海神別荘 泉鏡花 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)森厳藍碧《しんげんらんぺき》なる |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)髪|艶《つや》やかに [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)琅玕殿 ------------------------------------------------------- [#ここから2字下げ] 時。 [#ここから4字下げ] 現代。 [#ここから2字下げ] 場所。 [#ここから4字下げ] 海底の琅玕殿。 [#ここから2字下げ] 人物。 [#ここから4字下げ] 公子。沖の僧都。(年老いたる海坊主)美女。博士。 女房。侍女。(七人)黒潮騎士。(多数) [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] [#ここから2字下げ] 森厳藍碧《しんげんらんぺき》なる琅玕殿裡《ろうかんでんり》。黒影《こくえい》あり。――沖の僧都《そうず》。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 僧都 お腰元衆。 侍女一 (薄色の洋装したるが扉《ドア》より出《い》づ)はい、はい。これは御僧《おそう》。 僧都 や、目覚しく、美しい、異《かわ》った扮装《いでたち》でおいでなさる。 侍女一 御挨拶《ごあいさつ》でございます。美しいかどうかは存じませんけれど、異った支度には違いないのでございます。若様、かねてのお望みが叶《かな》いまして、今夜お輿入《こしいれ》のございます。若奥様が、島田のお髪《ぐし》、お振袖と承りましたから、私《わたくし》どもは、余計そのお姿のお目立ち遊ばすように、皆して、かように申合せましたのでございます。 僧都 はあ、さてもお似合いなされたが、いずこの浦の風俗じゃろうな。 侍女一 度々海の上へお出でなさいますもの、よく御存じでおあんなさいましょうのに。 僧都 いや、荒海を切って影を顕《あらわ》すのは暴風雨《あらし》の折から。如法《にょほう》たいてい暗夜《やみ》じゃに因って、見えるのは墓の船に、死骸《しがい》の蠢《うごめ》く裸体《はだか》ばかり。色ある女性《にょしょう》の衣《きぬ》などは睫毛《まつげ》にも掛《かか》りませぬ。さりとも小僧のみぎりはの、蒼《あお》い炎の息を吹いても、素奴《しゃつ》色の白いはないか、袖の紅《あか》いはないか、と胴の間《ま》、狭間《はざま》、帆柱の根、錨綱《いかりづな》の下までも、あなぐり探いたものなれども、孫子《まごこ》は措《お》け、僧都においては、久しく心にも掛けませいで、一向に不案内じゃ。 侍女一 (笑う)お精進《しょうじん》でおいで遊ばします。もし、これは、桜貝、蘇芳貝《すおうがい》、いろいろの貝を蕊《しべ》にして、花の波が白く咲きます、その渚《なぎさ》を、青い山、緑の小松に包まれて、大陸の婦《おんな》たちが、夏の頃、百合、桔梗《ききょう》、月見草、夕顔の雪の装《よそおい》などして、旭《あさひ》の光、月影に、遥《はるか》に(高濶《こうかつ》なる碧瑠璃《へきるり》の天井を、髪|艶《つや》やかに打仰ぐ)姿を映します。ああ、風情な。美しいと視《なが》めましたものでございますから、私《わたくし》ども皆が、今夜はこの服装《なり》に揃えました。 僧都 一段とお見事じゃ。が、朝ほど御機嫌伺いに出ました節は、御殿《ごてん》、お腰元衆、いずれも不断の服装《なり》でおいでなされた。その節は、今宵、あの美女がこれへ輿入の儀はまだ極《きま》らなんだ。じたい人間は決断が遅いに因ってな。……それじゃに、かねてのお心掛《こころがけ》か。弥《いや》疾《と》く装《なり》が間に合うたもののう。 侍女一 まあ、貴老《あなた》は。私《わたくし》たちこの玉のような皆《みんな》の膚《はだ》は、白い尾花の穂を散らした、山々の秋の錦《にしき》が水に映ると同《おんな》じに、こうと思えば、ついそれなりに、思うまま、身の装《よそおい》の出来ます体でおりますものを。貴老はお忘れなさいましたか。 [#ここから1字下げ] 貴老は。……貴老だとて違いはしません。緋《ひ》の法衣《ころも》を召そうと思えば、お思いなさいます、と右左、峯に、一本《ひともと》燃立つような。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 僧都 ま、ま、分った。(腰を屈《かが》めつつ、圧《おさ》うるがごとく掌《たなそこ》を挙げて制す)何とも相済まぬ儀じゃ。海の住居《すまい》の難有《ありがた》さに馴《な》れて、蔭日向《かげひなた》、雲の往来《ゆきき》に、潮《うしお》の色の変ると同様。如意自在《にょいじざい》心のまま、たちどころに身の装《よそおい》の成る事を忘れていました。 [#ここから1字下げ] なれども、僧都が身は、こうした墨染の暗夜《やみ》こそ可《よ》けれ、なまじ緋の法衣《ころも》など絡《まと》おうなら、ずぶ濡《ぬれ》の提灯《ちょうちん》じゃ、戸惑《とまどい》をした鱏《えい》の魚《うお》じゃなどと申そう。圧《おし》も石も利く事ではない。(細く丈長き鉄《くろがね》の錨《いかり》を倒《さかしま》にして携えたる杖《つえ》を、軽《かろ》く突直す。) いや、また忘れてはならぬ。忘れぬ前《さき》に申上げたい儀で罷出《まかりで》た。若様へお取次を頼みましょ。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 侍女一 畏《かしこま》りました。唯今《ただいま》。……あの、ちょうど可《い》い折に存じます。 [#ここから2字下げ] 右の方《かた》闥《ドア》を排して行《ゆ》く。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 僧都 (謹みたる体《てい》にて室内を眗《みまわ》す。)  はあ、争われぬ。法衣《ころも》の袖に春がそよぐ。 [#ここから2字下げ] (錨の杖を抱《いだ》きて彳《たたず》む。) [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 公子 (衝《つ》と押す、闥《ドア》を排《ひら》きて、性急に登場す。面《おも》玉のごとく﨟《ろう》丈《た》けたり。黒髪を背に捌《さば》く。青地錦の直垂《ひたたれ》、黄金《こがね》づくりの剣《つるぎ》を佩《は》く。上段、一階高き床の端に、端然として立つ。)  爺《じ》い、見えたか。 [#ここから2字下げ] 侍女五人、以前の一人を真先《まっさき》に、すらすらと従い出づ。いずれも洋装。第五の侍女、年最も少《わか》し。二人は床の上、公子《こうし》の背後《うしろ》に。二人は床を下りて僧都の前に。第一の侍女はその背《うしろ》に立つ。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 僧都 は。(大床《おおゆか》に跪《ひざまず》く。控えたる侍女一、件《くだん》の錨の杖を預る)これはこれは、御休息の処を恐入りましてござります。 公子 (親しげに)爺い、用か。 僧都 紺青《こんじょう》、群青《ぐんじょう》、白群《びゃくぐん》、朱、碧《へき》の御蔵の中より、この度の儀に就きまして、先方へお遣わしになりました、品々の類《たぐい》と、数々を、念のために申上げとうござりまして。 公子 (立ちたるまま)おお、あの女の父親に遣《や》った、陸で結納《ゆいのう》とか云うものの事か。 僧都 はあ、いや、御聡明なる若様。若様にはお覚違《おぼえちが》いでござります。彼等|夥間《なかま》に結納と申すは、親々が縁を結び、媒妁人《なこうど》の手をもち、婚約の祝儀、目録を贈りますでござります。しかるにこの度は、先方の父親が、若様の御支配遊ばす、わたつみの財宝に望《のぞみ》を掛け、もしこの念願の届くにおいては、眉目容色《みめきりょう》、世に類《たぐい》なき一人の娘を、海底へ捧げ奉る段、しかと誓いました。すなわち、彼が望みの宝をお遣《つかわ》しになりましたに因って、是非に及ばず、誓言《せいごん》の通り、娘を波に沈めましたのでござります。されば、お送り遊ばされた数の宝は、彼等が結納と申そうより、俗に女の身代《みのしろ》と云うものにござりますので。 公子 (軽く頷《うなず》く)可《よし》、何にしろすこしばかりの事を、別に知らせるには及ばんのに。 僧都 いやいや、鱗《うろこ》一枚、一草《ひとくさ》の空貝《うつせがい》とは申せ、僧都が承りました上は、活達なる若様、かような事はお気煩《きむず》かしゅうおいでなさりましょうなれども、老《おい》のしょうがに、お耳に入れねばなりませぬ。お腰元衆もお執成《とりなし》。(五人の侍女に目遣《めづかい》す)平《ひら》にお聞取りを願わしゅう。 侍女三 若様、お座へ。 公子 (顧みて)椅子《いす》をこちらへ。 [#ここから2字下げ] 侍女三、四、両人して白き枝珊瑚《えださんご》の椅子を捧げ、床の端近《はしぢか》に据う。大|隋円形《だえんけい》の白き琅玕《ろうかん》の、沈みたる光沢を帯べる卓子《テエブル》、上段の中央にあり。枝のままなる見事なる珊瑚の椅子、紅白二脚、紅《あか》きは花のごとく、白きは霞のごときを、相対して置く。