流線間諜 海野十三 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)其《そ》の |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)青年探偵|帆村荘六《ほむらそうろく》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)これから君にちと[#「ちと」に傍点] -------------------------------------------------------    R事件  いわゆるR事件と称せられて其《そ》の奇々怪々を極めた事については、空前にして絶後だろうと、後になって折紙がつけられたこの怪事件も、その大きな計画に似あわず、随分《ずいぶん》永い間、我国の誰人にも知られずにいたというのは、不思議といえば不思議なことだった。  だが、後に詳《くわ》しく述べるように、このR事件というのは実をいえば当時、国内問題のために非常な重大危機に立っていた某国政府当局が、その国家的自爆から免《のが》れる最後の手段として、相手もあろうにわが日本帝国に対して、試みた非常工作なのであった。もし其《そ》の怪計画が不幸にして曝露《ばくろ》するようなことがあれば其《そ》の計画の破天荒《はてんこう》な重大性からみて、日本帝国は直《ただ》ちに立って宣戦布告をするだろうし、同時に列強としても某国を人道上の大敵として即時に共同戦線を張らなければならないことになるのは必定《ひつじょう》であって結局某国としてはこの怪計画に関し極度に秘密性を保つ必要があったのである。  一体その怪計画というのはどんなことだったか? それはいま読者諸君の何人といえども恐らく夢想だにされないであろうと思うような実に戦慄《せんりつ》すべき陰謀だった。いずれ順序を追って述べてゆくうちにその怪計画の全貌が分る日が来るだろうが、そのときにはきっと筆者《わたくし》の今いった言葉の偽《いつわ》りではなかったことを知っていただけるであろう。  某国政府当局は、国運を賭《か》けたこの怪計画のために、特によりすぐった特務機関隊を編成して、丁度《ちょうど》一年前からわが国に潜入させたのだった。その計画の重大性からいっても、また派遣特務員の信頼するに足る技倆《ぎりょう》からいっても、この事件は目的を達するまで遂に全く秘密裡《ひみつり》におかれるのではないかと思われたのであるけれども、世の中のことというものはなかなかうまくゆかないものであって、運命の神のいたずらとでも云おうか偶然が作った極《ご》く瑣細《ささい》な出来ごとから、その年の十月、この怪計画に関係のある一部分が始めて我が官憲に知られるに至った。これがR事件の最初の一頁《ページ》なのであるが、それは白昼華やかな銀座街の鋪道《ほどう》の上で起った妙齢《みょうれい》の婦人の怪死事件から始まる。そして若《も》しその怪死事件の現場にかの有名な青年探偵|帆村荘六《ほむらそうろく》が居合わさなかったとしたら、これは舞台が華やかな銀座で演じられたというだけのことで結局|極《ご》く普通の死亡事件として見遁《みのが》されてしまったことであろう。一体帆村探偵は何を証拠として、その犯罪の裏にひそんでいた怪奇性を看破したのであろうか。実にそれはたった一個のマッチの箱からだったといえば、誰しも驚くにちがいない。筆者はこの辺で長い前置きを停《や》めて、まず白昼の銀座街を振り出しのR事件第一景について筆をすすめてゆこうと思う。  それは爽《さわ》やかな秋晴れの日のことだった。詳しくいえば十月一日の午後三時ごろのことだったが、青年探偵帆村荘六は銀座の鋪道の上を、靴音も軽く歩いていた。丁度《ちょうど》彼は永い間かかった或る仕事を片づけた直後で、半《なか》ば興奮し、そして半ば退屈を覚えて、いつも愛用の細身の洋杖《ステッキ》をふりふり散歩をしていたのだった。  鋪道の上で、彼にすれ交《か》う人たちは、いずれも若く、そして美しかった。男よりも、どっちかというと若い女性が多かった。溌溂《はつらつ》たる令嬢、麗《やさ》しい若奥様、四、五人づれで喋《しゃべ》ってゆく女学生、どこかで逢ったことのある女給、急ぎ足のダンサーなどと、どっちを向いても薔薇《ばら》の花園に踏みこんでいるような気がした。しかしよもやその日花園の中で彼女等のうちの一人が死んでゆくところを目撃しようとは考えていなかった。  彼は銀座の四つ角を青信号の間に渡って、京橋の方に向って歩いているところだった。もう半丁《はんちょう》もゆけば喫茶ギボンがあるので、そこによって温い紅茶をのもうと思った。そして眼をあげてチラリとその方角を眺めた。丁度そのときだった。彼は一人の洋装の麗人が喫茶ギボンの飾窓《ショウインドウ》の前で立ち停《どま》ったままスローモーションの操《あやつ》り人形《にんぎょう》のように上体をフラリフラリと動かしているのを認めた。 「オヤ、どうしたんだろう?」  きっと練兵場の近くの女のひとで、見よう見真似で、足踏みでもしているのだろうと思っていたところ、突然ガックリと頭を垂れた。 「これァいけない!」  と驚いて帆村が叫んだのがキッカケのように、かの洋装の麗人は呀《あ》っという間もなく崩れるように地面に膝を折り、そして中心を失ってドタリと鋪道の上に倒れてしまった。 「脳貧血かしら……」  帆村は息せききって、彼女の倒れている場所へ駈けつけた。近くにいた人たち五、六人が駈けつけたが、ワアワア騒ぐばかりだった。帆村はその人たちを押しのけて前へ出た。そして誰よりも先に、倒れている婦人の脈搏《みゃくはく》を検《しら》べた。――指先には脈が全然触れない。つづいて、眼瞼《まぶた》を開いてみたが……もう絶望だった。 「おお……死んでいる!」 「たいへんだ。若い女が倒れた」 「自殺したんだそうだ。桃色の享楽《きょうらく》が過ぎて、とうとう思い出の古戦場でやっつけたんだ」 「イヤそうじゃない。誰かに殺されたんだ。恐ろしい復讐なんだ!」  なにがさて、物見高い銀座の、しかも白昼の出来ごとだから、たちまち黒山のような人だかりとなった。もし帆村探偵が死にものぐるいになって喚《わめ》きながら群衆を整理しなかったとしたら、屍体《したい》は群衆の土足に懸《かか》って絶命当時の姿勢を失い、取調べの係官の眉を顰《ひそ》めさせたろうと思う。いやそれも、もうすこし警官隊の駈けつけ方が遅かったら、屍体はもちろん、帆村自身も群衆のために揉《も》みくちゃになったことだろう。丁度いい塩梅《あんばい》に、帆村が向うの喫茶ギボンの女給に頼んだ電話によって、強力《ごうりき》犯係の一行が現場に到着したので危く難をのがれることができた。 「オヤオヤ、これは帆村君」と、顔馴染《かおなじみ》の大江山《おおえやま》捜査課長が赭《あか》い顔を現した。「お招きによってどんな面白い流血事件でもあるのかと思って来たが、これは尖端嬢が目を廻しただけのことじゃないのかネ」 「いや、もう死んでいますよ」 「なに、こいつが死んでいるって」と大江山課長は頤《あご》で屍体を指した。「ふふーン」  課長は鋪道に膝をついて、さっき帆村がやったと同じことをして検べた。そして間もなく、手をポンポンと払って立ち上がった。 「死んでいることは確かだネ、だがこれは尖端嬢の頓死《とんし》事件じゃないのかネ。普段心臓が弱かったとかなんとかいう……。要するに、見たところ、何の外傷もないし――」  そのとき鑑識課員が現場撮影をする準備ができたので、課長たちに屍体から離れてくれるように声をかけた。 「大江山さん、これは疑いもなく、他殺ですよ――」  と帆村は飾窓《ショウインドウ》の外へ立ちながら云った。 「他殺? どうして? 解《げ》せんね」 「なァに、何でもないことですよ。あの女の靴下に大きな継布《つぎ》の当っているのを見ましたか。もし自殺する気なら、あのモダンさでは靴下ぐらい新しいのを買って履きますよ。なぜならあの女は手提《バッグ》の中に五十何円もお小遣いを持っているのですからネ」 「つまり自殺でないから、他殺だというんだネ。いや、そうはいえない。頓死かも知れない――さっき僕が指摘したように」 「もちろん頓死じゃありませんよ」と帆村は首を振って、「ごらんにならなかったでしょうか、あの婦人の口腔《こうくう》の中の変色した舌や粘膜《ねんまく》を。それから変な臭いのすることを。――あれだけのことがあれば、頓死とはいえませんよ」 「それは見ないでもなかったが」と課長はすこし顔を赭らめていった。「じゃあ、中毒死だというんだろうが、それは頓死としても起り得ることじゃないかネ」 「課長《あなた》の頓死といわれるのは図《はか》らずして自分だけで偶然の死を招いたという意味でしょうが、しかしそれに死ぬような原因を他《よそ》から与えた者があれば、それはやはり他殺なんですからネ」 「すると君は、まだ何か知っているというんだネ」 「もう一つだけですが、知っていますよ。それはあの手提《バッグ》の中にある一つの燐寸《マッチ》です。それは時計印のごく普通のものですがネ。たいへん似あわしからぬことがあるんです」 「なに、燐寸が……」  課長はツカツカと屍体の傍により、傍に落ちていた手提をもって来た。そして中を開けると、なるほど時計印の燐寸箱が入っていた。 「これは至極《しごく》普通の燐寸だネ。なにも変ったところが認められん」 「そうでしょうかしら」と帆村は首を振って「私はたいへん不思議です。第一このような不恰好な燐寸箱が、そのようなスマートな手提に入っていることが不思議であり、第二には燐寸の赤燐《せきりん》の表面は新しくて一度も擦《す》った痕《あと》がないのに、その中身を見ると燐寸の数は半分ぐらいになっているのです。どうです、不思議じゃありませんか」 「ほう――」  と大江山課長は叫んで、燐寸の箱を開いてみると、なるほど不思議にも燐寸の軸木《じくぎ》は半分ほどしか入っていなかった。    怪紳士 「どうも僕には、事件に関係のない極く普通の燐寸としか考えられないがね」と大江山捜査課長は首を振って「ねえ雁金《かりがね》さん。そうじゃありませんか」と、事件を主査《しゅさ》している雁金検事の同意を求めた。 「さあ、どっちかな」と検事はこっちへ寄ってきながら、「これはまたいつもの御両所の水かけ論になりそうだネ。議論は一寸《ちょっと》お預けとしてマッチの秘密がとけてからのことにすればいいじゃないか」  検事はいつも、大江山課長と帆村探偵の意見の対立で、散々手を焼いていたので、巧《たく》みに逃げた。 「そうでしょうが、この帆村は非常に重大視します」と帆村はいつになくハッキリと意志を現して云った。「燐寸というものが極く普通のものだけにこれを利用した疑問の人物を唯者《ただもの》でないと睨《にら》みます」 「しかし利用したかどうかはまだ分らない。なにしろ燐寸は一度も擦った痕がない位だからな」 「いや立派に利用していますよ。擦ってないから可笑《おか》しいのです。擦ってあるんだったら軸木が半分なくなっても別に不思議もないのです」 「それほど不思議なら、燐寸の箱を壊《こわ》してよく調べてみたらどうだネ」と検事は云った。 「ねえ大江山君。その燐寸をバッグから出して帆村君に委《まか》せてもいいだろう」 「ええ、ようござんすとも。……では、出して来ましょう」  そういって大江山課長は、一人離れて、屍体の方に近づいた。そして跼《かが》んで、なにかゴソゴソやっていたが、なかなか立ち上ろうとしなかった。