神鷺之巻 泉鏡花 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)白鷺明神《しらさぎみょうじん》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)偶然|知己《ちかづき》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)徜徉《さまよ》う -------------------------------------------------------        一  白鷺明神《しらさぎみょうじん》の祠《ほこら》へ――一緑の森をその峰に仰いで、小県銑吉《おがたせんきち》がいざ詣でようとすると、案内に立ちそうな村の爺さんが少なからず難色を顕《あら》わした。  この爺さんは、 「――おらが口で、更《あらた》めていうではねえがなす、内の媼《ばばあ》は、へい一通りならねえ巫女《いちこ》でがすで。」……  若い時は、渡り仲間の、のらもので、猟夫《かりゅうど》を片手間に、小賭博《こばくち》なども遣《や》るらしいが、そんな事より、古女房が巫女というので、聞くものに一種の威力があったのはいうまでもない。  またその媼巫女《うばいちこ》の、巫術《ふじゅつ》の修煉《しゅうれん》の一通りのものでない事は、読者にも、間もなく知れよう。  一体、孫八が名だそうだ、この爺さんは、つい今しがた、この奥州、関屋の在、旧――街道わきの古寺、西明寺《さいみょうじ》の、見る影もなく荒涼《あれすさ》んだ乱塔場で偶然|知己《ちかづき》になったので。それから――無住ではない、住職の和尚は、斎稼《ときかせ》ぎに出て留守だった――その寺へ伴われ、庫裡《くり》から、ここに准胝観世音《じゅんでいかんぜおん》の御堂《みどう》に詣でた。  いま、その御廚子《みずし》の前に、わずかに二三畳の破畳《やれだたみ》の上に居るのである。  さながら野晒《のざらし》の肋骨《あばらぼね》を組合わせたように、曝《さ》れ古びた、正面の閉した格子を透いて、向う峰の明神の森は小さな堂の屋根を包んで、街道を中に、石段は高いが、あたかも、ついそこに掛けた、一面墨絵の額、いや、ざっと彩った絵馬のごとく望まるる。  明神は女体におわす――爺さんがいうのであるが――それへ、詣ずるのは、石段の上の拝殿までだが、そこへ行《ゆ》くだけでさえ、清浄《しょうじょう》と斎戒《さいかい》がなければならぬ。奥の大巌《おおいわ》の中腹に、祠が立って、恭《うやうや》しく斎《いつ》き祭った神像は、大深秘で、軽々しく拝まれない――だから、参った処で、その効《かい》はあるまい……と行《ゆ》くのを留めたそうな口吻《くちぶり》であった。 「ごく内々の事でがすがなす、明神様のお姿というのはなす。」  時に、勿体ないが、大破落壁した、この御堂の壇に、観音の緑髪、朱唇《しゅしん》、白衣《びゃくえ》、白木彫《しらきぼり》の、み姿の、片扉金具の抜けて、自《おのず》から開いた廚子から拝されて、誰《た》が捧げたか、花瓶の雪の卯の花が、そのまま、御袖《みそで》、裳《もすそ》に紛《まが》いつつ、銑吉が参らせた蝋燭《ろうそく》の灯に、格天井《ごうてんじょう》を漏る昼の月影のごとく、ちらちらと薄青く、また金色《こんじき》の影がさす。 「なす、この観音様に、よう似てござらっしゃる、との事でなす。」……  ただこの観世音の麗相を、やや細面にして、玉の皓《しろ》きがごとく、そして御髪《みぐし》が黒く、やっぱり唇は一点の紅である。  その明神は、白鷺の月冠をめしている。白衣で、袴《はかま》は、白とも、緋《ひ》ともいうが、夜の花の朧《おぼろ》と思え。……  どの道、巌《いわお》の奥殿の扉を開くわけには行かないのだから、偏《ひとえ》に観世音を念じて、彼処《かしこ》の面影を偲《しの》べばよかろう。  爺さんは、とかく、手に取れそうな、峰の堂――絵馬の裡《なか》へ、銑吉を上らせまいとするのである。  第一|可恐《おそろし》いのは、明神の拝殿の蔀《しとみ》うち、すぐの承塵《なげし》に、いつの昔に奉納したのか薙刀《なぎなた》が一振《ひとふり》かかっている。勿論誰も手を触れず、いつ研いだ事もないのに、切味《きれあじ》の鋭さは、月の影に翔込《かけこ》む梟《ふくろう》、小春日になく山鳩は構いない。いたずらものの野鼠は真二つになって落ち、ぬたくる蛇は寸断《ずたずた》になって蠢《うごめ》くほどで、虫、獣《けだもの》も、今は恐れて、床、天井を損わない。  人間なりとて、心柄によっては無事では済まない。かねて禁断であるものを、色に盲《めし》いて血気な徒が、分別を取はずし、夜中、御堂へ、村の娘を連込んだものがあった。隔ての帳《とばり》も、簾《すだれ》もないのに――  ――それが、何と、明《あかる》い月夜よ。明神様もけなりがッつろと、二十三夜の月待の夜話《よばなし》に、森へ下弦の月がかかるのを見て饒舌《しゃべ》った。不埒《ふらち》を働いてから十五年。四十を越えて、それまでは内々恐れて、黙っていたのだが、――祟《たた》るものか、この通り、と鼻をさして、何の罰が当るかい。――舌も引かぬに、天井から、青い光がさし、その百姓屋の壁を抜いて、散りかかる柳の刃がキラリと座のものの目に輝いた時、色男の顔から血しぶきが立って、そぎ落された低い鼻が、守宮《やもり》のように、畳でピチピチと刎《は》ねた事さえある。  いま現に、町や村で、ふなあ、ふなあ、と鼻くたで、因果と、鮒《ふな》鰌《どじょう》を売っている、老ぼれがそれである。  村|若衆《わかいしゅ》の堂の出合は、ありそうな事だけれど、こんな話はどこかに類がないでもなかろう。  しかし、なお押重ねて、爺さんが言った、……次の事実は、少からず銑吉を驚かして、胸さきをヒヤリとさせた。  余り里近なせいであろう。近頃では場所が移った。が、以前は、あの明神の森が、すぐ、いつも雪の降ったような白鷺の巣であった。近く大正の末である。一夜に二件、人間二人、もの凄《すご》い異状が起った。  その一人は、近国の門閥家《もんばつか》で、地方的に名望権威があって、我が儘《まま》の出来る旦那《だんな》方。人に、鳥博士と称《とな》えられる、聞こえた鳥類の研究家で。家には、鳥屋というより、小さな博物館ぐらいの標本を備えもし、飼ってもいる。近県近郷の学校の教師、無論学生たち、志あるものは、都会、遠国からも見学に来《きた》り訪《と》うこと、須賀川の牡丹《ぼたん》の観賞に相斉《あいひと》しい。で、いずれの方面からも許されて、その旦那の紳士ばかりは、猟期、禁制の、時と、場所を問わず、学問のためとして、任意に、得意の猟銃の打金をカチンと打ち、生きた的に向って、ピタリと照準する事が出来る。  時に、その年は、獲ものでなしに、巣の白鷺の産卵と、生育状態の実験を思立たれたという。……雛《ひよ》ッ子はどんなだろう。鶏や、雀と違って、ただ聞いても、鴛鴦《おしどり》だの、白鷺のあかんぼには、博物にほとんど無関心な銑吉も、聞きつつ、早くまず耳を傾けた。  在所には、旦那方の泊るような旅館がない。片原の町へ宿を取って、鳥博士は、夏から秋へかけて、その時々。足繁くなると、ほとんど毎日のように、明神の森へ通ったが、思う壺の巣が見出せない。  ――村に猟夫《かりゅうど》が居る。猟夫《りょうし》といっても、南部の猪《いのしし》や、信州の熊に対するような、本職の、またぎ、おやじの雄《おす》ではない。のらくらものの隙稼《ひまかせ》ぎに鑑札だけは受けているのが、いよいよ獲ものに困《こう》ずると、極めて内証に、森の白鷺を盗み撃《うち》する。人目を憚《はばか》るのだから、忍びに忍んで潜入するのだが、いや、どうも、我折《がお》れた根気のいい事は、朝早くでも、晩方でも、日が暮れたりといえどもで、夏の末のある夜《よ》などは、ままよ宿鳥《ねどり》なりと、占めようと、右の猟夫《りょうし》が夜中|真暗《まっくら》な森を徜徉《さまよ》ううちに、青白い光りものが、目一つの山の神のように動いて来るのに出撞《でっくわ》した。けだし光は旦那方の持つ懐中電燈であった。が、その時の鳥旦那の装《よそおい》は、杉の葉を、頭や、腰のまわりに結びつけた、面《つら》まで青い、森の悪魔のように見えて、猟夫を息を引いて驚倒せしめた。旦那の智恵によると、鳥に近づくには、季節によって、樹木と同化するのと、また鳥とほぼ服装の彩《いろどり》を同じゅうするのが妙術だという。  それだから一夜に事の起った時は、冬で雪が降っていたために、鳥博士は、帽子も、服も、靴まで真白《まっしろ》にしていた、と話すのであった。       (……?……)  ところで、鳥博士も、猟夫《りょうし》も、相互の仕事が、両方とも邪魔にはなるが、幾度《いくたび》も顔を合わせるから、逢えば自然と口を利く。「ここのおつかい姫は、何だな、馬鹿に恥かしがり屋で居るんだな。なかなか産む処を見せないが。」「旦那、とんでもねえ罰が当る。」「撃つやつとどうかな。」段々秋が深くなると、「これまでのは渡りものの、やす女だ、侍女《こしもと》も上等のになると、段々|勿体《もったい》をつけて奥の方へ引込むな。」従って森の奥になる。「今度見つけた巣は一番上等だ。鷺の中でも貴婦人となると、産は雪の中らしい。人目を忍ぶんだな。産屋《うぶや》も奥御殿という処だ。」「やれ、罰が当るてば。旦那。」「撃つやつとどうかな。」――雪の中に産育する、そんな鷺があるかどうかは知らない。爺さんの話のまま――猟夫《りょうし》がこの爺さんである事は言うまでもなかろうと思う。さて猟夫が、雪の降頻《ふりしき》る中を、朝の間《ま》に森へ行《ゆ》くと、幹と根と一面の白い上に、既に縦横に靴で踏込んだあとがあった。