朱日記 泉鏡花 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)小使《こづかい》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)職員室|真中《まんなか》の [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)※[#「火+發」、463-5] -------------------------------------------------------        一 「小使《こづかい》、小ウ使。」  程もあらせず、……廊下を急いで、もっとも授業中の遠慮、静《しずか》に教員控所の板戸の前へ敷居越に髯面《ひげづら》……というが頤《あご》頬《ほお》などに貯えたわけではない。不精で剃刀《かみそり》を当てないから、むじゃむじゃとして黒い。胡麻塩頭《ごましおあたま》で、眉の迫った渋色の真正面《まっしょうめん》を出したのは、苦虫と渾名《あだな》の古物《こぶつ》、但し人の好《い》い漢《おとこ》である。 「へい。」  とただ云ったばかり、素気《そっけ》なく口を引結んで、真直《まっすぐ》に立っている。 「おお、源助か。」  その職員室|真中《まんなか》の大卓子《おおテエブル》、向側の椅子《いす》に凭《かか》った先生は、縞《しま》の布子《ぬのこ》、小倉《こくら》の袴《はかま》、羽織は袖《そで》に白墨|摺《ずれ》のあるのを背後《うしろ》の壁に遣放《やりぱな》しに更紗《さらさ》の裏を捩《よじ》ってぶらり。髪の薄い天窓《あたま》を真俯向《まうつむ》けにして、土瓶やら、茶碗やら、解《とき》かけた風呂敷包、混雑《ごった》に職員のが散《ちら》ばったが、その控えた前だけ整然として、硯箱《すずりばこ》を右手《めて》へ引附け、一冊覚書らしいのを熟《じっ》と視《なが》めていたのが、抜上った額の広い、鼻のすっと隆《たか》い、髯の無い、頤《おとがい》の細い、眉のくっきりした顔を上げた、雑所《ざいしょ》という教頭心得《きょうとうこころえ》。何か落着かぬ色で、 「こっちへ入れ。」  と胸を張って袴の膝へちゃんと手を置く。  意味ありげな体《てい》なり。茶碗を洗え、土瓶に湯を注《さ》せ、では無さそうな処から、小使もその気構《きがまえ》で、卓子《テエブル》の角《かど》へ進んで、太い眉をもじゃもじゃと動かしながら、 「御用で?」 「何は、三右衛門《さんえもん》は。」と聞いた。  これは背の抜群に高い、年紀《とし》は源助より大分|少《わか》いが、仔細《しさい》も無かろう、けれども発心をしたように頭髪をすっぺりと剃附《そりつ》けた青道心《あおどうしん》の、いつも莞爾々々《にこにこ》した滑稽《おど》けた男で、やっぱり学校に居る、もう一人の小使である。 「同役(といつも云う、士《さむらい》の果《はて》か、仲間《ちゅうげん》の上りらしい。)は番でござりまして、唯今《ただいま》水瓶《みずがめ》へ水を汲込《くみこ》んでおりまするが。」 「水を汲込んで、水瓶へ……むむ、この風で。」  と云う。閉込《しめこ》んだ硝子窓《がらすまど》がびりびりと鳴って、青空へ灰汁《あく》を湛《たた》えて、上から揺《ゆす》って沸立たせるような凄《すさ》まじい風が吹く。  その窓を見向いた片頬《かたほ》に、颯《さっ》と砂埃《すなほこり》を捲《ま》く影がさして、雑所は眉を顰《ひそ》めた。 「この風が、……何か、風……が烈《はげ》しいから火の用心か。」  と唐突《だしぬけ》に妙な事を言出した。が、成程、聞く方もその風なれば、さまで不思議とは思わぬ。 「いえ、かねてお諭しでもござりますし、不断十分に注意はしまするが、差当り、火の用心と申すではござりませぬ。……やがて、」  と例の渋い顔で、横手の柱に掛《かか》ったボンボン時計を睨《にら》むようにじろり。ト十一時……ちょうど半。――小使の心持では、時間がもうちっと経《た》っていそうに思ったので、止まってはおらぬか、とさて瞻《みつ》めたもので。――風に紛れて針の音が全く聞えぬ。  そう言えば、全校の二階、下階《した》、どの教場からも、声一つ、咳《しわぶき》半分響いて来ぬ、一日中、またこの正午《ひる》になる一時間ほど、寂寞《ひっそり》とするのは無い。――それは小児《こども》たちが一心不乱、目まじろぎもせずにお弁当の時を待構えて、無駄な足踏みもせぬからで。静《しずか》なほど、組々の、人一人の声も澄渡って手に取るようだし、広い職員室のこの時計のカチカチなどは、居ながら小使部屋でもよく聞えるのが例の処、ト瞻《みつ》めても針はソッとも響かぬ。羅馬数字《ロオマすうじ》も風の硝子窓のぶるぶると震うのに釣られて、波を揺《ゆす》って見える。が、分銅だけは、調子を違えず、とうんとうんと打つ――時計は止まったのではない。 「もう、これ午餉《おひる》になりまするで、生徒方が湯を呑みに、どやどやと見えますで。湯は沸《たぎ》らせましたが――いや、どの小児衆《こどもしゅ》も性急で、渇かし切ってござって、突然《いきなり》がぶりと喫《あが》りまするで、気を着けて進ぜませぬと、直きに火傷《やけど》を。」 