南地心中 泉鏡花 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)初阪《はつざか》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)茶|献上博多《けんじょうはかた》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)※[#「火+發」、450-1]《ぱっ》と -------------------------------------------------------        一 「今のは、」  初阪《はつざか》ものの赤毛布《あかげっと》、という処《ところ》を、十月の半ば過ぎ、小春凪《こはるなぎ》で、ちと逆上《のぼ》せるほどな暖かさに、下着さえ襲《かさ》ねて重し、野暮な縞《しま》も隠されず、頬被《ほおかぶ》りがわりの鳥打帽で、朝から見物に出掛けた……この初阪とは、伝え聞く、富士、浅間、大山、筑波《つくば》、はじめて、出立《いでた》つを初山と称《とな》うるに傚《なら》って、大阪の地へ初見参《ういけんざん》という意味である。  その男が、天満橋《てんまばし》を北へ渡越した処で、同伴《つれ》のものに聞いた。 「今のは?」 「大阪城でございますさ。」  と片頬《かたほ》笑みでわざと云う。結城《ゆうき》の藍微塵《あいみじん》の一枚着、唐桟柄《とうざんがら》の袷羽織《あわせばおり》、茶|献上博多《けんじょうはかた》の帯をぐいと緊《し》め、白柔皮《しろなめし》の緒の雪駄穿《せったばき》で、髪をすっきりと刈った、気の利いた若いもの、風俗は一目で知れる……俳優《やくしゃ》部屋の男衆《おとこしゅ》で、初阪ものには不似合な伝法。 「まさか、天満の橋の上から、淀川《よどがわ》を控えて、城を見て――当人寝が足りない処へ、こう照《てり》つけられて、道頓堀《どうとんぼり》から千日前、この辺の沸《にえ》くり返る町の中を見物だから、茫《ぼう》となって、夢を見たようだけれど、それだって、大阪に居る事は確《たしか》に承知の上です――言わなくっても大阪城だけは分ろうじゃないか。」 「御道理《ごもっとも》で、ふふふ、」  男衆はまた笑いながら、 「ですがね、欄干へ立って、淀川堤を御覧なさると、貴方《あなた》、恍惚《うっとり》とおなんなさいましたぜ。熟《じっ》と考え込んでおしまいなすって、何かお話しするのもお気の毒なような御様子ですから、私も黙《だんま》りでね。ええ、……時間の都合で、そちらへは廻らないまでも、網島の見当は御案内をしろって、親方に吩咐《いいつ》かって参ったんで、あすこで一ツ、桜宮から網島を口上で申し上げようと思っていたのに、あんまり腕組をなすったんで、いや、案内者、大きに水を見て涼みました。  それから、ずっと黙りで、橋を渡った処で、(今のは、)とお尋ねなさるんでさ、義理にも大阪城、と申さないじゃ、第一日本一の名城に対して、ははは、」とものありげにちょっと顔を見る。  初阪は鳥打の庇《ひさし》に手を当て、 「分りましたよ。真田幸村《さなだゆきむら》に対しても、決して粗略には存じません。萌黄色《もえぎいろ》の海のような、音に聞いた淀川が、大阪を真二《まっぷた》つに分けたように悠揚《ゆっくり》流れる。  電車の塵《ちり》も冬空です……澄透《すみとお》った空に晃々《きらきら》と太陽《ひ》が照って、五月頃の潮《うしお》が押寄せるかと思う人通りの激しい中を、薄い霧一筋、岸から離れて、さながら、東海道で富士を視《なが》めるように、あの、城が見えたっけ。  川蒸汽の、ばらばらと川浪を蹴《け》るのなんぞは、高櫓《たかやぐら》の瓦《かわら》一枚浮かしたほどにも思われず、……船に掛けた白帆くらいは、城の壁の映るのから見れば、些細《ささい》な塵です。  その、空に浮出したような、水に沈んだような、そして幻のような、そうかと思うと、歴然《ありあり》と、ああ、あれが、嬰児《あかんぼ》の時から桃太郎と一所にお馴染《なじみ》の城か、と思って見ていると、城のその屋根の上へ、山も見えぬのに、鵺《ぬえ》が乗って来そうな雲が、真黒《まっくろ》な壁で上から圧附《おしつ》けるばかり、鉛を熔《と》かして、むらむらと湧懸《わきかか》って来たろうではないか。」  初阪は意気を込めて、杖《ステッキ》をわきに挟んで云った。        二  七筋ばかり、工場の呼吸《いき》であろう、黒煙《くろけむり》が、こう、風がないから、真直《まっすぐ》に立騰《たちのぼ》って、城の櫓《やぐら》の棟を巻いて、その蔽被《おおいかぶさ》った暗い雲の中で、末が乱れて、むらむらと崩立《くずれた》って、倒《さかさま》に高く淀川の空へ靡《なび》く。……  なびくに脈を打って、七筋ながら、処々《ところどころ》、斜めに太陽の光を浴びつつ、白泡立てて渦《うずま》いた、その凄《すご》かった事と云ったら。  天守の千畳敷へ打込んだ、関東勢の大砲《おおづつ》が炎を吐いて転がる中に、淀君をはじめ、夥多《あまた》の美人の、練衣《ねりぎぬ》、紅《くれない》の袴《はかま》が寸断々々《ずたずた》に、城と一所に滅ぶる景色が、目に見える。……雲を貫く、工場の太い煙は、丈に余る黒髪が、縺《もつ》れて乱れるよう、そして、倒《さかさま》に立ったのは、長《とこしえ》に消えぬ人々の怨恨《うらみ》と見えた。  大河《おおかわ》の両岸《りょうぎし》は、細い樹の枝に、薄紫の靄《もや》が、すらすら。蒼空《あおぞら》の下を、矢輻《やぼね》の晃々《きらきら》と光る車が、駈《か》けてもいたのに、……水には帆の影も澄んだのに、……どうしてその時、大阪城の空ばかり暗澹《あんたん》として曇ったろう。 「ああ、あの雲だ。」  と初阪は橋の北詰に、ひしひしと並んだ商人家《あきんどや》の、軒の看板に隠れた城の櫓《やぐら》の、今は雲ばかりを、フト仰いだ。  が、俯向《うつむ》いて、足許《あしもと》に、二人連立つ影を見た。 「大丈夫だろうかね。」 「雷様ですか。」  男衆は逸早《いちはや》く心得て、 「串戯《じょうだん》じゃありませんぜ。何の今時……」 「そんなら可《い》いが、」  歩行《あるき》出す、と暗くなり掛けた影法師も、烈《はげ》しい人脚の塵に消えて、天満《てんま》筋の真昼間《まっぴるま》。  初阪は晴《はれ》やかな顔をした。 「凄《すご》かったよ、私は。……その癖、この陽気だから、自然と淀川の水気が立つ、陽炎《かげろう》のようなものが、ひらひらと、それが櫓の面《おもて》へかかると、何となく、※[#「火+發」、450-1]《ぱっ》と美しい幻が添って、城の名を天下に彩っているように思われたっけ。その花やかな中にも、しかし、長い、濃い、黒髪が潜《ひそ》んで、滝のように動いていた。」  城を語る時、初阪の色酔えるがごとく、土地|馴《な》れぬ足許は、ふらつくばかり危《あやぶ》まれたが、対手《あいて》が、しゃんと来いの男衆だけ、確《たしか》に引受けられた酔漢《よっぱらい》に似て、擦合い、行違う人の中を、傍目《わきめ》も触《ふ》らず饒舌《しゃべ》るのであった。 「時に、それについて、」 「あの、別嬪《べっぴん》の事でしょう。私たちが立停《たちど》まって、お城を見ていました。四五間さきの所に、美しく立って、同じ方を視《なが》めていた、あれでしょう。……貴方《あなた》が(今のは!)ッて一件は。それ、奴《やっこ》を一人、お供に連れて、」 「奴を……十五六の小間使だぜ。」 「当地じゃ、奴ッてそう言います。島田|髷《まげ》に白丈長《しろたけなが》をピンと刎《は》ねた、小凜々《こりり》しい。お約束でね、御寮人には附きものの小女《こおんな》ですよ。あれで御寮人の髷が、元禄だった日にゃ、菱川師宣《ひしかわもろのぶ》えがく、というんですね。  何だろう、とお尋ねなさるのは承知の上でさ、……また、今のを御覧なすって、お聞きなさらないじゃ、大阪が怨《うら》みます。」 「人が悪いな、この人は。それまで心得ていて、はぐらかすんだから。(大阪城でございます、)はちと癪《しゃく》だろうじゃないか。」 「はははは。」 「しかし縁のない事はない。そうして、熟《じっ》とあの、煙の中の凄《すご》い櫓を視《なが》めていると、どうだろう。  四五間|前《さき》に、上品な絵の具の薄彩色《うすさいしき》で、彳《たたず》んでいた、今の、その美人の姿だがね、……淀川の流れに引かれた、私の目のせいなんだろう。すッと向うに浮いて行って、遠くの、あの、城の壁の、矢狭間《やざま》とも思う窓から、顔を出して、こっちを覗《のぞ》いた。そう見えた。いつの間にか、城の中へ入って、向直って。……  黒雲の下、煙の中で、凄いの、美しいの、と云ッて、そりゃなかった。」        三 「だから、何だか容易ならん事が起った、と思って、……口惜《くや》しいが聞くんです。  実はね、昨夜《ゆうべ》、中座を見物した時、すぐ隣りの桟敷《さじき》に居たんだよ、今の婦人《おんな》は……」と頷《うなず》くようにして初阪は云う。  男衆はまた笑った。 「ですとも。それを知らん顔で、しらばっくれて、唯今《ただいま》一見《いちげん》という顔をなさるから、はぐらかして上げましたんでさ。」 「だって、住吉《すみよし》、天王寺も見ない前《さき》から、大阪へ着いて早々、あの婦《おんな》は? でもあるまいと思う。それじゃ慌て過ぎて、振袖に躓《けつまず》いて転ぶようだから、痩我慢《やせがまん》で黙然《だんまり》でいたんだ。」 「ところが、辛抱が仕切れなくなったでしょう、ごもっともですとも。親方もね、実は、お景物にお目に掛ける、ちょうど可《い》いからッて、わざと昨夜《ゆうべ》も、貴方《あなた》を隣桟敷へ御案内申したんです。  附込《つけこ》みでね、旦那と来ていました。取巻きに六七人|芸妓《げいこ》が附いて。」  男衆の顔を見て、 「はあ、すると堅気かい、……以前はとにかく、」  また男衆は、こう聞かれるのを合点《がってん》したらしく頷《うなず》くのであった。 「貴方、当時また南新地から出ているんです。……いいえ、旦那が変ったんでも、手が切れたのでもありません。やっぱり昨夜《ゆうべ》御覧なすった、あれが元からの旦那でね。ええ、しかも、ついこの四五日前まで、久しく引かされて、桜の宮の片辺《かたほとり》というのに、それこそ一枚絵になりそうな御寮人で居たんですがね。あの旦那の飛んだもの好《ずき》から、洒落《しゃれ》にまた鑑札を請けて、以前のままの、お珊《さん》という名で、新しく披露《ひろめ》をしました。」と質実《じみ》に話す。 「阪地《かみがた》は風流だね、洒落に芸者に出すなんざ、悟ったもんですぜ、根こぎで手活《ていけ》にした花を、人助けのため拝ませる、という寸法だろう。私なんぞも、お庇《かげ》で土産にありついたという訳だ。」 「いいえ、隣桟敷の緋《ひ》の毛氈《もうせん》に頬杖《ほおづえ》や、橋の欄干袖振掛けて、という姿ぐらいではありません。貴方、もっと立派なお土産を御覧なさいましょうよ。御覧なさいまし、明日、翌々日《あさって》の晩は、唯今のお珊の方が、千日前から道頓堀、新地をかけて宝市の練《ねり》に出て、下げ髪、緋の袴《はかま》という扮装《なり》で、八年ぶりで練りますから。」  一言《ひとこと》、下げ髪、緋の袴、と云ったのが、目のあたり城の上の雲を見た、初阪の耳を穿《うが》って響いた。 「何、下げ髪で、緋の袴?……」 「勿論一人じゃありません――確か十二人、同じ姿で揃って練ります。が、自分の髪を入髪《いれげ》なしに解《とき》ほぐして、その緋の袴と擦れ擦れに丈に余るってのは、あの婦《おんな》ばかりだと云ったもんです。一度引いて、もうそんなに経《た》ちますけれども、私《わっし》あ今日も、つい近間で見て驚きました。  苦労も道楽もしたろうのに、雁金額《かりがねびたい》の生際《はえぎわ》が、一厘だって抜上がっていませんやね、ねえ。  やっぱり入髪なしを水で解いて、宝市は屋台ぐるみ、象を繋《つな》いで曳《ひ》きましょうよ。  旦那もね、市に出して、お珊さんのその姿を、見たり、見せたりしたいばかりに、素晴らしく派手を遣《や》って、披露《ひろめ》をしたんだって評判です。  その市女《いちめ》は、芸妓《げいこ》に限るんです。それも芸なり、容色《きりょう》なり、選抜《えりぬ》きでないと、世話人の方で出しませんから……まず選ばれた婦《おんな》は、一年中の外聞といったわけです。  その中のお職だ、貴方。何しろ大阪じゃ、浜寺の魚市には、活《い》きた竜宮が顕《あらわ》れる、この住吉の宝市には、天人の素足が見えるって言います。一年中の紋日《もんび》ですから、まあ、是非お目に掛けましょう。  貴方、一目見て立《たち》すくんで、」 「立すくみは大袈裟《おおげさ》だね、人聞きが悪いじゃないか。」 「だって、今でさえ、悚然《ぞっと》なすったじゃありませんかね。」        四  男衆の浮かせ調子を、初阪はなぜか沈んで聞く。…… 「まったくそりゃ悚然《ぞっ》としたよ。ひとりでに、あの姿が、城の中へふいと入って、向直って、こっちを見るらしい気がした時は。  黒い煙も、お珊さんか、……その人のために空に被《かぶ》さったように思って。  天満の鉄橋は、瀬多の長橋ではないけれども、美濃《みの》へ帰る旅人に、怪しい手箱を託《ことづ》けたり、俵藤太《たわらとうだ》に加勢を頼んだりする人に似たように思ったのだね。  由来、橋の上で出会う綺麗な婦《おんな》は、すべて凄《すご》いとしてある。――  が、場所によるね……昨夜《ゆうべ》、隣桟敷で見た時は、同じその人だけれど、今思うと、まるで、違った婦《おんな》さ。……君も関東ものだから遠慮なく云うが、阪地《かみがた》の婦《おんな》はなぜだろう、生きてるのか、死んでるのか、血というものがあるのか知らん、と近所に居るのも可厭《いや》なくらい、酷《ひど》く、さました事があったんだから……」 「へい、何がございました。やたらに何か食べたんですかい。」 「何、詰《つま》らんことを……そうじゃない。余りと言えば見苦しいほど、大入芝居の桟敷だというのに、旦那かね、その連《つれ》の男に、好三昧《すきざんまい》にされてたからさ。」 「そこは妾《てかけ》ものの悲しさですかね。どうして……当人そんなぐうたらじゃない筈《はず》です。意地張《いじッぱ》りもちっと可恐《こわ》いような婦《おんな》でね。以前、芸妓《げいしゃ》で居ました時、北新地《きたのしんち》、新町《しんまち》、堀江が、一つ舞台で、芸較べを遣《や》った事があります。その時、南から舞で出ました。もっとも評判な踊手なんですが、それでも他《ほか》場所の姉さんに、ひけを取るまい。……その頃北に一人、向うへ廻わして、ちと目に余る、家元随一と云う名取りがあったもんですから、生命《いのち》がけに気を入れて、舞ったのは道成寺《どうじょうじ》。貴方、そりゃ近頃の見ものだったと評判しました。  能がかりか、何か、白の鱗《うろこ》の膚脱《はだぬ》ぎで、あの髪を颯《さっ》と乱して、ト撞木《しゅもく》を被《かぶ》って、供養の鐘を出た時は、何となく舞台が暗くなって、それで振袖の襦袢《じゅばん》を透いて、お珊さんの真白《まっしろ》な胸が、銀色に蒼味《あおみ》がかって光ったって騒ぎです。  