侍女等が捧出《ささげい》でて位置を変えて据えたるは、その白き方《かた》一脚なり。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 僧都 真鯛《まだい》大小八千枚。鰤《ぶり》、鮪《まぐろ》、ともに二万|疋《びき》。鰹《かつお》、真那鰹《まながつお》、各《おのおの》一万本。大比目魚《おおひらめ》五千枚。鱚《きす》、魴鮄《ほうぼう》、鯒《こち》、鰷身魚《あいなめ》、目張魚《めばる》、藻魚《もうお》、合せて七百|籠《かご》。若布《わかめ》のその幅六丈、長さ十五|尋《ひろ》のもの、百枚|一巻《ひとまき》九千連。鮟鱇《あんこう》五十袋。虎河豚《とらふぐ》一頭。大の鮹《たこ》一番《ひとつがい》。さて、別にまた、月の灘《なだ》の桃色の枝珊瑚一株、丈八尺。(この分、手にて仕方す)周囲《まわり》三抱《みかかえ》の分にござりまして。ええ、月の真珠、花の真珠、雪の真珠、いずれも一寸の珠《たま》三十三|粒《りゅう》、八分の珠百五粒、紅宝玉三十|顆《か》、大《おおき》さ鶴の卵、粒を揃えて、これは碧瑪瑙《あおめのう》の盆に装《かざ》り、緑宝玉、三百顆、孔雀《くじゃく》の尾の渦巻の数に合せ、紫の瑠璃《るり》の台、五色に透いて輝きまする鰐《わに》の皮三十六枚、沙金《さきん》の包《つつみ》七十|袋《たい》。量目《はかりめ》約百万両。閻浮檀金《えんぶだごん》十斤也。緞子《どんす》、縮緬《ちりめん》、綾《あや》、錦《にしき》、牡丹《ぼたん》、芍薬《しゃくやく》、菊の花、黄金色《こんじき》の董《すみれ》、銀覆輪《ぎんぷくりん》の、月草、露草。 侍女一 もしもし、唯今《ただいま》のそれは、あの、残らず、そのお娘御《むすめご》の身の代《しろ》とかにお遣わしの分なのでございますか。 僧都 残らず身の代と?……はあ、いかさまな。(心付く)不重宝《ぶちょうほう》。これはこれは海松《みる》ふさの袖に記して覚えのまま、潮《うしお》に乗って、颯《さっ》と読流しました。はて、何から申した事やら、品目の多い処へ、数々ゆえに。ええええ、真鯛大小八千枚。 侍女一 鰤、鮪ともに二万疋。鰹、真那鰹|各《おのおの》一万本。 侍女二 (僧都の前にあり)大比目魚五千枚。鱚、魴鮄、鯒、あいなめ、目ばる、藻魚の類合せて七百籠。 侍女三 (公子の背後にあり)若布のその幅六丈、長さ十五尋のもの百枚|一巻《ひとまき》九千連。 侍女四 (同じく公子の背後に)鮟鱇五十袋、虎河豚一頭、大の鮹|一番《ひとつがい》。まあ……(笑う。侍女皆笑う。) 僧都 (額の汗を拭《ふ》く)それそれさよう、さよう。 公子 (微笑しつつ)笑うな、老人は真面目《まじめ》でいる。 侍女五 (最も少《わか》し。斉《ひと》しく公子の背後に附添う。派手に美《うるわ》しき声す)月の灘の桃色の枝珊瑚樹、対《つい》の一株、丈八尺、周囲《まわり》三抱《みかかえ》の分。一寸の玉三十三粒……雪の真珠、花の真珠。 侍女一 月の真珠。 僧都 しばらく。までじゃまでじゃ、までにござる。……桃色の枝珊瑚樹、丈八尺、周囲三抱の分までにござった。(公子に)鶴の卵ほどの紅宝玉、孔雀の渦巻の緑宝玉、青瑪瑙の盆、紫の瑠璃の台。この分は、天なる(仰いで礼拝す)月宮殿に貢《みつぎ》のものにござりました。 公子 私もそうらしく思って聞いた。僧都、それから後に言われた、その董、露草などは、金銀宝玉の類は云うまでもない、魚類ほどにも、人間が珍重しないものと聞く。が、同じく、あの方《かた》へ遣わしたものか。 僧都 綾、錦、牡丹、芍薬、縺《もつ》れも散りもいたしませぬを、老人の申条《もうしじょう》、はや、また海松《みる》のように乱れました。ええええ、その董、露草は、若様、この度の御旅行につき、白雪《はくせつ》の竜馬《りゅうめ》にめされ、渚《なぎさ》を掛けて浦づたい、朝夕の、茜《あかね》、紫、雲の上を山の峰へお潜《しの》びにてお出ましの節、珍しくお手に入《い》りましたを、御姉君《おんあねぎみ》、乙姫《おとひめ》様へ御進物の分でござりました。 侍女一 姫様は、閻浮檀金《えんぶだごん》の一輪挿《いちりんざし》に、真珠の露でお活《い》け遊ばし、お手許《てもと》をお離しなさいませぬそうにございます。 公子 度々は手に入らない。私も大方、姉上に進《あ》げたその事であろうと思った。 僧都 御意。娘の親へ遣わしましたは、真鯛より数えまして、珊瑚一対……までに止《とど》まりました。 侍女二 海では何ほどの事でもございませんが、受取ります陸《おか》の人には、鯛も比目魚も千と万、少ない数ではございますまいに、僅《わずか》な日の間に、ようお手廻し、お遣わしになりましてございます。 僧都 さればその事。一国、一島、津や浦の果《はて》から果を一網《ひとあみ》にもせい、人間|夥間《なかま》が、大海原《おおうなばら》から取入れます獲《え》ものというは、貝に溜《たま》った雫《しずく》ほどにいささかなものでござっての、お腰元衆など思うてもみられまい、鉤《はり》の尖《さき》に虫を附けて雑魚《ざこ》一筋を釣るという仙人業《せんにんわざ》をしまするよ。この度の娘の父は、さまでにもなけれども、小船一つで網を打つが、海月《くらげ》ほどにしょぼりと拡げて、泡にも足らぬ小魚を掬《しゃく》う。入《いれ》ものが小さき故に、それが希望《のぞみ》を満しますに、手間の入《い》ること、何ともまだるい。鰯《いわし》を育てて鯨にするより歯痒《はがゆ》い段の行止《ゆきどま》り。(公子に向う)若様は御性急じゃ。早く彼が願《ねがい》を満たいて、誓《ちかい》の美女を取れ、と御意ある。よって、黒潮、赤潮の御手兵をちとばかり動かしましたわ。赤潮の剣《つるぎ》は、炎の稲妻、黒潮の黒い旗は、黒雲の峰を築《つ》いて、沖から摚《どう》と浴びせたほどに、一浦《ひとうら》の津波となって、田畑も家も山へ流いた。片隅の美女の家へ、門背戸《かどせど》かけて、畳天井、一斉《いちどき》に、屋根の上の丘の腹まで運込みました儀でござったよ。 侍女三 まあ、お勇ましい。 公子 (少し俯向《うつむ》く)勇ましいではない。家畑を押流して、浦のもの等は迷惑をしはしないか。 僧都 いや、いや、黒潮と赤潮が、密《そ》と爪弾《つまはじ》きしましたばかり。人命を断つほどではござりませなんだ。もっとも迷惑をせば、いたせ、娘の親が人間同士の間《なか》でさえ、自分ばかりは、思い懸けない海の幸を、黄金《こがね》の山ほど掴《つか》みましたに因って、他の人々の難渋ごときはいささか気にも留めませぬに、海のお世子《よとり》であらせられます若様。人間界の迷惑など、お心に掛けさせますには毛頭当りませぬ儀でございます。 公子 (頷《うなず》く)そんなら可《よし》――僧都。 僧都 はは。(更《あらた》めて手を支《つ》く。) 公子 あれの親は、こちらから遣わした、娘の身の代《しろ》とかいうものに満足をしたであろうか。 僧都 御意、満足いたしましたればこそ、当御殿、お求めに従い、美女を沈めました儀にござります。もっとも、真鯛、鰹、真那鰹、その金銀の魚類のみでは、満足をしませなんだが、続いて、三抱え一対の枝珊瑚を、夜の渚に差置きますると、山の端《は》出づる月の光に、真紫に輝きまするを夢のように抱きました時、あれの父親は白砂に領伏《ひれふ》し、波の裙《すそ》を吸いました。あわれ竜神、一命も捧げ奉ると、御恩のほどを難有《ありがた》がりましたのでござります。 公子 (微笑す)親仁《おやじ》の命などは御免だな。そんな魂を引取ると、海月《くらげ》が殖《ふ》えて、迷惑をするよ。 侍女五 あんな事をおっしゃいます。 [#ここから2字下げ] 一同笑う。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 公子 けれども僧都、そんな事で満足した、人間の慾《よく》は浅いものだね。 僧都 まだまだ、あれは深い方でござります。一人娘の身に代えて、海の宝を望みましたは、慾念の逞《たくまし》い故でござりまして。……たかだかは人間同士、夥間《なかま》うちで、白い柔《やわらか》な膩身《あぶらみ》を、炎の燃立つ絹に包んで蒸しながら売り渡すのが、峠の関所かと心得ます。 公子 馬鹿だな。(珊瑚の椅子をすッと立つ)恋しい女よ。望めば生命《いのち》でも遣《や》ろうものを。……はは、はは。 [#ここから2字下げ] 微笑す。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 侍女四 お思われ遊ばした娘御は、天地《あめつち》かけて、波かけて、お仕合せでおいで遊ばします。 侍女一 早くお着き遊《あそば》せば可《よ》うございます。私《わたくし》どももお待遠《まちどお》に存じ上げます。 公子 道中の様子を見よう、旅の様子を見よう。(闥《ドア》の外に向って呼ぶ)おいおい、居間の鏡を寄越《よこ》せ。(闥開く。侍女六、七、二人、赤地の錦の蔽《おおい》を掛けたる大なる姿見を捧げ出づ。)  僧都も御覧。 僧都 失礼ながら。(膝行《しっこう》して進む。侍女等、姿見を卓子《テエプル》の上に据え、錦の蔽を展《ひら》く。侍女等、卓子の端の一方に集る。) 公子 (姿見の面《おも》を指《ゆびさ》し、僧都を見返る)あれだ、あれだ。あの一点の光がそれだ。お前たちも見ないか。 [#ここから2字下げ] 舞台転ず。