――畜生、こんなに疾《はや》くから旦那が来ている。博士の、静粛な白銀《しろがね》の林の中なる白鷺の貴婦人の臨月の観察に、ズトン! は大禁物であるから、睨《にら》まれては事こわしだ。一旦《いったん》破寺《やれでら》――西明寺はその一頃は無住であった――その庫裡《くり》に引取って、炉に焚火《たきび》をして、弁当を使ったあとで、出直して、降積った雪の森に襲い入ると、段々に奥深く、やがて向うに青い水が顕《あら》われた、土地で、大沼というのである。  今はよく晴れて、沼を囲んだ、樹の袖、樹の裾《すそ》が、大《おおい》なる紺青《こんじょう》の姿見を抱《いだ》いて、化粧するようにも見え、立囲った幾千の白い上﨟《じょうろう》が、瑠璃《るり》の皎殿《こうでん》を繞《めぐ》り、碧橋《へききょう》を渡って、風に舞うようにも視《なが》められた。  この時、煩悩《ぼんのう》も、菩提《ぼだい》もない。ちょうど汀《なぎさ》の銀の蘆《あし》を、一むら肩でさらりと分けて、雪に紛《まが》う鷺が一羽、人を払う言伝《ことづて》がありそうに、すらりと立って歩む出端《でばな》を、ああ、ああ、ああ、こんな日に限って、ふと仰がるる、那須嶽連山の嶺《みね》に、たちまち一朶《いちだ》の黒雲の湧《わ》いたのも気にしないで、折敷《おりしき》にカンと打った。キャッ! と若い女の声。魂《たま》ぎる声。  這《は》ったか、飛んだか、辷《すべ》ったか。猟夫《りょうし》が目くるめいて駆付けると、凍《い》てざまの白雪に、ぽた、ぽた、ぽたと紅《あけ》が染まって、どこを撃ったか、黒髪の乱れた、うつくしい女が、仰向《あおむ》けに倒れ、もがいた手足をそのままに乱れ敷いていたのである。  いやが上の恐怖と驚駭《きょうがい》は、わずかに四五間離れた処に、鳥の旦那が真白《まっしろ》なヘルメット帽、警官の白い夏服で、腹這《はらばい》になっている。「お助けだ――旦那、薬はねえか。」と自分が救われたそうに手を合せた。が、鳥旦那は――鷺が若い女になる――そんな魔法は、俺が使ったぞ、というように知らん顔して、遠めがねを、それも白布で巻いたので、熟《じっ》とどこかの樹を枝を凝視《みつ》めていて、ものも言わない。  猟夫は最期《いまわ》と覚悟をした。……  そこで、急いで我が屋へ帰って、不断、常住、無益な殺生を、するな、なせそと戒める、古女房の老|巫女《いちこ》に、しおしおと、青くなって次第を話して、……その筋へなのって出るのに、すぐに梁《はり》へ掛けたそうに褌《ふんどし》をしめなおすと、梓《あずさ》の弓を看板に掛けて家業にはしないで、茅屋《あばらや》に隠れてはいるが、うらないも祈祷《きとう》も、その道の博士だ――と言う。どういうものか、正式に学校から授けない、ものの巧者は、学士を飛越えて博士になる。博士|神巫《いちこ》が、亭主が人殺しをして、唇の色まで変って震えているものを、そんな事ぐらいで留《や》めはしない……冬の日の暗い納戸で、糸車をじい……じい……村も浮世も寒さに喘息《ぜんそく》を病んだように響かせながら、猟夫に真裸《まっぱだか》になれ、と歯茎を緊《し》めて厳《おごそか》に言った。経帷子《きょうかたびら》にでも着換えるのか、そんな用意はねえすべい。……井戸川で凍死《こごえじに》でもさせる気だろう。しかしその言《ことば》の通りにすると、蓑《みの》を着よ、そのようなその羅紗《らしゃ》の、毛くさい破《やぶれ》帽子などは脱いで、菅笠《すげがさ》を被《かぶ》れという。そんで、へい、苧殻《おがら》か、青竹の杖《つえ》でもつくか、と聞くと、それは、ついてもつかいでも、のう、もう一度、明神様の森へ走って、旦那が傍《そば》に居ようと、居まいと、その若い婦女《おんな》の死骸《しがい》を、蓑の下へ、膚《はだ》づけに負いまして、また早や急いで帰れ、と少し早めに糸車を廻わしている。  いや、もう、肝魂《きもたま》を消して、さきに死骸の傍を離れる時から、那須颪《なすおろし》が真黒《まっくろ》になって、再び、日の暮方の雪が降出したのが、今度行向う時は、向風の吹雪になった。が、寒さも冷たさも猟夫は覚えぬ。ただ面《つら》を打って巴卍《ともえまんじ》に打ち乱れる紛泪《ふんぱく》の中に、かの薙刀《なぎなた》の刃がギラリと光って、鼻耳をそがれはしまいか。幾度立ちすくみになったやら。……  我が手で、鉄砲でうった女の死骸を、雪を掻《か》いて膚におぶった、そ、その心持というものは、紅蓮《ぐれん》大紅蓮の土壇《どたん》とも、八寒地獄の磔柱《はりつけばしら》とも、譬《たと》えように口も利けぬ。ただ吹雪に怪飛《けしと》んで、亡者のごとく、ふらふらと内へ戻ると、媼巫女《うばみこ》は、台所の筵敷《むしろじき》に居敷《いしか》り、出刃庖丁をドギドギと研いでいて、納戸の炉に火が燃えて、破鍋《われなべ》のかかったのが、阿鼻とも焦熱とも凄《すさま》じい。……「さ、さ、帯を解け、しての、死骸を俎《まないた》の上へ、」というが、石でも銅《あかがね》でもない。台所の俎で。……媼《うば》の形相は、絵に描いた安達《あだち》ヶ原と思うのに、頸《くび》には、狼の牙《きば》やら、狐の目やら、鼬《いたち》の足やら、つなぎ合せた長数珠《ながじゅず》に三重《みえ》に捲《ま》きながらの指図でござった。  ……不思議というは、青い腰も血の胸も、死骸はすっくり俎の上へ納って、首だけが土間へがっくりと垂れる。めったに使ったことのない、大俵の炭をぶちまけたように髻《もとどり》が砕けて、黒髪が散りかかる雪に敷いた。媼が伸上り、じろりと視《み》て、「天人のような婦《おんな》やな、羽衣を剥《む》け、剥け。」と言う。襟も袖も引き毮《むし》る、と白い優しい肩から脇の下まで仰向《あおむ》けに露《あら》われ、乳へ膝を折上げて、くくられたように、踵《かかと》を空へ屈《かが》めた姿で、柔《やわらか》にすくんでいる。「さ、その白《しら》ッこい、膏《あぶら》ののった双ももを放さっしゃれ。獣《けだもの》は背中に、鳥は腹に肉があるという事いの。腹から割《さ》かっしゃるか、それとも背から解《ひら》くかの、」と何と、ひたわななきに戦《わなな》く、猟夫の手に庖丁を渡して、「えい、それ。」媼が、女の両脚を餅のように下へ引くとな、腹が、ふわりと動いて胴がしんなりと伸び申したなす。 「観音様の前だ、旦那、許さっせえ。」  御廚子の菩薩《ぼさつ》は、ちらちらと蝋燭の灯に瞬きたまう。  ――茫然《ぼうぜん》として、銑吉は聞いていた――  血は、とろとろと流れた、が、氷ったように、大腸小腸《おおわたこわた》、赤肝《あかぎも》、碧胆《あおぎも》、五臓は見る見る解き発《あば》かれ、続いて、首を切れと云う。その、しなりと俎の下へ伸びた皓々《しろじろ》とした咽喉首《のどくび》に、触ると震えそうな細い筋よ、蕨《わらび》、ぜんまいが、山賤《やましず》には口相応、といって、猟夫だとて、若い時、宿場女郎の、※[#「参らせ候」のくずし字、65-2]《まいらせそろ》もかしくも見たれど、そんなものがたとえになろうか。……若菜の二葉の青いような脈筋が透いて見えて、庖丁の当てようがござらない。容顔が美麗なで、気後《きおく》れをするげな、この痴気《たわけ》おやじと、媼はニヤリ、「鼻をそげそげ、思切って。ええ、それでのうては、こな爺《じじ》い、人殺しの解死人《げしにん》は免《のが》れぬぞ、」と告《の》り威《おど》す。――命ばかりは欲《ほし》いと思い、ここで我が鼻も薙刀《なぎなた》で引《ひき》そがりょう、恐ろしさ。古手拭《ふるてぬぐい》で、我が鼻を、頸窪《ぼんのくぼ》へ結《ゆわ》えたが、美しい女の冷い鼻をつるりと撮《つま》み、じょきりと庖丁で刎《は》ねると、ああ、あ痛《つつ》、焼火箸《やけひばし》で掌《てのひら》を貫かれたような、その疼痛《いたさ》に、くらんだ目が、はあ、でんぐり返って気がつけば、鼻のかわりに、細長い鳥の嘴《くちばし》を握っていて、俎の上には、ただ腹を解いた白鷺が一羽。蓑毛も、胸毛も、散りぢりに、血は俎の上と、鷺の首と、おのが掌にたらたらと塗《まみ》れていた。  媼が世帯ぶって、口軽に、「大ごなしが済んだあとは、わしが手でぶつぶつと切っておましょ。鷺の料理は知らぬなれど、清汁《すまし》か、味噌か、焼こうかの。」と榾《ほだ》をほだて、鍋を揺《ゆす》ぶって見せつけて、「人間の娘も、鷺の婦《おんな》も、いのち惜しさにかわりはないぞの。」といわれた時は、俎につくばい、鳥に屈《かが》み、媼に這《は》って、手をついた。断つ、断つ、ふッつりと猟を断つ、慰みの無益の殺生は、断つわいやい。  畠《はたけ》二三枚、つい近い、前畷《まえなわて》の夜の雪路《ゆきみち》を、狸が葬式を真似《まね》るように、陰々と火がともれて、人影のざわざわと通り過ぎたのは――真中《まんなか》に戸板を舁《か》いていた。――鳥旦那の、凍えて人事不省《ひとごこちなく》なったのを助け出した、行列であった。  町の病院で、二月以上煩ったが、凍傷のために、足の指二本、鼻の尖《さき》が少々、とれた、そげた、欠けた、はて何といおう、もげたと言おう、もげた。  どうも解《げ》せぬ。さて、合点のゆかない。現におつかい姫を、鉄砲で撃った猟夫は、肝を潰《つぶ》しただけで、無事に助かった。旦那はまず不具《かたわ》だ。巣を見るばかりで、その祟《たた》りは、と内証《ないしょ》で声をひそめて、老巫女《おいみこ》に伺《うかがい》を立てた。されば、明神様の思召《おぼしめ》しは、鉄砲は避《よ》けもされる。また眷属《けんぞく》が怪我《けが》に打たれまいものではない。――御殿の閨《ねや》を覗《のぞ》かれ、あまつさえ、帳《とばり》の奥のその奥の産屋を――おみずからではあるまいが――お煩《うるさ》い……との事である。  