続野人生計事 芥川龍之介 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)鼻糞《はなくそ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)全然|面白味《おもしろみ》の [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)匇 -------------------------------------------------------      一 放屁  アンドレエフに百姓が鼻糞《はなくそ》をほじる描写《べうしや》がある。フランスに婆さんが小便をする描写がある。しかし屁《へ》をする描写のある小説にはまだ一度も出あつたことはない。  出あつたことのないといふのは、西洋の小説にはと云ふ意味である。日本の小説にはない訣《わけ》ではない。その一つは青木健作《あをきけんさく》氏の何《なん》とかいふ女工の小説である。駈落《かけお》ちをした女工が二人《ふたり》、干藁《ほしわら》か何かの中に野宿する。夜明《よあけ》に二人とも目がさめる。一人《ひとり》がぷうとおならをする。もう一人がくすくす笑ひ出す――たしかそんな筋だつたと思ふ。その女工の屁をする描写は予《よ》の記憶に誤りがなければ、甚だ上品に出来上つてゐた。予は此《こ》の一段を読んだ為に、今日《こんにち》もなほ青木氏の手腕に敬意を感じてゐる位なものである。  もう一つは中戸川吉二《なかとがはきちじ》氏の何《なん》とか云ふ不良少年の小説である。これはつい三四箇月以前、サンデイ毎日に出てゐたのだから、知つてゐる読者も多いかも知れない。不良少年に口説《くど》かれた女が際《きわ》どい瞬間におならをする、その為に折角《せつかく》醸《かも》されたエロチツクな空気が消滅する、女は妙につんとしてしまふ、不良少年も手が出せなくなる――大体《だいたい》かう云ふ小説だつた。この小説も巧みに書きこなしてある。  青木氏の小説に出て来る女工は必《かならず》しもおならをしないでも好《よ》い。しかし中戸川氏の小説に出て来る女は嫌《いや》でもおならをする必要がある。しなければ成り立たない。だから屁《へ》は中戸川《なかとがは》氏を得た後《のち》始めて或重大な役目を勤めるやうになつたと云ふべきである。  しかしこれは近世のことである。宇治拾遺物語《うぢしふゐものがたり》によれば、藤大納言忠家《とうだいなごんただいへ》[#「ルビの「とうだいなごんただいへ」は底本では「とうだいなごんだたいへ」]も、「いまだ殿上人《てんじやうびと》におはしける時、びびしき色好《いろごの》みなりける女房《にようぼう》ともの云ひて、夜更《よふ》くるほどに月は昼よりもあかかりけるに」たへ兼《か》ねてひき寄せたら、女は「あなあさまし」と云ふ拍子《ひやうし》に大きいおならを一つした。忠家はこの屁《へ》を聞いた時に「心うきことにも逢ひぬるかな。世にありて何かはせん。出家《しゆつけ》せん」と思ひ立つた。けれども、つらつら考へて見れば、何も女が屁をしたからと云つて、坊主《ばうず》にまでなるには当りさうもない。忠家は其処《そこ》に気がついたから、出家することだけは見合せたが、匇匇《そうそう》その場は逃げ出したさうである。すると中戸川氏の小説も文学史的に批評すれば、前人未発と云ふことは出来ない。しかし断えたるを継《つ》いだ功は当然同氏に属《ぞく》すべきである。この功は多分中戸川氏自身の予想しなかつたところであらう。しかし功には違ひないから、序《ついで》に此処《ここ》に吹聴《ふいちやう》することにした。      二 女と影  紋服を着た西洋人は滑稽《こつけい》に見えるものである。或は滑稽に見える余り、西洋人自身の男振《をとこぶり》などは滅多《めつた》に問題にならないものである。クロオデル大使の「女と影」も、云はば紋服を着た西洋人だつたから、一笑に付せられてしまつたのであらう。しかし当人の男ぶりは紋服たると燕尾服《えんびふく》たるとを問はず独立に美醜を論ぜらるべきである。「女と影」に対する世評は存外《ぞんぐわい》この点に無頓着《むとんぢやく》だつたらしい。さう男ぶりを閑却するのは仏蘭西《フランス》人たる大使にも気の毒である。  試みにあの作品の舞台をペルシアか印度《インド》かへ移して見るが好《よ》い。桃《もも》の花の代りに蓮《はす》の花を咲かせ、古風な侍《さむらひ》の女房の代りに王女か何か舞はせたとすれば、毒舌に富んだ批評家と雖《いへど》も、今日《こんにち》のやうに敢然とは鼎《かなへ》の軽重を問はなかつたであらう。