そのかわり、火のように舞い澄まして楽屋へ入ると、気を取詰めて、ばったり倒れた。後見が、回生剤《きつけ》を呑まそうと首を抱く。一人が、装束の襟を寛《くつろ》げようと、あの人の胸を開けたかと思うと、キャッと云って尻持をついたはどうです。  鳩尾《みずおち》を緊《し》めた白羽二重《しろはぶたえ》の腹巻の中へ、生々《なまなま》とした、長いのが一|尾《ぴき》、蛇ですよ。畝々《うねうね》と巻込めてあった、そいつが、のッそり、」と慌《あわただ》しい懐手、黒八丈を襲《かさ》ねた襟から、拇指《おやゆび》を出して、ぎっくり、と蝮《まむし》を拵《こさ》えて、肩をぶるぶると遣って引込《ひっこ》ませて、 「鎌首を出したはどうです、いや聞いても恐れる。」とばたばたと袖を払《はた》く。  初阪もそれはしかねない婦《おんな》と見た。 「執念の深いもんだから、あやかる気で、生命《いのち》がけの膚《はだ》に絡《まと》ったというわけだ。」 「それもあります。ですがね、心願も懸けたんですとさ。何でも願が叶《かな》うと云います……咒詛《のろい》も、恋も、情《なさけ》も、慾《よく》も、意地張も同じ事。……その時|鳩尾《みずおち》に巻いていたのは、高津《こうづ》辺の蛇屋で売ります……大瓶《おおがめ》の中にぞろぞろ、という一件もので、貴方御存じですか。」  初阪は出所を聞くと悚然《ぞっ》とした。我知らず声を潜《ひそ》めて、 「知ッてる……生紙《きがみ》の紙袋《かんぶくろ》の口を結えて、中に筋張った動脈のようにのたくる奴《やつ》を買って帰って、一晩内に寝かしてそれから高津の宮裏の穴へ放すんだってね。」        五 「ええ、そうですよ。その時、願事《ねがいごと》を、思込んで言聞かせます。そして袋の口を解《ほど》くと、にょろにょろと這出《はいだ》すのが、きっと一度、目の前でとぐろを巻いて、首を擡《もた》げて、その人間の顔を熟《じっ》と視《み》て、それから横穴へ入って隠れるって言います。  そのくらい念の入《い》った長虫ですから、買手が来て、蛇屋が貯えたその大瓶《おおがめ》の圧蓋《おしぶた》を外すと、何ですとさ。黒焼の註文の時だと、うじゃうじゃ我一《われいち》に下へ潜って、瓶の口がぐっと透く。……放される客の時だと、ぬらぬら争って頭を上げて、瓶から煙が立つようですって、……もし、不気味ですねえ。」  初阪は背後《うしろ》ざまに仰向《あおむ》いて空を見た。時に、城の雲は、賑《にぎや》かな町に立つ埃《ほこり》よりも薄かった。  思懸《おもいが》けず、何の広告か、屋根一杯に大きな布袋《ほてい》の絵があって、下から見上げたものの、さながら唐子《からこ》めくのに、思わず苦笑したが、 「昨日《きのう》もその話を聞きながら、兵庫の港、淡路島、煙突の煙でない処は残らず屋根ばかりの、大阪を一目に見渡す、高津の宮の高台から……湯島の女坂に似た石の段壇を下りて、それから黒焼屋の前を通った時は、軒から真黒《まっくろ》な氷柱《つらら》が下ってるように見えて冷《ひや》りとしたよ。一時《いっとき》に寒くなって――たださえ沸上《にえあが》り湧立《わきた》ってる大阪が、あのまた境内に、おでん屋、てんぷら屋、煎豆屋《いりまめや》、とかっかっぐらぐらと、煮立て、蒸立て、焼立てて、それが天火に曝《さら》されているんだからね――びっしょり汗になったのが、お庇《かげ》ですっかり冷くなった。但し余り結構なお庇ではないのさ。  大阪へ来てから、お天気続きだし、夜は万燈の中に居る気持だし、何しろ暗いと思ったのは、町を歩行《ある》く時でも、寝る時でも、黒焼屋の前を通った時と、今しがた城の雲を見たばかりさ。」  男衆は偶《ふ》と言《ことば》を挟んで、 「何を御覧なさる。」 「いいえね、今擦違った、それ、」  とちょっと振向きながら、 「それ、あの、忠兵衛の養母《おふくろ》といった隠居さんが、紙袋《かんぶくろ》を提げているから、」 「串戯《じょうだん》じゃありません。」 「私は例のかと思った、……」 「ありゃ天満の亀《かめ》の子煎餅《こせんべい》、……成程亀屋の隠居でしょう。誰が、貴方、あんな婆さんが禁厭《まじない》の蛇なんぞを、」 「ははあ、少《わか》いものでなくっちゃ、利かないかね。」 「そりゃ……色恋の方ですけれど……慾《よく》の方となると、無差別ですから、老年《としより》はなお烈しいかも知れません。  分けてこの二三日は、黒焼屋の蛇が売れ盛るって言います……誓文払《せいもんばらい》で、大阪中の呉服屋が、年に一度の大見切売をしますんでね、市中もこの通りまた別して賑《にぎわ》いまさ。  心斎橋筋の大丸なんかでは、景物の福引に十両二十両という品ものを発奮《はず》んで出しますんで、一番引当てよう了簡《りょうけん》で、禁厭《まじない》に蛇の袋をぶら下げて、杖を支《つ》いて、お十夜という形で、夜中に霜を踏んで、白髪《しらが》で橋を渡る婆さんもあるにゃあるんで。」        六  男衆もちょっと町中《まちなか》を眗《みまわ》した。 「まったくかも知れません、何しろ、この誓文払の前後に、何千|条《すじ》ですかね、黒焼屋の瓶《かめ》が空虚《から》になった事があるって言いますから。慾は可恐《おそろ》しい。悪くすると、ぶら提げてるのに打撞《ぶつか》らないとも限りませんよ。」 「それ! だから云わない事じゃない。」  内端《うちわ》ながら二ツ三ツ杖《ステッキ》を掉《ふ》って、 「それでなくッてさえ、こう見渡した大阪の町は、通《とおり》も路地も、どの家も、かッと陽気に明《あかる》い中に、どこか一個所、陰気な暗い処が潜《ひそ》んで、礼儀作法も、由緒因縁も、先祖の位牌《いはい》も、色も恋も罪も報《むくい》も、三世相一冊と、今の蛇一疋ずつは、主《ぬし》になって隠れていそうな気がする処へ、蛇瓶の話を昨日《きのう》聞いて、まざまざと爪立足《つまだちあし》で、黒焼屋の前を通ってからというものは、うっかりすると、新造《しんぞ》も年増も、何か下掻《したがい》の褄《つま》あたりに、一条《ひとすじ》心得ていそうでならない。  昨夜《ゆうべ》も、芝居で……」  男衆は思出したように、如才なく一ツ手を拍《う》った。 「時に、どうしたと云うんですえ、お珊さんが、その旦那と?……」 「まあ、お聞き――隣合った私の桟敷に、髪を桃割《ももわれ》に結って、緋の半襟で、黒繻子《くろじゅす》の襟を掛けた、黄の勝った八丈といった柄の着もの、紬《つむぎ》か何か、絣《かすり》の羽織をふっくりと着た。ふさふさの簪《かんざし》を前のめりに挿して、それは人柄な、目の涼しい、眉の優しい、口許《くちもと》の柔順《すなお》な、まだ肩揚げをした、十六七の娘が、一人入っていたろう。……出来るだけおつくりをしたろうが、着ものも帯も、余りいい家《うち》の娘じゃないらしいのが、」 「居ました。へい、親方が、貴方に差上げた桟敷ですから、人の入る訳はないが、と云って、私が伺いましたっけ。貴方が、(構いやしない。)と仰有《おっしゃ》るし、そこはね、大したお目触りのものではなし……あの通りの大入で、ちょっと退《ど》けようッて空場《あな》も見つからないものですから、それなりでお邪魔を願ッておきました。  後で聞きますと、出方が、しんせつに、まあ、喜ばせてやろうッて、内々で入れたんだそうで。ありゃ何ですッて、逢阪下《おうざかしも》の辻――ええ、天王寺に行《ゆ》く道です。公園寄の辻に、屋台にちょっと毛の生えたくらいの小さな店で、あんころ餅を売っている娘だそうです。いい娘《こ》ですね。」  それは初阪がはじめて聞く。 「そう、餅屋の姉さんかい……そして何だぜ、あの芝居の厠《べんじょ》に番をしている、爺《じい》さんね、大どんつくを着た逞《たくま》しい親仁《おやじ》だが、影法師のように見える、太《ひど》く、よぼけた、」 「ええ、駕籠伝《かごでん》、駕籠屋の伝五郎ッて、新地の駕籠屋で、ありゃその昔鳴らした男です。もう年紀《とし》の上に、身体《からだ》を投げた無理が出て、便所の番をしています。その伝が?」 「娘の、爺さんか父親《おやじ》なんだ。」  これは男衆が知らなかった。 「へい、」 「知らないのかい。」 「そうかも知れません、私《わっし》あ御存じの土地児《とちっこ》じゃないんですから、見たり、聞いたり、透切《すきぎれ》だらけで。へい、どうして、貴方?」 「ところが分った事がある。……何しろ、私が、昨夜《ゆうべ》、あの桟敷へ入った時、空いていた場所は、その私の処と、隣りに一間《ひとま》、」 「そうですよ。」 「その二間しかなかったんだ。二丁がカチと入った時さ。娘を連れて、年配の出方が一人、横手の通《とおり》の、竹格子だね、中座のは。……扉《ひらき》をツイと押して、出て来て、小さくなって、背後《うしろ》の廊下、お極《きま》りだ、この処へ立つ事無用。あすこへ顔だけ出して踞《しゃが》んだもんです。(旦那、この娘《こ》を一人願われませんでござりましょうか。内々《うちうち》のもので、客ではござりません。お部屋へ知れますと悪うござりますが、貴下様《あなたさま》思召《おぼしめし》で、)と至って慇懃《いんぎん》です。  資本《もとで》は懸《かか》らず、こういう時、おのぼりの気前を見せるんだ、と思ったから、さあさあ御遠慮なく、で、まず引受けたんだね。」        七 「ずっと前へお出なさい、と云って勧めても、隅の口に遠慮して、膝に両袖を重ねて、溢《こぼ》れる八ツ口の、綺麗な友染《ゆうぜん》を、袂《たもと》へ、手と一所に推込《おしこ》んで、肩を落して坐っていたがね、……可愛らしいじゃないか。赤い紐《ひも》を緊《し》めて、雪輪に紅梅模様の前垂《まえだれ》がけです。  それでも、幕が開いて芝居に身が入《い》って来ると、身体《からだ》をもじもじ、膝を立てて伸上って――背後《うしろ》に引込《ひっこ》んでいるんだから見辛いさね――そうしちゃ、舞台を覗込《のぞきこ》むようにしていたっけ。つい、知らず知らず乗出して、仕切にひったりと胸を附けると、人いきれに、ほんのりと瞼《まぶた》を染めて、ほっとなったのが、景気提灯《けいきぢょうちん》の下で、こう、私とまず顔を並べた。おのぼり心の中《うち》に惟《おも》えらく、光栄なるかな。  まあ、お聞きったら。  そりゃ可《よ》かったが、一件だ。」 「一件と……おっしゃると?」 「長いの、長いの。」 「その娘《こ》が、蛇を……嘘でしょう。」 「間違ったに違いない。けれども高津で聞いて、平家の水鳥で居たんだからね。幕間《まくあい》にちょいと楽屋へ立違って、またもとの所へ入ろうとすると、その娘の袂《たもと》の傍《わき》に、紙袋《かんぶくろ》[#「紙袋」は底本では「紙装」]が一つ出ています。  並んで坐ると、それがちょうど膝になろうというんだから、大《おおい》に怯《ひる》んだ。どうやら気のせいか、むくむく動きそうに見えるじゃないか。  で、私は後へ引退《ひききが》った。ト娘の挿した簪《かんざし》のひらひらする、美しい総《ふさ》越しに舞台の見えるのが、花輪で額縁を取ったようで、それも可《よし》さ。  所へ、さらさらどかどかです。荒いのと柔《やわらか》なのと、急ぐのと、入乱れた跫音《あしあと》を立てて、七八人。小袖幕で囲ったような婦《おんな》の中から、赫《かっ》と真赤《まっか》な顔をして、痩《や》せた酒顛童子《しゅてんどうじ》という、三分刈りの頭で、頬骨の張った、目のぎょろりとした、なぜか額の暗い、殺気立った男が、詰襟の紺の洋服で、靴足袋を長く露《あらわ》した服筒《ずぼん》を膝頭《ひざがしら》にたくし上げた、という妙な扮装《なり》で、その婦《おんな》たち、鈍太郎殿の手車から転がり出したように、ぬっと発奮《はず》んで出て、どしんと、音を立てて躍込《おどりこ》んだのが、隣の桟敷で……  唐突《いきなり》、横のめりに両足を投出すと、痛いほど、前の仕切にがんと支《つ》いた肱《ひじ》へ、頭を乗せて、自分で頸《くび》を掴《つか》んでも、そのまま仰向《あおむ》けにぐたりとなる、可《い》いかね。  顔へ花火のように提灯の色がぶツかります。天井と舞台を等分に睨《にら》み着けて、(何じゃい!)と一つ怒鳴《どな》る、と思うと、かっと云う大酒の息を吐きながら、(こら、入らんか、)と喚《わめ》いたんだ。  背後《うしろ》に、島田やら、銀杏返《いちょうがえ》しやら、累《かさな》って立った徒《てあい》は、右の旦那よりか、その騒ぎだから、皆《みんな》が見返る、見物の方へ気を兼ねたらしく、顔を見合わせていたっけが。  この一喝を啖《くら》うと、べたべたと、蹴出《けだ》しも袖も崩れて坐った。  大切な客と見えて、若衆《わかいしゅ》が一人、女中が二人、前茶屋のだろう、附いて来た。人数《にんず》は六人だったがね。旦那が一杯にのしてるから、どうして入り切れるもんじゃない。随分|肥《ふと》ったのも、一人ならずさ。  茶屋のがしきりに、小声で詫《わび》を云って叩頭《おじぎ》をしたのは、御威勢でもこの外に場所は取れません、と詫びたんだろう。(構いまへんで、お入りなされ。)  まずい口真似だ、」  初阪は男衆の顔を見て微笑《ほほえ》んだが、 「そう云って、茶屋の男が、私に言《ことば》も掛けないで、その中でも、なかんずく臀《しり》の大きな大年増を一人、こっちの場所へ送込んだ。するとまたその婦《おんな》が、や、どッこいしょ、と掛声して、澄まして、ぬっと入って、ふわりと裾埃《すそごみ》で前へ出て、正面|充満《いっぱい》に陣取ったろう。」        八 「娘はこの肥満女《ふとっちょ》に、のしのし隅っこへ推着《おッつ》けられて、可恐《おそろ》しく見勝手が悪くなった。ああ、可哀そうにと思う。ちょうど、その身体《からだ》が、舞台と私との中垣になったもんだからね。可憐《いじら》しいじゃないか……  密《そっ》と横顔で振向いて、俯目《ふしめ》になって、(貴下《あんた》はん、見憎うおますやろ、)と云って、極《きま》りの悪そうに目をぱちぱちと瞬いたんです。何事も思いません。大阪中の詫言《わびごと》を一人でされた気がしたぜ。」  男衆は頭《つむり》を下げた。 「御道理《ごもっとも》で。」 「いや、まったく。心配しないで楽に居て、御覧々々と重ねて云うと、芝居で泣いたなりのしっとりした眉《まみえ》を、嬉しそうに莞爾《にっこり》して、向うを向いたが、ちょっと白い指で圧《おさ》えながら、その花簪《はなかんざし》を抜いたはどうだい。染分《そめわけ》の総《ふさ》だけも、目障りになるまいという、しおらしいんだね。 (酒だ、酒だ。疾《はや》くせい、のろま!)とぎっくり、と胸を張反《はりそ》らして、目を剥《む》く。こいつが、どろんと濁って血走ってら。ぐしゃぐしゃ見上げ皺《しわ》が揉上《もみあが》って筋だらけ。その癖、すぺりと髯《ひげ》のない、まだ三十くらい、若いんです。 (はいはい、たった今、直《じ》きに、)とひょこひょこと敷居に擦附ける、若衆は叩頭《おじぎ》をしいしい、(御寮人様、行届きまへん処は、何分、)と、こう内証で云った。  その御寮人と云われた、……旦那の背後《うしろ》に、……髪はやっぱり銀杏返しだっけ……お召の半コオトを着たなりで控えたのが、」 「へい、成程、背後《うしろ》に居ました。」 「お珊の方《かた》かね、天満橋で見た先刻《さっき》のだ。