そのうちに、課長は不審そうな面持《おももち》で一同をジロリと眺めまわし、 「ああ……誰かこの手提《バッグ》の中から時計印の燐寸を持って行きやしないか」 「燐寸ですって?……いいえ」 「燐寸は先刻《さっき》収《しま》ったままですよ」 「誰も持っていった者がない!……さては……やられたッ」  やられたッ! と大江山課長が叫んだので、立ち並んだ検察隊は俄《にわ》かにどよめいた。 「帆村君、燐寸が見えない。これは中々《なかなか》の事件らしいぞ」  流石《さすが》事件の場数を経てきた捜査課長だけあって、ここへ来て始めて事件の重大性を悟ったのだった。帆村は別に驚いた顔もしていなかった。 「やっぱり、そうでしたか」 「そうだったとは……。君は何か心当りがあるのかネ」 「イヤさっき向うの飾窓《ショウインドウ》のところに、一人の身体《からだ》の大きな上品な紳士が、一匹のポケット猿を抱いて立ってみていましたがネ。そのうちにどうした機勢《はずみ》かそのポケット猿がヒラリと下に飛び下りて逃げだしたんです。そしてそこにある婦人の屍体の上をチョロチョロと渡ってゆくので警官が驚いて追払《おいはら》おうとすると、そこへ紳士が飛び出していって素早く捕えて鄭重《ていちょう》に詫言《わびごと》をいって猿を連れてゆきました。その紳士が曲者《くせもの》だったんですね」 「ナニ曲者だった?」課長は噛《か》みつくように叫んだ。 「そんならそうと、何故《なぜ》君は云わないんだ。そいつが掏摸《スリ》の名人かなんかで、猿を抱きあげるとみせて、手提《バッグ》から問題の燐寸を掏《す》っていったに違いない――」 「でも大江山さん、沢山《たくさん》の貴方の部下が警戒していなさるのですものネ。私が申したんじゃお気に障《さわ》ることは分っていますからネ」  大江山は、昔から彼の部下が帆村を目の敵にして怒鳴りつけたことを思い出して、ちょっと顔を赧《あか》くした。 「とにかく怪しい奴を逃がしてしまっては何にもならんじゃないか。気をつけてくれなきゃあ、――」 「ああ、その怪紳士の行方《ゆくえ》なら分りますよ」 「なんだって?」と大江山は唖然《あぜん》として、帆村の顔を穴の明くほど見詰めた。そして、やがて、 「どうも君は意地が悪い。その方を早くいって呉れなくちゃ困るね。一体どこへ逃げたんだネ」 「さあ、私はまだ知らないんですが、間もなくハッキリ分りますよ」 「え、え、え、え?――」  流石の大江山課長も今度は朱盆《しゅぼん》のように真赤になって、声もなく、ただ苦し気に喘《あえ》ぐばかりだった。    奇怪なる発狂者 「帆村君、君は本官《ぼく》を揶揄《からか》うつもりか。そこにじっと立っていて、なぜ、あの怪紳士の行方が分るというのだ」  大江山捜査課長は真剣に色をなして、帆村に詰めよった。さあ一大事……。 「冗談じゃない、本当なのですよ、大江山さん」と、帆村は彼の癖で長くもない頤《あご》の先を指で摘《つ》まみながらいった。「これは雁金検事さんにも聞いていただきたいのですけれど、実は今群衆の中に、私の助手である須永《すなが》が交って立っていたのです。そこへ怪紳士があの早業《はやわざ》をやったものですから、すぐさま須永に暗号通信を送って怪紳士を追跡しろと命じたのです。彼はすぐ承知をして、列を離れました。間もなく知らせてくるから、一切《いっさい》が分りますよ」 「なんだ、そうだったのか」と雁金検事は横から笑いかけながら、「しかし暗号通信というのは、どんなものかね」 「そいつは私たちの間だけに通用する指先の運動ですよ。こんな風に、頤の下で動かすんです」  と帆村は五本の指を器用に動かして、 「いま動かしたのが、(屍体を早く解剖にした方がよろしい)という文句を暗号に綴《つづ》ったんです」 「ふふん。中々口の減らない男だな」と検事は苦《に》が笑《わら》いをして、「大江山君、その婦人の屍体を早く法医学教室へ送って解剖に附してくれ給え。ことに胃の内容物を検査して貰うんだよ。いいかね」 「承知しました」  と、大江山課長は帆村にやりこめられたのを我慢してそれを部下に命令を下した。そこで婦人の屍体はすぐ真白な担架《たんか》の上に移され、鋪道の傍《かたわら》に待っていた寝台自動車にのせて、送りだされた。物見高い群衆は、追い払えど、なかなか減る様子もない。 「帆村君」と大江山課長が近づいて「怪紳士の行方が分るのは幾時《いつ》ごろかね。十日も二十日も懸《かか》るのなら、こんなとこに立っていては風邪を引くからね」 「イヤ課長さん。そうは懸らないつもりですよ。まず早ければ三十分、遅くても今夜一杯でしょう」 「そんなに懸るのかネ。では一応本庁に引上げて、君にビールでも出そうと思うよ」  そういうと、大江山は検事と相談して、検察隊一行の引揚げを命じたのだった。  警視庁へ引上げた一行は、とうとう夕飯が出るようになっても、帆村の助手の報告を聞くことが出来なかった。それに引き替え、大学の法医学教室からは、婦人の死因について第一報が入って来た。 「婦人ノ推定年齢ハ二十二歳、目下《モッカ》姙娠四箇月ナリ、死因ハ未《イマ》ダ詳《ツマビラ》カナラザレド中毒死ト認ム」  この報告は捜査本部の話題となった。 「姙娠四箇月とは気がつかなんだねえ」 「中毒死とすると、誰に薬を呑《の》まされたんだろう」 「自殺じゃないかネ」 「それは違う。帆村探偵も云っていたが、自殺とは認められん」 「須永という男は名前のように気が永いと見える。早く帰って来んかなァ。もう七時だぜ」  しかしその七時が八時になっても愚《おろ》か、十二時を打っても須永は帰って来なかった。  須永に限り、こんなに遅くなることはない。遅くなりそうだったら、途中から電話か使いかを寄越《よこ》す筈《はず》だった。それが何も云って寄越さないのだから不審だった。といって須永を探しにゆくにも手懸《てがか》りがなかった。  遂《つい》に夜が明けてしまった。  帆村には、もう大江山課長の揶揄《からかい》も耳に入らなかった。 「須永は、どうしたんだろう?」  彼は痺《しび》れるような足を伸して、窓際《まどぎわ》に行った。そして本庁の前を漸《ようや》く通り始めた市内電車の空いた車体を眺めた。  そのときだった。二人連れの警官が一人の男を引張ってこっちへ来るのが見えた。男は、ズボン一つに、上にはボロボロに裂けたワイシャツを着ていた。よほど怪力と見えて、やっと懸け声をして腕をふると、二人の警官は毬《まり》のように転《ころ》がった。それで自由になったから逃げだすかと思いの外、彼《か》の若者は路上でどこかのレビュウで覚えたらしい怪しげな舞踊を始め、変な節で歌うのであった。可哀想に彼の若者は気が変になっているらしかった。  帆村は気の毒そうにその人の舞踊をみていたが、どうしたのか、ハッと顔色をかえると、顔を硝子窓《ガラスまど》に擦《す》りつけて叫んだ。 「うん、あれは確かに須永に違いない。どうして気が変になってしまったんだろう」    右足のない梟《ふくろう》  此処《ここ》は或る広間の中のことであった。この部屋を見渡して、たいへん不思議に思うことは、窓が一つも見えない上に周囲の壁がのっぺらぼうで扉《ドア》が一つも見えない。どこから出たり入ったりするのか分らない、何階の部屋だかも分らない、しかしその広間には、凡《およ》そ二十|脚《きゃく》ほどの椅子がグルッと円陣をなして置いてあり、その中に、特に立派な背の高い椅子が一つあるが、その前にだけ、これも耶蘇教《やそきょう》の説教台のような背の高い机が置いてあった。人間の姿は見えないが、どうやら会議室らしい。  と、突然どこからともなく妙な音楽が聞え始めた……と思っていると、いつの間にか置かれた椅子の前にマンホールのような丸い穴がポッカリと明いた。その隙間から、明るい光が見える。それは其《そ》の部屋の床下に点《つ》いている灯《あかり》のようだ。どこかでグーンという機械の呻《うな》る音が聞えた。すると不思議! その穴の一つ一つに、何か黒いものが見えたと思ったら、それが徐々《じょじょ》に上に迫《せ》り上ってきた。見る見るそれは床上から高く突きでてきて、やがて人間の高さになったかと思うと、ピッタリと停った。まるで黒い筍《たけのこ》を丸く植えたように見えた。――そこで黒い筍は号令でもかけたかのように、腰を折って椅子に掛けた。よく見るとその黒い筍の頭の方には、ギラギラ光る二つの眼があった。それは頭のてっぺんから足の下まで、黒い布で作った袋のようにものを被《かぶ》っている人間だったことが、始めて知られた。まことに怪しき黒装束の一団! すると突然、音楽の曲目が違った。 「起立!」  という号令が掛る、とたんに、いままで空席だった唯一つの机の前に、ボンヤリと人影が現れたかと思うと、それが次第にハッキリとしてきてやがていつの間にか卓子《テーブル》の前には、これも全く一同と同じ服装をした怪人がチャンと起立していた。その首領らしき人物は、ギラリと眼を光らせると、サッと右手を水平にさし上げ、 「右足のない梟!」  と呼んだ。  するとそれが合図のようにその隣の黒装束が「壊《こわ》れた水車」と叫ぶ。その隣が「黄色い窓」という。そうして皆が別々に、わけの分らぬことを叫んだが、どうやらそれはこの一団の隠し言葉であって自分の名乗をあげたものらしかった。 「着席!」 「右足のない梟」と叫んだ首領は、そこで自《みずか》ら先に立って席に坐った。一同もこれに倣《なら》って席についた。 「今日はまず最初に、わがR団の第二号礼式を行う。――」  そういって一同をズッと眺めた。  すると、また別の、まるで地下に滅入《めい》るような音楽が起って来た。――ギギィッという軋《きし》るような音がして、途端《とたん》に一同の目の前の床が、畳《たたみ》一枚ほどガッと持ち上ってきたと思うと、それは上に迫り上って一つの四角な檻《おり》となった。檻の中には、同じ様な黒装束をした人間が二人突立っていた。  檻がピタリと停ると、「右足のない梟」の隣にいた「壊れた水車」が席を立って檻に近づき、それを開いて二人を引張り出した。一人は大きいし一人はやや低い。 「壊れた水車」は檻をまた旧《もと》のように床下に下ろした上で、二人を一座の中央に引据えて、その黒い服を剥《は》ぎとった。するとその覆面の下から現れた二つの顔! ああ意外にも、その大きい方の顔は、銀座に猿を連れて現れ、屍体からマッチ箱を盗んでいった大男だった。もう一人は知らない顔だった。 「まず最初に『狐の巣』に宣告する」と首領は言った。「君には秘密にすべきマッチ箱を売った失敗を贖《あがな》うことを命ずる。但《ただ》し我等の祖国は君の名をR団員の過去帖に誌《しる》して、これまでの忠勇を永く称するであろう、いいか」 「狐の巣」は絶望の眼をあげた。途端にドーン……という銃声が響いて「狐の巣」の身体は崩れるように床の上に倒れた。  例の大きな男は、これを見るや真青になった。    赤毛のゴリラ  銃殺に遭った「狐の巣」と呼ばれる男は多量の出血に弱りはてたものと見え、やがて宙を掴んだ手をブルブルと震わせると、そのまま落命した。 「さて次は『赤毛のゴリラ』に対する宣告であるが――」と首領「右足のない梟《ふくろう》」は厳《おごそ》かな口調で云った。一座はシーンと静まりかえって、深山幽谷《しんざんゆうこく》にあるのと何の選ぶところもない。 「――その前に、すこしばかり意見を交換して置きたい。『赤毛のゴリラ』が得意の猿を使ってマッチ箱を奪還《とりかえ》したことは、部下の過失をいささか償《つぐな》った形だが、そのマッチ一箱にはマッチが半数ほど失われている。