夜泣き鉄骨 海野十三 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)大鉄骨《だいてっこつ》が |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)電気|断続用《だんぞくよう》の [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)㏄ -------------------------------------------------------      1  真夜中に、第九工場の大鉄骨《だいてっこつ》が、キーッと声を立てて泣く――  という噂が、チラリと、わし[#「わし」に傍点]の耳に、入った。 「そんな、莫迦《ばか》な話が、あるもんか!」  わし[#「わし」に傍点]は、検査ハンマーを振る手を停めて、カラカラと笑った。 「そう笑いなさるけどナ、組長さん」その噂を持ってきた職工は、慄《おび》えた眼を、わし[#「わし」に傍点]の方に向けて云った。「昨夜のことなんだよ、それは……。火の番の、常爺《つねじい》が、両方の耳で、たしかに、そいつを聴いたよッて、蒼《あお》い顔をして、此《こ》のおいら[#「おいら」に傍点]に話したんだ。満更《まんざら》、偽《いつわ》りを云っているんだたァ、思えねぇ」  いつの間にか、わし達の周《まわ》りには、大勢の職工が、集ってきた。 「組長さん、それァ本当なんだ」別の声が叫んだ。 「なんだとォ――」おれは、その声のする方を見た。「てめえ[#「てめえ」に傍点]は、雲的《うんてき》だな。雲的ともあろうものが、軽卒《かるはずみ》なことを喋《しゃべ》って、後で笑《わらわ》れンな」 「大丈夫ですよ――」雲的《うんてき》は大いに自信ありげに、言葉をかえした。「それについちゃ、ちィっとばかり、手前《てめえ》の恥も、曝《さら》けださにゃならねえが、もう五日ほど前のことでさァ。徹夜勝負《よあかししょうぶ》のそれが、十二時を過ぎたばかりに、スッカラカンでヨ、場に貸してやろうてえ親切者もなしサ、やむなく、工場の宿直《しゅくちょく》、たあさんのところへ、真夜中というのに、無心《むしん》に来たというわけ。さ、その無心を叶《かな》えて貰っての帰りさ、通り懸《かか》ったのが今話しの第九工場の横手。だしぬけに、キーイッという軋《きし》るような物音を聴いた。(オヤ、何処だろう)と、あっし[#「あっし」に傍点]は立停《たちどま》った。暫《しばら》くは、何にも音がしねえ。(空耳《そらみみ》かな?)と思って、歩きだそうとすると、そこへ、キーイッとな、又聞えたじゃねえか。物音のする場所は、たしかに判った。第九工場の内部からだッ。(何の音だろう? 夜業《やぎょう》をやってんのかな)そう思ったのであっし[#「あっし」に傍点]は、顔をあげて、硝子《ガラス》の貼ってある工場の高窓を見上げたんだが、内部は真暗《まっくら》と見えて、なんの光もうつらない。(こりゃ、変だ!)俄《にわか》に背筋が、ゾクゾクと寒くなってきた。そこへ又その怪しい物音が……。恐《こわ》いとなると、尚《なお》聴きたい。重い鉄扉《てっぴ》に耳朶《みみたぶ》をおっつけて、あっし[#「あっし」に傍点]ァ、たしかに聴いた。キーイッ、カンカンカン、硬い金属が、軋《きし》み合い、噛み合うような、鋭い悲鳴だった」 「大方、工場に、鼠《ねずみ》が暴れてるんだろう」わし[#「わし」に傍点]は、不機嫌に云い放った。 「どうして、組長!」雲的《うんてき》はハッキリ軽蔑《けいべつ》の色を見せて、叫びかえした。「あっし[#「あっし」に傍点]にァ、あの物音が、どこから起るのか、ちゃんと見当がついてるのでサ」 「ンじゃ、早く喋《しゃべ》れッてことよ」 「こう、みんなも聴けよ」彼は、周囲《まわり》の南瓜面《かぼちゃづら》を、ずーッと睨《ね》めまわした。「ありゃナ、クレーンが、動いている音さ!」 「なに、クレーンが⁉」  一同が、思わず声を合わせて、叫んだ。  クレーンというのは、格納庫《かくのうこ》のように巨大な、あの第九工場の内部へ入って、高さが百尺近い天井を見上げると判るのだが、そこには逞《たくま》しい鉄骨で組立てられた大きな橋梁《きょうりょう》のような形の起重車《きじゅうしゃ》が、南北の方向に渡しかけられている。それが、クレーンだった。その橋梁の下には、重い物体をひっかける化物《ばけもの》のようにでっかい[#「でっかい」に傍点]鈎《かぎ》が、太い撚《よ》り鋼線《ロープ》で吊《つ》ってあり、また橋梁の一隅《いちぐう》には、鉄板《てっぱん》で囲った小屋が載《の》っていて、その中には、このクレーンを動かすモートルと其の制動機とが据《す》えてあった。制動機を動かすと、この鉄橋は、あたかも川の中で箸《はし》を横に流すように、広い第九工場の東端《とうたん》から西端《せいたん》まで、ゴーッと音をたてて横に動くのだった。 「おい、政《まさ》ッ!」わし[#「わし」に傍点]は、クレーンの運転手をやっている男を、人垣の中に呼んだ。 「へえ――」政は、紙のように、白い顔をして、おずおずと、前へ出てきた。 「クレーンが、真夜中に動き出すてのは、本当かな」 「わたしは、ナなんにも、存《ぞん》じませんです。しかし、クレーンのスウィッチは、必ず切って帰りますで、真夜中に、ヒョロヒョロ動き出すなんて、そんな妙なことが……」  そこまで云った政は、発作《ほっさ》みたいな様子となり、言葉のあとをブツブツ口の中で呟《つぶや》いて、それから急に気がついたかのように、ワナワナ慄える両手を、周章《あわ》てて背後に隠したのだった。 「よォし。今夜は、一つ正体《しょうたい》を確かめてやろう。いいか、みんな夜中の十二時を廻ったら、裏門前に集るんだ!」      