吉原新話 泉鏡花 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)階子段《はしごだん》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)お茶|聞《きこ》しめせ [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)睜《みひら》く -------------------------------------------------------        一  表二階の次の六畳、階子段《はしごだん》の上《あが》り口、余り高くない天井で、電燈《でんき》を捻《ひね》ってフッと消すと……居合わす十二三人が、皆影法師。  仲《なか》の町《ちょう》も水道尻《すいどうじり》に近い、蔦屋《つたや》という引手茶屋で。間も無く大引《おおび》けの鉄棒《かなぼう》が廻ろうという時分であった。  閏《うるう》のあった年で、旧暦の月が後《おく》れたせいか、陽気が不順か、梅雨の上りが長引いて、七月の末だというのに、畳も壁もじめじめする。  もっともこの日、雲は拭《ぬぐ》って、むらむらと切れたが、しかしほんとうに霽《あが》ったのでは無いらしい。どうやら底にまだ雨気《あまき》がありそうで、悪く蒸す……生干《なまび》の足袋に火熨斗《ひのし》を当てて穿《は》くようで、不気味に暑い中に冷《ひや》りとする。  気候はとにかく、八畳の表座敷へ、人数が十人の上であるから、縁の障子は通し四枚とも宵の内から明放したが、夜桜、仁和加《にわか》の時とは違う、分けて近頃のさびれ方。仲の町でもこの大一座は目に立つ処へ、浅間《あさま》、端近《はしぢか》、戸外《おもて》へ人立ちは、嬉しがらないのを知って、家《うち》の姉御《あねご》が気を着けて、簾《すだれ》という処を、幕にした。  廂《ひさし》へ張って、浅葱《あさぎ》に紺の熨斗《のし》進上、朱鷺色《ときいろ》鹿《か》の子のふくろ字で、うめという名が一絞《ひとしぼり》。紅《くれない》の括紐《くくりひも》、襷《たすき》か何ぞ、間に合わせに、ト風入れに掲げたのが、横に流れて、地《じ》が縮緬《ちりめん》の媚《なまめ》かしく、朧《おぼろ》に颯《さっ》と紅梅の友染を捌《さば》いたような。  この名は数年前、まだ少《わか》くって見番の札を引いたが、家《うち》の抱妓《かかえ》で人に知られた、梅次というのに、何か催《もよおし》のあった節、贔屓《ひいき》の贈った後幕《うしろまく》が、染返しの掻巻《かいまき》にもならないで、長持の底に残ったのを、間に合わせに用いたのである。  端唄《はうた》の題に出されたのも、十年近く以前であるから。見たばかりで、野路《のじ》の樹とも垣根の枝とも、誰も気の着いたものはなかったが、初め座の定まった処へ、お才という内の姉御が、お茶|聞《きこ》しめせ、と持って出て、梅干も候ぞ。 「いかがですか、甘露梅《かんろばい》。」  と、今めかしく註を入れたは、年紀《とし》の少《わか》い、学生も交《まじ》ったためで。 「お珍らしくもありませんが、もう古いんですよ、私のように。」  と笑いながら、 「民さん、」  と、当夜の幹事の附添いで居た、佐川|民弥《たみや》という、ある雑誌の記者を、ちょいと見て、 「あの妓《こ》なんか、手伝ったのがまだそのままなんです。召あがれ。」と済まして言う。  様子を知った二三人が、ふとこれで気が着いた。そして、言合わせたように民弥を見た。  もっとも、そうした年紀《とし》ではなし、今頃はもう左衛門で、女房の実の名も忘れているほどであるから、民弥は何の気も無さそうに、 「いや、御馳走《ごちそう》。」  時に敷居の外の、その長《なが》六畳の、成りたけ暗そうな壁の処へ、紅入友染《べにいりゆうぜん》の薄いお太鼓を押着《おッつ》けて、小さくなったが、顔の明《あかる》い、眉の判然《はっきり》した、ふっくり結綿《ゆいわた》に緋《ひ》の角絞《つのしぼ》りで、柄も中形も大きいが、お三輪といって今年が七《しち》、年よりはまだ仇気《あどけ》ない、このお才の娘分。吉野町《よしのちょう》辺の裁縫《おしごと》の師匠へ行《ゆ》くのが、今日は特別、平時《いつも》と違って、途中の金貸の軒に居る、馴染《なじみ》の鸚鵡《おうむ》の前へも立たず……黙って奥山の活動写真へも外《そ》れないで、早めに帰って来て、紫の包も解かずに、…… 「道理で雨が霽《あが》ったよ。」  嬉々《いそいそ》客設けの手伝いした、その――        二  お三輪がちょうど、そうやって晴がましそうに茶を注《つ》いでいた処。――甘露梅の今のを聞くと、はッとしたらしく、顔を据えたが、拗《す》ねたという身で土瓶をトン。 「才《さあ》ちゃん。」  と背後《うしろ》からお才を呼んで、前垂《まえだれ》の端はきりりとしながら、褄《つま》の媚《なま》めく白い素足で、畳触《たたみざわ》りを、ちと荒く、ふいと座を起《た》ったものである。  待遇《あいしらい》に二つ三つ、続けて話掛けていたお才が、唐突《だしぬけ》に腰を折られて、 「あいよ。」  で、軽く衣紋《えもん》を圧《おさ》え、痩《や》せた膝で振り返ると、娘はもう、肩のあたりまで、階子段《はしごだん》に白地の中形を沈めていた。 「ちょっと、」……と手繰って言ったと思うと、結綿《ゆいわた》がもう階下《した》へ。 「何だい。」とお才は、いけぞんざい。階子段の欄干《てすり》から俯向《うつむ》けに覗《のぞ》いたが、そこから目薬は注《さ》せなそうで、急いで降りた。 「何だねえ。」 「才ちゃんや。」  と段の下の六畳の、長火鉢の前に立ったまま、ぱっちりとした目許《めもと》と、可愛らしい口許で、引着けるようにして、 「何だじゃないわ。お気を着けなさいよ。梅次|姉《ねえ》さんの事なんか言って、兄さんが他《ほか》の方に極《きまり》が悪いわ。」 「ううん。」と色気の無い頷《うなず》き方。 「そうだっけ。まあ、可《い》いやね。」 「可《よ》かない事よ……私は困っちまう。」 「何だねえ、高慢な。」 「高慢じゃないわ。そして、先生と云うものよ。」 「誰をさ。」 「皆さんをさ、先生とか、あの、貴方《あなた》とか、そうじゃなくって。誰方《どなた》も身分のある方なのよ。」 「そうかねえ。」 「そうかじゃありませんよ。才ちゃんてば。……それをさ、民さんだの、お前《ま》はんだのって……私は聞いていてはらはらするわ、お気を注《つ》けなさいなね。」 「ああ、そうだね、」  と納得はしたものの、まだ何《なん》だか、不心服らしい顔色《かおつき》で、 「だって可《い》いやね、皆さんが、お化《ばけ》の御連中なんだから。」  習慣《ならわし》で調子が高い、ごく内《ない》の話のつもりが、処々、どころでない。半ば以上は二階へ届く。  一同くすくすと笑った。  民弥は苦笑したのである。  その時、梅次の名も聞えたので、いつの間にか、縁の幕の仮名の意味が、誰言うとなく自然《おのず》と通じて、投遣《なげや》りな投放《むすびばな》しに、中を結んだ、紅《べに》、浅葱《あさぎ》の細い色さえ、床の間の籠《かご》に投込んだ、白い常夏《とこなつ》の花とともに、ものは言わぬが談話《はなし》の席へ、仄《ほのか》な俤《おもかげ》に立っていた。  が、電燈《でんき》を消すと、たちまち鼠色の濃い雲が、ばっと落ちて、廂《ひさし》から欄干《てすり》を掛けて、引包《ひッつつ》んだようになった。  夜も更けたり、座の趣は変ったのである。  かねて、こうした時の心を得て、壁際に一台、幾年にも、ついぞ使った事はあるまい、艶《つや》の無い、くすぶった燭台《しょくだい》の用意はしてあったが、わざと消したくらいで、蝋燭《ろうそく》にも及ぶまい、と形《かた》だけも持出さず――所帯構わぬのが、衣紋竹《えもんだけ》の替りにして、夏羽織をふわりと掛けておいた人がある――そのままになっている。  灯《あかり》無しで、どす暗い壁に附着《くッつ》いた件《くだん》の形は、蝦蟆《がま》の口から吹出す靄《もや》が、むらむらとそこで蹲踞《うずくま》ったようで、居合わす人数の姿より、羽織の方が人らしい。そして、……どこを漏れて来る燈《ともしび》の加減やら、絽《ろ》の縞《しま》の袂《たもと》を透いて、蛍を一包《ひとつつみ》にしたほどの、薄ら蒼《あお》い、ぶよぶよとした取留《とりとめ》の無い影が透く。        三  大方はそれが、張出し幕の縫目を漏れて茫《ぼう》と座敷へ映るのであろう……と思う。欄干下《らんかんした》の廂《ひさし》と擦れ擦れな戸外《おもて》に、蒼白い瓦斯《がす》が一基《ひともと》、大門口《おおもんぐち》から仲の町にずらりと並んだ中の、一番末の街燈がある。  時々光を、幅広く迸《ほとば》しらして、濶《かッ》と明るくなると、燭台《しょくだい》に引掛《ひっか》けた羽織の袂が、すっと映る。そのかわり、じっと沈んで暗くなると、紺の縦縞が消々《きえぎえ》になる。  座中は目で探って、やっと一人の膝、誰かの胸、別のまた頬《ほお》のあたり、片袖《かたそで》などが、風で吹溜《ふきたま》ったように、断々《きれぎれ》に仄《ほのか》に見える。間を隔てたほどそれがかえって濃い、つい隣合ったのなどは、真暗《まっくら》でまるで姿が無い。  ふと鼠色の長い影が、幕を斜違《はすっか》いに飜々《ひらひら》と伝わったり……円さ六尺余りの大きな頭が、ぬいと、天井に被《かぶ》さりなどした。 「今、起《た》ちなすったのは魯智深《ろちしん》さんだね。」  と主《ぬし》は分らず声を懸ける。 「いや、私《わし》は胡坐《あぐら》掻《か》いています、どっしりとな。」  とわざと云う。……描ける花和尚《かおしょう》さながらの大入道、この人ばかりは太ッ腹の、あぶらぼてりで、宵からの大肌脱《おおはだぬぎ》。絶えずはたはたと鳴らす団扇《うちわ》[#「団扇」は底本では「団扉」]づかい、ぐいと、抱えて抜かないばかり、柱に、えいとこさで凭懸《よりかか》る、と畳半畳だぶだぶと腰の周囲《まわり》に隠れる形体《ぎょうてい》。けれども有名な琴の師匠で、芸は嬉しい。紺地の素袍《すおう》に、烏帽子《えぼし》を着けて、十三|絃《げん》に端然《ちゃん》と直ると、松の姿に霞《かすみ》が懸《かか》って、琴爪《ことづめ》の千鳥が啼《な》く。 「天井を御覧なさい、変なものが通ります。」 「厭《いや》ですね。」と優しい声。  当夜、二人ばかり婦人も見えた。  これは、百物語をしたのである。――  会をここで開いたのは、わざと引手茶屋を選んだ次第では無かった。 「ちっと変った処で、好事《ものずき》に過ぎると云う方もございましょう。何しろ片寄り過ぎますんで。しかし実は席を極《き》めるのに困りました。  何しろこの百物語……怪談の会に限って、半夜は中途で不可《いけ》ません。夜が更けるに従って……というのですから、御一味を下さる方も、かねて徹夜というお覚悟です。処で、宵から一晩の註文で、いや、随分方々へ当って見ました。  料理屋じゃ、のっけから対手《あいて》にならず、待合申すまでも無い、辞退。席貸をと思いましたが、やっぱり夜一夜《よっぴて》じゃ引退《ひきさが》るんです。第一、人数が二十人近くで、夜明しと来ては、成程、ちょっとどこといって当りが着きません。こりゃ旅籠屋《はたごや》だ、と考えました。  これなら大丈夫、と極めた事にすると、どういたして、まるで帳場で寄せつけません、無理もございますまい。旅籠屋は人の寝る処を、起きていて饒舌《しゃべ》ろうというんです。傍《はた》が御迷惑をなさる、とこの方を関所破りに扱います、困りました。  寺方はちょっと聞くと可《い》いようで、億劫《おっくう》ですし、教会へ持込めば叱られます。離れた処で寮なんぞ借りられない事もありませんが――この中にはその時も御一所で、様子を御存じの方もお見えになります、昨年の盆時分、向島の或《ある》別荘で、一会催した事があるんです。  飛んだ騒ぎで、その筋に御心配を掛けたんです。多人数一室へ閉籠《とじこも》って、徹夜で、密々《ひそひそ》と話をするのが、寂《しん》とした人通《ひとどおり》の無い、樹林《きばやし》の中じゃ、その筈《はず》でしょう。  お引受け申して、こりや思懸けない、と相応に苦労をしました揚句《あげく》、まず……昔の懺悔《ざんげ》をしますような取詰め方で、ここを頼んだのでございます。  言訳を申すじゃありませんが、以前だとて、さして馴染《なじみ》も無い家《うち》が、快く承わってくれまして、どうやらお間に合わせます事が出来ました。  ちと唐突《だしぬけ》に変った誂《あつら》えだもんですから、話の会だと言いますと、 (はあ、おはなの……)なんてな、此家《ここ》の姉御《あねご》が早合点《はやがってん》で……」  と笑いながら幹事が最初|挨拶《あいさつ》した、――それは、神田辺の沢岡という、雑貨店の好事《ものずき》な主人であった。        四  連中には新聞記者も交《まじ》ったり、文学者、美術家、彫刻家、音楽家、――またそうした商人《あきんど》もあり、久しく美学を研究して、近頃欧洲から帰朝した、子爵《ししゃく》が一人。女性《にょしょう》というのも、世に聞えて、……家《うち》のお三輪は、婦人何々などの雑誌で、写真も見れば、名も読んで知った方。  で、こんな場所は、何の見物にも、つい足踏《あしぶみ》をした事の無いのが多い。が、その人たちも、誰も会場が吉原というのを厭《いと》わず、中にはかえって土地に興味《おもしろみ》を持って、到着帳に記《つ》いたのもある。 「吉野橋で電車を下りますまでは無事だったんですよ。」  とそれについて婦人の一人、浜谷蘭子《はまやらんこ》が言出すと、可恐《おそろし》く気の早いのが居て、 「ええ、何か出ましたかな。」 「まさか、」  と手巾《ハンケチ》をちょっと口に当てて、瞼《まぶた》をほんのりと笑顔になって、 「お化《ばけ》が貴下《あなた》、わざわざ迎いに出はしませんよ。方角が分りませんもの。……交番がござんしたから、――伺いますが、水道尻はどう参りましょうかって聞いたんです。巡査《おまわり》さんが真面目《まじめ》な顔をして、 (水道はその四角《よつかど》の処にあります。)