唄立山心中一曲 泉鏡花 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)松明《たいまつ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)信州|姨捨《おばすて》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)獦子鳥《あとり》 -------------------------------------------------------        一 「ちらちらちらちら雪の降る中へ、松明《たいまつ》がぱっと燃えながら二本――誰も言うことでございますが、他《ほか》にいたし方もありませんや。真白《まっしろ》な手が二つ、悚然《ぞっ》とするほどな婦《おんな》が二人……もうやがてそこら一面に薄《うっす》り白くなった上を、静《しずか》に通って行《ゆ》くのでございます。正体は知れていても、何しろそれに、所が山奥でございましょう。どうもね、余り美しくって物凄《ものすご》うございました。」  と鋳掛屋《いかけや》が私たちに話した。  いきなり鋳掛屋が話したでは、ちと唐突《だしぬけ》に過ぎる。知己《ちかづき》になってこの話を聞いた場所と、そのいきさつをちょっと申陳《もうしの》べる。けれども、肝心な雪女郎と山姫が長襦袢《ながじゅばん》で顕《あらわ》れたようなお話で、少くとも御覧の方はさきをお急ぎ下さるであろうと思う、で、簡単にその次第を申上げる。  所は信州|姨捨《おばすて》の薄暗い饂飩屋《うどんや》の二階であった。――饂飩屋さえ、のっけに薄暗いと申出るほどであるから、夜の山の暗い事思うべしで。……その癖、可笑《おかし》いのは、私たちは月を見ると言って出掛けたのである。  別に迷惑を掛けるような筋ではないから、本名で言っても差支えはなかろう。その時の連《つれ》は小村雪岱《こむらせったい》さんで、双方あちらこちらの都合上、日取が思う壺《つぼ》にはならないで、十一月の上旬、潤年《うるうどし》の順におくれた十三夜の、それも四日ばかり過ぎた日の事であった。  ――居待月である。  一杯飲んでいる内には、木賊《とくさ》刈るという歌のまま、研《みが》かれ出《い》づる秋の夜《よ》の月となるであろうと、その気で篠《しの》ノ井で汽車を乗替えた。が、日の短い頃であるから、五時そこそこというのにもうとっぷりと日が暮れて、間は稲荷山《いなりやま》ただ一丁場《ひとちょうば》だけれども、線路が上りで、進行が緩い処へ、乗客が急に少く、二人三人と数えるばかり、大《おおき》な木の葉がぱらりと落ちたようであるから、掻合《かきあ》わす外套《がいとう》の袖《そで》も、妙にばさばさと音がする。外は霜であろう。山の深さも身に沁《し》みる。夜《よ》さえそぞろに更け行くように思われた。 「来ましたよ。」 「二人きりですね。」  と私は言った。  名にし負う月の名所である。ここの停車場《ステエション》を、月の劇場の木戸口ぐらいな心得違いをしていた私たちは、幟《のぼり》や万燈《まんどう》には及ばずとも、屋号をかいた弓張提灯《ゆみはりぢょうちん》で、へい、茗荷屋《みょうがや》でございます、旅店の案内者ぐらいは出ていようと思ったの大きな見当|違《ちがい》。絵に描《か》いた木曾の桟橋《かけはし》を想わせる、断崖《がけ》の丸木橋のようなプラットフォームへ、しかも下りたのはただ二人で、改札口へ渡るべき橋もない。  一人がバスケットと、一人が一升|壜《びん》を下げて、月はなけれど敷板の霜に寒い影を映しながら、あちらへ行《ゆ》き、こちらへ戻り、で、小村さんが唇をちょっと曲げて、 「汽車が出ないと向うへは渡られませんよ。」 「成程。線路を突切《つっき》って行く仕掛けなんです。」  やがてむらむらと立昇る白い煙が、妙に透通って、颯《さっ》と屋根へ掛《かか》る中を、汽車は音もしないように静《しずか》に動き出す、と漆《うるし》のごとき真暗《まっくら》な谷底へ、轟《ごう》と谺《こだま》する…… 「行っていらっしゃいまし……お静《しずか》に――」  と私はつい、目の前《さき》をすれすれに行く、冷たそうに曇った汽車の窓の灯《あかり》に挨拶《あいさつ》した。ここへ二人きり置いて行かれるのが、山へ棄《す》てられるような気がして心細かったからである。  壇はあるが、深いから、首ばかり並んで霧の裡《なか》なる線路を渡った。 「ちょっと、伺いますが。」 「はあ?」  手ランプを提げた、真黒《まっくろ》な扮装《いでたち》の、年の少《わか》い改札|掛《がかり》わずかに一人《いちにん》。  待合所の腰掛の隅には、頭から毛布《けっと》を被《かぶ》ったのが、それもただ一人居る。……これが伊勢だと、あすこを狙《ねら》って吹矢を一本――と何も不平を言うのではない、旅の秋を覚えたので。――小村さんは一旦外へ出たが、出ると、すぐ、横の崖か巌《いわ》を滴る、ひたひたと清水の音に、用心のため引返して、駅員に訊いたのであった。 「その辺に旅籠屋《はたごや》はありましょうか。」 「はあ、別に旅籠屋と言って、何ですな、これから下へ十四五町、……約|半道《はんみち》ばかり行《ゆ》きますと、湯の立つ家があるですよ。外《ほか》は大概一週間に一度ぐらいなものですでなあ。」 「あの風呂を沸かしますのが。」 「さよう。」 「難有《ありがと》う――少しどうも驚きました。とにかく、そこいらまで歩いてみましょう。」  と小村さんが暗がりの中を探りながら先へ立って、 「いきなり、風呂を沸かす宿屋が半道と来たんでは、一口飲ませる処とも聞きにくうございますよ。しかし何かしらありましょう……何《なん》しろ暗い。」  と構内の柵について……灯《ともしび》の百合《ゆり》が咲く、大《おおき》な峰、広い谷に、はらはらとある灯《ひ》をたよりに、ものの十|間《けん》とは進まないで、口を開けて足を噛《か》む狼《おおかみ》のような巌《いわ》の径《こみち》に行悩んだ。 「どうです、いっそここへ蹲《しゃが》んで、壜詰《びんづめ》の口を開けようじゃありませんか。」 「まさか。」  と小村さんは苦笑して、 「姨捨山、田毎《たごと》の月ともあろうものが、こんな路《みち》で澄ましているって法はありません。きっと方角を取違えたんでしょう。お待ちなさいまし、逆に停車場《ステエション》の裏の方へ戻ってみましょう。いくらか燈《あかり》が見えるようです。」  双方黒い外套が、こんがらかって引返すと、停車場《ステエション》には早や駅員の影も見えぬ。毛布《けっと》かぶりの痩《や》せた達磨《だるま》の目ばかりが晃々《きらきら》と光って、今度はどうやら羅漢に見える。  と停車場《ステエション》の後《うしろ》は、突然《いきなり》荒寺の裏へ入った形で、芬《ぷん》と身に沁《し》みる木《こ》の葉の匂《におい》、鳥の羽で撫《な》でられるように、さらさらと――袖が鳴った。  落葉を透かして、山懐《やまふところ》の小高い処に、まだ戸を鎖《さ》さない灯《あかり》が見えた。  小村さんが、まばらな竹の木戸を、手を拡げつつ探り当てて、 「きっと飲ませますよ、この戸の工合《ぐあい》が気に入りました」 と勢《いきおい》よく、一足先に上ったが、程もあらせず、ざわざわざわと、落葉を鳴らして落来るばかりに引返して、 「退却……」 「え、安達《あだち》ヶ原ですか。」 と聞く方が慌てている。 「いいえ爺さんですがね、一人土間で草鞋《わらじ》を造っていましてね。何だ、誰じゃいッて喚《わめ》くんです。」 「いや、それは恐縮々々。」 「まことに済みません。発起人がこの様子で。」 「飛んでもない。こういう時は花道を歌で引込《ひっこ》むんです、柄にはありませんがね。何でしたっけ、…… [#ここから6字下げ] わが心なぐさめかねつ更科《さらしな》や      姨捨山に照る月をみて [#ここで字下げ終わり]  照る月をみて慰めかねつですもの、暗いから慰められて可《い》いわけです。いよいよ路が分らなければ、停車場《ステエション》で、次の汽車を待って、松本まで参りましょう。時間がありますからそこは気丈夫です。」  しかるところ、暗がりに目が馴《な》れたのか、空は星の上に星が重《かさな》って、底《そこひ》なく晴れている――どこの峰にも銀の覆輪《ふくりん》はかからぬが、自《おのず》から月の出の光が山の膚《はだ》を透《とお》すかして、巌《いわ》の欠《かけ》めも、路の石も、褐色《かばいろ》に薄く蒼味《あおみ》を潮《さ》して、はじめ志した方へ幽《かすか》ながら見えて来た。灯前《あかりさき》の木の葉は白く、陰なる朱葉《もみじ》の色も浸《にじ》む。  かくして辿《たど》りついた薄暗い饂飩屋であった。  何《なん》しろ薄暗い。……赤黒くどんより煤《すす》けた腰障子の、それも宵ながら朦朧《もうろう》と閉っていて、よろず荒もの、うどんあり、と記した大《おおき》な字が、鼾《いびき》をかいていそうに見えた。  この店の女房が、東京ものは清潔《きれい》ずきだからと、気を利かして、正札のついた真新しい湯沸《ゆわかし》を達引《たてひ》いてくれた心意気に対しても、言われた義理ではないのだけれど。 「これは少々|酷過《ひどす》ぎますね。」 「ここまで来れば、あと一辛抱で、もうちとどうにかしたのがありましょう。」  実は、この段、囁《ささや》き合って、ちょうどそこが三岐《みつまた》の、一方は裏山へ上る山岨《やまそば》の落葉の径《こみち》。一方は崖を下る石ころ坂の急なやつ。で、その下りる方へ半町ばかりまた足探り試みたのであるが、がけの陰になって、暗さは暗し、路は悪し、灯《ひ》は遠し、思切って逆戻りにその饂飩屋を音訪《おとず》れたのであった。 「御免なさい。」  と小村さんが優しい穏《おだやか》な声を掛けて、がたがたがたと入ったが、向うの対手《あいて》より土間の足許《あしもと》を俯向《うつむ》いて視《み》つつ、横にとぼとぼと歩行《ある》いた。  灯が一つ、ぼうと赤く、宙に浮いたきりで何も分らぬ。釣《つり》ランプだが、火屋《ほや》も笠も、煤《すす》と一所に油煙で黒くなって正体が分らないのであった。  が凝視《みつ》める瞳で、やっと少しずつ、四辺《あたり》の黒白《あいろ》が分った時、私はフト思いがけない珍らしいものを視《み》た。        二  框《かまち》の柱、天秤棒《てんびんぼう》を立掛けて、鍋釜《なべかま》の鋳掛《いかけ》の荷が置いてある――亭主が担ぐか、場合に依ってはこうした徒《てあい》の小宿《こやど》でもするか、鋳掛屋の居るに不思議はない。が、珍らしいと思ったのは、薄汚れた鬱金木綿《うこんもめん》の袋に包んで、その荷に一|挺《ちょう》、紛《まが》うべくもない、三味線を結《ゆわ》え添えた事である。  話に聞いた――谷を深く、麓《ふもと》を狭く、山の奥へ入った村里を廻る遍路のような渠等《かれら》には、小唄|浄瑠璃《じょうるり》に心得のあるのが少くない。行《ゆ》く先々の庄屋のもの置《おき》、村はずれの辻堂などを仮の住居《すまい》として、昼は村の註文を集めて仕事をする、傍ら夜は村里の人々に時々の流行唄《はやりうた》、浪花節《なにわぶし》などをも唄って聞かせる。聞く方では、祝儀のかわりに、なくても我慢の出来る、片手とれた鍋の鋳掛も誂《あつら》えるといった寸法。小児《こども》に飴菓子《あめがし》を売って一手《ひとて》踊ったり、唄ったり、と同じ格で、ものは違っても家業の愛想――盛場《さかりば》の吉原にさえ、茶屋小屋のおかっぱお莨盆《たばこぼん》に飴を売って、爺《じじ》やあっち、婆《ばば》やこっち、おんじゃらこっちりこ、ぱあぱあと、鳴物入で鮹《たこ》とおかめの小人形を踊らせた、おん爺《じい》があったとか。