独本土上陸作戦 ――金博士シリーズ・3―― 海野十三 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)金博士《きんはかせ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)精神|錯乱《さくらん》の [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)⁉ -------------------------------------------------------      1  およそ新兵器の発明にかけては、今日世界に及ぶものなしと称せられる金博士《きんはかせ》が、とつぜん謎の失踪《しっそう》をとげた。  おどろいたのは、ここ上海《シャンハイ》市の地下二百メートルにある博士の実験室に日参していた世界各国の兵器スパイたちだった。  実験室は、きちんと取片づけられ、そして五分置きに、どこからともなくオルゴールが楽《がく》の音《ね》を響かせ、それについで、 “余《よ》は当分《とうぶん》失踪する。これは遺書《いしょ》である。ドクトル金”  と、姿は見えないが、特徴のある博士の声で、この文句がくりかえし響くのであった。  録音による遺書が、オートマティックに反復《はんぷく》放送されているのだった。  あの新兵器発明王金博士のとつぜんの失踪!  博士を監視していた五十七ヶ国のスパイは、いずれも各自の胸部《きょうぶ》に、未《ま》だ貫通《かんつう》せざる死刑銃弾の疼痛《とうつう》を俄《にわ》かに感じたことであった。  一体、博士はどこへ行ってしまったのであろうか。  人騒がせな博士の失踪は、精神|錯乱《さくらん》の結果でもなく、況《いわ》んや海を越えて和平勧告《わへいかんこく》に行ったものでもなかった。しかし金博士の上陸したところは、スコットランドであって、グラスゴー市の西寄りにある秘港《ひこう》グリーノックであった。  金博士は、上陸に際し、右足の踵《かかと》に微傷《びしょう》を負ったが、それは折柄《おりから》丁度《ちょうど》、英軍の高射砲が襲来独機《しゅうらいどくき》を射撃中であって、その高射砲弾の破片《はへん》が、この碩学泰斗《せきがくたいと》の右足に当り、呪いにみちた傷を負わしめたのであった。が、まあ大したことはなかった。 「上陸第一歩に際し、イギリス官憲のみならず、イギリス高射砲隊からもこの鄭重《ていちょう》なる挨拶《あいさつ》をうけようとは、余の予期せざりしところである」  と博士は、折から空襲実況中継放送中のBBCのマイクを通じて、訪問の初挨拶をしたのであった。  接伴《せっぱん》委員長のカーボン卿《きょう》は、金博士が、あまりにも空爆下《くうばくか》に無神経でありすぎるのに愕《おどろ》き、周章《あわ》てて持薬《じやく》のジキタリスの丸薬《がんやく》をおのが口中《こうちゅう》に放りこむと、金博士を桟橋《さんばし》の上に積んだ偽装火薬樽《ぎそうかやくだる》のかげに引張りこんだ。 「ああカーボン卿、ドイツ空軍のために、こんなに行《ゆ》き亘《わた》って爆撃されたのでは、借間《しゃくま》が高くなって、さぞかし市民はたいへんであろう」 「おお金博士。仰有《おっしゃ》るとおりです。借間の払底《ふってい》をはじめ、そのほかわれわれイギリス国民を困らせることが実に夥《おびただ》しいのです。このときわれわれは、はるばる東洋から博士を迎え得て、千万トンのジャガ芋《いも》を得たような気がいたしまする」 「ジャガ芋とは失礼なことをいう、この玉蜀黍《とうもろこし》め」  と、博士は中国語でいって、 「この空爆の惨害《さんがい》を、余にどうしろというのかね」 「いやいや、余は何とも申したわけではない。博士どの。イギリス上陸のとたんに、ぜひとも御注意ねがわねばならぬことが二つありまする」 「二つ? 何と何とかね」 「一つは、さっき申し遅れましたが、味方の撃ちだす高射砲弾の害。