って丁寧に教えられて、困ったんです。」 「水を飲みたくって、それで尋ねたんだと思ったんでしょうよ。」とその連《つれ》だったもう一人の、明座種子《あかざたねこ》が意気な姿で、そして膝に手をきちんとして言う。 「私もはじめてです。両側はそれでも画《え》に描いたようですな。」と岩木という洋画家が応じた。 「御同然で、私はそれでも、首尾よく間違えずに来たですよ。北廓《ほっかく》だというから、何でも北へ北へと見当を着けるつもりで、宅から磁石を用意に及んだものです。」と云う堀子爵が、ぞんざいな浴衣がけの、ちょっきり結びの兵児帯《へこおび》に搦《から》んだ黄金鎖《きんぐさり》には、磁石が着いていも何にもせぬ。  花和尚がその諸膚脱《もろはだぬぎ》の脇の下を、自分の手で擽《くすぐ》るように、ぐいと緊《し》めて腹を揺《ゆす》った。 「そろそろ怪談になりますわ。」  確か、その時分であった。壇の上口《あがりくち》に気勢《けはい》がすると、潰《つぶ》しの島田が糶上《せりあが》ったように、欄干《てすり》隠れに、少《わか》いのが密《そっ》と覗込《のぞきこ》んで、 「あら、可厭《いや》だ。」  と一つ婀娜《あだ》な声を、きらりと銀の平打《ひらうち》に搦めて投込んだ、と思うが疾《はや》いが、ばたばたと階下《した》へ駆下りたが、 「嘘、居やしないわ。」と高い調子。  二言、三言、続いて花やかに笑ったのが聞えた。駒下駄《こまげた》の音が三つ四つ。 「覚えていらっしゃいよ。」 「お喧《やかま》しゅう……」  魯智深は、ずかずかと座を起《た》って、のそりと欄干《てすり》に腹を持たせて、幕を透かして通《とおり》を瞰下《みおろ》し、 「やあ、鮮麗《あざやか》なり、おらが姉《ねえ》さん三人ござる。」 「君、君、その異形《いぎょう》なのを空中へ顕《あらわ》すと、可哀相《かわいそう》に目を廻すよ。」と言いながら、一人が、下からまた差覗《さしのぞ》いた。 「家《うち》の娘かね。」  と子爵が訊《き》く。差向いに居た民弥が、 「いいえ。」 「何です。」 「やっぱり通り魔の類《たぐい》でしょうな。」 「しかし、不意だからちょっと驚きましたよ。」とその洋画家が……ちょうど俯向《うつむ》いて巻莨《まきたばこ》をつけていた処、不意を食《くら》った眼鏡が晃《きら》つく。  当夜の幹事が苦笑いして、 「近所の若い妓《こ》どもです……御存じの立旦形《たておやま》が一人、今夜来ます筈《はず》でしたが、急用で伊勢へ参って欠席しました。階下《した》で担いだんでしょう。密《そっ》と覗《のぞ》きに……」 「道理こそ。」 「(あら可厭《いや》だ)は酷《ひど》いな。」        五 「おおおお、三人が手を曳《ひき》ッこで歩行《ある》いて行《ゆ》きます……仲の町も人通りが少いなあ、どうじゃろう、景気の悪い。ちらりほらりで軒行燈《のきあんどう》に影が映る、――海老屋《えびや》の表は真暗《まっくら》だ。  ああ、揃って大時計の前へ立佇《たちどま》った……いや三階でちょっとお辞儀をするわ。薄暗い処へ朦朧《もうろう》と胸高な扱帯《しごき》か何かで、寂《さみ》しそうに露《あらわ》れたのが、しょんぼりと空から瞰下《みお》ろしているらしい。」  と円い腕を、欄干《てすり》が挫《ひしゃ》げそうにのッしと支《つ》いて、魯智深の腹がたぶりと乗出す…… 「どこだ、どれ、」  と向返る子爵の頭へ、さそくに、ずずんと身を返したが、その割に気の軽さ。突然《いきなり》見越入道で、蔽《おお》われ掛《かか》って、 「ももんがあ! はッはッはッ。」 「失礼、只今《ただいま》は、」  と、お三輪が湯を注《さ》しに来合わせて、特に婦人客《おんなきゃく》の背後《うしろ》へ来て、極《きまり》の悪そうに手を支《つ》いた。 「才《さあ》ちゃんが、わけが分らなくって不可《いけ》ません、芸者|衆《しゅ》なんか二階へ上げまして。」  と言《ことば》も極《きま》って含羞《はにか》んだ、紅《あか》い手絡《てがら》のしおらしさ。一人の婦人が斜めに振向き、手に持ったのをそのままに、撫子《なでしこ》に映《さ》す扇の影。 「いいえ。そして……ちとお遊びなさいませ。」 「はい、あの、後にどうぞ。」  と嬉しそうに莞爾《にっこり》しながら、 「あの、明る過ぎましたら電燈《でんき》をお消し下さいましな、燭台《しょくだい》をそこへ出しておきました。」  と幹事に言う。雑貨店主が、 「難有《ありがと》う、よくお心の着きます事で。」 「あら、可厭《いや》だ。」……と蓮葉《はすは》になる。 「二ツ、」  と一人高らかに呼《よば》わった。……芸者のと、(可厭だ)が二度目、という意味だけれども、娘には気が着かぬ。 「え?」  民弥が静《しずか》に振返って、 「三輪《みい》ちゃんの年紀《とし》は二十《はたち》かって?」 「あら、可厭だ。」 「三つ!」 「じゃ、三十かってさ。」と雑貨店主が莞爾《にっこり》する。 「知らないわ。」 「まあまあ、可《い》いわ、お話しなさい。」と花和尚、この時、のさのさと座に戻る。 「お茶を入れかえて参ります。」  と、もう階子《はしご》の口。ちょっと留まって、 「そして才ちゃんに、御馳走をさせましょうね。兄さん、(吃驚《びっくり》したように)……あの、先生。」 「心得たもんですな。」と洋画家が、煙草《たばこ》の濃い烟《けむり》の中で。 「貴女方《あなたがた》の御庇《おかげ》です……敬意を表して、よく小老実《こまめ》に働きますよ。」と民弥が婦人だちを見向いて云う。と二人が一所に、言合わせたように美しく莞爾《にっこり》して、 「どういたしまして。」 「いや、事実ですよ……家はこんなでも、裁縫《おはり》に行《ゆ》く先方《さき》に、また、それぞれ朋《とも》だちがありましてな、それ引手茶屋の娘でも、大分|工合《ぐあい》が違って来ました。どうして滅多に客の世話なぞするのじゃありませんや。貴女がたの顔まで、ちゃんと心得ていて、先刻《さっき》も手前ちょっと階下《した》へ立違いますと、あちらが、浜谷さんで、こちらが、明座さんでしょう、なんてそう言います。  廓《くるわ》がはじめてだってお言いなさったのを聞いたと見えて、御見物なさいませんか、お供をして、そこいら、御案内をしましょう、と手前にそう言っていましたっけ。」と団扇《うちわ》を構えて雑貨店主。 「そう、まあ……見て来ましょうか。」 「ねえ。」と顔を見合わせた。  子爵が頭《かぶり》を振りながら、 「お止《よ》しなさい、お揃いじゃ、女郎《じょろ》が口惜《くや》しがるでしょう、罪だ。」        六 「なぜですか。」 「新橋、柳橋と見えるでしょう。」 「あら、可厭《いや》だ。」 「四つ、」  と今度は、魯智深が、透かさず指を立てて、ずいと揚げた。  すべてがこの調子で、間へ二ツ三ツずつ各自《めいめい》の怪談が挟まる中へ、木皿に割箸《わりばし》をざっくり揃えて、夜通しのその用意が、こうした連中に幕の内でもあるまい、と階下《した》で気を着けたか茶飯の結びに、はんぺんと菜のひたし。……ある大籬《おおまがき》の寮が根岸にある、その畠に造ったのを掘たてだというはしりの新芋。これだけはお才が自慢で、すじ、蒟蒻《こんにゃく》などと煮込みのおでんを丼《どんぶり》へ。目立たないように一銚子《ひとちょうし》附いて出ると、見ただけでも一口|呑《の》めそう……梅次の幕を正面へ、仲の町が夜の舞台で、楽屋の中入《なかいり》といった様子で、下戸《げこ》までもつい一口|飲《や》る。  八畳一杯|赫《かッ》と陽気で、ちょうどその時分に、中びけの鉄棒《かなぼう》が、近くから遠くへ、次第に幽《かす》かになって廻ったが、その音の身に染みたは、浦里時代の事であろう。誰の胸へも響かぬ。……もっとも話好きな人ばかりが集ったから、その方へ気が入って、酔ったものは一人も無い。が、どうして勢《いきおい》がこんなであるから、立続けに死霊《しりょう》、怨霊《おんりょう》、生霊《いきりょう》まで、まざまざと顕《あらわ》れても、凄《すご》い可恐《こわ》いはまだな事――汐時《しおどき》に颯《さっ》と支度を引いて、煙草盆《たばこぼん》の巻莨《まきたばこ》の吸殻が一度|綺麗《きれい》に片附く時、蚊遣香《かやりこう》もばったり消えて、畳の目も初夜過ぎの陰気に白く光るのさえ、――寂しいとも思われぬ。 (あら可厭だ)……のそれでは無い。百万遍の数取りのように、一同ぐるりと輪になって、じりじりと膝を寄せると、千倉ヶ沖の海坊主、花和尚の大きな影が幕をはびこるのを張合いにして、がんばり入道、ずばい坊、鬼火、怪火《あやしび》、陰火の数々。月夜の白張《しらはり》、宙釣りの丸行燈《まるあんどう》、九本の蝋燭《ろうそく》、四ツ目の提灯《ちょうちん》、蛇塚を走る稲妻、一軒家の棟を転がる人魂《ひとだま》、狼の口の弓張月、古戦場の火矢の幻。  怨念《おんねん》は大鰻《おおうなぎ》、古鯰《ふるなまず》、太岩魚《ふといわな》、化ける鳥は鷺《さぎ》、山鳥。声は梟《ふくろ》、山伏の吹く貝、磔場《はりつけば》の夜半《よわ》の竹法螺《たけぼら》、焼跡の呻唸声《うめきごえ》。  蛇ヶ窪の非常汽笛、箒川《ほうきがわ》の悲鳴などは、一座にまさしく聞いた人があって、その響《ひびき》も口から伝わる。……按摩《あんま》の白眼《しろめ》、癩坊《かったい》の鼻、婆々《ばばあ》の逆眉毛《さかまつげ》。気味の悪いのは、三本指、一本脚。  厠《かわや》を覗《のぞ》く尼も出れば、藪《やぶ》に蹲《しゃが》む癖の下女も出た。米屋の縄暖簾《なわのれん》を擦れ擦れに消える蒼《あお》い女房、矢絣《やがすり》の膝ばかりで掻巻《かいまき》の上から圧《お》す、顔の見えない番町のお嬢さん。干すと窄《すぼ》まる木場辺の渋蛇の目、死んだ頭《かしら》の火事見舞は、ついおもだか屋にあった事。品川沖の姪の影、真乳《まっち》の渡《わたし》の朧蓑《おぼろみの》、鰻掻《うなぎかき》の蝮笊《まむしざる》。  犬神、蛇を飼う婦《おんな》、蟇《ひきがえる》を抱いて寝る娘、鼈《すっぽん》の首を集める坊主、狐憑《きつねつき》、猿小僧、骨なし、……猫屋敷。  で、この猫について、座の一人が、かつてその家に飼った三毛で、年久しく十四五年を経た牝《めす》が、置炬燵《おきごたつ》の上で長々と寝て、密《そっ》と薄目を睜《みひら》くと、そこにうとうとしていた老人《としより》の顔を伺った、と思えば、張裂けるような大欠伸《おおあくび》を一つして、 (お、お、しんど)と言って、のさりと立った。  話した発奮《はずみ》に、あたかもこの八畳と次の長六畳との仕切が柱で、ずッと壁で、壁と壁との間が階子段《はしごだん》と向合《むかいあわ》せに欞子窓《れんじまど》のように見える、が、直ぐに隣家《となり》の車屋の屋根へ続いた物干。一跨《ひとまた》ぎで出られる。……水道尻まで家続きだけれども、裏手、廂合《ひあわい》が連《つらな》るばかり、近間《ちかま》に一ツも明《あかり》が見えぬ、陽気な座敷に、その窓ばかりが、はじめから妙に陰気で、電燈《でんき》の光も、いくらかずつそこへ吸取られそうな気勢《けはい》がしていた。  その物干の上と思う処で……        七 「ゴロロロロ、」  と濁った、太い、変に地響きのする声がした、――不思議は無い。猫が鳴いた事は、誰の耳にも聞えたが、場合が場合で、一同が言合わせたごとく、その四角な、大きな、真暗《まっくら》な穴の、遥《はる》かな底は、上野天王寺の森の黒雲が灰色の空に浸《にじ》んで湧上《わきあが》る、窓を見た。  フト寂しい顔をしたのもあるし、苦笑いをしたのもあり、中にはピクリと肩を動かした人もあった。 「三輪《みい》ちゃん、内の猫かい。」  民弥は、その途端に、ひたと身を寄せたお三輪に訊《たず》ねた。……遠慮をしながら、成《なる》たけこの男の傍《そば》に居て、先刻《さっき》から人々の談話《はなし》の、凄《すご》く可恐《おそろし》い処というと、密《そっ》と縋《すが》り縋り聞いていたのである。 「いいえ、内の猫は、この間死にました。」 「死んだ?」 「ええ、どこの猫でしょう……近所のは、皆《みんな》たま(猫の名)のお友達で、私は声を知ってるんですけれど……可厭《いや》な声ね。きっと野良猫よ。」  それと極《きま》っては、内所《ないしょ》の飼猫でも、遊女《おいらん》の秘蔵でも、遣手《やりて》の懐児《ふところご》でも、町内の三毛、斑《ぶち》でも、何のと引手茶屋の娘の勢《いきおい》。お三輪は気軽に衝《つ》と立って、襟脚を白々と、結綿《ゆいわた》の赤い手絡《てがら》を障子の桟《さん》へ浮出したように窓を覗《のぞ》いた。 「遁《に》げてよ。もう居やしませんわ。」  一人の婦人が、はらはらと後毛《おくれげ》のかかった顔で、 「姉《ねえ》さん。」 「はーい、」と、呼ばれたのを嬉しそうな返事をする。 「閉めていらっしゃいな。」  で、蓮葉《はすは》にぴたり。  後に話合うと、階下《した》へ用達しになど、座を起《た》って通る時、その窓の前へ行《ゆ》くと、希代《きたい》にヒヤリとして風が冷い。処で、何心なく障子をスーツと閉めて行《ゆ》く、……帰りがけに見るとさらりと開《あ》いている。が、誰もそこへ坐るのでは無いから、そのままにして座に戻る。また別人が立つ、やっぱりぞっとするから閉めて行《ゆ》く、帰りがけにはちゃんと開けてあった。それを見た人は色々で、細目の時もあり、七八分目の時もあり、開放しの時もあった、と言う。  さて、そのときまでは、言ったごとく、陽気立って、何が出ても、ものが身に染むとまでには至らなかったが、物語の猫が物干の声になってから、各自《おのおの》言合わせたように、膝が固まった。  時々灰吹の音も、一ツ鉦《がね》のようにカーンと鳴って、寂然《しん》と耳に着く。……  気合が更《あらた》まると、畳もかっと広くなって、向合《むかいあ》い、隣同士、ばらばらと開けて、間《あわい》が隔るように思われるので、なおひしひしと額を寄せる。 「消そうか、」 「大人気ないが面白い。」  ここで電燈《でんき》が消えたのである。―― 「案外身に染みて参りました。人数の多過ぎなせいもありましょう。