しばし暗黒、寂寞《せきばく》として波濤《はとう》の音聞ゆ。やがて一個《ひとつ》、花白く葉の青き蓮華燈籠《れんげどうろう》、漂々として波に漾《ただよ》えるがごとく顕《あらわ》る。続いて花の赤き同じ燈籠、中空《なかぞら》のごとき高処に出づ。また出づ、やや低し。なお見ゆ、少しく高し。その数|五個《いつつ》になる時、累々たる波の舞台を露《あらわ》す。美女。毛巻島田《けまきしまだ》に結う。白の振袖、綾《あや》の帯、紅《くれない》の長襦袢《ながじゅばん》、胸に水晶の数珠《じゅず》をかけ、襟に両袖を占めて、波の上に、雪のごとき竜馬《りゅうめ》に乗せらる。およそ手綱の丈を隔てて、一人|下髪《さげがみ》の女房。旅扮装《たびいでたち》。素足、小袿《こうちぎ》に褄《つま》端折りて、片手に市女笠《いちめがさ》を携え、片手に蓮華燈籠を提ぐ。第一点の燈《ともしび》の影はこれなり。黒潮騎士《こくちょうきし》、美女の白竜馬をひしひしと囲んで両側二列を造る。およそ十人。皆|崑崙奴《くろんぼ》の形相。手に手に、すくすくと槍《やり》を立つ。穂先白く晃々《きらきら》として、氷柱《つらら》倒《さかしま》に黒髪を縫う。あるものは燈籠を槍に結ぶ、灯《ともしび》の高きはこれなり。あるものは手にし、あるものは腰にす。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 女房 貴女《あなた》、お草臥《くたびれ》でございましょう。一息、お休息《やすみ》なさいますか。 美女 (夢見るようにその瞳を睜《みひら》く)ああ、(歎息す)もし、誰方《どなた》ですか。……私の身体《からだ》は足を空に、(馬の背に裳《もすそ》を掻緊《かいし》む)倒《さかさま》に落ちて落ちて、波に沈んでいるのでしょうか。 女房 いいえ、お美しいお髪《ぐし》一筋、風にも波にもお縺《もつ》れはなさいません。何でお身体《からだ》が倒などと、そんな事がございましょう。 美女 いつか、いつですか、昨夜《ゆうべ》か、今夜か、前《さき》の世ですか。私が一人、楫《かじ》も櫓《ろ》もない、舟に、筵《むしろ》に乗せられて、波に流されました時、父親の約束で、海の中へ捕られて行《ゆ》く、私へ供養のためだと云って、船の左右へ、前後《あとさき》に、波のまにまに散って浮く……蓮華燈籠が流れました。 女房 水に目のお馴《な》れなさいません、貴女には道しるべ、また土産にもと存じまして、これが、(手に翳《かざ》す)その燈籠でございます。 美女 まあ、灯《あかり》も消えずに…… 女房 燃えた火の消えますのは、油の尽きる、風の吹く、陸《おか》ばかりの事でございます。一度、この国へ受取りますと、ここには風が吹きません。ただ花の香の、ほんのりと通うばかりでございます。紙の細工も珠《たま》に替って、葉の青いのは、翡翠《ひすい》の琅玕《ろうかん》、花片《はなびら》の紅白は、真玉《まだま》、白珠《しらたま》、紅宝玉。燃ゆる灯《ひ》も、またたきながら消えない星でございます。御覧遊ばせ、貴女。お召ものが濡れましたか。お髪《ぐし》も乱れはしますまい。何で、お身体《からだ》が倒《さかさま》でございましょう。 美女 最後に一目《ひとめ》、故郷《ふるさと》の浦の近い峰に、月を見たと思いました。それぎり、底へ引くように船が沈んで、私は波に落ちたのです。ただ幻に、その燈籠の様な蒼《あお》い影を見て、胸を離れて遠くへ行《ゆ》く、自分の身の魂か、導く鬼火かと思いましたが、ふと見ますと、前途《ゆくて》にも、あれあれ、遥《はるか》の下と思う処に、月が一輪、おなじ光で見えますもの。 女房 ああ、(望む)あの光は。いえ。月影ではございません。 美女 でも、貴方《あなた》、雲が見えます、雪のような、空が見えます、瑠璃色《るりいろ》の。そして、真白《まっしろ》な絹糸のような光が射《さ》します。 女房 その雲は波、空は水。一輪の月と見えますのは、これから貴女がお出《いで》遊ばす、海の御殿でございます。あれへ、お迎え申すのです。 美女 そして。参って、私の身体《からだ》は、どうなるのでございましょうねえ。 女房 ほほほ、(笑う)何事も申しますまい。ただお嬉しい事なのです。おめでとう存じます。 美女 あの、捨小舟《すておぶね》に流されて、海の贄《にえ》に取られて行《ゆ》く、あの、(眗《みまわ》す)これが、嬉しい事なのでしょうか。めでたい事なのでしょうかねえ。 女房 (再び笑う)お国ではいかがでございましょうか。私たちが故郷《ふるさと》では、もうこの上ない嬉しい、めでたい事なのでございますもの。 美女 あすこまで、道程《みちのり》は? 女房 お国でたとえは煩《むず》かしい。……おお、五十三次と承ります、東海道を十度《とたび》ずつ、三百度、往還《ゆきかえ》りを繰返して、三千度いたしますほどでございましょう。 美女 ええ、そんなに。 女房 めした竜馬は風よりも早し、お道筋は黄金《こがね》の欄干、白銀の波のお廊下、ただ花の香りの中を、やがてお着きなさいます。 美女 潮風、磯《いそ》の香、海松《みる》、海藻《かじめ》の、咽喉《のど》を刺す硫黄《いおう》の臭気《におい》と思いのほか、ほんに、清《すず》しい、佳《い》い薫《かおり》、(柔《やわらか》に袖を動かす)……ですが、時々、悚然《ぞっと》する、腥《なまぐさ》い香のしますのは?…… 女房 人間の魂が、貴女を慕うのでございます。海月《くらげ》が寄るのでございます。 美女 人の魂が、海月と云って? 女房 海に参ります醜い人間の魂は、皆《みんな》、海月になって、ふわふわさまようて歩行《ある》きますのでございます。 黒潮騎士 (口々に)――煩《うるさ》い。しっしっ。――(と、ものなき竜馬の周囲を呵《か》す。) 美女 まあ、情《なさけ》ない、お恥《はずか》しい。(袖をもって面《おもて》を蔽《おお》う。) 女房 いえ、貴女は、あの御殿の若様の、新夫人《にいおくさま》でいらっしゃいます、もはや人間ではありません。 美女 ええ。(袖を落す。――舞台転ず。真暗《まっくら》になる。)―― 女房 (声のみして)急ぎましょう。美しい方を見ると、黒鰐《くろわに》、赤鮫《あかざめ》が襲います。騎馬が前後を守護しました。お憂慮《きづかい》はありませんが、いぎ参ると、斬合《きりあ》い攻合《せめあ》う、修羅の巷《ちまた》をお目に懸けねばなりません。――騎馬の方々、急いで下さい。 [#ここから2字下げ] 燈籠一つ行《ゆ》き、続いて一つ行く。漂蕩《ひょうとう》する趣して、高く低く奥の方《かた》深く行く。 舞台|燦然《さんぜん》として明るし、前《ぜん》の琅玕殿|顕《あらわ》る。 公子、椅子の位置を卓子《テエブル》に正しく直して掛けて、姿見の傍《かたわら》にあり。向って右の上座《かみざ》。左の方《かた》に赤き枝珊瑚《えださんご》の椅子、人なくしてただ据えらる。その椅子を斜《ななめ》に下《さが》りて、沖の僧都、この度は腰掛けてあり。黒き珊瑚、小形なる椅子を用いる。おなじ小形の椅子に、向って正面に一人、ほぼ唐代の儒の服装したる、髯《ひげ》黒き一|人《にん》あり。博士《はかせ》なり。 侍女七人、花のごとくその間を装い立つ。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 公子 博士、お呼立《よびたて》をしました。 博士 (敬礼す。) 公子 これを御覧なさい。(姿見の面《おもて》を示す。)  千仭《せんじん》の崕《がけ》を累《かさ》ねた、漆のような波の間を、幽《かすか》に蒼《あお》い灯《ともしび》に照らされて、白馬の背に手綱《たづな》したは、この度迎え取るおもいものなんです。陸に獅子《しし》、虎の狙うと同一《おなじ》に、入道鰐《にゅうどうわに》、坊主鮫《ぼうずざめ》の一類が、美女と見れば、途中に襲撃《おそいう》って、黒髪を吸い、白き乳を裂き、美しい血を呑《の》もうとするから、守備のために旅行さきで、手にあり合せただけ、少数の黒潮騎士を附添わせた。渠等《かれら》は白刃《しらは》を揃えている。 博士 至極《しごく》のお計《はから》いに心得まするが。 公子 ところが、敵に備うるここの守備を出払わしたから不用心じゃ、危険であろう、と僧都が言われる。……それは恐れん、私が居れば仔細《しさい》ない。けれども、また、僧都の言われるには、白衣《びゃくえ》に緋《ひ》の襲《かさね》した女子《おなご》を馬に乗せて、黒髪を槍尖《やりさき》で縫ったのは、かの国で引廻しとか称《とな》えた罪人の姿に似ている、私の手許《てもと》に迎入るるものを、不祥《ふしょう》じゃ、忌《いま》わしいと言うのです。  事実不祥なれば、途中の保護は他にいくらも手段があります。それは構わないが、私はいささかも不祥と思わん、忌わしいと思わない。  これを見ないか。私の領分に入った女の顔は、白い玉が月の光に包まれたと同一《おなじ》に、いよいよ清い。眉は美しく、瞳は澄み、唇の紅は冴《さ》えて、いささかも窶《やつ》れない。憂えておらん。清らかな衣《きもの》を着、新《あらた》に梳《くしけず》って、花に露の点滴《したた》る装《よそおい》して、馬に騎した姿は、かの国の花野の丈《たけ》を、錦の山の懐に抽《ぬ》く……歩行《あるく》より、車より、駕籠《かご》に乗ったより、一層|鮮麗《あざやか》なものだと思う。その上、選抜した慓悍《ひょうかん》な黒潮騎士の精鋭|等《ども》に、長槍をもって四辺《あたり》を払わせて通るのです。