「火傷を…うむ。」  と長い顔を傾ける。        二 「同役とも申合わせまする事で。」  と対向《さしむか》いの、可なり年配のその先生さえ少《わか》く見えるくらい、老実な語《くち》。 「加減をして、うめて進ぜまする。その貴方様《あなたさま》、水をフト失念いたしましたから、精々《せっせ》と汲込んでおりまするが、何か、別して三右衛門《さんえむ》にお使でもござりますか、手前ではお間には合い兼ね……」  と言懸けるのを、遮って、傾けたまま頭《かぶり》を掉《ふ》った。 「いや、三右衛門でなくってちょうど可《い》いのだ、あれは剽軽《ひょうきん》だからな。……源助、実は年上のお前を見掛けて、ちと話があるがな。」  出方が出方で、源助は一倍まじりとする。  先生も少し極《きま》って、 「もっとこれへ寄らんかい。」  と椅子をかたり。卓子《テエブル》の隅を座取って、身体《からだ》を斜《はす》に、袴《はかま》をゆらりと踏開いて腰を落しつける。その前へ、小使はもっそり進む。 「卓子の向う前でも、砂埃《すなッぽこり》に掠《かす》れるようで、話がよく分らん、喋舌《しゃべ》るのに骨が折れる。ええん。」と咳《しわぶき》をする下から、煙草《たばこ》を填《つ》めて、吸口をト頬へ当てて、 「酷《ひど》い風だな。」 「はい、屋根も憂慮《きづか》われまする……この二三年と申しとうござりまするが、どうでござりましょうぞ。五月も半ば、と申すに、北風《ならい》のこう烈《はげ》しい事は、十年|以来《このかた》にも、ついぞ覚えませぬ。いくら雪国でも、貴下様《あなたさま》、もうこれ布子から単衣《ひとえもの》と飛びまする処を、今日《こんにち》あたりはどういたして、また襯衣《しゃつ》に股引《ももひき》などを貴下様、下女の宿下り見まするように、古葛籠《ふるつづら》を引覆《ひっくりかえ》しますような事でござりまして、ちょっと戸外《おもて》へ出て御覧《ごろう》じませ。鼻も耳も吹切られそうで、何とも凌《しの》ぎ切れませんではござりますまいか。  三右衛門なども、鼻の尖《さき》を真赤《まっか》に致して、えらい猿田彦《さるだひこ》にござります。はは。」  と変哲もない愛想笑《あいそうわらい》。が、そう云う源助の鼻も赤し、これはいかな事、雑所先生の小鼻のあたりも紅《べに》が染《にじ》む。 「実際、厳《きびし》いな。」  と卓子《テエブル》の上へ、煙管《きせる》を持ったまま長く露出《むきだ》した火鉢へ翳《かざ》した、鼠色の襯衣《しゃつ》の腕を、先生ぶるぶると震わすと、歯をくいしばって、引立《ひった》てるようにぐいと擡《もた》げて、床板へ火鉢をどさり。で、足を踏張《ふんば》り、両腕をずいと扱《しご》いて、 「御免を被《こうむ》れ、行儀も作法も云っちゃおられん、遠慮は不沙汰《ぶさた》だ。源助、当れ。」 「はい、同役とも相談をいたしまして、昨日《きのう》にも塞《ふさ》ごうと思いました、部屋(と溜《たまり》の事を云う)の炉《ろ》にまた噛《かじ》りつきますような次第にござります。」と中腰になって、鉄火箸《かなひばし》で炭を開《あら》けて、五徳を摺《ず》って引傾《ひっかた》がった銅の大薬鑵《おおやかん》の肌を、毛深い手の甲でむずと撫《な》でる。 「一杯|沸《たぎ》ったのを注《さ》しましょうで、――やがてお弁当でござりましょう。貴下様組は、この時間御休憩で?」 「源助、その事だ。」 「はい。」  と獅噛面《しかみづら》を後へ引込《ひっこ》めて目を据える。  雑所は前のめりに俯向《うつむ》いて、一服吸った後を、口でふっふっと吹落して、雁首《がんくび》を取って返して、吸殻を丁寧に灰に突込《つっこ》み、 「閉込んでおいても風が揺《ゆす》って、吸殻一つも吹飛ばしそうでならん。危いよ、こんな日は。」  とまた一つ灰を浴《あび》せた。瞳《ひとみ》を返して、壁の黒い、廊下を視《なが》め、 「可《い》い塩梅《あんばい》に、そっちからは吹通さんな。」 「でも、貴方様まるで野原でござります。お児達《こだち》の歩行《ある》いた跡は、平一面《たいらいちめん》の足跡でござりまするが。」 「むむ、まるで野原……」  と陰気な顔をして、伸上って透かしながら、 「源助、時に、何、今|小児《こども》を一人、少し都合があって、お前達の何だ、小使溜《こづかいだまり》へ遣《や》ったっけが、何は、……部屋に居るか。」 「居《お》りまするで、しょんぼりとしましてな。はい、……あの、嬢ちゃん坊ちゃんの事でござりましょう、部屋に居りますでございますよ。」        三 「嬢ちゃん坊ちゃん。」  と先生はちょっと口の裡《うち》で繰返したが、直ぐにその意味《こころ》を知って頷《うなず》いた。今年|九歳《ここのつ》になる、校内第一の綺麗《きれい》な少年、宮浜浪吉といって、名まで優しい。色の白い、髪の美しいので、源助はじめ、嬢ちゃん坊ちゃん、と呼ぶのであろう?…… 「しょんぼりしている。小使溜《こづかいだまり》に。」 「時ならぬ時分に、部屋へぼんやりと入って来て、お腹が痛むのかと言うて聞いたでござりますが、雑所先生が小使溜へ行っているように仰有《おっしゃ》ったとばかりで、悄《しお》れ返っておりまする。