同じ格だが、中には凄《すご》いような巧《うま》いのがあるという。  唄いながら、草や木の種子《たね》を諸国に撒《ま》く。……怪しい鳥のようなものだと、その三味線が、ひとりで鳴くように熟《じっ》と視《み》た。 「相談は整いました。」 「それは難有《ありがた》い。」 「きあ、二階へどうぞ……何《なん》しろ汚いんでございますよ。」  と、雨もりのような形が動くと、紺の上被《うわっぱり》を着た婦《おんな》になって、ガチリと釣ランプを捻《ひね》って離して、框《かまち》から直ぐの階子段《はしごだん》。  小村さんが小さな声で、 「何《なん》しろこの体《てい》なんですから。」 「結構ですとも、行暮れました旅の修行者になりましょうね。」 「では、そのおつもりで――さあ、上《あが》りましょう。」  と勢《いきおい》よく、下駄を踏違えるトタンに、 「あっ、」と言った。  きゃんきゃんきゃん、クイ、キュウと息を引いて、きゃんきゃんきゃん、クイ、クウン、きゅうと鳴く。  見事に小狗《こいぬ》を踏《ふみ》つけた。小村さんは狼狽《うろた》えながら、穴を覗《のぞ》くように土間を透かして、 「御免よ……御免よ……仕方がない、御免なさいよ。」  で、遁《に》げないばかりに階子《はしご》を上《あが》ると、続いた私も、一所にぐらぐらと揺れるのに、両手を壇の端《はじ》にしっかり縋《すが》った。二階から女房が、 「お気をつけなさいましよ……お頭《つむ》をどうぞ……お危うございますよ、お頭を。」 「何《なあ》に。」  吻《ほっ》としながら、小村さんは気競《きお》ったように、 「踏着けられた狗から見りゃ、頭を打《ぶ》つけるなんぞ何でもない。」  日頃、沈着な、謹み深いのがこれだから、余程|周章《あわ》てたに違いない。  きゃんきゃんきゃん、クイッ、キュウ、きゃんきゃんきゃん、と断々《きれぎれ》に、声が細って泣止《なきや》まない。 「身に沁《し》みますね、何ですか、狐が鳴いてるように聞えます。」  木地の古びたのが黒檀《こくたん》に見える、卓子台《ちゃぶだい》にさしむかって、小村さんは襟を合せた。  件《くだん》の油煙で真黒《まっくろ》で、ぽっと灯の赤いランプの下に畏《かしこま》って、動くたびに、ぶるぶると畳の震う処は天変に対し、謹んで、日蝕を拝むがごとく、少なからず肝を冷しながら、 「旅はこれだから可《い》いんです。何も話の種です。……話の種と言えばね、小村さん。」  と、探らないと顔が分らぬ。 「はあ。」 「何ですか、この辺には、あわれな、寂しい、物語がありそうな処ですね。あの、月宵鄙物語《つきのよいひなものがたり》というのがあります、御存じでしょうけれど。」 「いいえ。」 「それはね、月見の人に、木曾の麻衣《あさぎぬ》まくり手したる坊さん、というのが、話をする趣向になっているんですがね。(更科山《さらしなやま》の月見んとて、かしこに罷《まかり》登りけるに、大《おおい》なる巌《いわ》にかたかけて、肘《ひじ》折《お》れ造りたる堂あり。観音を据え奉《たてまつ》れり。鏡台とか云う外山《とやま》に向いて、)……と云うんですから、今の月見堂の事でしょう。……きっとこの崖の半腹にありましょうよ。……そこの高欄におしかかりながら、月を待つ間《ま》のお伽《とぎ》にとて、その坊さんが話すのですが、薗原山《そのはらやま》の木賊刈《とくさがり》、伏屋里《ふせやのさと》の箒木《ははきぎ》、更科山の老桂《ふるかつら》、千曲川《ちくまがわ》の細石《さざれいし》、姨捨山の姥石《うばのいし》なぞッて、標題《みだし》ばかりでも、妙にあわれに、もの寂しくなるのです。皆この辺の、山々谷々の事なんでしょう。何《なん》にしろ、 [#ここから6字下げ] 信濃なる千曲の川のさゞれ石も     君しふみなば玉とひろはん [#ここで字下げ終わり]  と言う場所なんですもの。――やあ、明るくなった。」  と思わず言った。  釣ランプが、真新しい、明《あかる》いのに取換ったのである。 「お待遠様、……済みません。」 「どういたしまして、飛んだ御無理をお願い申して。」  女房は崩れた鬢《びん》の黒い中から、思いのほか白い顔で莞爾《にっこり》して、 「私どもでは難有《ありがた》いんでございますけれども、まあ、何しろ、お月様がいらっしって下さると可いんですけれども。」  その時、一列に蒲鉾形《かまぼこがた》に反《そ》った障子を左右に開けると、ランプの――小村さんが用心に蔓《つる》を圧《おさ》えた――灯が一煽《ひとあおり》、山気が颯《さっ》と座に沁みた。 「一昨晩の今頃は、二かさも三かさも大《おおき》い、真円《まんまる》いお月様が、あの正面へお出《いで》なさいましてございますよ。あれがね旦那、鏡台山《きょうだいざん》でございますがね、どうも暗うございまして。」 「音に聞いた。どれ、」  と立つと、ぐらぐらとなる…… 「おっと。」  欄干につかまって、蝸牛《かたつむり》という身で、背を縮めながら首を伸ばし、 「漆で塗ったようだ、ぼっと霧のかかった処は研出《とぎだ》しだね。」  宵の明星が晃然《きらり》と蒼《あお》い。 「あの山裾《やますそ》が、左の方へ入江のように拡がって、ほんのり奥に灯《あかり》が見えるでございましょう。善光寺平《ぜんこうじだいら》でございましてね。灯のありますのは、善光寺の町なんでございますよ。」 「何里あります。」 「八里ございます。」 「ははあ。」 「真下の谷底に、ちらちらと灯《ひ》が見えましょう、あそこが、八幡《やはた》の町でございましてね、お月見の方は、あそこから、皆さんが支度をなすって、私どもの裏の山へお上りになりますんでございますがね。鏡台山と、ちょうどさし向いになっております――おお、冷えますこと、……唯今《ただいま》お火鉢を。」 「小村さん、寸法は分りました、どうなすったんです、景色も見ないで。」  と座に戻ると、小村さんは真顔で膝《ひざ》に手を置いて、 「いえ、その縁側に三人揃って立ったんでは、桟敷《さじき》が落ちそうで危険《けんのん》ですから。」 「まったく、これで猿楽があると、……天狗が揺り倒しそうな処です。可恐《おそろ》しいね。」  と二人は顔を見合せた。  が、註文通り、火鉢に湯沸《ゆわかし》が天上して来た、火も赫《かッ》と――この火鉢と湯沸が、前に言った正札つきなる真新しいのである。酒も銚子《ちょうし》だけを借りて、持参の一升|壜《びん》の燗《かん》をするのに、女房は気障《きざ》だという顔もせず、お客|冥利《みょうり》に、義理にうどんを誂《あつら》えれば、乱れてもすなおに銀杏返《いちょうがえし》の鬢《びん》を振って、 「およしなさいまし、むだな事でございます。おしたじが悪くって、めしあがられやしませんから。……何ぞお香《こう》のものを差上げましょう。」  その心意気。 「難有《ありがた》い。」  と熱燗《あつかん》三杯、手酌でたてつけた顔を撫でて、 「おかみさん。」  杯をずいとさして、 「一つ申上げましょう、お知己《ちかづき》に……」 「私は一向に不調法ものでございまして。」 「まあ一盞《ひとつ》。」 「もう、全く。」 「でも、一盞《ひとつ》ぐらい、お酌をしましょう。」  と小村さんが銚子を持ったのに、左右に手を振って、辷《すべ》るように、しかも軋《きし》んで遁《に》げ下りる。 「何だい。」 「毒だとでも思いましたかね。してみると、お互の人相が思われます。おかみさん一人きりなんでしょうかしら。」 「泊りましょうか。」 「御串戯《ごじょうだん》を。」  クイッ、キュウ、クック――と……うら悲《かなし》げに、また聞える。 「弱りました。あの狗《いぬ》には。」  と小村さんはまた滅入《めい》った。  のしのしみしり、大皿を片手に、そこへ天井を抜きそうに、ぬいと顕《あらわ》れたのは、色の黒い、いが栗《ぐり》で、しるし半纏《ばんてん》の上へ汚れくさった棒縞《ぼうじま》の大広袖《おおどてら》を被《はお》った、から脛《すね》の毛だらけ、図体は大《おおき》いが、身の緊《しま》った、腰のしゃんとした、鼻の隆い、目の光る……年配は四十|余《あまり》で、稼盛《かせぎざか》りの屈竟《くっきょう》な山賊面《さんぞくづら》……腰にぼッ込んだ山刀の無いばかり、あの皿は何《な》んだ、へッへッ、生首|二個《ふたつ》受取ろうか、と言いそうな、が、そぐわないのは、頤《あご》に短い山羊髯《やぎひげ》であった。 「御免なせえ……お香のものと、媽々衆《かかしゅ》が気前を見せましたが、取っておきのこの奈良漬、こいつあ水ぽくてちと中《ちゅう》でがす。菜ッ葉が食えますよ。長蕪《ながかぶ》てッて、ここら一体の名物で、異《おつ》に食えまさ、めしあがれ。――ところで、媽々衆のことづてですがな。せつかく御酒を一つと申されたものを、やけな御辞退で、何だかね、南蛮《なんばん》秘法の痲痺薬《しびれぐすり》……あの、それ、何とか伝三熊の膏薬《こうやく》とか言う三題|噺《ばなし》を逆に行ったような工合で、旦那方のお酒に毒でもありそうな様子|合《あい》が、申訳がございません。で、居候の私《わっし》に、代理として一杯、いんえただ一つだけ。おしるしに頂戴してくれるようにと申すんで、や、も、御覧の通《とおり》、不躾《ぶしつけ》ながら罷《まかり》出ました。実はね、媽々衆、ああ見えて、浮気もんでね、亭主は旅稼ぎで留守なり、こちらのお若い方のような、おッこちが欲しさに、酒どころか、杯を禁《た》っておりますんでね。はッはッはッ。」  階子《はしご》の下から、伸上った声がして、 「馬鹿な事を言わねえもんだ。」  と、むきになると、まるだしの田舎なまり。 「真鍮台《しんちゅうだい》め。」と言った。 「……真鍮台?……」  聞くと……真鍮台、またの名を銀流しの藤助《とうすけ》と言う、金箔《きんぱく》つきの鋳掛屋で、これが三味線の持ぬしであった。面構《つらがまえ》でも知れる……このしたたかものが、やがて涙ぐんで……話したのである。        三 「私《わッし》はね、旦那。まだその時分、宿を取っちゃあいなかったんでございます、居酒屋、といった処で、豆腐も駄菓子も突《つッ》くるみに売っている、天井に釣《つる》した蕃椒《とうがらし》の方が、燈《ひ》よりは真赤《まっか》に目に立つてッた、皺《しな》びた店で、榾《ほだ》同然の鰊《にしん》に、山家|片鄙《へんぴ》はお極《きま》りの石斑魚《いわな》の煮浸《にびたし》、衣川《ころもがわ》で噛《くい》しばった武蔵坊弁慶の奥歯のようなやつをせせりながら、店前《みせさき》で、やた一きめていた処でございましてね。  ちょっと私《わっし》の懐中合《ふところあい》と、鋳掛屋風情のこの容体では、宿が取悪《とりにく》かったんでございますよ。というのが、焼山《やけやま》の下で、パッと一くべ、おへッつい様を燃《も》したも同じで、山を越しちゃあ、別に騒動も聞えなかったんでございますが、五日ばかり前に、その温泉に火事がありました。ために、木賃らしい、この方に柄相当のなんぞ焼けていて、二三軒残ったのは、いずれも玄関附だからちとたじろいだ次第なんでございますが。  ええ……温泉でございますか、名は体をあらわすとか言います、とんだ山中《やまなか》で、……狼温泉――」  「ああ、どこか、三峰山《みつみねさん》の近所ですか。」  