もっとも東の雛壇《ひなだん》をずらりと通して、柳桜が、色と姿を競った中にも、ちょっとはあるまいと思う、容色《きりょう》は容色と見たけれども、歯痒《はがゆ》いほど意気地《いくじ》のない、何て腑《ふ》の抜けた、と今日より十段も見劣りがしたって訳は。……  いずれ妾《めかけ》だろう。慰まれものには違いないが、若い衆も、(御寮人、)と奉って、何分、旦那を頼む、と云う。  取巻きの芸妓《げいしゃ》たち、三人五人の手前もある。やけに土砂を振掛けても、突張《つッぱり》返った洋服の亡者|一個《ひとり》、掌《てのひら》に引丸《ひんまろ》げて、捌《さばき》を附けなけりゃ立ちますまい。  ところが不可《いけな》い。その騒ぐ事、暴れる事、桟敷へ狼を飼ったようです。(泣くな、わい等、)と喚《わめ》く――君の親方が立女形《たておやま》で満場水を打ったよう、千百の見物が、目も口も頭も肩も、幅の広いただ一|人《にん》の形になって、啜泣《すすりな》きの声ばかり、誰が持った手巾《ハンケチ》も、夜会草の花を昼間見るように、ぐっしょり萎《しぼ》んで、火影の映るのが血を絞るような処だっけ――(芝居を見て泣く奴があるものかい、や、怪体《けたい》な!  舞台でも何を泣《ほ》えくさるんじゃい。かッと喧嘩《けんか》を遣れ、面白うないぞ! 打殺《たたきころ》して見せてくれ。やい、腸《はらわた》を掴出《つかみだ》せ、へん、馬鹿な、)とニヤリと笑う。いや、そのね、ニヤリと北叟笑《ほくそえ》みをする凄《すご》さと云ったら。……待てよ、この御寮人が内証《ないしょ》で情人《いろ》をこしらえる。嫉妬《しっと》でその妾の腸《はらわた》を引摺《ひきず》り出す時、きっと、そんな笑い方をする男に相違ないと思った。  可哀《あわれ》を留《とど》めたのは取巻連さ。  夢中になって、芝居を見ながら、旦那が喚《わめ》くたびに、はっとするそうで、皆《みんな》が申合わせた形で、ふらりと手を挙げる。……片手をだよ。……こりゃ、私の前を塞《ふさ》いだ肥満女《ふとっちょ》も同じく遣った。  その癖、黙然《だんまり》でね、チトもしお静《しずか》に、とも言い得ない。  すると、旦那です……(馬鹿め、止《や》めちまえ、)と言いながら、片手づきの反身《そりみ》の肩を、御寮人さ、そのお珊の方の胸の処へ突《つき》つけて、ぐたりとなった。……右の片手を逆に伸して、引合せたコオトの襟を引掴《ひッつか》んで、何か、自分の胸が窮屈そうに、こう踠《もが》いて、引開《ひっぱだ》けようとしたんだがね、思う通りにならなかったもんだから、(ええ)と云うと、かと開《はだ》けた、細い黄金鎖《きんぐさり》が晃然《きらり》と光る。帯を掴んで、ぐい、と引いて、婦《おんな》の膝を、洋服の尻へ掻込《かいこ》んだりと思うと、もろに凭懸《もたれかか》った奴が、ずるずると辷《すべ》って、それなり真仰向《まあおむ》けさ。傍若無人だ。」        九 「膝枕をしたもんです。その野分《のわき》に、衣紋《えもん》が崩れて、褄《つま》が乱れた。旦那の頭は下掻《したがい》の褄を裂いた体《てい》に、紅入友染《べにいりゆうぜん》の、膝の長襦袢《ながじゅばん》にのめずって、靴足袋をぬいと二ツ、仕切を空へ突出したと思え。  大蛇のような鼾《いびき》を掻《か》く。……妾《めかけ》はいいなぶりものにされたじゃないか。私は浅ましいと思った。大入の芝居の桟敷で。  江戸児《えどっこ》だと、見たが可い! 野郎がそんな不状《ぶざま》をすると、それが情人《いろ》なら簪《かんざし》でも刺殺す……金子《かね》で売った身体《からだ》だったら、思切って、衝《つっ》と立って、袖を払って帰るんだ。  処を、どうです。それなりに身を任せて、静《じっ》として、しかも入身《いれみ》に娜々《なよなよ》としているじゃないか。  掴寄《つかみよ》せられた帯も弛《ゆる》んで、結び目のずるりと下った、扱帯《しごき》の浅葱《あさぎ》は冷たそうに、提灯の明《あかり》を引いて、寂しく婦《おんな》の姿を庇《かば》う。それがせめてもの思遣《おもいや》りに見えたけれども、それさえ、そうした度の過ぎた酒と色に血の荒びた、神経のとげとげした、狼の手で掴出された、青光《あおびかり》のする腸《はらわた》のように見えて、あわれに無慚《むざん》な光景《ようす》だっけ。」 「……へい、そうですかね、」と云った男衆の声は、なぜか腑《ふ》に落ちぬらしく聞えたのである。 「聞きゃ、道成寺を舞った時、腹巻の下へ蛇を緊《し》めた姉さんだと云うじゃないか。……その扱帯《しごき》が鎌首を擡《もた》げりゃ可《よ》かったのにさ。」 「まったくですよ。それがために、貴方ね、舞の師匠から、その道成寺、葵《あおい》の上などという執着《しゅうぢゃく》の深いものは、立方《たちかた》禁制と言渡されて、破門だけは免れたッて、奥行きのある婦《おんな》ですが……金子《かね》の力で、旦那にゃ自由にならないじゃなりますまいよ。」 「気の毒だね。」 「とおっしゃると、筋も骨も抜けたように聞えますけれど、その癖、随分、したい三昧《ざんまい》、我儘《わがまま》を、するのを、旦那の方で制し切れないッて、評判をしますがね。」 「金子でその我ままをさせてもらうだけに、また旦那にも桟敷で帯を解かれるような我儘をされるんです。身体《からだ》を売って栄耀《えよう》栄華さ、それが浅ましいと云うんじゃないか。」 「ですがね、」  と男衆は、雪駄《せった》ちゃらちゃら、で、日南《ひなた》の横顔、小首を捻《ひね》って、 「我儘も品《しな》によりまさ。金剛石《ダイヤモンド》や黄金鎖《きんぐさり》なら妾《めかけ》の身じゃ、我儘という申立てにもなりませんがね。  自動車のプウプウも血の道に触《さわ》るか何かで、ある時なんざ、奴《やっこ》の日傘で、青葉時に、それ女大名の信長公でさ。鳴かずんば鳴かして見しょう、日中《ひなか》に時鳥《ほととぎす》を聞くんだ、という触込《ふれこ》みで、天王寺へ練込みましたさ、貴方。  幇間《たいこもち》が先へ廻って、あの五重の塔の天辺《てっぺん》へ上って、わなわな震えながら雲雀笛《ひばりぶえ》をピイ、はどうです。  そんな我儘より、もっと偉いのは、しかもその日だって云うんですがね。  御堂《みどう》横から蓮《はす》の池へ廻る広場《ひろっぱ》、大銀杏《おおいちょう》の根方に筵《むしろ》を敷いて、すととん、すととん、と太鼓を敲《たた》いて、猿を踊らしていた小僧を、御寮人お珊の方、扇子を半開《はんびらき》か何かで、こう反身で見ると、(可愛らしいぼんちやな。)で、俳優《やくしゃ》の誰とかに肖《に》てるッて御意の上……(私は人の妾やよって、えらい相違もないやろけれど、畜生に世話になるより、ちっとは優《まし》や。旦那に頼んで出世させて上げる、来なはれ、)と直ぐに貴方。  その場から連れて戻って、否応《いやおう》なしに、旦《だん》を説付《ときつ》けて、たちまち大店《おおだな》の手代分。大道稼ぎの猿廻しを、縞《しま》もの揃いにきちんと取立てたなんぞはいかがで。私は膝を突《つッ》つく腕に、ちっとは実があると思うんですが。」  初阪はこれを聞くと、様子が違って、 「さあ、事だよ! すると、昨夜《ゆうべ》のはその猿廻しだ。」        十 「いや、黒服の狂犬《やまいぬ》は、まだ妾《めかけ》の膝枕で、ふんぞり返って高鼾《たかいびき》。それさえ見てはいられないのに、……その手代に違いない。……当時の久松といったのが、前垂《まえだれ》がけで、何か急用と見えて、逢いに来てからの狼藉《ろうぜき》が、まったく目に余ったんだ。  悪口《あっこう》吐《つ》くのに、(猿曳《さるひき》め、)と云ったが、それで分った。けずり廻しとか、摺古木《すりこぎ》とか、獣《けだもの》めとかいう事だろう。大阪では(猿曳)と怒鳴るのかと思ったが。じゃ、そのお珊の方が取立てた、銀杏《いちょう》の下の芸人に疑いない。  となると!……あの、婦《おんな》はなお済まないぜ。  自分の世話をした若手代が、目の前で、額を煙管《きせる》で打《ぶ》たれるのを、もじもじと見ていたろうじゃないか。」 「煙管で、へい?……」 「ああ、垂々《たらたら》と血が出た。それをどうにもし得ないんだ。じゃ、天王寺の境内で、猿曳を拾上げたって何の功にもなりゃしない。  まあね、……旦那は寝たろう。取巻きの芸妓《げいこ》一統、互《たがい》にほっとしたらしい。が、私に言わせりゃその徒《てあい》だって働きがないじゃないか。何のための取巻なんです。ここは腕があると、取仕切って、御寮人に楽をさせる処さね。その柔かい膝に、友染も露出《あらわ》になるまで、石頭の拷問《ごうもん》に掛けて、芝居で泣いていては済みそうもないんだが。  可《よ》しさ、それも。  と、そこへ、酒|肴《さかな》、水菓子を添えて運んで来た。するとね、円髷《まげ》に結《い》った仲居らしいのが、世話をして、御連中、いずれもお一ツずつは、いい気なもんです。  さすがに、御寮人は、頭《かぶり》をちょっと振って受けなかった。  それにも構わず……(さあ一ツ。)か何かで、美濃《みの》から近江《おうみ》、こちらの桟敷に溢《あふ》れてる大きなお臀《しり》を、隣から手を伸《のば》して猪口《ちょく》の縁《ふち》でコトコトと音信《おとづ》れると、片手で簪《かんざし》を撮《つま》んで、ごしごしと鬢《びん》の毛を突掻《つッか》き突掻き、ぐしゃりと挫《ひしゃ》げたように仕切に凭《もた》れて、乗出して舞台を見い見い、片手を背後《うしろ》へ伸ばして、猪口を引傾《ひっかたむ》けたまま受ける、注《つ》ぐ、それ、溢《こぼ》す。(わややな、)と云う。  そいつが、私の胸の前で、手と手を千鳥がけに始《はじま》ったんだから驚くだろう。御免も失礼も、会釈一つするんじゃない。  しかし憎くはなかったぜ。君の親方が舞台に出ていて、皆《みんな》が夢中で遣る事なんだ。  憎いのは一人|狂犬《やまいぬ》さ。  やっと静まったと思う間もない。 (酒か、)と喚《わめ》くと、むくむくと起《おき》かかって、引担《ひっかつ》ぐような肱《ひじ》の上へ、妾の膝で頭を載せた。 (注げ! 馬鹿めが、)と猪口を叱って、茶碗で、苦い顔して、がぶがぶと掻喫《かっくら》う処へ、……色の白い、ちと纎弱《ひよわ》い、と云った柄さ。中脊の若いのが、縞《しま》の羽織で、廊下をちょこちょこと来て、ト手をちゃんと支《つ》いた。 (何や、)と一ツ突慳貪《つッけんどん》に云って睨《にら》みつけたが、低声《こごえ》で、若いのが何か口上を云うのを、フーフーと鼻で呼吸《いき》をしながら、目を瞑《ねむ》って、真仰向けに聞いたもんです。 (旦那の、)旦那と云うんだ。(旦那のここに居るのがどないして知れた、何や、)とまた怒鳴って、(判然《はっきり》ぬかしおれ。何や? 番頭が……ふ、ふ、ふ、ふん、)と嘲《あざ》けるような、あの、凄《すご》い笑顔《わらいがお》。やがて、苦々しそうに、そして切なそうに、眉を顰《しか》めて、唇を引結《ひんむす》ぶと、グウグウとまた鼾《いびき》を掻出す。  いや、しばらく起きない。  若手代は、膝へ手を支《つ》いたなり、中腰でね、こう困ったらしく俯向《うつむ》いたッきり。女連は、芝居に身が入《い》って言《ことば》も掛けず。  その中《うち》に幕が閉《しま》った。  満場わッと鳴って、ぎっしり詰《つま》ったのが、真黒《まっくろ》に両方の廊下へ溢れる。  しばらくして、大分|鎮《しず》まった時だった。幕あきに間もなさそうで、急足《いそぎあし》になる往来《ゆきき》の中を、また竹の扉《ひらき》からひょいと出たのは、娘を世話した男衆でね。手に弁当を一つ持っていました。 (はいよ、お弁当、)と云って、娘に差出して、渡そうとしたっけが……」        十一 「そこに私も居る、……知らぬ間に肥満女《ふとっちょ》の込入ったのと、振向いた娘の顔とを等分に見較べて(和女《あんた》、極《きまり》が悪いやろ。そしたら私《わし》が方へ来て食《あが》りなはるか。ああ、そうしなはれ、)と莞爾々々《にこにこ》笑う、気の可《い》い男さ。(太《えら》いお邪魔にござります。)と、屈《かが》んで私に挨拶して、一人で合点して弁当を持ったまま、ずいと引退《ひきさが》った。  娘がね、仕切に手を支《つ》くと、向直って、抜いた花簪《はなかんざし》を載せている、涙に濡れた、細《ほっそ》り畳んだ手拭《てぬぐい》を置いた、友染の前垂れの膝を浮かして、ちょっと考えるようにしたっけ。その手拭を軽く持って、上気した襟のあたりを二つ三つ煽《あお》ぎながら、可愛い足袋で、腰を据えて、すっと出て行く。……  私は煙草《たばこ》がなくなったから、背後《うしろ》の運動場《うんどうば》へ買いに出た。  余り見かねたから、背後《うしろ》向きになっていたがね、出しなに見ると、狂犬《やまいぬ》はそのまま膝枕で、例の鼾で、若い手代はどこへ立ったか居なかった。  西の運動場には、店が一つしかない。もう幕が開く処、見物は残らず場所へ坐直《すわりなお》している、ここらは大阪は行儀が可いよ。それに、大人で、身の入《い》った芝居ほど、運動場は寂しいもんです。  風は冷《つめた》し、呼吸《いき》ぬきかたがた、買った敷島をそこで吸附けて、喫《ふ》かしながら、堅い薄縁《うすべり》の板の上を、足袋の裏|冷々《ひやひや》と、快《い》い心持で辷《すべ》らして、懐手で、一人で桟敷へ帰って来ると、斜違《はすかい》に薄暗い便所が見えます。  そのね、手水鉢《ちょうずばち》の前に、大《おおき》な影法師見るように、脚榻《きゃたつ》に腰を掛けて、綿の厚い寝《ね》ン寝子《ねこ》で踞《うずくま》ってるのが、何だっけ、君が云った、その伝五郎。」 「ぼけましたよ、ええ、裟婆気《しゃばっけ》な駕籠屋でした。」 「まったくだね、股引《ももひき》の裾をぐい、と端折《はしょ》った処は豪勢だが、下腹がこけて、どんつくの圧《おし》に打たれて、猫背にへたへたと滅入込《めいりこ》んで、臍《へそ》から頤《おとがい》が生えたようです。  十四五枚も、堆《うずたか》く懐に畳んで持った手拭は、汚れてはおらないが、その風だから手拭《てふ》きに出してくれるのが、鼻紙の配分をするようさね、潰《つぶ》れた古無尽《ふるむじん》の帳面の亡者にそっくり。  一度、前幕のはじめに行って、手を洗った時、そう思った。  小さな銀貨を一個《ひとつ》握《にぎ》らせると、両手で、頭の上へ押頂いて、(沢山に難有《ありがと》、難有、難有、)と懐中《ふところ》へ頤《あご》を突込《つッこ》んで礼をするのが、何となく、ものの可哀《あわれ》が身に染みた。  その爺さんがね、見ると……その時、角兵衛という風で、頭を動かす……坐睡《いねむ》りか、と思うと悶《もが》いたんだ。仰向《あおむ》けに反《そ》って、両手の握拳《にぎりこぶし》で、肩を敲《たた》こうとするが、ひッつるばかりで手が動かぬ。  うん、と云う。  や、老人《としより》の早打肩。危いと思った時、幕あきの鳴ものが、チャンと入って、下座《げざ》の三味線《さみせん》が、ト手首を口へ取って、湿《しめり》をくれたのが、ちらりと見える。  どこか、もの蔭から、はらはらと走って出たのはその娘で。  突然《いきなり》、爺様《じいさん》の背中へ掴《つか》まると、手水鉢の傍《わき》に、南天の実の撓々《たわたわ》と、霜に伏さった冷い緋鹿子《ひがのこ》、真白《まっしろ》な小腕《こがいな》で、どんつくの肩をたたくじゃないか。  