要するに、御堂の女神は、鉄砲より、研究がおきらいなのである。―― 「――万事、その気でござらっしゃれよ。」 「勿論です――」  が、まだその上にも、銑吉を一人で御堂へ行《ゆ》かせるのは、気づかいらしくもあり、好もしくない様子が見えた。すなわち明神の祠《ほこら》へは、孫八爺さんが一所に行こうという。銑吉とても、ただ怯《おど》かしばかりでもなさそうな、秘密と、奇異と、第一、人気のまるでないその祠に、入口に懸《かか》った薙刀《なぎなた》を思うと、掛釘が錆朽《さびく》ちていまいものでもなし、控えの綱など断切れていないと限らない。同行はむしろ便宜であったが。  さて、旧街道を――庫裡《くり》を一廻り、寺の前から――路を埋《うず》めた浅茅《あさじ》を踏んで、横切って、石段下のたらたら坂《ざか》を昇りかかった時であった。明神の森とは、山波をつづけて、なだらかに前《もと》来た片原の町はずれへ続く、それを斜《ななめ》に見上げる、山の端《は》高き青芒《あおすすき》、蕨《わらび》の広葉の茂った中へ、ちらりと出た……さあ、いくつぐらいだろう、女の子の紅《あか》い帯が、ふと紅《もみ》の袴《はかま》のように見えたのも稀有《けう》であった、が、その下ななめに、草堤《くさどて》を、田螺《たにし》が二つ並んで、日中《ひなか》の畝《あぜ》うつりをしているような人影を見おろすと、 「おん爺《じ》いええ。」  と野へ響く、広く透《とお》った声で呼んだ。  貝の尖《さき》の白髪《しらが》の田螺が、 「おお。」 「爺《じ》ン爺《じ》いよう。」 「……爺ン爺い、とこくわ――おおよ。」 「媼《ば》ン媼《ば》が、なあえ、すぐに帰って、ござれとよう。」 「酒でも餅でもあんめえが、……やあ。」 「知らねえよう。」 「客人と、やい、明神様詣るだと、言うだあよう。」 「何《あん》でも帰れ、とよう。媼ン媼が言うだがええ。」  なぜか、その女の子、その声に、いや、その言托《ことづけ》をするものに、銑吉さえ一種の威のあるのを感じた。 「そんでは、旦那。」  白髪の田螺は、麦稈帽《むぎわらぼう》の田螺に、ぼつりと分れる。        二 「――何だ、薙刀《なぎなた》というのは、――絵馬の画《え》――これか。」  あの、爺い。口さきで人を薙刀に掛けたな。銑吉は御堂の格子を入って、床の右横の破欄間《やれらんま》にかかった、絵馬を視《み》て、吻《ほっ》と息を吐《つ》きつつ微笑《ほほえ》んだ。  しかし、一口に絵馬とはいうが、入念《じゅねん》の彩色《さいしき》、塗柄の蒔絵《まきえ》に唐草さえある。もっとも年数のほども分らず、納《おさめ》ぬしの文字などは見分けがつかない。けれども、塗柄を受けた服紗《ふくさ》のようなものは、紗綾《さや》か、緞子《どんす》か、濃い紫をその細工ものに縫込んだ。  武器は武器でも、念流、一刀流などの猛者《もさ》の手を経たものではない。流儀の名の、静《しずか》も優しい、婦人の奉納に違いない。  眉も胸も和《なごやか》になった。が、ここへ来て彳《たたず》むまで、銑吉は実は瞳を据え、唇を緊《し》めて、驚破《すわ》といわばの気構《きがまえ》をしたのである。何より聞怯《ききお》じをした事は、いささかたりとも神慮に背くと、静流《しずかりゅう》がひらめくとともに、鼻を殺《そ》がるる、というのである。  これは、生命《いのち》より可恐《おそろし》い。むかし、悪性《あくしょう》の唐瘡《とうがさ》を煩ったものが、厠《かわや》から出て、嚔《くしゃみ》をした拍子に、鼻が飛んで、鉢前をちょろちょろと這った、二十三夜講の、前《さき》の話を思出す。――その鼻の飛んだ時、キャッと叫ぶと、顔の真中《まんなか》へ舌が出て、もげた鼻を追掛《おっか》けたというのである。鳥博士のは凍傷と聞いたが、結果はおなじい。  鼻をそがれて、顔の真中へ舌が出たのでは、二度と東京が見られない。第一汽車に乗せなかろう。  草生《くさおい》の坂を上る時は、日中《ひなか》三時さがり、やや暑さを覚えながら、幾度も単衣《ひとえ》の襟を正した。  銑吉は、寺を出る時、羽織を、観世音の御堂に脱いで、着流しで扇を持った。この形は、さんげ、さんげ、金剛杖《こうごうづえ》で、お山に昇る力もなく、登山靴で、嶽《たけ》を征服するとかいう偉さもない。明神の青葉の砦《とりで》へ、見すぼらしく降参をするに似た。が、謹んでその方が無事でいい。  石段もところどころ崩れ損じた、控綱の欲《ほし》いほど急ではないが、段の数は、累々と畳まって、半身を、夏の雲に抽《ぬ》いた、と思うほど、聳《そび》えていた。  ここに、思掛けなかったのは――不断ほとんど詣ずるもののない、無人《むにん》の境だと聞いただけに、蛇類のおそれ、雑草が伸茂って、道を蔽《おお》うていそうだったのが、敷石が一筋、すっと正面の階段まで、常磐樹《ときわぎ》の落葉さえ、五枚六枚数うるばかり、草を靡《なび》かして滑かに通った事であった。  やがて近づく、御手洗《みたらし》の水は乾いたが、雪の白山《はくさん》の、故郷《ふるさと》の、氏神を念じて、御堂の姫の影を幻に描いた。  すぐその御手洗の傍《そば》に、三抱《みかかえ》ほどなる大榎《おおえのき》の枝が茂って、檜皮葺《ひわだぶき》の屋根を、森々《しんしん》と暗いまで緑に包んだ、棟の鰹木《かつおぎ》を見れば、紛《まが》うべくもない女神《じょしん》である。根上りの根の、譬《たと》えば黒い珊瑚碓《さんごしょう》のごとく、堆《うずたか》く築いて、青く白く、立浪《たつなみ》を砕くように床の縁下へ蟠《わだかま》ったのが、三間四面の御堂を、組桟敷のごとく、さながら枝の上に支えていて、下蔭はたちまち、ぞくりと寒い、根の空洞《うつろ》に、清水があって、翠珠《すいしゅ》を湛《たた》えて湧《わ》くのが見える。  銑吉はそこで手を浄《きよ》めた。  階段を静《しずか》に――むしろ密《そっ》と上りつつ、ハタと胸を衝《つ》いたのは、途中までは爺さんが一所に来る筈《はず》だった。鍵を、もし、錠《じょう》がささっていれば、扉は開《あ》かない、と思ったのに、格子は押附けてはあるが、合せ目が浮いていた。裡《なか》の薄暗いのは、上の大樹の茂りであろう。及腰《およびごし》ながら差覗《さしのぞ》くと、廻縁《まわりえん》の板戸は、三方とも一二枚ずつ鎖《とざ》してない。  手を扉にかけた。  裡《うち》の、その真上に、薙刀《なぎなた》がかかっている筈である。  そこで、銑吉がどんな可笑《おかし》な態《ふう》をしたかは、およそ読者の想像さるる通りである。 「お通しを願います、失礼。」  と云った。  片扉、とって引くと、床も青く澄んで朗《ほがら》か。  絵馬を見て、彳《たたず》んで、いま、その心易さに莞爾《にっこり》としたのである。  思いも掛けず、袖を射て、稲妻が飛んだ。桔梗《ききょう》、萩、女郎花《おみなえし》、一幅《いっぷく》の花野が水とともに床に流れ、露を縫った銀糸の照る、彩《いろ》ある女帯が目を打つと同時に、銑吉は宙を飛んで、階段を下へ刎《は》ね落ちた。再び裾《すそ》へ飜《ひるが》えるのは、柄長き薙刀の刃尖《はさき》である。その稲妻が、雨のごとき冷汗を透《とお》して、再び光った。  次の瞬間、銑吉の身は、ほとんど本能的に大榎《おおえのき》の幹を小盾《こだて》に取っていた。  どうも人間より蝉に似ている。堂の屋根うらを飛んで、樹へ遁《に》げたその形が。――そうして、少時《しばらく》して、青い顔の目ばかり樹の幹から出した処は、いよいよ似ている。  柳の影を素膚《すはだ》に絡《まと》うたのでは、よもあるまい。よく似た模様をすらすらと肩|裳《もすそ》へ、腰には、淡紅《とき》の伊達巻ばかり。いまの花野の帯は、黒格子を仄《ほのか》に、端が靡《なび》いて、婦人《おんな》は、頬のかかり頸脚《えりあし》の白く透通る、黒髪のうしろ向きに、ずり落ちた褄《つま》を薄く引き、ほとんど白脛《しらはぎ》に消ゆるに近い薄紅の蹴出《けだ》しを、ただなよなよと捌《さば》きながら、堂の縁の三方を、そのうしろ向きのまま、するすると行《ゆ》き、よろよろと還《かえ》って、往《ゆ》きつ戻りつしている。その取乱した態《ふり》の、あわただしい中《うち》にも、媚《なまめか》しさは、姿の見えかくれる榎の根の荘厳に感じらるるのさえ、かえって露草の根の糸の、細く、やさしく戦《そよ》ぎ縺《もつ》れるように思わせつつ、堂の縁を往来《ゆきき》した。が、後姿のままで、やがて、片扉開いた格子に、ひたと額をつけて、じっと留まると、華奢《きゃしゃ》な肩で激しく息をした。髪が髢《かもじ》のごとくさらさらと揺れた。その立って、踏みぐくめつつも乱れた裾《すそ》に、細く白々と鳥の羽のような軽い白足袋の爪尖《つまさき》が震えたが、半身を扉に持たせ、半ばを取縋《とりすが》って、柄を高くついた、その薙刀が倒《さかさま》で……刃尖《はさき》が爪先を切ろうとしている。  戦《いくさ》は、銑吉が勝らしい。由来いかなる戦史、軍記にも、薙刀を倒《さかさま》についた方は負である。同時に、その刃尖が肉を削り、鮮血《なまち》が踵《かかと》を染めて伝わりそうで、見る目も危い。  青い蝉が、かなかなのような調子はずれの声を、 「貴女《あなた》、貴女、誰方《どなた》にしましても、何事にしましても、危い、それは危い。怪我をします。怪我をします。気をおつけなさらないと。」  髪を分けた頬を白く、手首とともに、一層扉に押当てて、 「あああ」  とやさしい、うら若い、あどけないほどの、うけこたえとまでもない溜息を深くすると、 「小県さん――」  冴《さ》えて、澄み、すこし掠《かす》れた細い声。が、これには銑吉が幹の支えを失って、手をはずして落ちようとした。