と、かつて美術学校の学生時代に、そのお山へ抜参《ぬけまい》りをして、狼よりも旅費の不足で、したたか可恐《こわ》い思いをした小村さんは、聞怯《ききおじ》をして口を入れた……噛《か》むがごとく杯を銜《ふく》みながら、 「あすこじゃあ、お狗様《いぬさま》と言わないと山番に叱られますよ。」  藤助は真顔で、微酔《ほろよい》の頭《かぶり》を掉《ふ》った。 「途方もねえ、見当違い、山また山を遥《はるか》に離れた、峰々、谷々……と言えばね、山の中に島々と言う処がありまさ、おかしいね。いやもっと、深い、松本から七里も深《おく》へ入った、飛騨《ひだ》の山中――心細い処で……それでも小学校もありゃ、郵便局もありましたっけが、それなんぞも焼けていたんでございましてね。  山坂を踏越えて、少々|平《たいら》な盆地になった、その温泉場へ入りますと、火沙汰《ひざた》はまた格別、……酷《ひど》いもので、村はずれには、落葉、枯葉、焼灰に交って、獦子鳥《あとり》、頬白《ほおじろ》、山雀《やまがら》、鶸《ひわ》、小雀《こがら》などと言う、紅《あか》だ、青だ、黄色だわ、紫の毛も交って、あの綺麗な小鳥どもが、路傍《みちばた》にはらはらと落ちている。こいつあ、それ、時節が今頃になりますと、よく、この信州路、木曾街道の山家には、暗い軒に、糸で編んで、ぶら下げて、美しい手鞠《てまり》が縺《もつ》れたように売ってるやつだて。それが、お前さん、火事騒ぎに散らかったんで――驚いたのは、中に交って、鴛鴦《おしどり》が二羽……番《つがい》かね。……  や、頂きます、ト、ト、ごぜえやさ。」  と小村さんの酌を、蓋《ふた》するような大《おおき》な掌《てのひら》で請けながら、 「どうもね、捨って抱きたいようでがしたぜ。まさか、池に泳いだり、樹に眠ったのが、火の粉を浴びはしますめえ。売ものが散らばりましたか、真赤《まっか》に染《そま》った木の葉を枕で、目を眠っていましたよ。  天秤棒一本で、天井へ宙乗《ちゅうのり》でもするように、ふらふらふらふら、山から山を経歴《へめぐ》って……ええちょうど昨年の今月、日は、もっと末へ寄っておりましたが――この緋葉《もみじ》の真最中《まっさいちゅう》、草も雲も虹《にじ》のような彩色の中を、飽くほど視《み》て通った私《わっし》もね、これには足が停《とま》りました。  なんと……綺麗な、その翼の上も、一重《ひとえ》敷いて、薄《うっす》り、白くなりました。この景色に舞台が換《かわ》って、雪の下から鴛鴦《おしどり》の精霊が、鬼火をちらちらと燃しながら、すっと糶上《せりあが》ったようにね、お前さん……唯今の、その二人の婦《おんな》が、私《わっし》の目に映りました。凄《すご》いように美しゅうがした。」  と鋳掛屋は、肩を軟《やわらか》に、胸を低うして、更《あらた》めて私たち二人を視《み》たが、 「で、山路へ掛《かか》る、狼温泉の出口を通るんでございますが、場所はソレ件《くだん》の盆地だ。私《わっし》が飲んでいました有合《ありあい》御肴《おんさかな》というお極《きま》りの一膳めしの前なんざ、小さな原場《はらっぱ》ぐらい小広うございますのに――それでも左右へ並ばないで、前後《あとさき》になって、すっと連立って通ります。  前へ立ったのは、蓑《みの》を着て、竹の子笠を冠《かぶ》っていました。……端折った片褄《かたづま》の友染《ゆうぜん》が、藁《わら》の裙《すそ》に優しくこぼれる、稲束《いなたば》の根に嫁菜が咲いたといった形。ふっさりとした銀杏返《いちょうがえし》が耳許《みみもと》へばらりと乱れて、道具は少し大きゅうがすが、背がすらりとしているから、その眉毛の濃いのも、よく釣合って、抜けるほど色が白い、ちと大柄ではありますが、いかにも体つきの嫋娜《しなやか》な婦《おんな》で、 (今晩は。)  と、通掛《とおりかか》りに、めし屋へ声を掛けて行《ゆ》きました。が、※[#「火+發」、174-5]《ぱっ》と燃えてる松明《たいまつ》の火で、おくれ毛へ、こう、雪の散るのが、白い、その頬を殺《そ》ぐようで、鮮麗《あざやか》に見えて、いたいたしい。  いたいたしいと言えば、それがね、素足に上草履《うわぞうり》。あの、旅店《やどや》で廊下を穿《は》かせる赤い端緒《はなお》の立ったやつで――しっとりとちと沈んだくらい落着いた婦《おんな》なんだが、実際その、心も空になるほど気の揉《も》めるわけがあって――思い掛けず降出した雪に、足駄でなし、草鞋《わらじ》でなし、中ぶらりに右のつッかけ穿《ばき》で、ストンと落ちるように、旅館から、上草履で出たと見えます。……その癖、一生の晴着というので、母《おっか》さん譲りの裙模様、紋着《もんつき》なんか着ていました。  お話をしますうちに、仔細《しさい》は追々おわかりになりますが――これが何でさ、双葉屋と言って、土地での、まず一等旅館の女中で、お道さんと言う別嬪《べっぴん》、以前で申せば湯女《ゆな》なんだ。  いや、湯女《ゆな》に見惚《みと》れていて、肝心の御婦人が後《おく》れました。もう一人の方は、山茶花《さざんか》と小菊の花の飛模様のコオトを着て、白地の手拭《てぬぐい》を吹流しの……妙な拵《こしらえ》だと思えば……道理こそ、降りかゝる雪を厭《いと》ったも。お前さん、いま結立《ゆいた》てと見える高島田の水の滴《た》りそうなのに、対に照った鼈甲《べっこう》の花笄《はなこうがい》、花櫛《はなぐし》――この拵《こしらえ》じゃあ、白襟に相違ねえ。お化粧も濃く、紅もさしたが、なぜか顔の色が透き通りそうに血が澄んで、品のいいのが寂しく見えます。華奢《きゃしゃ》な事は、吹つけるほどではなくても、雪を持った向風《むかいかぜ》にゃ、傘も洋傘《こうもり》も持切れますめえ、被《かぶ》りもしないで、湯女《ゆな》と同じ竹の子笠を胸へ取って、襟を伏せて、俯向《うつむ》いて行《ゆ》きます。……袖の下には、お位牌《いはい》を抱いて葬礼《ともらい》の施主《せしゅ》に立ったようで、こう[#「こう」は底本では「かう」]正しく端然《しゃん》とした処は、視《み》る目に、神々しゅうございます。何となく容子《ようす》が四辺《あたり》を沈めて、陰気だけれど、気高いんでございますよ。  同じ人間もな……鑄掛屋を一人土間で飲《あお》らして、納戸の炬燵《こたつ》に潜込んだ、一ぜん飯の婆々《ばば》媽々《かか》などと言う徒《てあい》は、お道さんの(今晩は。)にただ、(ふわ、)と言ったきりだ。顔も出さねえ。その(ふわ、)がね、何の事アねえ、鼠の穴から古綿が千断《ちぎ》れて出たようだ。」 「ちと耳が疼《いた》いだな。」  と饂飩屋の女房が口を入れた、――女房は鋳掛屋の話に引かれて、二階の座に加わっていたのである。 「そのかわり大まかなものだよ。店の客人が、飲さしの二合|壜《びん》と、もう一本、棚より引攫《ひっさら》って、こいつを、丼へ突込《つッこ》んで、しばらくして、婦人《おんな》たちのあとを追ってぶらりと出て行くのに、何とも言わねえ。山は深い、旦那方のおっしゃる、それ、何とかって、山中暦日なしじゃあねえ、狼温泉なんざ、いつもお正月で、人間がめでてえね。」 「ははあ。」 「成程。」  私たちは、そんな事は徒《あだ》に聞いて、さきを急いだ。 「荷はどうしたよ。」  と女房が笑って言った。 「ほい忘れた。いや、忘れたんじゃあねえ、一ぜん飯に置放《おきッぱな》しよ。」 「それ見たか、あんな三味線だって、壜詰《びんづめ》二升ぐらいな値はあるでござんさあ、なあ、旦那方。」 「うむ、まったくな。」  と藤助は額を圧《おさ》えて、 「おめでてえのはこっちだっけ、はッはッはッ。」        四 「さて旦那方、洒落《しゃれ》や串戯《じょうだん》じゃあねえんでございます。……御覧の通り人間の中の変な蕈《きのこ》のような、こんな野郎にも、不思議なまわり合せで、その婦《おんな》たちのあとを尾《つ》けて行《ゆ》かなけりゃならねえ一役ついていたのでございましてね。……乗掛《のりかか》った船だ。鬱陶《うっとう》しくもお聞きなせえ。」  すっとこ被《かぶ》りで、  襟を敲《たた》いて、 「どんつくで出ましたわ……見えがくれに行《ゆ》く段取だから、急ぐにゃ当らねえ。別して先方《さき》は足弱だ。はてな、ここらに色鳥の小鳥の空蝉《うつせみ》、鴛鴦《おしどり》の亡骸《なきがら》と言うのが有ったっけと、酒の勢《いきおい》、雪なんざ苦にならねえが、赤い鼻尖《はなさき》を、頬被《ほおかぶり》から突出して、へっぴり腰で嗅《か》ぐ工合は、夜興引《よこひき》の爺《じじい》が穴一のばら銭《ぜに》を探すようだ。余計な事でございますがね――性《しょう》が知れちゃいましても、何だか、婦《おんな》の二人の姿が、鴛鴦の魂がスッと抜出したようでなりませんや。この辺だっけと、今度は、雪まじりに鳥の羽より焼屑《やけくず》が堆《うずたか》い処を見着けて、お手向《たむけ》にね、壜《びん》の口からお酒を一雫《ひとしずく》と思いましたが、待てよと私《わっし》あ考えた、正覚坊じゃアあるめえし、鴛鴦が酒を飲むやら、飲ねえやら。いっその事だと、手前の口へね、喇叭《らつぱ》と遣《や》った……こうすりゃ鳥の精がめしあがると同じ事だと……何しろ腹ン中は鴛鷲で一杯でございました。」  女房が肥《ふと》った膝で、畳に当って、 「藤助さんよ。」 「ああ。」 「酒の話じゃあないじゃあないかね、ねえ、旦那方。」 「何しろ、そこで。」  と、促せば、 「と二人はもう雑木林の崖に添って、上りを山路《やまみち》に懸《かか》っています。白い中を、ふつふつと、真紅《まっか》な鳥のたつように、向うへ行《ゆ》く。……一軒、家だか、穴だか知れねえ、えた、非人の住んでいそうな、引傾《ひっかし》いだ小屋に、筵《むしろ》を二枚ぶら下げて、こいつが戸になる……横の羽目に、半分ちぎれた浪花節《なにわぶし》の比羅《びら》がめらめらと動いているのがありました、それが宿《しゅく》はずれで、もう山になります。峠を越すまで、当分のうち家らしいものはございませんや。  水の音が聞えます。ちょろちょろ水が、青いように冷く走る。山清水の小流《こながれ》のへりについてあとを慕いながら、いい程合で、透かして見ると、坂も大分急になった石磈道《いしころみち》で、誰がどっちのを解いたか、扱帯《しごき》をな、一条《ひとすじ》、湯女《ゆな》の手から後《うしろ》に取って、それをその少《わか》い貴婦人てった高島田のが、片手に控えて縋《すが》っています……もう笠は外して脊へ掛けて……絞《しぼり》の紅《あか》いのがね、松明《たいまつ》が揺れる度に、雪に薄紫に颯《さっ》と冴《さ》えながら、螺旋《らせん》の道条《みちすじ》にこう畝《うね》ると、そのたびに、崖の緋葉《もみじ》がちらちらと映りました、夢のようだ。  視《み》る奴《やつ》の方が夢のようだから、御当人たちは現《うつつ》かも知れねえ。  でその二人は、そうやって、雪の夜道を山坂かけて、どこへ行くんだと思召《おぼしめ》す。  ここだて――旦那。」  藤助は息継《いきつぎ》に呷《ぐい》と煽《あお》って、 「この二階から、鏡台山を――(少し薄明りが映《さ》しますぜ、月が出ましょう。まあ、御緩《ごゆる》りなさいまし、)――それ、こうやって視《み》るように、狼温泉の宿はずれの坂から横正面といった、肩でこう捻向《ねじむ》いて高く上を視る処に、耳はねえが、あのトランプのハアト形に頭《かしら》を押立《おった》った梟《ふくろ》ヶ|嶽《たけ》、梟、梟と一口に称《とな》えて、何嶽と言うほどじゃねえ、丘が一座《ひとくら》、その頂辺《てっぺん》に、天狗の撞木杖《しゅもくづえ》といった形に見える、柱が一本。