はてな、他《ほか》のものなら珍らしゅうござりませぬ。この児《こ》に限って、悪戯《いたずら》をして、課業中、席から追出されるような事はあるまいが、どうしたものじゃ。……寒いで、まあ、当りなさいと、炉の縁へ坐らせまして、手前も胡坐《あぐら》を掻《か》いて、火をほじりほじり、仔細《しさい》を聞きましても、何も言わずに、恍惚《うっとり》したように鬱込《ふさぎこ》みまして、あの可愛げに掻合《かきあわ》せた美しい襟に、白う、そのふっくらとした顋《あご》を附着《くッつ》けて、頻《しき》りとその懐中《ふところ》を覗込《のぞきこ》みますのを、じろじろ見ますと、浅葱《あさぎ》の襦袢《じゅばん》が開《はだ》けまするまで、艶々《つやつや》露も垂れるげな、紅《べに》を溶いて玉にしたようなものを、溢《こぼ》れまするほど、な、貴方様《あなたさま》。」 「むむそう。」  と考えるようにして、雑所はまた頷く。 「手前、御存じの少々|近視眼《ちかめ》で。それへこう、霞《かすみ》が掛《かか》りました工合《ぐあい》に、薄い綺麗な紙に包んで持っているのを、何か干菓子ででもあろうかと存じました処。」 「茱萸《ぐみ》だ。」と云って雑所は居直る。話がここへ運ぶのを待構えた体《てい》であった。 「で、ござりまするな。目覚める木の実で、いや、小児《こども》が夢中になるのも道理でござります。」と感心した様子に源助は云うのであった。  青梅もまだ苦い頃、やがて、李《すもも》でも色づかぬ中《うち》は、実際|苺《いちご》と聞けば、小蕪《こかぶ》のように干乾《ひから》びた青い葉を束ねて売る、黄色な実だ、と思っている、こうした雪国では、蒼空《あおぞら》の下に、白い日で暖く蒸す茱萸の実の、枝も撓々《たわわ》な処など、大人さえ、火の燃ゆるがごとく目に着くのである。 「家《うち》から持ってござったか。教場へ出て何の事じゃ、大方そのせいで雑所様に叱られたものであろう。まあ、大人しくしていなさい、とそう云うてやりまして、実は何でござります。……あの児《こ》のお詫《わび》を、と間を見ておりました処を、ちょうどお召でござりまして、……はい。何も小児でござります。日頃が日頃で、ついぞ世話を焼かした事の無い、評判の児でござりまするから、今日《こんにち》の処は、源助、あの児になりかわりまして御訴訟。はい、気が小さいかいたして、口も利けずに、とぼんとして、可哀《かわい》や、病気にでもなりそうに見えまするがい。」と揉手《もみで》をする。 「どうだい、吹く事は。酷《ひど》いぞ。」  と窓と一所に、肩をぶるぶると揺《ゆす》って、卓子《テエブル》の上へ煙管《きせる》を棄《す》てた。 「源助。」  と再度|更《あらたま》って、 「小児《こども》が懐中《ふところ》の果物なんか、袂《たもと》へ入れさせれば済む事よ。  どうも変に、気に懸《かか》る事があってな、小児どころか、お互に、大人が、とぼんとならなければ可《い》いが、と思うんだ。  昨日夢を見た。」  と注《つ》いで置きの茶碗に残った、冷《つめた》い茶をがぶりと飲んで、 「昨日な、……昨夜《ゆうべ》とは言わん。が、昼寝をしていて見たのじゃない。日の暮れようという、そちこち、暗くなった山道だ。」 「山道の夢でござりまするな。」 「否《や》、実際山を歩行《ある》いたんだ。それ、日曜さ、昨日は――源助、お前は自《おのず》から得ている。私は本と首引《くびッぴ》きだが、本草《ほんぞう》が好物でな、知ってる通り。で、昨日ちと山を奥まで入った。つい浮々《うかうか》と谷々へ釣込まれて。  こりゃ途中で暗くならなければ可《い》いが、と山の陰がちと憂慮《きづか》われるような日ざしになった。それから急いで引返したのよ。」        四 「山時分じゃないから人ッ子に逢《あ》わず。また茸狩《たけがり》にだって、あんなに奥まで行《ゆ》くものはない。随分|路《みち》でもない処を潜ったからな。三ツばかり谷へ下りては攀上《よじのぼ》り、下りては攀上りした時は、ちと心細くなった。昨夜《ゆうべ》は野宿かと思ったぞ。  でもな、秋とは違って、日の入《いり》が遅いから、まあ、可《よ》かった。やっと旧道に繞《めぐ》って出たのよ。  今日とは違った嘘のような上天気で、風なんか薬にしたくもなかったが、薄着で出たから晩方は寒い。それでも汗の出るまで、脚絆掛《きゃはんがけ》で、すたすた来ると、幽《かすか》に城が見えて来た。城の方にな、可厭《いや》な色の雲が出ていたには出ていたよ――この風になったんだろう。  その内に、物見の松の梢《こずえ》の尖《さき》が目に着いた。もう目の前の峰を越すと、あの見霽《みはら》しの丘へ出る。……後は一雪崩《ひとなだれ》にずるずると屋敷町の私の内へ、辷《すべ》り込まれるんだ、と吻《ほっ》と息をした。ところがまた、知ってる通り、あの一町場《ひとちょうば》が、一方谷、一方|覆被《おっかぶ》さった雑木林で、妙に真昼間《まっぴるま》も薄暗い、可厭《いや》な処じゃないか。」 「名代《なだい》な魔所でござります。」 「何か知らんが。」  と両手で頤《あご》を扱《しご》くと、げっそり瘠《や》せたような顔色《かおつき》で、 「一《ひと》ッきり、洞穴《ほらあな》を潜《くぐ》るようで、それまで、ちらちら城下が見えた、大川の細い靄《もや》も、大橋の小さな灯も、何も見えぬ。  