見ればその箱にはマッチを擦った痕跡もないが一体どこへ失われたのか、意見はないか」 「本員にも明瞭《めいりょう》でありませぬが、お尋ねゆえに私見《しけん》を申上げます」と彼の大男はいった。「失われた半数のマッチは、かの頓死した日本婦人が嚥《の》み下《くだ》したものと思います。だから婦人は一命を損じたのです」 「ナニ嚥み下した。嚥み下すと死ぬのは分っているが、ではかの婦人はあのマッチの尖端が何で出来ているのか知っていたと思うか」 「それは知らなかったと思います。あの婦人は何かの身体の異状によって、マッチの軸《じく》を喰べないでいられなかったのです。つまり|赤燐喰い症《せきりんイーター》です。あの黒い薬をゴリゴリと噛みくだいて嚥んだので、マッチで火を点けたのではないから、箱には擦った痕跡がついていないのです」 「するとその婦人は、あのマッチの不足分は全部胃の中に送ったというのだな」 「そうです。私は確信しています。だから日本人の手に、あのマッチ一本だに渡っていないのです。ですから本員の除名は許していただきたいと思います」 「イヤ宣告に容喙《ようかい》することは許さぬ。――とにかくマッチが日本人の手に残らなかったのは何よりである。それがもし調べられたりすると、われわれが重大使命を果《はた》す上に一頓挫《いちとんざ》を来たすことになる。不幸中の幸だったといわなければならん。――では『赤毛のゴリラ』に宣告を与える。一同起立――」  十数名の黒衣の人物は一せいに起立した。「赤毛のゴリラ」の顔は見る見る土のように色褪《いろあ》せていった。ああ生命は風前の灯《ともしび》である。 「宣告、――君は『狐の巣』の監督を怠《おこた》り、重大なる材料を流出させたる失敗を贖《あがな》うことを命ずる。忠勇なる『赤毛のゴリラ』よ。地下に瞑《めい》……」瞑せよ――と云いかけたその刹那《せつな》の出来ごとだったが、突然どこからともなく一匹の鼠《ねずみ》が現れて、チョロチョロと首領の方へ走りだした。 「オヤッ――」  と叫んだ途端に、「赤毛のゴリラ」の懐《ふところ》からポケット猿がパッと飛出して、鼠の後を追いかけた。首領はハッと身を避けて、この小動物の追駆けごっこを見送った。他の黒装束の連中も思わず、ゾロゾロと前へ踏みだした。そのとき「赤毛のゴリラ」の影のように寄り添った黒装束の一人が素早く何か囁《ささや》いてソッと手渡したものがあった。――猿は室《へや》の隅でとうとう鼠を噛み殺してしまった。一座は元のように整列した。「右足のない梟」は、そこで再び厳かな口調で叫んだ。―― 「――『赤毛のゴリラ』よ、地下に瞑せよ」  ズドン。――と銃声一発。首領の手には煙の静かに出るピストルが握られている。  だだだだッと、「赤毛のゴリラ」は銃丸のために後に吹きとばされドターンと仰向《あおむ》けに斃《たお》れてしまった。そして石のように動かなくなった。 「これで第二号礼式を終った」と首領は恐ろしい礼式の終了を報じたが、このとき何を思ったものか、一座をキッと睨んで声を励《はげ》まして叫んだ。「――R団則の第十三条によって本員を除く他の臨席団員の覆面を脱ぐことを命ずるッ」  覆面を脱ぐ第十三条――それは極《きわ》めて重大な命令だった。覆面を脱げば、たいてい死刑か本国送還の何《いず》れかである。それは実に重大なる事態の発生を意味する。  サッ――と、一同は我を争って覆面を脱いだ。現れ出でたる思いがけないその素顔! 「何者だ、覆面をとらない奴は?」  なるほど一番遠い端にいる会員の一人はただ独り覆面をとろうとしない。それは「赤毛のゴリラ」に何か手渡した男だった。首領はピタリとその団員の胸にピストルを擬《ぎ》した。  覆面を取らぬ団員の生命は風前の灯にひとしかった。あわや第三の犠牲となって床の上を鮮血《せんけつ》に汚《よご》すかと思われたその刹那! 「うむ――」  と一声――かの団員の気合がかかると同時に、その右手がサッと宙にあがると見るやなにか黒い塊がピューッと唸《うな》りを生じて、首領「右足のない梟」の面上目懸けて飛んでいった。 「呀《あ》ッ――」  と叫んだのが先だったか、ドーンというピストル[#「ピストル」は底本では「ピルトル」]の音が先だったか、とにかく首領は素早く背を沈めた。  と、それを飛び越えるようにして円弧を描いていった黒塊は、行手にある頑丈な壁にぶつかって、  ガガーン!  と一大爆音をあげ、真白な煙がまるで数千の糸を四方八方にまきちらしたように拡がった。 「曲者《くせもの》! 偽団員だ!」 「遁《に》がすな、殺してしまえ!」  覆面のない十数名の団員はてんでに喚《わめ》きながら、怪しき黒影の上に殺到していったが、あらあら不思議、どうした訳か分らないが、彼等は拳《こぶし》を勢いよくふりあげたのはよいが云いあわせたように、よろよろと蹣跚《よろめ》き、まるで骨を抜きとられたかのように、ドッと床の上に崩折れてしまった。途端《とたん》に鼻粘膜《びねんまく》に異様な鋭い臭気を感じたのだった。毒瓦斯《どくガス》!――もう遅い。 「ざまを見ろ!」と覆面を取らぬ怪人は、ふくんだような声で叫んだが、 「あッ、こいつは失敗《しま》った」といって飛び出していった。そこにたしかに首領が立っていたと思ったのに、何処《どこ》へ行ったか、首領の姿がなかった。床の上には丸い鉄扉《てっぴ》が儼然《げんぜん》と閉じていて、蹴っても踏みつけても開こうとはしない。 「ちぇッ――逃がしたかッ」  流石《さすが》は首領であった。咄嗟《とっさ》の場合に、その場を脱れたものらしかった。 「この上は『赤毛のゴリラ』を頼むより外はない」  彼はスルスルと横に匍《は》って、奥の壁際に倒れている第二の犠牲者のところへ近づいた。 「オイッ、しっかりしろ!」 「赤毛のゴリラ」の上衣《うわぎ》を開くと、彼の胸には先刻《さっき》怪人からソッと渡された簡易防弾胸当《かんいぼうだんむねあて》が当っていた。しかし弾丸《たま》は運わるく胸当の端を掠《かす》めて、頤の骨にぶつかったらしく、頸のあたりを鮮血が赤く染めていた。その衝動が激しかったのか、彼は気絶していた。しかし心臓の鼓動は指先にハッキリ感ぜられた。 「このままでは、息を吹きかえすと同時に昏睡《こんすい》してしまうぞ。危い危い」  そういって怪人は黒衣の下からマスクのようなものを出し、ゴリラの顔面に被せてやった。そしてそれが済むと、ドンドンと背中を打って、 「おい、目を覚せ、目を覚すんだ!」  と叫んだ。  激しい刺戟《しげき》に「赤毛のゴリラ」はやっと気がついたか、ウーンと呻《うな》り始めた。 「オイ『赤毛』君。――しっかりするんだ。愚図愚図《ぐずぐず》していると、俺達は死んでしまうぞ」  怪人は気が気ではなかった。隠し持ちたる毒瓦斯を放ったのはよいが、首領を逸してしまっては危険この上もない。首領は何時彼の背後に迫ってくるか知れないのだ。 「ウーン。キ、君は誰だ!」  と赤毛は細い声で呻るように云った。 「誰でもいい。君に防弾衣を恵んだ男だ。――それよりも危険が迫っている。この部屋から早く逃げ出さねば、生命が危い。さあ、云いたまえ。どこから逃げられるのだ」 「あッ。――貴方《あなた》は団員ではないのだネ。イヤ、そんなことはどうでもよい。僕はもう死んでいる筈《はず》だったのだ。逃げよう、逃げよう。貴方と逃げよう。さあ、そこの床にあるスペードの印のあるところを押すんだ。早く、早く」 「なにスペードの印! アッ、これだナ」  と怪人が喜びの声をあげたとき、不意に天井の方から破《わ》れ鐘《がね》のような声が鳴り響いた。 「帆村探偵君、なにか遺言はないかネ」    首領対帆村  ――遺言はないか?  と天井裏から叫んだ者は、紛れもなく密室から逃げ去った首領にちがいなかった。その首領は(帆村探偵君!)と呼んだが、一体あの青年探偵帆村はどこにいるというのだ。此処《ここ》は×国|間諜団《かんちょうだん》の巣窟《そうくつ》ではないか。累々《るいるい》と横《よこた》わるのは、みな×国の間諜たちだった。もっとも一人だけ覆面を取らぬ団員があったが……。 「――君の勝だ! 好きなようにしたまえ」  と、突然叫んだのは、覆面を取らぬ彼の団員だった。彼はスックと立ち上るなり、両手を頭上にあげて、敵意のないのを示した。 「はッはッはッ」と天井裏の声は憎々《にくにく》しげな声で笑った。「日本の探偵さんは、案外もろいですネ。……さァ、動くと生命《いのち》がないぞ。じッとしているんだ」  いよいよ首領は、この部屋に出て来る気勢をみせた。それを知ると「赤毛のゴリラ」は色を失ってしまった。首領が出て来れば、赤毛の生きていることが分り、一発のもとに斃《たお》されるに決っている。いや既《すで》に首領は赤毛が帆村から恵まれた簡易防弾衣で生命を助かったことを知っているかも知れない。彼としては団員として働いていた間は死を覚悟していた。しかしもう彼は団員でもない。それどころか既に銃殺されて黄泉《こうせん》の客となっていた筈《はず》である。死線を越えて――彼の場合は、死ぬのが恐ろしくなった。 「どうか、私を助けて下さい――」  赤毛はワナワナ慄《ふる》えながら帆村の腰に獅噛《しが》みついた。  室内にはシューシューと可《か》なり耳に立つ音がしている。それは毒瓦斯《どくガス》をしきりに排気している送風機の音だった。排気が済まないと、首領は出て来られないのだと、帆村は早くも悟った。  そこで彼は低い声で、何事かを早口に喋《しゃべ》った。それを聞くと赤毛は肯《うなず》いた。そしてゴロンとその場に倒れてしまった。  やがて送風機の音が止った。そして正面の鉄扉が弾かれたようにパッと開くと、まるで開帳された厨子《ずし》の中の仏さまのように、覆面の首領が突っ立っていた。その手にはコルトらしいピストルを握って……。 「さあ帆村君。動きたければ動いてみたまえ。ナニ動きたくないって。そうだろう。直《す》ぐピストルの弾丸《たま》を御馳走するからネ。――さて、それよりも君に至急聞きたいことがあるのだから、答えて呉れたまえ」  といって首領はジリジリと帆村の方に近づいて来た。覆面対覆面――それは首領対帆村の呼吸《いき》づまるような一大光景だった。 「帆村君」と首領はなおも油断なくピストルの口金を帆村の胸にピタリと当てて「君は銀座事件でマッチ函を怪しいと睨んでいるそうだが、一体あのマッチ函のどこが怪しいというのかネ」 「……」帆村は暫《しばら》く黙っていたが「函は普通のマッチ函ですこしも怪しくはない。怪しいのはマッチの棒だ」 「マッチの棒? それがなぜ怪しい」 「函の中に半分くらいしか残っていなかった。その癖、擦った痕が一つもない……」 「そんなことは分っている。それ以上のことを云いたまえ」 「だから云ってるではないか。残りの半分のマッチの棒は、あの銀座の鋪道に斃れた川村秋子《かわむらあきこ》という懐姙《みもち》婦人が喰べてしまったのだ」 「ナニ、あの女が喰べた?……」 「そうだ」と帆村は首領の駭《おどろ》くのを尻目《しりめ》にかけて喋りつづけた。「喰べたから、擦り痕がついていないのだ。喰べても大して不思議ではない。姙婦というものは、生理状態から変なものを喰べたがるものだ。この場合の彼女は、胎児の骨骼《こっかく》を作るために燐が不足していたので、いつもマッチの頭を喰べていたのだ。あの日も何気なしに、あのマッチ函を君の一味から買ったのだ、そこは店の表から見ると、何の変哲もない煙草店だった、だからそんな恐ろしいマッチともしらず、君の仲間が間違えたまま一函買いとってそしてガリガリ噛みながら、銀座へ出てきた。