……風の吹まわしで、松明の尖《さき》がぼっと伸びると、白くなって顕《あらわ》れる時は、耶蘇《ヤソ》の看板の十字架てったやつにも似ている……こりゃ、もし、電信柱で。  蔭に隠れて見えねえけれど、そこに一張《ひとはり》天幕《テント》があります。何だと言うと、火事で焼けたがために、仮ごしらえの電信局で、温泉場から、そこへ出張《でば》っているのでございます。  そこへ行くんだね、婦《おんな》二人は。  で、その郵便局の天幕の裡《うち》に、この湯女《ゆな》の別嬪《べっぴん》が、生命《いのち》がけ二年|越《ごし》に思い詰めている技手の先生……ともう一人は、上州高崎の大資産家《おおかねもち》の若旦那で、この高島田のお嬢さんの婿さんと、その二人が、いわれあって、二人を待って、対の手戟《てぼこ》の石突《いしづき》をつかないばかり、洋服を着た、毘沙門天《びしゃもんてん》、増長天《ぞうちょうてん》という形で、五体を緊《し》めて、殺気を含んで、呼吸《いき》を詰めて、待構えているんでがしてな。  お嬢さんの方は、名を縫子さんと言うんで、申さずとも娘ッ子じゃありません、こりゃ御新姐《ごしんぞ》……じゃあねえね――若奥様。」        五 [#ここから4字下げ] 峰の白雪、麓《ふもと》の氷、 今は互に隔てていれど、 やがて嬉しく、溶けて流れて、 合うのじゃわいな。…… [#ここで字下げ終わり] 「私《わっし》は日暮前に、その天幕張《テントばり》の郵便局の前を通って来たんでございますよ。……ちょうど狼の温泉へ入込《いりこ》みます途中でな。……晩に雪が来ようなどとは思いも着かねえ、小春日和《こはるびより》といった、ぽかぽかした好《い》い天気。……  もっとも、甲州から木曾街道、信州路を掛けちゃあ、麓《ふもと》の岐路《えだみち》を、天秤《てんびん》で、てくてくで、路傍《みちばた》の木の葉がね、あれ性《しょう》の、いい女の、ぽうとなって少し唇の乾いたという容子《ようす》で、へりを白くして、日向《ひなた》にほかほかしていて、草も乾燥《はしゃ》いで、足のうらが擽《くすぐ》ってえ、といった陽気でいながら、槍《やり》、穂高、大天井、やけに焼《やけ》ヶ嶽などという、大薩摩《おおざつま》でもの凄《すご》いのが、雲の上に重《かさな》って、天に、大波を立てている、……裏の峰が、たちまち颯《さっ》と暗くなって、雲が被《かぶ》ったと思うと、箕《み》で煽《あお》るように前の峰へ畝《うね》りを立ててあびせ掛けると、浴びせておいて晴れると思えば、その裏の峰がもう晴れた処から、ひだを取って白くなります。見る見るうちに雪が掛《かか》るんでございましてね。左右の山は、紅くなったり、黄色かったり、酔ったり、醒《さ》めたりして、移って来るそのむら雲を待っている。  といった次第《わけ》で、雪の神様が、黒雲の中を、大《おおき》な袖を開いて、虚空を飛行《ひぎょう》なさる姿が、遠くのその日向の路に、螽斯《ばった》ほどの小さな旅のものに、ありありと拝まれます。  だから、日向で汗ばむくらいだと言った処で、雑樹一株隔てた中には、草の枯れたのに、日が映《さ》すかと見れば、何、瑠璃色《るりいろ》に小さく凝《こ》った竜胆《りんどう》が、日中《ひなか》も冷い白い霜を噛《か》んでいます。  が、陽の赤い、その時梟ヶ嶽は、猫が日向ぼっこをしたような形で、例の、草鞋《わらじ》も脚絆《きゃはん》も擽《くすぐ》ってえ。……満山のもみじの中《うち》に、もくりと一つ、道も白く乾いて、枯草がぽかぽかする。……芳《かんば》しい落葉の香のする日の影を、まともに吸って、くしゃみが出そうなのを獅噛面《しかみづら》で、 (鋳掛……錠前の直し。)  すくッと立った電信柱に添って、片枝折れた松が一株、崖へのしかかって立っています、天幕張だろうが、掘立小屋だろうが、人さえ住んでいれば家業|冥利《みょうり》…… (鋳掛……錠前直し。)……  と、天幕とその松のあります、ちょっと小高くなった築山《つきやま》てった下を……温泉場の屋根を黒く小さく下に見て、通りがかりに、じろり……」  藤助は、ぎょろりとしながら、頬辺《ほっぺた》を平手で敲《たた》いて、 「この人相だ、お前さん、じろりとよりか言いようはねえてね、ト行《や》った時、はじめて見たのが湯女のその別嬪だ。お道さんは、半襟の掛った縞の着ものに、前垂掛《まえだれがけ》、昼夜帯、若い世話女房といった形で、その髪のいい、垢抜《あかぬけ》のした白い顔を、神妙に俯向《うつむ》いて、麁末《そまつ》な椅子に掛けて、卓子《テエブル》に凭掛《よりかか》って、足袋を繕っていましたよ、紺足袋を…… (鋳掛……錠前の直し。)……  ちょっと顔を上げて見ましたっけ。直《すぐ》に、じっと足袋を刺すだて。  動いただけになお活《い》きて、光沢《つや》を持った、きめの細《こまか》な襟脚の好《よ》さなんと言っちゃねえ。……通り切れるもんじゃあねえてね、お前さん、雲だか、風だか、ふらふらと野道山道宿なしの身のほまちだ。  一言《ひとこと》ぐらい口を利いて、渋茶の一杯も、あのお手からと思いましたがね、ぎょっとしたのは半分焦げたなりで天幕の端に真直《まっすぐ》に立った看板だ。電信局としてある……  茶屋小屋、出茶屋の姉《ねえ》さんじゃあねえ。風俗《なりふり》はこの目で確《たしか》に睨《にら》んだが……おやおや、お役人の奥様かい。……郵便局員の御夫人かな。  これが旦那方だと仔細《しさい》ねえ。湯茶の無心も雑作はねえ。西行法師なら歌をよみかける処だが、山家めぐりの鋳掛屋じゃあ道を聞くのも跋《ばつ》が変だ。  ところで、椅子はまだ二三脚、何だか、こちとらにゃ分らねえが、ぴかぴか機械を据附けた卓子《テエブル》がもう一台。向ってきちんと椅子が置いてあるが、役人らしいのは影も見えねえ。  ははあ、来る道で、向《むこう》の小山の土手腹《どてっぱら》に伝わった、電信の鋼線《はりがね》の下あたりを、木の葉の中に現れて、茶色の洋服で棒のようなものを持って、毛虫が動くように小さく歩行《ある》いている形を視《み》た。……鉄砲打の鳥おどしかと思ったが、大きにそんなのが局員の先生で、この姉さんの旦那かも知れねえよ。  が何しろ留守だ。 (鋳掛……錠前直し。)……  と崖ぶちの日向《ひなた》に立ったが、紺足袋の繕い。……雪の襟脚、白い手だ。悚然《ぞっ》とするほど身に沁みてなりませんや。  遥《はるか》に見える高山の、かげって桔梗色《ききょういろ》したのが、すっと雪を被《かつ》いでいるにつけても。で、そこへまず荷をおろしました。 (や、えいとこさ。)と、草鞋《わらじ》の裏が空へ飜《かえ》るまで、山端《やまばた》へどっしりと、暖かい木の葉に腰を落した。  間拍子もきっかけも渡らねえから、ソレ向うの嶽《たけ》の雪を視《み》ながら、 (ああ、降ったる雪かな。)  とか何とか、うろ覚えの独言《ひとりごと》を言ってね、お前さん、 (それ、雪は鵝毛《がもう》に似て飛んで散乱し、人は鶴氅《かくしょう》を着て立って徘徊《はいかい》すと言えり……か。)  なんのッて、ひらひらと来る紅色《べにいろ》の葉から、すぐに吸いつけるように煙草《たばこ》を吹かした。が、何分にも鋳掛屋じゃあ納《おさま》りませんな。  ところでさて、首に巻いた手拭《てぬぐい》を取って、払《はた》いて、馬士《まご》にも衣裳《いしょう》だ、芳原かぶりと気取りましたさ。古三味線を、チンとかツンとか引掻鳴《ひっかきな》らして、ここで、内証で唄ったやつでさ。 [#ここから5字下げ] 峰の白雪、麓の氷―― [#ここで字下げ終わり]  旦那、顔を見っこなし……極《きまり》が悪い……何と、もし、これで別嬪の姉さんを引寄せようという腹だ、おかしな腹だ、狸《たぬき》の腹だね。  だが、こいつあこちとら徒《であい》の、すなわち狸の腹鼓という甘術《あまて》でね。不気味でも、気障《きざ》でも、何でも、聞く耳を立てるうちに、うかうかと釣出されずにゃいねえんだね。どうですえ、……それ、来ました。」  と不意に振向く、階子段《はしごだん》の暗い穴。  小村さんも私も慄然《ぞっと》した。  女房はなおの事…… 「あれ、吃驚《びっくり》した。」  と膝で摺寄《すりよ》る。  藤助は一笑して、 「まずは、この寸法でございましてね、お道さんを引寄せた工合というのが、あはッはッ。」        六 「見ない振《ふり》、知らない振、雪の遠山《とおやま》に向いて、……溶けて流れてと、唄っていながら、後方《うしろ》へ来るのが自然と分るね、鹿の寄るのとは違います。……別嬪の香《かおり》がほんのりで、縹緻《きりょう》に打たれて身に沁む工合が、温泉の女神様《おんながみさま》が世話に砕けて顕《あらわ》れたようでございましたぜ。……(逢いたさに見たさに)何とか唄《や》って、チャンと句切ると、 (あの、鋳掛屋さん。)  と、初音《はつね》だね。……  視《み》ると、朱塗の盆に、吸子《きびしょ》、茶碗を添えて持っている。黒繻子《くろじゅす》の引掛帯《ひっかけおび》で、浅葱《あさぎ》の襟のその様子が何とも言えねえ。  いえ、もう一つ、盆の上に、紙に包んだ蝶々というのが載《の》っていました。……それがために讃《ほ》めるんじゃあねえけれど、拵《こしら》えねえで、なまめいたもんでしたぜ。人を喰ったこっちの芳原かぶりなんざ、もの欲しそうで極《きま》りが悪くなったくらいで。 (へい、へい、へい、こりゃ奥様、恐入りました。)  とわざとらしくも、茶碗をな、両手で頂かずにゃいられなかった。  姉《ねえ》さんが、初々しい、しおらしい事を、お聞きなせえ、ぽうッとなって、 (まあ、あんな事、私は奉公人なんですよ。)  さ、その奉公人風情が、生意気のようだけれど、唄をもう一つ唄って聞かしてもらえまいか、と言うんじゃありませんかい。お眺《あつらえ》が註文にはまった。こんな処でよろしければ、山で樹の数、幾つだって構やあしませんと、……今度は(浮世はなれて奥山ずまい、恋もりん気も忘れていたが、)……で御機嫌を取結ぶと、それよりか、やっぱり、先《せん》の(やがて嬉しく溶けて流れて合うのじゃわいな)の方を聞かして欲しいと、山姫様、御意遊ばす。」  藤助は杯でちょっと句切って、眉も口も引緊《ひきしま》った。 「旦那方の前でございますがね、こう中腰に、〆加減《しめかげん》の好《い》い帯腰で、下に居て、白い細い指の先を、染めた草につくようにして熟《じっ》と聞く。……聞手が、聞手だ。唄う方も身につまされて、これでもお前さん、人間|交際《づきええ》もすりゃ、女|出入《でいり》も知らねえじゃあねえ。少《わか》い時を思い出して、何となく、我身ながら引入れられて、……覚えて、ついぞねえ、一生に一度だ。較《くら》べものにゃあなりませんが、むかし琵琶法師《びわほうし》の名誉なのが、こんな処で草枕、山の神様に一曲奏でた心持。  と姉さんがとけて流れて合うのじゃわいなと、きき入りながら、睫毛《まつげ》を長くうつむいて、ほろりとした時、こっらも思わず、つい、ほろり……いえさ、この面《つら》だからポタリと出ました。」  と口では言いつつ声が湿った。 「(つかん事を聞きますけれど、鋳掛屋さん、錠の合鍵《あいかぎ》を頼まれて下さいますか。)……と姉さんがね。  私《わっし》あこれを聞いて、ポンと両手を拍《う》った。  このくらいつく事は、私の唄が三味線につくようなもんじゃあねえ。 (鍵が狂ったんでございますかい。) (いいえ、無いんですけれど。) (雑作はがあせん、煙草三服飲む間《うち》だ。)  そこで錠前を見て、という事になると、ちと内証事らしい。