修禅寺物語 岡本綺堂 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)修禅寺《しゅぜんじ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)古色|蒼然《そうぜん》たる [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)晌 ------------------------------------------------------- [#ここから3字下げ] (伊豆の修禅寺《しゅぜんじ》に頼家《よりいえ》の面《おもて》というあり。作人も知れず。由来もしれず。木彫の仮面《めん》にて、年を経たるまま面目分明ならねど、いわゆる古色|蒼然《そうぜん》たるもの、観《み》来たって一種の詩趣をおぼゆ。当時を追懐してこの稿成る。) [#ここから1字下げ]  登場人物 面作師《おもてつくりし》   夜叉王《やしゃおう》 夜叉王の娘 かつら 同     かえで かえでの婿 春彦 源左金吾《げんざきんご》頼家 下田五郎|景安《かげやす》 金窪兵衛尉行親《かなくぼひょうえのじょうゆきちか》 修禅寺の僧 行親の家来など [#ここで字下げ終わり]      第一場 [#ここから2字下げ] 伊豆の国|狩野《かの》の庄、修禅寺村(今の修善寺)桂川のほとり、夜叉王の住家。 藁葺《わらぶ》きの古びたる二重家体。破れたる壁に舞楽の面などをかけ、正面に紺暖簾《こんのれん》の出入口あり。下手に炉を切りて、素焼の土瓶《どびん》などかけたり。庭の入口は竹にて編みたる門、外には柳の大樹。そのうしろは畑を隔てて、塔の峰つづきの山または丘などみゆ。元久元年七月十八日。 (二重の上手につづける一間の家体は細工場《さいくば》にて、三方に古りたる蒲簾《がますだれ》をおろせり。庭さきには秋草の花咲きたる垣《かき》に沿うて荒むしろを敷き、姉娘桂、二十歳。妹娘楓、十八歳。相対して紙砧《かみぎぬた》を擣《う》っている。) [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] かつら (やがて砧の手をやめる)一晌《いっとき》あまりも擣ちつづけたので、肩も腕も痺《しび》るるような。もうよいほどにして止《や》みょうでないか。 かえで とは言うものの、きのうまでは盆休みであったほどに、きょうからは精出して働こうではござんせぬか。 かつら 働きたくばお前ひとりで働くがよい。父様《ととさま》にも春彦どのにも褒《ほ》められようぞ。わたしはいやじゃ、いやになった。(投げ出すように砧を捨つ) かえで 貧の手業《てわざ》に姉妹《きょうだい》が、年ごろ擣ちなれた紙砧を、とかくに飽きた、いやになったと、むかしに変るお前がこのごろの素振りは、どうしたことでござるかのう。 かつら (あざ笑う)いや、昔とは変らぬ。ちっとも変らぬ。わたしは昔からこのようなことを好きではなかった。父さまが鎌倉《かまくら》においでなされたら、わたしらもこうはあるまいものを、名聞《みょうもん》を好まれぬ職人|気質《かたぎ》とて、この伊豆《いず》の山家に隠れ栖《ずみ》、親につれて子供までも鄙《ひな》にそだち、しょうことなしに今の身の上じゃ。さりとてこのままに朽ち果てようとは夢にも思わぬ。近いためしは今わたしらが擣っている修禅寺紙、はじめは賤《いや》しい人の手につくられても、色好紙《いろよしがみ》とよばれて世に出づれば、高貴のお方の手にも触るる。女子《おなご》とてもその通りじゃ。たとい賤しゅう育っても、色好紙の色よくば、関白大臣将軍家のおそばへも、召し出《いだ》されぬとは限るまいに、賤《しず》の女《め》がなりわいの紙砧、いつまで擣ちおぼえたとて何となろうぞ。いやになったと言うたが無理か。 かえで それはおまえが口癖に言うことじゃが、人には人それぞれの分があるもの。将軍家のお側近う召さるるなどと、夢のようなことをたのみにして、心ばかり高う打ちあがり、末はなんとなろうやら、わたしは案じられてなりませぬ。 かつら お前とわたしとは心が違う。妹のおまえは今年十八で、春彦という男を持った。それに引きかえて姉のわたしは、二十歳《はたち》という今日の今まで、夫もさだめずに過したは、あたら一生を草の家《や》に、住み果つまいと思えばこそじゃ。職人|風情《ふぜい》の妻となって、満足して暮すおまえらに、わたしの心はわかるまいのう。(空嘯《そらうそぶ》く) [#ここから2字下げ] (楓の婿春彦、二十余歳、奥より出づ。) [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 春彦 桂どの。職人風情とさも卑しい者のように言われたが、職人あまたあるなかにも、面作師《おもてつくりし》といえば、世に恥かしからぬ職であろうぞ。あらためて申すに及ばねど、わが日本|開闢《かいびゃく》以来、はじめて舞楽のおもてを刻まれたは、もったいなくも聖徳太子、つづいて藤原淡海公、弘法大師、倉部《くらべ》の春日《かすが》、この人々より伝えて今に至る、由緒《ゆいしょ》正しき職人とは知られぬか。 かつら それは職が尊いのでない。聖徳太子や淡海公という、その人々が尊いのじゃ。かの人々も生業《なりわい》に、面作りはなされまいが……。 