2  合宿所の、三階の、廊下を、パタパタと音をさせて、近づいてくる跫音《あしおと》があった。 「組長さん、おいでですか――」  その跫音は、「舎監居間《しゃかんいま》」と書いた木札《きふだ》を、釘で打ちつけてあるわし[#「わし」に傍点]の室の入口の前で停るが早いか、そう、声をかけたのだった。 「おう。誰かい」 「栗原《くりはら》です。倉庫係《そうこがかり》の栗原ですて」 「栗原? 栗原が、なんの用だッ」 「へえ、ちょっと工場の用なんで……」 「なにッ。工場の用て、どんなことだか云ってみろ」 「へえ、実は――」栗原は、言い淀《よど》んでいる風だった。「先日《せんじつ》お持ちになりました乙型《おつがた》スウィッチが、急に入用になりましたんで、いただきに参ったんですが……」 「スウィッチなんか、明日にしろ」 「ところが生憎《あいにく》、工場で至急使うことになったんで、直ぐ持って行かないと困るんでして、実にその……」 「よォし、いま入口を開けるから、ちょっと待て」  暫くして、わし[#「わし」に傍点]は、入口の扉《と》を、サッと開けた。 「どうも相済《あいす》みません」栗原は、わし[#「わし」に傍点]の顔を見るなり、ペコリと頭を下げた。 「お前、この間、そう云ったじゃねえか。このスウィッチは、当分《とうぶん》不用《ふよう》だから、いつまでもお使いなさい、とな」 「申訳がありませんです」栗原は、ひどく恐縮《きょうしゅく》している態《てい》で、ペコペコ頭を下げた。「組長さんは、スウィッチの図面を書きたいから御持ちになるというので、そんな簡単な御用ならと、栗原は帳簿に書かないで、御貸ししたんです。ところが、今急に、拡張《かくちょう》工事係の方から、在庫《ざいこ》になっている乙型《おつがた》スウィッチは全部数を揃えて出せという命令なんで。どうも已《や》むを得ず、ソノ……」 「文句はいいや。さア、早く持ってゆけ」  わし[#「わし」に傍点]は、抱《かか》えていた乙型スウィッチを、彼の前に、さしだした。  乙型スウィッチというのは、長さ一尺五寸、幅《はば》七寸の、細長い木箱《きばこ》に収められた大きなスウィッチで、硝子《ガラス》蓋を開くと、大理石《だいりせき》の底盤《ていばん》の上に幅の広い銅《どう》リボンでできた電気|断続用《だんぞくよう》の刃《は》がテカテカ光り、エボナイト製の、しっかりした把手《ハンドル》がついていた。このスウィッチ一つで、鳥渡《ちょっと》したモートルの開閉は充分できるのであった。 「栗原さん、俺が持ってゆくよ」  横の方から、思いがけない、違った声がして、頭髪《かみのけ》をモシャモシャにした若い男が、姿を現した。 「だッ、誰だ。手前《てめえ》は……」  わし[#「わし」に傍点]は、戸口の蔭から、イキナリ飛び出した男に、駭《おどろ》いた。 「こいつは、横瀬《よこせ》といいましてネ」若い男の代りに栗原が弁解した。「この栗原の遠縁《とおえん》のものです」 「何故ひっぱってきたんだ」 「いまお願いして、倉庫で、私の下を働かせて、いただいてるのです。というのは、下町《したまち》の薬種屋《やくしゅや》で働いていたのが、馘首《くび》になりましてナ、栗原のところへ、転《ころが》りこんできたのです」 「ふウん、お前さん、薬屋かア」  珍らしそうに、スウィッチの表や裏を、眺めている若い男に、わし[#「わし」に傍点]は、声をかけた。 「薬屋だったんです」その横瀬は、ぶっきら棒の返事をした。 「どうだろうな。わし[#「わし」に傍点]は、お前さんに、ちょっと頼みたいことがあるんだが」 「骨の折れねえことなら、手伝いますよ」 「これッ――」栗原が駭《おどろ》いて、横瀬の汚い職工服を、ひっぱった。 「骨は折れねえことだ。じゃ、栗原、お前の若い衆を、ちょいと借りたぜ」 「へえ、ようがす」  栗原は、若い横瀬から、スウィッチの箱をうけとると一人で帰って行ったのだった。 「さあ、こっちへ、入んねえ」 「はあ――」 「わし[#「わし」に傍点]は、鳥渡《ちょっと》、お前さんに、見て貰いてえものがあるんだ」 「俺に、判るかなァ」 「もの[#「もの」に傍点]は、これなんだ」わし[#「わし」に傍点]は、机の抽斗《ひきだ》しの奥から、新聞紙にくるんだものを、出してきた。 「この硝子《ガラス》で出来たものはなんだね」わし[#「わし」に傍点]は、それを横瀬に手渡した。 「これは、注射器の一部分ですよ」 「注射器? そうだろうな、わし[#「わし」に傍点]も、そう思った。それで、何の注射器か、お前さんに判らないかい」 「さァ――」横瀬は、モシャモシャ頭髪《かみのけ》を、指でゴシゴシ掻《か》いた。「注射器は判るが、尖端《さき》についている針が無いから、見当《けんとう》がつかねえ」 「じゃ、此処《ここ》んとこを見て呉れ。この注射器の底に、ほんのり茶っぽいものが附いているが、これは、なんて薬かい」 「うん、なんか附いてはいるが――」若い男は注射器を、明り窓の方に透《す》かして、その茶色の汚点《おてん》に眺め入った。「電灯は点《つ》きませんか」 「生憎《あいにく》、この合宿じゃ、六時にならないと、点かないんだ。まだ三十分も間があるよ」  初夏《しょか》の夕方は、五時半を廻っても、まだ大分明るかった。 「さあ、わかりませんね。こんなに分量が少くちゃ見当がつかない。薬品のようでもあり、血痕《けっこん》のようでもあり……」  わし[#「わし」に傍点]は、グッと唾《つば》を呑みこんだ。 「もう一つ、見て貰いたいものがある」わし[#「わし」に傍点]は、新聞紙包みの中から、もう一つの品物をとりだした。「これは何かね」 「こんなもの、どっから持って来たんです」横瀬は、ピカピカ光る、その外科道具のようなものを手に取上げ、ニヤニヤ笑いだした。 