陽炎座 泉鏡花 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)帽子《あたま》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)一枚|小袖《こそで》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)徜徉《さまよう》 -------------------------------------------------------        一 「ここだ、この音なんだよ。」  帽子《あたま》も靴も艶々《てらてら》と光る、三十ばかりの、しかるべき会社か銀行で当時若手の利《き》けものといった風采《ふう》。一ツ、容子《ようす》は似つかわしく外国語で行こう、ヤングゼントルマンというのが、その同伴《つれ》の、――すらりとして派手に鮮麗《あざやか》な中に、扱帯《しごき》の結んだ端、羽織の裏、褄《つま》はずれ、目立たないで、ちらちらと春風にちらめく処々《ところどころ》に薄《うっす》りと蔭がさす、何か、もの思《おもい》か、悩《なやみ》が身にありそうな、ぱっと咲いて浅く重《かさな》る花片《はなびら》に、曇《くもり》のある趣に似たが、風情は勝る、花の香はその隈《くま》から、幽《かすか》に、行違《ゆきちが》う人を誘うて時めく。薫《かおり》を籠《こ》めて、藤、菖蒲《あやめ》、色の調う一枚|小袖《こそで》、長襦袢《ながじゅばん》。そのいずれも彩糸《いろいと》は使わないで、ひとえに浅みどりの柳の葉を、針で運んで縫ったように、姿を通して涼しさの靡《なび》くと同時に、袖にも褄にもすらすらと寂しの添った、痩《や》せぎすな美しい女《ひと》に、――今のを、ト言掛けると、婦人《おんな》は黙って頷《うなず》いた。  が、もう打頷く咽喉《のど》の影が、半襟の縫の薄紅梅《うすこうばい》に白く映る。……  あれ見よ。この美しい女《ひと》は、その膚《はだえ》、その簪《かんざし》、その指環《ゆびわ》の玉も、とする端々|透通《すきとお》って色に出る、心の影がほのめくらしい。 「ここだ、この音なんだよ。」  婦人《おんな》は同伴《つれ》の男にそう言われて、時に頷いたが、傍《かたわら》でこれを見た松崎と云う、絣《かすり》の羽織で、鳥打を被《かぶ》った男も、共に心に頷いたのである。 「成程これだろう。」  但し、松崎は、男女《なんにょ》、その二人の道ずれでも何でもない。当日ただ一人で、亀井戸《かめいど》へ詣《もう》でた帰途《かえり》であった。  住居《すまい》は本郷。  江東橋《こうとうばし》から電車に乗ろうと、水のぬるんだ、草萌《くさもえ》の川通りを陽炎《かげろう》に縺《もつ》れて来て、長崎橋を入江町に掛《かか》る頃から、どこともなく、遠くで鳴物の音が聞えはじめた。  松崎は、橋の上に、欄干に凭《もた》れて、しばらく彳《たたず》んで聞入ったほどである。  ちゃんちきちき面白そうに囃《はや》すかと思うと、急に修羅太鼓《しゅらだいこ》を摺鉦《すりがね》交《まじ》り、どどんじゃじゃんと鳴らす。亀井戸寄りの町中《まちなか》で、屋台に山形の段々染《だんだらぞめ》、錣頭巾《しころずきん》で、いろはを揃えた、義士が打入りの石版絵を張廻わして、よぼよぼの飴屋《あめや》の爺様《じさま》が、皺《しわ》くたのまくり手で、人寄せにその鉦《かね》太鼓を敲《たた》いていたのを、ちっと前《さき》に見た身にも、珍らしく響いて、気をそそられ、胸が騒ぐ、ばったりまた激しいのが静まると、ツンツンテンレン、ツンツンテンレン、悠々とした糸が聞えて、……本所駅へ、がたくた引込《ひっこ》む、石炭を積んだ大八車の通るのさえ、馬士《まご》は銜煙管《くわえぎせる》で、しゃんしゃんと轡《くつわ》が揺れそうな合方となる。  絶えず続いて、音色《ねいろ》は替っても、囃子《はやし》は留まらず、行交《ゆきか》う船脚は水に流れ、蜘蛛手《くもで》に、角《つの》ぐむ蘆《あし》の根を潜《くぐ》って、消えるかとすれば、ふわふわと浮く。浮けば蝶の羽《は》の上になり下になり、陽炎《かげろう》に乗って揺れながら近づいて、日当《ひあたり》の橋の暖い袂《たもと》にまつわって、ちゃんちき、などと浮かれながら、人の背中を、トンと一つ軽く叩いて、すいと退《の》いて、  ――おいで、おいで――  と招いていそうで。  手に取れそうな近い音。  はっ、とその手を出すほどの心になると、橋むこうの、屋根を、ひょいひょいと手踊り雀、電信柱に下向きの傾《かたが》り燕、一羽気まぐれに浮いた鴎《かもめ》が、どこかの手飼いの鶯《うぐいす》交りに、音を捕うる人心《ひとごころ》を、はッと同音に笑いでもする気勢《けはい》。  春たけて、日遅く、本所は塵《ちり》の上に、水に浮《うか》んだ島かとばかり、都を離れて静《しずか》であった。  屋根の埃《ほこり》も紫雲英《げんげ》の紅《くれない》、朧《おぼろ》のような汽車が過《よ》ぎる。  その響きにも消えなかった。        二  松崎は、――汽車の轟《とどろ》きの下にも埋れず、何等か妨げ遮るものがあれば、音となく響きとなく、飜然《ひらり》と軽く体を躱《か》わす、形のない、思いのままに勝手な音《ね》の湧出《わきい》ずる、空を舞繞《まいめぐ》る鼓に翼あるものらしい、その打囃《うちはや》す鳴物が、――向って、斜違《すじかい》の角を広々と黒塀で取廻わした片隅に、低い樹立《こだち》の松を洩《も》れて、朱塗《しゅぬり》の堂の屋根が見える、稲荷様《いなりさま》と聞いた、境内に、何か催しがある……その音であろうと思った。  けれども、欄干に乗出して、も一つ橋越しに透かして見ると、門は寝静《ねしずま》ったように鎖《とざ》してあった。  いつの間にか、トチトチトン、のんきらしい響《ひびき》に乗って、駅と書いた本所|停車場《ステイション》の建札も、駅《うまや》と読んで、白日、菜の花を視《なが》むる心地。真赤《まっか》な達磨《だるま》が逆斛斗《さかとんぼ》を打った、忙がしい世の麺麭屋《パンや》の看板さえ、遠い鎮守の鳥居めく、田圃道《たんぼみち》でも通る思いで、江東橋の停留所に着く。  空《あ》いた電車が五台ばかり、燕が行抜けそうにがらんとしていた。  乗るわ、降りるわ、混合《こみあ》う人数《にんず》の崩るるごとき火水の戦場往来の兵《つわもの》には、余り透いて、相撲最中の回向院《えこういん》が野原にでもなったような電車の体《てい》に、いささか拍子抜けの形で、お望み次第のどれにしようと、大分|歩行《ある》き廻った草臥《くたびれ》も交って、松崎はトボンと立つ。  例の音は地《じ》の底から、草の蒸さるるごとく、色に出《い》で萌《も》えて留まらぬ。 「狸囃子《たぬきばやし》と云うんだよ、昔から本所の名物さ。」 「あら、嘘ばっかり。」  ちょうどそこに、美しい女《ひと》と、その若紳士が居合わせて、こう言《ことば》を交わしたのを松崎は聞取った。  さては空音《そらね》ではないらしい。  若紳士が言ったのは、例の、おいてけ堀、片葉の蘆《あし》、足洗い屋敷、埋蔵《うめぐら》の溝《どぶ》、小豆婆《あずきばば》、送り提燈《ぢょうちん》とともに、土地の七不思議に数えられた、幻の音曲である。  言った方も戯《たわむれ》に、聞く女《ひと》も串戯《じょうだん》らしく打消したが、松崎は、かえって、うっかりしていた伝説《いいつたえ》を、夢のように思出した。  興ある事かな。  日は永し。  今宮辺の堂宮の絵馬を見て暮したという、隙《ひま》な医師《いしゃ》と一般、仕事に悩んで持余《もてあま》した身体《からだ》なり、電車はいつでも乗れる。  となると、家へ帰るにはまだ早い。……どうやら、橋の上で聞いたよりは、ここへ来ると、同じ的の無い中《うち》にも、囃子の音が、間近に、判然《はっきり》したらしく思われる。一つは、その声の響くのは、自分ばかりでない事を確めたせいであろう。  その上、世を避けた仙人が碁《ご》を打つ響きでもなく、薄隠《すすきがく》れの女郎花《おみなえし》に露の音信《おとず》るる声でもない……音色《ねいろ》こそ違うが、見世《みせ》ものの囃子と同じく、気をそそって人を寄せる、鳴ものらしく思うから、傾く耳の誘わるる、寂しい横町へ電車を離れた。  向って日南《ひなた》の、背後《うしろ》は水で、思いがけず一本の菖蒲《あやめ》が町に咲いた、と見た。……その美しい女《ひと》の影は、分れた背中にひやひやと染《し》む。……  と、チャンチキ、チャンチキ、嘲《あざ》けるがごとくに囃す。……  がらがらと鳴って、電車が出る。突如として、どどん、じゃん、じゃん。――ぶらぶら歩行《ある》き出すと、ツンツンテンレン、ツンツンテンレン。        三  片側はどす黒い、水の淀《よど》んだ川に添い、がたがたと物置が並んで、米俵やら、筵《むしろ》やら、炭やら、薪《まき》やら、その中を蛇が這《は》うように、ちょろちょろと鼠が縫い行く。  あの鼠が太鼓をたたいて、鼬《いたち》が笛を吹くのかと思った。……人通り全然《まるで》なし。  片側は、右のその物置に、ただ戸障子を繋合《つなぎあ》わせた小家《こいえ》続き。で、一二軒、八百屋、駄菓子屋の店は見えたが、鴉《からす》も居《お》らなければ犬も居らぬ。縄暖簾《なわのれん》も居酒屋めく米屋の店に、コトンと音をさせて鶏が一羽|歩行《ある》いていたが、通りかかった松崎を見ると、高らかに一声鳴いた。  太陽《ひ》はたけなわに白い。  颯《さっ》と、のんびりした雲から落《おち》かかって、目に真蒼《まっさお》に映った、物置の中の竹屋の竹さえ、茂った山吹の葉に見えた。  町はそこから曲る。  と追分で路《みち》が替って、木曾街道へ差掛《さしかか》る……左右戸毎《まていえなみ》の軒行燈《のきあんどん》。  ここにも、そこにも、ふらふらと、春の日を中《うち》へ取って、白く点《ひとも》したらしく、真昼浮出て朦《もう》と明るい。いずれも御泊り木賃宿《きちんやど》。  で、どの家も、軒より、屋根より、これが身上《しんしょう》、その昼行燈ばかりが目に着く。中《うち》には、廂先《ひさしさき》へ高々と燈籠《とうろう》のごとくに釣った、白看板の首を擡《もた》げて、屋台骨は地《つち》の上に獣《けもの》のごとく這ったのさえある。  吉野、高橋、清川、槙葉《まきは》。寝物語や、美濃《みの》、近江《おうみ》。ここにあわれを留《とど》めたのは屋号にされた遊女《おいらん》達。……ちょっと柳が一本《ひともと》あれば滅びた白昼の廓《くるわ》に斉《ひと》しい。が、夜寒《よさむ》の代《しろ》に焼尽して、塚のしるしの小松もあらず……荒寥《こうりょう》として砂に人なき光景《ありさま》は、祭礼《まつり》の夜《よ》に地震して、土の下に埋れた町の、壁の肉も、柱の血も、そのまま一落の白髑髏《しゃれこうべ》と化し果てたる趣あり。  絶壁の躑躅《つつじ》と見たは、崩れた壁に、ずたずたの襁褓《おむつ》のみ、猿曵《さるひき》が猿に着せるのであろう。  生命《いのち》の搦《から》む桟橋《かけはし》から、危《あやう》く傾いた二階の廊下に、日も見ず、背後《うしろ》むきに鼠の布子《ぬのこ》の背《せな》を曲げた首の色の蒼《あお》い男を、フト一人見附けたが、軒に掛けた蜘蛛《くも》の囲《い》の、ブトリと膨れた蜘蛛の腹より、人間は痩《や》せていた。  ここに照る月、輝く日は、兀《は》げた金銀の雲に乗った、土御門家《つちみかどけ》一流易道、と真赤《まっか》に目立った看板の路地から糶出《せりだ》した、そればかり。  空を見るさえ覗《のぞ》くよう、軒行燈の白いにつけ、両側の屋根は薄暗い。  この春の日向《ひなた》の道さえ、寂《さ》びれた町の形さえ、行燈に似て、しかもその白けた明《あかり》に映る……  表に、御泊りとかいた字の、その影法師のように、町幅の真《まっ》ただ中とも思う処に、曳棄《ひきす》てたらしい荷車が一台、屋台を乗せてガタリとある。  近《ちかづ》いて見ると、いや、荷の蔭に人が居た。  男か、女か。  と、見た体《てい》は、褪《あ》せた尻切《しりきり》の茶の筒袖《つつッぽ》を着て、袖を合わせて、手を拱《こまぬ》き、紺の脚絆穿《きゃはんばき》、草鞋掛《わらじがけ》の細い脚を、車の裏へ、蹈揃《ふみそろ》えて、衝《つ》と伸ばした、抜衣紋《ぬきえもん》に手拭《てぬぐい》を巻いたので、襟も隠れて見分けは附かぬ。編笠、ひたりと折合わせて、紐《ひも》を深く被《かぶ》ったなりで、がっくりと俯向《うつむ》いたは、どうやら坐眠《いねむ》りをしていそう。  城の縄張りをした体《てい》に、車の轅《え》の中へ、きちんと入って、腰は床几《しょうぎ》に落したのである。  飴屋《あめや》か、豆屋か、団子を売るか、いずれにも荷が勝った……おでんを売るには乾いている、その看板がおもしろい。