春彦 生業にしては卑しいか。さりとは異なことを聞くものじゃの。この春彦が明日にもあれ、稀代の面《おもて》をつくり出《いだ》して、天下一の名を取っても、お身は職人風情と侮《あなど》るか。 かつら 言《お》んでもないこと、天下一でも職人は職人じゃ、殿上人や弓取りとは一つになるまい。 春彦 殿上人や弓取りがそれほどに尊いか。職人がそれほどに卑しいか。 かつら はて、くどい。知れたことじゃに……。 [#ここから2字下げ] (桂は顔をそむけて取り合わず。春彦、むっとして詰めよるを、楓はあわてて押し隔てる。) [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] かえで ああ、これ、一旦こうと言い出したら、あくまでも言い募るが姉《あね》さまの気質、逆ろうては悪い。いさかいはもう止してくだされ。 春彦 その気質を知ればこそ、日ごろ堪忍していれど、あまりと言えば詞《ことば》が過ぐる。女房の縁につながりて、姉と立つればつけ上り、ややもすればわれを軽しむる面憎《つらにく》さ。仕儀によっては姉とは言わさぬ。 かつら おお、姉と言われずとも大事ござらぬ。職人風情を妹婿に持ったとて、姉の見得《みえ》にも手柄にもなるまい。 春彦 まだ言うか。 [#ここから2字下げ] (春彦はまたつめ寄るを、楓は心配して制す。この時、細工場の簾のうちにて、父の声。) [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 夜叉王 ええ、騒がしい。鎮《しず》まらぬか。 [#ここから2字下げ] (これを聴きて春彦は控える。楓は起って蒲簾をまけば、伊豆の夜叉王、五十余歳、烏帽子《えぼし》、筒袖《つつそで》、小袴にて、鑿《のみ》と槌《つち》とを持ち、木彫の仮面《めん》を打っている。膝《ひざ》のあたりには木の屑《くず》など取り散らしたり。) [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 春彦 由なきことを言い募って、細工のおさまたげをも省みぬ不調法、なにとぞ御料簡《ごりょうけん》くださりませ。 かえで これもわたしが姉様に、意見がましいことなど言うたが基《もとい》。姉様も春彦どのも必ず叱《しか》って下さりまするな。 夜叉王 おお、なんで叱ろう、叱りはせぬ。姉妹の喧嘩《いさかい》はままあることじゃ。珍らしゅうもあるまい。時に今日ももう暮るるぞ。秋のゆう風が身にしみるわ。そちたちは奥へ行って夕飯《ゆうまま》の支度、燈火《あかり》の用意でもせい。 二人 あい。 [#ここから2字下げ] (桂と楓は起って奥に入る。) [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 夜叉王 のう、春彦。妹とは違うて気がさの姉じゃ。同じ屋根の下に起き臥《ふ》しすれば、一年三百六十日、面白からぬ日も多かろうが、何事もわしに免じて料簡せい。あれを産んだ母親は、そのむかし、都の公家衆《くげしゅう》に奉公したもの、縁あってこの夜叉王と女夫《めおと》になり、あずまへ流れ下ったが、育ちが育ちとて気位高く、職人風情に連れ添うて、一生むなしく朽ち果つるを悔みながらに世を終った。その腹を分けた姉妹、おなじ胤《たね》とはいいながら、姉は母の血をうけて公家気質、妹は父の血をひいて職人気質、子の心がちがえば親の愛も違うて、母は姉|贔屓《びいき》、父は妹贔屓。思い思いに子どもの贔屓争いから、埒《らち》もない女夫喧嘩などしたこともあったよ。はははははは。 春彦 そう承われば桂どのが、日ごろ職人をいやしみ嫌い、世にきこえたる殿上人か弓取りならでは、夫に持たぬと誇らるるも、母御《ははご》の血筋をつたえしため、血は争われぬものでござりまするな。 夜叉王 じゃによって、あれが何を言おうとも、滅多に腹は立てまいぞ。人を人とも思わず、気位《きぐらい》高う生まれたは、母の子なれば是非がないのじゃ。 [#ここから2字下げ] (暮の鐘きこゆ。奥より楓は燈台を持ちて出づ。) [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 春彦 おお、取り紛れて忘れていた。これから大仁《おおひと》の町まで行って、このあいだ誂《あつら》えておいた鑿《のみ》と小刀《さすが》をうけ取って来ねばなるまいか。 かえで きょうはもう暮れました。いっそ明日《あす》にしなされては……。 春彦 いや、いや、職人には大事の道具じゃ。一刻も早う取り寄せておこうぞ。 夜叉王 おお、職人はその心がけがのうてはならぬ。更《ふ》けぬ間に、ゆけ、行け。 春彦 夜とは申せど通いなれた路、一晌《いっとき》ほどに戻って来まする。 [#ここから2字下げ] (春彦は出てゆく。楓は門《かど》にたちて見送る。修禅寺の僧一人、燈籠《とうろう》を持ちて先に立ち、つづいて源の頼家卿、二十三歳。あとより下田五郎景安、十七八歳、頼家の太刀をささげて出づ。) [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 僧 これ、これ、将軍家のおしのびじゃ。粗相があってはなりませぬぞ。 [#ここから2字下げ] (楓ははッと平伏《ひれふ》す。