わざと灯《あかり》を消したり、行燈《あんどう》に変えたりしますと、どうもちと趣向めいて、バッタリ機巧《からくり》を遣《や》るようで一向潮が乗りません。  前《せん》の向島の大連の時で、その経験がありますから、今夜は一番《ひとつ》、明《あかり》晃々《こうこう》とさして、どうせ顕《あらわ》れるものなら真昼間《まっぴるま》おいでなさい、明白で可《い》い、と皆さんとも申合せていましたっけ。  いや、こうなると、やっぱり暗い方が配合《うつり》が可《よ》うございます、身が入りますぜ、これから。」  と言う、幹事雑貨店主の冴《さ》えた声が、キヤキヤと刻込《きざみこ》んで、響いて聞えて、声を聞く内だけ、その鼻の隆《たか》い、痩《や》せて面長《おもなが》なのが薄ら蒼《あお》く、頬のげっそりと影の黒いのが、ぶよぶよとした出処《でどこ》の定かならぬ、他愛の無い明《あかり》に映って、ちょっとでも句が切れると、はたと顔も見えぬほどになったのである。        八  灯《あかり》は水道尻のその瓦斯《がす》と、もう二ツ――一ツは、この二階から斜違《はすっかい》な、京町《きょうまち》の向う角の大きな青楼の三階の、真角《まっかど》一ツ目の小座敷の障子を二枚両方へ明放した裡《うち》に、青い、が、べっとりした蚊帳《かや》を釣って、行燈《あんどう》がある、それで。――夜目には縁も欄干《らんかん》も物色《うかが》われず、ただその映出《うつしだ》した処だけは、たとえば行燈の枠の剥《は》げたのが、朱塗《しゅぬり》であろう……と思われるほど定かに分る。……そこが仄明《ほのあかる》いだけ、大空の雲の黒さが、此方《こなた》に絞った幕の上を、底知れぬ暗夜《やみ》にする。……が、廓《くるわ》が寂れて、遠く衣紋坂《えもんざか》あたりを一つ行《ゆ》く俥《くるま》の音の、それも次第に近くはならず、途中の電信の柱があると、母衣《ほろ》が凧《いかのぼり》。引掛《ひっかか》りそうに便《たより》なく響《ひびき》が切れて行《ゆ》く光景《ありさま》なれば、のべの蝴蝶《ちょうちょう》が飛びそうな媚《なまめ》かしさは無く、荒廃したる不夜城の壁の崩れから、菜畠になった部屋が露出《むきだ》しで、怪しげな朧月《おぼろづき》めく。その行燈の枕許《まくらもと》に、有ろう? 朱羅宇《しゅらお》の長煙管《ながぎせる》が、蛇になって動きそうに、蓬々《おどろおどろ》と、曠野《あれの》に徜徉《さまよ》う夜の気勢《けはい》。地蔵堂に釣った紙帳より、かえって侘《わび》しき草の閨《ねや》かな。  風の死んだ、寂《しん》とした夜で、あたかも宙に拡げたような、蚊帳のその裙《すそ》が、そよりと戦《そよ》ぐともしないのに、この座の人の動くに連れて、屋の棟とともに、すっと浮いて上ったり、ずうと行燈と一所に、沈んで下ったりする。  もう一つは同じ向側の、これは低い、幕の下に懸《かか》って、真暗《まっくら》な門《かど》へ、奥の方から幽かに明《あかり》の漏れるのが、戸の格子の目も疎《まばら》に映って、灰色に軒下の土間を茫《ぼう》と這《ほ》うて、白い暖簾《のれん》の断《ちぎ》れたのを泥に塗《まみ》らした趣がある。それと二つである。  その家は、表をずッと引込《ひっこ》んだ処に、城の櫓《やぐら》のような屋根が、雲の中に陰気に黒い。両隣は引手茶屋で、それは既に、先刻《さっき》中引けが過ぎる頃、伸上って蔀《しとみ》を下ろしたり、仲の町の前後《あとさき》を見て戸を閉めたり、揃って、家並《やなみ》は残らず音も無いこの夜更《よふけ》の空を、地《じ》に引く腰張の暗い板となった。  時々、海老屋の大時計の面《つら》が、時間《とき》の筋を畝《うね》らして、幽《かすか》な稲妻に閃《ひら》めき出るのみ。二階で便《たよ》る深夜の光は、瓦斯《がす》を合わせて、ただその三つの灯《ともしび》となる。  中のどれかが、折々|気紛《きまぐ》れの鳥影の映《さ》すように、飜然《ひらり》と幕へ附着《くッつ》いては、一同の姿を、種々《いろいろ》に描き出す。……  時しもありけれ、魯智深が、大《おおい》なる挽臼《ひきうす》のごとき、五分刈頭を、天井にぐるりと廻して、 「佐川さんや、」  と顔は見えず……その天井の影が動く。話の切目で、咳《しわぶき》の音も途絶えた時で、ひょいと見ると誰の目にも、上にぼんやりと映る、その影が口を利くかと思われる。従って、声もがッと太く渦巻く。 「変に静まりましたな、もって来いという間《ま》の時じゃ、何ぞお話し下さらんか。宵からまだ、貴下《あなた》に限って、一ツも凄《すご》いのが出ませんでな、所望ですわ。」  成程、民弥は聞くばかりで、まだ一題も話さなかった。 「差当り心当りが無いものですから、」  とその声も暗さを辿《たど》って、 「皆さんが実によく、種々《いろいろ》な可恐《おそろし》いのを御存じです。……確《たしか》にお聞きになったり、また現に逢《あ》ったり見たりなすっておいでになります。  私は、又聞きに聞いたのだの、本で読んだのぐらいな処で、それも拵《こしら》えものらしいのが多いんですから、差出てお話するほどのがありません。生憎《あいにく》……ッても可笑《おかし》いんですが、ざらある人魂《ひとだま》だって、自分で見た事はありませんでね。怪《あやし》い光物といっては、鼠が啣《くわ》え出した鱈《たら》の切身が、台所でぽたぽたと黄色く光ったのを見て吃驚《びっくり》したくらいなものです。お話にはなりません。  けれども、嬉しがって一人で聞かしてばかり頂いていたんでは、余り勝手過ぎます。申訳が無いようですから、詰《つま》らない事ですが、一つ、お話し申しましょうか。  日の暮合いに、今日、現に、此家《ここ》へ参ります途中でした。」        九 「可恐《こわ》い事、ちょっと、可恐くって。」  と例の美しい若い声が身近に聞えて、ぞっとするように袖を窄《すぼ》めた気勢《けはい》がある。 「私に附着《くッつ》いていらっしゃい。」と蘭子が傍《そば》で、香水の優しい薫《かおり》。 「いや、下らないんですよ、」  と、慌てたように民弥は急いで断って、 「ちと薄気味でも悪いようだと、御愛嬌《ごあいきょう》になるんだけれど……何《なん》にも彼《か》にも、一向要領を得ないんです、……時にだね、三輪《みい》ちゃん。」  とちと更《あらた》まって呼んだ時に、皆《みんな》が目を灌《そそ》ぐと、どの灯《あかり》か、仏壇に消忘れたようなのが幽《かすか》に入って、スーと民弥のその居直った姿を映す。……これは生帷《きびら》の五ツ紋に、白麻の襟を襲《かさ》ねて、袴《はかま》を着《ちゃく》でいた。――あたかもその日、繋《つな》がる縁者の葬式《とむらい》を見送って、その脚で廻ったそうで、時節柄の礼服で宵から同じ着附けが、この時際立って、一人、舞台へ出たように目に留まった。麻は冷たい、さっくりとして膚《はだ》にも着かず、肩肱《かたひじ》は凜々《りり》しく武張《ぶば》ったが、中背で痩《や》せたのが、薄ら寒そうな扮装《なり》、襟を引合わせているので物優しいのに、細面《ほそおもて》で色が白い。座中では男の中《うち》の第一《いっち》年下の二十七で、少々《わかわか》しいのも気の弱そうに見えるのが、今夜の会には打ってつけたような野辺送りの帰りと云う。  気のせいか、沈んで、悄《しお》れて見える処へ、打撞《ぶつ》かったその冷い紋着《もんつき》で、水際の立ったのが、薄《うっす》りと一人浮出したのであるから、今その呼懸けたお三輪さえ、声に応じて、結綿《ゆいわた》の綺麗な姿が、可恐《こわ》そうな、可憐《かれん》な風情で、並んでそこへ、呼出されたように、座上の胸に描かれた。 「つかん事を聞くがね、どこかこの近所で、今夜あたりお産をしそうな人はあるまいか。」  と妙な事を沈んで聞く。 「今夜……ですか。」とお三輪はきっぱり聞返す。 「……そうだね、今夜、と極《き》まった事も無いけれど、この頃にさ、そういう家《うち》がありやしないかい。」 「嬰児《あかんぼ》が生れる許《とこ》?」 「そうさ、」 「この近所、……そうね。」  せっかく聞かされたものを、あれば可《い》いが、と思う容子《ようす》で、しばらくして、 「無いわ、ちっと離れていては悪くって、江戸町辺。」 「そこらにあるかい。」  と気を入れる。 「無い事よ、――やっぱり、」とうっかりしたように澄まして言う。 「何だい、詰《つま》らない。」  と民弥は低声《こごえ》に笑《えみ》を漏らした。 「ちょいと、階下《した》へ行って、才《さあ》ちゃんに聞いて来ましょうか。」 「…………」 「ええ、兄さん、」  と遣《や》ったが、フト黙って、 「私、聞いて来ましょう、先生。」 「何、可《い》い、それには及ばんのだよ。……いいえ、少しね、心当りな事があるもんだから、そらね。」  と斜《ななめ》になって、俯向《うつむ》いて幕張《まくばり》の裾《すそ》から透かした、ト酔覚《よいざめ》のように、顔の色が蒼白《あおじろ》い。 「向うに、暗く明《あかり》の点《つ》いた家《うち》が一軒あるだろう……近所は皆《みんな》閉《しま》っていて。」 「はあ、お医者様のならび、あすこは寮よ……」 「そうだ、公園|近《ぢか》だね。あすこへ時々客では無い、町内の人らしいのが、引過《ひけす》ぎになってもちょいちょい出たり入ったりするから、少しその心当りの事もあるし、……何も夜中の人出入りが、お産とは極《きま》らないけれど、その事でね。もしかすると、そうではあるまいか、と思ったからさ。何だか余り合点《のみこ》み過ぎたようで妙だったね。」        十 「それに何だか、明《あかり》も陰気だし、人の出入りも、ばたばたして……病人でもありそうな様子だったもんだから。」  と言って、その明《あかり》を俯向《うつむ》いて見透かす、民弥の顔にまた陰気な影が映《さ》した。 「でもね、当りましたわ、先生、やっぱり病人があるのよ。それでもって、寝ないでいるの、お通夜《つや》をして……」 「お通夜?」  と一人、縁に寄った隅の方から、声を懸けた人がある。 「あの……」 「夜伽《よとぎ》じゃないか。」と民弥が引取《ひっと》る。 「ああ、そうよ。私は昨夜《ゆうべ》も、お通夜だってそう言って、才《さあ》ちゃんに叱られました。……その夜伽なのよ。」 「病人は……女郎衆《じょうろしゅ》かい。」 「そうじゃないの。」  とついまたものいいが蓮葉《はすは》になって、 「照吉さんです、知ってるでしょう。」  民弥は何か曖昧《あいまい》な声をして、 「私は知らないがね、」  けれども一座の多人数は、皆耳を欹《そばだ》てた。――彼は聞えた妓《おんな》である――中には民弥の知らないという、その訳をさえ、よく心得たものがある。その梅次と照吉とは、待宵《まつよい》と後朝《きぬぎぬ》[#ルビの「きぬぎぬ」は底本では「きねぎぬ」]、と対《つい》に廓《くるわ》で唄われた、仲の町の芸者であった。  お三輪はサソクに心着いたか、急に声も低くなって、 「芸者です、今じゃ、あの、一番綺麗な人なんです、芸も可《い》いの。可哀相だわ、大変に塩梅《あんばい》が悪くって。それだもんですから、内は角町《すみちょう》の水菓子屋で、出ているのは清川(引手茶屋)なんですけれど、どちらも狭いし、それに、こんな処でしょう、落着いて養生も出来ないからって……ここでも大切な姉《ねえ》さんだわ。ですから皆《みんな》で心配して、海老屋でもしんせつにそう云ってね、四五日前から、寮で大事にしているんですよ。」 「そうかい、ちっとも知らなかった。」と民弥はうっかりしたように言う。 「夜伽《よとぎ》をするんじゃ、大分悪いな。」と子爵が向うから声を懸けた。 「ええ、不可《いけな》いんですって、もうむずかしいの。」  とお三輪は口惜《くや》しそうに、打附《ぶッつ》けて言ったのである。 「何の病気かね。」  と言う、魯智深の頭は、この時も天井で大きく動いた。 「何んですか、性《しょう》がちっとも知れないんですって。」  民弥は待構えてでもいたように、 「お医師《いしゃ》は廓《くるわ》のなんだろう、……そう言っちゃ悪いけれど。」 「いいえ、立派な国手《せんせい》も綱曳《つなびき》でいらっしゃったんですの。でもね、ちっとも分りませんとさ。そしてね、照吉さんが、病気になった最初《はじめ》っから、なぜですか、もうちゃんと覚悟をして、清川を出て寮へ引移るのにも、手廻りのものを、きちんと片附けて、この春から記《つ》けるようにしたっちゃ、威張っていた、小遣帳《こづかいちょう》の、あの、蜜豆《みつまめ》とした処なんか、棒を引いたんですってね。才ちゃんはそう言って、話して、笑いながら、ほろほろ涙を落すのよ。  いつ煩っても、ごまかして薬をのんだ事のない人が、その癖、あの、……今度ばかりは、掻巻《かいまき》に凭懸《よりかか》っていて、お猪口《ちょこ》を頂いて飲むんだわ。それがなお心細いんだって、皆《みんな》そう云うの。  私も、あの、手に持って飲まして来ます。 (三輪《みい》ちゃん、さようなら。)って俯向《うつむ》くんです、……枕《まくら》にこぼれて束ね切れないの、私はね、櫛《くし》を抜いて密《そっ》と解かしたのよ……雲脂《ふけ》なんかちっとも無いの、するする綺麗ですわ、そして煩ってから余計に殖《ふ》えたようよ……髪ばかり長くなって、段々命が縮むんだわねえ。――兄さん、」  と、話に実が入《い》るとつい忘れる。 「可哀相よ。そして、いつでもそうなの、見舞に行《ゆ》くたんびに(さようなら)……」        十一 「それはもう、きれいに断念《あきら》めたものなの、……そしてね、幾日《いくか》の何時頃に死ぬんだって――言うんですとさ、――それが延びたから今日はきっと、あれだって、また幾日の何時頃だって、どうしてでしょう。死ぬのを待っているようなの。  ですからね、照吉さんのは、気病《きやみ》だって。それから大事の人の生命《いのち》に代って身代《みがわり》に死ぬんですって。」 「身代り、」と聞返した時、どのかまた明《あかり》の加減で、民弥の帷子《かたびら》が薄く映った。且つそれよりも、お三輪の手絡《てがら》が、くっきりと燃ゆるように、声も強い色に出て、 「ええ、」  と言う、目も睜《みは》られた気勢《けはい》である。 「この方が怪談じゃ、」と魯智深が寂しい声。