堂の縁の女でなく、大榎の梢《こずえ》から化鳥《けちょう》が呼んだように聞えたのである。 「……小県さん、ほんとうの小県さんですか。」  この場合、声はまた心持|涸《か》れたようだが、やっぱり澄んで、はっきりした。  夏は簾《すだれ》、冬は襖《ふすま》、間《ま》を隔てた、もの越《ごし》は、人を思うには一段、床《ゆか》しく懐しい。……聞覚えた以上であるが、それだけに、思掛けなさも、余りに激しい。――  まだ人間に返り切れぬ。薙刀|怯《おび》えの蝉は、少々|震声《ふるえごえ》して、 「小県ですよ、ほんとう以上の小県銑吉です、私です。――ここに居ますがね。……築地の、東京の築地の、お誓さん、きみこそ、いや、あなたこそ、ほんとうのお誓さんですか。」 「ええ、誓ですの、誓ですの、誓の身の果《はて》なんですの。」 「あ、危い。」  長刀《なぎなた》は朽縁《くちえん》に倒れた。その刃の平《ひら》に、雪の掌《たなそこ》を置くばかり、たよたよと崩折《くずお》れて、顔に片袖を蔽《おお》うて泣いた。身の果と言う……身の果か。かくては、一城の姫か、うつくしい腰元の――敗軍には違いない――落人《おちゅうど》となって、辻堂に徜徉《さまよ》った伝説を目《ま》のあたり、見るものの目に、幽窈《ゆうよう》、玄麗《げんれい》の趣があって、娑婆《しゃば》近い事のようには思われぬ。  話は別にある。今それを言うべき場合でない。築地の料理店梅水の娘分で、店はこの美人のために賑《にぎわ》った。早くから銑吉の恋人である。勿論、その恋を得たのでもなければ、意を通ずるほどの事さえも果さないうちに、昨年の夏、梅水が富士の裾野へ暑中の出店をして、避暑かたがた、お誓がその店を預ったのを知っただけで、この時まで、その消息を知らなかった次第なのである。……  その暑中の出店が、日光、軽井沢などだったら、雲のゆききのゆかりもあろう。ここは、関屋を五里六里、山路《やまみち》、野道を分入った僻村《へきそん》であるものを。――  ――実は、銑吉は、これより先き、麓《ふもと》の西明寺の庫裡《くり》の棚では、大木魚の下に敷かれた、女持の提紙入《ハンドバック》を見たし、続いて、准胝観音《じゅんでいかんのん》の御廚子《みずし》の前に、菩薩が求児擁護《ぐうじようご》の結縁《けちえん》に、紅白の腹帯を据えた三方に、置忘れた紫の女|扇子《おうぎ》の銀砂子《ぎんすなご》の端《はし》に、「せい」としたのを見て、ぞっとした時さえ、ただ遥《はるか》にその人の面影をしのんだばかりであったのに。  かえって、木魚に圧《お》された提紙入には、美女の古寺の凌辱《りょうじょく》を危《あやぶ》み、三方の女扇子には、姙娠の婦人《おんな》の生死《しょうし》を懸念して、別に爺さんに、うら問いもしたのであったが、爺さんは、耳をそらし、口を避けて、色ある二品《ふたしな》のいわれに触れるのさえ厭《いと》うらしいので、そのまま黙した事実があった。  ただ、あだには見過し難《がた》い、その二品に対する心ゆかしと、帰路《かえり》には必ず立寄るべき心のしるしに、羽織を脱いで、寺にさし置いた事だけを――言い添えよう。  いずれにしても、ここで、そのお誓に逢おうなどとは……譬《たとえ》にこまった……間に合わせに、されば、箱根で田沢湖を見たようなものである。        三 「――余り不思議です。お誓さん、ほんとのお誓さんなら、顔を見せて下さい、顔を……こっちを向いて、」  ほとんど樹の枝に乗った位置から、おのずと出る声の調子に、小県は自分ながら不気味を感じた。  きれぎれに、 「お恥かしくって、そちらが向けないほどなんですもの。」  泣声だし、唇を含んでかすれたが、まさか恥かしいという顔に異状はあるまい。およそ薙刀を閃《ひら》めかして薙《な》ぎ伏せようとした当の敵に対して、その身構えが、背後《うしろ》むきになって、堂の縁を、もの狂わしく駆廻ったはおろか、いまだに、振向いても見ないで、胸を、腹部を袖で秘《かく》すらしい、というだけでも、この話の運びを辿《たど》って、読者も、あらかじめ頷《うなず》かるるであろう、この婦《おんな》は姙娠している。 「私が、そこへ行《ゆ》きますが、構いませんか。今度は、こっちで武芸を用いる。高いこの樹の根からだと、すれすれだから欄干が飛べそうだから。」  婦《おんな》は、格子に縋《すが》って、また立った。なおその背後向きのままで居る。 「しかし、その薙刀を何とかして下さらないか。どうも、まことに、危いのですよ。」 「いま、そちらへ参りますよ。」  落ついて静《しずか》にいうのが、遠く、築地の梅水で、お酌ねだりをたしなめるように聞えて、銑吉はひとりで苦笑した。すぐに榎の根を、草へ下りて、おとなしく控え待った。  枝がくれに、ひらひらと伸び縮みする……というと蛇体にきこえる、と悪い。細《ほっそ》りした姿で、薄い色の褄《つま》を引上げ、腰紐を直し、伊達巻をしめながら、襟を掻合《かきあ》わせ掻合わせするのが、茂りの彼方《かなた》に枝透いて、簾《すだれ》越に薬玉《くすだま》が消えんとする。  やがて、向直って階《きざはし》を下りて来た。引合わせている袖の下が、脇明《わきあけ》を洩《も》れるまで、ふっくりと、やや円い。  牡丹《ぼたん》を抱《いだ》いた白鷺の風情である。  見まい。 「水をのみます。小県さん、私……息が切れる。」  と、すぐその榎の根の湧水《わきみず》に、きように褄を膝に挟んで、うつむけにもならず尋常に二の腕をあらわに挿入《さしい》れた。榎の葉蔭に、手の青い脈を流れて、すぐ咽喉《のど》へ通りそうに見えたが、掬《く》もうとすると、掌《たなそこ》が薄く、玉の数珠《じゅず》のように、雫《しずく》が切れて皆|溢《こぼ》れる。 「両掌《りょうて》でなさい、両掌で……明神様の水でしょう。野郎に見得も何《な》にもいりゃしません。」 「はい、いいえ。」  膝の上へ、胸をかくして折りかけた袖を圧《おさ》え、やっぱり腹部を蔽《おお》うた、その片手を離さない。 「だって、両掌を突込《つっこ》まないじゃ、いけないじゃありませんか。」 「ええ、あの柄杓《ひしゃく》があるんですけど。」 「柄杓、」  手水鉢《ちょうずばち》に。 「ああ、手近です。あげましょう。青い苔《こけ》だけれどもね、乾いているから安心です、さあ。」 「済みません、小県さん、私知っていましたんですけど、つい、とっちてしまいましたの。」 「ところで……ちょっとお待ちなさい。この水は飲んで差支えないんですかね。」 「ええ、冷い、おいしい、私は毎日のように飲んでいます。」  それだと毎日この祠《ほこら》へ。 「あ、あ。」  と、消えるように、息を引いて、 「おいしいこと、ああ、おいしい。」  唇も青澄んだように見える。 「うらやましいなあ。飲んだらこっちへ貸して下さい。」 「私が。」  とて、柄を手巾《ハンケチ》で拭《ふ》いたあとを、見入っていた。 「どうしました。」 「髪がこんなですから、毛が落ちているといけませんわ。」 「満々《なみなみ》と下さい。ありがたい、これは冷い。一気には舌が縮みますね。」  とぐっと飲み、 「甘露が五臓へ沁《し》みます。」  と清《すず》しく云った。  小県の顔を、すっと通った鼻筋の、横顔で斜《ななめ》に視《み》ながら、 「まあ、おきれいですこと。」 「水?……勿論!」 「いいえ、あなたが。」 「あなたが。」 「さっき、絵馬を見ていらっしゃいました時もおきれいだと思ったんですが、清水を一息にめしあがる処が、あの……」 「いや、どうも、そりゃちと違いましょう。牛肉のバタ焼の黒煙を立てて、腐った樽柿の息を吹くのと、明神の清水を汲《く》んで、松風を吸ったのでは、それは、いくらか違わなくっては。」  と、はじめて声を出して軽く笑った。 「透通るほどなのは、あなたさ。」 「ええ。」  と無邪気にうけながら、ちょっと眉を顰《ひそ》めた。乳《ち》の下を且つ蔽《おお》う袖。 「一度、二十許《はたちばか》りの親類の娘を連れて、鬼子母神《きしもじん》へ参詣《さんけい》をした事がありますがね、桐の花が窓へ散る、しんとした御堂《おどう》の燈明で視《み》た、襟脚のよさというものは、拝んで閉じた目も凜《りん》として……白さは白粉《おしろい》以上なんです。――前刻《さっき》も山下のお寺の観世音の前で……お誓さん――女持の薄紫の扇を視ました。ああ、ここへお参りして拝んだ姿は、どんなに美しかろうと思いましたが。」  誓はうつむく。  その襟脚はいうまでもなかろう。 「その人もわかりました。いまおなじ人が、この明神様に籠《こも》ったのもわかったのです。が、お待ちなさいよ。絵馬を、私が視ていた時、お誓さんは、どこに居て……」 「ええ、そして、あの、何をしたんだとおっしゃいましょう。」  つと寄ると、手巾《ハンケチ》を払った手で、柄杓の柄の半ばを取りしめた。その半ばを持ったまま、居処《いどころ》をかえて、小県は、樹の高根に腰を掛けた。 「言いますわ、私……ですが、あなたは、あなたは、どうして、ここへ……」 「おたずね、ごもっともです。――少し気取るようだけれど、ちょっと柄にない松島見物という不了簡《ふりょうけん》を起して……その帰り道なんです。――先祖の墓参りというと殊勝ですが、それなら、行きみちにすべき筈です。関屋まで来ると、ふと、この片原の在所の寺、西明寺ですね。あすこに先祖の墓のある事を、子供のうち、爺さん、祖母《ばあ》さんに聞いていたのを思出しました。勿体ないが、ろくに名も知らない人たちです。  墓は、草に埋《うず》まって皆分りません、一家遠国へ流転のうちに、無縁同然なんですから、寺もまた荒れていますしね。住職も留守で、過去帳も見られないし、その寺へ帰るのを待つ間《ま》に――しかし、そればかりではありません。  ――片原の町から寺へ来る途中、田畝畷《たんぼなわて》の道端に、お中食処《ちゅうじきどころ》の看板が、屋根、廂《ひさし》ぐるみ、朽倒れに潰《つぶ》れていて、清い小流《こながれ》の前に、思いがけない緋牡丹《ひぼたん》が、」  お誓は、おくれ毛を靡《なび》かし、顔を上げる。 「その花の影、水岸に、白鷺が一羽居て、それが、斑蝥《はんみょう》――人を殺す大毒虫――みちおしえ、というんですがね、引啣《ひきくわ》えて、この森の空へ飛んだんです。  まだその以前、その前ですよ。片原まで来る途中、林の中の道で、途中から、不意に、無理やりに、私の雇った自動車へ乗込んだ、いやな、不気味な人相、赤い服装、赤いヘルメット帽、赤い法衣《ころも》の男が、男の子四人、同じ赤いシャツを着たのを連れて、猟銃を持ったのがありましてね。勝手な処で、山の下へ、藪《やぶ》へ入って見えなくなったのが――この山|続《つづき》のようですから、白鷺の飛んだ方角といい、社《やしろ》のこのあたりか。ずッと奥になると言いますね、大沼か。どっちかで、夢のような話だけれど、神と、魔と、いくさでもはじまりそうな気がしたものですから。」  銑吉は話すうちに、あわれに伏せたお誓の目が、憤《いきどおり》を含んで、屹《きっ》として、それが無念を引きしめて、一層青味を帯びたのに驚いた――思いしことよ。……悪魔は、お誓の身にかかわりがないのでない。 「……わけを言います、小県さん、……言いますが、恥かしいのと、口惜《くやし》いのとで、息が詰って、声も出なくなりましたら、こんな、私のような、こんな身体《からだ》に、手をお掛けになるまでもありません。この柄杓の柄を、ただお離しなすって下さい。そのままのめって、人間の青い苔《こけ》……」 「いや、こうして、あなたと半分持った、柄杓の柄は離しません。」 「あの、そのお優しいお心でしたら、きつけの水を下さいまし……私は、貴方《あなた》を……おきれいだ、と申しましたわね、ねえ。」 「忘れました、そういう串戯《じょうだん》をきいていたくはないのです。」 「いえ、串戯ではないのですが。いま、あの、私は、あの薙刀で、このお腹《なか》を引破って、肝《きも》も臓腑も……」  その水色に花野の帯が、蔀下《しとみした》の敷居に乱れて、お誓の背とともに、むこうに震えているのが見える。榎の梢がざわざわと鳴り、風が颯《さっ》と通った。 「――そこへ、貴方のお姿が、すっと雲からおさがりなすったように……」 「何、私なら落ちたんでしょう。」 「そして、石段の上口《あがりくち》に見えました。まるで誰も来ないのを知って、こちらへ参っているのですし、土地の巧者な、お爺さんに頼みまして、この二三日、来る人も留めてもらうように用意をしていましたんですもの! 思いもよらない、参詣の、それが貴方。格子から熟《じっ》と覗《のぞ》いていますと、この水へ、影もうつりそうな、小県さんなんですもの、貴方なんですもの。」  その爺さんにも逢っている。銑吉は幾度《いくたび》も独りうなずいた。 「こんな、こんな処、奥州の山の上で。」 「御同様です。」 「その拝殿を、一旦《いったん》むこうの隅へ急いで遁《に》げました。正面に奥の院へ通います階段と石段と。……間は、樹も草も蓬々《ぼうぼう》と茂っています。その階段の下へかくれて、またよく見ました。寸分お違いなさらない、東京の小県さん――おきれいなのがなおあやしい、怪しいどころか可恐《こわ》いんです。――ばけものが来た、ばけて来た、畜生、また、来た。ばけものだ!……と思ったんです。」 「…………」 「その怪《ばけ》ものに、口惜《くやし》い、口惜い、口惜い目に逢わされているんですから。……  ――畜生――  と声も出ないで。」 「ははあ、たちまち一打《ひとうち》……薙刀ですな。」 「明神様のお持料《もちりょう》です。それでも持ったのが私です、討てる、切れるとは思いませんが――畜生――叩倒《たたきたお》してやろうと思って、」 「切られる分には、まだ、不具《かたわ》です。薙倒されては真二《まっぷた》つです、危い、危い。」  と、いまは笑った。 「堪忍して下さいな、貴方をばけものだと思った私は、浅間《あさま》しい獣《けだもの》です、畜生です、犬です、犬に噛《か》まれたとお思いになって。」 「馬鹿なことを……飛んでもない、犬に咬《か》まれるくらいなら、私はお誓さんの薙刀に掛けられますよ。かすり疵《きず》も負わないから、太腹《ふとっぱら》らしく太平楽をいうのではないんだが、怒りも怨みもしやしません。気やすく、落着いてお話しなさい。あなたは少しどうかしている、気を沈めて。……これは、ばけものの手触りかも知れませんよ。」  そこで、背《せな》に手を置くのに、みだれ髪が、氷のように冷たく触った。 「どうぞ、あの薙刀の飛ばないように。」  その黒髪は、漆の刃《やいば》のようにヒヤリとする。  水へ辷《すべ》った柄杓が、カンと響いた。        四 「……小県さん、女が、女の不束《ふつつか》で、絶家を起す、家を立てたい――」 「絶家を起す、家を起《た》てたい……」 「ええ、その考えは、間違っていますでしょうか。」 「何が、間違いです。誰が間違いだと云いました。とんでもない、天晴《あっぱ》れじゃありませんか。」 「私の父は、この土地のものなんです。」 「ああ、成程。」 「――この藩のちょっとした藩士だったそうなんですが、道楽ものだったと思います。御維新の騒ぎに刀さしをやめたのは可《い》いんですけれど、そういう人ですから、堅気《かたぎ》の商売が出来ないで、まだ――街道が賑《にぎや》かだったそうですから、片原の町はずれへ、茶屋|旅籠《はたご》の店を出したと申しますの。  ……貴方、こちらへいらっしゃりがけに――その、あの、牡丹《ぼたん》、牡丹ですが。」  なぜか、引くいきに、声がかすれて、 「あの咲いております処は、今は田畝《たんぼ》のようになりましたけれど、もと、はなれの庭だったそうですの……そして――  牡丹は、父の手しおにかけましたものですって。……あとでは、料理ばかりにして、牡丹亭といったそうです。父がなくなりますと……それが人手から人手へ渡って、あとでは立ちぐされも同様。でも、それも、不景気で、こぼし屋の引取手もなしに、暴風雨《あらし》で潰《つぶ》れたのが、家の骸骨《がいこつ》のように路端《みちばた》に倒れていますわ。  母はその牡丹亭ごろの、おかみさん。……そんな事は申しませんでもいいんですけど、父とは、大層若くて年が違いました。  ――町あたりの芸者だそうです。ですが、武家の娘だったせいですか――まだ、私がお腹に。……」  ふと耳許《みみもと》をほんのりと薄く染めた。 「お腹のうち、本所に居る東京の遠縁のものにたよって出まして、のちに、浅草で、また芸者をしたんですけれど、なくなります時、いまわの際まで、血統《ちすじ》が絶える、田沢の家を、田沢の家をと、せめて後を絶《たや》さないように遺言をしたんです。  私はその時分、新橋でお酌に出ておりました。十四や十五の考えで、この上一本になって、人の世話になるにした処で、一人で商売をした処で、家を立てるのぞみがありそうに思われません。だもんですから、都合をつけて道をかえまして、梅水へ奉公をしましたのです。自分の口からお恥かしい、余りあからさまのようですが、つむりのものより、なりかたちより、少しでもお金を貯めて、小さな店でも出せますように、その上で、堅気の養子になる人を、縁があったらと、思詰め、念じ切っておりました。  こんなものでも、一つ家《うち》に、十年の余も辛抱をしますうちには、お一人やお二方、相談をして下さる方のないこともなかったんですけど、田沢の家の養子とでは、まるでかけ離れました縁ですもの。冷たい顔して、きっぱりと、お断り申しました。それが、心得違いだったんです、間違っていたんです。ねえ。」 「間違いではありません。お誓さん、しかし、ただ、道も一条《ひとすじ》の上だとしたら、家を起す――血統を絶やさない、真に立派な覚悟だけれど、……本当は女一人だとすると、どうしていいか、それは、学者でも、教育家でも、たとえばお寺の坊さんでも、実地に当ると、八衢《やちまた》に前途《ゆくて》が岐《わか》れて、道しるべをする事はむずかしい……世の中になったんですね。」 「まったくですわ。でも、それも、まだ月日は長し……昨日《きのう》や今日の事とは思わなかったんですのに――昨年、店の都合で裾野の方へ一夏まいりまして、朝夕、あの、富士山の景色を見ますにつけ……ついのんびりと、一人で旅がしてみたくなったんです。一体出不精な処へ、お蔭様、店も忙しゅうございますし、本所の伯父伯母と云った処で、ほんの母がたよりました寄親《よりおや》同様。これといって行《ゆ》きたい場所も知りませんものですから、旅をするなら、名ばかりでも、聞いただけ懐しい、片原を、と存じまして、十月小春のいい時候に、もみじもさかり、と聞きました。……  はじめて、泊りました、その土地の町の旅宿《やど》が、まわり合せですか、因縁だか、その宿の隠居夫婦が、よく昔の事を知っていました。もの珍らしいからでしょう、宿帳の田沢だけで、もう、ちっとでも片原に縁があるだろう、といいましてね。  そんなですから、隠居二人で、西明寺の父の墓も案内をしてくれますし。……まことに不思議な、久しく下草の中に消えていた、街道|端《ばた》の牡丹が、去年から芽を出して、どうしてでしょう、今年の夏は、花を持った。町でも人が沢山見に行《ゆ》き、下の流れを飲んで酔うといえば、汲《く》んで取って、香水だと賞《ほ》めるのもある。……お嬢さん……私の事です。」  