況《いはん》やあの作品にさへ三歎の声を惜《おし》まなかつた鑑賞上の神秘主義者などは勿論無上の法悦《はふえつ》の為に即死を遂げたのに相違あるまい。クロオデル大使は紋服の為にこの位損な目を見てゐるのである。  しかし男ぶりは姑《しばら》く問はず、紋服そのものの感じにしても、全然|面白味《おもしろみ》のない訣《わけ》ではない。成程《なるほど》「女と影」なるものは日本のやうな西洋のやうな、妙にとんちんかんな作品である。けれどもあのとんちんかんのところは手腕の鈍《にぶ》い為に起つたものではない。日本とか我我日本人の芸術とかに理解のない為に起つたものである。虎を描《か》かうと思つたのが猫になつてしまつたのではない。猫も虎も見わけられないから、同じやうに描《か》いてすましてゐるのである。思ふに虎になり損《そこ》なつた彼は小説家になり損《そこ》なつた批評家のやうに、義理にも面白《おもしろ》いとは云はれたものではない。けれども猫とも虎ともつかない、何か怪しげな動物になれば、古来|野師《やし》の儲《まう》けたのはかう云ふ動物恩恵である。我我は面白いと思はないものに一銭の木戸銭《きどせん》をも抛《なげう》つ筈はない。  これは「女と影」ばかりではない。「サムラヒ」とか「ダイミヤウ」とか云ふエレデイアの詩でも同じことである。ああ云ふ作品は可笑《をか》しいかも知れない。しかしその可笑しいところに、善《よ》く云へば阿蘭陀《オランダ》の花瓶《くわびん》に似た、悪く云へばサムラヒ商会の輸出品に似た一種のシヤルムがひそんでゐる。このシヤルムさへ認めないのは偏狭《へんけふ》の譏《そしり》を免《まぬか》れないであらう。予は野口米次郎《のぐちよねじらう》氏の如き、或は郡虎彦《こほりとらひこ》氏の如き、西洋に名を馳《は》せた日本人の作品も、その名を馳せた一半の理由はこのシヤルムにあつたことを信じてゐる。と云ふのは勿論両氏の作品に非難を加へようと云ふのではない。寛大な西洋人に迎へられたことを両氏の為に欣幸《きんかう》とし、偏狭《へんけふ》な日本人に却《しりぞ》けられたことをクロオデル大使の為に遺憾《ゐかん》とするのである。  仄聞《そくぶん》するところによれば、クロオデル大使はどう云ふ訣《わけ》か、西洋|輓近《ばんきん》の芸術に対する日本人の鑑賞力に疑惑を抱いてゐるさうである。まことに「女と影」の如きも、予などの批評を許さないかも知れない。しかし時の古今《ここん》を問はず、わが日本の芸術に対する西洋人の鑑賞力は――予は先夜|細川侯《ほそかはこう》の舞台に桜間金太郎《さくらまきんたらう》氏の「すみだ川」を見ながら欠伸《あくび》をしてゐたクロオデル大使に同情の微笑を禁じ得なかつた。すると半可通《はんかつう》をふりまはすことは大使も予もお互ひ様である。仏蘭西《フランス》の大使クロオデル閣下、どうか悪《あ》しからずお読み下さい。      三 ピエル・ロテイの死  ピエル・ロテイが死んださうである。ロテイが「お菊《きく》夫人」「日本の秋」等の作者たることは今更辯じ立てる必要はあるまい。小泉八雲《こいづみやくも》一人《ひとり》を除けば、兎《と》に角《かく》ロテイは不二山《ふじさん》や椿《つばき》やベベ・ニツポンを着た女と最も因縁《いんねん》の深い西洋人である。そのロテイを失つたことは我我日本人の身になるとまんざら人ごとのやうに思はれない。  ロテイは偉い作家ではない。同時代の作家と比べたところが、余り背《せい》の高い方ではなささうである。ロテイは新らしい感覚描写を与へた。或は新らしい抒情詩《じよじやうし》を与へた。しかし新らしい人生の見かたや新らしい道徳は与へなかつた。勿論これは芸術家たるロテイには致命傷でも何《なん》でもないのに違ひない。提燈《ちやうちん》は火さへともせれば、敬意を表して然るべきである。合羽《かつぱ》のやうに雨が凌《しの》げぬにしろ、軽蔑《けいべつ》して好《よ》いと云ふものではない。しかし雨が降つてゐるから、まづ提燈は持たずとも合羽の御厄介《ごやくかい》にならうと云ふのはもとより人情の自然である。かう云ふ人情の矢面《やおもて》には如何《いか》なる芸術至上主義も、提燈におしなさいと云ふ忠告と同様、利《き》き目のないものと覚悟せねばならぬ。我我は土砂降《どしやぶり》りの往来に似た人生を辿《たど》る人足《にんそく》である。けれどもロテイは我我に一枚の合羽をも与へなかつた。だから我我はロテイの上に「偉い」と云ふ言葉を加へないのである。古来偉い芸術家と云ふのは、――勿論《もちろん》合羽の施行《せぎやう》をする人に過ぎない。  又ロテイはこの数年間、仏蘭西《フランス》文壇の「人物」だつたにせよ、仏蘭西文壇の「力」ではなかつた。