堀子爵が居直って、 「誰の身代りだな、情人《いいひと》のか。」 「あら、情人《いいひと》なら兄さんですわ、」  と臆《おく》せず……人見知《ひとみしり》をしない調子で、 「そうじゃないの、照吉さんのは弟さんの身代りになったんですって。――弟さんはね、先生、自分でも隠してだし、照吉さんも成りたけ誰にも知らさないようにしているんだけれど、こんな処の人のようじゃないの。  学校へ通って、学問をしてね、よく出来るのよ。そして、今じゃ、あの京都の大学へ行っているんです。卒業すれば立派な先生になるんだわ、ねえ。先生。  姉さんもそればっかり楽《たのし》みにして、地道に稼いじゃ、お金子《かね》を送っているんでしょう。……ええ、あの、」  と心得たように、しかも他愛の無さそうに、 「水菓子屋の方は、あれは照吉さんの母《おっか》さんがはじめた店を、その母《おっか》さんが亡くなって、姉弟《きょうだい》二人ぼっちになって、しようが無いもんですから、上州の方の遠い親類の人に来てもらって、それが世話をするんですけれど、どうせ、あれだわ。田舎を打棄《うっちゃ》って、こんな処へ来て暮そうって人なんだから、人は好《い》いけれども商売は立行《たちゆ》かないで、照吉さんには、あの、重荷に小附《こづけ》とかですってさ。ですから、お金子でも何でも、皆《みんな》姉さんがして、それでも楽《たのし》みにしているんでしょう。  そうした処が、この二三年、その弟さんが、大変に弱くなったの。困るわねえ。――試験が済めばもう卒業するのに、一昨年《おととし》も去年もそうなのよ、今年もやっぱり。続いて三年病気をしたの。それもあの、随分大煩いですわ、いつでも、どっと寝るんでしょう。  去年の時はもう危ないって、電報が来たもんですから、姉さんが無理をして京都へ行ったわ。  二年続けて、彼地《あっち》で煩らったもんですから、今年の春休みには、是非お帰んなさいって、姉さんも云ってあげるし、自分でも京都の寒さが不可《いけな》いんだって、久しぶりで帰ったんです。  水菓子屋の奥に居たもんですから、内へも来たわ。若旦那《わかだんな》って才ちゃんが言うのよ。お父《とっ》さんはね、お侍が浪人をしたのですって、――石橋際に居て、寺子屋をして、御新造《ごしん》さんの方は、裁縫《おしごと》を教えたんですっさ、才ちゃんなんかの若い時分、お弟子よ。  あとで、私立の小学校になって、内の梅次さんも、子供の内は上ってたんですさ。お母《っか》さんの方は、私だって知ってるわ。品の可《い》い、背《せい》のすらりとした人よ。水菓子屋の御新造《ごしん》さんって、皆《みんな》がそう言ったの。  ですもの、照吉さんは芸者だけれど、弟さんは若旦那だわね。  また煩いついたのよ、困るわねえ。  そして長いの、どっと床に就いてさ。皆《みんな》、お気の毒だって、やっぱり今の、あの海老屋の寮で養生をして、同《おんな》じ部屋だわ。まわり縁の突当りの、丸窓の付いた、池に向いた六畳よ。  照吉さんも家業があるでしょう、だもんですから、ちょいとの隙《ひま》も、夜《よ》の目も寝ないで、附《つき》っ切りに看病して、それでもちっとも快《よ》くならずに、段々|塩梅《あんばい》が悪くなって、花が散る頃だったわ、お医者様もね、もうね。」  と言う、ちっと切なそうな息づかい。        十二  お三輪は疲れて、そして遣瀬《やるせ》なさそうな声をして、 「才《さあ》ちゃんを呼んで来ましょうか、私は上手に話せませんもの。」と言う、覚束《おぼつか》ない娘の口から語る、照吉の身の上は、一層夜露に身に染みたのであった。 「可《い》いよ、三輪《みい》ちゃんで沢山だ。お話し、お話し、」と雑貨店主、沢岡が激ました。 「ええ、もうちっとだわ。――あの……それでお医者様が手放したもんですから、照吉さんが一七日《いちしちにち》塩断《しおだち》して……最初《はじめッ》からですもの、断つものも外に無いの。そして願掛けをしたんですって。どこかねえ、谷中《やなか》の方です。遠くまで、朝ねえ、まだ夜の明けない内に通ったのよ。そのお庇《かげ》で……きっとそのお庇だわ。今日にも明日にも、といった弟さんが、すっかり治ってね。夏のはじめに、でもまだ綿入を着たなりで、京都へ立って行ったんです。  塩断をしたりなんかして、夜も寝なかった看病疲れが出たんだって、皆《みんな》そう言ったの。すぐ後で、姉さんが病みついたんでしょう。そして、その今のような大病になったんでしょう。  ですがね、つい二三日前、照吉さんが、誰にも言わない事だけれどって、そう云って、内の才ちゃんに話したんですって。――あの、そのね、谷中へ願掛けをした、満願、七日《なぬか》目よ、……一七日《いちしちにち》なんですもの。いつもお参りをして帰りがけに、しらしらと夜の明ける時間なのが、その朝は、まだ真暗《まっくら》だったんですとさ。御堂を拝んで帰ろうとすると、上の見上げるような杉の大木の茂った中から、スーと音がして、ばったり足許へ落ちて来たものがあるの。常燈明の細い灯《あかり》で、ちょいと見ると、鳥なんですって、死んだのだわねえ、もう水を浴びたように悚然《ぞっ》として、何の鳥だかよくも見なかったけれど、謎々よ、……解くと、弟は助からないって事になる……その時は落胆《がっかり》して、苔《こけ》の生えた石燈籠《いしどうろう》につかまって、しばらく泣きましたって、姉さんがね、……それでも、一念が届いて弟が助かったんですから……思い置く事はありません、――とさ。  ああ、きっとそれじゃ、……その時治らない弟さんの身代りに、自分がお約束をしたんだろう。それだから、ああやって覚悟をして死んで行《ゆ》くのを待っておいでだ。事によったら、月日なんかも、その時|極《き》めて頼んだのかも分らない、可哀相だ、つて才ちゃんも泣いていました。  そしてね、今度の世は、妹に生れて来て甘えよう、私は甘えるものが無い。弟は可羨《うらやま》しい、あんな大きななりをして、私に甘ったれますもの。でも、それが可愛くって殺されない。前《さき》へ死ぬ方がまだ増《まし》だ、あの子は男だから堪《こら》えるでしょう、……後へ残っちゃ、私は婦《おんな》で我慢が出来ないって言ったんですとさ。……ちょいとどうしましょう。私、涙が出てよ。……  どうかして治らないものでしょうか。誰方《どなた》か、この中に、お医者様の豪《えら》い方はいらっしゃらなくって、ええ、皆さん。」  一座|寂然《ひっそり》した。 「まあ、」 「ねえ……」  と、蘭子と種子が言交わす。 「弱ったな、……それは、」とちょいと間を置いてから、子爵が呟《つぶや》いたばかりであった。 「時に、」  と幹事が口を開いて、 「佐川さん、」 「は、」  と顔を上げたが、民弥はなぜかすくむようになって、身体《からだ》を堅く俯向《うつむ》いてそれまで居た。 「お話しの続きです。――貴下《あなた》がその今日途中でその、何か、どうかなすったという……それから起ったんですな、三輪ちゃんの今の話は。」 「そうでしたね。」とぼやりと答える。 「その……近所のお産のありそうな処は無いかって、何か、そういったような事から。」 「ええ、」  とただ、腕を拱《こまぬ》く。 「どういう事で、それは、まず……」 「一向、詰《つま》らない、何、別に、」と可恐《おそろ》しく謙遜《けんそん》する。  人々は促した。――        十三 「――気が射《さ》したから、私は話すまい、と思った。けれども、行懸《ゆきがか》り[#ルビの「ゆきがか」は底本では「ゆきかが」]で、揉消《もみけ》すわけにも行かなかったもんだから、そこで何だ。途中で見たものの事を饒舌《しゃべ》ったが、」  と民弥は、西片町《にしかたまち》のその住居《すまい》で、安価《やす》い竈《かまど》を背負《しょ》って立つ、所帯の相棒、すなわち梅次に仔細《しさい》を語る。……会のあった明晩《あくるばん》で、夏の日を、日が暮れてからやっと帰ったが、時候あたりで、一日寝ていたとも思われる。顔色も悪く、気も沈んで、太《いた》く疲れているらしかった。  寒気がするとて、茶の間の火鉢に対向《さしむか》いで、 「はじめはそんな席へ持出すのに、余り栄《は》えな過ぎると思ったが、――先刻《さっき》から言った通り――三輪坊《みいぼう》がしたお照さんのその話を聞いてからは、自分だけかも知れないが、何とも言われないほど胸が鬱《ふさ》いだよ。第一、三輪坊が、どんなにか、可恐《こわ》がるだろう、と思ってね。  場所が谷中だと言うんだろう、……私の出会ったのもやっぱりそこさ。――闇《くら》がり坂《ざか》を通った時だよ。」 「はあ、」と言って、梅次は、団扇《うちわ》を下に、胸をすっと手を支《つ》いた。が、黒繻子《くろじゅす》[#ルビの「くろじゅす」は底本では「くろじゅず」]の引掛《ひっか》け結びの帯のさがりを斜《ななめ》に辷《すべ》る、指の白さも、団扇の色の水浅葱《みずあさぎ》も、酒気《さけけ》の無い、寂しい茶の間に涼し過ぎた。  民弥は寛《くつろ》ぎもしないで、端然《ちゃん》としながら、 「昨日《きのう》は、お葬式《とむらい》が後《おく》れてね、すっかり焼香の済んだのが、六時ちっと廻った時分。後で挨拶をしたり、……茶屋へ引揚げて施主たちに分れると、もう七時じゃないか。  会は夜あかしなんだけれど、ゆっくり話そうって、幹事からの通知は七時遅からず。私にも何かの都合で、一足早く。承知した、と約束がしてある。……  久しぶりのお天気だし、涼《すずし》いし、紋着《もんつき》で散歩もおかしなものだけれども、ちょうど可《い》い。廓《なか》まで歩行《ある》いて、と家《うち》を出る時には思ったんだが、時間が遅れたから、茶屋の角で直ぐに腕車《くるま》をそう言ってね。  乗ってさ。出る、ともう、そこらで梟《ふくろう》の声がする。寂寥《しん》とした森の下を、墓所に附いて、薄暮合いに蹴込《けこみ》が真赤《まっか》で、晃々《きらきら》輪が高く廻った、と思うと、早や坂だ。――切立《きった》てたような、あの闇がり坂、知ってたっけか。」 「根岸から天王寺へ抜ける、細い狭い、蔽被《おっかぶ》さった処でしょう。――近所でも芋坂の方だと、ちょいちょい通って知ってますけれど、あすこは、そうね、たった一度。可厭《いや》な処だわね、そこでどうかなすったんですか。」 「そうさ、よく路傍《みちばた》の草の中に、揃えて駒下駄《こまげた》が脱いであったり、上の雑樹の枝に蝙蝠傘《こうもり》がぶら下っていたり、鉄道で死ぬものは、大概あの坂から摺込《ずりこ》むってね。手巾《ハンケチ》が一枚落ちていても悚然《ぞっ》とする、と皆《みんな》が言う処だよ。  昼でも暗いのだから、暮合《くれあい》も同《おんな》じさ。別に夜中では無し、私は何にも思わなかったんだが、極《きま》って腕車《くるま》から下りる処さ、坂の上で。あの急勾配だから。  下りるとね、車夫《わかいし》はたった今乗せたばかりの処だろう、空車《からぐるま》の気前を見せて、一《ひと》つ駆《が》けで、顱巻《はちまき》の上へ梶棒《かじぼう》を突上げる勢《いきおい》で、真暗《まっくら》な坂へストンと摺込《すべりこ》んだと思うと、むっくり線路の真中《まんなか》を躍り上って、や、と懸声だ。そこはまだ、仄《ほんの》り明《あかる》い、白っぽい番小屋の、蒼《あお》い灯《ひ》を衝《つッ》と切って、根岸の宵の、蛍のような水々《みずみず》した灯《あかり》の中へ消込《きえこ》んだ。  蝙蝠《こうもり》のように飛ぶんだもの、離れ業と云って可《い》い速さなんだから、一人でしばらく突立《つった》って見ていたがね、考えて見ると、面白くも何とも無いのさ。  足許だけぼんやり見える、黄昏《たそがれ》の木《こ》の下闇《したやみ》を下り懸けた、暗さは暗いが、気は晴々《せいせい》する。  以前と違って、それから行《ゆ》く、……吉原には、恩愛もなし、義理もなし、借もなし、見得外聞があるじゃなし……心配も苦労も無い。叔母さんに貰《もら》った仲の町の江戸絵を、葛籠《つづら》から出して頬杖《ほおづえ》を支《つ》いて見るようなもんだと思って。」        十四 「坂の中途で――左側の、」  と長火鉢の猫板を圧《おさ》えて言う。 「樹の根が崩れた、じとじと湿っぽい、赤土の色が蚯蚓《みみず》でも団《かたま》ったように見えた、そこにね。」 「ええ」  と梅次は眉を顰《ひそ》めた。 「大丈夫、蛇の話じゃ無い。」とこれは元気よく云って、湯呑《ゆのみ》で一口。 「人が居たのさ。ぼんやりと小さく蹲《しゃが》んで、ト目に着くと可厭《いや》な臭気《におい》がする、……地《つち》へ打坐《ぶっすわ》ってでもいるかぐらい、ぐしゃぐしゃと挫《ひしゃ》げたように揉潰《もみつぶ》した形で、暗いから判然《はっきり》せん。  が、別に気にも留めないで、ずっとその傍《わき》を通抜けようとして、ものの三足《みあし》ばかり下りた処だった。 (な、な、)と言う。  雪駄直《せったなお》しだか、唖《おうし》だか、何だか分らない。……聞えたばかり。無論、私を呼んだと思わないから、構わず行《ゆ》こうとすると、 (なあ、)と、今度はちっとぼやけたが、大きな声で、そして、 (袴《はかま》着た殿い、な、)と呼懸ける、確かに私を呼んだんだ。どこの山家《やまが》のものか知らんが、変な声で、妙なものいいさ。「袴着た、」と言うのか、「墓場来た、」と言うのか、どっちにしても「殿」は気障《きざ》だ。  が、確《たしか》に呼留めたに相違無いから、 (俺《おれ》か。) (それよ、)……と、気になる横柄な返事をして、もやもやと背伸びをして立った……らしい、頭《つむり》を擡《もた》げたのか、腰を起《た》てたのか、上下《うえした》同《おんな》じほどに胴中《どうなか》の見えたのは、いずれ大分の年紀《とし》らしい。  爺《じじい》か、婆《ばばあ》か、ちょっと見には分らなかったが、手拭《てぬぐい》だろう、頭にこう仇白《あだじろ》いやつを畳んで載せた。それが顔に見えて、面《つら》は俯向《うつむ》けにしながら、杖《つえ》を支《つ》いた影は映らぬ。 (殿、な、何処《いずく》へな。)  と、こうなんだ。  私は黙って視《なが》めたっけ。  