ざわざわざわざわと音がする。……樹の枝じゃ無い、右のな、その崖《がけ》の中腹ぐらいな処を、熊笹《くまざさ》の上へむくむくと赤いものが湧《わ》いて出た。幾疋《いくひき》となく、やがて五六十、夕焼がそこいらを胡乱《うろ》つくように……皆《みんな》猿だ。  丘の隅にゃ、荒れたが、それ山王《さんのう》の社《やしろ》がある。時々山奥から猿が出て来るという処だから、その数の多いにはぎょっとしたが――別に猿というに驚くこともなし、また猿の面《つら》の赤いのに不思議はないがな、源助。  どれもこれも、どうだ、その総身の毛が真赤《まっか》だろう。  しかも数が、そこへ来た五六十疋という、そればかりじゃない。後へ後へと群《むらが》り続いて、裏山の峰へ尾を曳《ひ》いて、遥《はる》かに高い処から、赤い滝を落し懸けたのが、岩に潜《くぐ》ってまた流れる、その末の開いた処が、目の下に見える数よ。最も遠くの方は中絶えして、一ツ二ツずつ続いたんだが、限りが知れん、幾百居るか。  で、何の事はない、虫眼鏡で赤蟻《あかあり》の行列を山へ投懸けて視《なが》めるようだ。それが一ツも鳴かず、静まり返って、さっさっさっと動く、熊笹がざわつくばかりだ。  夢だろう、夢でなくって。夢だと思って、源助、まあ、聞け。……実は夢じゃないんだが、現在見たと云ってもほんとにはしまい。」  源助はこれを聞くと、いよいよ渋って、頤《あご》の毛をすくすくと立てた。 「はあ。」  と息を内へ引きながら、 「随分、ほんとうにいたします。場所がらでござりまするで。雑所様、なかなか源助は疑いませぬ。」 「疑わん、ほんとに思う。そこでだ、源助、ついでにもう一ツほんとにしてもらいたい事がある。  そこへな、背後《うしろ》の、暗い路をすっと来て、私に、ト並んだと思う内に、大跨《おおまた》に前へ抜越《ぬけこ》したものがある。……  山遊びの時分には、女も駕籠《かご》も通る。狭くはないから、肩摺《かたず》れるほどではないが、まざまざと足が並んで、はっと不意に、こっちが立停《たちど》まる処を、抜けた。  下闇《したやみ》ながら――こっちももう、僅《わず》かの処だけれど、赤い猿が夥《おびただ》しいので、人恋しい。  で透かして見ると、判然《はっきり》とよく分った。  それも夢かな、源助、暗いのに。――  裸体《はだか》に赤合羽《あかがっぱ》を着た、大きな坊主だ。」 「へい。」と源助は声を詰めた。 「真黒《まっくろ》な円い天窓《あたま》を露出《むきだし》でな、耳元を離した処へ、その赤合羽の袖を鯱子張《しゃちこば》らせる形に、大《おおき》な肱《ひじ》を、ト鍵形《かぎなり》に曲げて、柄の短い赤い旗を飜々《ひらひら》と見せて、しゃんと構えて、ずんずん通る。……  旗《はた》は真赤《まっか》に宙を煽《あお》つ。  まさかとは思う……ことにその言った通り人恋しい折からなり、対手《あいて》の僧形《そうぎょう》にも何分《なにぶん》か気が許されて、 (御坊、御坊。)  と二声ほど背後《うしろ》で呼んだ。」        五 「物凄《ものすご》さも前《さき》に立つ。さあ、呼んだつもりの自分の声が、口へ出たか出んか分らないが、一も二もない、呼んだと思うと振向いた。  顔は覚えぬが、頤《あご》も額も赤いように思った。 (どちらへ?)  と直ぐに聞いた。  ト竹を破《わ》るような声で、 (城下を焼きに参るのじゃ。)と言う。ぬいと出て脚許《あしもと》へ、五つ六つの猿が届いた。赤い雲を捲《ま》いたようにな、源助。」 「…………」小使は口も利かず。 「その時、旗を衝《つ》と上げて、 (物見からちと見物なされ。)と云うと、上げたその旗を横に、飜然《ひらり》と返して、指したと思えば、峰に並んだ向うの丘の、松の梢《こずえ》へ颯《さっ》と飛移ったかと思う、旗の煽《あお》つような火が松明《たいまつ》を投附けたように※[#「火+發」、463-5]《ぱっ》と燃え上る。顔も真赤《まっか》に一面の火になったが、遥《はる》かに小さく、ちらちらと、ただやっぱり物見の松の梢の処に、丁子頭《ちょうじがしら》が揺れるように見て、気が静《しずま》ると、坊主も猿も影も無い。赤い旗も、花火が落ちる状《さま》になくなったんだ。  小児《こども》が転んで泣くようだ、他愛がないじゃないか。さてそうなってから、急に我ながら、世にも怯《おび》えた声を出して、 (わっ。)と云ってな、三反ばかり山路《やまみち》の方へ宙を飛んで遁出《にげだ》したと思え。  はじめて夢が覚めた気になって、寒いぞ、今度は。がちがち震えながら、傍目《わきめ》も触《ふ》らず、坊主が立ったと思う処は爪立足《つまだちあし》をして、それから、お前、前の峰を引掻《ひっか》くように駆上《かけあが》って、……ましぐらにまた摺落《ずりお》ちて、見霽《みはら》しへ出ると、どうだ。夜が明けたように広々として、崖のはずれから高い処を、乗出して、城下を一人で、月の客と澄まして視《なが》めている物見の松の、ちょうど、赤い旗が飛移った、と、今見る処に、五日頃の月が出て蒼白《あおじろ》い中に、松の樹はお前、大蟹《おおがに》が海松房《みるぶさ》を引被《ひっかず》いて山へ這出《はいで》た形に、しっとりと濡れて薄靄《うすもや》が絡《まと》っている。