ところが……」 「ところが――どうしたというのだ」 「ところが、そのマッチは特別に作ったもので、燐の外に、喰べるといけない劇薬が混和されていたのだ。イヤ喰べるとは予期されなかったので劇薬が入っていたのだといった方がよいだろう。その成分というのは……」 「うん。その成分というのは――」    怪《あや》しき図譜《ずふ》 「さあ、早く云わぬか。――そのマッチの成分というのは何だったと云うのだ!」  と、首領「右足のない梟《ふくろう》」はせきこむように詰問した。 「極秘のマッチの成分なら、君がたの方がよく知っているじゃないか」  と、帆村は肝腎のところで相手の激しい詰問に対し、軽く肩すかしを喰わせた。 「嘲弄《ちょうろう》する気かネ。では已《や》むを得ん。さあ天帝に祈りをあげろ」 「あッ、ちょっと待て!」 「待てというのか。じゃ素直に云え」 「云う、といったのではない、それよりも――君のために忠告して置きたいことがあるからだ」と帆村は騒ぐ気色もなく「僕を殺すのは自由だが、すると例のマッチがわが官憲の手に渡り、添えてある僕の意見書によって綿密な分析が行われ、結局君たちの計画が大頓挫《だいとんざ》をするが承知かネ」 「マッチが日本官憲の手に渡るというのか。そんな莫迦《ばか》なことがあってたまるか。残りのマッチ函は『赤毛のゴリラ』の働きで取りかえしてあることは知っているではないか」 「そうでない。川村秋子の胃液に交っているのを分析すれば分る」 「そんな事なら心配いらない。胃酸に逢えば化学変化を起して分らなくなる。はッはッ」 「まだ有る。安心するのは早いぞ。――実は僕があのマッチ函から数本失敬して某所《ぼうしょ》に秘蔵している。僕がここ数日間帰らないと、先刻《さっき》云ったようにそのマッチと僕の意見書とが、陸軍大臣のところへ提出されることになる。そうなれば後はどんなことになるか君にも容易に想像がつくだろう」 「ウーム、貴様という貴様は……」  と、首領は全身をブルブル震わし、銃口をグイグイと帆村の肋骨《あばらぼね》に摺《す》りつけたが、引金を引くと一大事となるので、歯をギリギリ云わせて射撃したいのを怺《こら》えた。 「さあ、撃つなら撃つがいい……どうして撃たないのだ」 「ウム――」  と相手は気を呑まれて一歩退いた。――と、エイッという気合が掛かって首領の身体は風車のようにクルリと大きく一回転すると、イヤというほど床の上に叩きつけられた。敵がひるんだと見るやその直後の一瞬時《いっしゅんじ》を掴んだ帆村の早業の投げだった。――死にもの狂いの相手はガバと跳ね起きてピストルの引金を引こうとするのを、 「この野郎!」  と飛びこんだ帆村がサッと足を払って、また転がるところを隙《す》かさず逆手を取って上からドンと抑えつけた。 「さあ、どうだ」  主客はハッキリと転倒してしまった。――帆村が云い含めてあったのか、この騒ぎのうちに、彼に救われた「赤毛のゴリラ」はサッと部屋から飛び出していった。 「右足のない梟君!」と帆村は逆手をとったまま首領に云った。「君の覆面は武士の情で、その儘《まま》にして置いてあげよう。――さあ、これから君にちと[#「ちと」に傍点]働いて貰わねばならぬが、それはこの巣窟《そうくつ》の案内だ。ここにはいろいろな怪しい仕掛があるようだ。第一に気になるのは君が先刻《さっき》まで掛けていた椅子についている梟の彫刻だ」  といって帆村は首領の座席だった椅子を指《ゆびさ》した。 「怪しいと思うのは、あの梟の眼だ。あれは押し釦《ぼたん》になっているに違いない。君を傍へ連れてゆくから、ちょっと圧《お》してみてくれないか」  と帆村は首領を椅子のところへ連れてゆき、 「さあ、まず右の眼を圧してみてくれ給え」 「いやだ。乃公《おれ》は圧さない」 「圧さなければ、貴様こそ地獄へゆかせてやるぞ。この短刀の切れ味を知らせてやろう」 「待て。では圧そう」 「どうせ圧すなら、早くすればいいのに……」  全く主客は逆になった。――首領は渋々指をさしのべて、釦をギュッと圧した。その途端にジージーガチャリガチャリと機械の動き出す音が聞えだした、と思うと正面の鉄壁が真中から二つに割れ、静かに静かに左右へ開いていった。そしてその後から何ということだろう、竪横《たてよこ》五メートルほどの大壁画が現れたがそれは毒々しい極彩色の密画で、画面には百花というか千花というか凡《およ》そありとあらゆる美しい花がべた[#「べた」に傍点]一面に描き散らしてあった。  万花画譜《ばんかがふ》! 密偵の巣窟に、この似つかわしからぬ図柄は一体どんな秘密を蔵《かく》しているのであろうか。    呪いの極東  灰色の敵の巣窟に、これは又あまりにも似つかぬ極彩色の大図譜!  英才をもって聞えた帆村探偵も、この花鳥絢爛《かちょうけんらん》と入り乱れた一大図譜をどう解釈してよいやら、皆目見当がつかず呆然としてその前に立ち尽すばかりだった。――この壁掛図が、部屋飾りのために掛けてあるのでもなく、また偶然そこにあったというのでもないことは極めて明瞭だった。すると、 (――この大図譜こそは、×国間諜団の使命に密接な関係のあるものでなければならぬ!)  帆村はそれを確信した。  では、その図譜の持つ謎をどこに発見したものだろう。彼はいままでに、いろいろと複雑な暗号にぶつかったが、こんな種類のは始めてだった。尚《なお》身近くには油断のならない敵手「右足のない梟《ふくろう》」がいて、ピストルに隙さえ見出せるならあべこべに彼の生命を脅かす位置に取代ろうと覘《ねら》っている。しかもこの場所というのが、敵にとって便利この上もない巣窟にちがいない。この上どんな殺人的仕掛があるやら分らないし、またいつ危急を聞きつけて、決死的な新手の団員が殺到してくるか分らない。それを思うと、長居は頗《すこぶ》る危険だった。  それにも拘《かかわ》らず、折角《せっかく》目の前に望みながら、どうにも手のつけようのない謎の大図譜! 流石《さすが》の帆村探偵も、火葬炉の中に入れられたように、全身がジリジリと灼熱してくるのを覚えたのであった。 「さあ、――」と帆村は首領の背中を銃口で押して威嚇《いかく》した。「この図譜が出て来たからには、もう観念してよいだろう。こいつの実行期は何日《いつ》だ、それを云ってみたまえ」  帆村は、さも計画を熟知しているような顔をして、この機密に攀《よ》じのぼるための何かの足掛りを得たいつもりだった。 「はッはッはッ」と「右足のない梟」は太々《ふてぶて》しく笑って、「儂《わし》に聞くことはないでしょう。御覧のとおりですから、勝手にお読みになったがいいでしょう」  読めというのか。ではこの図譜の上に、すべてのことが書かれているのだ。――だが読めといっても、この花鳥乱れるの図を何と読んでいいのだろう。 「フフフフ、どうです。お分りかナ。――」  と首領は悪意を笑声に盛って投げつけた。それを聞くと帆村はもう耐えられなくなった。 「――分らなくて、どうするものか!」  と彼は叫んだ。自暴的な自殺的な言葉を吐くのが、彼のよくない病癖だったが、それを喚き散らすと、いつの場合も反射的に天来の霊感が浮んでくるのであった。今の場合もそうだった。  そうだもう一つの押釦《おしぼたん》があった。  その押釦を押しさえすればいいのだ。心配は押してみてから後でもよい!  帆村はつと[#「つと」に傍点]手を伸べて、首領席についているもう一つの押釦をグイと押した。すると、果然その反応は起った。  図譜に向いあった壁面に、一つの穴のようなものがポカリと明くと、その中からサッと赤色の光線が迸《ほとばし》ると見るより早く、かの大図譜の上に投げ掛った。  と。――  なんという不思議! 大図譜の上に乱れ飛んでいた花鳥がサッと姿を消して、その代りに図譜の上には大きな地図が現れた。地図! 地図! 青色の大地図だった。そして意外にも極東の大地図だった。日本を中心として、右には米大陸の西岸が見え、上には北氷洋が、西には印度《インド》の全体が、そして下には遥かに濠洲《ごうしゅう》が見えている。その地図の上には、ところどころに太い青線で妙な標《しるし》がついていた。――ああ矢張り密偵団の陰謀は、この大地図の上に印せられてあったのだ! 帆村の興奮は、その極に達した。  が、そこに恐ろしい危機があった。帆村の警戒の目がちょっと留守になったのだ。  ガチャーン――と、烈しい物音!  ガラガラと硝子《ガラス》の壊れ落ちる響がしたと思うと、途端に赤い光線がサッと滅した。そして面妖にも、青色の極東を中心とする大地図が消え失せて、あとには始めにみた花鳥の図が、何事もなかったように壁間に掛っていた。―― 「やったナ」  と首領の方に気をくばる。――  もう遅かった。ガーンと帆村の頤《あご》を強襲した猛烈な打撃! 彼はウンと一声呻るとともに、意識を失ってしまった。    樽《たる》のある部屋  それから、どのくらい時間が経ったのか分らなかったが、兎《と》に角《かく》帆村探偵は頸筋のあたりにヒヤリと冷いものを感じて、ハッと気がついた。 (おや、自分は何をしていたんだろう?)  そのような疑惑が、すぐ頭の上にのぼってきた。  目を明いてみたが、なんだか薄暗くて、よくは分らない。 (一体ここは何処《どこ》だろう?)  と、不思議に思って、立ち上ろうとしたが途端にイヤというほど脳天をうちつけ、ズキンと頭部に割れるような痛みを感じた。  ガラガラガラ!  続いて、何か板のようなものが、床の上に落ちるような音がしたので、ハッとして飛びのこうと身を引く拍子に、 「呀《あ》ッ!」  と声をたてる遑《すき》もなく、  ガラガラガラ!  と、足が引懸《ひっかか》ったまま、その場に身体は横倒しになってしまった。そして顔の真正面から、なにか土か灰かのようなものをパーッと浴びてしまった。  プップッと、唾《つば》を吐きつつ彼は漸《ようや》く立ち上った。そして薄暗がりの中ながら、彼は大きなセメント樽のようなものの中に入っていたことが分ってきたのである。  よく目を見定めると、そのセメント樽のようなものが、その外いくつも並んでいた。まるで工場の倉庫みたいな感じである。倉庫ではないが、而《しか》も異様の臭気が室内に充満していて、それがプーンと鼻をついたが、丁度《ちょうど》塩鮭《しおざけ》の俵が腐敗を始めているような臭いだった。ここは倉庫かなとは、そのとき既に思ったことだったが確かに先刻《さっき》までいたあの大広間ではない。誰がこんなところへ連れてきたのか。 「うん、そうだ。こいつは『右足のない梟《ふくろう》』の仕業に違いない。ここは地下室の底だな。それにしても……」  と、帆村は手近の一つの樽の方へ近づいて、彼が、さっき落したと同じ蓋《ふた》を手で取払って内部を覗《のぞ》きこんだ。 「呀ッ、これは……」  帆村探偵は、内部を覗くと同時に思わず弾かれるように身を引いた。その樽の中には室内の異臭を作っている原因の一つがあったからである。  それは又、危く彼が陥りかけた恐ろしい運命を物語るものでもあった。実に樽の中には、何者とも知れぬ一個の屍体《したい》が入っていたのである。いや一個だけではない、探してみると都合四個の屍体を発見することが出来た。ああ、すると此の部屋は屍体置場にひとしいのであった。  彼は覚醒《かくせい》したことの幸運を感謝した。もうすこしで、彼自身でもって屍体を、もう一個|殖《ふ》やすところだったのである。まあよかったと思ったものの、その後で、すぐ大きな不安が押しかけて来た。 (この部屋には出口が明いているだろうか?)  という心配だった。  