だから彼の死も実際的には格別影響を及ぼさないであらう。唯我我日本人は前にもちよいと云つた通り、美しい日本の小説を書いた、当年の仏蘭西の海軍将校ジユリアン・ヴイオオの長逝《ちやうせい》に哀悼《あいたう》の念を抱《いだ》いてゐる。ロテイの描《か》いた日本はヘルンの描いた日本よりも、真《しん》を伝へない画図《ぐわと》かも知れない。しかし兎《と》に角《かく》好画図たることは異論を許さない事実である。我我の姉妹たるお菊さんだの或は又お梅さんだのは、ロテイの小説を待つた後《のち》、巴里《パリ》の敷石の上をも歩むやうになつた。我我は其処《そこ》にロテイに対する日本の感謝を捧げたいと思ふ。なほロテイの生涯は大体左に示す通りである。  千八百五十年一月十四日、ロテイはロシユフオオルで生れ、十七歳の時、海軍に入り、千九百六年大佐になつた。大佐になつたのは数へ年で五十七の時である。  最初の作は千八百七十九年、即三十歳の時|公《おほやけ》にした 〔Aziyade'〕 である。後ち一年、千八百八十年に Rarahu を出して一躍流行児になつた。これは二年の後《のち》「ロテイの結婚」と改題再刊されたものである。  かの「お菊さん」は千八百八十七年に、「日本の秋」は八十九年に公《おほやけ》にされた。  アカデミイの会員に選まれたのは九十一年、数へて四十二歳の時である。  彼は、国際電報の伝ふるところによると、十日アンダイエで死んだのである。時に歳七十三。      四 新緑の庭  桜 さつぱりした雨上《あまあが》りです。尤《もつと》も花の萼《がく》は赤いなりについてゐますが。  椎《しひ》 わたしもそろそろ芽《め》をほごしませう。このちよいと鼠がかつた芽をね。  竹 わたしは未《いま》だに黄疸《わうだん》ですよ。……  芭蕉《ばせう》 おつと、この緑のランプの火屋《ほや》を風に吹き折られる所だつた。  梅 何だか寒気《さむけ》がすると思つたら、もう毛虫がたかつてゐるんだよ。  八《や》つ手《で》 痒《かゆ》いなあ、この茶色の産毛《うぶげ》のあるうちは。  百日紅《さるすべり》 何、まだ早うござんさあね。わたしなどは御覧の通り枯枝ばかりさ。  霧島躑躅《きりしまつつじ》 常《じやう》――常談《じやうだん》云つちやいけない。わたしなどはあまり忙《せは》しいものだから、今年《ことし》だけはつい何時《いつ》にもない薄紫《うすむらさき》に咲いてしまつた。  覇王樹《サボテン》 どうでも勝手にするが好《い》いや。おれの知つたことぢやなし。  石榴《ざくろ》 ちよいと枝一面に蚤《のみ》のたかつたやうでせう。  苔《こけ》 起きないこと?  石 うんもう少し。  楓《かへで》 「若楓《わかかへで》茶色になるも一盛《ひとさか》り」――ほんたうにひと盛りですね。もう今は世間並みに唯水水しい鶸色《ひわいろ》です。おや、障子《しやうじ》に灯《ひ》がともりました。      五 春の日のさした往来《わうらい》をぶらぶら一人歩いてゐる  春の日のさした往来をぶらぶら一人《ひとり》歩いてゐる。向うから来るのは屋根屋の親かた。屋根屋の親かたもこの節は紺の背広に中折帽《なかをればう》をかぶり、ゴムか何かの長靴《ながぐつ》をはいてゐる。それにしても大きい長靴だなあ。膝――どころではない。腿《もも》も半分がたは隠れてゐる。ああ云ふ長靴をはいた時には、長靴をはいたと云ふよりも、何かの拍子《ひやうし》に長靴の中へ落つこつたやうな気がするだらうなあ。  顔馴染《かほなじみ》の道具屋を覗《のぞ》いて見る。正面の紅木《こうぼく》の棚《たな》の上に虫明《むしあ》けらしい徳利《とくり》が一本。あの徳利の口などは妙に猥褻《わいせつ》に出来上つてゐる。さうさう、いつか見た古備前《こびぜん》の徳利の口もちよいと接吻《せつぷん》位したかつたつけ。鼻の先に染めつけの皿が一枚。藍色《あゐいろ》の柳の枝垂《しだ》れた下にやはり藍色の人が一人《ひとり》、莫迦《ばか》に長い釣竿《つりざを》を伸ばしてゐる。誰かと思つて覗《のぞ》きこんで見たら、金沢《かなざわ》にゐる室生犀星《むろふさいせい》!  又ぶらぶら歩きはじめる。八百屋《やほや》の店に慈姑《くわゐ》がすこし。慈姑の皮の色は上品だなあ。古い泥七宝《でいしつぱう》の青に似てゐる。あの慈姑《くわゐ》を買はうかしら。譃《うそ》をつけ。買ふ気のないことは知つてゐる癖に。だが一体どう云ふものだらう、自分にも譃をつきたい気のするのは。今度は小鳥屋。どこもかしこも鳥籠だらけだなあ。おや、御亭主《ごていしゆ》も気楽さうに山雀《やまがら》の籠の中に坐つてゐる! 「つまり馬に乗つた時と同じなのさ。」 「カントの論文に崇《たた》られたんだね。」  