遥かに下だが、私の町内と思うあたりを……場末で遅廻りの豆腐屋の声が、幽《かすか》に聞えようというのじゃないか。  話にならん。いやしくも小児《こども》を預って教育の手伝もしようというものが、まるで狐に魅《つま》まれたような気持で、……家内にさえ、話も出来ん。  帰って湯に入って、寝たが、綿《わた》のように疲れていながら、何か、それでも寝苦《ねぐるし》くって時々早鐘を撞《つ》くような音が聞えて、吃驚《びっくり》して目が覚める、と寝汗でぐっちょり、それも半分は夢心地さ。  明方からこの風さな。」 「正寅《しょうとら》の刻からでござりました、海嘯《つなみ》のように、どっと一時《いっとき》に吹出しましたに因って存じておりまする。」と源助の言《ことば》つき、あたかも口上。何か、恐入っている体《てい》がある。 「夜があけると、この砂煙《すなけぶり》。でも人間、雲霧を払った気持だ。そして、赤合羽の坊主の形もちらつかぬ。やがて忘れてな、八時、九時、十時と何事もなく課業を済まして、この十一時が読本《とくほん》の課目なんだ。  な、源助。  授業に掛《かか》って、読出した処が、怪訝《おかし》い。消火器の説明がしてある、火事に対する種々《いろいろ》の設備のな。しかしもうそれさえ気にならずに業をはじめて、ものの十分も経《た》ったと思うと、入口の扉を開けて、ふらりと、あの児《こ》が入って来たんだ。」 「へい、嬢ちゃん坊ちゃんが。」 「そう。宮浜がな。おや、と思った。あの児は、それ、墨の中に雪だから一番目に着く。……朝、一二時間ともちゃんと席に着いて授業を受けたんだ。――この硝子窓《がらすまど》の並びの、運動場のやっぱり窓際に席があって、……もっとも二人並んだ内側の方だが。さっぱり気が着かずにいた。……成程、その席が一ツ穴になっている。  また、箸《はし》の倒れた事でも、沸返《にえかえ》って騒立つ連中が、一人それまで居なかったのを、誰もいッつけ口をしなかったも怪《あやし》いよ。  ふらりと廊下から、時ならない授業中に入って来たので、さすがに、わっと動揺《どよ》めいたが、その音も戸外《おもて》の風に吹攫《ふきさら》われて、どっと遠くへ、山へ打《ぶ》つかるように持って行《ゆ》かれる。口や目ばかり、ばらばらと、動いて、騒いで、小児等《こどもら》の声は幽《かすか》に響いた。……」        六 「私《わし》も不意だから、変に気を抜かれたようになって、とぼんと、あの可愛らしい綺麗な児《こ》を見たよ。  密《そっ》と椅子の傍《そば》へ来て、愛嬌《あいきょう》づいた莞爾《にっこり》した顔をして、 (先生、姉さんが。)  と云う。――姉さんが来て、今日は火が燃える、大火事があって危ないから、早仕舞《はやじまい》にしてお帰りなさい。先生にそうお願いして、と言いますから……家《うち》へ帰らして下さい、と云うんです。含羞《はにか》む児だから、小さな声して。  風はこれだ。  聞えないで僥倖《さいわい》。ちょっとでも生徒の耳に入ろうものなら、壁を打抜《ぶちぬ》く騒動だろう。  もうな、火事と、聞くと頭から、ぐらぐらと胸へ響いた。  騒がぬ顔して、皆《みんな》には、宮浜が急に病気になったから今手当をして来る。かねて言う通り静《しずか》にしているように、と言聞かしておいて、精々落着いて、まず、あの児をこの控所へ連れ出して来たんだ。  処で、気を静めて、と思うが、何分、この風が、時々、かっと赤くなったり、黒くなったりする。な源助どうだ。こりゃ。」  と云う時、言葉が途切れた。二人とも目を据えて瞻《みまも》るばかり、一時《ひとしきり》、屋根を取って挫《ひし》ぐがごとく吹き撲《なぐ》る。 「気が騒いでならんが。」  と雑所は、しっかと腕組をして、椅子の凭《かか》りに、背中を摺着《すりつ》けるばかり、びたりと構えて、 「よく、宮浜に聞いた処が、本人にも何だか分らん、姉さんというのが見知らぬ女で、何も自分の姉という意味では無いとよ。  はじめて逢ったのかと、尋ねる、とそうではない。この七日《なぬか》ばかり前だそうだ。  授業が済んで帰るとなる、大勢列を造って、それな、門まで出る。足並を正さして、私が一二と送り出す……  すると、この頃塗直した、あの蒼《あお》い門の柱の裏に、袖口を口へ当てて、小児《こども》の事で形は知らん。頭髪《かみ》の房々とあるのが、美しい水晶のような目を、こう、俯目《ふしめ》ながら清《すず》しゅう瞪《みは》って、列を一人一人|見遁《みのが》すまいとするようだっけ。  物見の松はここからも見える……雲のようなはそればかりで、よくよく晴れた暖い日だったと云う……この十四五日、お天気続きだ。  私も、毎日門外まで一同を連出すんだが、七日前にも二日こっちも、ついぞ、そんな娘を見掛けた事はない。しかもお前、その娘が、ちらちらと白い指でめんない千鳥をするように、手招きで引着けるから、うっかり列を抜けて、その傍《そば》へ寄ったそうよ。それを私は何も知らん。 (宮浜の浪ちゃんだねえ。)  とこの国じゃない、本で読むような言《ことば》で聞くとさ。