得意思うべしではないのですか。 僧都 (頻《しきり》に頭《つむり》を傾く。) 公子 引廻しと聞けば、恥を見せるのでしょう、苦痛を与えるのであろう。槍で囲み、旗を立て、淡く清く装った得意の人を馬に乗せて市《いち》を練って、やがて刑場に送って殺した処で、――殺されるものは平凡に疾病《やまい》で死するより愉快でしょう。――それが何の刑罰になるのですか。陸と海と、国が違い、人情が違っても、まさか、そんな刑罰はあるまいと想う。僧都は、うろ覚えながら確《たしか》に記憶に残ると言われる。……貴下《あなた》をお呼立した次第です。ちょっとお験《しら》べを願いましょうか。 博士 仰聞《おおせき》けの記憶は私《わたくし》にもありますで。しかし、念のために験べまするで。ええ、陸上一切の刑法の記録でありましょうか、それとも。 公子 面倒です、あとはどうでも可《い》い。ただ女子《おなご》を馬に乗せ、槍を立てて引廻したという、そんな事があったかという、それだけです。 博士 正史でなく、小説、浄瑠璃《じょうるり》の中を見ましょうで。時の人情と風俗とは、史書よりもむしろこの方が適当でありますので。(金光|燦爛《さんらん》たる洋綴《ようとじ》の書を展《ひら》く。) 公子 (卓子《テエブル》に腰を掛く)たいそう気の利いた書物ですね。 博士 これは、仏国の大帝|奈翁《ナポレオン》が、西暦千八百八年、西班牙《スペイン》遠征の途に上りました時、かねて世界有数の読書家。必要によって当時の図書館長バルビールに命じて製《つく》らせました、函入《はこいり》新装の、一千巻、一架《ひとたな》の内容は、宗教四十巻、叙事詩四十巻、戯曲四十巻、その他の詩篇六十巻。歴史六十巻、小説百巻、と申しまするデュオデシモ形《がた》と申す有名な版本の事を……お聞及びなさいまして、御姉君《おあねぎみ》、乙姫様が御工夫を遊ばしました。蓮《はす》の糸、一筋を、およそ枚数千頁に薄く織拡げて、一万枚が一折《ひとおり》、一百二十折を合せて一冊に綴《と》じましたものでありまして、この国の微妙なる光に展《ひら》きますると、森羅万象《しんらばんしょう》、人類をはじめ、動植物、鉱物、一切の元素が、一々《ひとつ》ずつ微細なる活字となって、しかも、各々《おのおの》五色の輝《かがやき》を放ち、名詞、代名詞、動詞、助動詞、主客、句読《くとう》、いずれも個々別々、七彩に照って、かく開きました真白《まっしろ》な枚《ペエジ》の上へ、自然と、染め出さるるのでありまして。 公子 姉上《あねうえ》が、それを。――さぞ、御秘蔵のものでしょう。 博士 御秘蔵ながら、若様の御書物蔵へも、整然《ちゃん》と姫様がお備えつけでありますので。 公子 では、私の所有ですか。 博士 若様はこの冊子と同じものを、瑪瑙《めのう》に青貝の蒔絵《まきえ》の書棚、五百|架《たな》、御所有でいらせられまする次第であります。 公子 姉があって幸福《しあわせ》です。どれ、(取って披《ひら》く)これは……ただ白紙だね。 博士 は、恐れながら、それぞれの予備の知識がありませんでは、自然のその色彩ある活字は、ペエジの上には写り兼ねるのでございます。 公子 恥入るね。 博士 いやいや、若様は御勇武でいらせられます。入道鰐《にゅうどうわに》、黒鮫《くろざめ》の襲いまする節は、御訓練の黒潮、赤潮騎士、御手の剣《つるぎ》でのうては御退けになりまする次第には参らぬのでありまして。けれども、姉姫様の御心づくし、節々は御閲読《ごえつどく》の儀をお勧め申まするので。 僧都 もろともに、お勧め申上げますでござります。 公子 (頷《うなず》く)まあ、今の引廻しの事を見て下さい。 博士 確《たしか》に。(書を披く)手近に浄瑠璃にありました。ああ、これにあります。……若様、これは大日本|浪華《なにわ》の町人、大経師以春《だいきょうじいしゅん》の年若き女房、名だたる美女のおさん。手代《てだい》茂右衛門《もえもん》と不義|顕《あらわ》れ、すなわち引廻し礫《はりつけ》になりまする処を、記したのでありまして。 公子 お読み。 博士 (朗読す)――紅蓮《ぐれん》の井戸堀、焦熱《しょうねつ》の、地獄のかま塗《ぬり》よしなやと、急がぬ道をいつのまに、越ゆる我身の死出の山、死出の田長《たおさ》の田がりよし、野辺《のべ》より先を見渡せば、過ぎし冬至《とうじ》の冬枯の、木《こ》の間《ま》木の間にちらちらと、ぬき身の槍《やり》の恐しや、―― 公子 (姿見を覗《のぞ》きつつ、且つ聴きつつ)ああ、いくらか似ている。 博士 ――また冷返《ひえかえ》る夕嵐、雪の松原、この世から、かかる苦患《くげん》におう亡日《もうにち》、島田乱れてはらはらはら、顔にはいつもはんげしょう、縛られし手の冷たさは、我身一つの寒の入《いり》、涙ぞ指の爪とりよし、袖に氷を結びけり。…… [#ここから2字下げ] 侍女等、傾聴す。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 公子 ただ、いい姿です、美しい形です。世間はそれでその女の罪を責めたと思うのだろうか。 博士 まず、ト見えまするので。 僧都 さようでございます。 公子 馬に騎《の》った女は、殺されても恋が叶《かな》い、思いが届いて、さぞ本望であろうがね。 僧都 ――袖に氷を結びけり。涙などと、歎き悲しんだようにござります。 公子 それは、その引廻しを見る、見物の心ではないのか。私には分らん。(頭《かぶり》を掉《ふ》る。)博士――まだ他に例があるのですか。 博士 (朗読す)……世の哀《あわれ》とぞなりにける。今日は神田のくずれ橋に恥をさらし、または四谷、芝、浅草、日本橋に人こぞりて、見るに惜《おし》まぬはなし。これを思うに、かりにも人は悪《あし》き事をせまじきものなり。天これを許したまわぬなり。…… 公子 (眉を顰《ひそ》む。――侍女等|斉《ひと》しく不審の面色《おももち》す。) 博士 ……この女思込みし事なれば、身の窶《やつ》るる事なくて、毎日ありし昔のごとく、黒髪を結わせて美《うる》わしき風情。…… 公子 (色解く。侍女等、眉をひらく。) 博士 中略をいたします。……聞く人一しおいたわしく、その姿を見おくりけるに、限《かぎり》ある命のうち、入相《いりあい》の鐘つくころ、品《しな》かわりたる道芝の辺《ほとり》にして、その身は憂き煙となりぬ。人皆いずれの道にも煙はのがれず、殊に不便はこれにぞありける。――これで、鈴ヶ森で火刑《ひあぶり》に処せられまするまでを、確か江戸中|棄札《すてふだ》に槍《やり》を立てて引廻した筈《はず》と心得まするので。 公子 分りました。それはお七という娘でしょう。私は大すきな女なんです。御覧なさい。どこに当人が歎き悲《かなし》みなぞしたのですか。人に惜《おし》まれ可哀《あわれ》がられて、女それ自身は大満足で、自若《じじゃく》として火に焼かれた。得意想うべしではないのですか。なぜそれが刑罰なんだね。もし刑罰とすれば、恵《めぐみ》の杖《しもと》、情《なさけ》の鞭《むち》だ。実際その罪を罰しようとするには、そのまま無事に置いて、平凡に愚図愚図《ぐずぐず》に生存《いきなが》らえさせて、皺《しわ》だらけの婆《ばば》にして、その娘を終らせるが可《い》いと、私は思う。……分けて、現在、殊にそのお七のごときは、姉上が海へお引取りになった。刑場の鈴ヶ森は自然海に近かった。姉上は御覧になった。鉄の鎖は手足を繋《つな》いだ、燃草《もえぐさ》は夕霜を置残してその肩を包んだ。煙は雪の振袖をふすべた。炎は緋鹿子《ひがのこ》を燃え抜いた。緋の牡丹《ぼたん》が崩れるより、虹《にじ》が燃えるより美しかった。恋の火の白熱は、凝《こ》って白玉《はくぎょく》となる、その膚《はだえ》を、氷った雛芥子《ひなげし》の花に包んだ。姉の手の甘露が沖を曇らして注いだのだった。そのまま海の底へお引取りになって、現に、姉上の宮殿に、今も十七で、紅《くれない》の珊瑚の中に、結綿《ゆいわた》の花を咲かせているのではないか。  男は死ななかった。存命《ながら》えて坊主になって老い朽ちた。娘のために、姉上はそれさえお引取りになった。けれども、その魂は、途中で牡《おす》の海月《くらげ》になった。――時々未練に娘を覗《のぞ》いて、赤潮に追払われて、醜く、ふらふらと生白《なまじろ》く漾《ただよ》うて失《う》する。あわれなものだ。  娘は幸福《しあわせ》ではないのですか。火も水も、火は虹となり、水は滝となって、彼の生命を飾ったのです。抜身《ぬきみ》の槍の刑罰が馬の左右に、その誉《ほまれ》を輝かすと同一《おんなじ》に。――博士いかがですか、僧都。 博士 しかし、しかし若様、私《わたくし》は慎重にお答えをいたしまする。身はこの職にありながら、事実、人間界の心も情も、まだいささかも分らぬのでありまして。若様、唯今《ただいま》の仰《おお》せは、それは、すべて海の中にのみ留《とど》まりまするが。 公子 (穏和に頷《うなず》く)姉上も、以前お分りにならぬと言われた。その上、貴下《あなた》がお分りにならなければこれは誰にも分らないのです。私にも分らない。しかし事情も違う。彼を迎える、道中のこの(また姿見を指《ゆびさ》す)馬上の姿は、別に不祥ではあるまいと思う。 僧都 唯今、仰《おお》せ聞けられ承りまする内に、条理《すじみち》は弁《わきま》えず、僧都にも分らぬことのみではござりますが、ただ、黒潮の抜身《ぬきみ》で囲みました段は、別に忌わしい事ではござりませんように、老人にも、その合点参りましてござります。 