……しとやかな姉さんが、急に何だか、そわついて、あっちこっち眗《みまわ》しましたが、高い処にこう立つと、風が攫《さら》って、すっと、雲の上へ持って行《ゆ》きそうで危《あぶな》ッかしいように見えます。  勿論人影は、ぽッつりともない。  が、それでも、天幕《テント》の正面からじゃあ、気咎《きとが》めがしたと見えて、 (済みませんが、こっちから。)  裏へ廻わると、綻《ほころ》びた処があるので。……姉さんは科《しな》よく消えたが、こっちは自雷也《じらいや》の妖術にアリャアリャだね。列子《せこ》という身で這込《はいこ》みました。が、それどころじゃあねえ。この錠前だと言うのを一見に及ぶと、片隅に立掛けた奴だが、大蝦蟆《おおがま》の干物とも、河馬《かば》の木乃伊《みいら》とも譬《たと》えようのねえ、皺《しな》びて突張《つっぱ》って、兀斑《はげまだら》の、大古物の大《でっ》かい革鞄《かばん》で。  こいつを、古新聞で包んで、薄汚れた兵児帯《へこおび》でぐるぐると巻いてあるんだが、結びめは、はずれて緩んで、新聞もばさりと裂けた。そこからそれ、煤《すす》を噴きそうな面《つら》を出して、蘆《あし》の茎《ずい》から谷|覗《のぞ》くと、鍵の穴を真黒《まっくろ》に窪ましているじゃアありませんか。 (何が入っておりますえ。)  失礼な……人様の革鞄を……だが、私《わっし》あつい、うっかり言った。 (あの、旦那さんのお大事なものばかり。) (へい、貴女《あなた》の旦那様の?) (いいえ、技師の先生の方ですが、その方のお大事なものが残らず、お国でおかくれになりました奥様のお骨《こつ》も、たったお一人ッ子の、かけがえのない坊ちゃまのお骨も、この中に入っていらっしゃるんですって。)  と、こう言うんですね。」  小村さんと私は、黙って気を引いて瞳を合した。  藤助は一息ついて、 「それを聞いて、安心をしたくらいだ。技師の旦那の奥様と坊ちゃまのお骨と聞いて、安心したも、おかしなものでございますがね、一軒家の化葛籠《ばけつづら》だ、天幕の中の大革鞄じゃあ、中《うち》に何が入ってるか薄気味が悪かったんで。 (へい、その鍵をおなくしなすった……そいつはお困りで、)  と錠前の寸法を当りながら、こう見ますとね、新聞のまだ残った処に、青錆《あおさび》にさびた金具の口でくいしめた革鞄の中から、紫の袖が一枚。……  袂《たもと》が中に、袖口をすんなり、白羽二重の裏が生々《いきいき》と、女の膚《はだ》を包んだようで、被《き》た人がらも思われる、裏が通って、揚羽《あげは》の蝶の紋がちらちらと羽を動かすように見えました。」  小村さんと私とは、じっと見合っていたままの互の唇がぶるぶると震えたのである。        七  ――実はこの時から数えて前々年の秋、おなじ小村さんと、(連《つれ》がもう一人あった。)三人連で、軽井沢、碓氷《うすい》のもみじを見た汽車の中《うち》に、まさしく間違うまい、これに就いた事実があって、私は、不束《ふつつか》ながら、はじめ、淑女画報に、「革鞄《かばん》の怪。」後に「片袖。」と改題して、小集の中《うち》に編んだ一篇を草した事がある。  確《たしか》に紫の袖の紋も、揚羽の蝶と覚えている。高島田に花笄《はなこうがい》の、盛装した嫁入姿の窈窕《ようちょう》たる淑女が、その嫁御寮に似もつかぬ、卑しげな慳《けん》のある女親まじりに、七八人の附添とともに、深谷《ふかや》駅から同じ室に乗組んで、御寮はちょうど私たちの真向うの席に就いた。まさに嫁がんとする娘の、嬉しさと、恥らいと、心遣《こころやり》と、恐怖《おそれ》と、笑《えみ》と、涙とは、そのまま膝に手を重ねて、つむりを重たげに、ただ肩を細く、さしうつむいた黒髪に包んで、顔も上げない。まことにしとやかな佳人であった。  この片袖が、隣席にさし置かれた、他の大革鞄の口に挟まったのである。……失礼ながらその革鞄は、ここに藤助が饒舌《しゃべ》るのと、ほぼ大差のないものであった。  が、持ぬしは、意気沈んで、髯《ひげ》、髪もぶしょうにのび、面《おもて》は憔悴《しょうすい》はしていたが、素純にして、しかも謹厳なる人物であった。  汽車の進行中に、この出来事が発見された時、附添の騒ぎ方は……無理もないが、思わぬ麁匇《そそう》であろう、失策した人物に対して、傍《はた》の見る目は寧《むし》ろ気の毒なほどであった。  一も二もない、したたかに詫びて、その革鞄の口を開くので、事は決着するに相違あるまい。  我も人も、しかあるべく信じた。  しかるにもかかわらず、その人物は、人々が騒いで掛けた革鞄の手の中から、すかりと握拳《にぎりこぶし》の手を抜くと斉《ひと》しく、列車の内へすっくと立って、日に焼けた面《つら》は瓦《かわら》の黄昏《たそが》るるごとく色を変えながら、決然たる態度で、同室の御婦人、紳士の方々、と室内に向って、掠声《かすれごえ》して言った。……これなる窈窕たる淑女(――私もここにその人物の言った言《ことば》を、そのまま引用したのであるが)窈窕たる淑女のはれ着の袖を侵《おか》したのは偶然の麁匇である。はじめは旅行案内を掴出《つかみだ》して、それを投込んで錠を下した時に、うっかり挟んだものと思われる。が、それを心着いた時は――と云って垂々《たらたら》と額に流るる汗を拭《ぬぐ》って――ただ一瞬間に千万無量、万劫《ばんごう》の煩悩を起した。いかに思い、いかに想っても、この窈窕たる淑女は、正《まさ》しく他《ひと》に嫁せらるるのである……ばかりでない、次か、あるいはその次の停車場《ステエション》にて下車なさるるとともにたちまち令夫人とならるる、その片袖である。自分は生命を掛けて恋した、生命を掛くるのみか、罪はまさに死である、死すともこの革鞄の片袖はあえて離すまいと思う。思い切って鍵を棄てました。私《わたくし》はこの窓から、遥《はるか》に北の天に、雪を銀襴のごとく刺繍《ししゅう》した、あの遠山《えんざん》の頂を望んで、ほとんど無辺際に投げたのです、と言った。  ――汽車は赤城山《あかぎさん》をその巽《たつみ》の窓に望んで、広漠たる原野の末を貫いていたのであった。――  渠《かれ》は電信技師である。立野竜三郎《たつのりゅうざぶろう》と自ら名告《なの》った。渠《かれ》はもとより両親も何もない、最愛の児《こ》を失い、最愛の妻を失って、世を果敢《はかな》むの余り、その妻と子の白骨と、ともに、失うべからざるものの一式、余さずこの古革鞄に納めた、むしろ我が孤《みひとつ》の煢然《けいぜん》たる影をも納めて、野に山に棄つるがごとく、絶所、僻境《へききょう》を望んで飛騨山中の電信局へ唯今赴任する途中である。すでに我身ながら葬り去った身は、ここに片袖とともに蘇生《よみがえ》った。蘇生ると同時に、罪は死である。否《いや》、死はなお容易《たやす》い、天の咎《とが》、地の責《せめ》、人の制規《おきて》、いかなる制裁といえども、甘んじて覚悟して相受ける。各位が、我《わが》ために刑を撰んで、その最も酷なのは、磔《はりつけ》でない、獄門でない、牛裂《うしざき》の極刑でもない。この片袖を挟んだ古革鞄を自分にぶら下げさせて、嫁御寮のあとに犬のごとく従わせて、そのまま今日《こんにち》の婿君の脚下に拝し跪《ひざまず》かせらるる事である。諾《よし》、その厳罰を蒙《こうむ》りましょう、断じて自分はこの革鞄を開いて片袖は返さぬのである。ただ、天地神明に誓うのは、貴女《きじょ》の淑徳と貞潔である。自分は生れてより今に及んで、その姿を視《み》たのはわずかに今より前《ぜん》、約三十分に過ぎない、……包ましくさしうつむかれた淑女は、申すまでもなく、自分に向って瞳をも動かされなかった事を保証する、――謹んで断罪を待ちます……各位。  吶々《とつとつ》として、しかも沈着に、純真に、縷々《るる》この意味の数千言を語ったのが、轟々《ごうごう》たる汽車の中《うち》に、あたかも雷鳴を凌《しの》ぐ、深刻なる独白のごとく私たちの耳に響いた。  附添の数多《あまた》の男女は、あるいは怒り、あるい罵《ののし》り、あるいは呆れ、あるいは呪詛《のろ》った。が、狼狽《ろうばい》したのは一様である。車外には御寮を迎《むかえ》の人数《にんず》が満ちて、汽車は高崎に留まろうとしたのであるから……  既に死灰のごとく席に復して瞑目《めいもく》した技師がその時再び立った。ここに手段があります、天が命ずるにあらず、地が教うるにあらず、人の知れるにあらず、ただ何ものの考慮とも分らない手段である……すなわち小刀《ナイフ》をもって革鞄を切開く事なのです。……私《わたくし》は拒みません。刀ものは持合せました、と云って、鞘《さや》をパチンと抜いて渡したのを、あせって震える手に取って、慳相《けんそう》な女親が革鞄の口を切裂こうとして、屹《きっ》と猜疑《さいぎ》の瞳を技師に向くると同時に、大革鞄を、革鞄のまま提げて、そのまま下車しようとした時であった。 「いいえ!」  と一言《ひとこと》、その窈窕たる淑女は、袖つけをひしと取って、びりびりと引切《ひっき》った。緋《ひ》の長襦袢《ながじゅばん》が※[#「火+發」、192-6]《ぱっ》と燃える、片身を火に焼いたように衝《つッ》と汽車を出たその姿は、かえって露の滴るごとく、おめき集《つど》う群集は黒煙《くろけむり》に似たのである。  技師は真俯向《まうつむ》けに、革鞄の紫の袖に伏した。  乗合は喝采《かっさい》して、万歳の声が哄《どっ》と起った。  汽車の進むがままに、私たちは窓から視《み》た。人数に抱上げらるるようになって、やや乱れた黒髪に、雪なす小手を翳《かざ》して此方《こなた》を見送った半身の紅《くれない》は、美しき血をもって描いたる煉獄《れんごく》の女精であった。  碓氷の秋は寒かった。        八  藤助は語り継いだ。 「姉《ねえ》さんが、そうすると……驚いたように、 (あれ、それを見ちゃ不可《いけ》ません。) (やあ、つい麁匇《そそう》を。)  と、何事も御意のまま、頭をすくめて恐縮をしますとね、低声《こごえ》になって気の毒そうに、 (でも、あの、そういう私が、密《そっ》と出して、見たいんでございます。) (そこで鍵が御入用。) (ええ、ですけど、人様のものを、お許しも受けないで、内証で見ては悪うございましょうねえ。) (何、開けたらまた閉めておきゃあ、何でもありゃしませんや。)  とその容子《ようす》だもの、お前さん、何だって構やしません。――お手軽様に言って退《の》けると、口に袖をあてながら、うっかり釣込まれたような様子でね、また前後《あとさき》を視《み》ましたっけ。 (では、ちょっと今のうち鋳掛屋さん、あなたお職柄で鍵を拵《こしら》えるより前《さき》に、手で開けるわけには参りませんの。)  ぶるぶるぶる……私《わっし》あ、頭と嘴《くちばし》を一所に振った。旦那の前《めえ》だが、……指を曲げて、口を押えて、瞼《まぶた》へ指の環を当がって、もう一度頭を掉《ふ》った。それ、鍵の手は、内証で遣《や》っても、たちまちお目玉。……不可《いけね》えてんだ、お前さん。 (御法度《ごはっと》だ。)  と重く持たせて、 (ではござれども、姉さんの事だ、遣らかしやしょう、大達引《おおたてひき》。奥様のお記念《かたみ》だか、何だか知らねえ。成程こいつあ、そのな、へッへッ、誰方《どなた》かに向っての姉さんの心意気では……お邪魔になるでございましょうよ。奥歯にものが挟まったって譬《たとえ》はこれだ。すっぱり、打開《ぶちま》けてお出しなせえまし。) (いえ、あの、開けて出すよりか、私が中へ入りたい。)  と仇気《あどけ》なく莞爾《にっこり》すら、チェーしたもんだ。 (御串戯《ごじょうだん》で、中へ入ると、恐怖《おっかね》え、その亡くなった奥さんの骨《こつ》があるんじゃありませんかい。) (もう、私は、あの、奥さまの、その骨《ほね》になりたいの。)  ああ、その骨になりたいか、いや、その骨でこっちは海月《くらげ》だ、ぐにゃりとなった。 (御勝手だ。) (あれ、そのかわりに奥さまが、活きた私におなんなさる、容色《きりょう》は、たとえこんなでも。) (御勝手だ。いや、御法度だね。) (そんな事を言わないで、後生ですから、鋳掛屋さん。) (開けますよ。だがね……)  と、一つ勿体《もったい》で、 (こいつあ口伝《くでん》だ、見ちゃ不可《いけね》え、目を瞑《つぶ》っていておくんなさい。) (はい。) (もっと。) (はい。) (不可《いけね》え不可え、薄目を開けてら。) (まあ、では後を向きますわ。) (引《ひき》しまって、ふっくりと柔《やわら》かで、ああ、堪《たま》らねえ腰附だ。) (可厭《いや》……知りませんよ。)  と向直ると、串戯《じょうだん》の中にしんみりと、 (あれ、ちょっと待って下さいまし。いま目をふさいで考えますと、お許《ゆるし》がないのに錠前を開けるのは、どうも心が済みません。神様、仏様に、誓文《せいもん》して、悪い心でなくっても、よくない事だと存じます。)  私《わっし》も真面目《まじめ》にうなずきました。 (でも、合鍵は拵えて下さいまし、大事にそれを持っていて、……出来るだけ我慢はしますけれども、どうしても開けたくってならなくなりました時に、生命《いのち》にかえても、開けて見とうございますから。)――  晩の泊《とまり》はどこだって聞きますから、向うの峰の日脚を仰向《あおむ》いて、下の温泉だと云いますとね、双葉屋の女中だと、ここで姉さんが名を言って、お世話しましょうと、きつい発奮《はずみ》さ。  御旅館などは勿体ねえ、こちとら式がと木賃がると、今頃はからあきで、人気《ひとけ》がなくって寂しいくらい。でも、お一方――一昨日《おととい》から、上州高崎の方だそうだけれど、東京にも少《すくな》かろう、品のいい美しい、お嬢さんだか、夫人《おくさま》だか、少《わか》い方がお一方……」 「お一方?」  と、うっかり訊《き》いて私は膝を堅うした。――小村さんも同じ思いは疑いない。――あの時、その窈窕たる御寮が、汽車を棄てたのは、かしこで、その高崎であった。 「さようで。――お一方|御逗留《ごとうりゅう》、おさみしそうなその方にも、いまの立山が聞かせたいと、何となくそのお一方が、もっての外気になるようで、妙に眉のあたりを暗くしましたっけ、熟《じっ》と日のかげる山を視《なが》めたが、 (ああ。鋳掛屋さん。)  と慌《あわただ》しい。……皆まで聞かずと飲込んだ、旦那様帰り引[#「引」は小文字]と……ここらは鵜《う》だてね、天幕《テント》の逢目《あいめ》をひょこりと出た。もとの山端《やまっぱな》へ引退《ひきさが》り、さらば一服|仕《つかまつ》ろう……つぎ置の茶の中には、松の落葉と朱葉《もみじ》が一枚。……」 (ああ、腹が減った……)  と色気のない声を出して、どかりと椅子に掛けたのは、焦茶色の洋服で、身の緊《しま》った、骨格のいい、中古《ちゅうぶる》の軍人といった技師の先生だ。――言うまでもなく、立野竜三郎は渠《かれ》である―― (減った、減った、無茶に減った。)  と、いきなり卓子《テエブル》の上の風呂敷包みを解くと、中が古風にも竹の子弁当。……御存じはございますまい、三組《みつぐみ》の食籠《わりご》で、畳むと入子《いれこ》に重《かさな》るやつでね。案ずるまでもありませんや、お道姉さんが心入れのお手料理か何かを、旅館から運ぶんだね。 (うまい、ああ旨《うま》い、この竹輪は骨がなくて難有《ありがた》い。)  余り旨そうなので、こっちは里心が着きました。建場《たてば》々々で飲酒《や》りますから、滅多に持出した事のない仕込の片餉《かたげ》、油揚《あぶらげ》の煮染《にしめ》に沢庵というのを、もくもくと頬張りはじめた。  お道さんが手拭を畳んでちょっと帯に挟んだ、茶汲女《ちゃくみおんな》という姿で、湯呑を片手に、半身で立って私《わっし》の方を視《み》ましたがね。 (旦那様《だんなさん》……あの、鋳掛屋さんが、お弁当を使いますので、お茶を御馳走《ごちそう》いたしました。……お盆がなくて手で失礼でございます。)  と湯気の上る処を、卓子の上へ置くんでございますがね、加賀の赤絵の金々たるものなれども、ねえ、湯呑は嬉しい心意気だ。 (何、鋳掛屋。)  と、何だか、気を打ったように言って、先生、扁平《ひらた》い肩で捻《ね》じて、私《わっし》の方を覗《のぞ》きましたが、 (やあ、御馳走はありますか。)  とかすれ笑いをしなさるんだ。 (へッ、へッ。)と、先はお役人様でがさ、お世辞|笑《わらい》をしたばかりで、こちらも肩で捻向く面《つら》だ、道陸神《どうろくじん》の首を着換《つけか》えたという形だてね。 (旨い。)  姉さんが嬉しそうな顔をしながら、 (あの、電信の故障は、直りましてございますか。) (うむ、取払ったよ。)  と頬張った含声《ふくみごえ》で、 (思ったより余程さきだった。)  ははあ、電線に故障があって、障《さわ》るものの見当が着いた処から、先生、山めぐりで見廻ったんだ。道理こそ、いまし方天幕へ戻って来た時に、段々塗の旗竿《はたざお》を、北極探検の浦島といった形で持っていて、かたりと立掛けて入《へえ》んなすった。 (どうかなっていましたの。) (変なもの……何、くだらないものが、線の途中に引搦《ひっからま》って……)  カラリと箸《はし》を投げる音が響いた。 (うむ、来た。……トーン、トーン……可《よ》し。)  お道さんの声で、 (旦那様、何ぞ御心配な事ではございませんか。)  一口がぶりと茶を飲んで、 (詰《つま》らぬ事を……他所《よそ》へ来た電報に、一々気を揉《も》んでいて堪《たま》るもんですか。) (でも、先刻《さっき》、この電信が参りました時、何ですか、お顔の色が……) (……故障のためですよ、青天井の煤払《すすはき》は下さりませんからな、は、は。)  と笑った。  坂をするすると這上《はいあが》る、蝙蝠《こうもり》か、穴熊のようなのが、衝《つッ》と近く来ると、海軍帽を被《かぶ》ったが、形《なり》は郵便の配達夫――高等二年ぐらいな可愛い顔の少年が、ちゃんと恭《うやうや》しく礼をした。 (ああ、ちょうどいま繋《つなが》った。) (どうした故障でございますか。)  と切口上で、さも心配をしたらしい。たのもしいじゃあございませんか。 (網掛場《あみかけば》の先の処だ、烏を蛇が捲《ま》いたなりで、電線に引搦《ひっからま》って死んでいたんだよ。烏が引啣《ひきくわ》えて飛ぼうとしたんだろう……可なり大《おおき》な重い蛇だから、飛切れないで鋼線《はりがね》に留った処を、電流で殺されたんだ。ぶら下った奴は、下から波を打って鎌首をもたげたなりに、黒焦《くろこげ》になっていた――君、急いでくれ給え、約四時間延着だ。) (はっ。)  と云って行《ゆ》くのを、 (ああ、時さん。)  とお道さんは沈んで呼んだ。が、寂しい笑顔を向け直して、 (配達さん――どこへ……)と訊《き》いた。  少年が正しく立停《たちとど》まって、畳んだ用紙を真《まっ》すぐに視《み》て、 (狼温泉――双葉館方……村上縫子……) (そしてどちらから。) (ヤホ次郎――行って来ます。) (そんな事を聞くもんじゃあない。) (ああ、済みませんでした。) (何、構わないようなもんじゃあるがね――どっこいしょ。)  がた、がたんと音がする。先生、もう一つの卓子《テエブル》を引立って、猪と取組《とっく》むように勢《いきおい》よく持って出ると、お道さんはわけも知らないなりに、椅子を取って手伝いながら、 (どう遊ばすの。)  と云ううちに、一段下りた草原《くさっぱら》へ据えたんでございますがね、――わけも知らずに手伝った、お道さんの心持を、あとで思うと涙が出ます。」  と肩もげっそりと、藤助は沈んで言った。…… 「で、何でございますよ――どう遊ばすのかと、お道さんが言うと、心待、この日暮にはここに客があるかも知れんと、先生が言いますわ。あれ、それじゃこんな野天でなく、と、言おうじゃあございませんか。 (いや、中で間違《まちがい》があるとならんので。) (え、間違とおっしゃって。)  とお道さんが、ひったり寄った。 (私は、)  と先生は、肘《ひじ》で口の端《はた》を横撫《よこなで》して、 (髯《ひげ》もまずいが、言う事がまずくて不可《いか》んです。間違じゃあない、故障です、素人は気なしだからして、あんな狭い天幕の中で、器械にでも障って、また故障にでもなると不可んのだ。決して心配な事ではないのです、――さあ飯だ、飯だ。)  と今度はなぜか、箸を着けずに弁当をしまいかけて、……親方の手前もある、客に電報が来た様子では、また和女《おまえ》の手も要るだろう、余り遅くならないうちにと、懇《ねんごろ》に言うと、 (はい、はい。)  と柔順《すなお》に返事する。片手間に、継掛けの紺足袋と、寝衣《ねまき》に重ねる浴衣のような洗濯ものを一包、弁当をぶら下げて、素足に藁草履《わらぞうり》、ここらは、山家で――悄々《しおしお》と天幕を出た姿に、もう山の影が薄暗く隈を取って映りました。 (今、何時だろう。)  と天幕口へ出て、先生が後姿を呼びましたね。 (……四時半頃にもなりましょうか。) (時計が止《とま》ったよ――気をつけておいで。)  と大《おおき》な懐中時計と、旗竿の影を、すっくり立って、片頬《かたほ》夕日を浴びながら、熟《じっ》と落着いて視《なが》めていなさる。……落着いて視《み》ちゃあいなすったが、先生少々どうかなさりやしねえのかと思ったのは、こう変に山が寂しくなって、通魔《とおりま》でもしそうな、静寂《しじま》の鐘の唄の塩梅《あんばい》。どことなくドン――と響いて天狗倒《てんぐだおし》の木精《こだま》と一所に、天幕の中《うち》じゃあ、局の掛時計がコトリコトリと鳴りましたよ。  お地蔵様が一体、もし、この梟ヶ嶽の頭を肩へ下り口に立ってござる。――私《わっし》どもは、どうかすると一日《いちんち》の中《うち》にゃ人間の数より多くお目に掛《かか》る、至極|可懐《なつか》しいお方だが……後で分りました。この丘は、むかし、小さな山寺があったあとだそうで、そう言や草の中に、崩れた石の段々が蔦《つた》と一所に、真下の径《こみち》へ、山懐《やまぶところ》へまとっています。その下の径というのが、温泉宿《ゆのやど》入りの本街道だね。  お道さんが、帰りがけに、その地蔵様を拝みました。石の袈裟《けさ》の落葉を払って、白い手を、じっと合せて、しばらくして、 (また、お目にかかります。)  と顔を上げて、 (後程に――)  もう先生は天幕へ入った――で、私《わっし》にしみじみとした調子で云った時の面影が忘れられねえ!……睫毛《まつげ》にたまって、涙が一杯。……風が冷く、山はこれから、湿っぽい。  秋の日は釣瓶《つるべ》落しだ、お前さん、もうやがて初冬《はつふゆ》とは言い条、別して山家だ。静《しずか》に大沼の真中《まんなか》へ石を投げたように、山際へ日暮の波が輪になって颯《さっ》と広がる中で、この藤助と云う奴が、何をしたと思召《おぼしめ》す。  三尺をしめ直す、脚絆の埃《ほこり》を払《はた》いたり、荷づなを天秤《てんびん》に掛けたり、はずしたり。……三味線の糸をゆるめたり、袋に入れたり……さてまた袋を結んだり。  