頷《うなず》くと、 (好《い》いものを上げますから私と一所に、さあ、行《ゆ》きましょう、皆《みんな》に構わないで。)  と、私等を構わぬ分に扱ったは酷《ひど》い! なあ、源助。  で、手を取られるから、ついて行《ゆ》くと、どこか、学校からさまで遠くはなかったそうだ。荒れには荒れたが、大きな背戸へ裏木戸から連込んで、茱萸《ぐみ》の樹の林のような中へ連れて入った。目の眶《ふち》も赤らむまで、ほかほかとしたと云う。で、自分にも取れば、あの児にも取らせて、そして言う事が妙ではないか。 (沢山《たんと》お食《あが》んなさいよ。皆《みんな》、貴下《あなた》の阿母《おっか》さんのような美しい血になるから。)  と言ったんだそうだ。土産にもくれた。帰って誰が下すった、と父《おやじ》にそう言いましょうと、聞くと、 (貴下のお亡《なく》なんなすった阿母《おっかさん》のお友だちです。)  と言ったってな。あの児の母親はなくなった筈《はず》だ。  が、ここまではとにかく無事だ、源助。  その婦人が、今朝また、この学校へ来たんだとな。」  源助は、びくりとして退《さが》る。 「今度は運動場。で、十時の算術が済んだ放課の時だ。風にもめげずに皆《みんな》駆出すが、ああいう児だから、一人で、それでも遊戯さな……石盤へこう姉様《あねさま》の顔を描《か》いていると、硝子戸越《がらすどごし》に……夢にも忘れない……その美しい顔を見せて、外へ出るよう目で教える……一度逢ったばかりだけれども、小児は一目顔を見ると、もうその心が通じたそうよ。」        七 「宮浜はな、今日は、その婦人が紅《あか》い木《こ》の実の簪《かんざし》を挿していた、やっぱり茱萸《ぐみ》だろうと云うが、果物の簪は無かろう……小児《こども》の目だもの、珊瑚《さんご》かも知れん。  そんな事はとにかくだ。  直ぐに、嬉々《いそいそ》と廊下から大廻りに、ちょうど自分の席の窓の外。その婦人の待っている処へ出ると、それ、散々に吹散らされながら、小児が一杯、ふらふらしているだろう。  源助、それ、近々に学校で――やがて暑さにはなるし――余り青苔《あおごけ》が生えて、石垣も崩れたというので、井戸側《いどがわ》を取替えるに、石の大輪《おおわ》が門の内にあったのを、小児だちが悪戯《いたずら》に庭へ転がし出したのがある。――あれだ。  大人なら知らず、円くて辷《すべ》るにせい、小児が三人や五人ではちょっと動かぬ。そいつだが、婦人が、あの児《こ》を連れて、すっと通ると、むくりと脈を打ったように見えて、ころころと芝の上を斜違《はすっか》いに転がり出した。 (やあい、井戸側が風で飛ばい。)か、何か、哄《どっ》と吶喊《とき》を上げて、小児が皆《みんな》それを追懸けて、一団《ひとかたまり》に黒くなって駆出すと、その反対の方へ、誰にも見着けられないで、澄まして、すっと行ったと云うが、どうだ、これも変だろう。  横手の土塀際の、あの棕櫚《しゅろ》の樹の、ばらばらと葉が鳴る蔭へ入って、黙って背《せなか》を撫《な》でなぞしてな。  そこで言聞かされたと云うんだ。 (今に火事がありますから、早く家《うち》へお帰んなさい、先生にそう云って。でも学校の教師さん、そんな事がありますかッて肯《き》きなさらないかも知れません。黙ってずんずん帰って可《よ》うござんす。怪我《けが》には替えられません。けれども、後で叱られると不可《いけ》ませんから、なりたけお許しをうけてからになさいましよ。  時刻はまだ大丈夫だとは思いますが、そんな、こんなで帰りが遅れて、途中、もしもの事があったら、これをめしあがれよ。そうすると烟《けむ》に捲《ま》かれませんから。)  とそう云ってな。……そこで、袂《たもと》から紙包みのを出して懐中《ふところ》へ入れて、圧《おさ》えて、こう抱寄せるようにして、そして襟を掻合《かきあわ》せてくれたのが、その茱萸《ぐみ》なんだ。 (私がついていられると可《い》いんだけれど、姉さんは、今日は大事な日ですから。)  と云う中《うち》にも、風のなぐれで、すっと黒髪を吹いて、まるで顔が隠れるまで、むらむらと懸《かか》る、と黒雲が走るようで、はらりと吹分ける、と月が出たように白い頬が見えたと云う……  けれども、見えもせぬ火事があると、そんな事は先生には言憎《いいにく》い、と宮浜が頭《かぶり》を振ったそうだ。 (では、浪ちゃんは、教師さんのおっしゃる事と、私の言う事と、どっちをほんとうだと思います。――)  こりゃ小児《こども》に返事が出来なかったそうだが、そうだろう……なあ、無理はない、源助。 (先生のお言《ことば》に嘘はありません。けれども私の言う事はほんとうです……今度の火事も私の気でどうにもなる。――私があるものに身を任せれば、火は燃えません。そのものが、思《おもい》の叶《かな》わない仇《あだ》に、私が心一つから、沢山の家も、人も、なくなるように面当《つらあ》てにしますんだから。  まあ、これだって、浪ちゃんが先生にお聞きなされば、自分の身体《からだ》はどうなってなりとも、人も家も焼けないようにするのが道だ、とおっしゃるでしょう。  殿方の生命《いのち》は知らず、女の操というものは、人にも家にもかえられぬ。