と頬も冷たそうに、うら寂しく、 「故郷へ帰って来て、田沢家を起す、瑞祥《ずいしょう》はこれで分った、と下へも置かないで、それはほんとうに深切に世話をして、牡丹さん、牡丹さん、私の部屋が牡丹の間。餡子《あんこ》ではあんまりだ、黄色い白粉《おしろい》でもつけましょう、牡丹亭きな子です。お一ついかが……そういってどうかすると、お客にお酌をした事もあるんです。長逗留《ながとうりゅう》の退屈ばらし、それには馴《な》れた軽はずみ……」  歎息《ためいき》も弱々と、 「もっとも煩《うるさ》いことでも言えば、その場から、つい立って、牡丹の間へ帰っていたんです。それというのが、ああも、こうもと、それから、それへ、商売のこと、家のこと。隠居夫婦と、主人夫婦、家《うち》のものばかりも四人でしょう。番頭ですの、女中ですの、入《いり》かわり相談をしてくれます。聞くだけでも楽《たのし》みで、つんだり、崩したり、切組みましたり、庭背戸まで見積って、子供の積木細工で居るうちに、日が経《た》ちます。……鳥居数をくぐり、門松を視《み》ないと、故郷とはいえない、といわれる通りの気になって、おまいりをしましたり。……逗留のうち、幾度、あの牡丹の前へ立ったでしょう。  柱一本、根太板も、親たちの手の触ったのが残っていましょう。あの骨を拾おう。どうしよう。焚《た》こうか、埋めようか。ちょっと九尺二間を建てるにしても、場所がいまの田畝《たんぼ》ではどうにもならず。(地蔵様の祠《ほこら》を建てなさい、)隠居たちがいうんです。ああ、いいわねえ、そうしましょうか。  思出しても身体《からだ》がふるえる、……  今年二月の始《はじめ》でした。……東京も、そうだったって聞いたんですが、この辺でも珍らしく、雪の少い、暖かな冬でしたの。……今夜の豆撒《まめまき》が済むと、片原で年を取って、あかんぼも二つになると、隠居たちも笑っていました。その晩――暮方……  湯上りのいい心持の処へ、ちらちら降出しました雪が嬉しくって、生意気に、……それだし、銀座辺、あの築地辺の夜ふけの辻で、つまらない悪戯《いたずら》をされました覚えもなし、またいたずらに逢ったところで、ところ久しいだけ、門《かど》なみ知っているんです。……梅水のものですよ。それで大概、挨拶《あいさつ》をして離れちまいますんですもの、道の可恐《こわ》さはちっとも知らずにいたんです。――それに牡丹亭のあとまでは、つれがありましたり、一人でも幾度も行ったり来たり、屋根のない長い廊下もおんなじに思っていましたものですから、コオトも着ないで、小県さん、浴衣に襟つき一枚何かで。――裙《すそ》へ流れる水、あの小川も、梅水に居て、座敷の奥で、水調子を聞く音がします。……牡丹はもう、枝ばかり、それも枯れていたんですが、降る雪がすっきりと、白い莟《つぼみ》に積りました。……大輪《おおりん》なのも面影に見えるようです。  向うへ、小さなお地蔵様のお堂を建てたら、お提灯《ちょうちん》に蔦《つた》の紋、養子が出来て、その人のと、二つなら嬉しいだろう。まあ極《きま》りの悪い。……わざとお賽銭箱《さいせんばこ》を置いて、宝珠の玉……違った、それはお稲荷様《いなりさま》、と思っているうちに、こんな風に傘をさして、ちらちらと、藤の花だか、鷺だかの娘になって、踊ったこともあったっけ。――傘は、ここで、畳んだか、開いてさしたかと、うっかりしました。――傘《からかさ》を、ひどい力で、上へぐいと引いたんです。天にも地にも、小県さん、観音様と、明神様のほかには、女の身体《からだ》で、口へ出して……」  キリキリと歯を噛《か》んで、つと瞼《まぶた》の色が褪《あ》せた。 「癪《しゃく》か。しっかりなさい、お誓さん。」  さそくに掬《すく》った柄杓《ひしゃく》の水を、削るがごとく口に含んで、 「人間がましい、癪なんぞは、通越しているんです。ああ、この水が、そのまんま、青い煙になって焼いちまってくれればいいのに。」  しばらく、声も途絶えたのである。 「口惜《くや》しいわ、私、小県さん、足が上へ浮く処を、うしろから、もこん、と抱込んだものを、見ました時。」  わなわなと震えたから、小県も肩にかけていた手を離した。倒れそうに腰をつくと、褄《つま》を投げて、片手を苔《こけ》に辷《すべ》らした。 「灰汁《あく》のような毛が一面にかぶさった。枯木のような脊の高い、蒼い顔した※[#「けものへん+非」、88-17]々《ひひ》、あの、絵の※[#「けものへん+非」、88-18]々、それの鼻、がまた高くて巨《おおき》いのが、黒雲のようにかぶさると思いましたばかり……何にも分らなくなりました。  あとで――息の返りましたのは、一軒家で飴《あめ》を売ります、お媼《ばあ》さんと、お爺さんの炉端でした。裏背戸口へ、どさりと音がしたきりだった、という事です。  どんな形で、投《ほう》り出されていたんでしょう。」  褄を引合わせ、身をしめて、 「……のちに、大沼で、とれたといって、旅宿《やど》の台所に、白い雁《がん》が仰向《あおむ》けに、俎《まないた》の上に乗ったのを、ふと見まして、もう一度ゾッとすると、ひきつけて倒れました事さえあるんです。  ――その晩は、お爺さんの内から、ほんの四五町の処を、俥《くるま》にのって帰ったのです。急に、ひどい悪寒がするといって、引被《ひっかぶ》って寝ましたきり、枕も顔もあげられますもんですか。悪寒どころですか、身体《からだ》はやけますようですのに、冷い汗を絞るんです。その汗が脇の下も、乳の処も、……ずくずく……悪臭い、鱶《ふか》だか、鮫《さめ》だかの、六月いきれに、すえたような臭《にお》いでしょう。むしりたい、切って取りたい、削りたい、身体中がむかむかして、しっきりなしに吐くんです。  無理やりに服《の》まされました、何の薬のせいですか、有る命は死にません。――活きているかいはなし……ただ西明寺の観音様へお縋《すが》りにまいります。それだって、途中、牡丹のあるところを視《み》ます時の心もちは、ただお察しにまかせます。……何の罪咎《つみとが》があるんでしょう、と思うのは、身勝手な、我身ばかりで、神様や仏様の目で、ごらんになったら。」 「お誓さん、……」  声を沈めて遮った。 「神、仏の目には、何の咎、何の罪もない。あなたのような人間を、かえって悪魔は狙うのですよ。幾年目かに朽ちた牡丹の花が咲いた……それは嘘ではありますまい。人は見て奇瑞《きずい》とするが、魔が咲かせたかも知れないんです。反対に、お誓さんが故郷へ帰った、その瑞兆《ずいちょう》が顕《あら》われたとして、しかも家の骨に地蔵尊を祭る奇特がある。功徳、恭養、善行、美事、その只中《ただなか》を狙うのが、悪魔の役です。どっちにしろ可恐《おそろ》しい、早くそこを通抜けよう。さ、あなたも目をつむって、観音様の前へおいでなさい。」 「――ある時、和尚さんが、お寺へ紅白の切《きれ》を、何ほどか寄進をして欲しいものじゃ、とおっしゃるんです。寺の用でない、諸人《しょにん》の施行《せぎょう》のためじゃけれど、この通りの貧乏寺。……ええ、私の方から、おやくに立ちますならお願い申したいほどですわ。三反持って参りますと、六尺ずつに切りたいが、鋏《はさみ》というものもなし……庖丁ではどうであろう。まあ、手で裂いても間に合いますわ。和尚さんに手伝って三方の上へ重ねました時、つい、それまでは不信心な、何にも知らずにおりました。子育ての慈愛をなさいます、五月帯《いわたおび》のわけを聞きまして、時も時、折も折ですし、……観音様。」  お誓が、髪を長く、すっと立って、麓《ふもと》に白い手を合わせた。 「つい女気で、紅《あか》い切を上へ積んだものですから、真上のを、内証《ないしょ》で、そっと、頂いたんです。」 「それは、めでたい。――結構ではないか、お誓さん。」  お誓は榎の根に、今度は吻《ほっ》として憩った、それと差《さし》むかいに、小県は、より低い処に腰を置いて、片足を前に、くつろぐ状《さま》して、 「節分の夜の事だ。対手《あいて》を鬼と思いたまえ。が、それも出放題過ぎるなら、怪我……病気だと思ったらどうです。怪我や病気は誰もする。……その怪我にも、病気にも障りがなくって、赤ちゃんが、御免なさいよ、ま、出来たとする。昔から偉人には奇蹟が携わる、日を見て、月を見て、星を見て、いや、ちと大道うらないに似て来たかね。」  袖を開いて扇を使った。柳の影が映りそうで、道得《いいえ》て、いささか可《よし》と思ったらしい。 「鶴を視《み》て懐姙した験《げん》はいくらもある。いわゆる、もうし子だとお思いなさい。その上、面倒な口を利く父親なしに、お誓さん一人で育てたら、それが生一本の田沢家の血統じゃありませんか。そうだ、悪魔などと言ったのは、私のあやまり、豊年の何とかいう雪が降って、節分には、よく降るんです。正に春立《りっしゅん》ならんとする時、牡丹に雪の瑞《ずい》といい、地蔵菩薩の祥《しょう》といい、あなたは授《さずか》りものをしたんじゃないか、確《たしか》にそうだ、――お誓さん。」  お誓は淡《うす》くまた瞼《まぶた》を染めた。 「そんな、あの、大それた、高望みはしませんけれど、女の子かも知れないと思いました。五日、七日《なぬか》、二夜《ふたよ》、三夜、観音様の前に静《じっ》としていますうちに、そういえば、今時、天狗《てんぐ》も※[#「けものへん+非」、91-16]々《ひひ》も居まいし、第一|獣《けもの》の臭気《におい》がしません。くされたというは心持で、何ですか、水に棲《す》むもののような気がするし、森の香の、時々峰からおろす松風と一所に通って来るのも、水神、山の神に魅入られたのかも分らない。ええ、因果と業。不具《かたわ》でも、虫でもいい。鳶《とんび》鴉《からす》でも、鮒《ふな》、鰌《どじょう》でも構わない。