頼家主従すすみ入れば、夜叉王も出で迎える。) [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 夜叉王 思いもよらぬお成りとて、なんの設けもござりませぬが、まずあれへお通りくださりませ。 [#ここから2字下げ] (頼家は縁に腰をかける。) [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 夜叉王 して、御用の趣は。 頼家 問わずとも大方は察しておろう。わが面体《めんてい》を後のかたみに残さんと、さきにその方を召し出し、頼家に似せたる面《おもて》を作れと、絵姿までも遣《つか》わしておいたるに、日を経《ふ》るも出来《しゅったい》せず、幾たびか延引を申し立てて、今まで打ち過ぎしは何たることじゃ。 五郎 多寡《たか》が面一つの細工、いかに丹精を凝らすとも、百日とは費すまい。お細工仰せつけられしは当春の初め、その後すでに半年をも過ぎたるに、いまだ献上いたさぬとはあまりの懈怠《けたい》、もはや猶予は相成らぬと、上様《うえさま》の御機嫌《ごきげん》さんざんじゃぞ。 頼家 予は生まれついての性急じゃ。いつまで待てど暮せど埒あかず、あまりに歯痒《はがゆ》う覚ゆるまま、この上は使いなど遣わすこと無用と、予がじきじきに催促にまいった。おのれ何ゆえに細工を怠りおるか。仔細をいえ、仔細を申せ。 夜叉王 御立腹おそれ入りましてござりまする。もったいなくも征夷大将軍、源氏の棟梁《とうりょう》のお姿を刻めとあるは、職のほまれ、身の面目、いかでか等閑《なおざり》に存じましょうや。御用うけたまわりてすでに半年、未熟ながらも腕限り根かぎりに、夜昼となく打ちましても、意にかなうほどのもの一つもなく、さらに打ち替え作り替えて、心ならずも延引に延引をかさねましたる次第、なにとぞお察しくださりませ。 頼家 ええ、催促の都度におなじことを……。その申しわけは聞き飽いたぞ。 五郎 この上はただ延引とのみで相済むまい。いつのころまでにはかならず出来するか、あらかじめ期日をさだめてお詫《わび》を申せ。 夜叉王 その期日は申し上げられませぬ。左に鑿をもち、右に槌を持てば、面はたやすく成るものと思し召すか。家をつくり、塔を組む、番匠《ばんしょう》なんどとは事変りて、これは生《しょう》なき粗木《あらき》を削り、男、女、天人、夜叉、羅刹《らせつ》、ありとあらゆる善悪邪正のたましいを打ち込む面作師。五体にみなぎる精力《せいりき》が、両の腕《かいな》におのずから湊《あつ》まる時、わがたましいは流るるごとく彼に通いて、はじめて面も作られまする。ただしその時は半月の後か、一月の後か、あるいは一年二年の後か。われながら確《しか》とはわかりませぬ。 僧 これ、これ、夜叉王どの。上様は御自身も仰せらるるごとく、至って御性急でおわします。三島の社の放し鰻《うなぎ》を見るように、ぬらりくらりと取止めのないことばかり申し上げていたら、御疳癖がいよいよ募ろうほどに、こなたも職人|冥利《みょうり》、いつのころまでと日を限《き》って、しかと御返事を申すがよかろうぞ。 夜叉王 じゃと言うて、出来ぬものはのう。 僧 なんの、こなたの腕で出来ぬことがあろう。面作師も多くあるなかで、伊豆の夜叉王といえば、京鎌倉までも聞えた者じゃに……。 夜叉王 さあ、それゆえに出来ぬと言うのじゃ。わしも伊豆の夜叉王と言えば、人にも少しは知られたもの。たといお咎《とが》め受きょうとも、己《おの》が心に染まぬ細工を、世に残すのはいかにも無念じゃ。 頼家 なに、無念じゃと……。さらばいかなる祟《たた》りを受きょうとも、早急《さっきゅう》には出来ぬというか。 夜叉王 恐れながら早急には……。 頼家 むむ、おのれ覚悟せい。 [#ここから2字下げ] (癇癖募りし頼家は、五郎のささげたる太刀を引っ取って、あわや抜かんとす。奥より桂、走り出づ。) [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] かつら まあ、まあ、お待ちくださりませ。 頼家 ええ、退《の》け、のけ。 かつら まずお鎮まりくださりませ。面はただ今献上いたしまする。のう、父様。 [#ここから2字下げ] (夜叉王は黙して答えず。) [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 五郎 なに、面はすでに出来しておるか。 頼家 ええ、おのれ。前後|不揃《ふぞろ》いのことを申し立てて、予をあざむこうでな。 かつら いえ、いえ、嘘《うそ》いつわりではござりませぬ。面はたしかに出来しておりまする。これ、父様。もうこの上は是非がござんすまい。 かえで ほんにそうじゃ。ゆうべようやく出来したというあの面を、いっそ献上なされては……。 僧 それがよい、それがよい。こなたも凡夫じゃ。名も惜しかろうが、命も惜しかろう。出来した面があるならば、早う上様にさしあげて、お慈悲をねがうが上分別じゃぞ。 夜叉王 命が惜しいか、名が惜しいか。こなた衆の知ったことではない。黙っておいやれ。 僧 さりとて、これが見ていらりょうか。さあ、娘御。その面を持って来て、ともかくも御覧に入れたがよいぞ。早う、早う。 かえで あい、あい。 [#ここから2字下げ] (かえでは細工場へ走り入りて、木彫の仮面《めん》を入れたる箱を持ち出づ。桂はうけ取りて頼家の前にささぐ。