……と私はそう思うんです。そう私が思う上は、火事がなければなりません。今云う通り、私へ面当てに焼くのだから。  まだ私たち女の心は、貴下《あなた》の年では得心が行《ゆ》かないで、やっぱり先生がおっしゃるように、我身を棄てても、人を救うが道理のように思うでしょう。  いいえ、違います……殿方の生命は知らず。)  と繰返して、 (女の操というものは。)と熟《じっ》と顔を凝視《みつ》めながら、 (人にも家にも代えられない、と浪ちゃん忘れないでおいでなさい。今に分ります……紅《あか》い木の実を沢山《たんと》食べて、血の美しく綺麗な児《こ》には、そのかわり、火の粉も桜の露となって、美しく降るばかりですよ。さ、いらっしゃい、早く。気を着けて、私の身体《からだ》も大切な日ですから。)  と云う中《うち》にも、裾《すそ》も袂も取って、空へ頭髪《かみ》ながら吹上げそうだったってな。これだ、源助、窓硝子《まどがらす》が波を打つ、あれ見い。」        八  雑所先生は一息|吐《つ》いて、 「私が問うのに答えてな、あの宮浜はかねて記憶の可《い》い処を、母のない児《こ》だ。――優しい人の言う事は、よくよく身に染みて覚えたと見えて、まるで口移しに諳誦《あんしょう》をするようにここで私に告げたんだ。が、一々、ぞくぞく膚《はだ》に粟《あわ》が立った。けれども、その婦人の言う、謎のような事は分らん。  そりゃ分らんが、しかし詮《せん》ずるに火事がある一条だ。 (まるで嘘とも思わんが、全く事実じゃなかろう、ともかく、小使溜《こづかいだまり》へ行って落着いていなさい、ちっと熱もある。)  額を撫《な》でて見ると熱いから、そこで、あの児をそららへ遣《や》ってよ。  さあ、気になるのは昨夜《ゆうべ》の山道の一件だ。……赤い猿、赤い旗な、赤合羽を着た黒坊主よ。」 「緋《ひ》、緋の法衣《ころも》を着たでござります、赤合羽ではござりません。魔、魔の人でござりますが。」とガタガタ胴震いをしながら、躾《たしな》めるように言う。 「さあ、何か分らぬが、あの、雪に折れる竹のように、バシリとした声して……何と云った。 (城下を焼きに参るのじゃ。)  源助、宮浜の児を遣ったあとで、天窓《あたま》を引抱《ひっかか》えて、こう、風の音を忘れるように沈《じっ》と考えると、ひょい、と火を磨《す》るばかりに、目に赤く映ったのが、これなんだ。」  と両手で控帳の端を取って、斜めに見せると、楷書《かいしょ》で細字《さいじ》に認《したた》めたのが、輝くごとく、もそりと出した源助の顔に赫《か》ッと照って見えたのは、朱で濃く、一面の文字《もんじ》である。 「へい。」 「な、何からはじまった事だか知らんが、ちょうど一週間前から、ふと朱でもって書き続けた、こりゃ学校での、私の日記だ。  昨日《きのう》は日曜で抜けている。一週間。」  と颯《さっ》と紙が刎《は》ねて、小口をばらばらと繰返すと、戸外《おもて》の風の渦巻に、一ちぎれの赤い雲が卓子《テエブル》を飛ぶ気勢《けはい》する。 「この前の時間にも、(暴風)に書いて消して(烈風)をまた消して(颶風《ぐふう》)なり、と書いた、やっぱり朱で、見な……  しかも変な事には、何を狼狽《うろたえ》たか、一枚半だけ、罫紙《けいし》で残して、明日の分を、ここへ、これ(火曜)としたぜ。」  と指す指が、ひッつりのように、びくりとした。 「読本が火の処……源助、どう思う。他《ほか》の先生方は皆《みん》な私より偉いには偉いが年下だ。校長さんもずッとお少《わか》い。  こんな相談は、故老《ころう》に限ると思って呼んだ。どうだろう。万一の事があるとなら、あえて宮浜の児一人でない。……どれも大事な小児《こども》たち――その過失《あやまち》で、私が学校を止《や》めるまでも、地韛《じだんだ》を踏んでなりと直ぐに生徒を帰したい。が、何でもない事のようで、これがまた一大事だ。いやしくも父兄が信頼して、子弟の教育を委《ゆだ》ねる学校の分として、婦《おんな》、小児《こども》や、茱萸《ぐみ》ぐらいの事で、臨時休業は沙汰《さた》の限りだ。  私一人の間抜《まぬけ》で済まん。  第一そような迷信は、任《にん》として、私等が破って棄ててやらなけりゃならんのだろう。そうかッてな、もしやの事があるとすると、何より恐ろしいのはこの風だよ。ジャンと来て見ろ、全市|瓦《かわら》は数えるほど、板葺屋根《いたぶきやね》が半月の上も照込んで、焚附《たきつけ》同様。――何と私等が高台の町では、時ならぬ水切《みずぎれ》がしていようという場合ではないか。土の底まで焼抜《やきぬ》けるぞ。小児たちが無事に家へ帰るのは十人に一人もむずかしい。  思案に余った、源助。気が気でないのは、時が後《おく》れて驚破《すわ》と言ったら、赤い実を吸え、と言ったは心細い――一時半時《いっときはんじ》を争うんだ。もし、ひょんな事があるとすると――どう思う、どう思う、源助、考慮《かんがえ》は。」 「尋常《ただ》、尋常ごとではござりません。」と、かッと卓子《テエブル》に拳《こぶし》を掴《つか》んで、 「城下の家の、寿命が来たんでござりましょう、争われぬ、争われぬ。」  