青苔《あおごけ》の緑青《ろくしょう》がぶくぶく禿《は》げた、湿った貼《のり》の香のぷんとする、山の書割の立て掛けてある暗い処へ凭懸《よっかか》って、ああ、さすがにここも都だ、としきりに可懐《なつかし》く熟《じっ》と視《み》た。  そこへ、手水鉢へ来て、手を洗ったのが、若い手代――君が云う、その美少年の猿廻《さるまわし》。」        十二 「急いで手拭を懐中《ふところ》へ突込むと、若手代はそこいらしきりに前後《あとさき》を眗《みまわ》した、……私は書割の山の陰に潜《ひそ》んでいたろう。  誰も居ないと見定めると、直ぐに、娘をわきへ推遣《おしや》って、手代が自分で、爺様《じいさん》の肩を敲《たた》き出した。  二人はいい中で居るらしい、一目見て様子で知れる、」 「ほう、」  と唐突《だしぬけ》に声を揚げて、男衆は小溝を一つ向うへ跳んだ。初阪は小さな石橋を渡った時。 「私は旅行《たび》をした効《かい》があると思った。  声は届かないけれども、趣でよく分る。……両手を働かせながら、若手代は、顔で教えて、ここは可い、自分が介抱するから、あっちへ行って芝居を見るように、と勧めるんです。娘が肯《き》かないのを、優しく叱るらしく見えると、あいあいと頷《うなず》く風でね、老年《としより》を勦《いたわ》る男の深切を、嬉しそうに、二三度見返りながら、娘はいそいそと桟敷へ帰る。その竹の扉《ひらき》を出る時、ちょっと襟を合せましたよ。  私も帰った。  間もなく、何、さしたる事でもなかったろう。すぐに肩癖《けんぺき》は解《ほぐ》れた、と見えて、若い人は、隣の桟敷際へ戻って来て、廊下へ支膝《つきひざ》、以前《もと》のごとし。……  真中《まんなか》へ挟《はさま》った私を御覧。美しい絹糸で、身体《からだ》中かがられる、何だか擽《くすぐった》い気持に胸が緊《しま》って、妙に窮屈な事といったらない。  狂犬《やまいぬ》がむっくり、鼻息を吹直した。 (柿があるか、剥《む》けやい、)と涎《よだれ》で滑々《ぬらぬら》した口を切って、絹も膚《はだ》にくい込もう、長い間枕した、妾の膝で、真赤《まっか》な目を睜《みひら》くと、手代をじろり、さも軽蔑したように見て、(何《なん》しとる? 汝《わり》ゃ!)と口汚く、まず怒鳴った。 (何じゃ、返事を待った、間抜け。勘定|欲《ほし》い、と取りに来た金子《かね》なら、払うてやるは知れた事や。何|吐《ぬか》す。……三百や五百の金。うんも、すんもあるものかい、鼻かんで敲《たた》きつけろ、と番頭にそう吐《ぬ》かせ。) (はい、)と、手を支《つ》く。 (さっさと去《い》ね、こない場所へのこのこと面出しおって、何《なん》さらす、去ねやい。) (はい、)とそれでも用ずみ。前垂の下で手を揉《も》みながら、手代が立って、五足ばかり行《ゆ》きかかると、 (多一、多一、)と呼んだ。若い人は、多一と云うんだ。 (待てい、)と云う。はっと引返して、また手を支《つ》くと、婦《おんな》の膝をはらばいに乗出して、(何じゃな、向うから金子《かね》くれい、と使が来て店で待つじゃな。人|寄越《よこ》いたら催促やい。誰や思う、丸官、)と云ったように覚えている。……」 「ええ、丸田官蔵、船場の大金持です。」 「そうかね、(丸官は催促されて金子《かね》出いた覚えはない。へへん、)と云って、取巻の芸妓徒《げいこてあい》の顔をずらりと見渡すと、例の凄《すご》いので嘲笑《あざわら》って、軍鶏《しゃも》が蹴《け》つけるように、ポンと起きたが、(寄越せ、)で、一人|剥《む》いていた柿を引手繰《ひったく》る、と仕切に肱《ひじ》を立てて、頤《あご》を、新高《しんたか》に居るどこかの島田|髷《まげ》の上に突出して、丸噛《まるかじ》りに、ぼりぼりと喰《くい》かきながら、(留《や》めちまえ、)と舞台へ喚《わめ》く。  御寮人は、ぞろりと褄《つま》を引合せる。多一は、その袖の蔭に、踞《うずくま》っていたんだね。  するとね、くいほじった柿の核《たね》を、ぴょいぴょいと桟敷中へ吐散らして、あはは、あはは、と面相の崩れるばかり、大口を開いて笑ったっけ。 (鉄砲|打《ぶ》て、戦争|押始《おっぱじ》めろ。大砲でも放さんかい、陰気な芝居や、馬鹿、)と云うと、また急に、険しい、苦い、尖《とが》った顔をして、じろりと多一を睨《にら》みつけた。 (何しとる、うむ、)と押潰《おしつぶ》すように云います。 (それでは、番頭さんに、その通り申聞けますでございます、)とまた立って、多一が歩行《ある》き出すと(こら!)と呼んで呼び留めた。 (丁稚々々《でっちでっち》、)と今度は云うのさ。」  聞く男衆は歎息した。 「難物ですなあ。」        十三 「それからの狂犬《やまいぬ》が、条理《すじ》違いの難題といっちゃ、聞いていられなかったぜ。 (汝《わり》ゃ、はいはいで、用を済まいた顔色《がんしょく》で、人間並に桟敷裏を足ばかりで立って行くが、帰ったら番頭に何と言うて返事さらすんや。何や! 払うな、と俺が吩咐《いいつ》けたからその通り申します、と申しますが、呆れるわい、これ、払うべき金子《かね》を払わいで、主人の一分が立つと思うか。(五百円や三百円、)と大《おおき》な声して、(端金子《はしたがね》、)で、底力を入れて塗《なす》りつけるように声を密《ひそ》めて……(な、端金子を、ああもこうもあるものかい。俺が払うな、と言うたかて払え。さっさと一束にして突付けろ。帰れ! 大白痴《おおたわけ》、その位な事が分らんか。)  で、また追立《おった》てて、立掛ける、とまたしても、(待ちおれ。)だ。 (分ったか、何、分った、偉い! 出来《でか》す、)と云ってね、ふふん、と例の厭《いや》な笑方《わらいかた》をして、それ、直ぐに芸妓連《げいこれん》の顔をぎょろり。 (分ったら言うてみい、帰って何と返事をする、饒舌《しゃべ》れ。一応は聞いておく。丸官後学のために承りたい、ふん、)と鼻を仰向《あおむ》けに耳を多一に突附けて、そこにありあわせた、御寮人の黄金煙管《きんぎせる》を握って、立続けに、ふかふか吹かす。 (判然《はっきり》言え、判然、ちゃんと口上をもって吐《ぬ》かせ。うん、番頭に、番頭に、番頭に、何だ、金子《かね》を払え?……黙れ! 沙汰過ぎた青二才、)と可恐《おそろし》い顔になった。(誰が?)と吠《ほ》えるような声で、(誰が払えと言った。誰が、これ、五百円は大金だぞ!  丸官、たかを聞いてさえぶるぶるする。これ、この通り震えるわい。)で、胴肩を一つに揺《ゆす》り上げて、(大胆ものめが、土性骨の太い奴《やち》や。主人のものだとたかを括《くく》って、大金を何の糟《かす》とも思いくさらん、乞食を忘れたか。)  と言う。  目に涙を一杯ためて、(御免下さいまし、)と、退《すさ》って廊下へ手を支《つ》くと、(あやまるに及ばん、よく、考えて、何と計らうべきか、そこへくい附いて分別して返答せい。……石になるまで、汝《わり》ゃ動くな。)とまた柿を引手繰《ひったく》って、かツかツと喰いかきながら、(止《や》めちまえ、馬鹿、)と舞台へ怒鳴る。 (旦那様、旦那様、)多一が震声《ふるえごえ》で呼んだと思え。 (早いな、汝《われ》がような下根《げこん》な奴には、三年かかろうと思うた分別が、立処《たちどころ》は偉い。俺《おれ》を呼ぶからには工夫が着いたな。まず、褒美《ほうび》を遣る。そりゃ頂け、)と柿の蔕《へた》を、色白な多一の頬へたたきつけた。 (もし、御寮人様、)と熟《じっ》と顔を見て、(どうしましたら宜《よろ》しいのでございましょう、)と縋《すが》るようにして言ったか言わぬに、(猿曳《さるひき》め、汝《われ》ゃ、婦《おんな》に、……畜生、)と喚《わめ》くが疾《はや》いか、伸掛《のしかか》って、ピシリと雁首《がんくび》で額を打《ぶ》ったよ。羅宇《らう》が真中《まんなか》から折れた。  こちらの桟敷に居た娘が、誰より先に、ハッと仕切へ顔を伏せる、と気を打たれたか、驚いた顔をして、新高の、ちょうど下に居た一人商人風の男が、中腰に立って上を見た。  芸妓達も一時《いっとき》に振向いて目を合せた、が、それだけさ。多一が圧《おさ》えた手の指から、たらたらと糸すじのように血の流れるのを見たばかり、どうにも手のつけようがなさそうな容子《ようす》には弱ったね。おまけに知らない振《ふり》をして、そのまま芝居を見る姉さんがあるじゃないか。  私は、ふいと立って、部屋へ帰った。  傍《そば》に居ちゃ、もうこっちが撮出《つまみだ》されるまでも、横面《よこつら》一ツ打挫《うちひしゃ》がなくッては、新橋へ帰られまい。が、私が取組合《とっくみあ》った、となると、随分舞台から飛んで来かねない友だちが一人居るんだからね。  頭痛がする、と楽屋へ横になったッきり、あとの事は知りません。道頓堀で、別に半鐘を打たなかったから、あれなり、ぐしゃぐしゃと消えたんだろう。  その婦《おんな》だ、呆れたぐうたらだと思ったが、」 「もし、もし、」  と男衆が、初阪の袖を、ぐい、と引いた。        十四  歩行《ある》くともなく話しながらも、男の足は早かった。と見ると、二人から十四五間、真直《まっすぐ》に見渡す。――狭いが、群集《ぐんじゅ》の夥《おびただ》しい町筋を、斜めに奴《やっこ》を連れて帰る――二個《ふたつ》、前後《あとさき》にすっと並んだ薄色の洋傘《こうもり》は、大輪の芙蓉《ふよう》の太陽《ひ》を浴びて、冷たく輝くがごとくに見えた。  水打った地《つち》に、裳《もすそ》の綾《あや》の影も射《さ》す、色は四辺《あたり》を払ったのである。 「やあ、居る……」  と、思わず初阪が声を立てる、ト両側を詰めた屋ごとの店、累《かさな》り合って露店もあり。軒にも、路にも、透間《すきま》のない人立《ひとだち》したが、いずれも言合せたように、その後姿を見送っていたらしいから、一見|赤毛布《あかげっと》のその風采《ふう》で、慌《あわただ》しく(居る、)と云えば、件《くだん》の婦《おんな》に吃驚《びっくり》した事は、往来《ゆきき》の人の、近間なのには残らず分った。  意気な案内者|大《おおい》に弱って、 「驚いては不可《いけ》ません。天満の青物市です。……それ、真正面《まっしょうめん》に、御鳥居を御覧なさい。」  はじめて心付くと、先刻《さっき》視《なが》めた城に対して、稜威《みいず》は高し、宮居《みやい》の屋根。雲に連なる甍《いらか》の棟は、玉を刻んだ峰である。  向って鳥居から町一筋、朝市の済んだあと、日蔽《ひおおい》の葭簀《よしず》を払った、両側の組柱は、鉄橋の木賃に似て、男も婦《おんな》も、折から市人《いちびと》の服装《なり》は皆黒いのに、一ツ鮮麗《あざやか》に行《ゆ》く美人の姿のために、さながら、市松障子の屋台した、菊の花壇のごとくに見えた。 「音に聞いた天満の市へ、突然《いきなり》入ったから驚いたんです。」 「そうでしょう。」  擦違《すれちが》った人は、初阪《もの》の顔を見て皆|笑《わらい》を含む。  両人《ふたり》は苦笑した。 「ほっこり、暖《あったか》い、暖い。」  蒸芋《ふかしいも》の湯気の中に、紺の鯉口《こいぐち》した女房が、ぬっくりと立って呼ぶ。 「おでんや、おでん!」 「饂飩《うどん》あがんなはらんか、饂飩。」 「煎餅《せんべい》買いなはれ、買いなはれ。」  鮨《すし》の香気《かおり》が芬《ぷん》として、あるが中に、硝子戸越《ガラスどごし》[#「硝子戸越」は底本では「硝戸戸越」]の紅《くれない》は、住吉の浦の鯛、淡路島の蝦《えび》であろう。市場の人の紺足袋に、はらはらと散った青い菜は、皆天王寺の蕪《かぶら》と見た。……頬被《ほおかむり》したお百姓、空籠《からかご》荷《にの》うて行違《ゆきちが》う。  軒より高い競売《せり》もある。  傘《からかさ》さした飴屋《あめや》の前で、奥深い白木の階《きざはし》に、二人まず、帽子を手に取った時であった。――前途《ゆくて》へ、今大鳥居を潜《くぐ》るよと見た、見る目も彩《あや》な、お珊の姿が、それまでは、よわよわと気病《きやみ》の床を小春日和《こはるびより》に、庭下駄がけで、我が別荘の背戸へ出たよう、扱帯《しごき》で褄《つま》取らぬばかりに、日の本の東西にただ二つの市の中を、徐々《しずしず》と拾ったのが、たちまち電《いなずま》のごとく、颯《さっ》と、照々《てらてら》とある円柱《まるばしら》に影を残して、鳥居際から衝《つ》と左へ切れた。  が、目にも留まらぬばかり、掻消《かきけ》すがごとくに見えなくなった。  高く競売屋《せりうりや》が居る、古いが、黒くがっしりした屋根|越《ごし》の其方《そなた》の空、一点の雲もなく、冴《さ》えた水色の隈《くま》なき中に、浅葱《あさぎ》や、樺《かば》や、朱や、青や、色づき初《そ》めた銀杏の梢《こずえ》に、風の戦《そよ》ぐ、と視《なが》めたのは、皆見世ものの立幟《たてのぼり》。  太鼓に、鉦《かね》に、ひしひしと、打寄する跫音《あしおと》の、遠巻きめいて、遥《はるか》に淀川にも響くと聞きしは、誓文払いに出盛る人数《にんず》。お珊も暮るれば練るという、宝の市の夜《よ》をかけた、大阪中の賑《にぎわ》いである。        十五 「御覧なさい、これが亀の池です。」  と云う、男衆の目は、――ここに人を渡すために架《か》けたと云うより、築山《つきやま》の景色に刻んだような、天満宮《てんまんぐう》の境内を左へ入って、池を渡る橋の上で――池は視《み》ないで、向う岸へ外《そ》れた。  階《きざはし》を昇って跪《ひざまず》いた時、言い知らぬ神霊に、引緊《ひきしま》った身の、拍手《かしわで》も堅く附着《くッつい》たのが、このところまで退出《まかんで》て、やっと掌《たなそこ》の開くを覚えながら、岸に、そのお珊の彳《たたず》んだのを見たのであった。  麩《ふ》でも投げたか、奴《やっこ》と二人で、同じ状《さま》に洋傘《こうもり》を傾けて、熟《じっ》と池の面《おも》を見入っている。  初阪は、不思議な物語に伝える類《たぐい》の、同じ百里の旅人である。天満の橋を渡る時、ふとどこともなく立顕《たちあらわ》れた、世にも凄《すご》いまで美しい婦《おんな》の手から、一通|玉章《たまずさ》を秘めた文箱《ふばこ》を託《ことずか》って来て、ここなる池で、かつて暗示された、別な美人《たおやめ》が受取りに出たような気がしてならぬ。  しかもそれは、途中|互《たがい》にもの言うにさえ、声の疲れた……激しい人の波を泳いで来た、殷賑《いんしん》、心斎橋《しんさいばし》、高麗橋《こうらいばし》と相並ぶ、天満の町筋を徹《とお》してであるにもかかわらず、説き難き一種|寂寞《せきばく》の感が身に迫った。参詣群集《さんけいぐんじゅ》、隙間のない、宮、社《やしろ》の、フトした空地は、こうした水ある処に、思いかけぬ寂しさを、日中《ひなか》は分けて見る事がおりおりある。  ちょうど池の辺《ほとり》には、この時、他に人影も見えなかった。……  橋の上に小児《こども》を連れた乳母が居たが、此方《こなた》から連立って、二人が行掛《ゆきかか》った機会《しお》に、 「さあ、のの様の方へ行こか。」と云って、手を引いて、宮の方《かた》へ徐々《そろそろ》帰った。その状《さま》が、人間界へ立帰るごとくに見えた。  