頼家は無言にて桂の顔をうちまもり、心少しく解けたる体なり。) [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] かつら いつわりならぬ証拠、これ御覧くださりませ。 [#ここから2字下げ] (頼家は仮面を取りて打ちながめ、思わず感嘆の声をあげる。) [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 頼家 おお、見事じゃ。よう打ったぞ。 五郎 上様おん顔に生写しじゃ。 頼家 むむ。(飽かず打《う》ち戍《まも》る) 僧 さればこそ言わぬことか。それほどの物が出来していながら、とこう渋っておられたは、夜叉王どのも気の知れぬ男じゃ。ははははは。 夜叉王 (形をあらためる)何分にもわが心にかなわぬ細工、人には見せじと存じましたが、こう相成っては致し方もござりませぬ。方々にはその面をなんと御覧なされまする。 頼家 さすがは夜叉王、あっぱれの者じゃ。頼家も満足したぞ。 夜叉王 あっぱれとの御賞美ははばかりながらおめがね違い、それは夜叉王が一生の不出来。よう御覧《ごろう》じませ。面は死んでおりまする。 五郎 面が死んでおるとは……。 夜叉王 年ごろあまた打ったる面は、生けるがごとしと人も言い、われも許しておりましたが、不思議やこのたびの面に限って、幾たび打ち直しても生きたる色なく、たましいもなき死人の相……。それは世にある人の面ではござりませぬ。死人の面でござりまする。 五郎 そちはさように申しても、われらの眼にはやはり生きたる人の面……。死人の相とは相見えぬがのう。 夜叉王 いや、いや、どう見直しても生《しょう》ある人ではござりませぬ。しかも眼《まなこ》に恨みを宿し、何者をか呪《のろ》うがごとき、怨霊《おんりょう》怪異《あやかし》なんどのたぐい……。 僧 あ、これ、これ、そのような不吉のことは申さぬものじゃ。御意《ぎょい》にかなえばそれで重畳《ちょうじょう》、ありがたくお礼を申されい。 頼家 むむ。とにもかくにもこの面は頼家の意にかのうた。持ち帰るぞ。 夜叉王 強《た》って御所望《ごしょもう》とござりますれば……。 頼家 おお、所望じゃ。それ。 [#ここから2字下げ] (頼家は頤《あご》にて示せば、かつら心得て仮面を箱に納め、すこしく媚《こび》を含みて頼家にささぐ。頼家はさらにその顔をじっと視る。) [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 頼家 いや、なおかさねて主人《あるじ》に所望がある。この娘を予が手もとに召し仕《つか》いとう存ずるが、奉公さする心はないか。 夜叉王 ありがたい御意にござりまするが、これは本人の心まかせ、親の口から御返事は申し上げられませぬ。 [#ここから2字下げ] (桂は臆せず、すすみ出づ。) [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] かつら 父様。どうぞわたしに御奉公を……。 頼家 うい奴じゃ。奉公をのぞむと申すか。 かつら はい。 頼家 さらばこれよりその面をささげて、頼家の供してまいれ。 かつら かしこまりました。 [#ここから2字下げ] (頼家は起つ。五郎も起つ。桂もつづいて起つ。楓は姉の袂《たもと》をひかえて、心もとなげに囁《ささや》く。) [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] かえで 姉さま。おまえは御奉公に……。 かつら おまえは先ほど、夢のような望みと笑うたが、夢のような望みが今かのうた。 [#ここから2字下げ] (かつらは誇りがに見かえりて、庭に降り立つ。) [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 僧 やれ、やれ、これで愚僧もまず安堵《あんど》いたした。夜叉王どの、あすまた逢《あ》いましょうぞ。 [#ここから2字下げ] (頼家は行きかかりて物につまずく。桂は走り寄りてその手を取る。) [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 頼家 おお、いつの間にか暗うなった。 [#ここから2字下げ] (僧はすすみ出でて、桂に燈籠を渡す。桂は仮面の箱を僧にわたし、われは片手に燈籠を持ち、片手に頼家をひきて出づ。夜叉王はじっと思案の体なり。) [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] かえで 父さま、お見送りを……。 [#ここから2字下げ] (夜叉王は初めて心づきたるごとく、娘とともに門口に送り出づ。) [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 五郎 そちへの御褒美《ごほうび》は、あらためて沙汰《さた》するぞ。 [#ここから2字下げ] (頼家らは相前後して出でゆく。夜叉王は起ち上りて、しばらく黙然としていたりしが、やがてつかつかと縁にあがり、細工場より槌を持ち来たりて、壁にかけたるいろいろの仮面を取り下し、あわや打ち砕かんとす。楓はおどろきて取り縋《すが》る。) [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] かえで ああ、これ、なんとなさる。