と半分目を眠って、盲目《めくら》がするように、白眼《しろまなこ》で首を据えて、天井を恐ろしげに視《なが》めながら、 「ものはあるげにござりまして……旧藩頃の先主人が、夜学の端に承わります。昔その唐《から》の都の大道を、一時《あるとき》、その何でござりまして、怪しげな道人が、髪を捌《さば》いて、何と、骨だらけな蒼《あお》い胸を岸破々々《がばがば》と開けました真中《まんなか》へ、人《ひ》、人《ひと》という字を書いたのを掻開《かっぱだ》けて往来中駆廻ったげでござります。いつかも同役にも話した事でござりまするが、何の事か分りません。唐の都でも、皆《みん》なが不思議がっておりますると、その日から三日目に、年代記にもないほどな大火事が起りまして。」 「源助、源助。」  と雑所大きに急《せ》いて、 「何だ、それは。胸へ人という字を書いたのは。」とかかる折から、自分で考えるのがまだるこしそうであった。 「へい、まあ、ちょいとした処、早いが可《よ》うございます。ここへ、人と書いて御覧じゃりまし。」  風の、その慌《あわただ》しい中でも、対手《あいて》が教頭心得の先生だけ、もの問《とわ》れた心の矜《ほこり》に、話を咲せたい源助が、薄汚れた襯衣《しゃつ》の鈕《ぼたん》をはずして、ひくひくとした胸を出す。  雑所も急心《せきごころ》に、ものをも言わず有合わせた朱筆《しゅふで》を取って、乳を分けて朱《あか》い人。と引かれて、カチカチと、何か、歯をくいしめて堪《こら》えたが、突込む筆の朱が刎《は》ねて、勢《いきおい》で、ぱっと胸毛に懸《かか》ると、火を曳《ひ》くように毛が動いた。 「あ熱々《つつ》!」  と唐突《だしぬけ》に躍り上って、とんと尻餅を支《つ》くと、血声を絞って、 「火事だ! 同役、三右衛門、火事だ。」と喚《わめ》く。 「何だ。」  と、雑所も棒立ちになったが、物狂わしげに、 「なぜ、投げる。なぜ茱萸《ぐみ》を投附ける。宮浜。」  と声を揚げた。廊下をばらばらと赤く飛ぶのを、浪吉が茱萸を擲《なげう》つと一目見たのは、矢を射るごとく窓硝子《まどがらす》を映《さ》す火の粉であった。  途端に十二時、鈴《りん》を打つのが、ブンブンと風に響くや、一つずつ十二ヶ所、一時に起る摺半鉦《すりばん》、早鐘。  早や廊下にも烟《けむり》が入って、暗い中から火の空を透かすと、学校の蒼《あお》い門が、真紫に物凄《ものすご》い。  この日の大火は、物見の松と差向う、市の高台の野にあった、本願寺末寺の巨刹《おおでら》の本堂床下から炎を上げた怪し火で、ただ三時《みとき》が間に市の約全部を焼払った。  烟は風よりも疾《と》く、火は鳥よりも迅《はや》く飛んだ。  人畜の死傷少からず。  火事の最中、雑所先生、袴《はかま》の股立《ももだち》を、高く取ったは効々《かいがい》しいが、羽織も着ず……布子の片袖|引断《ひっちぎ》れたなりで、足袋跣足《たびはだし》で、据眼《すえまなこ》の面《おもて》藍《あい》のごとく、火と烟の走る大道を、蹌踉《ひょろひょろ》と歩行《ある》いていた。  屋根から屋根へ、――樹の梢《こずえ》から、二階三階が黒烟りに漾《ただよ》う上へ、飜々《ひらひら》と千鳥に飛交う、真赤《まっか》な猿の数を、行《ゆ》く行く幾度も見た。  足許《あしもと》には、人も車も倒れている。  とある十字街へ懸《かか》った時、横からひょこりと出て、斜《はす》に曲り角へ切れて行《ゆ》く、昨夜《ゆうべ》の坊主に逢った。同じ裸に、赤合羽を着たが、こればかりは風をも踏固めて通るように確《しか》とした足取であった。  が、赤旗を捲《ま》いて、袖へ抱くようにして、いささか逡巡《しゅんじゅん》の体《てい》して、 「焼け過ぎる、これは、焼け過ぎる。」  と口の裡《うち》で呟《つぶや》いた、と思うともう見えぬ。顔を見られたら、雑所は灰になろう。  垣も、隔ても、跡はないが、倒れた石燈籠《いしどうろう》の大《おおき》なのがある。何某《なにがし》の邸《やしき》の庭らしい中へ、烟に追われて入ると、枯木に夕焼のしたような、火の幹、火の枝になった大樹の下《もと》に、小さな足を投出して、横坐りになった、浪吉の無事な姿を見た。  学校は、便宜に隊を組んで避難したが、皆ちりちりになったのである。  と見ると、恍惚《うっとり》した美しい顔を仰向けて、枝からばらばらと降懸《ふりかか》る火の粉を、霰《あられ》は五合《ごんご》と掬《すく》うように、綺麗な袂《たもと》で受けながら、 「先生、沢山に茱萸が。」  と云って、﨟長《ろうた》けるまで莞爾《にっこり》した。  雑所は諸膝《もろひざ》を折って、倒れるように、その傍《かたわら》で息を吐《つ》いた。が、そこではもう、火の粉は雪のように、袖へ掛《かか》っても、払えば濡れもしないで消えるのであった。 [#地から1字上げ]明治四十四(一九一一)年一月 底本:「泉鏡花集成4」ちくま文庫、筑摩書房    1995(平成7)年10月24日第1刷発行    2004(平成16)年3月20日第2刷発行 入力:土屋隆 校正:門田裕志 2005年11月24日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。