もう一つは、おそろしきスパイの害。――とにかく街上でもホテルでも寝床の中でも、おそるべきスパイが耳を澄して聞かんとしていると思召《おぼしめ》して、一切語りたもうなよ」 「本当かね。まるでわが上海《シャンハイ》そっくりじゃ」 「故《ゆえ》に、物事を、スパイや敵国人のため妨害されないで、うまく搬《はこ》ぼうと欲すれば、それ、決して何人にも機密を洩《も》らすことなく、自分おひとりの胸に畳《たた》んで、黙々として実行なさることである」 「お前さんのいうことは、むずかしくて、余には分らんよ」 「いや、つい騎士倶楽部風《きしクラブふう》の言葉になりましたが、要するに、自分の思ったとおり仕事をやりとげるためには、機密事項は一切お喋《しゃべ》りなさるなという忠言です」 「なるほど、壁に耳あり、後にスパイありというわけじゃね。よろしい。今日只今より、大いに気をつける。尤《もっと》も、わしはスパイ禍《か》をさけることなら、上海でもって、相当修業して来ておりますわい」 「それを伺《うかが》って、安心しましたわい」  折から高射砲は、撃《う》ち方《かた》やめとなり、往来はようやく安心できる状態となった。そこで瘠躯鶴《そうくつる》の如きカーボン卿は、樽のかげから外に出て、一応頭上を見上げたうえで、樽のかげの金博士の手を取って、引張り出したのであった。 「さあ、今のうちに急いで参りましょう」 「はて、余はどこへ連れていかれるのじゃな」 「行先は、今も申したように、スパイを警戒いたして申せませぬ。しかし、向うへ到着すれば、そこが何処だかお分りになりましょう。グローブ・リーダーの巻三には、『ロンドン見物』という標題《ひょうだい》の下《もと》に、写真入りでちゃんと詳《くわ》しく出て居ります場所です」 「ありゃ、行先はロンドンですかい」 「ロンドン? あっ、それをどうして御存知《ごぞんじ》ですか。博士は、読心術《どくしんじゅつ》を心得て居らるるか、それともスパイ学校を卒業せられたかの、どっちかですなあ」 「あほらしい。お前さんが今、ロンドン見物の標題で云々《うんぬん》といったじゃないか。お前さんがたのここんところは、連日連夜のドイツ軍の空爆で、だいぶん焼きが廻っていると見える」  そういって、金博士は、自分の頭を、防毒マスクの上から、こつこつと叩いてみせた。      2  ロンドンの地下ホテルの大広間で、国防|晩餐会《ばんさんかい》が催《もよお》されている。  その大広間は、一見《いっけん》ひろびろとしていた。ただ真中のところに、一つの卓子《テーブル》と、それを取囲む十三の椅子とが、まるで盆の真中に釦《ボタン》が落ちているような恰好《かっこう》で、集っていた。そして卓上には、贅沢《ぜいたく》な料理が、大きな鉢に、山の如く盛り合わされ、そしてレッテルを見ただけで酔っぱらいそうな古いウィスキーやコニャックが、林のように並んでいた。  そのとき、広間の北側の扉《ドア》が、さっと左右に開いて、金ぴかの将軍が十二人と、それから肘《ひじ》のぬけそうな黒繻子《くろじゅす》の中国服を着た金博士とが、ぞろぞろと立ち現れて、その設《もう》けの席についた。 「さあ、ぼつぼつ始めましょう」 「各自、お好きなように、セルフ・サーヴィスをして頂きましょう」  ボーイたちは、完全にこの大広間から追い出されていた。しかもこの料理は、五百パーセントの闇値段《やみねだん》で集められた豪華な料理であって、これ全《すべ》て、遠来《えんらい》の金博士――いや、イギリス政府及び軍部が今は命の綱と頼む新兵器発明王の金博士に対する最高の饗応《きょうおう》であったのである。 「さて、早速《さっそく》ではあるが、金博士に相談にのっていただくことにする」  と、座長格の世界戦争軍総指揮官ゴンゴラ大将が口を開いた。 「なるべくなら、この御馳走を全部頂戴してののちに願いたいものじゃが」  金博士は残念そうにいう。 