……        四  屋台の正面を横に見せた、両方の柱を白木綿で巻立てたは寂しいが、左右へ渡して紅金巾《べにがなきん》をひらりと釣った、下に横長な掛行燈《かけあんどん》。 [#ここから4字下げ] 一………………………………坂東よせ鍋《なべ》 一………………………………尾上天麩羅《おのえてんぷら》 一………………………………大谷おそば 一………………………………市川玉子焼 一………………………………片岡 椀盛《わんもり》 一………………………………嵐  お萩 一………………………………坂東あべ川 一………………………………市村しる粉 一………………………………沢村さしみ 一………………………………中村 洋食 [#ここで字下げ終わり]  初日出揃い役者役人車輪に相勤め申候  名の上へ、藤の花を末濃《すそご》の紫。口上あと余白の処に、赤い福面女《おかめ》に、黄色な瓢箪男《ひょっとこ》、蒼《あお》い般若《はんにゃ》の可恐《こわ》い面。黒の松葺《まつたけ》、浅黄の蛤《はまぐり》、ちょっと蝶々もあしらって、霞を薄くぼかしてある。  引寄せられて慕って来た、囃子の音には、これだけ気の合ったものは無い。が、松崎は読返してみて苦笑いした。  坂東あべ川、市村しるこ、渠《かれ》はあまい名を春狐《しゅんこ》と号して、福面女に、瓢箪男、般若の面、……二十五座の座附きで駈出《かけだ》しの狂言方であったから。―― 「串戯《じょうだん》じゃないぜ。」  思わず、声を出して独言《ひとりごと》。 「親仁《おとっ》さん、おう、親仁さん。」  なぞのものぞ、ここに木賃の国、行燈の町に、壁を抜出た楽がきのごとく、陽炎に顕《あらわ》れて、我を諷《ふう》するがごとき浅黄の頭巾《ずきん》は?……  屋台の様子が、小児《こども》を対手《あいて》で、新粉細工を売るらしい。片岡牛鍋、尾上天麩羅、そこへ並べさせてみよう了簡《りょうけん》。 「おい、お爺《じ》い。」 と閑《ひま》なあまりの言葉がたき。わざと中《ちゅう》ッ腹に呼んでみたが、寂寞《じゃくまく》たる事、くろんぼ同然。  で、操《あやつり》の糸の切れたがごとく、手足を突張《つっぱ》りながら、ぐたりと眠る……俗には船を漕《こ》ぐとこそ言え、これは筏《いかだ》を流す体《てい》。  それに対して、そのまま松崎の分《わか》った袂《たもと》は、我ながら蝶が羽繕いをする心地であった。  まだ十歩と離れぬ。  その物売の、布子の円い背中なぞへ、同じ木賃宿のそこが歪《ゆが》みなりの角から、町幅を、一息、苗代形に幅の広くなった処があって、思いがけず甍《いらか》の堆《うずたか》い屋形が一軒。斜《ななめ》に中空をさして鯉《こい》の鱗《うろこ》の背を見るよう、電信柱に棟の霞んで聳《そび》えたのがある。  空屋か、知らず、窓も、門《かど》も、皮をめくった、面に斉《ひと》しく、大《おおき》な節穴が、二ツずつ、がッくり窪《くぼ》んだ眼《まなこ》を揃えて、骸骨《がいこつ》を重ねたような。  が、月には尾花か、日向《ひなた》の若草、廂《ひさし》に伸びたも春めいて、町から中へ引込んだだけ、生ぬるいほどほかほかする。  四辺《あたり》に似ない大構えの空屋に、――二間ばかりの船板塀《ふないたべい》が水のぬるんだ堰《いせき》に見えて、その前に、お玉杓子《たまじゃくし》の推競《おしくら》で群る状《さま》に、大勢|小児《こども》が集《たか》っていた。  おけらの虫は、もじゃもじゃもじゃと皆|動揺《どよ》めく。  その癖静まって声を立てぬ。  直《じ》きその物売の前に立ちながら、この小さな群集の混合ったのに気が附かなかったも道理こそ、松崎は身に染みた狂言最中見ぶつのひっそりした桟敷《さじき》うらを来たも同じだと思った。  役者は舞台で飛んだり、刎《は》ねたり、子供芝居が、ばたばたばた。        五  大当り、尺的《しゃくまと》に矢の刺《ささ》っただけは新粉屋の看板より念入なり。一面藤の花に、蝶々まで同じ絵を彩った一張の紙幕を、船板塀の木戸口に渡して掛けた。正面前の処へ、破筵《やれむしろ》を三枚ばかり、じとじとしたのを敷込んだが、日に乾くか、怪《あやし》い陽炎となって、むらむらと立つ、それが舞台。  取巻いた小児《こども》の上を、鮒《ふな》、鯰《なまず》、黒い頭、緋鯉《ひごい》と見たのは赤い切《きれ》の結綿仮髪《ゆいわたかつら》で、幕の藤の花の末を煽《あお》って、泳ぐように視《なが》められた。が、近附いて見ると、坂東、沢村、市川、中村、尾上、片岡、役者の連名も、如件《くだんのごとし》、おそば、お汁粉、牛鍋なんど、紫の房の下に筆ぶとに記してあった……  松崎が、立寄った時、カイカイカイと、ちょうど塀の内で木が入って、紺の衣服《きもの》に、黒い帯した、円い臀《しり》が、蹠《かかと》をひょい、と上げて、頭からその幕へ潜ったのを見た。――筵舞台は行儀わるく、両方へ歪《ゆが》んだが。  半月形に、ほかほかとのぼせた顔して、取廻わした、小さな見物、わやわやとまた一動揺《ひとどよめき》。  中に、目の鋭い屑屋《くずや》が一人、箸《はし》と籠《かご》を両方に下げて、挟んで食えそうな首は無しか、とじろじろと睨廻《ねめま》わす。  もう一人、袷《あわせ》の引解《ひっと》きらしい、汚れた縞《しま》の単衣《ひとえ》ものに、綟《よ》綟れの三尺で、頬被《ほおかぶ》りした、ずんぐり肥《ふと》った赤ら顔の兄哥《あにい》が一人、のっそり腕組をして交《まじ》る……  二人ばかり、十二三、四五ぐらいな、子守の娘《ちび》が、横ちょ、と猪首《いくび》に小児《こども》を背負《しょ》って、唄も唄わず、肩、背を揺《ゆす》る。他は皆、茄子《なすび》の蔓《つる》に蛙の子。  楽屋――その塀の中《うち》で、またカチカチと鳴った。  処へ、通《とおり》から、ばらばらと駈《か》けて来た、別に二三人の小児を先に、奴《やっこ》を振らせた趣で、や! あの美しい女《ひと》と、中折《なかおれ》の下に眉の濃い、若い紳士と並んで来たのは、浮世の底へ霞を引いて、天降《あまくだ》ったように見えた。  ここだ、この音だ――と云ったその紳士の言《ことば》を聞いた、松崎は、やっぱり渠等《かれら》も囃子の音に誘われて、男女《なんにょ》のどちらが言出したか、それは知らぬが、連立って、先刻《さっき》の電車の終点から、ともに引寄せられて来たものだと思った。  時に、その二人も、松崎も、大方この芝居の鳴物が、遠くまで聞えたのであろうと頷《うなず》く……囃子はその癖、ここに尋ね当った現下《いま》は何も聞えぬ。……  絵の藤の幕間《まくあい》で、木は入ったが舞台は空しい。 「幕が長いぜ、開けろい。遣《や》らねえか、遣らねえか。」  とずんぐり者の頬被《ほおかぶり》は肩を揺《ゆす》った。が、閉ったばかり、いささかも長い幕間でない事が、自分にも可笑《おか》しいか、鼻先《はなっさき》の手拭《てぬぐい》の結目《むすびめ》を、ひこひこと遣って笑う。  様子が、思いも掛けず、こんな場所、子供芝居の見物の群《むれ》に来た、美しい女《ひと》に対して興奮したものらしい。  実際、雲の青い山の奥から、淡彩《うすいろどり》の友染《ゆうぜん》とも見える、名も知れない一輪の花が、細谷川を里近く流れ出《い》でて、淵《ふち》の藍《あい》に影を留めて人目に触れた風情あり。石斑魚《うぐい》が飛んでも松葉が散っても、そのまま直ぐに、すらすらと行方も知れず流れよう、それをしばらくでも引留めるのは、ただちっとも早く幕を開ける外はない、と松崎の目にも見て取られた。 「頼むぜ頭取。」  頬被《ほおかぶり》がまた喚《わめ》く。        六  あたかもその時、役者の名の余白に描いた、福面女《おかめ》、瓢箪男《ひょっとこ》の端をばさりと捲《まく》ると、月代《さかやき》茶色に、半白《ごましお》のちょん髷仮髪《まげかつら》で、眉毛の下《さが》った十ばかりの男の児《こ》が、渋団扇《しぶうちわ》[#「団扇」は底本では「団扉」]の柄を引掴《ひッつか》んで、ひょこりと登場。 「待ってました。」  と頬被が声を掛けた。  奴《やっこ》は、とぼけた目をきょろんと遣《や》ったが、 「ちぇ、小道具め、しようがねえ。」  と高慢な口を利いて、尻端折《しりはしょ》りの脚をすってん、刎《は》ねるがごとく、二つ三つ、舞台をくるくると廻るや否や、背後《うしろ》向きに、ちょっきり結びの紺兵児《こんへこ》の出尻《でっちり》で、頭から半身また幕へ潜《くぐ》ったが、すぐに摺抜《すりぬ》けて出直したのを見れば、うどん、当り屋とのたくらせた穴だらけの古行燈《ふるあんどん》を提げて出て、筵《むしろ》の上へ、ちょんと直すと、奴《やっこ》はその蔭で、膝を折って、膝開《ひざはだ》けに踏張《ふんば》りながら、件《くだん》の渋団扇で、ばたばたと煽《あお》いで、台辞《せりふ》。 「米が高値《たか》いから不景気だ。媽々《かかあ》めにまた叱られべいな。」  でも、ちょっと含羞《はにか》んだか、日に焼けた顔を真赤《まっか》に俯向《うつむ》く。同じ色した渋団扇、ばさばさばさ、と遣った処は巧緻《うま》いものなり。 「いよ、牛鍋。」と頬被。  片岡牛鍋と云うのであろう、が、役は饂飩屋《うどんや》の親仁《おやじ》である。  チャーン、チャーン……幕の中《うち》で鉦《かね》を鳴らす。  ――迷児《まいご》の、迷児の、迷児やあ――  呼ばわり連れると、ひょいひょいと三人出た……団粟《どんぐり》ほどな背丈を揃えて、紋羽《もんば》の襟巻を頸《くび》に巻いた大屋様。月代《さかやき》が真青《まっさお》で、鬢《びん》の膨れた色身《いろみ》な手代、うんざり鬢の侠《いさみ》が一人、これが前《さき》へ立って、コトン、コトンと棒を突く。 「や、これ、太吉さん、」  と差配様《おおやさま》声を掛ける。中の青月代《あおさかやき》が、提灯《ちょうちん》を持替えて、 「はい、はい。」と返事をした。が、界隈《かいわい》の荒れた卵塔場から、葬礼《とむらい》あとを、引攫《ひっさら》って来たらしい、その提灯は白張《しらはり》である。  大屋は、カーンと一つ鉦《かね》を叩いて、 「大分|夜《よ》が更けました。」 「亥刻《いのこく》過ぎでございましょう、……ねえ、頭《かしら》。」 「そうよね。」  と棒をコツン、で、くすくすと笑う。 「笑うな、真面目《まじめ》に真面目に、」と頬被がまた声を掛ける。  差配様が小首を傾け、 「時に、もし、迷児、迷児、と呼んで歩行《ある》きますが、誰某《だれそれ》と名を申して呼びませいでも、分りますものでござりましょうかね。」 「私《わっし》もさ、思ってるんで。……どうもね、ただこう、迷児と呼んだんじゃ、前方《さき》で誰の事だか見当が附くめえてね、迷児と呼ばれて、はい、手前でござい、と顔を出す奴《やつ》もねえもんでさ。」とうんざり鬢が引取って言う。 「まずさね……それで闇《くら》がりから顔を出せば、飛んだ妖怪《ばけもの》でござりますよ。」  青月代の白男《しろおとこ》が、袖を開いて、両方を掌《て》で圧《おさ》え、 「御道理《ごもっとも》でございますとも。それがでございますよ。はい、こうして鉦太鼓で探捜《さがし》に出ます騒動ではございますが、捜されます御当人の家《うち》へ、声が聞えますような近い所で、名を呼びましては、表向《おもてむき》の事でも極《きまり》が悪うございましょう。それも小児《こども》や爺婆《じじばば》ならまだしも、取って十九という妙齢《としごろ》の娘の事でございますから。」  と考え考え、切れ切れに台辞を運ぶ。  その内も手を休めず、ばっばっと赤い団扇、火が散るばかり、これは鮮明《あざやか》。        七  青月代は辿々《たどたど》しく、 「で、ございますから、遠慮をしまして、名は呼びません、でございましたが、おっしゃる通り、ただ迷児迷児と喚《わめ》きました処で分るものではございません。もう大分町も離れました、徐々《そろそろ》娘の名を呼びましょう。」 「成程々々、御心附至極の儀。そんなら、ここから一つ名を呼んで捜す事にいたしましょう。頭《かしら》、音頭を願おうかね。」 「迷児の音頭は遣《や》りつけねえが、ままよ。……差配《おおや》さん、合方だ。」  チャーンと鉦《かね》の音《ね》。 「お稲《いな》さんやあ、――トこの調子かね。」 「結構でございますね、差配さん。」  差配はも一つ真顔でチャーン。 「さて、呼声に名が入《い》りますと、どうやら遠い処で、幽《かすか》に、はあい……」と可哀《あわれ》な声。 「変な声だあ。」  と頭《かしら》は棒を揺《ゆす》って震える真似する。 「この方、総入歯で、若い娘の仮声《こわいろ》だちね。いえさ、したが何となく返事をしそうで、大《おおき》に張合が着きましたよ。」 「その気で一つ伸《の》しましょうよ。」  三人この処で、声を揃えた。チャーン―― 「――迷児の、迷児の、お稲さんやあ……」  と一列《ひとなら》び、筵《むしろ》の上を六尺ばかり、ぐるりと廻る。