公子 可《よし》、しかし僧都、ここに蓮華燈籠の意味も分った。が、一つ見馴《みな》れないものが見えるぞ。女が、黒髪と、あの雪の襟との間に――胸に珠を掛けた、あれは何かね。 僧都 はあ。(卓子《テエブル》に伸上る)はは、いかさま、いや、若様。あれは水晶の数珠《じゆず》にございます。海に沈みまする覚悟につき、冥土《めいど》に参る心得のため、檀那寺《だんなでら》の和尚《おしょう》が授けましたのでござります。 公子 冥土とは?……それこそ不埒《ふらち》だ。そして仇光《あだびか》りがする、あれは……水晶か。 博士 水晶とは申す条、近頃は専ら硝子《ビイドロ》を用いますので。 公子 (一笑す)私の恋人ともあろうものが、無ければ可《い》い。が、硝子《ビイドロ》とは何事ですか。金剛石、また真珠の揃うたのが可い。……博士、贈ってしかるべき頸飾《えりかざり》をお検《しら》べ下さい。 博士 畏《かしこま》りました。 公子 そして指環《ゆびわ》の珠の色も怪しい、お前たちどう見たか。 侍女一 近頃は、かんてらの灯の露店《ほしみせ》に、紅宝玉《ルビイ》、緑宝玉《エメラルド》と申して、貝を鬻《ひさ》ぐと承ります。 公子 お前たちの化粧の泡が、波に流れて渚《なぎさ》に散った、あの貝が宝石か。 侍女二 錦襴《きんらん》の服を着けて、青い頭巾《ずきん》を被《かぶ》りました、立派な玉商人《たまあきんど》の売りますものも、擬《にせ》が多いそうにございます。 公子 博士、ついでに指環を贈ろう。僧都、すぐに出向うて、遠路であるが、途中、早速、硝子《ビイドロ》とその擬《まが》い珠《たま》を取棄てさして下さい。お老寄《としより》に、御苦労ながら。 僧都 (苦笑す)若様には、新夫人《にいおくさま》の、まだ、海にお馴《な》れなさらず、御到着の遅いばかり気になされて、老人が、ここに形を消せば、瞬く間ものう、お姿見の中の御馬の前に映りまする神通《じんずう》を、お忘れなされて、老寄に苦労などと、心外な御意を蒙りまするわ。 公子 ははは、(無邪気に笑う)失礼をしました。 [#ここから2字下げ] 博士、僧都、一揖《いちゆう》して廻廊より退場す。侍女等|慇懃《いんぎん》に見送る。 [#ここから1字下げ] 少し窮屈であったげな。 [#ここから2字下げ] 侍女等親しげに皆その前後に斉眉《かしず》き寄る。 [#ここから1字下げ] 性急な私だ。――女を待つ間《ま》の心遣《こころやり》にしたい。誰か、あの国の歌を知っておらんか。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 侍女三 存じております。浪花津《なにわづ》に咲くやこの花|冬籠《ふゆごもり》、今を春へと咲くやこの花。 侍女四 若様、私《わたくし》も存じております。浅香山を。 公子 いや、そんなのではない。(博士がおきたる書を披《ひら》きつつ)女の国の東海道、道中の唄だ。何とか云うのだった。この書はいくらか覚えがないと、文字が見えないのだそうだ。(呟《つぶや》く)姉上は貴重な、しかし、少しあてっこすりの書をお拵《こしら》えになったよ。ああ、何とか云った、東海道の。 侍女五 五十三次のでございましょう、私《わたくし》が少し存じております。 公子 歌うてみないか。 侍女五 はい。(朗かに優しくあわれに唄う。) [#ここから4字下げ] 都路は五十路《いそじ》あまりの三つの宿、…… [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 公子 おお、それだ、字書のように、江戸紫で、都路と標目《みだし》が出た。(展《ひら》く)あとを。 侍女五 ……時得て咲くや江戸の花、浪|静《しずか》なる品川や、やがて越来《こえく》る川崎の、軒端《のきば》ならぶる神奈川は、早や程ヶ谷に程もなく、暮れて戸塚に宿るらむ。紫|匂《にお》う藤沢の、野面《のおも》に続く平塚も、もとのあわれは大磯《おおいそ》か。蛙《かわず》鳴くなる小田原は。……(極悪《きまりわる》げに)……もうあとは忘れました。 公子 可《よし》、ここに緑の活字が、白い雲の枚《ペエジ》に出た。――箱根を越えて伊豆の海、三島の里の神垣や――さあ、忘れた所は教えてやろう。この歌で、五十三次の宿を覚えて、お前たち、あの道中双六《どうちゅうすごろく》というものを遊んでみないか。上《あが》りは京都だ。姉の御殿に近い。誰か一人上って、双六の済む時分、ちょうど、この女は(姿見を見つつ)着くであろう。一番上りのものには、瑪瑙《めのう》の莢《さや》に、紅宝玉の実を装《かざ》った、あの造りものの吉祥果《きっしょうか》を遣《や》る。絵は直ぐに間に合ぬ。この室《へや》を五十三に割って双六の目に合せて、一人ずつ身体《からだ》を進めるが可《よ》かろう。……賽《さい》が要る、持って来い。 [#ここから1字下げ] (侍女六七、うつむいてともに微笑す)――どうした。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 侍女六 姿見をお取寄せ遊ばしました時。 侍女七 二人して盤の双六をしておりましたので、賽は持っておりますのでございます。 公子 おもしろい。向うの廻廊の端へ集まれ。そして順になって始めるが可《い》い。 侍女七 床へ振りましょうでございますか。 公子 心あって招かないのに来た、賽にも魂がある、寄越《よこ》せ。(受取る)卓子《テエブル》の上へ私が投げよう。お前たち一から七まで、目に従うて順に動くが可《い》い。さあ、集《あつま》れ。 [#ここから1字下げ] (侍女七人、いそいそと、続いて廻廊のはずれに集り、貴女《あなた》は一。私は二。こう口々に楽しげに取定《とりき》め、勇みて賽を待つ。) 可《い》いか、(片手に書を持ち、片手に賽を投ぐ)――一は三、かな川へ。(侍女一人進む)二は一、品川まで。(侍女一人また進む)三は五だ、戸塚へ行《ゆ》け。 (かくして順々に繰返し次第に進む。第五の侍女、年最も少きが一人衆を離れて賽の目に乗り、正面突当りなる窓際に進み、他と、間《あわい》隔る。公子。これより前《さき》、姿見を見詰めて、賽の目と宿の数を算《かぞ》え淀《よど》む。……この時、うかとしたる体《てい》に書を落す。) まだ、誰も上らないか。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 侍女一 やっと一人天竜川まで参りました。 公子 ああ、まだるっこい。賽を二つ一所に振ろうか。(手にしながら姿見に見入る。侍女等、等《ひとし》く其方《そなた》を凝視す。) 侍女五 きゃっ。(叫ぶ。隙《ひま》なし。その姿、窓の外へ裳《もすそ》を引いて颯《さっ》と消ゆ)ああれえ。 [#ここから2字下げ] 侍女等、口々に、あれ、あれ、鮫《さめ》が、鮫が、入道鮫が、と立乱れ騒ぎ狂う。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 公子 入道鮫が、何、(窓に衝《つ》と寄る。) 侍女一 ああ、黒鮫が三百ばかり。 侍女二 取巻いて、群りかかって。 侍女三 あれ、入道が口に銜《くわ》えた。 公子 外道《げどう》、外道、その女を返せ、外道。(叱咜《しった》しつつ、窓より出でんとす。) [#ここから2字下げ] 侍女等|縋《すが》り留《とど》む。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 侍女四 軽々しい、若様。 公子 放せ。あれ見い。外道の口の間から、女の髪が溢《こぼ》れて落ちる。やあ、胸へ、乳へ、牙《きば》が喰入る。ええ、油断した。……骨も筋も断《き》れような。ああ、手を悶《もだ》える、裳《もすそ》を煽《あお》る。 侍女六 いいえ、若様、私たち御殿の女は、身《からだ》は綿よりも柔かです。 侍女七 蓮《はす》の糸を束《つか》ねましたようですから、鰐《わに》の牙が、脊筋と鳩尾《みずおち》へ噛合《かみあ》いましても、薄紙|一重《ひとえ》透きます内は、血にも肉にも障りません。 侍女三 入道も、一類も、色を漁《あさ》るのでございます。生命《いのち》はしばらく助りましょう。 侍女四 その中《うち》に、その中に。まあ、お静まり遊ばして。 公子 いや、俺の力は弱いもののためだ。生命《いのち》に掛けて取返す。――鎧《よろい》を寄越せ。 [#ここから2字下げ] 侍女二人|衝《つ》と出で、引返して、二人して、一領の鎧を捧げ、背後《うしろ》より颯《さっ》と肩に投掛く。 公子、上へ引いて、頸《うなじ》よりつらなりたる兜《かぶと》を頂く。角《つの》ある毒竜、凄《すさま》じき頭《かしら》となる。その頭を頂く時に、侍女等、鎧の裾《すそ》を捌《さば》く。外套《がいとう》のごとく背より垂れて、紫の鱗《うろこ》、金色《こんじき》の斑点連り輝く。 公子、また袖を取って肩よりして自ら喉《のど》に結ぶ、この結びめ、左右一双の毒竜の爪なり。迅速に一縮す。立直るや否や、剣《つるぎ》を抜いて、頭上に翳《かざ》し、ハタと窓外を睨《にら》む。 侍女六人、斉《ひと》しくその左右に折敷き、手に手に匕首《あいくち》を抜連れて晃々《きらきら》と敵に構う。 [#ここから1字下げ] 外道、退《ひ》くな。