「いや、事が事とて、ぐずぐずして居れないのです」  と、総指揮官ゴンゴラ大将は、かまわず話をすすめる。 「これは今夜はじめて諸君にかぎり発表する最高の機密であるが、実は、わがイギリス軍は、最早《もはや》如何《いかん》ともすべからざる頽勢《たいせい》を一挙に輓回《ばんかい》せんがために、ここに極秘《ごくひ》の作戦を研究しようとしている。それは如何《いか》なる作戦であるか」  と、ゴンゴラ大将は、そこで大いに気を持たせて、一座を見廻した。 (おや、十三の座席は、縁起《えんぎ》でもない)  将軍は、ちょっと顔を曇らせたが、胸の前で十字を切って、 「それは外でもない。十三――いや、諸君、愕《おどろ》いてはいけない。吾輩《わがはい》は、ここに極秘の独本土上陸作戦《どくほんどじょうりくさくせん》を樹立《じゅりつ》しようと思う者である」  一座は、俄《にわ》かにざわめいた。将軍のなかには愕いて、手にしていた盃《さかずき》を取落とす者もあり、嚥《の》み下ろしかけていた若鶏《わかどり》の肉を気管《きかん》の方へ送りこんで目を白黒する者もあった。ただ平然として色を変えず、飲み且《か》つ喰《くら》う手を休めなかったのは金博士ばかりだった。 「独本土上陸作戦、それは英《えい》本土上陸作戦の誤植《ごしょく》――いや誤言《ごごん》ではないか」 「否《いな》、断じて、独本土上陸作戦である」 「ほほっ、ゴンゴラ総指揮官の精神状態を医師に鑑定せしめる必要ありと思うが、如何に」 「いや、もう一つその前に、全国の空軍基地に対し、単座戦闘機《たんざせんとうき》にゴンゴラ将軍を搭乗《とうじょう》せしめざるよう厳重《げんじゅう》命令すべきである」 「その必要はあるまい。なぜといって、ゴンゴラ将軍は、幸《さいわ》いにして飛行機の操縦が出来ないから、安心してよろしい」  ゴンゴラ総指揮官は、頬をトマトのように赧《あか》くして、卓《たく》を叩《たた》いた。 「何人《なんびと》が何といおうと、独本土上陸作戦を決行する吾輩の決意には、最早変りはない。ドイツを屈服《くっぷく》せしめる途は只《ただ》一つ、それより外に残されていないのである」  一座は、尚も喧々囂々《けんけんごうごう》、納《おさ》まりがつかなくなった。あちこちで、同志討《どうしうち》までが始まる。 「なにも、そんな危い芸当をやらないでも、もっと確実に、しかも安全にドイツをやっつける方法があるんだ」 「そんなことはないでしょう。自分は総指揮官の作戦に同意する」 「それは愚劣《ぐれつ》きわまる。よろしいか。わしの考え出した作戦というのは、至極《しごく》簡単明瞭《かんたんめいりょう》である。それは、ドイツに対して『わがイギリスは貴国を援助するぞ』と申入れれば、それでよろしいのじゃ」 「なんだ、それは。敵国ドイツを助ければ、わがイギリスはいよいよ負けるばかりだ」 「それだから貴公《きこう》は、駄目だというんだ。ちと歴史を勉強しなされ、歴史を。今度の世界戦争以来、わがイギリスが援助をすると申入れた先の国で、滅びなかった国があるかね。ベルギーを見よ、和蘭《オランダ》を見よ、チェッコを見よ、ポーランドを見よ、それからユーゴを見よ。ギリシヤを見よ、蒋介石《しょうかいせき》を見よ。だから、われわれイギリスが、『ドイツよ、お前を助ける』と申入れただけで、ドイツも亦《また》、滅びざるを得ないであろう。これ、歴史上の事実から帰納《きのう》した最も正確にして且つ安全な作戦じゃ」  仲々一座の納りがつかないので、ゴンゴラ総指揮官は、席を立って、金博士のところへやって来た。 「金博士。吾輩の切なるお願いである。新奇なる兵器を作って、わがイギリスの沿岸《えんがん》から発し、独本土へ上陸せしめられたい」  このとき、金博士は、ようやく卓上の料理を悉《ことごと》く胃の腑《ふ》に送り終った。博士は、ナップキンで、ねちゃねちゃする両手と口とを拭《ぬぐ》いながら、 「ああ余は遠く来た甲斐《かい》があったよ。ほう、美味《びみ》満腹《まんぷく》だ。