池は小さくて、武蔵野の埴生《はにゅう》の小屋が今あらば、その潦《にわたずみ》ばかりだけれども、深翠《ふかみどり》に萌黄《もえぎ》を累《かさ》ねた、水の古さに藻が暗く、取廻わした石垣も、草は枯れつつ苔《こけ》滑《なめらか》。牡丹《ぼたん》を彫らぬ欄干も、巌《いわお》を削った趣《おもむき》がある。あまつさえ、水底《みなぞこ》に主《ぬし》が棲《す》む……その逸するのを封ずるために、雲に結《ゆわ》えて鉄《くろがね》の網を張り詰めたように、百千の細《こまか》な影が、漣《ささなみ》立《た》って、ふらふらと数知れず、薄黒く池の中に浮いたのは、亀の池の名に負える、水に充満《みちみち》た亀なのであった。  枯蓮《かれはす》もばらばらと、折れた茎に、トただ一つ留ったのは、硫黄《いおう》ヶ島の赤蜻蛉《あかとんぼ》。  鯡鯉《ひごい》の背は飜々《ひらひら》と、お珊の裳《もすそ》の影に靡《なび》く。  居たのは、つい、橋の其方《そなた》であった。  半襟は、黒に、蘆《あし》の穂が幽《かすか》に白い、紺地《こんのじ》によりがらみの細い格子、お召縮緬《めしちりめん》の一枚小袖、ついわざとらしいまで、不断着で出たらしい。コオトも着ない、羽織の色が、派手に、渋く、そして際立って、ぱっと目についた。  髪の艶《つや》も、色の白さも、そのために一際目立つ、――糸織か、一楽《いちらく》らしいくすんだ中に、晃々《きらきら》と冴《さ》えがある、きっぱりした地の藍鼠《あいねずみ》に、小豆色《あずきいろ》と茶と紺と、すらすらと色の通った縞《しま》の乱立《らんたつ》。  蒼空《あおぞら》の澄んだのに、水の色が袖に迫って、藍は青に、小豆は紅《くれない》に、茶は萌黄《もえぎ》に、紺は紫の隈《くま》を染めて、明《あかる》い中に影さすばかり。帯も長襦袢もこれに消えて、山深き処、年|古《ふ》る池に、ただその、すらりと雪を束《つか》ねたのに、霧ながら木《こ》の葉に綾《あや》なす、虹《にじ》を取って、細く滑《なめら》かに美しく、肩に掛けて背に捌《さば》き、腰に流したようである。汀《みぎわ》は水を取廻わして、冷い若木の薄もみじ。  光線は白かった。        十六  その艶《えん》なのが、女《め》の童《わらわ》を従えた風で、奴《やっこ》と彳《たたず》む。……汀に寄って……流木《ながれぎ》めいた板が一枚、ぶくぶくと浮いて、苔塗《こけまみ》れに生簀《いけす》の蓋《ふた》のように見えるのがあった。日は水を劃《くぎ》って、その板の上ばかり、たとえば温かさを積重ねた心持にふわふわ当る。  それへ、ほかほかと甲《こうら》を干した、木《こ》の葉に交って青銭の散った状《さま》して、大小の亀は十《と》ウ二十、磧《かわら》の石の数々居た。中には軽石のごときが交って。――  いずれ一度は擒《とりこ》となって、供養にとて放された、が狭い池で、昔|売買《うりかい》をされたという黒奴《くろんぼ》の男女《なんにょ》を思出させる。島、海、沢、藪《やぶ》をかけた集り勢、これほどの数が込合ったら、月には波立ち、暗夜《やみ》には潜《ひそ》んで、ひそひそと身の上話がはじまろう。  故郷《ふるさと》なる、何を見るやら、向《むき》は違っても一つ一つ、首を据えて目を睜《みは》る。が、人も、もの言わず、活《いき》ものがこれだけ居て余りの静かさ。どれかが幽《かすか》に、えへん、と咳払《せきばらい》をしそうで寂《さみ》しい。  一頭《ひとつ》、ぬっと、ざらざらな首を伸ばして、長く反《そ》って、汀を仰いだのがあった。心は、初阪等二人と斉《ひと》しく、絹糸の虹を視《なが》めたに違いない。 「気味の悪いもんですね、よく見るといかにも頭つきが似ていますぜ。」  男衆は両手を池の上へ出しながら、橋の欄干に凭《もた》れて低声《こごえ》で云う。あえて忍音《しのびね》には及ばぬ事を。けれども、……ここで云うのは、直《じか》に話すほど、間近な人に皆聞える。 「まったく、魚《うお》じゃ鯔《ぼら》の面色《かおつき》が瓜二つだよ。」  その何に似ているかは言わずとも知れよう。 「ああああ、板の下から潜出《もぐりだ》して、一つ水の中から顕《あらわ》れたのがあります。大分大きゅうがすせ。」  成程、たらたらと漆《うるし》のような腹を正的《まとも》に、甲《こうら》に濡色の薄紅《うすべに》をさしたのが、仰向《あおむ》けに鰓《あぎと》を此方《こなた》へ、むっくりとして、そして頭の尖《さき》に黄色く輪取った、その目が凸《なかだか》にくるりと見えて、鱗《うろこ》のざらめく蒼味《あおみ》がかった手を、ト板の縁《ふち》へ突張《つッぱ》って、水から半分ぬい、と出た。 「大将、甲羅《こうら》干しに板へ出る気だ。それ乗ります。」  と男衆の云った時、爪が外れて、ストンと落ちた。  が、直ぐにすぼりと胸を浮かす。 「今度は乗るぜ。」  やがて、甲羅を、残らず藻の上へ水から離して踏張《ふんば》った。が、力足らず、乗出した勢《いきおい》が余って、取外ずすと、ずんと沈む。 「や、不可《いけな》い。」  たちまち猛然としてまた浮いた。  で、のしり、のしりと板へ手をかけ、見るも不器用に、堅い体を伸上《のしあ》げる。 「しっかりしっかり、今度は大丈夫。あ、また辷《すべ》った。大事な処で。」と男衆は胸を乗出す。  汀のお珊は、褄《つま》をすらりと足をちょいと踏替えた。奴島田《やっこしまだ》は、洋傘《こうもり》を畳んで支《つ》いて、直ぐ目の下を、前髪に手庇《てびさし》して覗込《のぞきこ》む。  この度は、場処を替えようとするらしい。  斜《ななめ》に甲羅を、板に添って、手を掛けながら、するすると泳ぐ。これが、棹《さお》で操るがごとくになって、夥多《あまた》の可《いい》心持に乾いた亀の子を、カラカラと載《の》せたままで、水をゆらゆらと流れて辷った。が、熟《じっ》として嚔《くしゃみ》したもの一つない。  板の一方は細いのである。  そこへ、手を伸ばすと、腹へ抱込《かかえこ》めそうに見えた。  いや、困った事は、重量《おもみ》に圧《お》されて、板が引傾《ひっかたむ》いたために、だふん、と潜る。 「ほい、しまった。いや、串戯《じょうだん》じゃない。しっかり頼むぜ。」  と、男衆は欄干をトントン叩く。  あせる、と見えて、むらむらと紋が騒ぐ、と月影ばかり藻が分れて、端を探り探り手が掛《かか》った。と思うと、ずぼりと出る。 「蛙《かわず》だと青柳硯《あおやぎすずり》と云うんです。」 「まったくさ。」        十七  けれども、その時もし遂げなかった。 「ああ、惜《おし》い。」  男衆も共に、ただ一息と思う処で、亀の、どぶりと沈むごとに、思わず声を掛けて、手のものを落す心地で。 「執念深いもんですね。」 「あれ迄にしたんだ、揚げてやりたい。が、もう弱ったかな。」  と言う間もなかった。  この時は、手の鱗も逆立つまで、しゃっきりと、爪を大きく開ける、と甲の揺《ゆら》ぐばかり力が入って、その手を扁平《ひらた》く板について、白く乾いた小さな亀の背に掛けた。 「ははあ、考えた。」 「あいつを力に取って伸上《のしあが》るんです、や、や、どッこい。やれ情《なさけ》ない。」  ざぶりと他愛《たわい》なく、またもや沈む。  男衆が時計を視《み》た。 「もう二時半です、これから中の島を廻るんですから、徐々《そろそろ》帰りましょう。」 「しかし、何だか、揚るのを見ないじゃ気が残るようだね。」 「え、私も気になりますがね、だって、日が暮れるまで掛《かか》るかも知れませんから。」 「妙に残惜《のこりおし》いようだよ。」  男衆は、汀《みぎわ》の婦《おんな》にちょいと目を遣って、密《そっ》と片頬笑《かたほおえみ》して声を潜《ひそ》めた。 「串戯《じょうだん》じゃありませんぜ。ね、それ、何だか薄《うっす》りと美しい五色の霧が、冷々《ひやひや》と掛《かか》るようです。……変に凄《すご》いようですぜ。亀が昇天するのかも知れません。板に上ると、その機会《はずみ》に、黒雲を捲起《まきおこ》して、震動雷電……」 「さあ、出掛けよう。」  二人は肩を寒くして、コトコトと橋の中央《なかば》から取って返す。  やがて、渡果《わたりは》てようとした時である。 「ちょっと、ちょっと。」  と背後《うしろ》から、優《やさし》いが張《はり》のある、朗かな、そして幅のある声して呼んだ。何等の仔細《しさい》なしには済むまいと思った半日。それそれ、言わぬ事か、それ言わぬ事か。  袖を合せて、前後《あとさき》に、ト斉《ひと》しく振返ると、洋傘《こうもり》は畳んで、それは奴《やっこ》に持たした。縺毛《もつれげ》一条《ひとすじ》もない黒髪は、取って捌《さば》いたかと思うばかり、痩《やせ》ぎすな、透通るような頬を包んで、正面《まとも》に顔を合せた、襟はさぞ、雪なす咽喉《のど》が細かった。 「手前どもで、」と男衆は如才ない会釈をする。  奴は黙って、片手をその膝のあたりへ下げた。 「そうどす。」と判然《はっきり》云って莞爾《にっこり》する、瞼《まぶた》に薄く色が染まって、類《たぐい》なき紅葉《もみじ》の中の俤《おもかげ》である。 「一遍お待ちやす……思《おもい》を遂げんと気がかりなよって、見ていておくれやす。私《あて》が手伝うさかいな。」  猶予《ためら》いあえず、バチンと蓮《はす》の果《み》の飛ぶ音が響いた。お珊は帯留《おびどめ》の黄金《きん》金具、緑の照々《きらきら》と輝く玉を、烏羽玉《うばたま》の夜の帯から星を手に取るよ、と自魚の指に外ずして、見得もなく、友染《ゆうぜん》を柔《やわらか》な膝なりに、腰をなよなよと汀に低く居て――あたかも腹を空に突張《つッぱ》ってにょいと上げた、藻を押分けた――亀の手に、縋《すが》れよ、引かむ、とすらりと投げた。  帯留は、銀《しろがね》の曇ったような打紐《うちひも》と見えた。  その尖《さき》は水に潜《くぐ》って、亀の子は、ばくりと紐を噛《か》む、ト袖口を軽く袂《たもと》を絞った、小腕《こかいな》白く雪を伸べた。が、重量《おもみ》がかかるか、引く手に幽《かすか》に脈を打つ。その二の腕、顔、襟、頸《うなじ》、膚《はだ》に白い処は云うまでもない、袖、褄《つま》の、艶《えん》に色めく姿、爪尖《つまさき》まで、――さながら、細い黒髪の毛筋をもって、線を引いて、描き取った姿絵のようであった。        十八  池の面《おも》は、蒼《あお》く、お珊の唇のあたりに影を籠《こ》めた。  風少し吹添って、城ある乾《いぬい》の天《そら》暗く、天満宮の屋の棟が淀《どんよ》り曇った。いずこともなく、はたはたと帆を打つ響きは、幟《のぼり》の声、町には黄なる煙が走ろう、数万人の形を掠《かす》めて。……この水のある空ばかり、雲に硝子《がらす》を嵌《は》めたるごとく、美女《たおやめ》の虹《にじ》の姿は、姿見の中に映るかと、五色の絹を透通して、色を染めた木《こ》の葉は淡く、松の影が颯《さっ》と濃い。  打紐にまた脈を打って、紫の血が通うばかり、時に、腕《かいな》の色ながら、しろじろと鱗《うろこ》が光って、その友染に搦《から》んだなりに懐中《ふところ》から一条《ひとすじ》の蛇《くちなわ》の蜿《うね》り出た、思いかけず、ものの凄《すさま》じい形になった。 「あ、」  と云う声して、手を放すと、蛇の目輝く緑の玉は、光を消して、亀の口に銜《くわ》えたまま、するするする、と水脚を引いてそのまま底に沈んだのである。  奴《やっこ》はじりじりと後に退《すさ》った。  お珊は汀《みぎわ》にすっくと立った。が、血が留って、俤《おもかげ》は瑪瑙《めのう》の白さを削ったのであった。  この婦《おんな》が、一念懸けて、すると云うに、誰が何を妨げ得よう。  日も待たず、その翌《あけ》の日の夕暮時、宝の市へ練出す前に、――丸官が昨夜《ゆうべ》芝居で振舞った、酒の上の暴虐《ぼうぎゃく》の負債《おいめ》を果させるため、とあって、――南新地の浪屋の奥二階。金屏風《きんびょうぶ》を引繞《ひきめぐ》らした、四海《しかい》波《なみ》静《しずか》に青畳の八畳で、お珊自分に、雌蝶雄蝶《めちょうおちょう》の長柄《ながえ》を取って、橘《たちばな》活《い》けた床の間の正面に、美少年の多一と、さて、名はお美津と云う、逢阪の辻、餅屋の娘を、二人並べて据えたのである。  晴の装束は、お珊が金子《かね》に飽《あ》かして間に合わせた、宝の市の衣裳であった。  まず上席のお美津を謂《い》おう。髪は結いたての水の垂るるような、十六七が潰《つぶ》し島田。前髪をふっくり取って、両端へはらりと分けた、遠山の眉にかかる柳の糸の振分は、大阪に呼んで(いたずら)とか。緋縮緬《ひぢりめん》のかけおろし。橘に実を抱かせた笄《こうがい》を両方に、雲井の薫《かおり》をたきしめた、烏帽子《えぼし》、狩衣《かりぎぬ》。朱総《しゅぶさ》の紐は、お珊が手にこそ引結うたれ。着つけは桃に薄霞《うすがすみ》、朱鷺色絹《ときいろぎぬ》に白い裏、膚《はだえ》の雪の紅《くれない》の襲《かさね》に透くよう媚《なまめ》かしく、白の紗《しゃ》の、その狩衣を装い澄まして、黒繻子《くろじゅす》の帯、箱文庫。  含羞《はなじろ》む瞼《まぶた》を染めて、玉の項《うなじ》を差俯向《さしうつむ》く、ト見ると、雛鶴《ひなづる》一羽、松の羽衣|掻取《かいと》って、曙《あけぼの》の雲の上なる、宴《うたげ》に召さるる風情がある。  同じ烏帽子、紫の紐を深く、袖を並べて面伏《おもぶせ》そうな、多一は浅葱紗《あさぎしゃ》の素袍《すおう》着て、白衣《びゃくえ》の袖を粛《つつ》ましやかに、膝に両手を差置いた。  前なるお美津は、小鼓に八雲琴《やくもごと》、六人ずつが両側に、ハオ、イヤ、と拍子を取って、金蒔絵《きんまきえ》に銀鋲《ぎんびょう》打った欄干づき、輻《やぼね》も漆の車屋台に、前囃子《まえばやし》とて楽を奏する、その十二人と同じ風俗。  後囃子《あとばやし》が、また幕打った高い屋台に、これは男の稚児《ちご》ばかり、すり鉦《がね》に太鼓を合わせて、同じく揃う十二人と、多一は同じ装束である。  二人を前に、銚子《ちょうし》を控えて、人交ぜもしなかった……その時お珊の装《よそおい》は、また立勝《たちまさ》って目覚しや。        十九  宝の市の屋台に付いて、市女《いちめ》また姫とも称《とな》うる十二人の美女が練る。……  練衣《ねりぎぬ》小袿《こうちぎ》の紅《くれない》の袴《はかま》、とばかりでは言足らぬ。ただその上下《うえした》を装束《そうぞ》くにも、支度の夜は丑満《うしみつ》頃より、女紅場《じょこうば》に顔を揃えて一人々々|沐浴《ゆあみ》をするが、雪の膚《はだえ》も、白脛《しろはぎ》も、その湯は一人ずつ紅《べに》を流し、白粉《おしろい》を汲替《くみか》える。髪を洗い、櫛《くし》を入れ、丈より長く解捌《ときさば》いて、緑の雫《しずく》すらすらと、香枕《こうまくら》の香に霞むを待てば、鶏の声しばしば聞えて、元結《もとゆい》に染む霜の鐘の音。血る潔く清き身に、唐衣《からごろも》を着け、袴を穿《は》くと、しらしらと早や旭《あさひ》の影が、霧を破って色を映す。  さて住吉の朝ぼらけ、白妙《しろたえ》の松の樹《こ》の間を、静々と詣《もう》で進む、路の裳《もすそ》を、皐月御殿《さつきごてん》、市《いち》の式殿にはじめて解いて、市の姫は十二人。袴を十二長く引く。……  その市の姫十二人、御殿の正面に揖《ゆう》して出《い》づれば、神官、威儀正しく彼処《かしこ》にあり。