「何に使う品物かね」わし[#「わし」に傍点]は、横瀬の質問には答えようとせず、同じことを、聞きかえしたのだった。 「一口に云えば――」と、わし[#「わし」に傍点]の顔をジロリと見て、「子宮鏡《しきゅうきょう》という、産婦人科の道具だね」 「よし、判った」わし[#「わし」に傍点]は、ピカピカするそれを、横瀬の手から、ひったくるようにして、元の新聞紙の中に、包んでしまった。 「いや、御苦労だった」と、わし[#「わし」に傍点]は挨拶《あいさつ》をした。「ところで、もう一つだけ、お前さんに見て貰いたいものがあるんだが」 「あるんなら、早く出しなせえ」  横瀬は、面倒くさそうに、云った。 「ここには、無いんだ。ちょっと、近所まで附合ってくれ」 「ようがす。ドッコイショ」  横瀬は、「ひびき」を一本、衣嚢《ポケット》から出して口に銜《くわ》えると、火も点けないで、室内をジロジロと、眺めまわした。 「何を見てるんだ」わし[#「わし」に傍点]は、訊《き》いた。 「マッチは無いのかね」と彼は云った。      3  合宿の門を出ると、溝《どぶ》くさい露路《ろじ》に、夕方の、気ぜわしい人の往来《ゆきき》があった。初夏とは云っても、遅《おく》れた梅雨《つゆ》の、湿《しめ》りがトップリ、長坂塀《ながいたべい》に浸《し》みこんで、そこを毎日通っている工場街の人々の心を、いよいよ重くして行った。  道では、逢う誰彼《だれかれ》が、挨拶をして行った。  向うから、見覚えのある若い女が、小さい風呂敷包みを抱《かか》えてやってきた。 「お前さん」と其の女は、わし[#「わし」に傍点]の連れを、チラリと睨《にら》みながら、云った。「これから、何処へゆくんだい」 「お前こそ、どこへ行くんだい」 「ふン、見れば判るじゃないか。今夜は、徹夜作業があるんだよ」 「夜業か。まァしっかり、やんねえ」 「お前さんの方は、どこへ行くのさァ」その女は、一歩近よって、云った。 「ちょいと、この仁《じん》と、用達《ようた》しに」 「そうかい、あのネ」女は、口を、わし[#「わし」に傍点]の耳に近づけて、連れに聞かせたくない言葉を囁《ささや》いた。 「……」わし[#「わし」に傍点]は、黙って、肯《うなず》いた。  女に別れると、後から、附いてくる横瀬がわし[#「わし」に傍点]に声をかけた。 「今の若いひと[#「ひと」に傍点]は、なかなか、美《い》い女ですネ」 「そうかね」 「何て名前です」 「おせい」 「大将の、なにに当るんです」 「馬鹿!」  露路を二三度、曲った末に、わし[#「わし」に傍点]達は、目的の家の前へ来たのだった。  わし[#「わし」に傍点]は、雨戸を引かれた、表の格子窓《こうしまど》に近づいて、家の内部の様子を窺《うかが》った。幸《さいわ》いこのところは、露路裏の、そのまた裏になっている袋小路《ふくろこうじ》のこととて、人通りも無く、この怪《あや》しげな振舞《ふるまい》も、人に咎《とが》められることがなかった。とにかく、家は留守と見えて、なんの物音もしなかった。わし[#「わし」に傍点]は、連《つ》れを促《うなが》して、裏手に廻った。  勝手元の引戸《ひきど》に、家の割には、たいへん頑丈《がんじょう》で大きい錠前《じょうまえ》が、懸《かか》っていた。わし[#「わし」に傍点]は、懐中《ふところ》を探って、一つの鍵をとり出すと、鍵孔《かぎあな》にさしこんで、ぐッとねじった。錠前は、カチャリと、もの高い音をたてて、外れたのだった。  わし[#「わし」に傍点]は、後を見て、横瀬に、家の中へ入るように、目くばせをした。  障子《しょうじ》と襖《ふすま》とを、一つ一つ開けて行ったが、果して、誰も居なかった。若い女の体臭《たいしゅう》が、プーンと漂《ただよ》っていた。壁にかけてあるセルの単衣《ひとえ》に、合わせてある桃色の襦袢《じゅばん》の襟《えり》が、重苦しく艶《なま》めいて見えた。 「いいのかね。こう上りこんでいても」  横瀬は、さすがに、気が引けているらしかった。 「叱《し》ッ――」わし[#「わし」に傍点]は、睨《にら》みつけた。  わし[#「わし」に傍点]は、逡巡《しゅんじゅん》するところなく、押入をあけた。上の段に入っている蒲団《ふとん》を、静かに下ろすと、その段の上に登った。そして、一番端の天井の板を、ソッと横に滑らせた。そこには、幅一尺ほどの、長方形の、真暗な窖《あなぐら》がポッカリ明いた。そこでわし[#「わし」に傍点]は、両手を差入れて、天井裏を探《さ》ぐったが、思うものは、直ぐ手先に触れた。手文庫《てぶんこ》らしい古ぼけた函《はこ》を一つ抱《かか》え下ろしてきたときには、横瀬は呆気《あっけ》にとられたような顔をしていた。  わし[#「わし」に傍点]は、急製の薄っぺらな鍵を、紙入の中から取出すと、その手文庫を、何なく開くことに、成功したのだった。その中には、貯金帳や、戸籍謄本《こせきとうほん》らしいものや、黴《かび》の生えた写真や、其他《そのた》二三冊の絵本などが入っていたが、わし[#「わし」に傍点]が横瀬の前へ取出したものは、手文庫の一隅《いちぐう》に立ててあった二〇㏄入《いり》の硝子壜《ガラスびん》だった。それには、底の方に、三分の一ばかりの黒い液体が残っていた。 「さァ、こいつだ」わし[#「わし」に傍点]はソッと壜を横瀬に渡した。「最後に、お前さんから、教えて貰いたいのは」 「そうだね、これは――」横瀬は、十|燭《しょく》の電灯の光の下に、小さい薬壜を、ふってみながら、いつまでも、後を云わなかった。 「判らねえのかい」 「うんにゃ、判らねえことも、ねえけれど」 「じゃ、何て薬だい」 「そいつは、云うのを憚《はばか》る――」 「教えねえというのだな」 「仕方が無い。