そこへ……いまお道さんが下りました、草にきれぎれの石段を、攀《よ》じ攀じ、ずッと上《あが》って来た、一個《ひとり》、年紀《とし》の少《わか》い紳士《だんな》があります。  山の陰気な影をうけて、凄《すご》いような色の白いのが、黒の中折帽を廂下《ひさしさが》りに、洋杖《ステッキ》も持たず腕を組んだ、背広でオオバアコオトというのが、色がまた妙に白茶けて、うそ寂しい。瘠《や》せて肩の立った中脊でね。これが地蔵様の前へ来て、すっくりと立ったと思うと、頭髪《かみ》の伸びた技師の先生が、ずかずかと天幕を出ました。  それ、卓子《テエブル》を中に、控えて、開いて、屹《きっ》と向合ったと思召せ。  少《わか》い紳士《だんな》が慇懃《いんぎん》に、 (失礼ですが、立野竜三郎氏でいらっしゃいますか。) (さよう、お尋ねを蒙《こうむ》りました竜三郎、私《わたくし》であります。) (申しおくれました、私は村上|八百次郎《やおじろう》と申すものです。はじめてお目にかかります……唯今、名刺を。) (いや。)  と先生、卓子の上へ両手をずかと支《つ》いて、 (三年|前《ぜん》から、御尊名は、片時といえども相忘れません、出過ぎましたが、ほぼ、御訪問[#「訪問」は底本では「訪門」]に預りました御用向《ごようむき》も存じております。)  と、少《わか》いのが少し屹《きっ》となって、 (用向を御存じですか?) (まず、お掛け下さい。)  と先生は、ドカリと野天の椅子に掛けた。  何となく気色ばんだ双方の意気込が、殺気を帯びて四辺《あたり》を払った。この体《てい》を視た私《わっし》だ。むかし物語によくあります、峰の堂、山の祠《ほこら》で、怪しく凄《すご》い神たちが、神つどいにつどわせたという場所へ、破戒坊主が、はい蹲《つくば》ったという体で、可恐《おそろ》し可恐し、地蔵様の前に踞《しゃが》んで、こう、伏拝む形《なり》をして、密《そっ》と視たんで。  先生は更《あらた》めて、両手を卓子につき直して、 「――受信人、……狼温泉二葉屋方、村上縫子、発信人は尊名、貴姓であります。    コンニチゴゴツク。ヨウイ(今日午後着く。用意)」  と聞きも済まさず、若い紳士《だんな》は、斜《ななめ》に衝《つ》と開いて、身構えて、 (何、私信を見た上、用件を御承知になりましたな。) 「偏《ひとえ》に申訳をいたします。電報を扱います節、文字《もんじ》は拾いますが、文字は普通……拾いますが、職務の徳義として、文字は綴りましても、用件は記憶しません。しかるところ、唯今申上げました(コンニチゴゴツク、ヨウイ)で、不意に故障が起りました、幾度も接続を試みますうちに、うかと記憶に残ったのです。のち四時間、やっと電線が恢復《かいふく》して(ヨキカ)と受信しましたのです。謹んで謝罪いたします。」  と面《おもて》を上げ、乾《から》びた咳《せき》して、 「すなわち、受信人、狼温泉、二葉屋方、村上縫子。発信人、尊名、貴姓、すなわち、(今日午後着く。用意よきか。)」 (分りました。)  と静《しずか》に言う時、ふと見返った目が、私《わっし》に向いた、と一所にな……先生の眼《まなこ》も光りました。  怯《おび》えて立ったね、悚然《ぞっと》した。  荷を担いで、ひょうろ、ひょろ。  ようやく石段の中ほどで、吻《ほっ》と息をして立った処が、薄暮合《うすくれあい》の山の凄《すご》さ。……天秤かついだ己《うぬ》が形《なり》が、何でございますかね、天狗様の下男が清水を汲みに山一つ彼方《あなた》へといった体《てい》で、我ながら、余り世間離れがした心細さに、 (ほっ、)  と云ったが、声も、ふやける。肩をかえて性根だめしに、そこで一つ…… (鋳掛――錠前の直し。)――  何と――旦那。」        九 「……時に――雪の松明《たいまつ》が二|把《わ》。前後《あとさき》に次第に高くなって、白い梟《ふくろ》、化梟、蔦葛《つたかずら》が鳥の毛に見えます、その石段を攀《よ》じるのは、まるで幻影《まぼろし》の女体が捧げて、頂の松、電信柱へ、竜燈が上《あが》るんでございました。  上り果てた時分には、もう降っているのが止《や》みましたっけ。根雪に残るのじゃあございません、ほんの前触れで、一きよめ白くしましたので、ぼっとほの白く、薄鼠に、梟の頂が暗夜《やみ》に浮いて見えました。  苦しい時ばかりじゃあねえ。こんな時も神頼み、で、私《わっし》は崖縁《がけぶち》をひょいと横へ切れて、のしこと地蔵様の背後《うしろ》に蹲《しゃが》み込んで覗《のぞ》いたんで。石像のお袈裟《けさ》の前へは、真白《まっしろ》に吹掛けましたが、うしろは苔《こけ》のお法衣《ころも》のまま真黒《まっくろ》で、お顔が青うございましたよ。  大方いまの雪のために、先生も、客人も、天幕に引籠《ひきこも》ったんでございましょう。卓子《テエブル》ばかりで影もない。野天のその卓子が、雪で、それ大理石。――立派やかなお座敷にも似合わねえ、安火鉢の曲《ゆが》んだやつが転がるように出ていました。  その火鉢へ、二人が炬火《たいまつ》をさし込みましたわ。一ふさり臥《ふさ》って、柱のように根を持って、赫《かっ》と燃えます。その灯《あかり》で、早や出端《でばな》に立って出かかった先生方、左右の形は、天幕がそのままの巌石《がんせき》で、言わねえ事じゃあねえ、青くまた朱に刻みつけた、怪しい山神《さんじん》に、そっくりだね。  ツツとあとへ引いて、若い紳士《だんな》が、卓子に、さきの席を取って、高島田の天人を、 (縫子さん。)  と呼びました。  御婦人が、髪の吹流《ふきながし》を取った、気高い顔は、松明の火に活々《いきいき》と、その手拭で、お召のコオトの雪を払っていなすったけ、揺れて山茶花《さざんか》が散るようだ。 (立野さんに御挨拶をなさい。) (唯今。)  と静《しずか》に言って、例の背後《せなか》に掛けた竹の子笠を、紐を解いて、取りましたが、吹添って、風はあるのに、気で鎮めたかして、その笠が動きもしません。  卓子の脚に、お道さんのと重ねて置いて、 (貴方《あなた》――御機嫌よう。) (は。)  と先生は一言云ったきり、顔も上げないで、めり込むように深く卓子の端についた太い腕が震えたが、それより深いのは、若旦那の方の年紀《とし》とも言わない額に刻んだ幾筋かの皺《しわ》で、短く一分刈かと見える頭《つぶり》は、坊さんのようで、福々しく耳の押立《おった》って大《おおき》いのに、引締った口が窪んで、大きく見えるまで、げっそりと頬の肉が落ちている。 (夫人《おくさん》。)  と先生はうつむいたままで、 (再び、御機嫌のお顔を拝することを得まして、私《わたくし》一代の本懐です。生れつきの口不調法が、かく眼前《まのあたり》に、貴方のお姿に対しましては、何も申上げる言《ことば》を覚えません、ただしかし、唯今。)  と、よろめいて立って、椅子の手に縋《すが》りました。 (唯今、一言《ひとこと》御挨拶を申上げます。)  と天幕に入ると、提げて出た、卓子を引抱《ひっかか》えたようなものではない、千|仭《じん》の重さに堪えない体《てい》に、大革鞄を持った胸が、吐呼吸《といき》を浪に吐《つ》く。  それと見ると、簑《みの》を絞って棄てました、お道さんが手を添えながら、顔を見ながら、搦《から》んで、縺《もつ》れて、うっかりしたように手伝う姿は、かえって、あの、紫の片袖に魂が入って、革鞄を抜けたように見えました。  ずしりと、卓子の上に置くと、……先生は一足|退《さが》って、起立の形《なり》で、 (もはや、お二方に対しましては、……御夫婦に向いましては、立って身を支えるにも堪えません、一刻も早くこの人畜《にんちく》の行為《おこない》に対する、御制裁を待ちます。即時に御処分のほどを願います。)  若旦那が、 (よろしいか。)  とちと甘いほどな、この場合優しい声で、御夫人に言いました。 (はい。)  と、若奥様は潔い。  若旦那はまっすぐに立直って、 (立野さん。) (…………) (では、御要求をいたします。) (謹んで承ります、一点といえども相背きはいたしますまい。) (そこに、卓子の上に横にお置きなさいました、革鞄を、縦にまっすぐにお直し下さい。) (承知いたしました――いやいや罪人の手伝をしては、お道さん、汚《けが》れるぞ。)  と手伝を払って、しっかとその処へ据直す。 (立野さん。貴下《あなた》は革鞄の全形と折重《おりかさな》って、その容量を外れない範囲内にお立ち下さい。縫子が私の妻として、婚礼の日の途中、汽車の中で。)  と云う声が少し震えました。 (貴下に、その紫の袖を許しました、その責《せめ》に任ずるために、ここに短銃《ピストル》を所持しております、――その短銃をもってここに居て革鞄を打ちます。弾丸をもって錠前を射切《いき》るのです。錠前を射切《うちき》って、その片袖を――同棲三年間――まだ純真なる処女の身にして、私のために取返すんです。袖が返るとともに、更《あらた》めて結婚します。夫婦になります。が、勿論しかし、それが夫婦のものの、身の終結になるかも分りません。なぜと云うに、革鞄と同時に、兇器をもって貴下のお身体《からだ》に向うのです。万一お生命《いのち》を縮めるとなれば、私はその罪を負わねばならないのですから。それは勿論覚悟の前です……お察し下さい、これはほとんど私が生命を忘れ、世間を忘れ、甚しきは一|人《にん》の親をも忘れるまで、寝食を廃しまして、熟慮反省を重ねた上の決意なのです。はじめは貴方が、当時汽車の窓から赤城山の絶頂に向って御投棄てになったという、革鞄の鍵を、何《なん》とぞして、拾い戻して、その鍵を持ちながらお目にかかって、貴下の手から錠を解いて、縫のその袖を返して頂きたいと存じ、およそ半年、百日に亙《わた》りまして、狂と言われ、痴と言われ、愚と言われ、嫉妬《しっと》と言われ、じんすけと嘲《あざ》けられつつも、多勢《たぜい》の人数を狩集《かりあつ》めて、あの辺の汽車の沿道一帯を、粟《あわ》、蕎麦《そば》、稲を買求めて、草に刈り、芥《あくた》にむしり、甚しきは古塚の横穴を発《あば》いてまで、捜させました。流星のごとく天際に消えたのでしょう、一点似た釘も見当りません。――唯今……要求しますのは、その後《のち》の決心である事を諒《りょう》として下さいまし。縫もよくこの意を体して、三年の間、昼夜を分かず、的を射る修錬をいたしました。――最初、的をつくります時、縫がものさしを取って、革鞄の寸法を的に切りましたが、ここで実物を拝見しますと、その大《おおき》さと言い、錠前のある位置と言い、ほとんど寸分の違いもありません。……不思議です。……特に奇蹟と存じますのは、――家の地続きを劃《しき》って、的場を建てましたのですが、土地の様子、景色、一本の松の形、地蔵のあるまで。)  ――私《わっし》はすくんだね―― (夢のようによく似ています。……多分、皆お互に、こうした運命だと存じます。……短銃《ピストル》は特に外国に註文して、英国製の最優良なのを取寄せました。連発ですが、弾丸はただ一つしか籠《こ》めてありません、きっと仕損じますまい。しかし、御覚悟を下さいまし。――もっとも革鞄と重《かさな》ってお立ち下さいますのに、その間隔は、五|間《けん》、十間、あるいは百間、三百間、貴下《あなた》の、お心に任せます。要はただ、着弾距離をお離れになりません事です。) (一歩もここを動きません。)  先生は、拱《こまぬ》いた腕を解いて言いましたぜ。」  ――そうだろうと、私たちも思ったのである。        十 「堪《たま》らねえやね。お前さん。  