土器《かわらけ》の神酒《みき》、結び昆布。やがて檜扇《ひおうぎ》を授けらる。これを受けて、席に帰って、緋や、萌黄《もえぎ》や、金銀の縫箔《ぬいはく》光を放って、板戸も松の絵の影に、雲白く梢《こずえ》を繞《めぐ》る松林《しょうりん》に日の射《さ》す中に、一列に並居《なみい》る時、巫子《みこ》するすると立出《たちい》でて、美女の面《おもて》一《いち》人ごとに、式の白粉を施し、紅をさし、墨もて黛《まゆずみ》を描く、と聞く。  素顔の雪に化粧して、皓歯《しらは》に紅を濃く含み、神々しく気高いまで、お珊はここに、黛さえほんのりと描いている。が、女紅場の沐浴《もくよく》に、美しき膚《はだ》を衆に抽《ぬ》き、解き揃えた黒髪は、夥間《なかま》の丈を圧《おさ》えたけれども、一人|渠《かれ》は、住吉の式に連《つらな》る事をしなかった。  間際に人が欠けては事が済まぬ。  世話人一同、袴腰を捻返《ねじかえ》して狼狽《うろた》えたが、お珊が思うままな金子《かね》の力で、身代りの婦《おんな》が急に立った。  で、これのみ巫女《みこ》の手を借りぬ、容色《きりょう》も南地《なんち》第一人。袴の色の緋よりも冴えた、笹紅《ささべに》の口許《くちもと》に美しく微笑《ほほえ》んだ。 「多一さん、美津《みい》さん、ちょっと、どないな気がおしやす。」  唐織衣《からおりごろも》に思いもよらぬ、生地《きじ》の芸妓《げいこ》で、心易げに、島台を前に、声を掛ける。  素袍の紗《しゃ》に透通る、燈《ともし》の影に浅葱《あさぎ》とて、月夜に色の白いよう、多一は照らされた面色《おももち》だった。 「なあ?」とお珊が聞返す、胸を薄く数を襲《かさ》ねた、雪の深い襲ねの襟に、檜扇を取って挿していた。 「御寮人様。」  と手を下げて、 「何も、何も、私《わたくし》は申されませぬ。あの、ただ夢のようにござります。」とやっと云って、烏帽子を正しく、はじめて上げた、女のような優しい眉の、右を残して斜めに巻いたは、笞《しもと》の疵《きず》に、無慚《むざん》な繃帯《ほうたい》。  お珊は黒目がちに、熟《じっ》と睜《みは》って、 「ほんに、そう云うたら夢やな。」  と清らかな襖《ふすま》のあたり、座敷を衝《つ》と眗《みまわ》した。  ト柱、襖《ふすま》、その金屏風に、人の影が残らず映った。  映って、そして、緋に、紫に、朱鷺色《ときいろ》に、二人の烏帽子、素袍、狩衣、彩《あや》あるままに色の影。ことにお珊の黒髪が、一条《ひとすじ》長く、横雲掛けて見えたのである。        二十  時に、間《ま》を隔てた、同じ浪屋の表二階に並んだ座敷は、残らず丸官が借り占めて、同じ宗右衛門町に軒を揃えた、両側の揚屋と斉《ひと》しく、毛氈《もうせん》を聯《つら》ねた中に、やがて時刻に、ここを出て、一まず女紅場で列を整え、先立ちの露払い、十人の稚児《ちご》が通り、前囃子《まえばやし》の屋台を挟《さしはさ》んで、そこに、十二人の姫が続く。第五番に、檜扇《ひおうぎ》取って練る約束の、我《おの》がお珊の、市随一の曠《はれ》の姿を見ようため、芸妓《げいこ》、幇間《たいこもち》をずらりと並べて、宵からここに座を構えた。  が、その座敷もまだ寂寞《ひっそり》して、時々、階子段《はしごだん》、廊下などに、遠い跫音《あしおと》、近く床しき衣摺《きぬずれ》の音のみ聞ゆる。  お珊は袖を開き、居直って、 「まあな、ほんに夢のようにあろな。私かて、夢かと思う。」  と、﨟丈《ろうた》けた黛《まゆずみ》、恍惚《うっとり》と、多一の顔を瞻《みまも》りながら、 「けど、何の、何の夢やおへん。たとい夢やかて。……丸官はんの方もな、私が身に替えて、承知させた……三々九度《さかずき》やさかい、ああした我《わが》ままな、好勝手な、朝云うた事は晩に変えやはる人やけど、こればかりは、私が附いているよって、承合《うけお》うて、どないしたかて夢にはせぬ。……あんじょう思うておくんなはれや。  美津《みい》さん、」  と娘の前髪に、瞳を返して、 「不思議な御縁やな。ほほ、」  手を口許に翳《かざ》したが、 「こう云うたかて、多一さんと貴女《あんた》とは、前世から約束したほど、深い交情《なか》でおいでる様子。今更ではあるまいけれど、私とは不思議な御縁やな。  思うてみれば、一昨日《おととい》の夜《よ》さり、中の芝居で見たまでは天王寺の常楽会《じょうらくえ》にも、天神様の御縁日にも、ついぞ出会うた事もなかったな。  一見《いちげん》でこうなった。  貴女《あんた》な、ようこそ、芝居の裏で、お爺《じい》はんの肩|摺《さす》って上げなはった。多一さんも人目忍んで、貴女の孝行手伝わはった。……自分介抱するよって、一条《ひとくさり》なと、可愛い可愛い女房《おかみ》はんに、沢山《たんと》芝居を見せたい心や。またな、その心を汲取《くみと》って、鶉《うずら》へ嬉々《いそいそ》お帰りやした、貴女の優しい、仇気《あどけ》ない、可愛らしさも身に染みて。……  私はな、丸官はんに、軋々《ぎしぎし》と……四角な天窓《あたま》乗せられて、鶉の仕切も拷問《ごうもん》の柱とやら、膝も骨も砕けるほど、辛い苦しい堪え難い、石を抱く責苦に逢うような中でも、身節《みふし》も弛《ゆる》んで、恍惚《うっとり》するまで視《なが》めていた。あの………扉《ひらき》の、お仕置場らしい青竹の矢来《やらい》の向うに……貴女等《あんたたち》の光景《ようす》をば。――  悪事は虎の千里走る、好《い》い事は、花の香ほども外へは漏れぬ言うけれど、貴女《あんた》二人は孝行の徳、恋の功《てがら》、恩愛の報《むくい》だすせ。誰も知るまい、私一人、よう知った。  逢阪に店がある、餅屋の評判のお娘《こ》さん、御両親《おふたおや》は、どちらも行方《ゆきがた》知れずなった、その借銭やら何やらで、苦労しなはる、あのお爺さんの孫や事まで、人に聞いて知ったよって、ふとな、彼やこれや談合しよう気になったも、私ばかりの心やない。  天満の天神様へ行た、その帰途《かえり》に、つい虚気々々《うかうか》と、もう黄昏《たそがれ》やいう時を、寄ってみたい気になって、貴女の餅屋へ土産買う振りで入ったら、」  と微笑みながら、二人を前に。 「多一さんが、使の間《ま》をちょっと逢いに寄って、町並|灯《あかり》の点《とも》された中に、その店だけは灯《ひ》もつけぬ、暗いに島田が黒かったえ。そのな、繃帯が白う見えた。」        二十一  小指を外《そ》らして指の輪を、我目の前《さき》へ、……お珊はそれが縁を結ぶ禁厭《まじない》であるようにした。 「密々《ひそひそ》、話していやはったな。……そこへ、私が行合《ゆきあ》[#ルビの「ゆきあ」は底本では「ゆきわ」]わせたも、この杯の瑞祥《ずいしょう》だすぜ。  ここで夫婦にならはったら、直ぐにな、別に店を出してもらうなり、世帯《しょたい》持ってそこから本店《ほんだな》へ通うなり、あの、お爺はんと、三人、あんじょ暮らして行《ゆ》かはるように、私がちゃと引受けた。弟、妹の分にして、丸官はんに否《いや》は言わせぬ。よって、安心おしやすや。え、嬉しいやろ。美津《みい》さんが、あの、嬉しそうなえ。  どうや、九太夫《くだゆう》はん。」  と云った、お珊は、密《そっ》と声を立てて、打解けた笑顔になった。  多一は素袍の浅葱《あさぎ》を濃く、袖を緊《し》めて、またその顔を、はッと伏せる。 「ほほほほ多一さん、貴下《あんた》、そうむつかしゅうせずと、胡坐《じょうら》組む気で、杯しなはれ。私かて、丸官はんの傍《そば》に居るのやない、この一月は籍のある、富田屋《とんだや》の以前の芸妓《げいこ》、そのつもりで酌をするのえ。  仮祝言や、儀式も作法も預かるよってな。後《のち》にまたあらためて、歴然《れっき》とした媒妁人《なこうど》立てる。その媒妁人やったら、この席でこないな串戯《わやく》は言えやへん。  そない極《きま》らずといておくれやす。なあ、九太夫はん。」 「御寮人様。」  と片手を畳へ、 「私はもう何も存じません、胸一杯で、ものも申されぬようにござります。が、その九太夫は情《なさけ》のうござります。」  と、術なき中にも、ものの嬉しそうな笑《えみ》を含んだ。 「そうやかて、貴方《あんた》、一昨日《おととい》の暮方、餅屋の土間に、……そないして、話していなはった処へ、私が、ト行た……姿を見ると、腰掛|框《かまち》の縁の下へ、慌てもうて、潜って隠れやはったやないかいな。」  言う――それは事実であった。―― 「はい、唯今でこそ申します、御寮人様がまたお意地の悪い。その框《かまち》へ腰をお掛けなされまして、盆にあんころ餅寄越せ、茶を持てと、この美津に御意ござります。  その上、入る穴はなし、貴女様の召しものの薫《かおり》が、魔薬とやらを嗅《か》ぎますようで、気が遠くなりました。  その辛さより、犬になってのこのこと、下屋を這出しました時が、なお術のうござりましてござります。」 「ほほほ可厭《いや》な、この人は。……最初はな、内証で情婦《いろ》に逢やはるより何の余所《よそ》の人でないものを、私の姿を見て隠れやはった心の裡《うち》が、水臭いようにあって、口惜《くやし》いと思うたけれど、な、……手を支《つ》いて詫《わび》言《い》やはる……その時に、門《かど》のとまりに、ちょんと乗って、むぐむぐ柿を頬張っていた、あの、大《おおき》な猿が、土間へ跳下《とびお》りて、貴下《あんた》と一所に、頭を土へ附けたのには、つい、おろおろと涙が出たえ。  柿は、貴下の土産やったそうに聞くな。  天王寺の境内で、以前舞わしてやった、あの猿。どないなった問うた時、ちと知縁のものがあって、その方へ、とばかり言うて、預けた先方《さき》を話しなはらん、住吉辺の田舎へなと思うたら、大切《だいじ》な許《とこ》に居るやもの。  おお、それなりで、貴方《あんた》たちを、私が方へ、無理に連れもうて来てしもうたが、うっかりしたな、お爺はんは、今夜は私の市女笠持って附いてもらうよって、それも留守。あの、猿はどうしたやろな。」 「はい、」  と娘が引取った、我が身の姿と、この場の光景《ようす》、踊のさらいに台辞《せりふ》を云うよう、細く透《とお》る、が声震えて、 「お爺さんが留守の時も、あの、戸を閉めた中に居て、ような、いつも留守してくれますのえ。」        二十二 「飼主とは申しましても、かえって私の方が養われました、あの、猿でさえ、……」  多一は片手に胸を圧《おさ》えて、 「御寮人様は申すまでもござりません、大道からお拾い下さりました。……また旦那様の目を盗みまして、私は実に、畜生にも劣りました、……」 「何や……怪我《けが》に貴方《あんた》は何やかて、美津《みい》さんは天人や、その人の夫やもの。まあ、二人して装束をお見やす、雛《ひな》を並べたようやないか。  けどな、多一さん、貴下《あんた》な、九太夫やったり、そのな、額の疵《きず》で、床下から出やはった処は仁木《にっき》どすせ。沢山《たんと》忠義な家来ではどちらやかてなさそうな。」  と軽口に、奥もなく云うて退《の》けたが、ほんのりと潤《うる》みのある、瞼《まぶた》に淡く影が映《さ》した。 「ああ、わやく云う事やない。……貴方《あんた》、その疵、ほんとにもう疼痛《いたみ》はないか。こないした嬉しさに、ずきずきしたかて忘らりょう。けど、疵は刻んで消えまいな。私が傍《そば》に居たものを。美津《みい》さんの大事な男に、怪我させて済まなんだな。  そやけど、美津さん、怨《うら》みにばかり、思いやすな。何百人か人目の前で、打擲《ちょうちゃく》されて、熟《じっ》と堪《こら》えていやはったも、辛抱しとげて、貴女《あんた》と一所に、添遂げたいばかりなんえ。そしたら、男の心中《しんじゅう》の極印《ごくいん》打ったも同じ事、喜んだかて可《い》いのどす。」  お美津は堪《こら》えず、目に袖を当てようとした。が、朱鷺色《ときいろ》衣に裏白きは、神の前なる薄紅梅、涙に濡らすは勿体ない。緋縮緬を手に搦《から》む、襦袢は席の乱れとて、強いて堪えた頬の靨《えくぼ》に、前髪の艶しとしとと。  お珊は眦《まなじり》を多一に返して、 「な、多一さんもそうだすやろな。」 「はい!」と聞返すようにする。 「丸官はんに、柿の核《たね》吹かけられたり、口車に綱つけて廊下を引摺廻されたり、羅宇《らう》のポッキリ折れたまで、そないに打擲されやして、死身《しにみ》になって堪えなはったも、誰にした辛抱でもない、皆、美津さんのためやろな。」 「…………」 「なあ、貴方、」 「…………」 「ええ、多一さん、新枕《にいまくら》の初言葉《ういことば》と、私もここでちゃんと聞く。……女子《おなご》は女子同士やよって、美津さんの味方して、私が聞きたい。貴方はそうはなかろうけど、男は浮気な……」  と見る、月がぱっちりと輝いた。多一は俯向《うつむ》いて見なかった。 「……ものやさかい、美津さんの後の手券《てがた》に、貴方の心を取っておく。ああまで堪えやした辛抱は、皆女子へ、」 「ええ、」 「あの、美津さんへの心中だてかえ。」  多一はハッと畳に手を……その素袍、指貫《さしぬき》に、刀なき腰は寂しいものであった。 「御寮人様、御推量を願いとうござります。誓文それに相違ござりません。」  お美津の両手も、鶴の白羽の狩衣に、玉を揃えて、前髪摺れに支《つ》いていた、簪《かんざし》の橘《たちばな》薫りもする。 「おお……嬉し……」  と胸を張って、思わず、つい云う。声の綾《あや》に、我を忘れて、道成寺の一条《ひとくだり》の真紅の糸が、鮮麗《あざやか》に織込まれた。  それは禁制の錦《にしき》であった。  ふと心付いた状《さま》して、動悸《どうき》を鎮めるげに、襟なる檜扇《ひおうぎ》の端をしっかと圧《おさ》えて、ト後《うしろ》を見て、襖《ふすま》にすらり靡《なび》いた、その下げ髪の丈を視《なが》めた。  お珊の姿は陰々とした。        二十三  夫婦が二人、その若い顔を上げた時、お珊は何気なき面色《おももち》した。 「ほんになあ、くどいようなが多一さん、よう辛抱しやはった。中の芝居で、あの事がなかったら、幾ら私が無理云うたかて、丸官はんにこの祝言を承知さす事はようせんもの。……そりゃな、夫婦にはならはったかて、立行くように世帯が出来んとならんやないか。  通い勤めなり、別に資本出すなりと、丸官はんに、応、言わせたも、皆、貴方《あんた》が、美津《みい》さんのために堪《こら》えなはった、心中立《しんじゅうだて》一つやな。十年七年の奉公を一度に済ましなはったも同じ事。  額の疵《きず》は、その烏帽子に、金剛石《ダイヤモンド》を飾ったような光が映《さ》す……おお、天晴《あっぱれ》なお婿はん。  さあ、お嫁はん、お酌しょうな。」  と軽く云ったが、艶麗《あでやか》に、しかも威儀ある座を正して、 「お盞《さかずき》。」  で、長柄の銚子《ちょうし》に手を添えた。  朱塗の蒔絵《まきえ》の三組《みつぐみ》は、浪に夕日の影を重ねて、蓬莱《ほうらい》の島の松の葉越に、いかにせし、鶴は狩衣の袖をすくめて、その盞を取ろうとせぬ。 「さ、お受けや。」  と、お珊が二度ばかり勧めたけれども、騒立《さわぎた》つらしい胸の響きに、烏帽子の総《ふさ》の揺るるのみ。美津は遣瀬《やるせ》なげに手を控える。  