これァ薬屋仲間で、御法度《ごはっと》の薬品なんだ」 「御法度であろうと無かろうと、わし[#「わし」に傍点]は、訊《き》かにゃ、唯《ただ》では置かねえ」 「脅かしっこなしにしましょうぜ、組長さん。そんなら云うが、この薬の働きはねえ、人間の柔い皮膚を浸蝕《しんしょく》する力がある」 「そうか、柔い皮膚を、抉《えぐ》りとるのだな」 「それ以上は、言えねえ」 「ンじゃ、先刻みせた注射器の底に残っていた茶色の附着物《ふちゃくぶつ》は、この薬じゃなかったかい」 「さァ、どうかね。これは元々茶褐色の液体なんだ。ほら、振ってみると、硝子のところに、茶っぽい色が見えるだろう」 「それとも、やっぱりあれは、血のあとか。いや大きに、御苦労だった。こいつは、少ないが、当座《とうざ》のお礼だ」  そう云って、わし[#「わし」に傍点]は、十円|紙幣《さつ》を、横瀬の手に握らせ、今日のことは、堅く口止《くちど》めだということを、云いきかせたのだった。      4  いよいよ、夜は更《ふ》けわたった。  月のない、真暗な夜だった。風も無い、死んだように寂《さび》しい真夜中《まよなか》だった。  かねて手筈《てはず》のとおり、工場の門衛番所に、柱時計が十二の濁音《だくおん》を、ボーン、ボーンと鳴り終るころ、組下《くみした》の若者が、十名あまり、集ってきた。わし[#「わし」に傍点]は、一と通りの探険注意を与えると、一行の先頭に立ち、静かに、構内《こうない》を、第九工場に向って、行進を始めたのだった。地上を匍《は》うレールの上には、既に、冷い夜露《よつゆ》が、しっとりと、下りていた。 「電纜工場《ケーブルこうば》は、夜業をやってるぜ」 「満洲へ至急に納めるので、忙しいのじゃ」  誰かの声に、そっちを見ると、電纜工場だけが、睡り男の心臓のように、生きていた。高い、真黒な大屋根の上へ、鉛《なまり》を鎔《と》かす炉《ろ》の熱火《ねっか》が、赫々《あかあか》と反射していた。赤ともつかず、黄ともつかぬ其《そ》の凄《すさ》まじい色彩は、湯のように沸《たぎ》っている熔融炉《ようゆうろ》の、高温度を、警告しているかのようであった。 「組長さん」組下の源太が云った。「おせいさんは、もう身体は、いいのですかい」  おせいは、実は、わし[#「わし」に傍点]の妾《めかけ》だった、だが、世の中の妾とは違って、昼間は、この工場で働かせ、わし[#「わし」に傍点]の顔で、|電纜の紙捲《ケーブルペーパーま》きという軽い仕事をやらせ、日給は、女性として最高に近いものを、会社から払わせてあった。夜になると、身粧《みつくろ》いをして、合宿から抜け出してくるわし[#「わし」に傍点]を迎えて、普通の妾となった。 「うん、もういいようだ。今夜も、あの電纜工場《ケーブル》で、稼《かせ》いでいる位だァ」 「うふ。組長は、万事《ばんじ》ぬかりが、ねえな」 「なんだとォ――」わし[#「わし」に傍点]は、ピリピリする神経を、やっとのことで抑《おさ》えつけた。「ちょっと電纜工場《ケーブル》へ寄ってくるから、五分間ほど、ここで待っていて呉《く》れ」  わし[#「わし」に傍点]は、間もなく出てきた。  電纜工場を通りすぎると、その先は、文字どおりに、無人郷であった。  漆黒《しっこく》の夜空の下に、巨大な建物が、黙々《もくもく》として、立ち並んでいた。饐《す》えくさい錆鉄《さびてつ》の匂いが、プーンと鼻を刺戟した。いつとはなしに、一行は、ぴったりと寄り添い、足音を忍ばせて歩いていた。 「うわッ!」  建物の軒下を伝い歩いていた男が、悲鳴をあげた。皆は、ギョッと、立ち停った。 「な、な、なんだッ」 「工場に、蟇《がま》がえるが出るなんて、知らなかったもんで……」  きまりわるそうな、低い声だった、 「ドーン」  二三間先の、鉄扉《てっぴ》が、鈍い音を立てて鳴った。 「ウウ、出たッ!」 「や、喧《やかま》しいやい!」  わし[#「わし」に傍点]は呶鳴《どな》った。蟇がえるを蹴飛ばした先生は、黙っていた。  ひイ、ふウ、みッつ!  やっと、第九工場の、入口が見える。  ぼッと、丸い懐中電灯の光の輪がぶっつかった。  錠前には、異常がない。門衛から借りてきた鍵で、それを外《はず》させた。ガチャリと、錠の開いたのが、骨の崩れる音のようだった。 「さァ皆、懐中電灯を消すんだ」わし[#「わし」に傍点]は扉《と》の前に突立って云った。「静かに、中へもぐりこんだら、たとえ、どんな吃驚《びっくり》するようなことが起ろうと、声を立てちゃ、ならねえ。よしかッ。懐中電灯も、わし[#「わし」に傍点]が命令するまでは、どんなことがあっても、点《つ》けるなよッ。折角《せっかく》の化物を、遁《に》がしちまうからな。いいかッ」  一同は、それぞれ、肯《うなず》いた。  重い鉄扉を、細目にあけて、ブルブル慄《ふる》えている組下連中を、一人一人、押込んだ。最後にわし[#「わし」に傍点]が入って、扉をソッと閉めた。  工場《こうば》の中は、油の匂いが、プンプンしていた。そして、鼻をつままれても判らぬほど、絶対暗黒《ぜったいあんこく》であった。何かしら、闇の中から、大きな手が出てきて、喉首《のどくび》をグッと締めつけられるような気味の悪い圧力を感じたのだった。  誰もが、黙っていた。番号をかけるわけにもゆかない。わし[#「わし」に傍点]は、戸口のところから、手さぐりに、一人、二人と、人間の身体を数《かぞ》えて行った。彼等は、わし[#「わし」に傍点]の手が触《さわ》る度《たび》に、非常に驚愕《きょうがく》している様子であった。そして、申し合わせたように、隣り同士がピタリと身体を寄せ、手を繋《つな》ぎ合わせていた。 「十三人!」たしかに、全員が、入口に近い壁際《かべぎわ》に、鮃《ひらめ》のように、ピッタリ、附着しているのであった。  それから、時《タイム》が軸の上を、静かに移ってゆくのが、誰にもハッキリと感ぜられた。