後ろからさつさと通りぬける制服制帽の大学生が二人《ふたり》。ちよいと聞いた他人の会話と云ふものは気違ひの会話に似てゐるなあ。この辺《へん》そろそろ上《のぼ》り坂。もうあの家の椿などは落ちて茶色に変つてゐる。尤《もつと》も崖側《がけぎは》の竹藪は不相変《あひかはらず》黄ばんだままなのだが……おつと向うから馬が来たぞ。馬の目玉は大きいなあ。竹藪も椿も己《おれ》の顔もみんな目玉の中に映《うつ》つてゐる。馬のあとからはモンシロ蝶。 「生ミタテ玉子《タマゴ》アリマス。」  アア、サウデスカ? ワタシハ玉子ハ入《イ》リマセン。――春の日のさした往来をぶらぶら一人歩いてゐる。      六 霜夜  霜夜《しもよ》の記憶の一つ。  いつものやうに机に向つてゐると、いつか十二時を打つ音がする。十二時には必ず寝ることにしてゐる。今夜もまづ本を閉じ、それからあした坐り次第、直《すぐ》に仕事にかかれるやうに机の上を片づける。片づけると云つても大したことはない。原稿用紙と入用《いりよう》の書物とを一まとめに重ねるばかりである。最後に火鉢の火の始末《しまつ》をする。はんねら[#「はんねら」に傍点]の瓶《かめ》に鉄瓶《てつびん》の湯をつぎ、その中へ火を一つづつ入れる。火は見る見る黒くなる。炭の鳴る音も盛んにする。水蒸気ももやもや立ち昇る。何か楽しい心もちがする。何か又はかない心もちもする。床《とこ》は次の間《ま》にとつてある。次の間も書斎も二階である。寝る前には必ず下へおり、のびのびと一人《ひとり》小便をする。今夜もそつと二階を下《お》りる。家族の眼をさまさせないやうに、出来るだけそつと二階を下りる。座敷の次の間に電燈がついてゐる。まだ誰か起きてゐるなと思ふ。誰が起きてゐるのかしらとも思ふ。その部屋の外《そと》を通りかかると、六十八になる伯母《をば》が一人《ひとり》、古い綿《わた》をのばしてゐる。かすかに光る絹の綿である。 「伯母《をば》さん」と云ふ。「まだ起きてゐたの?」と云ふ。「ああ、今これだけしてしまはうと思つて。お前ももう寝るのだらう?」と云ふ。後架《こうか》の電燈はどうしてもつかない。やむを得ず暗いまま小便をする。後架の窓の外には竹が生えてゐる、風のある晩は葉のすれる音がする。今夜は音も何もしない。唯寒い夜《よる》に封じられてゐる。 [#天から3字下げ]薄綿《うすわた》はのばし兼ねたる霜夜《しもよ》かな      七 蒐集  僕は如何《いか》なる時代でも、蒐集癖《しうしふへき》と云ふものを持つたことはない。もし持つたことがあるとすれば、年少時代に昆虫類の標本《へうほん》を集めたこと位であらう。現在は成程《なるほど》書物だけは幾らか集まつてゐるかも知れない。しかしそれも集まつたのである。落葉の風だまりへ集まるやうに自然と書棚《しよだな》へ集まつたのである。何も苦心して集めた訣《わけ》ではない。  書物さへ既《すで》にさうである。況《いはん》や書画とか骨董《こつとう》とかは一度も集めたいと思つたことはない。尤《もつと》もこれはと思つたにしろ、到底《たうてい》我我売文の徒には手の出ぬせゐでもありさうである。しかし僕の集めたがらぬのは必《かならず》しもその為ばかりではない。寧《むし》ろ集めたいと云ふ気持に余り快哉《くわいさい》を感ぜぬのである。或は集めんとする気組みに倦怠《けんたい》を感じてしまふのである。  これは智識も同じことである。僕はまだ如何《いか》なる智識も集めようと思つて集めたことはない。尤《もつと》も集めたと思はれるほど、智識のないことも事実である。しかし多少でもあるとすれば、兎《と》に角《かく》集まつたと云はなければならぬ。  蒐集家《しうしふか》は情熱に富んだものである。殊にたつた一枚のマツチの商標《しやうへう》を手に入れる為に、世界を周遊する蒐集家などは殆《ほとん》ど情熱そのものである。だから情熱を軽蔑しない限り、蒐集家も一笑《いつせう》に付することは出来ない。しかし僕は蒐集家とは別の鋳型《いがた》に属してゐる。同時に又革命家や予言者とも別の鋳型に属してゐる。  僕はマツチの商標に対する情熱にも同情を感じてゐる。いや、同情と云ふ代りに敬意と云つても差支《さしつか》へない。しかしマツチの商標の価値にはどちらかと云へば懐疑的である。僕は以前かう云ふ気質を羞《は》づかしいと思つたことがあつた。けれども面皮《めんぴ》の厚くなつた今はさほど卑下《ひげ》する気もちにもなれない。――      八 知己料  僕等は当時「新思潮《しんしてう》」といふ同人雑誌《どうじんざつし》に楯《たて》こもつてゐた。「新思潮」以外の雑誌にも時時作品を発表するのは久米正雄《くめまさを》一人《ひとり》ぎりだつた。