じっと身動きもしないで、返事を待っているようだからね、 (吉原へ。)  と綺麗に言ったが、さあ、以前なら、きっとそうは言わなかったろう。その空がさっぱりと晴々した心持だから、誰に憚《はばか》る処も無い。おつけ晴れたのが、不思議に嬉しくもあり、また……幼い了簡《りょうけん》だけれども、何か、自分でも立派に思った。 (真北じゃな、ああ、)  とびくりと頷《うなず》いて、 (火の車で行《ゆ》かさるか。)[#「)」は底本では「」」]  馬鹿にしている、……此奴《こいつ》は高利貸か、烏金《からすがね》を貸す爺婆《じじばば》だろうと思ったよ。」  と民弥は寂《さみ》しそうなが莞爾《にっこり》した。  梅次がちっと仰向《あおむ》くまで、真顔で聞いて、 「まったくだわねえ。」 「いや、」  民弥は、思出したように、室《へや》の内《なか》を眗《みまわ》しながら、 「烏金……と言えば、その爺婆は、荒縄で引括《ひっくく》って、烏の死んだのをぶら下げていたのよ。」  梅次は胸を突かれたように、 「へい、」と云って、また、浅葱《あさぎ》のその団扇《うちわ》の上へ、白い指。 「堪《たま》らない。幾日《いくか》経《た》ったんだか、べろべろに毛が剥《は》げて、羽がぶらぶらとやっと繋《つなが》って、地《じ》へ摺《す》れて下ってさ、頭なんざ爛《ただ》れたようにべとべとしている、その臭気《におい》だよ。何とも言えず変に悪臭いのは、――奴《やつ》の身体《からだ》では無い。服装《みなり》も汚くはないんだね、折目の附いたと言いたいが、それよりか、皺《しわ》の無いと言った方が適《い》い、坊さんか、尼のような、無地の、ぬべりとしたのでいた。  まあ、それは後での事。 (何の車?……)と聞返した。 (森の暗さを、真赤《まっか》なものが、めいらめいら搦《から》んで、車が飛んだでやいの。恐ろしやな、活《い》きながら鬼が曳《ひ》くさを見るかいや。のう殿。私《わし》は、これい、地板《じびた》へ倒りょうとしたがいの。……うふッ、)と腮《あご》の震えたように、せせら笑ったようだっけ、――ははあ……」        十五 「今の腕車《くるま》に、私が乗っていたのを知って、車夫《わかいし》が空《から》で駆下りた時、足の爪を轢《ひ》かれたとか何とか、因縁を着けて、端銭《はした》を強請《ゆす》るんであろうと思った。  しかし言種《いいぐさ》が変だから、 (何の車?)ともう一度……わざと聞返しながら振返ると、 (火の車、)  と頭から、押冠《おっかぶ》せるように、いやに横柄に言って、もさりと歩行《ある》いて寄る。  なぜか、その人を咒《のろ》ったような挙動《しぐさ》が、無体に癪《しゃく》に障ったろう。 (何の車?)と苛々《いらいら》としてこちらも引返した。 (火の車。)  じりじりとまた寄った。 (何の車?) (火の車、) (火の車がどうした。)  とちょうど寄合わせた時、少し口惜《くやし》いようにも思って、突懸《つっかか》って言った、が、胸を圧《おさ》えた。可厭《いや》なその臭気《におい》ったら無いもの。 (私《わし》に貸さい、の、あのや、燃え搦《から》まった車で、逢魔《おうま》ヶ時に、真北へさして、くるくる舞いして行《ゆ》かさるは、少《わか》い身に可《よ》うないがいや、の、殿、……私《わし》に貸さい。車借りて飛ばしたい、えらく今日は足がなえたや、やれ、の、草臥《くたび》れたいの、やれやれ、)  と言って、握拳《にぎりこぶし》で腰をたたくのが、突着けて、ちょうど私の胸の処……というものは、あの、急な狭い坂を、奴《やつ》は上の方に居るんだろう。その上、よく見ると、尻をこっちへ、向うむきに屈《かが》んで、何か言っている。  癩《かったい》に棒打《ぼううち》、喧嘩《けんか》にもならんではないか。 (どこへ行《ゆ》くんだい、そして、)ッて聞いて見た。 (同じ処への、) (吉原か。) (さればい、それへ。)  とこう言う。 (何しに行《ゆ》くんだね。) (取揚げに行《ゆ》く事よ。)  ああ、産婆か。道理で、と私は思った。今時そんなのは無いかも知れんが、昔の産婆《ばあ》さんにはこんな風なのが、よくあった。何だか、薄気味の悪いような、横柄で、傲慢《ごうまん》で、人を舐《な》めて、一切心得た様子をする、檀那寺《だんなでら》の坊主、巫女《いちこ》などと同じ様子で、頼む人から一目置かれた、また本人二目も三目も置かせる気。昨日《きのう》のその時なんか、九目《せいもく》という応接《あしらい》です。  なぜか、根性曲りの、邪慳《じゃけん》な残酷なもののように、……絵を見てもそうだろう。産婦が屏風《びょうぶ》の裡《うち》で、生死《いきしに》の境、恍惚《うっとり》と弱果てた傍《わき》に、襷《たすき》がけの裾端折《すそはしょり》か何かで、ぐなりとした嬰児《あかんぼ》を引掴《ひッつか》んで、盥《たらい》の上へぶら下げた処などは、腹を断割《たちわ》ったと言わないばかり、意地くねの悪い姑《しゅうとめ》の人相を、一人で引受けた、という風なものだっけ。  吉原へ行《ゆ》くと云う、彼処等《あすこいら》じゃ、成程頼みそうな昔の産婆だ、とその時、そう思ったから、……後で蔦屋《つたや》の二階で、皆《みんな》に話をする時も、フッとお三輪に、(どこかお産はあるか)って聞いたんだ。  もうそう信じていた。  でも、何だか、肝《かん》が起《た》って、じりじりしてね、おかしく自分でも自棄《やけ》になって、 (貸してやろう、乗っといで。) (柔順《すなお》なものじゃ、や、よう肯《き》かしゃれたの……おおおお。)と云って臀《しり》を動かす。  変なものをね、その腰へ当てた手にぶら下げているじゃないか。――烏の死骸《しがい》だ。 (何にする、そんなもの。) (禁厭《まじない》にする大事なものいの、これが荷物じゃ、火の車に乗せますが、やあ、殿。) (堪《たま》らない! 臭くって、)  と手巾《ハンケチ》へ唾を吐いて、 (車賃は払っておくよ。)  で、フイと分れたが、さあ、踏切を越すと、今の車はどこへ行ったか、そこに待っている筈《はず》のが、まるで分らない。似たやつどころか、また近所に、一台も腕車《くるま》が無かった。……  変じゃないか。」        十六  しばらくして、 「お三輪が話した、照吉が、京都の大学へ行ってる弟の願懸けに行って、堂の前で気落《きおち》した、……どこだか知らないが、谷中の辺で、杉の樹の高い処から鳥が落ちて死んだ、というのを聞いた時、……何の鳥とも、照吉は、それまでは見なかったんだそうだけれども、私は何だよ……  思わず、心が、先刻《さっき》の暗がり坂の中途へ行って、そのおかしな婆々《ばばあ》が、荒縄でぶら提げていた、腐った烏の事を思ったんだ。照吉のも、同じ烏じゃ無かろうかと……それに、可なり大きな鳥だというし……いいや!」  梅次のその顔色《かおつき》を見て、民弥は圧《おさ》えるように、 「まさか、そんな事はあるまいが、ただそこへ考えが打撞《ぶつか》っただけなんだよ。……  だから、さあ、可厭《いや》な気持だから、もう話さないでおきたかったんだけれども、話しかけた事じゃあるし、どうして、中途から弁舌で筋を引替えようという、器用なんじゃ無い。まじまじ遣《や》った……もっとも荒ッぽく……それでも、烏の死骸を持っていたッて、そう云うと、皆《みんな》が妙に気にしたよ。  お三輪は、何も照吉のが烏だとも何とも、自分で言ったのじゃ無いから、別にそこまでは気を廻さなかったと見えて、暗号《あいず》に袖を引張らなかった。もうね、可愛いんだ、――ああ、可恐《こわ》い、と思うと、極《きま》ったように、私の袂《たもと》を引張《ひっぱっ》たっけ、しっかりと持って――左の、ここん処に坐《すわ》っていて、」  と猫板の下になる、膝のあたりを熟《じっ》と視《み》た。…… 「煙管《きせる》?」 「ああ、」 「上げましょう。……」  と、トンと払《はた》いて、 「あい。……どうしたんです、それから、可厭《いや》ね、何だか私は、」と袖を合わせる。 「するとだ……まだその踏切を越えて腕車《くるま》を捜したッてまでにも行《ゆ》かず……其奴《そいつ》の風采《ふうつき》なんぞ悉《くわ》しく乗出して聞くのがあるから、私は薄暗がりの中だ。判然とはしないけれど、朧気《おぼろげ》に、まあ、見ただけをね、喋舌《しゃべ》ってる中《うち》に、その……何だ。  向う角の女郎屋《じょろや》の三階の隅に、真暗《まっくら》な空へ、切って嵌《は》めて、裾《すそ》をぼかしたように部屋へ蚊帳《かや》を釣って、寂然《しん》と寝ているのが、野原の辻堂に紙帳《しちょう》でも掛けた風で、恐しくさびれたものだ、と言ったっけ。  その何だよ。……  蚊帳の前へ。」 「ちょいと、」と梅次は、痙攣《ひッつ》るばかり目を睜《みは》って膝をずらした。 「大丈夫、大丈夫、」  と民弥はまたわずかに笑《えみ》を含みつつ、 「仲の町越しに、こちらの二階から見えるんだから、丈が……そうさ、人にして二尺ばかり、一寸法師ッか無いけれど、何、普通で、離れているから小さいんだろう。……婆さんが一人。  大きな蜘蛛《くも》が下りたように、行燈《あんどう》の前へ、もそりと出て、蚊帳の前をスーと通る。……擦れ擦れに見えたけれども、縁側を歩行《ある》いたろう。が、宙を行《ゆ》くようだ。それも、黒雲の中にある、青田のへりでも伝うッて形でね。  京町の角の方から、水道尻の方へ、やがて、暗い処へ入って隠れたのは、障子の陰か、戸袋の背後《うしろ》になったらしい。  遣手《やりて》です、風が、大引前《おおびけまえ》を見廻ったろう。  それが見えると、鉄棒《かなぼう》が遠くを廻った。……カラカラ、……カンカン、何だか妙だね、あの、どうか言うんだっけ。」 「チャン、カン、チャンカン……ですか。」と民弥の顔を瞻《みつ》めながら、軽く火箸《ひばし》を動かしたが、鉄瓶にカタンと当った。 「あ、」  と言って、はっと息して、 「ああ、吃驚《びっくり》した。」 「ト今度は、その音に、ずッと引着けられて、廓中《くるわじゅう》の暗い処、暗い処へ、連れて歩行《ある》くか、と思うばかり。」        十七 「話してる私も黙れば、聞いている人たちも、ぴったり静まる……  と遣手《やりて》らしい三階の婆々《ばばあ》の影が、蚊帳の前を真暗《まっくら》な空の高い処で見えなくなる、――とやがてだ。  二三度続け様に、水道尻居まわりの屋根近《やねぢか》な、低い処で、鴉《からす》が啼《な》いた。夜烏も大引けの暗夜《やみ》だろう、可厭《いや》な声といったら。  すたすたとけたたましい出入りの跫音《あしおと》、四ツ五ツ入乱れて、駆出す……馳込《はしりこ》むといったように、しかも、なすりつけたように、滅入《めい》って、寮の門《かど》が慌《あわただ》しい。  私の袂《たもと》を、じっと引張って、 (あれ、照吉|姉《ねえ》さんが亡くなるんじゃなくッて)ッて、少し震えながらお三輪が言うと、 (引潮時だねちょうど……)と溜息《ためいき》をしたは、油絵の額縁を拵《こしら》える職人風の鉄拐《てっか》な人で、中での年寄だった。  婦人《おんな》の一人が、 (姉さん、姉さん、)  と、お三輪を、ちょうどその時だった、呼んだのが、なぜか、気が移って、今息を引取ろうという……照吉の枕許に着いていて言うような、こう堅くなった沈んだ声だった。 (ははい、)  とこれも幽《かすか》にね。  浜谷ッて人だ、その婦人は、お蘭さんというのが、 (内にお婆さんはおいでですか。)  と聞くじゃないか。」 「まあ、」と梅次は呼吸《いき》を引く。  民弥は静《しずか》に煙管《きせる》を置いて、 「お才さんだって、年じゃあるが、まだどうして、姉《あね》えで通る、……婆さんという見当では無い。皆《みんな》、それに、それだと顔は知っている。  女中がわりに送迎《おくりむかえ》をしている、前《ぜん》に、それ、柳橋の芸者だったという、……耳の遠い、ぼんやりした、何とか云う。」 「お組さん、」 「粋《いき》な年増《としま》だ、可哀相に。もう病気であんなになってはいるが……だって白髪《しらが》の役じゃ無い。 (いいえ、お婆さんは居ませんの。) (そう……)  と婦人が言ったっけ。附着《くッつ》くようにして、床の間の傍正面《わきしょうめん》にね、丸窓を背負《しょ》って坐っていた、二人、背後《うしろ》が突抜けに階子段《はしごだん》の大きな穴だ。  その二人、もう一人のが明座ッてやっぱり婦人で、今のを聞くと、二言ばかり、二人で密々《ひそひそ》と言ったが否や、手を引張合《ひっぱりあ》った様子で、……もっとも暗くってよくは分らないが。そしてスーと立って、私の背後《うしろ》へ、足袋の白いのが颯《さっ》と通って、香水の薫《かおり》が消えるように、次の四畳を早足でもって、トントンと階下《した》へ下りた。  また、皆《みんな》、黙ったっけ。もっとも誰が何をして、どこに居るんだか、暗いから分らない。  しばらく、袂《たもと》の重かったのは、お三輪がしっかり持ってるらしい。  急に上《あが》って来ないだろう。 (階下《した》じゃ起きているかい。) (起きてるわ、あの、だけど、才《さあ》ちゃんは照吉さんの許《とこ》へちょっと行ってるかも知れなくってよ。) (何は、何だっけ。) (お組さん、……ええ、火鉢の許《とこ》に居てよ。でも、もうあの通りでしょう、坐眠《いねむり》をしているかも分らないわ。) (三輪ちゃんか、ちょっと見てあげてくれないか、はばかりが分らないのかも知れないぜ。)と一人気を着けた。 (ええ、)  てッたが、もう可恐《こわ》くッて一人では立てません。  もう一ツ、袂が重くなって、 (一所に……兄さん、)  と耳の許《とこ》へ口をつける……頬辺《ほっぺた》が冷《ひや》りとするわね、鬢《びん》の毛で。それだけ内証《ないしょ》のつもりだろうが、あの娘《こ》だもの、皆《みんな》、聞えるよ。 (ちょいと、失礼。) (奥方に言いつけますぜ。)と誰か笑った、が、それも陰気さ。」        十八 「暗い階子《はしご》をすっと抜ける、と階下《した》は電燈《でんき》だ、お三輪は颯《さっ》と美しい。  