時の経つのに随《したが》って、一秒また一秒と、恐怖の水準線《すいじゅんせん》が、グイグイと昇ってくるのだった。  二分、三分、四分、五分――  夢中で、隣りの男の手を、握りしめた。冷い汗が、腋《わき》の下に滲《にじ》み出して、軈《やが》てタラリと肋骨《あばらぼね》を、駆け下りた。 「キィーッ」  一同は、はッと、呼吸《いき》をつめた。 「キィーッ、キィーッ」  呀《あ》ッ、いよいよ、泣きだしたのだ。彼等はそれを鼓膜《こまく》の底に聴いた瞬間、板のように全身を硬直させた。 「キィーッ、キィーッ、ぐうッ、ぐうッ」  彼等は、見えない眼を閉じた。 「キ、キ、キ、キ、キィーッ」  もう堪《たま》りかねたものか、一行のうちから、サッと、懐中電灯の光芒《こうぼう》が、射るように、高い天井を照した。 「がーッ、がーッ……」  一同は、その怪音のする方を、等《ひと》しく見上げた。 「呀《あ》ッ!」 「ク、クレーンが……」  懐中電灯の薄ら明りに、はじめて照し出された怪物は何であったろうか。それはあの巨大な鉄骨で組立てられたクレーンが、物凄《ものすさま》じい響きをあげて、呀ッという間に、全速力で一同の頭上を通り過ぎたのであった。 「ひえーッ」  というなり、彼等は、折角《せっかく》手にした懐中電灯も其場《そのば》に抛《ほう》り出して、云いあわせたように、ペタペタと、地上に尻餅をついてしまった。 「電灯を、点けろッ」  わし[#「わし」に傍点]は、クレーンがまだ動いている裡《うち》だったが、決心をして、号令をかけた。そして真先に、懐中電灯を照して、一同の方へ向けた。彼等の顔は、いずれも、泣かんばかりの表情をして見えた。 「しっかりしろ、探険は、これからだッ」  わし[#「わし」に傍点]は、一同を激励《げきれい》した。  皆の懐中電灯が、揃って点くと、大分《だいぶ》場内《じょうない》が明るくなって、元気がついたようだった。 「クレーンを動かすスウィッチが、入っているかどうかを調べるんだ。オイ、政《まさ》はいるかッ」わし[#「わし」に傍点]は、クレーン係の、若い男を呼んだ。 「へええ」と政は、死人のような顔を、こっちへ向けた。「どうか、その役割は、勘弁しとくんなさい」そう云って、彼は、手を合わせて、こっちを拝《おが》んだ。 「莫迦《ばか》いうな」わし[#「わし」に傍点]は叱りつけた。「手前《てめえ》が、調べねえじゃ、係りで無えコチトラには訳が判らねえじゃねえか」  尻込みする政を、両脇《りょうわき》から引立てて、捜査に取懸った。 「このスウィッチは、開いている」一同が入った入口の側の壁上で、その入口から六、七間奥まったところに大きいスウィッチが取附けられてあった。その硝子蓋《ガラスぶた》の上から指《ゆびさ》しながら、クレーン係の政が呻《うな》った。「このスウィッチが、開いているなら、クレーンの上へ、電気が行きっこ無いんです」 「だが可怪《おか》しいぞ」とわし[#「わし」に傍点]は云った。「クレーンは確かに動いたんだ。クレーンはモートルでしか動けないんだ。このスウィッチが開いていて動く筈はない。開いているようでも何処か、電気が通うようになってるんじゃないか。よく中を開けて調べて見ろ」  カチャカチャと音をさせて、スウィッチの硝子蓋を開いてみたが、それは普通のスウィッチが、明らかに開かれた状態になっていて、外にインチキな接続は発見せられなかった。 「たしかに、このスウィッチは開いています」政は泣き声で云った。 「よし、では念のために、クレーンの上へ昇ってみよう」わし[#「わし」に傍点]は云った。 「なに、クレーンへ昇る――」  一同は、互《たがい》に顔を見合わせて、恐怖の色を濃《こ》くした。 「政、昇れ!」 「いやァ、救《たす》けて下さい」政は、ポロポロ泪《なみだ》を出して、喚《わめ》くのであった。 「じゃ、わし[#「わし」に傍点]が先登《せんとう》に昇るから、直ぐうしろから、ついて来い。いいかッ」  わし[#「わし」に傍点]はそういうなり、壁際へ進んで、クレーンに攀《よ》じ昇《のぼ》る冷い鉄梯子《タラップ》へ、手をかけた。      5 「矢張り、クレーンのスウィッチも、開いています」  三人の男にさんざん世話をやかせ、漸《ようや》くわし[#「わし」に傍点]のあとから、クレーンの上まで担《かつ》ぎあげられた政は、モートルの横の、配電盤をひと目見ると、恐《おそ》ろしそうに、そう云った。 「そうか。確《たしか》に、それと間違《まちが》いが無けりゃ、降りることにしよう」  わし[#「わし」に傍点]達は、また困難な鉄梯子《タラップ》を、永い時間かかって、一段一段と、下りて行った。  下まで降りきらない裡《うち》から、残っていた連中は、クレーンの上のスウィッチが開いていたか、どうかについて、尋《たず》ねるのであった。 「政に見て貰《もら》ったがな」わし[#「わし」に傍点]は一同の顔を、ずッと見廻《みまわ》した。 「クレーンのスウィッチも開いていたよ」 「それじゃ、いよいよあのクレーンは……」そこまで云った職工の一人は、自ら恐《おそ》ろしくなって、言葉を切ってしまった。 「……電気の力で動いたのでは無い、ということになる」とわし[#「わし」に傍点]は、代りに、云った。 「誰が、動かしたんだッ」 「上って、四方《しほう》に気をつけて見たが、隠れてる人間も居なかった。なァ、源太《げんた》、友三《ともぞう》、雲的《うんてき》」 「そうだ、そうだ」 「もっとも、人間一人で動くようなクレーンじゃない」 「ああ、すると誰が動かしたんだ」 「組長さん。もう我慢が出来なくなった。どうか、ここから出して下せえ」 「俺も、出るッ」 「いや、出ることならぬ」わし[#「わし」に傍点]は呶鳴《どな》った。「クレーンを動かした者が、判らぬ限り」 「組長さん、そりゃ無理だよ」源太が泣き声を出した。