手足も小さく仇《あど》ない顔して、目立った仮髪《かつら》の髷《まげ》ばかり。麦藁細工《むぎわらざいく》が化けたようで、黄色の声で長《ま》せた事、ものを云う笛を吹くか、と希有《けぶ》に聞える。  美しい女《ひと》は、すっと薄色の洋傘《パラソル》を閉めた……ヴェールを脱いだように濃い浅黄の影が消える、と露の垂りそうな清《すずし》い目で、同伴《つれ》の男に、ト瞳を注ぎながら舞台を見返す……その様子が、しばらく立停《たちどま》ろうと云うらしかった。 「鍋焼饂飩《なべやきうどん》…」  と高らかに、舞台で目を眠るまで仰向《あおむ》いて呼んだ。 「……ああ、腹が空いた、饂飩屋。」 「へいへい、頭《かしら》、難有《ありがと》うござります。」  うんざり鬢《びん》は額を叩いて、 「おっと、礼はまだ早かろう。これから相談だ。ねえ、太吉さん、差配さん、ちょっぴり暖まって、行こうじゃねえかね。」 「賛成。」  と見物の頬被りは、反《そり》を打って大《おおい》に笑う。  仕種《しぐさ》を待構えていた、饂飩屋小僧は、これから、割前《わりまえ》の相談でもありそうな処を、もどかしがって、 「へい、お待遠様で。」と急いで、渋団扇で三人へ皆配る。 「早いんだい、まだだよ。」  と差配になったのが地声で甲走《かんばし》った。が、それでも、ぞろぞろぞろぞろと口で言い言い三人、指二本で掻込《かっこ》む仕形《しかた》。 「頭《かしら》、……御町内様も御苦労様でございます。お捜しなさいますのは、お子供衆で?」 「小児なものかね、妙齢《としごろ》でございますよ。」  と青月代が、襟を扱《しご》いて、ちょっと色身で応答《あしら》う。 「へい、お妙齢、殿方でござりますか、それともお娘御で。」 「妙齢の野郎と云う奴があるもんか、初厄の別嬪《べっぴん》さ。」と頭《かしら》は口で、ぞろりぞろり。 「ああ、さて、走り人《びと》でござりますの。」 「はしり人というのじゃないね、同じようでも、いずれ行方は知れんのだが。」  と差配は、チンと洟《はな》をかむ。  美しい女《ひと》の唇に微笑《ほほえみ》が見えた…… 「いつの事、どこから、そのお姿が見えなくなりました。」  と饂飩屋は、渋団扇を筵《むしろ》に支《つ》いて、ト中腰になって訊《き》く。        八  差配《おおや》は溜息《ためいき》と共に気取って頷《うなず》き、 「いつ、どこでと云ってね、お前《めえ》、縁日の宵の口や、顔見世の夜明から、見えなくなったというのじゃない。その娘はね、長い間煩らって、寝ていたんだ。それから行方《ゆくえ》が知れなくなったよ。」  子供芝居の取留めのない台辞《せりふ》でも、ちっと変な事を言う。 「へい。」  舞台の饂飩屋も異な顔で、 「それでは御病気を苦になさって、死ぬ気で駈出《かけだ》したのでござりますかね。」 「寿命だよ。ふん、」と、も一つかんで、差配は鼻紙を袂《たもと》へ落す。 「御寿命、へい、何にいたせ、それは御心配な事で。お怪我《けが》がなければ可《よ》うございます。」 「賽《さい》の河原は礫原《こいしはら》、石があるから躓《つまず》いて怪我をする事もあろうかね。」と陰気に差配。 「何を言わっしゃります。」 「いえさ、饂飩屋さん、合点の悪い。その娘はもう亡くなったんでございますよ。」と青月代が傍《そば》から言った。 「お前様も。死んだ迷児《まいご》という事が、世の中にござりますかい。」 「六道の闇《やみ》に迷えば、はて、迷児ではあるまいか。」 「や、そんなら、お前様方は、亡者《もうじゃ》をお捜しなさりますのか。」 「そのための、この白張提灯《しらはりぢょうちん》。」  と青月代が、白粉《おしろい》の白《しろ》けた顔を前へ、トぶらりと提げる。 「捜いて、捜いて、暗《やみ》から闇へ行く路じゃ。」 「ても……気味の悪い事を言いなさる。」 「饂飩屋、どうだ一所に来るか。」  と頭《かしら》は鬼のごとく棒を突出す。  饂飩屋は、あッと尻餅。  引被《ひっかぶ》せて、青月代が、 「ともに冥途《めいど》へ連行《つれゆ》かん。」 「来《きた》れや、来れ。」と差配《おおや》は異変な声繕《こわづくろい》。  一堪《ひとたま》りもなく、饂飩屋はのめり伏した。渋団扇で、頭を叩くと、ちょん髷仮髪《まげかつら》が、がさがさと鳴る。 「占めたぞ。」 「喰遁《くいに》げ。」  と囁《ささ》き合うと、三人の児《こ》は、ひょいと躍って、蛙のようにポンポン飛込む、と幕の蔭に声ばかり。  ――迷児の、迷児の、お稲さんやあ――  描ける藤は、どんよりと重く匂って、おなじ色に、閃々《きらきら》と金糸のきらめく、美しい女《ひと》の半襟と、陽炎に影を通わす、居周囲《いまわり》は時に寂寞《ひっそり》した、楽屋の人数《にんず》を、狭い処に包んだせいか、張紙幕《びらまく》が中ほどから、見物に向いて、風を孕《はら》んだか、と膨れて見える……この影が覆蔽《かぶさ》るであろう、破筵《やれむしろ》は鼠色に濃くなって、蹲《しゃが》み込んだ児等《こども》の胸へ持上って、蟻《あり》が四五疋、うようよと這《は》った。……が、なぜか、物の本の古びた表面《おもて》へ、――来れや、来れ……と仮名でかきちらす形がある。  見つつ松崎が思うまで、来れや、来れ……と言った差配《おおや》の言葉は、怪しいまで陰に響いて、幕の膨らんだにつけても、誰か、大人が居て、蔭で声を助《す》けたらしく聞えたのであった。  見物の児等は、神妙に黙って控えた。  頬被《ほおかぶり》のずんぐり者は、腕を組んで立ったなり、こくりこくりと居眠る……  饂飩屋が、ぼやんとした顔を上げた。さては、差置いた荷のかわりの行燈《あんどん》も、草紙の絵ではない。  蟻は隠れたのである。        九 「狐か、狸か、今のは何じゃい、どえらい目に逢わせくさった。」  と饂飩屋は坂塀はずれに、空屋の大屋根から空を仰いで、茫然《ぼんやり》する。  美しい女《ひと》と若い紳士の、並んで立った姿が動いて、両方|木賃宿《きちんやど》の羽目板の方を見向いたのを、――無台が寂しくなったため、もう帰るのであろうと見れば、さにあらず。  そこへ小さな縁台を据えて、二人の中に、ちょんぼりとした円髷《まるまげ》を俯向《うつむ》けに、揉手《もみて》でお叩頭《じぎ》をする古女房が一人居た。 「さあ、どうぞ、旦那様、奥様、これへお掛け遊ばして、いえ、もう汚いのでございますが、お立ちなすっていらっしゃいますより、ちっとは増《まし》でございます。」  と手拭《てぬぐい》で、ごしごし拭いを掛けつつ云う。その手で――一所に持って出たらしい、踏台が一つに乗せてあるのを下へおろした。 「いや、俺《おれ》たちは、」  若い紳士は、手首白いのを挙げて、払い退《の》けそうにした。が、美しい女《ひと》が、意を得たという晴やかな顔して、黙ってそのまま腰を掛けたので。 「難有《ありがと》う。」  渠《かれ》も斉《ひと》しく並んだのである。 「はい、失礼を。はいはい、はい、どうも。」と古女房は、まくし掛けて、早口に饒舌《しゃべ》りながら、踏台を提げて、小児《こども》たちの背後《うしろ》を、ちょこちょこ走り。で、松崎の背後《うしろ》へ廻る。 「貴方《あなた》様は、どうぞこれへ。はい、はい、はい。」 「恐縮ですな。」  かねて期《ご》したるもののごとく猶予《ため》らわず腰を落着けた、……松崎は、美しい女《ひと》とその連《つれ》とが、去る去らないにかかわらず、――舞台の三人が鉦《かね》をチャーンで、迷児の名を呼んだ時から、子供芝居は、とにかくこの一幕を見果てないうちは、足を返すまいと思っていた。  声々に、可哀《あわれ》に、寂しく、遠方《おちかた》を幽《かすか》に、――そして幽冥《ゆうめい》の界《さかい》を暗《やみ》から闇へ捜廻《さがしまわ》ると言った、厄年十九の娘の名は、お稲と云ったのを鋭く聞いた――仔細《しさい》あって忘れられぬ人の名なのであるから。―― 「おかみさん、この芝居はどういう筋だい。」 「はいはい、いいえ、貴下《あなた》、子供が出たらめに致しますので、取留めはございませんよ。何の事でございますか、私どもは一向に分りません。それでも稽古《けいこ》だの何のと申して、それは騒ぎでございましてね、はい、はい、はい。」  で手を揉《も》み手を揉み、正面《まとも》には顔を上げずに、ひょこひょこして言う。この古女房は、くたびれた藍色《あいいろ》の半纏《はんてん》に、茶の着もので、紺足袋に雪駄穿《せったばき》で居たのである。 「馬鹿にしやがれ。へッ、」  と唐突《だしぬけ》に毒を吐いたは、立睡《たちねむ》りで居た頬被りで、弥蔵《やぞう》の肱《ひじ》を、ぐいぐいと懐中《ふところ》から、八ツ当りに突掛《つっか》けながら、 「人、面白くもねえ、貴方様お掛け遊ばせが聞いて呆《あき》れら。おはいはい、襟許《えりもと》に着きやがって、へッ。俺の方が初手ッから立ってるんだ。衣類《きるい》に脚が生えやしめえし……草臥《くたび》れるんなら、こっちが前《さき》だい。服装《みなり》で価値《ねだん》づけをしやがって、畜生め。ああ、人間|下《さが》りたくはねえもんだ。」  古女房は聞かない振《ふり》で、ちょこちょこと走って退《の》いた。一体、縁台まで持添えて、どこから出て来たのか、それは知らない。そうして引返《ひっかえ》したのは町の方。  そこに、先刻《さっき》の編笠|目深《まぶか》な新粉細工が、出岬《でさき》に霞んだ捨小舟《すておぶね》という形ちで、寂寞《じゃくまく》としてまだ一人居る。その方へ、ひょこひょこ行《ゆ》く。  ト頬被りは、じろりと見遣って、 「ざまあ見ろ、巫女《いちこ》の宰取《さいとり》、活《い》きた兄哥《あにい》の魂が分るかい。へッ、」と肩をしゃくりながら、ぶらりと見物の群《むれ》を離れた。  ついでに言おう、人間を挟みそうに、籠と竹箸《たけばし》を構えた薄気味の悪い、黙然《だんまり》の屑屋《くずや》は、古女房が、そっち側の二人に、縁台を進めた時、ギロリと踏台の横穴を覗《のぞ》いたが、それ切りフイと居なくなった。……  いま、腰を掛けた踏台の中には、ト松崎が見ても一枚の屑も無い。        十 「おい、出て来ねえな、おお、大入道、出じゃねえか、遅いなあ。」  少々舞台に間が明いて、魅《つま》まれたなりの饂飩小僧《うどんこぞう》は、てれた顔で、……幕越しに楽屋を呼んだ。  幕の端《はじ》から、以前の青月代《あおさかやき》が、黒坊《くろんぼ》の気か、俯向《うつむ》けに仮髪《かつら》ばかりを覗《のぞ》かせた。が、そこの絵の、狐の面が抜出したとも見えるし、古綿の黒雲から、新粉細工の三日月が覗くとも視《なが》められる。 「まだじゃねえか、まだお前、その行燈《あんどん》がかがみにならねえよ……科《しぐさ》が抜けてるぜ、早く演《や》んねえな。」  と云って、すぽりと引込《ひっこ》む。――はてな、行燈が、かがみに化ける……と松崎は地の凸凹《でこぼこ》する蹈台《ふみだい》の腰を乗出す。  同じ思いか、面影《おもかげ》も映しそうに、美しい女《ひと》は凝《じっ》と視《み》た。ひとり紳士は気の無い顔して、反身《そりみ》ながらぐったりと凭掛《よりかか》った、杖《ステッキ》の柄を手袋の尖で突いたものなり。  饂飩屋は、行燈に向直ると、誰も居ないのに、一人で、へたへたと挨拶《あいさつ》する。 「光栄《おいで》なさいまし。……直ぐと暖めて差上げます。今、もし、飛んだお前さん、馬鹿な目に逢いましてね、火も台なしでござります。へい、辻の橋の玄徳稲荷《げんとくいなり》様は、御身分柄、こんな悪戯《いたずら》はなさりません。狸か獺《かわうそ》でござりましょう。迷児の迷児の、――と鉦《かね》を敲《たた》いて来やがって饂飩を八杯|攫《さ》らいました……お前さん。」  と滑稽《おどけ》た眉毛を、寄せたり、離したり、目をくしゃくしゃと饒舌《しゃべ》ったが、 「や、一言《いちごん》も、お返事なしだね、黙然坊《だんまりぼう》様。鼻だの、口だの、ぴこぴこ動いてばかり。……あれ、誰か客人だと思ったら――私《わし》の顔だ――道理で、兄弟分だと頼母《たのも》しかったに……宙に流れる川はなし――七夕《たなばた》様でもないものが、銀河《あまのがわ》には映るまい。星も隠れた、真暗《まっくら》、」  と仰向《あおむ》けに、空を視《み》る、と仕掛けがあったか、頭の上のその板塀|越《ごし》、幕の内か潜《くぐ》らして、両方を竹で張った、真黒《まっくろ》な布の一張《ひとはり》、筵《むしろ》の上へ、ふわりと投げて颯《さっ》と拡げた。  と見て、知りつつ松崎は、俄然《がぜん》として雲が湧《わ》いたか、とぎょっとした、――電車はあっても――本郷から遠路《とおみち》を掛けた当日。麗《うららか》さも長閑《のどか》さも、余り積《つも》って身に染むばかり暖かさが過ぎたので、思いがけない俄雨《にわかあめ》を憂慮《きづかわ》ぬではなかった処。  彼方《むこう》の新粉屋が、ものの遠いように霞むにつけても、家路|遥《はる》かな思いがある。  