おまえは物に狂われたか。 夜叉王 せっぱ詰まりて是非におよばず、拙《つたな》き細工を献上したは、悔んでも返らぬわが不運。あのような面が将軍家のおん手に渡りて、これぞ伊豆の住人夜叉王が作と宝物帳にも記《しる》されて、百千年の後までも笑いをのこさば、一生の名折れ、末代の恥辱、所詮《しょせん》夜叉王の名は廃《すた》った。職人もきょう限り、再び槌は持つまいぞ。 かえで さりとは短気でござりましょう。いかなる名人上手でも細工の出来不出来は時の運。一生のうちに一度でもあっぱれ名作が出来ようならば、それがすなわち名人ではござりませぬか。 夜叉王 むむ。 かえで 拙い細工を世に出したをそれほど無念と思し召さば、これからいよいよ精出して、世をも人をもおどろかすほどの立派な面を作り出し、恥を雪《すす》いでくださりませ。 [#ここから2字下げ] (かえでは縋りて泣く。夜叉王は答えず、思案の眼を瞑《と》じている。日暮れて笛の声遠くきこゆ。) [#ここで字下げ終わり]      第二場 [#ここから2字下げ] おなじく桂川のほとり、虎渓橋《こけいきょう》の袂。川辺には柳|幾本《いくもと》たちて、芒《すすき》と芦《あし》とみだれ生いたり。橋を隔てて修禅寺の山門みゆ。同じ日の宵。 (下田五郎は頼家の太刀を持ち、僧は仮面《めん》の箱をかかえて出づ。) [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 五郎 上様は桂どのと、川辺づたいにそぞろ歩き遊ばされ、お供のわれわれは一足先へまいれとの御意であったが、修禅寺の御座所ももはや眼のまえじゃ。この橋の袂《たもと》にたたずみて、お帰りを暫時相待とうか。 僧 いや、いや、それはよろしゅうござるまい。桂殿という嫋女《たおやめ》をお見出しあって、浮れあるきに余念もおわさぬところへ、われわれのごとき邪魔|外道《げどう》が附き纏《まと》うては、かえって御機嫌を損ずるでござろうぞ。 五郎 なにさまのう。 [#ここから2字下げ] (とは言いながら、五郎はなお不安の体にてたたずむ。) [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 僧 ことに愚僧はお風呂《ふろ》の役、早う戻《もど》って支度をせねばなるまい。 五郎 お風呂とておのずと沸いて出づる湯じゃ。支度を急ぐこともあるまいに……。まずお待ちゃれ。 僧 はて、お身にも似合わぬ不粋をいうぞ。若き男女《おとこおうな》がむつまじゅう語ろうているところに、法師や武士は禁物じゃよ。ははははは。さあ、ござれ、ござれ。 [#ここから2字下げ] (無理に袖をひく。五郎は心ならずも曳かるるままに、打ち連れて橋を渡りゆく。月出づ。桂は燈籠を持ち、頼家の手をひきて出づ。) [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 頼家 おお、月が出た。河原づたいに夜ゆけば、芒にまじる芦の根に、水の声、虫の声、山家《やまが》の秋はまたひとしおの風情《ふぜい》じゃのう。 かつら 馴《な》れてはさほどにもおぼえませぬが、鎌倉山の星月夜とは事変りて、伊豆の山家の秋の夜は、さぞお寂しゅうござりましょう。 [#ここから2字下げ] (頼家はありあう石に腰打ちかけ、桂は燈籠を持ちたるまま、橋の欄に凭《よ》りて立つ。月明らかにして虫の声きこゆ。) [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 頼家 鎌倉は天下の覇府《はふ》、大小名の武家小路、甍《いらか》をならべて綺羅《きら》を競えど、それはうわべの栄えにて、うらはおそろしき罪の巷《ちまた》、悪魔の巣ぞ。人間の住むべきところでない。鎌倉などへは夢も通わぬ。(月を仰ぎて言う) かつら 鎌倉山に時めいておわしなば、日本一の将軍家、山家そだちのわれわれは下司《げす》にもお使いなされまいに、御果報|拙《つたな》いがわたくしの果報よ。忘れもせぬこの三月、窟詣《いわやもう》での下向路《げこうみち》、桂谷の川上で、はじめて御目見得をいたしました。 頼家 おお、その時そちの名を問えば、川の名とおなじ桂と言うたな。 かつら まだそればかりではござりませぬ。この窟のみなかみには、二本《ふたもと》の桂の立木ありて、その根よりおのずから清水を噴き、末は修禅寺にながれて入れば、川の名を桂とよび、またその樹を女夫《めおと》の桂と昔よりよび伝えておりますると、お答え申し上げましたれば、おまえ様はなんと仰せられました。 頼家 非情の木にも女夫はある。人にも女夫はありそうな……と、つい戯《たわむ》れに申したのう。 かつら お戯れかは存じませぬが、そのお詞《ことば》が冥加《みょうが》にあまりて、この願《がん》かならずかなうようと、百日のあいだ人にも知らさず、窟へ日参いたせしに、女夫の桂のしるしありて、ゆくえも知れぬ川水も、嬉《うれ》しき逢瀬《おうせ》にながれ合い、今月今宵おん側近う、召し出されたる身の冥加……。 頼家 武運つたなき頼家の身近うまいるがそれほどに嬉しいか。そちも大方は存じておろう。予には比企《ひき》の判官《はんがん》能員《よしかず》の娘|若狭《わかさ》といえる側女《そばめ》ありしが、能員ほろびしその砌《みぎり》に、不憫《ふびん》や若狭も世を去った。