ト熟《じっ》と視《み》て、 「おお、まだ年の行《ゆ》かぬ、嬰児《ねね》はんや。多一はんと、酒事《ささごと》しやはった覚えがないな。貴女《あんた》盞を先へ取るのを遠慮やないか。三々九度は、嫁はんが初手に受けるが法やけれど、別に儀式だった祝言やないよって、どうなと構わん。  そやったら多一さん、貴方《あんた》先へお受けやす。」 「はい、」と斉《ひと》しく逡巡《しりごみ》する。 「どうしやはったえ。」 「御寮人様、一生に一度の事でござります。とてもの事に、ものが逆になりませんよう、やっぱり美津から……」  とちょっと目を合せた。 「女から、お盞を頂かして下さりまし。」 「そやかて、含羞《はにかん》でいて取んなはらん。……何や、貴方《あんた》がた、おかしなえ。」  ふと気色ばんだお珊の状《さま》に、座が寂《しん》として白けた時、表座敷に、テンテン、と二ツ三ツ、音《ね》じめの音が響いたのである。  二人は黙って差俯向《さしうつむ》く。……  お珊は、するりと膝を寄せた。屹《きっ》として、 「早うおしや! 邪魔が入るとならんよって、私も直《じ》きに女紅場へ行かんとならんえ。……な、あの、酌人が不足なかい。」  二人は、せわしげに瞳を合して、しきりに目でものを云っていた。 「もし、」  と多一が急《せ》いた声で、 「御寮人様、この上になお罰が当ります。不足やなんの、さような事がありまして可《い》いものでござりますか。御免下さりまし、申しましょう。貴女様、その召しました、両方のお袂《たもと》の中が動きます。……美津は、あの、それが可恐《こわ》いのでござります。」と判然《はっきり》云った。  と、頤《おとがい》を檜扇《ひおうぎ》に、白小袖の底を透《すか》して、 「これか、」  と投げたように言いながら、衝《つ》と、両手を中へ、袂を探って、肩をふらりと、なよなよとその唐織の袖を垂れたが、品《ひん》を崩して、お手玉持つよ、と若々しい、仇気《あどけ》ない風があった。 「何や、この二条《ふたすじ》の蛇が可恐い云うて?……両方とも、言合わせたように、貴方《あんた》二人が、自分たちで、心願掛けたものどっせ。  餅屋の店で逢うた時、多一さん、貴方《あんた》はこの袋一つ持っていた。な、買うて来るついではあって、一夜《ひとよさ》祈《いのり》はあげたけれど、用の間が忙しゅうて、夜さり高津の蛇穴へ放しに行《ゆ》く隙《ひま》がない、頼まれて欲《ほし》い――云うて、美津さんに託《ことづ》きょう、とそれが用で顔見に行《ゆ》かはった云うたやないか。」        二十四 「美津さんもまた、日が暮れたら、高津へ行て放す心やった云うて、自分でも一筋。同じ袋に入ったのが、二ツ、ちょんと、あの、猿の留木《とまりぎ》の下に揃えてあって、――その時、私に打明けて二人して言やはったは、つい一昨日《おととい》の晩方や。  それもこれも、貴方《あんた》がた、芝居の事があってから、あんな奉公早う罷《や》めて、すぐにも夫婦になれるようにと、身体《からだ》は両方別れていて、言合せはせぬけれど、同じ日、同じ時に、同じ祈《いのり》を掛けやはる。……  蛇も二筋落合うた。  案の定、その場から、思いが叶《かの》うた、お二人さん。  あすこのな、蛇屋に蛇は多けれど、貴方がたのこの二条《ふたすじ》ほど、験《げん》のあったは外にはないやろ。私かて、親はなし、稚《ちいさ》い時から勤《つとめ》をした、辛い事、悲しい事、口惜《くや》しい事、恋しい事、」  と懐手のまま、目を睜《みは》って、 「死にたいほどの事もある。……何々の思《おもい》が遂げたいよって、貴方《あんた》二人に類似《あやか》りたさに、同じ蛇を預った。今少し、身に附けていたいよって、こうしておいておくれやす。  貴方、結ぶの神やないか。  けどな、思い詰めては、自分の手でも持ったもの。一度、願《ねがい》が叶うた上では、人の袂にあるのさえ、美津さん、婦《おんな》は、蛇は、可厭《いや》らしな!  よう貴女《あんた》、これを持つまで、多一さんを思やはった、婦《おんな》同士や、察せいでか。――袂にあったら、粗相して落すとならん。憂慮《きづかい》なやろさかい、私がこうするよって、大事ないえ。」  と袖の中にて手を引けば、内懐《うちぶところ》の乳《ち》のあたり、浪打つように膨らみたり。 「婦《おんな》の急所で圧《おさ》えておく。……乳|銜《くわ》えられて、私が死のうと、盞の影も覗《のぞ》かせぬ。さ、美津さん、まず、お前に。」  お珊は長柄をちょうと取る。  美津は盞を震えて受けた。  手の震えで滴々《たらたら》と露散《たまち》るごとき酒の雫《しずく》、蛇《くちなわ》の色ならずや、酌参るお珊の手を掛けて燈《ともしび》の影ながら、青白き艶《つや》が映ったのである。  はたはたとお珊が手を拍《たた》くと、かねて心得さしてあったろう。廊下の障子の開く音して、すらすらと足袋摺《たびずれ》に、一間を過ぎて、また静《しずか》にこの襖《ふすま》を開けて、 「お召し、」  とそこへ手を支《つ》いた、裾《すそ》模様の振袖は、島田の丈長《たけなが》、舞妓《まいこ》にあらず、家《うち》から斉眉《かしず》いて来ている奴《やっこ》であった。 「可《よ》いかい。」 「はい。」と言いさま、はらはらと小走りに、もとの廊下へ一度出て、その中庭を角にした、向うの襖をすらりと開けると、閨《ねや》紅《くれない》に、翠《みどり》の夜具。枕頭《まくらもと》にまた一人、同じ姿の奴が居る。  お珊が黙って、此方《こなた》から差覗《さしのぞ》いて立ったのは、竜田姫《たつたひめ》の彳《たたず》んで、霜葉《もみじ》の錦の谿《たに》深く、夕映えたるを望める光景《ありさま》。居たのが立って、入ったのと、奴二人の、同じ八尺|対扮装《ついでたち》。紫の袖、白襟が、紫の袖、白襟が。  袖口燃ゆる緋縮緬《ひぢりめん》、ひらりと折目に手を掛けて、きりきりと左右へ廻して、枕を蔽《おお》う六枚|屏風《びょうぶ》、表に描《か》いたも、錦葉《にしきば》なるべし、裏に白銀《しろがね》の水が走る。 「あちらへ。」  お珊が二人を導いた時、とかくして座を立った、美津が狩衣の袴の裾は、膝を露顕《あらわ》な素足なるに、恐ろしい深山路《みやまじ》の霜を踏んで、あやしき神の犠牲《にえ》に行《ゆ》く……なぜか畳は辿々《たどたど》しく、ものあわれに見えたのである。奴二人は姿を隠した。        二十五  屏風を隔てて、この紅《くれない》の袴した媒人《なこうど》は、花やかに笑ったのである。  一人を褥《しとね》の上に据えて、お珊がやがて、一人を、そのあとから閨《ねや》へ送ると、前のが、屏風の片端から、烏帽子のなりで、するりと抜ける。  下髪《さげがみ》であとを追って、手を取って、枕頭《まくらもと》から送込むと、そこに据えたのが、すっと立って、裾から屏風を抜けて出る。トすぐに続いて、縋《すが》って抱くばかりにして、送込むと、おさえておいたのが、はらはら出る。  素袍《すおう》、狩衣、唐衣、綾《あや》と錦の影を交えて、風ある状《さま》に、裾袂、追いつ追われつ、ひらひらと立舞う風情に閨を繞《めぐ》った。巫山《ふざん》の雲に桟《かけはし》懸《かか》れば、名もなき恋の淵《ふち》あらむ。左、橘《たちばな》、右、桜、衣《きぬ》の模様の色香を浮かして、水は巴《ともえ》に渦を巻く。 「おほほほほ、」  呼吸《いき》も絶ゆげな、なえたような美津の背《せな》を、屏風の外で抱えた時、お珊は、その花やかな笑《わらい》を聞かしたのである。  好《よ》き機会《しお》とや思いけん。  廊下に跫音《あしおと》、ばたばたと早く刻んで、羽織袴の、宝の市の世話人一人、真先《まっさき》に、すっすっすっと来る、当浪屋の女房《かみ》さん、仲居まじりに、奴が続いて、迎いの人数《にんず》。  口々に、 「御寮人様。」 「お珊様。」 「女紅場では、屋台の組も乗込みました。」 「貴女ばかりを待兼ねてござります。」  襖の中から、 「車は?」  と静《しずか》に云う。 「綱も申し着けました、」と世話人が答えたのである。 「待たせはせぬえ、大事な処へ、何や!」  と声が凜《りん》とした。  黙って、すたすた、一同は廊下を引く。  とばかりあって、襖をあけた時、今度は美津が閨に隠れて、枕も、袖も見えなんだ。  多一が屏風の外に居て、床の柱の、釣籠《つりかご》の、白玉椿《しらたまつばき》の葉の艶より、ぼんやりとした素袍で立った。  襖がくれの半身で、廊下の後前《あとさき》を熟《じっ》と視《み》て、人の影もなかった途端に、振返ると、引寄せた。お珊の腕《かいな》が頸《うなじ》にかかると、倒れるように、ハタと膝を支《つ》いた、多一の唇に、俯向《うつむ》きざまに、衝《つ》と。――  丸官の座敷を、表に視《なが》めて、左右に開いたに立寄りもせず、階子段《はしごだん》を颯《さっ》と下りる、とたちまち門《かど》へ姿が出た。  軒を離れて、俥《くるま》に乗る時、欄干に立った、丸官、と顔を上下《うえした》に合すや否や、矢を射るような二人曳《ににんびき》。あれよ、あれよと云うばかり、廓《くるわ》の灯《ともし》に影を散らした、群集《ぐんじゅ》はぱっと道を分けた。  宝の市の見物は、これよりして早や宗右衛門町の両側に、人垣を築いて見送ったのである。  その年十月十九日、宝の市の最後の夜《よ》は、稚児《ちご》、市女《いちめ》、順々に、後圧《あとおさ》えの消防夫《しごとし》が、篝火《かがりび》赤き女紅場の庭を離れる時から、屋台の囃子、姫たちなど、傍目《わきめ》も触《ふ》らぬ婦《おんな》たちは、さもないが、真先《まっさき》に神輿《みこし》を荷《にの》うた白丁《はくちょう》はじめ、立傘《たてがさ》、市女笠《いちめがさ》持ちの人足など、頻《しき》りに気にしては空を視《なが》めた。  通り筋の、屋根に、廂《ひさし》に、しばしば鴉《からす》が鳴いたのである。  次第に数が増すと、まざまざと、薄月《うすづき》の曇った空に、嘴《くちばし》も翼も見えて、やがては、練《ねり》ものの上を飛交わす。  列が道頓堀に小休みをした時は、立並ぶ芝居の中の見物さえ、頻りに鴉鳴《からすなき》を聞いた、と後で云う。……        二十六 「宗八《そっぱ》、宗八《そっぱ》。」  浪屋の表座敷、床の間の正面に、丸田官蔵、この成金、何の好みか、例なる詰襟《つめえり》の紺の洋服、高胡坐《たかあぐら》、座にある幇間《ほうかん》を大音に呼ぶ。 「はッ、」 「き様、逢阪のあんころ餅へ、使者に、後押《あとおし》で駈着《かけつ》けて、今帰った処じゃな。」 「御意にござります、へい。」 「何か、直ぐに連れてここへ来る手筈《てはず》じゃった、猿は、留木《とまりぎ》から落ちて縁の下へ半分|身体《からだ》を突込《つッこ》んで、斃死《くたばっ》ていたげに云う……嘘でないな。」 「実説正銘にござりまして、へい。餅屋|店《みせ》では、爺《じじい》の伝五めに、今夜、貴方様《あなたさま》、お珊の方様、」  と額を敲《たた》いて、 「すなわち、御寮人様、市へお練出しのお供を、お好《このみ》とあって承ります。……さてまた、名代娘のお美津さんは、御夫婦これに――ええ、すなわち逢阪の辻店は、戸を寄せ掛けた明巣《あきす》にござります。  処へ宗八、丸官閣下お使者といたし、車を一散に乗着けまして、隣家の豆屋の女房立会い、戸を押開いて見ましたれば、いや、はや、何とも悪食《あくじき》がないたいた様子、お望みの猿は血を吐いて斃《お》ち果てておりましたに毛頭相違ござりません。」 「うむ。」  と苦切《にがりき》って頷《うなず》きながら、 「多一、あれを聞いたかい、その通りや。」と、ぐっと見下ろす。  一座の末に、うら若い新夫婦は、平伏《ひれふ》していたのである。  これより先、余り御無体、お待ちや、などと、慌《あわただ》しい婦《おんな》まじりの声の中に、丸官の形、猛然と躍上《おどりあが》って、廊下を鳴らして魔のごとく、二人の閏《ねや》へ押寄せた。  襖をどんと突明けると、床の間の白玉椿、怪しき明星のごとき別天地に、こは思いも掛けず、二人の姿は、綾の帳《とばり》にも蔽《おお》われず、指貫《さしぬき》やなど、烏帽子の紐《ひも》も解かないで、屏風《びょうぶ》の外に、美津は多一の膝に俯《ふ》し、多一は美津の背《せな》に額を附けて、五人囃子の雛《ひな》二個《ふたつ》、袖を合せたようであった。  揃って、胸先がキヤキヤと痛むと云う。 「酒|啖《くら》え、意気地なし!」  で、有無を言わせず、表二階へ引出された。  欄干の緋《ひ》の毛氈《もうせん》は似たりしが、今夜は額を破るのでない。 「練ものを待つ内、退屈じゃ。多一やい、皆への馳走《ちそう》に猿を舞わいて見せてくれ。恥辱《はじ》ではない。汝《わり》ゃ、丁稚《でっち》から飛上って、今夜から、大阪の旦那の一|人《にん》。旧《むかし》を忘れぬためという……取立てた主人の訓戒《いましめ》と思え。  呼べ、と言えば、婦《おんな》どもが愚図《ぐず》々々|吐《ぬか》す。新枕《にいまくら》は長鳴鶏《ながなきどり》の夜《よ》があけるまでは待かねる。  主従は三世の中じゃ、遠慮なしに閨へ推参に及んだ、悪く思うまいな。汝《わり》ゃ、天王寺境内に太鼓たたいていて、ちょこんと猿|負背《おんぶ》で、小屋へ帰りがけに、太夫どのに餅買うて、汝《われ》も食いおった、行帰りから、その娘は馴染《なじみ》じゃげな。足洗うて、丁稚になるとて、右の猿は餅屋へ預けて、現に猿ヶ餅と云うこと、ここに居る婦《おんな》どもが知った中。  田畝《たんぼ》の鼠が、蝙蝠《こうもり》になった、その素袍《すおう》ひらつかいたかて、今更隠すには当らぬやて。  かえって卑怯《ひきょう》じゃ。  遣《や》ってくれい。  が、聞く通り、ちゃと早手廻しに使者を立てた、宗八が帰っての口上、あの通り。  残念な、猿太夫は斃《お》ちたとあるわい。  唄なと歌え、形なと見せおれ。  何|吐《ぬか》す、」  と、とりなしを云った二三人の年増の芸妓《げいこ》を睨廻《ねめまわ》いて、 「やい、多一!」        二十七 「致します、致します。」  と呼吸《いき》を切って、 「皆さん御免なさりまし。」  多一はすっと衣紋《えもん》を扱《しご》いた。  浅葱《あさぎ》の素袍、侍烏帽子が、丸官と向う正面。芸妓、舞妓は左右に開く。  その時、膝に手を支《つ》いて、 「……ま猿めでとうのう仕《つかまつ》る、踊るが手許《てもと》立廻り、肩に小腰をゆすり合せ、静やかに舞うたりけり……」  声を張った、扇拍子、畳を軽く拍《う》ちながら、「筑紫下りの西国船、艫《とも》に八|挺《ちょう》、舳《へ》に八挺、十六挺の櫓櫂《ろかい》を立てて……」 「やんややんや。ああ惜《おし》い、太夫が居《お》らぬ。千代鶴やい、猿になれ。一若、立たぬか、立たぬか、此奴《こいつ》。ええ! 婆《ばば》どもでまけてやろう、古猿《こけざる》になれ、此奴等《こいつら》……立たぬな、おのれ。」  と立身上《たちみあが》りに、盞《さかずき》を取って投げると、杯洗《はいせん》の縁《ふち》にカチリと砕けて、颯《さっ》と欠《かけ》らが四辺《あたり》に散った。  色めき白ける燈《ともしび》に、一重瞼《ひとえまぶち》の目を清《すず》しく、美津は伏せたる面《おもて》を上げた。 「ああ、皆さん、私が猿を舞いまっせ[#「舞いまっせ」は底本では「舞いまつせ」]。