また、余所《よそ》は知らず、目の前のざっと劇場ほどなその空屋の裡《うち》には、本所の空一面に漲《みなぎ》らす黒雲は、畳込んで余りあるがごとくに見えた。  暗い舞台で、小さな、そして爺様《じいさま》の饂飩屋は、おっかな、吃驚《びっくり》、わなわな大袈裟《おおげさ》に震えながら、 「何に映る……私《わし》が顔だ、――行燈《あんどん》か。まさかとは思うが、行燈か、行燈か?……返事をせまいぞ。この上|手前《てめえ》に口を利かれては叶《かな》わねえ。何分頼むよ。……面《つら》の皮は、雨風にめくれたあとを、幾たびも張替えたが、火事には人先に持って遁《に》げる何十年|以来《このかた》の古馴染《ふるなじみ》だ。  馴染がいに口を利くなよ、私《わし》が呼んでも口を利くなよ。はて、何に映る顔だ知らん。……口を利くな、口を利くな。」  ……と背の低いのが、滅入込《めりこ》みそうに、大《おおき》な仮髪《かつら》の頸《うなじ》を窘《すく》め、ひッつりそうな拳《こぶし》を二つ、耳の処へ威《おど》すがごとく、張肱《はりひじ》に、しっかと握って、腰をくなくなと、抜足差足。  で、目を据え、眉を張って、行燈に擦寄り擦寄り、 「はて、何に映った顔だ知らん、行燈か、行燈か、……口を利くなよ、行燈か。」  と熟《じっ》と覗《のぞ》く。  途端に、沈んだが、通る声で、 「私……行燈だよ。」 「わい、」と叫んで、饂飩屋は舞台を飛退《とびの》く。        十一  この古行燈が、仇《あだ》も情《なさけ》も、赤くこぼれた丁子《ちょうじ》のごとく、煤《すす》の中に色を籠《こ》めて消えずにいて、それが、針の穴を通して、不意に口を利いたような女の声には、松崎もぎょっとした。  饂飩屋は吃驚《びっくり》の呼吸を引いて、きょとんとしたが 「俺《おいら》あ可厭《いや》だぜ。」と押殺した低声《こごえ》で独言《ひとりごと》を云ったと思うと、ばさりと幕摺《まくず》れに、ふらついて、隅から蹌踉《よろ》け込んで見えなくなった。  時に――私……行燈だよ、――と云ったのは、美しい女《ひと》である事に、松崎も心附いて、――驚いて楽屋へ遁《に》げた小児《こども》の状《さま》の可笑《おかし》さに、莞爾《にっこり》、笑《えみ》を含んだ、燃ゆるがごときその女《ひと》の唇を見た。 「つい言ッちまったのよ。」  と紳士を見向く。 「困った人だね、」  と杖《ステッキ》を取って、立構えをしながら、 「さあ、行こうか。」 「可《い》いわ、もうちっと……」 「恐怖《こわ》いよう。」  と子守の袂《たもと》にぶら下った小さな児が袖を引張《ひっぱ》って言う。 「こわいものかね、行燈じゃないわ。……綺麗な奥さんが言ったんだわ。」とその子守は背《せな》の子を揺《ゆす》り上げた。  舞台を取巻いた大勢が、わやわやとざわついて、同音に、声を揚げて皆《みんな》笑った……小さいのが二側《ふたかわ》三側《みかわ》、ぐるりと黒く塊《かたま》ったのが、変にここまで間を措《お》いて、思出したように、遁込《にげこ》んだ饂飩屋の滑稽な図を笑ったので、どっというのが、一つ、町を越した空屋の裏あたりに響いて、壁を隔てて聞くようにぼやけて寂しい。 「東西、東西。」  青月代《あおさかやき》が、例の色身《いろみ》に白い、膨《ふっく》りした童顔《わらわがお》を真正面《まっしょうめん》に舞台に出て、猫が耳を撫《な》でる……トいった風で、手を挙げて、見物を制しながら、おでんと書いた角行燈をひょいと廻して、ト立直して裏を見せると、かねて用意がしてあった……その一小間《ひとこま》が藍《あい》を濃く真青《まっさお》に塗ってあった。  行燈が化けると云った、これが、かがみのつもりでもあろう、が、上を蔽《おお》うた黒布の下に、色が沈んで、際立って、ちょうど、間近な縁台の、美しい女《ひと》と向合《むきあわ》せに据えたので、雪なす面《おもて》に影を投げて、媚《なまめ》かしくも凄《すご》くも見える。  青月代は飜然《ひらり》と潜《くぐ》った。  それまでは、どれもこれも、吹矢に当って、バッタリと細工ものが顕《あらわ》れる形に、幕へ出入りのひょっこらさ加減、絵に描《か》いた、小松葺《こまつたけ》、大きな蛤《はまぐり》十ばかり一所に転げて出そうであったが。  舞台に姿見の蒼《あお》い時よ。  はじめて、白玉のごとき姿を顕す……一|人《にん》の立女形《たておやま》、撫肩しなりと脛《はぎ》をしめつつ褄《つま》を取った状《さま》に、内端《うちわ》に可愛《かわい》らしい足を運んで出た。糸も掛けない素の白身《はくしん》、雪の練糸《ねりいと》を繰るように、しなやかなものである。  背丈|恰好《かっこう》、それも十一二の男の児が、文金高髷の仮髪《かつら》して、含羞《はにかん》だか、それとも芝居の筋の襯染《したじめ》のためか、胸を啣《くわ》える俯向《うつむ》き加減、前髪の冷たさが、身に染む風情に、すべすべと白い肩をすくめて、乳を隠す嬌態《しな》らしい、片手柔い肱《ひじ》を外に、指を反らして、ひたりと附けた、その頤《おとがい》のあたりを蔽《おお》い、額も見せないで、なよなよと筵《むしろ》に雪の踵《かかと》を散らして、静《しずか》に、行燈の紙の青い前。        十二  綿かと思う柔《やわらか》な背を見物へ背後《うしろ》むきに、その擬《こしら》えし姿見に向って、筵に坐ると、しなった、細い線を、左の白脛《しらはぎ》に引いて片膝を立てた。  この膝は、松崎の方へ向く。右の掻込《かっこ》んで、その腰を据えた方に、美しい女《ひと》と紳士の縁台がある。  まだ顔を見せないで、打向った青行燈の抽斗《ひきだし》を抜くと、そこに小道具の支度があった……白粉刷毛《おしろいばけ》の、夢の覚際《さめぎわ》の合歓《ねむ》の花、ほんのりとあるのを取って、媚《なまめ》かしく化粧をし出す。  知ってはいても、それが男の児とは思われない。耳朶《みみたぼ》に黒子《ほくろ》も見えぬ、滑《なめら》かな美しさ。松崎は、むざと集《たか》って血を吸うのが傷《いたま》しさに、蹈台《ふみだい》の蚊《か》をしきりに気にした  蹈台の蚊は、おかしいけれども、はじめ腰掛けた時から、間を措《お》いては、ぶんと一つ、ぶんとまた一つ、穴から唸《うな》って出る……足と足を摺合《すりあ》わせたり、頭《かぶり》を掉《ふ》ったり、避《よ》けつ払いつしていたが、日脚の加減か、この折から、ぶくぶくと溝《どぶ》から泡の噴く体《てい》に数を増した。  人情、なぜか、筵の上のその皓体《こうたい》に集《たか》らせたくないので、背後《うしろ》へ、町へ、両の袂を叩いて払った。  そして、この血に餓《う》えて呻《うめ》く虫の、次第に勢《いきおい》を加えたにつけても、天気模様の憂慮《きづかわ》しさに、居ながら見渡されるだけの空を覗《のぞ》いたが、どこのか煙筒《えんとつ》の煙の、一方に雪崩《なだ》れたらしい隈《くま》はあったが、黒しと怪《あやし》む雲はなかった。ただ、町の静《しずか》さ。板の間の乾《から》びた、人なき、広い湯殿のようで、暖い霞の輝いて淀《よど》んで、漾《ただよ》い且つ漲《みなぎ》る中に、蚊を思うと、その形、むらむら波を泳ぐ海月《くらげ》に似て、槊《ほこ》を横《よこた》えて、餓えたる虎の唄を唄って刎《は》ねる。……  この影がさしたら、四ツ目あたりに咲き掛けた紅白の牡丹《ぼたん》も曇ろう。……嘴《はし》を鳴らして、ひらりひらりと縦横無尽に踊る。  が、現《うつつ》なの光景《ありさま》は、長閑《のどか》な日中《ひなか》の、それが極度であった。――  やがて、蚊ばかりではない、舞台で狐やら狸やら、太鼓を敲《たた》き笛を吹く……本所名代の楽器に合わせて、猫が三疋。小夜具《こよぎ》を被《かぶ》って、仁王|立《だち》、一斗|樽《だる》の三ツ目入道、裸の小児《こども》と一所になって、さす手の扇、ひく手の手拭、揃って人も無げに踊出《おどりいだ》した頃は、俄雨《にわかあめ》を運ぶ機関車のごとき黒雲が、音もしないで、浮世の破《やぶれ》めを切張《きりばり》の、木賃宿の数の行燈、薄暗いまで屋根を圧して、むくむくと、両国橋から本所の空を渡ったのである。  次第は前後した。  これより前《さき》、姿見に向った裸の児が、濃い化粧で、襟白粉《えりおしろい》を襟長く、くッきりと粧《よそお》うと、カタンと言わして、刷毛《はけ》と一所に、白粉を行燈の抽斗《ひきだし》に蔵《しま》った時、しなりとした、立膝のままで、見物へ、ひょいと顔を見せたと思え。  島田ばかりが房々《ふさふさ》と、やあ、目も鼻も無い、のっぺらぼう。  唇ばかり、埋め果てぬ、雪の紅梅、蕊《しべ》白く莞爾《にっこり》した。  はっと美しい女《ひと》は身を引いて、肩を摺《ず》った羽織の手先を白々と紳士の膝へ。  額も頬も一分、三分、小鼻も隠れたまで、いや塗ったとこそ言え。白粉で消した顔とは思うが、松崎さえ一目見ると変な気がした。  そこへ、件《くだん》の三ツ目入道、どろどろどろと顕《あらわ》れけり        十三  樽を張子《はりこ》で、鼠色の大入道、金銀張分けの大の眼《まなこ》を、行燈|見越《みこし》に立《たち》はだかる、と縄からげの貧乏|徳利《どっくり》をぬいと突出す。 「丑満《うしみつ》の鐘を待兼ねたやい。……わりゃ雪女。」  とドス声で甲《かん》を殺す……この熊漢《くまおとこ》の前に、月からこぼれた白い兎《うさぎ》、天人の落し児といった風情の、一束《ひとつか》ねの、雪の膚《はだ》は、さては化夥間《ばけなかま》の雪女であった。 「これい、化粧が出来たら酌をしろ、ええ。」  と、どか胡坐《あぐら》、で、着ものの裾《すそ》が堆《うずたか》い。  その地響きが膚に応《こた》えて、震える状《さま》に、脇の下を窄《すぼ》めるから、雪女は横坐りに、 「あい、」と手を支《つ》く。 「そりゃ、」  と徳利を突出した、入道は懐から、鮑貝《あわびがい》を掴取《つかみと》って、胸を広く、腕へ引着け、雁《がん》の首を捻《ね》じるがごとく白鳥の口から注《つ》がせて、 「わりゃ、わなわなと震えるが、素膚《すはだ》に感じるか、いやさ、寒いか。」と、じろじろと視《みつ》めて寛々たり。  雪女細い声。 「はい……冷とうござんすわいな。」 「ふん、それはな、三途河《そうずか》の奪衣婆《だつえば》に衣《きもの》を剥《は》がれて、まだ間が無うて馴《な》れぬからだ。ひくひくせずと堪えくされ。雪女が寒いと吐《ぬか》すと、火が火を熱い、水が水を冷い、貧乏人が空腹《ひだる》いと云うようなものだ。汝《うぬ》が勝手の我ままだ。」 「情《なさけ》ない事おっしゃいます、辛うて辛うてなりませんもの。」  とやっぱり戦《わなな》く。その姿、あわれに寂しく、生々《なまなま》とした白魚の亡者に似ている。 「もっともな、わりゃ……」  言い掛けた時であった。この見越入道、ふと絶句で、大《おおき》な樽の面《つら》を振って、三つ目を六つに晃々《ぎらぎら》ときょろつかす。  幕の蔭と思う絵の裏で、誰とも知らず、静まった藤の房に、生温《なまぬる》い風の染む気勢《けはい》で、 「……紅蓮《ぐれん》、大紅蓮、紅蓮、大紅蓮……」と後見《うしろ》をつけたものがある。 「紅蓮、大紅蓮の地獄に来《きた》って、」 と大入道は樽の首を揺据《ゆりす》えた。 「わりゃ雪女となりおった。が、魔道の酌取《しゃくとり》、枕添《まくらぞい》、芸妓《げいしゃ》、遊女《じょろう》のかえ名と云うのだ。娑婆《しゃば》、人間の処女《きむすめ》で……」  また絶句して、うむと一つ、樽に呼吸《いき》を詰めて支《つか》えると、ポカンとした叩頭《おじぎ》をして、 「何だっけね、」  と可愛い声。 「お稲、」と雪女が小さく言った。  松崎は耳を澄ます。  と同時であった。 「……お稲、お稲さんですって、……」と目のふちに、薄く、行燈の青い影が射《さ》した。美しい女《ひと》は、ふと紳士を見た。 「お稲荷《いなり》、稲荷さんと云うんだね、白狐《しろぎつね》の化けた処なんだろう。」  わけもなくそう云って、紳士は、ぱっと巻莨《まきたばこ》に火を点ずる。  その火が狐火のように見えた。 「ああ、そうなのね。」  美しい女《ひと》は頷《うなず》いたのである。  松崎も、聞いて、成程そうらしくも見て取った。 「むむ、そのお稲で居た時の身の上話、酒の肴《さかな》に聞かさんかい。や、ただわなわなと震えくさる、まだ間が無うて馴れぬからだ。こりゃ、」  と肩へむずと手を掛けると、ひれ伏して、雪女は溶けるように潸然《さめざめ》と泣く。        十四 「陰気だ陰気だ、此奴《こいつ》滅入《めい》って気が浮かん、こりゃ、汝等《わいら》出て燥《はしゃ》げやい。」  三ツ目入道、懐手の袖を刎《は》ねて、飽貝《あわびっかい》の杯を、大《でか》く弧《こ》を描いて楽屋を招く。  これの合図に、相馬内裏《そうまだいり》古御所《ふるごしょ》の管絃。