今より後はそちが二代の側女、名もそのままに若狭と言え。 かつら あの、わたくしが若狭の局《つぼね》と……。ええ、ありがとうござりまする。 頼家 あたたかき湯の湧《わ》くところ、温かき人の情も湧く。恋をうしないし頼家は、ここに新しき恋を得て、心の痛みもようやく癒えた。今はもろもろの煩悩《ぼんのう》を断って、安らけくこの地に生涯を送りたいものじゃ。さりながら、月には雲の障《さわ》りあり。その望みもはかなく破れて、予に万一のことあらば、そちの父に打たせたるかのおもてを形見と思え。叔父の蒲殿《かばどの》は罪のうして、この修禅寺の土となられた。わが運命も遅かれ速かれ、おなじ路をたどろうも知れぬぞ。 [#ここから2字下げ] (月かくれて暗し。籠手《こて》、臑当《すねあて》、腹巻したる軍兵《つわもの》二人、上下よりうかがい出でて、芒むらに潜む。虫の声にわかにやむ。) [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] かつら あたりにすだく虫の声、吹き消すように止みましたは……。 頼家 人やまいりし。心をつけよ。 [#ここから2字下げ] (金窪兵衛尉行親、三十余歳。烏帽子《えぼし》、直垂《ひたたれ》、籠手、臑当にて出づ。) [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 行親 上《うえ》、これに御座遊ばされましたか。 頼家 誰じゃ。 [#ここから2字下げ] (桂は燈籠をかざす。頼家|透《すか》しみる。) [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 行親 金窪行親でござりまする。 頼家 おお、兵衛か。鎌倉|表《おもて》より何としてまいった。 行親 北条殿のおん使いに……。 頼家 なに、北条殿の使い……。さてはこの頼家を討とうがためな。 行親 これは存じも寄らぬこと。御機嫌伺いとして行親参上、ほかに仔細もござりませぬ。 頼家 言うな、兵衛。物の具に身をかためて夜中の参入は、察するところ、北条の密意をうけて予を不意撃ちにする巧みであろうが……。 行親 天下ようやく定まりしとは申せども、平家の残党ほろび殲《つく》さず。かつは函根《はこね》より西の山路に、盗賊ども徘徊《はいかい》する由きこえましたれば、路次の用心としてかようにいかめしゅう扮装《いでた》ち申した。上に対したてまつりて、不意撃ちの狼藉《ろうぜき》なんど、いかで、いかで……。 頼家 たといいかように陳ずるとも、憎き北条の使いなんどに対面無用じゃ。使いの口上聞くにおよばぬ。帰れ、かえれ。 [#ここから2字下げ] (行親は騒がず。しずかに桂をみかえる。) [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 行親 これにある女性《にょしょう》は……。 頼家 予が召仕いの女子《おなご》じゃよ。 行親 おん謹《つつし》みの身をもって、素性《すじょう》も得知れぬ賤《いや》しの女子どもを、おん側近う召されしは……。 [#ここから2字下げ] (桂は堪えず、すすみ出づ。) [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] かつら 兵衛どのとやら、お身は卜者《うらや》か人相見か。初見参《ういげんざん》のわらわに対して、素姓賤しき女子などと、迂濶《うかつ》に物を申されな。妾《わらわ》は都のうまれ、母は殿上人にも仕えし者ぞ。まして今は将軍家のおそばに召されて、若狭の局とも名乗る身に、一応の会釈もせで無礼の雑言《ぞうごん》は、鎌倉武士というにも似ぬ、さりとは作法をわきまえぬ者のう。 [#ここから2字下げ] (冷笑《あざわら》われて、行親は眉をひそめる。) [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 行親 なに。若狭の局……。して、それは誰に許された。 頼家 おお、予が許した。 行親 北条どのにも謀《はか》らせたまわず……。 頼家 北条がなんじゃ。おのれらは二口目には北条という。北条がそれほどに尊いか。時政も義時も予の家来じゃぞ。 行親 さりとて、尼御台《あまみだい》もおわしますに……。 頼家 ええ、くどい奴。おのれらの言うこと、聴くべき耳は持たぬぞ。退《すさ》れ、すされ。 行親 さほどにおむずかり遊ばされては、行親申し上ぐべきようもござりませぬ。仰せに任せて今宵はこのまま退散、委細は明朝あらためて見参の上……。 頼家 いや、重ねて来ること相成らぬぞ。若狭、まいれ。 [#ここから2字下げ] (頼家は起ち上りて桂の手を取り、打ち連れて橋を渡り去る。行親はあとを見送る。芒のあいだに潜みし軍兵《つわもの》出づ。) [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 兵一 先刻より忍んで相待ち申したに、なんの合図もござりませねば……。 兵二 手を下すべき機《おり》もなく、空しく時を移し申した。 行親 北条殿の密旨を蒙《こうむ》り、近寄って討ちたてまつらんと今宵ひそかに伺候したるが、さすがは上様、早くもそれと覚《さと》られて、われに油断を見せたまわねば、無念ながらも仕損じた。