち》、或は五十年の後、或は更に百年の後、私の存在さへ知らない時代が来ると云ふ事を想像する。その時私の作品集は、堆《うづだか》い埃《ほこり》に埋《うづ》もれて、神田《かんだ》あたりの古本屋の棚《たな》の隅に、空《むな》しく読者を待つてゐる事であらう。いや、事によつたらどこかの図書館《としよかん》にたつた一冊残つた儘、無残な紙魚《しぎよ》の餌《ゑさ》となつて、文字《もじ》さへ読めないやうに破れ果ててゐるかも知れない。しかし――  私はしかしと思ふ。  しかし誰かが偶然私の作品集を見つけ出して、その中の短い一篇を、或は其一篇の中の何行《なんぎやう》かを読むと云ふ事がないであらうか。更《さら》に虫の好《い》い望みを云へば、その一篇なり何行かなりが、私の知らない未来の読者に多少にもせよ美しい夢を見せるといふ事がないであらうか。  私は知己《ちき》を百代の後《のち》に待たうとしてゐるものではない。だから私はかう云ふ私の想像が如何《いか》に私の信ずる所と矛盾《むじゆん》してゐるかも承知してゐる。  けれども私は猶《なほ》想像する。落莫《らくばく》たる百代の後に当つて、私の作品集を手にすべき一人《いちにん》の読者のある事を。さうしてその読者の心の前へ、朧《おぼろ》げなりとも浮び上る私の蜃気楼《しんきろう》のある事を。  私は私の愚《ぐ》を嗤笑《しせう》すべき賢達《けんたつ》の士のあるのを心得てゐる。が、私自身と雖《いへど》も私の愚を笑ふ点にかけては敢《あへ》て人後に落ちようとは思つてゐない。唯、私は私の愚を笑ひながら、しかもその愚に恋恋たる私自身の意気地《いくぢ》なさを憐れまずにはゐられないのである。或は私自身と共に意気地ない一般人間をも憐れまずにはゐられないのである。      三十一 「昔」  僕の作品には昔の事を書いたものが多いから、そこでその昔の事を取扱ふ時の態度を話せと云ふ註文が来た。態度とか何《なん》とか云ふと、甚《はなはだ》大袈裟《おほげさ》に聞えるが、何もそんな大したものを持ち合せてゐる次第では決してない。まあ僕の昔の事を書く時に、どんな眼で昔を見てゐるか、云ひ換《かへ》れば僕の作品の中で昔がどんな役割を勤めてゐるか、そんな事を話して見ようかと思ふ。元来|裃《かみしも》をつけての上の議論ではないのだから、どうかその心算《つもり》でお聴きを願ひたい。  お伽噺《とぎばなし》を読むと、日本のなら「昔々」とか「今は昔」とか書いてある。西洋のなら「まだ動物が口を利《き》いてゐた時に」とか「ベルトが糸を紡《つむ》いでゐた時に」とか書いてある。あれは何故《なぜ》であらう。どうして「今」ではいけないのであらう。それは本文《ほんもん》に出て来るあらゆる事件に或可能性を与へる為の前置きにちがひない。何故かと云ふと、お伽噺《とぎばなし》の中に出て来る事件は、いづれも不思議な事ばかりである。だからお伽噺の作者にとつては、どうも舞台を今にするのは具合《ぐあひ》が悪い。絶対に今ではならんと云ふ事はないが、それよりも昔の方が便利である。「昔々」と云へば既《すで》に太古緬邈《たいこめんばく》の世だから、小指ほどの一寸法師《いつすんぼふし》が住んでゐても、竹の中からお姫様が生れて来ても、格別《かくべつ》矛盾《むじゆん》の感じが起らない。そこで予《あらかじ》め前へ「昔々」と食付《くつつ》けたのである。  所でもしこれが「昔々」の由来だとすれば、僕が昔から材料を採《と》るのは大半この「昔々」と同じ必要から起つてゐる。と云ふ意味は、今僕が或テエマを捉《とら》へてそれを小説に書くとする。さうしてそのテエマを芸術的に最も力強く表現する為には、或異常な事件が必要になるとする。その場合、その異常な事件なるものは、異常なだけそれだけ、今日《こんにち》この日本に起つた事としては書きこなし悪《にく》い、もし強《しひ》て書けば、多くの場合不自然の感を読者に起させて、その結果|折角《せつかく》のテエマまでも犬死をさせる事になってしまふ。所でこの困難を除く手段には「今日《こんにち》この日本に起つた事としては書きこなし悪《にく》い」と云ふ語《ことば》が示してゐるやうに、昔か(未来は稀《まれ》であろう)日本以外の土地か或は昔日本以外の土地から起つた事とするより外《ほか》はない。僕の昔から材料を採つた小説は大抵《たいてい》この必要に迫られて、不自然の障碍《しやうがい》を避ける為に舞台を昔に求めたのである。  しかしお伽噺《とぎばなし》と違つて小説は小説と云ふものの要約上、どうも「昔々」だけ書いてすましてゐると云ふ訳には行《ゆ》かない。