はて、何といわれたかね」  と、取り済ました顔である。 「おお金博士。今も申すとおり、吾輩の切なるお願いである。新奇なる兵器を作り、わがイギリスの沿岸より発し、独本土へ兵を上陸せしめられたい」  ゴンゴラ総指揮官は、声涙共《せいるいとも》に下《くだ》って、この東洋の碩学《せきがく》に頼みこんだ。すると博士は、 「ああ、それくらいのことなら、至極《しごく》簡単にやって見せるよ」 「えっ、本当に出来る見込みがありますか」 「ありますとも。そんなことは、人造人間戦車の設計などに較《くら》べれば訳なしじゃ」 「おお、それが真実なれば、吾輩は天にものぼる悦《よろこ》び――いや、とにかく大きな悦びです」 「しかしのう、ゴンゴラ大将。それについて、余は、篤《とく》と貴公と打合わせをしたいのじゃが、この席ではなあ。つまり、こう沢山の人々の耳に入れては、それスパイに買収せられた耳も交《まじ》っているかもしれない。二人切りになれないものかな」 「ああ、そのことなら、吾輩としても、願ってもないことです。よろしい。では他の将軍たちを退場させましょう。おい諸君。君たちは一時《いちじ》別室へ遠慮せよ」  さすがに総指揮官の一声で、他の将軍たちは、ぶつぶつがやがやいいながら、ゴンゴラ大将と金博士をそこに残して、元来た扉《ドア》から出ていってしまった。 「さあ、もう一杯、いきましょう」 「すこし廻りすぎたが、もう一杯頂戴するか」  あとは二人が水入《みずい》らずで向い合った。  金博士は、そのとき顔を将軍に近づけていった。 「今誓約したことは、必ずやります。しかし一体、独本土へ上陸といって、どこへ上陸すればいいのかな。ブレーメンかキール軍港《ぐんこう》のあたりまで行かなければ満足しないのか、それともドイツの占領地帯で、お手近《てぢ》かのドーヴァ海峡《かいきょう》を越えて旧《きゅう》フランス領のカレーあたりへ上陸しただけでも差支《さしつか》えないのか、一体どっちを望むのかね」  金博士に大きく出られて、ゴンゴラ総指揮官は、碧《あお》い目玉をぐりぐり廻わし、 「どっちでも結構ですが、一つ早いところ上陸して貰いたいですねえ。ドイツ兵のいる陸地へ、こっちからいって上陸したということになれば、そのニュースは、ビッグ・ニュースとして全世界を震駭《しんがい》し、奮《ふる》わざること久《ひさ》しきイギリス軍も勇気百倍、狂喜乱舞《きょうきらんぶ》いたしますよ」 「狂喜乱舞するかな。それはどうかと思う」 「いや、狂喜乱舞することは請合《うけあ》いです」 「そうかね。そこのところは、余にはよく呑みこめないが、とにかく、上陸作戦をやるについて、予《あらかじ》め種々《しゅじゅ》、貰《もら》うものは貰って置きたい」 「ああ、これは申し遅れて失礼をしました。成功の暁《あかつき》は、博士の測《はか》り知られざるその勲功《くんこう》に対し、いかなる褒賞《ほうしょう》でも上奏《じょうそう》いたしましょう。いかなる勲章がお望《のぞ》みかな。ダイヤモンド十字章《じゅうじしょう》はいかがですな。また、何もイギリスの勲章に限ったことはない。和蘭《オランダ》の勲章はいかが、それともポーランドの勲章は。エチオピヤの勲章でもいいですぞ。それともフランスの勲章にしますか」 「勲章など貰っても、持って帰るのに面倒《めんどう》だから、いやじゃ。それよりも、当国《とうごく》逗留中《とうりゅうちゅう》は、イギリス製のウィスキーを思う存分《ぞんぶん》呑《の》ませてくれればそれでよろしい。今のうちに呑んでおかないと、きっとドイツ兵に呑まれてしまうからね」 「縁起でもありませんよ」 「しかしのう、ゴンゴラ将軍。さっき余が、貰うものは貰って置きたいといったのは、そんなものではないのじゃ」 「え、勲章の話ではなかったのですか」 「東洋人というものは、お主《ぬし》のように、左様《さよう》に貪慾《どんよく》ではない。余の欲しいのは、白紙命令書《はくしめいれいしょ》だ。