私《わっし》あ猿坊《えてんぼ》のように、ちょろりと影を畝《うね》って這出《はいだ》して、そこに震えて立っている、お道姉さんの手に合鍵を押《おッ》つけた。早く早く、と口じゃあ言わねえが、袖を突いた。  ――若奥様の手が、もう懐中《ふところ》に入った時でございますよ。 (御免遊ばせ。)  と縋《すが》りつくように、伸上って、お道さんが鍵を合せ合せするのが、あせるから、ツルツルと二三度|辷《すべ》りました。 (ああ、ちょっと。)  と若奥様が、手で圧《おさ》えて、 (どうぞ……そればかりは。)  と清《すず》しく言います。この手二つが触ったものを、錠前の奴、がんとして、雪になっても消えなんだ。  舌の硬《こわ》ばったような先生が、 (飛んでもない事――お道さん。) (いいえ、構いません。)  と若旦那はきっぱりと、 (飛んでもない事ではありません。それが当然なのです。立野さん。貴下《あなた》が御自分でなくっても、貴下が許して、錠前をさえお開き下さるなら――方法は択《えら》びません。短銃《ピストル》なんぞ何になりましょう、私はそれで満足します。) (旦那様。)  と精一杯で、お道さんが、押留められた一つの手を、それなり先生の袖に縋って、無量の思《おもい》の目を凝らした。 (はあ、)  と落込むような大息して、先生の胸が崩れようとしますとな。 (貴方、……あの鍵が返りましたか。……優しい、お道さん、美しい、姉《ねえ》さん、……お優しい、お美しい姉さんに、貴方はもうお心が移りましたか。)  と云って、若奥様が熟《じっ》と視《み》ました。  先生が蒼くなって、両手でお道さんを押除《おしの》けながら、 (これは余所《よそ》の娘です、あわれな孤児《みなしご》です。)  とあとが消えた。 (決行なさい、縫子。) (…………) (打て、お打ちなさい。) (唯今。)  と肩を軽く斜めに落すと、コオトが、すっと脱げたんです。煽《あお》りもせぬのに気が立って、颯《さっ》と火の上る松明《たいまつ》より、紅《くれない》に燃立つばかり、緋《ひ》の紋縮緬《もんちりめん》の長襦袢《ながじゅばん》が半身に流れました。……袖を切ったと言う三年前《ぜん》の婚礼の日の曠衣裳《はれいしょう》を、そのままで、一方紫の袖の紋の揚羽の蝶は、革鞄に留まった友を慕って、火先にひらひらと揺れました。  若奥様が片膝ついて、その燃ゆる火の袖に、キラリと光る短銃《ピストル》を構えると、先生は、両方の膝に手を垂れて、目を瞑《つむ》って立ちました。 (お身代りに私が。)  とお道さんが、その前に立塞《たちふさ》がった。 「あ、危い、あなた。」  と若旦那が声を絞った。  若奥様は折敷いたままで、 (不可《いけ》ません――お道さん。) (いいえ、本望でございます。) (私が肯《き》きません。)  と若奥様が頭《かぶり》を掉《ふ》ります。 (貴方が、お肯き遊ばさねば、旦那様にお願い申上げます。こんな山家の女でも、心にかわりはござんせん、願《ねがい》を叶《かな》えて下さいまし。お情《なさけ》はうけませんでも、色も恋も存じております。もみじを御覧なさいまし、つれない霜にも血を染めます。私はただ活《い》きておりますより、旦那さんのかわりに死にたいのです。その方が嬉しいのです。こんな事があろうと思って、もう家を出ます時、なくなった母親の記念《かたみ》の裾模様を着て参りました。……手織木綿に前垂《まえだれ》した、それならば身分相応ですから、人様の前に出られます。時おくれの古い紋着《もんつき》、襦袢も帯もうつりません、あられもないなりをして、恋の仇《かたき》の奥様と、並んでここへ参りました。ふびんと思って下さいまし。ああ女は浅間しい、私にはただ一枚、母親の記念《かたみ》だけれど、奥様のお姿と、こんなはかないなりをくらべて、思う方の前に出るのは死ぬよりも辛うござんす。それさえ思い切りました。男のために死ぬのです。冥加《みょうが》に余って勿体ない。……ただ心がかりなは、私と同じ孤児《みなしご》の、時ちゃん―少年の配達夫―の事ですが、あの児《こ》も先生おもいですから、こうと聞いたら喜びましょう。)  若旦那の目にも、奥様にも、輝く涙が見えました。  先生は胸に大波を打たせながら、半ば串戯《じょうだん》にするように、手を取って、泣笑《なきわらい》をして、 (これ、馬鹿な、馬鹿な、ふふふ、馬鹿を事を。) (ええ、馬鹿な女でなくっては、こんなに旦那様の事を思いはしません。私は、馬鹿が嬉しゅうございます。) (弱った。これ、詰《つま》らん、そんな。) (お手間が取れます。) (さあ、お退《ど》き、これ、そっちへ。) (いいえ、いいえ。)  否々《いやいや》をして、頭《かぶり》をふって甘える肩を、先生が抱いて退《の》けようとするなり、くるりとうしろ向きになって、前髪をひしと胸に当てました。  呼吸《いき》を鎮《しず》めて、抱《いだ》いた腕を、ぐいと背中へ捲《ま》きましたが、 (お退《ど》きと云うに。――やあ、お道さんの御《おん》母君、御《ご》母堂、お記念《かたみ》の肉身と、衣類に対して失礼します、御許し下さい……御免。)  と云うと、抱倒して、 (ああれ。)  と震えてもがくのを、しかと片足に蹈据《ふみす》えて、仁王立《におうだち》にすっくと立った。 (用意は宜《よろ》しい。……縫子さん。) (…………) (…………) (さようなら……) (……さようなら、貴方。)  日光の御廟《おたまや》の天井に、墨絵の竜があって鳴きます、尾の方へ離れると音はしねえ、頤《あご》の下の低い処で手を叩くと、コリンと、高い天井で鳴りますので、案内者は、勝手に泣竜と云うのでございますが、同じ音で。――  コリンと響いたと思うと、先生の身体《からだ》は左右へふらふらして動いたが、不思議な事には倒れません。  南無三宝《なむさんぽう》。  片手づきに、白襟の衣紋《えもん》を外らして仰向《あおむ》きになんなすった、若奥様の水晶のような咽喉《のど》へ、口からたらたらと血が流れて、元結《もっとい》が、ぷつりと切れた。  トタンにな、革鞄の袖が、するすると抜けて落ちました。 (貴方……短銃《ピストル》を離しても、もう可《よ》うございますか。)  若旦那が跪《ひざまず》いてその手を吸うと、釣鐘を落したように、軽そうな手を柔かに、先生の膝に投げて、 (ああ、嬉しい。……立野さん、お道さん、短銃をそちらへ向けて打つような女とお思いなさいましたか。) (只今《ただいま》、立処《たちどころ》に自殺します。)  と先生の、手をついて言うのをきいて、かぶりを掉《ふ》って、櫛笄《くしこうがい》も、落ちないで、乱れかかる髪をそのまま莞爾《にっこり》して、 (いいえ、百万年の後《のち》に……また、お目にかかります。お二方に、これだけに思われて、縫は世界中のしあわせです――貴方、お詫《わび》は、あの世から……)  最後の言葉でございました。」 「お道さんが銀杏返《いちょうがえし》の針を抜いて、あの、片袖を、死骸の袖に縫つけました。  その間、膝にのせて、胸に抱いて、若旦那が、お縫さんの、柔かに投げた腕《かいな》を撫で、撫で、 (この、清い、雪のような手を見て下さい。私の偏執と自我と自尊と嫉妬のために、詮《せん》ずるに烈《はげ》しい恋のために、――三年の間、夜《よ》に、日に、短銃《ピストル》を持たせられた、血を絞り、肉を刻み、骨を砂利にするような拷掠《ごうりゃく》に、よくもこの手が、鉄にも鉛にもなりませんでした。ああ、全く魔のごとき残虐にも、美しいものは滅びません。私は慚愧《ざんき》します。しかし、貴下《あなた》と縫子とで、どんなにもお話合のつきますように、私に三日先立って、縫子をこちらによこしました、それに、あからさまに名を云って、わざと電報を打ちました。……貴下《あなた》を当電信局員と存じましていたした事です。とにかく私の心も、身の果《はて》も、やがて、お分りになりましょう。)  と、いいいい、地蔵様の前へ、男が二人で密《そっ》と舁《かつ》ぐと、お道さんが、笠を伏せて、その上に帯を解いて、畳んで枕にさせました。  私《わっし》も十本の指を、額に堅く組んで頂いて拝んだ。  そこらの木の葉を、やたらに火鉢にくべながら…… (失礼、支度をいたしますから。)  若旦那がするすると松の樹の処へ行《ゆ》きます。  そこで内証で涙を払うのかと偲うと、肩に一揺《ひとゆす》り、ゆすぶりをくれるや否や、切立《きったて》の崖の下は、剣《つるぎ》を植えた巌《いわ》の底へ、真逆様《まっさかさま》。霧の海へ、薄ぐろく、影が残って消えません。  ――旦那方。  先生を御覧なせえ、いきなりうしろからお道さんの口へ猿轡《さるぐつわ》を嵌《は》めましたぜ。――一人は放さぬ、一所に死のうと悶《もだ》えたからで。――それをね、天幕《テント》の中へ抱入れて、電信事務の卓子《テエブル》に向けて、椅子にのせて、手は結《ゆわ》えずに、腰も胸も兵児帯でぐるぐる巻だ。 (時夫の来るまで……)  そう言って、石段へずッと行《ゆ》く。  私《わっし》は下口《おりくち》まで追掛《おっか》けたが、どうして可《い》いか、途方にくれてくるくる廻った。  お道さんが、さんばら髪に肩を振って、身悶えすると、消えかかった松明が赫《かッ》と燃えて、あれあれ、女の身の丈に、めらめらと空へ立った。  先生の身体《からだ》が、影のように帰って来て、いましめを解くと一所に、五体も溶けたようなお道さんを、確《しか》と腕に抱きました。  いや何とも……酔った勢いで話しましたが、その人たちの事を思うと、何とも言いようがねえ。  実は、私《わっし》と云うものは……若奥様には内証だが、その高崎の旦那に、頼まれまして、技師の方が可《い》い、とさえと一言《ひとこと》云えば、すぐに合鍵を拵《こしら》えるように、道中お抱えだったので。……何、鍵までもありゃしません。――天幕でお道さんが相談をしました時、寸法を見るふりをして、錠は、はずしておいたんでございますのに――  皆、何とも言いようがねえ、見てござった地蔵様にも手のつけようがなかったに違えねえ。若旦那のお心持も察して上げておくんなせえ。  あくる日|岨道《そばみち》を伝いますと、山から取った水樋《みずどよ》が、空を走って、水車《みずぐるま》に颯《さっ》と掛《かか》ります、真紅《まっか》な木の葉が宙を飛んで流れましたっけ、誰の血なんでございましょう。」 [#ここから6字下げ] (峰の白雪|麓《ふもと》の氷    今は互に隔てていれど) [#ここで字下げ終わり]  あとで、鋳掛屋に立山を聴いた――追善の心である。皆涙を流した……座は通夜のようであった。  姨捨山の月霜にして、果《はてし》なき谷の、暗き靄《もや》の底に、千曲川は水晶の珠数の乱るるごとく流れたのである。 [#地から1字上げ]大正九(一九二〇)年十二月 底本:「泉鏡花集成6」ちくま文庫、筑摩書房    1996(平成8)年3月21日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第二十卷」岩波書店    1941(昭和16)年5月20日発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、「安達《あだち》ヶ原」「梟《ふくろ》ヶ|嶽《たけ》」は小振りに、「焼《やけ》ヶ嶽」は大振りにつくっています。 ※誤植の確認には底本の親本を参照しました。 入力:門田裕志 校正:高柳典子 2007年2月11日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。