「ありゃ、生きてる人間のせいじゃないんだ」 「なんだとォ――」 「あのクレーンには、何か怨霊《おんりょう》が憑《つ》いていて、そいつがクレーンの上で、泣いたり、クレーンを動かしたりするんだ」 「ああッ――」  それを聞くと、誰もが、痛いところへ触《さわ》られたように、跳《と》び上って駭《おどろ》いた。 「おお、組長」雲的《うんてき》が云った。「誰かが、外で喚いているようですぜ」 「なに、外で喚いているッ」わし[#「わし」に傍点]は、予期しないことに吃驚《びっくり》して云った。なるほど、多勢の声で、何やら喚いているのが、遥《はる》かに聞こえるのであった。「じゃ、みんな、外へ出よう」  一同は、ワッといって、入口の扉《と》の方へ、先を争って駆けだした。ガラガラと、重い鉄扉《てっぴ》が、遠慮会釈《えんりょえしゃく》なく、引き開けられる物音がした。 「おう、組長、大変だア」疳高《かんだか》い声で叫ぶものがある。  わし[#「わし」に傍点]は、ギクリとした。 「組長」わし[#「わし」に傍点]の胸倉《むなぐら》に縋《すが》りついたのは、電纜工場《ケーブルこうじょう》の伍長《ごちょう》をしている男だった。「おせいさんが、大変だッ」 「なに、おせいが、一体どうしたというんだ」 「おせいさんが――」伍長は、苦しそうに言い澱《よど》んだ。「おせいさんが、熔融炉《キューポラ》へ、真逆《まっさかさま》に、飛びこんでしまった」 「熔融炉へ、飛びこんだ、というのかッ」  わし[#「わし」に傍点]は、それを聞くなり、おせいの働いていた電纜工場めがけて、矢のように駆け出した。  わし[#「わし」に傍点]のあとには、組下のものや、惨事《さんじ》を報《しら》せに来た連中が、バタバタと追いついて来るのであった。  電纜工場の入口を一歩入ると、凄惨《せいさん》極《きわ》まりなき事件の、息詰まるような雰囲気《ふんいき》が、感ぜられるのだった。皎々《こうこう》たる水銀灯の光の下で仕事をする人々は、技師といわず、職工といわず、場内の一隅《いちぐう》に据えられた、高さ五十尺の太い熔融炉《キューポラ》の周囲《まわり》を取巻いて、一斉に上を見上げていた。熔融炉の側には、松の樹を仆《たお》したような大電纜《だいケーブル》が、長々と横《よこ》わっていたが、これは忘れられたように誰一人ついているものは無かった。 「駄目だァ、何にも見《め》えねえ」 「着物の端も、残っていねえよ」  そんなことを叫びながら、熔融炉の頂上に昇っていたらしい男工《だんこう》達が、悲痛な面持をして降りて来た。白い手術着を着て駈けつけた医務部《いむぶ》の連中も、形のない怪我人《けがにん》に対して、策の施《ほどこ》しようも無く、皆と一緒に、まごまごしているだけだった。 「どうも、お気の毒でしたが」工場長が、わし[#「わし」に傍点]の傍へ近づくと、興奮した語調で云った。「気がついたときは、おせいさんが、もう熔融炉《キューポラ》の、殆んど頂上まで、昇っていたんです。でも、それと気がついて、(停めろ、下りろ)と、下から叫びましたが、何も聞えない風で、アレヨ、アレヨと云っているうちに、火焔《かえん》の中へ飛びこまれたようなわけで……」  わし[#「わし」に傍点]は、云うべき言葉もなかった。 「おせいさんは、覚悟の自殺を、やったらしいですよ。どうした訳か判りませんが」この工場の組長が、続いて口を挟《はさ》んだ。  そこへ、ドヤドヤと皆《みんな》を掻《か》きわけて、前へ、飛び出した者があった。 「ああ、死んじまった。おせいさん、俺を残して、何故死んでしまったのだ」  気が変になったように喚いているのは、クレーン係の政だった。 「オイ、政。どこへ行くんだ」政に追い縋《すが》っているのは、雲的《うんてき》や源太だった。 「おお、おせいちゃん。おれも、直ぐ行くよォ――」 「おい、待てと云ったら」  政は、恐ろしい力を出して、源太を投げとばすと、呀《あ》ッという間に、熔融炉《キューポラ》の梯子の上へ、ヒラリと飛び上った。  工場の人々は、まだ生々《なまなま》しい惨事のあとに続いて、どんなことが起ろうとしているかを、早くも悟《さと》って、戦慄《せんりつ》の悲鳴をあげた。 「早く、あの男を捉《つかま》えろ!」 「引ずり下ろせ、あいつは死ぬつもりだぞ!」 「誰か、助けてえ――」  わし[#「わし」に傍点]は、身体を動かした。邪魔になる人を押しのけて、熔融炉《キューポラ》の梯子の下まで来たときに、一足早く、雲的の奴が、梯子《はしご》に手をかけていた。 「うぬッ」  わし[#「わし」に傍点]は、雲的を、つきとばした。 「わし[#「わし」に傍点]が助ける」  鉄梯子に掴《つかま》って、上を見ると、政は、気息奄々《きそくえんえん》たる形であるが、早くも半分ばかりの高さまで登っていた。わし[#「わし」に傍点]は、ウン[#「ウン」に傍点]と、腰骨に力を入れると、トントンと、手拍子と足拍子と合わせて、梯子をスルスルと攀《のぼ》っていった。見る見る政とわし[#「わし」に傍点]との距離は、短縮されて行った。もう一息で、政の身体に手が届くというところで、わし[#「わし」に傍点]はツルリと、左足を滑らせた。ワッという溜息《ためいき》が、下の方から、聞えてきた。もう余すところは、五六尺しかない。ワンワン、ガヤガヤと、焦燥《もどかし》そうな群衆の声が聞える。わし[#「わし」に傍点]は、速力《スピード》をグッと速めた。  気が気じゃなく、上を見ると、政はすでに熔融炉《キューポラ》の縁《ふち》から上へ、上半身を出している。機会《チャンス》は、今を措《お》いて、絶対に無い。しかしわし[#「わし」に傍点]の手は、まだ三尺下にしか届かない。  ワンワン、ガヤガヤの声も、耳に入らなくなった。  