(凝《じつ》と視《み》て、剣の刃を下に引く)虜《とりこ》を離した。受取れ。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 侍女一 鎧をめしたばっかりで、御威徳を恐れて引きました。 侍女二 長う太く、数百《すひゃく》の鮫のかさなって、蜈蚣《むかで》のように見えたのが、ああ、ちりぢりに、ちりぢりに。 侍女三 めだか[#「めだか」に傍点]のように遁《に》げて行《ゆ》きます。 公子 おお、ちょうど黒潮等が帰って来た、帰った。 侍女四 ほんに、おつかい帰りの姉さんが、とりこを抱取って下すった。 公子 介抱してやれ。お前たちは出迎え。 [#ここから2字下げ] 侍女三人ずつ、一方は闥《とびら》のうちへ。一方は廻廊に退場。 公子、真中《まんなか》に、すっくと立ち、静かに剣《つるぎ》を納めて、右手《めて》なる白珊瑚《しろさんご》の椅子に凭《よ》る。騎士五人廻廊まで登場。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 騎士一同 (槍《やり》を伏せて、裾《うずくま》り、同音に呼ぶ)若様。 公子 おお、帰ったか。 騎士一 もっての外な、今ほどは。 公子 何でもない、私は無事だ、皆御苦労だったな。 騎士一同 はッ。 公子 途中まで出向ったろう、僧都はどうしたか。 騎士一 あとの我ら夥間《なかま》を率いて、入道鮫を追掛けて参りました。 公子 よい相手だ、戦闘は観《み》ものであろう。――皆は休むが可《い》い。 騎士 槍は鞘《さや》に納めますまい、このまま御門を堅めまするわ。 公子 さまでにせずとも大事ない、休め。 [#ここから2字下げ] 騎士等、礼拝して退場。侍女一、登場。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 侍女一 御安心遊ばしまし、疵《きず》を受けましたほどでもございません。ただ、酷《ひど》く驚きまして。 公子 可愛相《かわいそう》に、よく介抱してやれ。 侍女一 二人が附添っております、(廻廊を見込む)ああ、もう御廊下まで。(公子のさしずにより、姿見に錦の蔽《おおい》を掛け、闥《とびら》に入《い》る。) [#ここから2字下げ] 美女。先達《せんだつ》の女房に、片手、手を曳《ひ》かれて登場。姿を粛《しずか》に、深く差俯向《さしうつむ》き、面影やややつれたれども、さまで悪怯《わるび》れざる態度、徐《おもむろ》に廻廊を進みて、床を上段に昇る。昇る時も、裾捌《すそさば》き静《しずか》なり。 侍女三人、燈籠|二個《ふたつ》ずつ二人、一つを一人、五個《いつつ》を提げて附添い出で、一人々々、廻廊の廂《ひさし》に架《か》け、そのまま引返す。燈籠を侍女等の差置き果つるまでに、女房は、美女をその上段、紅《あか》き枝珊瑚の椅子まで導く順にてありたし。女房、謹んで公子に礼して、美女に椅子を教う。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 女房 お掛け遊ばしまし。 [#ここから2字下げ] 美女、据置かるる状《さま》に椅子に掛く。女房はその裳《もすそ》に跪居《ついい》る。 美女、うつむきたるまましばし、皆無言。やがて顔を上げて、正しく公子と見向ふ。瞳を据えて瞬《まばた》きせず。――間《ま》。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 公子 よく見えた。(無造作に、座を立って、卓子《テエブル》の周囲《まわり》に近づき、手を取らんと衝《つ》と腕《かいな》を伸ばす。美女、崩るるがごとくに椅子をはずれ、床に伏す。) 女房 どうなさいました、貴女《あなた》、どうなさいました。 美女 (声細く、されども判然)はい、……覚悟しては来ましたけれど、余りと言えば、可恐《おそろ》しゅうございますもの。 女房 (心付く)おお、若様。その鎧《よろい》をお解き遊ばせ。お驚きなさいますのもごもっともでございます。 公子 解いても可《い》い、(結び目に手を掛け、思慮す)が、解かんでも可《よ》かろう。……最初に見た目はどこまでも附絡《つきまと》う。(美女に)貴女《あなた》、おい、貴女、これを恐れては不可《いか》ん、私はこれあるがために、強い。これあるがために力があり威がある。今も既にこれに因って、めしつかう女の、入道鮫に噛《か》まれたのを助けたのです。 美女 (やや面《おもて》を上ぐ)お召使が鮫の口に、やっぱり、そんな可恐《おそろし》い処なんでございますか。 公子 はははは、(笑う)貴女、敵のない国が、世界のどこにあるんですか。仇《あだ》は至る処に満ちている――ただ一人《いちにん》の娘を捧ぐ、……海の幸を賜われ――貴女の親は、既に貴女の仇なのではないか。ただその敵に勝てば可《い》いのだ。私は、この強さ、力、威あるがために勝つ。閨《ねや》にただ二人ある時でも私はこれを脱ぐまいと思う。私の心は貴女を愛して、私の鎧は、敵から、仇から、世界から貴女を守護する。弱いもののために強いんです。毒竜の鱗《うろこ》は絡《まと》い、爪は抱《いだ》き、角《つの》は枕してもいささかも貴女の身は傷《きずつ》けない。ともにこの鎧に包まるる内は、貴女は海の女王なんだ。放縦に大胆に、不羈《ふき》、専横《せんおう》に、心のままにして差支えない。鱗に、爪に、角に、一糸掛けない白身《はくしん》を抱《いだ》かれ包まれて、渡津海《わたつみ》の広さを散歩しても、あえて世に憚《はばか》る事はない。誰の目にも触れない。人は指《ゆびさし》をせん。時として見るものは、沖のその影を、真珠の光と見る。指《ゆびさ》すものは、喜見城《きけんじょう》の幻景《まぼろし》に迷うのです。  女の身として、優しいもの、媚《こび》あるもの、従うものに慕われて、それが何の本懐です。私は鱗をもって、角をもって、爪をもって愛するんだ。……鎧は脱ぐまい、と思う。(従容《しょうよう》として椅子に戻る。) 美女 (起直り、会釈す)……父へ、海の幸をお授け下さいました、津波のお強さ、船を覆して、ここへ、遠い海の中をお連れなすった、お力。道すがらはまたお使者《つかい》で、金剛石のこの襟飾《えりかざり》、宝玉のこの指環、(嬉しげに見ゆ)貴方《あなた》の御威徳はよく分りましたのでございます。 公子 津波|位《しき》、家来どもが些細《ささい》な事を。さあ、そこへお掛け。 [#ここから2字下げ] 女房、介抱して、美女、椅子に直る。 [#ここから1字下げ] 頸飾《くびかざり》なんぞ、珠なんぞ。貴女の腰掛けている、それは珊瑚だ。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 美女 まあ、父に下さいました枝よりは、幾倍とも。 公子 あれは草です。較《くら》ぶればここのは大樹だ。椅子の丈は陸《くが》の山よりも高い。そうしている貴女の姿は、夕日影の峰に、雪の消残ったようであろう。少しく離れた私の兜《かぶと》の竜頭《たつがしら》は、城の天守の棟に飾った黄金の鯱《しやち》ほどに見えようと思う。 美女 あの、人の目に、それが、貴方? 公子 譬喩《たとえ》です、人間の目には何にも見えん。 美女 ああ、見えはいたしますまい。お恥かしい、人間の小さな心には、ここに、見ますれば私が裳《すそ》を曳《ひ》きます床も、琅玕《ろうかん》の一枚石。こうした御殿のある事は、夢にも知らないのでございますもの、情《なさけ》のう存じます。 公子 いや、そんなに謙遜をするには当らん。陸《くが》には名山、佳水《かすい》がある。峻岳《しゅんがく》、大河がある。 美女 でも、こんな御殿はないのです。 公子 あるのを知らないのです。海底の琅玕の宮殿に、宝蔵の珠玉金銀が、虹《にじ》に透いて見えるのに、更科《さらしな》の秋の月、錦《にしき》を染めた木曾の山々は劣りはしない。……峰には、その錦葉《もみじ》を織る竜田姫《たつたひめ》がおいでなんだ。人間は知らんのか、知っても知らないふりをするのだろう。知らない振《ふり》をして見ないんだろう。――陸《くが》は尊い、景色は得難い。今も、道中双六《どうちゅうすごろく》をして遊ぶのに、五十三次の一枚絵さえ手許《てもと》にはなかったのだ。絵も貴《とうと》い。 美女 あんな事をおっしゃって、絵には活《い》きたものは住んでおりませんではありませんか。 公子 いや、住居《すまい》をしている。色彩は皆活きて動く。けれども、人は知らないのだ。人は見ないのだ。見ても見ない振《ふり》をしているんだから、決して人間の凡《すべ》てを貴いとは言わない、美《うつくし》いとは言わない。ただ陸《くが》は貴い。けれども、我が海は、この水は、一|畝《うね》りの波を起して、その陸を浸す事が出来るんだ。ただ貴く、美《うつくし》いものは亡《ほろ》びない。……中にも貴女は美しい。だから、陸の一浦《ひとうら》を亡《ほろ》ぼして、ここへ迎え取ったのです。亡ぼす力のあるものが、亡びないものを迎え入れて、且つ愛し且つ守護するのです。貴女は、喜《よろこ》ばねば不可《いけな》い、嬉しがらなければならない、悲しんではなりません。 女房 貴女、おっしゃる通りでございます。途中でも私《わたくし》が、お喜ばしい、おめでたい儀と申しました。決してお歎《なげ》きなさいます事はありません。 美女 いいえ、歎きはいたしません。悲しみはいたしません。