帆村は樽の傍を離れて、三十坪あまりもある其《そ》の室内をグルグルと廻りあるき、出口と思うところを尋ねて歩いたその結果、彼の探しあてたものは頑丈なコンクリートの壁ばかりだった。出口は有る筈なのであるが、隠されて見えなかったし、もし見つかってもこれは押したぐらいでは明かないことがハッキリした。彼はすっかりこの屍室に閉じこめられてしまったことに漸く気がついた。 「生き埋めか? そいつはたまらん!」  と帆村は独言《ひとりごと》を呟《つぶや》いたが、彼はそれほど慌《あわ》てているわけではなかった。彼はこの屍室にはもっと汚穢《おあい》した空気が溜っていなければならぬのに、それほどではないのを不審に思った。すると――どこかに空気抜けが明いているに違いない。彼は薄暗い天井に眼を据え、綿密に観察していった。果然―― 「ああ、あそこに空気抜きがある!」  彼はとうとう部屋の一|隅《ぐう》に求めるものを発見した。どうやら身体が抜けられるらしい。それが分ると、彼は急いで樽の明いているのを集めた。そしてそれを城のように積み重ねていった。遂にそれは天井に達した。彼は雀躍《こおどり》せんばかりに喜んで、その空気の抜ける孔の中に匍《は》いこんだ。  孔の中は冷《ひ》え冷《び》えとしていた。そして彼の元気を盛りかえらせるような清浄な空気の流れがあった。彼は思わず深呼吸をくりかえしたが、それが済むと、ソロリソロリと真暗な孔の中を匍い始めるのだった。  空気孔は太い鉄管になっていて、帆村の身体を楽に呑みこんだ。ソロソロと横に匍ってゆくと、掌《てのひら》は鉄管のために冷え冷えと熱をとられ、そして靴が管壁に当ってたてる音がワンワンと反響して、まるで鬼が咆哮《ほうこう》している洞穴に入りこんだような気がした。一体この空気管はどこへ抜けているのだろう。なにしろこう真暗では、何が何やら見当がつかない。 「おおそうだ。――僕は懐中電灯を持っていた筈だ」  帆村は重大なことを忘れていたので、思わず暗中で顔を赧《あか》らめた。慌てないつもりでいたが、やはり慌てていたのだ。もちろん生命の瀬戸際で軽業をしているような有様なのだから、慌てるのが当り前かも知れないが……。 「ああ、有ったぞ!」  帆村はいつも身嗜《みだしな》みとしていろんな小道具を持っていた。彼はチョッキのポケットから燐寸函ぐらいの懐中電灯をとりだした。カチリとスイッチをひねると、パッと光が点いた。有り難い、壊れていなかったのだ。眩しい光芒《こうぼう》の中に異様な空気管の内部が浮びあがった。彼は元気をとりかえして、ゴソゴソと前進を開始した。  だが、その前進は永く続かなかった。なぜなれば、五メートルほどゆくとそこに円い鉄壁があって、もはや前進が許されなくなった。残念にも空気管はそこで端を閉じているのであった。 「行き停《どま》りか――」  帆村は吐きだすように云った。これではもう仕方がない、でも空気は冷え冷えと彼の頬を掠《かす》めている。それを思うと、まだ外に抜け道があるに違いない。彼は管の中に腹匍《はらば》いになったまま、ソロリソロリと後退を始めた。そしてすこし下っては、左右上下の天井を懐中電灯で照らし注意深い観察をしては、またすこし身体を後退させていった。彼は次第次第に沈着《ちんちゃく》さを取返してくるのを自覚した。すると遂に彼の予期したものにぶつかった。 「ああ、こんなところに、縦孔《たてあな》があった!」  縦孔! それはさっき通り過ぎたところに違いなかったのだけれども、その時は慌ててしまって、ついうかうかと通り過ぎたものらしかった。――天井に同じ位の大きさの丸い孔がポカリと開いているのを発見したのであった。  帆村はその天窓のような孔に顔を入れて、懐中電灯の光を上方に向けてみた。真黒な鉄管は煙突のようにズーッと上に抜けていた。 「こいつを登ってゆこう!」  と、咄嗟《とっさ》に彼は決心をした――が、どうして登るというのだ? そこは足場もない高い高い鉄管の中だった。ああ、折角《せっかく》の抜け道を発見しながらも、人間業《にんげんわざ》では到底これを登り切ることはできないのか。いや、何事も慌ててはいけない! 「うん。――こうやってみるかナ」  彼はポンと膝を叩《たた》いた。彼の目についたのは、鉄管と鉄管との継《つ》ぎ目であった。それは合わせるために一方が内側へ少し折れこんでいて、その周囲にリベットが打ってあった。――そいつが足掛りになりはしないか。彼は靴を脱ぎ靴下を取って、跣足《はだし》になった。そして靴下は、ポケットへ、靴は腰にぶら下げると、壁に高く手を伸ばして、そこらを探ると、幸いに指先に手がかりがあった。そこで十の爪に全身の重量を預けて、器械体操の要領でジワジワと身体を腕の力で引上げた。俄《にわか》に強い自信が湧いてくるのを感じた。  全てが忍耐の結晶だった。 「ウーン、ウーン」  彼は功を急がなかった。ユルリユルリと鉄の管壁を攀《よ》じのぼっていった。だから、到頭二十メートルもある高所に登りついた。――そして、彼の頭はゴツンと硬い天井を突きあげたのだった。 「ああ、また行き停りか」  彼は失望のために気が遠くなりそうになりかけて、ハッと気がついた。こんなところで元気を落してはなるものかと唇をグッと噛み、右手をあげて天井を撫でまわした。すると指先にザラザラした粗《あら》い鉄格子が触れた。空気がその格子から抜けているのだった。  鉄格子ならば、これは後から嵌《は》めたものに違いない。これは下から突くと明くのが普通だと思ったので、帆村は腕に力を籠《こ》めてグッと押しあげてみた。するとゴトリという音がして、その重い鉄格子が少しもち上った。帆村の元気は百倍した。下に落ちては大変だと気を配りながら、満身の力を奮って、鉄格子を押しあげた。格子は彼の想像どおり、ズルズルと横に滑っていった。    戯《ざ》れ画《え》か密書か? 「ウン、占《し》めたぞ!」  帆村は元気を盛りかえした。穴の縁に手をかけると、ヒラリと飛び上った。そこはやはり孔の中であった。横に伸びた同じような穴だった。しかし今までの穴とは違い、なんとなく、娑婆《しゃば》に近くなったことが感ぜられた。  そこで彼は、何か物音でも聞えるかと、全身の神経を耳に集めて、あたりを窺《うかが》った。すると、微《かす》かではあるが何処《どこ》からともなく、ボソボソと話し声が聞えてくるではないか。彼の勇気は百倍した。  飛んでもゆきたいところを、帆村は敵に悟られないように注意をして、芋虫《いもむし》のようにソロリソロリとその方向に進んでいった。空気管は、やがてグルリと右へ曲っていたがその角を曲ると、彼は、 「ウム……」  と呻《うな》って、石のように固くなった。五メートルと離れないところに、鉄管の一部が明り窓のように黄色く輝いているのだった。よく見ると、それはさっき彼が押し上げたのと同じような円い鉄格子が嵌《はま》って居り、そして下から光がさしているのだった。  帆村は再び耳を澄ました。さきほどまで確かに聞えていたと思った話声はもう聞えない。だがどうやら、あの輝く鉄格子の下に部屋があるらしい。――帆村はそこで意を決するとソロソロと格子の方へ躙《にじ》り寄った。 「おう、部屋――」  果してその下には四坪ほどの小室《こべや》があった。机や椅子や戸棚などが所狭いほど置かれているところを見ると、事務室であることに間違いがない。格子の真下には大きな事務机があり、その前には空っぽの廻転椅子が一つと、その横にも空っぽの椅子が一つ、抛《ほう》り出されたように置かれてあった。さっきの話し手は、この一つの椅子に坐っていたものに違いない。ではこの廻転椅子にいたのは誰だったか。またも一つの椅子の客は何者だったろうか? いずれにしてもそれは敵のものには違いない。  そこで帆村は注意深く机の上を隅から隅まで観察した。机上《きじょう》には本や雑誌が散らばっているが、その壁に近く、開封した封筒とその中から手紙らしいものが食《は》み出しているのを見つけた。  それは忽《たちま》ち帆村の所有慾を刺戟した。 「あれが吾《わ》が手に入ったらなァ」  だが鉄格子はどこで打ちつけてあるのか、ビクリとも動かない。だから格子を外《はず》して降りようたって簡単にはゆかない。見す見す宝を前にして指を銜《くわ》えて引込《ひっこ》むより外《ほか》しかたがないのであろうか。帆村は歯をぎりぎり噛みあわせて残念がった。 「焦《あせ》ってはいけない」と、帆村は自分自身に云いきかした。「それより落着いて考えるのだ。人間の智慧を活用すれば、不可能なものは無い筈だ」  ジリジリとする心を静めて一分、二分、それから考えた。―― 「うん、そうだ。……こいつだッ」  何を思ったか、彼は下に着ていた毛糸のジャケツをベリベリと裂いた。そして毛糸の端を手ぐって、ドンドン糸を解いていった。それを長くして、二本合わせると、手早く撚《よ》りあわせた。そしてポケットからナイフを取出すと、その刃を出し、手で握る方についている環《わ》に、毛糸の端をしっかりと結えた。そうして置いて、ナイフを格子の間からソロリソロリと下に下した。  毛糸を伸ばすと、ナイフはスルスルと下に降りて、遂に手紙の上に達した。 「さあ、これからが問題だ!」  そこで帆村は、釣りでもするような調子で毛糸をちょっと手繰《たぐ》って置いて、パッと離した。ナイフは自分の重味でゴトンと下に落ちて机の上を刺した。それを見ると彼は、注意して毛糸を上に引張った。――果然、机の上の手紙はナイフの尖《さき》に突き刺されたまま、静かに上にのぼって来た。  手紙はクルクルと廻りながら、とうとう鉄格子の近くまで上って来た。――彼は指を格子の中へ出来るだけ深くさしこんだ。二本の指先が辛うじて手紙の端を圧《おさ》えた。 「占めた!」  思わず指先が震えだした。途端に封筒がスルリと脱けて下に舞い落ちた。呀《あ》ッと叫ぶ余裕もない。指先には四つ折にした手紙があるのだ。彼は天佑《てんゆう》を祈りながら指先に力を籠めて静かに引張りあげた。遂に手紙の端が格子の上に出た。――もう大丈夫!  摘《つま》み上げた手紙を、取る手遅しと開いてみれば、こは如何《いか》に、そこには唯《ただ》、水兵が煙草を吸っているような漫画が書き散らしてあるばかりだった。途端に下の部屋にドヤドヤと荒々しい靴の音がした。    危機一髪  帆村が空気孔から見下ろしているとも知らず、突然下の部屋に現われたのは、例の密偵団の覆面をした二人の怪人物だった。その一人は首領「右足のない梟《ふくろう》」であることは確かだった。もう一人の人物は、何物とも知れない。 「よく来てくれたねえ」  といったのは首領だった。 「君の非常警報を受信したので、すぐに軽飛行機で高度三千メートルをとって駈けつけてきた。一体どうしたのだ」  といったのは、別の人物だった。  この話から考えると、首領は遂に警報を他の密偵区へ発したものらしい。それで召喚された密偵の一人が早速《さっそく》駈けつけたので、「右足のない梟」が迎えに出たものらしい。 「大変なことが起ったのだよ。『折《お》れた紫陽花《あじさい》』君、例のマッチ箱が日本人の手に渡ったため、わが第A密偵区は遂に解散にまで来てしまった」 「ほう、マッチ箱がねえ」  といったのは「折れた紫陽花」と名乗る他区の密偵だった。 「それは君のところだけの問題でなく全区の大問題だ」 「しかし心配はいらぬ。すぐマッチ箱はマッチの棒とも全部回収した」 「それは本当か」 「まず完全だ。