この上は修禅寺の御座所へ寄せかけ、多人数一度にこみ入って本意を遂ぎょうぞ。上様は早業の達人、近習《きんじゅう》の者どもにも手だれあり。小勢の敵と侮りて不覚を取るな。場所は狭し、夜いくさじゃ。うろたえて同士撃《どしう》ちすな。 兵 はっ。 行親 一人はこれより川下へ走せ向うて、村の出口に控えたる者どもに、即刻かかれと下知《げじ》を伝えい。 兵一 心得申した。 [#ここから2字下げ] (一人は下手に走り去る。行親は一人を具して上手に入る。木かげより春彦、うかがい出づ。) [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 春彦 大仁《おおひと》の町から戻《もど》る路々《みちみち》に、物の具したる兵者《つわもの》が、ここに五人かしこに十人|屯《たむろ》して、出入りのものを一々詮議するは、合点《がてん》がゆかぬと思うたが、さては鎌倉の下知によって、上様を失いたてまつる結構な。さりとは大事じゃ。 [#ここから2字下げ] (遠近《おちこち》にて寝鳥《ねとり》のおどろき起つ声。下田五郎は橋を渡りて出づ。) [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 五郎 常はさびしき山里の、今宵は何とやらん物さわがしく、事ありげにも覚ゆるぞ。念のために川の上下《かみしも》を一わたり見廻《みまわ》ろうか。 春彦 五郎どのではおわさぬか。 五郎 おお、春彦か。 [#ここから2字下げ] (春彦は近づきてささやく。) [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 五郎 や、なんと言う。金窪の参入は……。上様を……。しかと左様か。むむ。 [#ここから2字下げ] (五郎はあわただしく引っ返しゆかんとする時、橋の上より軍兵一人|長巻《ながまき》をたずさえて出で、無言にて撃ってかかる。五郎は抜きあわせて、たちまち斬《き》って捨つ。軍兵数人、上下より走り出で、五郎を押っ取りまく。) [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 五郎 やあ、春彦。ここはそれがしが受け取った。そちは御座所へ走せ参じて、この趣を注進せい。 春彦 はっ。 [#ここから2字下げ] (春彦は橋をわたりて走り去る。五郎は左右に敵を引き受けて奮闘す。) [#ここで字下げ終わり]      第三場 [#ここから2字下げ] もとの夜叉王の住家。夜叉王は門《かど》にたちて望む。修禅寺にて早鐘を撞く音きこゆ。 (向うより楓は走り出づ。) [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] かえで 父様。夜討ちじゃ。 夜叉王 おお、むすめ。見て戻ったか。 かえで 敵は誰やらわからぬが、人数はおよそ二三百人、修禅寺の御座所へ夜討ちをかけましたぞ。 夜叉王 にわかにきこゆる人馬の物音は、何事かと思うたに、修禅寺へ夜討ちとは……。平家の残党か、鎌倉の討手か。こりゃ容易ならぬ大変じゃのう。 かえで 生憎《あやにく》に春彦どのはありあわさず、なんとしたことでござりましょうな。 夜叉王 われわれがうろうろ立ち騒いだとてなんの役にも立つまい。ただそのなりゆきを観ているばかりじゃ。まさかの時には父子《おやこ》が手をひいて立ち退くまでのこと。平家が勝とうが、源氏が勝とうが、北条が勝とうが、われわれにはかかり合いのないことじゃ。 かえで それじゃと言うて不意のいくさに、姉様《あねさま》はなんとなさりょうか。もし逃げ惑うて過失《あやまち》でも……。 夜叉王 いや、それも時の運じゃ、是非もない。姉にはまた姉の覚悟があろうよ。 [#ここから2字下げ] (寺鐘と陣鐘とまじりてきこゆ。楓は起ちつ居つ、幾たびか門に出でて心痛の体《てい》。向うより春彦走り出づ。) [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] かえで おお、春彦どの。待ちかねました。 春彦 寄せ手は鎌倉の北条方、しかも夜討ちの相談を、測らず木かげで立聴きして、その由を御注進申し上ぎょうと、修禅寺までは駈《か》けつけたが、前後の門はみな囲まれ、翼《つばさ》なければ入ることかなわず、残念ながらおめおめ戻った。 かえで では、姉様の安否も知れませぬか。 春彦 姉はさておいて、上様の御安否さえもまだわからぬ。小勢ながらも近習の衆が、火花をちらして追っつ返しつ、今が合戦最中じゃ。 夜叉王 なにを言うにも多勢に無勢、御所方《ごしょがた》とても鬼神ではあるまいに、勝負は大方知れてある。とても逃れぬ御運の末じゃ。蒲殿といい、上様と言い、いかなる因縁かこの修禅寺には、土の底まで源氏の血が沁《し》みるのう。 [#ここから2字下げ] (寺鐘烈しくきこゆ。春彦夫婦は再び表をうかがい見る。) [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] かえで おお、おびただしい人の足音……。鎬《しのぎ》を削る太刀の音……。 春彦 ここへも次第に近づいてくるわ。 [#ここから2字下げ] (桂は頼家の仮面を持ちて顔には髪をふりかけ、直垂《ひたたれ》を着て長巻を持ち、手負《てお》いの体にて走り出で、門口に来たりて倒る。) [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 春彦 や、誰やら表に……。 [#ここから2字下げ] (夫婦は走り寄りて扶《たす》け起し、庭さきに伴い入るれば、桂はまた倒れる。) [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 春彦 これ、傷は浅うござりまするぞ。心を確かに持たせられい。 かつら (息もたゆげに)おお妹……。春彦どの……。父様はどこにじゃ。 夜叉王 や、なんと……。 [#ここから2字下げ] (夜叉王は怪しみて立ちよる。桂は顔をあげる。みなみな驚く。) [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 春彦 や、侍衆《さむらいしゅう》とおもいのほか……。 夜叉王 おお、娘か。 かえで 姉さまか。 春彦 して、この体《てい》は……。 かつら 上様お風呂を召さるる折から、鎌倉勢が不意の夜討ち……。味方は小人数、必死にたたかう。女でこそあれこの桂も、御奉公はじめの御奉公納めに、この面《おもて》をつけてお身がわりと、早速《さそく》の分別……。月の暗きを幸いに打物とって庭におり立ち、左金吾頼家これにありと、呼ばわり呼ばわり走せ出づれば、むらがる敵は夜目遠目に、まことの上様ぞと心得て、うち洩《も》らさじと追っかくる。 夜叉王 さては上様お身替りと相成って、この面にて敵をあざむき、ここまで斬り抜けてまいったか。(血に染みたる仮面《めん》を取りてじっと視る) 春彦 われわれすらも侍衆と見あやまったほどなれば、敵のあざむかれたも無理ではあるまい。 かえで とは言うものの、あさましいこのお姿……。姉様死んで下さりまするな。(取り縋りて泣く) かつら いや、いや。死んでも憾《うら》みはない。賤《しず》が伏屋《ふせや》でいたずらに、百年千年生きたとて何となろう。たとい半晌《はんとき》一晌でも、将軍家のおそばに召し出され、若狭の局という名をも給わるからは、これで出世の望みもかのうた。死んでもわたしは本望じゃ。 [#ここから2字下げ] (云いかけて弱るを、春彦夫婦は介抱す。夜叉王は仮面をみつめて物言わず。以前の修禅寺の僧、頭より袈裟《けさ》をかぶりて逃げ来たる。) [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 僧 大変じゃ、大変じゃ。かくもうて下され、隠もうてくだされ。(内に駈け入りて、桂を見てまたおどろく)やあ、ここにも手負いが…。おお、桂殿……。こなたもか。 かつら して、上様は……。 僧 お悼《いた》わしや、御最期じゃ。 かつら ええ。(這い起きてきっと視る) 僧 上様ばかりか、御家来衆も大方は斬り死……。わしらも傍杖《そばづえ》の怪我せぬうちと、命からがら逃げて来たのじゃ。 春彦 では、お身がわりの甲斐《かい》もなく……。 かえで ついにやみやみ御最期か。 [#ここから2字下げ] (桂は失望してまた倒る。楓は取りつきて叫ぶ。) [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] かえで これ、姉さま。心を確かに……。のう、父様。姉さまが死にまするぞ。 [#ここから2字下げ] (今まで一心に仮面をみつめたる夜叉王、はじめて見かえる。) [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 夜叉王 おお、姉は死ぬるか。姉もさだめて本望であろう。父もまた本望じゃ。 かえで ええ。 夜叉王 幾たび打ち直してもこの面に、死相のありありと見えたるは、われ拙きにあらず。鈍きにあらず。源氏の将軍頼家卿がかく相成るべき御運とは、今という今、はじめて覚った。神ならでは知ろしめされぬ人の運命、まずわが作にあらわれしは、自然の感応、自然の妙、技芸|神《しん》に入るとはこのことよ。伊豆の夜叉王、われながらあっぱれ天下一じゃのう。(快げに笑う) かつら (おなじく笑う)わたしもあっぱれお局様じゃ。死んでも思いおくことない。ちっとも早う上様のおあとを慕うて、冥土《めいど》のおん供……。 夜叉王 やれ、娘。わかき女子が断末魔の面、後の手本に写しておきたい。苦痛を堪《こら》えてしばらく待て。春彦、筆と紙を……。 春彦 はっ。 [#ここから2字下げ] (春彦は細工場に走り入りて、筆と紙などを持ち来たる。夜叉王は筆を執る。) [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 夜叉王 娘、顔をみせい。 かつら あい。 [#ここから2字下げ] (桂は春彦夫婦に扶けられて這いよる。夜叉王は筆を執りて、その顔を模写せんとす。僧は口のうちにて念仏す。) [#ここで字下げ終わり] [#地から2字上げ]――幕―― 底本:「日本の文学 77 名作集(一)」中央公論社    1970(昭和45)年7月5日初版発行 初出:「文芸倶楽部」    1911(明治44)年1月 入力:土屋隆 校正:小林繁雄 2006年4月30日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。