見ると、どうです……二階から下して来て、足の踏場も無かった、食物、道具なんか、掃いたように綺麗に片附いて、門《かど》を閉めた。節穴へ明《あかり》が漏れて、古いから森のよう、下した蔀《しとみ》を背後《うしろ》にして、上框《あがりがまち》の、あの……客受けの六畳の真中処《まんなかどころ》へ、二人、お太鼓の帯で行儀よく、まるで色紙へ乗ったようでね、ける、かな、と端然《きちん》と坐ってると、お組が、精々気を利かしたつもりか何かで、お茶台に載っかって、ちゃんとお茶がその前へ二つ並んでいます……  お才さんは見えなかった。  ところが、お組があれだろう。男なら、骨《こつ》でなり、勘でなり、そこは跋《ばつ》も合わせようが、何の事は無い、松葉ヶ|谷《やつ》の尼寺へ、振袖の若衆《わかしゅ》が二人、という、てんで見当の着かないお客に、不意に二階から下りて坐られたんだから、ヤ、妙な顔で、きょとんとして。……  次の茶の室《ま》から、敷居際まで、擦出《ずりだ》して、煙草盆《たばこぼん》にね、一つ火を入れたのを前に置いて、御丁寧に、もう一つ火入《ひいれ》に火を入れている処じゃ無いか。  座蒲団《ざぶとん》は夏冬とも残らず二階、長火鉢の前の、そいつは出せず失礼と、……煙草盆を揃えて出した上へ、団扇《うちわ》を二本の、もうちっとそのままにしておいたら、お年玉の手拭《てぬぐい》の残ったのを、上包みのまま持って出て、別々に差出そうという様子でいる。  さあ、お三輪の顔を見ると、嬉しそうに双方を見較べて、吻《ほっ》と一呼吸《ひといき》を吐《つ》いた様子。 (才ちゃんは、)  とお三輪が、調子高に、直ぐに聞くと、前《さき》へ二つばかりゆっくりと、頷《うなず》き頷き、 (姉さんは、ちょいと照吉さんの様子を見に……あの、三輪ちゃん。)  と戸棚へ目を遣《や》って、手で円いものをちらりと拵《こしら》えたのは、菓子鉢へ何か? の暗号《あいず》。」  ああ、病気に、あわれ、耳も、声も、江戸の張《はり》さえ抜けた状《さま》は、糊《のり》を売るよりいじらしい。 「お三輪が、笑止そうに、 (はばかりへおいでなすったのよ。)  お組は黙って頭《かぶり》を振るのさ。いいえ、と言うんだ。そうすると、成程二人は、最初《はじめッ》からそこへ坐り込んだものらしい。 (こちらへいらっしゃいな。)とその一人が、お三輪を見て可懐《なつか》しそうに声を懸ける。 (佐川さん、)  と太《ひど》く疲れたらしく、弱々とその一人が、もっとも夜更しのせいもあろう、髪もぱらつく、顔色も沈んでいる。 (どうしたんです。)と、ちょうど可《い》い、その煙草盆を一つ引攫《ひっさら》って、二人の前へ行って、中腰に、敷島を一本。さあ、こうなると、多勢の中から抜出《ぬけだ》したので、常よりは気が置けない。 (頭痛でもなさるんですか、お心持が悪かったら、蔭へ枕を出させましょうか。) (いいえ、別に……) (御無理をなすっちゃ不可《いけ》ません。何だかお顔の色が悪い。) (そうですかね。)とお蘭さんが、片頬《かたほ》を殺《そ》ぐように手を当てる。 (ねえ、貴方《あなた》、お話しましょう。) (でも……) (ですがね、)  とちらちらと目くばせが閃《ひら》めく、――言おうか、言うまいかッて素振《そぶり》だろう。  聞かずにはおかれない。 (何です、何です、)  と肩を真中《まんなか》へ挟むようにして、私が寄る、と何か内証《ないしょ》の事とでも思ったろう、ぼけていても、そこは育ちだ。お組が、あの娘《こ》に目で知らせて、二人とも半分閉めた障子の蔭へ。ト長火鉢のさしの向いに、結綿《ゆいわた》と円髷《まげ》が、ぽっと映って、火箸が、よろよろとして、鉄瓶がぽっかり大きい。  お種さんが小さな声で、 (今、二階からいらっしゃりがけに、物干の処で、)  とすこし身を窘《すく》めて、一層低く、 (何か御覧なさりはしませんか。)  私は悚然《ぞっ》とした。」        十九 「が、わざと自若《じじゃく》として、 (何を、どんなものです。)って聞返したけれど、……今の一言で大抵分った、婆々《ばばあ》が居た、と言うんだろう。」 「可厭《いや》、」と梅次は色を変えた。 「大丈夫、まあ、お聞き、……というものは――内にお婆さんは居ませんか――ッて先刻《さっき》お三輪に聞いたから。……  はたして、そうだ。 (何ですか、お婆さんらしい年寄が、貴下《あなた》、物干から覗《のぞ》いていますよ。)  とまた一倍滅入った声して、お蘭さんが言うのを、お種さんが取繕うように、 (気のせいかも知れません、多分そうでしょうよ……) (いいえ、確《たしか》なの、佐川さん、それでね、ただ顔を出して覗くんじゃありません。梟《ふくろう》見たように、膝を立てて、蹲《しゃが》んでいて、窓の敷居の上まで、物干の板から密《そっ》と出たり、入ったり、) (ああ、可厭《いや》だ。)  と言って、揃って二人、ぶるぶると掃消《はらいけ》すように袖を振るんだ。  その人たちより、私の方が堪《たま》りません。で無くってさえ、蚊帳《かや》の前を伝わった形が、昼間の闇《くら》がり坂のに肖《に》ていて堪《たま》らない処だもの、……烏は啼《な》く……とすぐにあの、寮の門《かど》で騒いだろう。  気にしたら、どうして、突然《いきなり》ポンプでも打撒《ぶちま》けたいくらいな処だ。 (いつから?……) (つい今しがたから。) (全体|前《ぜん》にから、あの物干の窓が気になってしようがなかったんですよ。……時々、電車のですかね、電《いなびかり》ですか、薄い蒼《あお》いのが、真暗《まっくら》な空へ、ぼっと映《さ》しますとね、黄色くなって、大きな森が出て、そして、五重の塔の突尖《とっさき》が見えるんですよ……上野でしょうか、天竺《てんじく》でしょうか、何にしても余程遠くで、方角が分りませんほど、私たちが見て凄《すご》かったんです。  その窓に居るんですもの。) (もっとお言いなさいよ。) (何です。) (可厭《いや》だ、私は、) (もっととは?) (貴女《あなた》おっしゃいよ、)  と譲合った。トお種さんが、障《となり》のお三輪にも秘《かく》したそうに、 (頭にね、何ですか、手拭《てぬぐい》のようなものを、扁《ひらっ》たく畳んで載せているものなんです。貴下《あなた》がお話しの通りなの、……佐川さん。)  私は口が利けなかった。――無暗《むやみ》とね、火入《ひいれ》へ巻莨《まきたばこ》をこすり着けた。  お三輪の影が、火鉢を越して、震えながら、結綿《ゆいわた》が円髷《まげ》に附着《くッつ》いて、耳の傍《はた》で、 (お組さん、どこのか、お婆さんは、内へ入って来なくッて?) (お婆さん……)  とぼやけた声。 (大きな声をおしでないよ。)  と焦《じれ》ったそうにたしなめると、大きく合点《がってん》々々しながら、 (来ましたよ。)  ときょとんとして、仰向いて、鉄瓶を撫《な》でて澄まして言うんだ。」 「来たの、」  と梅次が蘇生《よみがえ》った顔になる。 「三人が入乱れて、その方へ膝を向けた。  御注進の意気込みで、お三輪も、はらりとこっちへ立って、とんと坐って、せいせい言って、 (来たんですって。ちょいと、どこの人。)  と、でも、やっぱり、内証で言った。  胸から半分、障子の外へ、お組が、皆《みんな》が、油へ水をさすような澄ました細面《ほそおもて》の顔を出して、 (ええ、一人お見えになりましてすよ。) (いつさ?) (今しがた、可厭《いや》な鴉《からす》が泣きましたろう……)  いや、もうそれには及ばぬものはまた意地悪く聞える、と見える。 (照吉さんの様子を見に、お才はんが駆出して行《ゆ》きなすった、門《かど》を開放《あけはな》したまんまでさ。)  皆《みんな》が振向いて門を見たんだ。」――        二十 「その癖|門《かど》の戸は閉《しま》っている。土間が狭いから、下駄が一杯、杖《ステッキ》、洋傘《こうもり》も一束。大勢|余《あんま》り隙《ひま》だから、歩行出《あるきだ》したように、もぞりもぞりと籐表《とうおもて》の目や鼻緒なんぞ、むくむく動く。  この人数が、二階に立籠《たてこも》る、と思うのに、そのまた静《しずか》さといったら無い。  お組がその儀は心得た、という顔で、 (後で閉めたんでございますがね、三輪《みい》ちゃん、お才はんが粗々《そそ》かしく、はあ、)  と私達を見て莞爾《にっこり》しながら、 (駆出して行《ゆ》きなすった、直き後でございますよ。入違いぐらいに、お年寄が一人、その隅《すみッ》こから、扁平《ひらべっ》たいような顔を出して覗《のぞ》いたんでございますよ。  何でも、そこで、お上《かみ》さんに聞いて来た、とそう言いなすったようでしたっけ……すたすた二階へお上《あが》りでございました。)  さ、耳の疎《うと》いというものは。 (どこの人よ、)  とお三輪が擦寄って、急込《せきこ》んで聞く。 (どこのお婆さんですか。) (お婆さんなの、ちょいと……)  私たちが訊《たず》ねたい意《こころ》は、お三輪もよく知っている。闇《くら》がり坂以来、気になるそれが、爺《じじ》とも婆《ばば》とも判別《みわけ》が着かんじゃないか。 (でしょうよ、はあ、……余程《よっぽど》の年紀《とし》ですから。) (いいえさ、年寄だってね、お爺さんもお婆さんもありますッさ。) (それがね、それですがね三輪ちゃん。)  と頭《かぶり》を掉《ふ》って、 (どっちだかよく分りません。背《せい》の低い、色の黄色|蒼《あお》い、突張《つっぱ》った、硝子《ビイドロ》で張ったように照々《てらてら》した、艶《つや》の可《い》い、その癖、随分よぼよぼして……はあ、手拭《てぬぐい》を畳んで、べったり被《かぶ》って。)  女たちは、お三輪と顔を見合わせた。 (それですが、どうかしましたか。) (どうもこうもなくってよ……)とお三輪は情《なさけ》ない声を出す。 (不可《いけ》ませんでしたかねえ。私はやっぱり会にいらしった方か、と思って。)  ……成程な、」  と民弥は言い掛けて苦笑した。 「会へいらしったには相違は無い。 (今時分来る人があって、お組さん。もう二時半だわ。) (ですがね、この土地ですし……ちょいと、御散歩にでもお出掛けなすったのが、帰って見えたかとも思いましたしさ……お怪《ばけ》の話をする、老人《としより》は居ないかッて、誰方《どなた》かお才はんに話しをしておいでだったし、どこか呼ばれて来たのかとも、後でね、考えた事ですよ。いえね、そんな汚い服装《なり》じゃありません。茶がかった鼠色の、何ですか無地もので、皺《しわ》のないのを着てでした。  けれども、顔で覗いてその土間へお入んさすった時は、背後《うしろ》向きでね、草履でしょう、穿物《はきもの》を脱いだのを、突然《いきなり》懐中《ふところ》へお入れなさるから、もし、ッて留めたんですが、聞かぬ振《ふり》で、そして何です、そのまんま後びっしゃりに、ずるッかずるッかそこを通って、)  と言われた時は、揃って畳の膝を摺《ず》らした。 (この階子段《はしごだん》の下から、向直ってのっそりのっそり、何だか不躾《ぶしつけ》らしい、きっと田舎のお婆さんだろうと思いました。いけ強情な、意地の悪い、高慢なねえ、その癖しょなしょなして、どうでしょう、可恐《おそろし》い裾長《すそなが》で、……地《じ》へ引摺るんでございましょうよ。  裾端折《すそはしょり》を、ぐるりと揚げて、ちょいと帯の処へ挟んだんですがねえ、何ですか、大きな尻尾を捲《ま》いたような、変な、それは様子なんです。……  おや、無面目《むめんもく》だよ、人の内へ、穿物《はきもの》を懐へ入れて、裾端折のまんま、まあ、随分なのが御連中の中に、とそう思っていたんですがね、へい、まぐれものなんでございますかい。)  わなわな震えて聞いていたっけ、堪《たま》らなくなった、と見えてお三輪は私に縋《すが》り着いた。  いや、お前も、可恐《おっか》ながる事は無い。……  もう、そこまでになると、さすがにものの分った姉さんたちだ、お蘭さんもお種さんも、言合わせたように。私にも分った。言出して見ると皆|同一《おんなじ》。」……        二十一 「茶番さ。」 「まあ!」 「誰か趣向をしたんだね、……もっとも、昨夜《ゆうべ》の会は、最初から百物語に、白装束や打散《ぶっち》らし髪《がみ》で人を怯《おど》かすのは大人気無い、素《す》にしよう。――それで、電燈《でんき》だって消さないつもりでいたんだから。  けれども、その、しないという約束の裏を行《ゆ》くのも趣向だろう。集った中にや、随分|娑婆気《しゃばっけ》なのも少くない。きっと誰かが言合わせて、人を頼んだか、それとも自から化けたか、暗い中から密《そっ》と摺抜《すりぬ》ける事は出来たんだ。……夜は更けたし、潮時を見計らって、……確《たしか》にそれに相違無い。  トそういう自分が、事に因ると、茶番の合棒《あいぼう》、発頭人《ほっとうにん》と思われているかも知れん。先刻《さっき》入ったという怪しい婆々《ばばあ》が、今現に二階に居て、傍《はた》でもその姿を見たものがあるとすれば……似たようなものの事を私が話したんだから。 (誰かの悪戯《いたずら》です。) (きっとそう、)  と婦人《おんな》だちも納得した。たちまち雲霧が晴れたように、心持もさっぱりしたろう、急に眠気《ねむけ》が除《と》れたような気がした、勇気は一倍。  怪《け》しからん。鳥の羽に怯《おびや》かされた、と一の谷に遁込《にげこ》んだが、緋《ひ》の袴《はかま》まじりに鵯越《ひよどりご》えを逆寄《さかよ》せに盛返す……となると、お才さんはまだ帰らなかった。お三輪も、恐《こわ》いには二階が恐い、が、そのまま耳の疎《うと》いのと差対《さしむか》いじゃなお遣切《やりき》れなかったか、また袂《たもと》が重くなって、附着《くッつ》いて上《あが》ります。  それでも、やっぱり、物干の窓の前は、私はじめ悚然《ぞっ》としたっけ。  ばたばたと忙《せわ》しそうに皆《みんな》坐った、旧《もと》の処へ。  で、思い思いではあるけれども、各自《めいめい》暗がりの中を、こう、……不気味も、好事《ものずき》も、負けない気も交《まじ》って、その婆々《ばばあ》だか、爺々《じじい》だか、稀有《けぶ》な奴《やつ》は、と透かした。