その子を連れて、勧進比丘尼《かんじんびくに》で、諸国を廻《めぐ》って親子の見世ものになったらそれまで、どうなるものか。……そうすると、気が易くなりました。」 「ああ、観音の利益だなあ。」  つと顔を背けると、肩をそいで、お誓は、はらはらと涙を落した。 「その御利益を、小県さん、頂いてだけいればよかったんですけれど――早くから、関屋からこの辺かけて、鳥の学者、博士が居ます。」 「…………」 「鳥の巣に近づくため、撃つために、いろいろな……あんな形《なり》もする、こうもする。……頭に樹の枝をかぶったり、かずらや枯葉を腰へ巻いたり……何の気もなしに、孫八ッて……その飴屋の爺さんが夜話するのを、一言……」     (!…………) 「焼火箸を脇の下へ突貫《つきぬ》かれた気がしました。扇子《おうぎ》をむしって棄《す》ちょうとして、勿体ない、観音様に投げうちをするようなと、手が痺《しび》れて落したほどです。夜中に谷へ飛降りて、田沢の墓へ噛《か》みつこうか、とガチガチと歯が震える。……路傍《みちばた》のつぶれ屋を、石油を掛けて焼消そうか。牡丹の根へ毒を絞って、あの小川をのみ干そうか。  もうとても……大慈大悲に、腹帯をお守り下さいます、観音様の前には、口惜《くやし》くって、もどかしくって居堪《いたたま》らなくなったんですもの。悪念、邪心に、肝も魂も飛上って……あら神様で、祟《たたり》の鋭い、明神様に、一昨日《おととい》と、昨日《きのう》、今日……」  ――誓ただひとりこの御堂《みどう》に―― 「独り居れば、ひとり居るほど、血が動き、肉が震えて、つきます息も、千本の針で身体中さすようです。――前刻《さっき》も前刻、絵馬の中に、白い女の裸身《はだかみ》を仰向けにくくりつけ、膨れた腹を裂いています、安達《あだち》ヶ原の孤家《ひとつや》の、もの凄《すご》いのを見ますとね。」 (――実は、その絵馬は違っていた――) 「ああ、さぞ、せいせいするだろう。あの女は羨しいと思いますと、お腹の裡《なか》で、動くのが、動くばかりでなくなって、もそもそと這《は》うような、ものをいうような、ぐっぐっ、と巨《おお》きな鼻が息をするような、その鼻が舐《な》めるような、舌を出すような、蒼黄色《あおぎいろ》い顔――畜生――牡丹の根で気絶して、生死《いきしに》も知らないでいたうちの事が現《うつつ》に顕《あら》われて、お腹の中で、土蜘蛛《つちぐも》が黒い手を拡げるように動くんですもの。  帯を解いて、投げました。  ええ、男に許したのではない。  自分の腹を露出《むきだ》したんです。  芬《ぷん》と、麝香《じゃこう》の薫《かおり》のする、金襴《きんらん》の袋を解いて、長刀《なぎなた》を、この乳の下へ、平当てにヒヤリと、また芬と、丁子《ちょうじ》の香がしましたのです。」……  この薙刀を、もとのなげしに納める時は、二人がかりで、それはいいが、お誓が刃の方を支えたのだから、おかしい。  誰も、ここで、薙刀で腹を切ったり、切らせたりするとは思うまい。  ――しかも、これを取はずしたという時に落したのであろう。女の長い切髪の、いつ納めたか、元結《もとゆい》を掛けて黒い水引でしめたのが落ちていた。見てさえ気味の悪いのを、静《しずか》に掛直した。お誓は偉い!……落着いている。  そのかわり、気の静まった女に返ると、身だしなみをするのに、ちょっと手間が取れた。  下じめ――腰帯から、解いて、しめ直しはじめたのである。床へ坐って……  ちっと擽《くすぐ》ったいばかり。こういう時の男の起居挙動《たちいふるまい》は、漫画でないと、容易にその範容が見当らない。小県は一つ一つ絵馬を視《み》ていた。薙刀の、それからはじめて。――  一度横目を流したが、その時は、投げた単衣《ひとえ》の後褄《うしろづま》を、かなぐり取った花野の帯の輪で守護して、その秋草の、幻に夕映ゆる、蹴出《けだ》しの色の片膝を立て、それによりかかるように脛《はぎ》をあらわに、おくれ毛を撫《な》でつけるのに、指のさきをなめるのを、ふと見まじいものを見たように、目を外らした。 「その絵馬なんですわ、小県さん。」  起《た》つと、坐ると、しかも背中合せでも、狭い堂の中の一つ処で、気勢《けはい》は通ずる。安達ヶ原の…… 「お誓さん、気のせいだ。この絵馬は、俎《まないた》の上へ――裸体《はだか》の恋絹を縛ったのではない。白鷺を一羽仰向けにしてあるんだよ。しかもだね、料理をするのは、もの凄《すご》い鬼婆々《おにばばあ》じゃなくって、鮹《たこ》の口を尖《とが》らした、とぼけた爺さん。笑わせるな、これは願事《ねがいごと》でなくて、殺生をしない戒めの絵馬らしい。」  事情《ことがら》も解《よ》めている。半ば上の空でいううちに、小県のまた視《なが》めていたのは、その次の絵馬で。  はげて、くすんだ、泥絵具で一刷毛《ひとはけ》なすりつけた、波の線が太いから、海を被《かつ》いだには違いない。……鮹かと思うと脚が見えぬ、鰈《かれい》、比目魚《ひらめ》には、どんよりと色が赤い。赤鱏《あかえい》だ。が何を意味する?……つかわしめだと聞く白鷺を引立たせる、待女郎《まちじょろう》の意味の奉納か。その待女郎の目が、一つ、黄色に照って、縦にきらきらと天井の暗さに光る、と見つつ、且つその俎の女の正体をお誓に言うのに、一度、気を取られて、見直した時、ふと、もうその目の玉の縦に切れたのが消えていた。  斑蝥《はんみょう》だ。斑蝥が留っていた。 「お誓さん、お誓さん。――その辺に、綺麗《きれい》な虫が一つ居はしませんか、虫が。」 「ええ。」 「居る?」 「ええ。居ますわ。」  バタリと口に啣《くわ》えた櫛《くし》が落ちた。お誓は帯のむすびめをうしろに取って、細い腰をしめさまに、その引掛《ひっか》けを手繰っていたが、 「玉虫でしょう、綺麗な。ええ、人間は、女は浅間しい。すぐに死なないと思いましたら、簪《かんざし》も衣《き》ものも欲《ほし》いんです。この場所ですから、姫神様が下さるんだと思いましてさ、ちょっと、櫛でおさえました。ツイとそれて、取損って、見えませんわ。そちらに居ません? 玉虫でしょう。」  筐《かたみ》の簪、箪笥《たんす》の衣《きぬ》、薙刀で割く腹より、小県はこの時、涙ぐんだ。  いや、懸念に堪えない。 「玉虫どころか……」  名は知るまいと思うばかり、その説明の暇もない。 「大変な毒虫だよ。――支度はいいね、お誓さん、お堂の下へおりて下さい。さあ……その櫛……指を、唇へ触りはしまいね。」 「櫛は峰の方を啣えました。でも、指はあの、鬢《びん》の毛を撫でつけます時、水がなかったもんですから、つい……いいえ、毒にあたれば、神様のおぼしめしです。こんな身体《からだ》を、構わんですわ。」  ちょっとなまって、甘えるような口ぶりが、なお、きっぱりと断念《あきらめ》がよく聞えた。いやが上に、それも可哀《あわれ》で、その、いじらしさ。 「帯にも、袖にも、どこにも、居ないかね。」  再び巨榎《おおえのき》の翠《みどり》の蔭に透通る、寂しく澄んだ姿を視《み》た。  水にも、満つる時ありや、樹の根の清水はあふれたり。 「ああ、さっき水を飲んだ時でなくて可《よ》かった。」  引立てて階《きざはし》を下りた、その蔀格子《しとみごうし》の暗い処に、カタリと音がした。 「あれ、薙刀がはずれましたか。」  清水の面《おもて》が、柄杓《ひしゃく》の苔《こけ》を、琅玕《ろうかん》のごとく、梢《こずえ》もる透間《すきま》を、銀象嵌《ぎんぞうがん》に鏤《ちりば》めつつ、そのもの音の響きに揺れた。 「まあ、あれ、あれ、ご覧なさいまし、長刀が空を飛んで行く。」……  榎の梢を、兎のような雲にのって。 「桃色の三日月様のように。」  と言った。  松島の沿道の、雨晴れの雲を豆府に、陽炎《かげろう》を油揚に見物したという、外道俳人、小県の目にも、これを仰いだ目に疑いはない。薙刀の鋭《と》き刃のように、たとえば片鎌の月のように、銀光を帯び、水紅《とき》の羅《うすもの》して、あま翔《かけ》る鳥の翼を見よ。 「大沼の方へ飛びました。明神様の導きです。あすこへ行きます、行って……」 「行って、どうします? 行って。」 「もうこんな気になりましては、腹の子をお守り遊ばす、観音様の腹帯を、肌につけてはいられません。解きます処、棄てます処、流す処がなかったのです。女の肌につけたものが一度は人目に触れるんですもの。抽斗《ひきだし》にしまって封をすれば、仏様の情《なさけ》を仇《あだ》の女の邪念で、蛇、蛭《ひる》に、のびちぢみ、ちぎれて、蜘蛛《くも》になるかも知れない。やり場がなかったんですのに、導びきと一所に、お諭《さと》しなんです。小県さん。あの沼は、真中《まんなか》が渦を巻いて底知れず水を巻込むんですって、爺さんに聞いています……」  と、銑吉の袂《たもと》の端を確《しか》と取った。 「行《ゆ》く道が分っていますか。」 「ええ、身を投げようと、……二度も、三度も。」――  欄干の折れた西の縁の出端《はずれ》から、袖形に地の靡《なび》く、向うの末の、雑樹《ぞうき》茂り、葎蔽《むぐらおお》い、ほとんど国を一重隔てた昔話の音せぬ滝のようなのを、猶予《ため》らわず潜《くぐ》る時から、お誓が先に立った。おもいのほか、外は細い路が畝《うね》って通った。が、小県はほとんど山姫に半ばを誘わるる思いがした。ことさらにあとへ退《さが》ったのではない、もう二三尺と思いつつ、お誓の、草がくれに、いつもその半身、縞絹《しまぎぬ》に黒髪した遁水《にげみず》のごとき姿を追ったからである。  沼は、不忍《しのばず》の池を、その半《なかば》にしたと思えば可《い》い。ただ周囲に蓊鬱《おううつ》として、樹が茂って暗い。  