笛、太鼓に鉦《かね》を合わせて、トッピキ、ひゃら、ひゃら、テケレンどん、幕を煽《あお》って、どやどやと異類異形が踊って出《い》でた。  狐が笛吹く、狸が太鼓。猫が三疋、赤手拭、すッとこ被《かぶ》り、吉原かぶり、ちょと吹流し、と気取るも交って、猫じゃ猫じゃの拍子を合わせ、トコトンと筵《むしろ》を踏むと、塵埃《ちりほこり》立交る、舞台に赤黒い渦を巻いて、吹流しが腰をしゃなりと流すと、すッとこ被りが、ひょいと刎《は》ねる、と吉原被りは、ト招ぎの手附。  狸の面、と、狐の面は、差配の禿《はげ》と、青月代《あおさかやき》の仮髪《かつら》のまま、饂飩屋の半白頭《ごましおあたま》は、どっち付かず、鼬《いたち》のような面を着て、これが鉦で。  時々、きちきちきちきちという。狐はお定りのコンを鳴く。狸はあやふやに、モウと唸《うな》って、膝にのせた、腹鼓。  囃子に合わせて、猫が三疋、踊る、踊る、いや踊る事わ。  青い行燈とその前に突伏《つっぷ》した、雪女の島田のまわりを、ぐるりぐるりと廻るうちに、三ツ目入道も、ぬいと立って、のしのしと踊出す。  続いて囃方《はやしかた》惣踊《そうおど》り。フト合方が、がらりと替って、楽屋で三味線《さみせん》の音《ね》を入れた。  ――必ずこの事、この事必ず、丹波の太郎に沙汰するな、この事、必ず、丹波の太郎に沙汰するな――  と揃って、異口同音《くちぐち》に呼ばわりながら、水車《みずぐるま》を舞込むごとく、次第びきに、ぐるぐるぐる。……幕へ衝《つ》と消える時は、何ものか居て、操りの糸を引手繰《ひったぐ》るように颯《さっ》と隠れた。  筵舞台に残ったのは、青行燈《あおあんどん》と雪女。  悄《しお》れて、一人、ただうなだれているのであった。  上なる黒い布は、ひらひらと重くなった……空は化物どもが惣踊りに踊る頃から、次第に黒くなったのである。  美しい女《ひと》は、はずして、膝の上に手首に掛けた、薄色のショオルを取って、撫肩の頸《うなじ》に掛けて身繕い。  此方《こなた》に松崎ももう立とうとした。  青月代が、ひょいと覗《のぞ》いた。幕の隙間へ頤《あご》を乗せて、 「誰か、おい、前掛《まえかけ》を貸してくんな、」と見物を左右に呼んだ。 「前掛を貸しておくれよ、……よう、誰でも。」  美しい女《ひと》から、七八人|小児《こども》を離れて、二人並んでいた子守の娘が、これを聞くと真先《まっさき》にあとじさりをした。言訳だけも赤い紐の前掛をしていたのは、その二人ぐらいなもので、……他は皆、横撫での袖とくいこぼしの膝、光るのはただ垢《あか》ばかり。  傍《かたわら》から、また饂飩屋が出て舞台へ立った。 「これから女形《おんながた》が演処《しどころ》なんだぜ。居所がわりになるんだけれど、今度は亡者じゃねえよ、活《い》きてる娘の役だもの。裸では不可《いけね》えや、前垂《まえだれ》を貸しとくれよ。誰か、」 「後生《ごしょう》だってば、」  と青月代も口を添える。  子守の娘はまた退《しさ》った。  幼い達は妙にてれて、舞台の前で、土をいじッて俯向《うつむ》いたのもあるし、ちょろちょろ町の方へ立つのもあった。 「吝《しみた》れだなあ。」  饂飩屋がチョッ、舌打する。 「貸してくれってんだぜ、……きっと返すッてえに。……可哀相《かわいそう》じゃないか、雪女になったなりで裸で居ら。この、お稲さんに着せるんだよ。」  と青月代も前へ出て、雪女の背筋のあたりを冷たそうに、ひたりと叩いた…… 「前掛でなくては。不可《いけな》いの?」  美しい人はすッと立った。  紳士は仰向《あおむ》いて、妙な顔色《かおつき》。  松崎の、うっかり帰られなくなったのは言うまでもなかろう。        十五 「兄さん、他《ほか》のものじゃ間に合わない?」  あきれ顔な舞台の二人に、美しい女《ひと》は親しげにそう云った。 「他の物って、」と青月代は、ちょんぼり眉で目をぱちくる。 「羽織では。」  美しい女《ひと》は華奢《きゃしゃ》な手を衣紋《えもん》に当てた。 「羽織なら、ねえ、おい。」 「ああ、そんな旨《うめ》え事はねえんだけれど、前掛でさえ、しみったれているんだもの、貸すもんか。それだしね、羽織なんて誰も持ってやしませんぜ。」  と饂飩屋は吐出すように云う。成程、羽織を着たものは、ものの欠片《かけら》も見えぬ。 「可《よ》ければ、私のを貸してあげるよ。」  美しい女《ひと》は、言《ことば》の下に羽織を脱いだ、手のしないは、白魚が柳を潜《くぐ》って、裏は篝火《かがりび》がちらめいた、雁《かり》がねむすびの紋と見た。 「品子《しなこ》さん、」  紳士は留めようとして、ずッと立つ。 「可《い》いのよ、貴方《あなた》。」  と見返りもしないで、 「帯がないじゃないか、さあ、これが可いわ。」と一所に肩を辷《すべ》った、その白と、薄紫と、山が霞んだような派手な羅《うすもの》のショオルを落してやる……  雪女は、早く心得て、ふわりとその羽織を着た、黒縮緬《くろちりめん》の紋着《もんつき》に緋《ひ》を襲《かさ》ねて、霞を腰に、前へすらりと結んだ姿は、あたかも可《よ》し、小児《こども》の丈に裾《すそ》を曳《ひ》いて、振袖長く、影も三尺、左右に水が垂れるばかり、その不思議な媚《なまめか》しさは、貸小袖に魂が入って立ったとも見えるし、行燈の灯《ともし》を覆《おお》うた裲襠《かけ》の袂《たもと》に、蝴蝶《ちょうちょう》が宿って、夢が徜徉《さまよう》とも見える。 「難有《ありがと》う、」 「奥さん難有う。」  互に、青月代と饂飩屋が、仮髪《かつら》を叩いて喜び顔。  雪女の、その……擬《なぞら》えた……姿見に向って立つ後姿を、美しい女《ひと》は、と視《なが》めて、 「島田も可《い》いこと、それなりで角かくしをさしたいようだわ……ああ、でも扱帯《しごき》を前帯じゃどう。遊女《おいらん》のようではなくって、」 「構わないの、お稲さんが寝衣《ねまき》の処だから、」 「ああ、ちょっと。」  と美しい女《ひと》が留める間に、聞かれた饂飩屋はツイと引込《ひっこ》む。 「あら、やっぱりお稲さん、お稲さんですわ、貴方。」  と言う。紳士を顧みた美しい女《ひと》の睫《まつげ》が動いて、目瞼《まぶた》が屹《きっ》と引緊《ひきしま》った。 「何、稲荷《いなり》だよ、おい、稲荷だろう。」  紳士も並んで、見物の小児《こども》の上から、舞台へ中折《なかおれ》を覗《のぞ》かせた。 「ねえ、この人の名は?……」  黒縮緬の雪女は、さすが一座に立女形《たておやま》の見識を取ったか、島田の一さえ、端然《きちん》と済まして口を利こうとしないので、美しい女《ひと》はまた青月代に、そう訊《き》いた。 「嵐お萩ッてえの……東西々々。」  と飜然《ひらり》と隠れる。 「芸名《げいみょう》ではない。役の娘の名を聞かしておくれ、何て云うの、よ、お前。」  と美しい女《ひと》は、やや急込《せきこ》んで言って、病身らしく胸を圧《おさ》えた。脱いだ羽織の、肩寒そうな一枚小袖の嬌娜姿《やさすがた》、雲を出《い》でたる月かと視《み》れば、離れた雲は、雪女に影を宿して、墨絵に艶《つや》ある青柳《あおやぎ》の枝。  春の月の凄《すご》きまで、蒼青《まっさお》な、姿見の前に、立直って、 「お稲です。」  と云って、ふと見向いた顔は、目鼻だち、水に朧《おぼろ》なものではなかった。        十六  舞台は居所がわりになるのだ、と楽屋のものが云った、――俳優《やくしゃ》は人に知らさないのを手際に化ものの踊るうち、俯向伏《うつむきふ》している間に、玉の曇《くもり》を拭《ぬぐ》ったらしい。……眉は鮮麗《あざやか》に、目はぱっちりと張《はり》を持って、口許《くちもと》の凜《りん》とした……やや強《きつ》いが、妙齢《としごろ》のふっくりとした、濃い生際《はえぎわ》に白粉《おしろい》の際立たぬ、色白な娘のその顔。  松崎は見て悚然《ぞっ》とした……  名さえ――お稲です――  肖《に》たとは迂哉《おろか》。今年|如月《きさらぎ》、紅梅に太陽《ひ》の白き朝、同じ町内、御殿町《ごてんまち》あたりのある家の門を、内端《うちわ》な、しめやかな葬式《とむらい》になって出た。……その日は霜が消えなかった――居周囲《いまわり》の細君女房連が、湯屋でも、髪結《かみゆい》でもまだ風説を絶《たや》さぬ、お稲ちゃんと云った評判娘にそっくりなのであった。 「私も今はじめて聞いて吃驚《びっくり》したの。」  その時、松崎の女房は、二階へばたばたと駈上《かけあが》り、御注進と云う処を、鎧《よろい》が縞《しま》の半纏《はんてん》で、草摺《くさずり》短《みじか》な格子の前掛、ものが無常だけに、ト手は飜《ひるがえ》さず、すなわち尋常に黒繻子《くろじゅす》の襟を合わせて、火鉢の向うへ中腰で細くなる……  髪も櫛巻《くしまき》、透切《すきぎ》れのした繻子の帯、この段何とも致方《いたしかた》がない。亭主、号が春狐であるから、名だけは蘭菊《らんぎく》とでも奢《おご》っておけ。  春狐は小机を横に、座蒲団《ざぶとん》から斜《ななめ》になって、 「へーい、ちっとも知らなかった。」 「私もさ……今ね、内の出窓の前に、お隣家《となり》の女房《かみ》さんが立って、通《とおり》の方を見てしくしく泣いていなさるから、どうしたんですって聞いたんです。可哀相に……お稲ちゃんのお葬式《ともらい》が出る所だって、他家《よそ》の娘《こ》でも最惜《いとし》くってしようがないって云うんでしょう。――そう云えば成程何だわね、この節じゃ多日《しばらく》姿を見なかったわね、よくお前さん、それ、あの娘《こ》が通ると云うと、箸をカチリと置いて出窓から、お覗《のぞ》きだっけがね。」  苦笑いで、春狐子。 「余計な事を言いなさんな、……しかし惜《おし》いね、ちょっとないぜ、ここいらには、あのくらいな一枚絵は。」 「うっかり下町にだってあるもんですか。」 「などと云うがね、お前もお長屋月並だ。……生きてるうちは、そうまでは讃《ほ》めない奴《やつ》さ、顔がちっと強《きつ》すぎる、何のってな。」 「ええ、それは廂髪《ひさしがみ》でお茶の水へ通ってた時ですわ。もう去年の春から、娘になって、島田に結ってからといったら、……そりゃ、くいつきたいようだったの。  髮のいい事なんて、もっとも盛《さかり》も盛だけれども。」 「幾歳《いくつ》だ。」 「十九……明けてですよ。」 「ああ、」と思わず煙管《きせる》を落した。 「勿論、お婿さんは知らずらしいね。」 「ええ、そのお婿さんの事で、まあ亡くなったんですよ。」  はっと思い、 「や、自殺か。」 「おお吃驚《びっくり》した……慌てるわねえ、お前さんは。いいえ、自殺じゃないけれども、私の考えだと、やっぱり同一《おんなじ》だわ、自殺をしたのも。」 「じゃどうしたんだよ。」 「それがだわね。」 「焦《じれ》ったい女だな。」 「ですから静《しずか》にお聞きなさいなね、稲ちゃんの内じゃ、成りたけ内証《ないしょ》に秘《かく》していたんだそうですけれど、あの娘《こ》はね、去年の夏ごろから――その事で――狂気《きちがい》になったんですって。」 「あの、綺麗な娘《こ》が。」 「まったくねえ。」  と俯向《うつむ》いて、も一つ半纏の襟を合わせる。        十七 「妙齢《としごろ》で、あの容色《きりょう》ですからね、もう前《ぜん》にから、いろいろ縁談もあったそうですけれど、お極《きま》りの長し短しでいた処、お稲ちゃんが二三年前まで上っていなすった……でも年二季の大温習《おおざらい》には高台へ出たんだそうです……長唄のお師匠さんの橋渡しで。  家《うち》は千駄木辺で、お父さんは陸軍の大佐だか少将だか、それで非職《ひい》てるの。その息子さんが新しい法学士なんですって……そこからね、是非、お嫁さんに欲《ほし》いって言ったんですとさ。  途中で、時々顔を見合って、もう見合いなんか済んでるの。男の方は大変な惚方《ほれかた》なのよ。もっとも家同士、知合いというんでも何でもないんですから、口を利いたことなんて、そりゃなかったんでしょうけれど、ほんに思えば思わるるとやらだわね。」  半纏着の蘭菊は、指のさきで、火鉢の縁《ふち》へちょいと当って、 「お稲ちゃんの方でも、嬉しくない事はなかったんでしょう。……でね、内々その気だったんだって、……お師匠さんは云うんですとさ、――隣家《となり》の女房《かみ》さんの、これは談話《はなし》よ。」  まだ卒業前ですから、お取極《とりき》めは、いずれ学校が済んでからッて事で、のびのびになっていたんだそうですがね。  去年の春、お茶の水の試験が済むと、さあ、その翌日《あくるひ》にでも結納を取替わせる勢《いきおい》で、男の方から急込《せきこ》んで来たんでしょう。  けれども、こっちぢゃ煮切《にえき》らない、というのがね――あの、娘《こ》にはお母《っか》さんがありません。