ただマッチの棒の頭を噛《か》んで死んだ婦人の屍体《したい》の問題だが、これも今日のうちに盗み出す手筈《てはず》になっているから、これさえ処分してしまえば、後は何にも残っていない」 「それならよいが……だが日本人はマッチの棒の使い方を感付きやしなかったかナ」 「それは……」と「右足のない梟」はちょっと言葉を切ったが「まず大丈夫だ。恐ろしい奴は帆村という探偵だが、こいつも樽の部屋に永遠の休息を命じて置いたから、もう心配はいらぬ」 「永遠の休息か。フフフフ」と「折れた紫陽花」は笑いながら「マッチの棒の使い方が分ると、われわれの持っている秘密文書はことごとく書き改められねばならない。そうすることは不可能でない迄《まで》も、例の地点に於《お》けるわれわれの計画は少くとも三箇月の停頓を喰うことになる」 「マッチの棒は、もう心配はいらぬよ」 「そうあってくれないと困るがネ、ときに早速仕事を始めたいと思うが、僕は何を担当して何を始めようかネ」 「そうだ、もう愚図愚図《ぐずぐず》はしていられないのだ。こんなに停頓することは、われわれの予定にはなかったことだ。そうだ、先刻《さっき》本国の参謀局から指令が来ていた。それを早速君に扱ってもらおうかなァ」  といって首領は立ち上ると手紙を取るために机の方にいった。 「ほう、本国の指令とあれば、誰よりも先に見たいと思う位だ。どれどれ見せ給え」 「ちょっと待ち給え。――おや、これはおかしいぞ。封筒があるのに、中身が見えない……」 「右足のない梟」はすこし周章気味《あわてぎみ》で、机の上や、壁との間の隙間や、はては机の抽出《ひきだし》まで探してみた。だが彼の探しているものはとうとう見付からなかった。彼の顔はだんだんと蒼《あお》ざめてきた。 「どうしたというのだネ。指令書は……」 「全く不思議だ。見当らない。この部屋には僕の外、誰も入って来ない筈なのだが……」 「もし指令書が紛失したものなら、これは重大なる責任問題だよ」 「そうだ。紛失したのならネ……。ウム、これはひょっとすると……」  そういって、A首領の「右足のない梟」は、中身のない封筒を摘みあげて、電灯の下で仔細《しさい》に改めていたがそのうちに、 「ほほう、この鋭い刃物の痕《あと》のようなものは何だろう?」  と頭をひねった。 「刃物の痕だって?」 「そうだ、封筒の上に深い刃物の痕がついているが、これは私《わし》の知らぬことだ」といいながら机の上に近づいて、その上に拡げられている大きな吸取紙の上に顔をすりつけんばかりにして何ものかを探していたが、やがて「ウン、あったぞ。ここにも刃物の痕がある。こっちの方が痕が浅いところをみると、封筒の上から刃物で刺し透したのだ。誰がやったのだろう。この位置だとすると……」  首領はハッと首をすくめると、懐中から鏡を出して、その中を覗きこんだ。その鏡の底には、丁度真上にあたる帆村の隠れている空気孔の鉄格子がハッキリうつっていた。帆村の危機は迫った。    死線を越える時  天井の鉄格子の間から下を見下ろしていた帆村探偵は 「失敗《しま》った!」  と叫んだ。首領「右足のない梟《ふくろう》」は帆村がひそんでいることに気がついたらしい。ではどうする?  帆村は咄嗟《とっさ》に決心を定《き》めた。彼は鉄格子に手をかけると、エイッと叫んでそれを外《はず》した。そして躊躇《ちゅうちょ》するところなく、両足から先に入れ、ズルズルと身体をぶらさげ、ヒラリと下の部屋に飛び下りた。無謀といえば無謀だったが、戦闘の妙諦《みょうたい》はまず敵の機先を制することにあった。それに帆村は既に空気管の中の模様を見極めているので、この上その中に潜入していることが彼のために利益をもたらすものではないという判断をつけていたからだった。 「ヤッ……」  帆村は四角い卓の死角を利用して、その蔭にとびこんだ。二人の敵はこの大胆な振舞に嚥《の》まれてしまって、ちょっと手を下す術《すべ》も知らないもののようだったが、帆村が隠れると同時に内ポケットから拳銃《ピストル》をスルリと抜いて、ポンポンと猛射を始めた。狭い室内はたちまち硝煙のために煙幕を張ったようになり、覘《ねら》う帆村の姿が何処にあるかを確かめかねた。  もちろん帆村はその機会を逃がしてはならぬと思った。しかし室《へや》を抜け出すには生憎《あいにく》彼の位置が入口より遠い奥にあるので、たいへん勝手が悪い。といって愚図愚図していると更《さら》に不利になるので、彼は遂に肉弾戦に訴えることにした。まず割合近くにいる「右足のない梟」を覘うことにし、射撃の間隙《かんげき》を数えながら、ここぞと思うところで、真っしぐらに突撃した。敵は帆村が手許にとびこんできたのにハッと狼狽して拳銃《ピストル》をとりなおそうとする一刹那《いつせつな》、 「エイッ、――」  と叫んで帆村はムズと相手の内懐《うちふところ》に組みついた。 「うぬ、日本人め!」  と「右足のない梟」は叫んで、大力を利用してふり放そうとするが、帆村は死を賭《と》して喰い下った。 「折れた紫陽花――早く射撃するのだ。この日本人を生きて出してはいかぬ。構《かま》わぬから僕を撃つつもりで猛射したまえ」 「そいつは……」 「いいから撃て! 祖国のためだ、われわれの名誉のためだ、早く撃て!」  敵ながら天晴《あっぱれ》なことをいった。流石《さすが》は首領として名ある人物だけのことはあった。――B首領の「折れた紫陽花」は決心をしたものか、その返事の代りに、ズドンズドンと拳銃《ピストル》の銃口《つつぐち》を、組みあった二人の方に向けた。 「あッ、――うぬッ」  帆村は低く呻《うな》って歯をギリギリと噛みあわせた。左の腕に、錐《キリ》をつきこんだような疼痛《とうつう》を感じた。 「やられた!――」  と、その次に叫んだのは「右足のない梟」だった。二人の敵味方は、組み合ったままドウとその場に倒れた。 「折れた紫陽花」はこれを見るより早く、バラバラと二人のところへ駈けつけた。 「よォし、いま日本人をやっつける……」  そういって彼は拳銃《ピストル》の口を下に向けた。帆村は撃たさすまいと思って、組み合ったまま其の場にゴロゴロ転がっている。しかし運悪く、股のところを倒れた椅子に挟んでしまった。 「し、失敗《しま》った!」  もう身動きがならぬ。さあ、その次は、敵の拳銃《ピストル》の的《まと》になるばかりだ。 「折れた紫陽花」はニヤリと意地わるい笑みを浮べると、重い拳銃《ピストル》の口を帆村の背中に擬《ぎ》した。あッ、危い!  その一刹那のことであった。何者とも知れず、覆面の怪漢が砲弾のように飛込んできた。 「待てッ――」  と大喝《だいかつ》したその太い声は、いまや引金を引こうとする「折れた紫陽花」の精神を乱すのに充分だった。声にのまれて思わずハッとするところへ、右手が後へねじられて、手首がピーンと痺《しび》れた。ゴトリと向うの壁際で鳴ったのは彼の手首を離れて飛んでいった拳銃《ピストル》だったろう。  一体何者だ?  帆村が意外の出来ごとに面喰らっているところへ、怪漢は飛びこんで来た、そして彼の身体を「右足のない梟」から引離すと、そのまま肩に引き担《かつ》いで、飛鳥《ひちょう》のように室を飛び出した。そして入口の扉《ドア》をピタリと鎖《とざ》し、ピーンと鍵をかけた。  帆村を背負った怪漢は何処へゆく?    漫画の暗号  怪漢の肩に担がれた探偵帆村は、多量の出血のために頭がボンヤリしていた。ときどき頭が柱か壁のようなものにドカンと衝突すると、ハッと気がつくのであった。あるときは階段をガタガタ駈けのぼっているようだし、あるときは狭いトンネルのような中をすれすれに潜《くぐ》りぬけていたようだった。それ等はほんの瞬間の記憶だけで、あとはまた精神が朦朧《もうろう》としてしまって覚えがない。 「さあ、もう大丈夫!」  そういう声がして、彼はドンと地上に下ろされたところで、再び意識が戻った。たいへんに冷い土の上であった。ピューピューと寒い風が吹きつけるので、彼はワナワナと慄えだした。 「さあ、もう安全なところまで来ましたよ、帆村さん」そういって怪漢は、帆村の破れた服をソッと合わせながら、 「さあ、それでは私はお暇《いとま》しますよ。では」 「待って下さい」  と帆村は苦痛を怺《こら》えながら叫んだ。 「き、君は誰です、僕を助けて下すって……」 「いいえ、お礼はいりませんよ。私は貴方《あなた》に助けてもらったことがあるので、ちょっと御恩がえしをしただけです。そういえばお分りでしょう」 「分らない、誰!」 「誰でもいいじゃありませんか。私はすぐ姿を隠さねばなりません。――」 「ちょ、ちょっと待って」  と云って帆村は半身を起しかけたが、「あッ痛い」と、またもや地上にゴトリと倒れてしまった。そして昏々《こんこん》として睡ってしまった。  それから後、どの位の時間が流れたかしれない。帆村が再び正気にかえったときにはあたりはもうかなり明るかった。彼は元気を盛りかえして身を起した。激しい疼痛《とうつう》が、彼の神経をチクリチクリと刺戟したが、歯を喰いしばって地上に坐りなおした。――どうやら此処は、大きなビルディングの地下室へ降りる石階段の下であるらしい。どうしてこれを地面と感じたのか、一向にわからない。  不図《ふと》見ると、いつの間にして呉れたのか、左腕には白い繃帯《ほうたい》が厚く厚く巻いてあった。そして脱げた靴が片っ方だけ転がっていた。いやその傍にもう一つ黒いものが転がっていた。それは防弾チョッキだった。それには見覚えがあった。これは確か、最初地下室に忍びこんだときに、既に射殺されようとした猿使いの団員「赤毛のゴリラ」に与えて一命を救ってやったものだった。してみると……、 「うんそうだ。――僕を救い出してくれたのは、『赤毛のゴリラ』だったんだな」 「赤毛のゴリラ」だったら、もっといろいろ尋ねたいことがあったのに……。彼は昨夜の出来ごとを始め、この何日か密偵団の巣窟で起ったことをそれからそれへと、まるで継ぎはぎだらけの映画をうつし出すように想いだしたのであった。 「そういえば、たしか密書を奪ったつもりだったが、あれはどうしたろう?」  帆村はハッと胸を躍《おど》らせながら、両手をいそがしくポケットからポケットに走らせた。 「うむ、あったぞ!」  彼は思わず大声をあげた。右のズボンのポケットから出て来たのは、皺《しわ》くちゃになった折り畳《たた》んだ西洋紙だった。 「これだこれだ」  彼は躍りあがりながら、紙片を拡げてみた。そこには最初に空気管の中で確かめたのと同じく、漫画風の変な恰好の水兵が、パクパクとパイプをくゆらせている画がついていた。 「なんだ。これは漫画じゃないか?」  密書と思いきや、こんな無邪気な漫画水兵であるとは……。彼は大きい失望を感じながら、なおも紙面を見つめていたが……、 「おお、これは変なところがあるぞ!」  と、突然|呻《うな》りだした。 「そうだ、これは一種の暗号で、隠し文字法といわれるものだ。いろんな文字が隠してあるのが見える。ハテこの水兵の胴と脚とはRという字に似ているぞ。おやおや、この靴を見ると、変な形になっているぞ、右がEの字で、左の足はどうやらZらしい。このパイプの煙も妙な形をしている。……これは面白い」  帆村は重傷の事も、あたりが急に明るくなって、このビルディングの小使がゴトゴトと起きだしたことも気がつかない様子で、画面の中から暗号を拾いあげて、いろいろと組み合わせていたが、やがて遂に叫んだ! 「うん、とけたらしい。――八日、デジネフ、ピー、アール、ウェールスか!」  はて、どうしてそんな事になるのであろうか?    恐ろしき予感  帆村探偵は漫画の水兵の画から「八日、デジネフ、ピー、アール、ウェールス」を次のような見方をして、取り出したのだった。  