それを百枚ばかり貰いたい」  博士は妙なことをいいだした。白紙命令書というのは、まだ命令の文句が書いてない命令書のことであった。 「白紙命令書百枚もよろしいが、何にお使いですかな」  と、ゴンゴラ将軍は腑に落ちない顔。 「知れたことじゃ。お主から頼まれた一件を果すためには、万事極秘でやらにゃならん。だから余だけが計画内容を知っているということにするには、白紙命令書を貰ったのが便宜《べんぎ》なのじゃ。尚その命令書には『追《おっ》テ後日《ごじつ》何等カノ命令アルマデハ本件ニ関シ総指揮官部へ報告ニ及バズ』と但書《ただしがき》を書くから、予め諒承《りょうしょう》ありたい」      3  ゴンゴラ総指揮官は、遂《つい》に白紙命令書百枚を金博士に手交《しゅこう》して、博士の手腕に大いに期待するところがあった。  ところが、それから一週間たっても、二週間たっても、金博士が一向動きだしたという知らせに接しないのであった。  将軍のところへ出入する情報局|蒐集官《しゅうしゅうかん》たちは、決《きま》って、将軍から同じ趣旨《しゅし》の質問を受けるのだった。 「おい、金博士の動静《どうせい》についてのニュースはないのか。すくなくとも一巻のニュース映画になるくらいのものは持って来い」  将軍は、金博士の行動のニュースに飢《う》えているのであった。  情報蒐集官たちは、残念ながら、博士についてのニュース材料の持ち合わせがなかった。それで次回から、せいぜい気をつけることにして、金博士の身辺《しんぺん》を猟犬《りょうけん》の如く、或いはダニの如く、或いは空気の如く搦《から》みついて、何を博士が実行に移しているかを調べたのであった。  その結果は、毎日毎夜それぞれの情報蒐集官から、ゴンゴラ総指揮官のところへ集ってきた。 「金博士は、本日午前十時、セバスチァン料理店に現れ、午後二時まで四時間に亘《わた》り昼酒《ひるざけ》をやり、大いに酩酊《めいてい》せり」 「ふん、大いにやっとるな」  と、ゴンゴラ将軍は次の報告書を取上げる。 「金博士は、本日午後二時十五分より、カセイ・ホテルに現れ、飲酒三時間に及べり。午後五時三十分、退出《たいしゅつ》す」 「よく飲むなあ。身体をこわさなきゃいいが……」  次の報告書には、こう書いてあった。 「金博士は、本日午後五時四十五分、ピカデリー街に於て、数名の東洋人に襲撃せられ……」 「おや、これはニュースらしいニュースだ」  と、総指揮官は、思わず前に乗りだして、さてその次を読むと、 「……街上《がいじょう》に於て、ウィスキーのラッパ呑みを強要されしが、それより博士の提案により、会場をコルコット街《がい》裏通りのバー、ホーンに於て一同揃って痛飲会《つういんかい》が開催《かいさい》せられることとなり、同夜午後十一時まで、通計《つうけい》五時間……」  将軍は、苦《にが》り切って、その報告で洟《はな》をちんとかむと、紙屑籠《かみくずかご》へ投げこんだ。 「金博士は、地酒窟《じざけくつ》ランタンに現れ、午後十一時十五分……」  どこまで読んでいっても、金博士が酒を飲む報告書ばかりであった。将軍は、うんざりしてしまった。  気をつけていると、毎日毎夜、集ってくるどの報告書も、飲酒の実績報告ばかりであって、その中に只の一枚も、「金博士は、机に向い、設計用紙を前にして、計算尺《けいさんじゃく》をひねりつつあり」とか「金博士、只今、バーミンガムの特殊鋼《とくしゅこう》工場へ、マンガン鋼《こう》五十トンの注文を発せり」などという工作関係のニュースは入っていなかったのである。ゴンゴラ総指揮官は、飛行機にのって特殊飛行をやってみたい衝動《しょうどう》に駆《か》られて、弱った。  ついにゴンゴラ総指揮官の勘忍袋《かんにんぶくろ》の緒《お》が切れ、警衛隊に命令して、金博士をオムスク酒場から引き立て、官邸へ連れて来させたのであった。そのとき金博士は、へべれけに大酩酊のていたらくであった。 「うーい。こら、こんな面白くない酒場へ引張《ひっぱ》って来やがって。