お父さんというのは病身で、滅多に戸外《そと》へも出なさらない、何でも中気か何からしいんです――後家さんで、その妹さん、お稲ちゃんには叔母に当る、お婆さんのハイカラが取締って、あの娘《こ》の兄さん夫婦が、すっかり内の事を遣《や》っているんだわね。  その兄さんというのが、何とか云う、朝鮮にも、満洲とか、台湾にも出店のある、大《おおき》な株式会社に、才子で勤めているんです。  その何ですとさ、会社の重役の放蕩息子《どらむすこ》が、ダイヤの指輪で、春の歌留多《かるた》に、ニチャリと、お稲ちゃんの手を圧《おさ》えて、おお可厭《いや》だ。」  と払う真似して、 「それで、落第、もう沢山。」 「どうだか。」 「ほんとうですとも。それからそのニチャリが、」 「右のな、」  と春狐は、ああと歎息する。 「ええ、ぞっこんとなって、お稲ちゃんをたってと云うの、これには嫂《あによめ》が一はながけに乗ったでしょう。」 「極《きま》りでいやあがる。」 「大分、お芝居になって来たわね。」 「余計な事を言わないで……それから、」 「兄さんの才子も、やっぱりその気だもんですからね、いよいよという談話《はなし》の時、きっぱり兄さんから断ってしまったんですって――無い御縁とおあきらめ下さい、か何かでさ。」 「その法学士の方をだな、――無い御縁が凄《すさま》じいや、てめえが勝手に人の縁を、頤《あご》にしゃぼん玉の泡沫《あぶく》を塗って、鼻の下を伸ばしながら横撫でに粧《めけ》やあがる西洋|剃刀《かみそり》で切ったんじゃないか。」 「ねえ……鬱《ふさ》いでいましたとさ、お稲ちゃんは、初心《うぶ》だし、世間見ずだから、口へ出しては何にも言わなかったそうだけれど……段々、御飯が少くなってね、好《すき》なものもちっとも食べない。  その癖、身じまいをする事ったら、髪も朝に夕に撫でつけて、鬢《びん》の毛一筋こぼしていた事はない。肌着も毎日のように取替えて、欠かさずに湯に入って、綺麗にお化粧をして、寝る時はきっと寝白粧《ねおしろい》をしたんですって。  皓歯《しらは》に紅《べに》よ、凄《すご》いようじゃない事、夜が更けた、色艶《いろつや》は。  そして二三度見つかりましたとさ。起返って、帯をお太鼓にきちんと〆《し》めるのを――お稲や、何をおしだって、叔母さんが咎《とが》めた時、――私はお母《っか》さんの許《とこ》へ行くの――  そう云ってね、枕許《まくらもと》へちゃんと坐って、ぱっちり目を開けて天井を見ているから、起きてるのかと思うと、現《うつつ》で正体がないんですとさ。  思詰《おもいつ》めたものだわねえ。」        十八 「まだね。危いってないの。聞いても、ひやひやするのはね、夜中に密《そっ》と箪笥《たんす》の抽斗《ひきだし》を開けたんですよ。」 「法学士の見合いの写真?……」 「いいえ、そんなら可《い》いけれど、短刀を密《そっ》と持ったの、お母さんの守護刀《まもりがたな》だそうですよ……そんな身だしなみのあったお母さんの娘なんだから、お稲ちゃんの、あの、きりりとして……妙齢《としごろ》で可愛い中にも品の可《よ》かった事を御覧なさい。」 「余り言うのはよせ、何だか気を受けて、それ、床の間の花が、」 「あれ、」  と見向く、と朱鷺色《ときいろ》に白の透《すか》しの乙女椿《おとめつばき》がほつりと一輪。  熟《じっ》と視《み》たが、狭い座敷で袖が届く、女房は、くの字に身を開いて、色のうつるよう掌《てのひら》に据えて俯向《うつむ》いた。  隙間もる冷い風。 「ああ、四辻がざわざわする、お葬式《ともらい》が行くんですよ。」  と前掛の片膝、障子へ片手。 「二階の欄干《てすり》から見る奴《やつ》があるものか。見送るなら門《かど》へお出な。」 「止《よ》しましょう、おもいの種だから……」  と胸を抱いて、 「この一輪は蔭ながら、お手向《たむ》けになったわね。」と、鼻紙へ密《そっ》と置くと、冷い風に淡い紅《くれない》……女心はかくやらむ。  窓の障子に薄日が映《さ》した。 「じゃ死のうという短刀で怪我でもして、病院へ入ったのかい。」 「いいえ、それはもう、家中で要害が厳重よ。寝る時分には、切れものという切れものは、そっくり一つ所へ蔵《しま》って、錠《じょう》をおろして、兄さんがその鍵《かぎ》を握って寝たんだっていうんですもの。」 「ははあ、重役の忰《せがれ》に奉って、手繰りつく出世の蔓《つる》、お大事なもんですからな。……会社でも鍵を預る男だろう。あの娘の兄と云えば、まだ若かろうに何の真似だい。」 「お稲ちゃんは、またそんなでいて、しくしく泣き暮らしてでも、お在《いで》だったかと思うと、そうじゃないの……精々《せっせ》裁縫《おしごと》をするんですって。自分のものは、肌のものから、足袋まで、綺麗に片づけて、火熨斗《ひのし》を掛けて、ちゃんと蔵《しま》って、それなり手を通さないでも、ものの十日も経《た》つと、また出して見て洗い直すまでにして、頼まれたものは、兄さんの嬰児《あかんぼ》のおしめさえ折りめの着くほど洗濯してさ。」 「おやおや、兄の嬰児《あかんぼ》の洗濯かね。」 「嫂《あによめ》というのが、ぞろりとして何にもしやしませんやね。またちょっとふめるんだわ。そりゃお稲ちゃんの傍《そば》へは寄附《よッつ》けもしませんけれども。それでもね、妹が美しいから負けないようにって、――どういう了簡《りょうけん》ですかね、兄さんが容色《きりょう》望みで娶《と》ったっていうんですから……  小児《こども》は二人あるし、家《うち》は大勢だし、小体《こてい》に暮していて、別に女中っても居ないんですもの、お守《も》りから何から、皆《みんな》、お稲ちゃんがしたんだわ。」 「ははあ、その児だ……」  ともすると、――それが夕暮が多かった――嬰児《あかんぼ》を背負《おぶ》って、別にあやすでもなく、結いたての島田で、夕化粧したのが、顔をまっすぐに、清《すずし》い目を睜《みは》って、蝙蝠《こうもり》も柳も無しに、何を見るともなく、熟《じっ》と暮れかかる向側《むこうがわ》の屋根を視《なが》めて、其家《そこ》の門口《かどぐち》に彳《たたず》んだ姿を、松崎は両三度、通りがかりに見た事がある。  面影は、その時の見覚えで。  出窓の硝子越《がらすごし》に、娘の方が往《ゆき》かえりの節などは、一体|傍目《わきめ》も触《ふ》らないで、竹をこぼるる露のごとく、すいすいと歩行《ある》く振《ふり》、打水にも褄《つま》のなずまぬ、はで姿、と思うばかりで、それはよくは目に留まらなかった。  が、思い当る……葬式《とむらい》の出たあとでも、お稲はその身の亡骸《なきがら》の、白い柩《ひつぎ》で行《ゆ》く状《さま》を、あの、門《かど》に一人立って、さも恍惚《うっとり》と見送っているらしかった。        十九  女房は語《かたり》続けた―― 「お稲ちゃんが、そんなに美しく身のまわりの始末をしたのも、あとで人に見られて恥かしくないように躾《たしな》んでいたんだわね――そして隙さえあれば、直ぐに死ぬ気で居たんでしょう、寝しなにお化粧をするのなんか。  ですから、病院へ入ったあとで、針箱の抽斗《ひきだし》にも、畳紙《たとうがみ》の中にも、皺《しわ》になった千代紙一枚もなく……油染《あぶらじ》みた手柄|一掛《ひとかけ》もなかったんですって。綺麗にしておいたんだわ……友達から来た手紙なんか、中には焼いたのもあるんですって、……心掛けたじゃありませんか。惜《おし》まれる娘《こ》は違うわね。  ぐっと取詰《とりつ》めて、気が違った日は、晩方、髪結《かみゆい》さんが来て、鏡台に向っていた時ですって。夏の事でね、庭に紫陽花《あじさい》が咲いていたせいか、知らないけれど、その姿見の蒼《あお》さったら、月もささなかったって云うんですがね。――そして、お稲ちゃんのその時の顔ぐらい、色の白いって事は覚えないんですとさ――  髪結さんが、隣家《となり》の女房《かみさん》へ談話《はなし》なんです。  同一《おなじ》のが廻りますからね。  隣家《となり》と、お稲ちゃん許《とこ》と、同一《おなじ》のは、そりゃ可《い》いけれど、まあ、飛んでもない事……その法学士さんの家《うち》が、一つ髪結さんだったんでしょう。だもんだから、つい、その頃、法学士さんに、余所《よそ》からお嫁さんが来て、……箱根へ新婚旅行をして帰った日に頼まれて行って、初結いをしたって事を……可《よ》ござんすか……お稲ちゃんの島田を結いながら、髪結さんが話したんです。」 「ああ、悪い。」  と春狐は聞きながら、眉を顰《ひそ》めた。  同じように、打顰《うちひそ》んで、蘭菊は、つげの櫛で鬢《びん》の毛を、ぐいと撫でた。 「……気を附けないと……何でも髪結さんが、得意先の女の髪を一条《ひとすじ》ずつ取って来て、内証《ないしょ》で人のと人のと結び合わせて蔵《しま》っておいて御覧なさい。  世間は直ぐに戦争《いくさ》よりは余計乱れると、私、思うんですよ。  お稲さんは黙って俯向《うつむ》いていたんですって。左挿しに、毛筋を通して銀の平打《ひらうち》を挿込んだ時、先が突刺《つっささ》りやしないかと思った。はっと髪結さんが抜戻した発奮《はずみ》で、飛石へカチリと落ちました。……  ――口惜《くや》しい――とお稲ちゃんが言ったんですって。根揃《ねぞろ》え自慢で緊《し》めたばかりの元結《もっとい》が、プッツリ切れ、背中へ音がして颯《さっ》と乱れたから、髪結さんは尻餅をつきましたとさ。  でも、髪結さんは、あの娘《こ》の髪の事ばかり言って惜《おし》がってるそうですよ。あんな、美しい、柔軟《やわらか》な、艶《つや》の可《い》い髪は見た事がないってね、――死骸《しがい》を病院から引取る時も、こう横に抱いて、看護婦が二人で担架へ移そうとすると、背中から、ずッとかかって、裾よりか長うござんしたって……ほんとうに丈にも余るというんだわね。」 「ああ……聞いても惜《おし》い……何のために、髪までそんなに美しく世の中へ生れて来たんだ。」  春狐は思わず、詰《なじ》るがごとく急込《せきこ》んで火鉢を敲《たた》いた。 「ねえ、私にだって分りませんわ。」 「で、どうしたんだい。」 「お稲ちゃんは、髪を結った、その時きり、夢中なの。別に駈出《かりだ》すの、手が掛《かか》るのって事はなかったんだそうですけれど、たださえ細った食が、もうまるっきり通りますまい。  賺《すか》しても、叱っても。  しようがないから、病院へ入れたんです。お医者さんも初《はじめ》から首をお傾《ま》げだったそうですよ。  まあね。それでも出来るだけ手当をしたにはしたそうだけれど、やっぱり、……ねえ……おとむらいになってしまって――」  と薄《うっす》りした目のうちが、颯《さっ》とさめると、ほろりとする。        二十  春狐は肩を聳《そびや》かした。 「なったんじゃない……葬式《ともらい》にされたんだ。殺されたんだよ。だから言わない事じゃない、言語道断だ、不埒《ふらち》だよ。妹を餌《えさ》に、鰌《どじょう》が滝登りをしようなんて。」 「ええ、そうよ……ですからね、兄って人もお稲ちゃんが病院へ入って、もう不可《いけ》ないっていう時分から、酷《ひど》く何かを気にしてさ。嬰児《あかんぼ》が先に死ぬし、それに、この葬式《ともらい》の中だ、というのに、嫂《あによめ》だわね、御自慢の細君が、またどっと病気で寝ているもんだから、ああ稲がとりに来たとりに来たって、蔭ではそう云っていますとさ。」 「待っていた、そうだろう。その何だ、ハイカラな叔母なんぞを血祭りに、家中|鏖殺《みなごろし》に願いたい。ついでにお父さんの中気だけ治してな。」と妙に笑った。 「まあ、」  と目を睜《みは》って、 「串戯《じょうだん》じゃないわ、人の気も知らないで。」 「無論、串戯ではないがね、女言|濫《みだ》りに信ずべからず、半分は嘘だろう。」 「いいえ!」 「まあさ、お前の前だがね、隣の女房《かみさん》というのが、また、とかく大袈裟《おおげさ》なんですからな。」 「勝手になさいよ、人に散々|饒舌《しゃべ》らしといて、嘘じゃないわ。ねえ、お稲ちゃん、女は女同士だわね。」  と乙女椿に頬摺《ほおず》りして、鼻紙に据えて立つ……  実はそれさえ身に染みた。  床の間にも残ったが、と見ると、莟《つぼみ》の堅いのと、幽《かすか》に開いた二輪のみ。 「ちょっと、お待ち。」 「何《なあに》、」と襖《ふすま》に手を掛ける。 「でも、少し気になるよ、肝心、焦《こが》れ死《じに》をされた、法学士の方は、別に聞いた沙汰なしかい。」 「先方《さき》でもね、お稲ちゃんがその容体だってのを聞いて、それはそれは気の毒がってね――法学士さんというのが、その若い奥さんに、真になって言ったんだって――お前は二度目だ。後妻だと思ってくれ。お稲さんとは、確《たしか》に結婚したつもりだって――」  春狐はふと黙ってそれには答えず…… 「ああ、その椿は、成りたけ川へ。」 