旦那さん、男のためどす。畜生になってな、私が天王寺の銀杏《いちょう》の下で、トントン踊って、養うよってな。世帯せいでも大事ない、もう貴下《あんた》、多一さんを虐《いじ》めんとおくれやす。  ちゃと隙《ひま》もろうて去《い》ぬよって、多一さん、さあ、唄いいな、続いて、」  と、襟の扇子を衝《つ》と抜いて、すらすらと座へ立った。江戸は紫、京は紅《べに》、雪の狩衣|被《か》けながら、下萌《したも》ゆる血の、うら若草、萌黄《もえぎ》は難波《なにわ》の色である。  丸官は掌《こぶし》を握った。  多一の声は凜々《りんりん》として、 「しもにんにんの宝の中に――火取る玉、水取る玉……イヤア、」  と一つ掛けた声が、たちまち切なそうに掠《かす》れた時よ。 (ハオ、イヤア、ハオ、イヤア、)霜夜を且つちる錦葉《もみじ》の音かと、虚空に響いた鼓の掛声。 (コンコンチキチン、コンチキチン、コンチキチン、カラ、タッポッポ)摺鉦《すりがね》入れた後囃子《あとばやし》が、遥《はるか》に交って聞えたは、先駆すでに町を渡って、前囃子の間近な気勢《けはい》。  が、座を乱すものは一人もなかった。 「船の中には何とお寝《よ》るぞ、苫《とま》を敷寝に、苫を敷寝に楫枕《かじまくら》、楫枕。」  玉を伸べたる脛《はぎ》もめげず、ツト美津は、畳に投げて手枕《たまくら》した。  その時は、別に変った様子もなかった。  多一が次第に、歯も軋《きし》むか、と声を絞って、 「葉越しの葉越しの月の影、松の葉越の月見れば、しばし曇りてまた冴《さ》ゆる、しばし曇りてまた冴ゆる、しばし曇りてまた冴ゆる……」  ト袖を捲いて、扇子《おうぎ》を翳《かざ》し、胸を反らして熟《じっ》と仰いだ、美津の瞳は氷れるごとく、瞬《またたさ》もせず睜《みは》ると斉《ひと》しく、笑靨《えくぼ》に颯《さっ》と影がさして、爪立《つまだ》つ足が震えたと思うと、唇をゆがめた皓歯《しらは》に、莟《つぼみ》のような血を噛《か》んだが、烏帽子の紐の乱れかかって、胸に千条《ちすじ》の鮮血《からくれない》。 「あ、」  と一声して、ばったり倒れる。人目も振《ふり》も、しどろになって背《せな》に縋《すが》った。多一の片手の掌《てのひら》も、我が唇を圧《おさえ》余って、血汐《ちしお》は指を溢《あふ》れ落ちた。  一座わっと立騒ぐ。階子《はしご》へ遁《に》げて落ちたのさえある。  引仰向《ひきあおむ》けてしっかと抱き、 「美津《みい》さん!……二、二人は毒害された、お珊、お珊、御寮人、お珊め、婦《おんな》!」        二十八 「床几《しょうぎ》、」  と、前後《まえうしろ》の屋台の間に、市女《いちめ》の姫の第五人目で、お珊が朗かな声を掛けた。背後《うしろ》に二人、朱の台傘を廂《ひさし》より高々と地摺《じずれ》の黒髪にさしかけたのは、白丁扮装《はくちょうでたち》の駕寵《かご》人足。並んで、萌黄紗《もえぎしゃ》に朱の総《ふさ》結んだ、市女笠を捧げて従ったのは、特にお珊が望んだという、お美津の爺《じい》の伝五郎。  印半纏《しるしばんてん》、股引《ももひき》、腹掛けの若いものが、さし心得て、露じとりの地に据えた床几に、お珊は真先《まっさき》に腰を掛けた。が、これは我儘《わがまま》ではない。練《ねり》ものは、揃って、宗右衛門町のここに休むのが習《ならい》であった。  屋台の前なる稚児《ちご》をはじめ、間をものの二|間《けん》ばかりずつ、真直《まっすぐ》に取って、十二人が十二の衣《きぬ》、色を勝《すぐ》った南地の芸妓《げいこ》が、揃って、一人ずつ皆床几に掛かる。  台傘の朱は、総二階一面軒ごとの緋《ひ》の毛氈《もうせん》に、色|映交《さしか》わして、千本《ちもと》植えたる桜の梢《こずえ》、廊《くるわ》の空に咲かかる。白の狩衣、紅梅小袖、灯《ともしび》の影にちらちらと、囃子の舞妓、芸妓など、霧に揺据《ゆりすわ》って、小鼓、八雲琴《やくもごと》の調《しらべ》を休むと、後囃子《あとばやし》なる素袍の稚児が、浅葱桜《あさぎざくら》を織交ぜて、すり鉦《がね》、太鼓の音《ね》も憩う。動揺《どよめき》渡る見物は、大河の水を堰《せ》いたよう、見渡す限り列のある間、――一尺ごとに百目蝋燭《ひゃくめろうそく》、裸火を煽《あお》らし立てた、黒塗に台附の柵の堤を築いて、両方へ押分けたれば、練もののみが静まり返って、人形のように美しく且つ凄《すご》い。  ただその中を、福草履ひたひたと地を刻んで、袴《はかま》の裾を忙《せわ》しそう。二人三人、世話人が、列の柵|摺《ず》れに往《ゆ》きつ還《かえ》りつ、時々顔を合わせて、二人|囁《ささや》く、直ぐに別れてまた一人、別な世話人とちょっと出遇《であ》う。中に一人落しものをしたように、うろうろと、市女たちの足許《あしもと》を覗《のぞ》いて歩行《ある》くものもあって、大《おおき》な蟻の働振《はたらきぶり》、さも事ありげに見えるばかりか、傘さしかけた白丁どもも、三人ならず、五人ならず、眉を顰《ひそ》め口を開けて空を見た。  その空は、暗く濁って、ところどころ朱の色を交えて曇った。中を一条《ひとすじ》、列を切って、どこからともなく白気《はっき》が渡って、細々と長く、遥《はるか》に城ある方《かた》に靡《なび》く。これを、あたりの湯屋の煙、また、遠い煙筒《えんとつ》の煙が、風の死したる大阪の空を、あらん限り縫うとも言った。  宵には風があった。それは冷たかったけれども、小春凪《こはるなぎ》の日の余残《なごり》に、薄月さえ朧々《おぼろおぼろ》と底の暖いと思ったが、道頓堀で小休みして、やがて太左衛門橋を練込む頃から、真暗《まっくら》になったのである。  鴉は次第に数を増した。のみならず、白気の怪《あやし》みもあるせいか、誰云うとなく、今夜十二人の市女の中に、姫の数が一人多い。すべて十三人あると言交わす。  世話人|徒《てあい》が、妙に気にして、それとなく、一人々々数えてみると、なるほど一人姫が多い。誰も彼も多いと云う。  念のために、他所見《よそみ》ながら顔を覗《のぞ》いて、名を銘々に心に留めると、決して姫が殖《ふ》えたのではない。定《おきて》の通り十二人。で、また見渡すと十三人。  ……式の最初、住吉|詣《もうで》の東雲《しののめ》に、女紅場で支度はしたが、急にお珊が気が変って、社《やしろ》へ参らぬ、と言ったために一人|俄拵《にわかごしら》えに数を殖《ふ》やした。が、それは伊丹幸《いたこう》の政巳《まさみ》と云って、お珊が稚《わか》い時から可愛がった妹分。その女は、と探ってみると、現に丸官に呼ばれて、浪屋の表座敷に居ると云うから、その身代りが交ったというのでもないのに。……  それさえ尋常《ただ》ならず、とひしめく処に、搗《か》てて加えて易からぬは、世話人の一人が見附けた――屋台が道頓堀を越す頃から、橋へかけて、列の中に、たらたら、たらたらと一雫《ひとしずく》ずつ、血が落ちていると云うのである。        二十九  一人多い、その姫の影は朧《おぼろ》でも、血のしたたりは現に見て、誰が目にも正《まさ》しく留った。  灯の影に地を探って、穏《おだやか》ならず、うそうそ捜《さがし》ものをして歩行《ある》くのは、その血のあとを辿《たど》るのであろう。  消防夫《しごとし》にも、駕籠屋にも、あえて怪我をしたらしいのはない。婦《おんな》たちにも様子は見えぬ。もっとも、南地第一の大事な市の列に立てば、些細《ささい》な疵《きず》なら、弱い舞妓も我慢して秘《かく》して退《の》けよう。  が、市に取っては、上もなき可忌《いまわ》しさで。  世話人は皆激しく顰《ひそ》んだ。  知らずや人々。お珊は既に、襟に秘《かく》し持った縫針で、裏を透《とお》して、左の手首の動脈を刺し貫いていたのである。  ただ、初《はじめ》から不思議な血のあとを拾って、列を縫って検《しら》べて行《ゆ》くと、静々《しずしず》と揃って練る時から、お珊の袴の影で留ったのを人を知った。  ここに休んでから、それとなく、五人目の姫の顔を差覗《さしのぞ》くものもあった。けれども端然としていた。黛《まゆずみ》の他に玲瓏《れいろう》として顔に一点の雲もなかった。が、右手《めて》に捧げた橘《たちばな》に見入るのであろう、寂《さみ》しく目を閉じていたと云う。  時に、途中ではさもなかった。ここに休む内に、怪しき気のこと、点滴《したた》る血の事、就中《なかんずく》、姫の数の幻に一人多い事が、いつとなく、伝えられて、烈《はげ》しく女どもの気を打った。  自然と、髪を垂れ、袖を合せて、床几なる姫は皆、斉《ひと》しくお珊が臨終の姿と同じ、肩のさみしい風情となった。  血だらけだ、血だらけだ、血だらけの稚児だ――と叫ぶ――柵の外の群集《ぐんじゅ》の波を、鯱《しゃち》に追われて泳ぐがごとく、多一の顔が真蒼《まっさお》に顕《あらわ》れた。 「お呼びや、私をお知らせや。」  とお珊が云った。  伝五|爺《じじい》は、懐を大きく、仰天した皺嗄声《しわがれごえ》を振絞って、 「多一か、多一はん――御寮人様はここじゃ。」と喚《わめ》く。  早や柵の上を蹌踉《よろ》めき越えて、虚空を掴《つか》んで探したのが、立直って、衝《つ》と寄った。  が、床几の前に、ぱったり倒れて、起直りざまの目の色は、口よりも血走った。 「ああ、待遠《まちどお》な、多一さん、」  と黒髪|揺《ゆら》ぐ、吐息《といき》と共に、男の肩に手を掛けた。 「毒には加減をしたけれど、私が先へ死にそうでな、幾たび目をば瞑《ねむ》ったやろ。やっとここまで堪《こら》えたえ。も一度顔を、と思うよって……」  丸官の握拳《にぎりこぶし》が、時に、瓦《かわら》の欠片《かけら》のごとく、群集を打ちのめして掻分《かきわ》ける。 「傘でかくしておくれやす。や、」と云う。  台傘が颯《さっ》と斜めになった。が、丸官の忿怒《ふんぬ》は遮り果てない。  靴足袋で青い足が、柵を踏んで乗ろうとするのを、一目見ると、懐中《ふところ》へ衝《つ》と手を入れて、両方へ振って、扱《しご》いて、投げた。既に袋を出ていた蛇は、二筋|電《いなずま》のごとく光って飛んだ。  わ、と立騒ぐ群集《ぐんじゅ》の中へ、丸官の影は揉込《もみこ》まれた。一人|渠《かれ》のみならず、もの見高く、推掛《おしかか》った両側の千人は、一斉に動揺《どよみ》を立て、悲鳴を揚げて、泣く、叫ぶ。茶屋|揚屋《あげや》の軒に余って、土足の泥波を店へ哄《どっ》と……津波の余残《なごり》は太左衛門橋、戒橋《えびすばし》、相生橋《あいおいばし》に溢《あふ》れかかり、畳屋町、笠屋町、玉屋町を横筋に渦巻き落ちる。  見よ、見よ、鴉が蔽《おお》いかかって、人の目、頭《かしら》に、嘴《はし》を鳴らすを。  お珊に詰寄る世話人は、また不思議にも、蛇が、蛇が、と遁惑《にげまど》うた。その数はただ二条《ふたすじ》ではない。  屋台から舞妓が一人|倒《さかさま》に落ちた。そこに、めらめらと鎌首を立て、這いかかったためである。  それ、怪我人よ、人死《ひとじに》よ、とそこもここも湧揚る。  お珊は、心|静《しずか》に多一を抱いた。 「よう、顔見せておくれやす。」 「口惜《くちおし》い。御寮人、」と、血を吐きながら頭《かぶり》を振る。 「貴方《あんた》ばかり殺しはせん。これお見やす、」と忘れたように、血が涸《か》れて、蒼白《あおじろ》んで、早や動かし得ぬ指を離すと、刻んだように。しっかと持った、その脈を刺した手の橘の、鮮血《からくれない》に染まったのが、重く多一の膝に落ちた。  男はしばらく凝視《みつ》めていた。 「口惜いは私こそ、……多一さん。女は世間に何にも出来ん。恋し、愛《いと》しい事だけには、立派に我ままして見しょう。  宝市のこの服装《なり》で、大阪中の人の見る前で、貴方《あんた》の手を引いて……なあ、見事丸官を蹴《け》て見しょう、と命をかけて思うたに。……先刻《さっき》盞させる時も、押返して問うたもの、お珊、お前へ心中立や、と一言いうてくれはらぬ。  一昨日《おととい》の芝居の難儀も、こうした内証があるよって、私のために、堪《こら》えやはった辛抱やったら、一生にたった一度の、嬉しい思いをしようもの、多一さん、貴下《あんた》は二十《はたち》。三つ上の姉で居て、何でこうまで迷うたやら、堪忍しておくれや。」  とて、はじめて、はらはらと落涙した。  絶入る耳に聞分けて、納得したか、一度《ひとたび》は頷《うなず》いたが、 「私は、私は、御寮人、生命《いのち》が惜《おし》いと申しません。可哀気《かわいげ》に、何で、何で、お美津を……」  と聞きも果さず…… 「わあ、」と魂切《たまぎ》る。  伝五|爺《じじい》の胸を圧《おさ》えて、 「人が立騒いで邪魔したら、撒散《まきちら》かいて払い退《の》きょうと、お前に預けた、金貨銀貨が、その懐中《ふところ》に沢山《たんと》ある。不思議な事で、使わいで済んだよって、それもって、な、えらい不足なやろけれど、不足、不足なやろけれど、……ああ、術ない、もう身がなえて声も出ぬ。  お聞きやす、多一さん、美津《みい》さんは、一所に連れずと、一人|活《い》かいておきたかった。貴方《あんた》と二人、人は交ぜず、死ぬのが私は本望なが、まだこの上、貴方にも美津さんにも、済まん事や思うたによってな。  違うたかえ、分ったかえ、冥土《めいど》へ行てかて、二人をば並べておく、……遣瀬《やるせ》ない、私の身にもなってお見や。」  幽《かすか》ながらに声は透《とお》る。 「多一さん、手を取って……手を取って……離さずと……――左のこの手の動く方は、義理やあの娘《こ》の手をば私が引く。……さあ、三人で行こうな。」  と床几を離れて、すっくと立つ。身動《みじろ》ぎに乱るる黒髪。髻《もとどり》ふつ、と真中《まんなか》から二岐《ふたすじ》に颯《さっ》となる。半ばを多一に振掛けた、半ばを握って捌《さば》いたのを、翳《かざ》すばかりに、浪屋の二階を指麾《さしまね》いた。 「おいでや、美津さんえ、……美津さんえ。」  練ものの列は疾《と》く、ばらばらに糸が断《き》れた。が、十一の姫ばかりは、さすが各目《てんで》に名を恥じて、落ちたる市女笠、折れたる台傘、飛々《とびとび》に、背《せな》を潜《ひそ》め、顔《おもて》を蔽《おお》い、膝を折敷きなどしながらも、嵐のごとく、中の島|籠《こ》めた群集《ぐんじゅ》が叫喚《きょうかん》の凄《すさま》じき中に、紅《くれない》の袴一人々々、点々として皆|留《とど》まった。  と見ると、雲の黒き下に、次第に不知火《しらぬい》の消え行く光景《ありさま》。行方も分かぬ三人に、遠く遠く前途《ゆくて》を示す、それが光なき十一の緋の炎と見えた。  お珊は、幽《かすか》に、目も遥々《はるばる》と、一人ずつ、その十一の燈《ともしび》を視《み》た。 [#地から1字上げ]明治四十五(一九一二)年一月 底本:「泉鏡花集成6」ちくま文庫、筑摩書房    1996(平成8)年3月21日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第十四卷」岩波書店    1942(昭和17)年3月10日発行 ※誤植の確認には底本の親本を参照しました。 入力:門田裕志 校正:土屋隆 2006年11月2日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。