こーら、そこにいる大将。早くジンカクを持ちこい」  ゴンゴラ大将は、仁王様《におうさま》がせんぶりの粉《こな》を嘗《な》めたような顔をして博士のぐにゃぐにゃした肩を鷲《わし》づかみにした。 「これ、金博士。いかに酒好きとはいえ、酒ばかり呑んで、吾輩との約束を無にするとは遺憾《いかん》である」  総指揮官は、極力《きょくりょく》腹の虫を殺して、春の海のように穏《おだや》かに云った。 「おお、お主はゴンゴン独楽《こま》のゴン将軍じゃったな。今聞いてりゃ、聞いちゃいられねえことを余《よ》に向っていったな」 「吾輩は、三週間、いらいらして暮した。その間博士は酒ばかり飲んで暮した。例の仕事には、すこしも手がついていないではないか」 「あっはっはっはっ」と博士は笑って、「お主は、そのことを心配しているのか。余はイギリス人のように、やるといって置いてやらん人間とは違う。疑うなら、見せてやるものがある。さあ、余の右足をもって、力一杯引張れ。おい、早くやれ。酒を飲む時間が少くなる。なにしろイギリス製ウィスキーとも、間もなくお別れだからな。おい、引張れ」  ゴンゴラ総指揮官は、博士に催促《さいそく》されて、床に膝をつき、博士の右足をつかんで、えいと引いた。すると、すぽんと音がして、博士の右脚が、太腿《ふともも》のあたりから抜けた⁉      4  ……と見えたが、驚くことはない、実は金博士が右脚に履《は》いていた肉色の超長靴《ちょうながぐつ》が、すぽんと抜けて、ゴンゴラ将軍の手に残っただけのことであった。 「ひゃーっ」  千軍万馬《せんぐんばんば》の将軍も、これには胆《きも》を潰《つぶ》し、博士の一本脚――ではない実は超長靴を、絨毯《じゅうたん》の上に放り出した。博士は、それを無造作《むぞうさ》に拾いあげ、その中に手を入れると、やがて一枚の青写真を引張りだした。 「ゴンゴラ将軍。これをお目にかけよう」  将軍は目をぱちくり。膝の上に青写真を展《ひろ》げて、二度びっくり。 「これは、素晴らしい新兵器だ。一人乗りの豆潜水艇《まめせんすいてい》のようだが……」 「将軍よ。これは初めて貴官と会見した日、宿に帰ってすぐさま設計した渡洋潜波艇《とようせんはてい》だ」 「ああ実に素晴らしい。さすがは金博士だ。これを如何《いか》に使うのですかな」 「これはつまり、一種の潜水艇だが、深くは沈まない。海面から、この艇《ふね》の背中が漸《ようや》く没《ぼっ》する位、つまり数字でいえば、波面《はめん》から二三十センチ下に潜《くぐ》り、それ以上は潜らない一人乗りの潜波艇だ」 「ふむ、ふむ」 「これを作ったわけは、如何なる防潜網《ぼうせんもう》も海面下二メートル乃至《ないし》十数メートル下に張ってあるから、普通の潜水艦艇では、突破は困難だ。また普通の潜水艦艇では、機雷《きらい》にぶっつけるかもしれないし、警報装置に引懸《ひっかか》って所在が知れるし、どうもよくない。そこでこの渡洋潜波艇は、海面とすれすれの浅い水中を快速で安全に突破するもので、つまり水上と防潜網との隙間《すきま》を狙《ねら》うものである」 「ほう、素晴らしいですなあ」 「しかし、これは試作しただけで、余は取り捨てたよ」 「おや、勿体《もったい》ない。使わないのですか」 「駄目じゃ。やっぱり相手方に知れていけないのじゃ。つまり海面と防潜網との隙間を行くものではあるが、こいつを何千何万|隻《せき》とぶっ放すと、彼岸《ひがん》に達するまでに、彼我《ひが》の水上艦艇に突き当るから、直《ただ》ちに警報を発せられてしまう。従ってドイツ本土上陸以前に、殲滅《せんめつ》のおそれがある。これはやめたよ」 「惜しいですなあ。すると、これは取りやめて、以来《いらい》自暴酒《やけざけ》というわけですか」 「とんでもない。余はイギリス人とは違うよ。余は既に、ちゃんと自信たっぶりの新兵器を作った」 「それは、どういう……」 「莫迦《ばか》。