「流しましょうね、ちょっと拝んで、」  と二階を下りる[#「 と二階を下りる」は底本では「「と二階を下りる」]、……その一輪の朱鷺色《ときいろ》さえ、消えた娘の面影に立った。  が、幻ならず、最も目に刻んで忘れないのは、あの、夕暮を、門《かど》に立って、恍惚《うっとり》空を視《なが》めた、およそ宇宙の極まる所は、艶やかに且つ黒きその一点の秘密であろうと思う、お稲の双の瞳であった。  同じその瞳である。同じその面影である。……  ――お稲です――  と云って、振向いた時の、舞台の顔は、あまつさえ、凝《なぞら》えたにせよ、向って姿見の真蒼《まっさお》なと云う行燈《あんどん》があろうではないか。  美しい女《ひと》は屹《き》と紳士を振向いた。 「貴方《あなた》。」  若い紳士は、杖《ステッキ》を小脇に、細い筒袴《ずぼん》で、伸掛《のしかか》って覗《のぞ》いて、 「稲荷だろう、おい、狐が化けた所なんだろう。」と中折《なかおれ》の廂《ひさし》で押《おし》つけるように言った。  羽織に、ショオルを前結び。またそれが、人形に着せたように、しっくりと姿に合って、真向《まんむ》きに直った顔を見よ。 「いいえ、私はお稲です。」  紳士は、射られたように、縁台へ退《さが》った。  美しい女の褄《つま》は、真菰《まこも》がくれの花菖蒲《はなあやめ》、で、すらりと筵《むしろ》の端に掛《かか》った…… 「ああ、お稲さん。」  と、あたかもその人のように呼びかけて、 「そう。そして、どうするの。」  お稲は黙って顔を見上げた。  小さなその姿は、ちょうど、美しい女《ひと》が、脱いだ羽織をしなやかに、肱《ひじ》に掛けた位置に、なよなよとして見える。 「止《よ》せ!品子さん。」 「可《い》いわ。」 「見っともないよ。」 「私は構わないの。」        二十一 「ねえ、お稲さん、どうするの。」  とまた優しく聞いた。 「どうするって、何、小母さん。」  役者は、ために羽織を脱いだ御贔屓《ごひいき》に対して、舞台ながらもおとなしい。 「あのね、この芝居はどういう脚色《しくみ》なの、それが聞きたいの。」 「小母さん見ていらっしゃい。」  と云った。  その間《うち》も、縁台に掛けたり、立ったり、若い紳士は気が気ではなさそうであった。 「おい、もう帰ろうよ、暗くなった。」  雲にも、人にも、松崎は胸が轟《とどろ》く。 「待ってて下さい。」  と見返りもしないで、 「見ますよ、見るけれどもね、ちょっと聞かして下さいな。ね、いい児《こ》だから。」 「だって、言ったって、芝居だって、同一《おなじ》なんですもの、見ていらっしゃい。」 「急ぐから、先へ聞きたいの、ええ、不可《いけな》い。」  お稲は黙って頭《かぶり》を掉《ふ》る。 「まあ、強情だわねえ。」 「強情ではござりませぬ。」  と思いがけず幕の中から、皺《しわ》がれた声を掛けた。美しい女《ひと》は瞳を注いだ、松崎は衝《つ》と踏台を離れて立った。――その声は見越入道が絶句した時、――紅蓮《ぐれん》大紅蓮とつけて教えた、目に見えぬものと同一《おなじ》であった。 「役者は役をしますのじゃ。何も知りませぬ。貴女《あなた》がお急ぎであらばの、衣裳《いしょう》をお返し申すが可《い》い。」  と半ば舞台に指揮《さしず》をする。 「いいえ、羽織なんか、どうでも可いの、ただ私、気になるんです。役者が知らないなら、誰でも構いません。差支えなかったら聞かして下さい。一体ここはどこなんです。」 「六道の辻の小屋がけ芝居じゃ。」  と幕が動くように向うで言った。  松崎は、思わず紳士と目を見合った。小児《こども》なぞは眼中にない、男は二人のみだったから。  美しい女《ひと》は、かえって恐れげもなくこう言った。 「ああ、分りました、そしてお前さんは?」 「いろいろの魂を瓶《かめ》に入れて持っている狂言方じゃ。たって望みならば聞かせようかの。」 「ええ、どうぞ。」  と少々《わかわか》しいのが、あわれに聞えた。 「そこへ……髪結《かみゆい》が一人出るわいの。」  松崎は骨の硬くなるのを知ったのである。 「それが、そのお稲の髪を結うわいの。髪結の口からの、若い男と、美しい女と、祝言して仲の睦じい話をするのじゃ。  その男というのはの、聞かっしゃれ、お稲の恋じゃわいの、命じゃわいの。  もうもう今までとてもな、腹の汚《きたな》い、慾《よく》に眼《まなこ》の眩《くら》んだ、兄御のために妨げられて、双方で思い思うた、繋がる縁が繋がれぬ、その切なさで、あわれや、かぼそい、白い女が、紅蓮《ぐれん》、大紅蓮、……」  ああ、可厭《いや》な。 「阿鼻焦熱《あびしょうねつ》の苦悩《くるしみ》から、手足がはり、肉《み》を切《きり》こまざいた血の池の中で、悶《もだ》え苦《くるし》んで、半ば活《い》き、半ば死んで、生きもやらねば死にも遣《や》らず、死にも遣らねば生きも遣らず、呻《うめ》き悩んでいた所じゃ。  また万に一つもと、果敢《はかな》い、細い、蓮《はす》の糸を頼んだ縁は、その話で、鼠の牙《きば》にフッツリと食切られたが、……  ドンと落ちた穴の底は、狂気《きちがい》の病院|入《いり》じゃ。この段替ればいの、狂乱の所作《しょさ》じゃぞや。」  と言う。風が添ったか、紙の幕が、煽《あお》つ――煽つ。お稲は言《ことば》につれて、すべて科《しぐさ》を思ったか、振《ふり》が手にうっかり乗って、恍惚《うっとり》と目を睜《みは》った。……        二十二 「どうするの、それから。」  細い、が透《とお》る、力ある音調である。美しい女《ひと》のその声に、この折から、背後《うしろ》のみ見返られて、雲のひだ染《にじ》みに蔽《おお》いかかる、桟敷裏《さじきうら》とも思う町を、影法師のごとくようやく人脚の繁くなるのに気を取られていた、松崎は、また目を舞台に引附けられた。  舞台を見返す瞬間、むこうから、先刻《さっき》の編笠を被《かぶ》った鴉《からす》ような新粉細工が、ふと身を起して、うそうそと出て来るのを認めた。且つそれが、古綿のようにむくむくと、雲の白さが一団《ひとかたまり》残って、底に幽《かすか》に蒼空《あおぞら》の見える……遥《はる》かに遠い所から、たとえば、ものの一里も離れた前途《さき》から、黒雲を背後《うしろ》に曳《ひ》いて襲《おそ》い来るごとく見て取られた。  それ、もうそこに、編笠を深く、舞台を覗《のぞ》く。  いつの間にか帰って来て、三人に床几《しょうぎ》を貸した古女房も交って立つ。  彼処《かしこ》に置捨てた屋台車が、主《ぬし》を追うて自ら軋《きし》るかと、響《ひびき》が地を畝《うね》って、轟々《ごろごろ》と雷《らい》の音。絵の藤も風に颯《さっ》と黒い。その幕の彼方《かなた》から、紅蓮、大紅蓮のその声、舌も赤う、ひらめくと覚えて、めらめらと饒舌《しゃべ》る。…… 「まだ後が聞きとうござりますか。お稲は狂死《くるいじに》に死ぬるのじゃ。や、じゃが、家眷親属《うからやから》の余所《よそ》で見る眼《まなこ》には、鼻筋の透った、柳の眉毛、目を糸のように、睫毛《まつげ》を黒う塞《ふさ》いで、の、長煩らいの死ぬ身には塵《ちり》も据《すわ》らず、色が抜けるほど白いばかり。さまで痩《や》せもせず、苦患《くげん》も無しに、家眷息絶ゆるとは見たれども、の、心の裡《うち》の苦痛《くるしみ》はよな、人の知らぬ苦痛はよな。その段を芝居で見せるのじゃ。」 「そして、後は、」  と美しい女《ひと》は、白い両手で、確《しか》と紫の襟を圧《おさ》えた。 「死骸になっての、空蝉《うつせみ》の藻脱けた膚《はだ》は、人間の手を離れて牛頭《ごず》馬頭《めず》の腕に上下から掴《つか》まれる。や、そこを見せたい。その娘《こ》の仮髪《かつら》ぢゃ、お稲の髪には念を入れた。……島田が乱れて、糸も切《きれ》もかからぬ膚を黒く輝く、吾《あ》が天女の後光のように包むを見さい。末は踵《かかと》に余って曳《ひ》くぞの。  鼓草《たんぽぽ》の花の散るように、娘の身体《からだ》は幻に消えても、その黒髪は、金輪《こんりん》、奈落、長く深く残って朽ちぬ。百年《ももとせ》、千歳《ちとせ》、失《う》せず、枯れず、次第に伸びて艶を増す。その髪千筋一筋ずつ、獣《けもの》が食えば野の草から、鳥が啄《は》めば峰の花から、同じお稲の、同じ姿|容《かたち》となって、一人ずつ世に生れて、また同一《おなじ》年、同一《おなじ》月日に、親兄弟、家眷親属、己《おの》が身勝手な利慾《りよく》のために、恋をせかれ、情《なさけ》を破られ、縁を断《き》られて、同一《おなじ》思いで、狂死《くるいじに》するわいの。あの、厄年の十九を見され、五人、三人|一時《いっとき》に亡《う》せるじゃろうがの。死ねば思いが黒髪に残ってその一筋がまた同じ女と生れる、生きかわるわいの。死にかわるわいの。  その誰もが皆揃うて、親兄弟を恨む、家眷親属を恨む、人を恨む、世を恨《うら》む、人間五常の道乱れて、黒白《あやめ》も分かず、日を蔽《おお》い、月を塗る……魔道の呪詛《のろい》じゃ、何と! 魔の呪詛を見せますのじゃ、そこをよう見さっしゃるが可《い》い。  お稲の髪の、乱れて摩《なび》く処をのう。」 「死んだお稲さんの髪が乱れて……」  と美しい女《ひと》は、衝《つ》と鬢《びん》に手を遣ったが、ほつれ毛よりも指が揺《ゆら》いで、 「そして、それからはえ?」  と屹《きっ》と言う 「此方《こなた》、親があらば叱らさりょう。よう、それからと聞きたがるの、根問《ねど》いをするのは、愛嬌《あいきょう》が無うてようないぞ。女子《おなご》は分けて、うら問い葉問《はどい》をせぬものじゃ。」  雲の暗さが増すと、あたりに黒く艶が映《さ》す。  その中に、美しい女《ひと》は、声も白いまで際立って、 「いいえ、聞きたい。」        二十三 「たって聞きたくばの、こうさしゃれ。」  幕の蔭で、間《ま》を置いて、落着いて、 「お稲の芝居は死骸の黒髪の長いまでじゃ。ここでは知らぬによって、後は去《い》んで、二度|添《ぞい》どのに聞かっしゃれ、二度添いの女子《おなご》に聞かっしゃれ。」 「二度添とは? 何です、二度添とは。」  扱帯《しごき》を手繰るように繰返して問返した。 「か、知らぬか、のう。二度添とはの、二度目の妻の事じゃ。男に取替えられた玩弄《おもちゃ》の女子《おなご》じゃ。古い手に摘まれた、新しい花の事いの。後妻《うわなり》じゃ、後妻《ごさい》と申しますものじゃわいのう。」  ト一度|引《ひっ》かかったように見えたが、ちらりと筵《むしろ》の端を、雲の影に踏んで、美しい女《ひと》の雪なす足袋は、友染|凄《すご》く舞台に乗った。  目を明《あきら》かに凝《じっ》と視《み》て、 「その後妻とは、二度添とは誰れ、そこに居る人。」と肩を斜め、手を、錆《さ》びたが楯《たて》のごとく、行燈《あんどん》に確《しか》と置く。 「おおおお、誰や知らぬ、その二度添というのはの、……お稲が望《のぞみ》が遂げなんだ、縁の切れた男に、後で枕添《まくらぞえ》となった女子《おなご》の事いの。……娑婆《しゃば》はめでたや、虫の可《い》い、その男はの、我が手で水を向けて、娘の心を誘うておいて、弓でも矢でも貫こう心はなく、先方《さき》の兄者に、ただ断り言われただけで指を銜《くわ》えて退《すさ》ったいの、その上にの。  我勝手《われがって》や。娘がこがれ死《じに》をしたと聞けば、おのれが顔をかがみで見るまで、自惚《うぬぼ》れての。何と、早や懐中《ふところ》に抱いた気で、お稲はその身の前妻じゃ。――  との、まだお稲が死なぬ前に、ちゃッと祝言した花嫁御寮に向うての、――お主《ぬし》は後妻じゃ、二度目ぢゃと思うておくれい、――との。何と虫が可《よ》かろうが。その芋虫にまた早や、台《うてな》も蕊《しべ》も嘗《な》められる、二度添どのもあるわいの。」  と言うかと思う、声の下で、 「ほほほほほ」  と口紅がこぼれたように、散って舞うよと花やかに笑った。  ああ、膚《はだ》が透く、心が映る、美しい女《ひと》の身の震う影が隈《くま》なく衣《きぬ》の柳条《しま》に搦《から》んで揺れた。 「帰ろう、品子、何をしとる。」  紳士はずかずかと寄って、 「詰《つま》らん、さあ、帰るんです、帰るんだ。」  とせり着くように云ったが、身動きもしないのを見て、堪《たま》りかねた体《てい》で、ぐいと美しい女《ひと》の肩を取った。 「帰らんですか、おい、帰らんのか。」  その手は衝《つ》と袖で払われた。 「貴方《あなた》は何です。女の身体《からだ》に、勝手に手を触って可《い》いんですか。他人の癖に、……」 「何だ、他人とは。」  憤気《むき》になると、…… 「舞台へ、靴で、誰、お前は。」  先刻《さっき》から、ただ柳が枝垂《しだ》れたように行燈に凭《もた》れていた、黒紋着《くろもんつき》のその雪女が、りんとなって、両手で紳士の胸を圧《お》した。  