まず水兵さんの帽子と丸い顔の輪廓とが8の字をなしている。それから、口に銜《くわ》えたパイプの煙をみると、それが渦を巻きながらも左にT、右にHの字に読める。これを合わせると 8TH《エイツス》[#ルビの「エイツス」は底本では「エイス」] となるのである。 「エイツス」とは八日のことである。  これで日附の符号は解けた。  次に分りやすいのは、水兵さんの足許《あしもと》の左に石塊《いしころ》のようなものが落ちているが、これはどうみてもDという字がひっくりかえっているとしか思えない。それからこんどは、水兵さんの右足(というと画面では向って左の方の足のことである)は、靴を履いているようであるが、それはどうやらEという字が左へ倒れているもののようである。それから向って右の、水兵さんの左足《さそく》をみると、これはどうみてもZという文字にちがいない。――これでDEZ《デズ》と出た。  その右方に、これを書いた画家のサインらしいものが見える。H《エッチ》 Nev《ネブ》 とかいてあるらしいが、この「エッチ・ネブ」という綴《つづ》りを上の「デズ」に加えてみると俄然《がぜん》、DEZHNEV《デジネフ》 となって、それで一つまた解けた。  それから次が、ちょっとむずかしい。  この水兵さんが口に銜えているのはパイプであるが、どうも変な形である。そこでパイプの頭を上に立ててみると、これがPという字になる。それから水兵さんの胴中がRという文字になっている。  まだ文字が隠れている。  水兵さんの向って左の手がWという字になる。そしてその反対の方の手は、Aという字になっている。それは誰にもよく分る。まだある! この水兵さんの鼻を見るがよい。これはどうもLという字に似ているようだ。それからこの口は、変に曲っているが、なんとなくSという文字を横に寝かして、上から叩きのばしたように見えるではないか。――結局これを全部集めてみると、WALES《ウェールス》 という文字ができる。  帆村探偵はこれを P《ピー》. R《アール》. WALES《ウェールス》[#「WALES」は底本では「WALE S」] と読んだ。 「デジネフ。それからピー、アール、ウェールス?」  なんのことだろう。人の名前のようでもある。――帆村はもうこの階段に用がなかった。これから用のあるのは百科事典だった。彼は元気百倍して、そこに通りかかった円タクを呼びとめると都の西北W大学の図書館へ急がせた。  夜が明けたばかりのことで、宿直員は蒲団《ふとん》を頭から被ってグウグウ睡っていたが、彼はこんなときに役に立つとは思わず貰って置いた総長T博士の紹介状を示して、急用のためぜひ書庫に入れてもらいたいと頼んだ。宿直員は睡いところを起されたのでブツブツこぼしていたが、それでもチャンと起きてオーバーを取り、自《みずか》ら鍵をもって図書館の入口を開けてくれた――。帆村は礼もそこそこに、ドンドンと書庫の奥深くへ入っていった。  そこで彼は、尨大《ぼうだい》な外国人名大辞林をとりだすと、卓子《テーブル》の上にドーンと置いた。 「デジネフデジネフ。さあ、早く出て来い」  といって探した。しかし彼の期待は外れた、どうも現代に関係のありそうなものが出てこなかった。 「そうだ、これは地名辞典でひかなければ駄目なのじゃないか」  帆村はそこで、また棚を探しまわって、更に大きな地名大辞典をひっぱりだした。そしてDの部をペラペラと繰《く》りひろげた。 「あ、あったぞ!」と帆村は鬼の首をとったように大声で叫んだ。「デジネフ岬《みさき》というのがある。カムチャッカ半島の東の鼻先のところにある岬の名だ。ベーリング海峡を距《へだ》てて北アメリカのアラスカに対しているそうだ。これに違いない」  彼はそれからタイムスの世界大地図をまた担《かつ》ぎだして、カムチャッカ半島の部の頁《ページ》を繰った。たしかに有る有る。東に伸びた七面鳥の嘴《くちばし》の尖った先のようなところにある岬の名だ。ベーリング海峡を距てて右の方を見ると、そこに海亀の頭のようなアラスカの突端が鼻を突合したように迫っていた。そして、何気なくそこを見ると彼を狂喜させるようなものが目についた。 「ああ。もう一つの方は、向うから転げこんで来たじゃないか。プリンス、オヴ、ウェールス岬――つまり P. R. WALES はその略記号なのだ。これで読めた。この暗号は、ベーリング海峡を挟《さしはさ》んだ二つの岬の名を示しているのだ!」  しかし何故《なぜ》そんな地名を暗号の上に掲《かか》げてあるのだろう? それを考えた時、帆村探偵はハタと行き止りの露地《ろじ》につきあたったような気がした。    隠しインキ  帆村探偵の熱心によって、とにかく暗号は解けたけれど、その暗号の意味まで解けたわけではなかった。帆村はW大学の図書館の閲覧室《えつらんしつ》をあっちへ歩きこっちへ歩き、灼《や》けつくような焦躁《しょうそう》の中に苦悶したけれど、どうにも分らない。アラスカのウェールス岬がどうしたというのだ。カムチャッカのデジネフ岬がどうしたというのだ。どっちも日本の土地ではない。だから日本に関係ないはずだ。しかし日本に関係のないことを、某国の参謀局がわざわざ日本にいる密偵長に知らせてくるのはどうも合点がゆかないことだった。どう考えてみても、なにか日本と関係があるにちがいない。さあ、それは一体どんなことだ?  結局帆村探偵が到着した結論では、  ――この漫画の暗号だけがこの密書の中に書かれている通信文の全体ではない!  ということだった。別の言葉でいうと、この密書には、もっと沢山の言葉が並んでいなければならぬ筈だということだった。  もっと沢山の言葉! それは一体どこに記《しる》されてあるのか。レターペーパーの裏をかえし表をかえしてみたが、それ以上の数の文字は何処にも発見できなかった。――帆村はまるで迷路の中に路《みち》を失ってしまったように感じた。かれはポケットを探ってそこに皺《しわ》くちゃになった一本の莨《たばこ》を発見した。それに火をつけて吸いはじめたが、それは筆紙《ひっし》に尽《つく》されぬほど美味《うま》かった。凍りついていた元気が俄《にわ》かに融《と》けて全身をまわりだした感じだ。彼は煙をプカプカと矢鱈《やたら》にふかし続けていたが、そのうちに椅子から飛びあがると、ハタと膝を打った。 「そうだ。僕は莫迦《ばか》だった。なぜそれにもっと早く気がつかなかったのだろう!」  そう独言《ひとりごと》をいった彼は、襯衣《シャツ》のポケットに手を入れて何物かを探し始めた。 「あった、あった」  彼がやっと取出したものは五、六本の燐寸の棒だった。その中から三本を抜きとって、あとは元通りにポケットの底にしまった。それから彼は館員から茶碗を一つ借りて、それに少量の水をたらし、その水の中へ三本の燐寸の頭を漬けた。  暫《しばら》くすると、茶碗の水は薄《うっ》すらと黄色に変った。そこで燐寸の頭を取出し、そこに残った淡黄色《たんこうしょく》の水をいと興深げに眺めていたが、こんどは何思ったものかその水を指先につけて、卓子《テーブル》の上に伸べてあった漫画の水兵の紙面へポタポタとたらし、それをすらすらと拡げていった。かくすること両三度、――彼は息づまる思いでその紙面を穴の明くほどみつめていた。 「おお――」  と、そのとき彼は嬉しさのあまり、歓声をあげたのだった。紙面にはあまり顕著《けんちょ》ではないが、なにか緑色の文字らしきものがポーッと浮かんで来たのだった。ああ、これこそ隠しインキによる暗号文だった! すると問題の燐寸の頭には密かに隠しインキの現像薬が練りこんであったといえる。密偵団が死力をつくして燐寸の棒の奪還をはかったわけもわかる。死の制裁をもって責任者を処罰したわけもわかる。それにしてもうまいところへ隠しインキの現像薬を隠したものである。燐寸の頭なのだ。燐寸なんてどこにも転がっているもので、これを持っていても怪しむ者はないだろう。万一怪しまれそうになっても、何喰わぬ顔をして検閲官の前で、火を点けると薬も共に燃えて跡方もなくなってしまう。実に巧妙な隠し場所だといわなければならない。  帆村はあの燐寸が、銀座の鋪道に斃《たお》れた婦人の身辺から発見されたとき、それが不可解なる唯一の材料だった点からして、油断をなさず「赤毛のゴリラ」が小猿を使って燐寸函の奪還をはかったよりも前にひそかにその函の中から数本の燐寸の棒をポケットに滑りこませて置いたのだった。もしあのとき、そこに気がつかなかったとしたら、今日密書の上に書かれた秘密文字を読みとることは絶対に困難だったろう。随《したが》ってR事件も遂にその真相を知られないでしまい、後へ行って大椿事《だいちんじ》を迎えるに及んで始めてあれがその椿事の前奏曲だったかと思いあたるようなことになったかも知れない。それでは遺憾もまた甚《はなは》だしいといわなければならない。――  密書紙上の秘密文字は、漸《ようや》く緑色もかなり濃く浮きだして来た。帆村はそこに書かれてある文字を拾って読みだしたが、彼の顔は見る見る紅潮して来たのだった。隠しインキは、そもそも何を語っていたのであろうか?    疑問の第二の海峡  帆村探偵が愕《おどろ》いたのも無理がない。そこに浮かび出た緑色の文字は、実に次のような意味の文句を綴《つづ》ってあった。 「……ボゴビ、ラザレフ岬。四日完了。……総攻撃開始は十日の予定、それまでにR区各員は一切《いっさい》の準備を終了し置くを要す」  ボゴビ、ラザレフ岬とは何処《どこ》を指していうのか。また何を完了するというのか?  総攻撃開始とは、何処を攻めるというのであるか?  R区とは何処を云っているのか?  各員は何を準備するのであるか?  何のことだか、ハッキリは分らないけれど、帝都に巣喰う密偵団に準備をしろという点から考えると、これは何かわが日本帝国に関係のあることはいうまでもない。もっと深く知るためには、ボゴビ、ラザレフ岬という地名を知らねばならない。  探偵帆村荘六は、憩《いこ》う遑《いとま》もなく、それからまた地名辞典の頁《ページ》を忙しく繰った。すると、果然あった、あった。ラザレフ岬にボゴビ町! ボゴビ町というのは、北樺太《きたからふと》の西岸にある小さな町の名だった。ラザレフ岬というのは、間宮《まみや》海峡をへだてて其の対岸にあたる沿海県の岬の名で、その間の距離は間宮海峡の中では一番狭いところだ。そしてニコライエフスクの南方約百キロの地点にあたる! この狭い海峡を距てて向いあった両地点に何が完了したというのか? 「はアて?」と帆村は頤《あご》を指先で強く圧《お》した。これは彼の癖で、なにか六《むず》ヶ敷《し》いことにぶつかったとき、それを解くためには是非これをやらないと智慧袋の口が開かない。 「デジネフ岬とプリンス・オヴ・ウェールス岬も、ごく狭い海峡を距てて向いあった両地点である。ところが、いま問題のボゴビとラザレフ岬も同じような地点である。これはどうしたというのか。地勢が似かよっているのは偶然なのだろうか、それともそこに深い意味があるのだろうか?」  もちろん、これは偶然の暗号ではない。共通した地勢には、共通した問題が横たわっていると考えなければならない。すると、共通した問題とは何であるか、それこそはこの暗号の奥に秘められている大秘密でもあり、また敵の密偵長「右足のない梟《ふくろう》」が身命《しんめい》を賭《と》して達成しようとしている大使命でなければならない!  さるにても、「ボゴビ、ラザレフ岬、四日完了」とあるが、四日とはいつのことだろう。 