そこへ「希望」といふ雑誌社から、突然僕へ宛てた手紙が来た。手紙には、五月号に間《ま》に合ふやうに短篇を一つお願ひしたい。御都合《ごつがふ》は如何《いかが》と書いてあつた。僕は勿論|快諾《くわいだく》した。  僕は一週間たたない内に、「虱《しらみ》」といふ短篇を希望社へおくつた。それから――原稿料の届くのを待つた。最初の原稿料を待つ気もちは売文の経験のない人には、ちよいと想像が出来ないかも知れない。僕も少し誇張すれば、直侍《なほざむらひ》を待つ三千歳《みちとせ》のやうに、振替《ふりかへ》の来る日を待ちくらしたのである。  原稿料は容易に届かなかつた。僕はたびたび久米正雄と、希望社は僕の短篇にいくら払ふかを論じ合つた。 「一円は払ふね。一円ならば十二枚十二円か。そんなことはない。一円五十銭は大丈夫払ふよ。」  久米《くめ》はかういふ予測を下した。何《なん》だかさう云はれて見れば、僕も一円五十銭は払つてもらはれさうな心もちになつた。 「一円五十銭払つたら、八円だけおごれよ。」  僕はおごると約束した。 「一円でも、五円はおごる義務があるな。」  久米はまたかういつた。僕はその義務を認めなかつた。しかし五円だけ割愛《かつあひ》することには、格別異存も持たなかつた。  その内に「希望」の五月号が出、同時に原稿料も手にはひつた。僕はそれをふところにしたまま、久米の下宿へ出かけて行つた。 「いくら来た? 一円か? 一円五十銭か?」  久米は僕の顔を見ると、彼自身のことのやうに熱心にたづねた。僕は何《なん》ともこたへずに、振替《ふりかへ》の紙を出して見せた。振替の紙には残酷《ざんこく》にも三円六十銭と書いてあつた。 「三十銭か。三十銭はひどいな。」  久米もさすがになさけない顔をした。僕はなほ更|仏頂《ぶつちやう》づらをしてゐた。が、僕等はしばらくすると、同時ににやにや笑ひ出した。久米はいはゆる微苦笑《びくせう》をうかべ、僕は手がるに苦笑したのである。 「三十銭は知己料《ちきれう》をさしひいたんだらう。一円五十銭マイナス三十銭――一円二十銭の知己料は高いな。」  久米はこんなことをいひながら、振替の紙を僕にかへした。しかしもうこの間のやうに、おごれとか何《なん》とかはいはなかつた。      九 妄問妄答  客 菊池寛《きくちくわん》氏の説によると、我我は今度の大《だい》地震のやうに命も危いと云ふ場合は芸術も何もあつたものぢやない。まづ命あつての物種《ものだね》と尻端折《しりはしよ》りをするのに忙《いそが》しさうだ。しかし実際さう云ふものだらうか?  主人 そりや実際さう云ふものだよ。  客 芸術上の玄人《くろうと》もかね? たとへば小説家とか、画家とか云ふ、――  主人 玄人《くろうと》はまあ素人《しろうと》より芸術のことを考へさうだね。しかしそれも考へて見れば、実は五十歩百歩なんだらう。現在頭に火がついてゐるのに、この火焔をどう描写しようなどと考へる豪傑《がうけつ》はゐまいからね。  客 しかし昔の侍《さむらひ》などは横腹を槍《やり》に貫かれながら、辞世《じせい》の歌を咏《よ》んでゐるからね。  主人 あれは唯名誉の為だね。意識した芸術的衝動などは別のものだね。  客 ぢや我我の芸術的衝動はああ云ふ大変に出合つたが最後、全部なくなつてしまふと云ふのかね?  主人 そりや全部はなくならないね。現に遭難民《さうなんみん》の話を聞いて見給へ。思ひの外《ほか》芸術的なものも沢山《たくさん》あるから。――元来芸術的に表現される為にはまづ一応《いちおう》芸術的に印象されてゐなければならない筈だらう。するとさう云ふ連中は知らず識らず芸術的に心を働かせて来た訣《わけ》だね。  客 (反語的に)しかしさう云ふ連中も頭に火でもついた日にや、やつぱり芸術的衝動を失うことになるだらうね?  主人 さあ、さうとも限らないね。無意識の芸術的衝動だけは案外《あんぐわい》生死の瀬戸際《せとぎは》にも最後の飛躍をするものだからね? 辞世の歌で思ひ出したが、昔の侍の討死《うちじに》などは大抵《たいてい》戯曲的或は俳優的衝動の――つまり俗に云ふ芝居気《しばゐぎ》の表はれたものとも見られさうぢやないか?  客 ぢや芸術的衝動はどう云ふ時にもあり得ると云ふんだね?  主人 無意識の芸術的衝動はね。しかし意識した芸術的衝動はどうもあり得るとは思はれないね。現在頭に火がついてゐるのに、………  客 それはもう前にも聞かされたよ。ぢや君も菊池寛《きくちくわん》氏に全然|賛成《さんせい》してゐるのかね?  主人 あり得ないと云ふことだけはね。しかし菊池氏はあり得ないのを寂しいと云つてゐるのだらう? 