が居ない……」  梅次が、確めるように調子を圧《おさ》えて、 「居ないの、」 「まあ、お待ち、」  と腕を組んで、胡坐《あぐら》を直して、伸上って一呼吸《ひといき》した。 「そこで、連中は、と見ると、いやもう散々の為体《ていたらく》。時間が時間だから、ぐったり疲切って、向うの縁側へ摺出《ずりだ》して、欄干《てすり》に臂《ひじ》を懸けて、夜風に当っているのなどは、まだ確《たしか》な分で。突臥《つっぷ》したんだの、俯向《うつむ》いたんだの、壁で頭を冷してるのもあれば、煙管《きせる》で額へ突支棒《つっかいぼう》をして、畳へ踣《の》めったようなのもある。……夜汽車が更けて美濃《みの》と近江《おうみ》の国境《くにざかい》、寝覚《ねざめ》の里とでもいう処を、ぐらぐら揺《ゆす》って行《ゆ》くようで、例の、大きな腹だの、痩《や》せた肩だの、帯だの、胸だの、ばらばらになったのが遠灯《とおあかり》で、むらむらと一面に浮いて漾《ただよ》う。 (佐川さん、)  と囁《ささや》くように、……幹事だけに、まだしっかりしていた沢岡でね。やっぱり私の隣りに坐ったのが、 (妙なものをお目に懸けます。) (え、)  それ、婆々か、と思うとそうじゃ無い。 (縁側の真中《まんなか》の――あの柱に、凭懸《よりかか》ったのは太田(西洋画家)さんですがね、横顔を御覧なさい、頬がげっそりして面長《おもなが》で、心持、目許《めもと》、ね、第一、髪が房々と真黒《まっくろ》に、生際《はえぎわ》が濃く……灯《あかり》の映る加減でしょう……どう見ても婦人《おんな》でしょう。婦人《おんな》も、産後か、病上《やみあが》りてった、あの、凄《すご》い蒼白《あおじろ》さは、どうです。  もう一人、)  と私の脇の下へ、頭を突込《つっこ》むようにして、附着《くッつ》いて、低く透かして、 (あれ、ね、床の間の柱に、仰向けに凭《もた》れた方は水島(劇評家)さんです。フト口を開《あ》きか何か、寝顔はという躾《たしなみ》で、額から顔へ、ぺらりと真白《まっしろ》は手巾《ハンケチ》を懸けなすった……目鼻も口も何にも無い、のっぺらぽう……え、百物語に魔が魅《さ》すって聞いたが、こんな事を言うんですぜ。)  ところが、そんなので無いのが、いつか魅《さ》し掛けているので気になる……」        二十二 「そうすると、趣向をしたのはこの人では無いらしい、企謀《もくろ》んだものなら一番懸けに、婆々《ばばあ》を見着けそうなものだから。 (ねえ、こっちにもう一つ異体《いてい》なのは、注連《しめ》でも張りそうな裸のお腹、……) (何じゃね、)と直きに傍《そば》だったので、琴の師匠は聞着けたが、 (いいえ、こちらの事で。)幹事が笑うと、欠伸《あくび》まじりで、それなり、うとうと。 (まあ、これは一番正体が知れていますが、それでも唐突《だしぬけ》に見ると吃驚《びっくり》しますぜ。で、やっぱりそれ、燭台《しょくだい》の傍《わき》の柱に附着《くッつ》いて胡坐《あぐら》でさ。妙に人相|形体《ぎょうてい》の変ったのが、三つとも、柱の処ですからね。私も今しがた敷居際の、仕切の壁の角を、摺出《ずりだ》した処ですよ。  どうです、心得ているから可《い》いようなものの、それでいながら変に凄《すご》い。気の弱い方が、転寝《うたたね》からふっと覚際《さめぎわ》に、ひょっと一目見たら、吃驚《びっくり》しますぜ。  魔物もやっぱり、蛇や蜘蛛《くも》なんぞのように、鴨居《かもい》から柱を伝って入って来ると見えますな。) (可厭《いや》ですね。)  婦人は二人、颯《さっ》と衣紋《えもん》を捌《さば》いて、欞子窓《れんじまど》の前を離れた、そこにも柱があったから。  そして、お蘭さんが、 (ああ、また……開《あ》いていますね。)  と言うんだ。……階下《した》から二階へ帰掛けに、何の茶番が! で、私がぴったり閉めた筈《はず》。その時は勿論、婆々も爺々も見えなかった、――その物干の窓が、今の間に、すかり、とこう、切放したように、黒雲立って開《あ》いている。  お種さんが、 (憚《はばか》り様、どうかそこをお閉め下さいまし。)  こう言って声を懸けた。――誰か次の室《ま》の、その窓際に坐っているのが見えたんだろう。  お聞き……そうすると……壁腰、――幹事の沢岡が気にして摺退《すりの》いたという、敷居外の柱の根の処で、 (な、)  と云う声だ! 私は氷を浴びたように悚然《ぞっ》とした。 (閉《しめ》い言うて、云わしゃれても、な、埒《らち》明《あ》かん。閉めれば、その跡から開けるで、やいの。)  聞くと、筋も身を引釣《ひッつ》った、私は。日暮に谷中の坂で聞いた、と同じじゃないか。もっとも、年寄りは誰某《だれそれ》と人を極《き》めないと、どの声も似てはいるが。  それに、言い方が、いかにも邪慳《じゃけん》に、意地悪く聞えたせいか、幹事が、対手《あいて》は知らず、ちょっと詰《なじ》るように、 (誰が明けます。) (誰や知らん。) (はあ、閉める障子を明ける人がありますか。) (棺の蓋《ふた》は一度じゃが、な、障子は幾度《いくたび》でも開けられる、閉《た》てられるがいの。) (可《い》いから、閉めて下さい、夜が更けて冷えるんですから、)と幹事も不機嫌な調子で言う。 (惜《お》きましょ。透通いて見えん事は無けれどもよ……障子越は目に雲霧じゃ、覗《のぞ》くにはっきりとよう見えんがいの。) (誰か、物干から覗くんですかね。) (彼《かれ》にも誰《たれ》にも、大勢、な、) (大勢、……誰です、誰です。)  と、幹事もはじめて、こう逆に捻向《ねじむ》いて背後《うしろ》を見た。 (誰や言うてもな、殿、殿たちには分らぬ、やいの、形も影も、暗い、暗い、暗い、見えぬぞ、殿。) (明るくしよう、)  と幹事も何か急込《せきこ》んで、 (三輪《みい》ちゃん、電燈《でんき》を、電燈《でんき》を、)  と云ったが、どうして、あの娘《こ》が動き得ますか。私の膝に、可哀相に、襟を冷たくして突臥《つっぷ》したッきり。 「措《お》きませ、措きませい。無駄な事よ、殿、地獄の火でも呼ばぬ事には、明るくしてかて、殿たちの目に、何が見えよう。……見えたら異事《こと》じゃぞよ、異事じゃぞよ、の。見えぬで僥倖《しあわせ》いの、……一目見たら、やあ、殿、殿たちどうなろうと思わさる。やあ、)  と口を、ふわふわと開けるかして、声が茫《ぼう》とする。」        二十三 「幹事が屹《きっ》として、 (誰です、お前さんは、)  と聞いた。この時、睡《ねむ》っていない人が一人でもあるとすれば、これは、私はじめ待構えた問《とい》だった。 (私《わし》か、私か、……殿、)  と聞返して、 (同じ仲間のものじゃが、やいの。) (夥間《なかま》? 私たちの?) (誰がや、……誰がや、)  と嘲《あざけ》るように二度言って、 (殿たちの。私《わし》が言うは近間に居る、大勢の、の、その夥間じゃ、という事いの。) (何かね、廓《くるわ》の人かね。) (されば、松の森、杉の林、山懐《やまふところ》の廓のものじゃ。) (どこから来ました。) (今日は谷中の下闇《したやみ》から、) (佐川さん、)  と少し声高に、幹事が私を呼ぶじゃないか。  私は黙っていたんだ。  しばらくして、 (何をしに……) (「とりあげ」をしょうために、な、殿、「とりあげ」に来たぞ、やいの。) (嬰児《あかんぼ》を産ませるのか。) (今、無い、ちょうど間に合うて「とりあげ」る小児《こども》は無い。) (そんな、誂《あつら》えた[#「誂えた」は底本では「誹えた」]ようなお産があるものか、お前さん、頼まれて来たんじゃ無いのかね。) (さればのう、頼まれても来たれど、な、催促にももう来たがいの。来たれどもの、仔細《しさい》あってまだ「とりあげ」られぬ。) (むむ、まだ産れないのか。) (何がいの、まだ、死にさらさぬ。) (死……死なぬとは?) (京への、京へ、遠くへ行ている、弟|和郎《わろ》に、一目《ひとめ》未練が残るげな。)  幹事はハタと口をつぐんだ。 (そこでじゃがや、姉《あね》めが乳の下の鳩落《みずおち》な、蝮指《まむしゆび》の蒼《あお》い爪で、ぎりぎりと錐《きり》を揉《も》んで、白い手足をもがもがと、黒髪を煽《あお》って悶《もだ》えるのを見て、鳥ならば活《い》きながら、羽毛《けば》を挘《むし》った処よの。さて、それだけで帰りがけじゃい、の、殿、その帰るさに、これへ寄った。) (そこに居るのは誰だ。)  と向うの縁側の処から、子爵が声を懸けた。……私たちは、フト千騎の味方を得たように思う。  ト此方《こなた》で澄まして、 (誰でも無いがの。) (いや、誰でも構わん。が、洒落《しゃれ》も串戯《じょうだん》も可加減《いいかげん》にした方が可《い》いと思う。こう言うと大人気ないが、婦人も居てだ。土地っ児《こ》の娘も聞いてる……一座をすれば我々の連中だ。悪戯《いたずら》も可《い》いが、余り言う事が残酷過ぎる。……外の事じゃない。  弟を愛して、――それが出来得る事でも出来ない事でも、その身代りに死ぬと云って覚悟をしている大病人。現に、夜伽《よとぎ》をして、あの通り、灯《あかり》がそこに見えるじゃないか。  それこそ、何にも知らぬ事だ。ちっとも差支えは無いようなものの、あわれなその婦《おんな》を、直ぐ向うに苦しませておいて、呑気《のんき》そうに、夜通しのこの会さえ、何だか心ないような気がして、私なんぞは鬱《ふさ》いでいるんだ。  仕様もあろうのに、その病人を材料《たね》にして、約束の生命《いのち》を「とりあげ」に来たが、一目弟を見たがるから猶予をした、胸に爪を立てて苦しませたとはどうだ。  聞いちゃおられん、余《あんま》り残酷で。可加減《いいかげん》にしておきなさい。誰だか。)  と凜々《りんりん》と云う。  聞きも果てずに、 (酷《むご》いとは、酷いとは何じゃ、の、何がや、向うの縁側のその殿、酷いとはいの、やいの、酷いとはいの。)  と畳掛けるように、しかも平気な様子。――向うの縁側のその殿――とは言種《いいぐさ》がどうだい。」        二十四 「子爵が屹《きっ》となって、坐り直った様《よう》だっけ。 (知らんか、残酷という事を、知らなけりゃ聞かせようじゃないか、前へ出ないか、おい、こっちへ入らんか。) (行《ゆ》こうのう、殿、その傍《そば》へ参ろうじゃがの、そこに汚穢《むさ》いものがあろうがや。早やそれが、汚穢うて汚穢うてならぬ。……退《の》けてくされませ、殿、)と言うんだ。 (汚《むさ》いもの、何がある。) (小丼に入れた、青梅の紫蘇巻《しそまき》じゃ。や、香もならぬ、ふっふっ。ええ、胸悪やの、先刻《さっき》にから。……早く退《ど》けしゃらぬと、私《わし》も嘔吐《もど》そう、嘔吐そう、殿。)  茶うけに出ていた甘露梅の事だ。何か、女児《おんなご》も十二三でなければ手に掛けないという、その清浄《しょうじょう》な梅漬を、汚穢くてならぬ、嘔吐すと云う。 (吐きたければ吐け、何だ。) (二寸の蚯蚓《みみず》、三寸の蛇、ぞろぞろと嘔吐すが怪《け》しゅうないか。)  余り言種《いいぐさ》が自棄《やけ》だから、 (蛇や蚯蚓は構わんが、そこらで食って来た饂飩《うどん》なんか吐かれては恐縮だ。悪い酒を呷《あお》ったろう。佐川さん、そこらにあったら片附けておやんなさい。)  私は密《そっ》と押遣《おしや》って、お三輪と一所に婦人だちを背後《うしろ》へ庇《かば》って、座を開く、と幹事も退《の》いて、私に並んで楯《たて》になる。  次の間かけて、敷居の片隅、大きな畳の穴が開いた。そこを……もくもく、鼠に茶色がかった朦朧《もうろう》とした形が、フッ、と出て、浮いて、通った。――  どうやら、臀《しり》から前《さき》へ、背後《うしろ》向きに入るらしい。  ト前へ被《かぶ》さった筈《はず》だけれども、琴の師匠の裸の腹はやっぱり見えた。縁側の柱の元へ、音もなく、子爵に並んだ、と見ると、……気のせいだろう、物干の窓は、ワヤワヤと気勢《けはい》立って、奴《やつ》が今居るあたりまで、ものの推込《おしこ》んだ様子がある。なぜか、向うの、その三階の蚊帳が、空へずッと高くなったように思う。  ちょうど、子爵とその婆《ばばあ》との間に挟まる、柱に凭《もた》れた横顔が婦人《おんな》に見える西洋画家は、フイと立って、真暗《まっくら》な座敷の隅へ姿を消した。真個《しん》に寐入っていたのでは無かったらしい。 (残酷というのはね、仮にもしろ、そんな、優しい、可憐《いじらし》い、――弟のために身代りになるというような、若い人の生命《いのち》を「とりあげ」に来たなどという事なんだ。世の中には、随分、娑婆塞《しゃばふさ》げな、死損《しにぞこな》いな、)  と子爵も間近に、よくその婆々《ばばあ》を認めたろう、……当てるように、そう言って、 (邪魔な生命《いのち》もあるもんだ。そんな奴《やつ》の胸に爪を立てる方がまだしもだな。) (その様な生命《いのち》はの、殿、殿たちの方で言うげな、……病《やみ》ほうけた牛、痩《や》せさらぼえた馬で、私等《わしら》がにも役にも立たぬ。……あわれな、というはの、膏《あぶら》の乗った肉じゃ、いとしいというはの、薫《かおり》の良《い》い血じゃぞや。な、殿。――此方衆《こなたしゅ》、鳥を殺さしゃるに、親子の恩愛を思わっしゃるか。獣を殺しますに、兄弟の、身代りの見境《みさかい》があるかいの。魚《うお》も虫も同様《おなじ》での。親があるやら、一粒種やら、可愛いの、いとしいの、分隔てをめされますかの。  弱いものいうたら、しみしんしゃくもさしゃらず……毛を毮《むし》る、腹を抜く、背を刮《ひら》く……串刺《くしざし》じゃ、ししびしおじゃ。油で煮る、火炎《ほのお》で焼く、活《い》きながら鱠《なます》にも刻むげなの、やあ、殿。……餓《ひも》じくばまだしもよ、栄耀《えよう》ぐいの味醂蒸《みりんむし》じゃ。  馴《な》れれば、ものよ、何がそれを、酷《ひど》いとも、いとしいとも、不便《ふびん》なとも思わず。――一ツでも繋《つな》げる生命《いのち》を、二羽も三頭《みッつ》も、飽くまでめさる。また食おうとさしゃる。  