政は身体を、くの字なりに、ぐっと曲げていよいよ飛びこむ用意をした。 「やッ!」  懸声諸共《かけごえもろとも》、わし[#「わし」に傍点]は、身体を宙に浮かせて、左手《ゆんで》をウンと、さしのべると、ここぞと思う空間を、グッと掴んだ。――  手応えはあった。  工場の屋根が、吹きとぶほど大きな歓声が、ドッと下の方から湧きあがった。  だが、こっちは、右手一本で、熔融炉の鉄梯子を握りしめ、全身を宙に跳ねあげたもんだから、左手《ゆんで》に政の足首を握った儘《まま》、どどッと、下へ墜《お》ちていった。右手を放しては、こっちが、たまらない。ガンと、横腹《よこばら》を、鉄梯子《てつばしご》に打ちつけたがそのとき、幸運にも右脚が、ヒョイと梯子に引懸った。 (しめたッ)  と思った瞬間、頭の上からバッサリ、熱くて重いものが、わし[#「わし」に傍点]を、突き墜《おと》すように、落ちてきた。そして、呀《あ》ッという間に、ヌラヌラと、顔や腕を撫でて、下へ墜落していった。それは、政の身体だった。辛うじてわし[#「わし」に傍点]が掴んだ政の身体だった。(これを離しては……)と私は懸命に怺《こら》えたが、その恐ろしい重力に勝つことが出来ず、遂《つい》にツルリと、わし[#「わし」に傍点]の指の間から脱けて、あいつ[#「あいつ」に傍点]の身体は、ヒラヒラと風呂敷のように、コンクリートの床を目懸けて、落ちていった。いや、全《まった》く、政の身体は風呂敷のように、舞いながら、墜ちて行ったのだった。わし[#「わし」に傍点]は、どうしたものか、急に笑いたくなって、クッ、クッ、ウフウフと、鉄梯子に、しがみついた儘《まま》、暫くは、動くことが出来ない程だった。      6 「これは横瀬さん。珍らしいね。さァ、こっちへ入ったり、入ったり」  わし[#「わし」に傍点]は、珍客の来訪にあって、だだっ広い、合宿の舎監《しゃかん》居間の一室へ招《しょう》じ入れた。 「今日は、何の御用かな」わし[#「わし」に傍点]は尋《たず》ねた。 「実は一つ聴いていただきたいことがあるのでして……」横瀬は、例のモジャモジャ頭髪《かみ》に五本の指を突込むと、ゴシゴシと掻《か》いた。 「どんな話かしらぬが、言ってごらんなせえな」わし[#「わし」に傍点]はチラリと、置時計の方を見たが、もう午後十時に近かった。 「じゃ、聴いて貰いますか」そう云って横瀬は、莨《たばこ》を一本、口に銜《くわ》えた。「これは、俺《おれ》の知っている、或る男の、素晴らしい計画なんだ。ねえ、その男は、自分の情婦《おんな》を、若い男に失敬されちまったんだ。いや、おまけに、情婦というのが、若い男の胤《たね》を宿しちまった。いいですか。これが普通の場合だったら、旦那どの胤だと、胡魔化《ごまか》せるんだが、生憎《あいにく》と、その旦那どのというのは、女に子を産ませる力がないことが医学的に判っているのだ。それで、胎《はら》の子を、胡魔化しようもないので、若い二人は秘《ひそ》かに会って泣きながら相談した。いい智恵も見付からぬ裡《うち》に、女の身体はだんだんと隠せない程、変ってくる。とうとう仕方なしに、胎の子には罪なことだが、堕胎《だたい》をすることに決心をした。若い男は、堕胎道具と、薬品を、さるところで手に入れて、女を呼びだした。二人は非常に人目を忍ぶ事情にあるというのが、これが鳥渡《ちょっと》でも、旦那どのの耳に入れば、二人とも殺されてしまうに、きまってる。そこで誰にも知られぬ秘密の逢《あ》い場所というのが必要だったが、それは、たった一つあった。どこだと云うと、若い男の勤《つと》めている工場の、クレーンの上だった。若い男は、クレーンの運転手なんだ。工場が引けてしまうと、あの広い内部が、がらん胴《どう》だ。幸い女も、工場の案内を知っていた。というのが、その女も工場に働いていたのだ。女は恋しい男に逢いたいばっかりに、真暗《まっくら》な工場に忍び入り、非常に高い鉄|梯子《ばしご》を女の力で昇ったり、降りたりしたのだ。さて堕胎手術も、勿論《もちろん》その高いクレーンの上で、やることになった。若い男は教わって来たとおり、道具を女の身体に、挿《さ》し入れて、或る薬液を注入した。それは或る時間の後になって、成功したことが始めて判った。しかし女は、暫くの間、工場を休み、病臥《びょうが》しなければならなかった。だが折角《せっかく》の二人の苦心も水の泡だった。というのが、旦那どのが、女の様子から、疑惑を生じたためだった。その男は非常に嫉妬《しっと》深い奴《やつ》だったが、人一倍、利口な男なので、それと色には出さず、さまざまの苦心をして、情婦《おんな》をめぐる疑雲《ぎうん》について、発見につとめた。鬼神《きじん》のような其《そ》の男は、なにもかも知ってしまった。二人の身辺《しんぺん》から、歴然たる証拠も掴《つか》んだのだった。それより、ずっと前、旦那どのは、大体の輪廓《りんかく》を知ったので、憎むべき二人に対して、どんな復讐《ふくしゅう》をしようかと、画策《かくさく》した。その結果、考え出したのは、世にも恐ろしい二人の自滅《じめつ》計画だった。彼は、二人が堕胎を計った第九工場というのに、(夜泣《よな》き鉄骨《てっこつ》)という怪談を植《う》えつけた。その実、彼がコッソリ、夜中になると、工場へ忍びこみ、自分で、クレーンをキィキィ云わせたのだ。最後に、彼自身が、化物探険隊の先登《せんとう》に立って、真偽《しんぎ》を確《たしか》めたが、上と下とのスウィッチが、どっちも開《あ》いているのに、クレーンが、轟々《ごうごう》と動いたというので、これはいよいよ、怨霊《おんりょう》の仕業《しわざ》ということに極《き》まった。その実、その旦那先生が、先に立って、一々スウィッチを外《はず》して置いたのだ。怨霊の仕業ということになると、一番|戦慄《せんりつ》を感じたのは、若い男と、例の女だ。