僕は寂しいとも思はないね、当り前だとしか思はないね。  客 なぜ?  主人 なぜも何もありやしないさ。命あつての物種《ものだね》と云ふ時にや、何も彼《か》も忘れてゐるんだからね。芸術も勿論《もちろん》忘れる筈ぢやないか? 僕などは大地震どころぢやないね。小便のつまつた時にさへレムブラントもゲエテも忘れてしまふがね。格別その為に芸術を軽んずる気などは起らないね。  客 ぢや芸術は人生にさ程痛切なものぢやないと云ふのかね。  主人 莫迦《ばか》を云ひ給へ。芸術的衝動は無意識の裡《うち》にも我我を動かしてゐると云つたぢやないか? さうすりや芸術は人生の底へ一面深い根を張つてゐるんだ。――と云ふよりも寧《むし》ろ人生は芸術の芽《め》に満ちた苗床《なへどこ》なんだ。  客 すると「玉は砕《くだ》けず」かね?  主人 玉は――さうさね。玉は或は砕けるかも知れない。しかし石は砕けないね。芸術家は或は亡びるかも知れない。しかしいつか知らず識らず芸術的衝動に支配される熊《くま》さんや八《はち》さんは亡びないね。  客 ぢや君は問題になつた里見《さとみ》氏の説にも菊池《きくち》氏の説にも部分的には反対だと云ふのかね。  主人 部分的には賛成だと云ふことにしたいね。何しろ両雄の挾《はさ》み打ちを受けるのはいくら僕でも難渋だからね。ああ、それからまだ菊池氏の説には信用出来ぬ部分もあるね。  客 信用の出来ぬ部分がある?  主人 菊池氏は今度|大向《おほむか》うからやんやと喝采《かつさい》される為には譃《うそ》が必要だと云ふことを痛感したと云つてゐるだらう。あれは余り信用出来ないね。恐らくはちよつと感じた位だね。まあ、もう少し見てゐ給へ。今に又何かほんたうのことをむきになつて云ひ出すから。      十 梅花に対する感情 [#天から8字下げ]このジヤアナリズムの一篇を謹厳なる西川英次郎君に献ず  予等《よら》は芸術の士なるが故に、如実《によじつ》に万象を観《み》ざる可《べか》らず。少くとも万人の眼光を借らず、予等の眼光を以て見ざる可らず。古来偉大なる芸術の士は皆この独自の眼光を有し、おのづから独自の表現を成せり。ゴツホの向日葵《ひまはり》の写真版の今日《こんにち》もなほ愛翫《あいぐわん》せらるる、豈《あに》偶然の結果ならんや。(幸ひにGOGHをゴッホと呼ぶ発音の誤りを咎《とが》むること勿れ。予はANDERSENをアナアセンと呼ばず、アンデルゼンと呼ぶを恥ぢざるものなり。)  こは芸術を使命とするものには白日《はくじつ》よりも明らかなる事実なり。然れども独自の眼を以てするは必《かならず》しも容易の業《わざ》にあらず。(否、絶対に[#「絶対に」に傍点]独自の眼を以てするは不可能と云ふも妨《さまた》げざる可し。)殊に万人《ばんにん》の詩に入ること屡《しばしば》なりし景物を見るに独自の眼光を以てするは予等の最も難しとする所なり。試みに「暮春《ぼしゆん》」の句を成すを思へ。蕪村《ぶそん》の「暮春」を詠《えい》ぜし後《のち》、誰か又独自の眼光を以て「暮春」を詠じ得るの確信あらんや。梅花の如きもその一のみ。否、正にその最たるものなり。  梅花は予に伊勢物語《いせものがたり》の歌より春信《はるのぶ》の画《ゑ》に至る柔媚《じうび》の情を想起せしむることなきにあらず。然れども梅花を見る毎《ごと》に、まづ予の心を捉《とら》ふるものは支那に生じたる文人趣味《ぶんじんしゆみ》なり。こは啻《ただ》に予のみにあらず、大方《おほかた》の君子《くんし》も亦《また》然るが如し。(是《ここ》に於て乎《か》、中央公論記者も「梅花の賦《ふ》」なる語を用ゐるならん。)梅花を唯愛すべきジエヌス・プリヌスの花と做《な》すは紅毛碧眼《こうまうへきがん》の詩人のことのみ。予等は梅花の一瓣にも、鶴《つる》を想《おも》ひ、初月《しよげつ》を想ひ、空山《くうざん》を想ひ、野水《やすゐ》を想ひ、断角《だんかく》を想ひ、書燈を想ひ、脩竹《しうちく》を想ひ、清霜《せいさう》を想ひ、羅浮《らふ》を想ひ、仙妃《せんぴ》を想ひ、林処士《りんしよし》の風流を想はざる能《あた》はず。既《すで》に斯《か》くの如しとせば、予等独自の眼光を以て万象を観んとする芸術の士の、梅花に好意を感ぜざるは必《かならず》しも怪しむを要せざるべし。(こは夙《つと》に永井荷風《ながゐかふう》氏の「日本の庭」の一章たる「梅」の中に道破せる真理なり。文壇は詩人も心臓以外に脳髄を有するの事実を認めず。是《これ》予に今日《こんにち》この真理を盗用せしむる所以《ゆゑん》なり。)  予の梅花を見る毎《ごと》に、文人趣味を喚《よ》び起さるるは既に述べし所の如し。