「今日は何日ですかねえ」  と帆村は突如《だしぬけ》に、図書館の宿直氏にたずねた。 「ええ、今日ですか。今日は四日ですよ」 「なに四日? そうか、……そうなる、今日はたしかに十月四日だ。すると四日というのは今日のことかも知れない。うむ、これはこうしていられないぞ」  帆村探偵は暗号の手紙をひっつかむと、館員には挨拶《あいさつ》もソコソコにして、W大学を飛びだした。  それから三十分ほどして、探偵帆村は、彼の尊敬する牧山《まきやま》大佐の前に立っていた。そこで彼はこれまで探偵した結果を要領よく報告した後で、 「大佐どの、北樺太のボゴビと沿海県のラザレフ岬との間に、近頃何か異状はありませんか」 「なに、ボゴビとラザレフ岬との間? おお君はどうしてそれを知っているのだ、真逆《まさか》……」 「僕は、何も知らないのです。しかし僕の推理は、そこに何か異状のあるのを教えるのです。大佐どの、貴官にはそこに異状のあることがお分りになっているのですね」 「まあ、それは説明しまい。その代り君に見せてやるものがある。こっちへ来給え……」  大佐は帆村をうながして、或る部屋へ引張っていった。そこの壁には、或る海峡らしい空中写真が沢山貼りつけられてあり、それには一枚一枚日附が記されてあった。 「この左の岬が、ラザレフ岬だ。この右の山蔭に見えるところがボゴビだ。さあ、日附を追って、この海峡の水面にいかなる変化が起っているかそれを見たまえ」 「なんですって? これが問題の両地点の写真なのですか。どうしてこんな写真を撮《うつ》すことが出来たのです」 「そんなことは訳はない。空中から赤外線写真を撮《と》ればいいのだ。わが領土内にいてもこれ位のことは見えるのだ」  帆村は赤外線写真の偉力に愕きつつも、日附を追って海面の変化を辿《たど》っていったが、 「ああ、これは……」  と思わず大声で叫んだ。帆村は一体そこに何を見たのであろう?    赤外線写真  その赤外線写真が、問題のボゴビ町とラザレフ岬とを一緒に撮ったものだと聞くだに胸が躍《おど》るのに、しかも壁一杯に貼りつけられた沢山の写真は毎日毎日撮影されたもので、いかなる変化がそこに起りつつあるかということを示しているものだと聞いては、物に動じない帆村探偵とても顔色を変えないではいられなかった。 「どうだね。だんだんと変ってくる海峡の有様が分るかね」  と牧山大佐は沈黙を破って云った。 「ああ、分るです。これはボゴビ町とラザレフ岬との間に大きな堰堤《ダム》を作っているんじゃありませんか」 「その通りだ。海峡の水を止めてしまおうというのだ。その規模の大きなことは、いまだかつて聞いたことはない。昔エジプトで、スフィンクスやピラミッドを作ったのが人間のやった土木工事で一番大きなものだったが、そのレコードはこのボゴビ町とラザレフ岬とを連《つら》ねる堰堤《ダム》工事で破ってしまったわけだ。もっとも現代の科学力をもってすれば、こんなことなんかピラミッドの工事よりもやさしいのかも知れない」 「大佐どの。なぜこんなところを埋めるのでしょう。軍事上どんな役に立つのです」 「さあそれは……」と牧山大佐は腕組をして「海水の干満によって水準の変るのを利用し、高い方から海水を低い方に流して、水力発電するためだといっている。しかしそれが問題じゃ。君が持って来た密書を見るまでは水力発電説も相当有力だと思っていたがいまはそうじゃない。そいつは全然思い違いだった」  といって大佐は感慨深そうに左右に頭を振った。 「すると、この堰堤《ダム》工事はどんな目的をもっているのですか。どうか話をして下さい」 「まあ待ちたまえ。いまはまだ話をする時期になっていない」と大佐は帆村を静かに押しとどめ「それよりも君が持って来た密書を大いに生かすことが先決問題だ。ことに相手が『右足のない梟《ふくろう》』であって見れば、これは全く油断のならないことだ」 「ほほう」と帆村は目を丸くして「すると大佐どのは、前から『右足のない梟』を御存じなのですか」 「もちろん知っている。あの男と机を並べて勉強したこともあったよ。×国きっての逸材《いつざい》だ。恐るべき頭脳と手腕の持ち主だ。かねて大警戒はしていたが、どうしてもその尻尾《しっぽ》をつかまえることが出来なかったのだ。こんど君が奪ってきてくれた密書こそ、実はわれわれがどんなにか待ちわびていた証拠書類でもあり、かつまた彼の使命の全貌を知らせてくれたこの上ない宝物だったのだ。イヤもっと話をしていたいが、先刻《さっき》もいったように、いまは愚図愚図している場合ではない。僕はちょっと出掛けるから、君はここに待っていたまえ」 「大佐どの、お出掛けなら、私も連れていっていただけませんか」 「いや、それは出来ない。しかしこれだけは約束をして置こう。なにか面白い行動を起すようなときには、君を必ず一緒に連れだってゆくから……」  そう言い捨てて牧山大佐はそそくさと部屋を出ていった。帆村探偵は写真のある部屋にただひとり待っていた。思えば銀座の鋪道で偶然見た婦人の怪死事件から発して、かずかずの冒険をくりかえし、その結果、はからずも釣りあげた敵の密書から、いまや重大なる行動が起されようとしているのだ。一体なにごとが敵国の手で計画されているのだろう。あの二つの地点で、これから何が始まろうとしているのだ。空前の土木工事にはちがいないが、かの堰堤《ダム》はいかなる秘密を蔵《ぞう》しているのであろうか。  帆村はずいぶん永く待たされた。既に食事を配給せられること二度、もう我慢がならぬから、辞去しようと思ったけれど、牧山大佐の言葉を信用して、もう少し待とうと頑張りつづけた。そして彼の焦躁《しょうそう》がどうにも待ちきれなくなり、遂に一大爆発をしようとした午後九時になって、廊下に跫音《あしおと》も荒々しく、待ちに待った牧山大佐がひどく興奮した面持をして這入《はい》ってきた。 「ああ、牧山さん。どうも待たせるじゃありませんか……」 「まあ我慢してくれたまえ。いずれ後から何もかも分るよ……。さあその代り、直ぐ出発だよ。行先は乗った上でないと云えないが、よかったら君も一緒に行かんか」 「なに出発ですか。……連れていって下さい。どこでも構いません。地獄の際涯《さいがい》でもどこでも恐れやしません。ぜひ連れてって下さい」  帆村は莞爾《かんじ》として、牧山大佐のあとに随《したが》った。    大団円  牧山大佐が帆村探偵を自動車に乗せて案内した先は、帝都の郊外にある飛行場だった。車は真暗な場内の奥深く入って停ったが、そこには目の前に、夜光ペイントを塗った飛行機の胴体が鈍く光っていた。 「これは例の世界に誇る巨人爆撃機だな」  と、帆村は早くもそれと察した。巨人爆撃機なら、時速は五百キロで、航続距離は二万キロ、爆薬は二十|噸《トン》積めるという世界に誇るべき優秀機だった。一行はすでに乗りこんでいたものと見え、帆村たちが乗りこむと直ぐ爆音をあげて滑走をはじめ、まもなく機体はフワリと宙に浮きあがった。  巨人機はグングン上昇した。メートルもなにも見えないけれども、身体に感ずる圧力でそれと分った。その上昇がまだ続けられているときのことだったが、乗組の全員が頭にかけている受話器に警報が鳴りひびいた。 「国籍不明ノ快速飛行機ガ本機ヨリ一キロ後方ニ尾行《びこう》シテ来ル」  本機を尾行している国籍不明の飛行機とは一体何者が操《あやつ》るものであるか。 「イマ尾行機内ヲ暗視機《あんしき》デ映写幕上ニ写シ出ス乗組員ニ注意!」  と、続いて警報が聞えた。と、帆村の目の前に映写幕がスルスルと降りてくるが早いか、三人の男たちの顔がうつった。一人は操縦し、一人はラジオ器械を操り、一人はこっちの方を睨んでいた。その男の顔を見た帆村はハッとして、 「ああ『右足のない梟《ふくろう》』だ!」と叫んだ。 「うん、やっぱり彼奴《あいつ》が尾行してきおった。彼奴が仲間と連絡しないうちに早く片づけて置こうじゃないか」  と牧山大佐は送話器の中へ怒鳴りこんだ。 「怪力線発射用意」  と号令が響く。「撃てッ!」映写幕に映っていた「右足のない梟」外二名の男たちは俄《にわ》かに苦悶の表情を浮べた。とたんに横合から白煙が吹きつけると見る間に、焔《ほのお》がメラメラと燃えだした。そして三人の顔は太陽に解ける雪達磨《ゆきだるま》のようにトロトロと流れだした。それが最期だった。暗視機のレンズはチラチラと動きまわったが、そこには白煙の外、なにも空中には残っていなかった。 「敵ながら惜しい勇士じゃったが……これも已《や》むを得ん。わが軍の怪力線の煙と消えたので彼もすこしは本望じゃろう」  そういって牧山大佐の声が受話器を通じて感慨無量《かんがいむりょう》といった顔をしている帆村の耳に響いた。  それから巨人機は恐ろしいほどスピードを増して、時間にして五、六時間も飛行した、哨戒員《しょうかいいん》は暗視機で四方八方を睨み、敵機もし現れるならばと監視をゆるめなかった。機関砲の砲手は、砲架《ほうか》の前に緊張そのもののような顔をしていた。しかし其《その》後は何者も邪魔をするものが現われなかった。 「牧山大佐どの。もう行先だの目的だのを話して下すってもいいでしょう」  と帆村は大佐の耳に口を寄せて云った。 「君の方がよく知ってるじゃないか」 「やはりベーリング海峡ですね」と帆村はズバリといった。「プリンス・オヴ・ウェールス岬とデジネフ岬のある中間でしょう」 「正《まさ》にそのとおり!」と大佐は帆村の手を固く握った。  そういっているところへ、受話器に警報が入ってきた。 「先刻マデ刻々低下シツツアッタ気温ガ、逆ニ徐々ニ上昇ヲ始メタ。コノ気温異常上昇ハ既ニ地方気象統計ニヨル記録ヲ破壊シ、イマヤ驚異的新記録ヲ示シ、シカモ刻々|自《みずか》ラソノ記録ヲ破リツツアリ」  牧山大佐は意味あり気に帆村の肩をドンと叩いた。どうだ、これでも分らぬかという風に……。 「ベーリング海峡ガ、望遠暗視機ニ感受シ始メタ。映写幕ヲ注視!」  映写幕といわれて、その上を見ると、なるほどベーリング海峡らしいものがうつっている。両方から象の鼻のように出ているのはウェールス岬とデジネフ岬にちがいない。ああ、しかもその両者を連ねるものは、満々たる海水にも浮氷にもあらで、これは城壁のように聳《そび》えたった立派な大堰堤《だいせきてい》だった。 「分った!」と帆村は叫んだ。「ベーリング海峡の海水を堰《せ》きとめると、そこから南の地方が暖流のために、俄《にわ》かに温くなるのだ。いままで寒帯だった地方が温帯に化けるのだ。そこで俄然《がぜん》その宏大な地方を根拠地として某国の活溌な軍事行動が疾風迅雷《しっぷうじんらい》的に起されようとしているのだ。うっかり油断をしていたが最後、悔《く》いて帰らぬ破滅が来るばかりだった。ああ戦慄《せんりつ》すべき大計画! あのとき密書が自分の手に入らなかったら……」  帆村は慄然《りつぜん》として、隣席の牧山大佐を顧《かえり》みた。しかし大佐の姿は、もうそこにはなかった。その代り受話器の中から儼然《げんぜん》たる号令が聞えてきた。 「総員、配置につけッ!」 底本:「海野十三全集 第4巻 十八時の音楽浴」三一書房    1989(平成元)年7月15日第1版第1刷発行 初出:「つはもの」    1934(昭和9)年〜1935(昭和10)年頃 ※底本は、表題の「間諜」に「スパイ」とルビをふっています。 入力:tatsuki 校正:まや 2005年5月6日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。