そこで略《ほぼ》時代の制限が出来て来る。従つてその時代の社会状態と云ふやうなものも、自然の感じを満足させる程度に於《おい》て幾分とり入れられる事になつて来る。だから所謂《いはゆる》歴史小説とはどんな意味に於ても「昔」の再現を目的《エンド》にしてゐないと云ふ点で区別を立てる事が出来るかも知れない。――まあざつとこんなものである。  序《ついで》につけ加へて置くが、さう云ふ次第だから僕は昔の事を小説に書いても、その昔なるものに大して憧憬《しようけい》は持つてゐない。僕は平安朝《へいあんてう》に生れるよりも、江戸時代に生れるよりも、遙《はるか》に今日《こんにち》のこの日本に生れた事を難有《ありがた》く思つてゐる。  それからもう一つつけ加へて置くが、或テエマの表現に異常なる事件が必要になる事があると云つたが、それには其外《そのほか》にすべて異常なる物に対して僕(我我人間と云ひたいが)の持つてゐる興味も働いてゐるだらうと思ふ。それと同じやうに或異常なる事件を不自然の感じを与へずに書きこなす必要上、昔を選ぶと云ふ事にも、さう云ふ必要以外に昔|其《その》ものの美しさが可也《かなり》影響を与へてゐるのにちがひない。しかし主として僕の作品の中で昔が勤《つと》めてゐる役割は、やはり「ベルトが糸を紡《つむ》いでゐた時に」である、或は「まだ動物が口を利《き》いてゐた時に」である。      三十二 徳川末期の文芸  徳川末期の文芸は不真面目《ふまじめ》であると言はれてゐる。成程《なるほど》不真面目ではあるかも知れない。しかしそれ等の文芸の作者は果して人生を知らなかつたかどうか、それは僕には疑問である。彼等|通人《つうじん》も肚《はら》の中では如何《いか》に人生の暗澹《あんたん》たるものかは心得てゐたのではないであらうか? しかもその事実を回避《くわいひ》する為に(たとひ無意識的ではあつたにもせよ)洒落《しや》れのめしてゐたのではないであらうか? 彼等の一人《ひとり》、――たとへば宮武外骨《みやたけぐわいこつ》氏の山東京伝《さんとうきやうでん》を読んで見るが好《よ》い。ああ云ふ生涯に住しながら、しかも人生の暗澹《あんたん》たることに気づかなかつたと云ふのは不可解である。  これは何も黄表紙《きべうし》だの洒落本《しやれぼん》だのの作者ばかりではない。僕は曲亭馬琴《きよくていばきん》さへも彼の勧善懲悪《くわんぜんちやうあく》主義を信じてゐなかつたと思つてゐる。馬琴は或は信じようと努力してはゐたかも知れない。が饗庭篁村《あへばくわうそん》氏の編した馬琴日記抄|等《とう》によれば、馬琴自身の矛盾には馬琴も気づかずにはゐなかつた筈であらう。森鴎外《もりおうぐわい》先生は確か馬琴日記抄の跋《ばつ》に「馬琴よ、君は幸福だつた。君はまだ先王《せんわう》の道に信頼することが出来た」とか何《なん》とか書かれたやうに記憶してゐる。けれども僕は馬琴も亦《また》先王の道などを信じてゐなかつたと思つてゐる。  若し譃《うそ》と云ふことから言へば、彼等の作品は譃《うそ》ばかりである。彼等は彼等自身と共に世間を欺《あざむ》いてゐたと言つても好《よ》い。しかし善や美に対する欣求《ごんぐ》は彼等の作品に残つてゐる。殊に彼等の生きてゐた時代は仏蘭西《フランス》のロココ王朝と共に実生活の隅隅《くまぐま》にさへ美意識の行き渡つた時代だつた。従つて美しいと云ふことから言へば、彼等の作品に溢《あふ》れた空気は如何《いか》にも美しい(勿論多少|頽廃《たいはい》した)ものであらう。  僕は所謂《いはゆる》江戸趣味に余り尊敬を持ってゐない。同時に又彼等の作品にも頭の下《さが》らない一人《ひとり》である。しかし単に「浅薄《せんぱく》」の名のもとに彼等の作品を一笑し去るのは彼等の為に気《き》の毒《どく》であらう。若し彼等の「常談《じやうだん》」としたものを「真面目《まじめ》」と考へて見るとすれば、黄表紙《きべうし》や洒落本《しやれぼん》もその中には幾多の問題を含んでゐる。僕等は彼等の作品に随喜《ずゐき》する人人にも賛成出来ない。けれども亦《また》彼等の作品を一笑してしまふ人人にもやはり軽軽《けいけい》に賛成出来ない。 [#地から1字上げ](大正七年―十三年) 底本:「筑摩全集類聚 芥川龍之介全集第四巻」筑摩書房    1971(昭和46)年6月5日初版第1刷発行    1979(昭和54)年4月10日初版第11刷発行 入力:土屋隆 校正:松永正敏 2007年6月26日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。