然れども妄《みだり》に予を以て所謂《いはゆる》文人と做《な》すこと勿《なか》れ。予を以て詐偽師《さぎし》と做《みな》すは可なり。謀殺犯人と做すは可なり。やむを得ずんば大学教授の適任者と做すも忍ばざるにあらず。唯幸ひに予を以て所謂《いはゆる》文人と做すこと勿れ。十便十宜帖《じふべんじふぎでふ》あるが故に、大雅《たいが》と蕪村《ぶそん》とを並称《へいしやう》するは所謂文人の為す所なり。予はたとひ宮《きゆう》せらるると雖《いへど》も、この種の狂人と伍することを願はず。  ひとり是のみに止《とどま》らず、予は文人趣味を軽蔑するものなり。殊に化政度《くわせいど》に風行《ふうかう》せる文人趣味を軽蔑するものなり。文人趣味は道楽のみ。道楽に終始すと云はば則ち已《や》まん。然れどももし道楽以上の貼札《はりふだ》を貼らんとするものあらば、山陽《さんやう》の画《ゑ》を観せしむるに若《し》かず。日本外史《にほんぐわいし》は兎《と》も角《かく》も一部の歴史小説なり。画に至つては呉《ご》か越《ゑつ》か、畢《つひ》につくね芋《いも》の山水のみ。更に又|竹田《ちくでん》の百活矣《ひやくくわつい》は如何《いかん》。これをしも芸術と云ふ可《べ》くんば、安来節《やすぎぶし》も芸術たらざらんや。予は勿論彼等の道楽を排斥せんとするものにあらず。予をして当時に生まれしめば、戯れに河童晩帰《かつぱばんき》の図を作り、山紫水明楼上の一粲《いつさん》を博せしやも亦《また》知る可からず。且又彼等も聰明の人なり。豈《あに》彼等の道楽を彼等の芸術と混同せんや。予は常に確信す、大正の流俗、芸術を知らず、無邪気なる彼等の常談《じやうだん》を大真面目《おほまじめ》に随喜し渇仰《かつがう》するの時、まづ噴飯《ふんぱん》に堪へざるものは彼等両人に外《ほか》ならざるを。  梅花は予の軽蔑する文人趣味を強ひんとするものなり、下劣詩魔《げれつしま》に魅《み》せしめんとするものなり。予は孑然《けつぜん》たる征旅の客《きやく》の深山|大沢《だいたく》を恐るるが如く、この梅花を恐れざる可からず。然れども思へ、征旅の客の踏破の快を想見するものも常に亦《また》深山大沢なることを。予は梅花を見る毎に、峨眉《がび》の雪を望める徐霞客《じよかかく》の如く、南極の星を仰げるシヤツクルトンの如く、鬱勃《うつぼつ》たる雄心をも禁ずること能《あた》はず。 [#天から3字下げ]灰捨てて白梅うるむ垣根かな  加ふるに凡兆《ぼんてう》の予等の為に夙《つと》に津頭《しんとう》を教ふるものあり。予の渡江に急ならんとする、何ぞ少年の客気《かくき》のみならんや。  予は独自の眼光を以て容易に梅花を観難《みがた》きが故に、愈《いよいよ》独自の眼光を以て梅花を観《み》んと欲するものなり。聊《いささ》かパラドツクスを弄《ろう》すれば、梅花に冷淡なること甚しきが故に、梅花に熱中すること甚しきものなり。高青邱《かうせいきう》の詩に云ふ。「瓊姿只合在瑤台《けいしただまさにえうたいにあるべし》 誰向江辺処処栽《たれかかうへんしよしよにむかつてうう》」又云ふ。「自去何郎無好詠《からうさつてよりかうえいなし》 東風愁寂幾回開《とうふうしうせきいくくわいかひらく》」真に梅花は仙人の令嬢か、金持の隠居の囲《かこ》ひものに似たり。(後者は永井荷風《ながゐかふう》氏の比喩《ひゆ》なり。必《かならず》しも前者と矛盾《むじゆん》するものにあらず)予の文に至らずとせば、斯《かか》る美人に対する感慨を想《おも》へ。更に又汝の感慨にして唯ほれぼれとするのみなりとせば、已《や》んぬるかな、汝も流俗のみ、済度《さいど》す可からざる乾屎橛のみ。      十一 暗合 「お富《とみ》の貞操」と云ふ小説を書いた時、お富は某氏夫人ではないかと尋ねられた人が三人ある。又あの小説の中に村上新三郎《むらかみしんざぶらう》と云ふ乞食《こじき》が出て来る。幕末に村上新五郎と云ふ奇傑がゐたが同一人《どういちにん》かと尋ねられた人もある。しかしあの小説は架空の談《はなし》だから、謂《い》ふ所のモデルを用ゐたのではない。「お富の貞操」の登場人物はお富と乞食と二人《ふたり》だけである。その二人とも実在の人物に似てゐると云ふのは珍らしい暗合《あんがふ》に違ひない。僕は以前|藤野古白《ふぢのこはく》の句に「傀儡師《くわいらいし》日暮れて帰る羅生門《らしやうもん》」と云ふのを見、「傀儡師」「羅生門」共に僕の小説集の名だから、暗合《あんがふ》の妙に驚いたことがある。然るに今又この暗合に出合つた。僕には暗合が祟《たた》つてゐるらしい。      十二 コレラ  コレラが流行《はや》るので思ひ出すのは、漱石《そうせき》先生の話である。先生の子供の時分にも、コレラが流行つたことがある。