森をくぐって、青い姿見が蘆間《あしま》に映った時である。  汀《なぎさ》の、斜向《はすむこ》うへ――巨《おおき》な赤い蛇が顕《あら》われた。蘆|萱《かや》を引伏せて、鎌首を挙げたのは、真赤《まっか》なヘルメット帽である。  小県が追縋《おいすが》る隙《すき》もなかった。  衝《つ》と行《ゆ》く、お誓が、心せいたか、樹と樹の幹にちょっと支えられたようだったが、そのまま両手で裂くように、水に襟を開いた。玉なめらかに、きめ細かに、白妙《しろたえ》なる、乳首の深秘は、幽《かすか》に雪間の菫《すみれ》を装い、牡丹冷やかにくずれたのは、その腹帯の結びめを、伏目に一目、きりきりと解きかけつつ、 「畜生……」  と云った、女の声とともに、谺《こだま》が冴えて、銃が響いた。  小県は草に、伏《ふせ》の構《かまえ》を取った。これは西洋において、いやこの頃は、もっと近くで行《や》るかも知れない……爪さきに接吻《キス》をしようとしたのではない。ものいう間《ま》もなし、お誓を引倒して、危難を避けさせようとして、且つ及ばなかったのである。  その草伏《くさぶし》の小県の目に、お誓の姿が――峰を抽《ぬ》いて、高く、金色《こんじき》の夕日に聳《そばだ》って見えた。斉《ひと》しく、野の燃ゆるがごとく煙って、鼻の尖《とが》った、巨《おおい》なる紳士が、銃を倒す、と斉しく、ヘルメット帽を脱いで、高くポンと空へ投げて、拾って、また投げて、落ちると、宙に受けて、また投《なげ》るのを視た。足でなく、頭で雀躍《こおどり》したのである。たちまち、法衣《ころも》を脱ぎ、手早く靴を投ると、勢《いきおい》よく沼へ入った。  続いて、赤少年が三人泳ぎ出した。  中心へ近づくままに、掻《か》く手の肱《ひじ》の上へ顕《あら》われた鼻の、黄色に青みを帯び、茸《きのこ》のくさりかかったような面《おもて》を視た。水に拙《つたな》いのであろう。喘《あえ》ぐ――しかむ、泡を噴く。が、あるいは鳥に対する隠形《おんぎょう》の一術《ひとて》であろうも計られぬ。 「ばか。」  投棄てるようにいうとともに、お誓はよろよろと倒れて、うっとりと目を閉じた。  早く解いて流した紅《くれない》の腹帯は、二重三重にわがなって、大輪の花のようなのを、もろ翼《は》を添えて、白鷺が、すれすれに水を切って、鳥旦那の来《きた》り迫る波がしらと直線に、水脚を切って行《ゆ》く。その、花片《はなびら》に、いやその腹帯の端に、キラキラと、虫が居て、青く光った。  鼻を仰向け、諸手《もろて》で、腹帯を掴《つか》むと、紳士は、ずぶずぶと沼に潜った。次に浮きざまに飜《ひるがえ》った帯は、翼かと思う波を立てて消え、紳士も沈んだ。三個の赤い少年も、もう影もない。  ただ一人、水に入ろうとする、ずんぐりものの色の黒い少年を、その諸足を取って、孫八|爺《じい》が押えたのが見える。押えられて、手を突込《つっこ》んだから、脚をばったのように、いや、ずんぐりだから、蟋蟀《こおろぎ》のように掙《もが》いて、頭で臼《うす》を搗《つ》いていた。 「――そろそろと歩行《ある》いて行《ゆ》き、ただ一番あとのものを助けるよう――」  途中から女の子に呼戻させておいて、媼巫女《うばみこ》、その孫八爺さんに命ずるがごとくに云って――方角を教えた。  ずんぐりが一番あとだったのを、孫八が来て見出したとともに、助けたのである。  この少年は、少なからぬ便宜を与えた。――検《しらべ》する官人の前で、 「――三日以来、大沼が、日に三度ずつ、水の色が真赤《まっか》になる情報があったであります。緋《ひ》の鳥が一羽ずつ来るのだと鳥博士が申されました。奇鳥で、非常な価値である。十分に準備を整えて出向ったであります。果して、対岸に真紅《まっか》な鳥が居る。撃ったであります。銃の命中したその鳥は、沼の中心へ落ちたであります。従って高級なる猟犬として泳いだのであります。」  と明確に言った。  のみならず、紳士の舌には、斑蝥がねばりついていた。  一人として事件に煩わされたものはない。  汀《なぎさ》で、お誓を抱いた時、惜しや、かわいそうに、もういけないと思った。胸に硝薬《しょうやく》のにおいがしたからである。  水を汲《く》もうとする処へ、少年を促がしつつ、廻り駈《が》けに駈けつけた孫八が慌《あわただ》しく留めた。水を飲んじゃなりましねえ。山野に馴れた爺の目には、沼の水を見さっせえ、お前等《めえら》がいった、毒虫が、ポカリポカリ浮いてるだ。……  明神まで引返す、これにも少年が用立った。爺さんにかわって、お誓を背にして走った。  清水につくと、魑魅《すだま》が枝を下り、茂りの中から顕《あら》われたように見えたが、早く尾根づたいして、八十路《やそじ》に近い、脊の低い柔和なお媼《ばあ》さんが、片手に幣結《しでゆ》える榊《さかき》を持ち、杖《つえ》はついたが、健《すこやか》に来合わせて、 「苦労さしゃったの。もうよし、よし。」  と、お誓のそのふくよかな腹を、袖の下で擦《さす》って微笑《ほほえ》んだ。そこがちょうど結び目の帯留の金具を射て、弾丸《たま》は外《そ》れたらしい。小指のさきほどの打身があった。淡《うす》いふすぼりが、媼《うば》の手が榊を清水にひたして冷すうちに、ブライツッケルの冷罨法《れいあんぽう》にも合《かな》えるごとく、やや青く、薄紫にあせるとともに、乳《ち》が銀の露に汗ばんで、濡色の睫毛《まつげ》が生きた。  町へ急ぐようにと云って、媼はなおあとへ残るから、 「お前様は?」  お誓が聞くと、 「姫神様がの、お冠の纓《ひも》が解けた、と御意じゃよ。」  これを聞いて、活ける女神《じょしん》が、なぜみずからのその手にて、などというものは、烏帽子折《えぼしおり》を思わるるがいい。早い処は、さようなお方は、恋人に羽織をきせられなかろう。袴腰も、御自分で当て、帽子も、御自分で取っておかぶりなさい。        五  神巫《いちこ》たちは、数々《しばしば》、顕霊を示し、幽冥《ゆうめい》を通じて、俗人を驚かし、郷土に一種の権力をさえ把持《はじ》すること、今も昔に、そんなにかわりなく、奥羽地方は、特に多い、と聞く。  むかし、秋田何代かの太守が郊外に逍遥《しょうよう》した。小やすみの庄屋が、殿様の歌人なのを知って、家に持伝えた人麿の木像を献じた。お覚えのめでたさ、その御機嫌の段いうまでもない――帰途に、身が領分に口寄《くちよせ》の巫女《いちこ》があると聞く、いまだ試みた事がない。それへ案内《あない》をせよ。太守は人麿の声を聞こうとしたのである。  しのびで、裏町の軒へ寄ると、破屋《あばらや》を包む霧寒く、松韻|颯々《さつさつ》として、白衣《びゃくえ》の巫女が口ずさんだ。 「ほのぼのと……」  太守は門口《かどぐち》を衝《つ》と引いた。「これよ。」「ははッ。」「巫女に謝儀をとらせい。……あの輩《やから》の教化は、士分にまで及ぶであろうか。」「泣きみ、笑いみ……ははッ、ただ婦女子のもてあそびものにござりまする。」「さようか――その儀ならば、」……仔細《しさい》ない。  が、孫八の媼《うば》は、その秋田辺のいわゆる(おかみん)ではない。越後路《えちごじ》から流漂《るひょう》した、その頃は色白な年増であった。呼込んだ孫八が、九郎判官は恐れ多い。弁慶が、ちょうはん、熊坂ではなく、賽《さい》の目の口でも寄せようとしたのであろう。が、その女|振《ぶり》を視《み》て、口説《くど》いて、口を遁《に》げられたやけ腹に、巫女の命とする秘密の箱を攫《さら》って我が家を遁げて帰らない。この奇略は、モスコオの退都に似ている。悪孫八が勝ち、無理が通った。それも縁であろう。越後|巫女《みこ》は、水飴《みずあめ》と荒物を売り、軒に草鞋《わらじ》を釣《つる》して、ここに姥塚《うばづか》を築くばかり、あとを留《とど》めたのであると聞く。  ――前略、当寺檀那、孫八どのより申上げ候。入院中流産なされ候御婦人は、いまは大方に快癒《かいゆ》、鬱散《うっさん》のそとあるきも出来候との事、御安心下され度《たく》候趣、さて、ここに一昨夕、大夕立これあり、孫八老、其《そ》の砌《みぎり》某所墓地近くを通りかかり候折から、天地|晦冥《かいめい》、雹《ひょう》の降ること凄《すさ》まじく、且《かつ》は電光の中《うち》に、清げなる婦人一|人《にん》、同所、鳥博士の新墓の前に彳《たたず》み候が、冷く莞爾《にこり》といたし候とともに、手の壺|微塵《みじん》に砕け、一塊の鮮血、あら土にしぶき流れ、降積りたる雹を染め候が、赤き霜柱の如く、暫時《しばし》は消えもやらず有之《これあり》候よし、貧道など口にいたし候もいかが、相頼まれ申候ことづてのみ、いずれ仏菩薩の思召す処にはこれあるまじく、奇《く》しく厳《いつく》しき明神の嚮導《きょうどう》指示のもとに、化鳥の類の所為《しょい》にもやと存じ候―― [#地から2字上げ]西明寺   木魚。  和尚さんも、貧地の癖に「木魚」などと洒落《しゃ》れている。が、それはとにかく――(上人の手紙は取意の事)東京の小県へこの来書の趣は、婦人が受辱《じゅにく》、胎蔵《たいぞう》の玻璃《はり》を粉砕して、汚血《おけつ》を猟色の墳墓に、たたき返したと思われぬでもない。 [#地から1字上げ]昭和八(一九三三)年一月 底本:「泉鏡花集成9」ちくま文庫、筑摩書房    1996(平成8)年6月24日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第二十三卷」岩波書店    1942(昭和17)年6月22日発行 入力:門田裕志 校正:土屋隆 2006年3月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。