現行兵器の機密が、他人に洩《も》らせるものか」 「でも、吾輩は総指揮官……」 「総指揮官とて信用は出来ない。とにかく余は貴官と約束したところに従い、現実に独本土上陸をやって見せた上で帰国しようと思う。百の議論よりも、一の実行だ。実績を見せれば、文句はないじゃろう」 「なるほど。すると博士御発明の独本土上陸用の新兵器は、目下|続々《ぞくぞく》と建造《けんぞう》されつつあるのですな」  ゴンゴラ将軍の瞳が燿《かがや》いた。 「その建造は、二週間前に終った。それから、搭乗員《とうじょういん》の募集にちょっと手間どったが、これも一週間前に片づき、目下《もっか》わが独本土上陸の決死隊二百名は、刻々《こくこく》独本土に近づきつつあるところじゃ。これだけは話をしてやってもええじゃろう」 「人員二百名は少いが、とにかく刻々独本土に近づきつつあるとは快報です。大いに期待をかけますが、果してうまくいくですかな」 「なにしろ、独本土へ上陸しようというイギリス軍人の無いのには愕《おどろ》いた。折角《せっかく》作ったわが新兵器も、無駄に終るかと思って、一時は酒壜の底に一滴《いってき》の酒もなくなったときのような暗澹《あんたん》たる気持に襲われたよ」 「しかしまあ、二百名にしろ、決死隊員の頭数《あたまかず》が揃ったは何よりであります。本官の名誉はともかくも保《たも》たれました」 「さあ、どうかなあ」 「えっ」といっているとき、幕僚《ばくりょう》が部屋へとびこんで来た。 「総指揮官。只今ドイツ側がビッグ・ニュースの放送をやって居ります。事重大《ことじゅうだい》ですが、お聴きになりますか」 「重大事件? ははあ、あれだな。スイッチを入れなさい」  スイッチが入って、ドイツ放送局のアナウンサーの声が高声器《こうせいき》から流れだした。 「……繰返《くりかえ》して申上げます。本日午後五時、二百名より成るドイツ将校下士官兵の一隊は、イギリス本土よりわが占領地区カレー市へ無事|帰還《きかん》いたしました。これは、目下イギリスに在る金博士の発明になる深海歩行器《しんかいほこうき》によって、ドーバー海峡四十キロの海底を突破し、無事帰還したものでありまして、実に劃期的《かっきてき》な大陸連絡でありました。因《ちなみ》に金博士の深海歩行器というのは、直径三メートルばかりの丈夫なる金属球《きんぞくきゅう》でありまして、中に一人の人間が入り、局所照明灯《きょくしょしょうめいとう》により、前方の機雷や防潜網を避《さ》けながら歩行機械により海底を歩行出来る仕掛けになって居りますが、十分《じゅうぶん》ドーバー海峡下の水圧には耐えるようになって居ります。その他のことについては、機密になって居りまして、詳細をここに述べられませんのは遺憾《いかん》でありますが、尚《なお》今回の壮挙《そうきょ》のエピソードといたしまして、最初金博士は、この大発明兵器深海歩行器に搭乗する決死隊を、イギリス軍隊の中に求めましたが、何分にも赫々《かっかく》たるドイツ軍の戦績とダンケルクの敗戦を想起《そうき》し、一人の応募者《おうぼしゃ》もありませんので、遂に金博士は腹を立て、予《かね》て捕虜として収容されありし前記二百名のドイツ軍人に独本土上陸の希望を問合《といあ》わしたところ、一同大喜びにて、決死隊に応募し、遂に今回の大成功を見たものであります。……」  ゴンゴラ総指揮官が真赤《まっか》になって金博士の方に振返った時には、既に博士の姿は卓上の酒壜と共に、かき消すように消え失《う》せていた。 底本:「海野十三全集 第10巻」三一書房    1991(平成3)年5月31日第1版第1刷発行 初出:「新青年」    1941(昭和16)年7月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:tatsuki 校正:まや 2005年5月15日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。