トはっとした体《てい》で、よろよろと退《しさ》ったが、腰も据らず、ひょろついて来て縋《すが》るように寄ったと思うと、松崎は、不意にギクと手首を持たれた。 「貴方《あなた》を、伴侶《つれ》、伴侶と思います。あ、あ、あの、楽屋の中が、探険、……」  紳士は探険と言った。 「た、た、探険したい。手を貸して下さい。御、御助力が願いたい。」 「それはよくない。不可《いけ》ません。見物は、みだりに芝居の楽屋へ入るものではないんです。」 「そ、そんなら、妻《さい》を――人の見る前、夫が力ずくでは見っともない。貴方、連出して下さい、引張出《ひっぱりだ》して下さい、願います。僕を、他人だなんて僕を、……妻は発狂しました。」        二十四 「いいえ、御心配には及びません。」  松崎は先んじられた……そして美しい女《ひと》は、淵《ふち》の測り知るべからざる水底《みなそこ》の深き瞳を、鋭く紳士の面《おもて》に流して 「私は確《たしか》です。発狂するなら貴方がなさい、御令妹《ごれいまい》のお稲さんのために。」  と、爽《さわや》かに言った。 「私とは、他人なんです。」 「他人、何だ、何だ。」  と喘《あえ》ぐ、 「ですが、私に考えがあって、ちょっと知己《ちかづき》になっていたばかりなんです。」  美しい女《ひと》は、そんなものは、と打棄《うっちゃ》る風情で、屹《き》とまた幕に向って立直った。 「そこに居る人……お前さんは不思議に、よく何か知っておいでだね、地獄、魔界の事まで御存じだね。豪《えら》いのね。でも悪魔、変化《へんげ》ばかりではない、人間にも神通《じんずう》があります。私が問うたら、お前さんは、去《い》って聞けと言いましたね。  私は即座に、その二度|添《ぞい》、そのうわなり、その後妻に、今ここで聞きました。……  お稲さんが亡くなってから、あとのその後妻の芝居を、お前さんに聞かせましょうか。聞かせましょうか。それともお前さんは御存じかい。」  幕の内で、 「朧気《おぼろげ》じゃ、冥土《めいど》の霧で朧気じゃ。はっきりした事を聞きたいのう。」 「ええ、聞かしてあげましょう。――男に取替えられた玩弄《おもちゃ》は、古い手に摘まれた新しい花は、はじめは何にも知らなかったんです。清い、美しい、朝露に、旭《あさひ》に向って咲いたのだと人なみに思っていました。ですが、蝶が来て、一所に遊ぶ間もなかったんです。  お稲さんの事を聞かされました。玩弄《おもちゃ》は取替えられたんです、花は古い手に摘《つま》れたんです……男は、潔い白い花を、後妻になれと言いました。  贅沢《ぜいたく》です、生意気です、行過ぎています。思った恋をし遂げないで、引込んだら断念めれば可《い》い、そのために恋人が、そうまでにして生命《いのち》を棄てたと思ったら、自分も死ねば可《い》いんです。死なれなければ、死んだ気になって、お念仏を唱えていれば可いんです。  力が、男に足りないで、殺させた女を前妻だ、と一人|極《ぎ》めにして、その上に、新妻《にいづま》を後妻になれ、後妻にする、後妻の気でおれ、といけ洒亜々々《しゃあしゃあ》として、髪を光らしながら、鰌髭《どじょうひげ》の生えた口で言うのは何事でしょうね。」 「いよいよ発狂だ、人の前で見っともない。」  紳士は肩で息をした、その手は松崎に縋《すが》っている。…… 「ええ、人の前で、見っともないと云って、ここには幾多《いくたり》居ます。指を折って数えるほどもない。夫が私を後妻にしたのは、大勢の前、世間の前、何千人、何万人の前だか知れません。  夫も夫、お稲さんの恋を破った。そこにおいでの他人も他人、皆《みんな》、女の仇《かたき》です。  幕の中の人、お聞きなさい。  二度添にされた後妻はね……それから夫の言《ことば》に、わざと喜んで従いました。  涙を流して同情して、いっそ、後妻と云うんなら、お稲さんの妹分になって、お稲さんにあやかりましょう。そのうまれ代わりになりましょう、と云って、表向きつてを求めて、お稲さんの実家に行って、そして私を――その後妻を――兄さんの妹分にして下さい、と言ったんです。  そこに居る他人は、涙を流して喜びました。もっとも、そこに居るようなハイカラさんは、少《わか》い女が、兄さん、とさえ云ってやれば、何でも彼《か》でも涙を流すに極《きま》っています。  私は精々《せっせ》と出入《ではい》りしました。先方《さき》からも毎日のように来るんです。そして兄さん、兄さんと、云ううちには、きっと袖を引くに極《きま》っているんです。しかも奥さんは永々の病気の処、私はそれが望みでした。」  電《いなびかり》が、南辻橋、北の辻橋、菊川橋、撞木《しゅもく》橋、川を射て、橋に輝くか、と衝《つ》と町を徹《とお》った。        二十五 「その望みが叶《かな》ったんです。  そして、今日も、夫婦のような顔をして、二人づれで、お稲さんの墓参りに来たんです――夫は、私がこうするのを、お稲さんの霊魂《たましい》が乗りうつったんだと云って、無性に喜んでいるんです。  殺した妹の墓の土もまだ乾かないのに、私と一所に、墓参りをして、御覧なさい、裁下《たちお》ろしの洋服の襟に、乙女椿の花を挿して、お稲は、こういう娘だったと、平気で言います。  その気ですからね。」  紳士の身体《からだ》は靴を刻んで、揺上《ゆりあ》がるようだったが、ト松崎が留めたにもかかわらず、かッと握拳《にぎりこぶし》で耳を圧《おさ》えて、横なぐれに倒れそうになって、たちまち射るがごとく町を飛んだ。その状《さま》は、人の見る目に可笑《おかし》くあるまい、礫《つぶて》のごとき大粒の雨。  雨の音で、寂寞《ひっそり》する、と雲にむせるように息が詰《つま》った。 「幕の内の人、」  美しい女《ひと》は、吐息《といき》して、更《あらた》めて呼掛けて、 「お前さんが言った、その二度添いの談話《はなし》は分ったんですか。」 「それから、」  と雨に濡れたような声して言う。 「これが知れたら、男二人はどうなります。その親兄弟は? その家族はどうなると思います。それが幕なのです。」 「さて、その後《あと》はどうなるのじゃ。」 「あら、……」  もどかしや。 「お前さんも、根問《ねどい》をするのね。それで可《い》いではありませんか。」 「いや、可《よ》うないわいの、まだ肝心な事が残ったぞ。」 「肝心な事って何です。」 「はて、此方《こなた》も、」  雨に、つと口を寄せた気勢《けはい》で、 「知れた事じゃ……肝心のその二度添《ぞい》どのはどうなるいの。」  聞くにも堪えじ、と美しい女《ひと》の眦《まなじり》が上《あが》った。 「ええ、廻りくどい! 私ですよ。」  と激した状《さま》で、衝《つ》と行燈《あんどん》を離れて、横ざまに幕の出入口に寄った。流るるような舞台の姿は、斜めに電光《いなびかり》に颯《さっ》と送られた。…… 「分っているがの。」  と鷹揚《おうよう》に言って、 「さてじゃ、此方《こなた》の身は果《はて》はどうなるのじゃ。」 「…………」  ふと黙って、美しい女《ひと》は、行燈に、しょんぼりと残ったお稲の姿にその眦《まなじり》を返しながら、 「お前さんの方の芝居は? この女はどうなる幕です。」 「おいの、……や、紛れて声を掛けなんだじゃで、お稲は殊勝気《けなげ》に舞台じゃった。――雨に濡りょうに……折角の御見物じゃ、幕切れだけ、ものを見しょうな。」  と言うかと思うと、唐突《だしぬけ》にどろどろと太鼓が鳴った。音を綯交《なえま》ぜに波打つ雷《らい》鳴る。  猫が一疋と鼬《いたち》が出た。  ト無慙《むざん》や、行燈の前に、仰向《あおむ》けに、一個《ひとつ》が頭《つむり》を、一個《ひとつ》が白脛《しらはぎ》を取って、宙に釣ると、綰《わが》ねの緩んだ扱帯《しごき》が抜けて、紅裏《もみうら》が肩を辷《すべ》った……雪女は細《ほっそ》りとあからさまになったと思うと、すらりと落した、肩なぞえの手を枕に、がっくりと頸《うなじ》が下《さが》って、目を眠った。その面影に颯《さっ》と影、黒髪が丈《たけ》に乱れて、舞台より長く敷いたのを、兇悪異変な面《つら》二つ、ただ面《めん》のごとく行燈より高い所を、ずるずると引いて、美しい女《ひと》の前を通る。  幕に、それが消える時、風が擲《なげう》つがごとく、虚空から、――雨交りに、電光の青き中を、朱鷺色《ときいろ》が八重に縫う乙女椿の花一輪。はたと幕に当って崩れもせず……お稲の玉なす胸に留まって、たちまち隠れた。  美しい女《ひと》は筵《むしろ》に爪立《つまだ》って身悶《みもだ》えしつつ、 「お稲さんは、お稲さんは、これからどうなるんです、どうなるんです。」 「むむ、くどいの、あとは魔界のものじゃ。雪女となっての、三つ目入道、大入道の、酌なと伽《とぎ》なとしょうぞいの。わはは、」  と笑った。  美しい女《ひと》は、額を当てて、幕を掴《つか》んで、 「生意気な事をお言いでない。幕の中の人、悪魔、私も女だよ、十九だよ……お稲さんと同じ死骸になるんだけれど、誰が、誰が、酌なんか、……可哀相にお稲さんを――女はね、女はね、そんな弱いものじゃない。私を御覧。」  はたた、はたた神。  南無三宝《なむさんぽう》、電光に幕あるのみ。 「あれえ。」と聞えた。  瞬間、松崎は猶予《ためら》ったが、棄ておかれぬのは、続いて、編笠した烏と古女房が、衝《つ》と幕を揚げて追込んだ事である。  手を掛けると、触るものなく、篠《しの》つく雨の簾《すだれ》が落ちた。  と見ると、声のしたものは何も見えない。三つ目入道、狐、狸、猫も鼬もごちゃごちゃと小さく固まっていたが、松崎の殺進に、気を打たれたか、ばらばらと、奥へ遁《に》げる。と果《はて》しもなく野原のごとく広い中に、塚を崩した空洞《うつろ》と思う、穴がぽかぽかと大《おおき》く窪《くぼ》んで蜂の巣を拡げたような、その穴の中へ、すぽん、と一個《ひとつ》ずつ飛込んで、ト貝鮹《かいだこ》と云うものめく……頭だけ出して、ケラケラと笑って失《う》せた。  何等の魔性ぞ。這奴《しゃつ》等が群り居た、土間の雨に、引挘《ひきむし》られた衣《きぬ》の綾《あや》を、驚破《すわ》や、蹂躙《ふみにじ》られた美しい女《ひと》かと見ると、帯ばかり、扱帯《しごき》ばかり、花片《はなびら》ばかり、葉ばかりぞ乱れたる。  途端に海のような、真昼を見た。  広場は荒廃して日久しき染物屋らしい。縦横《たてよこ》に並んだのは、いずれも絵の具の大瓶《おおがめ》である。  あわれ、その、せめて紫の瓶なれかし。鉄のひびわれたごとき、遠くの壁際の瓶の穴に、美しい女《ひと》の姿があった。頭《つむり》を編笠が抱えた、手も胸も、面影も、しろしろと、あの、舞台のお稲そのままに見えたが、ただ既に空洞《うつほ》へ入って、底から足を曳《ひ》くものがあろう、美しい女《ひと》は、半身を上に曲げて、腰のあたりは隠れたのである。  雪のような胸には、同じ朱鷺色《ときいろ》の椿がある。  叫んで、走りかかると、瓶の区劃《しきり》に躓《つまず》いて倒れた手に、はっと留南奇《とめき》して、ひやひやと、氷のごとく触ったのは、まさしく面影を、垂れた腕《かいな》にのせながら土間を敷いて、長くそこまで靡《なび》くのを認めた、美しい女《ひと》の黒髪の末なのであった。  この黒髪は二筋三筋指にかかって手に残った。  海に沈んだか、と目に何も見えぬ。  四ツの壁は、流るる電《いなびかり》と輝く雨である。とどろとどろと鳴るかみは、大灘《おおなだ》の波の唸《うな》りである。 「おでんや――おでん。」  戸外《おもて》を行《ゆ》く、しかも女の声。  我に返って、這《は》うように、空屋の木戸を出ると、雨上りの星が晃々《きらきら》。  後で伝え聞くと、同一《おなじ》時、同一《おなじ》所から、その法学士の新夫人の、行方の知れなくなったのは事実とか。……松崎は実は、うら少《わか》い娘の余り果敢《はか》なさに、亀井戸|詣《もうで》の帰途《かえるさ》、その界隈《かいわい》に、名誉の巫子《いちこ》を尋ねて、そのくちよせを聞いたのであった……霊の来《きた》った状《さま》は秘密だから言うまい。魂《たま》の上《あが》る時、巫子は、空《くう》を探って、何もない所から、弦《ゆんづる》にかかった三筋ばかりの、長い黒髪を、お稲の記念《かたみ》ぞとて授けたのを、とやせんとばかりで迷《まよい》の巷《ちまた》。  黒髪は消えなかった。 [#地から1字上げ]大正二(一九一三)年五月 底本:「泉鏡花集成6」ちくま文庫、筑摩書房    1996(平成8)年3月21日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第十五卷」岩波書店    1940(昭和15)年9月20日発行 ※誤植箇所の確認には底本の親本を用いました。 入力:門田裕志 校正:高柳典子 2007年2月12日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。