ただ歎きますもの、悲しみますものに、私の、この容子《ようす》を見せてやりたいと思うのです。 女房 人間の目には見えません。 美女 故郷《ふるさと》の人たちには。 公子 見えるものか。 美女 (やや意気ぐむ)あの、私の親には。 公子 貴女は見えると思うのか。 美女 こうして、活《い》きておりますもの。 公子 (屹《きっ》としたる音調)無論、活きている。しかし、船から沈む時、ここへ来るにどういう決心をしたのですか。 美女 それは死ぬ事と思いました。故郷《ふるさと》の人も皆そう思って、分けて親は歎き悲しみました。 公子 貴女の親は悲しむ事は少しもなかろう。はじめからそのつもりで、約束の財を得た。しかも満足だと云った。その代りに娘を波に沈めるのに、少しも歎くことはないではないか。 美女 けれども、父娘《おやこ》の情愛でございます。 公子 勝手な情愛だね。人間の、そんな情愛は私には分らん。(頭《かぶり》を掉《ふ》る)が、まあ、情愛としておく、それで。 美女 父は涙にくれました。小船が波に放たれます時、渚《なぎさ》の砂に、父の倒伏《たおれふ》しました処は、あの、ちょうど夕月に紫の枝珊瑚を抱きました処なのです。そして、後《あと》の歎《なげき》は、前の喜びにくらべまして、幾十層倍だったでございましょう。 公子 じゃ、その枝珊瑚を波に返して、約束を戻せば可《よ》かった。 美女 いいえ、ですが、もう、海の幸も、枝珊瑚も、金銀に代り、家蔵《いえくら》に代っていたのでございます。 公子 可《よし》、その金銀を散らし、施し、棄て、蔵を毀《こぼ》ち、家を焼いて、もとの破蓑《やれみの》一領、網一具の漁民となって、娘の命乞《いのちごい》をすれば可かった。 美女 それでも、約束の女を寄越せと、海坊主のような黒い人が、夜ごと夜ごと天井を覗《のぞ》き、屏風《びょうぶ》を見越し、壁|襖《ふすま》に立って、責めわたり、催促をなさいます。今更、家蔵に替えましたッて、とそう思ったのでございます。 公子 貴女の父は、もとの貧民になり下るから娘を許して下さい、と、その海坊主に掛合《かけあ》ってみたのですか。みはしなかろう。そして、貴女を船に送出す時、磯《いそ》に倒れて悲しもうが、新しい白壁、艶《つや》ある甍《いらか》を、山際の月に照らさして、夥多《あまた》の奴婢《ぬひ》に取巻かせて、近頃呼入れた、若い妾《めかけ》に介抱されていたではないのか。なぜ、それが情愛なんです。 美女 はい。……(恥じて首低《うなだ》る。) 公子 貴女を責《せむ》るのではない。よしそれが人間の情愛なれば情愛で可《よ》い、私とは何の係わりもないから。ちっとも構わん。が、私の愛する、この宮殿にある貴女が、そんな故郷《ふるさと》を思うて、歎いては不可《いか》ん。悲しんでは不可んと云うのです。 美女 貴方。(向直る。声に力を帯ぶ)私は始めから、決して歎いてはいないのです。父は悲しみました。浦人《うらびと》は可哀《あわれ》がりました。ですが私は――約束に応じて宝を与え、その約束を責めて女を取る、――それが夢なれば、船に乗っても沈みはしまい。もし事実として、浪に引入るるものがあれば、それは生《しょう》あるもの、形あるもの、云うまでもありません、心あり魂あり、声あるものに違いない。その上、威があり力があり、栄《さかえ》と光とあるものに違いないと思いました。ですから、人はそうして歎いても、私は小船で流されますのを、さまで、慌騒《あわてさわ》ぎも、泣悲しみも、落着過ぎもしなかったんです。もしか、船が沈まなければ無事なんです。生命《いのち》はあるんですもの。覆す手があれば、それは活《い》きている手なんです。その手に縋《すが》って、海の中に活きられると思ったのです。 公子 (聞きつつ莞爾《かんじ》とす)やあ、(女房に)……この女は豪《えら》いぞ! はじめから歎いておらん、慰め賺《すか》す要はない。私はしおらしい。あわれな花を手活《ていけ》にしてながめようと思った。違う! これは楽《たのし》く歌う鳥だ、面白い。それも愉快だ。おい、酒を寄越せ。 [#ここから2字下げ] 手を挙ぐ。たちまち闥《ドア》開けて、三人の侍女、二罎《ふたびん》の酒と、白金の皿に一対の玉盞《たまのさかずき》を捧げて出づ。女房盞を取って、公子と美女の前に置く。侍女退場す。女房酒を両方に注《つ》ぐ。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 女房 めし上りまし。 美女 (辞宜《じぎ》す)私は、ちっとも。 公子 (品よく盞を含みながら)貴女、少しも辛うない。 女房 貴女の薄紅《うすべに》なは桃の露、あちらは菊花の雫《しずく》です。お国では御存じありませんか。海には最上の飲料《のみしろ》です。お気が清《すず》しくなります、召あがれ。 美女 あの、桃の露、(見物席の方へ、半ば片袖を蔽《おお》うて、うつむき飲む)は。(と小《ちいさ》き呼吸《いき》す)何という涼しい、爽《さわ》やいだ――蘇生《よみがえ》ったような気がします。 公子 蘇生ったのではないでしょう。更に新しい生命《いのち》を得たんだ。 美女 嬉しい、嬉しい、嬉しい、貴方。私がこうして活《い》きていますのを、見せてやりとう存じます。 公子 別に見せる要はありますまい。 美女 でも、人は私が死んだと思っております。 公子 勝手に思わせておいて可《い》いではないか。 美女 ですけれども、ですけれども。 公子 その情愛、とかで、貴女の親に見せたいのか。 美女 ええ、父をはじめ、浦のもの、それから皆《みんな》に知らせなければ残念です。 公子 (卓子《テエブル》に胸を凭出《よせいだ》す)帰りたいか、故郷へ。 美女 いいえ、この宮殿、この宝玉、この指環、この酒、この栄華、私は故郷へなぞ帰りたくはないのです。 公子 では、何が知らせたいのです。 美女 だって、貴方、人に知られないで活きているのは、活きているのじゃないんですもの。 公子 (色はじめて鬱《うつ》す)むむ。 美女 (微酔の瞼《まぶた》花やかに)誰も知らない命は、生命《いのち》ではありません。この宝玉も、この指環も、人が見ないでは、ちっとも価値《ねうち》がないのです。 公子 それは不可《いか》ん。(卓子《テエブル》を軽く打って立つ)貴女は栄燿《えよう》が見せびらかしたいんだな。そりゃ不可ん。人は自己、自分で満足をせねばならん。人に価値《ねうち》をつけさせて、それに従うべきものじゃない。(近寄る)人は自分で活きれば可《い》い、生命《いのち》を保てば可い。しかも愛するものとともに活きれば、少しも不足はなかろうと思う。宝玉とてもその通り、手箱にこれを蔵すれば、宝玉そのものだけの価値を保つ。人に与うる時、十倍の光を放つ。ただ、人に見せびらかす時、その艶は黒くなり、その質は醜くなる。 美女 ええ、ですから……来るお庭にも敷詰めてありました、あの宝玉一つも、この上お許し下さいますなら、きっと慈善に施して参ります。 公子 ここに、用意の宝蔵がある。皆、貴女のものです。施すは可《い》い。が、人知れずでなければ出来ない、貴女の名を顕《あらわ》し、姿を見せては施すことはならないんです。 美女 それでは何にもなりません。何の効《かい》もありません。 公子 (色やや嶮《けわ》し)随分、勝手を云う。が、貴女の美しさに免じて許す。歌う鳥が囀《さえず》るんだ、雲雀《ひばり》は星を凌《しの》ぐ。星は蹴落《けおと》さない。声が可愛らしいからなんです。(女房に)おい、注《つ》げ。 [#ここから2字下げ] 女房酌す。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 美女 (怯《おく》れたる内端《うちわ》な態度)もうもう、決して、虚飾《みえ》、栄燿《えよう》を見せようとは思いません。あの、ただ活きている事だけを知らせとう存じます。 公子 (冷《ひやや》かに)止《よ》したが可《よ》かろう。 美女 いいえ、唯今《ただいま》も申します通り、故郷《くに》へ帰って、そこに留《とど》まります気は露ほどもないのです。ちょっとお許しを受けまして生命《いのち》のあります事だけを。 [#ここから2字下げ] 公子、無言にして頭《かぶり》掉《ふ》る。美女、縋《すが》るがごとくす。 [#ここから1字下げ] あの、お許しは下さいませんか。ちっとの外出《そとで》もなりませんか。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 公子 (爽《さわやか》に)獄屋ではない、大自由、大自在な領分だ。歎くもの悲しむものは無論の事、僅少《きんしょう》の憂《うれい》あり、不平あるものさえ一日も一個《ひとり》たりとも国に置かない。が、貴女には既に心を許して、秘蔵の酒を飲ませた。海の果《はて》、陸の終《おわり》、思って行《ゆ》かれない処はない。故郷《ふるさと》ごときはただ一飛《ひととび》、瞬《まばた》きをする間《ま》に行《ゆ》かれる。(愍《あわれ》むごとくしみじみと顔を視《み》る)が、気の毒です。  貴女にその驕《おごり》と、虚飾《みえ》の心さえなかったら、一生聞かなくとも済む、また聞かせたくない事だった。貴女、これ。  (美女顔を上ぐ。その肩に手を掛く)ここに来た、貴女はもう人間ではない。 美女 ええ。(驚く。) 公子 蛇身になった、美しい蛇《へび》になったんだ。 [#ここから2字下げ] 美女、瞳を睜《みは》る。 [#ここから1字下げ] その貴女の身に輝く、宝玉も、指環も、紅《べに》、紫の鱗《うろこ》の光と、人間の目に輝くのみです。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 美女 あれ。(椅子を落つ。侍女の膝にて、袖を見、背を見、手を見つつ、わななき震う。雪の指尖《ゆびさき》、思わず鬢《びん》を取って衝《つ》と立ちつつ)いいえ、いいえ、いいえ。どこも蛇にはなりません。一《い》、一枚も鱗はない。 公子 一枚も鱗はない、無論どこも蛇《へび》にはならない。貴女は美しい女です。けれども、人間の眼《まなこ》だ。人の見る目だ。故郷に姿を顕《あらわ》す時、貴女の父、貴女の友、貴女の村、浦、貴女の全国の、貴女を見る目は、誰も残らず大蛇と見る。ものを云う声はただ、炎の舌が閃《ひらめ》く。吐《つ》く息は煙を渦巻く。悲歎の涙は、硫黄《ゆおう》を流して草を爛《ただ》らす。長い袖は、腥《なまぐさ》い風を起して樹を枯らす。悶《もだ》ゆる膚《はだ》は鱗を鳴《なら》してのたうち蜿《うね》る。ふと、肉身のものの目に、その丈より長い黒髪の、三筋、五筋、筋を透《すか》して、大蛇の背に黒く引くのを見る、それがなごりと思うが可《い》い。 美女 (髪みだるるまでかぶりを掉《ふ》る)嘘です、嘘です。人を呪《のろ》って、人を詛《のろ》って、貴方こそ、その毒蛇です。親のために沈んだ身が蛇体になろう筈《はず》がない。遣《や》って下さい。故郷《くに》へ帰して下さい。親の、人の、友だちの目を借りて、尾のない鱗のない私の身が験《ため》したい。遣って下さい。故郷《くに》へ帰して下さい。 公子 大自在の国だ。勝手に行《ゆ》くが可《い》い、そして試すが可《よ》かろう。 美女 どこに、故郷《ふるさと》の浦は……どこに。 女房 あれあすこに。(廻廊の燈籠を指《ゆびさ》す。) 美女 おお、(身震《みぶるい》す)船の沈んだ浦が見える。(飜然《ひらり》と飛ぶ。……乱るる紅《くれない》、炎のごとく、トンと床を下りるや、颯《さっ》と廻廊を突切《つッき》る。途端に、五個の燈籠|斉《ひと》しく消ゆ。廻廊暗し。美女、その暗中に消ゆ一舞台の上段のみ、やや明《あかる》く残る。) 公子 おい、その姿見の蔽《おおい》を取れ。陸《くが》を見よう。 女房 困った御婦人です。しかしお可哀相なものでございます。(立つ。舞台暗くなる。――やがて明《あかる》くなる時、花やかに侍女皆あり。) [#ここから2字下げ] 公子。椅子に凭《よ》る。――その足許《あしもと》に、美女倒れ伏す――疾《と》く既に帰り来《きた》れる趣。髪すべて乱れ、袂《たもと》裂け帯崩る。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 公子 (玉盞《ぎょくさん》を含みつつ悠然として)故郷はどうでした。……どうした、私が云った通《とおり》だろう。貴女の父の少《わか》い妾《めかけ》は、貴女のその恐しい蛇の姿を見て気絶した。貴女の父は、下男とともに、鉄砲をもってその蛇を狙ったではありませんか。渠等《かれら》は第一、私を見てさえ蛇体だと思う。人間の目はそういうものだ。そんな処に用はあるまい。泣いていては不可《いか》ん。 [#ここから2字下げ] 美女|悲泣《ひきゅう》す。 [#ここから1字下げ] 不可ん、おい、泣くのは不可ん。(眉を顰《ひそ》む。) [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 女房 (背を擦《さす》る)若様は、歎悲《かなし》むのがお嫌《きらい》です。御性急でいらっしゃいますから、御機嫌に障ると悪い。ここは、楽しむ処、歌う処、舞う処、喜び、遊ぶ処ですよ。 美女 ええ、貴女方は楽《たのし》いでしょう、嬉しいでしょう、お舞いなさい、お唄いなさい、私、私は泣死《なきじに》に死ぬんです。 公子 死ぬまで泣かれて堪《たま》るものか。あんな故郷《くに》に何の未練がある。さあ、機嫌を直せ。ここには悲哀のあることを許さんぞ。 美女 お許しなくば、どうなりと。ええ、故郷《ふるさと》の事も、私の身体《からだ》も、皆《みんな》、貴方の魔法です。 公子 どこまで疑う。(忿怒《ふんぬ》の形相)お前を蛇体と思うのは、人間の目だと云うに。俺《おれ》の……魔……法。許さんぞ。女、悲しむものは殺す。 美女 ええ、ええ、お殺しなさいまし。活《い》きられる身体《からだ》ではないのです。 公子 (憤然として立つ)黒潮等は居《お》らんか。この女を処置しろ。 [#ここから2字下げ] 言下に、床板を跳ね、その穴より黒潮騎士《こくちょうきし》、大錨《おおいかり》をかついで顕《あらわ》る。騎士二三、続いて飛出づ。美女を引立て、一の騎士が倒《さかしま》に押立てたる錨に縛《いまし》む。錨の刃越《はごし》に、黒髪の乱るるを掻掴《かいつか》んで、押仰向《おしあおむ》かす。長槍《ながやり》の刃、鋭くその頤《あぎと》に臨む。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 女房 ああ、若様。 公子 止めるのか。 女房 お床が血に汚れはいたしませんか。 公子 美しい女だ。花を挘《むし》るも同じ事よ、花片《はなびら》と蕊《しべ》と、ばらばらに分れるばかりだ。あとは手箱に蔵《しま》っておこう。――殺せ。(騎士、槍を取直す。) 美女 貴方、こんな悪魚の牙《きば》は可厭《いや》です。御卑怯《おひきょう》な。見ていないで、御自分でお殺しなさいまし。  (公子、頷《うなず》き、無言にてつかつかと寄り、猶予《ためら》わず剣《つるぎ》を抜き、颯《さっ》と目に翳《かざ》し、衝《つ》と引いて斜《ななめ》に構う。面《おもて》を見合す。)  ああ、貴方。私を斬《き》る、私を殺す、その、顔のお綺麗さ、気高さ、美しさ、目の清《すず》しさ、眉の勇ましさ。はじめて見ました、位の高さ、品の可《よ》さ。もう、故郷も何も忘れました。早く殺して。ああ、嬉しい。(莞爾《にっこり》する。) 公子 解け。 [#ここから2字下げ] 騎士等、美女を助けて、片隅に退《の》く。公子、剣《つるぎ》を提《ひっさ》げたるまま、 [#ここから1字下げ] こちらへおいで。(美女、手を曳《ひ》かる。ともに床に上《のぼ》る。公子剣を軽く取る。)終生を盟《ちか》おう。手を出せ。(手首を取って刃を腕《かいな》に引く、一線の紅血《こうけつ》、玉盞《ぎょくさん》に滴る。公子返す切尖《きっさき》に自から腕を引く、紫の血、玉盞に滴る。)飲め、呑もう。 [#ここから2字下げ] 盞《さかずき》をかわして、仰いで飲む。廻廊の燈籠一斉に点《とも》り輝く。 [#ここから1字下げ] あれ見い、血を取かわして飲んだと思うと、お前の故郷《くに》の、浦の磯《いそ》に、岩に、紫と紅《あか》の花が咲いた。それとも、星か。 (一同打見る。) あれは何だ。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 美女 見覚えました花ですが、私はもう忘れました。 公子 (書を見つつ)博士、博士。 博士 (登場)……お召。 公子 (指《ゆびさ》す)あの花は何ですか。(書を渡さんとす。) 博士 存じております。竜胆《りんどう》と撫子《とこなつ》でございます。新夫人《にいおくさま》の、お心が通いまして、折からの霜に、一際色が冴《さ》えました。若様と奥様の血の俤《おもかげ》でございます。 公子 人間にそれが分るか。 博士 心ないものには知れますまい。詩人、画家が、しかし認めますでございましょう。 公子 お前、私の悪意ある呪詛《のろい》でないのが知れたろう。 美女 (うなだる)お見棄《みすて》のう、幾久しく。 一同 ――万歳を申上げます。―― 公子 皆、休息をなさい。(一同退場。) [#ここから2字下げ] 公子、美女と手を携えて一歩す。美しき花降る。二歩す、フト立停《たちど》まる。三歩を動かす時、音楽聞ゆ。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 美女 一歩《ひとあし》に花が降り、二歩《ふたあし》には微妙の薫《かおり》、いま三あしめに、ひとりでに、楽しい音楽の聞えます。ここは極楽でございますか。 公子 ははは、そんな処と一所にされて堪《たま》るものか。おい、女の行《ゆ》く極楽に男は居らんぞ。(鎧《よろい》の結目《むすびめ》を解きかけて、音楽につれて徐《おもむ》ろに、やや、ななめに立ちつつ、その竜の爪を美女の背にかく。雪の振袖、紫の鱗の端に仄《ほのか》に見ゆ)男の行く極楽に女は居ない。 [#ここで字下げ終わり] [#地から2字上げ]――幕―― [#地から1字上げ]大正二(一九一三)年十二月 底本:「泉鏡花集成7」ちくま文庫、筑摩書房    1995(平成7)年12月4日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第二十六卷」岩波書店    1942(昭和17)年10月15日発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:門田裕志 校正:染川隆俊 2006年9月21日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。