その時、先生は豆を沢山《たくさん》食つて、水を沢山飲んで、それから先生のお父さんと一緒《いつしよ》に、蚊帳《かや》の中に寝てゐたさうである。さうして、その明け方に、蚊帳の中で、いきなり吐瀉《としや》を始めたさうである。すると、先生のお父さんは「そら、コレラだ」と言つて、蚊帳を飛び出したさうである。蚊帳を飛び出して、どうするかと思ふと、何もすることがないものだから、まだ星が出てゐるのに庭を箒《はうき》で掃《は》き始めたさうである。勿論、先生の吐瀉《としや》したのは、豆と水とに祟《たた》られたので、コレラではなかつたが、この事があつたために、先生は人間の父たるもののエゴイズムを知つたと話してゐた。  コレラの小説では何があるか。紅葉《こうえふ》の「青葡萄《あをぶだう》」とかいふのが、多分、コレラの話だつたらう。La Motte といふ人の短篇に、日本のコレラを書いたのがある。何も際立《きはだ》つた事件はないが、魚河岸《うをがし》の暇になつたり、何かするところをなかなか器用に書いてある。  僕はコレラでは死にたくはない。へどを吐《は》いたり下痢《げり》をしたりする不風流な往生《わうじやう》は厭《い》やである。シヨウペンハウエルがコレラを恐《こは》がつて、逃げて歩いたことを読んだ時は、甚だ彼に同情した。ことに依ると、彼の哲学よりも、もつと、同情したかも知れない。  しかし、シヨウペンハウエル時代には、まだコレラは食物から伝染《でんせん》するといふことがわからなかつたのである。が、僕は現代に生れた難有《ありがた》さに、それをちやんと心得てゐるから、煮《に》たものばかり食つたり、塩酸レモナアデを服《の》んだり、悠悠と予防を講じてゐる。この間、臆病すぎると言つて笑はれたが、臆病は文明人のみの持つてゐる美徳である。臆病でない人間が偉ければ、ホツテントツトの王様に三拝《さんぱい》九拝《きうはい》するがいい。      十三 長崎  菱形《ひしがた》の凧《たこ》。サント・モンタニの空に揚《あが》つた凧《たこ》。うらうらと幾つも漂《ただよ》つた凧。  路ばたに商《あきな》ふ夏蜜柑やバナナ。敷石の日ざしに火照《ほて》るけはひ。町一ぱいに飛ぶ燕《つばめ》。  丸山《まるやま》の廓《くるわ》の見返《みかへ》り柳。  運河には石の眼鏡橋《めがねばし》。橋には往来《わうらい》の麦稈帽子《むぎわらばうし》。――忽ち泳《およ》いで来る家鴨《あひる》の一むれ。白白《しろじろ》と日に照つた家鴨の一むれ。  南京寺《なんきんでら》の石段の蜥蜴《とかげ》。  中華民国の旗。煙を揚げる英吉利《イギリス》の船。「港をよろふ山の若葉に光さし……」顱頂《ろちやう》の禿《は》げそめた斎藤茂吉《さいとうもきち》。ロテイ。沈南蘋《しんなんぴん》。永井荷風《ながゐかふう》。  最後に「日本の聖母の寺」その内陣《ないじん》のおん母マリア。穂麦《ほむぎ》に交《ま》じつた矢車《やぐるま》の花。光のない真昼の蝋燭《らふそく》の火。窓の外には遠いサント・モンタニ。  山の空にはやはり菱形《ひしがた》の凧。北原白秋《きたはらはくしう》の歌つた凧。うらうらと幾つも漂《ただよ》つた凧。      十四 東京田端  時雨《しぐれ》に濡《ぬ》れた木木の梢《こずゑ》。時雨に光ってゐる家家の屋根。犬は炭俵を積んだ上に眠り、鶏は一籠《ひとかご》に何羽もぢつとしてゐる。  庭木に烏瓜《からすうり》の下つたのは鋳物師《いもじ》香取秀真《かとりほづま》の家。  竹の葉の垣に垂れたのは、画家|小杉未醒《こすぎみせい》の家。  門内に広い芝生《しばふ》のあるのは、長者《ちやうじや》鹿島龍蔵《かしまりゆうざう》の家。  ぬかるみの路《みち》を前にしたのは、俳人|滝井折柴《たきゐせつさい》の家。  踏石《ふみいし》に小笹《こざさ》をあしらつたのは、詩人|室生犀星《むろふさいせい》の家。  椎《しひ》の木や銀杏《いてふ》の中にあるのは、――夕ぐれ燈籠《とうろう》に火のともるのは、茶屋|天然自笑軒《てんねんじせうけん》。  時雨《しぐれ》の庭を塞《ふさ》いだ障子。時雨の寒さを避ける火鉢。わたしは紫檀《したん》の机の前に、一本八銭の葉巻を啣《くは》へながら、一游亭《いちいうてい》の鶏の画《ゑ》を眺めている。 [#地から1字上げ](大正十一年―十三年) 底本:「筑摩全集類聚 芥川龍之介全集第四巻」筑摩書房    1971(昭和46)年6月5日初版第1刷発行    1979(昭和54)年4月10日初版第11刷発行 入力:土屋隆 校正:松永正敏 2007年6月26日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。