誰もそれを咎《とが》めはせまい。咎めたとて聞えまい、私《わし》も言わぬ、私もそれを酷《むご》いと言わぬぞ。知らぬからじゃ、不便《ふびん》もいとしいも知らねばこそいの。――何と、殿、酷《むご》い事を知らぬものは、何と殿、殿たちにも結構に、重宝にあろうが、やいの、のう、殿。) (何とでも言え、対手《あいて》にもならん。それでも何か、そういうものは人間か。)  と吐出すように子爵が言った。」        二十五 「ト其奴《そいつ》が薄笑いをしたようで、 (何じゃ、や、人間らしく無いと言うか。誰が人間になろうと云うた。殿たち、人間がさほど豪《えら》いか、へ、へ、へ、)  とさげすんで、 (この世のなかはの、人間ばかりのもので無い。私等《わしら》が国はの、――殿、殿たちが、目の及ばぬ処、耳に聞えぬ処、心の通わぬ処、――広大な国じゃぞの。  殿たちの空を飛ぶ鳥は、私等《わしら》が足の下を這廻《はいまわ》る、水底《みなそこ》の魚《うお》が天翔《あまか》ける。……烏帽子《えぼし》を被《かぶ》った鼠、素袍《すおう》を着た猿、帳面つける狐も居る、竈《かまど》を炊く犬も居《お》る、鼬《いたち》が米《こめ》舂《つ》く、蚯蚓《みみず》が歌う、蛇が踊る、……や、面白い世界じゃというて、殿たちがものとは較べられぬ。  何――不自由とは思わねども、ただのう、殿たち、人間が無いに因って、時々来ては攫《さら》えて行《ゆ》く……老若男女《ろうにゃくなんにょ》の区別は無い。釣針にかかった勝負じゃ、緑の髪も、白髪《しらが》も、顔はいろいろの木偶《でく》の坊。孫等《まごども》に人形の土産じゃがの、や、殿。殿たち人間の人形は、私等が国の玩弄物《おもちゃ》じゃがの。  身代りになる美《よ》い婦《おんな》なぞは、白衣《びゃくえ》を着せて雛《ひな》にしょう。芋殻《いもがら》の柱で突立《つった》たせて、やの、数珠《じゅず》の玉を胸に掛けさせ、)  いや、もう聞くに堪えん。 (まあ、面を取れ、真面目《まじめ》に話す。)と子爵が憤ったように言う。 (面、) (面だ。)  面だ、面だ、と囁《ささや》く声が、そこここに、ひそひそ聞えた。眠らずにいた連中には、残らず面に見えたらしい。  成程、そう言えば、端近へ出てから、例の灯《あかり》の映る、その扁平《ひらった》い、むくんだ、が瓜核《うりざね》といった顔は、蒼黄色《あおきいろ》に、すべすべと、皺《しわ》が無く、艶《つや》があって、皮|一重《ひとえ》曇った硝子《ビイドロ》のように透通って、目が穴に、窪んで、掘って、眉が無い。そして、唇の色が黒い。気が着くと、ものを云う時も、奴《やつ》、薄笑《うすわらい》をする時も、さながら彫刻《ほりつ》けたもののようで静《じっ》としたッきり、口も頬もビクとも動かぬ。眉……眉はぬっぺりとして跡も無い、そして、手拭《てぬぐい》を畳んだらしいものを、額下りに、べたん、と頭へ載せているんだ。 (いや、いや、)  と目鼻の動かぬ首を振って、 (除《と》るまい、除らぬは慈悲じゃ。この中には、な、画《え》を描《か》き彫刻《ほりもの》をする人もある、その美しいものは、私等《わしら》が国から、遠く指《ゆびさ》す花盛《はなざかり》じゃ、散らすは惜しいに因って、わざと除らぬぞ!……何が、気の弱い此方《こなた》たちが、こうして人間の面を被《かぶ》っておればこそ、の、私《わし》が顔を暴露《むきだ》いたら、さて、一堪《ひとたま》りものう、髯《ひげ》が生えた玩弄物《おもちゃ》に化《な》ろうが。) (灯《あかり》を点《つ》けよう、何しろ。)  と、幹事が今は蹌踉《よろ》けながら手探りで立とうとする。子爵が留めて、 (お待ちなさい。串戯《じょうだん》も嵩《こう》じると、抜差しが出来なくなる。誰か知らんが、悪戯《いたずら》がちと過ぎます。面は内証で取るが可《い》い、今の内ならちっとも分らん、電燈《でんき》を点《つ》けてからは消え憎《にく》くなるだろう。)  子爵はどこまでも茶番だ、と信ずるらしい。  ……後で聞くと、中には、対方《あいて》を拵《こしら》えて応答《うけこたえ》をする、子爵その人が、悪戯をしているんだ、と思ったのもあったんだ。 (明るさ、暗さの差別は無いが、の、の、殿、私《わし》がしょう事、それをせねば、日が出ましても消えはせぬが。) (可《よし》、何をしに来たんだ、ここへ。……まあ、仮にそっちが言う通りのものだとすると。) (されば、さればの、殿。……)  とまた落着いたように、ぐたりと胸を折った、蹲《うずくま》った形が挫《ひしゃ》げて見えて、 (身代りが、――その儀《こと》で、やいの、の、殿、まだ「とりあげ」が出来ぬに因って、一つな、このあたりで、間に合わせに、奪《と》ろう!……さて、どれにしょうぞ、と思うて見入って、視《なが》め廻《まわ》いていたがやいの、のう、殿。)  皆《みんな》、――黙った。 (殿、ふと気紛《きまぐ》れて出て、思懸《おもいがけ》のう懇《ねんごろ》申した験《しるし》じゃ、の、殿、望ましいは婦人《おなご》どもじゃ、何と上﨟《じょうろう》を奪ろうかの。)  婦人《おんな》たちのその時の様子は、察して可《よ》かろう。」        二十六 「奴《やつ》は勝ほこった体《てい》で、毛筋も動かぬその硝子面《ビイドロめん》を、穴蔵の底に光る朽木のように、仇艶《あだつや》を放って眗《みまわ》しながら、 (な、けれども、殿、殿たちは上﨟《じょうろう》を庇《かば》わしゃろうで、懇《ねんごろ》申した効《かい》に、たってとはよう言わぬ。選まっしゃれ、選んで指さっしゃれ、それを奪《と》ろう。……奪ろう。……それを奪ろう! やいの、殿。)  と捲《まく》し掛けて、 (ここには見えぬ、なれども、殿たちの妻、子、親、縁者、奴婢《しもべはした》、指さっしゃれば、たちどころに奪って見しょう。)  と言語道断な事を。  とはたはたと廂《ひさし》の幕が揺動いて、そのなぐれが、向う三階の蚊帳《かや》を煽《あお》った、その時、雨を持った風が颯《さっ》と吹いた。 (また……我を、と名告《なの》らっしゃれ……殿、殿ならば殿を奪《と》ろう。) (勝手にしろ、馬鹿な。)  と唾吐くように、忌々《いまいま》しそうに打棄《うっちゃ》って、子爵は、くるりと戸外《おもて》を向いた。 (随意《まま》にしょうでは気迷うぞいの、はて?……)  とその面はつけたりで、畳込んだ腹の底で声が出る。 (さて……どれもどれも好ましい。やあ、天井、屋の棟にのさばる和郎等《わろら》! どれが望みじゃ。やいの、)  と心持仰向くと、不意に何と……がらがら、どど、がッと鼠か鼬《いたち》だろう、蛇も交《まじ》るか、凄《すさま》じく次の室《ま》を駆けて荒廻ると、ばらばらばらばらと合せ目を透いて埃《ほこり》が落ちる。 (うむ、や、和郎等《わろども》。埃を浴びせた、その埃のかかったものが欲《ほし》いと言うかの――望みかいの。)  ばたばた、はらはらと、さあ、情《なさけ》ない、口惜《くやし》いが、袖や袂《たもと》を払《はた》いた音。 (やれ羽《は》打つ、へへへ、小鳥のように羽掻《はがい》を煽《あお》つ、雑魚《ざこ》のように刎《は》ねる、へへ。……さて、騒ぐまい、今がはそで無い。そうでは無いげじゃ。どの玩弄物《おもちゃ》欲しい、と私《わし》が問うたでの、前《さき》へ悦喜の雀躍《こおどり》じゃ、……這奴等《しゃつら》、騒ぐまい、まだ早い。殿たち名告《なの》らずば、やがて、選《え》ろう、選取《よりど》りに私が選《よ》って奪《と》ろう!) (勝手にして、早く退座をなさい、余りといえば怪《け》しからん。無礼だ、引取れ。)  と子爵が喝した、叱ったんだ。 (催促をせずと可《よ》うござる。)  と澄まし返って、いかにも年寄くさく口の裡《うち》で言った、と思うと、 (やあ、)  と不意に調子を上げた。ものを呼びつけたようだっけ。幽《かすか》に一つ、カアと聞えて、またたく間に、水道尻から三ツのその灯《あかり》の上へかけて、棟近い処で、二三羽、四五羽、烏が啼《な》いた、可厭《いや》な声だ。 (カアカアカア――)  と婆々《ばばあ》が遣《や》ったが、嘴《くちばし》も尖《とが》ったか、と思う、その黒い唇から、正真《しょうじん》の烏の声を出して、 (カアカア来しゃれえ! 火の車で。)  と喚《わめ》く、トタンに、吉原八町、寂《しん》として、廓《くるわ》の、地《じ》の、真中《まんなか》の底から、ただ一ツ、カラカラと湧上《わきあが》ったような車の音。陰々と響いて、――あけ方早帰りの客かも知れぬ――空へ舞上ったように思うと、凄《すご》い音がして、ばッさりと何か物干の上へ落ちた。 (何だ!)  と言うと、猛然として、ずんと立って、堪えられぬ……で、地響《じひびき》で、琴の師匠がずかずかと行って、物干を覗《のぞ》いたっけ。  裸脱《はだぬ》ぎの背に汗を垂々《たらたら》と流したのが、灯《ともし》で幽《かすか》に、首を暗夜《やみ》へ突込《つっこ》むようにして、 (おお、稲妻が天王寺の森を走る、……何じゃ、これは、烏の死骸をどうするんじゃい。)と引掴《ひッつか》んで来て、しかも癪《しゃく》に障った様子で、婆々《ばばあ》の前へ敲《たた》きつけた。  あ、弱った。……  その臭気といったらない。  皆《みんな》、ただ呼吸《いき》を詰めた。  婆々が、ずらずらとその蛆《うじ》の出そうな烏の死骸を、膝の前へ、蒼《あお》い頤《おとがい》の下へ引附けた。」        二十七 「で、頭《ず》を下げて、熟《じっ》と見ながら、 (蠅《はえ》よ、蠅よ、蒼蠅《あおばえ》よ。一つ腸《はらわた》の中を出《で》され、ボーンと。――やあ、殿、上﨟《じょうろう》たち、私《わし》がの、今ここを引取るついでに、蒼蠅を一ツ申そう。ボーンと飛んで、額、頸首《えりくび》、背《せなか》、手足、殿たちの身体《からだ》にボーンと留まる、それを所望じゃ。物干へ抜いて、大空へ奪《と》って帰ろう。名告《なの》らしゃれ。蠅がたからば名告らしゃれ。名告らぬと卑怯《ひきょう》なぞ。人間は卑怯なものと思うぞよ。笑うぞよ……可《よ》いか、蒼蠅を忘れまい。  蠅よ、蠅よ、蒼蠅よ、ボーンと出され、おじゃった! おお!)  一座残らず、残念ながら動揺《どよ》めいた。  トふわりと起《た》ったが、その烏の死骸をぶら下げ、言おうようの無い悪臭を放って、一寸、二寸、一尺ずつ、ずるずると引いた裾《すそ》が、長く畳を摺《す》ったと思うと、はらりと触ったかして、燭台《しょくだい》が、ばったり倒れた。  その時、捻向《ねじむ》いて、くなくなと首を垂れると、摺《ず》った後褄《うしろづま》を、あの真黒《まっくろ》な嘴《くちばし》で、ぐい、と啣《くわ》えて上げた、と思え。……鳥のような、獣のような異体《いてい》な黄色い脚を、ぬい、と端折《はしょ》った、傍若無人で。 (ボーン、ボーン、ボーン、)と云うのが、ねばねばと、重っくるしく、納豆の糸を引くように、そして、点々《ぽちぽち》と切れて、蒼蠅の羽音やら、奴《やつ》の声やら分らぬ。  そのまま、ふわりとして、飜然《ひらり》と上《あが》った。物干の暗黒《やみ》へ影も隠れる。 (あれ。)  と真前《まっさき》に言ったはお三輪で。 (わ、)とまた言った人がある。  さあ、膝で摺《ず》る、足で退《の》く、ばたばたと二階の口まで駆出したが、 (ええ)と引返《ひっかえ》したは誰だっけ。……蠅が背後《うしろ》から縋《すが》ったらしい。  物干から、 (やあ、小鳥のように羽打つ、雑魚《ざこ》のように刎《は》ねる。はて、笑止じゃの。名告《なの》れ、名告らぬか、さても卑怯な。やいの、殿たち。上﨟たち。へへへ、人間ども。ボーン、ボーン、ボーン、あれ、それそれ転ぶわ、踣《の》めるわ、這《は》うわ。とまったか、たかったか。誰じゃ、名告れ、名告らぬか、名告れ。……ボーン、)  と云う時、稲妻が閃《ひら》めいて、遠い山を見るように天王寺の森が映った。  皆ただ、蠅の音がただ、雷《はたたがみ》のように人々の耳に響いた。  ただ一縮みになった時、 (ほう、)  と心着いたように、物干のその声が、 (京から人が帰ったような。早や夜もしらむ。さらば、身代りの婦《おんな》を奪ろう!……も一つ他《ほか》にもある。両の袂《たもと》で持重《もちおも》ろう。あとは背負うても、抱いても荷じゃ。やあ、殿、上﨟たち、此方衆《こなたしゅ》にはただ遊うだじゃいの。道すがら懇《ねんごろ》申した戯《たわむれ》じゃ。安堵《あんど》さっしゃれ、蠅は掌《たなそこ》へ、ハタと掴《つか》んだ。  さるにても卑怯なの、は、は、は、梅干で朝の茶まいれ、さらばじゃ。)  ばっと屋上《やのうえ》を飛ぶ音がした。  フッと見ると、夜が白《しら》んで、浅葱《あさぎ》になった向うの蚊帳《かや》へ、大きな影がさしたっけ。けたたましい悲鳴が聞えて、白地の浴衣を、扱帯《しごき》も蹴出《けだ》しも、だらだらと血だらけの婦《おんな》の姿が、蚊帳の目が裂けて出る、と行燈《あんどう》が真赤《まっか》になって、蒼い細い顔が、黒髪《かみ》を被《かぶ》りながら黒雲の中へ、ばったり倒れた。  ト車軸を流す雨になる。  電燈が点《つ》いたが、もうその色は白かった。  婆々《ばばあ》の言った、両の袂の一つであろう、無理心中で女郎が一人。――  戸を開ける音、閉める音。人影が燈籠《とうろう》のように、三階で立騒いだ。  照吉は……」  と民弥は言って、愁然《しゅうぜん》とすると、梅次も察して、ほろりと泣く。 「ああ、その弟ばかりじゃない、皆《みんな》の身代りになってくれたように思う。」 [#地から1字上げ]明治四十四(一九一一)年三月 底本:「泉鏡花集成4」ちくま文庫、筑摩書房    1995(平成7)年10月24日第1刷発行    2004(平成16)年3月20日第2刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第十三卷」岩波書店    1941(昭和16)年6月30日発行 ※誤植の確認には底本の親本を参照しました。 入力:土屋隆 校正:門田裕志 2006年6月26日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。