二人とも大いに思い当るところがある。というのは、自分達が手を下して闇から闇へ送ってしまった胎児《たいじ》の怨霊のせいに違いないと思いこんでしまう。さァ、こうなると、旦那どのの計画は、いよいよ思う壺《つぼ》に嵌《はま》っていったというわけだ。探険の結果、これは怨霊の外《ほか》に、理由がつかないと決定した夜のこと、旦那どのは、夜業《やぎょう》をしている情婦《おんな》のところへ行って、遂に引導《いんどう》の言葉を渡してきた。それは、のっぴきならぬ証拠を手に入れたので、明日になったら、警察へ告発するぞと脅《おど》したのだ。情婦は、思い余《あま》って、自殺の意を決し、自分の働いている工場の熔融炉《キューポラ》に飛びこんで、ドロドロに熔《と》けた鉛《なまり》の湯の中に跡方《あとかた》もなく死んでしまった。こんどは、若い男の番だった。旦那どのは、探険隊の中に、その男を入れることを忘れなかった。若い男を、ジリジリと苦しめてゆくのが、たまらなく快感を唆《そそ》ったのだった。若い男は、クレーンが独《ひと》りで動き出す大恐怖《だいきょうふ》の前に、永い間、ひき据《す》えられていた。更《さら》に、戦慄《せんりつ》を禁《きん》じ得《え》ないクレーンの上へ、引張り上げられたり、又降ろされたりした。そこへ、突如として、女の自殺を聞いた。それには旦那どのも遽《あわ》てた位だ。若い男は、女の飛込んだ熔融炉目懸けて、駈け出して行った。彼も女の跡を追って、この炉の中で死のうと決心した。そう思うと、彼は脱兎《だっと》のように熔融炉の鉄梯子を、かけ上ったのだ。友人の一人が助けようとして、後から上ろうとすると、そこへ旦那どのが、飛び出して、彼をつきとばした。そして、旦那どのは、恨《うら》み重なる男のあとにつづいて梯子を上って行ったのだ。これを見ていた人々は喝采《かっさい》した。それもそうだろう。いやたった一人を除いてはネ。そいつは、工場の隅《すみ》から、コッソリこの場の光景を眺めていた俺によく似た男さ、はッはッはッ。だが、その男にも、旦那どのの復讐が、どのように行われるのか、見当がつかなかった。ひょっとすると、旦那どのは、わざと梯子昇りの速力《スピード》を落として、(残念ながら、追いつけなくて、若い男を殺してしまった!)と云いわけするのかと思っていたが、見ていると、どうやら、そうではない。いや、それは、鬼のように恐ろしい計画だった。旦那どのの考えは若い男が一旦飛び込んで、熱鉛《ねつえん》のため赤《あか》爛れに爛《ただ》れたところで若い男の死骸をひっぱり出すことにあった。俺は旦那どのが、梯子の上で嬉しそうに笑っているのに感付いた唯一《ゆいいつ》の人間だったかも知れない。若い男は、彼の手を離れて、コンクリートの床の上に叩きつけられたが、二た眼と見られた態《ざま》じゃなかった。旦那どのは、別に咎《とが》められもしなかった」 「面白い話だなァ、若《わ》けえの」わし[#「わし」に傍点]は、静かに云った。「だが一つ腑《ふ》に落ちねえことがあるから尋ねるが、探険隊が工場の暗闇の中にいたとき、クレーンが轟々《ごうごう》と動いた。直ぐ灯《あかり》をつけたが、下のスウィッチは外《はず》れていた。いくら其の悪人が器用でも、電気なしで、あのクレーンは動かせないだろうぜ」 「そんなトリックに気がつかない俺ではないよ。その旦那どのは、クレーンを動かすスウィッチと、同じ型の、ソレ乙型《おつがた》スウィッチよ、あれを工場の栗原さんから借りて、暗闇で音をたてずスウィッチの開閉をすることを練習したんだ」 「出鱈目《でたらめ》を云うな」 「出鱈目ではない。では、証拠を出そうかね。その旦那どのは、工場の入口と、スウィッチまでの距離と、その取付けの高さとを正確に測って来て、この舎監居間の前の廊下に、それと同じ遠近《えんきん》に、借りて来たスウィッチをひっかけ、真夜中になると、暗闇の中で、練習をしたのだ。嘘と思うなら、舎監居間の戸口から六間先き、廊下から六尺の高さのところに、二本の釘跡《くぎあと》があるが、その寸法と、工場のスウィッチの位置とを較べて見ねえ。ぴったりと同じことだ。それから二本の釘の距離は、その旦那どのが借りていたスウィッチの二つの孔《あな》の間隔《かんかく》と同じことだが、実はそのスウィッチは製作の際に間違えて、孔の間隔を広くしすぎたので、この廊下の釘の距離も、普通のスウィッチには見られない特別の間隔《かんかく》になっている筈《はず》だ。ここらも、宿命的《しゅくめいてき》な証拠といえば言えるだろう。ウン、ぎゃーッ」  わし[#「わし」に傍点]の手には、お喋《しゃべ》り探偵の脳天《のうてん》を叩き破ったハンマーが、血にまみれて、握られていた。それは、彼氏がお喋りに夢中になっている間に、卓子《テーブル》の蔭から、コッソリ取出したものだった。だが、此《こ》の男を殺してしまったお蔭で、隠忍《いんにん》十年、殺人癖《さつじんへき》から遠去かっていた此《こ》のわし[#「わし」に傍点]の身体には、久しく眠っていた悪血《あくけつ》が、一時に飢《う》えに目覚めて、湧《わ》きあがってきたようだ。わし[#「わし」に傍点]の名か? 「片眼の岩《いわ》」と云やァ、ちっとは人に知られた吾儘者《わがままもの》だなア。 底本:「海野十三全集 第2巻 俘囚」三一書房    1991(平成3)年2月28日第1版第1刷発行 初出:「新青年」    1932(昭和7)年8月号 ※底本の「c.c.」は「㏄」で入力しました。 ※「わし達の周《まわ》りには、」の「わし」にのみ、傍点がないのは底本通りです。 入力:tatsuki 校正:花田泰治郎 2005年5月26日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。